歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:中村屋

拉麺好きなら誰でも知っている名店が神奈川県には多く有ります。
今、悲しい理由では無く海外に活動の中心を切り替えると言う意味で名店が一つ閉店します。
中村屋
ラーメンフリークなら知らない人のいない店、神奈川県海老名市の中村屋、神奈川淡麗系と言うジャンルの発祥地です。
実は神奈川県は拉麺の巨匠を輩出する地勢の様(よう)です。
これは主要な高速道路や国道が神奈川県を多く通る事から東京に入る前にドライバー達が車を停める場所の確保出来る神奈川県内で食事をする機会が多く拉麺文化の発展が他地域より少しだけ早く進みやすい環境が有ったみたいです。
偶然ですが、戦国時代の城や江戸初期の陣屋は町を守る為では無く敵軍の侵攻を阻止する為に交通の要所に作られます。ですから昔の繁盛店は近くに城跡や陣屋跡も有ったりします。
幹線道路や利用者の多い道沿いに有り必然的にドライバーが集まって来やすくなるので一目瞭然で繁盛しているのが判り、それを見た一般人から口コミが更に広まり繁盛店に成ると言うのが、ラーメンブーム初期の1980~1990年代の傾向だった様です。
ただ繁盛店も立地だけでは飽きられてしまう訳ですから、今も生き残っている店は当然ながら努力を止めなかった御店主の御店と言う事も判ります。

小生が一番好感を持っており、憧れと同時に尊敬もしている人物が拉麺職人であり拉麺と言うジャンルを和食並みに繊細で高度な「料理のジャンル」に革新昇華させてラーメン業界の「ニューウェーブ」と言われた中村栄利サンです。
2月5日にアメリカから帰国して、13日の閉店日の営業終了まで中村サン自ら昔の様に「天空落し」で麺上げを全て担当して下さるそうです。

この中村社長は拉麺職人と言う職業自体も「シェフ」と他の料理人やマスコミから言わ強(し)める存在に地位を向上させた現代の料理界の偉人の一人で既に歴史に名を刻んでいる人物です。
この中村サン社長に成り中村屋を最初に高座渋谷で開業した頃に成ると立地よりも味が完全に重視され、不便な目立たない立地でも東京の「六厘舎」、横浜の「くり山」等の繁盛店が登場してきます。
一気に日本のラーメンのクオリティが進化したのが「ニューウェーブ系」の時代だったと思います。
中村さんは未だ明確な神奈川淡麗系等のジャンル分けが浸透する前の「ニューウェーブ系」の一人として有名に成った人な訳ですが、ニューウェーブ以前の立地+味+拘りで繁盛した先輩達の中にも中村サン御自身がYoutubeのライブ配信で名を上げていた「御世話に成った」とする人が当然ながら何人かいます。
今回はその中で3人、神奈川県のシェフを紹介しますが日本全国区で有名な誰でも知っている方達ばかりです。

支那そばや 佐野実 社長
神奈川淡麗系と言う名が出る前からの醤油拉麺の名店。
藤沢に開業後、横浜ラーメン博物館に出店、その後、自分の地元の戸塚本店に本拠を移す。
つけ麺の神様の山岸サンが認めた天才にして拉麺にストイックな拉麺の鬼。多くの店に影響を与えた。
早くに亡くなってしまったが今でも佐野サンを慕って戸塚本店に拉麺を食べに来る客は本当に多い。
今でもその拘りは御弟子さんやご家族に引き継がれレシピの中で脈々と生きている。
この人の拉麺は人を感動させる事が出来るのは、ストイックで本当に研究熱心だった現実的な努力が惜しみなく注ぎ込まれているからだと思う。
小生も知らない藤沢店時代は相当厳しかったらしいけれども、晩年はだいぶ柔らかく成り後進の育成に活躍されていた。今の「支那そばや」は御家族と御弟子さんの代に成り店の雰囲気も和やかで女性客も非常に増えて、小生も関西や外国から友人が来るとここに拉麺を食べに連れて行くが皆賞賛すると同時に醤油拉麺に対するハードルが初回から爆上がりし他の店主が可哀想だったりもする。




吉村家   吉村実 社長
家系豚骨醤油拉麺の総本山。
吉村実社長が現在の新杉田駅近く、杉田屋の道を挟んだハス向かいに開業した店で在来の横浜拉麺を工夫して確立したジャンルが家系豚骨醤油拉麺だった。後に現在の横浜駅西口に移転するに際し、東大卒で会社員を辞してまで自分の弟子に成った津村サンに杉田の地盤を託して旧吉村家の近所に津村サンの杉田家が開かれ現存する。
吉村社長がいなかったら家系と言う単語すら現代に存在していなかった。
個人的な思い出として、小生は幼少期に屏風浦に住んでいて親が好きで良く食べに連れて行かれた店。
ある日に良くスープを吸う厚手の海苔を母が「海苔が美味しい」と言ったら吉村サンが「持ってけよ!」と言って束で海苔を分けてくれたり、子供ながらに「美味しい~」と言うとニコニコと声をかけてくれた優しいオジサンが目の前でたまに弟子をブン殴ってた(笑)。
良く弟子を殴るけど多くの弟子を独立冴えて自分でやってける所まで育て上げる「親方」。パワハラは現代では無理だけど(笑)、この人のは弟子と客の事をメチャクチャ考えてる人。
今でも尊敬している自分の幼少期に見たラーメン屋の優しいオジチャン。



なんつッ亭 古谷一郎社長
熊本県人吉市の名店の好来ラーメンで修行し、自身の故郷である秦野市で熊本豚骨ラーメンに「黒マー油」で豚骨ラーメンの獣臭さを香ばしい香味に変えた豚骨ラーメンを提供する女性ファンとファミリー層の需要を開拓した偉大な拉麺店。なのでラーメン屋なのにアイスクリームや子供が喜ぶ仕掛けもちゃんと有る。
ただ元ヤンキーなので周りの面倒をみたり仲間の事を考え過ぎる真面目男で拉麺業界の事を考え過ぎた結果、政治家に立候補した際に左派系野党側から立候補したもんだから一次期は右派の御客さんにソッポ向かれちゃったり、それなりにヤンチャな面も残している方。
御客様が「御馳走様」「美味しかったです」と言うと一人一人に対して「ありがとう」と声を返してくれる好人物でも有る。TV番組の企画で閑古鳥が無く高速道路のフードコートの再生でも安易にコスパしか考えない経営者に職人として料理にプライドを持つように諭したり、本当に面倒見の良くアイディアも豊富な人物で中村サンの少し上の兄貴分的な世代に当たる。


さて、そんな訳で皆さんもTVで見た事が有る様な拉麺に新たなジャンルを確立した巨匠達がいて、その中の一人がイケメンであり研究家として熱心な中村屋の中村栄利社長なのですが、この人の凄さは半端ない。何と特定の師匠がおらず、自分で1から研究し有りとあらゆるジャンルの料理の良さを研究し、23年前のオープンから暫くして世間に知られる様になると多くの評論家や各ジャンルの料理界の巨匠達から「若いのに大した奴だ」と可愛がられる様に成り、更にそのフレンチや拉麺界の巨匠達からもアイディアを吸収し「神奈川淡麗系」を確立させて、更に10年前に渡米し「NAKAMURAYA」をオープンし今でもニューヨークで成功を収めているラーメン業界の革新と進化の先頭に立ち続けている事に有ります。

中村屋  中村栄利社長
最初は由緒有る源頼朝公の配下として活躍した東郷平八郎元帥の御先祖様でもある渋谷重国公の治めた土地の高座渋谷に中村屋を開業した。
特定の師匠について拉麺を修行した訳では無くアメリカ留学中の4年間に自分で拉麺スープを研究し、帰国後に幼馴染でずっとフラれ続けてから交際した奥様と結婚する為にラーメン屋を開業した。
そこから御苦労もされながら研究を止めず、新たな工夫を加味して行き拉麺が料理として大きく評価される革新を成し遂げ「ニューウェーブ」を巻き起こした人物。
釜で焼いた叉焼や煮豚だけではなく今では当たり前の燻製させたり料理を提供する前に「炙り」温め芳(こう)ばしく焼いた香り付けまで行い提供する工程を取り入れたり、スープも様々な素材を研究し取り入れる等、開業からわずか23年間で日本の拉麺業界発展の中心に間違いなく居た内の一人で、その功績は例えるなら拉麺業界で渋沢栄一公までとは行かずとも原三渓サン、松下幸之助サンに匹敵する大勝軒の山岸さん、佐野実さん、吉村実社長、と並ぶ日本が世界に誇る拉麺職人だと断言できる。
世界に誇る日本のラーメンの革新的発展に貢献した歴史偉人の一人である事は間違いない。


そんな中村さんの御店があと2日、2022年02月13日で日本国内の店舗は完全休業に入ると衝撃の告知がホームページで有りました。
中村屋告知
日本の中村屋は、入居するAEONの立体駐車場が建物老朽化により解体工事が決まり、テナントの契約を更新せず撤退が決まりました。
中村社長の現在の本拠地であるニューヨーク店は継続されますが、02/13が国内で中村屋を食べられる最後のチャンスです。
小生のブログは観光地として歴史散策の場所としても価値の有り且(か)つ歴史偉人と御縁の有る横浜市の史跡や神社仏閣が消滅する事を嘆いたりする記事も多く有ります。
しかし今回の日本における中村屋の無期休業はラーメンファンにとって悲しい事では無く彼がニューヨークの店に今まで以上に専念する事で「日本のラーメン」を世界に広める花道が開かれた訳ですから、一つの節目でありおめでたい事だと思います。
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麺処 中村屋 海老名本店
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2017年04月22日、朝から有鹿神社の宮司様の講義を聞きに海老名市を訪れて、講義受講後は宮司様から有鹿神社の施設や鳩川と相模川の合流地点の旧境内地、そして鎌倉御家人の海老名氏の城館址の敷石だった現境内本殿前の敷石の一枚の解説や本殿内部の彫刻や天井画を案内して頂き充実した時間を過ごす事が出来た。
宮司様に御礼を申し上げて神社を後にし隣の江戸時代までの有鹿神社別当寺だった総持院に初参拝しから少し移動して有鹿神社中宮を御参りした。
そして海老名市が誇る遺産、相模国の国分寺跡に移動した。

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国分寺も旧境内地は歴史遺跡として保護されているのだが、歴史に興味が無い人からすると基壇が有るのも「何もないですよ~」と言ってしまうような❝野原❞と認識されているらしい。
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まぁ、城跡もそうなのだけれど、文化や史跡に思いを馳せる事の無い現世の物欲と性欲にしか興味なく生きている人達にとっては、❝目に見える金❞と❝ビル(建築物)❞等の❝動産❞と❝不動産❞としての価値しか興味が無いんだろう。そして多分、異性も美人かブスかにしか興味が無いんだろうな。
たまたま数年前に話した海老名の人から「何もない」と言われていたが、来てみたらとても立派な基壇や礎石が発掘保存されていた。
所で、国分寺跡の前には海老名市温故館と言う小規模ながらとても熱心に解説を行う学芸員さんや職員さんのいる郷土歴史博物館が在る。
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こちらで昔の相模国国分寺の様子を再現した立派な模型等も見る事が出来るので、温故館と国分寺跡は両方合わせて見学するのが個人的には御薦めだ。

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海老名市が成立する前の昔の海老名村役場の建物を利用した施設で、国分寺跡の旧境内地に建っていたのだが国分寺跡が史跡認定されたので現在地に移築された。
この日、当初の予定では温故館を見てから国分寺跡を散策しようと思ったのだが、相模原市からの団体客が来訪中だったので先に国分寺跡を見学する事にした。
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国分寺跡にはちゃんと昔の伽藍が有った時代の名残りが発掘されていて、御覧の通り回廊の礎石なんかも発掘保護されている。この礎石の上に柱が組まれ、昔は立派な回廊が堂宇を取り囲んでいたのだろう。
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少し順番はあべこべに成るが、温故館に展示されている国分寺の模型を見ると、やはり回廊に囲まれているのが良く解る。
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この看板を探しても、そこに大まかな事が理解出来る解説と史跡の全容が記されている。
この国分寺跡に限らず歴史史跡を回る時は、この様な看板が有れば必ず精読される事をお勧めする。
読めば自分の居る場所に古代何が有ったか、そしてどんな出来事が有り、どんな偉人達と関わりが有ったか必ず書かれているので地元の人なら郷里の誇りにも成る事だろう。
この手の看板を読むのに1分も時間はかからない、その1分で郷土に誇りを持てたり来訪者なら意義を知れるのは実に素晴らしい事なんじゃないだろうか?
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とは言え、確かに地元に人に只の草原と言われても「う~ん長閑で気持ちの良い風景だ」と同意してしまいたくなるのも事実(笑)。
色んな意味で良い場所だとは思う。
説明書きはそこかしこに設置して有り、非常に親切な写真と文字の両方解説で助かる。

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これだと小生の様な馬鹿でも理解しやすい。
所で、この絵図の仏塔は現代の個人の御墓で墓所に建てる卒塔婆の元に成った施設だ。
本来の仏教寺院は奈良~平安時代では国営や豪族貴族の直営だった場所が殆どで公立だった。
だから規模も大きく、仏塔が建てられる場合が多かった。
そして、この塔の本来の目的は「仏舎利(ぶっしゃり=御釈迦様の亡骸、ないし御寺の被葬者の亡骸)」を保存する場所だったのだが、現代ではその機能を成さなくなり建築様式としてだけ残っている。
昔は御寺その物が個人(豪族貴族)の御廟所=墓所としての機能も果たしていた訳だ。
つまり一人一寺みたいな勢い。
だから中世でも社会的地位の高い仏教徒の戒名にはその名残を見る事が出来て、〇〇院や〇〇寺と戒名に御寺其の物の名前が入る人が多くいた。
織田信長公なら「総見院殿大相国一品泰巌大居士」だったり横浜を開港した井伊直弼公だったら「宗觀院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覺翁大居士」の様に、生前の身分が高位の人物には~院と御寺の院号が付き敬称の「殿」が続く。
無論、現代では一般人には付かない戒名な訳だが、昔は御寺そのものが故人一人々々の供養の為に建てられた文字通り「菩提寺(ぼだいじ)」だった事が良く解る。
しかし、国分寺は国家鎮護の為の寺院なので当然、誰かの為に作られた場所ではなく祈祷所の様な場所だったのだろう。そして国営なので壮麗な装飾も施されていた様だ。

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上の解説によれば塔の頂点部に飾られる塔相輪部は美しい金属製だった様だ。
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基壇が修復されて今も保存されている。
基壇の規模からも当時の立派な塔の規模を窺い知る事が出来る訳だ。
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こういった仏教建築技術が、後の神社仏閣の建築技術発展に繋がり、そして壮麗な城郭建築へと発展して行った訳だ。そう言う意味で仏教の伝来は日本文化の発展の礎の一端を担った事は間違いない。
ここでは常時20名程度の仏僧が当時は常駐していたので、彼らの宿舎だった僧坊も発掘されている。

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この通り、発掘された遺構を元に彼らの生活した建築物の復元予想図も書かれていたりする。
とても丁寧な展示方法で海老名市教育委員会の仕事は素晴らしいと思う。
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このコンクリに発掘された柱の穴の跡がマーキングされていて、当時の様子を知る事が出来る。
まぁ、公務員なのに長屋住まいでプライベートも何も無かった訳だが、当時の和尚さん達は滅私で国民の安寧を祈願して下さっていた訳だ。今の和尚様達の中に、果たしてどれだけの人が国民の安寧を当時の国分寺の和尚様達の様に考えている人がいるかと思うと、色々と考えるものが有る。
まぁ、当時の和尚様達は俗世を捨てているので現世の政治や商業活動には関わらなず、どちらかと言うと神仏共に大切にされていたので個人の修行だけでなく世間の平和を願う事も仕事だった訳で、その代表的な存在が海老名市の国分寺を含めた日本全国1国に一つづつ建てられた国分寺だった。
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だから、他府県にも国分の地名や国分寺跡が残っている訳だ。
一頻り国分寺跡を見学してから、そろそろ頃合いかなと思い海老名市温故館に移動。
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何ともレトロな建物だが、実際に古い村役場の建物であり建築文化財なので、横浜の山手地区の洋館の様な佇(たたず)まいなんだろう。
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とても可愛い建物だ。
ここは学芸員さんや職員さんがとても熱心で、解説を御願いすると来訪者に親切に展示物の説明をしてくれる。
そして何より嬉しい事に市営で入館料が無料なのだ!
歴史オタクにとってはとても居心地の良い場所(笑)。
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展示物も出土品の現物や複製品、それに加えて海老名市周辺の古墳群の位置関係と地形を再現した模型、奈良時代の国分寺や条里制で造営された相模国府推定範囲の写真説明等々、「意味が解って見れる人には有意義な場所」な訳だ。
神奈川県下の各自治体の教師は、中学生の歴史教科書を精読してからここに来て、もう一度勉強しなおしてから有鹿神社本宮と相模原市の有鹿神社奥宮と勝坂遺跡を訪問するべきだと思う。
ついでに寒川神社で八方除けの祈願したり、前鳥神社にも行って仁徳天皇の弟皇子で
日本最初の学問を導入した菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子にも御参りしてきたらいいんじゃないかな。
もっとも地方公務員の学校教師の中には共産主義者が多く唯物論者なので日本の伝統や文化や神仏に対する信仰を破壊対象として認識している極左も多いので、到底、神話と考古学が交わる整合性を認めたくない輩も多い事だろうが。

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小生もこの写真と似たデザインの土器の破片を子供の頃に近所の宅地開発の時に表面採取して保管している。
思えば近所に歴史遺跡が有ったり、鎌倉も近くて中学生の頃に電車や自転車で気軽に遊びに行けたのも歴史好きに成る要因だったかも知れない。
小~中学生の頃は仲間達とチャリンコで由比ヶ浜に行き、イチャイチャしているカップルの横でわざと大声で地味に棒倒しを異様な盛り上がりでやってデートを邪魔したりする意味不明な遊びをしていた。全くもって迷惑なクソガキだった(笑)。
展示物の話に戻ると、昔の女の人もオシャレに余念が無かった事が解ったりする。
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耳輪。
こう言うの見てるとやはり日本人の先住民(縄文文化の人々)は朝鮮半島渡来では無くて、南方系のベトナム~中国大陸の呉や越~台湾や琉球民族と同じ海洋民族文化なんだなと解る。
実際、琉球語には古事記に登場する古語が昔のままの意味で使われていたりするし。
琉球語で「ひら」は「上り坂」の意味、「坂」は「下り坂」の意味で、本来の「黄泉平坂」は「黄泉平坂(よもつひらさか)」ではなくて「黄(き)泉(いみず)平坂(ひらさか)」となり…
黄(き)=紀国(きのくに)=紀伊国
泉(いずみ)=泉国(いずみこく)=和泉国
平坂=峠
…と成る訳だ。
この峠も推定出来る場所が有る。
要するに、天皇家の古墳は河内国と奈良近辺に大量に現存するが、奈良や河内を境にして、南部の和泉国や紀伊国や伊勢国や志摩国は初期の王族にとって反乱勢力の根拠地だった訳だ。
元々、伊勢神宮以前の神宮も丹波国に在ったのは有名な話し。
古代の大和朝廷の国境は❝鈴鹿関❞❝逢坂関❞そして真田幸村が歩いた❝紀見(きみ) 峠❞の事だろう。
紀見峠も元々は「黄泉峠」と書いて発音も❝黄泉(きみ)峠❞だったのかも知れない。
紀見峠を越えると熊野信仰、つまり山岳や自然湧水池を信仰対象にした縄文文化系の先住民族の縄文文化圏だったんだろう。そして、その首府が今の熊野大社や那智大社の辺りだったはずだ。
「熊野」は「熊襲」と無関係ではないだろう。

伊邪那岐(いざなぎ)の神様は、伊邪那美(いざなみ)の神様と夫婦に成って国を作る、これは渡来文化と縄文文化の融合の象徴を起源にした弥生時代つまり稲作や豪族集団の始まりを伝える神話だろう。

そして最初に日本に渡来文化を齎したのは呉太伯、つまり呉王の子孫だろう。呉の滅亡は西暦紀元前500年頃の話しで、日本神話とも近い上に宮崎と並んで高千穂の地名の残る鹿児島県には呉太伯神社も存在している。呉王の家系は更に周王まで遡(さかのぼ)る事も出来る。

伊邪那美の神様が黄泉平坂を超えて行った先は、縄文文化の熊野地方だったんじゃないだろうか。そして、そこは本来の姫神様の一族の治めた土地で、実家に帰って縄文文化に戻って生活していたと言う話しなんじゃないかと思う。本居宣長に死後の世界と訳されたであろう縄文文化に帰った伊邪那美は古来の文化に従って刺青(いれずみ)を施して歯を抜歯した筈だから、渡来文化を導入して刺青の習慣など無かった伊邪那岐の神様からすれば、元奥さんの伊邪那美の神様が縄文人よろしく刺青して歯が何本も無くなってたら化け物に見えても仕方なかったんじゃないかと思う。

やがて熊襲は邪馬台国の元に成った豪族集団に段々と吸収されて行き初期の邪馬台国勢力に融和した筈だ。これを成し遂げたのは天照大神と素戔嗚尊に神格化された古代の斎王と王だったんだろう。

日本は縄文文化と渡来文化を取り入れた弥生文化が合わさって出来た国、そして更に勢力圏の拡大にともなって稲作が普及して行った訳だ。
更に漢帝国との国交によって青銅器やガラス製品の鋳造技術の技術移転を受けて、武具や装飾品が金属製品に成っていき古墳時代が始まり、その頃に再び
倭国大乱と成って邪馬台国に抵抗したのが伊勢都彦=建御名方神だろう。
そして、今の伊勢地方を根拠地にした伊勢都彦の勢力を諏訪に追いやった勢力が巫女の卑弥呼と統治者の弟だったのだろう。その卑弥呼は恐らく倭姫で弟は景行天皇だったりすののかも知れない。

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小生の住む神奈川県の旧郡制における橘樹(たちばな)郡~久良岐(くらき=久良=倉巣
)郡~御浦(みうら=三浦)郡~鎌倉郡~高座(たかくら)郡~愛甲(あいこう)郡~大住(おおすみ)郡~餘綾(ゆるぎ=淘綾)郡~足柄(足上/足下)郡の古社には日本武尊と雄略天皇に関する起源を持つ神社が実に多い。因みに小生は倭建は古代の邪馬台国大将軍の官職名だと思っている。
そして景行天皇御本人が初代の倭建、二代目が皇子の倭建=日本武尊だったら歴史と神話に整合性が出るんじゃないかと思っている。
日本武尊伝承は西暦100年代初頭と走水神社の神話では伝わっているが、古代の文字の無かった時代の話なので誤差が有ると考えれば三国志の時代とほぼ重なる。つまり卑弥呼の時代だな。九州で熊襲建(くまそたける)を討ったのは景行天皇だろう。
関東に東征したのは倭建(ヤマトタケル=景行天皇の皇子)だろう。
更に雄略天皇も最後の倭建で武蔵国造乱に関与したんじゃないかと推測している。
この推測は南関東の延喜式内社と式外社を回り御祭神の種類を見て廻り伝承を繋ぎ合わせた結果の個人的な推測なので、勿論、神学でも歴史学でも「全く価値の無い個人的な意見(笑)」でしかない。
だから日本神話をそのまま大切にする宮司様達は気にしなくて良いし、物質的な証拠しか採用出来ない歴史学者も小生の❝感触❞は小馬鹿にして置けば良い。
ただ小生は多くの神社や聖地が起源の仏閣を巡り伝承を繋ぎ合わせ、現実の歴史史跡を見た上で状況的に「そうなんじゃないかなぁ~」と感じてるだけ。
感じてるだけだから学術的価値なんか有りゃしない訳だ(笑)
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まぁ、そんな事をこの高座郡(たかくらぐん=こうざぐん)と呼ばれた聖地の多い地方の出土品を温故館で見ながら考える機会にも成ったりする。
小さい郷土資料館ながら展示内容は意義深く、石鏃(せきぞく)から青銅製の鏃(やじり)までの武器の変遷も見る事が出来る。
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そして装飾品も石や土器から次第に金属器やガラス製品が増えていった過程も見る事が出来る。
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そして古墳時代の豪族(王)クラスの武装が立派な金属製の太刀へと変化し、その様相も中国の三国時代の物とは既に違う独自の形に発展している事も解る。
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だいたい、神奈川県内で古墳~奈良時代の郡衙が置かれたと思われる場所の近くに有る延喜式内社の由緒ある神社の広大な旧境内地や傍には古墳が有って、副葬品から豪族の長しか装備出来なかった鉄剣や青銅製の鎧等が出土している。
三之宮比々多神社なんかも有鹿神社本宮や奥宮の周辺並に縄文時代~古墳時代の祭祀場や古墳と副葬品が大量に発掘されていたりする。
まぁ、そんな展示が温故館の1Fには多くあり、そして大化の改新の後の天智天皇以降の相模国国分寺や国府に関する展示も有る訳だ。
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温故館の2Fは中世~近世~近代の展示物が置かれている。
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江戸時代~近代の農機具。
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庶民の服装。
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明治の廃仏毀釈と神仏分離令の悪影響で衰退し廃社や廃寺に成った神社仏閣から移し保護されている仏様や神社の扁額等が保管されていた。
本当に海老名市の教育委員会は意識が高いと思う。
横浜市は左翼系の政治家と建築利権に結びついた政治家、そしてそれらの何れかと思想を同じくする教職員が力が強いせいで、宗教を文化と認識せずに「物」として扱ったり不保護のまま消滅させたりしてしまう。神奈川県庁と言う組織も駄目な所だし横浜市もダメ。
それ以外の自治体はとても宗教関連の遺物も文化として大切にし、そしてソレを物として扱わずに人から信仰された大切な物と言う認識を持っている場所が多い。
まぁ、神奈川県や横浜の教育委員会以外に他にも最近は歴史史跡や宗教関連史跡の保護で
ダメな自治体の教育委員会も幾つか有るんだけどな。
取り合えず、綾瀬市、海老名市、小田原市は比較的素晴らしい活動をしている教育委員会関連の職員が多い。文化財保護法の設置を最後まで拒んだ横浜市は一番駄目。

さて、温故館で学芸員さんに丁寧に色々と解説して頂いて古代の海老名郷の国府の条里制の跡と思われる場所の航空写真等も見学し新しく学習した事も有り、有意義な時間を過ごして温故館を後にした。
次に向かったのが今まで中々行きたくて行く機会の無かった日本を代表する拉麵店の一つである「中村屋」だった。

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この店の店主は「天空落とし」と言う拉麺の湯切りのスタイルでも有名なイケメン社長で、ニューウェーブ世代の拉麺店では一番の有名な社長なのだ。
そして拉麺を「料理」に昇華させた偉人の一人でもある。
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和食料理屋の様な店構え。
元々は高座渋谷に本店が在り、ここは高級志向のコンセプトで開いた支店だった。
しかし高座渋谷駅周辺の再開発で海老名店に本店機能を移転した訳だ。
現在は東京で大山阿夫利神社の名を冠した「阿夫利」と言う有名店も経営してらっしゃる。
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とにかく拉麺フリークだけなく「料理家も唸らせる拉麺」として有名だったので、ずっと来たいと思っていたが拉麺を食べるだけに来るには遠すぎた。有鹿神社様と御縁が出来たからこそ、海老名市街の一般道を走り回る機会が出来て、やっと来る理由にも成った。
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海外でも紹介されたらしい。
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店のTwitterアカウントが「天空落とし」に成っていた(笑)。
店員さんの許可を頂いて店内の様子も撮影させて頂けた。
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何となくアメリカの無機質に洒落たスタイルの内装だった。
丸でcafeの様な印象。
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以前の店舗の店先に掛かっていた額が店内に装飾品として展示されていた。
これも良い雰囲気を演出している。
天井のレトロな扇風機も良い。横浜の山下公園や大桟橋界隈のアメリカンスタイルのcafeと同じ様な内装でデートで来てもおかしくない拉麺店に成っていた。
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待ちに待った拉麺登場!
この日は「特中村屋」と言う拉麺の塩味に味玉と海苔増しのトッピングを注文した。
食べてビックリしたのはスープは透き通っていてアッサリしながらコクも有り、旨味を凄く感じられ今まで食べたどの拉麺よりも美味しい!
神奈川県には日本を代表するラーメン屋が実に4軒も有る。
拉麺の神様の佐野実さんの醤油ラーメンの名店、支那そばや
家系ラーメンの総本山の吉村家
九州ラーメンの名店なんつっ亭
そして神奈川端麗系の創始者である中村社長の中村屋だ。
この中村屋、美味いのはスープと麺だけではない。叉焼が凄い!
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肉厚なのだが物凄く肉質が良く柔らかい上に、その味は鎌倉ハムやなんかの贈答用の高級ハムを更に美味しくして拉麺の香りとマッチングする様にした感じの他店では絶対に食べる事の出来ない凄い叉焼だった!
本当、この拉麺を食べれて良かった。
海老名市訪問の後にも、この日の予定は幾つか有ったのだが…
有鹿神社で宮司様に親切にして頂いたり著書を拝領したり、人生で一番美味い拉麺に中村屋で出会えて、今年上半期で三本指に入る素晴らしい日に既に成った。

有鹿神社には又、小生の休日と祭事の曜日さえ合えば絶対に訪問するだろう。
そして、その時は又、絶対に中村屋の拉麺を食べに来ようと思った。
そんな素晴らしい午前中~昼の時間を過ごして海老名市を後した…

次回、綾瀬市~藤沢市編に続く…





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