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タグ:伊勢氏北条家

26日の土曜日は小机城址の竹灯籠祭りが開催されます。
ポスターの通り凄く綺麗で幻想的な景色を見る事が出来ます。
touroutop
 開催場所:小机城址市民の森  入場受付:26日(土)17:30~19:30※雨天時は27日に順延。CIMG7555

上記記載の住所をクリックすればGoogleMap上で場所を確認出来ます。スマホならそのままカーナビや乗換案内としても使えます。
天候による順延などは上記掲載URLから日本の竹ファンクラブ❞ホームページで御確認下さい。
CIMG7547
過去にも紹介記事を書いていますので、記事のリンクを掲載して置います。
文字の大きいのが記事の題名です。題名をクリックすると解説に飛びます。


御祭りの様子を写真で紹介した記事
2014-04-06-17-30-26
下のリンクは小机城と城の武将を紹介した記事です。
以前のポスター⤴️
本当に綺麗だから電車で来れる距離の人は見に来た方が良い!

昼から来るなら新横浜ラーメン博物館にも合わせて行けますしね。
良いレクリエーションに成ると思います。

ただし城址なので「歩きやすい靴」と「汚れても良いズボン」で行くのがオススメです。

屋台も出ますよ!
雨天は27日に順延だそうです~。

前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説①
・・・城址(慶應日吉キャンパス)の地勢解説編。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
前回の記事では・・・
1,北条家臣の中田加賀守が居城としていた矢上城の跡が現在の慶応大学日吉キャンパスや日吉駅一帯の台地である事。
2,その日吉の台地が城として防衛に適したとても険阻(けんそ)な地形である事。
3,矢上川や鶴見川と東京湾を利用した水運と交通の要所として経済活動でも重要な最良の❝地勢❞に当たる場所を押さえている事。
・・・この3点の内容を簡単に解説して見ました。
今回の記事は続きですが、引き続き国土地理院色別立体図に加え、実際の現地の写真を交えて御寺の歴史を紹介して行きたいと思います。

先ずは中田加賀守が城の大空堀部分に開いた保禅寺サンの現在の様子の写真と位置を見てみましょう。
DSC_0270
谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
保福禅寺サンは直線距離ですと日吉駅から非常に近い位置に存在しますが、旧境内地の丘や谷は大部分が慶応大学日吉キャンパスに成っていて駅から直接来る事は出来ず遠回りする必要が有ります。この慶応大学日吉キャンパス~日吉駅を挟んで反対側の丘の端っこまで城跡と推測出来る地形が今も現存しています。御寺の山号が❝谷上山(こくじょうさん)❞とされている事から、どうやら江戸時代には❝矢上❞と表記される様に成った矢上~日吉一帯の本来の地名は❝谷(たに)❞に❝上(うえ)❞と書いて❝谷上(やがみ)❞と呼ばれていた事が解かり、現在では矢上城と伝わる城名も本来は地形通りに❝谷上城(やがみじょう)❞だったと推測出来ます。
御城には殿様が祖先を弔ったり禅の道場として修行する御寺がよく作られました。保福寺サンも城の大規模な空堀だった谷底に存在しています。敵の侵入口とも成る空堀の先の坂道の手前で敵を迎撃する必要も有り、砦としても機能しながら人を住ませて常時警戒する役割も担う位置に保福寺サンが築かれた事が良く解ります。
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写真は保福寺サンの境内地で、現在は慶応大学に貸し与えてる野球場の城址側や少林寺拳法部の道場の空堀側に続く大空堀南側の岸壁です。
つまり戦国時代~安土桃山時代の廃城まで、この谷間の壁面の端っこから端っこまで塞ぐ形で保福寺の土塀が設置されていて、関東流の築城術である❝谷戸構え(やとがまえ)❞を形成していた事が解かります。ついでに言えば、ここは谷間の平地で入口を塞いでしまえば警備上も安全な上に当時は井戸を掘る技術が未熟で飲み水の確保が困難な台地上より居住し易い低地な上に矢上川を使えば船で鶴見川にでて更に間宮家の領地の鶴見川下流末吉や川崎館辺りで海の船に乗り換えれば主家の北条家の小田原城や、重要な江戸城にも直ぐに急行出来た交通の便の良さも判ります。
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御城の跡の慶応大学の野球場側からは保福寺の墓地が見えます。
余り御城や歴史に興味が無い人は・・・
「御城の中に御寺が在るのって変じゃない?」
・・・と思うかも知れませんが、実は鎌倉時代~安土桃山時代には良くあった事なんですよ!逆に室町時代なんかは御寺の立地が御城に適しているので御寺を移転させて御城を造る事も良くありました。代表的な例は戦国時代最高クラスの謀略家で梟雄(きょゆう=不正義な人)だった松永久秀公の居城の多聞山城が有名です。鎌倉時代から良くある事だったのですが、武家の学問所として臨済宗や精神訓練の場としての曹洞宗の禅宗が道場として機能し、それとは別に各武家に宗旨(しゅうし=祖先からの宗派)も両方とも大切にしていました。ですから面白い事に昔の殿様達の戒名には武士としての禅宗の法名と家系としての菩提寺の宗派の法名の両方が死後に戒名に併用されるケースも多々有りました。
例えば中田加賀守と一緒に黒駒合戦で戦った横浜市南部を治めた間宮家の末裔で、戦国時代から平和に成って色んな現代の文化の基礎が花開いた江戸時代の頃の人を戒名を例に挙げて見ましょう・・・

源朝臣 佐々木氏 間宮 孫太郎 俊信 入道 宗智
これは生前の名前です。この殿様の没後に和尚さんから贈られた戒名は以下の通りです。
正禮院殿 宗智 日惠 居士
〇〇院殿と言うのは家柄や高い役職ついて社会貢献した人物に送られる❝院殿号(いんでんごう)❞と呼ばれる名です。
❝宗智❞は禅宗の法名で一般的に曹洞宗で多く用いられる法名です。法名ですから、生前に精神修養の道場や学問所としての御寺で修行する際に貰う禅宗の弟子としての名前です。間宮家は鎌倉公方の家来を経て戦国時代には小田原北条家に仕えた武家なので、古河(鎌倉)公方家や小田原北条家の宗旨で学問所として機能してた曹洞宗と江戸時代に成っても深い関わりが有りました。
次に❝日惠❞は日蓮宗の法名です。日蓮宗の和尚さんに弟子入りして出家すると法名として❝日〇❞の様に❝日❞の名の付く法名を与えられる事が非常移多く有ります。家の菩提寺が日蓮宗だと没後に戒名として諡(おくり名)として付け加えられる事も多く有ります。この間宮俊信サンは杉田間宮家の一族なのですが杉田間宮家は室町時代に間宮本家から分家して以来ずっと日蓮宗の宗徒でした。
この様に武士の戒名からも現代と違って江戸時代迄は宗派間の争いも少なく平和で仏教同士だけでなく神社と御寺と修験道の道場は御互いに交流が有り、当時の人々も色んな宗派に勉強に行き来していた事実が戒名にも残っていたりします。
中田家も間宮家と同じく北条家臣だったので、ここ横浜市港北区矢上城址の曹洞宗保福寺サンや保土ヶ谷区の正觀寺サン随流院サンの他に日蓮宗の妙福寺サンとも関係が有ったりします。
間宮家の場合は本家の笹下城主間宮家が江戸時代に本牧奉行や摂津奉行等の地域単位を統括する知事を務めた時期も有るので、北条家臣化以前から関係の深かった天台宗系修験道、真言宗系修験道、真言宗、真言律宗の他に、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院とも関わりが有ったりしました。
まぁ、そんな訳で当時の御寺と言うのは御城の防備や殿様の学問所を兼ねる事があり、中田家の殿様の御子息や一族郎党の学問所としても城下の大空堀の谷にも保福禅寺が建立されたんでしょうね。
ここで御城の遺構残存部の話を始めたい所ですが、先ずは御寺を見て行きます。
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先に解説しましたが、この保福寺サン、山号を❝谷上山(こくじょうさん)❞と呼びます。谷上(矢上)城の御寺だから谷上城から山号を頂き谷上山なんですね。
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だから谷上山だけど谷間に在る(笑)。
さて山門に戻ります。
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この山門をくぐると右手に御堂が一つ有ります。
因みに小生の推測ですが、中田家は江戸時代の藤左衛門サン以前は歴代当主が❝加賀守❞を名乗ったはずなので、この御寺の開基は正直な所いつの時代かは判りません。
中田家の話しに関しては、以前書いたもう一つの正觀寺サンの解説記事を御覧頂けると解かるかと思います。

クリックで記事にリンク⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺・・・保土ヶ谷区東川島町

但(ただ)し、新編武蔵風土記稿にはヒントに成りそうな記載が有ります・・・

新編武蔵風土記稿巻之八 矢上村の項
保福寺
村の中ほとにあり谷上山と號す曹洞宗小机村雲松院末寺なり開基は中田加賀守某なり八王子心源院第六世の僧春悦開闢なればもとより心源院の末に属せり然るに春悦後に當寺をもて小机雲松院の住僧楞室へゆつり與へしが今楞室をもて開山とし雲松院の末寺とはなれり楞室は寛永十五年七月二十九日寂せり、客殿七間半に六間半、本尊阿彌陀を安置す

これ、新編武蔵風土記稿は曹洞宗あるあるに嵌って時代をゴッチャにして誤った解説をしてしまってます。文章で赤字の部分寺を開いた人が中田加賀守曹洞宗雲松院末寺と解説していますが、この時点で既に間違っています。曹洞宗寺院として再興開基したのが中田加賀守です。何故そう言い切れるかと言いますと、緑字の部分小机雲松院の末寺として開かれたと書いていますが小机雲松院は歴史500年弱の比較的新しい御寺です。雲松院は中田加賀守の上司だった小机城城代家老で白備え隊副将の笠原家の菩提寺であり、元々は北条家宿老の笠原信為公の更に御父上が無く成った時に菩提を弔う為に開かれた寺院です。安土桃山時代を生きた中田加賀守と時代的に交流が有りそうなのは笠原信為公の跡を継いだ笠原康勝公ですが、笠原康勝公が開いた龍松院と言う同じ港北区内に在る御寺も笠原家の菩提寺の雲松院も更に又隣町の神奈川区神大寺地区に戦国時代初期まで存在した神大寺の末寺として開かれています。しかし青字部分で登場する八王子心源院と言う御寺は平安時代末期の西暦900年代初頭の延喜年間の開基です。その古い御寺の第六世住職が西暦1500年代末~1600年代初頭では歴史的経過年数に整合性が無い訳です。
しかし八王子の深澤山 心源院の歴史では最初は真言律宗の寺院として延喜年間(西暦901~923年)に智定律師が創建した一寺を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたと伝わるそうです。
更に後に扇谷上杉家の家臣武蔵国守護代の遠江守 大石定久公が(再興)開基となり遠州の高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗した歴史が有ります。
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※写真は❝あきる野市❞の秋川。左手には高月城、更に日本100名城の一つ滝山城が在る。
高月城址と圓通寺 久良岐のよし
この大石定久公は後に扇谷上杉家が滅亡する過程で小田原城主の北条家に従属して、北条氏康公の子息の北条氏照公を娘の比佐(ひさ)姫の婿養子に迎えて家督を譲って隠居しています。
つまり中田家が横浜市港北区の保福寺を曹洞宗寺院として再興出来るのは、早くとも大石家が北条家に降伏して家臣化して以後のタイミングしか有り得ないので、永禄二年(1559年)11月に北条氏照公が17歳で多摩郡の大石家に婿養子入りして以降の話しなのが解かる訳です。
その大石家が心源院と同じく支援した御寺が戦国時代初期に大石家の居城だった高月城の真下に存在する天台宗の惠日山 觀音院 圓通寺です。
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惠日山 觀音院 圓通寺
この御寺の写真の背後の秋川に突き出した舌状丘陵が高月城跡です。
この八王子市界隈の大石家の歴史から解りますが、心源院は凄まじく古い御寺なので第六代目の住職の春悦開闢和尚は曹洞宗の寺院として再興されてから第六代目の住職だったと言うのが解かる訳です。1500年代初頭に曹洞宗に成っていたとすれば、当時の寺院は世襲制では無いので安土桃山時代頃に港北区の保福寺が曹洞宗として改宗の上で復興される際に心源院が曹洞宗と成って第六世の春悦開闢和尚が関わったとすれば時代的にも整合性が高くなり、極々自然な時間経過と成る訳です。
ですから、新編武蔵風土記稿の保福寺の解説に関しては時代を整理しないまま文章に書き起こしてしまって間違えているのが解かりますが・・・
結論から言うと、矢上城址の保福寺はどっちにしても凄く由緒正し御寺の末寺として開かれたと言う事が解かる訳です。
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そして安土桃山時代に曹洞宗として保福寺が再興されたのと前後して雲松院が開かれた後に、地域的に八王子の心源院より雲松院の方が保福寺から近い事や、北条家宿老で小机城代の笠原康勝公と北条家直臣で小机衆として勤務した中田加賀守公の関係性からも保福寺は中田家によって雲松院の末寺として改められた可能性が推測出来ます。
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御本堂は比較的新しい再建ですが、今も稲毛六阿弥陀の第一番霊場、都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目としても由緒正しい歴史が有る事を伝えています。
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山門をくぐって直ぐ右手の御堂が
都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目の御地蔵様が鎮座していらっしゃる場所です。
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昨年末の初参拝時にガラス越しですが拝む事が出来ました。
曹洞宗の御寺は余り御朱印目的の巡礼を感心されない和尚様が現代では多くいらっしゃいますが、この保福禅寺は昔からの真言律宗時代からの歴史が有るので御朱印を頂戴に来る参拝客も事前に電話で問い合わせして御住職様と予定を調整すれば快(こころよ)く受け入れて下さいます。
墓地側に廻ると、人工的な手の入っている長い谷地形を確認できます。
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この先は明らかに日吉キャンパス側と慶応大学の日吉キャンパス野球場の台地の通路を狭くする人工的に谷を拡張した上で裾切りして崖地=切岸にした地形が続いて来ます。
もうここら辺から城の解説に成ってしまうので、御城としての地形の観察は次回の記事で書きたいと思います。
最後に、保福寺の南東側の野球場には中田家の大切な場所が有ります・・・
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中田家の供養塔で、元々中田加賀守の墓所が在ったとされる当たりなのです。
この場所に上がる階段は保福寺の山門から見える場所に在ります。
旧境内地に当たりますが現在は慶応大学に安全上の理由で立ち入り禁止にされています。
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実はこの上にはアーチェリー部の練習場が有るので下手くそな学生の流れ矢が頭に突き刺さってしまう可能性が有る訳です(笑)。しかし保福寺から慶応大学が借りている土地なので、慶応大学の事務所に御願いをするか、保福寺の御住職様から話を通して貰えば大学側の都合の良い日に見学をさせて貰う事が出来ます。

さて、一つの御寺にも色んな時代に色んな宗派だった歴史が有るので、明治時代に成る前の江戸時代までの人達は色んな神道も仏教各宗派も修験道も御互いを尊重して共存していた訳ですが、中田家の菩提寺もそんな日本の宗教の変遷を辿る事が出来る由緒ある御寺なのが何となく皆さんに伝わったでしょうか?
次の記事では御城の遺構と思われる地形の解説をしていきたいと思います。

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪

品濃白幡神社の解説で、鎌倉時代~明治時代まで横浜市南部の神社仏閣を守って来た権現堂と泉蔵院と言う修験道の道場と、そこを戦国時代から治めた北条家臣間宮家の子孫の松本家と関家に少し触れました。
その時の記事、クリックで読めます⤵
商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園
・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。


その権現堂と泉蔵院が何故、横浜市南部の神社仏閣を支配する事に成ったか解説したいと思います。

横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
更には、旧鎌倉郡江島神社を管理した岩本坊間宮家、旧高座郡に当たる海老名市の古代相模国一之宮今五之宮であり延喜式内社の有鹿神社が存在しますが、戦国時代に海老名の中心部は間宮家の所領でしたし間宮康俊と言う殿様の時代に一度途絶えた有鹿神社の水引神事が復興されています。そして、相模国二之宮の川勾神社宮司家や二宮尊徳を輩出した二宮家にも間宮家から養子が戦国時代に入っていたりします。
ついでに少し品濃白幡神社から話を逸れて、間宮家や旧北条家臣団が如何に神社や修験道に宗教的な影響力を持っていたかを知っていると色々と解る事も有るので説明して置きたいと思います。
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上の写真は旧杦田郷(すぎたごう)の現代の港南区と磯子区の境に跨る笹下城本丸跡地形。
この笹下城跡の本丸は三井不動産レジデンシャルによって右側の大空堀が掘削された後に盛土され一部破壊されましたが今も介護施設の裏山として存在しています。
安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原北条家討伐戦で間宮家は、当時の笹下城主で間宮家当主の間宮康俊公が72歳の高齢で玉縄城主北条氏勝公与力の付家老として箱根山中(三島市側)の山中城に籠城します。
この時に間宮康俊公の寄親(上官)の北条氏勝公が敵前逃亡して玉縄衆兵3,000を率いて玉縄城に撤退してしまうのですが、間宮康俊公だけは山中城主松田康長を見捨てず山中城に籠城し続けました。
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写真はGoogle earthで見た山中城址の航空写真。
笹下城主間宮家臣団兵200、松田康長公の部隊兵100の合計300で籠城、豊臣秀吉本隊80,000の大軍勢を迎え撃ちます。
敵は本隊先方豊臣秀次隊・与力豊臣家小大名の中村一氏隊と家臣の渡辺勘兵衛隊・堀尾吉晴隊、山内一豊隊、一柳直末隊の合計26,000余。
右翼、池田輝政隊20,000。
左翼、徳川家康隊30,000。
援軍主将で間宮家の上官だった北条氏勝公が撤退していなくても戦力比は圧倒的不利でした。
北条氏勝公逃亡前 三千余 対 八万余の豊臣軍 
戦力比 1:26
つまり北条家は1人26殺しないと勝てない。だから北条氏勝公は家臣等に説得されてしまい小田原防衛網を放棄逃亡して自領に逃げてしまった訳ですね。
そして間宮家以外の玉縄衆が全部撤退してしまった後の山中城籠城勢 対 豊臣軍の戦力差は更に絶望的な物と成りました。
松田・間宮連合(山中城籠城勢) 300 対 26000 豊臣軍先方 豊臣秀次隊と与力小大名衆。
戦力比 1:86。
1人86殺、常識的には反抗するのも無理な次元での籠城戦、普通は誰も助けに来ない。

なんで品濃白幡神社の説明で戦国時代の間宮家の説明に成るんだろうな~?と歴史に興味が無い人はここまで読んで頓珍漢(とんちんかん)に話がズレてると思うでしょうが、実はここから品濃白幡神社のみならず神奈川県域の全神社にも繋がりが出てきます。
この超絶不利な状況で間宮家の籠城する山中城に僅(わず)かな援軍を出した勢力が一つだけいました。
・・・それが実は延喜式内社、大山阿夫利神社と別当寺の大山寺を守っていた神官僧兵達でした。
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写真は伊勢原市の大山国定公園遠景。大山の三角形の山体と頂上の石山権現と言われた奇岩が縄文時代からの信仰対象で、古来聖地として発展し、神道や修験道や真言宗の聖地として多くの僧兵を抱える一大勢力でした。
豊臣家による北条征伐の過程で発生した超絶不利な間宮家による山中城の防衛戦で間宮家を支援したのが決死隊として大山から参陣した神官僧侶を兼ねる修験者の僅かな部隊でした。
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写真は宗教、築城、鷹狩、有職故実に精通した間宮家が山中城防衛強化の為に三の丸の更に先に増築した岱崎出丸の先端、三日月掘りと言う構造体。
この岱崎出丸で先ず間宮家は修験者部隊と協力して豊臣軍26000の大軍を迎撃して鉄砲隊で散々に損害を与え、敵大名の一柳直末公を討取ってしまします。
更に間宮家・松田家・大山修験者僧兵達は一人残らず討死しますが、何と戦が終わった時には驚愕の籠城兵300で敵戦死者3000余、損害多数の戦果を残していました。
この事からも判りますが圧倒的に不利な合戦でも多くの神社仏閣を管理した大山阿夫利神社と大山寺の僧兵達から支援される程に宗教的な家格が高かったのが間宮家な訳です。
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写真は大山の参道に建つ宿坊の一つ、東学坊。大山名物の美味しい豆腐や猪の料理を食べられる旅館。
大山の修験者の多くは安土桃山時代に武器を捨てて僧兵を辞め、江戸時代に成ると先導師と呼ばれ聖地礼拝の観光客相手に宿坊と呼ばれる神社寺院機能を備えた旅館を経営し大山観光産業の一翼を担い現代に至ります。
江戸時代の神仏分離までは伊勢参り富士山参りに次いで大山詣でが江戸市民から人気の観光地でしたから今も関東の各都市には大山街道が残っています。
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間宮家所縁(ゆかり)の町ですと杉田商店街のメインストリートが近代に再整備された横浜~伊勢原線で大山街道の一つですね。
間宮家は、この山中城の戦いの活躍に加えて江戸時代に徳川家康公の旗本となり氷取沢間宮家初代と成った間宮康俊公の御実弟の間宮綱信公が北条家の外交官として織田信長公への外交使者を務めたり、徳川家康公にも外交使者を務めて名が知れていた事や、間宮家が武家にとっては貴重な材木と海運のノウハウに加えて宗教と宗教建築知識と鶴岡八幡宮再建事業での実績が有る事、そして極め付きが一般的な武将が保有しない武士の教養である鷹狩に必要不可欠な鷹育成の特殊技術を有していた事から分家の杦田間宮家の間宮信繁公が徳川家康公の参謀 兼 鷹匠頭として登用されました。
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写真は杦田間宮家菩提寺の妙法寺の山門。境内には今も杦田間宮家歴代殿様の巨大な御廟所が有る。
この杦田間宮家の間宮信繁公が、関ヶ原の戦いで徳川本隊3万の前進を進言して小早川秀秋公の東軍寝返りを実現させた名軍師でした。この小早川勢寝返りの工作を進めたのが間宮家と同族の宇多源氏黒田家の黒田長政公でした。
この間宮信繁公の姫が、初代久能山東照宮の大宮司の榊原照久公に嫁いでいる事からも宗教的な間宮家の家格の高さが解かりますね。
そして間宮本家の笹下間宮も名軍師を輩出します。

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写真は磯子区田中の妙蓮寺、間宮直元公と奥方の菩提寺。近年まで直元公の彫像を御神像とする御社が有ったが火災で焼失したが、奥方の墓所は現存する。
間宮直元公です。この人が徳川幕府による豊臣家攻め大坂城の戦いで真田幸村籠もる真田丸や大坂城総掘りの埋め立て作戦を直接徳川家康公に進言し、真田幸村の軍略を無力化させ豊臣家を滅亡させる留めを刺した名軍師でした。間宮直元公は間宮家の土木知識と水運技術を活かして二代目佐渡金山代官、初代但馬奉行、生野銀山代官、初代本牧奉行(神奈川奉行=横浜市長の前身)を務めた人物でもありました。
つまり間宮家は武家としても重要人物達と繋がりが有るだけでなく、中世の宗教者達とも希有(けう)な太いコネクションと信頼関係を築き、宗教建築や土木技術と教養も有した文武両道の学者気質武家の家柄だった訳ですが・・・
旧鎌倉郡に当たる品濃白幡神社や下永谷の神明社等を近年まで管理したのが関家で、この家も又、間宮家同様に‟旧北条家臣”の関一族でした。この関と言う家は北条家臣団でも最古参の部類で、北条(伊勢)家と同族の伊勢平氏です。間宮家は北条家臣中、相模十四騎筆頭と呼ばれた家でしたが、つまり関家も小田原北条家の重臣の一人でした。
品濃白幡神社を含めて横浜市域では権現堂家と関家が横浜市南部の神社の多くを近代まで支配下に置いて管理していました。
余談ですが江戸の宗教も旧北条家臣伊丹家が大きな影響を持っていて、浅草寺や深川の富岡八幡宮等はその伊丹家が関与した場所でした。伊丹家は戦国時代に北条家臣として金沢区釜利谷に所領を与えられていましたが、関西に残った同族の伊丹家の子孫からは仏師として有名な江戸時代の彫刻家の左甚五郎も排出しています。日光東照宮の社寺建築で大きな功績を残した名工ですね。この伊丹家は源頼朝公が開いた金沢八景駅前の瀬戸神社や、その御分霊を頂いて伊丹家が開いた手子神社を支援した家です。
その伊丹家や間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家で富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていて、間宮家が久良岐郡を江戸中期に離れてからは泉蔵院にも関わりが有りました。

因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えば良いじゃん?」って意味も理解していない人も居ますが、家紋は勝手に変えちゃいけないし、祖先や親戚の本家や上司から親族や重臣として認められて与えられないと勝手に使っちゃいけない物なんです。
ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。

・・・少なくとも戦国時代から最近までずっとそうだった訳です。
では権現堂家と関家の解説をしたいと思います。
1つ目、福禅寺権現堂と森浅間神社
権現堂は、元は源氏の元の本拠地の鎌倉市亀ヶ谷に在った修験道の聖地を管理した権現堂住職の家系で港南区港南に機能移転して来ました。
福禅寺は元は神仏習合の修験道の門跡寺院で鎌倉時代に源氏将軍家が暗殺され、九条(藤原)将軍が政略で失脚させられ、その後に天皇家から将軍を迎える様に成った時代に将軍家同様に皇族を住職に迎えた由緒正しい修験道系の道場、神様と仏様の両方を祀り天下泰平の祈祷を行う天下有数の道場でした。
この福禅寺の“名代”である権現堂を受け継いだ家系は現在姓を松本と名乗りますが、間宮家の家系図では江戸時代に本牧奉行を務めた間宮家の本家の笹下間宮家から養子が入っています。
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磯子区森(屛風ヶ浦)の森浅間神社は元々、権現堂の聖地霊場として源頼朝公によって開かれた場所なので、現在も権現堂家が宮司職を引き継いでいます。福禅寺歴代住職は就任する際に必ず森浅間神社で就任儀式を行っていました。
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写真は東京都青梅市二俣尾の海禅寺(旧:福禅寺)。
室町時代中期に東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家と三田家によって福禅寺が再興されますが、これが扇谷上杉家が滅亡してから後の北条家統治下の間宮康俊公の時代に唐突に‟天皇家勅願所”に成った事からも間宮家の宗教的な影響力が理解出来ます。
この福禅寺から戦国時代に間宮康俊公によって和尚様を招いて再興されたのが、間宮康俊公の曾祖父の間宮信冬公によって開かれたと伝わる鶴見区下末吉の寶泉寺です。
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これらは全部、歴史を辿ると繋がりが有ります。
そして権現堂は福禅寺名代の格式を得ていた事が当時の手紙に記されており、鎌倉時代には福禅寺は皇族の長円親王が住職を務めていた門跡寺院に成っていた歴史から格の高さが解かります。
それ故に旧久良岐郡の全ての神社の内、泉蔵院の統治した神社以外全ての管理を行っていました。その存在意義が関係する神社仏閣の歴史や関わった歴史偉人からも良く理解出来ます。

2つ目、大靈山 泉蔵院 桐谷寺(現:磯子区中原の熊野神社)
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ここは明治政府の宗教改革の失敗の代表例である廃仏毀釈で修験道道場寺院機能を廃止されて規模が縮小されてしまって今では住宅街の中の小さな熊野神社ですが、元々は鎌倉市山崎に存在し源頼朝公が福禅寺権現堂同様に重視した修験道の道場の山崎泉蔵坊の聖地として開かれた熊野神社でした。
鎌倉時代末期の新田義貞による神社仏閣の焼き討ちや、室町時代にも上杉禅秀の乱や永享の乱で鎌倉では戦火が治まらず寺院の維持が困難に成り、今の磯子区中原の熊野神社に山崎泉蔵坊の機能を移転して本拠地として大道場化し寺号も大靈山泉蔵院桐谷寺と改め明治時代まで繁栄しました。
久良岐郡域と鎌倉郡域で権現堂が支配した神社以外、修験道系神社は全て、この泉蔵院が統治していた事を新編武蔵風土記稿の中で間宮家の子孫で東京大学前身の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信公が書き残しています。
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この熊野神社や富岡八幡宮に強い影響力を持っていたのが関家でした。
この関家の一族は旧北条家臣団として間宮家同様に武蔵国域~相模国域まで広く分布していましたが、現代では宮司家としての関家は家系が途絶えてしまいました。
しかし例えば都筑区には関一族の末裔の旧家が文化財として残っていたりします。
sekikezenkei1 横浜市教育委員会より拝借
※画像は横浜市より拝借。
北条家臣団の城持ち級の武士の1560年前後の所得を記した北条家の所領役帳を江戸時代に写した小田原北条所領役帳と言う文献にも、関家も間宮家も一族の武将が領地名と一緒に登場します。
間宮家は別の解説記事で以前、所得を書いているので今回は関さんの領地がどんな感じに分布していたか現在の地名と照らし合わせて見てみましょう。

関新次郎
泉水寺領(地所不明)※小田原市、足柄下郡、南足柄市、足柄上郡の何処か
四宮長沼共ニ(平塚市四宮周辺)
富岡之内(横浜市金沢区富岡) 本郷買得ニ替而被下

関兵部丞
羽鳥辻堂(藤沢市羽鳥~辻堂の一部)
鶴間(相模原市~大和市の林間と鶴間の地名の付く地域周辺)
飯嶋(平塚市飯島)
北大繩(平塚市岡崎辺り)
一宮(地所不明)※多摩市一宮or寒川町
宿立(川越市山田)
岡郷(横浜市磯子区滝頭~岡村町一帯)

関弥次郎
新土今里(平塚市真土)
台之村(鎌倉市台)

関さんの土地は、まぁ~こんな風に埼玉県~東京都~神奈川県域に散らばって存在していた訳です。
安土桃山時代の記録は残っていませんが、北条家の所領も関東全域に広がって行ったので関東全域にも関さんの土地が有ったかも知れません。
そして、その土地に根差し分家に成って行った人達が多く江戸時代に庄屋サンとなり神社や御寺を守り、明治に成ると神社の宮司や地主として昭和の最初の頃まで土地土地の歴史を守って来た訳ですね。
そして関さんの一族は北条家滅亡後に御先祖様の出身地である伊勢神宮の在る伊勢国に移住した一族もいるので、北条家臣団の中でも元々、間宮家と同じく宗教的な知識を深く保有する家系だったのかも知れません。
領地がある場所も神奈川県域では延喜式内社の所在地や比較的有名な神社の在る場所ばかりですしね。
前鳥神社とか富岡八幡宮とか岡村天満宮とか。

まぁ~、関家が磯子区の泉蔵院や杉田周辺にどの段階で関与したかは不明ですが、近代には横浜市域の海苔の養殖等を振興し活躍された関寅吉さんの様な人物も排出したり、殿様じゃなくたってからも宗教文化でも地域振興でも活躍した家系だった様です。
間宮家も江戸時代に間宮林蔵や杉田玄白や間宮士信等の学者を輩出して、宗教では江ノ島の岩本間宮家が真言密教系修験道として明治まで寺院機能を保持して江島神社を管理していました。
そんな関家や間宮家と、泉蔵院と権現堂が横浜市南部の多くの神社を守って来たんですよ~と言う解説でした。

間宮家につてはタグ検索‟間宮”で色々と記事が有りますので御興味有る方は、下をクリックして関係記事を読んで見て下さい。
これクリックで間宮家の関係記事リンク→●間宮家

今回の記事は御寺や神社の‟歴史”に興味が無い人には本当に興味が湧かないかな?
でも実は横浜市南部の神社や御寺には源頼朝公以来の統治機構や、戦国時代からの家系がそのまま残っていた場所も多く有るんですよ~てのが皆さんには伝わったかな?

次は北条家臣で官僚だった横浜市北部の殿様の中田加賀守の関係先の御寺の紹介をしたいと思います。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

平安時代の人々は梅の花を見て春の訪れを感じたそうです… 
そんな訳で神奈川県内で綺麗な梅の花の名所を小生の知る場所だけ、一覧として掲載します。
もし他にも県内に素晴らしい梅林を御存じの方は、紹介コメントを残して頂けると幸いです。
※小生がブログ写真の未撮影の梅林については公式ホームページ写真を転用紹介します。
※公式ホームページが有る場所は名前にリンクも貼りますので参考にしてみて下さい。
※梅林の名称をクリックすると、リンク先の公式ホームページを閲覧出来ます。
※過去記事転載でイベント日程が以前のまま記載されている部分が有りますので、詳細は掲載された問い合わせ先にご確認ください!

湯河原梅林
住所〒259-0313足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1付近
見頃:3月初旬
湯河原梅林様公式 画像拝借1 久良岐のよし  
湯河原梅林様公式 画像拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
湯河原梅林は約4000本の梅を誇る。箱根~小田原~熱海の温泉地や名勝旧跡からも車で1時間以内と近く、周辺には温泉宿も多く有る風光明媚な観光地で泊りがけの梅林鑑賞を楽しめる夜間ライトアップも行っている。
梅の宴 例ねん02月初旬~03月中旬開催※詳細は御自分で問い合わせして下さい。 
夜間ライトUP 02月末~03月初旬の18:00~20:30の時間 ※詳細は御自分で問い合わせして下さい。 
連絡先
湯河原町観光課 TEL 0465-63-2111
アクセス
幕山公園
駐車場…500円~300円(会場との距離で料金が異なる)
JR湯河原駅~バス乗車(約20分に1便間隔)~15分で到着 湯河原梅林 アクセス 久良岐のよし



【辻村植物公園】
住所
〒250-0042小田原市久野荻久保4381
見頃:2月末~3月初旬
辻村植物公園2 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし 
辻村植物公園 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
特に無い。
連絡先
小田原市広報広聴課 TEL 0465-33-1261
アクセス
辻村植物公園
駐車場500円
JR小田原駅西口~バス乗車いこいの森(わんぱくらんど)行き~約10分、辻村植物園で降車
辻村植物公園 アクセス 久良岐のよし 

小田原城 城址公園内梅園
住所小田原城址公園
見頃:2月中旬~3月初旬
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イベント
梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
梅林の規模は50本前後と小さいが、御城を見学出来る上に場内でレンタル甲冑で写真撮影等も出来る。
また、辻村植物公園の梅林や曽我梅林や小田原フラワーガーデンと合わせて鑑賞に来れる距離。
連絡先
TEL 0465-23-1373
アクセス
JR小田原駅から徒歩10分
公共駐車場無し。周辺に私営駐車場有り。 小田原城アクセス 久良岐のよし


小田原フラワーガーデン
住所
〒250-0055 神奈川県小田原市久野3798-5
見頃:2月中旬~3月初旬
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借 久良岐のよし 
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
渓流の梅林 梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
連絡先
TEL 0465-34-2814
アクセス
JR小田原駅乗り換え~伊豆箱根鉄道大雄山線飯田岡駅~徒歩10分
駐車場(140台)無料
小田原フラワーガーデンアクセス 久良岐のよし 


曽我梅林
住所
〒250‐0205神奈川県小田原市曽我別所282付近一帯

見頃:2月初旬~3月初旬
曽我別所梅まつり観光協会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
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イベント
小田原梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
※曽我梅林は他の梅林とケタ違いの3万本以上の広大な梅林です。
連絡先
小田原別所観光協会 TEL 0465-42-1965
アクセス
電車…JR東海道本線国府津駅~御殿場線に乗り換え~下曽我駅~徒歩15分。
バス…小田原駅・国府津駅からバス有り。中里で降車~徒歩20分。
曽我別所梅まつりアクセス 久良岐のよし 


松岡山東慶寺 金峯山浄智寺
住所
東慶寺〒247‐0062鎌倉市山ノ内1367

浄智寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1402
見頃:2月下旬~3月初旬

【東慶寺】

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駆け込み女と駆け出し男
※東慶寺は2015年公開の映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台です。 

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【浄智寺】
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浄智寺は鎌倉五山で京都の征夷大将軍が直接住職を任命する特別な寺だった。
現在は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つ。 

東慶寺から徒歩5分。
※2015年06月14日に撮影
イベント
特に無し。
東慶寺は約100本以上、浄智寺にも数十本の梅が咲く。
東慶寺と浄智寺は徒歩5分の距離。ともに歴史が深く、東慶寺は鎌倉幕府執権北条時宗の妻、覚山尼様の開基。その後は後醍醐天皇の皇女用堂尼様、戦国時代には豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務めた。映画❝のぼうの城 ❞のヒロインで女傑として有名な成田甲斐姫も天秀尼様の養育係として仕え東慶寺に同行し住したと伝承する。
浄智寺は鎌倉五山の一つの各式を持つだけでなく、嘗(かつ)ては広大な敷地と無数の堂塔を有し、鎌倉公方の仮御所に定められる事も度々有り、足利持氏公や足利成氏公が滞在した場所でもある。
連絡先
東慶寺 TEL 0467-33-5100
浄智寺 TEL 0467-22-3943
アクセス
東慶寺 JR北鎌倉駅~徒歩5分
浄智寺 JR北鎌倉駅~徒歩8分
東慶寺浄智寺アクセス 久良岐のよし 


錦屏山瑞泉寺 異名:花の寺&荏柄天神社】
住所:
瑞泉寺 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
荏柄天神社 〒248-0002 鎌倉市二階堂74
見頃:1月中旬3月初旬、黄梅は2月中旬~3月中旬 
瑞泉寺様公式mayumi-katsu様撮影 拝借1 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
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荏柄天神社は日本三古天神社の一つに数えられる天満宮で、境内には数十本の梅が咲く。
イベント:
瑞泉寺
瑞泉寺様公式催事 拝借 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
季節ごとに、その季節に見頃の花を植樹してある。梅は数百本を数える。
鎌倉時代~江戸時代まで権力者達が心の安らぎを瑞泉寺の花々に求めて訪れ歌会等を催した。
裏山にかつて在った一覧亭と言う建築からの眺望が良く、水戸徳川光圀(黄門様)も訪れた。
近くの荏柄天神社にも数十本の梅が植樹されているので、荏柄天神社と瑞泉寺をセットで見学するのが御薦め。
徒歩に行ける範囲の浄妙寺や鎌倉宮と合わせて見学しても、より鎌倉市街の旧鎌倉幕府拠点地域の原風景を楽しめる。浄明寺では抹茶も飲める。鎌倉宮は桜の名所。
連絡先
瑞泉寺 TEL 0467-22-1191
荏柄天神社 TEL 0467-25-1772
アクセス:
荏柄天神社 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車10分~天神前で降車
瑞泉寺 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車15分~終点大塔宮で降車
瑞泉寺荏柄天神社アクセス 久良岐のよし 


日比谷花壇 大船フラワーセンター
住所:
〒247-0072 神奈川県鎌倉市岡本1018
見頃:2月中旬~3月初旬
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イベント:

※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
玉縄桜を楽しもう
大船フラワーセンター様公式 拝借4 久良岐のよし
※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
玉縄桜の❝玉縄❞とは古来より伝わるこの地域の地名で、戦国時代、今の清泉女学院中学校を本丸にした❝玉縄城❞と言う名城が在った。上杉謙信軍10万、武田信玄軍2万6千に攻められても落城しなかった堅城だった。
その歴代城主が小田原北条家親族の玉縄北条家で、玉縄桜はその殿様の居城の名を頂いた由緒正しい桜で、観梅の頃に咲く。近くの龍寶寺は関東最強の武将北条綱成公の菩提寺で歴代城主の御廟所も在る。境内には他に玉縄歴史資料館も有り、玉縄城の復元縄張り模型や出土品が展示されている。

梅花は本数は大量ではないが、植物園だけあり他所より多くの種類を一度に観られる上に他の花や樹木も楽しめる。
連絡先:
日比谷花壇 大船フラワーセンター TEL 0467-46-2188
アクセス:
駐車場109台
電車&徒歩 
大船駅降車 大船駅西口(大船観音側)~徒歩16分
バス 
大船駅西口バスターミナル1番乗り場から❝渡内経由藤沢駅行き❞か❝公会堂経由城廻り中村行き❞に乗車~❝岡本(駅から3番目のバス停)❞で降車~徒歩3分。 
大船フラワーセンターアクセス 久良岐のよし制作 


田浦梅林の里
住所:
横須賀市田浦大作町
見頃:2月下旬~3月初旬

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※写真は2015年03月07日
イベント:
梅林まつり 2月中旬~3月初旬
田浦梅林は今上(現在の)天皇陛下の御生誕記念に植樹されたのが始まりで、現在では梅の本数は2700本を超え、梅の根元には水仙75,000株が植えられている。
田浦の山全体に梅が植林されており、山頂からは梅林越しに懐かしい神奈川の里山の風景を眺める事が出来る。
連絡先:田浦観光協会 TEL 046-961-4181
アクセス:
バスと徒歩…田浦郵便局バス停で降車~山頂まで徒歩20分
電車(JR)と徒歩…JR田浦駅で降車~山頂まで徒歩25分
電車(京急)と徒歩…京急田浦駅で降車~山頂まで徒歩40分
田浦梅林


岡村梅林
住所:
〒235-0021横浜市磯子区岡村6-8-19
見頃:2月下旬~3月中旬
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イベント
岡村梅林は大きくは無いが、150本前後の梅が植林されている。
夜間ライトアップ
※公式ホームページから御確認下さい。
梅まつり
※公式ホームページから御確認下さい。
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この岡村梅林は、元々周辺の横浜市立岡村公園(スポーツ公園)と合わせて、近隣の岡村天満宮の社地だった。岡村天満宮の開基は鎌倉御家人三浦家の一族の平子家と伝わり、その人物は平子有長公と推定出来る。有長公は鎌倉御家人で最初の源頼朝公暗殺未遂事件の実行犯を取り押さえた勇敢な武将でもあった。丘の裏手には戦国時代の名将北条氏繁公の開いた龍珠院も在る。
岡村天満宮の社領は第二次世界大戦後に米軍に接収された後、横浜市に返還されたが横浜市が岡村天満宮に返還しなかった為に一度、岡村梅林は消滅したが、岡村天満宮の氏子様の有志達が旧社地の一部を買戻し、現在の岡村梅林部分にも梅を植林し梅林を復興して下さった歴史が有る。
連絡先:岡村公園 TEL 045-751-4375
アクセス:
バス
京急弘明寺駅/市営地下鉄弘明寺駅/蒔田駅/JR磯子駅のいずれかの駅から乗車~天神前バス停か岡村交番前バス停で降車~徒歩5分
駐車場…岡村公園の有料駐車場~徒歩3分
岡村梅林アクセス


根岸森林公園
住所:
〒231-0853 横浜市中区根岸台1-2
見頃:2月下旬~3月初旬
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※上写真は明治時代の旧競馬場一等観覧席(米軍横須賀ベース管理の史跡)
※下写真は松任谷由実の歌“海の見えていた午後”の舞台の“ドルフィン”
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イベント:特に無い。
広い芝生の広場と園内に広がる桜林は横浜市民の憩いの場としても有名だが、公園の中央には400本からの梅林も整備されている。
もともとは競馬場だった。
幕末、横浜港が開港され本牧半島が外国人居留地に成った事で、駐在する欧米の外交官や軍人の要望で明治時代に建設された日本最初の競馬場の跡地。
隣接してJRAのポニー広場や競馬関連の博物館も有り、御弁当を持参すれば小さい子供連れの家族でゆっくり時間を過ごせる場所。自然湧水の池では子供がザリガニ捕り等も楽しめるる公園。
又、徒歩すぐの場所にはユーミンが十代の頃、まだ芸名が荒井由実だった時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲で歌詞に歌ったレストランの❝ドルフィン❞が有る。
歌の通り、ドルフィンソーダを頼むと、この曲をかけて貰えます。
連絡先:横浜市環境創造局 TEL 045-671-3648
アクセス:
JR根岸駅~徒歩15分
駐車場有り。
根岸森林公園アクセス 久良岐のよし


三渓園
住所:
231-0824横浜市中区本牧三之谷58‐1
見頃:2月下旬~3月中旬
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イベント:
季節ごとのイベント有り。
もうすぐ観桜の夕べで桜の夜間ライトアップ有り。
※イベント一覧は公式ホームページで御確認下さい。
明治時代の原財閥の富豪、原三渓が当時、廃仏毀釈で荒廃した全国の仏閣や徳川家所縁の城跡の建築文化財を広大な私邸に移築し保護した。日本で全国に先駆けて私立公園として私邸の建築文化財と日本庭園を広く庶民に公開した。
中には聖武天皇の勅願所だった京都府の灯明寺の旧本堂や三重塔や鎌倉の尼寺東慶寺の仏殿、紀州徳川家の和歌山の別荘や、京都の伏見城等、数え切れない程の建築遺産が移築保護されている。
現在は原財閥から横浜市が管理を委ねられている。
原三渓の御蔭で破壊を免れた重要文化財や、季節ごとの花の綺麗な広大な日本庭園。
連絡先:045-621-0834
アクセス:
駐車場有り。
桜の季節は駐車場に入るのに1時間以上待つ場合が多々有ります。
電車&バス
JR根岸駅でバス乗車~本牧下車。
JR桜木町駅/横浜駅東口~バス乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
みなとみらい線元町中華街駅4番出口近く、山下町バス停乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
三渓園様公式拝借2 久良岐のよし
三渓園アクセス 久良岐のよし


大倉山公園梅林
住所
:〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-36-8付近
見頃:2月下旬~3月初旬
大倉山観梅会様公式 拝借2 久良岐のよし
※写真は大倉山観梅会運営様公式から拝借
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イベント
大倉山観梅会
※開催日は公式ホームページで御確認下さい。
大倉山の梅林の隣には、戦国時代の北条家重臣笠原康勝公が開いた竜松院と言う御寺が在る。
その御寺を含む大倉山公園~太尾見晴らしの丘公園にかけて続く鶴見川河畔の丘陵は、笠原家の居城❝大曾根城❞だった。
その城址に小規模な梅林が有り丘一体は大倉山地区の住民の憩いの場だったのを、東急不動産が開発破壊しようとした際に、義挙した住民が一丸と成り東急の城址と自然破壊に反対し、約30年前当時の細郷横浜市長の下で横浜市が買い上げ自然を残した公園として整備し梅林として有名に成った。
初春には周辺地域からも観梅客で賑わう。
連絡先:港北区地域振興課(観梅会実行委員会事務局) TEL 045-540-2235


本沢梅園(ほんざわばいえん)
住所:
相模原市緑区河尻4457‐1
見頃:2月下旬~3月初旬 
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イベント:
本沢梅園祭り
※開園期間はホームページで御確認下さい。
※本沢梅園は官営なので管理人が常駐しておらず、開園期間以外は梅園の遊歩道には入れない。
※梅園自体は山腹の斜面に広がっているので、道路沿いからでも十分観梅が楽しめる。
約1000本の梅が植林されている。
昔は谷だったが、近隣の津久井湖建設の残土で谷間を埋めて、そこに梅を植林した。
周辺に歴史史跡も多く、山頂の金刀比羅宮は古来、雨乞いの神事が行われた水の枯れない池が在る。
梅林から尾根伝いの山裾(やますそ)の寶泉寺を囲む山は平安時代末期に長井家によって築城された小松城址でもある。
近くの津久井湖や戦国時代の名城、津久井城址の山のピクニック等と合わせて見学に行くと、1日中自然を満喫出来る良いレクリエーションに成る。
※津久井城址は根古屋地区のパークセンターに無料駐車場有り、鎧や城址復元図等の展示も有る。
連絡先:
相模原市コールセンター TEL 042-770-7777
城山まちづくりセンター TEL 042-783-8115
アクセス:
駐車場…無料130台
バスと徒歩…JR/京王線の橋本駅~バス❝若葉台住宅行き❞に乗車~若葉台住宅で降車~徒歩30分。
本沢梅園アクセス

 


前鳥神社(延喜式内社・相模国四之宮・応神天皇の皇子の莵道稚郎子が住んだ聖跡)
真土神明神社(近年建築業者に破壊され消失した真土大塚古墳:莵道稚郎子の御陵跡)
真土大塚山公園(真土大塚山古墳の偽物を模造した公園)
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  御祭神・御本尊等:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・日本武尊  
  御利益:交通安全(陸)・戦勝・学問向上・合格祈願・開運・適職就職
  関係者:
  開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・・・応神天皇の皇子、仁徳天皇の実弟。
  中興:征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:前鳥神社・・・平塚市四之宮の古代の海岸線上の、現在の河岸段丘上の微高地
  所在地:真土神明神社・・・古代の砂丘上に存在した前方後円墳を近年土建屋が破壊して造成した宅地
  所在地:真土大塚山古墳のニセモノ・・・真土神明神社の北に徒歩3分の公園
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷の王族と緊密な繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘され国立博物館に持ち去られ収蔵されている。この銅鏡の存在からも莵道稚郎子命の御陵とされる伝承とも合致している。又、日本武尊が当地に滞在したのの伝承も有る事から、日本武尊(ヤマトタケル=倭建)と言う神号は一人の古代の王族に対して用いたものではなく征夷大将軍の様な古代の官途名に当たる神号であり古代の四道将軍成立以前の大将軍を務めた複数人の皇族将軍を1人の神格として習合している事も示唆される。
莵道稚郎子命は日本で最初に大陸由来の漢学や工業技術を学んだ実在した皇族の歴史偉人で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から前鳥神社は古くから学問の神様としても有名。現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子様からの崇敬も有り、戦国時代初期には北条早雲公と北条氏綱公の父子の名将が前鳥神社の宮司家の支持を受け、当時戦略家の名将として有名だった三浦道寸公の居城を岡崎城を落城させ三浦家を三浦半島の油壷マリンパークの半島に存在した新井城まで追い詰め勝利した歴史が有る事から勝負運向上の戦勝祈願や合格祈願の御利益も期待出来る。

最近全く遊ばず睡眠も削り、嫌いな教科の学習、しかし、その対価を保証するべき人間の発言は紆余曲折有り安定せず、御蔭で当方は当惑と不安に苛(さいな)まれストレスが溜まるのに反して遊びに行く暇も作れなかった。
ここ2ヶ月間、仕事を終えて帰ると睡眠を削って資格取得の為に学生時代嫌いだった数学の参考書を毎日20~30ページのペースで黙々とやっていた。
そんだけでも結構ストレス溜まってたんだけどね。
ブログの読者の方は覚えている人もいるかも知れないが夏頃に職場で事実無根の「ヤった派遣の女を雇わせた」とか「愛人を雇わせた」なんて妄言の流言飛語を拡散されて対人関係でもずっとピキピキ来ている。
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知り合いの年近い和尚様から貸して頂いた御釈迦様の言葉集を読んで何となく落ち着いたりしたが・・・
そもそも小生の堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)は今年の1月に居酒屋で酔っ払いに絡まれて以来既にはち切れ駄々洩れなのにね。
思えば今年は1月1日の朝の3時頃にセルフのガソリンスタンドで酔っ払いに絡まれて喧嘩売られたり散々だったな。
酔っ払いに振り回された1年間だった。
本当(怒)酒乱嫌い!
酒乱なんてシンナー中毒者や麻薬や覚醒剤依存者と大して変わらんと思う。
悪だ悪。
そんな酒に纏わる嫌な事も有り飲み会なんて誘われても行きたくない。
最近も仲良くしてくれる職場近くのコンビニの女性店長サンに回転寿司に飲みに行こうと誘われたが酒は嫌いだからと嫌な思い出を説明して断った。
そして先週末までの火傷である・・・
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・・・自宅療養で仕事を休んでる間もずっと学習。しかも太腿(ふともも)の皮膚が回復して無かったから肉が露出しててズボンも履けないから仕事復帰直前まで出掛ける事も出来ず、その時点でMAXストレスを放り込む❝堪忍袋❞の緒(お)じゃなくて本体の袋が破け弾け飛ぶ寸前・・・

てかキレた(笑)!
夜中に帰宅して入浴中♨とうとう爆発 💣した。
(ꐦ°д°) ノㇱ やってられっかオラぁ!

・・・みたいな(笑)?風呂を上がると何も考えず机にも向かわずに部屋着では無く外出用の服に着替えてデジカメと教材と筆記用具とノートを黙々とBILLABONGのリュックに詰めていた(笑)。
身体が勝手に紅葉溢(あふ)れる自然と静寂な霊気の癒しを欲して夜中の3時半に車に乗り込み南足柄市の大雄山最乗寺に向け出発した。略何も考えず。
高速道路を使わず下道で60km離れた略(ほぼ)1時間半で大雄山の駐車場に到着した。
下道使ってカーナビで最適コースや有料道路設定では無くて❝最短距離設定❞で走ると不思議と古代の矢倉沢往還や中原街道を走ってくれるから面白いんだな。

駐車場にて1時間程車中仮眠。
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真っ暗!
山の中の駐車場でクソ怖い((((;゜Д゜)))!

恐怖も睡魔に負けてから暫くしてスマホの目覚ましで起きると、もう大雄山は曙を迎えており石畳と紅葉、杉の巨木の並木の参道が視界に御目見得したので散策を開始。
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今年は台風に運ばれた海水の塩害で木によっては葉が萌える前に枯れ落ちてしまっていたが、それでも緑~黄~朱にと色付く過程を含め若い葉~役割を終えた葉、色付く前に海水で枯れ落ちた葉まで、人生の岐路に立つ小生には感じる事が有った。
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紅葉と最乗寺の幽玄な風景を楽しみながら散策出来るのが、この大雄山最乗寺。
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紅葉も朱に染まってから落た紅葉(もみじ)が参道に落ちている。
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余談だが楓(かえで)と紅葉(もみじ)は手みたいな葉の形状が3又だと楓、それ以上のを紅葉(もみじ)と認識して良いそうだ。
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大雄山 最乗寺・・・
鎌倉公方与力大名大森家、関東覇者の北条家が支援した曹洞宗大寺院
小生は四季折々の植物を鑑賞するのは好きなのだが、名前や種類には全く詳しくない。
今年は大雄山の紅葉も台風の塩害でダメだろうと思っていたが、杉の大樹に守られている参道側はとても綺麗だった。
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でも境内の内、堂塔の建ち並ぶエリア周辺は紅葉が少し元気無かったかな?
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それでもこの辺りは綺麗だった。
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でもやはり、葉の大半が朱に染まる前に落ちてしまっている樹も多く見られた。
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まぁ、毎年違う表情を見られるのは、それはそれで良い。
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各所伽藍に神仏を1年振りに小1時間御参りして廻った。
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不動堂と滝の前を通過して・・・
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奥院への入口を通過・・・
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ここ辺りの紅葉は今年も綺麗だった。
ここを右手に上がって大雄山最乗寺の異名の道了尊(どうりょうじゅん)の元とも成った禅宗系修験者として大雄山で修行したと伝承する❝道了和尚❞を祀る御堂を2年ぶりに再訪。
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ちゃんと1年無事に過ごせと感謝と改めて心願を御伝えし天下親日家万民の幸福と大雄山の安寧とを祈願した。
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まぁ性に合わない奴でも倫理観のちゃんとした親日家の善人なら幸せに成れば良いし仮に不道徳不倫理な事をしている人間には神様仏様は❝必然的に天罰を与え❞改心の機会を与えて下さるだろうから、人の幸せと自分の諸事向上の御加護をお願いさせて頂いた。
この御堂の横には巨大な下駄が有って、まぁ道了和尚様は禅僧修験者でもあったので天狗に昇華されたと伝承しており、その御縁から下駄が奉納される様に成った様(よう)だ。
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その道了和尚様の御霊の御利益を授かる為に下駄をくぐると道了尊の御導きで良縁が結ばれるとか。
一応潜(くぐ)った(笑)。
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まぁ、神奈川県~東京都~埼玉県~群馬県等は天狗信仰の舞台が古来多く、そのどれもが古代からの聖地と関係したりしている。大山阿夫利神社や高尾山なんかそうだな。
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この後で横浜市で用事が有るので奥院を訪問する時間的な余裕が無く、奥院参道の階段下から御参りして駐車場に戻る。
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途中、来た道と違う不動堂内を御参りする参道を経由。
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三体の御不動様に日頃御加護御守護下さる御礼、再訪出来た御礼、新たな心願を祈願し大雄山最乗寺の安寧も御祈りした。
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不動堂から降りて来た時の景色も又、先程下から見上げた時とは見え方が異なって綺麗だった。
再び車に乗り込み秦野市の震生湖へと向かう。
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大雄山最乗寺の山の中腹の一番最初の仁王門も一応再訪した。
震生湖へ向かう道は古代の矢倉沢往還を整備した場所を多く通るのだが、その途中の渋沢駅辺りには毎年立ち寄る九州拉麺の名店❝なんつっ亭❞も在る。
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今年は開店前の時間だったし待つには時間に余裕が無いので食事せず通過、そこから15分で震生湖に着いた。
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震生湖
一昨年、初訪問の際は時期が早くまだ楓も紅葉も未だ未だ青々とした様子だったが、まぁ空気が爽やかで湖畔に静かに鎮座する福寿弁財天様に御参りして清々しい気分にさせて頂けたのを今も思い出す。
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やはり震生湖の樹々も塩害で枯葉が目立ったが綺麗に朱に萌えた紅葉や楓も多く有り、とても良い散策が出来た。
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途中、石碑の前に仏様みたいに佇(たたず)み❝日向(ひなた)ぼっこ❞している猫チャンに会った。
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神様や仏様は南や東を向けて鎮座している場所が多いので、そう言う視点で猫チャン見てると南東の太陽を向いて日向ぼっこしてると何だか本当に❝猫様❞的な感じに見えて来る(笑)。
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う~ん綺麗だ!
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大雄山から車で30分程度と近いので、車で移動される方に小生は大雄山&震生湖はsetで紅葉見物される事をお勧めしたい。
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暫く湖の周りを散歩する・・・
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御世辞身も水質は綺麗とは言えないが、昨日11月30日の天気が良かった事と朝方の気象条件の御陰か鏡の様に湖に紅葉が写り込んでとても綺麗だ。
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う~ん癒される。
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まだ青葉が残る樹も、色が変わって行く人間の青春の頃を見る様で爽やかな気分に成れる(笑)。
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暫く湖畔の林道を歩いていると福寿弁才天様が見えて来た。
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福寿弁財天社

ここ震生湖は大正時代の関東大震災で水源地の山が崩壊し湧水が堰き止められて湖に成ったのだが、どこの川からも水が流入せず、そして水が出て行く川も無く、水量が一定している不思議な湖なんだな。
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弁財天様は辯財天、辯才天とも書き本来はヒンドゥー教由来の仏教に習合された女神様で、男の神様達からモテモテだったので女性の美の女神であると同時に、軍神や音楽神や財神として幅広い御利益が有る神様だんだな。
だから貨幣経済が普及し始めた平安時代末期~鎌倉時代に源頼朝公が水=農業の豊穣=豊かさの神様である江ノ島や鎌倉の宇賀福神社の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に弁天様を御祭りし習合した崇拝した歴史が有ったりする。
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この震生湖の福寿弁財天様は神奈川県下では珍しく竹生島弁才天様の御分霊では無く奈良県天川村の❝天河伝説殺人事件❞なんて昔の映画でもモデルに成った天河弁財天様の御分霊なんだな。
福寿弁財天様にも前回の御参りから今日まで無事に過ごせた御礼と新たな1年間の祈願をし、福寿弁財天様がこれからも多くの人に大切にされる様にも御祈りし車に戻った。
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震生湖駐車場からの眺望は実に良く、三角形の山体の形状から古代縄文人~江戸時代の人々まで崇拝の対象とされた大山や丹沢山系が見渡せる。実に良い景色だ。
今日も少し肌寒いくらい、湖畔の清々しい空気と紅葉の隙間から射す陽光にリフレッシュさせて貰えた。
横浜市中区の中央図書館近くの駐車場に向け出発した。
横浜への帰路は高速道路を選んだ。 まぁ取り立てて書く様な事も起きず渋滞もさして嵌らず順調な横浜への復路と成った。
三ツ沢で高速を降り、野毛の駐車場に車を停めて少し歩き、着席し持参した教材を開き一頻(しき)り学習した。

昼下がり御腹が空(す)いたので野毛の商店街を散歩してランチする事にした。
店は東京庵と言う蕎麦の食べれる居酒屋にした。
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日本そば東京庵
最初、最近は中央図書館に行くと野毛で洋食屋を開拓しようとしているので洋食屋を探したが、たまたま行こうと思ってた店の料理単価がクソ高くて(蟹クリームコロッケで2000円位)で絶望し(笑)寒い桜木町の海風に晒されながら飄々と野毛の町歩きをしていた所・・・
「和食食べたい」
・・・と思い付き、店構えがとても清潔で雰囲気良く、美味しい蕎麦も食べれる東京庵のランチを選んだ。
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名前は東京庵セットと言って蕎麦や刺身や小鉢等、沢山セットに成っていて1000円ととてもコスパも味も良いランチだ。 これで1000円だよ?信じられるかい?東京で食べたら2000円とかとられそう(笑)。
学習もして昼食も食べて帰宅・・・

さっき、この記事の下書きの文字を打ちながら、先週購入していた❝恋は雨上がりのように❞のDVDを見終えた。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
うん、やっぱり大人が大人として役割を果たすこの映画は見ていて胸がスッとする気持ちに成る。
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最近、身の回りに不倫に不倫を重ねる奴とか不倫肯定したり風俗通いばっかしている倫理観の無い連中(ソイツ等も酒乱の利己的快楽主義者)と一悶着有ったりしたのだが、まぁ普通に資格使って会社員として働いたり会社経営してる小生の友人達や、一般社会とは違う大学勤務やら和尚様達や宮司様達はジャンル問わず「オマエが普通でソイツ等オカシイ」と言ってくれるのだが、身の回りに変な事を言う人間が何人かいると「あれ?俺がおかしいのかな?」と錯覚してしまったりしてしまうんだな。
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恋は雨上がりのようには、主人公の女子高生がバイト先の店長さんを好きに成るんだけれど、その店長さんや先輩達がちゃんと大人として対応して主人公が高校生として真っ当な道を進む手助けをする青春の爽やかな恋愛の映画なんだな。
小生は大人の男性とは恋雨の登場人物達の様にあるべきだと常日頃思う。

・・・恋雨を見終わってからAmazonで購入した新しい教材の配送不在者通知が家に居たのに何故かインターホンも押されずポストに入っていたので事業所に受領に行って来た。
クレームじゃないけど「不在者通知入れる前に不明の電話に出ない受話設定にしている人もいるからインターホンは鳴らした方が良いと思います。」と個人的な意見も窓口の女性にお伝えして来た。

よって今日から新しい教材に着手する訳だが・・・  
ふむ、昨日は充実した休日に成った。
神様仏様、自然を守る土地神様、御寺や神社を御守り下さる皆さんに感謝!恩師や恩人や友人、両親や御先祖様にも感謝!

神奈川県と言うと県外からの移住者や旅客は❝武士文化の根拠地❞と言う文化的なイメージや勇壮な鎌倉武士団や戦国時代関東最強だった北条武士団のイメージを持って下さる人は少なくて、横浜の港のほんの一部分の都会的なチャラついたイメージしか浮かばない人の方が多いんですが・・・
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実際はこんな写真みたいに長閑(のどか)でゆったりとした時間の流れる田舎も沢山のこっていまして、不自然に狭い横浜市に人口が密集する開発をする必要が無く、もっと郊外の周辺都市を開発した方が良いんじゃね?
・・・と言うのが神奈川県民として思う所だったりする訳です。
鎌倉時代は当然ながら神奈川県鎌倉市が日本の武家文化と国土防衛の中心地だっただけでなく、戦国時代の北条家も日本の大名の中で抜きんでた善政と統治を行い、防衛戦と攻城戦を得意とした戦国時代の先駆けとなる集団戦術や鉄砲を早くから導入した軍団として歴史好きには知られていたりします。
そんな小田原北条家は初期には❝五色備え❞と言われた仏教五色に準(なぞら)え軍旗が色分けされた主力軍団が5軍団在り、どうも1560年頃には五色備えの軍団編成は解除されていた様で各方面軍として再編成されていたらしい事が❝北条所領役帳❞と言う資料を見ると各家臣一族がバラバラに配置されている事からも推測出来たりします。
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相模原市津久井は、そんな北条家後期の安土桃山時代には成立していた❝津久井衆❞と呼ばれる軍団の根拠地である津久井城が存在し、現在は神奈川県立津久井湖城山公園として緑地保存されています。
津久井城については改めて内藤家の事と一緒に紹介したいと思います。
まぁ、余談ですが武田信玄の家臣団には北条家臣津久井城主❝内藤❞家と同姓を自称する偽❝内藤❞とか、美濃国源氏の分家❝山縣(やまがた)❞姓を自称する❝飯富(おぶ)❞とかニセモノが多くいるんですが、戦国時代当時は領土支配は侵略戦争を起こすには大義名分が必要でして、例えば北条家なら現在の神奈川県の旧武蔵国域沿岸部の支配の大義名分には鎌倉時代に源頼朝公の命によりその辺りを領土に持っていた渋谷氏や佐々木氏の血を引く佐々木氏支族間宮家を領主に置く事で北条家による支配の大義名分としたり、武蔵国西部北部への支配の大義名分として小机城代に神話の時代の武蔵国国造の族姓、笠原氏を配置する事で大義名分と出来た訳です。
ところが武田家臣団はカッペ集団で、ほとんどが茨城県と千葉県にしか血縁地縁がない家臣団しかいなくて教養も低く血統的な貴種もいなかった為、他地域への侵攻の大義名分を得るには例えば信濃に侵攻したいなら信濃守(しなののかみ)の官職を得るか幕府の信濃守護の役職を得る事でしか支配の大義名分を維持できず中央の政局次第では永続的な大義名分に成らないので無理矢理❝食品偽造❞❝ブランド偽造❞みたいな家臣の苗字偽造(笑)をして支配の大義名分にした訳ですね。
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まぁ、北条家臣内藤家は北条家臣化する以前の中世から小大名として津久井城主として居城し愛甲郡北部一帯を支配ていました。武田の偽内藤(笑)とは血筋が全く異なり由緒正しく、鎮守府将軍藤原秀郷公の御子孫に当たる家系な訳です。
元々小大名だったので当然、北条家の従属勢力化しても独自の家臣団を編成しており、その軍団が津久井衆と呼ばれた訳です。
津久井城に関しては今回の記事の2016年に根小屋諏訪神社参詣した際に城址も散策し写真を撮影して有りますので改めて記事に書きたいと思います。今回は根小屋諏訪神社だけですね。
その津久井衆の武士達が駐在する武家屋敷が立ち並んでいた名残の地名でもある根小屋(ねこや)と呼ばれる地域が周辺に有り、そこには根小屋諏訪神社と言う軍神建御名方神を祀る武家文化に相応しい神社が今も存在しています。
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根小屋諏訪神社
&神奈川の名木100選“根小屋諏訪神社のスギ”

根小屋や根古屋と言う地名は全国に在りますが、それは❝城山の根❞=裾野の部分に構えられた家臣団の家屋が構えられたので根小屋と成った事に由来する地名です。
実は津久井城、鎌倉時代には既に城の原型が存在していたと言われています。
そもそも津久井の地名が三浦半島の横須賀市津久井に由来しており、平安時代末期まで相模国三浦郡を本拠地にした坂東平氏の名家、三浦氏頭領三浦義澄公の子の1人、三浦義胤公が横須賀市津久井浜辺りを領地としていたので筑井義胤と名乗った事に由来し、その後現在の相模原市緑区辺りを領地にした事で津久井の地名と成ったと考えられます。
因(ちな)みに三浦の津久井浜今ではイチゴ狩り農園で有名な場所です。
まぁ、津久井の郷土史では筑井義胤と書かれ、三浦家の系譜では三浦胤義と書かれている物も有る様(よう)で正直な所、津久井の地名についても三浦が先か相模原が先かは卵が先か鶏が先かみたいな感じで小生は詳しくは調べておらず判別尽きません。ですが三浦家の通名として義の字は普通、三浦義明、岡崎義實、真田義忠、三浦義澄、和田義盛、佐原義連、朝比奈義秀みたいに義の字が名の頭文字に成るので津久井領主の名に関しては相模原市の郷土史に書かれる筑井義胤の方が正しそうです。
そして佐原家が所領とした千葉県の佐原市も先に存在した三浦の佐原城が有る事や、鎌倉市の朝比奈と関係する朝比奈義秀公の所領が千葉に有る事から、神奈川県の武士団の出身地である三浦郡や鎌倉郡由来の地名がその後の各武士の入植地に地名として移植されたと考えた方が自然でしょう。
つまり相模原市の津久井は三浦半島の津久井由来と考えられる訳です。
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根小屋諏訪神社の伝承では、その筑井義胤公が建久三年(1192年)に津久井城築城の際に鎮護の神様として諏訪大社から建御名方神の御分霊を勧請されたと伝承します。
恐らく本当でしょう、源頼朝公が日本国総追捕使、征夷大将軍に任命されて幕府を開き領地を自由に与えられる守護の設置が可能に成った頃の話しなので三浦半島の津久井浜から筑井義胤公が領地として預かり移住し、鎌倉時代当時に武神として崇敬されていた長野県の諏訪大社から建御名方神を勧請し霊的な領地の守りとして背後の険阻な山に津久井城を築城したと言うのは合点が行く訳です。
明治時代以前の別当寺は井木山壽性院と言う真言宗の御寺だったので、神道と修験道や真言宗や法華経の信者だった源頼朝公御存命の時代の宗教的な歴史背景とも整合性が有りますね。
残念ながら壽性院はダム湖の造成で大井村もろとも湖底に沈み、その檀家サンの菩提は津久井城近くの大蔵寺に合祀されました。
まぁ、正直現代では相模原市緑区一帯は人口減少が進み過疎化も酷いのですが、明治時代以前は甲斐国への街道も付近を通り徒歩の移動がメインだった時代には重要な拠点だった訳です。
ですから苗字詐欺師の武田信玄も津久井城を度々攻めていますし※失敗しまくりだけど(笑)、豊臣秀吉の北条征伐戦では籠城兵僅(わず)かの津久井城に対して徳川家臣随一の合戦上手として知られる本多忠勝公率いる20000超の大軍によって攻城が行われ、武田信玄も落とせなかった名城津久井城は小田原北条家本隊による援軍も無く陥落しました。
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そんな津久井城の歴史を三浦家支配の時代より見守って来たのが、この根小屋諏訪神社な訳です。
明治以前の源頼朝公の時代~鎌倉幕府北条家の時代~室町幕府鎌倉公方足利家の時代~北条家臣内藤家の時代~徳川幕府の時代には神仏混交だったので神社には神様と仏様が仲良く一緒に祀られていらっしゃったので、今では過疎の根小屋地区にヒッソリ佇(たたず)むこの神社にも神様と仏様が仲良く並んでいる姿を見る事が出来ます。
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本当に隣同士仲良し・・・明治維新以前の古き良き日本人の感性を垣間見えてホッコリする。
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御地蔵様もいらっしゃいます。
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街道を守って来た馬頭観音様も。
もしかしたらこれらの石仏群は津久井湖造成で水没した、かつての津久井城下の村落から諏訪神社境内に移されて来たのかも知れませんね~
社殿は参拝客も少なくなっても氏子さん達によって立派に守られてらっしゃいます。
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社殿の覆殿の中に小さな朱漆の本殿が見えます。
戦国時代の北条家も武神として諏訪神社を崇拝していたので、やはり三崎城址や山中城址等の重要な場所には必ず諏訪神社が在りました。
根小屋諏訪神社では御神輿も拝む事が出来ました。
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煌びやかで色の剥落も無く、現代でも集落の氏子さん達によってちゃんとメンテナンスされているのが判りますね~。こうやって氏子サン達の経済力と言う名の努力によって鎌倉時代の神社造営以来、長野県の諏訪湖の畔の諏訪大社からいらっしゃった神様の御分霊は守られて来たんですね~。
さて、今は目立たなくても昔は多くの鎌倉武士達や江戸時代に帰農し農家と成った旧北条家臣団の御子孫によって守られて来た神社だけあり、境内には立派な御神木も存在します。
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神奈川県の名木100選の一つ、❝根小屋神社のスギ❞です。
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推定樹齢500年・・・
つまり北条家臣団として活躍し、武田信玄を幾度も苦戦させた名将の津久井城主内藤綱秀公も幼少期に諏訪神社を参拝して、この杉が普通の背丈だった頃に木陰で御女中達と散歩して遊んでらっしゃったかも知れませんね~。
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本当に立派な大樹です。
今はひっそりした神社でも、源頼朝公御家人で三浦氏の筑井義胤公や、戦国時代の名将の内藤綱秀公と一緒に歴史を歩んで来た事を証明してくれる御神木。
神奈川県内にはまだまだ、こういった何気ない神社でも凄い歴史偉人と関係の有った場所が沢山有ります。
ですから皆さん、気分転換ついでに近所の神社や御寺や城跡の公園や山を御散歩してみませんか?
きっと神社や御寺を参拝して神様仏様に御挨拶すれば、我々にはもう見えない歴史偉人も神様仏様と一緒に笑顔で喜んで我々を歓迎してくれているかも知れませんよ~♪

人が一番怖いのは自分が死んだ後で自分の事を皆が忘れてしまったり、生きていた時に自分が大切に思う人の役に立ってあげれなかった事だと思います。
でも我々が近所の優しい御爺ちゃんや御婆ちゃんの家に遊びに行くみたいに神様仏様を拝みに行くついでに地域を今も見守って下さってるかもしれない歴史偉人に挨拶もすれば、きっと昔の武将や御姫様も喜んでくれると思います。

・・・では、次の記事で御会いしましょう~♪津久井城の事書こうかな~?

PS・・・昨日早朝、太腿に大火傷しまして仕事休んでいるので久しぶりに歴史解説記事ちゃんと書けました(笑)。
火傷のフザケた報告記事も読んでね⤵
熱いのぶちまけてやるぜ・・・ぐへへへへ





※今回の記事は文字だらけです。
前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説③】・・・多❝米❞元忠公と❝多米❞家の菩提寺の豊顕寺は江戸時代の大寺院・・・横浜市神奈川区三ッ沢西町【歴史学者は必ず見る可し!】
コレの続き⤴


最近、断続的に書いている多米元忠公の解説記事に「多米氏を調べてらっしゃる」と言う❝ヨツ❞さんと言う方からコメントが付きまして、そのヨツさんは多米元忠公は多米長宗公と同一人物じゃないかと、戸倉英太郎サンと言う❝先生❞の持論を御参考にされているとの事で、小生が何故(なぜ)「多目元忠公と多米元興が同一人物だ」と推測しているのかと言う質問を頂きましたので、そのやり取りで返信した内容に一部挨拶の加筆と多目元忠公と一体誰が同一人物かと言うのを各時代の北条家周辺の人物名と歴史とを新たに書き加えながら解説したいと思います。

さて、小生は某大宮司家の自分の祖先と、菅原氏、河内源氏や坂東平氏、鎌倉幕府北条家、金沢北条家、名越北条家、室町幕府将軍家と鎌倉公方足利家、蒔田吉良家と宅間上杉家と太田家、小田原北条家と玉縄北条家と間宮家と多米家と福島家、崇敬する織田信長公の織田家と生駒家、徳川家、それ諸家の殿様や奥方様や御姫様を尊敬する所から日本の歴史オタクに成って行きました。
素人なりに色々と御子孫様達にも御会いする事が出来たり、色んな御寺や神社で宮司様や和尚様達に優しくして頂ける御縁にも幸運な事に恵まれ、普通は見せて頂けない過去帳や文書を見せて頂いたりコピーを頂く機会にも恵まれました。
すると面白い事に、文字しか読まず取材しない部類の❝ガクシャ先生❞達が後生大事に丸写しテンプレして論文の根拠にしている❝寛政重修諸家譜❞やら❝風土記❞やら諸々江戸時代の記録と言うのは幕府の一部の役人が字を書き間違えていたり、昭和期に活版印刷にする際に文字の読み間違え誤植が多く有る事に気が付きました(笑)。
なので小生は実際の取材による聞き取りの重要性に気が付いて・・・
と言うよりも、そもそも自分で尊敬する人達の話を御子孫や御住職様や宮司様達の当事者に御会いしに行くのは数百年前の御殿様達に時代を超えて御挨拶する機会を頂いている様な気がして嬉しく、距離感なんか気にも成らずに「自分で会いたい!」と言う衝動に駆られてアポを取り挨拶に伺ったり、直接御参りに行くと❝すっごく!良くして頂ける❞機会に恵まれて来ました。

そして、殿様達の名前は例えば諏訪家ならば諏訪❝頼❞水とか諏訪家の❝頼❞の様に必ず❝家ごとの通し文字❞が有る事、そして殿様達の当時の近郷に住む上司や近隣有力大名からも❝一字拝領❞して例えば間宮家なら間宮❝康❞俊公の御名前は北条氏❝康❞公から頂いた一字である事から、いつの時代に特に重用される存在だったかとか推測する基準に成る事にも気が付きました。
更に、その上司や近隣大名と不和に成り決裂したり別の主君に鞍替えすると名前を元の名前に戻したり、子孫が元の名前の間宮❝信❞俊と伝え直してしまって各家で家系図に混乱を来(きた)してしまう原因に成り、更に徳川幕府に家の惣領が家譜を提出する際に止む無く❝康俊と信俊は兄弟だった❞みたいな帳尻合わせつじつま合わせをせねば無くなり、もうしっちゃかめっちゃかに成っている事も気が付きました。
・・・実は、この現象が多米家の伝承でも起きている事に小生は玉縄北条家の顕彰活動を通じて知った鎌倉時代には❝金沢北条家❞重臣だった間宮家臣荒井家や、扇谷上杉家臣太田家の太田道灌公暗殺の現地伝承と150年後の子孫の口述記録の差異、間宮家の家系図と各家の伝承の混乱を見聞きした経験から気が付きました。
そして得た名前と時代的な周辺の状況から「多米元忠公=多目元興公」と言う結論です。
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写真は多米元興公の隠居地と伝わる豊顕寺さん、そもそも多目元忠公の隠居地もここと伝わるので訪問すれば直ぐに解る事なんですが・・・
さて、では何故そう思うかを豊顕寺の事は置いておいて多米家の殿様の名前から改めて解説しますが、ここからはもう、ヨネさんに書いた返信をテンプレに写真と場所の解説も書き加えたりしてみます。

【多米元忠公と多米元興公が同一人物と考える理由解説】
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※KOEIさんの信長の野望での多❝目❞元忠公の顔グラ。名前間違ってるし(笑)。
小生の推測は歴史オタクで素人の域を出ませんが、世代の比較をすると小生は自説の様に思います。
まず、多米元忠公が元の名を改めて元忠と名乗ったのか、それとも元忠が先で元興or長宗と名乗ったかを考えれば小生の説に合点が行くかと思います。
さて、先ず小生は戦国武士の名前は近在する有力武将の従属勢力が本人として考えた場合に有力武将から一字を頂く事を大前提として話させて頂きます。
先ず小生が多米元❝興❞公こそ河越夜戦に参戦し一軍の大将を任せられた上で全軍の進退を主君に代わって指揮を執れる人物だったと思うのは、多米家でそれが可能な人は世代的に他にいないからなのですが、多米元❝興❞公の名前に着目して世代を推測してみましょう。
この元興公の字は小生は扇谷上杉朝❝興❞公からの一字拝領だと推測しています。

御存知の様に北条(伊勢)家は古河公方家と扇谷上杉家と山内上杉家の複雑な外交関係の上で勢力地拡大の大義名分を成立していた家です。
扇谷上杉家とは初期段階で共闘関係に在り、それ故に扇谷上杉家旧臣の大森家が山内上杉家に内応した頃に小田原城攻略の大義名分を得て西湘に進出しています。
仮に多米長宗公が扇谷上杉家との抗争の終局である河越夜戦で一軍を率いた上で全軍を統率するのは年齢的に無理です。
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写真は扇谷上杉家終焉地、河越城下の東明寺。ここで扇谷上杉家の頭領の扇谷上杉朝定公は討死します。重臣で後の岩槻城主太田資正公の養父同然の存在だった松山城主の難波田善銀公もここで亡くなりました。
そもそもは時宗の開祖の一遍上人の開いた聖地で、扇谷上杉家と時宗は臨済宗と曹洞宗に並んで深い関係が有る宗派でした。恐らく、扇谷上杉家の初期の本拠地だった旧鎌倉郡大庭城の近くには現在では藤沢市と鎌倉市の市境付近の時宗の総本山格である遊行寺が存在した事や、この河越城下に東明寺が存在した事から関係を深め扇谷上杉家によって支援されたのでしょう。
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稲荷山 称名院 東明寺
この河越夜戦で活躍したの多目元忠公は小生は多米元興公だったと推測しますが、恐らくは次代の多米❝長❞宗公の❝長❞の字は北条長綱入道宗哲(北条幻庵)公か、その子息の北条時長公からの拝領でしょう。
多米家が城主を務めた青木城の所在地は江戸時代には眼前の横浜駅一帯は当時は海で港湾としても機能した上に東海道旧道だった重要性から東海道❝神奈川宿❞が設置されていますが、江戸時代の区分は❝神奈川領❞とされています。
坂本龍馬先生坂本龍子(お龍)さん
幕末には坂本龍馬さん亡き後に未亡人お龍サンが働いていた田中家と言う料亭も今でも営業しています。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
余談ですが、北条家の御城跡の傍には現代では拉麺の名店が多く有ったりします(笑)。これは交通の要所を抑えて城を造るのと、昭和の高度経済発展期以後の拉麺文化がトラックの運転手相手にした業態で発展した文化だから奇しくも重なる訳ですね(笑)。
そこ等辺は間宮家や宅間上杉家と尊敬する大勝軒大将の故山岸サン達の顕彰文の廉価版みたいな記事や、お龍サンの記事でも紹介しているので御興味がれば読んでやって下さい。
※タイトルをクリックすると記事に飛びます!
●間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
●神勝軒:大勝軒山岸サンの弟子の店。…全ての拉麺繁盛店と御城の意外な関係。
●坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
●旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
●北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
間宮家顕彰文は正式版は出版物にします。
円海山の蛍生息地を東急グループが破壊した場合には工事責任者から営業担当者や経営者と責任者である市長と県知事と教育委員会教育長までの実名を併記して宗教と文化醸成と自然の聖地が消えた❝歴史事実❞として間宮家の歴史と一緒に永遠に語り継ぐコンテンツにするのが目的ですね。「破壊して宅地にしたら勝ち」と思ってる横浜出身じゃない築地出身政治家やその支援者や土建屋の人間は生粋の源氏平氏北条家の気質を受け継いだハマっ子、370万人の横浜市民をナメんなよ・・・
子々孫々までソイツの悪事の対価を背負わせてやるんだわ。
・・・極悪旗本木原家の様にな。そして100年後200年後と時間が過ぎる程に円海山の瀬上沢自然環境を破壊する奴は更に悪名を残す存在に成り、糾弾されるだろうよ。
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さて、間宮家や鎌倉武士団と所縁深い円海山の話は置いておいて、ここはそもそも足利尊氏公が南朝方と戦った際に城郭化し籠城し、後に戦国時代初期の間宮家が北条早雲(伊勢宗瑞)公の家臣として籠城した権現山城が前身な訳ですが、北条家が江戸城を奪取し安定するまでの初期段階では小机城を含めた領域も統治領域とした役割を持っていた筈です。
青木城から直ぐ近くの小机城は小田原所領役帳の成立時には❝小机衆❞を束ねる組織に成り、どうやらこの頃には❝北条五色備え❞も解体されている事が推測出来ます。

所で、この小机城、北条氏綱公が江戸城を制圧した帰りに笠原信為公を城代に据えています。つまり無城主だけど城として機能していた事が解ります。この頃には青木城の前身の権現山は廃城に成っていたのかも知れませんが神奈川斎藤領分を間宮宗甫公が領しておりますし更に北条早雲(伊勢宗瑞)公の時代の権現山合戦では間宮家の城として権現山城が登場します。青木城はまだ存在していません。
権現山城で活躍した間宮信冬公の子か弟か親類の間宮信盛公も多摩川渡河地点の今の川崎市川崎駅一帯の河崎堀之内館主、鶴見川渡河地点の鶴見区末吉一帯は間宮信冬公、そして神奈川権現山は間宮彦四郎(小生は信冬公と同一と推測)の城でした。
つまり北条早雲~北条氏綱公初期の世代では青木城が存在せず、小机城も城として存在しても無城主で城代は大曾根城主の笠原信為公、1560年以前に小机城主を務めたのが北条幻庵公の御子息の北条時長公です。ここで北条時❝長❞の長の字が登場しますね。
北条家の江戸城攻略は大永四年(1524)です。
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
小机城址では現代では毎年秋に竹灯籠祭りが行われたり・・・
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・・・春には笠原信為公を顕彰する小机城址祭りが開催されています。
●❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
●2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
さて、小机城代を務めた笠原信為公は弘治三年(1557)に亡くなっているので、小机城と小机衆を取り仕切った期間は1524年~1557年と判ります。
そして1557年~1560年まで城主だったであろう人物が北条時長公となる訳です。
この小机には、北条時長公の没後も御父上の北条幻庵公の所領が有りましたが後に北条氏繁公に譲られています。状況的には北条時長公が赴任した後に幻庵公の土地に成っのでしょう。
つまり、多米家で青木城の近所に住む❝長❞の字を持つ有力者の影響を受けれる人物は1560年前後の短い期間に元服したりまだ改名しても不自然ではない若かった人物だと思われます。当然ながら1560年代に十代~三十代位の人物ならば小田原城の落城時に小田原城を守備していた多米長宗公がその世代の人物と考えれば極々自然でしょう。
多米長宗公は多米家通し字の❝元❞の名が入って無いので初名は多米元宗だったかも知れないですね。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
残念ながら多米長宗公は世代的に河越夜戦で全軍の指揮を執れる様な中年では有り得ないでしょう。
さて、では多米元興公はどうでしょう?
多米元興公の❝興❞の字が伊勢家⇔扇谷上杉家の友好的な時代に扇谷上杉朝興公から一字拝領した人物と考えれば、河越夜戦に参戦したのは多米元興公と考えるのが自然でしょう。そして古河公方足利家を頂点として管領格の扇谷上杉家に協力従属した伊勢(北条)家の武将が同世代の目上の武将から一字貰うのは当然普通に有り得る事ですよね。
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※写真は扇谷上杉家の戦国時代初期、北条(伊勢)家と協力関係に有り山内上杉家と対立していた時代の本拠地だった伊勢原市上粕屋の大城郭、糟屋舘址の大空堀。
糟屋舘は崖地系を人工的に切岸したり平地を掘削した大空堀の幅は余裕で50m有ります。糟屋の伝承地形は太田道灌公暗殺一部始終の現地取材を元に推定地を記事に書いて紹介していますが、2018年現在、神奈川県の黒岩知事による道路建設で破壊の真っ最中です。しかも事前発掘調査隊には城郭専門家は含まれていません。
●【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
では多米元興公に名前を与えたかも?知れない扇谷上杉朝興公はいつの時代の人物でしょう?
長享2年(1488)~天文6年(1537)を生きたのが扇谷上杉朝興公です。
では多米家はその頃に何をしていたでしょう?そこからはブログにも書きましたが…
永正三年(1506)~3年間、北条早雲(伊勢宗瑞)公は今川氏親公の名代として今川家の軍勢と伊豆と西湘の伊勢家軍勢を率いて三河安祥城の松平家を攻めています。

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※安祥文化のさと、ここの周辺一帯全てが三河安城市の市名由来と成った徳川(松平)家初期の岡崎尉移転以前の本拠地、安祥城。ここを訪問した時の記事は【休日雑記】として少し触れていたり、浄土真宗の寺院化した後の事も間宮家が関わった横浜市の梅花山成就坊の事と一緒に紹介しています。
●休日雑記 2016/09/29の訪問先 愛知県豊田市~安城市~刈谷市~豊明市~名古屋市緑区~熱田神宮~中区。
●横浜の梅花山成就院と愛知県三河安城市の大乗寺・・・戦国時代の徳川家と間宮家の❝本丸❞だった浄土真宗の寺院達。
この北条家の前身の伊勢家が今川家臣だった頃に活躍したのが❝三河の土豪❞だった多米元興公の御父上の多米元❝益❞公と伝わり、江戸時代に流布された❝伊勢神宮参りで伊勢盛時公と出会って以来の多米家と北条家の関係❞とか❝室町幕府で同僚だった❞とかは誤りな事が判ります。何たって、小生の三河土豪説は豊顕寺の歴代御住職に直接伝わってきた話で豊顕寺の説明の看板にすら紹介されている事ですからね(笑)。
多米元益公は❝伊勢七騎❞と呼ばれた北条早雲(伊勢宗瑞)公世代の今川家筆頭家老の伊勢家与力として活躍した人物です。もうこの時点で時代背景が判りますね。この頃、実際に北条家の運営をしていたのは二代目の北条氏綱公でした。その後、三河は松平家が制圧し、多米家を含めた親今川勢力は三河から駆逐されます。そして、その頃に相州の北条氏綱公を頼り扇谷上杉家とも友好な時代に生きていたと考えられるのは多米元❝興❞公を置いて他なりません。
多米家は「相模国に赴き北条家臣と成った」と伝承しており豊顕寺の説明にも書いて有ります。
余談ですが昭和の活版印刷版の寛政重修諸家譜とか新編武蔵風土記稿は編集者が天文と天正をしばしば誤読して字を誤植しているのも間宮家の御寺を廻って小生は良く知っています(笑)。なので一々、元号や武将の名前記載は江戸時代の役人の記述や昭和のいい加減な酒飲みながら残業した様なオッサンの仕事を鵜呑みにせずに、自分で御寺に行って過去帳や墓石を見て回らないとエライ目に遭ったり世の中にデマを流布する事に成りますよ~。御子孫には杉田間宮家初代の間宮常信公と名がちゃんと伝わる武将を、間宮信次とか間宮信常とか江戸の役人か昭和のいい加減なオッサンの誤植を丸写しして出版物に書いてしまってる人もいます(笑)。
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※写真は戦国時代の小田原城本曲輪前の東曲輪から見た、江戸時代の小田原城本丸。
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小田原城址公園
●小田原北条五代祭りと戦国時代の小田原城…防御力実積日本一の名城!
※以前書いた小田原城解説⤴
北条早雲公の時代の本拠地は伊豆国韮山城、北条早雲公の晩年に北条家の運営をしていたのは北条氏綱公、北条氏綱公以来の本拠地は❝相州❞の小田原城、多米元興公が相州に亡命し得る松平清康公による三河制圧も北条氏綱公の時代の話ですね。
もうここまで話せば御理解頂けるかと思いますが、青木城に赴任し得るのは多米元益公の次世代の多米元興公を置いて他におらず、元興公は扇谷上杉家の上杉朝興公の名を一字拝領していたが主家北条家と扇谷上杉家の対立が確定した時点で上杉朝興公との縁を切り名を多米元❝忠❞と改めたと考えれば極々自然でしょう。
そして青木城築城は永正五年(1508)の今川家の三河攻略失敗以降で更に永正七年(1510)の権現山合戦以降、小机城が小机衆として機能する大永四年(1524)迄の間と言うのが判ります。この時期は丁度、多米元興公が北条家を頼って相州に移住して来た頃とも重なりますね。
そして、多米元益公と北条早雲公が同時代に活躍した人物ならば、その子の多米元忠公は北条氏綱公や北条幻庵公と同世代か少なくとも北条氏康公よりは大分年長だったと推測出来ますから、その様な世代の人物が秀吉による小田原城攻略の頃まで生きていたとは全く考えられません。

多米家が勢力を抑えられたのは、もしかしたら多米元忠公と多米長宗公が関わったであろう本光院殿北条為昌公のせいかも知れませんよ?
そこ等辺も、その内に書きますね。
もし興味が有れば以前書いた❝ゆず❞の地元の龍珠院と金沢区伝心寺の記事とか小机城と篠原城の記事を読んで見て下さい。
ゆず
●❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区
●横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?
●篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
これが小生の説で、実際に和尚様から聞いたり豊顕寺と多米家の伝承を紹介した文章から推測出来る事です。
これ、豊顕寺サンに御参りして色々と見聞きすれば直ぐに解ると思います。
江戸時代の人が狭い行動範囲で取材せずに書いた文献だけだと、ローカルな情報をカバーしきれて無い事が多いですしね。新編相模風土記稿も編集の過程で些末なエピソードは端折られてるでしょうし。
間宮に異常に詳しく書かれているのは、新編武蔵風土記稿の編集者が間宮一族の末裔の間宮士信サンだからでしょうね(笑)!

・・・まぁ、これで納得して下さる方も多くいらっしゃるのでは無いかと思います。
現在小生は趣味の歴史以外の事(泣)で多忙なのでいつか、多米家の御姫様に取材できるようにアポイントをとれたら、色々と持論も御話ししながら多米家の事で各時代の歴史家が紹介していない事も記録に残せたらなぁ~と思っています。
皆さん、その時まで待っててね?
落ち着くの、2年ぐらいかかるのかなぁ~。

→その⑤に続く(多米家が重臣ながら貫高を抑えられた原因の推測を書く予定)
   

前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。
コレの続き⤴

今回は河越夜戦で全軍の総指揮を執り北条11000vs上杉80000で北条家に奇跡の勝利を齎(もたら)した多目元忠公の隠居地であり菩提寺でもある神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺(ぶげんじ)を紹介します。
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法照山 豊顕寺・・・三つ沢壇林旧蹟
(だんりん=江戸時代の仏僧の大規模学問所)
北条五色備え 黒備え隊大将 多米元忠公と多米家の菩提寺
恐らく、この豊顕寺の寺名の読み方すら御存知無い方も幾らかいらっしゃると思います。
そして豊顕寺さんが多目元忠公の隠居地とは知らない人も多いでしょう。訪問さえすれば秀吉の小田原攻めで小田原城に籠城した❝多米長宗❞公が多米元忠公では無い事や、そもそも歴史学者が江戸時代の誤植した❝多目(ため)❞姓を現代では正式認定していますがコレが誤っており、正式には小田原所領役帳や新編武蔵風土記稿の記載の通り❝多米(ため)❞である事が直ぐ解ります。
又、小田原北条家の滅亡後は多米家は消息不明的なアホな事をテンプレ書き込みしている馬鹿学者もいますが大きな誤りであり、ソイツ等は先人を尊敬して文書にする際に菩提寺や氏神の神社を参拝して仁義を通したり取材して事実確認をしていない三文学者な事が歴史オタクには一目瞭然だったりもします。
今回、戦国時代の北条家研究をされる方にとって、多米家の事でとても大事な報告も有るので是非読んで頂きたいと思います。

27日の深夜にブログ更新する心算でしたが豊顕寺サンへ未取材のまま結局記事に書きたくなくて28日土曜日に御住職様に御朱印の拝領と合わせてアポをとり取材をして参りました。
色々と御話を聞けたし、実際に江戸時代までは江戸上野の寛永寺に匹敵する超大規模な壇林の三ッ沢壇林だった名残りが❝横浜市教育委員会が保護もせず放置したまま部分的に現存している❞事も確認して参りました。
そして、多米家嫡流の御子孫が戦国時代から現在まで筆頭の檀家として豊顕寺サンを歴代菩提寺にして来て御寺の歴代御住職も多米の殿様の御子孫の来訪時には丁重にもてなし続けている事も教えて頂く事が出来ました。そして今現在、❝多米家の直系最期の御子孫❞がいらっしゃり・・・

う~ん、多米の❝お姫様❞の話は先ずは置いておいて、御寺の歴史紹介から多米家のルーツを解き明かし、北条家臣化の通説とは違うプロセスの方が現実的と指摘したいと思います。
豊顕寺周辺 久良岐のよし
豊顕寺は正式名称を法照山 豊顕寺と言います。
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2018年04月28日(土)の躑躅が綺麗な日に訪問、横浜市営地下鉄ブルーラインの三ッ沢上町駅の目の前で、豊かな緑に囲まれた素敵な市民の憩いの場にも成っており、本日の参拝の折も横浜国大の生徒と思しきカップルが境内で仲良くデートしていました。
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なにやらスマホをいじくっていたのでポケモンGOでもやってたのかな?
この豊顕寺サン、元は三河国八名郡多米村(現:愛知県豊橋市多米町)に多米家の祖先の多米元興公が永正十二年(1515年)に多米家菩提寺として建てた❝本顕寺❞が存在しました。この永正年間に活躍した元興公の御父上の多米元益公には❝伊勢七騎❞と言う異名が有り、既に伊勢盛時宗瑞公の時代の元益公の代には北条家と“関わりの有る家”として活躍し重臣だった事が確認出来る訳です。しかし家臣かは別の話し。
多米家は伊勢国で伊勢姓時代の北条早雲の名で知られる本名:伊勢新九郎盛時公と出会ったと何だか書いているガクシャ先生もいますが、これは恐らく江戸時代に作られた俗説のデマを事実考証もせずにテンプレした結果の誤りでしょう。
そもそも永正十二年(1515年)頃に三河国に菩提寺を作っている多米家が永正年間頃に伊勢国で伊勢新九郎公と出会う訳が無いんです。
実は小生が間宮林蔵の祖先であり多米家と同じ横浜の戦国武将で笹下城主の間宮家の顕彰活動をする過程で、多米家が伊勢(北条)家の臣下に成る理由を発見していました。
永正年間の伊勢家は今川家臣ながら伊豆国と相模国西部の小田原城を手中に収めて今川家の従属大名として活躍していました。そして当時の伊勢家は北条早雲公の代には北条姓を名乗っておらず早雲公も正式な名前は伊勢盛時 入道号:早雲庵宗瑞が当時の御名前でした。
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この頃の伊勢家は永正三年(1506年)~永正四年(1507年)か永正五年(1508年)迄の足掛け3年間に渡って伊豆と相模の与力武将と今川家からの与力武将を従えて❝徳川家の祖先❞松平家と長期合戦の真っ最中でした。松平家初期の本拠地だった三河国碧海(へきかい)郡=現:愛知県三河安城市の安祥(あんじょう)城を攻め落とすべく今川家総大将として出陣しているんですね。
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現在、安祥城の本丸跡には大乗寺と言う浄土真宗の御寺が在ります。
この頃の今川家は東三河一帯を勢力下に置いていたので当然ながら多米元忠公の御父上と思しき多米元益公や多米元忠公御本人の別名と思われる多米元興公は、この時期に今川家臣と成ったと考えた方が自然でしょう。そして後に東三河は徳川家康公の祖父で戦上手で少々乱暴な人としても有名な松平清康公によって征服されて今川家が三河の領地を失陥(しっかん=戦に負けて城や領地を失う事)していますが、その前に松平家と当初は敵対していた戸田家によって先に豊橋市一帯は征服されているので、多米家は今川の勢力を離れた後で一時的に戸田家に従属し、更に今川家時代からの仇敵の松平家が一帯を征服したタイミングで出奔したタイミングもこの頃かと推測出来ます。
その時期は享禄二年(1529年)の松平氏による現在の豊橋市周辺併呑の頃でしょう。
当然ながら以前に松平家と敵対した今川家の総大将の伊勢盛時公に与力した多米家も松平家から領地を奪われて浪人したでしょう。
小生の推測では、この時に優秀だった多米元益公と多米元忠こと多米元興公は伊勢家を頼って伊豆の韮山城の北条早雲公こと伊勢盛時公か小田原城主で伊勢家二代目の北条氏綱公を頼ったのでしょう。小生思うに、親子は実力を買われたのと伊勢家が敗戦と浪人の責任から多米家を召し抱え重臣として取り立てたと考えれば伊勢家家臣化が極々自然に繋がると思います。
さて、小生が何故この事を気が付いたかと言えば全然関係ない久良岐郡の間宮家居城の笹下城の事を調べていて、中世武士の文化や北条家研究家として間宮家や中田家の事や久良岐郡研究で多大な成果を収められておられる盛本昌廣先生の論文と新編武蔵風土記稿の久良岐郡の笹下城下の事を読んでいたからでした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
この古文書の写しが新編武蔵風土記稿に紹介されています。
この内田対馬守は間宮家臣として笹下城下では代々続いた家でして、分家も多く本家は古門内田対馬守家として近年で知られた地主サンでした。
小生はこの古文書の写しを読んで間宮家臣古門内田家の御子孫を探しに港南区笹下町を訪れ朝から夕方まで内田姓の家を訪ね歩き回りピンポンしまくる怪しいセールスマン状態(笑)で御自宅を見つけ出し訪問していた事が有ったので多米家のルーツと繋がる❝今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻め❞に行き着いた訳です。まぁ、世界屈指のメーカーさん相手に企業営業の経験を積んだ小生に掛かればコンナ事は朝飯前(笑)!何にも恥ずかしくないし飛び込み営業と取材は何にも変わらん(笑)!
これが歴史オタクに活かせるスキルだとは思いもよらなかったし、研究職しか経験の無い学者サンが肩書が無いと仕事が捗(はかど)らないと思い込んでるのとの違いだなと今にしては思う。
この感状の古文書、年号が有りませんが寅三月ニ十八日と書いて有りますよね?
実はこれ、三河国碧海郡の安祥城攻めが終了した翌年の発行なんです。そしてこの寅三月の寅年がいつだったかは内田対馬守サンの死没年から特定できるんです。
三河安祥城攻めが終了したのは永正四年(1507年)とも永正五年(1508年)とも言われていますが、内田対馬守が死没したのは新編武蔵風土記稿に永正五年(1508)三月二日と記されています。つまり1508年を含むそれ迄の寅年、かつ永正年間で感状(かんじょう=感謝状と御褒美)を与えられる様な合戦が有った年と考えると推測が着きます。
この感状は死亡前の活躍に対して数ヵ月のタイムラグが有り、亡くなって初七日も終え暫くしてから今川家から送られている事も判ります。戦傷が元で亡くなったんでしょうかねぇ~?
内田対馬さんが感状には御大途(大殿様)と言う表現が有りますね?これは伊勢(北条)家が今川家の家臣だった頃に今川家から伊勢家与力の間宮家に発行されている事が解ります。当時の北条家臣団は北条早雲公に対して大殿様と言う表現を用いていなかったそうなので、間宮家の殿様の伊勢家の更に殿様の今川氏親公から下賜された官位に付随した書状である事が解ります・・・
「では質問!内田対馬さんが無く亡くなり今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻めが遅くとも終結した永正五年(1508年)の干支は何でしょうか!?」
・・・答えはね❝丙寅(ひのえとら)年❞、つまり寅年なんですよ!
だから今川家の殿様から内田対馬守の死没以前の活躍に対して感状が発行される寅年か前年の合戦は今川&伊勢連合軍の三河安祥城攻めしか無い事が解る訳です。
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※写真は駿府城、今川家の拠点が駿府城の前身とも言われるが定かでは無いと駿府城の学芸員サンがおっしゃってました。
この時期、今川家臣だった伊勢家は今川家の名代と言う名目と幕府の公認を受けていた古河公方家の支援と山内上杉家と扇谷上杉家の内紛鎮圧を大義名分に相模国東部~武蔵国久良岐郡に侵入し橘樹郡~都築郡と、武蔵国南部も浸食し始めていました。そして❝永正の錯乱❞と呼ばれる室町幕府管領細川家の内紛が起きて応仁の乱の西軍側の足利義稙公によって当時の室町将軍の足利義澄(よしずみ)公が征夷大将軍の職位を奪われ京都を追われる事件が発生します。
実は北条家が伊豆国を支配で来たのは、足利義澄公の母上の仇(かたき)であった異母兄の堀越公方足利茶々丸を討ち果たし仇を取ると言う❝大義名分❞が有ったからでした。その足利義澄公が将軍職を追放されてしまったので、伊勢家としては堀越公方やそれを支援する山内上杉家と戦い伊豆国と相模国の支配権を保持する正当性が無くなってしまいました。そして伊勢家の主君だった今川家は幕臣として室町幕府に仕えていましたが、足利義稙公と今川家との主従関係が確立されると山内上杉家は西軍との関係が良好であったので伊勢家と今川家の関係も問題に成って来てしまう訳です。
そして永正六年(1509年)頃から伊勢家は今川家臣としての活動を一切行わなくなり、この頃に断交している事も判ります。

さて、ここから多米家と北条家の歴史が繋がります・・・
この頃の永正五年(1508年)に徳川家康公の祖父の松平清康公が生まれ、大永三年(1523年)に清康公は父の松平信忠公の隠居を受けて15歳で松平家当主に就任すると享禄二年(1529年)頃に多米家の領地の有った三河国八名郡や宝飯郡を含む今の豊橋市界隈で一番有名な御城の吉田城の城主:牧野家も今川家臣でしたが松平家と縁戚の戸田家との合戦に敗れて降伏しています。そして八名郡や宝飯郡一帯は松平家の盟友の戸田家の領土と成ります。当然ながら今川家臣で旧伊勢家与力の多米家もこの時期に三河国の所領を失った筈です。
・・・そして永正十六年(1519年)に伊勢盛時入道宗瑞公も死没しているので、多米家は北条家二代目頭領で❝小田原城主の北条氏綱公を頼って北条家臣と成った❞と考えた方が通説よりも自然でしょう。
そこで大切なのが横浜市神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺サンが三河国八名郡多米村から移転して来た時期です。
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恐らく多米元忠公の初名と思われる多米元興サンは天文年間(1532~1555年)に青木城主を隠居して、三河国の多米家菩提寺の本顕寺を現在の神奈川区三ッ沢上町駅前に移転させて、自分の隠居所としている事が寺伝や新編武蔵風土記稿の記載から解っています。

【新編武蔵風土記稿 橘樹郡之十三 小机領 豊顕寺の項】
豊顕寺
~冒頭省略~
もとは三河國八名郡多米村にありて、本顕寺と云(言い)てかの地の士多米権兵衛(元益サン?)が世々の菩提寺成り(豊顕寺伝承では1515年造営)、
~以下中略~
長氏(北条早雲公の本名:伊勢盛時の別名)後に相武等を併呑せしかば、権兵衛かの家人となりて一方の大将を承(賜わ)れり、(※この時点で北条家の相武併呑後(北条氏綱公の代の事業)に北条家臣化している事が書かれているが、早雲公が今川家臣だったの頃からの与力としての付き合いである事が先に紹介されているので現代の解釈の混乱に繋がっている模様)天文年間中よりこの地(青木城一帯)の領主となりしゆへ、かの本國(三河国八名郡多米村)にありし本顕寺を當(当)所へ引うつして名を豊顕寺と改めしとぞ、
~以下省略~
ここまで読めば今川時代に伊勢七騎と呼ばれた多米元益の世代から多米家と伊勢家の付き合いは有って、でも北条家の家臣化したのは北条家が武蔵国まで勢力拡大した頃の話である事が解ります。
更に多米❝権兵衛❞の様に当時の武家の各家系が名乗る屋号や官職名は代々引き継がれる物だったので、世代的に多米家で北条家臣と成ったのは天文十四年(1546年)に活躍した多米元興(元忠)公の時代の話である事も推定できます。そして青木城主に成ったのは天文年中での事で、その頃に隠居所の草庵の所に三河国の多米家菩提寺の本顕寺を三ッ沢に移転している事が解ります。
もしかしたら多米元忠公が御隠居されたのは河越夜戦で指揮をとった記録が有るので、天文十四年か翌年の天文十五年(1545年)かな?と考えれば自然ですよね。

つまり、豊顕寺サンとしての横浜市神奈川区三ッ沢西町でのスタートは、多米元忠公の引退時期の天文十四年~2年間の間の話だと推定できます。

そうそう、小生が参考にしている新編武蔵風土記稿ですが、そもそも新編武蔵風土記稿の近代の役人と出版社が編集した❝活版印刷版❞では❝本顕寺(ほんげんじ)❞の寺名すら誤植しています。❝本顕寺❞の草書体を本❝願❞寺と誤読した挙句に出版してしまっているんですね。更にソレを知らずにテンプレする歴史学者やら多米じゃなくて多目と書いてしまう学者やら・・・
コイツ等のせいで小生も豊顕寺の御住職に事実確認するまで「❝多目❞が正しいのかな?」と柄にも無く少数派で「❝多米❞だコノ馬鹿が!」とガクシャ先生を罵倒する事が出来なかった事を恥ずかしく思います。
よって今回の記事以降から多米家は全て多米姓で統一したいと思いますが、過去の記事の絡みも有り検索タグは❝多目元忠❞のままにして置きたいと思います。
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さて、多米家のルーツと豊顕寺の移転開基年代がだいたい推測出来た所で、もう一度御寺の参道の紹介から御寺その物の風景と施設を紹介しなおしたいと思います。
豊顕寺は市営地下鉄三ッ沢上町役を降りて国道一号線側から入ってくると外の大門代わりの石柱が有り、そこを入ると正面では無く右手に御寺が在(あ)ります。
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昔は大門を入ってくると真直ぐに丘の上に4万5千坪もの壇林(だんりん=学問所僧院の集合体)が存在していたのですが、明治のキリスト教徒政治家や戦後の宗教改革でアホの横浜市に接収され文化も史跡としての価値の高い大寺院群は上野の寛永寺同様に一部を残して徹底的に弾圧破壊されてしまいました。
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だから今も昔の壇林へと続く参道は豊顕寺市民の森の中に石畳と赤門だけが真直ぐ続き現存しています。
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先ずは御寺の風景を見てみましょう。
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緑豊かな豊顕寺の森に落ち着いた雰囲気の山門、昔は間宮家の杉田妙法寺や間宮家臣荒井家が鎌倉時代に中興した金沢区上行寺と同じく千葉県の中山法華経寺を開いた富木(とき)家出身の御住職が開いた前身寺院が存在しました。恐らく多米元忠公が御隠居された場所と言うのは、その前身寺院の事でしょう。
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山門をくぐると東を向いた御堂は初夏の午後16時頃の西日を背負って御寺に相応しい表現化は微妙ですが何だか神社の様に緑豊かな豊顕寺本堂は神々しい雰囲気に包まれていました。
山門から入って左手の竹の柵に囲まれた井戸が有りますが・・・
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この井戸はまだ現役で活用されています。
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手動ポンプで水も勢いよく出ました。
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・・・実はこの井戸の背後に歴代住職様と多米家嫡流で豊顕寺檀家の歴代御廟所が存在します。
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浄財寄進者名にはちゃんと多米家❝最後の御当主❞の御名前も刻まれていますが、予想外に❝間宮姓❞も多くいるので「何でだろな?」と思ったら、そう言えば神奈川区斎藤分町は間宮家の御分家の間宮宗甫サンの所領だったんです。これも御住職に取材をして解ったのですが、昭和初期まで神奈川区の間宮一族の中には大邸宅に住み使用人を住み込まれている家も有ったとの事なので地主と言う事を考えれば豊顕寺檀家の間宮さん達は笹下城主間宮康俊公の親戚の間宮宗甫公の御子孫達と考えられるでしょう。
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御本堂は戦災で焼けたのか鉄筋コンクリート造りの外観でしたが、屋根瓦に刻まれた地紋は北条家の三鱗紋でした。
丸に三ツ鱗紋
そして多米家の御廟所を参拝してから御住職にも確認しましたが、多米家の家紋は❝丸に北条三ツ鱗紋❞だそうです。
実は多米家の家紋を御存知無いガクシャ先生達が多いのですが、まぁ小生も昨日まで知らずにいたのですが、こうやって現地に行けば取材も出来るし、先人や歴史偉人や神仏を尊敬して神社や御寺を開いた殿様や歴代御住職様や宮司様に御参りするれば直ぐに家紋は判明するんですけどね。
ちゃんとした学者さんや博物館の学芸員サンは論文書く時に御墓参りしたり宮司様や御住職様に連絡したり御参りに行くから、素人の只の歴史オタクの小生と同じ程度の事は御存知なんですよ。
信仰心も先人への尊敬も無く、ただ飯のタネにしてる他地域からの移住して来たのに横浜を郷土として馴染み認識出来ない人ばっかの横浜市教育委員会の人達は知らないんですがね。
山門入って右手、多米家御廟所と反対側に庫裡(くり=居住空間)が在ります。
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庫裡の前にも真っ白な可愛い御花が咲いていました。
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とっても綺麗。
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その御花の前のベンチで和やかに時間を過ごす仲良さそうな大学生位のカップル。
羨ましいぞ!
誰か日本文化と歴史と散歩と旅行先の郷土料理食べるのと綺麗な風景好きな水商売経験や酒乱癖や違法薬物使用経験の無い真面目な女性、小生を婿にもろうてくれ(笑)。
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御寺の本堂の扁額には山号の法照山(ほうしょうざん)と書かれています・・・
読み様によっちゃ悩める人々の味方の「法テラス」とも読める(笑)。
・・・まぁ、弁護士サン達とは違う意味で人を精神的に助けれるのが宗教の良い所、ある意味で法テラスと同じ人助けの組織だね。
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御本堂の左手には日蓮上人像。あ、紹介し忘れていたけれど豊顕寺サンは法華宗です。
・・・豊顕寺サンの御本堂と庫裡の有る山門内はこんな感じ。
山門を出て旧三ッ沢壇林への参道の赤門前に戻ります。
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この赤門は江戸時代から第二次世界大戦の戦火も免れ存続し、老朽化で一度部材を解体して修理すべき箇所を手入れして組みなおした修復後の姿です。赤門と言うのは幕府の許可が無いと作れない寺格の高い御寺や医学書や大名屋敷にだけ許された特別な門でした。東京大学の赤門も加賀前田家の邸宅の門だったから朱塗りが許された門だったんですね。
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さて、豊顕寺から続く三ッ沢壇林の参道、横浜市は緑地として一部だけ残しましたがその山林の中には貴重な三ッ沢壇林の史跡が有るのを小生は確認してきましたが❝横浜市教育委員会は全く史跡として保護をしていません❞でした。アホなのかな?
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赤門をくぐると江戸時代からの壇林の参道を利用した遊歩道が在ります。
これを真っすぐ進まずに、最初の右手の削平地へ進んでみて下さい。
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左手に人工的に切岸にしてある段地を見ながら進むと・・・
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初夏には真っ赤な躑躅が咲く場所が在り、更に人気の少ないその奥には何やら削平地が有ります。
更にその奥に進んで下さい。
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・・・するとおそらく旧塔頭へと続く石段だったと思われる階段が登場します。
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近くで見ると石材を人力で加工した跡が有り、小生は江戸時代の石段だと思います。
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登り切ると不自然に階段は途切れ、少しずれて何かの私設の裏口が有ります。
これ、Google mapで見ると国土交通省関東地方整備局の施設らしいです。
三ッ沢壇林旧蹟衛星画像 久良岐のよし
この画像では北側が下に成っています。
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同じ角度で見た江戸時代の絵図だと、現在の豊顕寺サンの位置は手前右側の小さな御堂の集合体みたいな辺りで昔とは位置が違う様です。そして現代の立派な石段跡に続く国土交通省関東地方整備局の建物辺りに何か立派な御堂が有る事が解ります。
しかしこれ、何の御堂か新編武蔵風土記稿の豊顕寺の項目を読んでも良く解らないのですが、如何にざっと記述を載せて見ます。

三十番神堂 ・・・門を入りて左にあり
多米氏墓  ・・・門を入りて左にあり
多米彌七郎墓・・・同並の内にあり
蓮秀墓   ・・・前に言へる二基の間
運信齎日領墓・・・同並にて北のはしにあり
三澤壇林  ・・・境内の南の山上にあり
(赤)門    ・・・柱間一丈腕木つくり山上にあり
講堂 本院寮・・・講堂の表通りにあり今は廢せり
玄講寮   ・・・講堂の北下表通りの西側にあり
集講堂   ・・・同所の北の側にあり
條講堂   ・・・講堂の北下裏通北側にあり
自寮    ・・・十四棟
長屋    ・・・七軒

これを見る限り国土交通省関東地方整備局の辺りには講堂が在った様です。
その左手には何やら基壇が有りました。
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恐らくこれ玄講寮とか言う奴の基壇だと思うんですが、何んの説明も無いので不明です。
何故横浜市はこんな立派な基壇を保護も発掘もせずに風化させ放置するのだろう?
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周辺に削平地はまだまだ有るので、講堂周辺の御堂のいずれかの跡でしょう。
そして赤門をくぐり真っすぐ上まで行くと三ッ沢壇林の中心の御堂の石段と基礎が残っていました。
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これも保存する気無しの教育委員会、馬鹿なの?
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八幡広場と書いて有るので、往古は三ッ沢壇林の中心は多米元忠公の北条家が大切にした八幡大菩薩応神天皇が祀られた御神廟だったのかも知れませんね。日蓮上人と鶴岡八幡宮の結び付きも強いですし、法華宗の豊顕寺としても大切な場所だったのでしょう。
この様に、史跡としても学僧の聖地としても横浜市に破壊された三ッ沢壇林ですが、現在も放置された名残りは有るし深緑のとても気持ちの良い散歩道としても楽しめます。
そして豊顕寺を御参りすれば北条家の軍師だった多米元忠公に知恵の御利益を授けて頂く御釈迦様や八幡大菩薩応神天皇との橋渡しをして下さるかも知れませんね!

最後に戦国時代の北条家研究をしている歴史学者さんが見て下るかも知れないので一つ報告をします・・・
三ッ沢の豊顕寺で多米元忠公以来檀家として存続した多米家嫡流はもう直ぐ途絶えます。
御先代の男性当主がつい7年前に亡くなりました。そして現在の御当主は女性で残念ながら御子様に恵まれませんでした。
文字しか読まないタイプの学者には歴史上、江戸期の動向が良く解らないから断絶したとか言う人もいたりなんかする多米家ですが、ちゃんと多米家菩提寺豊顕寺では歴代の御当主を戦国時代からずっと事有る毎に来訪される旅にお迎えして来ました。
多米家を研究されたい学者さん、いますか?
もしアナタが本当に歴史が好きで先人を尊敬しているのならば、歴史偉人を呼び捨てにせずに敬称を付けて名を御呼びする様に態度を改め、豊顕寺を参拝し現在の御住職様に多米家最後の御姫様の女性当主様に連絡を付けて頂き家系図を見せて頂いたりする最後のチャンスですよ。
今やらないでいつやるの?
素人の小生が出来る事をアナタ達は何で出来ないの?
先人をリスペクトせず、神奈川県の史跡が開発の邪魔だから触れず?
歴史は飯の種で歴史人物も飯のタネだから敬称付けず人扱いせず呼び捨て?
それってさ、御子孫も菩提寺の御住職様も氏神様の宮司様も檀家サンも氏子サンも怒るよね?

歴史偉人も生きていた事を思い出し、そして子供の頃に憧れた戦国武将達への尊敬と日本の歴史を刻んで現在に繋げて下さった御恩を思い出して、敬称付けて名前を御呼びして自分で御墓に御参りする所から取材始めてみませんか?
多米家の事を調べるのは今しか無い最後のチャンスですよ。失礼な呼び捨てをするなら御寺とも御子孫ともコンタクト取るなよ。

・・・さて豊顕寺と多米家の歴史解説と推測の記事はここまで。
次回は多米元忠公の御子息達の重臣にしては所得が低めな理由を考察したいと思います。

北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説④】へ続く。



前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
  ↑
コレのの続きの第二部。
現代の感覚で言うと地理的には京浜急行電鉄神奈川駅と横浜駅と市営地下鉄三ツ沢上/下町駅の殿様の多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説が前回の記事です。

多目元忠公を語る上で外せないのが現在の川越市で起こった俗(ぞく)に日本三大奇襲戦の一つに数えられる❝河越夜戦❞です。
河越城縄張り図 
※この縄張り図は江戸期河越城の絵図を元に河越市立博物館に勤務する教育委員会の当時の学芸員サンが企画展用に地図上に起こした物です。戦国時代には新曲輪・中曲輪・追手曲輪と田曲輪は存在しなかったと推測されていますが、北条流の築城術と太田道灌流の築城術の城を見て来た小生の意見では田曲輪は部分的に外郭として存在していたと考えています。
二つ両引き足利家❝二両引き紋❞
竹に雀紋上杉家❝竹に二羽飛び雀紋❞
実は関東地方は近畿や東海地方よりも先に戦国時代に突入した地域でした。それは最後の鎌倉公方の足利持氏公と古河公方と成る足利成氏公の親子と上杉家の対立によって起きた❝上杉禅秀の乱❞、❝永享の乱❞、❝享徳の乱❞の3つの政治混乱と大軍勢同士の軍事衝突が配下の与力大名達の対立と私闘に繋がり領地の奪取戦へと混乱が拡大した事による結果でした。
この3つの大乱で鎌倉公方の配下でありながら関東の政治を乗っ取って反逆したのが犬懸(いぬかけ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家、扇谷上杉家でした。
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※KOEIさんのゲームより拝借画像
山内上杉家は長尾景虎こと後の上杉謙信が養子に成った家として有名ですが根拠地は埼玉県北部~群馬県でした。更に上杉謙信の父上で越後守護代を務めた長尾為景公は北条家と協力関係に在りましたが、その上杉謙信の実家の長尾家の根拠地の新潟県も上杉家の領地でした。
山内上杉家と扇谷上杉家のアホの上杉内部抗争に嫌気がさした山内上杉家執事の長尾景春公や越後守護代だった長尾為景は「実際仕切ってるの長尾家だし、俺達の方が平和な世の中作れるんじゃね?」と思ったかは知りませんが、実際に戦上手の名将として知られた長尾景春公は伊豆~相模東部を支配していた伊勢盛時(北条早雲)公と連合して両上杉家に対し叛旗を翻しています。
これが青木城の前身と成った神奈川駅前の権現山城の合戦を含む❝長尾景春の乱❞でした。
この長尾景春の乱については扇谷上杉家の家宰で名軍師の太田道灌公に鎮圧されています。
※長尾家については以前に祖先の居城横浜市栄区の長尾城を紹介した記事が有るので御覧下さい。
 これクリックで記事読めます⤵
 横浜市栄区と鎌倉市大船にまたがる長尾城址…上杉謙信のルーツの城跡。

そして山内上杉家の対立勢力だった扇谷上杉家は上杉定正公が本拠地を伊勢原市糟屋館や藤沢市大庭城に置き、相模国~武蔵国南部の河越まで影響下に置いていました。
太田道灌公
太田道灌公
扇谷上杉家の家宰(かさい=社長)が太田道灌公や父上道真公の太田家で、オーナーCEOが扇谷上杉定正公でした。この扇谷上杉家、実は後に小田原北条氏に駆逐されるものの扇谷上杉定正公と太田道灌公の主従が没するまで戦上手の家柄で知られた家でした。
上杉禅秀の乱の頃までは扇谷上杉家は鎌倉公方(関東を統治する将軍)の足利持氏公を助けて山内上杉家と戦った家なのですが、当時は大庭城を本拠地にしていた扇谷上杉氏定公(定正公の祖父)は山内上杉家との合戦中に重傷を追い行動不能に成り所領の藤沢で切腹、鎌倉公方の足利持氏公も佐原三浦家の裏切りで背後を突かれ本拠地鎌倉を占拠されてしまった事で降伏を余儀(よぎ)無くされ、称名寺で出家しましたが結局は山内上杉家に襲撃され亡くなりました。
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鎌倉市扇谷の海蔵寺は鎌倉公方の忠臣の扇谷上杉氏定公が造営した御寺で、現代ではとても風景の綺麗な若いカップルの鎌倉デートの散策コースとして人気に成っていたりします。
以前、海蔵寺や太田道灌公の屋敷跡の英勝寺を散歩した時の記事⤵
休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区
この上杉禅秀の乱で扇谷上杉家は山内上杉家の影響下に下るのですが、後に足利持氏公の遺児の足利成氏公が室町幕府征夷大将軍によって鎌倉公方就任を認められ父の跡を継ぐと、足利成氏公は重臣の梁田等と謀議して父の仇の山内上杉憲忠や扇谷上杉家と対立色を強めて行きます。
そして勃発したのが❝江ノ島合戦❞でした。
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※写真は江ノ島奥津宮、源頼朝公が奉納した鳥居。
この江ノ島合戦では宇都宮家・小山家・結城家・千葉家・小田家等の平安時代から存続する関東古豪が挙(こぞ)って足利成氏公に与力し間宮家が別当を務める江ノ島に籠城、上杉家を撃退して忠節を尽くし、更には当時の室町幕府管領の畠山持国公が鎌倉公方支援派だったので足利成氏公の派閥が幕府からも支援されたのですが、ここで関西を衰弱させた応仁の乱の戦犯である細川勝元に管領職に就任し大混乱に発展して行きます。
細川勝元は❝応仁の乱❞で近畿地方を荒廃させただけではなく、実はそれまでの幕府の方針を捻じ曲げ足利成氏公を冷遇し始め奸臣の山内上杉家を自分の影響下に置く事で鎌倉府の支配権までも己が手に入れようとしてしまします。これが❝応仁の乱❞だけではなく関西より少し早く戦国時代に突入した関東の混乱に拍車をかける事に成ります。
只でさえ足利成氏公と関東武士団からすれば山内上杉家は先代公方の足利持氏公を殺害した仇(かたき)な訳です。その殺したくて仕方が無い奴が権力欲の塊で室町幕府を混乱に陥れる細川勝元と結託して再び鎌倉公方を蔑(ないがし)ろにし実権を奪ってしまった訳です。
・・・そして事件が起こります。
大晦日も間近に迫った享徳三年(1454年)の12月末、足利成氏公は自邸に山内上杉憲忠を呼び出して暗殺して亡父足利持氏公の敵討ちをしてしまいます。
鎌倉市西御門周辺 久良岐のよし
現在の西御門辺りに足利成氏公の邸宅が在ったと伝わります。
この事件が発端と成り山内上杉家と鎌倉公方足利成氏公の合戦は長期化し戦乱は享徳の乱と呼ばれる様に成りました。足利成氏公は非常に合で強かったので、この時は上杉連合軍を完膚なきまでに叩きのめしていますが、細川勝元の介入のせいで戦乱が長期化してしまった訳です。
さて、この享徳の乱では山内上杉家の味方に付いていた当時の扇谷上杉家の当主だった扇谷上杉顕房が敗死して、実弟の上杉定正公が跡を継ぎます。この扇谷上杉定正公は兄や父とは思考が異なり祖父で鎌倉公方家の忠臣だった扇谷上杉氏定公の思考に近い人物だった様で扇谷上杉家は方針転換し山内上杉家と再度対立する事に成って行きました。
この頃に扇谷上杉家が本拠地にしていたのが大庭城や糟屋館でした。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
糟屋舘を紹介した時の記事⤵
【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
扇谷上杉定正公には名軍師の太田道灌公がいましたが、この太田道灌公は上杉定正公とは違う外交方針の人物で定正公の兄上の先代当主顕房公の路線を踏襲して勝手に山内上杉家と扇谷上杉家を和睦を勧めてしましました。そして主君の定正公に居城の糟屋舘に呼び出され暗殺されてしまいます。
関東の戦国時代を通じて多目元忠公を上回る❝最高最強の無敗の軍師が太田道灌公❞で、その太田道灌公と御父上の太田道真公が改修したのが沼に浮かぶ堅城❝河越城❞でした。この河越城が起点として現在の川越市の発展の礎(いしずえ)に成っているのですが、付近は豊かな穀倉地帯と水運と陸運の拠点だった事から扇谷(おおぎがやつ)上杉家と山内(やまのうち)上杉家の対立の場が武蔵現在の立川市周辺だったり河越辺りだった訳です。
その頃、鎌倉公方の足利成氏公は結果的に幕府の後押しを受けた山内上杉家に鎌倉を占拠され、現在の古河市に移住して古河城を拠点に古河公方と成り、更に古河公方家は成氏公の孫同士が争い小弓公方足利義明派と北条家や今川家の支援する古河公方足利高基公派に分断し関東の混乱は治まる事は有りませんでした。
この混乱の中で古河公方足利高基公を支援し扇谷上杉家や山内上杉家の所領を浸食していったのが北条早雲こと伊勢盛時入道宗瑞公と北条氏綱公の親子、日本初の下克上戦国大名伊勢氏でした。
伊勢(北条)家は小田城を大森家から奪取すると続いて扇谷上杉家と佐原三浦家の糟屋舘や七沢城や岡崎城を陥落させます。この伊勢原市の岡崎城は扇谷上杉家から佐原三浦家に養子入りしていた三浦道寸公の居城で北条早雲公親子をもってしても攻略に10年を要した沼に囲まれた堅固な平山城でした。しかし岡崎城が陥落すると三浦家も扇谷上杉家の両家とも北条家によって瞬く間に相模国域から駆逐され大庭城、住吉城が失陥、新井城で日本最長の4年間に渡る籠城戦の末に佐原三浦家は滅亡。
扇谷上杉家も家臣の太田家かから奪っていた江戸城に本拠地を移すも、そこも北条家二代当主の北条氏綱公によって陥落させられ、更に河越城へ移るも北条家によって奪い取られ、山内上杉家を頼って武蔵国北部に逃げて行きました。
そして勃発したのが・・・
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
扇谷上杉家と和解した古河公方家と山内上杉家の大連合軍vs北条家の❝河越合戦❞でした。
1545年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。
その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
三つ鱗紋
【北条家兵力】
・籠城部隊・・・3000  
 河越城主:大道寺盛昌公  
 白備隊大将:北条幻庵公  
 黄備隊大将:北条綱成公
・本隊援軍・・・8,000
    04月17日小田原出陣
    04月19日川越着陣、20日参戦
 本隊総大将:北条氏康公
    御馬廻り衆:福島勝広公等
    黒備隊大将:多目元忠公

二つ両引き竹に雀紋州浜紋
【鎌倉公方・上杉家連合兵力】
・関東諸大名・・・80,000超
 古河公方:足利晴氏公(北条氏綱公の娘婿)
 関東管領:山内上杉憲政
 松山城主:扇谷上杉朝定公
 小田城主:小田政治公・・・他
・参戦武将:梁田晴助公・長野業正公・倉賀野行定公・太田資正公・難波田憲重公・菅谷貞次公等
・・・河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。 敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
この戦、兵力差だけでなく実は上杉陣営も足利晴氏公の家臣も可也(かなり)の名将揃いでして、参戦武将に列挙した武将達はどれもが武略と統率に優れていました。中でも群馬県の箕輪城主だった長野業正(なりまさ)公は単独で武田信玄の大軍を何回も撃退している軍事に秀でた武将でしたし、太田道灌公の子孫に当たる太田資正(すけまさ)公も謀略で城を奪い取ったり合戦にも高い能力を持つ武将でした。ですから、彼等が能力を発揮出来ない様にするには足利晴氏公、上杉憲政や上杉朝定公等を油断させ敵軍の統制と連携を断つ必要が有った訳です。
北条方の河越城守将は城主の大道寺盛昌公と小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。
この北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。
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小机城址では毎年10月に竹林と成っている城址の竹を伐採して数千本の竹キャンドルで城を幻想的に照らし出す❝竹灯籠まつり❞が行われます。
以前竹灯籠まるりを紹介した記事⤵
2015年10月24日は小机城址 竹灯籠まつり 今年も開催されます!
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北条氏康公は小田原城から出陣した当日、最初の宿泊を現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊に逗留し、その際に戦勝祈願をしています。
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既に解説済みですが、この岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。小田原所領役帳に登場する鵠沼領主の❝岩本❞と言う武将は、この佐々木間宮一族の岩本間宮家でしょう。岩本坊は現代、上の写真の鳥居参道に在る老舗旅館の岩本楼として存続しています。
岩本楼サンのホームページ→http://www.iwamotoro.co.jp/
氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、河越城内の籠城兵と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。
そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけたと伝わります。この作戦立案者がもしかしたら多目元忠公だったかも知れませんね。
実際には戦闘は上杉憲政の軍勢が単独で北条氏康公の本隊に先に仕掛けて開始されている事が解っています。ですから、この氏康公の手勢の突出は恐らく上杉家本隊を突き崩す為の陽動作戦だったのでしょう。山内上杉憲政の軍勢の配置は南側ですが、当時は河越城の外郭が八幡曲輪までだっただろうと川越市教育委員会の某先生への取材でもおっしゃっていたので、その八幡曲輪の城門の前に陣取っていたのが上杉憲政治の部隊だった事が解ります。この山内上杉軍を城門前から北条氏康公が囮(おとり)と成り引きはがし・・・
それと同時に河越城から北条綱成公と副将の間宮康俊公の黄備え隊が出撃し、山内上杉家の手勢を背後から大混乱に陥れたのでしょう。そして氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。
この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公だった訳です。
敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、他の大名や与力武将との連携もままならず北条氏康公、綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅したと伝わります。この作戦を可能にしたのは北条氏康公と北条綱成公の高い武勇と統率だけなく、挟撃作戦を成功させる為には城内籠城部隊と本隊の連絡を保持する必要が有ります。これは北条幻庵公の管理下にいた風魔小太郎等の風魔忍者達が民間人や修験者に扮したり敵軍をかいくぐって城内に潜入を出来たからかも知れませんね。
そして北条幻庵公と多目元忠公の謀略と軍略も有ったから成功を見たのだと思います。
この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で・・・
・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。
・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。
・・・いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 北条氏康公は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていましたが、初期に氏康公の直面した難局を打開する軍事作戦を立案し合戦の指揮を代行していたのが多目元忠公と現代に伝承する訳です。 菩提寺は横浜市神奈川区三ツ沢公園近くの豊顕寺(ぶげんじ)です。多目家は地元では多米家と異なった漢字で苗字が伝わりますが、多米姓は三河国出身で遠江の大名遠州今川家との関わりが推測出来る一族です。
この続きは多目元忠公の御子孫らしき人物達の所領が低く抑えられている謎と一緒に紹介したいと思います。それまでに三ッ沢の豊顕寺サンも訪問して写真を撮影し、合わせて紹介出来たら良いなと考えています。

だから中1週間程ブログ更新の間隔が空く可能性も有りますが、御了承下さいね!
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※昨年の写真、東京都羽村市根搦前水田のチューリップ祭り。
明日、東京都羽村市のチューリップ祭りを見に行くのでもしかしたら今年もその様子を報告する休日雑記を間に書くかも知れません。
・・・では!また皆さん、次の記事で御会いしましょう。

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