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タグ:京都市

上京・安土訪問で成果の有った事。

1.沙沙貴神社
滋賀県蒲生郡安土町に所在。
一寸法師のモデルの少彦名神と仁徳天皇の神話の残る古えの神社であり、全ての近江源氏武士の祖先に当たる淳実親王を祀る神社でもある。
規模も大きく、建築物自体も社格を表す歴史と外観を有する。
沙沙貴神社の宮司に直接の御面会の機会を得た上、北条家臣近江源氏支族間宮家顕彰の御支持と、沙沙貴神社の写真使用の許可を得て、更に沙沙貴神社関連の様々な書籍を宮司様より御厚意で無償提供して頂いた。
偶然にも沙沙貴神社宮司様は昔、最終日に訪れた石清水八幡宮で全国八幡宮から研修に来る神主の指導者を務めた方だったらしい。後に石清水八幡宮で逆に、この事実を知った。
併せて安土城址と博物館数軒も見学出来た。

2.建勲神社
明治天皇の命で信長公を祀る。
間宮綱信公が謁見した織田信長公が明治天皇より古式復古の功績や戦乱を収束させる礎を築いた功績により「建織田神」の神号を追贈され京都北面鬼門鎮護の神として祀られているのが、京都市北区の建勲神社。
こちらで宮司様より間宮家と信長公との事績顕彰への御了解を得た。

3.蓮臺山阿弥陀寺 
京都市左京区蓮臺山阿弥陀寺
この阿弥陀寺は豊臣秀吉の嫌がらせで規模縮小移転させられた寺院だが、信長公討死に直後に皇室から信長公本廟の称号を賜り、信長公を供養するべく信長公に中国風の官位「大相国」の役職と「一品」を追贈する事が伝えられた寺院。
「大相国」は日本の「関白」に、「一品」は「正一位」にそれぞれ当たる。
開山の玉誉清玉和尚様が信長公諸兄の織田信広公に大恩有り、更に信長公が朝倉家金ヶ崎城攻めの際に浅井長政の裏切りで京都へ命からがら退却して来た際に関係が深まった御縁で、「本能寺の変」の勃発時、玉誉清玉和尚様が命の危険も顧みず戦火の中の本能寺に入り信長公家臣から火葬中の信長公の御遺骸の一部を持ち帰り供養した事が有名。
その後、奸臣羽柴秀吉が織田家乗っ取り正当化の為の信長公法要開催の喪主を勤める口実に玉誉清玉和尚様へ信長公御遺骸の提出を求められたが、和尚様は頑として断り信長公への恩義に報いた為、秀吉の嫌がらせで現在地へ阿弥陀寺は移転させられた。
結果的に秀吉は信長公後継者の大義は得られず、信長公木造を香木で作り、それを火葬して無理矢理追善供養を行なった。
間宮綱信公が謁見した織田信長公の本廟阿弥陀寺にて、間宮家顕彰文を奉納し信長公との事績顕彰への御了解を得た上、6/2の信長公法要への参加を御勧め頂いた。
信長公を信奉する身として断われる訳が無い。非常に光栄だ。

4.百万遍知恩寺
左京区百万遍地名の由来の大寺院。
後醍醐天皇の勅願所で、当時、伝染病が流行し社会情勢が不安定だったのを鎮める為に後醍醐天皇は諸神社仏閣に祈祷祓い念仏をさせたが効果無く、最後に知恩寺の住職に依頼した所、効果を得た。
その際に後醍醐天皇が住職に「何をしたら効果を得たか?」と言う主旨の質問をされ、住職は「百万回くらい念仏を唱えた」と言う主旨の回答をしたのが同寺院の異名と周辺地名の「百万遍」の由来に成った。応仁の乱で戦火に巻き込まれ規模が縮小したものの、知恩寺の周りは今も無数の塔頭寺院に囲まれ、大本山としての風格を有する。
しかし和尚様達は皆さんフレンドリーで、自由に本堂に上がらせて下さり、庶民が直接御参りする機会を広く設けてらっしゃる。
知恩寺は嘗て明治時代までは寺社格が神宮寺だった場所なので、境内にはいくつかの神社もあるが、明治政府の神仏分離令で無理矢理管轄から外された。
毎月15日にはフリマも開かれる。
昔、個人的に小生が精神的苦難に遭った時に、こちらの和尚様に…
「キリスト教も仏教も神様も関係なしに、何か辛い時も何にも無い時も、誰でも落ち着きたい時はここに来てゆっくりして行ったら良いんやで」
…と言って頂いた事で心を救って頂いた、当時の御礼の御参りに行った。
お陰様で生きられてますと報告し、間宮家顕彰活動とは無関係だが個人的に御朱印も頂いてきた。

5.石清水八幡宮
宇佐八幡宮より八幡大菩薩の御神霊が平安時代に遷座された大社格の神社で、神仏習合時代、大伽藍を擁し石清水八幡宮の鎮座する男山全山には四十八ヶ所の宿坊を有した。
現在もその規模はとてつもなく大きい。
また、明治以前の歴代天皇家の神仏習合の文化を大切に保護する文化研究も行う最早学問所的な機能も持つ。
考古学や文化的にも学識高い職員の方が多く在職されている。
こちらで禰宜職に在る神官様や石清水八幡宮在職研究者の神官様に御面会の名誉を賜り、八幡大菩薩を信仰した地黄八幡北条綱成公と間宮家顕彰文を提出した。
野村不動産、三井不動産、竹中建設による城址宅地開発で消え逝く笹下城が横浜市港南区笹下に存在した事を石清水八幡宮に残して頂いた。
八幡大菩薩を信仰した間宮家と上官の地黄八幡北条綱成公と間宮家居城笹下城の事績を石清水八幡宮御祭神へ言上して頂いた。
その際、御供物として献上した菓子と間宮家顕彰文が御神前に供えられ、間宮家と笹下城の事績が物理的にも御神前に届けられた。
更に、御厚意により自身も御祓いをして頂いた上に、光栄にも石清水八幡宮の一般人の入らない場所を案内して頂き、石清水八幡宮の建築様式や宝剣の謎や八幡信仰と神仏習合に関する御講義を拝聴出来た。
人生で最も豊かな1日と成った。

この他にも、いくつかの神社仏閣を廻り、関わった歴史偉人の伝記に触れ有意義な時間を過ごせた。
特に新京極商店街の和泉式部の誠心院で御朱印を頂いた事は嬉しかった。
この誠心院は日本全国の尼寺の先駆けで、和泉式部が今の兵庫県姫路市に在る書写山圓教寺に籠った後に開いた寺院で、境内には和泉式部御本人の御廟所も現存する。
因みに今回の京都訪問とは関係無いが書写山圓教寺は映画「ラストサムライ」や「駆け込み女と駆け出し男」のロケ地に成った大建築物群が残り、かつては源義経の郎党武蔵坊弁慶が修行した大寺院でもある。又、豊臣秀吉の弟の羽柴秀長の軍勢が無体を働いた落書きなんかも残る。

以上、今回の京都と安土で、横浜鎌倉の殿様北条綱成公と間宮家、笹下城の顕彰活動で得た成果でした。
全ての御縁、全ての方の御厚意に感謝します。

次回は話を横浜に戻し、又、近代西洋建築か、そろそろ国歌「君が代」と「吹奏楽」発祥の御寺の本牧山妙香寺の話をしようと思います。
無論、今回の京都安土で回った神社仏閣や坂本龍馬公や新撰組関連史跡、美味しい和食レストランも合わせ20ヶ所以上なので、いずれ記事にしますよ〜♪

では、又、次の記事で!

ブログネタ
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秋を感じる一言…
風流かな?
文化芸術の秋だし。
風流さの追求が流行った安土桃山時代の建物が現代にも伝わっています。

聚楽第(じゅらくだい)
…と呼ばれた御城が京都市内に有った事は義務教育で習いますから皆さん御存知ですよね。

この御城の中で中心を為(な)した本丸御殿(ほんまるごてん)の建物が、実は反豊臣の江戸時代を乗り越え現代にも存在しています。

※200万画素の携帯で撮影した写真なので画質は勘弁して下さい!
 
飛雲閣と呼ばれた建物です。
現在では西本願寺に移築され大切に保存されています。

西本願寺と言えば、豊臣秀吉と友好関係に有った一向宗の本拠地ですね。
そして、昔の一向宗は顕如(けんにょ=本願寺光佐)様と言う方が率いていました。
彼を中心に戦国時代に、神道の神様の"建織田神(たけしおりたのかみ)"と10年間に及ぶ戦争をした軍閥化した仏教宗派でした。

建織田神て誰?
…と思いますよね?

建織田神…

絶対に皆さんも知ってますよ!


この方↓です(笑)!
 
明治天皇が、織田信長公が戦乱を収束(しゅうそく)させた功績と朝廷儀式復興させた事への功績を認め、京都市の鬼門の北の鎮護(ちんご=守り神)として建勲神社(たけいさおじんじゃ)の神様に任命したんですね。

因(ちな)みに建勲神社のある船岡山は、京都市が平安京と呼ばれた"其(そ)の時代から京の都(みやこ)の鬼門の鎮護の位置に在りました"。
何故(なぜ)そんな言い方をするかと言うと、今の京都は元の平安京と大分(だいぶん)と形や位置がズレているんです。
豊臣秀吉の仕業(しわざ)なんですがね。

"豊臣秀吉が"京の町を再編成した際に、メインストリートを平安京の中心の"千本通りから今の京都御所のある堀川沿いに移した"んですね。

そんな信長公と対立した一向宗ですが、多くの仏教寺院と同じ様に日本の文化財保護の役割を果たしていた訳です。
飛雲閣以外の建物の多くは、其の後、伏見城や別の御城に移築されました。
しかし、聚楽第の大体の位置は現在でも伝わっています。

ネットでの拾い物ですが…
聚楽第の縄張り図と現在の京都市の地図を重ねた物がコレ↓です。

その聚楽第ですが…
日本人に対するヘイトスピーチ大好きな某国寄りの学者様達は、何故かしきりに存在した事自体を否定したがります。
愚の骨頂です。

聚楽第の事は当時の天皇が行幸(みゆき=天皇が外出する事)された事が各大名や貴族の日記に記録がシッカリあり、飛雲閣等の文化財も現存しているので…
存在を疑う余地がない! 
…と言うか頭大丈夫ですか?
…と言うレベルの話しです。
もし、信長公が生きていたら聚楽第の存在を否定する学者を…
「戯(たわ)けが!」
「うつけ者め! 
…と、罵(ののし)り張り倒していた事でしょう。 
…神様に成ってるから祟(たた)りがあるのかな(笑)?
あ、でも秀吉は織田家を裏切った逆臣だから信長公は怒らないかな(笑)?

しかし…
 
飛雲閣、風流だな〜。
あ、飛雲閣は一般非公開です。
この写真は8年位前の特別公開の時に見学し撮影しました。

横浜三渓園に移築された紀州徳川家の紀ノ川沿いに有った別宅にも少し似ています。
それだけ秀吉の広めた茶の湯文化と茶室建築は後世に影響を与えたんですね。
「禿(は)げネズミ!」
…と信長公に呼ばれていた秀吉ですが、この功績は…
「でかした天晴れ!」
…と、あの世で褒めて貰えたかも知れませんね(笑)。

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