神奈川県横浜市金沢区は横浜市の中の旧久良岐郡域に属する地域ですが、鎌倉時代から金沢区六浦が鎌倉の東京湾側の港として機能していたので文化圏としてはもう完全に鎌倉文化圏に属しています。
そんな土地柄なので金沢区には平安時代末期~鎌倉時代~室町時代~戦国時代(室町後期)~安土桃山時代にも重要な歴史偉人達が関わった神社仏閣や史跡と自然が沢山現存しています。
竹嵓山 禪林寺(ちくがんさん ぜんりんじ)
そんな金沢区の中に釜利谷東と言う地域が有り、そこには竹嵓山禪林寺と言う御寺が存在します。
この禅林寺が存在する地域は歌川広重の描いた❝金沢八景❞で❝小泉夜雨❞と呼ばれた海近くの景勝地として近代まで知られていましたが、その八景や六浦の入江も大半が昭和に成り戦後に県外からの移民が教育委員会の席を占める様に成ると歌川広重の金沢八景すら知らない彼等は保護を怠り、埋め立て地利権によって海は消され宅地造成によってその景勝は失われました。
さて、そんな景勝地であり鎌倉市街へ抜ける間道が通る場所だったので、この地は文系で学生時代に真面目に勉強していた人なら誰でも知っていて当たり前の歴史偉人が御寺を開いたりもしています。
永享の乱で逆徒の山内上杉憲実によって切腹に追い込まれ最後の鎌倉公方と成った足利持氏公により開かれ、その遺児で生き残った足利成氏公の親子によって再興された御寺が釜利谷東の禅林寺です。
山門や御堂は最近の建替えの様ですが、木造で鎌倉文化を良く再現した造りに成っておりとても落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
残虐非道で籤(くじ)引き将軍として有名な足利義教が自分の不安定な地位を確固たる物にする為に赤松家始め多くの忠臣を謀殺したり挑発して幕府軍を送り込み滅ぼし更に総仕上げとして自分の地位を一番脅かす存在だった鎌倉公方足利持氏公と対立している山内上杉憲実を後援して今川家に命じ今川範忠公引いる鎌倉公方討伐の幕府軍を上杉家の援軍として送り込みました。
足利持氏公は降伏を余儀なくされ、金沢文庫の金澤山彌勒院稱名寺で出家した後に東京都世田谷区の永安寺に移って完全に隠居したにも関わらず、上杉憲実に攻められ自害に追い込まれました。
その後、関東武士団は結束して足利持氏公の遺児を保護し有名な❝結城合戦❞を起こしますが、その時に足利持氏公の遺児達も敗戦で殺害され、最後に生き残ったのが足利成氏公でした。
この永享の乱と直前の上杉禅秀の乱が戦国時代の幕開けとされており、関東は関西よりも早くに戦乱の時代を迎える事に成りました。
写真は鎌倉市浄明寺地区犬懸谷(いぬかけがやつ)の上杉禅秀邸址入口。
少し金沢区から話を外します・・・
足利成氏公に関しては幼少期の生い立ちが諸説あり、詳しい所は最近まで解らなかったそうですが現在では信濃国佐久郡の大井家によって保護されていたとする説が有力だそうです。
この大井家は祖先が東京都品川区大井の出身で、古代より相模国~武蔵国に土着していた紀氏の子孫とされる一族です。
その大井家の下で残虐籤引将軍足利義教の難を逃れた足利成氏公は、室町幕府将軍が八代将軍の足利義成(足利義政)公に変わった頃に幕府に対して関東武士団の強い足利成氏公鎌倉公方への就任の承認要求有り関東武士団を懐柔したい足利義政公の思惑が一致した事に由(よ)って、足利成氏公は父の跡空位に成っていた鎌倉公方の座に返り咲き親孝行を果たします。
そんな足利成氏公に父の代の因縁のままに再度叛旗を翻したのが、山内上杉憲実の子の上杉憲忠でした。
江島神社(えのしまじんじゃ)
その江ノ島神社の別当職だったのが、後に横浜市域の南部を統治した間宮家の一族で本姓佐々木氏、江島の別当職は岩本坊(真言宗系修験道寺院)と言う僧坊の住職を務め❝俗名を岩本❞、❝普段は間宮❞、❝神事では佐々木❞の苗字をそれぞれ使い分けた近江源氏の一族でした。
岩本坊は現在では岩本楼と名を変え江ノ島の有名旅館として多くの宿泊客で賑わっています。
この間宮家は戦国時代に禅林寺を支援した伊丹永親公の同僚の北条家臣で玉縄衆黄備隊付家老の間宮康俊公や徳川家康公の側室と成り姫を生んだ間宮於久の方や、大坂城総掘り埋め立て作戦を進言し但馬奉行佐渡奉行本牧奉行を兼任した間宮直元公を輩出しています。
その天皇勅願所の聖地江ノ島と弁天様の御利益と、足利成氏公の人望と采配によって山内上杉&扇谷上杉連合軍は撃退されました。
ところが、この頃関西では京都を荒廃させる応仁の乱を引き起こした戦犯の細川勝元が管領(かんれい)職に就任すると、鎌倉公方よりも関東管領上杉家を自分の言いなりに成る手駒として重視し出して関東の将軍である足利成氏公を軽視する政策を指示してしまいました。
すると足利成氏公は親の仇でもある山内上杉憲忠が細川勝元と謀略を巡らしている事を察知し、逆に忠臣の結城成朝公と共に謀略をしかけ西御門の鎌倉公方邸に上杉憲忠を呼び出し暗殺しました。
そして成氏公を支持する大名の多い関東の南部と東部で上杉派を連戦連勝で撃破して瞬く間に関東南~東北部を制圧し上杉家を追い詰めました。
これに怒った人望の無い細川勝元は自分の権威では収拾が着かない事を悟ると御花園天皇に鎌倉公方追討綸旨を出させてしまします。この追討の綸旨は相手を朝敵(日本国の敵)と天皇の公認で指定してしまう事を意味し、こうなると人望が高く戦も上手い足利成氏公でも離反する大名が現れ苦戦を強いられる事に成りました。
そして上杉家は相模国を制圧し、鎌倉公方足利成氏公は鎌倉に帰還する事無く古河を本拠地にして以後は古河公方と呼ばれ歴史の授業では鎌倉公方にカウントされず戦上手で人望が高かった事績も教えられる事の無い人物と成ってしまいました。
この戦乱は❝享徳の乱❞と呼ばれます。この戦乱が続いた事が、もう少し後の時代に戦国時代最高の善政を行った北条早雲(伊勢盛時公)や北条氏綱公や北条氏康公等の北条家の名君達が関東に勢力を広げる切っ掛けと成って行きました。
そして北条家が横浜市金沢区一帯も勢力下に収めると、北条家臣伊丹永親公が禅林寺を支援する時代が来ました。
・・・ここで禅林寺の境内その物の解説に戻ります。
禅林寺は山門の左手に小さな神社が在ります。
金毘羅宮つまり神仏習合時代には金毘羅大将を祀っていた神社ですが、元は仏教以前のヒンドゥー教の水神様で鰐(クンピーラ)が神格化された神様でした。釜利谷は小泉辺りまで海が広がっていたので、正に船着き場として水神様の御利益が必要だったのかも知れませんね。
山門をくぐると境内は室町時代成立の禅寺らしい人工的に谷を広げる為に山の斜面を掘削する❝裾切り❞と言う加工がされた❝谷戸構え❞に成っています。人工的に直角にした谷に囲まれている事で入口に門を築いてしまえば頑強な防犯に成り、更に火事の類焼防止も期待出来る訳ですね。
桜の木でしょうか?御庭はとても手入れが行き届いて綺麗です。
御寺なんだけど、手水社が有ります。多分、明治以前は神仏習合だったんだと思います。
その隣に小さな祠が有り、延命地蔵と書いて有ります。
御地蔵さん祀ったりしてるのは、どうも金沢区の富豪だった永島家から移されたらしい。
でも縁起を書いた墨書きが色落ちして良く読めませんでした。
御本堂も横から見ると又、趣が違いますね。
さて、この御寺の寺紋は足利家の二つ両引き紋ですが、これも足利持氏公と足利成氏公に使用を許されたのでしょう。御寺の格の高さが解りますが、この日、色々と書物に残らない寺伝を御教授して頂いた御住職様はとても口調も物腰も柔らかい和尚様で偉ぶった感じ等は少しも無い綺麗な御寺と同じ紳士な方でした。
御本堂は恐らく再建だと思いますが、破風の梁(はり)部分の彫刻は素晴らしい物でした。
浦島太郎伝説・・・神奈川県域で海と関係の有る古い歴史の有る神社仏閣は、この彫刻が有る処をちょくちょく見かけます。入口の金毘羅様と同じく禅林寺の近くまで昔は海だった名残ですね。
龍の彫刻も素晴らしい。
もう梅の季節ですね~。
そう言えば梅の名所一覧も観梅の季節の参考にして頂ければ幸いです。
神奈川県の梅花鑑賞に適した梅林一覧←クリックで記事にリンク!
綺麗な御寺でしょう?
何だか庫裡では地元の老人の皆さんの茶飲み場を提供していたりするみたいです。
静かでゆっくり出来て、海が近くに無くなった現在でも風流な御寺ですね。
そう言えば!
近くに和菓子屋さんが有りましたので紹介します。
金沢さかくら
この御店、アパートの1Fのシャッター商店街(笑)に1軒だけ頑張ってたんで気に成って入って見たら、凄く可愛い和菓子が沢山有りました。
小生は梅の和菓子を買い食いしましたが、上品で美味しかったですよ♪
さて、禅林寺は新編武蔵風土記稿にも登場し以下の解説が有ります。
下総国關宿(千葉県野田市関宿)東昌寺末、竹嵓山と號(号)す。
當(当)寺は源持氏の建立にて、開山は禪藝(禅芸)と云(言う)、本寺開山(かいざん=初代住職)艮庵(ごんあん)禅師の上足(じょうそく=優秀な弟子)なり、永正九年(1512年)十一月二十六日寂す(没)。
中興開基伊丹三河守永親は永禄六年(1563年)閏六月長暦に閏月は十二月とあり十八日卒す(没)。
禪林寺雲岸宗悦大居士と諡(おくりな)せりと云、又江戸浅草寺の傳(伝え)に云、智樂院權僧正忠尊は伊丹三河守永親が子にて、紅葉山東照宮の御別当を兼帶(けんたい=兼任)し寛永年中當村御神領となりし後、其父菩提の爲(為)禪林寺を草々し十石の地を寄付せしと云。當寺の傳と異なり・・・
--以下省略--
要するに、この御寺が鎌倉公方の足利持氏公が開いた御寺で、最初の住職は禪藝和尚様で本寺の艮庵禅師の偉い弟子で、戦国時代には伊丹永親公によって再興され支援されました~って事と「浅草寺の住職の智樂院權僧正忠尊和尚様の御父さんが伊丹永親公で紅葉山東照宮(江戸城内の東照宮)も管理していた偉い人だよ」って事とかが書いて有る訳です。
そうなんです、この伊丹家は北条家臣で後に江戸幕府時代には宗教的な儀式で重要な役割を担う天台宗系修験道の偉い智樂院權僧正忠尊と言う法名の和尚様を輩出し、付近の手子神社を開き浅草寺と江戸城内の東照宮のトップだった人物なんです。
戦国時代の伊丹家の記録も後北条所領役帳に残っています。
江戸衆
伊丹右衛門太夫(康信)
弐百五拾五貫四百六十弐文 久良岐郡釜利谷(横浜市金沢区釜利谷)
弐拾三貫五百五拾文 同所壬寅検地増
此増分役者惣検地上改而可被仰付
六拾九貫百八拾三文 常葉(鎌倉市常盤)
以上三百四拾八貫弐百文
--以下省略--
この所領役帳が成立したのが1559年なので、伊丹右衛門太夫は世代的に伊丹永親公の御父上に当たる世代の人物なので、まぁそう言う事なのかも知れません。つまり、伊丹家は北条氏康公の時代には釜利谷にいて活躍し、禅林寺で座禅組んで精神修養してらっしゃったり学問を学んだりされていたかも知れない訳ですね。
この伊丹永親公の妹君に於菊の前様がいらっしゃり、豊臣秀次公の側室だった人物で女性としては出世された後に秀次公の切腹で一緒に処刑され悲惨な目に遭ったかも知れません。そんな事も有って、伊丹家は宗教的な修行をする智樂院權僧正忠尊和尚と言う偉人を輩出したのかも知れませんね。
伊丹永親公の御廟所は鎌倉~室町文化の色濃く残る金沢区の御寺らしい矢倉の中に現存しています。
御墓を写すのは殿様に失礼なので、矢倉の上部の写真だけ掲載せて頂きます。
さて・・・
新編武蔵風土記稿で伊丹永親公の戒名は禪林寺雲岸宗悦大居士と紹介されていますが、これは誤りです。新編武蔵風土記稿では取材した人間の質によって書き間違えがどうも多い様です。
正しい永親公の戒名は現在も御寺にちゃんと伝わっています。
禪林院殿雲峰宗悦大居士これが正しい永親公の戒名です。
恐らくこの雲峰宗悦の峰は、付近一帯の円海山の山々~金沢区辺りまでの地域の事を❝峰❞と言う渾名で指していた様で、金沢区町屋の伝心寺にも峰の字を含む江戸時代の山号が記載されていたりします。
まぁ、そんな訳で禅林寺は凄い御寺なんです。
受領した禅林寺の御朱印。
きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が守って来た神社仏閣や公園や山になっている御城の跡や、古代人が大切にした聖地の森や泉が有ると思います・・・
皆さん、御近所の神社や御寺や里山を散歩して、少し説明の看板に目をやり昔の人と一瞬、時間を共有したり新鮮な空気を吸ってリラックスしてみませんんか?
・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪
そんな土地柄なので金沢区には平安時代末期~鎌倉時代~室町時代~戦国時代(室町後期)~安土桃山時代にも重要な歴史偉人達が関わった神社仏閣や史跡と自然が沢山現存しています。
竹嵓山 禪林寺(ちくがんさん ぜんりんじ)
最後の鎌倉公方足利持氏公開基、初代古河公方足利成氏公再興、小田原北条家臣伊丹永親公支援の寺。
そんな金沢区の中に釜利谷東と言う地域が有り、そこには竹嵓山禪林寺と言う御寺が存在します。
この禅林寺が存在する地域は歌川広重の描いた❝金沢八景❞で❝小泉夜雨❞と呼ばれた海近くの景勝地として近代まで知られていましたが、その八景や六浦の入江も大半が昭和に成り戦後に県外からの移民が教育委員会の席を占める様に成ると歌川広重の金沢八景すら知らない彼等は保護を怠り、埋め立て地利権によって海は消され宅地造成によってその景勝は失われました。
さて、そんな景勝地であり鎌倉市街へ抜ける間道が通る場所だったので、この地は文系で学生時代に真面目に勉強していた人なら誰でも知っていて当たり前の歴史偉人が御寺を開いたりもしています。
永享の乱で逆徒の山内上杉憲実によって切腹に追い込まれ最後の鎌倉公方と成った足利持氏公により開かれ、その遺児で生き残った足利成氏公の親子によって再興された御寺が釜利谷東の禅林寺です。
山門や御堂は最近の建替えの様ですが、木造で鎌倉文化を良く再現した造りに成っておりとても落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
残虐非道で籤(くじ)引き将軍として有名な足利義教が自分の不安定な地位を確固たる物にする為に赤松家始め多くの忠臣を謀殺したり挑発して幕府軍を送り込み滅ぼし更に総仕上げとして自分の地位を一番脅かす存在だった鎌倉公方足利持氏公と対立している山内上杉憲実を後援して今川家に命じ今川範忠公引いる鎌倉公方討伐の幕府軍を上杉家の援軍として送り込みました。
足利持氏公は降伏を余儀なくされ、金沢文庫の金澤山彌勒院稱名寺で出家した後に東京都世田谷区の永安寺に移って完全に隠居したにも関わらず、上杉憲実に攻められ自害に追い込まれました。
その後、関東武士団は結束して足利持氏公の遺児を保護し有名な❝結城合戦❞を起こしますが、その時に足利持氏公の遺児達も敗戦で殺害され、最後に生き残ったのが足利成氏公でした。
この永享の乱と直前の上杉禅秀の乱が戦国時代の幕開けとされており、関東は関西よりも早くに戦乱の時代を迎える事に成りました。
写真は鎌倉市浄明寺地区犬懸谷(いぬかけがやつ)の上杉禅秀邸址入口。
少し金沢区から話を外します・・・
足利成氏公に関しては幼少期の生い立ちが諸説あり、詳しい所は最近まで解らなかったそうですが現在では信濃国佐久郡の大井家によって保護されていたとする説が有力だそうです。
この大井家は祖先が東京都品川区大井の出身で、古代より相模国~武蔵国に土着していた紀氏の子孫とされる一族です。
その大井家の下で残虐籤引将軍足利義教の難を逃れた足利成氏公は、室町幕府将軍が八代将軍の足利義成(足利義政)公に変わった頃に幕府に対して関東武士団の強い足利成氏公鎌倉公方への就任の承認要求有り関東武士団を懐柔したい足利義政公の思惑が一致した事に由(よ)って、足利成氏公は父の跡空位に成っていた鎌倉公方の座に返り咲き親孝行を果たします。
そんな足利成氏公に父の代の因縁のままに再度叛旗を翻したのが、山内上杉憲実の子の上杉憲忠でした。
江島神社(えのしまじんじゃ)
逆徒山内上杉家が従属させている扇谷上杉家と供に足利成氏公に対して叛旗を翻し挙兵すると、足利成氏公は多くの関東武士団に守られ険阻な要害地形で豊富な湧き水が有り、海から海路補給を行える江ノ島に籠城しました。この江ノ島は舒明天皇以来の天皇家勅願所(ちょくがんじょ)で天皇家が国家鎮護や様々な祈祷を行って貰う場所として江ノ島の岩屋(洞窟)を定めていました。その岩屋に源頼朝公が水と戦と音楽と美の女神の弁才天様を祀ったのが江ノ島神社の起源です。
その江ノ島神社の別当職だったのが、後に横浜市域の南部を統治した間宮家の一族で本姓佐々木氏、江島の別当職は岩本坊(真言宗系修験道寺院)と言う僧坊の住職を務め❝俗名を岩本❞、❝普段は間宮❞、❝神事では佐々木❞の苗字をそれぞれ使い分けた近江源氏の一族でした。
岩本坊は現在では岩本楼と名を変え江ノ島の有名旅館として多くの宿泊客で賑わっています。
この間宮家は戦国時代に禅林寺を支援した伊丹永親公の同僚の北条家臣で玉縄衆黄備隊付家老の間宮康俊公や徳川家康公の側室と成り姫を生んだ間宮於久の方や、大坂城総掘り埋め立て作戦を進言し但馬奉行佐渡奉行本牧奉行を兼任した間宮直元公を輩出しています。
その天皇勅願所の聖地江ノ島と弁天様の御利益と、足利成氏公の人望と采配によって山内上杉&扇谷上杉連合軍は撃退されました。
ところが、この頃関西では京都を荒廃させる応仁の乱を引き起こした戦犯の細川勝元が管領(かんれい)職に就任すると、鎌倉公方よりも関東管領上杉家を自分の言いなりに成る手駒として重視し出して関東の将軍である足利成氏公を軽視する政策を指示してしまいました。
すると足利成氏公は親の仇でもある山内上杉憲忠が細川勝元と謀略を巡らしている事を察知し、逆に忠臣の結城成朝公と共に謀略をしかけ西御門の鎌倉公方邸に上杉憲忠を呼び出し暗殺しました。
そして成氏公を支持する大名の多い関東の南部と東部で上杉派を連戦連勝で撃破して瞬く間に関東南~東北部を制圧し上杉家を追い詰めました。
これに怒った人望の無い細川勝元は自分の権威では収拾が着かない事を悟ると御花園天皇に鎌倉公方追討綸旨を出させてしまします。この追討の綸旨は相手を朝敵(日本国の敵)と天皇の公認で指定してしまう事を意味し、こうなると人望が高く戦も上手い足利成氏公でも離反する大名が現れ苦戦を強いられる事に成りました。
そして上杉家は相模国を制圧し、鎌倉公方足利成氏公は鎌倉に帰還する事無く古河を本拠地にして以後は古河公方と呼ばれ歴史の授業では鎌倉公方にカウントされず戦上手で人望が高かった事績も教えられる事の無い人物と成ってしまいました。
この戦乱は❝享徳の乱❞と呼ばれます。この戦乱が続いた事が、もう少し後の時代に戦国時代最高の善政を行った北条早雲(伊勢盛時公)や北条氏綱公や北条氏康公等の北条家の名君達が関東に勢力を広げる切っ掛けと成って行きました。
そして北条家が横浜市金沢区一帯も勢力下に収めると、北条家臣伊丹永親公が禅林寺を支援する時代が来ました。
・・・ここで禅林寺の境内その物の解説に戻ります。
禅林寺は山門の左手に小さな神社が在ります。
金毘羅宮つまり神仏習合時代には金毘羅大将を祀っていた神社ですが、元は仏教以前のヒンドゥー教の水神様で鰐(クンピーラ)が神格化された神様でした。釜利谷は小泉辺りまで海が広がっていたので、正に船着き場として水神様の御利益が必要だったのかも知れませんね。
山門をくぐると境内は室町時代成立の禅寺らしい人工的に谷を広げる為に山の斜面を掘削する❝裾切り❞と言う加工がされた❝谷戸構え❞に成っています。人工的に直角にした谷に囲まれている事で入口に門を築いてしまえば頑強な防犯に成り、更に火事の類焼防止も期待出来る訳ですね。
桜の木でしょうか?御庭はとても手入れが行き届いて綺麗です。
御寺なんだけど、手水社が有ります。多分、明治以前は神仏習合だったんだと思います。
その隣に小さな祠が有り、延命地蔵と書いて有ります。
御地蔵さん祀ったりしてるのは、どうも金沢区の富豪だった永島家から移されたらしい。
でも縁起を書いた墨書きが色落ちして良く読めませんでした。
御本堂も横から見ると又、趣が違いますね。
さて、この御寺の寺紋は足利家の二つ両引き紋ですが、これも足利持氏公と足利成氏公に使用を許されたのでしょう。御寺の格の高さが解りますが、この日、色々と書物に残らない寺伝を御教授して頂いた御住職様はとても口調も物腰も柔らかい和尚様で偉ぶった感じ等は少しも無い綺麗な御寺と同じ紳士な方でした。
御本堂は恐らく再建だと思いますが、破風の梁(はり)部分の彫刻は素晴らしい物でした。
浦島太郎伝説・・・神奈川県域で海と関係の有る古い歴史の有る神社仏閣は、この彫刻が有る処をちょくちょく見かけます。入口の金毘羅様と同じく禅林寺の近くまで昔は海だった名残ですね。
龍の彫刻も素晴らしい。
もう梅の季節ですね~。
そう言えば梅の名所一覧も観梅の季節の参考にして頂ければ幸いです。
神奈川県の梅花鑑賞に適した梅林一覧←クリックで記事にリンク!
綺麗な御寺でしょう?
何だか庫裡では地元の老人の皆さんの茶飲み場を提供していたりするみたいです。
静かでゆっくり出来て、海が近くに無くなった現在でも風流な御寺ですね。
そう言えば!
近くに和菓子屋さんが有りましたので紹介します。
金沢さかくら
この御店、アパートの1Fのシャッター商店街(笑)に1軒だけ頑張ってたんで気に成って入って見たら、凄く可愛い和菓子が沢山有りました。
小生は梅の和菓子を買い食いしましたが、上品で美味しかったですよ♪
さて、禅林寺は新編武蔵風土記稿にも登場し以下の解説が有ります。
下総国關宿(千葉県野田市関宿)東昌寺末、竹嵓山と號(号)す。
當(当)寺は源持氏の建立にて、開山は禪藝(禅芸)と云(言う)、本寺開山(かいざん=初代住職)艮庵(ごんあん)禅師の上足(じょうそく=優秀な弟子)なり、永正九年(1512年)十一月二十六日寂す(没)。
中興開基伊丹三河守永親は永禄六年(1563年)閏六月長暦に閏月は十二月とあり十八日卒す(没)。
禪林寺雲岸宗悦大居士と諡(おくりな)せりと云、又江戸浅草寺の傳(伝え)に云、智樂院權僧正忠尊は伊丹三河守永親が子にて、紅葉山東照宮の御別当を兼帶(けんたい=兼任)し寛永年中當村御神領となりし後、其父菩提の爲(為)禪林寺を草々し十石の地を寄付せしと云。當寺の傳と異なり・・・
--以下省略--
要するに、この御寺が鎌倉公方の足利持氏公が開いた御寺で、最初の住職は禪藝和尚様で本寺の艮庵禅師の偉い弟子で、戦国時代には伊丹永親公によって再興され支援されました~って事と「浅草寺の住職の智樂院權僧正忠尊和尚様の御父さんが伊丹永親公で紅葉山東照宮(江戸城内の東照宮)も管理していた偉い人だよ」って事とかが書いて有る訳です。
そうなんです、この伊丹家は北条家臣で後に江戸幕府時代には宗教的な儀式で重要な役割を担う天台宗系修験道の偉い智樂院權僧正忠尊と言う法名の和尚様を輩出し、付近の手子神社を開き浅草寺と江戸城内の東照宮のトップだった人物なんです。
戦国時代の伊丹家の記録も後北条所領役帳に残っています。
江戸衆
伊丹右衛門太夫(康信)
弐百五拾五貫四百六十弐文 久良岐郡釜利谷(横浜市金沢区釜利谷)
弐拾三貫五百五拾文 同所壬寅検地増
此増分役者惣検地上改而可被仰付
六拾九貫百八拾三文 常葉(鎌倉市常盤)
以上三百四拾八貫弐百文
--以下省略--
この所領役帳が成立したのが1559年なので、伊丹右衛門太夫は世代的に伊丹永親公の御父上に当たる世代の人物なので、まぁそう言う事なのかも知れません。つまり、伊丹家は北条氏康公の時代には釜利谷にいて活躍し、禅林寺で座禅組んで精神修養してらっしゃったり学問を学んだりされていたかも知れない訳ですね。
この伊丹永親公の妹君に於菊の前様がいらっしゃり、豊臣秀次公の側室だった人物で女性としては出世された後に秀次公の切腹で一緒に処刑され悲惨な目に遭ったかも知れません。そんな事も有って、伊丹家は宗教的な修行をする智樂院權僧正忠尊和尚と言う偉人を輩出したのかも知れませんね。
伊丹永親公の御廟所は鎌倉~室町文化の色濃く残る金沢区の御寺らしい矢倉の中に現存しています。
御墓を写すのは殿様に失礼なので、矢倉の上部の写真だけ掲載せて頂きます。
さて・・・
新編武蔵風土記稿で伊丹永親公の戒名は禪林寺雲岸宗悦大居士と紹介されていますが、これは誤りです。新編武蔵風土記稿では取材した人間の質によって書き間違えがどうも多い様です。
正しい永親公の戒名は現在も御寺にちゃんと伝わっています。
禪林院殿雲峰宗悦大居士これが正しい永親公の戒名です。
恐らくこの雲峰宗悦の峰は、付近一帯の円海山の山々~金沢区辺りまでの地域の事を❝峰❞と言う渾名で指していた様で、金沢区町屋の伝心寺にも峰の字を含む江戸時代の山号が記載されていたりします。
まぁ、そんな訳で禅林寺は凄い御寺なんです。
受領した禅林寺の御朱印。
きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が守って来た神社仏閣や公園や山になっている御城の跡や、古代人が大切にした聖地の森や泉が有ると思います・・・
皆さん、御近所の神社や御寺や里山を散歩して、少し説明の看板に目をやり昔の人と一瞬、時間を共有したり新鮮な空気を吸ってリラックスしてみませんんか?
・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪