歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:中田加賀守

前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。

・・・コレ⤴の続き。

前回の記事では中田家の菩提寺の一つで、中田加賀守の墳墓跡の直下に在る保福禅寺を紹介しました。
今回の記事ではいよいよ❝慶応大学敷地内❞と❝保福禅寺❞が慶応大学に貸している一之谷一帯に残る矢上城址=谷上城址の遺構を写真と古地図と色別立体図とGoogleMapの四段構えで解説して行きたいと思います。
小生は中田家の菩提寺の保福禅寺の山号が谷上山である事、矢上城跡の慶応大学が谷に囲まれた台地に存在する事から本来の城名は谷上城だったと推測し、以後、矢上城ではなく谷上城の名で紹介します。
先ずおさらいですが現在の城址周辺の航空写真です。
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
これでも御城が好きな人は「あ~食違いの大堀切が有るな~」とか「竪堀が有るな~」とか、結構見て取れます。でも余り御城の地形に詳しく無くて自然地形と見分けが付かない人の方が多いと思いますので、どんな地形が自然地形化を確認する所から始めましょう。
日吉周辺の地形 久良岐のよし
ボンヤリとした場所がザックリとした地形、矢上城址に関わる部分は詳細な地形を国土地理院の色別標高図から拝借し切り貼りして繋げてGoogleearthに表示してみました。
これを見ると良く解りますが、矢上城址は周辺の大河川が各時代に複雑に流路を変えて削られた地形である事、そして恐らく古代には矢上城址の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパスの間の保福禅寺の存在する谷間には矢上川が流れていた時代が有った事が地形から解ります。
平らな部分は縄文時代には海だった部分で、弥生時代には隆起したり土砂の堆積で湿地帯に成り漸(ようや)く人が往来出来る様に成り始めた場所で、まぁ~人が住むには古墳時代位まで不向きな場所だった様で日本神話の日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)伝説のある近郷の川崎市高津区橘樹神社辺りまで西暦200年前後まだ海水の入って来る湾があった事が伝わっていたりします。
実は明治時代の迅速測図では更にハッキリ地質や地形が読み取れたりします。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
この地図は国土交通省国土地理院の電子国土賞と言うサイトで公開されている明治時代の迅速測図を転載したものです。
御覧の通り、本来は古い地盤である丘陵には水田は全く有りませんが谷間には水田が広がります。
実は一般的に南関東は平野部でも稲作には適していません。それは富士山が噴火する度に火山灰をまき散らして田圃(たんぼ)を作るのに適さない関東ローム層と言う地質が露出しているからです。そして台地上に用水路を引っ張る技術は当時まだ小田原城下にしか普及しておらず、江戸市街地の用水網に引く水が60km先の奥多摩地方、東京都羽村市に取水関が作られサイフォンの原理を用いて整備されるのは江戸時代に成ってからの話しです。その羽村市の取水関から水を引く用水道網のモデルは実は戦国時代に矢上城主だった中田加賀守の主君、小田原城主の北条家が既に確立していて小田原用水として日本史上初の飲用水道が戦国時代に整備されていました。
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小田原用水
※住所クリックすると位置が地図で確認できます。
小田原市と箱根山系の間を流れる早川から取水して小田原市街に引いた戦国時代の用水網は今も現地に残っていたりします。まぁ、実は小田原城の城下町も元々は古代に海だった場所な上に、谷上城より更に海岸から近いので井戸を掘ると海水が出てしまい飲み水を確保するのが困難だったので、戦国時代に既にあの狭い城下町で3万人の人口を維持する為に飲用用水路が必要に迫られて発展し北条家のインフラ整備技術が他大名家よりも頭一つ抜けて発展し水道網整備に至った訳ですね。
でも谷上城は多摩川と矢上川と鶴見川を利用した流通網を押さえ、渡河地点と今の綱島街道等の陸路を防衛にかかる要所で防御に適した地形を優先して築城された所謂(いわゆる)城堡(じょうほ)とか城砦(じょうさい)と位置づけする町を守るより道を守る城だったので用水網の整備も必要が無く、普段は中田家の殿様達も平地の谷地形、つまり保福禅寺~慶応大学の一之谷~蝮谷に谷戸(やと=谷の入口に城門を築いて守りを固めた居住区)に住んでいた様(よう)です。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
しかし御覧の通り谷上城は多摩川、矢上川、早淵川、鶴見川の氾濫原(洪水の被害に遭いやすい場所)の山崎=つまり内陸の川に挟まれた半島状の丘地形に存在しているので海水の影響を受けるよりも淡水の河川流域地下水で飲用に適した水質の井戸を掘ったり、大河川の氾濫で出来た比較的新しい肥沃な地質の恩恵で水田耕作地帯として開墾する事が可能だったようです。
逆に言えば繰り返しに成りますが、湿地帯で人が住むには余り向かず、日吉の台地の丘の上も飲み水の確保が困難だったので明治時代まで人が余り住んでいなかった事が解かります。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
もう一度、谷上城だった慶応大学周辺の地勢を明治時代の迅速測図見て見ると解かりますが、明治時代にも人は住んでいなかったので江戸時代にも開発が入らずに近代も畑地にしかならず慶応大学が出来るまで山の山林として谷上城址が綺麗に保存され、第二次世界大戦の頃に横須賀鎮守府の海軍司令部が日吉の台地の地下に基地を作り台地上に軍人サンの宿舎や軍人サン達を相手にして商店街が形成されて行き現代に成って人が住む住宅街として開発されて来た事も読み取れます。
この人が長い間住めなかった城砦の丘は関東ローム層・・・
この関東ローム層が石垣を必要としない南関東独自の土を削り出し石垣よりも防衛堅固な城郭築城技術を生み出した地層でした。
そんな訳で、この平地部分には泥岩の層と砂岩が重なっていてとっても水捌けが悪かった事から戦国時代に成っても湿地が広がっていました。迅速測図でも関東平野なのに畑地ではなく水田が広がっている事が確認できますね。
そんな訳で、地質と地形の説明が完了したので、ここから小生の推測する矢上城域と遺構残存部を見比べて見ましょう。
色別立体図に小生色分けした茶色の部分が一目瞭然、大空堀の人工地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
日吉Googlemap 久良岐のよし
GoogleMapの衛星写真と見比べると位置関係が良く解りますね。
恐らく守りの薄い比較的なだらかな丘陵の続く日吉駅の西側は矢上城の主要な防御施設は❝1つ❞だけしか無かったと思います。それが上の小生が色別立体図に書き込んだ一番左側の大空堀ですね。現代では日吉本町1丁目公園~日吉本町三丁目第二公園にかけて住宅街の道路に成っている谷地形が人工地形なのは色別立体図でもハッキリ解かりますが、これが現代の道路開削では無く、既に江戸時代にも存在したことが明治に成って直後の色別立体図でも解ります。
下の図のを見て下さい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
このの大空堀が西の端の丘を断ち切り尾根伝いに敵が侵入出来なくする堀切りと呼ばれる空堀です。
「これ空堀なの?」
・・・と城に興味ない人は思うでしょうが、これは小田原北条家臣団と扇谷上杉家の南関東の城に多く見られる構造体です。現代では日吉の宅地化で真っ先に削られた場所なので比較的なだらかに成ってしまっていますが、地形のレントゲンと言うべき色別立体図と江戸期の地形を残した迅速測図の二つが証拠に成る上に迅速測図では北と南が掘り切られ、今では平坦な日吉駅から放射状に住宅道路が広がる場所には食違いに山を削り残された地形があった事が解かります。
拡大して見ましょう。
矢上城址周辺迅速測図① 久良岐のよし
道の場所で等高線が凹んでいて切通し状の道だった事が解かります。この堀切自体もL字に屈曲していますが、丘の下から登って来るで囲んだ登城口に当たる部分は直角にS字の食違いに成っています。
あからさまな人工地形ですね。
道を屈曲させる事で縦列で侵入して来る敵が細長く伸びる様にした上で敵は直進できずL字に屈曲した正面の崖の上から防衛側は弓や鉄砲で侵入者を❝なぶり❞獲物を狩る様に射殺して行く構造体です。
これが❝食違い❞や❝枡形❞と言われる城の防衛構造の一つです。
ここが西側の端っこで、まあ第一防衛ラインだった筈です。
2番目の防衛ラインは日吉駅の開かれた谷地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所ですね。ここは現代に住宅街が造成される以前から広く比較的なだらかな台地だった様で、迅速測図でも等高線の緩やかな畑地が広がっています。
矢上城址西の堀切虎口地形 久良岐のよし
その欠点を改善する為に南北に大きく谷を掘り切って敵の侵入経路に成る丘をクビレさせて防衛戦としている事が解かります。
この大堀切地形には明治まで水源も在り用水地も存在したので戦国時代には堤を作って堀底が水堀か沼掘りに成っていた難攻不落の大堀切だった事が推測出来ます。
言うなればの日吉本町1丁目の最初の大外の堀切~この日吉駅南北の堀切までの範囲が谷上城の外郭だった事が解かります。無論、そこも平時は当時から畑地として利用されていたんでしょうね。
さて・・・
この範囲に外郭が存在する規模だと、関東以外の戦国武将の常識では3万石相当の代官の中田家に不釣り合いな城規模だったと感じますが、実はここには戦国時代の早い時期に重要な城を造る理由が有ったんです。
再度、谷上城の位置を見て見ましょう。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
実は北条家の大曾根城と鶴見川を挟んで扇谷上杉家が周辺地域で争っていた時期が有った事が横浜市港北区大倉山~大曾根~太尾地区の旧家の深谷家や長光寺等には伝わっていて、その頃は綱島台地にも城砦が有ったそうです。
下は綱島台地の迅速測図です。
綱島台の城砦地形 久良岐のよし
今回は面倒臭いので(笑)綱島の城址は解説しませんが、迅速測図で見ると確かに見事なまでに連郭式(れんかくしき)城砦が明治に成っても綺麗に残っていた事が解かります。城の構造からみると掘り切りと竪堀が多用されている連郭式山城で、横浜市金沢区の称名寺裏山の金沢城址や三浦半島の衣笠城址、又は城址としては有名ではない鎌倉市の杉本城や逗子市桜山~葉山堀内に股がる鐙摺城の地形と全く似たような構造に成ってるので、多分、平安末期~鎌倉時代には存在したんじゃないかと思います。戦国時代にも改修されて利用されたんでしょうね。
綱島の城砦を含めて周辺を守る拠点が鶴見川と多摩川に挟まれた陸路の要所でもある矢上城だった筈なので、中田加賀守が三万石の代官だった時代と言うのは、扇谷上杉家と北条家が対立していた頃の話しなのかも知れません。そして東海地方や近畿の大名の城は配下の各豪族が私財で築城修築を行いますが、関東では北条家の支城なら北条家が、扇谷上杉家の支城なら扇谷上杉家での防衛拠点として大名によって築城され在地の城代を任されると言うのがセオリーだった様です。
又、北条家は経済規模に関係無い現在の会社員と同じ寄親(よりおや=上司)と与力(よりき=部下)制度でしたから、配下武将から大名が誕生する事はなく、配下武将の一族も細切れに別々の軍団に配置する事で謀反を防ぐ効果も有って、織田家の様な配下武将の大名取り立ては皆無でした。代わりに軍団を編成し更に軍団の下に中田家の様な代官による統治で配下の一族を細切れに分けて小机衆の様な大軍団の下に中規模部隊を編成していた様です。
なので代官個人の所得に不相応な城が北条家臣団の居城に成っているケースが多く見られます。
CIMG1239
これは上杉禅秀の乱、永享の乱、江の島合戦等が原因で関東が西国よりも先に戦国時代に突入する原因に成った事が関係しているでしょう。
戦国時代初期の関東の合戦は西日本の様な大名vs大名規模合戦では収まらず、常に関東八州を治める鎌倉公坊vs大勢力(室町幕府or関東管領)の衝突だった為(ため)に陣取り合戦で城が築城or改修される際に仮想敵数が万余で想定されていたので、神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は特に巨大な城郭が多く成って行った事が分かります。
神奈川県でも・・・
平塚市岡崎城
伊勢原市糟屋館
藤沢市大庭城
鎌倉市玉縄城
逗子市住吉城
三浦市新井城
横浜市笹下城
横浜市蒔田城
横浜市小机城
横浜市榎下城
川崎市小沢城等
・・・どれも東海や関西の城と比較するととんでもなく巨大な城郭です。まぁ、日本城郭大系では土地開発する土建屋や不動産屋に配慮してか城域を伝承と実際の地形より狭く紹介したりしていますが。これ等の城は守備側は数千単位で守れる様に主要部分に近づく程に堅固な断崖で沼か大河川か海に囲まれた場所に在り南関東平野ならではの地質と地形が活かされた他地域では作りたくても同じ地盤と地形が無く同じ構造を土で造成するのは不可能だった訳です。だから富士山より西では高い城壁を作る為には石垣を用いらなければならず築城コストが関東の城よりかかってしまう経済的な理由もあったかと思います。更に同じ高さの石垣と土塁では土塁の方が登る事が出来ず殺傷能力の高い防御装置に成る訳です。
築城コストが安く防御能力高い南関東の扇谷上杉流&北条流築城術は富士山のお陰なんですね~。
まぁそんな訳で繰り返しに成りますが、矢上城=谷上城の中田家の最大時の経済規模は3万石相当と伝承しますが、それは代官として治めた領域の話しなので中田加賀守独力には不釣り合いな巨大な城規模を任されていたのだと思います。まぁ中規模部隊を任せられたんで配下の与力合わせたら3万石だと北条家では1500~2000が兵士の動員数に成ります。それでも城の守備範囲は広大なので独力では守れないので、北条家では初期には五色備え軍団や後に小机衆や江戸衆や玉縄衆が編制され軍団単位で守備した訳です。
余談ですが北条所領役帳には面白い事に中田家が旧扇谷上杉家の宿老だった太田家と北条家の両方から給料を貰っている事が記載されています。つまり、これを根拠に小生は戦国時代初期の中田家は扇谷上杉家の家臣で太田康資公の与力だったと推測する訳です。そして中田❝加賀守❞は一人の名前では無く中田家の殿様が祖先の官途の加賀守を代々世襲して名乗った屋号の様な通称だったと推測しています。なので江戸時代には既に資料の余り残らなかった中田加賀守に関する記載も北条家臣時代と話がゴッチャに成り「よくわからん!」と書かれたりしてしまってるのだと思います。中田加賀守が1人の人物として考えるとかなり混乱しますからね。
さて、谷上城に話を戻します。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
慶應大学日吉キャンパスの建設によって校舎の建ち並ぶ区域には余り地形は残存していませんでした・・・
が!
・・・蝮谷体育館~保福寺から借地してる一之谷、東側の熊野神社側の日吉町宮前自治会館側等には多数、大空堀と帯曲輪の地形が現存確認出来ました。先ず城の残存地形を見たいならば保福寺を御参りしてから下の写真の今は入口が封鎖されている中田加賀守の墓所入口側から散策すると良いと思います。
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この位置がの位置に当たります。
大学の敷地内は建造物に入らなければ自由に散策して良いと慶応大学には確認して有りますので、大学生じゃなくても自由に行内を散歩出来ます。
日吉台野球場 久良岐のよし
この上が日吉台野球場でキャンパス側よりも遺構が残りますが、中田加賀守御廟所の階段は封鎖されているので、野球場の下の人工的に切岸にされた谷底の道を左回りに進みます。
CIMG9308
すると・・・
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直ぐに左手に最初の堀切が見えます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所です。でもココは登るの面倒くさそう(笑)なのでスルーします。
CIMG9314
もう少し進むと❝普通部の森❞と名付けられた谷が有ります。
位置的にはの空堀の間の扇形に凹んだ窪地(くぼ)です。
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白いハンドボール部の建物が普通部の森の遊歩道入口の目安に成ります。
CIMG9315
ここから登って行くと上の野球場とアメフト場の台地に出れます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
恐らくここも空堀で東西に丘をブった切った堀切だったはずですが、上のアメフト場の造成の時に重機で空堀の土を幾らか削り出されて、ココの堀切のアメフト場部分を埋め立てたのだと思います。
それ故(ゆえ)に防御力が低くなる傾斜の少ない地形に今は成っているのかも知れません。
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しかし帯曲輪にも見え、現代の掘削なら遊歩道を真っすぐ付ければ良いのですが、階段よりも緩やかな路盤は右に折れて削平された土地と、今の遊歩道を進むと食違い状の大空堀④の真上のアメフトグランドに出る事が出来ます。
谷上城址最初の谷 久良岐のよし
の食違い状の大空堀が弓道場やボクシング部の道場が在る谷です。
普通部の森はアメフト場の左右をブチ抜いた堀切だった事が衛星写真だと良く解りますね。また、堀切右側の普通部の森は城としては不自然になだらかに左手内側に向かい逆扇型に整地されている事も解るので、やはり上のアメフト場の建設時に堀を埋める空堀の土を削り出した跡かも知れません。
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の谷、弓道場の更にもう一つ南側の谷が⑥の蝮谷と呼ばれているようです。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
その蝮谷との谷の間の地形も同じく扇谷上杉家と北条家が改修した小机城に同地形の空堀と空堀を繋ぐ細長い曲輪の防御構造が存在します。
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上は小机城の縄張り図、この小机城②や③の部分と・・・
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
・・・谷上城址である慶応大学日吉キャンパスの弓道場の谷と蝮谷の間の構造に酷似しています。
小生は恐らく谷上城はその部分、現在の慶応大学自動車部の敷地辺りが本丸だったんじゃないかな?と思いますが・・・
自動車部推定矢上城本丸? 久良岐のよし
でも慶応大学付属高校側の城の構造は現在では失われて確認できないので、其方側にも複雑な土塁やなんかが更に広大に広がっていて主郭だったかも知れませんね。
・・・普通に考えて主郭は余り大きくなく、外曲輪が一番大きく内側に來るほど小さく成ります。
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野球場やアメフトグラウンド側は現代の地形ではない、やや斜面がかった有る程度の広すぎないけど建造物を作ったり百人単位の兵士を駐屯されれる削平地が何段か存在します。
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誰もいない野球場からは元住吉や武蔵小杉方面が見えました。あちら側は戦国時代には蒔田吉良家の領地。
小生は現地に行くまで、迅速測図や色別立体図の地形からアメフトのグラウンド辺りが本丸だったかな?と推測していたのですが、慶応義塾大学高校の辺りと慶応大学の立派な陸上グランウンドの間の崖地も立派に裾切りされて崖に成っていたので、意外と宅地化された辺りも防御構造が豊富だったのかも知れません。でも扇谷上杉家の城の構造だと三浦半島の新井城址=油壷マリンパークを参考にするとやはり野球場やアメフト場や自動車部の在る側が重要だったので手薄な西側を厳重に大空堀で幾重にも断ち切り敵の侵入を防ぐ構造体を作っているのだと思います。
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一応、弓道場の横には住民も使う生活道路に降りる林道みたいな道が有りますが、今は学生は余りこの道を使っていない様です。
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弓道場の前に降りて自動車部側の複雑な大空堀に挟まれた重要そうな曲輪跡を見上げる所に何の神様かは判りませんが石祠が有りました。昔は神社でもあったのかも知れませんし、城跡なので諏訪神社や八幡様が祀られているのかも知れませんね。
弓道部の学生達は城跡の神様なのだから、この石祠の神様を大切にしたら武芸上達するんじゃないのかな~?日本文化の一部だから大切にしてあげて欲しい。
さて、ここから自動車部側に行きたい所ですが実際は登れません。てか登ったところで上にはフェンスが有って削平地に出られない(笑)。
そちらの側に❝弥生式住居跡群❞も在る事は解っているんだけど。困っていたらカメラを首にかけた絶対に怪しい小生を優しい慶応大学の女子大生が道案内を買って出てくれた。
ヒルサイド日吉側登城口 久良岐のよし
やはりボクシング部や弓道部の大堀切からは直接自動車部の方には登る道は無いそうで、そこの堀底道から階段を降りて一度、日吉町宮前自治会館側の平地に出てから、ヒルサイド日吉と言うアパートの裏の凄く目立たない階段を再度登らないといけないそうだ。
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こんな場所絶対に一人じゃ分からね~(笑)。
ありがとう!親切な慶應の女学生さん♪
この道も武者走りと思しき構造なんだけど、その話の前に④の谷の事を構造を考えたい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
現地に行く前はの大空堀には自動車部の削平地とアメフト場の削平地を結ぶ❝引き橋❞が平時には掛かっていたんじゃないかと思ったけれど、良く考えると台地上は当時は人が住むには適さない場所だったからコストのかかる木製の橋を作る重要性が有ったかは疑問で、だとすると土橋が存在したのを弓道場を建設する際に切り崩してしまったんでは無いかと思い、帰宅して迅速測図を見直した。
矢上城址弓道部の大堀切④ 久良岐のよし
すると何やら完全に分断はされておらず、土橋の名残らしい距離感の等高線が刻まれていた。
恐らくこの構造からすると、やはり大堀切で断ち切られた自動車曲輪(笑)とアメフト曲輪(笑)には両者を繋ぐ土橋が有った様だ。今は底を断ち切ってしまったので、日吉四丁目側から箕輪町一丁目側に行くのに野球グランド側から丘伝いに行く事が出来ず、一度、日吉五丁目に降りてから階段を上がらなければいけなくなってしまったらしい。
CIMG9334
でもここ、アパート側の階段こそ現代の構造と道の付き方で判るんですが・・・
少し進むと途中から竪堀状の構造に付けられた武者走り城の道を利用した生活道路なのが解かった。
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登りながら途中で複雑な合流地点が有ったので「ん?これU字に掘られた竪堀の堀底道じゃね?」と思って少し道の横の藪を観察して見たら・・・
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ビンゴ!腰曲輪状の削平地が存在。絶対に現代人はこんな狭い湾曲した削平地をわざわざ作らない。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
ここがの場所。
城址を竹林にするのも土留めの為の昔の人の知恵。
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手前側U字に崖側面を抉(えぐ)った竪堀を挟む様に前後に削平地が有る。上の写真、見にくいかも知れないけれど奥にも削平地が有る。
そして、階段横の削平地が城だった当時を彷彿とされる物がたまたま現代にも存在した。
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境界を仕切る木柵が板塀になっていて、戦国時代の城の防御体を下から見上げている様な、竹藪を丸裸にした姿を想像すればリアルな復元城址みたいに成ってる(笑)。
因みに、日吉五丁目から登って来る階段の中腹で面白い物も見れた。
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丁度、新幹線の架橋線路のトンネルの真上!
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なのでコンナ写真も撮れた!
この新幹線の線路の真直ぐ先に見える丘が古代から水が湧き縄文時代から人が住んだ遺跡が発掘され天皇家の崇敬を集めた師岡熊野神社の森だな。つまり、綱島街道を押さえる陸路の要所である事を知れる指標になるのが谷上城址から見た新幹線の線路の先の森だったりする。
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上に出た。何か自動車部の方は入れなかったので取り合えず進んで見る。
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分かれ道にも微妙な勾配が有る。でも緩やか。
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テニスコートの横に大空堀状の地形をなだらかに盛土して作った様な住宅街。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
迅速測図で見るとやはり箕輪町一丁目の大空堀だった。ここ、迅速測図では判り難いが実際は鍵状L型に人工的に抉られてて、やはり自動車部側への侵入経路を狭くする構造に成っている。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の間が自動車部。今見てるのはの谷。
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宅地化されてない部分は角度がキツイまま。
慶應大学寄宿舎 久良岐のよし
そこをもっと南側に戻って進むと慶応大学の寄宿舎のある削平地に出る。
恐らくこの慶応大学寄宿舎の有る場所も曲輪だったと思うが、斜面を大胆に削ってしまってるはずだし、こちら側は防備の堅い断崖の北側と東側と異なって西側の坂から侵入経路に成ってしまう。なので小規模な曲輪がいくるも有った筈で、その曲輪の削平地が住宅地に成って行ったのだと思う。
因みに寄宿舎の庭からも新幹線が見える。
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むしろアングル的に斜めで、ここからの方がカッコよい新幹線の写真が撮れる。
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写真が良くないのは小生の腕がショボいから(笑)。
慶応義塾大学付属高校周辺 久良岐のよし
そこから慶應義塾大学付属高校を経由して大学側に行こうとすると、途中に弥生時代の住居跡が在る。
・・・と言うか、看板が有ると言われたのだが、何処にも見当たらず解らんので地元の御婦人に質問した。
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そしたら、このコンクリで固められてるのが竪穴式住居跡らしい。
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こんなん看板無いと解らん!小生、小さい時から縄文遺跡で遊んで育ったので山の中でも地面の凹みだけで住居跡判るが、こんなコンクリで固められてたら逆に解らんし!
でも面白い物が横に有った。
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たぶん、第二次世界大戦中の海軍の地下基地の遺構。通気口だと思う。コンクリートの劣化具合から判断したのと、こんなん意味不明な構造物他に無いわ(笑)。
ここを通り過ぎる。
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物凄く綺麗な慶應大学日吉グラウンド。・・・県立高校とは違うね。
少し住宅街の道路を通り慶應大学の校内に復帰する途中、可愛い洋館が在った。
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慶應大学のキリスト教会らしい。多分、昭和初期とか大戦後直ぐに作られてると思う。山手地区の洋館街の建物と外観の古さ比較したらそんな感じ。
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慶應大学の陸上競技場が下に有るんだけど、やはり古い地形が残る部分は人工的に裾切りされている。
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ので崖地。
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腰曲輪状の部分も有ったけど詳細は当然不明。
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慶應大学をゆっくり散歩しに来たの初めてだけど、高校も立派!なんかアメリカのゴシック建築の美術館かなんかみたい。
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映画の撮影にも使えそう。
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凄いね。横浜市中区の日本大通りとかだと、こんな感じの古い近代西洋建築沢山有るけど、それが高校なんだもんね(笑)。頭良くないりそう嫌味じゃなく(笑)。
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天文台まで有るし!
まぁ~そんな訳でだいたい、主だった谷地形と曲輪らしい場所を略(ほぼ)一周して来た。
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後は一の谷を降りて保福寺に戻るだけ。
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てか「東急グループよ~、官僚の子弟のいる慶應大学でだけ自然保護アピールですか(笑)?」あなた達は今現在、横浜市最大最後の蛍の群生地の磯子区~栄区~港南区~金沢区の円海山瀬上沢と同所の関東最大の蹈鞴製鉄遺跡の深田遺跡を開発の為に破壊しようとしてますよね~?
何の偽善ですかイヤらしい。

コレな⤴
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東急の金持向け偽善の谷、一の谷を降りる。
ここを大切にする前に、横浜市の自然保護や日本レベルの貴重な蹈鞴史跡の歴史文化的な価値観を考えるなら、早く瀬上沢開発案を中止できる様に横浜市に代替地を要求したり、県内外の蹈鞴製鉄と古代史の専門家を連れて来て第三者による発掘調査しなさいよ。やらせたのヨコハマふるさと歴史財団って、よく貴重な遺跡を破壊容認する所でしょうよ(笑)。開発利権と密接な稲川会系埋地組組長の息子が最大支援者の某市長とズブズブだな~!
赤字事業なんだから、ちゃんと担当者は自分の責任隠さないで総本山に報告しなさいよ、それで経済世民、継往開来を実践して日本を守った東横神社の渋沢栄一公に謝れ!東急建設が円海山でやろうとしてる事は渋沢栄一公が嫌悪してた極左唯物主義者や無道徳な極右政治団体と同じだわ!
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ここを抜ければ保福寺に戻りますよ。
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さて、皆さんにも慶應大学に矢上城=谷上城の遺構が今も地形として残っている事が伝わったでしょうか?

皆さんの御近所にも必ず御城が在ったはずなので、興味が有る人は少し日本城郭大系と言う本を大きい図書館で調べて見たり、ネットで情報を見て見るのもいいかも知れませんよ!
まぁ・・・日本城郭体系はある種の「配慮」からか、実際より城規模を矮小化したり触れていない御城すらありますが。
でも地元に凄い殿様と関係の有る場所が有ったと解かれば、皆さんも郷土愛が深まると思います。

ですから是非、地元の神社仏閣や御城の跡の山や公園を散歩してみては如何でしょうか?

余談だが中田加賀守公の一連の調べ物で取材してた事も有り、保福寺の御住職や保土ヶ谷区の中田家の菩提寺の正觀寺の御住職に期間限定の御朱印とかお茶菓子とか沢山頂きました(笑)。
本来は中田加賀守公の所属した北条家の小机衆と言う軍団の軍団長だった笠原信為公や笠原康勝公の与力武将達所縁の寺院、旧小机領三十三ヶ所霊場の保福寺でも普段は御朱印をやってない御住職様からも御朱印を頂けた。
正觀寺の観音様の御開帳は来年なんだけど御住職様からも色々と親切にして頂いて、何だか中田加賀守公に「良く来たね~」と言われてる様で嬉しかった。
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殿様から御褒美を頂いた様に感じとても嬉しい。
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しかもこの前日は久しぶりに港北区鳥山の三会寺の御住職に会いに行って、真言宗の大僧侶、印融法印様の非公開の肖像画を拝見させて頂けたりした。

小生は殿様をリスペクトしてるから、殿様達が関係した神社仏閣に文献に残らない話も有るかも知れないと人に会いに行って見聞きしたり、御子孫に会ったりするんだけど・・・こういうささやかな御褒美みたいな事が有ると嬉しいね、やっぱり。

では又、次の記事で御会いしましょう~♪




















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前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説①
・・・城址(慶應日吉キャンパス)の地勢解説編。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
前回の記事では・・・
1,北条家臣の中田加賀守が居城としていた矢上城の跡が現在の慶応大学日吉キャンパスや日吉駅一帯の台地である事。
2,その日吉の台地が城として防衛に適したとても険阻(けんそ)な地形である事。
3,矢上川や鶴見川と東京湾を利用した水運と交通の要所として経済活動でも重要な最良の❝地勢❞に当たる場所を押さえている事。
・・・この3点の内容を簡単に解説して見ました。
今回の記事は続きですが、引き続き国土地理院色別立体図に加え、実際の現地の写真を交えて御寺の歴史を紹介して行きたいと思います。

先ずは中田加賀守が城の大空堀部分に開いた保禅寺サンの現在の様子の写真と位置を見てみましょう。
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
保福禅寺サンは直線距離ですと日吉駅から非常に近い位置に存在しますが、旧境内地の丘や谷は大部分が慶応大学日吉キャンパスに成っていて駅から直接来る事は出来ず遠回りする必要が有ります。この慶応大学日吉キャンパス~日吉駅を挟んで反対側の丘の端っこまで城跡と推測出来る地形が今も現存しています。御寺の山号が❝谷上山(こくじょうさん)❞とされている事から、どうやら江戸時代には❝矢上❞と表記される様に成った矢上~日吉一帯の本来の地名は❝谷(たに)❞に❝上(うえ)❞と書いて❝谷上(やがみ)❞と呼ばれていた事が解かり、現在では矢上城と伝わる城名も本来は地形通りに❝谷上城(やがみじょう)❞だったと推測出来ます。
御城には殿様が祖先を弔ったり禅の道場として修行する御寺がよく作られました。保福寺サンも城の大規模な空堀だった谷底に存在しています。敵の侵入口とも成る空堀の先の坂道の手前で敵を迎撃する必要も有り、砦としても機能しながら人を住ませて常時警戒する役割も担う位置に保福寺サンが築かれた事が良く解ります。
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写真は保福寺サンの境内地で、現在は慶応大学に貸し与えてる野球場の城址側や少林寺拳法部の道場の空堀側に続く大空堀南側の岸壁です。
つまり戦国時代~安土桃山時代の廃城まで、この谷間の壁面の端っこから端っこまで塞ぐ形で保福寺の土塀が設置されていて、関東流の築城術である❝谷戸構え(やとがまえ)❞を形成していた事が解かります。ついでに言えば、ここは谷間の平地で入口を塞いでしまえば警備上も安全な上に当時は井戸を掘る技術が未熟で飲み水の確保が困難な台地上より居住し易い低地な上に矢上川を使えば船で鶴見川にでて更に間宮家の領地の鶴見川下流末吉や川崎館辺りで海の船に乗り換えれば主家の北条家の小田原城や、重要な江戸城にも直ぐに急行出来た交通の便の良さも判ります。
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御城の跡の慶応大学の野球場側からは保福寺の墓地が見えます。
余り御城や歴史に興味が無い人は・・・
「御城の中に御寺が在るのって変じゃない?」
・・・と思うかも知れませんが、実は鎌倉時代~安土桃山時代には良くあった事なんですよ!逆に室町時代なんかは御寺の立地が御城に適しているので御寺を移転させて御城を造る事も良くありました。代表的な例は戦国時代最高クラスの謀略家で梟雄(きょゆう=不正義な人)だった松永久秀公の居城の多聞山城が有名です。鎌倉時代から良くある事だったのですが、武家の学問所として臨済宗や精神訓練の場としての曹洞宗の禅宗が道場として機能し、それとは別に各武家に宗旨(しゅうし=祖先からの宗派)も両方とも大切にしていました。ですから面白い事に昔の殿様達の戒名には武士としての禅宗の法名と家系としての菩提寺の宗派の法名の両方が死後に戒名に併用されるケースも多々有りました。
例えば中田加賀守と一緒に黒駒合戦で戦った横浜市南部を治めた間宮家の末裔で、戦国時代から平和に成って色んな現代の文化の基礎が花開いた江戸時代の頃の人を戒名を例に挙げて見ましょう・・・

源朝臣 佐々木氏 間宮 孫太郎 俊信 入道 宗智
これは生前の名前です。この殿様の没後に和尚さんから贈られた戒名は以下の通りです。
正禮院殿 宗智 日惠 居士
〇〇院殿と言うのは家柄や高い役職ついて社会貢献した人物に送られる❝院殿号(いんでんごう)❞と呼ばれる名です。
❝宗智❞は禅宗の法名で一般的に曹洞宗で多く用いられる法名です。法名ですから、生前に精神修養の道場や学問所としての御寺で修行する際に貰う禅宗の弟子としての名前です。間宮家は鎌倉公方の家来を経て戦国時代には小田原北条家に仕えた武家なので、古河(鎌倉)公方家や小田原北条家の宗旨で学問所として機能してた曹洞宗と江戸時代に成っても深い関わりが有りました。
次に❝日惠❞は日蓮宗の法名です。日蓮宗の和尚さんに弟子入りして出家すると法名として❝日〇❞の様に❝日❞の名の付く法名を与えられる事が非常移多く有ります。家の菩提寺が日蓮宗だと没後に戒名として諡(おくり名)として付け加えられる事も多く有ります。この間宮俊信サンは杉田間宮家の一族なのですが杉田間宮家は室町時代に間宮本家から分家して以来ずっと日蓮宗の宗徒でした。
この様に武士の戒名からも現代と違って江戸時代迄は宗派間の争いも少なく平和で仏教同士だけでなく神社と御寺と修験道の道場は御互いに交流が有り、当時の人々も色んな宗派に勉強に行き来していた事実が戒名にも残っていたりします。
中田家も間宮家と同じく北条家臣だったので、ここ横浜市港北区矢上城址の曹洞宗保福寺サンや保土ヶ谷区の正觀寺サン随流院サンの他に日蓮宗の妙福寺サンとも関係が有ったりします。
間宮家の場合は本家の笹下城主間宮家が江戸時代に本牧奉行や摂津奉行等の地域単位を統括する知事を務めた時期も有るので、北条家臣化以前から関係の深かった天台宗系修験道、真言宗系修験道、真言宗、真言律宗の他に、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院とも関わりが有ったりしました。
まぁ、そんな訳で当時の御寺と言うのは御城の防備や殿様の学問所を兼ねる事があり、中田家の殿様の御子息や一族郎党の学問所としても城下の大空堀の谷にも保福禅寺が建立されたんでしょうね。
ここで御城の遺構残存部の話を始めたい所ですが、先ずは御寺を見て行きます。
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先に解説しましたが、この保福寺サン、山号を❝谷上山(こくじょうさん)❞と呼びます。谷上(矢上)城の御寺だから谷上城から山号を頂き谷上山なんですね。
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だから谷上山だけど谷間に在る(笑)。
さて山門に戻ります。
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この山門をくぐると右手に御堂が一つ有ります。
因みに小生の推測ですが、中田家は江戸時代の藤左衛門サン以前は歴代当主が❝加賀守❞を名乗ったはずなので、この御寺の開基は正直な所いつの時代かは判りません。
中田家の話しに関しては、以前書いたもう一つの正觀寺サンの解説記事を御覧頂けると解かるかと思います。

クリックで記事にリンク⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺・・・保土ヶ谷区東川島町

但(ただ)し、新編武蔵風土記稿にはヒントに成りそうな記載が有ります・・・

新編武蔵風土記稿巻之八 矢上村の項
保福寺
村の中ほとにあり谷上山と號す曹洞宗小机村雲松院末寺なり開基は中田加賀守某なり八王子心源院第六世の僧春悦開闢なればもとより心源院の末に属せり然るに春悦後に當寺をもて小机雲松院の住僧楞室へゆつり與へしが今楞室をもて開山とし雲松院の末寺とはなれり楞室は寛永十五年七月二十九日寂せり、客殿七間半に六間半、本尊阿彌陀を安置す

これ、新編武蔵風土記稿は曹洞宗あるあるに嵌って時代をゴッチャにして誤った解説をしてしまってます。文章で赤字の部分寺を開いた人が中田加賀守曹洞宗雲松院末寺と解説していますが、この時点で既に間違っています。曹洞宗寺院として再興開基したのが中田加賀守です。何故そう言い切れるかと言いますと、緑字の部分小机雲松院の末寺として開かれたと書いていますが小机雲松院は歴史500年弱の比較的新しい御寺です。雲松院は中田加賀守の上司だった小机城城代家老で白備え隊副将の笠原家の菩提寺であり、元々は北条家宿老の笠原信為公の更に御父上が無く成った時に菩提を弔う為に開かれた寺院です。安土桃山時代を生きた中田加賀守と時代的に交流が有りそうなのは笠原信為公の跡を継いだ笠原康勝公ですが、笠原康勝公が開いた龍松院と言う同じ港北区内に在る御寺も笠原家の菩提寺の雲松院も更に又隣町の神奈川区神大寺地区に戦国時代初期まで存在した神大寺の末寺として開かれています。しかし青字部分で登場する八王子心源院と言う御寺は平安時代末期の西暦900年代初頭の延喜年間の開基です。その古い御寺の第六世住職が西暦1500年代末~1600年代初頭では歴史的経過年数に整合性が無い訳です。
しかし八王子の深澤山 心源院の歴史では最初は真言律宗の寺院として延喜年間(西暦901~923年)に智定律師が創建した一寺を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたと伝わるそうです。
更に後に扇谷上杉家の家臣武蔵国守護代の遠江守 大石定久公が(再興)開基となり遠州の高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗した歴史が有ります。
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※写真は❝あきる野市❞の秋川。左手には高月城、更に日本100名城の一つ滝山城が在る。
高月城址と圓通寺 久良岐のよし
この大石定久公は後に扇谷上杉家が滅亡する過程で小田原城主の北条家に従属して、北条氏康公の子息の北条氏照公を娘の比佐(ひさ)姫の婿養子に迎えて家督を譲って隠居しています。
つまり中田家が横浜市港北区の保福寺を曹洞宗寺院として再興出来るのは、早くとも大石家が北条家に降伏して家臣化して以後のタイミングしか有り得ないので、永禄二年(1559年)11月に北条氏照公が17歳で多摩郡の大石家に婿養子入りして以降の話しなのが解かる訳です。
その大石家が心源院と同じく支援した御寺が戦国時代初期に大石家の居城だった高月城の真下に存在する天台宗の惠日山 觀音院 圓通寺です。
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惠日山 觀音院 圓通寺
この御寺の写真の背後の秋川に突き出した舌状丘陵が高月城跡です。
この八王子市界隈の大石家の歴史から解りますが、心源院は凄まじく古い御寺なので第六代目の住職の春悦開闢和尚は曹洞宗の寺院として再興されてから第六代目の住職だったと言うのが解かる訳です。1500年代初頭に曹洞宗に成っていたとすれば、当時の寺院は世襲制では無いので安土桃山時代頃に港北区の保福寺が曹洞宗として改宗の上で復興される際に心源院が曹洞宗と成って第六世の春悦開闢和尚が関わったとすれば時代的にも整合性が高くなり、極々自然な時間経過と成る訳です。
ですから、新編武蔵風土記稿の保福寺の解説に関しては時代を整理しないまま文章に書き起こしてしまって間違えているのが解かりますが・・・
結論から言うと、矢上城址の保福寺はどっちにしても凄く由緒正し御寺の末寺として開かれたと言う事が解かる訳です。
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そして安土桃山時代に曹洞宗として保福寺が再興されたのと前後して雲松院が開かれた後に、地域的に八王子の心源院より雲松院の方が保福寺から近い事や、北条家宿老で小机城代の笠原康勝公と北条家直臣で小机衆として勤務した中田加賀守公の関係性からも保福寺は中田家によって雲松院の末寺として改められた可能性が推測出来ます。
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御本堂は比較的新しい再建ですが、今も稲毛六阿弥陀の第一番霊場、都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目としても由緒正しい歴史が有る事を伝えています。
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山門をくぐって直ぐ右手の御堂が
都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目の御地蔵様が鎮座していらっしゃる場所です。
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昨年末の初参拝時にガラス越しですが拝む事が出来ました。
曹洞宗の御寺は余り御朱印目的の巡礼を感心されない和尚様が現代では多くいらっしゃいますが、この保福禅寺は昔からの真言律宗時代からの歴史が有るので御朱印を頂戴に来る参拝客も事前に電話で問い合わせして御住職様と予定を調整すれば快(こころよ)く受け入れて下さいます。
墓地側に廻ると、人工的な手の入っている長い谷地形を確認できます。
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この先は明らかに日吉キャンパス側と慶応大学の日吉キャンパス野球場の台地の通路を狭くする人工的に谷を拡張した上で裾切りして崖地=切岸にした地形が続いて来ます。
もうここら辺から城の解説に成ってしまうので、御城としての地形の観察は次回の記事で書きたいと思います。
最後に、保福寺の南東側の野球場には中田家の大切な場所が有ります・・・
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中田家の供養塔で、元々中田加賀守の墓所が在ったとされる当たりなのです。
この場所に上がる階段は保福寺の山門から見える場所に在ります。
旧境内地に当たりますが現在は慶応大学に安全上の理由で立ち入り禁止にされています。
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実はこの上にはアーチェリー部の練習場が有るので下手くそな学生の流れ矢が頭に突き刺さってしまう可能性が有る訳です(笑)。しかし保福寺から慶応大学が借りている土地なので、慶応大学の事務所に御願いをするか、保福寺の御住職様から話を通して貰えば大学側の都合の良い日に見学をさせて貰う事が出来ます。

さて、一つの御寺にも色んな時代に色んな宗派だった歴史が有るので、明治時代に成る前の江戸時代までの人達は色んな神道も仏教各宗派も修験道も御互いを尊重して共存していた訳ですが、中田家の菩提寺もそんな日本の宗教の変遷を辿る事が出来る由緒ある御寺なのが何となく皆さんに伝わったでしょうか?
次の記事では御城の遺構と思われる地形の解説をしていきたいと思います。
続きの記事⤵

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以前の中田加賀守と横浜市保土ヶ谷区正観寺事を紹介した記事を書いた事が有ります。

今回は、その戦国時代の北条家臣中田家の本拠地だった❝慶応大学日吉キャンパス❞を御城として数回に分けて解説したいと思います。
横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
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小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
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その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、続きの記事で紹介したいと思います。
次に続く⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。




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新編武蔵風土記稿巻之八十二 都筑郡之二 川島村
そこに横浜の殿様の一人である中田加賀守の名前と菩提寺の正觀寺と言う御寺の名前が登場します。
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補陀山 正觀寺
(小机領三十三観音霊場の第五番)
御寺の正式名称は補陀山 正觀寺と言います。現代では略して正観寺と呼ばれ字体も正觀寺⇒正観寺の現代日本体字が普段使われています。
宗派は曹洞宗の寺院で、曹洞宗は中田加賀守が仕えた主家の北条家(伊勢氏)の宗旨ですので、この御寺が豊臣征伐による北条家改易(かいえき=廃業)の前後直ぐに建てられている事が判ります。
正確に言うと中田家の菩提寺で、中田加賀守公の独立した墓碑は港北区の矢上城址(慶應大学日吉キャンパス)に在ります。DSC_0287
慶応大学に境内地を貸与しているのが同じく中田家が戦国時代に建てた保福禅寺と言う同じ曹洞宗の御寺です。そして正觀寺サンと同じ旧川島村の中の瑞流院と言う御寺も中田家の菩提寺でそれぞれで中田加賀守の菩提を弔ってらっしゃる訳ですが、特に御本家子孫と現在も直接的な関わりが深いのが正觀寺サンなんです。
色々と中田加賀守や旧:都筑郡川島村について解説したい所ですが、先ずは御寺の説明がされている文書と今の御寺の様子を写真から一緒に見て行きましょう~♪
正觀寺 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に登場する正觀寺の解説はコンナ感じです。
中田藤左衛門サンが開いた事が解かります。
現在の御寺の様子ですが・・・
住宅街の中、旧八王子街道の直ぐ近くに存在します。
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門の横には御寺の掲示板。曹洞宗なので曹洞宗のイベント広告が掲示されてますね。
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門の横に御寺の簡単な解説が有ります。
大体の説明はここに書いて有る通りですが、現在も行われる小机三十三観音霊場巡りの御朱印の由来は、元々戦国時代の北条家の家老で小机城代、大曾根城主だった笠原信為公の奥さんと御姫様が立て続けに亡くなってしまった供養の為に始まった文化だそうです。これは御寺を訪問するまで小生も知りませんでした。
笠原信為公は鎌倉市街地と鶴岡八幡宮が房総半島の里見家や正木家と海賊達の攻撃と略奪放火で炎上、灰燼に帰し(かいじんきす=燃え尽くされた)た際に、鶴岡八幡宮再建の総奉行を務め北条家だけでなく敵対する関東の諸大名にも指示を出して再建事業と鎌倉の復興を成功させた偉大な統率力と、北条家の外交官を務める高い教養と政治力を持つ殿様でした。中田家は近くの港北区の小机城に勤務していましたが、そこを拠点にした“白備え隊”と言う軍旗を白色で統一した別名:小机衆と呼ばれた軍団を実質的に統率したのが笠原信為公と、その御子息の笠原康勝公でした。
つまり現代も正觀寺サンには北条家の名将だった中田加賀守公の時代の文化が残ってる訳ですね~。
小机城や笠原家に関しては以前に解説記事を書いたので、御城に興味が有る方は是非読んで見て下さい♪
コレをクリックで記事にリンク!
❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
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門を入ると正面に観音堂と墓地の在る段丘が在ります。段丘と言うか人工的に掘削された切岸地形ですね。
正観寺地形 久良岐のよし
地形的には急峻な丘の裾を切り開いた立地に在り、目の前を八王子街道旧道が通るので戦国時代には砦を兼ねた烽火(のろし)台が山上に有った事も予想出来ます。
御近所には鎌倉時代に木曾義仲の副将の今井兼平が源頼朝公に帰属して居城したと伝わる今井城址もあり、今井城は戦国時代も活用されていましたが、正觀寺の丘と同じ様な街道を抑える急峻な丘の立地です。
今井城址も以前、簡単な紹介記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
コレをクリックで記事にリンク!
●今井城址…横浜市保土ヶ谷区今井…破壊される城址。
昨年末の参拝時点は観音堂と墓地に登る場所が工事中で足場が組まれていました。
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手水社も有りますが、この御寺は戦国時代の殿様の文化を大切にしていて、今でも神仏習合時代のまま神様も大切に祀っているので境内に神社が有ります。
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階段を上ると観音堂を立て直してる最中でした。以前の御堂は老朽化したんでしょうね。ちゃんと立て直せるだけの檀家サン達が中田加賀守と藤左衛門サンと笠原信為公由来の歴史を守ってくれていて嬉しく感じました。
ここから振り返ると昔の川島村に当たる地域を一望出来ます。
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殿様が村を見守って下さるよう、中田藤左衛門サンはここに御寺を築いたんですね~。
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さて、左手が現代の本堂で立派な鉄筋コンクリート造りです。東向き。
正觀寺 久良岐のよし
昔の記録では東向きの客殿に御本尊の観音様を祀っていると書いて有るので、客殿が現代では本殿に成り、元来は本堂として機能していた客殿の右側に在る少し小さめの観音堂は観音堂として存続し現在になり新築され直してる最中の様ですね。
昔は神明社=天照大神を祀る祠(ほこら)も有った様ですが見当たりませんでした。
写真撮影し忘れたかな?
でも豊川稲荷サンと、弁財天様を祀る水源地が鎌倉武士以来の文化の形式でちゃんと祀られてました。
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御稲荷様は多くの御寺でも大切にされていますね~♪
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小生も行く先々で旅の安全を御加護頂いており感謝し崇敬しています。
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そして開運弁才天様。日本では水源地は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が最初に祀られ安全な飲み水に適した聖地として古代の信仰を引き継ぎ、そこにヒンドゥー教由来の同じ水神で財神で軍神でもあり文化と男性にモテモテの水の女神様でもある弁天様が源頼朝公等の鎌倉武士によって同一視されて祀られる様に成りました。
そして明治時代にプロテスタント国家のイギリスの支援下で近代化が推し進められ宗教改革も行われ、日本古来の自然崇拝と偶像崇拝仏教の弾圧が始まり国家神道が成立する過程で、ヒンドゥー教由来の仏教の神様として弁天様の名前のまま祀る事が良くないと考える人間が英国のプロテスタントに影響を受けたキリスト教に改宗した政治家やプロテスタント形式の国家神道を支持する神職によって日本の水神である“市杵島姫命(いちきしまひめ)”に挿(す)げ替えられてしまったのですが、仮に彼等が正しい歴史知識が有ったのなら、市杵島姫命ではなくて宇迦之御魂神に名前を戻せば良かっただけの話しなんですがね~。
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この御寺はちゃんと江ノ島の弁天信仰や鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁財天)と同じく湧水を大切にしている所からスタートしているので今も湧き水を大切にしています。
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掘りぬいた洞穴から水を獲得するのは鎌倉武士の知恵なので洞穴も御住職様が武士文化を理解されていて武士の信仰と同じ形式で横穴から水源を掘り当てたので弁天様を近現代に成って勧請したのかも知れませんね。
弁天様に関してまぁ詳しい事は風土記に書かれていないので、小生の予想としては恐らく新しい神社でしょう。
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う~ん・・・
それとも、もしかして正觀寺は再興開基で真言宗の前身寺院が存在したのかな?
観音様を祀る場所は真言宗に多いですからね。
この訪問日は中田家の殿様の事ばかり御住職に質問したので、御寺の起源の詳しい事は質問してませんでした。先に中田家が開いたという文献を読んで来てたので先入観が有ったのと、殿様の事で頭が一杯だったんですね(笑)。
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境内には色んな石仏様達がいらっしゃいました。
御寺の様子の解説はここまで!

では此処(ここ)からは、この御寺を開いた中田藤左衛門サンを皮切りに、いよいよ中田家の解説に話を進めます。
御住職の話しによると御寺を開いた中田藤左衛門サンは中田加賀守公の御子息、つまり北条家滅亡後、二代目の中田家当主に当たる方でして、以後、中田家の本家歴代当主は屋号として藤左衛門の名跡を継承したそうです。そんな訳で当初は正觀寺サンも開いたのが中田加賀守の御子息の二代目か嫡孫(ちゃくそん=跡継ぎの孫)の三代目か混乱したそうなのですが、近年、御本家で歴代御当主の戒名を確認した際に正觀寺を開基(かいき:御寺や神社を建てる事)したのが二代目で初代藤左衛門サンだった事が確認できたそうです。
中田藤左衛門サンは‟藤”左衛門と藤の字を含みますので中田家は藤原一族だと言う事も判ります。
ですから保土ヶ谷区~旭区一帯に多く現在も住む中田一族の皆さんは藤原家の末裔と言う事になるようです。因みに家紋は少し変わった沢潟(おもだか)紋です。
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抱き沢潟紋抱き沢潟紋と言います。
普通の沢潟紋はこんな感じ立ち沢瀉
少し違うのは何か意味が有ると思うんですが、この区別の由来は詳しくは知りません。
因(ちな)みに鎌倉市大町と横浜市港南区野庭地域には戦国時代に中田家から御姫様が嫁いだ遠い遠い親戚が今も住んでいます。
蔦の葉紋臼居家です。
臼居家は元は房総半島の小大名で、平安時代末期以来の武家の名門大名の千葉家の分家に当たります。
戦国時代に臼居杢右衛門(もくうえもん)サンが小学校~中学校位の年齢の時に、外祖父の原サンが孫の臼居家を乗っ取ってしまい、更にその城を房総半島南部の里見家に奪われてしまい支配権も治める土地も無くしてしまい最初鎌倉市大町に移住して北条家に臣従し、安土桃山時代に成ると北条家も滅亡してしまいましたので自分の領地の野庭の支配権を維持する為(ため)に、関東全域の女性を助ける寺院として有名だった北鎌倉駅近くの梅の綺麗な境内を持つ“縁切寺”の松岡御所こと東慶寺の寺領として野庭の統治をする政治工作をして徳川家に承認され帰農し、幕末を迎え、現代も大町と野庭に御子孫が住んでらっしゃいます。
この臼居杢右衛門サンの奥さんが中田加賀守の御姫様だったんですね。
つまり今の臼居家の御子孫達は中田サン一族と御姫様の血縁で繋がっている訳です。奇しくも中田家は戦国時代の北条家を代表する名将の北条綱成公とその副将の間宮康俊公と同じ官職の左衛門尉(さえもんのじょう)に由来する屋号を継承しています。
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三増合戦古戦場石碑
臼居杢右衛門サンは武田家と北条家の大軍団が神奈川県愛甲郡愛川町で激突した“三増峠合戦”で臼井衆の軍代として参戦し兵300の侍大将として北条綱成公の軍勢に与力しています。一緒に戦った上官の北条綱成(つなしげ)公が左衛門大夫(さえもんたいふ)だったので、この綱成公から左衛門尉の官位は、臼居杢右衛門サンと中田加賀守の姫様が結婚した時に北条綱成公から中田家の御曹司だった藤左衛門サンに官職が与えられたのかも知れませんね~。
もしかしたら・・・
中田加賀守の御姫様と臼居杢右衛門サンの仲人(なこうど)となり婚姻の話しを勧めた恋のキューピットは状況的に北条綱成公だったかも知れませんね~♪
・・・確証何にも無いですけど(笑)。
旧鎌倉郡の大町も野庭も守るのは北条綱成公の居城玉縄城と、北条綱成公の副将の間宮康俊公の笹下城でしたからね~。立地的にも笹下城と中田家の川島村は近いし、臼居家のいた野庭の野庭城と北条綱成公の玉縄城と間宮家の笹下城と中田家の川島村は全て御近所ですからね~。
臼居家の解説については以前書いた記事が有るので、御興味有る人はソチラも読んで下さい。
コレをクリックしたら記事読めます
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。
美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。


さて、御寺の事が書かれている新編武蔵風土記稿では都筑郡川島村の項に登場する訳ですが、そもそも川島村が何処(どこ)か現代人は横浜育ちで小学校で横浜市歌を叩き込まれて横浜市かを暗唱出来るハマっ子ですら旧:川島村の範囲がどこか知らない人も多いので、川島村の範囲を一緒に見て見ましょう・・・
保土ヶ谷区川島町~東川島町~西谷町~旭区川島町~西川島町~三反田町~鶴ヶ峰~左近山~桐が作
kawashimamura
・・・ザックリこの地図一帯を指します。結構広い範囲ですよね。
御寺は現代では保土ヶ谷区に所属します。
しかし保土ヶ谷区で川島の地名の付く範囲は2箇所で、川島町と東川島町だけです。
川島村
白い範囲が川島町と東川島町。残りの旧川島村は全て旭区所属しています。
川島村は北条家の時代には川島村を中田加賀守と山川淸九郎の二人が所領として分けて持っていたと風土記に関わていますが、詳しい事は北条家が滅亡したせいで江戸時代には既に文献も残っていなくて山川淸九郎がどんな武将だったか分(わか)らなかった様です。
同じ様に中田加賀守は北条家滅亡直前には3万石の小大名に匹敵する所領を持っていた事も書かれていますが、北条家臣団の所領は1560年前後の所領役帳の更に写ししか現存しないので、安土桃山時代の頃の滅亡直前の各家臣の所得は現代では調べる事が出来ず、小生や盛本昌弘先生や正觀寺の御住職様の緒様に状況証拠を書き集めて推測するしか知る手立てが有りません。
まぁ~泉区に中田の地名が残るので中田家の発祥地は泉区で、戦国時代末期には現在の横浜市北部~川崎市西南部を最終的には治めていた代官と言うか、与力衆を付けられた部将に成っていたらしい事が何となぁ~く判ります。
所領役帳を見ると1560年頃は小机衆に所属している事が判りますが、他にも「中田家が蒔田吉良家与力だった」と言う事も中田家と同じ旧:北条家臣の間宮家の子孫で江戸時代の歴史学者の間宮士信サンが書いているので、紆余曲折有って軍団の中の部将級にまで最終的に出世していた事も推測出来る訳です。
軍団も小机衆から蒔田吉良家の世田谷衆と言うか江戸衆と言うか?蒔田吉良家与力に編成され、その段階で蒔田吉良家の現在の横浜市域北部の所領を管理する代官で部将に抜擢されていたらしい事も何となく解ります。
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蒔田吉良家は東京都世田谷区豪徳寺の世田谷城と、横浜市南区蒔田の蒔田城の2つの城を両方とも根拠地にしていました。
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前回書いた【休日雑記】でも書きましたが蒔田吉良家の蒔田城から程近い磯子区岡村町の岡村天満宮の旧参道大鳥居を昭和13年に単独で寄贈した中田サンと言う昭和初期の資産家がいるので、寄り親の蒔田吉良家の居城近くに所領を貰って土着した一族がいたのかも知れません。
因(ちな)みに以前、別の記事でも紹介しましたが中田加賀守の1560年頃の所領は以下の通りです・・・
拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
そして江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
どうやら最初は太田康資(やすすけ)公の配下で太田家から所領を貰っていたけど所領役帳の検地が終わる前に太田家が謀反して北条家を裏切って国府台合戦を起こした事で太田軍団が解体されて、それぞれ武士が北条家の直接雇用化して中田家の配下武将も与力から解体されて所領が少なかった時代の記録が上記の北条家所領役帳時点での所領にだったみたいです。
川崎市中原区に所領が有りますが、同じ地域は元々吉良家の殿様の領地だったので、やはり吉良家の与力に成っていた時期が有ると考えるのは自然ですね。すぐ近くに井田城も有り、中田加賀守の持ち城だった伝承も残ってますから。

そして先日書いた休日雑記、“ゆずの町”岡村町を散歩した時の記事でも触れましたが・・・
コレ⤵
●【休日雑記】2019年03月02日の訪問先・・・❝ゆず❞の磯子区岡村町(モンマルト・岡村天満宮・岡村梅林・久良岐能舞台)~小田原市曽我梅林。
どうやら南区~磯子区辺りにも御一族が住んでいて有る程度大きな財力を昭和初期まで持っていたみたいです。岡村町の岡村天満宮は料理業組合が支援した神社だったので、小生の予想では磯子~根岸が富豪の別荘地で花街も有った頃に中田家が料亭とかを運営したのかも知れません。
ブロガーで歴史仲間の“知の冒険サン”の話しでは昔は岡村の隣町の弘明寺にも花街が有ったそうなので、料理業組合はそちらの可能性もあるそうです。
知の冒険さんは小生とは異なり主に色町、大人の世界の花柳界の歴史を調べてる歴史オタク(笑)でして、全く女遊びに興味の無い小生ですが歴史として実際に現地に行き取材をするスタンスが小生と同じで記事を読んでいて楽しいんです。
智の冒険サンのブログのホームページ⇒https://chinobouken.com/
まぁ、だから弘明寺に花街が有った事とか御存知な訳です。

中田サンに関しては岡村天満宮の宮司様に御教授頂けました。
岡村天満宮の宮司様の話では、岡村天満宮の大鳥居を寄贈した中田家は杉田の中原に戦前までは居た家だそうで、戦国時代末期に岡村町辺りに所領を得ていて土着した分家子孫がいて第二次世界大戦以前まで地主として高い経済力を維持していたのかも知れませんね。
そして杉田は戦国時代~江戸時代中期の間宮家の領地でした。この間宮家が崇敬した修験道の神社が杉田の熊野神社(旧:大霊山泉蔵院桐谷寺)で、この宮司家の杉原家が平安時代末期に泉蔵院=山崎泉蔵坊を鎌倉市山崎で運営していて源頼朝公から修験道の大道場として崇敬を得ており、頼朝公の請願で泉蔵坊が中原の熊野神社を開き現在に至ります。
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泉蔵院についても解説記事を書いて有るので御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵
●横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
戦国時代の北条家は各家の舎弟を別の家臣の与力として付ける事で相互に謀反を抑止させたり、各家が得意とする分野の技術や知識を共有するパッケージみたいな感じで家臣団編成をどうもしていた事が、間宮家や宅間上杉家や蒔田吉良家の与力衆の苗字をみていると判ります。
つまり中原に近代まで網元として水軍の名残りを残しながら存続し今は市会議員をやっておられる関家や岡村天満宮の宮司様の御話しで中田家も中原に分家が移住し間宮家与力として水軍に編成され、房総半島の里見家の海賊の乱入に備える武士団を組織し、北条家の解体後も杉田に分家が残っていた事が解かる訳ですね。
そして岡村天満宮の杉原宮司様の御本家は泉蔵院熊野神社の社家でして、御爺様の代に熊野神社の方の神職を継ぐ方が居なく成ってしまったので岡村天満宮と宮司職を兼任したそうです。
つまり、その御縁で杉田中原の中田家が地元の泉蔵院と合わせて商業の神様でもある岡村天満宮の境内社稲荷社を崇敬していたので、隣町の岡村天満宮に石の大鳥居を寄贈したそうです。

恐らく中田家御一族は横浜市各所に御分家がもっと沢山存続している事と思いますが、今解るのはここまでです。

でも補陀山 正觀寺の歴史を辿るだけで横浜市の色んな歴史も判って周辺の町との繋がりも出て来て歴史好きには楽しくて堪らないでしょう?
きっと皆さんの御近所にも同じ様に今は住宅街の御寺だけど、実は凄い歴史偉人と関わりの有る場所が沢山あるはずです。

ですから皆さん・・・
御近所の御寺や神社や城跡の山や公園を散歩して見ませんか?凄い殿様との意外な結び付きを知ると地元に対する愛着も深まるはずです。
・・・中田氏の居城の考察記事⤵コレに続く~♪
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さて、皆さんは川崎市に井田城と言う名の御城が存在した事を御存知でしょうか?
実は戦国時代の川崎市を含む多摩川と鶴見川の流域一帯には沢山の御城が存在していました。
井田城と言うのは、その中の鶴見川の支流である矢上川上流を抑える御城で、水運を利用する物流の要所だった事が窺(うかが)い知れます。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
今では養護学校や宅地化によって城址としての遺構は乏しくなってしまいましたが、要害性在る高い断崖の上の台地が城域に成っています。
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落ちたら死にますね(笑)。
さて、この御城を目指すには“セブンイレブン川崎市井田2丁目店”さん横の神社を目指すと解り易いんでです。

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まぁ、セブンイレブンを目指せば良いんですが、何故(なぜ)この神社を目標に指定したかと言いますと、その先に在る井田城の“大堀切らしき地形”に行く事が出来るからです。
井田城址地形 久良岐のよし
このGoogle earthの立体地形画像だと大堀切の地形は良く解りますが更に地形が解り易い国土地理院の色別標高図を重ねて見ましょう!
井田城址地形図推定縄張り 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して見て下さい。
この画像で示した人口地形へは神社からだと“井田さくらが丘公園”を目標に進むと、丁度、その人工の大堀切跡と思しき住宅街に辿り着く事が出来ますよ~。
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まぁ今では宅地化されてしまい標高差にしか面影は有りませんね。
こう言った地形を読むには等高線の有る地図を見たり、事前に国土地理院の標高図を見て置くと非常に参考に成ります。
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まぁ、そこら辺は自分で歩いて見て下さい(笑)。
一応、セブンイレブンからの順路のGoogle mapのナビ画像を添付して置きますので参考にして見て下さい。
井田城推定大堀切地形への順路 久良岐のよし
※水色の点線が当該の地形の北端を通るルート。
小生もこの周りを大分グルグルと周りました。2014年当時妹夫婦が小田中に住んでいたので、以前から井田城に興味が有り訪れて見たかったので行ったら宅地化されてるわ、台地上の城址は昭和の農地改良で削平されて大半が無いわでガッカリしましたが、それでも神庭緑地と言う地域に行くと幾(いく)らか城址の名残が有りました。
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同地は古墳などもある古代の遺跡でもあります。
実は、この一帯は古代の早い内から開けており日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と御妃様の弟橘姫(オトタチバナヒメ)様の神話の土地でもありますが、そこら辺は以前に記事に書いているので御興味有る方は以下のリンクから過去の解説記事を御覧下さい。
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川崎の橘樹神社の記事リンクimage
横浜の宝秀寺の記事リンク
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三浦半島の走水神社の記事リンク
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相模原の石楯尾神社の記事リンク

さて、井田城址の神庭緑地に関して話を戻すと・・・
小生達歴史オタクや城址オタクから見ると土塁にしか見えない場所には教育委員会の説明では古墳とは書いて有りました。
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城郭ファンには土塁と見張り台の跡にしか見えない。まぁ円墳を繋げた可能性は高いし実はこの古墳群は先程見て頂いた断崖の縁(へり)に沿って築かれていて、教育委員会が気付いているとは思えないが、この位置には大変重要な意味が有る。
橘樹神社と蟹ヶ谷古墳群の位置関係 久良岐のよし
実は断崖の縁に古墳を築く事で、日本武尊の御妃、弟橘姫様の古墳を背後に抱える橘樹神社を遥拝出来る。
井田城址蟹ヶ谷古墳群と弟橘姫御陵の位置関係 久良岐のよし
そして橘樹神社は三浦半島の走水沖で海を鎮める神事の為(ため)に入水自殺し人柱に成った弟橘姫様の髪飾りの一つが流れ着いた場所と伝承しており、この矢上川流域は弥生時代後期まで大きく東京湾が入り込んでいて現在の川崎区や中原区の平地部分は海だった事が推測されます。
つまり、この神庭緑地に古墳を築いたのは海を治めた古代の弟橘姫と同族の豪族達で、その古墳群が室町時代の井田城築城時に土塁で連結されたのでしょう。
橘樹神社は橘樹郡の郡衙(ぐんが=郡庁舎)の跡と推測されており、小生の推測と神話では井田城址と橘樹神社の間の湾曲した丘陵地帯は文字通り“曲がった海”=“湾”だった筈です。
実は小生と同じ事を考えている人達が居て、その人達は“考古学者ではない”のだ(笑)。地質学者の人達なんだな。
そこ等の海底の陸地化の速度は以前の休日雑記の“諸磯隆起海岸”の訪問時の解説で触れているので、興味の有る人は小生の取材の様子を過去記事で見て下さい。
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●諸磯隆起海岸と海底の露出速度の解説記事リンク→
小生や地質学者は神話と地質を合わせた意見から土地の隆起速度や土砂の堆積からの陸地化の速さに対して弥生時代の海の範囲を考古学者よりも内陸に予想している訳ですが・・・
陸の隆起の速さと海が川の土砂か古代人の埋め立て工事で海の陸地化が早かった事を証明する様な記事が室町時代の文書から垣間見えます。
江戸時代には陸地に成っていた川崎市の砂子、つまり堀之内地区より南側は海だった事が太田道灌公の書いた日記に記されているんですよ。そして標高にも曾(かつ)ての海は見てとれたりします。
下の色別標高図をGoogle earthに張り付けた画像をクリックし拡大して御覧頂ければ一目瞭然。
川崎市川崎区周辺の海抜0m地帯 久良岐のよし
色別標高図で青で表示されている場所は海抜0m地帯です。
海抜0mと言う事は標高が海面より下に有ると言う事に成るので津波が来たり多摩川や鶴見川が増水して堤防が決壊したら水没し壊滅し死傷者が多数発生する可能性の高い地域です。
なんでコンナ地形が出来てしまったかと言うと大河川は昔は自然に氾濫して長い時間をかけて継続して土砂が堆積して行きどんどん陸地が広がって行くのが普通なのですが、江戸時代に成ると治安も良くなり幕府は治水等に力を注ぎ都市や耕地を拡充する余裕が出て来た訳です。そして大河川に堤防を築くと川は氾濫出来ずに横に土砂を広げる事が出来ずにドンドン川底に堆積してしまい川が浅く更に広く成ってしまいます。すると人間は更に高い堤防を築いて更に川が地面よりも高い位置を流れる様に成ってしまいますが、この様な川を“天井川”と呼ぶ事は中学校の授業で皆さんも習った筈(はず)です。
そうすると堤防の内側の人工的な陸地や土砂の堆積で陸地化した場所の内で標高の低い所は、自然に標高が高くなる機会を失ってしまい、この様な危険な0海抜地帯が出来てしまう訳です。
東京都江東区の深川や越中島や門前仲町界隈の隅田川沿いなんかは0海抜地帯だらけなので、ありとあらゆる水路に防潮堤や水門が築かれていたりします。
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こんな感じの水門ですね。
多摩川や鶴見川下流の川崎界隈は、昭和の埋め立て工事以前から川崎市一帯は鶴見川と多摩川の土砂の堆積や江戸時代の埋立地の拡大で恐ろしい速さで海岸線が後退して行った様です。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
※画像は小田原市の神奈川県立生命の星・地球博物館様が作成された縄文時代の海岸線の図をGoogle earthに重ね古代から存在する神社を表示した物です。
この画像で神奈川県域で内陸で白に塗られた地域が縄文時代の海岸線です。これを見ると橘樹神社や井田城址辺りの丘を除いて川崎市の中原区やや幸区や川崎区は古代には見事に海底だった事が判ります。
そして、古代に海底だった大河川の氾濫原に出来た平地は守備に不向きで築城には不適当な地形なので、古代の海岸線のリアス式海岸だった丘陵沿いに当たる井田の断崖の地に城が築かれた訳です。
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崖の上から住宅地の有る平地までは余裕で20m以上有るだろうか?傾斜角度も70°近いので甲冑を来た武者は登れなくて当然、健脚の農民や漁師ですら登る事は困難だろう。
そして目の前には矢上川が流れ、険阻な真に城向き地形をしている。
さて、この井田城址の神庭緑地内には城の遺構と思われる地形が土塁の他にも残っていました。
竹林は大堀切でそこから竪堀状に下に下っている地形に成っています。

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ここの説明から発掘調査には城郭専門家が加わっていなかったと推測出来るのですが、教育委員会の説明には空堀等の説明も無いんです。
まぁ、やっぱり発掘調査に神奈川県が例によって城郭の専門家を入れなかったんでしょう、宅地開発利権の為に。

さて・・・
以下は文字だらけに成りますが戦国時代の文書と江戸時代の文書の記録から、この御城に住んでいたのが一体誰だったかを予想してみましょう!同地は小田原所領役帳と言う文書に地名と武士の姓が登場します。
その小田原所領役帳には・・・
「拾(10)貫文 井田 沼上」
・・・と記録されている。
つまり姓が沼上で名は不記載の人物が治めたらしいですね。しかし新編武蔵風土記稿を読むと「中田加賀守の住した場所だった」可能性も指摘されています。しかし「世田谷の吉良家の与力だった」と否定的な見解も添え書きしてあります。
戦国時代に現在の川崎市域を含めた南関東一帯を統治した大大名の北条家ですが、この新編武蔵風土記稿を書いたのは北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信です。つまり、新編武蔵風土記稿の内容は間宮家の認識と成ります。

この中田加賀守の所領も又、小田原所領役帳の小机衆の一覧に記載が有ります。
その所領は・・・
「拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
・・・と記載されています。つまり小机城を拠点とした小机衆の軍事管制域内だった様です。この地域を守備していたのが北条幻庵公や北条氏尭公と小机衆の拠点の小机城城代家老だった笠原信為公である事が判ります。
しかし、江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
つまり、中田さんは初期段階で太田康資公の直臣だった事が解り、江戸衆であった事も同時に解ります。
これ等の記載が登場する小田原所領役帳と言う史料は永禄二年(1559年)以後に編纂された物で、その資料の前後の期間の知行地に関しては不明。少なくとも1559年以後の数年間は中田加賀守は小机衆で矢上城に本拠地を置き井田には住んでいなかった事が判ります。しかし小田中は上小田中が蒔田吉良家の所領で下小田中が中田加賀守の所領なので御当地は吉良家の所領と接している事実も有ります。井田城と同じ川崎市中原区に存在する福聚山全龍寺と言う御寺は元々は蒔田吉良家の家臣が開いた御寺として有名です。
そうなると時代背景的に1559年頃の当主の吉良頼康公より以前の吉良成高公の頃の吉良家の版図と、吉良家が吉良氏朝公の代に世田谷城に拠点を移して世田谷衆が編成されているらしい史実を考えると、小田原所領役帳より以前か以後に中田加賀守が当地を治めた可能性は有る訳です。
若しくは沼上が中田加賀守の与力に編入され更に中田加賀守自身も吉良氏朝公の与力に再編されている可能性も有ります。
実は、この周辺は元々の戦国時代初期には太田家の統治下だった可能性が高く有ります。中原街道一帯~小机城址へ至る神奈川県東部沿岸部を太田家は自由に行き来していますからね。そして蒔田吉良家の所領だった横浜市南区蒔田と当時は蒔田湾(今の横浜市の吉田新田埋立地)を挟んで対岸の南区太田には太田道灌公の屋敷も存在しました。つまり江戸時代まで橘樹郡、都築郡、久良岐郡と呼ばれた川崎市~横浜市鶴見区~西区~中区~南区には太田家と蒔田吉良家の所領が入り乱れて存在していた様です。
そして蒔田吉良家の吉良成高公と太田道灌公が親友だった事も万里集九と言う禅僧の文化人が書いた“梅花無尽蔵”と言う文書から解っています。
だから太田道灌公の子孫の太田新六郎康資公の与力だった中田加賀守家は、安土桃山時代には勢力縮小していますが代々太田家の有力武将で奉行や代官の様な存在だった可能性が有ります。そして井田城の沼上家は旧中田家臣で太田康資公の謀反後に旧太田家臣団が小田原北条家の直臣や各軍団に再編されて行く中で中田家臣から北条直臣に分離され北条家親族に属す御家中衆に成り小机衆の与力に編入されたた可能性が有ります。

新編武蔵風土記稿には以下の記載が有ります・・・
「此所をいりの上と云。五町四方ばかりの間にかたち残れり。
 (1)されど何人の居城なりしことをしらず。
 (2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
 (3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし」
・・・とどのつまり、江戸時代に中田加賀守と同じ旧北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信が江戸幕府官営の昌平坂学問所頭取として編纂した新編武蔵風土記稿編纂時にも「中田加賀守が住んでいたらしい」と口伝は周辺の村民に伝わっていたけれど遺物が無く何の確証も無かったらしい事が読み取れます。
少なくとも北条家の最期には中田加賀守は本領の矢上(慶應大学日吉キャンパスを含む周辺一帯)に城を築いていた事が判っています。北条家臣団の研究で有名な盛本昌広先生の書いた論文にも中田家の事が詳細に紹介されていますで、興味が有る人は慶応大学に問い合わせて見て下さい。
さて、恐らく井田を領した沼上と言う姓の武将を含めて周辺一帯の武将の寄親(よりおや=上司)として中田隊みたいな部隊が編成されていたので、江戸時代の伝承が残ったのだろうと言うのが小生の推測です。
そもそも所領役帳で中田加賀守は”御家中衆の中の小机衆”つまり北条氏康公直臣として小机衆与力に編入されているので、間宮士信サンの間宮家に伝わっている認識は所領役帳以前か以後の話である証明にも成ります。でも、江戸衆の太田康資公の与力としても記載が有ります。多分、永禄五年(1562年)に太田康資公は北条家に対して謀反を起こしているので、その際に本来は太田家与力だった中田加賀守家も巻き込まれ川崎市~横浜市北部にかけて大勢力を持っていた代官だったかも知れない中田加賀守家は北条家による太田家懲罰に巻き込まれ代官を解任されたり所領を削られたりしたのでしょう。
その混乱が伺えるのが中田加賀守の所領が“御家中衆(北条家直属部隊)”と“江戸衆 太田新六郎知行”の両方の部隊に分かれて登場してしてしまっている矛盾です。江戸衆太田隊が解体され、部分的に小田原北条本家直轄部隊に再編成されている事が予測でき、その短い期間に起きた太田家謀反事件のせいで両方の所属が併記されてしまっているのでしょう。つまり現代に写し本が伝わる小田原所領役帳は1559年~少なくとも1562年以降の年間に渡って検地(けんち=武士の所得調査)が行われて纏められた文書だと言う事が判ります。当然、これ以降に新しい検地帳も編纂されたでしょうが現存していません。
因みに、横浜市港南区野庭に移住し北条家臣化した千葉県の臼井城主の千葉家支族の臼居家と言う比較的高貴な家には中田加賀守の姫が嫁いでいます。
つまり中田加賀守家は少なくとも元小大名クラスと対等の家格を有していた証明にも成るんだな。

尚、新編武蔵風土記稿の解説に振った( )の数字で区切った内容を解説すると・・・
(1)されど何人の居城なりしことをしらず。
→実際の所は誰が住んでたかワカンねぇ~よ(※江戸時代時点)。

(2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
→ここの地下からツボの形したのとか色々な陶器が見つかるんだよね。
※実は井田城址は神庭緑地と言って古墳時代の史跡でもある。間宮士信さんが陶器と言ってるのは江戸時代には井田城址の古墳時代の墳墓群や住居跡が畑地化されていて古墳時代の須恵器の土器の破片や土偶を農民が良く見つていたのを報告として受けて記録したんだろう。

(3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし
ココは北条家臣の中田加賀守の居た所だったかもだけど、伝える処(根拠)も無いから、ちょっとしかワカンね(笑)。
・・・こんな解説をしてらっしゃいます。

野庭城城下の臼居家を紹介した記事も以前に書いているので良かったら以下のリンクから御覧下さい。
CIMG1068
●臼居家の御子孫が営むcafeを紹介した記事リンク→
野庭神社の位置 久良岐のよし
●臼居家の居館の裏に存在する鎌倉時代~戦後時代の野庭関城と、そこに近年まで存在した旧:野庭高校の実話のTVドラマを紹介した記事リンク→

中田家に話を戻すと、小生の推測では中田家は代々の当主が加賀守を名乗った可能性も有るので中田加賀守が一人だとは限りません。
そして中田加賀守は吏僚として活躍している事も判明しているので、最初は江戸衆の江戸城城代太田家の家臣だったのが太田家謀反後に太田家臣団が解体され北条家直属の御家中衆を経て、間宮士信サンの認識の通り再び蒔田吉良家の北条家臣化後の部隊再編に伴って世田谷衆とも言うべき吉良家与力に再編された可能性も高い訳です。そして、その頃の居城が慶応大学日吉キャンパス一帯に在った矢上城だった訳です。
井田城址の前を流れる矢上川の下流に矢上城は存在しており鶴見川の水運を運用するに非常に便利な場所でした。
余談ですが日吉キャンパスは昭和にも重要な軍事拠点化して、海軍の参謀本部として大戦末期に地下基地が築かれており、その空気孔が石原裕次郎さんの映画にも映り込んでいたりします(笑)。

とどのつまり、中田さんが統括した沼上さんの所領だったのが井田城周辺って小生の説が一番自然な訳です。吉良氏朝公の時代の話に繋がっていくか、北条氏綱公の頃の古い話って事でしょう。

さて、歴史は記録に残っている事や発掘済みの場所の史料だけが全てでは無い事が良く解るのが、この川崎の謎の城、井田城址です。

きっと皆さんの御近所にも御城の跡の山や御寺や神社が有る筈(はず)です。その城跡は神様や仏様が祀られて昔の善政を布(し)いた北条家臣団の領主が民を守った様に、殿様達は神様仏様を通じて今も皆さんを守ってくれているかも知れませんね。
そして神社や御寺や城山には今も緑が多く残る場所が有り、散歩するだけでも気持ちが良く成ります。
皆さん、是非、御城の跡や神社仏閣を散歩して先人の武将達に御礼を伝えてみませんか?
きっと殿様達も自分の名前を憶(おぼ)えていてくれる人がいる事を喜んでくれるでしょうし、皆さんも良い気分転換にも成る筈ですよ~♪

では、又、次の解説記事で御会いしましょう♪
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