歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:伊勢原市

2019年8月12日、最初は富士山に行こうかと思っていたが生憎(あいにく)と天気が安定せず雨と曇りを繰り返す微妙な天気だった。
国道16号に抜けてから大黒ふ頭に向かう横浜ベイブリッジの下層一般道路で川崎方面に向けて車を走らせ、一緒に山登りしようと計画していた同行者を鶴見まで迎えに行った。
雨の中富士山に行っても楽しくなさそうなので富士山には行かず、まぁ~丁度“灯籠祭り”が大山で開催されているので、昔は‟富士講”の一環で富士山とセットで江戸市民から信仰の対象で観光地としても賑わっていた大山に行き先を切り替えた。つまり大山講に旅を切り替えた。
大山については以前も解説しているので御興味の有る方は以下の過去記事を読んで下さるとどんな場所か少し判ると思う。
これクリック⤵
大山阿夫利神社と灯籠祭りの夜景と参道温泉街
…伊勢原市。

大山は縄文時代から聖地化していて山頂からは古代の祭祀遺跡も発掘されている。今では夏の灯籠祭りの期間の夜景と秋の紅葉が、ハイキングファンと神奈川県民に知られる場所だ。
お盆休みで商務車両が少ないせいか道路はスムーズに流れ、神奈川県伊勢原市の丹沢大山国定公園まで1時間40分程度で到着した。現地に到着すると最初に昼食を食べに行った。
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東学坊
小生のブログを以前から読んで下さっている方々は存じ上げてるが、大山の参道には江戸時代以前からの“先導師(せんどうし)”つまり伊勢神宮で言う所の御師(おし)に対応する神職僧侶兼ツアーコンダクターの様な仕事をやっていた方々の宿坊(神社寺院機能の有る旅館)が昔と比べて相当数軒数は減ったものの現在も営業しており、その何(いず)れも大山の天然水を利用した名産品の“大山豆腐”の豆腐懐石や猪肉料理を提供しており食事や日帰り入浴だけの客にも対応して下さる。
小生や東学坊と元滝と言う二軒を特に好んで利用するのだが、今回は日帰り湯にも入りたかったので東学坊で昼食をとる事にした。
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宿坊だから外観内装は完全に個人経営旅館。
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玄関に入ると池の奥に神棚の備え付けられた部屋が有る。これが普通の旅館では無くて修験道の聖地だった大山の名残り。昭和初期まで大山にはケーブルカーなんて無かった。江戸時代は小田急線伊勢原駅も当然無かったので、登山客は江戸方面からずっと歩いて来るので当然ながら大山の宿坊に1泊する訳だが、神職や僧侶でもある先導師を兼ねる旅館のこの様な部屋で登山の安全祈願をして貰ってから山に入る訳だ。
昼間、この東学坊は収容客数が50人位の広間がレストランとして営業している。
ここの料理は和食でも豆腐が中心になるので、だいたいの外国からの来客でも安心して食べられる料理が多い。
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とにかく、この豆腐がそこら辺の豆腐屋の豆腐とは全く文字通り格別!本当に美味しい!
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注文したのは“香の膳”と言う3680円位のコースで、そこに入浴料金も含まれているので御得。
一人では注文できないので、単独行動大好きな小生も普段からしょっちゅう食べてる訳じゃない(笑)。
ここで提供している超絶美味い豆腐は東学坊の御向かいの豆腐屋さんの商品なので購入する事も出来る。
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これね。
食事を終えてから東学坊の旦那さんに・・・
「今日は今から山に登るので帰りに御風呂入らせて頂いて宜しいでしょうか?」
・・・と一応事前に電話でも伝えていた御願いを再確認し許可を貰い、東学坊を後にした。
そこから徒歩で参道を歩いてケーブルカー駅まで移動。
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東学坊の前の不動明王様を拝んで直ぐ上の有名な御饅頭屋さんに移動。
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大山まん志"う本舗 良辨
この店の由来の良辨(ろうべん)と言うのは大山に深い関わりの有る高僧で、やはり大山一帯のみならず関東一円に影響を与えた行基大僧正の関わり深い東大寺の前身寺院出身の人物だ。
行基大僧正は神仏両方を大切にされ街道整備や修験道の神社や寺院を全国各地に整備し、東大寺大仏の造営を成功させた人物でもある。
この大山まん志"う本舗 良辨が何故に良辨和尚の名前を頂いているかと言うと、少し歩くと解かる。
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大山の緑と沢の御陰で散歩も涼しい。
昭和初期まで徒歩で大山を登って来た大山寺と阿夫利神社に向かう参拝客は宿坊で祈祷を受けてから、先ず、この近所にある良弁の滝で行水(ぎょうずい)つまり禊(みそぎ)をして体を清めてから山に入る。
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良弁滝
まぁ~ここまで歩いて来たら汗だくだし、草鞋(わらじ)なんてビーチサンダルみたいに歩けば足も汚れるしね。
今ではここで滝に打たれる人を見る機会は無いと思うが、皆も大山に登る前にはココに立ち寄って拝むか手を洗う位して昔の人の気分を味わうと良いと思う。
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旧道~ケーブルカー駅迄(まで)を歩き進めると昔の雰囲気を残す街並み。
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途中には土産物屋や宿坊や懐石料理屋が沢山あって旅館街の雰囲気を残す。
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大山観光電鉄株式会社 大山ケーブル駅
今回、大山に予定地を変更したのは“灯籠祭り”に合わせて、この大山ケーブルがPM:20:30まで夜間営業をしているから夜景を見るのも一つの目的な訳だ。もし大山の夜景を見たい人は今年は今月15日まで、後は秋季の夜間ライトアップまで暫くチャンスはなくなるので時間と期間を上の大山ケーブルのホームぺージリンクから確認してから訪れた方が良いと思う。
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ちなみに現在のケーブルカーの車両は2016年に新しく成った物で、風景が見やすい窓が大きくとられた設計に成っている。屋根の方まで見えるので、下りの時に伊勢原~平塚~相模湾の夜景が良く見える。
確か2016年の鉄道のベストデザインかなんかも受賞している。
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大山阿夫利神社下社
先ず到着して御朱印を頂いた。まだ令和元年の大山阿夫利神社の御朱印を頂いていなかったので。
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因みに、この大山阿夫利神社下社の場所は江戸時代までは御寺で、今は山の中腹に移動した大山寺の不動堂の大きな御堂が存在した。そして阿夫利神社は山頂本社の事を指し昔は石山権現大山阿夫利神社と呼ばれていたのが本来の名前だった。大山は湧水の有名な場所なので、古来水辺に祀られた不動明王が鎮座していた訳だ。現在の大山寺は来迎院と言う支院だった。
今回は先ず、大山阿夫利神社まで行き山頂まで登山しようと思っていたのだが、日没時間18時39分に対して、この時既に16時30分、少しゆっくり街並みを見過ぎて山頂まで往復登山すると下山出来ない時間帯に成ってしまった。
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なので先ずは予定変更し見晴台まで行く事にしてハイキングは縮小。
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何故見晴台方面に行ったかと言うと、そこに行く途中に滝が有るから。
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二重滝(ふたえのたき)
この二重の滝も良弁滝と同じく、昔は阿夫利神社の参拝客が禊の滝行を行う場所だった。
二重の滝と日向薬師位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を見ると良く解るが、大山の北東には津久井方面へ抜ける古道が通り、戦国時代には街道を押さえる扇谷上杉家の七沢城が存在した。
ここの街道周辺の山中に洪水の影響を受けない山道の中継拠点として重要な聖地を整備して廻ったのが行基大僧正だった。だから大山も良弁サンが関わってる訳だ。その古代の聖地の大山と行基大僧正が開いた日向薬師を結ぶのが見晴台の山道であり、そこを経由して大山を参詣する人が禊をする場所が二重滝だった訳だ。
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現在二重滝の横には二重社と言う御社が有るが、本来、ここには徳川家光公が建てた同規模の別の名前の神社が存在した。
下は二年前の春に登山した時の写真だが二重社の場所に在った“龍神堂”。
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現在は明治時代に成立した国家神道から自然崇拝や神仏習合の弾圧の対象にされたので破壊を避けて大山寺(来迎院)に避難移築されている。まぁ、そんな歴史も有るが現代では又、神社と御寺がどこでも仲良く江戸時代までの様に平和に共存しているので、敢えて昔の事を書いて説明しておこうかな。
二重滝と二重社から歩いて暫くすると見晴台。
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二重社~見晴台に向かう途中・・・
「パキパキッ!」
・・・と大きい音が移動しながら近づいてくるので・・・
「熊だったら不味いな。同行者いるし。」
・・・と思って目を凝らして見たら鹿軍団の行軍だった(笑)。
鹿サン達と出会ってから数分で見晴台に到着。
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丹沢山系の向こうに旧高座郡の海老名市や大和の町が見えている・・・はず。
見晴台で休憩してから今度は大山阿夫利神社下社に戻り、休憩茶屋の“さくらや”の下の女坂参道を降りて真反対の大山寺まで登山道を降りた。
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途中で大山ケーブルカーとすれ違い。
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残念ながら時間的に御堂の中には入れなかったが、2年振りに参拝出来て良かった。完全な登山も出来なかったが女坂を歩いた事で同行者も大山の雰囲気を知る事が出来たと思う。
そこから大山ケーブルカーの大山寺駅に移動し、ケーブルカーで再び大山阿夫利神社に移動。
丁度、ライトアップが始まる時間帯に合わせて。
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石段を登る。
この両脇にも明治時代に神仏習合文化が弾圧されるまで、沢山の神社や御寺と宿坊が建ち並んでいた。
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日没時間が迫り灯籠が浮かび上がり始める。
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夕方の彩雲と一緒に月と街の灯も浮かび上がり始める。
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う~ん綺麗!
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月も出て良い具合。この夜景を是非とも皆さんにも見て頂きたい。
ブログを書いている本日は2019年08月14日、まだ明日15日までケーブルカー夜間営業と灯籠祭りの開催期間なので、東学坊はじめ参道の豆腐懐石料理店と合わせて行けば、家族連れにもデートにも最適♪
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夜に成り社殿の前の笠も可愛くライトアップされていた。
山を下りて御風呂に入って帰る為にケーブルカーに戻る。
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途中も参道に地元の小学生や中学生が手作りした灯籠が並べられていて綺麗だった。
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そして新ケーブルカーが本領を発揮する。
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上部天井まで切れ込んだガラス窓から望む伊勢原市の町の灯り、そして運転席からは線路沿いもライトアップされていてとても綺麗。
更に参道も綺麗なんだな。
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灯籠祭り期間は参道の道上と各宿坊と御土産物屋サンがそれぞれ絵灯籠を並べていて凄く日本的な風景を演出して下さっている。
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ね、綺麗でしょう?
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途中、御土産に豆腐と対を成す水を利用した名産品の蒟蒻を購入した。
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で、暫くまた参道の風景を楽しむ。
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ここは灯籠祭りの灯籠の展示会をやっているのだが、少し前まで宿坊として営業していたので旅館の風情ある感じが楽しめる。無料で中に入れるので、立ち寄ると良い時間を過ごせる。
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小生達は御風呂入る時間があったので、今回は入口からだけ見学させて頂いた。
東学坊に戻る。もう宿泊客の皆さんは入浴済みの時間帯だったので貸切状態で内風呂に入る事が出来た。
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小生だけだったので写真撮影させて頂いた。
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脱衣所はこんな感じ。
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まぁ、個人経営旅館なの御風呂の規模は大きくはないが、大山の水の沸かし湯でとっても肌に良い。
連れは御湯の質にとても満足してくれた様で良かった。
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連れが出て来るまでサイダー飲みながら玄関で茣蓙(ござ)に座って待つ。
この入口の衝立(ついたて)の裏に江戸期と現代の大山の絵図が掲示して有る。
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江戸期と比較すると明治政府の宗教改革時に大分弾圧されてしまった事が解かる。
源頼朝公が参詣して以来、歴代将軍が大切にして来た場所で江戸時代も徳川家康公や徳川家光公等に大切にされて来た場所なのだけど、明治政府の唯一の失敗である宗教改革で大山は神社も御寺も激減してしまった。
でも今でも宿坊や御土産物屋サンが建ち並び、空気も綺麗で山登り、秋には紅葉狩り散策しても楽しい。また秋に来ようかと話して、車に乗って連れを横浜市の端っこまで送り届けた。
そこから小生の住む円海山への帰路、横浜ベイブリッジと首都高速湾岸線の一部区間の下層部分に一般道路が存在している事を知らない人も多いと思い、Twitterで帰路ドライブの様子を撮影して見た。
栄区・金沢区・磯子区辺りから川崎方面に下道で行く時はこの道を通った方が早い。
川崎大師もこの道で行けば高速使わず行けるので便利。

まぁ、そんな感じで大山の夏を堪能できた。
では又、次の記事で!

高部屋神社:高部屋八幡宮
(延喜式内社・古代神事を守る国指定文化財の神社)
丸山城址公園(鎌倉時代の名将、糟屋有季公の城址)
高部屋神社元宮(古代人の聖地、渋田山山腹の水源)
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2016-01-03-13-53-18高部屋神社本宮の位置 久良岐のよし
  御祭神・御本尊等:神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと:神武天皇)・息長長足媛命(おきながのたらしみめのみこと:神功皇后)・三筒男命(みつつおのみこと:住吉三神)・誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)・大鷦鷯尊(おおささぎのみこと:仁徳天皇)・磐之媛命(いわのひめのみこと:仁徳天皇皇后)
  御利益:武芸(スポーツ)上達・戦勝祈願・漁業豊漁・農業豊穣・治水・雨乞い・地鎮・交通安全(海)
  関係者:
  開基:聖地渋田山(奥津城)周辺の古代人
  中興:糟屋庄領主 糟屋 有季 公
     関東管領家 上杉 定正 公=扇谷上杉家当主
     相模守護代 太田 道灌 公
     左京大夫  伊勢 宗瑞 公=北条早雲
     北条家臣  渡辺 岩見 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡 
  所在地:高部屋神社と丸山城址公園・・・伊勢原市高部屋付近、国道246で分断された丘
  所在地:高部屋神社本宮・・・大山山系の伊勢原市下糟屋、渋田山の山腹
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
本来の神社の発祥地である元宮は関東総鎮護の聖地、大山山系の一つ、渋田山に紀元前より存在したと伝承する。
御祭神は三筒男命(みつつおのみこと=住吉大神)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと=神功皇后=臺与?)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、磐媛之命(いわひめのみこと)と、いずれも海上交通や土地開発や海外渡航と戦争に関係の有る天皇や神様な上に、本宮の在った渋田山が弥生時代前後まで周辺が海だった事からも、水神様と土地開発と先勝祈願の神様としての性格が有る。
古来渋田山は奥津城と呼ばれた霊域だったので、古代人の関与が深い土地でもあった。
明治時代まで「汐汲み神事」が行われており、海岸線が後退し内陸16kmに神社が取り残されても歴代の宮司が徒歩で海まで海水を採取しに行く神事が続き明治時代に伊勢原皇大神宮の管理下に置かれ伝統神事は一時途絶えたが、現在の伊勢原皇大神宮の宮司家によって150年前に途絶えた神事が2018年から再開された。現在も海が近かった時代の風習を垣間見える風習が有り社殿の注連縄(しめなわ)に海藻の「神馬藻(ホンダワラ)」を飾る。
平安時代末期に成ると現在の社殿のある丘陵に要塞を築いて糟屋庄を領有した糟屋有季公が、所領の総鎮守として渋田山から現在の高部屋神社の所在地に社殿を移転させた。本来の渋田山の本宮跡には現在は社殿は無いものの御神霊を祭る祠(ほこら)が今も鎮座している。
糟屋有季公は武勇に秀で、源頼朝公による逆臣源義経討伐で活躍し、義経の重臣佐藤忠信を討取り堀景光を逮捕する事に成功している。
戦国時代に渡辺岩見守により社殿が再建し、江戸時代に成ると徳川家康公より社領安堵の御朱印を賜り江戸幕府より保護された。
この高部屋神社は式内社で有る事から古来より有名で、江戸時代に江戸の町人や武士に流行した「大山参り」のコースに組み込まれており、神社の鳥居前の道も旧大山街道だった事や下糟屋の宿場町だった事で、御利益に肖(あやか)りに来る非常に多くの参拝客で賑わった。
又、いずれも天皇も「天皇」の呼称が始まる前の古代の正式な名のまま祀られている事も、由緒有る古社である事を物語っている。江戸時代には高部屋八幡宮の名で親しまれ雨乞いの神様として有名だった。
高部屋神社の丘一帯は軍事拠点としても重要な場所だったので、鎌倉時代~戦国時代の歴代の領主によって城塞として使用され、各時代ごとに改修された事が解る城址公園として、近年国道建設で分断された丘陵の一方は丸山城址公園が整備されて見学出来ます。
海に関係する神社だけあり、屋根の唐破風部分には浦島太郎伝説にまつわる彫刻が有り、社殿は2017年に国の登録有形文化財に指定された。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、三之宮比々多神社~伊勢原大神宮~高部屋神社)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
延喜式内社で2016年に社殿が国の指定文化財に登録された高部屋神社を御参りして氏子サン達と情報交換してから後の話しの続き・・・
元々、高部屋神社の次の訪問したいと思っていたのが厚木市小野の閑香大明神こと小野神社なのだが、途中に龍散寺も在るので必ず参拝する事にした。この御寺を再興し開基したのは小生が織田信長公、徳川家康公に次ぎ太田道灌公と並び尊敬する北条早雲公の実子の神保輝廣公だから、北条家の殿様に命を繋いで頂いた小生としては御寺の眼前を素通りする訳には行かないのだ。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音北条早雲こと伊勢盛時入道宗瑞公の実子で二代当主北条氏綱公の御舎弟に当たる宮内卿 神保輝廣公は現代では余り知る人もいない戦国武将で、快元僧都記と言う北条関連の貴重な文書の現代語読み下し版や後北条所領役帳を編纂した先生達の注釈でさへ「玉縄北条家の与力」程度の解説しかされていない。
しかし・・・神道や仏教の文化に対してリスペクトを感じる神奈川県人の中には神保輝廣公が高い実務管理能力を発揮した内政家だった事を知る人はいる。知る人ぞ知る高い教養を持っていた人物なのだ。
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龍散寺の山門は境内の竹林と木々と相まって文化人の草庵の様な雰囲気を醸し出す・・・
正に神保輝廣公に相応しい禅寺だ。
この日、2018年正月02日はちゃんと御寺に御挨拶もする心算(つもり)で訪拝した。
本堂が再建中だったので、先(ま)ずは隣の圓通殿に御参りした。
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その後、庫裡を訪れた所、若い副住職様が応対して下さり、色々と御話しを久しぶりに御教授して頂く事が出来た。
所で・・・
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この御寺を再興した神保輝廣公が余り詳しく龍散寺と“鶴岡八幡宮”の関係者以外に名を含め伝わらなかった理由は恐らく、北条家三代当主と成る北条氏康公が未だ当主に成る前に、氏康公の実弟で当時の玉縄城主だった北条為昌公を跡継ぎとして担ぐ動きに加担し北条氏康公の廃嫡を画策したから北条氏康公が当主と成ると権力と領地を減封され❝社会的に干された❞と小生は状況から推測している。
神保宮内卿の名は鶴岡八幡宮再建の記録に登場する・・・
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それが快元僧都記と言う文章なのだが、こんな風に登場する・・・

天文三年(1534年)二月
十七日、為檜皮奉行❝神保宮内入道❞社頭江越被了。
十八日、然間毎月諸大工下向工料等彼人躰ニ被仰付。今月神保宮内入道被加了。

現代語に訳すとこんな感じ・・・

1534年02月
17日に檜皮奉行(社殿の檜皮葺きの屋根に使う檜の皮の調達施工の管理責任者)と成った神保宮内入道(輝廣公)が社頭(当時は神宮寺だった鶴岡八幡宮)に御越しに成られました。
18日に工期の間の毎月の大工(関東や奈良から呼び寄せている宮大工)の滞在費や建築費等(の財務管理)を、その方(兵庫助 太田正勝公)に(北条氏綱公が)仰せつけられた。今月、神保宮内入道を加えられた。

・・・まぁ、もっと沢山名前は登場するが、キリが無いのでここまで。
実名が解らないので宗教をリスペクトして神社や御寺を廻ったり自分で取材しない学者はそれ以上辿(たど)れずに神保宮内入道が誰なのか解らないらしい。
後北条所領役帳にも以下の記載が有る・・・

玉縄衆知行役
一 神保孫三郎
廿二貫文 波多野 落合
六十弐貫三拾弐文 中郡 秋山内粟久保分
以上八拾四貫卅ニ文
玉縄御城御用従前々諸篇走廻候付知行役御免

・・・これは神保孫三郎と言う名前しか掲載の無い武将の所得証明書で、ザックリ言うと合計84四貫32文の所得が有って最後の部分で「昔の働きによって所得に応じた課役を免除する」と書いて有る。
この所領の❝秋山❞と言うのが丁度、現在の龍散寺の在る伊勢原市上粕屋地区の事だ。
ちょこっと龍散寺を参拝すれば、神保宮内入道の❝実名が輝廣❞公と判明し、更に北条早雲公の実子だったと解るのだが、文献しか読まない人には一生かかっても解らない。
因みに84貫32文と言う領地の所得は北条一門としては高くない。寧(むし)ろ低い。
例えば北条為昌公の没後(小生は誅殺と推測)に玉縄城主と成った北条綱成公の所得は1370貫612文有り、北条綱成公付家老の間宮康俊公でも698貫559文の所得が1559年編纂の役帳から判る。これと比較すると神保孫三郎=宮内卿輝廣入道の家が1559年までには北条氏康公から冷遇されている事が読み解ける訳だ。
神保宮内入道が活躍した鶴岡八幡宮再建は1530年代後半、北条為昌公は1539年から公文書に登場しなくなり1542年23才で没する。
この1539~1542年の間、学者は病床に伏していたと推測するが小生の推測は違う。
この間、蟄居幽閉もしくは横浜市金沢区の伝心寺で僧籍に入らされる懲罰を父の北条氏綱公から受けたのだろうと推測する。
理由は恐らく兄氏康公の廃嫡を神保宮内入道等と画策し、私利私欲で北条家中を混乱させ様としたからだ。
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大永峯嗣法山 傳心寺伝心寺は現在の山号は嗣法山と簡略化され寺名も伝心寺と簡体字化されている。そして北条氏繁公の開基と“金沢区観光協会の誤伝拡散で誤って”伝承している。これは簡単に説明が着くし新編武蔵風土記稿では江戸時代にも更に誤った寺伝で江戸期には“北条氏直公の開基”と伝わる旨記載が有るがコレにも誤りだろうと指摘が注釈されている。
至極簡単な話で、曹洞宗は世襲制では無かったので当然、和尚様が代替わりすると話がごちゃ混ぜに成る。
正しくは大永峯嗣法山傳心寺と言う名前で、開基は大永元年。
大永元年(1521年)には天文五年(1536年)生まれの北条氏繁公も、永禄五年(1562年)生まれの北条氏直公も当然この世に存在していない(笑)。現在、金沢区観光協会が北条氏繁公の開基と紹介してしまっているが、これは神奈川県教育委員会が悪い(笑)。神奈川県と横浜市の教育委員会は全く仕事をしないでありとあやゆる全国的に見ても貴重な城址や宗教聖地や古墳を‟開発利権を害さない様に配慮”してきて破壊黙認してきた組織なのだが「文献にさえ記載が有ればOK」「責任取りたくない」と言う姿勢が見え見えなのだ。
では龍散寺から少し脱線して北条為昌公の為に曹洞宗の和尚様達を尊敬する小生が教育委員会に代わり伝心寺と北条家の関わりを解説する。
先ず、北条氏繁公が開基した御寺として金沢区の伝心寺絡みの御寺が実は横浜市内に存在する。
デュオ歌手“ゆず”の地元、磯子区岡村町龍珠院だな。
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泉谷山 龍珠院この龍珠院こそが北条氏繁公が堂宇を建立し本格的に“傳心寺の末寺”として再興開基された寺院だ。
もっと突っ込んで言うと氏繁公の父君の北条綱成公が支援した仏教の草庵が前身で、そこを本格的に寺院化している事が新編武蔵風土記稿にも解説されている。
つまり、金沢区観光協会の解説は傳心寺の物では無く末寺の龍珠院の開基の伝承がいつの時代か混濁されたままコピペ紹介されている事が江戸時代の記録からも戦国時代の文書からも判る。
この金沢区観光協会の事実誤認の原因は、彼等が教えを請うた“教育委員会の杜撰(ずさん)な仕事のせい”な訳だ。
さて、もう北条氏直公説なんぞ解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻す。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成るだろう。当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろうと思う。
恐らく北条氏❝綱❞と北条氏❝繁❞の字を、草書体を読めなかった近現代の学者が誤読して取り違えたんだろう。そして、この御寺に「玉縄城主の御墓が在る」と伝承していたので先入観から北条氏繁公の御墓と決めつけてしまったのだろう。
因みに江戸時代の北条氏直公の説は簡単に何故誤認されたが説明がつく。
傳心寺の直ぐ近くには龍華寺と言う真言宗寺院が存在する。
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知足山 彌勒院 龍華寺(元:六浦山浄願寺&知足山光徳寺)源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が戦火で略奪され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、太田道灌公と菅原資方公によって再興開基された寺院なのだが、昭和初期まで付近一帯は“金沢八景”と呼ばれる景勝地として有名で海に面した眺望は戦国武将達も愛されたので太田道灌公、北条左京太夫(さきょうだいふ)、徳川家康公等が、この龍華寺を支援して宿舎として滞在した歴史が有る。当時は龍源寺と言う名前だった。
北条家の当主は代々、“左京太夫”の官職を継承するので、この寺に滞在した北条左京太夫の正体は、北条早雲公から始まる北条家歴代当主の誰かと解る。しかし名前が無いと誰かは年代からしか推測出来ないのだが、北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している記録が有る。
北条早雲公の生前の名は北条姓では無い。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代なので龍華寺に寺領保証の朱印を発給したのは北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だろう。
北条氏綱公
そして北条家が元の“伊勢”姓から“北条”姓に改称したのは北条氏綱公の代の事なので、龍華寺に関与し滞在した北条左京太夫は北条氏綱公だった事が解る。つまり金沢区一帯に深く北条家が関与した時代の当主は北条氏綱公なので時代的にも必然的に傳心寺を大永元年に開基した可能性が高い人物は北条氏綱公と成り、小生と間宮士信公の推測を証明してくれる材料と成る。
しかし、これも龍華寺を直接参拝せず新編武蔵風土記稿だけ読んでいても解らない事だ。
この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測通り❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、当然、北条氏綱公が懲罰を与える際は所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈だ。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判る。そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不自然に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしている。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれる訳だ。
それならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかない。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然だろう。しかもソレは父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳だ。恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺だろう。そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?と小生は推測する。
その様に推測する理由もちゃんと有る・・・
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅している。そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有る。この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解る。つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳だ。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけだ。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳だが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全だろう。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能すると、為昌公は自害させられたか誅殺されたのだろう。
神保輝廣公は氏康公廃嫡を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介している。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
小生はたまたま北条家の殿様達をリスペクトしているので、龍散寺との御縁が出来た結果、この推論に辿り着く事が出来た訳だ。
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龍散寺は曹洞宗としての再興開基当初は了珊寺(りょうさんじ)と別の字が当てられていた。
鶴岡八幡宮と御縁の深い神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりする。
基は了珊寺だったが、いつの時代か、それが転訛して龍散寺と成った。この龍の字が付く寺院は曹洞宗と真言宗に多いのだが、この名は曹洞宗の高僧に由来して改名されたのではなかろうかと副住職様が推論を御教授下さった。
この日は副住職様から曹洞宗について面白い御講義を立ち話しのまま1時間程聞かせて頂き、円通殿の名前の由来や仏教寺院に“圓通寺”と言う名の多い理由や、曹洞宗的な価値観や臨済宗との違いや相互の素晴らしい点、そして御寺の歴史等を改めてザックリと拝聴する機会を得た。
とても嬉しかったし御若い和尚様が一般人に親切に親身に色々と伝えて下さろうとする心に御正月2日目に感じる事が出来てとても嬉しかった。
この日は同じ曹洞宗の洞昌院でも御住職に良くして頂けたし、八菅神社でも九楊の朝日の写真も撮影で来たし、比々多神社でも今年も護符を授与して頂いた。何だか曹洞宗寺院と修験道と神社への恩返しが今年のテーマに成りそうだ。
龍散寺で神保輝廣公の御霊と副住職様への新年の御挨拶を終えて、次の目的地の小野神社へ移動した。
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小野神社の周辺は新興の宅地だが少し山側に行くと自然豊かで史跡も多い。
小野神社は江戸時代まで閑香大明神の異名で呼ばれ、古くは延喜式神名帳にも掲載される式内社の古社だ。日本武尊が騙し討ちされた焼津の神話に登場する小野の古い地名の土地でも有り、聖徳太子の腹心だった小野妹子の所領とも伝わる。
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閑香大明神小野神社そして小野妹子の御子孫と伝わる鎌倉武士、愛甲季隆からも崇拝され、更に鎌倉幕府初代政所別当を務めた大江広元公からも崇拝された由緒正しい神社だ。愛甲季隆公は弓射と乗馬の達人で鎌倉武士として最大の攻撃である騎射に秀でた豪将だった。源頼朝公や源頼家公の随兵(近衛武将)を務めたり、毎年の正月の幕府の御的始(弓射の神事)を務めた有職故実にも通じた教養も高い人物だった。
弓の技術は凄まじく、畠山重忠公が謀反の罪を着せられて北条義時公が討伐軍を編成した際に畠山重忠公追討軍に動員され、横浜市の二俣川で起きた二俣川合戦で川を挟んだ状況で畠山重忠公を射殺したスナイパーが愛甲季隆公だった。その後は源頼家公を守ろうとしたが守れず、打倒北条家の兵を和田義盛公が蜂起して和田合戦が勃発すると和田勢に加勢し敗戦した。
愛甲家の愛甲郡(厚木市~愛川町~相模原市津久井一帯)の支配が終わると大江広元公が小野の毛利台に所領を与えられて小野神社を支援した。
つまり、この神社は文武両道、学生の味方に成ってくれたり社会人の実務力やスポーツ向上等、言うなれば知恵と健康の神様な訳だな。
ここは春の景色が素晴らしい。
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桜が咲き乱れるが花見客も少ない。
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この正月02日は先に御夫婦の参拝客がいた。他にも娘さんと3人の若い親子連れ。
・・・う~ん羨ましい。まぁ、小生はこういった御縁は無い人生なので社会の役に立つ事に注力している。それはそれで幸せなのだろうが、素直に夫婦で寄り添う姿は羨ましい。
まぁ、人には役割と言う物が有るので今は神社や御寺や史跡や自然を守る活動に与力するのが小生の役割なんだろう。結婚する様な御縁が有れば、縁は結ばれるモノなんだろう。
だから思うんだよな、何で浮気するのか浮気する男の思考が理解出来ない。小生は過去にも各時代の彼女(笑)との交際中に浮気したいと思った事が無い・・・
だから余計に、こうやって老夫婦が手を組み支え合って参拝されている姿を見ると羨ましく感じる。
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小野神社は現在では宮司様はここに住んでおられない。だから社務所も無人だ。
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御参りしてから事前に連絡してアポをとって置いた小野神社から離れた場所に住む宮司様の御自宅を訪問する予定が有ったのだが、折角、久しぶりに戦国大名毛利家の発祥地である大江家所領毛利台が近いので、毛利台1丁目に記念に行って見る事にした。
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大江家の所領だった毛利の地名が残る毛利台は現在では住宅街だ。
まぁ古来毛利庄は相当広い範囲だった様で、厚木市(愛甲郡)小野~愛甲郡愛川町半原辺りの中津川南岸まで広がっていた様だが現在では毛利台にのみ地名が残る。
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毛利台1-1と表記された電信柱。
ここでの撮影を終えて小野神社宮司の“毛利”宮司の御自宅へ訪問して、3年越しで小野神社の御朱印を頂いた。
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毛利宮司の御自宅の住所や写真を掲載する訳にもいかないので、御朱印を頂きたい人は御自分でちゃんと小野神社を参拝して連絡先を調べてアポをとって下さいね。掲載しない事で朱印だけ目的の輩が小野神社に行かずに朱印受領する不敬な行動を防ぐ事にも成りますから。
小野神社の御朱印を頂いてから次の目的地である前鳥神社と、その御祭神の莵道稚郎子命が埋葬されていた真土大塚古墳の“跡地”へ向けて出発した。
この時点で15時30位・・・
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・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥完結編に続く。





前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、七人塚~上粕屋神社~関東屈指の大城郭糟屋館遺構)←これの続き・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
糟屋舘周辺の散策を終えて洞昌院に戻り御住職に非売品の御守りを授与されてから車に乗り出発、10分程度で次の参拝先の相模国三之宮の比々多神社へ到着した。
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延喜式内社 三之宮 比々多神社
この神社は有鹿神社や寒川神社や大山阿夫利神社等の古社に比肩する凄い場所で、旧境内地からは縄文時代からの祭祀遺跡や古墳時代の豪族の墳墓が多数出土している聖地に存在している。
そこら辺りは以前に紹介記事を書いたので読んで貰えると解り易いかと思う。
以前書いた記事→比々多神社…縄文時代~現代まで存続する神社…神奈川県伊勢原市。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
何でここが古代早くから開けていたかと言えば、目の前を街道が通っており、更に現在の平塚市域等の県央平野部は縄文時代まで海だった影響で湿地帯が広がっており弥生時代に成るまで人が住める場所が少なかったので、現在では大山山系麓の丘陵地帯に位置する比々多神社周辺が人の住める地域だったと言う地形的な理由にも起因している。
そして郡衙が近くに存在していた事も推測されている。郡衙と言っても相模国成立以前の豪族首長が住む小国の国府が起源に成っている訳で、それ故に金環鉄刀やら勾玉やら大量の出土品が出る聖なる土地な訳だ。この一帯は古代人が聖地として崇拝した大山の山頂へ続く参道でもあったので尚更栄えた訳だ。
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この様な場所が神奈川県には多数有り、それ故に仁徳天皇の弟皇子である莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)も古墳時代に現在の神奈川県域に移住して来た訳だ。横浜市本牧や武蔵国南部では軍馬生産が盛んな朝廷の牧場が存在していた事も判っているし、鉄器の製造も比較的早くから盛んな地域だった。
なので天智天皇が馬で山科方面に外出したまま行方不明に成り(暗殺だろう)、弟皇子の大海人皇子が兄帝の天智天皇の子で甥に当たる大友皇子に反逆し軍を率いて蜂起した際に与力したのが東海・関東の豪族達だった。特に現在の千葉県は強大な軍事力を持つ土地だったので、後に上総国下総国等は“親王赴任国”となり皇族しか国守に成れない制度が確立される程だった。
まぁ、天皇家の歴史に関しては各時代の天皇にとって先帝の血筋を武力や陰謀で絶やしたり不都合な事も有って諸説有り正直な所現代ではどの記録が本当の事かは解らない。
まぁ、天智天皇は相模国を重視していたので古代一之宮、今五之宮である有鹿神社で国家鎮護の祭祀を執り行わせ海老名を国府にしたり、古墳~奈良時代の天皇家は特に熱心に神奈川県中央部の延喜式内社や神仏習合の聖地霊場にも関与している事が書物や各神社の伝承から読み取れたりする。
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比々多神社始め神奈川県内の延喜式内社は天皇家が神仏供に大切にした歴史と同じく、神仏習合時代の文化も大切にしているので比々多神社には鐘楼も現存していて、昨年大晦日は除夜の鐘を突かなかったので訪問した正月2日にして心願を込めて比々多神社で鐘を突かせて頂いた。
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寒い1月、境内の焚火が参拝客の手を温めてくれる。
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現在の本殿は古代から戦国時代までの境内地の元宮の遥拝所に当たる位置に存在する。
この比々多神社では御正月に御参りすると横にテントが在り、そこで小さな御守りを無料で授与して下さる。
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御正月の間だけ、臨時の学生巫女さんと神職君が多数雇われており、本殿横のテントでは巫女さんが無料で簡易的な御祓いをして下さり、それが終わると神の護符を授与して下さるんだな。
小生は毎年、これを受領しに参拝している。
参拝を終えて巫女さんに御祓いと比々多神社の護符の授与をして頂き、近くに比々多神社元宮に移動した。
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元宮に行く途中に、古代比々多神社で聖地として大切に守られて来た“埒免(らちめん=囲われた土地=聖域)”の地名が残っていたのに神奈川県教育委員会が保護も事前調査もせずにキリスト教系の恵泉女子学園に破壊容認してぶっ壊した埒免古墳の旧蹟地が在る。
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このキリスト教系大学にも卒業生にも罪は無い。しかし教育委員会には罪が有る。教育委員会は日本文化に無知なキリスト教系大学による神道の聖地の破壊を誘引してしまった訳だ。
この罰当たりな行為のせいか恵泉女子学園は閉校してしまった。これを祟りと感じる人もいるだろう。
でも通った学生さんや働いた職員は例えクリスチャンでも歴史と事情を教育委員会から知らされていたら比々多神社にも敬意を払っただろうし、無碍な古墳破壊もしなかっただろう。
まぁ、こんな神奈川県の教育委員会の罪は比々多神社一箇所に止まらず死ぬ程有って、例えば現在進行形で他府県なら史跡指定受ける筈の続日本100名城の一つに選定されている小机城を開発利権絡みか未だに史跡認定せずに放置していたりする。横浜市最大の蛍の生息地で古代遺跡が大量に出土する地でもある円海山の瀬上沢周辺も東急不動産の開発利権の為に保護を怠り開発容認する発言を林文子市長が行っており、市民から大バッシングを受けている真っ最中だったりする。
更に戦国時代の小田原城の虎口跡の百姓曲輪と、戦国時代初期の関東最大級の規模を誇った扇谷上杉家の大城郭糟屋舘跡の開発許可も昨年、黒岩県知事が陣頭指揮をとって保護すべき所なのに逆に肝腎な城砦遺構残存部分は未調査なまま開発許可が出され現在進行形で破壊の真っ最中だったりする。
昨年は傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャルが、北条家相模十四騎筆頭、間宮家の居城の横浜市笹下城址の伝:本丸と大空堀地形を掘削したり盛土して破壊した宅地化が林文子横浜市長の統治の下で行われ消滅してしまった。
残念ながら神奈川県や横浜市でまともな歴史教養と古来の日本文化と宗教に対する敬意を持っているのは有吉忠一先生や細郷横浜市長や高秀横浜市長くらいだった。
後は博徒系ヤクザ組長の息子が支持者でカジノ作りたがったり海の埋め立て工事の開発利権で建設業界の支持基盤にする市長みたいな売国奴や奸族ばっかりだ。
コイツ等のせいで日本有数の景勝地だった金沢八景の眺望も消されたり、日本有数の霊場だった弘明寺は境内地を大幅に接収されて縮小したり、源頼朝公が開き皇族が宮司を務めた森浅間神社や修験道の大道場だった泉蔵院等も同様の被害を受けて来た。
森浅間神社からは比々多神社同様に古墳が出土している事から鎌倉時代以前から聖地霊場だった場所を頼朝公が修験道系神社として整備させた事も推測出来る。
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現在では埒免古墳のレプリカさえ一般人は近寄る事が出来ず、旧恵泉女学園大学のフェンスの外から写真を撮影する事しか出来ない。
でも元宮は社殿こそ戦国時代の三浦家と北条家の抗争に巻き込まれ焼失したまま復興されなかったが、旧境内地が明治昭和の宗教政策で一般人の土地と成っても徳の高い地元民に守られて旧境内地として存続した。
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近年では元宮の祠(ほこら)がパワースポットとして若者に知られる様に成り(小生の拡散も有り(笑))眺望の良さからも比々多神社参拝のデートコースに成り恋人同士の参拝者を見かける事が多く成った。
少しでも日本文化の役に立ち神格を得て拝み奉られる古代人や歴史偉人に今の日本が有る事と平和を享受出来る事へ恩返しが出来たら嬉しい・・・それが小生の願い。
そして多くの人が神社や御寺を御参りする事で不安感を抑えられたり、生きる活力に成ると嬉しいとも思う。
小生もカップルと親子連れの参拝者に続いて比々多神社元宮を御参りして駐車場に戻ると、次は伊勢原市中心部に在る伊勢原大神宮に向けて移動した。
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伊勢原大神宮伊勢原大神宮は江戸時代に開かれた神社なのでハッキリ言って歴史は薄い。
でも町中の普通の規模の神社としては大変に多くの参拝客で賑わう場所で、境内社の御稲荷様の鳥居も小さいながら立派な明神造りで扁額が掲げられ大切にされ御金もかかっている事が解ったりする。
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伊勢原大神宮は現代では縁結びの神様として有名だが、小生は別の用事が有って参拝した。
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実は伊勢原大神宮の宮司様が延喜式内社高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)の宮司を兼務されておられる都合で、高部屋八幡宮の御朱印はこちらで授与して頂く事に成っているのだ。
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境内には市の私邸保存樹木の大銀杏が有る。
御正月なので先に参拝した比々多神社同様に巫女さんが沢山いらっしゃって、この日は御屠蘇を巫女さんが振舞って下さった。
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小生は車なので口を付けて終り。でも御口清めれて嬉しい。
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御朱印帳を社務所にお預けし待つ間、ここまで珈琲を飲んだのみで朝食も食べていなかったので屋台で売っていた磯部餅と甘酒を購入し朝食代わりに頂いた・・・この時11時半位だったろうか?
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家を出発したのが3時位だったので腹ペコだった。
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甘酒を飲んだのは久しぶりなのでともても美味しかった。
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境内ではダルマさんの製造元が直売も行っていた。荒井だるま屋さんだな。
気さくな社員さんが色々と詳しい説明をして下さった。創業150年の老舗だそうだ。略、横浜開港と同じ程の歴史が有る訳だな。
神様への御参りを終えて社務所に行くと御朱印も書きあがり受付に準備されていた。
高部屋神社御朱印 久良岐のよし
実は以前、糟屋有季公の顕彰活動で別に高部屋神社の御朱印は受領していたのだが、今回は延喜式内社と式外社専用の御朱印帳に改めて頂に上がった次第だ。
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この日は丁度、箱根駅伝の開催日だったので宮司様の取り計らいで神楽殿のプロジェクターを使って中継の様子が上映されていた。
小生はこの後の訪問予定がギッシリ埋まっていたので、箱根駅伝に後ろ髪を引かれながら伊勢原大神宮近くのコインパーキングに移動し車に乗ると、次の訪拝予定の高部屋神社へいどうした。
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高部屋神社
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高部屋神社は昨年、社殿が国指定有形文化財に認定された神社で、古代から存続する延喜式内社の一つだ。
社殿の周りを取り囲むのは聖なる木、1円玉のデザインにも成っている招霊樹(おがたまのき)だな。
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この神社は明治時代まで古代からの宮司が海まで海藻を採取しに行く塩汲み神事が行われていたが明治の宗教改革の失敗で神道も仏教同様に衰退し一時断絶していたのを昨年150年ぶりに今の宮司様が復活させた。
現代の伊勢原大神宮の宮司様が兼務されているのだが、古代からの神事を現代に復活させる試みは本当に素晴らしく、神職として日本文化を守る気概に満ちていると思う。
東京新聞の記事→伊勢原の高部屋神社 大磯の海岸で執り行う
以前、小生もこの神事を記事に書いて紹介した甲斐が有ったと思うし、この神事が中絶しても語り継いで下さった氏子さん達には敬意を感じている。先一昨年だったろうか、この古代から続く神事の事を小生に伝えて下さった氏子さん、本当に良かったですね!
以前書いた高部屋神社の記事→
高部屋神社で氏子さん達と「文化財登録おめでとうございます」等と雑談を色々と10分程話し込み、次の目的地であり戦国時代の毛利家の発祥地愛甲郡毛利台へ移動した。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤に続く。










 

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
洞昌院で御住職に新年の挨拶をし太田道灌公の御位牌を拝ませて頂く許可を頂き、御位牌で太田道灌公に御挨拶。その後に道灌公胴塚御廟にて、太田道灌公を供養した北条早雲公と万里集九禅師にも改めて道灌公と合わせて新年の御挨拶と、歴史オタクとして社会の役に立てる様に心願成就の御加護を御願いしたりした後の続き・・・。
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洞昌院の周辺は神話時代に当たる縄文~弥生時代からの祭祀遺跡やら古墳時代の墳墓が沢山発掘されていて、それ等の聖地を昔は境内地として守っていた神社やら、早くから人が住み着いた耕作地帯であり交通の要所でも有るので室町幕府鎌倉公方家の重鎮で関東管領も務めた扇谷上杉家の本拠地も一時、この直ぐ近くに置かれていた。それが糟屋館だな。
せっかく洞昌院に参拝したので、散歩がてら周辺の神社や史跡を散策する事にした。
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道灌用水と言われる。今、空堀と伝わる地形・・・
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この用水路は空堀の在る洞昌院側の台地に存在するのだが、実は元々、この水源は外堀側に向かって流れていたそうだ。それを上流で空堀側に流し湿地化させて沼堀として機能させていたそうだ。
これは現地を歩かず民話を取材しないメジャー文献テンプレ学者は知らん事なのだが。扇谷上杉家臣の太田流の築城術の特徴は周りが沼地の台地を選んで城を作る、もしくは水を引き込み堰堤を作り水を堰(せ)き止めて強制的に沼地にするんだな。
これは扇谷上杉家の戦国時代以前の本拠地だった大庭城や、扇谷上杉家が乗っ取った佐原三浦家つまり三浦道寸公の本拠地だった伊勢原市~平塚市に跨る巨大城塞の岡崎城なんかがこの全てこの構造だった。太田道灌公の御父君の道真公が縄張りした川越城も、太田道灌公が江戸家から接収して改修した江戸城も同じ立地だな。
ついでに言えば旧扇谷上杉家家臣大森家の本拠地だった小田原城も小田原北条家によって総構えが建造される以前から湿地に囲まれる要害だった。
[小田原城]
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[江戸城]
江戸城
[川越城]
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[岡崎城]
岡崎城主要部分縄張り図
それに合わせて喰い違い状に屈曲させた大空堀で丘陵上に堀切と土塁を築くのが大庭城や長尾台城や高月城にも見られる構造で、この3城は地形も糟屋舘大城廓に似ている。
※以下日本城郭大系より拝借。
[大庭城]
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[長尾台城]
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[高月城]
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糟屋館跡は昭和の農地改良で見事なまでに台地上の遺構は削平破壊され土塁は削られ堀は埋められサッパリ解らなく成っている、が!この喰い違い構造の名残りと思しき物が上の画像で糟屋館の立原で不自然な直線がクランクしている農道が拡張されて道路だろう。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
そして、この糟屋館の規模は神奈川県教育委員会は❝故意にか?❞言及しないが関東での戦国時代における城郭として、小田原城>岡崎城=江戸城=糟屋館=滝山城>河越城と推定城域が同程度の規模が有る名城なのだ。山内上杉家に糟屋館が狙われた際は、この城を守る為に扇谷上杉定正公は出張先から200騎だけの手勢だけで自ら危険を冒(おか)して急行し、1000余の山内上杉軍の先手を迎撃、撃破している・・・これが実蒔原合戦と呼ばれる扇谷上杉定正公が戦上手と呼ばれる所以の勝利なんだな。
まぁ・・・ここを守る間に弟の扇谷上杉朝昌公の守備する厚木丹沢方面の要所の七沢城は救援出来ずに失陥しているんだが。
この糟屋館と“館扱いされている”台地と周辺の寺院や外郭を含めた日本で最先端の❝平山城形式の大城郭❞は扇谷上杉家にとって重要な場所であり、佐原上杉家没落後に相模守護代と扇谷上杉家執事を兼務した太田道灌公が公務を行ったのが洞昌院であり主家は糟屋館にいた訳だ。
本来ならば規模からも歴史的意義からも伊勢原市役所に任せる様な場所では無くて“文化庁が介入すべき案件”であり“黒岩知事御自身が破壊容認する前に陣頭指揮を執って神奈川県庁が発掘と保護と公園化すべき場所”なんだが。
まぁ、そんな訳で洞昌院一帯を散策すると神奈川県と黒岩知事が認めず公表しない城跡と、古代からの神社が有るので散歩には事欠かないし伊勢原は大山の御膝下なので空気が綺麗で清々しい。
洞昌院から糟屋館の馬攻口へ向かって歩いて行くと、途中に七人塚が在る。
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七人塚CIMG6155
この七人塚は太田道灌公の忠臣達が一部のアホの歴史学者の不見識を暴露してくれる場所でもある(笑)。
大田道灌公は湯殿入(地名)側から馬攻口を降る道すがら、宿舎の洞昌院の塔頭寺院に向かう途中で主君の扇谷上杉定正公の手勢に襲撃された。風呂に入ってる最中に殺されたって通説は大間違い(笑)。
因(ちな)みに虎口ってのは小口が転訛した言葉でとどのつまり、敵勢を殺す機能を持った城門や通路の事だな。
一部のアホの歴史学者が「太田道灌公は湯殿入りで襲撃された」と言う記述を「入浴中に襲撃された(笑)」と頓珍漢な解釈をしているが、コイツ等は如何に現地取材をしていないかが良く解る(笑)。
❝湯殿入り❞ってのは郵政法制定以前に残っていた地名の字(あざ)の小名(こな)で台地上、空堀近くの地域の地名なんだな。
糟屋舘大城郭の虎口に当たる辺りの湯殿入り、つまり湯殿入りってのは糟屋舘の湯殿方面の虎口な訳だが、主君との面会を終えて宿舎の洞昌院の塔頭へ帰り際、その城門か食違い虎口の中で太田道灌公は恐らく弓矢で襲撃され一先ず堅固な洞昌院に瀕死の様態で逃げた訳だが、その時に自らも傷を負いながら主君の太田道灌公を逃がす為に追っ手を迎撃妨害した7人の忠臣達が眠るのがこの7人塚な訳だ。
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こうやって正しい事件の全貌を辿らせてくれる場所に眠る忠臣の名も伝わらない武士達に敬礼の意味を込めて参拝した。
七人塚の直ぐ近くには凄く立派な参道が残る上粕屋神社が在る。
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上粕屋神社CIMG6147
冬に来たから立派な木々の参道しか目に付かないが実はあの参道は桜の木々で春にはとても美しい景色に成る…
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・・・ほらね?だから皆さん、洞昌院一帯をお散歩するなら春が御薦めなんだな。
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この地域は“山王”と呼ばれる地区なのだが、現代では上粕屋神社と呼ばれるこの神社は本来は神仏習合の山王権現だった。
大同弘仁年間(大同806~810年、弘仁810~824年)に開かれた神社で、つまり延喜式式外社と成る古社な訳だ。延喜式神名帳に掲載されなかったのは山王❝権現❞として神仏習合のどちらかと言うと天台宗に近い修験道の道場だったのだろう。この小生の推測を補強するのが新編相模風土記稿に掲載されている方の異なる上粕屋神社の縁起で、そちらでは天平年間(729~749年)に良弁大僧都(だいそうず:超エライ和尚さんの役職)が開いたと伝わる。
恐らく上粕屋神社の始まりはこうだ・・・
良弁(ろうべん)和尚は東大寺を開いた歴史偉人だが、この伊勢原市を聖地として密接に関わり訪問している。伊勢原市の大山は現代では国定公園だが、古代からの聖地で大山山頂には神の化身の岩が祀られ縄文時代からの祭祀遺跡が出土する聖地なのだが、そこを守っていたのが大山寺石山権現大山阿夫利神社なんだな。
良弁の滝 Googlemap 久良岐のよし
そして大山には良弁大僧都が滝行を行った場所も今でもあるのだが、良弁大僧都は華厳宗の僧侶なのだが日本神話や聖地霊場を後の空海和尚様や蘭渓道隆和尚様や道元禅師同様に大切にされた人物の様だ。
だから大山にも来たし、上粕屋神社の前身の山王権現の更に前身と成った霊場を開いたのだろう。そして、その霊場と成った所縁の古墳や古代からの祭祀場が一帯には存在したのかも知れない。
もっとも、良弁大僧都がこちらにいらした理由は現実的な理由が大きかった筈だ。行基大僧正も近く八菅神社七所権現を天皇家勅願所に定めている・・・
古来、伊勢原市大山や愛甲郡愛川町八菅山は自然信仰と神話の聖地として古代豪族や天皇家から崇拝され祭祀が執り行われたので“寄進(きしん=浄罪=金銭宝物)”も集め易かった訳だ。良弁大僧都と行基大僧正には金が、こと銅銭がこの時期必要だった。
・・・即ち東大寺の造営と東大寺大仏の建立だな。つまり伊勢原市大山や愛川町八菅山は行基財団の重要な拠点として機能していたのだろう。多分ね~(笑)。
そして上粕屋神社の始まりは恐らくこうだ・・・
伊勢原市周辺聖地史跡MAP 久良岐のよし
・・・現実的には目の前を旧大山街道が通るので、大山参詣の宿泊所として良弁大僧都が草庵として天平年間に開いて神様を祀っていた場所に、後に大同年間に天台宗系僧侶が大山詣りの修験道場や宿坊として運用する様に成り、比叡山の山王権現日枝神社を勧進したと推測すれば風土記と伝承の矛盾が解消され極自然な成り立ちと成るだろうとも思う。
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境内には立派な楠木も在り、参拝客に歴史を感じさせてくれる。
この上粕屋神社が大山詣り参道の脇の宿舎だったと推測する理由はもう一つある・・・
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神社の裏は糟屋館の空堀なのだが、この神社一帯が糟屋館の裏口、馬攻口だからだ。
堀は戦国時代当時は堀底道として機能していただろう。
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今でも食違い状に道がクランクしている。
そして糟屋館の台地~上粕屋神社の山王地区の台地には引橋(ひきはし=戦時に収納できる橋)が架かっていたかもしれない。
恐らくこの道は戦国時代から存在する道なのかも知れない。今も糟屋館の台地から続く比較的太い道が有り、近年開削された道も直ぐ近くを通る。
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上粕屋神社裏から堀底に続く道。これが道より以前の本来の“古代の道”だろう。
アスファルトの道は恐らく引橋で連結されていたであろうと小生が推測する理由は、台地と台地の同じ高さで連結出来る高さに合わせ開削されているので橋を架ける前提の構造なのだ。だから城砦化されて以後の道だと思う。
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降りて来ると空堀に出る。空堀を進んできてから上粕屋神社側一度登り、引橋を渡って湯殿入り虎口に入る構造だったのだと小生は現地を歩いて推測している。
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今では道路が大空堀を断ち切る様に有るが、これは後の人によって盛土されている事が明治時代の地形図を見ると未だ存在していないので良く解る。
迅速測図 上粕屋神社周辺 久良岐のよし
まぁ、そんな訳で小生はここに引橋が在ったと推測する訳だな。
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正月2日目、畑地と成った大空堀には霜が降りていた。
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ここを過ぎると食い違う道、そして右手には削平地が永遠段々に続く。これは城マニアが見るとどっからどうみても食違い虎口を開削して広げた道だろう。そして削平地は帯曲輪群が畑に成った物だろう。
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扇谷上杉家糟屋館大城郭址現在、黒岩知事に由る糟屋館大城郭は県道バイパス建設中で金網で仕切られ入れない場所が多いが、“城跡が現存するのは台地上では無く側面の崖地”なのでグルッと廻れる所まで周って見る事にした。
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小生が子供の頃にも伊勢原の義叔父の家に遊びに来ると、こうして畑の農道を散歩し田圃の用水路でザリガニ釣りをしたもんだ。
金網の範囲外でも結構歩ける場所が有った。
まぁ、大人に成ってカメラ持ちながら歩くと有るわ有るわ城の遺構。
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武者走り。
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破壊真っ最中の外堀側にも土塁が残っている部分も結構ある。
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黒岩知事が破壊承認した外堀を見下ろす農道に成っている武者走り状の地形。
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その下にも帯曲輪群が沢山現存していた。
実は2016年に神奈川県は道路建設による破壊に伴って“名目的に発掘せねばならず”発掘調査を行ったのだが、これが笑い話にも成らない発掘チーム編成で、発掘したチームの中には“1人も城郭専門家が含まれていない”まま行われた。結果的には当然、彼等が地形を見ても城の構造を理解出来る訳も無く、肝心の側面の帯曲輪群と武者走り群、そして彼等が自然地形としか認識できなかった城マニアが笑う(笑)顕かに裾切りされている地形は一切報告されていない。
「あれ?学者じゃない小生が歩いても沢山有るんですけど?巨大な城だった遺構が(笑)?」
これは考古学のチーム編成で発掘調査させた“神奈川県教育委員会が故意に城の専門家を入れなかった”んじゃないかと小生は容疑をかけている。
小生の推測通りならば極めて悪質だと思うし、巨大な城の存在なんて知らなかったんなら教育委員会は不見識で大学生からやり直した方が良いし、道路建設に伴って掘削しコンクリ擁壁で破壊する心算で故意に触れていないなら黒岩知事と教育委員会の担当者と開発担当者と土建屋には扇谷上杉定正公と太田道灌公と実蒔原合戦戦没者の英霊御霊の祟りと山王権現と大山祇神の天罰が落ちるかもな・・・なんてな(笑)。
まぁ、本当に黒岩知事や配下の役人が故意に城郭専門家をいれなかったんなら祟りに遭うだろう。
太田道灌公は北条早雲公と万里集九公によって神格として勧進され、現代では神様に成っている人物だし、扇谷上杉定正公も武勇采配に長けた歴史偉人なのだから御霊は“神道的な考え方ならば”荒神様として御神威が在る訳だ。
まして、ここを開発してる連中は地鎮祭すら行ってないし、太田道灌公にも扇谷上杉定正公にも御参りしてない訳だ。
・・・まぁ、神仏に天誅受ければ良いさ。天誅ってのは自分の心の中から沸いて来てとんでもないミスや事故を引き起こしたり、注意力が散漫に成って隠していた不正が露見したりする事にも繋がるからな。
確か黒岩知事は創価学会だったはずだ。彼は日蓮聖人の聖跡を歩いた事があるのだろうか?
日蓮聖人は非常に日本神話を大切にされ先人を尊敬していた人物として、日蓮宗以外の僧侶や神職の人々にも知られている。千葉神社を信奉し妙見大菩薩=天皇家を守護神と崇め、八幡大菩薩の御神威を崇拝し命を長らえた人物なんだな。そして立正安国論ってのは神仏への理解と愛国心から鎌倉幕府北条政権に提出された物だった訳だ。
神に成った東京横浜に所縁深い歴史偉人太田道灌公が大切にした場所、主の扇谷上杉定正公の御霊が坐す城跡を無かった事にして、そのまま破壊すれば、更に日蓮聖人も御怒りに成るだろうな。
・・・まぁ~、開発の認可を出した政治家と役人と業者が不幸に成ろうが小生には知ったこっちゃないので別に良い。大城郭糟屋館の遺構が存在する事実と破壊時の為政者の悪名と企業担当者氏名を個人的に記事にし公開したり関係先の神社仏閣の檀家サンや氏子サンと共有し子子孫孫まで伝え、末代まで黒岩家や担当者の子孫達に祖先の悪名を晒すだけだな。
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糟屋舘の台地から洞昌院へ向かって戻る途中、江戸時代の関東の人々が伊勢神宮、富士山、江の島と並び死ぬまでに行って見たいと人気の観光地化した聖地だった大山が綺麗に見えた。う~ん、太田道灌公も崇拝していた大山祇神様がいつも神奈川県民守ってくれてるんだな。

蟠龍山洞昌院公所寺に戻ると、小生の姿を見かけた御住職が出て来られて「ちょっと待ってな!」と小生に声を掛けて下さった。
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そして非売品の洞昌院の御守りを授与して下さった。何だか御住職を介して太田道灌公に正月参詣の御褒美に護符を頂いた様でとても嬉しかった。
駐車場で車に乗り込むと、次の目的地で毎年参拝している聖地、比々多神社に向けて出発した。
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ここから又、神社巡りに復帰する。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④に続く。









前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
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冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
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華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
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現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
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・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
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御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
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大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
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今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
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右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
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・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
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例えば金剛寺近くの龍藏神社だが・・・
この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたりした。その一つが龍藏神社で昔の金剛寺の山門はこの附近だったそうだ。塔頭だったのに神社化したので御堂として仏様を安置出来なく成り寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
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例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
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境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
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・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
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・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
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弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
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足利家の家紋だな。
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まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
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英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
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蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
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太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
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御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
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暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
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つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
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写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の源氏山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
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弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
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太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
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御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





この日の行動の結果を先に行ってしまうと朝の7時半から夕方5時まで、略(ほぼ)ずっと登山と下山を繰り返していた。
…スポーツジムよりキツイ。しかも一睡もしていなかった。

前日仕事を終え1時頃に帰宅してから食事と入浴、その後、自分の事を色々やっていたら早朝5時に成っていた…
「仮眠したら又昼まで寝て休日1日無駄にする」
…と思ったので“必殺徹夜強行軍”作戦を決行。
早朝6時半に出発したので一般道でも混まず、横浜から伊勢原市まで50kmは離れているのを、ものの1時間で到着できた。
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最初に通り道に在る洞昌院公所寺を参詣した。
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ここは小生が尊敬し毎日遥拝している歴史偉人の一人である太田道灌公の菩提寺であり、太田道灌公とライバルだった北条早雲(伊勢盛時)公と太田道灌公の親友の禅僧出身の俳人、万里集九とで太田道灌公の首を切り盗られた後の胴体を葬り供養された御廟所が有る。
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今でも御廟所の前には北条早雲公と万里集九が手植えした松の枯れ朽ちた大きな幹が保護されている。
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公所寺には道灌公の御位牌と共に歴住の御位牌を祀る御堂も在る。
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そして公所寺は見事な枝垂れ桜が有り今時分、花を満開にした姿を見せてくれるのを知っているので道灌公への日々、御守護頂いている御礼を伝えに御参りし、そして、ついでに枝垂れ桜も撮影して来た。
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その後、再び車に乗り込み大山へと桜を見に向かった。
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大山国定公園の山麓には所々綺麗な桜の樹が満開に成っていた。
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そこかしこに立派な桜が咲いている。
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大山は山の頂上に霊石が有り江戸時代は石山権現と呼ばれた。大山の存在自体が縄文時代からの聖地だった。
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だから今でも多くの御社や石仏が有り、神職、僧侶、修験者達そして庶民が聖地として身を清めた滝が現在も沢山存在する。
古代に頂上に存在した祭祀場を起源に持つ延喜式内社の相模国十三座の内の一社である大山阿夫利神社と、天平勝宝七年(西暦755)年に大山阿夫利神社の別当寺として日本初代の大僧正と成った行基大僧正と東大寺の大仏建立に尽力した良弁僧正が開いた大山寺の参道が現在の登山道の下半分だ。
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そこには古代~人が通い、江戸時代には大いに栄え宿坊が立ち並び、お伊勢参りや出雲大社詣でと並んで多くの人で賑わっていた。そんな場所だった。
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現在でも参道には沢山の御土産物屋さん、宿坊が営業している。
大山は古代からの水の聖地、そして海上交通のランドマークとして武士や海産物関連の商人や漁師、廻船問屋つまり現在で言う所の商社マン達から崇敬を集めた。
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だから多くの人間が山頂の奥院目指して参拝に来るので山を案内する修験者や僧侶や神職が先導師(関西で言う御師)と言う今で言う聖地巡りのツアコンを兼ねた宿屋を営業していた。
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だから今でも其(そ)の文化は続いていて多くの宿坊が営業し温泉街として情緒豊かな風景を留めている。
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昔から清涼な水を利用した豆腐料理を出す茶屋、清酒の蔵元も営業している。
昭和初期まで大山特産の土産だった“コマ”を製造販売している店も減ったが今も有る。小生が子供の頃は目の前で職人さんが木を削りだし塗装をする所を見学出来た。
そして山伏でもある修験者達は優秀な猟師でもあるので猪鍋や鹿鍋を出す茶屋と宿坊も多く、美味しい聖地でもあるのだ。

さて、今回の目的は主に4つ有る。
①大山の“普通の桜”と“樹齢1000年を超すという大山桜”を見る事。
②子供の頃から何回も参詣に来ている大山阿夫利神社なのだが何時(いつ)もケーブルカーでしか登っておらず下社までしか行った事が無いので山頂の奥院へ初登頂し奥院の御朱印を頂きたい事。
③駐車場より先、昔からの参道の登山道の風景を写真に収める事。
④猪鍋を食べる事。
参道へは到着したものの、問題はここからだった。
実は大山桜の場所はネットで検索してもGoogle Mapにも出て来ない。何故なら山林の中に自然に根付いた大樹で遊歩道などそもそも整備されていなかったから。だから大山桜を見るには地元の観光案内所で生き方を教えて貰うしか無いのだが、早朝の7時半にやっている観光案内所なんぞ田舎に在る訳が無い。
なので先に神社を参拝して、その後に標高約1300mの山頂の奥院(本宮:江戸時代まで石山権現と呼ばれた山頂の聖地)を御参りしてから下山して観光案内所に行く事にした。
※Google Mapには見学後、小生が位置を登録し公開して置きました。
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さて無論、早朝なので大山阿夫利神社下社までの登山ケーブルカーも運航していない。
…下社まで選択の余地無く強制徒歩登山決定(笑)。まぁ、歩く心算だったが甘えは許されない訳だな。早くケーブルカーにも乗って写真を撮りたいと言う気持ちも有ったので、甘い自分が出ない時間帯で良かったと思う。
なんでケーブルカーに乗りたかったかと言うと下社までも可也(かなり)キツく疲れるのも当たり前だが、何より昨年秋に新しく導入された車両と言うのが鉄道の2016年度グッドデザイン賞か何かを受賞しているのを知っていたので、以前の車両とどう違うか早く見たかったからなのだ。
しかしまぁ、諦めて帰りの楽しみにする異にした。
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大山ケーブルの駅の横には小さな神社が在る。
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悪縁邪念を断ち切る神社なのだが…早々に甘える邪念を払う御利益が有った訳だ(笑)。
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往路は初めて山腹の駐車場から徒歩で頂上の奥院まで登る訳だが、大山ケーブルの横に昔からの登山道が有る。
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左に行くと女坂、比較的登りやすい道として有名。
右を行くと男坂、結構キツくて登山者に有名。
小生は勿論、男らしく男坂…では無くて体力温存を考えて女坂を選んだ(笑)。
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階段上がって直ぐの所に廃屋が有った。
昔は御土産屋さんとして営業していたのだろう。開いたままの雨戸から中が見れた。
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う~ん…妙に生活感が有る。本当に廃屋のはずなんだが、最近までj人が居た様な気配さえ有る。
洗濯物とか有るし。商店に良く有る飲料用冷蔵庫が有るので、やはり昔は土産物屋さんか何かだったのだろう。
ケーブルカーの開通で客足が遠退いたのか、御店主が山を下りて御子さんと同居する事に成ったのかは分からない。
中腹の大山寺と大山阿夫利神社“まで”の参道の風景は体力的にも余裕が有り楽しめた。
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まず最初に登山客が出迎えてくれるのが“追分社(おいわけしゃ)”の八意思兼神だ。
この神様は天照大神の参謀総長の様な役割の神様で小生が崇拝する地元の神様の内の一柱(神様を数える単位は柱)だ。
思金神とも書く。
“追分”と言うのは道の分岐点の事。
この男坂と女坂の分岐点に思兼神が祀られていると言う事は昔の人は、この思金神を通じ登山者に対して…
「自分の体力と良く相談せいよ」
…と言う意味合いも有り追分社として御祀りしていたのだろうか?昔の宮司様達は今の神社と少し違って神様の役割を万能とは捉えておらず、それぞれの役割が有ると認識していたので、この神様に礼拝する事によって登山者自身に考えさせる機会を作る事で神様に御利益を発揮して貰い巡礼者達を守って貰おうとしたのかも知れない。
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この辺りは江戸時代に整備された石段も状態が比較的良く歩き易かった。
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渓流の景色も良い。
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そして道端の草花がとても綺麗だった。
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源頼朝公も登った多くの可愛らしい石仏や深い渓谷の風景が登山を単調なモノにはさせず小生を楽しませてくれた。
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昔は多くの人がここを通り、お参りしたんだろう。
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大山の空気も聖地だからと言うよりは神奈川県の内陸部の海側に面した山の中で一番高い場所なのと国定公園で自然林と水源が守られているので“ヒンヤリ”と“凛として”いて“清々しい”空気が漂い、汗が噴き出す体を冷やしてくれるので心だけは清涼な感覚を得る事が出来た。
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 少しづつ参道の階段の角度も急に成ってくる。
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でも登山客は道端の石仏や樹木の伝承を書いた看板を読む為に立ち止まると良い休憩に成り、体力も回復しながら昔話も楽しむ事が出来る。
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そうこうする内に最初の目標地点、大山寺に辿(たど)り着いたのだが、こんな余裕は大山寺や下社までだと言う事を未だ、小生は知る由も無かった。。

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 大山寺の手前には上の写真の前不動様と…
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 …現在は廃墟に成っている昔の大山寺の庫裡、来迎院(らいごういん)が在る。
来迎院は庫裡だったのだが、登山客の為に宿坊として機能していたそうだ。現代では山の下に新しい来迎院が建設され、登山客の減少も有り閉鎖され廃墟に成った。CIMG3207
庫裡の横の崩壊した部分には、過去帳と思われる文書が放置されていた。良いのかなコレ?
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前不動明王の横には元々二重の滝の横に現在は二重神社に明治時代にとって代わられた龍神堂が移築保護されている。
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廃仏毀釈の悪影響だ。名前が堂と言うだけで仏教施設として排除されたのだが、実は徳川家光公が二重の滝の横に御堂を寄進するまでは二重の滝自体が聖地として存在しても、宗教施設は存在しなかった。
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良弁僧正が神様より霊感を授かって開かれた聖地が二重の滝の霊場だったのだから、そのまま他所の地域と同じように「龍神社」に名前を変えるだけで良かった筈なのだが、特に八大竜王関連の宗教施設は牛頭天王社や祇園社と同じく弾圧の対象に成っている場所が多い。
先に述べたが大山は縄文時代から山麓の多くの滝が信仰対象に成っていた山頂の霊石が御神体崇拝対象だった聖地で延喜式神名帳の阿夫利神社が形成された。
古代から山頂では祭祀が行われており縄文~古墳時代の祭祀遺跡が出土している。
山頂からは海洋生物の化石も出土しする古代の海底だった地盤なのだが、ここはフィリピン海プレートと北米プレートがぶつかり合いせり上がる巨大な断層帯な訳だ。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
気象庁が公開している「地震の発生のしくみ」を見ると解り易い。正に大山と富士山は同じプレートの境目の上に存在している。神話で大山祇大神(おおやまづみおおかみ)の権化とされる大山と、此花昨夜媛(このはなさくやひめ)の権化とされる富士山が父と娘の関係なのも、あながち間違いでは無い訳だ。
そんな地理上のパワースポットで有るからこそ、水が豊富で特殊な三角形のランドマークに成る山に成った訳だ。
だから自然崇拝の対象にも成り、古代人の聖地に成り奈良時代~鎌倉時代~室町時代~安土桃山時代~江戸時代を通じて文化と歴史の蓄積で醸成された精緻なな訳だ。
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そして、平安時代には良弁大僧正が日本神話を大切にされた方だった事と古来の聖地をちゃんと認識しておられたので天平勝宝七年(755年)に神宮寺として大山阿夫利神社と同じ御神体を石山権現として神仏習合の形式で奉戴する大山寺が造営され、第三代住職を弘法大師空海和尚が勤めた歴史が有る。
当初は現在の大山阿夫利神社と同じ場所に仲良く一対(いっつい)に成って存在していた。
弘法大師様も尾張国一之宮真清田神社で庶民の為に雨乞い神事を行ったり、神奈川県では日本武尊の聖地を回っていたり、そこかしこに牛頭天王社や太子堂を造営した神話と仏教を両方共に大事にされた人物だった。
大山の聖地も古代に突然完成し明治に至った訳では断じて無い。
仏教も日本文んか形成に大いに貢献している事を、現在の神社本庁のトップである石清水八幡宮の田中恆清宮司も重視しており神仏習合の価値観を大切にしておられる訳だ。小生の祖先は大宮司だが、歴史を理解しているから歴代の天皇や尊敬する武将達と同じく御寺も大切に思う。
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大山寺は明治時代に神仏分離令と廃仏毀釈によって現代の場所に移転した。
寺に着いて直ぐに目にした、廃仏毀釈のせいで荒廃してしまった大山寺の管理を行う来迎院(らいごういん)の朽ち果て半壊しているの様子が痛々しかった。
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この日、幸運な事に大山寺は国宝の御本尊の不動明王様が御開帳の日だった。色々と管理人の女性職員の方と雑談をして予備知識を御教授頂いて情報収集をして、御朱印を御願いしてから書き上がるのを待つ間に御本尊を拝観させて頂いた。
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堂内撮影禁止なので写真に収める事は成らなかったが、とても威厳の有る不動明王様だった。
この御寺が今の阿夫利神社と一体だった時代に源頼朝公や太田道灌公や徳川家康公が同じ御本尊様を御参りしたと思うと何とも光栄な体験をさせて頂けた。image
参拝と堂内観覧を終え、御朱印を頂いてから再び登山を始め阿夫利神社下社を目指した。
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途中、登山列車の大山ケーブルの新型車両を参道の荒れ道から見る事が出来た。CIMG3219
外観は余り奇抜では無かったので「乗って見ないと判んねぇ~なこりゃ」と言う感想しか湧かなかった。
つがいのカエルも見る事が出来た。
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けど余り可愛くないな(笑)。両生類と爬虫類は可愛いと思わない(笑)。
でも、雨の使者でもあるので雨乞いの神様でもある大山に相応(ふさわ)しい生き物のつがいを見る事が出来て幸運だったのだろう。
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(小生にとって)少し苦労して下社の直ぐ下の茶屋の場所まで辿り着いた。
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ここまでユックリ来たので1時間半位はかかっただろうか?
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茶屋の名前は「さくらや」と言う。
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大山に来る度に名物の“豆腐ソフトクリーム”を食べる店で、店員の女性は名物姉さんに成っている人物だ。
さくらやに意味の解らない暖簾(のれん)が掛かってた…
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「ルーメソ」
…と書いて有る。珍しくてTVでも紹介されたそうだ。
店の姉さんに知ってるか?と聞かれて気に留めた事も無かったので改めて「何だろ?」と聞いた所、首を横に倒して見てみろと言われた。言われた通りにすると…
「ラーメン」
…と縦に書かれた「幟(のぼり)」を横にして暖簾に使ってしまったらルーメソと読めて人気が出たのでそのままにしているそうだ(笑)。
とりあえず姉さんに何時(いつ)も通り呼び込まれ、豆腐ソフトクリームを注文した。CIMG3225
姉さんが汗をかいた分の塩分補給に漬物をサービスで出してくれた。
疲れたし、まだ朝食も食べていなかったので朝食もとる事にした。
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ユカリご飯と味噌オデン(蒟蒻の田楽)を注文、何ともヘルシーな朝食と成った。
食事を終えて出発しようとすると、山頂に行くならコレ持って行きなと姉さんが気を回して登山用のストックを持って来てくれたのだが…
「アンタにはコッチの方が似合う」
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…と、修験道の山伏さん達行者が使う「金剛杖」を渡された(笑)。
まぁ、小生は見た目が厳(いか)ついから確かに似合うだろう。CIMG3229
小生も異存無いので有難く“さくらや”の姉さんの好意に甘え、装備を一つ増やして登山に備えれた。これが帰路下山する時に大活躍してくれた。
姉さんありがとう!
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登山する前に、当然、大山阿夫利神社下社を参拝した。
参道の階段に台湾の会社が奉納した石柱が有るのに気が付いた。
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今まで気が付かなかった。先日、台湾人の友人夫妻が横浜に遊びに来てくれたので、台湾の二文字が直ぐ目に留まった。まぁ、「台湾省」と書いて有るのが小生的には微妙なんだが。そこは中華民国台湾で良いんじゃないのか?
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この神社は夏と秋の期間限定で麓の参道の宿坊街からここまで、燈篭で照らす御祭りを開催している。
※詳しくは以下の過去記事を御覧下さい。

大山阿夫利神社下社の社殿の下には霊水の泉が有り、そこで霊水を汲み取る事が出来るし飲む事も出来る。美味しい。
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 御参りし、この神泉の水を飲んでから神社の職員サンと話し、前日の雨を踏まえて本来の頂上の奥院を目指す参道と、見張る台経由のなだらかだが遠回りの道とどちらが良いかリサーチ。
正式な参道で頂上を目指すことにした。
奥院への登山道の入り口には浅間神社が在り、大山祇大神の娘の姫神様である此花昨夜媛様と磐長媛様が祀られている。
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浅間神社は一般的に此花昨夜媛様を祀っている場所が多いので、珍しいと思う。
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此花昨夜媛様は美人だったらしい。磐長姫様はブ〇だったのだが永遠の寿命を持つ媛神様だった。
二人とも天皇家の祖先神である瓊瓊杵尊様の御妃様に成る予定で父神の大山祇大神様は 準備していたのだが、瓊瓊杵尊様が磐長媛との婚姻は拒んだので、以後、天皇家の寿命は一般人と同じに成ったと神話に書いて有ったりする。
う~ん、小生は性格が二人とも同じ程良いのなら、健康さの強い磐長媛の様な人と結婚したいとも思う。まぁ、一番大切なのは気が合うかと価値観や趣味をお互いに理解出来るかとかだよね。

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まぁ、無難に正式な参道の方を選んだのだが、しかし、これが失敗だった。
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登り始めは良いのだ。
石段を登って直ぐの所には旧白山神社の在った場所が有る。今は石碑だけ。

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この先から直ぐに、下社までの参道とは難易度が違う事を理解する事に成る。
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江戸時代には伊勢神宮や出雲大社に比肩する程に人気の聖地巡礼の場所として庶民や徳川幕府によって整備された石畳も、明治時代の廃仏毀釈後に神社と御寺が無理矢理分裂させられ大山信仰が衰退してしまうと、石畳の修復もままならず、現代では降雨による土砂の流出で石段の石材が全体的に崩落し歩き辛い障害物でしか無くなっていた。

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仏教と一緒の信仰対象だった事も有るし、自然崇拝では無い神社の社殿を重視した明治政府政府の宗教政策では大山の頂上の聖地への参道整備を支援しなかったのだろう。
これはプロテスタント派キリスト教を模して日本の宗教改革を目論んだ森有礼が悪い。
とは言え、途中で面白い場所も有った。
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夫婦杉。
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縁起の良い御神木の在る場所を通れて嬉しい。
しかし短気で根性無しの小生である。
大山阿夫利神社奥院の在る頂上までは都合28町目(富士山で言う所の1合目とかの単位)まで有る。
10合目で疲れた。
出てくる言葉は「怠(ダル)い」「歩きにくい」これしかない。CIMG3258
実際、すげ~歩きにくいし。最早、下社までの参道の頃の様に整備された状態を辛うじて留めている石段は何処にも無い。小生の様な山城以外に山を登らないトレッキング素人にとっては只単に質(タチ)の悪い岩山化している。
最悪だった。しかも前日の雨で泥濘(ぬかるみ)まくり。
歩き易くする為(ため)にジーンズを膝下までたくし上げている脹脛(ふくらはぎ)は泥だらけ。
景色を楽しむ余裕なんぞ1mmも無い。

しかも周りの登山者は皆、登山玄人っぽかったが年齢的には見た目60歳前後。
あとたまに、30歳位の美しい女性友人ペアとか。
女老人に体力で負けたくない。
チャリチャリ熊鈴鳴らし歩くオッサ…紳士を抜き去ってから、ほぼ同世代の男性と女性の混合チームと会い雑談をした。やはり小生と同じく素人で「風景を楽しむ余裕なんかない」との事(笑)。暫し話してから先に行かせて頂いた。
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江ノ島が見える。
まぁ、悪路の先にはちゃんと休憩出来るベンチが有る場所も有ったりして、人間と言うのは椅子に2~3分座ったり写真を撮ってる間にも体力がちゃんと回復するのだなと実感出来た。
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牡丹石なんてのも有った。
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思うに富士山の噴火の際に積もった火山灰に、火山弾が飛んできてメリ込んで、そのまま固まった石なんじゃないだろうか?これに付いては知識が無いので只(ただ)の推測でしかない。
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天狗の鼻突き岩なんて奇岩も有った。
大山は天狗信仰の場所でもある。大山の御祭神にOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)と言う龍神様がおり、まぁ龍神なので水神様な訳だ。これが先に説明した二重の滝の神様や龍神堂の八大竜王の本来の神様の名だろう。
そして、同じく山岳信仰の場である東京都多摩地方の高尾山も同じく“たかお”の地名と“天狗信仰”の場でもあるのは無関係では無いだろう。そんな事を考えながら良い休憩が出来た。
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何と、この石柱は強力(ごうりき=運送屋)が人力で担ぎあげたそうだ。まぁ、それ以外に運搬手段が無いのでそうだろうが、凄いな。
江戸時代の飛脚の写真なんかを見ると、とんでもない体系だったりする。筋骨隆々で皆、ヘビー級の総合格闘家の様な体系をしている。だから江戸時代の官僚化した武士は絶対に火消しや飛脚なんかに喧嘩を売らなかったそうだ。
まぁ、相手によっぽどな落ち度が無ければ刀抜いて町人にケガさせた時点で武士も重罪に処されるから、素手で投げたり殴り合ったりしたら町人の方が凄まじく強かったりしたんだろうな。
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途中、富士見台は生憎の曇天で富士山見えず。
思わず「チクショーメ‼」と、解る人には解る言い回しで言いそうに成る残念感。
実際は「富士山見えねぇ~し!」とボヤくと…
小生より少し若い見目麗しい女性ペアが「ですよね~」「下は良いけど上は全滅ですよ~」と素敵な情報を提供して下さった。
…しかし綺麗な女性と話した事で士気は下がらず、熊鈴のオッサン(言っちゃった)に追いつかれる事も無く山頂奥院まで登り切れた。熊鈴のオジサン、ありがとう。御蔭でダレる事無く登り切れました。
勝手に目標作れた楽しかったし(笑)。
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山頂の手前27町目で鳥居が見えて、ちょっと安堵感が湧く。
参道の石畳も何となく原型を留めた姿が復活する。
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頂上に登ると前宮
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拝殿?
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奥院が在った。
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先に御参りを済ませて、風景を見たがやはり富士山は見えない…
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でも看板には「振り向けば富士山」と書いて有る。CIMG3274
…悪天候は想定していないのね(笑)?
スポーツジムで2時間以上トレーニングしたよりも汗だくだくに成っていたので、脱水症状予防に売店でスポーツドリンクを買った所、不愛想なオッサンがウンともスンとも言わず金だけ受け取り黙ってドリンクを置いて奥に引っ込んでしまった。
頂上で商売敵もいなので殿様商売が罷(まか)り通るんだろうな~。でもまぁ~こんなもんだろう。CIMG3277
富士山は見えなかったけれど、伊勢原市や厚木市、綾瀬市の市街地は望む事が出来た。
残念ながら小生が大山阿夫利神社と同じく毎日御祈りする有鹿媛様と有鹿彦の夫婦神様がいる有鹿神社の本宮と奥宮の在る海老名市や相模原市は見渡せなかった。

帰路は石ゴロゴロの悪路を歩きたくないので見晴台経由で二重の滝を通るルートで阿夫利神社下社まで戻る事にした。
この選択が又失敗だった。
実は、そちらの道は坂は緩やかで岩も無いのだが、岩が無い分地面が土で、更に手すりも林道両脇に掴める木も無く横は断崖だった。
つまり前日雨だったので泥濘(ぬかる)んでいて「危険極まりない」チョイスを小生はしたのだ。これ、往路を見晴台経由にして帰路を正式な参道で帰ったらベストだったんだな。
そんな訳で帰りの道は“見晴し台”に辿り着くまで写真撮影する余裕すら無かった。
帰路、途中で御爺ちゃん達が前方を歩いているのに出くわした。歩調を合わせていたら「若い人お先にどうぞ~」と言って皆さんが道を譲って下さった。
「何かすいません」と思いながら「ありがとうございます~」と挨拶して、御老人集団を追い越した。
途中、更にデンジャラスゾーンに遭遇。
もう、道が危険すぎて手で掴む為の鎖が設置して有るエリアが3か所位。
しかし、小生がビビったのはこんな場所ではなくて…CIMG3280
一番安全なはずの見晴台の休憩所だった。
「熊出没注意」の看板
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…ソンナん出たら俺でもどうにも何ねぇ~し(;´・ω・)!
季節はもう春。熊も起きだして来る頃なのだろうか?マジ怖い熊。
昨年の山梨県の標高1600mの御坂峠に在る御坂城址に登った時も怖かったのは熊だった。
最近の熊は熊鈴にも慣れて、「熊鈴の音=エサ(人)が来た」と認識していると学者がTVで言っていたのは、丁度御坂城址に登城した2週間前に熊に人が食い殺される事件が頻発していた頃だった。もう熊マジ怖い。

でも付き合ってから独裁者に変貌する女性も同じ位怖い(笑)。
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そんなコンナで歩いていると道も再びなだらかな場所が増えて来て、早歩き位でも安全な路盤、鉄の手すりまで登場してペースを早める事がが出来た。
う~ん、無駄に「成し遂げた」感が有ったな。
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下社の近くまで来ると、二重の滝が在った。
ここが大山阿夫利神社の御祭神の内の一柱である高龗(タカオ)神様の聖地らしい。
江戸時代まで、大山阿夫利神社に参詣し頂上を目指す庶民や修験者達は、この二重の滝で滝行を行って禊(みそぎ)をしていたそうだ。
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江戸時代位までは水量が豊富だったのだろう。
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この二重社の場所に、本来は徳川家光公が建立した大山寺の前不動明王横の龍神堂が建っていた訳だ。
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今では瀑布(ばくふ)とは呼べない白糸の滝と言った形容が似合う様な上品な滝に成っていた。
滝の写真を撮影して再び下社を目指す。
もう道も歩き易い。
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直ぐに“さくらや”の下の登山道の終点近くに何の神様かは解らない小さな御社が在った。
さくらやの姉さんに金剛杖が帰路に大活躍した御礼を述べて、今度は下社の社務所へ向かった。
社務所の職員さんに奥院行って来た事を伝え、下社と奥院の異なる大山阿夫利神社の御朱印を漸く頂く事が出来た。
うれしい。
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さくらやの前を再び通過する際に御礼代わりでは無いが三ツ矢サイダーを買って「又、秋に来ます。宜しく」と挨拶を交わして大山ケーブルの駅へ移動した。

帰りは疲れ切っているし、ケーブルカーの内装を確認したいので大山ケーブルに乗車した。
以前の物と比べ確かに近くで見ると鋭い外観に成っていた。
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内装も良い!
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前面の窓が天井まで広がっていて、乗客が正面に見える相模湾の遠景を楽しめる設計に成っていた。そしてカッコ良い。
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ふむ、確かにこれならデザイン賞受賞したのは納得出来る。

ケーブルカーを降りると、真っ先に駅横の宿坊”元滝”に入った。
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この店は大山名物の豆腐料理や鹿や猪(イノシシ)の鍋を提供している上に、日帰り湯をやっているからだ。
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とりあえず、汗ダクダク泥だらけに成った体を洗いサッパリしたかった。
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元滝は宿坊(御寺兼宿)だったので、昔は先導師(案内人、関西では御師と言う)を務めた家だった。御風呂入る為にアメニティの準備をして頂く間に色々と御店主から話を伺う事が出来た。
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身体を洗ってサッパリ出来て生き返り、さっそく湯船に浸かった。
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御風呂は石造り、沸かし湯だが温泉の様でとてもリラックス出来た。湯船の中で筋肉をほぐし疲れを取り体力も回復出来た。
因みに、この大山と周辺の日向薬師や七沢には天然温泉の旅館や宿坊も当然沢山有る。
風呂から上がるとさっそく“猪鍋の豆腐セット”を注文した。
この時点で14時半。良くもまぁ~徹夜のまま6時間も山の中を登ったり下りたりしたもんだ。
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鍋が来る。以前も食べた事が有る。
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関東風のスキ焼の味付けに成っていて疲れた体にはもってこいの甘さと塩分。
そして猪肉の美味い事。
この鍋は白飯がついて2000円、300円のオプションでうどんスキにする為の饂飩(うどん)、そして大山名物の豆腐が付く。
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とても食べ応えが有り多めの一人分と言った良い量だ。
腹も満たして満足した所で山を下りる途中の参道で留学中に御世話に成った小生の姉貴分の様な存在の先輩夫婦と自宅用に御土産を購入。
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毎回大山に来ると姉貴分に珍味的な物を送り付ける(笑)。
今回は豆腐の味噌漬け、それと塩ようかん。
大山は水が綺麗なので古くから豆腐と蒟蒻と清酒の産地として有名だった。豆腐の塩漬けは最近、酒のアテとして注目されつつ有り、チーズの様な味わいでとても体に良い健康食品だ。ワイン好きな姉貴分には良いと思って買って見た。

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御土産も買い終わり参道の御稲荷様にいつも御守り頂いている御礼をして駐車場近くに戻ると、先ずは観光案内所に行った。
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これが期待外れで観光協会の人も詳しい大山桜の位置を解っておられなかった。しかし大山阿夫利神社の下社では無く山裾に在る社務所の裏山の林道と大山小学校の真ん中位の所に大山桜への入口の順路を簡単に書いた地図を頂いた。
これが又、間違いだった。
麓の大山阿夫利神社社務所の裏には普通の桜が見えて美しいが、これは大山桜ではない。
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社務所裏手を右手に進む様に道が地図に書き込まれているのだが、正確には社務所裏手の土手を登り林道に出たら一度地図とは反対の左手に行ってから山に入らなければいけなかったのだ。
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しかし、そんな事を知らない小生は馬鹿正直に右回り、上の写真は一度左手を見ないと気が付けない入口。
結果的に大山小学校まで行ってしまい、一番過酷な小学校周りルートを再び“登山”する事に成った。
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この怪しい場所から金網の紐を自分で解いて入って行かないといけない。
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人の気配なんか無い。
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暫く歩くと、炭焼き小屋の跡が見えて来た。
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ここから再び山登り開始となった。
山を登り始めて程無く汗だく(笑)。
元滝のサッパリが無に帰す。
しかし、この大山桜を目指す道は遊歩道が設置されていないので本当に原生林の獣道を歩く感じがして、それはそれで楽しかったが汗の不快感は如何(いか)んともし難い。
社務所から40分位歩いたんだろうか?
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大山桜に到着した。
残念ながら、この大樹は1週間程度普通の桜より開花が遅いとは聞いていた通り未だ3分咲き程度だった。
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しかしながら、その幹の立派さ、満開に成った時は優美と言うよりは勇壮な威厳を持った姿だろうと想像出来た。
小学校側から登ると下大山桜を先に見る事に成る。その後に社務所に戻る道を目指すと上大山桜を見られる。この道のりはそこそこ登山の服装と靴でないと無理だ。若い子等がノリで普段着のまま見に来たら断念する事に成るだろう。
上大山桜を目指す途中、又、綺麗なミツマタの花を見る事が出来た。CIMG3330
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下大山桜から10分位歩いて漸(ようや)く上大山桜が見られた。
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こちらは景色も良い。
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大山桜越しに大山の普通の桜の林、そして伊勢原市街地、奥には相模湾が見渡せる。
きっと満開の景色は美しい物に成るだろう。
来年、又、満開の大山桜に会いに来たいと思った。
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そこから社務所に戻るまで、また20分は歩いただろうか?
この道が又、下るのに不向きな柵も手すりも無い崖地に道がちゃんと整備されておらず落ちたら死ぬ地形だった。
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これ、伊勢原市さん、観光の目玉にするなら林道整備しないといつか観光客の転落事故が起きますよ?
そして社務所に駐車していた車に戻り、車を出発させ自宅への帰路へ着いた。

色々と良い体験を出来て、綺麗な空気の中で時間を過ごせて有意義な一日に成ったと思う。
道中御加護下さった大山の神様仏様に感謝。そして大山の文化と景色と遺産を守って下さっている神職様和尚様民間の皆さんに感謝!

平成廿九年 正月 二日の休日雑記の続きを書く。
前回の休日雑記で2017年1月2日訪問先の【前編】←コレでは川崎市橘樹郡の郡衙として機能していた橘樹神社~中原街道を走って川勾神社に辿り着き参拝した所までを書いた。
川勾神社は延喜式内社にして相模国二之宮の格をを有する由緒正しい“長閑な田舎”に鎮座する雰囲気の良い神社だ。
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参拝を終えて、アルバイトの巫女さんが多くいる長閑で正月の華やかな雰囲気の境内を一しきり散策して車に戻った。
次の目的地は六所神社。
行きたい場所は事前に頭の中で整理して置いて、当日は中原街道を走って運転中に予定を決めた。
川勾神社の到着予想時刻から逆算し川勾神社から東海道沿いに相模国六所の神社の内の数ヵ所と、それとは別の式外社、史跡を巡ってから毎年「神奈川県の土地神様」として御参りしている三之宮比々多神社を日没までに参詣する最終的な目標にする事にした。
川勾神社から六所神社は車で30分とかからず近い。隣の大磯町に所在する。
大磯と言うのは明治時代に“湘南”の地名の発祥地と成った場所で、その由来は中国の地域名に由来する。
多くの小高い丘を有し海に面した地形が三国志に登場する漢帝国の行政区、荊州の中の長沙城一帯にあった湘南地域に似ている事から名付けられた。長沙と言えば三国志で❝江東の虎❞の異名で知られ孫子の子孫を自称した名将の孫堅が一時的に太守として赴任していた場所だ。
明治の元勲達は脱亜入欧を唱えたものの、中国文化に対しては敬意を持っており造詣の深い人物達が多かった。彼等の多くは明治政府樹立後に大磯町や鎌倉市や三浦半島の逗子市に別荘を持っていた。
そんな訳で、大磯町には三井家の別宅も存在したり、御金持ちの一大避暑地と成った。
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その大磯辺りは海岸の横の東海道の松並木の崎に富士山が見える何とも風流な地域だ。
当時の鎌倉市や三浦半島逗子は“湘南”には含まれていない。
昨今、県外から移民してきた現代の神奈川県民が勝手に鎌倉や逗子も湘南地区の一所に数えているが、鎌倉は鎌倉、逗子は逗子で確固たる地位と歴史と習俗を備えており新興の観光地の大磯町近辺と一緒にされるのは生粋の鎌倉市民にとっては心外な事だろう。
とは言っても大磯町は古代に磯長国の国府が置かれ後に古代の相模国国府も暫時置かれていた場所、当然、鎌倉よりも古代に於いては高い地位に有った町だったりする訳だ。
さて、そんな事をこの日考えていた訳では無く、車に乗った時に考えていたのは・・・
「たこ焼き美味しかったなぁ~」
・・・だった(笑)。
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六所神社に到着すると、先ずは東海道に面している大鳥居付近にて箱根駅伝の交通規制開始時間を交通誘導員のオジちゃんに尋ねて大凡、この時点から1時間後と言う事が解った。
この時点で参詣後に無理をして車を出すのを諦め、六所神社参詣後は箱根駅伝を沿道で観戦して楽しむ事にした。
六所神社の大鳥居から境内に徒歩で戻る。
実は現在、JR東海道線の線路で境内と参道は寸断され、地下道で繋がっている。その地下道の手前右手には明治の神仏分離令まで六所神社を別当寺として守って来た御寺が鎮座している。CIMG2148
摩尼山寶積院(まにさんほうしゃくいん)。真言宗の御寺なので、かなり古い時代から存在するのだろうと、山門代わりの石柱を見て思ったが、御寺には由緒の説明が無かったので後日、大磯町観光協会様のホームページを拝見して見た所、藤原氏に弾圧されながらも後に聖武天皇の御墨付を賜って大僧正の法号を賜った行基大僧正の開基と言う事だった。
つまり、奈良時代、天平年間以前に御寺が開かれていた事に成る。
行基大僧正や弘法大師空海和尚はどうやら日本の神々を大切にされていたので、その聖跡に多くの御寺を建てて廻っているのは小生のブログの読者は既に知る所。
この六所神社も相模国の成立後の国府設置で神様(豪族の祖先)同士がモメた(笑)伝承を神事として現在も伝える国府祭(こうのまち)の祭礼に登場する神社の内の一座だ。
現代では神様を一柱の様に数える単位を“柱”で表現するが、昔は神社自体は一座の様に“座”を数える単位にしていたので小生は古代の風習に準じ現代に於いてそう書く。
座は座(ざ)と読むが、神奈川県では特に古代は座(くら)と読んだ。他地域の事は知らない。
高座郡は今でこそ高座郡(こうざぐん)と呼ぶが古代は高座郡(たかくらぐん)と読んだ。
これは弥生時代に米の生産が盛んに成り、それを保管する場所に高床式倉庫(蔵=くら)が建設される様に成り、やがて住まいも竪穴式住居から高床式住居に発展し、更に古代の豪族の酋長=王=上様(かみさま)=神様達の住居として高床式倉庫を発展させた宮殿が造営される様に成った歴史そのものの名残りが「座(くら)」の読み方の由来だろう。
出雲大社の古代の社殿や、現在の神道の神社の神様のおわす本殿部分は完全に弥生時代の高床式倉庫を継承した外観に成っている。
さて、JR東海道本線の線路の下の隧道(すいどう=トンネル)をくぐり抜けると立派な御神木が左手に現れる。
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梅と桜と紅葉以外に興味が無く風流さと植物に対する造詣の欠けた小生には何の木かは解らないが、昔から参道の御神木として大切にされたんだろう。
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六所神社は大変に賑わっていた。
それはそうだろう。
此処(ここ)に御参りすれば一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、仮称五之宮鶴峯(平塚)八幡宮の全ての御利益を授かれるのだから。
何故かと言えば、六所神社の名が示す通り、ここは相模国の総社だったのだ。
これが国府祭神事にも関係してくる訳だが、その話は又今度。
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六所神社の境内は現代では凄く広い訳では無いが、住宅街の中に在って規模は大きい方だと思う。
この日は延喜式内社と式外社専用に購入した鷲宮神社の御朱印帳に改めて、六所神社の御朱印を頂き参拝した。
この日の訪問は別の目的も有った。神社の方に古代から国府祭の神事が行われている神揃山の中の聖地の位置を教えて貰う事。
神社の方はとても親切で、簡単な地図を下さり丁寧に説明をして下さった。
神揃山の場所は解るが神事を行う場所が解り難く、事前に調べないと必ず迷う。
観光客向けの神事は現在では国府本郷の馬場公園で行われているが、ちゃんと一之宮~六所神社の宮司様達が一堂に会して古代からの神事を行う場所を訪問しておきたかったから、この機に写真撮影も兼ねて訪れる事にしていた。
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そんなこんなで、六所神社境内を散歩しながら写真を撮影し、御朱印を頂いた頃には東海道沿道での箱根駅伝観戦に丁度良い時間帯に成っていた。
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事前のリサーチ時に係員の方から頂いていた旗を構えて選手を待つ。
・・・反日朝〇新聞の旗じゃなくて良かった(笑)。
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暫くすると先行の白バイ隊が来た。
その後に少し珍事が有って、片側車線規制を無視したDQNの運転する車が覆面パトカーに捕まって観衆の嘲笑の対象に成っていた(笑)。
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中継車では無くて監督の乗る車両かな?
この駅伝見学で一番感心したのは、報道のヘリコプターの操縦技術だった。
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ずっと道路に対して横向きでホバリングしたまま、東海道を東京都の出発地から、この大磯まで選手のスピードに合わせて中継して来たらしい。
こんな事に感心しながら選手の到着を待つ。ヘリの位置から駅伝選手の先頭集団の通過が間もなくで有る事が推測出来て周辺がザワつき始める・・・
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選手が通過する。沿道の人々から「頑張れー」の声が連呼され拍手が巻き起こり旗を持つ人は選手に向かって旗を振り鼓舞する。
何とも爽やかな時間を皆で共有する瞬間。小生はスポーツ観戦に平素興味が無いが人を応援するのって気持ちが良い。以前は格闘技をやっていたので総合格闘技の試合を良く見たが、それとは違う青年達を面識の無い人々と一緒に応援する清々しさ・・・悪くない。
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選手達は原付程の速さで走り抜ける。時速25kⅿくらいは出ているんじゃないだろうか?
これで走り続けるのは感心する。
そして長距離走選手達を見ていて思ったのは、皆、身体が小柄で体重も軽そうな事だ。やはり長距離を疾走するには燃費の良い身体では無いと無理なんだろう。小生の瞬発力と膂力(りょりょく)に特化した遺伝子とは明らかに異なる。
まぁ、小生は小生で人を持ち上げて放り投げる位は簡単に出来るのは他人からすれば長所でもあるのだろうが・・・そんな物は、彼女や奥さんがいる人しか使う必要が無いので目下小生には必要の無い無駄な筋肉だな。
駅伝を一頻(ひとしき)り観戦し、交通規制が解除されたのを確認して六所神社の駐車場に戻り車に乗り込んだ。
六所神社から神揃山は車で10分程度と近い。
まぁ、問題は先に説明した通り予備知識が無いと迷って聖地に辿り着けないと言う事だ。
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最初に馬場公園(ばんばこうえん)を訪れた。
馬場を関東~東北~北海道では古来、馬場(ばんば)と発音した。これは騎馬文化が広まった古墳時代の関東弁の名残だろうか?近畿を除き、九州四国中国関東には共通する言語が方言に多い。これは古代の正しい日本語の名残りだと思う。それらとも違うアイヌ語にも多くの共通する言葉が有る。
古代の日本人は「神(かみ)」と書いて「神(かむ)」と読んだが、やはりアイヌ民族は神を神(カム)と呼んだ。
神居古潭(かむいこたん)はアイヌ語で「神の御座所」と言う意味が有る。
恐らくアイヌ語は古代の縄文語だと思う。
小生はアイヌ人を生粋の九州人や関東人と同じ縄文時代に分岐した同族だと推測している。
東日本を開拓し縄文時代から弥生時代の変革を齎したであろうた素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御神孫の出雲神族が東日本の延喜式内社では多く祀られている。その際に、素戔嗚尊の開拓の及ばなかった地域がアイヌ民族として残ったのだろう。
アイヌ語で首都の事を「カイ」と言うそうだ。これは東日本に於ける縄文文化の中心地が甲斐国周辺に有った事を示唆している可能性を想像させる。
律令制度下で甲斐国が成立するが、それ以前はもっと広大な範囲を甲斐と呼んでいたかも知れない。
そういった意味で、アイヌ民族の文化の中心地的なルーツが関東甲信に在るのじゃないかと何となく思っている。
伊豆大島や箱根山系からは金属の無かった縄文時代に刃物に加工しやすく重宝された黒曜石が産出される。
さて、そんな事を思い出させる馬場(ばんば)公園の名前だが、本来の神々が集うた聖地である神揃山は、そこから徒歩圏内。但(ただ)し、川勾神社や六所神社で頂ける資料では記された登山口から辿り着くには非常に林道が解り難い。

神揃山登り口 久良岐のよし
そこで小生が❝Google map❞に❝神揃山❞の位置を登録しておいたので、訪れたい人は検索して見ると辿り着けると思う。馬場公園から北側の山の稜線、最西端の南部が神々の集うた場所。
しかし、六所神社等で頂く資料だと登山口に指定されているのが、聖地の北西からで林道も荒れており非常に判り難(にく)い。
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特に観光地でも無いので案内看板も存在せず、最初の訪問時、小生は林道らしき道を進み続けて北側の見当違いな場所に出てしまった。馬場公園から北を見て一番西側の細長い丘を右手側から廻ると簡単に辿り着ける。敢えて説明の林道を歩く必要は無いので、直接、聖地の横の階段から登れば良いと思う。
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神様(の子孫の古代の酋長=宮司)達が、ここで対峙して話し合いを行ったそうだ。
その並び通りに各神社の名前の彫られた石柱が有り、古代に神様が腰かけたであろう神体石が現在では神様の依代(よりしろ)として現存している。
特に社殿等存在しないが恐らく、古代は、ここが六所神社の前身と成った❝柳田大明神❞そ所在地だと推測している。
この聖地が削平地なのは社殿か豪族の宮殿の跡地ではないかと推測している。発掘調査をすれば、高床式住居の遺跡でも出て来る気がする。
何故ここが柳田大明神の元宮と推測するかと言うと、神話の時代の前半期、縄文時代~弥生時代は現在の六所神社の所在地は海底だったからだ。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
神揃山は現在は丘だが、昔は海に突き出した細長い半島の先端だった筈なので、延喜式内社が湧水地、半島の付根と先端に開かれた歴史事実とも整合性が有り、小生の推測は間違っていないと思う。
そして、現在、柳田神社が六所神社と呼ばれ相模国総社と成ったのは、この聖地に鎮座していた柳田神社が話し合いの場で相模国の豪族が融和し神話通りの戦乱が拡大するのを回避した事件が起きていたのだろう。
それ故に総社と成ったのだろうと推測出来る。
恐らく、この事件が起きたのは雄略天皇の時代だと思う。つまり日本史の文章に残らない空白の古墳時代の事。
まぁ、恐らく当時は、ここでの話し合いでの席次の譲り合いや座問答に至るまで、大小の軍事的な衝突も有っただろう。
当時は青銅器も既に生産されていた筈だから、殺傷力の強い銅剣や武具を装備した軍隊同士の戦いだった筈で、縄文時代~弥生時代の様に、石鏃の弓矢や石斧の様な兵器から、より鋭利で頑強で生産効率の高い金属兵器に変わっていたので戦い方も古墳時代には大分変わっていた筈だ。
東京国立博物館所蔵 土偶画像借り物 久良岐のよし
この甲冑を来ているのは酋長クラスの古墳から出土される事の多い甲冑に近い、奈良時代の物。右の土偶は東京国立博物館所蔵の埴輪の画像の借り物。
小生は個人的に弓矢合戦が主流だった平安末期~鎌倉時代の箱型の大鎧よりも戦国時代の派手派手しい甲冑よりも、この古墳時代の甲冑のフォルムが実用的で格好良く好きだ。まぁ、この時代の甲冑は戦国時代と比較すると下半身がガラ空きなので問題が有るのだが。
古墳時代位成ると、こんな鎧武者が登場して戟(げき)や戈(か)や鉾(ほこ)と呼ばれる武器が歩兵の主流武器だった。
だから平安時代の武士の弓合戦の後の太刀打ちの戦いとも違うし、室町時代の薙刀(なぎなた)や槍(やり)の薙ぎ切り刺す戦い方とも違い、古墳時代は弓合戦の後で歩兵同士の乱戦が主流だったはずだが、これは三国時代の卑弥呼政権以来の中国の兵器導入の影響が色濃く残っていた証拠だな。
引っ掛け倒して刺すとか穂先が大型の兵器で圧し切る様な戦い方。
まぁ、国府を何処にするかで佐賀牟国と磯長国が恐らく争った訳だが、話し合いで決着を付けたのは日本人らしい神話だと思う。
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神揃山は説明の看板も有るので、神揃山~馬場公園~六所神社は良い散歩コースに成る。
御近所の方なら御弁当用意して散歩するのも良いかも知れない。
神揃山の丘を降りて車に戻り、次の目的地の大磯城山公園に移動した。
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この山は明治以降、三井財閥の三井家の別荘が建っていた場所で、古代から住み心地の良い場所だったらしく、その丘陵には多くの横穴式古墳が存在する歴史遺跡でもある。
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立派な門。
だが、これは当時の物とは違う。
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元々は茅葺屋根で、廃仏毀釈の影響で荒廃した奈良の薬師寺と菅原寺の建材を引き取って再利用したらしい。
東京の浅草寺からも建材が再利用されたらしい。
東京の浅草寺と言えば、江戸時代初期に北条家臣で金沢八景辺りを治めていた伊丹家の子孫が浅草寺で高僧に成っており、その人物が祖先の故地である金沢八景、当時は金沢小泉と呼ばれた土地に小泉弁財天を開いている。小泉弁財天は現在では手子神社と呼ばれるが、元々は源頼朝公が開いた瀬戸神社の御分霊を勧進されて開いた由緒ある神社だったりする事を、この説明書きから思い出す。
瀬戸神社は金沢八景駅前に今も鎮座しているが、その境内の鎮守の森だった周辺の山は横浜市教育委員会が歴史的価値を無視して保護せずに土建屋に開発させてしまって近年消滅した。
神社と言うのは社殿だけで神社ではなく、周辺の山や池が聖地と成っていて初めて成立する事を、左翼が跋扈し左翼建設利権にまみれた横浜市の政治家と教育委員会は重要性を理解していても黙殺して破壊させる。
この城山城址公園の歴史史跡としての自然環境を保護する大磯町やその周辺自治体とは、横浜市の程度は雲泥程の差が有る。
大磯町教育委員会の素晴らしい仕事を、この場所の存在自体が示してくれている。CIMG2221
ここは城山城址公園と呼ばれるだけあり、源頼朝公が論功行賞を行った城址と解説が有るが、三井家に庭園化された時代に城址の防御施設は撤去されたか、はたまた海辺の風の強い土地柄、風化したのか遺構らしい物は余り残ってはいない。
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しかしながら、この写真の場所には三井家のべっぞうだった時代には更に鋭角な谷地形が有ったらしいのだが、これは明らかに尾根を断ち切る堀切の遺構だろう。
そして、この尾根自体が左右を鋭角に切り出し道幅を狭くした城壁状にした切岸だろう。
源氏と坂東平氏流の鎌倉時代の築城術に多く見られる。
平安末期の三浦家の本拠地の衣笠城址、鎌倉市街を取り囲む鎌倉城、金沢北条家の称名寺を取り囲む金沢城の稲荷山等は正に、この大磯城山城址公園の数少ない遺構らしき地形が現在も多く残っている。
拡大して貰えると読めるかも知れないが、頼朝公がここで論功行賞を行った事等が、教養の高かった昭和前期の人々によって石碑に彫られて紹介されている。
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実は戦前の神奈川県の役人は非常に教養が高く、多くの歴史史跡に後世に伝える為に石碑を建てて説明を詳しく書いてくれている。
しかし、現在の神奈川県教育委員会は教養が浅く、こういった事実も知らない人が多く、平気で歴史史跡を宅地開発させる政治家と結託して遺跡を破壊させてしまう。城址は文献に載る場所も、伝承が伝えられている場所も特に横浜市は発掘調査せずに破壊させている場所が殆どだ。しかしならがら明治~戦前の高い教養を持った人々が建てた遺跡によって、その悪事がバレる事も有る。
歴代でも一番酷いのは昭和30年代の他都市育ちの市長達、そして現在の林文子市長だ。林市長に関しては岡崎トミ子と言うテロリスト支援者出身の極左活動家を政治支援する様な人物なので御里が知れる。
若いころに車の営業でベンツ等の高級外車を300台近く売りさばいた等と伝説の様に語られているが、それが事実ならば「当時ベンツを好んで乗りたがる集団や組織と繋がりが有った」と言う事に成るだろう。まぁ、昭和の大手土建屋は移民とヤクザが多く関与したのは歴史事実だ。
現在、林市長が破壊容認している円海山と言う場所は奈良時代からの蹈鞴製鉄遺跡が発掘され、古代の淡水の大型の貝の化石を大量に含む地層が有り、そして鎌倉武士達が通った古道が林道と成っており、横浜市最大最後の緑地であり自然繁殖した❝蛍❞の最後の生息地だったりするが、そこを東急グループに開発させようとしている。
大磯町の様に教養の高い御役人と市長が治める町を訪れ、自然公園や史跡を廻ると現在の横浜市長と教育委員会の程度の低さが際立ち、本当に嫌気が差す。
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大磯町はそういった事が無く、三井財閥の様に文化財保護に貢献した昔の御金持ちの文化を受け位でいるので、こうして公園内には多くの古墳も保護され公開されている。
横浜市にも横穴式古墳は大量に存在したが、馬鹿な教育委員会が防空壕と見分けが着かず、戦後の防空壕をモルタルで封鎖すると言う戦後の政策で、古墳の入口をまで塞いで破壊に及んでいる。
大磯町は古代と中世と近代の歴史遺跡を公園化し自然も守り、本当に良い仕事をしていると思う。
歴史の話に戻ると、大磯には古墳が多い。
これはやはり、古代早くからこの地域が開けていた証拠だろう。
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この公園内には大磯町郷土資料館も有るのだが、残念ながら正月は休みで見学出来なかった。
仕方なく、公園内を散歩した後、車に戻り次の目的地である高麗山の麓に鎮座する高来(たかく)神社に向けて出発した。
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高来神社は実は明治時代までは高麗神社と書いた。
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この高来神社の石柱に揮毫したのは紀州徳川家第14代当主だった徳川頼倫公らしい。
徳川頼倫公の時代は既に徳川幕府も解体され、御本人は政治家では無く、明治時代の公爵だった。
明治次代の政治家は一つ欠点が有り、日本文化の中には古くは中国渡来、後に朝鮮渡来の物もあり、それらも受け入れ古来の文化に融合させ発展させて、元朝に打ち勝った武士文化の礎と成った平安文化に発展したのに、アジア文化を軽んずる風潮が流行し、その様な政策を行った。
御蔭で、この由緒ある高麗神社まで名前を高来神社に変えさせられた。
愚かだ。
ここは、そもそも当時は朝鮮半島南端にも住んで居た日本人を度々襲う新羅を征伐した息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと)こと神功皇后が朝鮮征伐に遠征した際に、神功皇后に伴って日本に渡って来た朝鮮半島の人々が関与した神社で昔は背後の高麗山山頂に鎮座し、神社自体も神功皇后が開いた凄まじい由緒を持つ場所なのだ。
参道横には慶覚院と言う御寺が在り立派な門構えをしていた。
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真新しいので極々最近に建て替えたようだ。
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御寺の地紋は徳川家所縁の御寺なので三つ葉葵紋だった。
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天台宗の御寺らしい。扁額に揮毫した人物名が天台座主大僧正惠進と書いて有る。
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御本堂も御寺の規模に対して立派だった。
場所的に昔から別当寺として存在するのかと思いきや、説明を読む限りでは比較的最近、こちらに移転された御寺らしい。
高来神社の参道に戻る。
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古代の朝鮮の中でも百済人等は現代の反日韓国とは違い親日国であり同盟者だった。
同盟国ではないが北部の高麗人も友好的で朝鮮族(満州より)の中の刀伊(とい)と言う部族が壱岐国や博多辺りに襲来し(今も昔も朝鮮は変わらず)日本人女性を拉致し半島に連れて帰った所、高麗人が彼等を征伐して日本まで被害者を送り届けてくれた歴史が有ったりする。
つまり、反日は人種の問題なのでは無くて、完全に国の教育と文化程度の問題な訳だ。そんな訳で、朝鮮由来の神社の名前だからといって盲目的に高来神社と由緒有る高麗神社の生を変えさせた事は非常に愚かな政治圧力だと言える。
反日国の中にも親日家や常識の有る人はいる。かく言う小生自体も中国人の友人や義兄弟もいる。
見分ける事が大切なのだ。区別すれば良いだけだ。反日外国人を憂慮するならば、入国審査を厳しくして、ノービザ入国出来る国に対して協定を破棄すれば良いだけだ。どうせ日本との国際条約を簡単に破棄する様な国くらいなんだから、反日国は。
所で、この神社の参道も奥行きが有って雰囲気が有る。
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但し、神社が開かれた当時は背後の高麗山の山頂に神社は鎮座していた。
この高来神社を開いたと伝承する神功皇后は恐らく臺与なのだろうと小生は推測しているが、仮にそうだとすると西暦300年代頃から当地に鎮座している事に成る。
いずれにせよ、八幡宮と同じく渡来文化も含む地域の神社だったので延喜式内社として報告されなかったのだろうが、確実に式外社である事は間違いない。
今回は初訪問だったが、存在を知ってからずっと崇敬する神の内の一柱である神功皇后所縁の場所だけあり絶対に来てみたいと思っていた。
参拝客は川勾神社や六所神社程多くは無かったが、それでも近郊の人が絶える事無く少しづつ御参りに来ていた。
源頼朝公始め、歴代の相模国統治者が崇敬した歴史も有る。
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ふむ、良い神社だ。
雰囲気が良く、庶民に親しまれる神社。
参拝を終えて次の目的地、平塚八幡宮に向かった。
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平塚八幡宮は、その境内の規模の大きさや日本三大七夕祭りの一つ❝平塚七夕祭り❞が周辺で行われる事から湘南地区での知名度は抜群で恐らく、神奈川県下では鶴岡八幡宮や川崎大師に次いで参拝客が多いかもしれない。
午後三時頃に到着したが、案の定、駐車場への入庫は順番待ち。しかしながら平塚市の対応は素晴らしく、ちゃんと臨時駐車場を準備しているのさしたる混乱も起きてはいなかった。
立派な山王形式の大鳥居。
今回の訪問の主目的が川勾神社と平塚八幡宮のデジタル写真撮影だった。
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なかなか立派な造り。
この平塚八幡宮は明治時代まで鶴峯八幡宮と呼ばれた場所で、平塚八幡宮様自体は自称していないが国府祭に登場する神様なので五之宮と呼ばれている。
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大鳥居をくぐると左右に池が在るのは鶴岡八幡宮と同じ設計。
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屋台も沢山出ていていて賑やかだった。
本殿へ向かう前に御朱印を御願いしておいた。
本殿への入口には狛犬さんがいる。
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平塚八幡宮の狛犬様はデザインが恰好良い。
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個人的に造詣的に好きなデザイン。
いざ参詣。

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中々の賑わい。左右には破魔矢や御守りを販売する屋台が出ており、アルバイト巫女さん達が奮闘しておられた。
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立派な神社。県下でも一之宮寒川神社や鶴岡八幡宮の次に栄えているだけある。
一頻り摂社も全て御参りし、社務所で御朱印を受領し、車に戻る前に折角なのでオヤツと言うか夕食代わりに屋台で何か買う事にした。
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小生が選んだのは明太ジャガ。
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じゃがバターも美味しいけれど、これも悪くない。
駐車場に行く前に、平塚八幡宮の横に気に成る建物が在ったので立ち寄って見た。
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横浜の元町や山手に在りそうな洋館。
子供の時に来た事が有るのかも知れないが予備知識が無かったので説明看板を探してみた。
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どうやら横浜ゴムの平塚製造所の施設だったらしい。残念ながら開いてはおらず、外観だけ楽しんで車に戻った。
この時点で夕方の16時15分位だったろうか・・・
平塚八幡宮から比々多神社は車で30分位。そう遠くは無いが道路状況次第では17時前に間に合わない。
小生はこの数年間、毎年比々多神社も正月に御参りするのが習慣に成っているので何としても御参りしておきたく、とりあえず向かう事にした。
途中で富士山が綺麗に見えた。
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昔の人達が此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(のみこと)の化身として拝んだ富士山。
その富士山の此花咲耶姫命の御父さんとして平安時代~江戸時代の人々にも崇拝されたのが神奈川県伊勢原市の大山で、大山阿夫利神社にはその神様の大山祇神(おおやまずみのかみ)様がいらっしゃる。
実は比々多神社は戦国時代に宮司家が北条家に敵対する三浦家に味方した為に攻落され、その場所は元宮に成っている。
そして比々多神社の神職も宮司様も小生が指摘するまで御存知無かったのだが、現在の拝殿と元宮を結ぶ真っすぐ直線状には大山の山頂が有るのだ。
比々多神社は旧境内地から縄文時代の聖地であるストーンサークルや立石や古墳時代の墳墓も大量に発掘されており、古代人から現代人に受け継がれた間違いない聖地である訳だが、恐らく、神社の配置上、大山信仰とも何某かの関係が推測出来る。
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比々多神社に16時45分位に着くと本殿を御参りする事も出来る状態で、参拝客に無料で配布される御守り授与もまだ行っている様子だったので安心した。
本殿で御参りをし、本殿右の幕舎で受領している無料の御守りを頂き、巫女さんに鈴で御祓いをして頂くのが、ここ数年間の正月の習慣。
先にも述べたが小生は横浜市民として、偉大な菅原道真公に一番近い御子息が御住まいに成っていた永谷天満宮を横浜の土地神様と知恵の神様として拝み、三之宮比々多神社を神奈川県における土地神様として信仰し、別に走水神社と橘樹神社で一年間の大欲、つまり公共に利する事を成し遂げられる様に心願を祈願して、その上で氏神様として自分の祖先神の某国造の神様を拝み、そして尊敬する歴史偉人達にも念頭において御参りをしている。
これを全部やってやっとお正月と言う実感がわく。
無論、尊敬する北条綱成公の菩提寺龍寳寺や間宮家関連の神社仏閣も御参りする。
特に比々多神社は、その歴史的な存在価値から大好きな場所でもあり、近くに義叔父も住んで居る事から用事が無くても一年に数回来る。
そして、本殿だけではなく、背後の元宮もいつも御参りする。
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当然、この日も欠かさず御参りし、御祭神の豊国主(大国主命)様、大酒解神(此花咲耶姫命)、小酒解神(大山祇神)に昨年一年間の感謝と今年の抱負を伝えた。
この地を治めた平安時代の三浦家の岡崎義実公、戦国時代の扇谷上杉家の三浦道寸公は小生がいつも遥拝する偉人の1人でもあるが、比々多神社を保護した先人でもあり、いつも御守護頂いているので、その事も日々伝えている。
我々が現在の日本文化を享受し、日本文化が有るからこそ、日本は他国と違い都会の真ん中でも自然を大切にする文化が育まれている事を念頭に置いて、神社仏閣では其処を保護して来た先人に対しても感謝するべきだと小生は考えている。
中でも日本神道や朝廷儀礼を復興し、日本の経済と文化を飛躍的に発展させ応仁の乱以来の中央の戦乱を終わらせた織田信長公は小生が歴史偉人の中で最も崇拝する人物であり、明治天皇によって建勲神の神号を追贈された❝文化守護者の神様❞である。
だから小生の部屋には織田信長公も名前の入った御朱印を書いて頂いた色紙が、御分霊代わりに肖像画と一緒に祀ってある。
他にも菅原家の神様と偉人、和泉式部様、河内源氏の歴代棟梁、坂東平氏の殿様達、北条家歴代の殿様、間宮家の殿様と姫様、太田道灌公、蒔田吉良家の殿様、宅間上杉家の殿様、足利家の殿様、徳川家の殿様を同じように日々拝んでいる。
歴史が有り大切な場所でもあるが、現代では余り有名では無くなり荒れた神社仏閣を復興させる仕事をしたい。
先ずは間宮家の顕彰活動を今年終え、そして織田家御子孫の母である生駒お類さんの菩提寺久昌寺を廃寺の危機から救いたい。
そこから神社仏閣復興の経験値を積み上げて、宅間上杉家、太田道灌公、蒔田吉良家、玉縄北条家の顕彰活動をライフワークにし、偉大な人物と繋がりがある歴史史跡、町の中の小さな神社仏閣や祠や御地蔵様の事を広く世に再認識して貰う事を形にして行き、後々に残していきたい。
宮司様や和尚様は内側から文化と偉人の業績とを守り伝え、それを外からフォローする何かを形にしたい。
金と再認識させる宣伝だな。
もし将来大金を稼げる身分に成っても、生活と老後に必要な分以外は全て、社会の為に使おうと、今年も比々多神社の神様の前で強く思った一年の始まりの第2日目だった。
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帰る間際、比々多神社の駐車場では既に梅花が開き始めていた。
小生の尊敬する菅原道真公、菅原景行公、菅原淳茂公と御縁の深い花。
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綺麗だ。
今年は梅の開花が早い様だ。
Twitterにも曽我梅林の開花状況報告が上がっていた。
コレは去年書いた梅林紹介の一覧。
  ↓

神奈川県には梅花鑑賞の名所が多いので、是非、皆さんドライブがてら梅花鑑賞ピクニックに行かれては如何だろう。

※追伸
更新が遅くなってしまい申し訳ない。
間宮家の顕彰文の追記とリアの仕事が忙しくて中々、ブログを更新できませんでした。
水曜日は神社仏閣紹介一覧も更新したいと思います。























休日なので寝ずに桜の写真撮影に・・・
多分、今週末までが撮影のチャンスだけど今日が一番の見頃と予想し、かねての計画通り強行軍で色々回ってきた。
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朝七時に家を発ち、九時過ぎに伊勢原市の渋田川河畔に到着。
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芝桜と染井吉野の咲く遊歩道を散歩。
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地域の人が守る池田神社を御参り。

厚木市七沢地区小野の延喜式内社、小野神社目指し移動。

途中、高部屋神社により、今年2月16日に社殿が国指定重要文化財に成ったので御挨拶の御参りをした。
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隣接する丸山城址公園の桜も満開だった。
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再出発。
通り道の七沢地区も山々に桜が咲き綺麗だった。
途中、立派な御寺らしき建物が北条家の三つ鱗紋の幟(のぼり)を掲げているのが目に留まり寄り道。
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龍散寺と言う御寺だった。
何と、自分が趣味で調べている戦国時代の鶴岡八幡宮再建時に、神器を一時的に移し保護した寺院だった。
そして同寺は北条氏綱公の御実弟、神保輝廣公の開基である事も知った。
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偶然だけども、光栄な参拝が出来た。
三つ鱗紋を見て飛び込んで良かった。
小野神社に到着。
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御参りした。
宮司様は御不在だったが御家人とは連絡が取れた。
面白い事に気がついた。
宮司様は恐らく戦国大名の毛利元就公と同族だ。
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又、改めて御朱印は頂きに上がろうと思う。
厚木市飯山観音(飯山温泉)地区に向け移動。
飯山地区に着いて、真っ先に橋のたものとの龍蔵神社が目に入ったので御参りした。
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その後、桜並木の綺麗な曹洞宗金剛寺の参道を散歩した。
どうやら先に御参りした龍蔵神社は元は龍蔵院と言い、金剛寺の塔頭寺院だったのが明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で神社として独立したらしい。
檀家の御婆さんに曹洞宗なのに真言宗の体を成している事を質問した所、昔、弘法大師空海和尚が開かれた太子堂が始まりで後に源頼朝公と御家人足立(安達)藤九朗盛長公が支援していた寺院らしい。
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次代は下り小田原北条家の影響下で真言宗から曹洞宗に改宗したようだ。
御婆さんの話がクソ長くて、話を断ち切るのに1時間かかってタイムロスした。
長谷観音まで登りたかったが、やむなく断念。
次の目的地の伊勢原市上粕屋の太田道灌公菩提寺幡龍山洞昌院公所寺に向け出発。

公所寺に向かうに当たり、七沢リハビリテーションセンター脳神経外科経由で向かう。 この所在地が扇谷上杉家の重要な支城で、戦国時代初期当時、扇谷上杉家当主定正の実弟の七沢朝昌が城主を務めていた堅城だった。DSC_0741
敵対する山内上杉家に攻められた際は城兵200で防衛に成功した実績を有する。
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地勢的に津久井~甲斐や武蔵北部に通じる重要な街道を抑えている。
公所寺に到着。
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扇谷上杉定正の居城とされる大庭城の麓に、寺院の歴史は戦火で途絶えている公所寺と同じ曹洞宗の寺院の宗賢院と言う寺院が有り、公所寺と同じ寺紋”太田桔梗紋”な上に山号まで全く同じ”幡龍山”である事から、御住職に宗賢院さんとの関連性を質問する為に再訪した。
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枝垂れ桜が見事だった。
道灌公の御位牌と御廟所を御参りしてから、まだ訪れていなかった太田神社まで散歩した。
行く間、戦国時代に作られた疎水(そすい=用水道)を大山街道沿いに見る事が出来た。
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あと上粕屋神社も。
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太田神社についてがっかり。
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北条早雲公がリスペクトする太田道灌公の御霊を御祭神として造営した太田神社の社殿が、管理人の子孫かなんかに私物化され一般宅かしてしまったいた。
明らかに形状が拝殿と本殿の造りで鳥居と太田神社の石碑まで有るのに、個人の自宅にされている…
神奈川県神社庁、何とかしろよ。鎌倉に鶴岡八幡宮の観光用の鳥居なんて再整備してないで、偉人達が残した物をちゃんと保護する仕事にも力を入れて欲しい。
その後、当初の予定通り延喜式内社比々多神社へ御朱印を頂く為に移動。
比々多神社で御参りを済ませて御朱印を頂いた後、大山桜を見に大山阿夫利神社の社務所へ移動。
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大山阿夫利神社の御神体でもある大山=丹沢大山国定公園では山々に咲く桜が綺麗に見れた。
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社務所の裏山には樹齢400年前後の桜が数本ある。
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一昨年の夏に水不足で枯れていた愛宕の滝が復活していた。
うん、良い一年に成りそうだ!
残念な事も…
桜の季節で稼ぎ時なのにも関わらず、商店や旅館、懐石料理やが悉(ことごと)く開いていなかった。
かろうじて造り酒屋の遠州屋さんが開いていたので義叔父に御土産の日本酒を買い、昼食とってない自分の間食用に酒粕飴を買い移動。
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車の中で飴を舐めながら、本日の計画上、桜の撮影の最終目的地だった秦野市弘法山へ向け出発。
途中、空腹に耐えられなく成り刀削麺の店に入った。
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主菜に牛肉刀削麺、副菜に豆腐干と砂肝の前菜を頼んだ。
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店員全員中国人で、山西省大同市で食べた時と同じレベルで美味しかった。
近くの鶴巻温泉に入りたかったが、写真撮影優先しスルー。
改めて弘法山に向け移動開始。
弘法山からの眺望は素晴らしかった。
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桜の後ろに大きい富士山が見える。
ただ、頂上展望台への山道の傾斜は結構な角度でキツイ。
しかし登る価値は有ると思う。
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権現山展望台へ登山中、どうも山一帯の地形が腰曲輪らしき形状に見えてしかたなかったのだが…
頂上に行って案内板全て読んで廻ったら自分の推測は当たっていたらしく、権現山は南北朝期の詳細不明の城塞だったらしい。
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麓に古東海道に接続する矢倉沢往還が通っているので、その守りの為に山城化された時代もあったのだろう。
ひとしきり写真を撮影して伊勢原市の義叔父の家に向け出発。
義叔父の家に向かう途中、鶴巻温泉~秦野の東海大学の辺りを通り過ぎ、平塚市内を走行中、たまたま赤信号で止まった交差点の右側に気に成る地形が見えた。
カーナビを見た所”塚越古墳”と表示されていたので近くのスーパーに車を止めて、見学に立ち寄った。
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前方後円墳。
弥生時代までの関東の古墳は方形周溝墓。
古代大和政権の影響下に入った時代の古墳が前方後円墳な訳だから、この古墳の主は邪馬台国もしくは大和に関係が有ったのだろう。
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この古墳を見学していて、すぐ近くに真田城址である天徳寺が有るのを思い出し、又も寄り道の為に移動。
天徳寺を参拝。
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天徳寺の在る段丘が嘗(かつ)ての真田城の本丸に当たる曽我曲輪だったそうで、歴代住職の廟所と思しき場所は土塁と思われる地形の上に在った。
城としての遺構は不鮮明だが、近くのファミリーマート側から天徳寺の台地を見ると笹薮に囲われていた。
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城址は地形の保全の為に笹を植えるのは良く有る事なので、これが昔からの地形だとすると真田城址の遺構の可能性が高い。
もっとも、墓地の宅地開発されていない側には、昔の曲輪の境目が解る地形も一部残存していた。
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近くに真田神社もあったので、合わせて御参りして来た。
特に説明書きは無く御祭神も素戔嗚尊のようだったので三浦一族と関連が有るか不明だが、或いは佐奈田義忠公在城時からの鎮守の御社だったのかもしれない。
ようやく義叔父の家に到着。
御土産を渡してさっさと退散するつもりが、夕食に及ばれして出発したのが19時過ぎに成ってしまった。
夜は下道で1時間程度で着く距離だったが、さすがに24時間以上寝てなかったので睡魔に襲われ自宅まで残り1kmまで帰って来たところでコンビニの駐車場に車を止め仮眠。
僅かな距離でも眠く成ったら寝ないと自己の元。
なかなか眠くならないから耐えれるが、一回眠く成ったらもう駄目だね。
なんだかんだ…
色々回れたけれど、今日、特に感動したのは最初の渋田川の芝桜と、弘法山の桜と富士山の共演の景色だった。
まぁ~中の上の休日に成った。
写真も沢山撮れたし良かった。

今年(2016年)の正月3日、明治時代に新道が開通するまで、江戸からの参拝客でごったがえした強い御利益を持つ、それはそれは古い歴史を持つ高部屋神社に御参りに行ってきました。
その時に写真を撮って来て書いた記事が↓コレです。
【前編】高部屋神社と丸山城址公園…神奈川県中央内陸部が海だった事を伝える神社。伊勢原市。
その記事でも少し触れましたが、この高部屋神社のある丘陵が、数十年前まで完璧な城址として残存していた“丸山城”、昔の名を“糟屋(かすや)城”“千鳥ヵ城と呼ばれた平安時代末期~戦国時代中期の御城の跡なんですね。
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現在は周辺の宅地化と国道246号線の建設で城址主要部分と高部屋神社は寸断されてしまっています。
ですから丸山城址公園へは高部屋神社から歩道橋を渡って行くか、住宅街の中の上の石碑が有る場所から入る事に成ります…
と、その前に!
少し高部屋神社付近の様子を衛星写真と航空写真で見てみましょう!
現在の高部屋神社周辺です…
糟屋城の現在
宅地化されてしまって、どこがどう城址なのだか、全体像が判り難(にく)く成ってしまっています。
では少し前、昭和52年頃の様子を見てみましょう…
糟屋城カラー
ふむ!これを見ると良く城址の規模が判る!
先に見たGoogle Earthの衛星写真で高部屋神社と糟屋城主要部分の位置を確認して見て下さい。
現在では糟屋城は城址公園部分の半円形の部分しか有りませんが、この1977年の衛星写真を見ると、城址を取り囲む空堀(昔は水掘りか?)が丘陵の東端まで繋がっており、南側は川が外堀の役割を果たしている大分と東西に延びた大きい城址の地形が残存していた事が解りますね!
因みに、この一帯は米軍が終戦直後1946年に撮影した写真も有ります。
糟屋城白黒
この写真だとよりシンプルに道が解りますね!
高部屋神社の記事を書いた時に少し触れましたが、実は神社の前の道が大山街道と呼ばれる旧街道でして、江戸時代は大山詣(もうで)で大山山頂を目指す江戸からの観光客が絶えなかったそうです。
糟屋宿
今でも江戸時代の名残が有りまして、高部屋神社の前の大山街道の古道沿いには旧糟屋宿、つまり大山街道の宿場町だった糟屋宿だった範囲が判るバス停の名前として残っています。
“糟屋上宿”と“糟屋下宿”ですね!
この上下の間の距離は300m程です。この300mの範囲に昔は旅籠(はたご=りょかん)や料理屋が数十軒並んで賑わったんでしょうね~!
さて、何故(なぜ)、この大山街道の話をしたかと言いますと…
江戸時代以前の御城は町を守る為の物では無く、街道を抑えて敵の侵入を阻害し防衛する場所に築城(ちくじょう=御城を建てる事)されたんですねぇ~。
現代人の感覚だと、町を守らない城とか聞くと歴史に興味の無い人は「え?町を守らないのに城なの?」と思うでしょうね。
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でも良く考えて下さい…
江戸時代以前には、根本的に商業都市なんて日本中探してもほとんど無かったんですよ?
だって戦国時代は、庶民の買物はまだまだ物々交換が主流の時代でしたし、商業経済中心の社会では無く農業主体の社会だったんですね。
つまり、守るのは町では無くて領地全体の農地だった訳です。ですから根本的に敵の侵入を防ぐ位置に御城は作られた訳です。
先程説明した通り、この糟屋城の一部にある高部屋神社の前が旧街道です。
戦時には街道の城内部分の門を閉じてしまえば、敵軍の進行を防げますね。
つまり、糟屋城は典型的な昔の御城だった訳ですね。
ついでに言いますと、この御城を築城した最初の城主は糟屋(かすや)藤太郎(とうたろう)有季(ありすえ)公と言う鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の配下武将で、命令遂行能力の高い方でした。しかし、頼朝公亡き後、幕府を乗っ取った北条家と対立し有季公は二代将軍の源頼家公の遺児一幡を逃がそうと奮戦して討ち死にしました。
その一族は京都に逃れ、没落するのですが…
戦国時代にはこの糟屋城は小田原北条家の領土に成ると、その北条家臣の中に糟屋藤十郎と言う名前の武将が存在しています。
彼の苗字の「糟屋」と名前の「“藤”十郎」から、間違いなく糟屋有季公の御子孫でしょう。
推測ですが、鎌倉時代に北条家と対立し降伏した子孫が、勢力は縮小したまま土着して命脈を保っていたか…
京都に移住した子孫が北条早雲公に仕えて共に関東に下向し、祖先の故地を与えられたか…
そのいずれかでしょうか?
北条家の領地支配は大義名分を得る為に、その土地を嘗(かつ)て支配した武将の子孫に領地を支配させて、北条家の領土統治の正当性を示す傾向が有りました。
その代表例が現在の川崎駅一帯の堀之内に在った城塞を拠点にしていた間宮家、それと小机城代だった笠原家の例ですね。
笠原家は祖先がまだ相模国と武蔵国が分裂する前の佐賀牟(さがむ)国国司だった家系の子孫で、その子孫の支配地域と思しき地名が小机なので笠原家を小机に置く事で、北条家の支配の正当性を示したのでしょう。
川崎駅周辺は、鎌倉時代に源頼朝公の重臣の佐々木高綱(たかつな)公の城館が在った場所なので、高綱公の親族の佐々木行定(ゆきさだ)公の子孫に当たる間宮家に川崎駅周辺の支配を委ねたのでしょう。
さて、何で古い城は街道沿いに御城を造ったかが解った所で、丸山城址公園の説明に戻ります。
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この丸山城址公園は、平安時代築城の後、室町時代に扇谷上杉家の支配の後に北条家の支城だったので関東流の特殊な築城術がいくつも盛り込まれていました。
その代表例が上の写真の空堀を障子(しょうじ)の様に区切った“障子掘り”ですね。
障子掘りは小田原北条家特有の施設です。他の大名の城には見られず、唯一北条家以外では北条家の小田原城を攻略出来なかった経験を持つ豊臣秀吉が自分の大坂城建設の時に総掘りに、この北条家の障子掘りの技術を導入していました。
そして下の写真は横矢(よこや)と言って、城壁を登ろうとする敵を横から射殺する事が出来る形状の施設の跡の“出構え”部分です。
2016-01-03-13-47-23
この構造を有する城は関東以外には余り有りません。
甲斐武田家終焉の城、新府城には同じ施設が有りました。
新府城
新府城の縄張り図では上の東堀に同じ構造が見られます。
丸山城址にも、この構造が少しだけ保存されています。コレ↓ね。
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この横矢のかかる出構え部分の下、現在の遊歩道部分は昔は空堀でした。
この空堀部分の上、一段高い所にも少しだけ城跡が保存されていて、説明の看板も有ります。
芝生の公園で、目立たずに見落としがちですが…
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ちゃんと下の写真の様に土塁が一部分ですが保存されています。
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そして、素人でも解る様に、発掘調査に基づいた推定形状も丁寧に解説の看板が立っています。
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う~ん伊勢原市教育委員会、素晴らしい仕事をなさってますな~♪
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こんな感じで、現存部分は極めて狭い範囲ですが、丁寧な説明看板が有り城址公園として整備されていながら、城址公園の上の部分は子供が自由に遊べる広場に成っていて、公園施設と歴史遺跡保存の両立が上手くなされています。
横浜市も城址破壊したり、山をわざわざ削って公園作らないで、城址公園整備による公園確保と史跡保存の両立を見習ってほしいと思いました。
因(ちな)みに近くには、戦国時代関東最高の軍師、太田道灌公の首塚も有ります。

さて、短い記事では有りますが如何でしたでしょうか?
きっと調べれば皆さんの家の近くにも、平安時代~戦国時代の武将達が居た御城の跡が有るはずです。
少し調べて気分転換の御散歩に城址散策して見ませんか?
散歩ししながら先人に思いを馳せると言うのも中々楽しいものですよ!

では!また、次の記事で御会いしましょう!

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