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タグ:伊勢原市

神奈川県伊勢原市には、名将北条早雲(ほうじょうそううん)こと本名:伊勢盛時公が攻略に11年もかかった岡崎城と言う鉄壁の城が在ったのを皆さん、御存知でしょうか?
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その御城の本丸跡は、現在、無量寺と言う御寺と2軒の民家に成っています。
この岡崎城、実は小田原城や玉縄城や新井城と並ぶ鉄壁の城でした。
…と、言っても戦国時代の先進地域が中部地方と大勘違いをしている戦国マニア初級の人も多いと思うので、少々説明をさせて頂きます。

実は関東地方は京都で応仁の乱のが収束し始めた頃、近畿地方や東海地方よりも先に戦国時代に突入してしましました。
当時は室町時代で、京都では室町幕府将軍が東海地方と信濃国を含む西日本を治めていましたが、東日本は鎌倉府と言う行政機関が現在の鎌倉市に別に置かれ政治が行われていました。
鎌倉府の行政区域は広大で、最大で駿河国より東側の伊豆国・信濃国・越後国以東~関東東北が統治範囲でした。
その長官が関東の将軍格で鎌倉公方と言われた人物でしたが、足利持氏と言う鎌倉公方が、くじ引きで京都の征夷大将軍に成った足利義教公と対立した❝永享の乱❞で敗北し自害したのを最後にして、関東の首府だった鎌倉府は滅亡する事に成ります。
鎌倉府周辺史跡 久良岐のよし
鎌倉府の所在地は現在では詳細に知る術(すべ)は有りませんが、鎌倉公方の居館の在った場所には現在も石碑が建っています。
その場所は鎌倉市の浄明寺(じょうみょうじ)地区と言う場所で、とても文化史跡の豊富な景勝地でもあります。
室町幕府よりはるかに昔の、まだ鎌倉幕府が存続していた時代からの足利家の氏寺であり、紅葉の名所の❝浄妙寺(じょうみょうじ)❞と言う御寺…
後の将軍足利尊氏公の祖父に当たる足利家時公と尊氏公の従兄の宅間上杉重兼公が開基(かいき=建設)した❝報国寺❞と言う竹林で有名なミシェランガイドで☆3つ評価された御寺や…
更には現在は通行止めですが、景勝地として有名だった❝釈迦堂切通し❞と言う御寺が在ります。
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足利持氏公はこの浄明寺地区で蜂起(ほうき)して京都の征夷大将軍足利義教公と相争い、結果敗北し、横浜の景勝地で武家初の図書館として有名な金沢文庫を有する金沢区称名寺に隠居します。
しかし将軍足利義教公の怒りは収まらず、鎌倉公方足利持氏は東京都世田谷区の永安寺に移送されて後に自害に追い込まれました。
この一連の事件を❝永享の乱❞と呼ぶ訳ですが、足利持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)公と、京都の将軍の息のかかった関東管領山内上杉家が利根川水系を境目に関東を東西で割る形で対立すると、足利成氏方は現在の古河市に在った古河城を拠点に、山内上杉家と合戦を繰り返し関東は騒乱の時代に入りました。
この足利成氏公の一連の事件を❝享徳の乱❞と言いますが、すなわちこれが関東が他地域より早く戦国時代に突入する事に成った原因でした。

そんな戦国時代を早く体験する事に成った関東地方では、北条家の小田原城に代表される関東流の築城技術や太田道灌公の主君扇谷上杉家に見られる自然地形を利用した堅城がいくつも築かれ、同時期の西日本とは比較にならない長期間の籠城に耐えられる城がいくつも登場しました。
その一つが、この堅固な岡崎城でした。
岡崎城3
これは田中祥彦さんと言う方が作成された岡崎城址主要部分の復元縄張り図です。
現在では大部分の保護が怠られたので、このまま残っている訳ではありませんが、元の地形が見てとれる部分も多く有ります。
実は現在の皇太子殿下が学生時代に、この岡崎城址を御見学にいらっしゃっていて、殿下のみならず本当の戦国時代の歴史好き城好きには有名な城なんですね。
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これらの看板は無量寺の入り口に掲げられています。
この看板の説明を読んで頂ければ、この城の重要度がそのまま解ります。
小田原城発展以前の相模国の中心的な役割を果たした城は、この岡崎城だったんですね。
そして当時としては規模も最大級の城域を誇っていました。
では、先程紹介した田中氏作成の岡崎城主要部分と、周辺の出城群を現在の衛星写真に張り付けた画像と、そのままの衛星写真で比較してみましょう…
岡崎城縄張り図全体像衛星写真
これは現在の衛星写真です。これを見ても何処が城跡か解りませんが、実はこの広大な範囲の大半が岡崎城城塞群でした。
岡崎城縄張り全体像
この画像中、赤い線で記されているのが岡崎城の空堀や曲輪(くるわ=兵士が守備するスペース)の遺構です。
凄まじい範囲ですね。
そして、この城塞群の周辺は深田や土腐(どぶ)化した湿地帯に囲まれていて、攻城側は不用意に近づこうものなら足をとられ歩行不能に成った所を、瞬く間に守備側の兵士から弓箭で射殺されてしまいました。
それだけではなく、この城址の主要部分は超複雑な構造の空堀群が入り組んでいて、この構造は上杉家をはじめとした関東在地の大名によって発展させられた自然地形を加工し敵を空堀に引き込み、曲輪上から弓矢の雨を降らせ敵を殲滅する構造でした。
何故、この辺りが土腐だったかと言うと、それは縄文時代には周辺は海だったので弥生時代ぐらいから段々と海岸線が遠のいて行きましたが、湿地として名残があったんですね。
ですから前回の記事で紹介した同じ伊勢原市の高部屋神社でも太古の昔から明治時代に成るまで続いた❝汐汲み神事❞と言う宮司が海で海水を汲む行事が続いていたりもしました。
…幕末も伊勢原市は海から10km以上内陸でしたよ勿論、でも神話の時代の地形で行っていた行事を歴代宮司さんが明治の国家神道成立で中止を余儀なくされるまで守っていたんですね。
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ところで、この岡崎城は平朝臣三浦家一門の岡崎義実(おかざきよしざね)公が最初の築城者で城主でした。
この岡崎義実公の御父君も歴史に名を残した武将で、名を❝三浦義継❞とおっしゃる武将でした。
三浦義継公の代から三浦郡知事に当たる三浦介(みうらのすけ)の官職名から苗字を三浦と正式に名乗る様に成り、以後、三浦一族は子孫に多くの戦国武将や大名を輩出する事に成りました。
※三浦一族の記事は下のリンクから御覧下さい。
●三浦家の菩提寺横須賀市の❝清雲寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●平安~鎌倉時代の三浦家の居城❝衣笠城❞の記事は「ココ」←クリック!
●鎌倉御家人達から武士の鑑(かがみ)と崇拝された三浦義明公の菩提寺❝満昌寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●三浦家と多くの坂東平氏系大名祖先の平良文(たいらのよしふみ)公の御廟のある❝二傳寺❞の記事は「ココ」←クリック!
岡崎義実公は、源頼朝公と、その御父君の源義朝公に忠義を尽くした武将で、義朝公が❝平治の乱❞で敗走した先の今の愛知県知多半島で部下の長田忠致(おさだただむね)に裏切られ殺害された際に、現在の鎌倉市に在る寿福禅寺の場所に義朝公の菩提を弔う為の御廟を建てられた逸話が残っています。
旧岡崎城域に当たる、無量寺から北に徒歩8分位の場所に在ります。
岡崎城 岡崎義実公御廟所位置 久良岐のよし
もし、岡崎城址見学に来られた際は是非、御参りして神奈川県や武士文化の発展の基礎を築く一端として活躍された事を後輩として御礼されては如何でしょうか?
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現在では参拝客も少ない義実公の御廟所ですが、皇太子殿下はこちらにもいらっしゃっています。
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…殿下、歴史オタクなんでしょうか(笑)?
もし殿下が歴史オタクなら不敬かも知れませんが…
なんだか嬉しいなぁ~神奈川県の歴史に興味ない人は地元の人も知らない名将と名城の古址を訪れて下さった事は神奈川県民として非常に名誉だ…
実は皇太子殿下は、宅地開発が進み完全に消滅の恐れの有るJR大船駅近くの名城玉縄城の保護活動にも御参加下さった事が有ります。
…同じく県下で有数の規模を誇った扇谷上杉家の糟屋館や笹下城、蒔田城や青木城を破壊しつくした神奈川県教育委員会歴代幹部は恥知らずだと思います。
少しは神奈川県の城址や偉人の史跡に関心を御持ちの皇太子殿下を見習って、神奈川県教育委員会や横浜市教育委員会は己等の所業と不見識を恥じて頂きたい。
これは笹下城の完全破壊を土建屋に実行する認可を与え、更には扇谷上杉家の巨大城郭遺構の糟屋館跡に県道を作り破壊しようとしている黒岩県知事にも言いたい事でもあります。

さて、岡崎城に話を戻します。

戦国時代に、この岡崎城を拡張し戦国の城にしたのは佐原三浦家でした。 三浦家平安~鎌倉時代の城塞群 久良岐のよし
上の衛星写真に表示した城は、いずれも平安~鎌倉時代の三浦一族の城址です。
衣笠城を三浦本家が拠点にし、その麓まで当時は現在の川沿いに入江が入って来ていて、三浦水軍の拠点に成っていました。
その為に、三浦家で最も有力者だった和田義盛公の居城だった怒田城(ぬまたじょう)城址の麓の地名は今でも❝船倉❞と呼ばれています。
佐原三浦家と言うのは、現在の三浦半島の横須賀市佐原に在った佐原城を本拠地にした三浦家の分家の佐原家が、三浦本家滅亡後に三浦姓に復姓して三浦宗家と成った家の事を指します。
佐原家は歴代名将が多く、源義経が今の神戸市に在った平氏の拠点❝福原❞を攻めた❝鵯越の逆落とし❞は佐原家初代の佐原義連(よしつら)公の立案です。
それを実行に移したのは、兵庫県出身の武将の多田源氏の惣領❝多田行綱❞公と伝わっています。
源義経は本当に部下(与力)の手柄を自分の手柄の様に報告したカスだった様ですね…
因みに、多田行綱の関東での居城と伝わるのが、以前紹介した横浜市都筑区の茅ヶ崎城です。
その茅ヶ崎城の裏に在る正覚寺は関東での多田行綱公の菩提寺と伝わっています。
※茅ヶ崎城の記事は「ココ」←クリック!
この佐原三浦家の子孫に当たる武将が房総半島の槍大善こと正木時茂(ときしげ)公であり、佐原三浦家を継いだ養子の三浦道寸(どうすん)公は北条早雲公と相模国の覇権を争って、この岡崎城に籠城しました。
更に道寸公の嫡子三浦荒二郎義意(みうら あらじろう よしおき)公は、三浦半島の現在の油壷マリンパークに在った新井城の最後の戦いで、一人で500人を打ち取った豪将として名を馳せました。

そんな歴史上の多くの名将が関わった岡崎城址、神奈川県教育委員会の怠慢で破壊されていますが、実は部分的には当時の地形も見え、更に完全に残っている曲輪もいくつか有ります。
例えば…
岡崎義実公の御廟所から無量寺に帰る途中に、❝喰い違い虎口❞と、その❝土塁と空堀❞の遺構と思われる畑地と農道を通りました。
❝虎口❞と言うのは、小口とも書きますが城兵が安全に出撃したり敵兵の侵入数を制限し立ち往生させ射殺する施設で、多くの場合は城門が置かれていました。
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青く光っている場所が、小生が観察写真を撮影したポイントです。
上に無量寺が見えますので、位置関係は無量寺を起点にして探してみて下さい。
このポイントで撮影したのが下の写真です。
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右手には曲輪の遺構の小さな丘が保存状態良く現存しています。
その間をS字クランクで抜けるこの農道の左右には明らかに空堀の遺構である畑地が有ります。
そして農道のクランク左手(城外に向く側)には土塁遺構と思われる盛り上がりも有りました。
或いは、このクランク自体が土塁で右手の空堀状の畑地は右手上の曲輪下の❝帯曲輪(おびくるわ)❞だった可能性も有ると思います。
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小生の様な歴史好事家(こうずか=オタク)や御城ファン以外には只(ただ)の畑地でも、我々には完全に空堀か帯曲輪だと断言出来る保存の良さですよ本当。すごい!
この喰い違い虎口跡の可能性が高い場所の右手曲輪跡の藪の中に入って見て下さい… 2016-01-03-16-26-24
上の写真の位置に行くと、下の写真の明確な堀切の遺構が見れます。
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凄いでしょ?
結構残ってますよ!岡崎城の遺構!
この一帯をちゃんと整備し、柵や木盾を押し並べ、堀底に逆茂木を敷設した城址公園化したら有料でも御城ファンが散歩に来て、ドラマの撮影場所にも使え観光と史跡保護の一石二鳥に成ると思います。
さて、先にズンズン進みます。
この農道を先に進むと、岡崎城址本丸の無量寺裏の連郭式の三連曲輪が見られます。
岡崎城三連の曲輪
あくまで、義実公の御廟側の農道から来て下さい。
無量寺サンの直ぐ裏ですが、無量寺側からは侵入できないようにロープが張って有ります。
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三連の曲輪の空堀から見た曲輪遺構。
この反対側は無量寺。
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だから無量寺にある城山稲荷大明神の裏っ側が見える…
小生が上の写真を撮影したのは下の青い点の場所。
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緑の線が農道ですね。
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曲輪にそって堀底道が続きます…
空堀も埋まってしまい大分と浅くなり、普通の人には只の農道にしか見えないでしょうね。
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でも人工的に削岩された形状が素人目にも判(わか)ると思います。
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曲輪の上にはきれいな水仙も咲いていました。
なんだか、城跡と水仙て関東では良く見る組み合わせなんですねよ。
偶然だと思いますけれど。
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可愛い…
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上の場所で水仙が咲いていました。
訪問は1月2日でしたが、その先、三連の曲輪の2つ目の曲輪の端っこには、綺麗な紅葉も見られました。
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その下には真ん中の曲輪と尾根を断ち切り、敵の侵入を防ぐ❝堀切❞が在ります。
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堀切の堀底道には更に別の堀底道に繋がっていたので、嘗(かつ)ては城兵が往来していたんでしょうね…
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真ん中の曲輪は、下の段の、恐らくそこも何某(なにがし)かの曲輪だった柵平地に繋がる深い堀切りが見られました。
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でも藪漕(やぶこ)ぎする時間が無かったので当日はその先には行きませんでした。
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でも、この下の写真…
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小生のいる青い点の右手に在る柵平地の畑地、その左右に伸びる農道は真っすぐ青い点の下のうっすら見える堀切に続いているので、この堀切が間違いなく堀底道としても使われていた証拠だと思います。
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でも3つ目の曲輪には行かずここまで。 2016-01-03-16-41-42
曲輪の畑地を降りて農道をそのまま道なりに歩くと、無量寺の本丸の南端、民家の石垣に出て舗装された道に復帰します。
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この御宅の石垣、昔の本丸跡の石垣とは思いませんが、使われている石材自体は、昔の三浦家の殿様の御屋敷の石垣とかから転用したものだったらロマンが有りますね。
因(ちな)みに、この本丸南側から丘陵の麓(ふもと)に降りる道も❝喰い違い虎口❞遺構らしい道が在りまして…
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道路拡張して舗装したとは言え、車がスレ違うのに四苦八苦していました…
なんで、そこでスレ違おうと思ったんだろう?
軽トラックが手前の空地に待機すればスムーズに行くのに(笑)。
この岡崎城の高台からは、湘南の海に突き出す大磯町の高麗山公園の山が見えます。
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この高麗山も古代の山城の跡と言われていて、奈良時代に日本に亡命してきた百済人や朝鮮半島から帰化した先人の山城の遺構とも言われています。
朝鮮式の山城は別に百済帰化民の城と言う訳では無く、当時の大和政権は唐と対立した時に、香川県に築いた屋島城や福岡県に水城等を多く築城しています。
この大磯一帯は古代、一宮寒川神社と二宮川勾神社の辺りで何方(どちら)を国府にするかで豪族が争った場所でもあり、その伝承は神話と成り❝国府祭(こうのまち)❞と言う神事として神社の神様同士が一宮の座を争う内容が、現在にも受け継がれています。
尚、この神様同士の争いを仲裁したのが、岡崎城址から車で数分の場所に在る比々多神社神様で、現在も神様同士の争いを仲裁するのが比々多神社の神様の役割に成っています。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
湘南~西湘、今の伊勢原市辺りは古代からの聖地であったと同時に、戦国時代まで、旧相模国の大名三浦家の中心を為した拠点だった訳です。

では!
又、次の記事で御会いしましょう!





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神奈川県の伊勢原市には神話の時代、弥生時代以前から聖地として存続する神社が数ヵ所在(あ)ります。
それ等の神社の旧社域からは縄文時代の祭祀遺跡~古墳時代の墳墓等が沢山出土していて、伊勢原市の大山の山頂~麓(ふもと)まで日本の神話を証明する様に❝地下を掘れば遺跡❞と言っても大げさでは無い神社が沢山有ります。
その一つが高部屋神社と言う神社です。
延喜式に登場する神社で、式内社の中でもかなり古い歴史を持つ神社です。
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この現在の高部屋神社は平安時代に現在の場所に社殿を移されたのですが、それでも尚、神話の時代の神秘や「浦島太郎伝説」の結びつきを彷彿とさせる建造物や意図的に古代の儀式を惹起(じゃっき)させる配置で植えられた古代は霊的な意味を持った植物等、多くのミステリーを持ち、尚且つ明治時代に成るまで江戸から御参りに来る観光客で賑わった程の有名な神社でした。
なんせ、この神社の目の前の道、現在は普通の住宅街の中の道ですが、この道は昔の実は大山街道なんです。
江戸時代、江戸の市民には富士山登山と伊勢原市の大山登山はセットで憧れの観光プログラムでした。
これは平安時代末期にも、鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公も行ったレクリエーションを兼ねた山岳信仰でした。
現代では余り❝権化❞や❝権現❞と言う言葉を口にする日本人もいなく成りましたが、昔の人は自然と神様や仏様の存在を結び付けて同一視する事で自然信仰と神仏崇拝を同時に行っていました。
伊勢原市に在る❝大山は大山祇大神の権化❞として…
富士吉田から登山する❝富士山は大山祇大神の娘神様の此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の権化❞として…
それごれ信仰対象と成っており、江戸市民はその山を登る事で幸せに成る御利益を授かろうとしたり、ごく自然に風景の美しさに感動したりしていました。
先ずは、伊勢原市周辺の神社や城跡の位置関係を御覧下さい。
高部屋神社位置関係
※画像クリックして拡大して見て下さい!
画像の中心辺りに現在の高部屋神社、真ん中の少し上に高部屋神社の奥院の印が有ります。
実は、この高部屋神社も元は渋田山と言う場所に在り、山岳信仰の対象でした。
しかも!
古代はこの渋田山は❝奥津城❞と呼ばれていた事が知られており、縄文~奈良時代くらいまでの古代人と何か関係の有る山城か山岳集落の有った事を匂わせる聖地でもあります。
❝城❞と言う字は、本来の漢字の意味では現代日本語の❝町❞を指します。
そして❝町❞の本来の漢字の意味は、田圃(たんぼ)の区画を数える単位で、市街地を指す意味は有りません。
中国の❝町❞は、近代まで城壁に覆われていましたからね、唐の時代に西安に留学した大和朝廷の国費留学生達は、城の意味と城壁の意味を誤認して帰って来たのかも知れませんね。
現代日本語の❝町❞を指す言葉は、都市としての町は❝城❞と書き、城の中の所謂(いわゆる)❝町❞の意味の漢字は❝街❞と書きます。
現代の華語でも日本語で言う処の町の事を❝城市❞と言います。

現在の高部屋神社の社殿の在る場所は、平安時代に源頼朝公の配下の武将の糟屋有季(かすやありすえ)と言う御殿様が築いた千鳥ヶ城と言う城の一部でした。 2016-01-03-13-08-59
糟屋有季公が御自分の領地の鎮守の神様として、高部屋神社を渋田山から現在地に遷宮されたんですね。
しかし、元の社殿の所在地だった渋田山には、現在も奥院として祠(ほこら)が建っていると、氏子サンから教えて頂きました。
この奥院の在る渋田山が古代❝奥津城❞と呼ばれた理由であろう要素は、歴史好きには容易に想像が出来ます…
先に述べた通り、奥津❝城❞と言う位なので恐らく元々の高部屋神社の社殿の在った奥院の周辺には古代人の山間の集落が存在したはずです。
そして奥津城の❝津❞の字は現代語で言う処の❝港❞と言う意味の言葉です。
❝津波❞と言うのは❝港に襲来する大波❞と言う意味に成りますね。
つまり、この奥津城=高部屋神社奥院は、古代は海が眼前に広がっていたと言う事に成ります…
でも、上の衛星画像で見た通り、現在は大分内陸ですよね?
しかし、近隣のやはり縄文時代から存続する比々多神社と、この高部屋神社には現在も海に関する神事が存続しています。
下の写真は高部屋神社拝殿に吊(つ)るされた❝ホンダワラ❞と言う海藻です。
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高部屋神社では、昔から神社にこの海藻のホンダワラを社殿に供える風習が残っています。
ホンダワラは古代名は❝莫告喪(なのりそ)❞と呼ばれ、和歌では動詞の❝名告(なの)る❞の枕詞(まくらことば)として用いられた風流な海藻なのですが…
小生は個人的に軍神であり水神様の八幡大菩薩=応神天皇の本来の御名前の❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)❞の発音「ホンダワケ」と「ホンダワラ」が似ていると感じるので、なにがしか古代に於(お)いては、この海藻のホンダワラは応神天皇と結び付けられて考えられた植物だったんじゃないかと感じました。


…実際、この高部屋神社は江戸時代までは高部屋八幡宮や糟屋八幡宮の別名で日本全国で有名だった神社であり、御祭神も応神天皇です。
古い八幡宮は、だいたいが海や湖や大河川の傍に建てられましたからね。
この高部屋神社には明治まで続いた❝汐汲み神事❞が存在しました。
この神事では歴代の宮司は海まで必ず徒歩で歩いて行き、海水を汲んで来たそうです。
拝殿の屋根の破風(はふ=一部分構造の名前)の部分には、浦島太郎の物語の彫刻まで有り、この高部屋神社の由緒が海と密接な関係が有る事を窺わせています。
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もう一度、高部屋神社周辺の位置関係を見て下さい。
高部屋神社位置関係
高部屋神社の社殿が元々在った場所❝奥院❞の所在地の古代名は奥津城ですが…
津は先程申し上げたとおり、❝港❞と言う意味です。
では何故、こんな山の中に奥❝津❞城の津の地名が存在し、海に関する神事が存続するかと言うと…
それは、古代、この場所が海だったからです。
昔の海岸線

この伊勢原の周辺の神社の元に成った古代人の祭祀史跡の出土する場所は伊勢原皇大神宮を除いて高部屋神社を含めだいたいが神話の以前の縄文時代から存続しています。
高部屋神社の前には渋田川と呼ばれる川が流れており、その上流までさかのぼると奥院のある渋田山=奥津城まで辿(たど)りつけます。
ここからは推測ですが、恐らく昔は渋田川にそって奥津城まで細長い入り江が続いていたのかも知れません。
❝渋田山=奥津城❞には古代~古墳時代くらいまで入り江に漁村があり渋田山にも山麓の集落があり❝城❞=町=村を形成していたのかも知れません。
では、上の海岸線を元に衛星写真上に高部屋神社や比々多神社の位置と、縄文時代の海岸線の位置を再現してみましょう。
高部屋の海岸線
ね?
見事に高部屋神社の近くまで、海が入り込んできていたのが解るでしょう?
つまり、この奥津城は古墳時代位の古代の漢字の本来の意味での城が在ったのかも知れません。
実際、この高部屋神社周辺の比々多神社や大山阿夫利神社一帯では縄文時代~奈良時代までの墳墓や祭祀上跡や住居跡が大量に発掘されていますしね。
しかし、まだ汐汲み神事が行われていた幕末には既に海岸線は現在の位置まで後退してしまっていたので、宮司様は古代の風習を守り伝える為に既に海岸線から10km以上内陸に取り残された高部屋神社から必ず徒歩で海まで海水を汲みに行ったそうです。
昔の宮司様は、こうやって日本の伝統文化を神事として守って下さったのですが、明治時代に成り神社や神話が国により統制される❝国家神道❞が成立すると、高部屋神社は400年強の歴史しか無い伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成り、この神代より続いていたであろう汐汲み神事も消滅してしまいました。
伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成ったのは、恐らく伊勢原大神宮の神様が伊勢系の神様で天皇家の祖先に当たる天照大神だからでしょう。
神奈川の発展に寄与して下さった歴史人物に関係の有る神社を色々回って来ましたが、どうも関東では明治政府によって出雲系の神様の神社や伊邪那美神系の神社は合祀の名の下に弾圧を受け多く消滅しています。
しかし
この神社には海との繋がりだけでなく、今も、日本古来の神道思想を窺わせる神秘的な物も残っています。
と、その前に、高部屋神社の色んな施設を紹介しておきたいと思います。

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看板にもある通り、この高部屋神社は延喜式内社です。関東では余り多くは無い凄く重要な神社。
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そして古代から存続する為(ため)か、御祭神の御名前もあくまで古代からの御名を継承しています。
天皇の尊称は中国の影響を受けたもので、1400年位しか歴史の無い呼び方ですからね。
日本の皇家の歴史は少なくとも2600年以上有るとされる訳ですから、神格化されている❝おおきみ❞様に関しては天皇の尊称以前の御名前を呼ぶべきだと小生も思います。
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高部屋神社の拝殿の前には大きな石造りの鳥居が有りますが少し視線を左にやると、又、別の石段が有りまして…
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こちらの石段の年季の入り様は、恐らく江戸時代くらいからある階段である事を証明してくれています。
この石段の横には昔、御神木であったであろう木の切り株が有ります。
この短い石段を登ると、高部屋神社の社殿とは別の八坂神社の御社が在ります。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)です。
この神様も古代の軍神であると同時に海の神様です。
…と言うか、日本神話上、海を治めることを命じられた神様ですので日本最初の海上交通や治水の神様と言って良いと思います。
平安時代には治水の神様と言えば八幡大菩薩=応神天皇か宗像三女神でしたが、それより以前の日本の古代の海の神様と言えば軍神の素戔嗚尊か、その御子息の安積磯良(あづみのいそら)/磯良(いそたける)神でした。
走水神社の奥社にも日本武尊が信奉したと伝わる須賀神社があり、この❝須賀❞神社の❝須賀❞と言うのは素戔嗚尊と御妃(おきさき=奥さん)奇稲田姫(くしなだひめ)が御一緒に開拓し建国された国の須賀国の名前に由来した神社です。
すなわち日本武尊は御自分以前の軍神で水神の素戔嗚尊と奇稲田姫命を御祀(まつ)りしていた事が解ります。
海の神社の高部屋神社らしい神様ですね。
高部屋神社は江戸時代までは八幡宮だったので、八幡宮の御祭神の八幡大菩薩とは敢えて別棟に御祀りされたのかも知れませんね。
さて、ここは延喜式内の神社でありながら、後に御祭神の関係で八幡宮として江戸時代に呼ばれていただけあり御祭神の八幡大菩薩=応神天皇が神仏習合の象徴的な存在だっただけあり、境内には鐘楼も有ります。
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…逆光で申し訳ない。
でも、この鐘楼は重要文化財に指定されています。
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そして、その隣りにはも御社が在りまして…
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こちらも又々、水神様の金毘羅(こんぴら)様が御祀りされています。
金毘羅様も八幡大菩薩と同じく神仏習合の神様で、インド出身の神様です。
金毘羅(こんぴら)と言うのは元々、古代インドのサンスクリット語で❝クンピーラ❞と言う名前で呼ばれていたインドのガンジス川の神様です。後に仏教に取り込まれ、インドから中国に伝来した後に、中国に仏教留学した日本人僧侶達によって日本に広められました。
日本に伝来すると、神格の似ている大物主と言う神様と習合され水神様として主に日本神話を特に大切にした真言宗の僧侶達に大切にされ、海で働く漁師や廻船商人達からも崇拝されました。
やはり、海にまつわる高部屋神社らしい神様ですね。
最初は中国で、サンスクリット語の発音に宮比羅(ゴンビィルォ)とか金毘羅の漢字が当字されていましたが、日本に伝来した漢字の❝宮❞の発音は訛りが有り❝宮比羅❞では❝コンピラ❞とは日本人が読めないので❝金毘羅❞と真言宗の僧侶達により統一された様です。
明治時代に成ると、仏教迫害の神仏分離令の被害を受けてクンピーラとしての神格は薄れてしまい(仏様じゃなくてインドの神様なんですけどね)、大物主様とだけ形式上祀られる事で、金毘羅宮は破壊を免れる事が出来ました。
ぶっちゃけて言うと、金毘羅様は動物のワニを神格化した神様で、言ってみれば朱雀や白虎や麒麟みたいな動物の神様的な感じでしょうか?
仏教に取り込まれると金毘羅大将とも呼ばれ擬人化した仏像で表現されますが仏教の守護❝神❞の一人として扱われる様に成りました。
まぁ、本来の神格は日本と同じ自然崇拝の習慣を持つインドの方らしく❝水神様のワニ❞です。
小生、香川県の金刀毘羅宮にも御参りしましたが、確か同じ様な解説も書いてあったと思います。
いずれにせよ、高部屋神社の氏子様達が祖先から受け継いだ御社とコンピラ様を大物主様の御宮として守って下さった事で、水神信仰の名残を垣間見える事が出来ます。感謝。

高部屋神社は八幡宮としての神格から、この様な神仏習合の神様も沢山いらっしゃいますが、古代から存続する神社なので、今の一般的な神社では廃(すた)れてしまった古来の風習と思しき習慣も残っています。
その一つが先に紹介したホンダワラを飾る習慣と…
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この枝ぶり、どこかで見た事が有りません~? 2016-01-03-13-38-41
実は皆さん、絶対に毎日生活の中で見てるはずなんですよ。
この木は招霊樹(おがたま)と言う名前の木です。
しかし!
生活のどこで見ているか、その正体を教える前に、うんちく垂(た)れます。
よく神事で用いる榊(さかき)って植物を御供えしますよね?
実は招霊樹、榊より以前から神事に用いられていた節が有り、招霊樹が植生しない地域では榊を主に使う様に成った様です。
この木は黄心樹とも書きますが、正しくは招霊樹と書きます。
和歌で字の発音で❝黄心樹❞と当字されてしまって以来、その字も使われる様に成ってしまいましたが、元々は招霊樹と書きました。
古代中国では❝含笑花❞とも書かれました。
皆さんは普段、一円玉として良く見ています。
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お金にデザインされたり含笑花とか書くので何か縁起の良い植物そうな事は解りますが、日本語の招霊樹では何か神霊的な意味を持っている事も解りますよね。
この招霊樹と御榊(おさかき)は同じ使われ方をします。
榊で説明すると、神棚に供えますが、あれは招霊樹と外見が似ている事から使われる様に成り、榊(さかき)と呼ばれる様に成ったのは発音から境木(さかいき)として用いられ神様の御住みになられる場所を守る結界(けっかい=バリア)を張る役割を担う植物に成ったからですね。
つまり、先に榊の役割で説明してしまいましたが、神様の住む社殿を守る心霊的な結界として古来の神社には植えられていた植物なんですね。ですから現代でも神棚に榊を供える風習が残っている訳です。
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写真は拝殿裏の本殿ですが、やはり本殿も招霊樹の木に守られています。
この様な古代の民俗風習を守る神社は今では少なく成っていますね。
さて、高部屋神社には古代の風習が氏子サン達によって今でも守られている事がなんとなく御理解頂けたでしょうか?
では、社殿を見てみましょう。
この日は1月2日の御正月だったのですが、幸運な事に氏子の偉い方に拝殿の中に入って見学させて頂けました。
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よく古い神社で見かける、上の垂れ幕みたいなもの、これにデザインされている模様が小生にはホンダワラを意匠化した物の様に感じられます。
昨年末、関東最古の大社格の神社の埼玉県の鷲宮神社に横浜の殿様の間宮家の顕彰活動の一環で御参りした際に、同じ物を見て不思議に感じたのですが…
実は鷲宮神社の江戸時代までの宮司家は大内家でした。このホンダワラを意匠化した様な模様、戦国時代オタクはすぐに判(わか)るんですが大内家の家紋にソックリ!なんですよね。
鷲宮神社の伝承では関東を開いた神様は出雲系の神様です。大内家の出自も出雲大社の在る中国地方です。
中国地方の大名だった大内家は渡来系とされ百済王の子孫を自称しましたがそれは藤原氏に気を使って血筋を貶(おとし)めただけで、実際は渡来系でもより古い中国大陸から南方経由で回って来た氏族だと思います。
でなければ歴史事実と神話の両方と整合性が無くなりますからね。そう言う意味では関東地方の神話と鷲宮神社の旧社家の大内家の伝承と整合性が高く成ります。
そうなると大内家は出自は出雲系の御神孫支族だったんじゃないかと言うのが推測出来ますが、実は鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司家も戦国時代は大伴家で、やはり古代からの豪族でした。
高部屋神社の直ぐ御近所で、同じく延喜式式内社の比々多神社も神社としての最初の宮司様は紀氏でした。
関東を早くから開き神事に従事した一族は、藤原氏台頭以前の古豪達が多かった様です。
そう言う意味で個人的な感想ですが、やはりこの意匠は何だか海の大名の大内家やホンダワラと関係が有りそうな気がします。
天皇家の御先祖様自体も海幸彦山幸彦の神話で海と関係が有り、先に紹介した高部屋神社拝殿の屋根の唐破風には浦島太郎の彫像が…
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浦島太郎↑と↓乙姫様と竜宮城
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もうこれ、絶対に出雲系の神様や海藻ホンダワラと関係の有る神紋なんじゃないかなと思うんですよね。
ところで神話から話が逸れますが…
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屋根の構造を内側から見ると、古い建築で釘を使わない日本本来の技術で骨格が組まれている事が見てとれました。
さて、招霊樹の説明で先に少し写真を載せました本殿はこの後ろに在ります。
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本殿には招霊樹の木と、神様を守る専任の狛犬様が結界を守ってらっしゃいました。
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この中に神様がいらっしゃるんですね~。
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本殿はかなり高い位置に鎮座しておられます。
なんだか出雲大社の古の社殿の在り様を、古い神社ほど意識している様に感じます。
それとも高い場所に本殿を祀るのは山岳信仰の日本古来の価値観で山を御神体としたからでしょうかねぇ~?
はたまた、神様が住んでいた高天原(たかまがはら)を意識して、昔の神社は神殿を高い位置に築いたんでしょうか?

こんな風に、高部屋神社は古代のミステリーを今に伝える神社なんです。
是非!伊勢原市方面、大山の桜や紅葉のライトアップや温泉を楽しみにに行かれる機会があれば、近くに在る、この高部屋神社も御参りして日本神話や古代人の風習に触れてみては如何でしょうか?

冒頭で申し上げましたが、この場所は平安時代末期~戦国時代まで千鳥ヶ城や糟屋城の名で呼ばれた城址だったので、現在は道路で分断されていますが…
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道の向こう側は城址公園として土塁や空堀の遺構も保存されて説明の看板も有ります。
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丸山城址公園は、次回、この記事の後編として書きます。

では、皆さん、又、次の記事で御会いしましょう!


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3日…
遅起き寝正月。
昼の11時にモゾモゾ起き出し、せっかくの休日が勿体無いので発奮!神奈川県伊勢原市に行ってきた。

神代より存続する延喜式式内の古社の高部屋神社
神話を証明する史跡群の中にある御三ノ宮比々多(ひびた)神社
 
普通、神社は南面を向いて社殿が建設されるが、この比々多神社は南東にある。
これは、この現在の社殿の役割があくまで「拝殿」であり、戦国時代まで裏山にあった本宮跡地を本殿に見立てているからだろう。
比々多神社位置関係
衛星写真で見ると一目瞭然です。
今日は正月だから巫女さん達が売店に沢山いて、御参りしたら鈴で御払いを無料でしてくれた。
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神社で巫女さんが祭事で使う「鈴」は「黄心樹(おがたまのき)」と呼ばれる植物の代わりに使われる様に成った祭器で、1円玉の表面のデザインの植物がそれだったりする。
この「おがたまのき」は音の発音では「小賀玉木」とも書かれたりするらしいのですが、正式には古代大和語に意味が同じ漢字を当てて「招(おが)霊(たま)樹」と書く。神の御霊を降臨させる植物と言う事でしょうかね~?
招霊樹が自生しない地域では良く似た榊(さかき)を用いるそうです。
御神前や御仏前に供えるのは、古代日本宗教の名残なんですね。
全国の緒方サンや尾形サンは、この古代語で書かれる植物と関係が有る仕事をしていた御先祖様を持つのかもしれませんね。
そして戦国時代三浦家の居城岡崎城址と本丸跡に建つ無量寺を見学。
加えて岡崎城旧城域の住宅街の中に残る平安末期〜鎌倉時代の河内源氏に対して深い忠義をお持ちだった岡崎義実公の御廟を御参りして来た。
なんと、浩宮皇太子殿下も若かりし頃御見学にいらしたようだ。
…歴史オタクなのかな?
見学が終わり帰宅前に伊勢原の義伯父の家に挨拶に行き、北海道から帰省している幼馴染の姉ちゃんにも会えた。
すき焼きを、たらふく御馳走に成って帰ってきた。

良い正月三箇日の〆、良い年の始まりに成ったと思う。

観音崎の記事書いたらら次は高部屋神社と岡崎城址の一部分の紹介記事を書こうかな?
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前回の記事で伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺と、そこが菩提寺の太田道灌公である御話し、道灌公がどれだけ偉大な武将だったかを紹介しました。

その際に道灌公暗殺の一部始終も一旦、同じ記事内に書いてみたのですが長く成りすぎて読み難かったので今回の記事に「太田道灌公暗殺の状況」を別記事として分離し、補足情報を追記します。
※前回の記事は「ココクリック!

さて、太田道灌公の説明を改めてさせて頂きます。
太田道灌公
神奈川県の伊勢原市上粕屋町に在る洞昌院公所寺(ぐぞじ)と言う、各時代で関東の歴史事件と関連の有った御寺が有ります。
同寺は室町時代初期〜戦国時代初期の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の拠点:粕屋館(大規模な平山城)の遺構の外郭の一部であり…
道灌公暗殺の舞台です。

太田道灌公の祖先は摂津源氏、家は代々、関東管領を務めた扇谷上杉家の執事(しつじ:社長代行みたいな職)を務めました。 
道灌公は河越城や江戸城、佐江戸城を築城し、川越市、東京都23区、新横浜の発展の基礎を築いた人物です。 
合戦では無敗を誇り、築城した城の多くは戦国時代、江戸時代を通じ名城として存続しました。 
後の世に残る築城の名手でも有った訳です。 
更には和歌に造詣も深く、遠く和歌の本場の京都の貴族達の間でも太田道灌公は和歌の名人として認識されていた有名人でした。 

関東人にとっては、関東の発展や文化、神社仏閣の建築遺産の保護に偉大な業績を残された偉人でもあります。

今回の訪問で、和尚様より文献には載らない寺と地域伝承の道灌公暗殺時の一部始終を御教授頂きました。
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この参道にある石柱は山門(さんもん=御寺の正門)代わりですが、太田道灌公が落命した山門は本堂〜80m、この石柱の手前50mの所に在ったそうです。
山門は大正時代の関東大震災で倒壊して以来、再建されていませんが、道灌公にまつわる話が寺伝として残っています。
洞昌院は「道灌公の暗殺事件発生以来、門を閉じてはいけない。」と言う決まりが有るそうです。
ですから仮の門も造られていないんですね。
この御寺の規則が道灌公暗殺事件そのものと関係が有ります。
この洞昌院の横には自然地形を利用した糟屋館の巨大な空堀跡地形も現存します。
目の前の丘陵が全て糟屋館と呼ばれる広大な扇谷上杉家の城塞の跡で…
…その丘の手前の田圃(たんぼ)の有る長い谷が自然地形を利用し手を加えた空堀跡。
 
当時は、この田圃(たんぼ)が自然の障子掘りみたいな状態だったんでしょうか?
付近は第二東名工事と宅地化の事前発掘がされています。
なんせ、付近は全て糟屋館の城跡ですからね。

上の写真は糟屋館の北東部、「外堀」の地名が伝承する地域の発掘調査中の看板です。
ここの発掘調査自体は戦国時代と全く関係無い「古代遺跡」の調査です。 
伊勢原市は神話の舞台な上に、大山阿夫利神社や比々多神社と言う、縄文時代からの祭祀場跡や古墳時代の遺跡を旧社領に大量に抱える2大聖地が有りますからね…
※比々多神社の記事は「ココクリック!
※大山阿夫利神社の記事は「ココクリック!
伊勢原市に新東名高速が開通するのに伴い、神奈川県が「外堀の遺構」に新たな県道を建設する為、事前発掘調査をしています。
又、一つ、黒岩知事によって超重要な城址が破壊される…。
さて、この一見、糟屋館とは関係無さそうな外堀りの日本草創期の古代遺跡が発掘調査中の御蔭で、付近は丘陵の雑木林が伐採され戦国時代の糟屋館(巨大な平山城)の地形が露出し、その人口掘削された地形が綺麗に露出して見えます。
扇谷上杉家粕谷館の北東方面の切岸や曲輪群と思しき地形。
 
この地形↑なんか良く犬走りや曲輪らしき人工の地形が見えますね…
これも↓切岸に犬走りが有り、そこが農道として利用されたと推測できす地形が。
 
この写真、地面が露出していない部分は竹林に覆われていますよね?
どうも小机城、篠原城、笹下(ささげ)城の遺構を見て来た小生の感想として、室町時代の関東流の御城は、城域の切岸(きりぎし:人工的に掘削した石垣代わりの斜面)には雨天に地形が変わらない様に土止めの竹や篠(ささ)を植えていた様です。
竹だと戦時に伐採し、竹束(たけたば:火縄銃の銃弾を弾き返す盾)や乱杭(らんぐい:水掘りや川に設置するバリケード)、逆茂木(さかもぎ:空堀や切岸の底面に設置し、敵が落ちた時に串刺しにする罠)に加工出来ます。
篠は脂分が多く良く燃える燃料(ただし破裂する)にも成りますからね。
城塞の保持と、軍備、更には秋の筍(たけこの)を干して保存食にしたりと様々な用途で役に立った訳です。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この糟屋館、名前は館ですが地域の方々が守り伝えて来た地名と洞昌院を位置関係を衛星写真で見て見ましょう。
広大な範囲が城域だったのが解りますし、実際にその伝承通りに要害性の有る地域や、施設の跡が発掘されています。
赤枠で囲まれた文字は現在も伝わる地名です。
水色の線で囲んだ範囲が、伝承と小生が今回自分で見て回った周辺地形から見て取れた扇谷上杉家糟屋館の推定城域です。
水色で塗りつぶしている場所は、外郭と城外との境界と思われる沼掘り・空堀・堀切・切岸等の跡らしい地形です。

洞昌院の右手は現在も地元の老人や御寺の和尚様達によって空堀跡と地形が伝承されています。
さて、この衛星図を見て頂いたので道灌公暗殺の状況を説明します。
●以下「黒字」が共通の伝承以外の部分。
●以下「赤字」が室町時代から伝わる地元と洞昌院の伝承部分。
●以下「青字」が江戸時代の太田資武状の伝承部分。
●以下緑字 共通の伝承部分。

道灌公の暗殺の状況として文章しか読まない学者先生が参考にするのは「太田資武(おおたすけたけ)状」と言う古文書です。
…でもその内容、地元の伝承と比較すると、だいぶ端折(はしょ)られている内容ですし地元に伝わるかなり詳細な暗殺の状況を伝言ゲームしたら間違って伝わった様な感じなんです。
其(そ)れも其の筈(はず)で、太田資武状の著者の太田資武は太田道灌公の子孫ですが、糟屋館の所在地である神奈川県伊勢原市上糟屋と遠く離れた今の埼玉県さいたま市岩槻区生れ、その後、父が兄に造反された際に父と共に茨城県に移り、更に福井県に移住した人物なので詳しい事和は知る筈も無いんですね。
更に太田 資武自身が道灌公の死後84年して生まれた人物なので太田資武状が書かれた頃には既に事件から100年は経過した頃なんです。
ですから、正確な内容が伝わる方が困難なんすね。しかし、中にはそれが全てと誤解してらっしゃる方もいるんですね、机に噛り付いて実際に検証しないタイプの人とか。
でもまぁ、地元の伝承は事の始終が、もっとハッキリ伝わっています。

もう一度、衛星画像で位置関係を確認しながら…
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
1,洞昌院と地元の伝承…暗殺事件発生の原因。
太田道灌公の主家である扇谷上杉家は同族の山内上杉家と関東の覇権を賭けて抗争中だった。
道灌公の活躍により扇谷上杉家は優位な戦況を維持していた。
しかし道灌公の活躍と人望を恐れた器の小さい主君の扇谷定正と関係が段々悪化した。
それに目を付けた山内上杉家は扇谷上杉定正に太田道灌公を殺させ、扇谷上杉家を弱体化させようとした。
その為、定正を煽動(せんどう)した所、器の小さい定正は道灌公を殺害する事にし、糟谷館に道灌公を呼びつけた。
※太田資武状と共通の部分。

2,地元の伝承…暗殺の舞台、糟屋館城域周辺の地形。
洞昌院の場所より内側には、軍兵は進入を許されなかった。当時はここより先は平時は武将のみ入れた。
→洞昌院の直ぐ近くには「しめ引き」と言う地名が有ります。これは恐らく「閉め引き」と書き、そこには引き橋(ひきばし=戦時に撤去出来る橋)と開閉可能な城門が有ったと思われます。ですので、洞昌院の地域に伝わる伝承の証明に成るかも知れない地名です。
→糟屋館は上杉家の屋敷では無く、屋敷を取り込む巨大な糟屋城塞。
※太田資武状では事件の舞台に成った城館が名前の糟屋館から「ただの館」としてしか認識されていない。
※文献には載らない糟屋館の実情を示す地域伝承では立派な城塞の規模と施設を備えていた。

3-1,地元の伝承暗殺された時の状況。
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に糟屋館(実際は巨大な平山城)に呼び出され訪問した。
その際に定正の館で旅で疲れた体を労わる様に勧められた。
しかし主君は関東管領も務めた家柄なので、家臣の道灌公が主君と同じ風呂に入るのは失礼に当たる為、道灌公は洞昌院の近くにある同寺の塔頭にて休もうと移動した。そこで暗殺者に襲撃された。
その場所は現在、竹藪に成っている辺りと伝わる。
糟屋館近く豊岡(現在の伊勢原市富岡)の在地武将、小沢某も道灌公に与力したが討死した。
道灌公は即死では無く、武装兵の進入が許されない洞昌院に逃げ込もうと傷を負ったまま移動する。
竹藪の近くに在る七人塚の辺りで道灌公の配下武将が敵と交戦し討死
した。
しかし道灌公は洞昌院の山門に辿りついたが、不幸にも門は閉ざされていて逃げ込めなかった。御寺の衆が外の異常に気が付いて門を開け放った時には既に道灌公は虫の息だった。
→七人塚の北側、空堀沿いには竹藪が残る。仮にそこが暗殺者に襲撃された塔頭の所在地だとすると、洞昌院へ道灌公を逃がす為に配下の武将が洞昌院山門への別れ道に当たる七人塚の辺りで敵の追撃を食い止め時間稼ぎをしたと考えられ、七人塚と洞昌院の位置関係と伝承に整合性が高い。
→小沢某は御子孫が富岡に住んでいたので「小沢文書」と言う古文書にも討死の経緯が保存されていた。又、小沢家は在地武将だったので、道灌公が糟屋館に出張する折りの接待役を務めた可能性は高く、寝所の洞昌院塔頭への案内を務めている最中に事件に巻き込まれた可能性は高い。
※地理的にも事件の経過順に位置関係と伝承の整合性が高いので事実だった可能性が高く、しかも詳細。

3-2,太田資武状暗殺された時の状況。
その内容記されている暗殺の状況は、略(ほぼ)以下の様な内容です…
太田道灌公は主君の上杉定正に、扇谷上杉家の糟屋の館に呼ばれた。
定正が道灌公に「風呂にでも入ってゆっくりして行きなさい」と言ったので、道灌公は入浴(当時は蒸し風呂、でも糟屋なので温泉か?)した後、風呂場から出ようとした所、小口で曽我兵庫と言う武将に襲われて、「当方滅亡」と言葉を残し絶命した。
けど、これは先に述べた通り伊勢原の事件現場から、これを書いた太田資武の出身地岩槻まで遠く離れている上に当事者の道灌公達は殺されているので、事件の状況を人づてに伝言ゲームで岩槻に伝えたら不正確に伝わった結果だと、地元の伝承と比較すると解ります。
しかも資武の頃には事件の100年後ですからね。

3-3,「太田資武状」に書かれた状況を、岩槻の人間は知らない現地の伊勢原の地名で解釈すると?
実は「太田資武状」を現地の地名を踏まえて読めばで 「洞昌院伝承」と御互いの情報を補完する自然な解釈が出来るんですね。
道灌公は主君の定正の勧めにより旅の疲れを取る為に湯殿入り小口から出た所を襲撃された。
現地を歩かない、現地の地名を調べない古文書しか読まない怠慢学者が解釈すると誤解しか出来ないし、そのまま「風呂に入って小さい出入口から出ようとした瞬間に襲撃された」としか解釈出来ない。
しかし太田資武状の伝承内容を地名として解釈すると至極自然に無理なく、地元の伝承と整合性が高く解釈出来る様に成る。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
現地の地形と地名を見て見ると、「湯殿入」と言う地名が有り、その先には「虎口(こぐち=小口)」に当たると思われる屈曲した道路が有り、その先は馬攻口へと繋がっている。
太田資武状の湯殿入や小口を「風呂場の話しでは無く地名と解釈」する
  ↓
道灌公は主君の扇谷上杉定正に糟屋館で「風呂にでも入って休め」と言われ、(城外の寝所に定めた洞昌院の塔頭に移動する際に)湯殿入り(側)から( 馬攻口へ城を)出る小口(虎口)で暗殺者に襲撃され絶命した。
…これだと極々、自然な解釈ですし、地形的にも地元の伝承と整合性が高い訳です。
虎口と言うのは城門に敵兵を迎撃する為の射撃施設を設けている場所で、現代のトーチカ(要塞)みたいな構造物ですから、道灌公が虎口に差し掛かった時に弓兵を率いた暗殺者が作戦を実行し易い場所でもある訳です。

4,洞昌院の内規…道灌公絶命の状況を証明する洞昌院だけの伝承と規則。
道灌公は洞昌院の再興者で最大の支援者なのに、山門を閉じて居たばかりにその恩人を死なせてしまった事を忘れない為、以後、洞昌院は平成の現在に至っても「山門を閉めてはいけない」言う規則が有る。
※御寺の規則と、道灌公暗殺の地元の伝承には整合性が有る。もっとも、現在、山門は大正時代の関東大震災で倒壊後は再建されていない。

【洞昌院と、地名で解釈した太田資武状の両方を合わせ暗殺状況を検証】
…両方の伝承を合わせると、伝承内容と地名が完全に合致して詳細な暗殺の状況が解る。
扇谷上杉家糟屋館の暗殺場所推定
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に呼び出され、糟屋館(城塞)を訪問した。
  ↓
糟屋館の中、今の立原(たちはら=館原)に在った、扇谷上杉家の御殿(ごてん=屋敷)で定正に謁見し、会見が終了した頃に定正から「風呂にでも入って休め」と言われ退去した。
※この御殿が「湯殿(ゆどの)」と当時言われていたのではないだろうか?
※伊勢原市糟谷や七沢や大山は現在でも温泉地で、ここは扇谷上杉家の湯治場であり大山参りの際の宿泊所だったのでは。
※大山は平安時代から既に武士達の信仰を集めた聖地で、参拝者の通る道「大山街道」が関東全土に広がっている程だった。
  ↓
道灌公の寝所は糟屋館の外郭機能を果たした洞昌院の塔頭だったので、「湯殿入」と言う地名の方面を抜け、虎口(こぐち=小口)から城を下り馬攻口から寝所の洞昌院の塔頭(が在った七人塚の北方の竹藪) へ向かおうとした所、城内から攻撃し易い虎口の中で定正の兵に襲撃された
  ↓
道灌公は虎口で既に負傷したが、洞昌院の外に待機している自らの兵と連絡をとり安全を確保する為に、兵権不介入の洞昌院に逃げ込もうとした。
その際に、道灌公の配下武将7人が時間稼ぎをして道灌公を逃がす為に、(当時の)洞昌院の寺域を囲む参道への入口( 今の七人塚辺り)追っ手を迎撃した末、全員討死した
  ↓
道灌公は洞昌院の山門へ辿り付いたが、生憎と門は閉まっており既に瀕死だった道灌公は助けを呼ぶのがやっとだった。気づいた御寺の僧侶が状況も解らないまま山門を開いて道灌公を収容しようとしたが、時既に遅かった。
  ↓
道灌公は死亡の間際、残り少ない命と気力を振り絞り僧侶達に「当方滅亡…」と言葉を残して亡くなった。
  ↓
●道灌公の亡骸は追っ手により首を取られ定正に差し出されてしまった。
道灌公の胴体は直ちに蟠龍山洞昌院公所寺の僧等によって、現在の洞昌院北西にある御廟所で先ず荼毘に伏され(火葬)され葬られた。
※蟠龍山洞昌院公所寺の現住職様によると、同寺は元は臨済宗の宗門だった。後に曹洞宗に改宗している。
道灌公の首級は後に、現在の伊勢原市の下糟屋の糟屋城址や高部屋神社近く、法雨山大慈寺に葬られた。
※道灌公は幼少時、鎌倉に在る臨済宗の本山である建長寺で修行をしたが、法雨山大慈寺は現在も臨済宗。
  ↓
●道灌公の元盟友で後のライバルだった北条早雲公は、現在の伊勢原市一帯を支配下に治めると、道灌公の没後に荒廃し廃寺同然だった蟠龍山洞昌院公所寺の道灌公が荼毘に伏された場所に正式な御廟所を築き、洞昌院を支援し復興させ道灌公の菩提を弔わせた。近くの御霊神社に太田道灌公を御祭神として祀った。
※北条早雲公とその一族の小田原北条家、及び、その配下武将達は必ず曹洞宗の寺院を開基したり再興して支援し、北条家の方針として曹洞宗の禅で修行する家風が有った。
※公所寺の曹洞宗改宗時期は北条早雲公による支援を受けた頃と考えると極て自然。
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ちなみに↑北条早雲公。
関東で優れた善政を布いて庶民からの支持を集め瞬く間に領土を拡大した名君。
早雲公は今川家臣に伊豆の大名時代に道灌公と親交が有り、その後、扇谷上杉家と対立した事から敵対する立場に成りましたが、伊勢原を統治してから洞昌院を復興し道灌公の供養をしたり神社で御祭神として祀っている事から、ライバルであり親友だった事が垣間見えます。

どうでしょうか?
両方の伝承を現地の地図と伝承する古い地名を見ながら解釈すると、合点がいくでしょう?
こうやって、実際に地元に行くと自分が選んで読む本以外にも色んな補足情報を地元の人や関係者の子孫、歴代の住職や宮司様が伝える歴史を知る事が出来るってのが、小生の持論な訳です。

もっとも…
冷やかしで行くクズ、偉人を呼び捨てにする尊敬の念も無い無礼な奴、史跡を破壊する政商や商奴政治家の御用学者は関係者と縁を結べないどころか祟りに遭うでしょうね、神仏の神通力が本当に有るならば。
…まぁ、そんな学者が訪問すれば、宮司様や和尚様や御子孫は直ぐに見破るでしょうし、御縁は結べないどころか叱られて、ソイツの大学は出入禁止に成るでしょうね。

だからね!
歴史好きなら実際に現地を散歩しましょう!
そして自分の地元の神社サンや御寺サンや城址の里山をリフレッシュがてら歩いて説明看板を読んでは如何でしょうか?
意外な発見が有り楽しいかも知れませんよ!

では、次は信長公とお類様の恋愛を書いた記事の続きでお会いしましょう!

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昨日、伊勢原市に住む義叔父夫妻に年末の挨拶に行き、帰りに伊勢原市上粕屋町に在る洞昌院公所寺(ぐぞじ)に御参りして来た。
この洞昌院様の愛称で地域の方から呼ばれる御寺は、戦国時代の関東を代表する名軍師:太田道灌公の菩提寺です。
この参道にある石柱は山門(さんもん=御寺の正門)代わりですが、本来の山門はこの石柱の手前50mの所に在ったそうです。
山門は大正時代の関東大震災で倒壊して以来、再建されていませんが、道灌公にまつわる話が寺伝として残っています。
洞昌院は道灌公の暗殺事件発生以来、山門を閉じてはいけない。と言う決まりが有るそうです。
ですから仮の門も造られていないんですね。
…太田道灌公を御存知無い方も多いと思いますので少し説明します。
太田道灌公は、現在の東京の基盤に成った江戸城、埼玉県川越市の基に成った川越城、横浜市新横浜辺りに佐江戸城を築城し、それらの地域の発展の基礎を創られた偉大な人物です。
下は旧江戸城の皇居内の衛星写真です。

今でも皇居の御堀には「道灌掘り」の地名も残っているので有名な人物でもあります。
御自身は大大名程の勢力を持ちながら、主家の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の為に執事(しつじ=社長代理みたいな感じ)として主君の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)定正(さだまさ)を良く補佐しました。
合戦でも無敗を誇った名将でしたが、野心が無かった為に独立勢力化せず、結果的に道灌公の人望と勢力に嫉妬した暗愚な主君の扇谷上杉定正に暗殺されてしまった人物です。
関東人にとっては関東の発展に寄与して下さった偉大な人物の一人が、太田道灌公な訳です。

これは次回の記事で説明する伝承の複線ですので覚えて置いて下さい。
同寺は、最初、鎌倉時代の征夷大将軍を務めた源家の与力で忠臣である粕屋有季(かすやありすえ)公の一族が大檀那として支援した御寺でした。
ですから昔は塔頭や御社を沢山構える大寺院でした。
その名残で境内には今も神様が沢山祀られています。
しかし、粕屋有季公が北条時政による主家源家への謀反や姦計に憤慨し、源頼家公の乳母の比企家と共に義挙しますが逆に敗北し自害されてしまいました。
その際に同寺は荒廃しますが、室町時代に成ると扇谷上杉家の拠点の粕屋館(粕屋城)の一部、城域鎮護の寺院として太田道灌公により再興されました。
それ以降、道灌公の主家:扇谷上杉家の祈願所に定められ高い格式を持ちました。
その御縁で洞昌院公所寺の寺紋は太田家の太田桔梗紋の使用を許されています。
太田道灌公は戦国時代の関東を代表する名軍師にして無敗の名将です。
この洞昌院は太田道灌公の再興ですが同時に菩提寺であり、道灌公の主家の扇谷上杉家の拠点:粕屋館(大規模な平山城)の遺構の一部であり、狭量な主君扇谷上杉定正による道灌公暗殺の舞台でもあります。
ですから道灌公に纏わる御堂や…

…道灌公の血筋である源氏の武将や、鎌倉幕府以来の坂東武者が信仰した弁財天様の御社も在ります。
昔は本当に大きな寺院だったんでしょうね。
道灌公は品川湊(しながわみなと)を重視し江戸城を築城し今日の江戸=東京の発展の基礎を築いた偉人とも言える方です。
下は道灌公の御廟所の入口
横には、附近の史跡の案内板も有ります。  
この御廟所は道灌公とライバルで協力者でもあり交流の有った北条早雲公が道灌公の御霊を弔う為に造られたそうです。
今回の訪問で和尚様より、文献には載らない寺伝承の暗殺の一部始終を御教授頂き、更に道灌公の御位牌も拝ませて頂きました。…光栄だ。
学者が良く読む文献には簡略化された事件の概要しか無いのですが、御寺や神社には当事者が支援者として関わっているので詳細に歴史事実が和尚様や宮司様により伝承されているんですね。
ですから、小生は文献も読み更に直接、宮司様や和尚様に教えを請いに飛び回ります。
現地には、求める情報以外の発見も有りますからね。
今回、道灌公の墓前にお参りした事や御位牌を拝ませて頂いた事は、以前、直筆の古文書を直に拝見して以来再びの道灌公と小生の御縁です。
来年また年か明けたら御参りにきます。
戦国時代、関東の文化保護や発展、安定に貢献された名将:北条早雲公と並んで尊敬する偉人なので感動の極みだ。
…この気持ちは大切にしよう。
道灌公の御位牌、愛知でも信長公と実質正妻のお類様の御位牌を拝ませて頂いた事は、今後一生の思い出だな。

洞昌院に現存する太田道灌公の御廟所を整備し、付近に太田道灌公を御祭神として御霊神社に合祀されたのは道灌公の暗殺事件後に、この地を扇谷上杉家から奪取し治めた名君として名高い北条早雲公です。
道灌公の元盟友で後のライバルだった2015-03-24-06-00-23
北条早雲公は、現在の伊勢原市一帯を支配下に治めると、道灌公の没後に荒廃し廃寺同然だった蟠龍山洞昌院公所寺の道灌公が荼毘に伏された場所に正式な御廟所を築き、洞昌院を支援し復興させ道灌公の菩提を弔う菩提寺に定めたんですね。
※北条早雲公とその一族の小田原北条家、及び、その配下武将達は必ず曹洞宗の寺院を開基したり再興して支援し、北条家の方針として曹洞宗の宗論を学ぶ家風が有った。
※公所寺の曹洞宗改宗時期は北条早雲公による支援を受けた頃と考えると極て自然。

こちらは↓今回の主役の太田道灌公。
太田道灌公
道灌公が戦に強く築城の名手だった以外に、人格的にはどんな人物だったのか解る文献や伊勢原市や横浜市や東京都の伝承があります。
横浜市の金沢文庫博物館には太田道灌公が関東管領の執事(しつじ=社長代理)として、神社仏閣を保護した際に発給した多くの文章が残っています。
当時は政治問題の処理と神社仏閣の保護管理は鎌倉公方や室町幕府将軍が担っており、鎌倉公方の政権代行者の関東管領の職務の更に代行者の道灌公は、多くの政治文書や神社仏閣関連文書の処理をされていたようです…
戦をしながら城も築城して、更に現地を視察しながら多くの政治と宗教の実務を処理するとか経営者として有能過ぎるくらい有能だった事が解ります。
因みに、戦国時代当時の鎌倉市や関東の格式の高い御寺に関する古文書には人気の高い剣豪将軍足利義輝公が発給した文章も多く現存しています。逆に言うと太田道灌公の職責がとんでも無く重要な位置に在った事が解りますね。

小生の地元横浜の蒔田吉良家の殿様とも交流が有ったので横浜の蒔田の殿様の間宮家や蒔田吉良家の吉良成高(きらしげたか)公の顕彰活動をしていると、道灌公が大変な文化人だった事が解ります。
その成高公の居城今の横浜市の南区蒔田の蒔田城址(蒔田御所)近く、南太田と言う場所は、現在、太田小学校の所在地が道灌公の城館だった事に由来します。
※蒔田城や南太田の地名に関連する記事は「ココクリック!

「万里集九」と言う戦国時代初期の歌人が書いた関東地方の旅行記「梅花無尽蔵と言う本の中に吉良成高公と太田道灌公の信頼関係が解る一文が有るのですが、この本の著者の万里集九は道灌公に江戸城に招待されており、道灌公が江戸城で歌会(和歌を楽しむ集まり)を開いていた事が解ります。
道灌公は武将としても優れていましたが
、実は京都の朝廷でも歌人として有名だった文化人だったんですね。
ですので、道灌公の御廟所には下の顕彰文が有ります。
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伊勢原市や神奈川県育ちの歴史好きには有名な逸話です。
この物語はこんな感じです…
道灌公はある日、大山に狩りに出かけました。その日は生憎(あいにく)の雨天となり…
大山は雨乞いの神様の山なので良く雨が降るので、大山阿夫利(あふり)神社=雨降り山とも呼ばれるのですが、そこで道灌公は道すがら茅葺(かやぶき)屋根の建築の農家に立ち寄り、蓑(みの=雨合羽(あまがっぱ))を借りようとしたそうです。
すると、応対したその家の若い女性は蓑ではなく、道灌公に「山吹の花」を差し上げたそうです。
道灌公は山吹の花の意味が解らず不快に思い怒った所、同行の部下から女性が山吹の花を差出したのは、彼女に教養が有って昔の詩集に載っている唄を引用し「蓑も無い程貧乏で申し訳ない」と、雅に謝罪をしたのだと聞かされ己が風雅の道に疎(うと)い事を恥じて、以降、歌道を深く学ぶ様に成り結果的に詩歌の大家と呼ばれるまでに風流を極めたそうです。
因みに、その若い女性が山吹に思いを込めた歌は下の通りです…
「七重八重 花は咲けども 山吹の"実の"一つだに なきぞ悲しき」
…「実の」と「蓑」をかけたんですね。この女性、こんなに高い教養を持っているとは何者なんでしょうね~?
小生はそこまでは知りませんが、この女性、実は余り貧乏な訳では無かったと思います。
何故なら、この女性、「藁葺(わらぶき)屋根」ではなくて「茅葺屋根」の家の住人ですよね?
茅葺屋根ってのは、普通の母屋(おもや=住居スペース)の屋根を吹き替えるだけでも今の価値で5000万円位するそうです。
ですからね、貧乏農民では無くて土地の庄屋さんや小領主位の家柄の経済力を持つ家の若い娘さんだったから戦乱の当時でも高いレベルの教育を受けれる家庭環境に在った事が想像できますね。
…茅葺屋根の古民家の話しは以前、記事に書いた事が有るので御興味が有れば読んで見て下さい。
※茅葺屋根の古民家の記事は「ココクリック!
※東京や埼玉の人は大山と扇谷上杉家と太田道灌公の深い関係を知らないので、それぞれ、この逸話は東京や埼玉だと思い込んでいるそうです。まぁ、東京や埼玉から見たら神奈川県が思い込んでると思うのかな(笑)?

しかし…
天下の名将、名軍師の太田道灌公に風流を極めさせる切っ掛けに成ったのが若い乙女ってのは…
女性は男性を成長させる存在なんですね~。

こうやって御寺や神社、歴史史跡を御散歩したり、当事者の御子孫と御話をさせて頂くと、昔の偉い人の凄く人間らしい一面を知れたり、ホッコリするエピソードに出会う事も有るんですよ~。
面白いでしょう?
だから文字だけ読んでいても歴史はつまらないので、関係者と知り合いに成るのが一番面白いんですよ!
ただし…
好奇心で行くのではなく、心からリスペクトして行く人にしか御縁は結ばれないと思いますが。

では、次は信長公とお類様の恋愛を書いた記事の続きでお会いしましょう!

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神奈川県
他府県も素晴らしいですが、皆さんの地元と比肩するくらい良いですよ〜♪
東京羽田空港まで電車で30分ちょいだから遊びにおいで〜。
新幹線の駅も新横浜駅が有ります。
新幹線の東京品川からも電車で35分♪。
風景も綺麗だし生粋の日本武家文化の発祥地ですよ〜。
春、梅雨、夏、秋は特に綺麗ですよ〜

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東京に泊まるより神奈川県の各市町村の方が情緒有りますよ〜(笑)♪
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今回は横須賀の戦艦三笠、映画KANO、出雲大社、七福神の大黒天、織田信長公の歴史事実を話したいと思います。
…左翼の捏造史観煽動者と、都合の悪い事実を直視したくない右翼は発狂する内容かも知れません(笑)。

先ずは左翼発狂ターンです(笑)。

以前、「KANO」と言う映画を見て感動した時に少し台湾人と日本人の関係を記事にしました。
今日、予約していたその映画のDVDを受け取ってきました。
※以前書いた映画KANOと台湾と日本の関係を紹介した記事見たい人は「ココクリックして下さい
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敢えて和室で…

さて、実は小生は台湾人の友人が何人かいます。
今でも交流が有り、数年に一度はプライベートで会っています。
昨年も台北で会い、今年は東京で会い京都でも日本人の留学仲間の結婚式で台湾人の友達と再会しました。
今年、京都で会った臺灣人の友人から「私の友人が出雲大社の神在月の神事に参加するので何か資料を下さい」と御願いをされました。
小生が何人か神社の宮司様達、御寺の和尚様と面識が有るから御願いされたのですが…
若い日本人が余り神秘的な古来の伝統行事に興味を示さない時に、なんと台湾の方の方が日本の伝統行事に興味を持って下さるとはありがたい。
…無論、知り合いの宮司様にお願いして資料が入手出来れば台湾に送ってあげたいと思います。

台湾の方には非常に知日親日派が多いのは日本で広く知られている所ですが、それは直接台湾人と関わりの少ない島国根性丸出し日本人の想像の範疇を超える程なんです。
神奈川県の有名な観光地、湘南の江ノ島に「児玉神社」と言う名前の神社が在ります。
実は、第一次世界大戦で活躍した初代台湾総督を務めた児玉源太郎陸軍大将を祀る神社です。
児玉源太郎 
日本の左翼や社会主義独裁国家の党首が発狂しそうな神社です(笑)…
しかし、ここ、児玉神社は当時の日本の軍人さんが世界から高評価を受けていた事実や、明治政府の併合地統治が善政であった証明にも成る場所なんです。
…実は児玉神社は臺灣の発展に寄与された児玉源太郎大将の偉業をたたえて台湾人の方々によって開かれた神社なんです。
冒頭で紹介したKANOの事を以前書いた記事にも、現在も台湾の方々から尊敬され感謝されている日本人を何人か紹介していますので、御興味有れば御覧下さい。

さて、そんな訳で、台湾の方の方が日本の良い面と悪い面を日本人以上に理解して下さっていたり、日本の美しい伝統芸能や文化や自然を愛して下さったりします。
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一番最初の記事で紹介したこの、七里ヶ浜の風景を見に来る台湾人が非常に多いのも有名な事実です。
実は、この七里ヶ浜の近くの江ノ電「鎌倉高校前駅」の近くの踏切がアニメ版「スラムダンク」のオープニングでロケハンされた場所で、スラムダンクファンがこの美しい湘南の海と江ノ島の風景を見に旅行に来て下さるんです。

ついでに台湾の方々だけでなく、世界の人々が明治時代の日本の戦争が軍国主義と結びつかないと言う認識を持っている証拠が神奈川県に有るので御見せしたいと思います。
先日、小生は横須賀の三笠公園の戦艦三笠内で行われた特別展示を見に行って来ました。
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特別展示の内容は、東郷元帥が幕末に明治新政府により処刑された徳川家臣小栗上野介が横須賀製鉄所の設立に貢献された事を評価していた事に関する物です。
明治時代に東郷平八郎元帥が「小栗さんの御蔭で日本海海戦で日本はロシアに勝てた事でロシアの植民地に成らなくて済んだ」と言う主旨の発言をされて、小栗さんの遺族に対し感謝の意を表する事で小栗さんの名誉回復をされたんですね。
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…正に、元は敵でも偉業を為した人間を評価する日本人らしい価値観だと思います。
違うな、この価値観は日本人に限らず、特定のアジア3ケ国とロシアを覗いた世界の共通認識かも知れません。
その証拠がこの戦艦三笠が世界三大記念艦として展示公開されている場所である三笠公園の存在自体です。
実は、この戦艦三笠の存在と東郷元帥は欧米や中東やアジアの将校達からもロシア「帝国軍国主義打破の象徴」として崇拝対象に成っていました
三笠は日本海海戦で活躍した後に、火薬の誘爆事故を起こして軍籍から外され、当時の世界各国の後押しも有り、再び就役出来ない状態での保存を前提に記念艦としての保存がされる事に成りました。
昭和天皇が摂政を務められた時代の話ですね。

当時の世界でも、日本の良い功績と悪い功績は分けて評価されていたし、軍隊の装備が即、軍国主義に結びつかないと言うのがスタンダードな意見と言う事を証明する典型的な例です。
この条件によって戦艦三笠は、喫水線以下を三笠公園に埋設され展示される事に成りました。
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こんな感じで港に接岸している様に見える感じで、地面に喫水線から下を埋められ再び現役戦艦として利用出来ない様に展示されています。
後部はコンナ↓感じ。
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因みに、この後部の中が東郷元帥等、歴代の艦長の居住スペースで高級なホテルみたいな造りに成っています。
…が、外観や装備、内装の説明は改めて記事にしますので今回は書きません。
因みに世界三大記念艦と呼ばれるのは以下の戦艦だそうです。

イギリス海軍:ヴィクトリー号
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1765年に建造され、数々の海戦で活躍し、有名な1805年のトラファルガー岬沖の海戦で大活躍し、スペイン・フランス連合艦隊を撃破し、あの「ナポレオン」にイギリス上陸を断念させた名艦船だそうです。
欧州の世界史は余り興味が無く不勉強で詳しくは知りませんでした。
その時の司令官が下のネルソン提督だそうです。
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ネルソン提督は欧州の歴史に興味の薄い小生でも名前を聞いた事が有る名将です。
戦争で敵の砲撃により右目右手を失った隻腕隻眼の名将です。
トラファルガー岬の海戦で勇猛に戦いナポレオン軍の戦意を喪失させ、英国海軍を勝利に導きましたが、この戦闘中に敵兵の狙撃により落命しました。

アメリカ海軍:コンスティチューション号。
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元、イギリス植民地時代のアメリカ海軍所属で1797年建造、後にアメリカ独立戦争でも活躍した戦艦で猛烈な砲撃を受けながら沈まずに戦い続けた名戦鑑だそうです。
当時の司令官がジョン・ポール・ジョンズ提督
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圧倒的に不利な状況で敵軍から降伏勧告を伝えられ「戦いはこれからだ!」と返答し、軍勢を立て直して逆襲し敵軍を降伏させた名将だそうです。

で、最後の3隻目が日本の戦艦三笠。
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もう、紹介しましたが日本海海戦で活躍した日本帝国海軍連合艦隊の旗艦です。
ただ、この三笠、歴史に興味が無い方は知らないと思うのですが、イギリスで建造し輸入された戦艦です。
準日本製どころか完全英国製です。
下は日本海海戦当時の司令官、東郷平八郎元帥の肖像画。
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因みに東郷元帥はイギリスに留学して海軍の近代戦術と国際法を学ばれた方ですので、こちらも当時の日本がイギリスをはじめとした欧米の協力を受け支持されていた事の証明にも成るでしょう。
英国や欧米諸国が日本の近代化に協力してくれた事実は以前書いた国家君が代発祥地の妙香寺を紹介した記事に書いて有ります。
※国家君が代発祥地の横浜市中区本牧の妙香寺に関する記事は「ココ
クリック!

三笠は日米戦争で日本がアメリカに無条件降伏すると、横須賀の米海軍太平洋第七艦隊のベースが設置された後、横須賀駐在のアメリカ海軍の将兵の為のダンスホールや水族館として改造され甲板上部の建造物や装備は撤去され無残な状態に成ってしまいます…
しかし!
そんな戦艦三笠と東郷元帥の偉業に感謝と畏敬の念を持つ世界各国の再度の後押しにより、再び失われた部分の再建が成され世界三大記念艦として復興され三笠公園で展示される事に成りました。
この事業にもっとも力を尽くされたのが、実はアメリカ側のニミッツ提督でした。 2015-10-28-15-51-59
…ここでも敵の軍事面でも政治でも世界平和に貢献した偉業は評価する一般的な世界常識が発揮された訳です。
因みに、このニミッツ元帥は名将として名高く、現在ではニミッツ元帥の名を頂いたアメリカ海軍の空母「ニミッツ」が現役で活躍しています。
では、ニミッツ元帥の話に続いて、世界各国が日本が第一次世界大戦当時、ロシア帝国バルチック艦隊を撃破した事で世界平和に寄与した事を評価されている事実を列挙しましょう。
もう、これは三笠に寄贈されている世界各国からの戦艦三笠顕彰と日本との友好を示した盾を御覧頂ければ一目瞭然です…
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もうね、これ見たら解ると思いますけれど、マスコミ(TBS とか TV Asahi)が故意に…
「海外ガァ〜!」
「世界ガァ〜!」
「日本の右傾化ガァ〜!」
…と世論誘導しようとしますけれど、その「世界」って「何処」
だよ(笑)!って感じですよね。
三笠公園には世界中から日本の第一次世界大戦でのロシア帝国主義を打破した事に対する賞賛と友誼で満ち溢れているですが(笑)?

あ!そうか!
通常の持つべき防衛力を日本が持つのを嫌がる側のマスコミにいる人間にとっての世界の中心は、ここに盾を贈りたくない側の国の人間て事になりますね~(笑)。
中共、朝鮮、ロシアか?あれ!
マスコミが世界の中心だと思い込んでる国は全部「極左」「一党独裁」「非法治主義」「非自由主義」の国
「特亜か(笑)!」
そかそか、TBSやTV朝日や民主党や社民党や共産党等の極左の言う世界って特亜だけの「クソ狭い問題児国の事」だった訳だ(笑)!
しかも!
彼奴ら極左は「民主主義」とか好んで使う癖に「左翼の感覚じゃあ民主主義=身内の意見」て事で、つまり只の民主主義の根幹である多数決を無視した我儘が根本っと言う事か(笑)?
じゃあ〜マスコミからしたら、特亜以外は人外が治める宇宙人の土地って事?
…いやいや中道派から見たら、宇宙人はお前ら左派だろう、鳩山由紀夫含め(笑)。

まぁ、ここまで読んで頂けたら、極左の情報操作が如何に世界的に非常識かと言うのは御分り頂けたかと思います。そして他国に侵略されない為の防衛力を備える事が軍国主義に直結しないどころか、日本が日本海海戦におけるロシア帝国の侵略を防衛戦争で撃退した事で、世界各国の元植民地国家から独立と民主主義政権獲得の規範とされ尊敬された事実も御理解頂けたかと思います。


……
………
…では、ここからは右翼の方が目を伏せたい「歴史」の話をします。

冒頭で、この記事を書くきっかけに成った台湾人の友人の更に友人が「出雲大社の神在月の祭祀に参加する」為に、それに関する資料をくれと要請された話をしましたね。

実は小生の住む関東地方には現在、出雲系統の神々の神社の分社は少ないんです。 

昔は、牛頭天皇社や須賀神社、八坂神社や八王子神社、白山権現やなんかが沢山在って、平安時代に関東地方を開拓した鎮守府将軍平良文(たいらのよしふみ)公とその子孫の坂東平氏系の武将達から信仰されていましたし、明治時代に成るまでは庶民から氏神として大切にされていました。 鎌倉扇谷の寿福寺の横は坂東平氏から戦国大名に成った相馬氏の館跡で、当時 から邸内に祀られたのが始まりの八阪神社が今も残っています。

しかし、明治時代に多くは姿を消しました。
平良文公については以前書いた二傳寺の記事で紹介しているので、そちらを御覧下さい。
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※二傳寺の記事は「ココクリック!
二傳寺には平良文公と御先祖の御廟所が在ります。

出雲大社も関東には分社が余り有りません。と、言うか小生は横浜や鎌倉で見た事が有りません。
出雲大社とは別系統ですが、神奈川県伊勢原市の大山は山自体が御神体で、大山津見神(おおやまずみのかみ)を大山の神様として祀っています。大山津見神はイザナギノミコトとイザナミノミコトの神子(みこ)です。 

別名を大酒解神(おおさけとけのかみ)とも呼び、酒造の神様です。それ故(ゆえ)か、大山は古来名水の産地で豆腐と日本酒の名産地でもあります。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御妻神に成られた奇稲田媛(くしなだひめ)は、この大山津見神の娘さんに当たる姫神様です。
奇稲田媛も又、別名を小酒解神(こさけとけのかみ)と呼ばれ子授かりと縁結びの神様としても信仰されています。
下の写真は大山阿夫利神社。
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そして同じ伊勢原市の比々多神社も出雲の神様と深い関係が有ります。
下の神社は比々多神社の写真。
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比々多神社の御祭神にも大酒解神と小酒解神の2柱を含め
豊斟渟尊(とよくものみこと:日本列島造成以前の天地開闢の神で、創造と開発の神)

天明玉命(あめのあかるたまのみこと:子宝と宝飾品製造の神)
稚日女尊(わかひるめのみこと:紡績と衣料の神)
日本武尊(やまとたけるのみこと:軍神、交通安全の神)
…が祀られています。日本の開拓に関わった神様達と一緒に、出雲の神様が祀られています。
大酒解神=大山津見神の御子孫が、出雲大社の御祭神である大国主神です。

縄文時代からの祭祀場の遺跡をその旧神社領域に多く持つ伊勢原の大山阿夫利神社や比々多神社には出雲系の神様が祀られていますが、実は、これらの神社と関連の有る神話が現在に伝わっています。
佐賀牟国(さがむのくに:伊豆・神奈川・東京・埼玉を合わせた範囲の行政区)を古代最初に治めたのが諏訪大社の神様の建御名方(たけみなかた:建南方とも書く)神の御神孫だと伝わっています。
建御名方神と言えば、奈良の春日大社や茨城の鹿島神宮の御祭神である建御雷(たけみがづち)神と戦った大国主神の子に当たり、別名を伊勢都彦とも言います。
※大山阿夫利神社を紹介した過去の記事は「ココクリック!
※比々多神社を紹介した過去の記事は「ココ
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比々多神社は社号が三宮(さんのみや)です。
そして、現在の境内にも古墳群が有り、旧神社領域には更に多くの古墳やストーンサークル遺跡、古代の国府跡の史跡も出土していて、佐賀牟国で何代目かの政庁が置かれた土地だった事が証明されている訳です。
建御名方神は出雲大社の御祭神、大国主神の子なので、つまり佐賀牟国の政庁が置かれたり古墳時代の古代人から信仰された大山阿夫利神社や比々多神社が出雲系の神様や大国主神の祖先神を御祀りしているのは当然の事なんですね。

しかし、この出雲系の神様の祖先神でもあるイザナミノミコトとイザナギノミコト神話が外国の影響を受けていたとしたら、右翼の人は発狂するかも知れませんね。
実は、イザナミとイザナギは日本神話や仏教成立よりもっと古い言葉が元に成っている可能性も有るそうです。
そしてその起源はインド… 

出雲では10月は神在月と呼び、その他では神無月と呼びます。
神様が出雲に集まるからですね。
出雲大社は御祭神は大國主神。
大國主=大黒天=シヴァ神=伊舎那天=伊邪那美命…
つまり古代日本は出雲が中心だった、かつ出雲地方が渡来文化に精通した国だって証明に成る可能性が有る。
南北朝時代の認識でもそうだったようで、南朝の忠臣の北畠顕家の実父、北畠親房曰く「イザナミ・イザナギと言うのはサンスクリットです」…
だから、明治時代に国家神道を作り各地の土地神様を消しさり、廃仏毀釈で仏教成立以前の古代インド神話に繋がる痕跡すら消したかった人間がいた証拠に成る。
寧ろ、仏教成立以前に天皇家の祖神のモデルが日本にいた証明に成るのに。
誰だ?
伊藤博文公は、明治新政府成立後も御寺に御参りされていました。
東郷元帥は走水神社にて日本武尊と弟橘媛様、それとは別に土地の開拓者先住民の文化に繋がる可能性の有る三柱の神様を、本殿裏に鎮座する奥宮に遷座し顕彰され保護されました。
乃木大将も近江国沙沙貴神社の一寸法師のモデルの少彦名神の伝承を大切にされた。
日本海海戦の立役者、秋山真之参謀も神仏共に信仰された。
天皇家は無論、神社仏閣の文化を共に守護されて来られた。

しかし鶴ヶ丘八幡宮からは三島社が消え、関東からは牛頭社や白山社が消え、関西からは祇園社や第六天神社の多くが消えた。

犯人は誰だ?

牛頭社と祇園社は御祭神=素戔嗚尊=牛頭天王=帝釈天=天帝インドラ=古代インド神話の神様。
白山権現=伊邪那美命=伊邪那岐命の夫婦神=伊舎那天=他化自在天=第六天神=第六天魔王=シヴァ神=古代インド神話の神様。
織田信長公は第六天魔王を自称しましたが、それは文通喧嘩で武田信玄が「天台座主」を自称し上洛の大義名分を創り出した事に対抗し、天台宗の重きを成す法華経の守護者にして破戒僧を堕落させる象徴としての第六天魔王を自称し武田信玄を見下して文通の喧嘩を制した訳だが…
先述の通り、第六天魔王=伊舎那天=伊邪那岐命&伊邪那美命=シヴァ神となり、天皇家の祖神に成り代わる意味と解釈されると「朝敵」の大義名分を政敵に与えてしまう事にも成る。
…それを利用したのが山科言継や明智光秀や元興福寺別当足利義昭だったかも知れない。

出雲大社や出雲系の神々には、日本書紀編纂を利用した藤原不比等による藤原氏優位にする為の歴史粉飾や改竄の隠しきれない部分を垣間見る事が出来ますが…
神々は出雲に集結した。
ハワイには出雲社が有る。
ハワイ王国時代に最後のハワイ国王が日本政府に日羽連合王国構想を提唱した事が有るだけに、日本のルーツに関わる神社がハワイに有るのは因縁めいていますね。
日本の古代宗教は人種を問わず、日本の価値観と宗教儀礼と伝統と歴史と文化と自然を愛し尊重し規範とし順応した上で日本の発展に寄与してくれた先人を受け入れ、その偉業を讃え時に畏怖し神として祀り、或いは異国の神を習合し共に日本の古代宗教儀礼を用いて平等に御祀りして来た。
つまり、皆で「共に和し生きる」人の国…
大いに和して生きる国、邪馬台国=大和はそうして成立した訳ですが…
但し順応する事を拒み、仲間に成らない者や移民意識を捨てれない者は、だいたいが内憂外患の言葉を顕在化す存在に変成し卑劣な行いをして討伐される「鬼」に成った。
荒神様として尊敬する価値の無い卑劣な連中が「鬼」なわけだ。
当時の価値観で言うなら現代の不法入国者、不法滞在者、不法就労者、在日外国籍犯罪者は鬼ですね。
もっとも、中国語の「鬼」と言う漢字をあてがわれた日本語の「オニ」は漢字の鬼とは少々意味が違います。
本来の漢字の「鬼」の意味は日本語で言う所の「お化け」「幽霊」を指します。
日本の鬼の概念は中国語には当てはまりません。
日本人の言う所の鬼は悪逆非道で傍若無人な振る舞いをする物の者の事ですね。
そのまんま不法移民や不法就労者に当てはまりますね。ついでにヤクザやテロリストも鬼でしょう。
「鬼の様に強い」の鬼も、意味が違います。この場合は「鬼神の"鬼"」であり、荒神様を指します。
日本の価値観では敵将も優れていたり偉大な功績を残した人物は、敬意を持ち守護神として祀り荒神様として大切にされました。
つまり鬼神では無く、只の「鬼」と日本で呼ばれる存在は人間のクズを指します。
鬼として討伐されず、日本人として日本の発展に寄与されたのが「羽田サン」や、「波多野サン」の様な姓を持つ方々の御先祖様ですね。その羽田サンや波多野さんは元は「秦サン」でした。戦国武将の長宗我部元親も渡来人の子孫ですし、応仁の乱を収束させた周防国の大内義興も渡来人の子孫です。
日本には昔は多様性に富み、日本のシステムに順応し日本の発展に寄与して下さった渡来人の方々が沢山いらっしゃった訳です。
繰り返しますが、順応できず犯罪に手を染める移民意識の抜けない帰化しない者は「鬼」として討伐された事も歴史事実で有り、結果的に日本の礼儀や文化や秩序を維持して来れた実績も有る訳です。

アメリカに先んずる事、二千数百年前に成立した古代合衆国が邪馬台国=大和王権であり、その象徴としての要石の様な平和で偉大な秩序を生み出す存在が大王家=天皇家なのでしょう。
古代の大和政権とはその様な価値観に基づいて成立したんじゃないかと思う。
多様性を認めない日本版文化大革命の様な廃仏毀釈、一村一社令を用いて、民間の古代神や土地神様への信仰を希薄にし神仏と庶民の距離を離した事は、結果的に現在の少子化の時代に至り神道自身に氏子減少と言う危機を招いていますが…

神無月、神在月の意味、現代人こそ大切にするべきなんじゃないでしょうか?

あと、ハロウィンを仮装パーティーと勘違いして無文化晒してドンチャン騒ぎするDQNな…
オマエ等、基督教文化を愚弄するの止めろ。
やるなら本来通り、子供達が楽しめる子供が主役の祭りとして行え!
オマエ等、大人は子供に菓子配る用意しろ。
若くは、日本の伝承に準じて祝儀袋や御年玉袋に子供達に配る現金用意してやれ。
ハロウィンを楽しむ権利が有るのは子供だ。
大人は子供達の喜ぶ顔見て満足しとけ。
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今年も大山で灯篭祭りが開催されます。
※詳細については「大山ケーブル公式ホームページ 」←ここクリックしてご覧ください!
大山ケーブルは大山の中腹から大山阿夫利神社の登山電車を運行する小田急電鉄グループの会社なのです。
灯篭祭りは、大山ケーブルと近隣の小中学校の生徒さんや父母会、大山阿夫利神社、その参道に連なる温泉旅館や造酒屋、御土産の商店街さんが一丸となって古代からの聖地大山を多くの方々に知って頂く為に行っている御祭りです
その夜景は期間限定、今の季節と秋の一時の灯篭祭りの期間しか見る事が出来ません。
何故なら「ケーブルカー」の夜間運行が灯篭祭りの季節しか行われないからです。
※今年はケーブルカーの交換と設備の再整備の為にケーブルカーは10月01日まで運行停止中です!
でも、昭和初期までは大山巡礼の登山客が関東中から集まって、「大山講」と言うグループ参拝客が大山を目指して歩いてくる街道が、今も関東中に巡る「大山街道」だったんです。
で、昭和初期まで、先導師(せんどうし=山伏)の人達が大山講が登山で大山の中腹にある大山寺と大山阿夫利神社や頂上の聖地まで参詣するのを登山道案内する役目を担ったんです。
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このポスターは神奈川県庁に掲示されています。
神奈川県や横浜市でも同じ県下の伊勢原市の灯篭祭りをバックアップしており、駅に大山の今回のイベントポスターは見かける事が出来ます。
で、大山ケーブル開業50年目、初のケーブルカー交換に伴う施設再整備で運行停止中な訳ですが、そこを逆手にとって、この季節今も賑わう登山客向けのイベントとして今年は大山灯篭祭りを企画されたようです。
素晴らしい!
登山で大山山頂に登り御参りし、中腹の大山阿夫利神社から夜景を見て、徒歩で下山し参道の先導師の方々が江戸時代から営まれている温泉旅館で大山の清水で造られた日本酒や豆腐料理に舌鼓を売ってから温泉にで疲れを癒し…
ゆっくり一泊するとか、凄く風流ですよね!

※大山阿夫利神社と大山の参道の温泉街については以前お記事にしたので、過去記事のリンクを下に貼って置きます。
●大山阿夫利神社の記事は「ココ 」←クリック!
●大山の温泉街名物の豆腐料理については「ココ 」←クリック!
●大山信仰と関連深い比々多神社の記事は「ココ 」←クリック!

大山の歴史について詳しい事は上記の記事をご覧頂ければ良く解ると思います!

では、以下に大山の風景写真を列挙してみますので、気に入って頂けたら是非!江戸時代の人々の様に粋な大山で温泉と夜景と豆腐料理と日本酒を楽しみに訪れて見て下さい!
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大山阿夫利神社(あふりじんじゃ)を御存知(ごぞんじ)ですか?
まず、この↓写真を御覧下さい。
綺麗な夜景でしょう?
この写真、神奈川県伊勢原市の大山に在(あ)る大山阿夫利神社の下社から撮影した夜景です。

この夜景は毎年期間限定でしか見れない夜景なんです。
理由は足の大山ケーブルカーが日常は夜間営業してないので夜の暗い山中を登山する羽目に成るからです。
各季節、特定期間と大晦日しかケーブルカー動いてないんです。

大山は平安時代〜江戸時代末期まで、関東近辺の各都市の市民から信仰対象と温泉地として絶大な人気を誇っていたんです。
この↑写真は秋に撮影しました。
江ノ島が見えます。
古くは鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝が登山し礼拝し、戦国時代には江戸城を築き関東管領を補佐した上杉家執事太田道灌が信仰し、江戸時代には江戸幕府三代将軍徳川家光が大山に沢山(たくさん)の社殿を寄進(きしん:寄付する事)しました。
その名残で関東各所に大山街道と言う道が有ります。
その神秘的な夜景は今でも関東一円の住民の宝です。

ここは東京の築地市場関係者、大企業の経営者達から崇拝されている神社です。
参道には古くから続く温泉宿と大山の名水を活用した名物豆腐料理の店が軒を連ねています。
温泉宿はだいたいが宿坊(しゅくぼう)で、山路を案内する先導師(せんどうし)と言う山伏(やまぶし)の方々が経営されています。
そんな関連で、豆腐料理以外にも猪肉の鍋や鹿の刺身が食べられます。

いくつか大山ケーブルカーが夜間営業してる期間だけ見られる夜景を紹介しましょう…
これ↓です。
阿夫利神社の写真
参道の写真
大山の清水で作られた清酒や豆腐料理や蒟蒻の御土産屋さんと、温泉宿が立ち並びます。
灯籠祭りの期間だけ参道がライトUPされます。
神社の境内からの夕景
夜景
綺麗でしょ?

周辺には関東管領を務めた扇谷(おおぎがやつ)上杉家の元の本拠地:七沢城
関東の名将で江戸城主だった太田道灌が主君扇谷定正に暗殺された舞台の粕屋館
さらに
相模国の大名三浦氏の本拠地だった岡崎城がありました。
ちなみに、その岡崎城の最初の城主岡崎氏の分家の真田義忠は主君の源頼朝を石橋山の合戦で逃がす為に奮戦し討死した忠臣として有名です。
彼の領地は平塚市真田でした。

阿夫利神社に話を戻します。
阿夫利神社の阿夫利(あふり)は"雨降(あめふ)り"が変化した訛(なま)りに音読みの漢字で当て字したのが名前の由来と言われています。
ですから、大山の中腹に在る大山寺の山号(さんごう:別名の事)を"雨降り山"と呼びます。
大山の寺社名に見えるように、大山信仰は古代の干魃(かんばつ)予防の雨乞(あまご)いと深い関係が有りました。
ですから阿夫利神社の御祭神は大山祇神(おおやまづ(ず)みのかみ)と雨を降らせる雷様です。
又、大山はその標高が高い事や、山体の姿が三角である事から、古くから相模湾を航行する船からランドマークとされていました。ですので漁業関係者や海運業者から商売の神様として信仰を集めてきました。
現在でも築地市場の関係者の方々から熱心な信仰の対象に成っています。

ついでに神社の御利益か、小生はダイエット12kg成功しました。
同時期に鎌倉の御霊神社を含む鎌倉七福神の寺社と龍宝寺、横浜市港南区(旧鎌倉郡)の永谷天満宮を参拝したので全部回ればダイエット出来るかも知れませんよ(笑)?
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