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タグ:世田谷区

本日、日本は旧暦の小正月。
いよいよ、旧暦の正月も終わり季節も本格的に花やぐ春に入ります。
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今年は猪年。
因(ちな)みに日本で猪(いのしし)の意味で使われている“猪”の漢字ですが、本来の意味は“豚”です。
“豚”の本来の漢字の意味は日本語の“瓜坊(うりぼう)=子猪”の意味です。
日本人の言う所の豚は漢字では白猪と呼ばれています。黒豚なら黒猪に成るのかな(笑)?
中国、台湾、香港、マレーシア等の中華文化圏では豚は富の象徴であり財運と結び付けられています。
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日本で言えば井伊家の殿様を出世させた事で幸運の象徴化された世田谷豪徳寺発祥の“招き猫”文化みたいなモノかな?
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まぁ、だから彦根市のゆるキャラは彦根城主の井伊家の殿様、井伊直孝公の兜(かぶと)を被(かぶ)った豪徳寺の招き猫をデザインした“ひこにゃん”なんですよ。
そこら辺は以前、豪徳寺紹介記事で解説してるので御興味有る方は読んで見て下さい。
下⤵️クリックで記事リンク

それと小正月は満月を見る古代の祭事に由来しているんですよ~♪

明晩は満月🌕ですね~♪
だから猪=豚+金色の満月=金豚=発財=財運向上の日です(笑)。
なので写真も金豚(笑)。

神話の時代は考古学の縄文~弥生~古墳時代に当たりますが、当時の人々の生活と神社に残る神事は実は密接にリンクしてるんです。

現代の太陽崇拝の影響を受けた太陽暦で活動する欧州文化圏の暦に明治時代に改められる以前は、タイや台湾等のアジアの友邦と同じく日本でも月の満ち欠けを暦の基準にした陰暦(旧暦)で世界を見ていたんです。
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この間の皆既月食の写真ですが、古代の人にとって皆既月食はさぞかし恐怖に感じたんでしょうね~。
渡来人が来て稲作が持ち込まれる以前の我々日本の本来の在来種は縄文系の海洋民族遺伝子なので、海の潮の満ち引きに深い関係の有る月が生活の基準で、太陽信仰よりも月読(つきよみ)の神様つまり月読命(つくよみのみこと)が生活基盤だった名残りが今も有るんですよ~♪
今でも神職の方々が念じる蘇民祭=半年毎の大祓神事で祝詞(のりと)の口上は、天皇家の直接の皇祖神の天照大神ではなく、日本の原形=民族集団=各氏族の祖先神(部族長)の治める村々=原初の国々を生み出した、つまり初期の統治機構や交易の流通網を作り出したであろう伊邪那美命と伊邪那岐命の女夫(めおと)神様の名前ですよね。
その女夫神様から夜の世界を任せられたのが月読命で、大祓神事で半年間の“厄除”“魔除”“悪行をチャラ(笑)に”する御利益を授けて下さる素戔嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)=武塔天神(むとうてんじん)様が治められた“海の世界”の生活にも深く関わっているんです。

あぁ~そうそう。
小生は敢えて夫婦(ふうふ)の字で夫婦(めおと)と書かずに江戸時代迄の人と同じ様に女夫(めおと)と書きます。
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“めおと”に夫婦の漢字を当て嵌めるのも近現代の漢字誤植ですから嫌いなんですよ。
同じ意味だから当て嵌めちゃったんですね。
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鎌倉観光すると昔からの鎌倉名物は女夫饅頭なので知ってる人も多いかも知れませんね。
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溝(みぞ)と書いて溝(どぶ)と読ませるのも近現代の漢字誤植です。
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田舎の人や城廓ファンは知ってますがドブは発音の通り“土腐(どぶ)”と正しくは書きます。
これは漢語ではなく、ずっと使われている日本語です。
よく城の沼堀の解説なんなかで目にします。

そして大祓は半年毎ですが、古代の人の1年は半年間でカウントしてたのだろうと言うのが最近の考古学の説だそうです。

途中から天照大神が重視されたのは、卑弥呼の頃の弥生時代の終わり~古墳時代の始まりに稲作が大々的に普及して生活基盤が農耕に移行したから、作物の実りや農耕に必要な灌漑用水の水の確保に支障が出る旱魃(かんばつ)=日照り=気温や日照時間、つまり天候と直接関係関係深い太陽信仰が重視されたからかも知れませんね。

さて!
今日、明日が発展と財運向上の金豚(笑)の日、御目出度(おめでた)い日です。
我々日本人の使う平仮名、片仮名、和体漢字のルーツ、漢字発祥地の漢人や友邦台湾の人なら日本の恭喜發財の日(笑)かな?

そして明日の満月の日~水戸市では水戸梅祭りが始まりますね~。
土曜日は皇太子殿下が天皇に即位される前の皇太子として最後のお誕生日でもあります。

皆さんにとっとも小生にとっても世界中の親日国の人にとっても向上と進歩と実りと幸の多い1年間に成ります様に~。



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まだ今週末が見頃の紅葉の名所を紹介します!
今週水曜日に撮影した紅葉です。
当該の場所はだいたい、既に個別に記事にもして関係する歴史人物と一緒に歴史も説明しているのでカテゴリーの神社仏閣か偉人から探してみて下さい!

世田谷 豪徳寺
招き猫発祥の御寺で戦国時代の吉良家の居城、江戸時代の大名井伊家の菩提寺。
※豪徳寺の歴史と関連偉人の記事は「ココ」←クリック!
鎌倉市浄妙寺地区 報国寺
足利尊氏公の祖父の足利家時公と、足利尊氏公の従兄弟の宅間上杉家重兼公の菩提寺。
※報国寺の歴史と偉人の記事は「ココ」←クリック!
竹林に東屋が在り抹茶を頂けるのですが、春まで修築の為に休業中です。
報国寺と浄妙寺は徒歩5分
鎌倉市浄妙寺地区 浄妙寺
足利家の鎌倉幕府御家人時代の菩提寺
※日本庭園のある茶室で和菓子と抹茶を頂けます。
※裏山にある洋館、石窯ガーデンでも食事が出来ます


鎌倉市扇谷地区 寿福寺…源氏山の麓
鎌倉幕府三代征夷大将軍源実朝公と、坂本龍馬の片腕にして明治の元勲と成った陸奥宗光公の菩提寺。
寿福寺の背後の山、源氏山もハイキング出来ますよ!
※寿福寺の歴史と偉人を説明した記事は「ココ」←クリック!

横浜市中区本牧 三渓園
原財閥が明治時代に日本中の城址や寺院の建築遺産を移築保護した広大な私邸。
※三渓園を紹介した記事は「ココ」←クリック!
※三渓園の夜桜を紹介した記事は「ココ」←クリック!
※一部過去の写真ですが、今が見頃です。
池の畔と、他に合計4軒お茶屋が在り美味しいお団子も頂けます。

どうです?
京浜地区、首都圏の紅葉捨てたもんじゃ無いでしょう?
今回紹介した場所は今週末まだ見頃です。
まだ間に合うので紅葉見損なわない様に、週末訪れて見ては如何でしょうか?

次は信長公の奥さんの実家の生駒家の居城の記事を書きます。
では、また、次の記事で!

世田谷区、東急世田谷線宮の坂駅から徒歩で5分位の場所に、勝光院と言う落ち着いた雰囲気の御寺が在ります…
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この勝光院、横浜市南区の蒔田城と、世田谷区豪徳寺に在った世田谷城を主要拠点にして武蔵国南部の交通の要衝を支配した「蒔田吉良家」の歴代殿様の菩提寺です。

足利一門の中でも非常に格式の高い存在だった蒔田吉良家だけあり、江戸時代に大名から旗本に規模縮小したにも関わらず、菩提寺勝光院の規模は小大名の菩提寺クラスの規模の境内を現代も維持しています。
この御寺を維持する為に、歴代の檀家さん達は非常に苦労されたと思います。

さて、この勝光院には当然、吉良家の殿様の御廟所が在る訳ですが、鎌倉の報国寺の様な「竹林寺」として昔は有名だったそうです。
ですから裏門側に行くと当時の名残で竹林が一部今も残っています。
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恐らく、太平洋戦争敗戦時にGHQにより、他の神社仏閣同様に宗教施設と言う事で建物周辺以外の所有地を没収されてしまったんでしょうね…
昔は周辺の宅地が素敵な竹林だったのかも知れませんが、生憎(あいにく)訪問時に古い檀家さんや年配の職員の方と話す機会が無かったので詳しい事は判りません。

しかし、参道からは何となく昔の雰囲気が伝わってきます。
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さて、勝光院さんは山門の手前、竹垣で囲まれたところが墓地に成っていて、そちらに歴代殿様達の御廟所が在ります。
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不敬に成るので今回も御廟所内の写真は撮りません。
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この勝光院は、今川家から蒔田御所吉良頼康公の養子に入り跡を継いだ蒔田吉良氏朝(うじとも)公が1573年に中興しました。
しかし吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家が豊臣秀吉により滅ぼされる際、氏朝公は下総国(しもうさ=今の千葉県の北部と茨城県南部)に逃げたので、世田谷における吉良家の大名としての活動は終了し、以後は徳川家の旗本として下総国で存続する事に成りました。
しかし、吉良の殿様の御子孫は、下総国転封後も世田谷の事を大切に思い、その故地に建つ勝光院に御廟所を置き、氏朝公の御孫さんの代から歴代の殿様の御廟所が置かれる事に成りました。
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由緒正しい御殿様の菩提寺だけあり、各施設謂(いわ)れがあり、説明看板がちゃんと有ります。
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御本堂も幕府の歴代重鎮達の御寺と遜色無い規模を誇っています。
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素敵な御寺でしょう?
印刷した物ですが御朱印も頂ける御寺です。

世田谷住の方、この勝光院や近所の吉良頼康公が中興した世田谷八幡宮や豪徳寺を御散歩してみませんか?
豪徳寺は招き猫の発祥の御寺ですし、世田谷八幡宮は家康公に保護され江戸時代相撲興行で有名だった八幡社ですから、いずれも立派な歴史と規模が有り御散歩すれば良い休日を過ごせると思いますよ~!

では、又、対の記事で御会いしましょう!


皆さんは、水分補給と言うか…
一息つく為に何を飲みますか?
小生は御茶を良く飲みます。
御茶と言っても煎茶では無く、鉄観音の緑茶ですが。

さて、昔の御殿様達も御茶を良く飲まれた様ですが、世田谷の大谿山豪徳寺と言うそれはそれは立派な御寺にも御茶を飲みに立ち寄られた、ある殿様の御話が残っています。
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この豪徳寺さん、幕末の大老井伊直弼さんの御先祖様、徳川幕府直参大名の彦根藩井伊家と非常に所縁の深い御寺でして、大凡(おおよそ)以下の様な内容の伝承が伝わっています。

ある日、徳川家臣の井伊家2代目、井伊直孝公が今の世田谷の辺りを通りかかった時、ある御寺の前でネコが手招きしていました(出オチだよね)。
それを見た直孝公、これも縁だなと御寺の和尚さんに「ネコに呼ばれて訪問してみたんだけれど、和尚さんの話でも聞かせてくれません?」みたいな事を言った所、あっと言う間に外の天気が大崩れ、和尚さん、殿様達にお茶を出す間に…
「御寺の外は激しい雷雨に見舞われ、御寺をスルーしていたら今頃落雷で大変な目に遭っていたかも知れない」
…と殿様も一安心、これも何かの縁と和尚さんの御話を一しきり聞いた所、その説法に非常に感銘を受け、以後、この御寺を井伊家代々の菩提寺として定め支援する事に決めました。
…この逸話のネコこそ、招き猫のモデルなんです。 2015-06-13-19-06-53
これ↑豪徳寺で販売している招き猫さんです。
本家本元、元祖の招き猫だから古典的なデザインだけれど、可愛らしいでしょ♡?

井伊家の居城、彦根城のマスコットは「ひこニャン」ですよね?
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ここまで話を聞いたら、何で彦根のキャラが「ひこニャン」かお分かりですよね?
つまり、彦根城主井伊家と東京都世田谷区の豪徳寺が招き猫の発祥の由縁であるので、ネコに初代の井伊直政公の兜を被せてキャラにしたんですよ。
…こうして話を知ってしまうと以外にヒネリが無いキャラのデザインでしょ(笑)?
でも可愛いですよね?

実はこの豪徳寺は元々、蒔田吉良家の居城「世田谷城」でした。
「世田谷城」の事は後半部分で詳しく書きますが、その城内に城主の吉良政忠公が叔母の弘徳院様の菩提を弔う為に立てた私設の仏院が北条家滅亡後、その影響下に在った蒔田吉良家が下総国(千葉県)に移転してしまい支援者を失いほそぼそと寺院として命脈を保っていたのを新たに支援したのが井伊家に当たる訳です。
先程の招きネコの発祥の逸話ですね。

江戸時代を通じて大大名の井伊家の菩提を弔い代々支援を受けた御寺だけあって鎌倉の円覚寺や建長寺や京都の大徳寺や相国寺に迫る規模を有しています。
ですので、参道もとても素敵な雰囲気です…
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緑豊かでしょう?
この参道を抜けると立派な三重塔が出迎えてくれます。
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歴史にあまり関心の無い方の為に一応ご説明差し上げますが…
この様な仏塔、よく大寺院に有りますが、実は中は登れない構造に成っており元々の役割は「仏舎利(ぶっしゃり)」と呼ばれる、仏教の開祖「ゴーダマシッダルタ=お釈迦様」の御遺骨を納め奉(たてまつ)る為の建物なんです。
勿論、現代の日本の仏塔にお釈迦様の仏舎利が有る訳ではありませんよ!
あくまで文化的宗教的な役割を担い、かつ御寺の景観を美しく演出する役割が主な所になっています。
この豪徳寺の三重塔の前には楓や紅葉の木が生えていて、ボランティアガイドの方の話ですと秋は非常に美しい風景を参拝客に見せてくれるそうです。

さて、この三重塔の右手を参道にそって真っ直ぐ行くと本堂が在るのですが、そちらを紹介する前に…
こちらから!
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三重塔の前の参道の分岐点を本堂に向かって左手に曲がるとすぐの所に上の写真の御堂があります。
この塔頭(たちゅう=御寺の支店とか別部門みたいな感じ)の門をくぐると…
こんな建物↓があります。
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これだけでも、住宅街の中の小さめの御寺の本堂位の規模があります。
この写真の左側を良く見て下さい…
何か白いの居ませんか?

実は、ここが「招き猫」の御利益に与(あずか)れる御堂なんです。
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この招き猫さん達は願いが適(かな)った参拝客が納めたネコさん達かな?
この招き猫達は寺務所で購入できますよ~!
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小生が購入したのは2cm位(左)のと、右の10cm位のです。他にも同様の物を家族と友人の御土産に購入しました。

三重塔と、招き猫達がいる御堂を過ぎて真っ直ぐ行くと、その先に井伊家との歴代の殿様と、その奥方様達の御廟所が在ります。
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この奥が御廟所なのですが…
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今回も失礼に当たるので御廟所の写真は載せません。
その代わり、幕末の彦根藩旧臣達が明治時代に奉献した、御廟所入口の石柱を載せますね。

さてさて、では三重塔から本堂に向かいましょう…
本堂に向かうと、大きな大きな線香を炊き上げる炉が有ります。
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すんごい立派でしょ!!
御寺の寺紋は井伊家の菩提寺だけあって、井伊家の橘樹紋ですね。

ここを右手に行くと庫裡(こり=寺務所)が在ります。
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招き猫のパネルが有るので直ぐに解ると思いますよ~!
こちらで招き猫や御土産を買ったり、御朱印を頂けます。
御朱印の写真を掲載したい所ですが、小生の御朱印は少々特別な物を御好意で頂いているので掲載できません。御了解の程を…

で、線香炊き上げる場所の更に奥が下の写真の…
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最初の大きな仏殿が在ります。
確か…
こちらが阿弥陀如来様が祀られている方の仏殿だったと思いますが、記憶は定かではありません。

で、寺務所を右手に見ながら、この仏殿の更に裏手に本殿が在りますが本殿を紹介する前に、こちらの仏殿の屋根を見てみましょう。
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彦根藩井伊家の、もう一つの家紋「平井筒紋」が金色にキラリと輝いていますね~。
そして御堂の大きさが伝わると思います。
見切れてる狛犬さんも凛々しいですね。
この写真は仏殿を裏側から見た写真です…

…その向かい側に本殿が在ります。
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本殿前の炉も井伊家の家紋が刻まれていますね~。
如何に、この豪徳寺さんにとって井伊家が大切な存在だったかと言うのが伝わってきますね。
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現在、こちらの本堂は鉄筋コンクリートに成っています。
こちらには確か、釈迦如来様が安置されていたと思います。
入口のガラス戸ごしに拝む事が出来ます。

この豪徳寺、冒頭で少し触れましたが元々は蒔田吉良家の居城「世田谷城」だったので、境内には城時代の土塁遺構がちょこんちょこんと残っていました。
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まぁ~城好きな人以外には「ただの土のこんもりしたの」位にしか見えないでしょうけれど…
これは御城時代の土壁の名残なんですよ。
ですからこの、土塁の延長線上には「世田谷城址公園」も在ります。
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世田谷城址公園には、豪徳寺の山門を出て左手に進むと100m位さきに在ります。
この↓道ね。
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現在、世田谷城址は大部分が宅地化されてしまい余り残っていませんが、公園内には空堀と北条流築城術特有の二重土塁が石垣で補強され保存されていました。
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世田谷城址は吉良家の館を、吉良政忠公或(ある)いは吉良成高公の代に拡張し城郭化したと言われています。
小生の個人的な予想では戦国時代に当たる吉良成高公の代には横浜の蒔田城が吉良家の本城として機能していたと推測しています。
しかし、この世田谷城が本城だと言う意見が主流の様です。
ちょっと蒔田吉良家の所領を見て見ましょう…
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赤いタグと黄色のピンで表示された地名と施設名が支配域の中心部です。
世田谷一帯・多摩川と中原海道沿いの川崎市高津区と中原区一帯・海運の拠点東京の品川辺り・同じく海運と河川水運の拠点横浜市南区一帯…

多くの学者の意見では、世田谷城が本城だったが、成高公は文化人だったのでしょっちゅう風光明媚な蒔田城に行ってたんじゃないの?…と言うのが定説に成りつつある様です。
小生が蒔田城が北条家時代の本拠で、世田谷城は元の本城として重視された拠点だったと思う根拠は…
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吉良成高(しげたか)公が開基(かいき=御寺を創建する事)された勝國寺が横浜市南区蒔田城址の丘の下に在るからです。
そして、この蒔田城址の大手口に当たる場所に在る勝國寺さんには「吉良政忠公の御廟所」が有るからです。
つまり、小生の予測はこうです…
吉良成高公は扇谷上杉家の執事だった名将太田道灌公と盟友でした。しかし太田道灌公は君主としての器に乏しい主の扇谷上杉定正に今の神奈川県伊勢原市に在った別荘で入浴中に暗殺されてしまいます。
この時期の前後、吉良家は扇谷上杉家の影響下に在ったはずですが、同時期に伊豆国を制圧していた北条早雲こと伊勢盛時公も主を今川氏親(うじちか)から古河公方足利成氏(しげうじ)公に乗り換えていましたので、扇谷上杉家は古河公方家との関係上、伊勢盛時公とも関わりが有ったはずで、当然、伊勢家と蒔田吉良家も関わりが有った筈です。
では何故、伊勢盛時公が伊豆を支配下に治めれたですが、これは正に古河公方家を主家とし仰いだから敵対勢力である堀越公方足利政知の支配地域である伊豆を攻める大義名分を獲得する事が出来た訳です。
ですので、伊豆と隣接する小田原城主の大森家と伊勢(北条)家は友好関係にあった訳ですが…
この関係を揺るがす政変を古河公方家が起こしてしまう訳です。
突如、古河公方は対立する堀越公方派だった山内上杉家と和睦してしまい古河公方派の扇谷上杉家と山内上杉家の関係も改善してきましました…

つまり!
伊勢家の伊豆統治の大義名分が怪しく成って来た訳です。

…しかし、この古河公方=扇谷上杉家と山内上杉家の同盟は、元々山内上杉家と戦う事で領地を拡大していた扇谷上杉家与力の大名たちに大いに扇谷上杉家に対する不信感を与える原因に成ったようです。
しかも!
吉良成高公は太田道灌公の暗殺以来、扇谷上杉家に対して恨みの様な感情すら抱いていた事でしょう。
結果、吉良家は世田谷~中原街道を攻めのぼり太田道灌公の遺領だったと思われる横浜市南区辺り迄攻め込んで来て、同じ様な動機で直ぐ隣の鎌倉郡まで制圧していた伊勢(北条)家と友好関係を結んで、前線に当たる世田谷から蒔田城に本拠を移したのだろうと、個人的に推測しています。
因みに、何故、横浜市南区が太田道灌公の遺領と推測するかと言うと南区には京急線「南太田駅」が在るのですが、その一帯は太田と言う地名で太田小学校は太田道灌公の城跡と伝わっています。
そして!
吉良家が戦国時代に蒔田城の方を主要拠点にしていた決定的な証拠は…
勝國寺の政忠公の御廟所の周辺を取り囲む様に、「森家」「佐々木家」「並木家」の立派な御廟所が有るからです。
吉良家家臣団を知っている人は直ぐに解るのですが、森家、佐々木家、並木家は全て吉良家の主要な家臣なんですね。
つまり主要家臣が戦国時代に御廟を構える場所が当然、本拠地の可能性が高い訳です。
更に言えば、隣の港南区上大岡側と磯子区峰一帯には大地主の「北見家」と「苅部家」がいます…
この北見家も「北見」=「喜多見」であり、やはり吉良家の重臣に当たる姓です。苅部家も同様に吉良家重臣の家柄の姓です。
そして、「森」や「並木」の地名は、蒔田城と一つの丘「久良岐の丘」で繋がっている地名として残っていて磯子区「森」と金沢区「並木」が現在も地名に在ります。 吉良家所縁の地名
この吉良家、北条氏の影響下に入った後の明確な支配域を見ても中原街道沿いの川崎市中原区や東京湾岸等、穀倉地帯よりも交通の要所を抑える傾向が有りました。つまり、海運と陸運を重視した家だった訳です。
そんな関係で…
船舶関係の事業に精通した家系…喜多見家、並木家等が配下にいたのでしょうね。
実際、この輸送能力を生かして吉良家は吉良頼康公の代に鶴岡八幡宮再建で材木の大量輸送に成功しています。
これは羽柴秀吉における蜂須賀小六の比ではない実務能力と経済力の高さを史実として残しています。
そんな関係で、流通の拠点として内陸の街道が沢山通る世田谷と海川の水運に適した蒔田を重視したのは言うまでも無い訳です。

まぁ、そんな吉良家ですが、北条家滅亡時に世田谷城は落城してしまいます。
その際に、吉良の殿様は千葉県に退避していて難を逃れ、そのまま江戸時代に千葉で旗本として存続しました。
江戸時代に成ると、御子孫が前回の記事で書いた世田谷八幡宮を吉良頼康公の故事に習い再興しています。
豪徳寺は井伊家の菩提寺でもありますが、そんな吉良の殿様の室町時代の居城で蒔田吉良領の中核だった訳です。
世田谷城址の豪徳寺を継いだ井伊家は、その後、吉良家の治めた横浜村を開港しています…
これも何かの御縁なんでしょうかね~?
豪徳寺は吉良家と井伊家と言う、とても偉い殿様の関わった御寺で凄いと言うのは何となく伝わったでしょうか?

きっと皆さんの御近所の御寺や神社も、思いがけず凄い殿様や歴史偉人や古代の神様の縁起が伝承して居るかも知れません…
だから少し御寺や神社を散歩してみて、説明の看板を読んで見ませんか?
思わぬ歴史人物との関わりを発見したら、きっと自分の住む地域への愛着も深まる筈です…

では、又、次の記事で御会いしましょう!





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旅ってのは遠遊ばかりでなく、県内や地域内で散策し安らぎや日常生活の中の発見を感じる小旅行も有りますよね?
皆さんの御近所には、どんな安らぎの場が有りますか?
小生は御縁が有って、最近、世田谷にちょくちょく行きます。
その世田谷区の東急世田谷線の駅の近くには、世田谷城址公園と豪徳寺、世田谷八幡宮、勝光院と言う古跡名刹が点在しています。
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この宮の坂駅、駅に地区センターが併設された少し変わった構造なのですが、駅の名前の由来は世田谷区宮坂1丁目に在るからです。
では、その宮坂の地名の由来ですが…
実は、駅の直ぐ目の前、つまり宮坂地区に「世田谷八幡宮」と言う歴史有る八幡宮が鎮座しているからなんです。
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この世田谷八幡宮は歴史は古く、平安時代に遡(さかのぼ)ります。
鎌倉幕府の創始者源頼朝公の御先祖様で源氏最強の武将だった源"八幡太郎"義家公が創建したとの伝承が有り、その境内には厳島神社も抱えています。
更に戦国時代に成ると、この一帯の殿様だった足利家の一族の蒔田吉良家の吉良頼康公が再興された歴史も有ります。
頼康公、実は横浜市の殿様の笠原信為公と間宮康俊公と協力し、戦災で焼失した鎌倉の鶴岡八幡宮も再建しています。
吉良家は戦国時代、北条家の影響下に入ると横浜市南区の蒔田に蒔田城を築き、古河公方の代理として蒔田御所と呼ばれ非常に重要視されていました。
当時、蒔田城の近くには蒔田湾と言う入り江や笹下川が流れていて、その水運を利用し吉良頼康公が材木を調達運搬し鎌倉の材木座海岸の若江島に輸送したそうです。
この鶴岡八幡宮や鎌倉の復興事業はのべ5万人が関わった大事業で、当時の吉良家の経済力が凄まじく豊かだった事が解ります。そして、その事業を成功させた頼康公の実務能力の高さにも敬服するばかりです。


吉良家は小田原北条家に組した大名だったので、安土桃山時代に豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に、この世田谷八幡宮の近所に在った吉良家の居城の世田谷城も落城し、吉良家は徳川家の支配下で下総(しもうさ)国に転封(てんぷう=領地の引っ越し)をさせられると、その後は徳川家康公により保護されました
なので江戸時代に世田谷八幡宮は大変な権威を誇り、武家の軍事教練として重要だった「相撲」の名所となり「江戸三大相撲」の開催場所だった為、境内には今も土俵が存在しています
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昔はここの土俵に多くの江戸の町民が相撲の取り組みを観戦に来たんでしょうね~。
※吉良家の関連記事は以下をご覧ください。
●蒔田吉良家の御所、蒔田城の記事は「ココ 」←クリック!
●吉良頼康公が間宮康俊公と鶴岡八幡宮を再建された事績の記事は「ココ 」←クリック!

源義家公は河内源氏と呼ばれた氏族です。つまり源氏の中でも河内国、今の羽曳野市辺りを元々本拠地にしていた、その後の源氏の本流に成った一族の平安時代の惣領(そうりょう=親分)です。
義家公は御父君、鎮守府将軍源頼義公と共に、今の神奈川県鎌倉市に拠点を置き、鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)の中の「亀ヶ谷(かめがやつ)」と呼ばれた地域に館を築いて関東地方や東北地方で土地開発や軍事に活躍された方です。その館の跡は今、「亀谷山寿福寺」と言う御寺に成り、源頼朝公の奥さん北条政子様と御次男で鎌倉幕府三代将軍の源実朝公の菩提寺として存在しています。
※以前、寿福寺を紹介した記事は「ココ 」←クリック!

さて、源義家公は神道と仏教の両方の神仏を信奉し、山岳信仰にも熱心だったので、「八幡神」や「権現様」の御社やを各地で創建したり再興したりされています。
この信仰は源頼朝公も引き継いでおり、頼朝公に至っては此花昨夜姫の権化として信仰対象に成っている富士山を、何の登山道具も無かった鎌倉時代に登山し火口を一周されたり、此花昨夜姫の父神の大山祇大神の権化とされる神奈川県伊勢原市の大山を登山したり、その大山信仰の元に成った比々多神社も参拝しています。
※大山阿夫利神社記事は「ココ 」←クリック!
※比々多神社の記事は「ココ 」←クリック!
義家公は御寺の仏様も熱心に信心された方で、その菩提寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺に追い込まれましたが、今も羽曳野市壺井に通法寺と言う御寺の跡が在り、そこに義家公の御廟所が在ります。
そして、その通法寺の近くにもやはり、壺井八幡宮と言う八幡様が在ります。
神仏習合の神様の称号である山岳信仰の対象「権現」を信仰していた痕跡は関東各地にも在りますが、東京都八王子市にも残っていて、それも以前書いた「滝山街道」の記事に有るので御興味有れば御覧下さい。
※源義家公の山岳信仰に関する滝山街道の記事は「ココ 」←クリック!

先に少し触れましたが、この世田谷八幡宮は厳島神社も境内に有ります。
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厳島神社の神様は3柱の姫神様で壱岐嶋媛達が祀られています。
女神さまだから縁結びの御利益が有りますかね~?
古くは海上交通の神様として祀られた神様なので、水神様も信仰していた源氏の義家公や蒔田吉良家らしい神社とも言えるのでしょうか?
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厳島神社自体の御社は小さいものの良く屋根の社紋を見ると…
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蒔田吉良家と血縁が有り、蒔田吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家の家紋が使用されています。
つまり、この世田谷八幡宮内の厳島神社には小田原北条家が少なからず関わっていたと言う事が解ります。

さて、話を世田谷八幡宮そのものに戻します。
世田谷八幡宮は関わって来た歴代殿様が凄い方達ばかりなので、縮小された現在でも可也(かなり)立派な規模を誇っています。
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説明看板も二種類有ります。
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境内は冒頭で掲載した惣門に当たる大鳥居の他に、参道を進むと更にもう一つ石造りの大きな鳥居が参拝者を出迎えます…
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現在も多くの方から信仰され多くの氏子様を抱える八幡様だけあり、中の鳥居には立派な注連縄(しめなわ)が掲げられていました。
禰宜の藏重さんの御話ですと、最近は世田谷八幡宮で神前式を上げる若夫婦も多いそうです。
ウエディングドレスの披露宴も捨てがたいですが、御話を聞いて、披露宴と別に結婚式を自分の家の氏神様で挙げると言うのも古来の習慣を大切にしていて良い日本文化伝承には良い傾向だと個人的に思いました。
無論、教会でも結婚式も神秘的で素敵ですよね。
まぁ、信仰はそれぞれ、日本人はそんな寛容さを古来から持っているし、日本の神様や仏様は外来の神様にも寛容な側面が有るので…
神前式を選ぶかどうか、教会式を選ぶかは日本の場合は権力を握る御嫁さん次第ですね(笑)!

さて、注連縄の掛かった石の鳥居を過ぎ石段を登ると、いよいよ本殿と社務所と神楽殿が見えて来ます。
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素敵な八幡様でしょ~?
住宅街の中の神社なのに清浄な雰囲気が漂っています。
この手前の石段右手に先程の土俵が在ります。
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土俵の横に何か建物が在ったので、これは昔、土地の領主や名主が相撲を観戦する際に利用した建物なんだと思います…
禰宜さんに聞くの忘れたので詳細は判りません。

ここは手水舎までも雰囲気があります。
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建物の感じだと、江戸時代位から有る手水舎なんですかね~?
手水舎の向こうには神楽殿かな?社務所と別棟の建物が在りました。
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どこを見ても江戸時代の雰囲気が漂っていますね。
そうそう!
この世田谷八幡宮、徳川家康公の庇護を経て、江戸時代に下総国に移住した蒔田吉良家の殿様の御子孫が再び支援したそうなので、江戸時代の雰囲気が現在も漂っているのだと思います。
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なんか…やけに眉毛の立派な狛犬様ですね。
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でも、この↑上の狛犬サン、子狛犬(笑)を優しくなでていて、何だか江戸時代の人のユーモアと人情や愛情が現代に垣間見えてホッコリしますね。
強くて優しいって理想ですよね~。
小生、この狛犬さんや御寺の仁王門の金剛力士みたいな人格に成りたいです。
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本殿も本当に立派でしたよ~。
本殿の御神籤(おみくじ)は24時間の自販機でした。
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現代に奉納された灯篭も立派ですね、そして周囲の雰囲気を壊さない素敵なデザインです。
この灯篭を良く見ると…
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吉良頼康公の家紋「五三桐」の紋ですね。
吉良頼康公が、この世田谷八幡宮を再興した事を感謝し子子孫孫に伝える氏子さん達の気概が伝わります。
そして、吉良家の領民だった誇りが、この世田谷区に昔から住んでいる方々には有るのでしょうね。
どうです?
素敵な神社だったでしょう?
大鳥居前の大きい社務所の駐車場には綺麗な花が元気に咲いて出迎えてくれていました。
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また、何度でも御参りに来たくなる八幡様でした。

さて、この世田谷八幡宮の近所には、蒔田吉良家の初期の居城だった世田谷城址公園や…
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世田谷城の主要部分だった豪徳寺が在ります。
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彦根藩主井伊家の2代目井伊直孝公からの歴代藩主菩提寺でもあり…
実は!招き猫の発祥地でもあります。
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可愛いでしょう?

この豪徳寺や世田谷城址公園も、近いうちに御紹介したいと思います。

では!今回はここ迄!
又、次の記事で御会いしましょう!



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