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タグ:伊勢氏北条家

小田原北条五代祭り 公式様より拝借 久良岐のよし

神奈川県で日本最大級の武者行列の御祭が毎年行われているのを御存知でしょうか?
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戦国時代の関東の覇者、小田原城主北条家を顕彰する御祭りが毎年05月03日に開催されています。
この御祭の凄い所は、武者行列の数がとにかく多い事、そして実際の城跡で行われる事、極めつけは戦国時代当時の軍団編成と同じく各地方から各軍団の顕彰会が文字通り“手勢” を率いて行われる所だんです。
つまり小田原市単独では無く、鉢形衆、八王子衆、玉縄衆、津久井衆等の北条家の主戦力部隊が勢ぞろいする御祭りなんです。
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良く判らん普通のオッサンも歩いていたりします(笑)。

昨年までは席が無かったのですが、今年からは当日席のみで500円で大迫力の武者隊の出陣式を見学する為に観覧席が設けられているそうです!
ですから、今回掲載している小生の写真よりも、更に北条家の大軍勢をいっぺんに見渡せるそうです。

この小田原城址は明治期に徹底的に破壊され、昭和にも歴史知識の無かった政治家主導の観光用のハチャメチャな公園化が行われましたが、平成になり立派な城が復興されています。
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 写真の様に平成に入ってから発掘調査に基づいた江戸時代の建築復興が現在進行形で行われています。
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天守閣は鉄筋コンクリートですが、その背後の山には戦国時代の本丸や八幡曲輪の遺跡も発掘展示されていたりします。
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その辺りは以前書いた小田原城址の解説記事を御覧下さい。 
 2年前の記事→
ゴールデンウィーク、せっかくなので小田原に城に行ってみては如何でしょうか?
それともう一つ!
外郎(ういろう)は名古屋の名物と思っている人、多くないですか?
違います!
京都発祥、そして小田原の外郎(ういろう)家が本家で、元々天皇や朝廷貴族と室町幕府三代将軍足利義満公に薬師として仕えた外郎サンが、殿様達を接待する際に提供した御菓子が外郎なんですよ!
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ですから、本家本元の小田原の外郎サンは、北条早雲公に招聘されて戦国時代に京都から小田原に移住して以来ずっと今でも薬と御菓子の外郎を製造販売しています。
そして写真の建物は安土桃山時代に士分を捨てて薬一本を家業にした際に、天皇家から餞別として普通では庶民が許されない格の高い家柄しか作れない唐破風を多用した建築許可を頂いて以来、今でも伝統として天皇家の御好意を受け継いで唐破風を多用した建物を再建し続け店舗にしています。
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 包装用紙の五七桐紋も天皇家から下賜された物です。
解説記事→
あと、名物の曽我梅干しと蒲鉾、曽我梅林の梅酒も御勧めです!
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そして梅の季節には曽我梅林の梅が大変綺麗な街でもあります。
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皆さん、小田原は戦国武将の史跡と美味しい和菓子と魚と梅の有る素敵な街です。
箱根温泉も直ぐ近く!
5月3日、小田原北条五代祭り、是非!見学されては如何でしょうか?

【北条五代祭り】
開催地:小田原城とその周辺の城下町を武者行列パレード
日時 :2017年05月03日12:30~
住所 :〒250-0014 神奈川県小田原市城内地内城内5−3−22 
アクセス
小田原駅から徒歩10分
周辺に臨時駐車場多数。一般の有料駐車場の方が比較的空いていますのでナビを活用してみて下さい。
ホームページ
http://www.odawara-kankou.com/houjyou/ 

2017年04月19日(水)、前日深夜まで仕事をして午前3時に徹夜で寝ずに青梅市へ移動した。
寝ずに移動した理由は2つ。
1、もし寝たら起きれなくなり、行動予定を熟(こな)す事が出来なくなるから。
2、東名高速や圏央道等の高速道路は午前4時まで深夜割引で半額に成るから。
そんな訳で寝ずに移動した。後はついてから8時位の予定開始まで1時間~2時間寝れば良いやと思っていたので睡眠時間は気にしなかった。
どうせ仕事に行くわけじゃないので寝不足でも関係ない。仕事ならば睡眠不足はミスの元、プライベートは事故ろうがなんだろうが自己責任なので、眠たくなり危険だと思えばコンビニか高速のPAで車中寝れば良いだけ。
んな訳で青梅市の二俣尾駅近くのセブンイレブンに着いた。
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写真は撮り忘れたが二俣尾のセブンイレブンは軒先に薪(まき)が売っていて大変吃驚(びっくり)した。
横浜から来たのだが横浜ではコンビニに薪は売っていない事を伝えた上で…
「何で薪を売ってるんですか?」
…と店員の方に尋ねたら、こんな答えが返って来た。
「え?横浜じゃ売ってないんですか?」
小生…
「う~ん、売ってないです。」
…と答えると、店員さんが売ってる理由を教えて下さった。
どうも青梅市界隈は多摩川の上流で水も綺麗なので水遊びや釣りに来る観光客が多いそうで、キャンプやBBQの需要が非常に有るそうだ。しかしながら、横浜で売ってないんですか?と聞かれるとは思わなかったので正直少し驚いた。

この日の目的は大きく3つ有った。
1、海禅寺さんへの参詣、そして御住職様への取材。
2、羽村市の阿蘇神社へ熊本の御酒「通潤」を奉納し、熊本復興と熊本県民生活再建の祈願を祈祷して貰う事。
3、チューリップ祭の見学。
なので高速料金の安い深夜移動で横浜から青梅市まで向かった所、道路も予想以上に空いていて、ものの1時間半もかからずに到着してしまった。
当然、小生の到着時点で未だ時間は5時前、御寺を訪問出来るのは常識的に9時から。
そこでコンビニで朝食を買い車中で少し休憩して、その後は海禅寺から直ぐ近くの辛垣城(からかいじょう)の城山を登り、9時~10時位に御寺を訪問する事にした。

実は青梅市へ訪問前に地図を見て海禅寺の近所に“コーポ西乃城”と言うアパートが有る事に気が付いた。
西乃城と言うのは恐らく昔の小名で、城が在ったのだろうと推測した。
そしてGoogle mapで「城」と入力して検索した所…
「辛垣城(からかいじょう)」
…と言う城が検索結果に出て来て海禅寺から徒歩直ぐの裏山一帯が城山で有る事が解っていた。
手元に日本城郭大系の神奈川県の部分は持っているのだが、東京の部分は持っていないので調べる事が出来ず、ネットで検索したら城址一帯ハイキングコースに成っていると紹介されていた。
そして去年訪問した同じ青梅市の勝沼城を本拠地にしていた戦国武将、三田家の終焉の舞台だと言う事も紹介されていた。
この三田家は祖先が平将門(たいらのまさかど)公と伝わる。
この青梅の隣接市、羽村市の武蔵阿蘇神社は平将門公が開基の延喜式内社なので、三田家の出自は恐らく本当だろう。ただ、千葉家分流と言っているので、それは誤りだと思う。
千葉家の分流には相馬家がいる。それとは別に平将門公の直系の御子孫にも相馬家がいる。
両方共同じ家紋の九陽紋だ。
九曜紋
千葉氏の祖先は平良文(よしふみ)公だ。平将門公の叔父であり協力者であり菅原道真公と共に3名は宇多天皇と醍醐天皇の御親政奪還に与力された天皇家の忠臣だ。しかし藤原家の讒訴により謀反人扱いされ平将門公は討伐された。
菅原道真公と平将門公と言う宇多天皇と醍醐天皇を支えた智と武の忠臣の排除に藤原氏は成功したものの、全てが藤原氏の思惑通りにはいかず、醍醐天皇の気転で平良文公は鎮守府将軍に抜擢され関東を治める権限を持ち、平将門公の遺領を掌握した。つまり、藤原氏に天皇家一族の支配地を横領される事は防げた訳だ。
この平良文公の本拠地は今の神奈川県藤沢市村岡城址だった。その子孫には、鎌倉武士として有名な神奈川の三浦家や戦国時代の大名、上杉謙信や蘆名盛氏公、正木時茂公等の名将が多くいる。
まぁ、三田家の祖先が平良文公でも平将門公でも、どちらだったとしても桓武天皇の末裔で宇多天皇と醍醐天皇を支えた忠臣には変わりない。

なので、この城を御寺に行く前に登って見る事にした。これが意外に険阻な山城だった…
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…しかし、城に行くまでの家々は、どこの家も綺麗な花が溢れており青梅市の方々の心の豊かさを垣間見る様な住宅街の様子だった。
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城山のハイキングコース入口にはちゃんと看板が有った。
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実は海禅寺の後方の山の地形もGoogle earthで見ていて人工的な凸凹地形が見て取れたのだが、この看板を見て自分の推測が当たっていた事が解った。海禅寺の裏手には枡形山と呼ばれる曲輪群が有った様だ。しかし、今回は御寺に行くまでの暇潰し程度に考えていて余り詳しく散策する心算(つもり)は無く、そちらへは訪問せずに真っすぐ頂上を目指す事にした。
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途中、枡形山の方を見ると自然では無い竪堀(たてぼり)地形が見て取れた。
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この橋の下の沢は道路を断ち切る様に流れているので、水掘りとして拡張された沢だったんだろう。
そして往時はここに引橋(ひきはし=戦時に引っ込めて撤去出来る橋)が掛かっていたのだろうと推測した。
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この辺りはまだ傾斜も緩やか、そして木陰で涼しく清々しい空気を満喫出来た。
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途中で小生が写真を撮りながらユックリ歩いていると、1人、登山客に先を越された。
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二つ目の橋。ここも当時の空堀の底の沢の流路を人工的に道を断ち切る様に変えている様だ。
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下を見ると「にしじょうにのはし=西城二之橋」と書いて有った。
どうやら辛垣状は東側の枡形山の曲輪群と西側の本丸と尾根の堀切等を分けて2城1体の構造で考えられていた城の様だ。確かに相模原市の津久井城に近い広大な城域を誇る山城なので、昔の人は西の城、東の城と分けていたんだろう。
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この城は現地に到着してから色々と地元の人に聞いて回ったが「何もないよ~」と言われていたので期待はしなかったが、上の写真の様に薬研堀形状の竪堀が山麓に沢山残っている。
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約9年前に森林再生事業も始まった様だ。
まぁ、そんなこんなで良い森林の中を気持ちよく散歩出来たのはこの辺りまで…
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少しづつ険しくなり
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途中、曲輪跡と思しき切岸も見ながら
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山の林道は段々と角度を益し
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尾根に出て「あ~ここからは楽だ」と思ったら荒れ道の始まりだった(笑)。
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この写真の部分はV字に尾根が掘り切られており、尾根を断ち切る空堀と引橋が有った様だ。
裾切(すそきり=尾根の両脇の傾斜を人工的に掘削し急にする事)された尾根道は階段などは未整備で滑ったら少し滑落して骨折とかするかも(笑)。
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登リ口(急坂)と書いて有る。
小生には崖にしか見えなかった(笑)。
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もう、戦国時代と違って杉の木が茂ってるし足場は枯れ枝で歩き難いし
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そして、この崖が恐らく、本丸入り口の木戸の城門が有ったで有ろう切通(きりとお)し状の林道。
ここは城の防衛の最終関門だった筈(はず)だ。
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頂上の本丸は江戸時代に石切り場に成っていたのか、看板が有って原型を留めていないと書いて有る。
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まぁ、登って見た感想も看板に書いて有る通り、削平された郭の遺構は少ないが、竪堀と堀切と裾切りした尾根は良く残っている山城の城址だった。
帰りも竪堀にかかる林道の橋を通過した。
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恐らく、この橋も戦国時代は引橋として似た様な簡素な橋梁が有ったはずだ。
この様な竪堀は山の斜面を敵が移動するのを防ぎ、橋を架ける事で進入路を限定し、戦時は橋を取り払い敵を足止めする訳だ。
この様な構造は奥多摩地方の北条家の城には良く見られる構造だ。特に北条氏照公が築城した八王子城に似た構造が多用されている。
下の写真が八王子城の竪堀と引橋。
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まぁ、八王子城の山城部分については構造は辛垣城と似た様な感じなのだが間宮綱信(つなのぶ)公が縄張りしたと伝わる御主殿等の居住空間は安土城を見て来た間宮綱信公らしく、総石垣で壮大な造りに成っている。
下の写真が八王子城の御主殿と引橋。
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もし完成していたら立派な城に成っただろうが、小生的には北条氏照公が滝山城を放棄し八王子城を築城した事に疑問を感じる。滝山城の防御構造と飲水の確保の方がよっぽど完璧だからだ。
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滝山城は侵入者を殺害する為の土の城だが、土の滝山城の方がよっぽど北条流の当時の先進技術が多用されており、堅固な造りに成っているので、仮想敵が織田に成り甲斐国からの敵進入を想定したとは言えあんな防衛施設の建設が限定される山城に拠点を遷(うつ)した事が小生は理解出来ない。
まぁ、山城ってのは高低差が有って敵も登山で疲れるし一見すると堅固に見えるけれど、実際は構築可能な防御構造と設置場所が限定されて余り城として強いとは言えないんだな。

話を辛垣城に戻す。
まぁ~辛垣城の構造は八王子城や津久井城に似ている。どうも三田家の最後の居城とは言われるが北条流築城術の改修が入っている様だ。竪堀を多用した構造もだが、この規模の城を地方豪族の三田家単独で築城出来る訳が無い。或いは北条家以前の扇谷上杉家時代に既に城は存在し、扇谷上杉家が滅亡後に北条家に三田家が臣従した後、北条家が甲斐国境を守る城として改修したのかも知れない。
三田家は上杉謙信が関東に攻め上って来る以前は北条家臣だったので、その時代の話だろう。
そして滅亡したのは長尾景虎(後の上杉謙信)10万の大軍が、3万の北条家に圧勝すると思ったので最後の三田家当主の三田綱秀公は長尾景虎に味方し北条家を裏切った所、小田原城は落城せず北条勢の逆襲が始まり、やがて滝山城主北条氏照公に攻められ勝沼城を放棄し更に辛垣城に籠り、最後は家臣と徴用した農民兵士達の生命の保証と引き換えに自ら城を退去して自害し、当主としての責任を全(まっと)うされたのだと思った。
寺に行く為に山を下りる際に珍しい事が有った。
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ニホンカモシカと睨み合いに成った(笑)。
鹿とは言っても牛の仲間なのでカモシカの体躯(たいく)は結構デカイ。
こんなんに突進されたら谷に落とされて終わるだろうな(笑)。
でも小生は睨み合いに勝った気がしたのでデジカメ取り出して「パシャっ!」と撮影した瞬間に音でカモシカは逃げて行きました。
う~ん、図体デカいけど臆病な生き物なんだね。
しかし、出会ったのが“月の輪熊”じゃなくて良かった。
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寺へ行くまでの林道の草花も綺麗でした。
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 う~ん!三田綱秀公の御蔭で新鮮で清々しい空気を満喫できたし、鹿にも会えた!
綱秀公、ありがとうございました!
綱秀公、現代の会社経営者、市の執政官や、県や都の知事には、貴殿の様に己の失政の責任を取り部下を守る為に腹を切る様な政治家も経営者もいません。
皆、自分の事、不正で私服を肥やしたり名誉欲に駆られた輩しかいません。
ですから、己が上杉に寝返った責任を取って部下達の命を守る為に切腹された貴方は本当に立派な殿様だったと思います。
そして、恐らく開城勧告をしに行った海禅寺(当時の寺名は福禅寺)の御住職様も、地域の農民と低級管理職の命を守る為に殿様に生命を奪う勧告を行われ菩提を弔った事は、現在の青梅市に生きる旧三田家家臣団の子孫達に生命を繋いだ立派な行いだったと思います。
御住職様、三田綱秀公。貴方なりの正義を約400年の時を超えて見せて下さりありがとうございました。

さて!
次回は、この続き、海禅寺訪問~へそまんじゅう総本舗~阿蘇神社~チューリップ祭りを書きたいと思います。 
では、又、この日の休日雑記の続きで 御会いしましょう~♪

横浜市都筑区には茅ヶ崎城と言う、市内で三本指に入る保存状態の良い城址が在ります。
茅ヶ崎城を紹介した以前の記事→

その目の前には名前を現代の漢字を用いると正覚寺と書く、とても雰囲気の良い御寺サンが在る事を横浜市民にも、この地域住人以外には余り知られていません。
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この御寺は市内では珍しい天台宗寺院で、正式な名前を長窪山 總泰院 正覺寺と言います。
新編武蔵風土記稿には、江戸時代当時の境内地の“敷地面積5万7千6百坪”と記録が有り、途轍(とてつ)も無く広大な敷地に建物が建つ寺院だった事が解ります。
茅ヶ崎城から近く、茅ヶ崎城に来る度に門構えの立派さに感心させられる御寺だったのですが、面白い事に御寺を開いた人物が「岸清左衛門さんの御先祖様と」言う事しか解っていません。
なので小生は、てっきり茅ヶ崎城址からは煤けた米等が確か出土していたので、“戦火に巻き込まれて江戸時代の中興開基以前の事は解らないのだろう”と推測していましたが、改めて新編武蔵風土記稿を読むと以下の様な記載が有りました。
正覚寺文書 秀吉禁制
これ見ると解りますが、江戸時代の学者で新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信さんの注釈で“秀吉の小田原攻めの時”に出した味方豊臣勢と敵軍の北条勢の両方に対して出した命令です。
内容は簡単にこんな感じです・・・
「小机(領)の中の茅ヶ崎の中の總泰院(正覚寺)と、その観音堂で乱暴狼藉(略奪)とか放火とか禁止するし、仮に命令違反したらソッコーぶっ殺すから」
・・・まぁ、そんな内容で秀吉が正覚寺を保護しているので、茅ヶ崎城は戦火に遭っても正覚寺は、戦国時代には燃えてなかったみたいですね。
つまり、間宮士信さんは安永6年(1777年)生まれの人なので、正覚寺は恐らく安土桃山時代~1777年の間に火災が発生して重要な文書なんかがあらかた無くなってしまったんでしょうね。
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とは言え、この御寺は素晴らしく雰囲気が良く、鎌倉の浄妙寺や報国寺、英勝寺に似た雰囲気を持っています。
と、言うのもこの御寺、山門をくぐって直ぐに竹林が参拝者を出迎えてくれるのと、鎌倉時代の寺院特有の谷戸構え(やとがまえ=山の尾根の谷間に建築物を構える)の御寺なんです。
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ですから、周りの住宅街の喧騒が響き伝わらず静寂で清々しい雰囲気がするからです。
正覚寺と茅ヶ崎城の位置関係 久良岐のよし
この様な谷戸の地形に御寺を建てるのは鎌倉時代に多く見られる特徴でもあります。
詳しい事は伝わっていないのですが、御寺の立地から推察して鎌倉時代の開基の寺院だと小生は思います。
恐らく、昔は茅ヶ崎城の武将と何か関係が有ったのでしょう。
所で、御寺を開いた岸清左衛門サンの御先祖様は座間家の可能性が間宮士信さんによって指摘されています。
座間家は今の座間市発祥の坂東武者で鎌倉武士ですが、この土地に移って来たのは戦国時代に北条家臣に成った頃か、鎌倉時代の話かは小生は把握していません。
鎌倉時代初期には直ぐ横の茅ヶ崎城は摂津源氏の惣領、多田行綱(ただゆきつな)公の居城だった事から、もしかしたら多田行綱公が正覚寺の前身寺院を開いていたのかも知れませんね。
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お寺に入ると直ぐ左右に御地蔵様と庚申塔の石仏が控えてらっしゃいます。
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御地蔵さんって、「可愛い」って言うと失礼かも知れませんが、赤い頭巾がが可愛らしいですよね~。
実は、この様に御地蔵様や多くの石仏群を参道に祀る習慣が有る宗派は天台宗や真言宗等の古仏教に多く見られる事なんです。
そして明治時代に神仏分離令が施行されても、真言宗と天台宗は歴代天皇家と関りが深かった事から歴代天皇の価値観を守る為に、神様を御寺から排除しなかった場所が多いので、やはり、この御寺も境内に神社が在ったりします。
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神社と御堂の分岐点までは雰囲気の良い石畳。
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右手に池と蓮、そして本堂と庫裡と鐘楼。
左手奥に神社が在ります。
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山王山大鷲神社(おおとりじんじゃ)。
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大鷲(おおとり)は鷲(わし)と書いて鷲(とり)と読ませます。
実は関東で最古の大社格の神社は埼玉県久喜市鷲宮の鷲宮神社(わしみやじんじゃ)でして、縄文時代~の遺跡を内包する聖地なのですが、この鷲(わし)は和邇(わじ/わに)=丸子(まるこ=わじ/わに)に繋がります。
この一族は出雲神族で、その御神孫が関東を開拓した歴史を鷲宮神社を含め関東の延喜式内社の中でも縄文時代の遺跡を抱える大山阿夫利神社や比々多神社等でも伝えています。
そして、この正覚寺の直ぐ近くには大塚歳勝土遺跡という場所が在って、そこからは多くの方形周溝墓が出土しています。
方形の古墳は朝鮮半島の影響を受ける以前、直接中国大陸の漢帝国と交易をしていた時代の文化です。
つまり藤原氏が朝廷を仕切りだす前後数百年の円墳より古い漢帝国と直接交易をしていた時代の文化が正覚寺近くに在ったのですが、この都筑区茅ヶ崎の正覚寺に大鷲神社が在るのも大塚歳勝土遺跡と無関係では無いかも知れませんね。
合祀され神社の名前に成っている山王権現は天台宗の守り神、比叡山の日枝神社の神様の山王権現こと猿田彦命ですね。
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この他にも現在は御堂こそ失われている様ですが馬頭観音様も石仏として祀られていました。
この土地を治めた鎌倉武士の騎馬供養でしょうかね~?
庶民には道中の守り神として人気の神様でした。
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この御寺は梅雨の頃には昔から紫陽花(あじさい)の御寺として地元民に親しまれて来たそうで、小生と同じく写真撮影をしていた初老の紳士がおっしゃるには「昔はもっともっと紫陽花が沢山あったんだ」そうです。
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池の前を通り本堂へ・・・
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う~ん住宅街に似つかわしくない立派な御寺なんです、本当に。
だからやっぱり戦国時代には座間家の菩提寺だったのかも知れませんね。
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扁額に揮毫したのは金子保さん、もしかしたら武蔵七党の坂東平氏の分家一族、金子家の御子孫かも知れませんね。
金子家は今の埼玉県、昔の武蔵国入間郡金子から発生した姓の武士です。
座間家と同じ程に由緒正しく、戦国時代には新編武蔵風土記稿を書いた間宮士信さんの御先祖様の間宮綱信公やその実兄の間宮康俊公等の間宮等と同様に、北条一門の方面軍を束ねる殿様の付家老として活躍した北条重臣の一族です。
戦国時代には金子家が新横浜駅直ぐ裏の篠原城の城代を務めていたりしました。
以前書いた記事→
因みに新幹線新横浜駅篠原口の名前の由来でもあったりします。
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池の前には阿弥陀堂が在りますが、近年の建築です。
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鐘楼はとても古寺の雰囲気を醸し出し、周囲を取り囲む谷戸の山林にマッチしています。

さて、今回はアジサイの写真をまだ撮影していないので掲載出来ませんが、素敵な御寺なのはなんとなく伝わったでしょうか?
皆さん、もしセンター南駅に来る機会が有ったら、駅から徒歩10分と近いので正覚寺や茅ヶ崎城址を散歩して、歴史に触れてみては如何でしょうか?
そして自分の地元の御寺サンや神社や御城の跡の山や公園を散歩してみませんか?
きっと、正覚寺に豊臣秀吉の禁制古文書が伝わっていた様に、思わぬ歴史偉人と繋がりが有ったりするかも知れませんよ?
そして、説明看板を読んで、そんな発見が有ると更に地元にも愛着が湧き、誇りも感じる様に成るかも知れません。

さて、今日の解説はここまで。
では又、次の解説記事で御会いしましょう~♪


法光山善慶寺
【開基】1291(正応4)年増田三郎右衛門が開基。
【本尊】三宝祖師(日蓮上人)
【場所】大田区山王3-22-16
【アクセス】JR大森駅から徒歩10分

2016年10月26日、午前11時に大田区山王の善慶寺で檀家総代の間宮さんと面会予定が有り、大田区に行って来た。
江戸時代の1675年代に起きた事件の取材の為だ。
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・・・と、その前に少し主題から外れようと思う。
この地域と間宮家の繋がりを先に紐解こう。
実は大田区は江戸時代初期に徳川家康公の御鷹場だったのを知る人は今では少ないと思う。
横浜市磯子区の戦国武将で関ケ原合戦での徳川勢勝利に大貢献した間宮信繁(のぶしげ)公は実は徳川家康公の鷹匠頭だったのだ。鷹匠は戦国時代は山野の行動に特に精通した❝武士❞達だった。
信繁公は鷹匠頭として鷹匠衆を率いていた訳だが、この武士団を運用して関ケ原合戦では南宮山の毛利勢が内応した吉川勢に抑えられて前進しない事を確かめて徳川本体3万の前進行軍が可能な事を報告した。
関ヶ原合戦図
それによって間宮家分家の杉田間宮信繁公は更に家康公の信頼を得て、江戸入府後の家康公が鷹狩をする度に同行し、度々鷹匠衆が加増された。
善慶寺の檀家には多くの間宮家がいる。
善慶寺の在る山王や大森海岸辺りの大田区域に間宮姓が多いのは、おそらく、この事は大田区の土地が家康公の御鷹場だった事とは無関係では無いだろう。
系譜上では御本人達は現代では知る人はいないが、豊前守 間宮康俊(やすとし)公の子孫が善慶寺の間宮一族として笹下の間宮家御子孫の系図に記されている。
※大森の間宮家祖先は諸説有り、御子孫と伝わる家に混乱を与えるので以下康俊公の子孫とだけ記し、鷹匠を特技とした家系の紹介をします。問合せのメールを頂いた御子孫の方に感謝!※
間宮で杉田間宮以外に鷹匠に成った一族には康俊公の姫、間宮於継(おつぎ)様が古河公方重臣の豊前氏盛(ぶぜんうじもり)公と御結婚され生まれた間宮元盛公の御子孫や、康俊公の御子息の間宮元重公の系統の御子孫等が鷹匠を生業とした家系が有る。恐らく間宮康次公や間宮善十郎公にも系図には残らない子孫が居て、鷹匠に成った人物もいた事だろう。鷹匠は江戸時代は武士の職業だった事を知る人も現代では少ない。
豊前氏盛公は、古河公方家の外交官として北条家の応対に記録が見えたりする。変わった武将で、医者としての側面が有るのだが、本業が医者と寝言と言う文字バカ学者もいる。

今回の訪問の目的からはズレるが、杉田間宮家と杉田玄白は何某(なにがし)かの御縁が有るのは間違いないと思っている。
杉田玄白の祖先は有る時期は真野姓を名乗り、ある時期から❝間宮❞姓を名乗り、ある時期から杉田姓を名乗った。この経緯は彼らの出自が間宮本家と同じでは無くても親類である事を物語っている。
間宮家の祖先は真野家の一族から分家し、更に分家を繰り返し、舟木姓の時代に足利尊氏公の二男の足利基氏公が鎌倉公方として鎌倉府に赴任する際に同行し伊豆国田方郡間宮に所領を得た事で、間宮と名乗る様に成った。
真野家の杉田玄白の祖先は、この真野一族出世頭の間宮家を頼って家臣化していたと推測している。

豊前氏盛公の一族の話に戻る。
古河公方家の喜連川転居に同行者として名前が登場しないので、古河公方家縮小の時代に当たる間宮元盛公の代に、母方の親類の縁で間宮家を頼って来たのではないかと思っている。そして、豊前家流の間宮さん、元重公の子孫の間宮さん、三浦郡不入斗を領していた間宮さんの何(いず)れかが、杉田間宮信繁公に大森の御鷹場の代官職の様な役割を貰って土着したのではないかと思う。その頃、江戸時代初期に、杉田玄白の祖先は真野信安の頃に豊前家流間宮家から医術を学んだ後、福井に転居し小浜藩酒井家の医師に成ったんだと推測している。

さて、善慶寺と全く関係ない話をしてしまったので本題に戻ろう。
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上の写真の道は真っすぐに善慶寺の山門に続き、この辺りの地名は小名で大門だった。
小生は電信柱を見て電信柱の名前から気が付いたが、後で間宮さんに地名を聞いて間違いないと確認している。
つまり、この善慶寺の石柱が有る場所が外門だった訳だ。
善慶寺の現在の境内と門は、本堂と庫裏(くり=厨=居住区)の周辺のみだが、昔は相当な大寺院だった事が現代でも解る。
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善慶寺には義人六人衆の御廟所が有る。江戸時代の領主、木原家が酷い領主で、年貢の検地(課税額確定調査)をする際に、田畑のみだけでなく農道までも耕作地として幕府に虚偽申告する事で農民達から不当な税率で年貢(ねんぐ)を徴収する不正を行ったのだが、これを、この地で帰農していた旧北条家臣団の間宮一族や酒井一族が将軍家綱公に直訴しようとした所を村の内通者に通報され木原家に惨殺された。
これを江戸時代表だって大森の人々は口に出来なかったのだが、何と、この時の直訴状が時代を超えて間宮新太郎さんの家に伝わっていた秘密の葛籠(つづら)の中から発見されたのだ!
そして江戸時代の領主の悪事が400年越しに暴(あば)かれる時が来る・・・
昭和の道路拡張で先程の石柱の裏にあった伝承の墓地を移転の為に発掘調査した所、伝承通り大きな甕に6人分の遺骨が入っていたそうだ。
これは御寺が勝手に言ってるのではなく、学芸員が一緒に発掘し、大田区の教育委員会も公認の事実なのだ。
つまり、約400年越しに木原の悪政と、間宮一族と酒井一族等、元北条家臣団の正義が証明された訳だ。
もっとも、現在の間宮さん達は、別に木原一族を当然責める意思はない様だ(当たり前)。
逆に、こう言う事を気にするのは悪人扱いされるのが気に障る加害者側の方だろうな。
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こいう言った怨讐で手本にして貰いたい話を一つしておく。
面白い事に、織田家の関連史跡の保護活動をしている織田木瓜紋会と言う組織が有る。
そこは織田家の子孫も絡んでいるのだが、その運営を手伝っている人物は❝明智さん❞なのだ。
あの仙台に生き延びていた明智光秀の子孫な訳だ。
今ではお互いに織田家の為に協力して、史跡保護に努めてらっしゃる。これこそ大物の子孫らしい、自分達のメンツよりも後世に歴史を伝える努力に努める心の広さだ。
織田さんも明智さんも偉いと思うよ。木原みたいに悪政をする悪人と、仕事は真面目で大物らしい謀反をした明智光秀との器を比べるのもそもそも違うか(笑)。
なんかね~。
たまたま御寺に有った掲示板の法話の「一乗の善に帰せよ」を明智さんは地でいってるよね。今にして思うと。
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善慶寺。本堂の正面に普通在る山門はずれている。
実は、これは理由が有る。
背後の山に熊野神社が有って、元々は、その参道だったと思われる。約800年前に善慶寺が熊野神社の別当寺に成って現代にいたるので、神仏分離令で神社の前が御寺の境内地に成り、背後の山は神社の境内地になったので、今の形に成った様だ。
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法光山善慶寺。
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山門の前に新井宿義民六人衆と当時の事件で木原家に処刑された人々の名前が掲載されている。
この戒名は実は御子孫達の間でも諸説有るそうだ。間宮さんの戒名が入れ替わってる可能性が有るそうなので、戒名は画像での紹介で済ませて置く。
小生は間宮家の武将の名前を見て来た経験から、この義士達の戒名とされる名前は生前の実名と道号で戒名では無いと個人的に感じた。
この義士達の内、間宮姓と鈴木姓はいずれも伊豆国田方郡出身の北条家臣、酒井家は旧里見家臣、第2次国府台合戦以降の北条家臣。平林は武田家臣に名が見えるが出自は辿(たど)れないので解らない。
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本堂は近年の建て替えだそうだが、木造で立派な物だ。将来、大田区の文化財に成るだろう建物。
この本堂の写真を撮影して居たら、御住職と紳士が玄関口で会話をしていて・・・
「奥さんに今日の11時に来客が有るから来いって言われたんだけど」
・・・と言う声が聞えて来た。
「あ、小生の事だ」
と思って御声がけしたら、その紳士が間宮太郎兵衛さんの御子孫の間宮さんだった。
間宮宗家が家譜を再編する際に、旧本牧奉行陣屋の地に住む分家御子孫の資料を参考にしているのだが小生もその写しを写真撮影してありExcelに打ち込んで見やすくした者を持っている。その家譜では確かに太郎兵衛サンの名前が康俊公の子孫として掲載されているのだ。
そんな訳で、間宮家の末孫と又、御一人知り合いに成った。
御住職と間宮さんはとても丁寧に6人の義士の説明をして下さり、小生にとても貴重な物をプレゼントして下さった。
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間宮新太郎さん宅の葛籠から発見された将軍への直訴状のコピーだ。
・・・一生の宝物にしないといけない。
毎日、尊敬する織田信長公を始め太田道灌公や間宮家の武将と姫様方、源頼義公を始めとする河内源氏の殿様と平良文公の御子孫の平氏系の殿様達、菅原道真公と景行公、敦茂公親子、足利尊氏公足利基氏公親子、北条家本家と玉縄北条家の歴代の殿様、蒔田吉良家の殿様と宅間上杉家の殿様、扇谷上杉氏定公と戦国初期の三浦道寸公と義意公の名の入った御朱印、そして神仏を拝し祈願している事が有る。
「神社仏閣と歴史史跡の保護と偉人の顕彰活動で世間に何か役に立つ事をさせて欲しい」
だから、この御住職から頂いた義士達の訴状の複写は宝物以外の何物でもない。

御住職と間宮さんは小生からの質問にも親切に答えて下さって、色々と謎が解けた事も有った。
それが大森が鷹場だった郷土史等だ。
この訴状の複写を頂いた後、本堂を案内して頂けた。
そこでは写真には納めなかたが(常識的に)、この訴状の原本を御住職が自らの手で開封して見せて下さった!
本当に光栄な事だ。
本堂には昔の写真も有った。
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昭和初期の本堂。面白いのは現在と向きが違い、熊野神社の参道だった現在の善慶寺の山門から神社への道に向かって本堂が建っている。江戸時代に熊野神社の別当寺だった歴史が写真に残っている訳だ。
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そして昭和5年に建て替えられた現在の本堂の写真。もう檀家さんが間宮さんだらけ(笑)。
開基した増田さんの一族と、義士の鈴木家の方の名も見える。
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この御怪我展示されていたのだが、この馬に餌をやる飼葉桶。
実はこの飼葉桶の主だった黒ちゃん、赤ちゃんと言う馬が、悲し歴史だが木原に処刑された義士達の遺骸を運んだのだそうだ。
ちゃんと残っているんだね~。
この赤と黒が居るなら、北条家の文化と仏教文化に沿えば黄、青、白もいたかも知れない。
この他に、伝承通り出土した、6人の義士の遺骸が治められていた巨大な甕も本堂で拝見した。
本堂で貴重な体験をさせて頂けた。こうやって生きている文献を見せて貰えるのは、殿様達から現代人の小生への御褒美だと思う。
一しきり寺宝を拝見した後、墓地に在る6義士の御廟所へ案内された。
御住職に写真を撮影して記事に紹介して良いと許可を頂いたので、今回は墓所を紹介したいと思う。
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表は、実は間宮一族の間宮藤八郎が自分の父母の供養塔に見せかけて特殊な構造で義士を弔うこの墓石を立てたそうです。
この藤八郎、名前からして杉田間宮家の人物だと推測出来ます。杉田間宮家の宗家は代々、藤太郎が屋号だったので、その分家で八男か何かの子孫でしょうか?詳細は解りません。系図にも残っていないので。
墓石は江戸時代当時、参拝者に見えない裏側に義士達の名が彫られました。
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裏面にも水入れが彫られているのですが、これは当時は見えませんでした。
この水入れが特殊な仕組みで、表のダミーの墓標の前で水を入れるとずっと此方(こちら)側の裏の水入れまで水の誘導穴が穿(うが)ってあるんですね。
つまり、表で普通に墓参りして、こっそり裏側の義士の墓参り出来る仕組みに成っているんです。
そして、毎年、旧正月頃に義士の子孫で集まって、葱のヌタを食べながら明治に至るまでヒッソリとこの義士の本当の話を語り継いだそうです。
そして、先に話した古文書や義士の遺骸が伝承通り、現代に成って出現した訳です。

ところで墓標の名前、これ、御寺では戒名とされていますが、小生の知識では、戦前の6人の名前以外の何物でも無いと思うのです。
嘯慶(天台宗の入道号)・道春(臨済宗の入道号)…右列

宗圓(曹洞宗の入道号)・是信(間宮家の通名が〇信、恐らく実名)…中列

賢栄・椿?(ソウorねぎorあおい)/椿葱(ソウorスoroねぎorあおい)or椿荵(ジンorニンorしのぶ)…椿葱…左列
これ、タイピングして解ったのですが、恐らく義士の事を話しながら葱を食べたのは、生前の義士の1人の名前?多分、生前の歌人か画家としての雅号が椿葱だった事に由来していると思います。
もっと言うと、ここに書かれていない玄蕃と言う人物の法名は酒井家由来の玄を使った入道号を文字って官途として偽装して後世に伝えていると思います。
そして全く御寺の伝承とは異なるのですが、椿葱は女性の名前だと思うんです。
つまり、椿(つばき)サンと葱(ネギ)とかいて葱(あおい)サン、これ、伝承で家に火を放って自決した間宮太郎兵衛さんの奥さんと娘さんじゃないかと思うんですよ。
そして是信は酒井さんの名とされていますが、これこそ太郎兵衛さんか新五郎さんの生前の本名だと思うんです。間宮家は〇信と言うのが一族で受け継いだ名前ですから。
例えば杉田間宮家だと間宮常信(別名信次)さん、本家間宮家だと間宮康信さん等、有名な活躍をした武将がいます。
逆に酒井家の通し字は❝敏❞❝房❞❝胤❞の字を持つ武将ばかりなので、やはり是信が酒井家の名とは考え難(にく)い訳です。
宗圓と言う名も在りますが、これは間宮家の武将は代々の入道号が宗〇で、例えば間宮家では間宮信盛公が宗三、一番有名な間宮康俊公は宗閑、神奈川宿に住んで居たのは間宮宗甫だったりします。
ですから、そもそも戒名ではなく、この墓石に掘られてる部分に関しては生前の名だと思います。
まぁ、これは学者の意見とも違うので、あくまで小生の推測ですが。
この御寺の墓所と本堂の間の参道が、昔の熊野神社の参道です。
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熊野神社が有るので、ここは小生の経験と知識から御住職にこんな質問をしてみました。
「この辺りは湧水地だったんですか?」
ドンピシャ。
この辺りの土地は1mちょい掘ると直ぐに綺麗な淡水が湧くそうです。
そして、御寺の庫裏の前に湧水の井戸を池にした場所に・・・
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なんと蛍が自生しているそうです!
クレソンも自生していて、御住職に「食べてみな!」と言われて食べてみたら辛くて美味しかったですよ。
綺麗な水辺にしか自生しない。子供の頃、神奈川県伊勢原市の延喜式内社、大山阿夫利神社の御神体の大山の麓の小川にクレソンを摘みにいっていたのを思い出しました。
多分、この善慶寺は西暦1200年代の日蓮宗としての開基でしょうが、それ以前からの前身に成った古寺が在ったのかも知れないですね。そして、熊野神社は更に古い湧水地の聖地だったのかも知れない。
実は日蓮宗の御寺は、日蓮宗に成る前に別の真言宗とかの寺院だった場所が多い歴史事実が有りますから。
そして古仏教に属する真言宗と天台宗と修験道は特に神仏共に崇拝する傾向の強い宗派なので、熊野神社の御寺として存在していたとしても不思議ではないですしね。
日蓮宗も日蓮上人以来、千葉神社の御祭神である妙見大菩薩=妙見神=北斗星=天皇家を守護神として崇めていらっしゃいますね。
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現在の御住職様は、「日本古来の自然を大切にする習慣も大切だ」と小生が何か言う前に小生と同じ考えを話してました。
全くその通りだと思います。
こう言う立派な神社と仏教が融合していた時代の、昔の天皇達の信仰を今に伝える御住職様の御寺だからこそ、都会の中でも蛍も安心して住めるのかも知れないですね。
因みに、蛍の季節には整理券を配って人数規制は有りますが、公開もしているそうです。今年は2千人超も見学に来られたそうです。

義士の御寺で思いがけず都会で大切にされる自然も目に出来て、そして一生の寶に成る古文書の写しも頂けた。
この御寺の歴代御住職や檀家さんが義士の歴史を三百数十年間ひっそりと伝え守って来て、御寺を神社を守り通した様に、小生も偉人の顕彰活動や、今は廃れている神社仏閣や歴史史跡の保護や復興に役に立てる様に動き回らないといけないな・・・
と思った1日でした。

とりあえず、間宮家の顕彰活動と、信長公の愛妻の生駒お類様の久昌寺を廃寺の危機から救える手立てを探して動き回ろう。




神奈川県横浜市港南区野庭町1853
【営業】定休日:月曜日・火曜日・水曜日 AM11:30~PM15:00
【業態】Cafe (ランチタイム専門)
【アクセス】バス停深田橋から徒歩5分。※駐車場5台程度。
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実はここ、千葉県に在った臼井城から室町時代頃に野庭に移住して来た殿様の御子孫の御店です。
同地は旧鎌倉郡域の横浜市港南区野庭の緑地保存地域です。
その自然に囲まれた場所にに"カフェこやぎ"と言う店が在りますこの辺りは閑静な場所で鎌倉時代の雰囲気を留める谷間に成っていますそれだけに、この店では鎌倉の浄明寺地区や佐助地区に来たような錯覚の中でゆっくりした時間を過す事が出来ます。田舎でしょ?
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この様に横浜市内ながら緑豊かな谷戸(やと)に在るカフェなので、清清しい空気の中でランチや蕨餅(わらびもち)を頂く事が出来ます蕨餅と焙茶(ほうじちゃ)setは500円、ランチsetも1000円程度と御手頃ランチや昼下がりにまったり時間を過ごすのにはうってつけ。
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お子様ランチも有るので小さいお子様がいる御夫婦は安心してこられますね~しかもここは子供が喜びそうな生物もいます。もう店名でネタバレですね(笑) ?山羊(やぎ)です。
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でも「開店当時は子ヤギだったのに大きくなっちゃった」って御店主が言ってました(笑)。
食事をしだすと、こっち向いてメェ~メェ~もの欲しそうに鳴いてくれたり、可愛さアピールしてくれましたよ店の入口は元々農家で池田梨園と言う果樹園だった時代のままなので少し判り難(にく)いかも知れません。
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このアングルだと解るかな?
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車は5台ほどお庭に停められるそうです。
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元々梨の果樹園だったそうですが、現在は梨の樹は伐採されて、代わりに市民に畑地として貸し出されていて長閑(のどか)な田舎の風景。
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本当に横浜?
・・・と自然の無い横浜市の住宅街や商業地で育った若者は思うかな。
この空気感が、旧鎌倉郡らしい風景。
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本当に鎌倉市の浄妙寺地区とか十二所(じゅうにそ)とか佐助地区に来た様な感じ冒頭で少し書きましたが、この御店主一家は平安末期~室町時代中期までの臼井城主の御子孫に当たります。武家の名門、千葉家の分家が臼居家で、このcafeこやぎ周辺には臼居さんだらけです。
臼居さん一族の根本的な祖先は桓武天皇です。
醍醐天皇の時代に、醍醐天皇の忠臣で旧鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍を務めた平良文(たいらのよしふみ)公と言う人物がいて、その方が千葉家の御先祖様。
※下の写真は藤沢市の村岡城址公園。地形以外には何も遺構は残らない。
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ですから平良文公の御子孫は全員が臼居さんの家の親戚だったりします。
列挙すると・・・
●房総半島の千葉一族。
●三浦半島の三浦家と芦名家・朝比奈家等の一族。
●鎌倉藤沢の御霊神社の宮司を務めていた村岡家と俣野家・長尾家・大庭家一族。
●高座郡や綾瀬の渋谷家一族。
●湯河原の土肥家一族。
●南足柄の土屋家一族。
ついでに上杉謙信や東郷平八郎元帥も遠い親戚ですね。
・・・その歴史の入口に成る場所が、cafeこやぎの直ぐ近くに在ります。
野庭神社です。
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野庭神社…戦国時代の野庭関城域に存続する神社。←以前書いた野庭神社紹介記事。
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この説明は色々と登場人物や神様の名前が間違っているので、ブログ記事の中で訂正を表記してあります。
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野庭の臼居家の初代は臼居杢右衛門(もくうえもん)胤知(たねとも)公と言う人物です。
臼居家は最初、姓を臼井と書きました。
臼井家初代の祖先は千葉家の分家で、鎌倉幕府重鎮として有名な千葉常胤(つねたね)公の祖父の千葉常兼(つねかね)公に辿(たど)り着きます。
その千葉常兼公の子が臼井姓を名乗り、更に戦国時代に野庭に移住したのが❝臼居 杢右衛門 胤知❞ 公です。
千葉の方は臼井なので、野庭に移住以降に❝臼井❞から字を改め❝臼居姓❞を名乗り出した様ですね。
戦国時代初期の臼居家が臼井から退去した当時、臼井城周辺は北条家・千葉家・里見家・古河公方家が領土争いを行う係争地でした。
九曜紋
千葉家(臼井家の本家で主君、下総国の大名)
蔦の葉紋
臼井家(臼居さんの御先祖)
三つ鱗紋
北条家(伊豆国・相模国・武蔵国を支配し、千葉家を従属支配する大大名)
二つ両引き
里見家(安房国・上総国を支配し、千葉家・北条家と敵対する大名)
臼井城と周辺それぞれの家の主要な御城の位置。
臼井城周辺 久良岐のよし 
里見家(安房国・上総国の大名)画像の中心の上に在るのが臼井城。
臼居家の祖先は元は今の千葉県北部に当たる下総国印旛郡の臼井城主でした。
臼居家の家紋は蔦の葉紋(つたのはもん)と言いますが、恐らく千葉県時代は千葉家と同じ九陽紋だった可能性が有ります。臼居杢右衛門公は戦国時代に千葉家臣団の内紛により千葉胤富(たねとみ)公の重臣の原胤貞(たねさだ)公に攻められて臼井家の家政は原胤貞公に乗っ取られてしまいました。
臼井城の実権が原氏に乗っ取られた後、cafeこやぎの御店主や周辺の臼居さん達の御祖先の臼井杢右衛門さんは臼井の地を離れた様です。
因みに、この原胤貞公は臼居杢右衛門さんの母方の祖父に当たります。
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※写真は臼井家と争った原家の支城の弥富城から見た風景。
土着の年代は弘治3年(1557年)08月15日に野庭に入郷したと鎌倉の浄土宗大本山光明寺に残る臼居家の家系図に書かれている事から、2016年現在から461年前の夏、まだ十代前半だった杢右衛門公は横浜市に移って来たと解ります。
中学生か小学校高学年位の年齢で家臣に付き添われて、野庭まで逃げて来たんですね。

この年、実は原胤貞公が臼井家の家政を代行していたのですが上総(かずさ)国の大名、里見家の家臣で最強の正木時茂公に臼井城を攻め落とされて原一族も臼居一族も臼井城から退去しました。
臼居杢右衛門公は、この年、里見家と対立する小田原の北条家に臣従して家臣に成り、野庭に土着しました。
杢右衛門公の実兄に当たり、本家の臼井久胤公は結城城主の結城晴朝公の所に逃亡しました。この時に臼井久胤公は14才だったと伝わっています。
つまり、久胤公の年齢から弟の杢右衛門さんがまだ子供だった事も解る訳です。

杢右衛門さんの奥方は鶴野姫と伝わっています。鶴野姫の父上は、今の東横線の日吉辺りの殿様だった中田加賀守と言う方でした。つまり北条家臣と成った御縁で結婚相手との御縁も出来た様ですね。
不幸の後の普通の幸せかな?
まぁ、中田加賀守は白備え隊小机衆に属しており、そこそこの有力者だったので政略結婚的な意味も有ったかも知れませんね。
しかし杢右衛門さんや中田加賀守が仕えた北条家は豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいます。
杢右衛門さんは武士では無くなりましたが、ちゃんと領地運営を考えていた様です。
江戸時代は日本屈指の尼寺として有名だった北鎌倉の松岡御所こと松岡山東慶寺の寺領として開拓する契約を結んだようです。
2015-05-20-15-39-00
そうして武士で無くなりましたが野庭の地の開発権を得て庄屋と成りました。でも他の大名家の支配地だったら郷士とか言われた身分に相当するかも知れないですね。
東慶寺の事は昨年公開の映画❝駆込み女と駆出し男❞の舞台に成った時に紹介した記事を書いたので、興味が有る人は読んで見て下さい。
駆け込み女と駆け出し男
※女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆込み女と駆出し男」←この記事。
そんな歴史が有る事から、この周辺一帯には臼居杢右衛門公の一族が現在も多く居住し、それぞれの分家に住した土地由来の屋号が有ります。
まぁ、そんな訳で杢右衛門さんが東慶寺と関わりを持った理由は、そもそも野庭一帯の土地が鎌倉幕府や東慶寺と所縁(ゆかり)の土地だからでもあります。
実は、この背後の丘一帯は鎌倉時代~戦国時代に野庭関城と言う御城でした。
その事を最近、とあるブログ記事で紹介しました。
※仰げば尊しと野庭関城を紹介したブログ記事←ここクリック!
仰げば尊し
以前、❝仰げば尊し❞と言う今年2016年の夏の間に放送していたドラマのモデルに成った実話の舞台、野庭高校を紹介した記事でも書いたのですが…
cafeこやぎや野庭神社の在る旧野庭高校(横浜市港南区野庭町1660)の前の谷が野庭関城の外堀だったんですね。
野庭神社の位置 久良岐のよし
横浜市は教育委員会がちゃんと歴史伝承を市民に伝えたり残したりする努力をしないので、野庭関城と言う御城が在った事自体を御存知(ごぞんじ)無い人の方が多いかも知れません。
野庭関城の本丸は今の野庭中央公園辺りだと伝わっています。
野庭関城を築城した和田義盛公は征夷大将軍の源頼朝公の存命中に初代の侍所別当(防衛大臣に相当)を務めた偉い人物です。
ここは鎌倉幕府執権北条家による源頼朝公一族の暗殺事件が連続して起きた際に、和田義盛公は二代将軍頼家公の遺児の千寿丸様を旗頭にして逆賊北条時政と北条義時を誅滅しようとしました。しかし、その際に和田義盛公は一族の内で最も有力な三浦義村が裏切り同調しなかった為に中村党と呼ばれた西湘地域の御家人と供に鎌倉の材木座海岸で敗戦し滅亡しました。
その後、中村党の残党で今の小田原辺りに勢力を誇っていた土肥実平(どいさねひら)公と泉親平(いずみちかひら)公の残党が野庭関城に籠城し、北条家と戦い忠義を尽くした歴史が伝わっています。
戦国時代にも城塞として活用され、小田原城主北条家の重臣の石巻康保(いしのまきやすもり)公や名奉行として記録の残る安藤良整(あんどうりょうせい)公が城代を務めていました。
昭和期に教育委員会が保護も調査も怠ったまま団地が建設されたので野庭関城址は現存せず縄張り図も作られていません。残念ですね。
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まぁ、そんな歴史がcafeこやぎ周辺地域に在ります。
ヤギさんが生活出来る緑地保存地域なので、今でも鎌倉郡だった頃の雰囲気を味わう事が出来るし歴史も田舎の風景に何となく詰まってる訳です。
後半の歴史解説は少し余計だったかも知れませんが、cafeこやぎ、ゆっくり時間を過せる良い場所です。
お近くの方は子連れで行って見るのと安心して御茶も飲めますし、大人だけで行って美味しい御茶と葛餅を頂きながらボぉ~っと過したり読書するのも良いと思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう

明日、2016年10月23日(日)、元八王子で❝北条氏照祭り❞が開催されます。前日22日土曜日は八王子城址の案内所で解説者による講演も有ります。
北条氏照祭り公式様拝借 久良岐のよし 
※画像は公式様拝借。
2016年第5回 北條氏照まつり←八王子市のホームページ該当ページ
北条氏照(うじてる)公は武田信玄が南関東に兵23000の大軍を率いて略奪に来た際に、農民を滝山城内に保護し手勢3000で籠城しました。防御構造の複雑な滝山城三ノ丸に武田勢を引き込み痛撃し撤退させた部将で小田原北条家の一門でした。
方面軍総指揮官としての実績には疑問は残りますが、自ら率いる滝山衆(後の八王子衆)だけで行った合戦では負け知らずでした。そして内政力が高く城の水掘り代わりの溜池を利用して城下の農村の水田を灌漑水田にして生産力を上げた実績も有る方です。
付家老は北条家相模十四騎筆頭の間宮家、その間宮綱信(つなのぶ)公と言う殿様や後に水戸徳川家の家老にも成った中山家等の古来の坂東武者の一族達でした。
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元八王子には❝日本100名城❞の一つに選ばれた八王子城も有ります。
この城は間宮綱信公の縄張り(なわばり=設計)と伝わっています。間宮綱信公は北条家の外交官として横浜市の小机城代笠原政尭公と共に織田信長公に謁見し、名将の滝川一益公に接待され安土城下を遊覧されたりした人物でもあります。
八王子城自体は立派な規模の居住区の御殿や武家屋敷だけ完成し、背後の城塞部分が完成する直前に豊臣秀吉配下の上杉景勝・真田昌幸・前田利家・裏切った大道寺政繁の大軍28000に攻められ、防御準備不足、更に北条氏照公が不在だった事も有って落城してしまいました。
もし完成していたら、この城も成田甲斐姫の籠城した忍城、北条氏規公の籠城した韮山城と共に豊臣軍の北国軍を足止めし、北条氏勝公の籠城した玉縄城とも連携して小田原北条家は豊臣軍を苦戦させた事でしょう。
もしくは滝山城を更に改修するだけでも、武田信玄を撤退させた名城だっただけに豊臣軍を苦戦させ長期戦に持ち込めたのは間違いないのですが…
しかし、この城が完成する前に豊臣家と開戦する事態を招いた事自体は、北条氏照公の実兄で北条家当主の北条氏政公の戦略眼や戦力比較分析力の低さ、北条氏照公自体の性格にも原因が有るので歴史にif無く結果が全てとも言えます。
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御殿跡の近くには❝御主殿の滝❞が在りますが、ここは多くの神社仏閣を巡礼している小生には延喜式内社の聖地と似た様な雰囲気を感じるパワースポットの様な場所で、高さ3mほどの小さな滝です。
御主殿や滝の有る場所は谷間で、とても清々しい空気感が漂っています。
ここに姫様や家臣達が飛び込んで自殺したとアホな事を書く学者がいます。それを鵜呑みにする自称霊能者もいます(笑)。
現地に行けば一目瞭然(笑)高さ3mの滝に大勢で飛び込んでも下の人は良くて骨折、飛び込める人数も狭いのでせいぜい1人~3人(笑)、アホ学者や偽霊能者が言う様な事は起こり様も無い(笑)!
2016-02-13-10-29-49
そして山上の要害部分からはとても眺望が良く、空気が澄んで居れば新宿副都心やスカイツリーも見渡す事が出来ます。
そして❝御主殿の滝❞の説明でも申し上げましたが、ここは延喜式内社の様な正常な空気が漂っています。
実は、古来、この八王子城の山自体が牛頭天王信仰の聖地でして、京都の東山や祇園八坂神社、愛知県の津島大社、と同じ様な神道で言う所の素戔嗚尊信仰の聖地だったんです。
八王子市の名前が牛頭天王の八人の王子と姫を祀(まつ)る、この八王子神社に由来している事を知っている人は現在では多くないかも知れません。
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しかし八王子城本丸には現在も八王子神社が鎮座しています。
夏も過ぎて大分と涼しく成ったので山登りがてら八王子城を散策するのも良いと思います。
八王子城の麓には宗関寺と言う御寺が在ります。
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この御寺は旧北条氏照公家臣団によって江戸時代初期に建てられた北条氏照公の菩提寺です。
氏照公の御廟所は小田原市内と、この御寺の背後の山に在ります。御朱印も既に作成して有る物を頂けます。

ちなみに、この元八王子から車で30分位の距離に❝新選組❞所縁(ゆかり)の日野市があり、新選組幹部の子孫が運営している資料館が沢山有ります。でも御子孫の資料館は日曜日しかやっていないので注意して下さい。訪問するなら❝日野本陣❞と言う甲州街道の陣屋で、土方歳三さんの親戚の佐藤彦五郎さんの自宅 兼 天然理心流の道場だった旧庄屋の邸宅が見所として御進めです。
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ここには近藤勇さんも土方歳三さんも沖田総司さんも井上源三郎さんも度々稽古だけでなく遊びにも来ていたそうです。
この御屋敷の前に道場が在りました。明治天皇もこちらに在った専用の部屋に宿泊されたそうです。
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そして、もう一つ。この❝新選組のふるさと歴史館❞も日野本陣から車で10分程度の場所に在ります。
中には日野市の歴史と新選組に関する展示物が有って、学芸員さんに色々質問すると詳しく解説して下さいます。
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近藤さんのお兄さんの宮川さんの御子孫、土方さんのお兄さんの御子孫、井上源三郎さんの養子の御子孫が一緒に檀家になっている高幡不動尊も、日野市に在ります。
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とても大きい昔ながらの神仏習合の伝統を守る真言宗の古刹で、境内には明治時代以前のまま、御寺と神社が融合して存在しており飛鳥時代~江戸時代までの本来の日本文化を見る事が出来ます。
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ここでも土方さんは多摩地域の誇りとして銅像が立っています。

どうでしょう?こんな戦国時代にドップリつかれる元八王子と北条氏照祭り、近くの日野市の新選組関連の史跡、是非、お散歩がてら見に行って見ませんか?

では!又、次の解説記事で!



07月10日②の休日雑記の続き。

三連休をとり、三浦半島を旅行した11日最終日、朝は宿泊地の三崎漁港、その三崎に戦国時代に小田原北条氏が三崎衆を編成し戦国後期の三浦水軍拠点として運用した❝三崎城址❞周辺を散策し、鎌倉時代に源頼朝公が❝桜の御所❞と言う別荘を置き同地に戦国時代の初期に三浦義意(よしおき)公が開基した本瑞寺(ほんずいじ)を訪れた事、その本瑞寺と三浦義意公のイメージで創作されたのが小桜姫伝説の基に成った❝桜の御所❞と言う小説だと言う事を前回の休日雑記で紹介した…。

実はこの日、2016年07月11日は道寸公と義意公が、日本史上最長の4年間と言う籠城戦を戦い抜いた新井城(油壷マリンパークの半島が主要城址)の落城から500回忌に当たる。

この三連休、訪問の一番の目的は❝三浦道寸公と三浦義意公の命日❞の御廟所参詣と献花だった。
その為(ため)、車に乗り込み三崎漁港を後にして最終目的地の❝新井城址❞=油壷マリンパークの半島へ向かい、先ず予(あらかじ)め三浦道寸、義意公の御二方の菩提寺である❝海蔵寺❞に御住職を訪問する前に、道寸公の名を冠した❝道寸餅❞と言う銘菓を売る❝なこう❞と言う御当地の和菓子屋を訪れた。
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ここは小生、三浦に良く来るように成り始めた頃、道寸公の名を冠した看板が目に留まり道寸餅を購入して以来の御付き合いに成った。
小生は三浦家と北条家、不運にも主家古河公方家の内紛によって敵対した両家の武将に尊敬する偉人がいる。
特に崇拝しているのは、1人は小田原北条家の名将北条綱成公、もう1人が三浦義意公、両将とも智・仁・勇を兼備した名将だったが義意公は家運に恵まれず、韮山城主で北条家創業者の伊勢盛時公と其(そ)の子の氏綱公によって攻め滅ぼされる事に成った。
両家とも素晴らしい名将を多数輩出している。
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※道寸餅
道寸餅を自宅用と、海蔵寺様への奉納様に2揃(そろ)え用意して貰い、御住職との面会の準備も整い海蔵寺へ移動。
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海蔵寺は小網代の森の西の端、長い階段の上に所在する三浦義意公の御父君の三浦道寸公が開基した御寺だ。
道寸公と義意公の御廟所へ参詣の許可を御住職に頂いていたが、御寺と離れた御廟所を参詣する前に御住職に御挨拶に伺った。道寸餅は、その菓子折り。
御住職は小生と同じで、先人への尊敬や神仏への信仰心を持たない❝俄(にわ)か歴史ファン❞と❝エセ歴史学者❞が大っ嫌いな人物。
御住職がそう成ったのには、いい加減なデマの小桜姫伝説を広めた霊能者気取りの人間と、ソレを商業化しようとした連中に責任がある。
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この明治時代に流行した創作時代劇小説❝桜の御所❞を史実と鵜呑みにした無学な霊能者気取りの人物が書いた史実と全く異なる小桜姫伝説を信じ込んだ連中、つまり騙された人が大挙して押し寄せた事が有った。
先人を冒涜する行為に成る自覚もしない❝御寺マニア❞と❝縁結び巡礼の女性❞が、信仰心も先人への尊敬も無く大挙ズラズラと集団で御寺を訪問し、本堂も拝まずに帰ったり、油壷マリンパーク横の(新井城址)に飛地の海蔵寺寺領にある道寸公と義意公の御廟所に無許可で入る不法侵入が横行してしまったのだ。
御住職は、小桜姫を実在の人物と誤認して心霊スポットとして広めたエセ霊能者詐欺師に怒り、無礼不見識な女性達に嘆(なげ)いておられる。
だから、海蔵寺は一般非公開にせざるを得なく成った。
ちなみに、そのいい加減な小桜姫伝説に踊らされた霊能者気取りの人物はTVにも良く出る江原と言う人物だ。
でも本当に彼に霊感が有るなら、小説と史実の相違も気が付くだろうしウソくらい気が付いただろう。
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御住職様には、小生が平安時代の平良文(たいらのよしふみ)公以来、三浦義継公、三浦義明公等の歴代三浦家の殿様を尊敬し御廟所を参詣している事、道寸公の御実家である扇谷上杉家の所縁の神社仏閣も巡ってきている事は御存知なので❝海蔵寺参詣と御廟所への献花の自由❞を認めて頂いている。
それでも、御廟所を御参りする前には、ちゃんと御住職様には御挨拶に伺い、本堂で御参りしてから油壷の御廟所を訪問する事にしている。
この日も御住職に御会いして、改めて御廟所訪問の御許可を頂いた。
丁度御寺では500回忌もあり、経塚を建設されるそうで御住職様から小生へ最初の33人の納経者に成る様に光栄な役割を依頼されたので写経用の和紙を受け取り、一週間後に納経に来る約束をして海蔵寺を後にした。
新井城址と海蔵寺周辺の位置関係は下の衛星写真の通り近い。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
しかし、周辺は城址と言うだけあり、地形は複雑に谷が入組み直進は出来ず、車では10分程かかる。
海蔵寺の在る小網代湾は新井城址の北側の湾で、水掘り不要の半島城の頑強な守りを担っていた。
つまり海蔵寺~新井城址の遺構残存部は直線距離にして1km程と極近い。
現在、関東大震災による三浦半島の隆起と海岸の埋め立てで、小網代~新井城址まで徒歩で海辺伝いに行く事が出来るが、戦国時代は新井城址の半島の岸壁は海波に洗われていたので鎧武者の行く手を阻む海だった。
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駐車場に車を停めて、おみやげ物屋の御婆さんに久々の挨拶をしてから御廟所へ移動。
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花は近くのコンビニで売っていたので2揃え2組、合計4本の花束を購入した。
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先人への敬意から、御廟所の写真は撮影しない主義なので、御廟所入口に海蔵寺さんが建立した新井城合戦石碑を掲載する。
この奥に三浦義意公の御廟所、一段下がった恐らく戦国時代は物見曲輪か船着場だった場所に道意公の御廟所が在る。
無事、献花を終えてから、油壷の浜に降りて海沿いを散歩しながら地元の人々が弁天洞として崇敬する洞窟に向かった。
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弁天洞へは荒井浜から廻るのだが、この日は道寸公の御廟所の方の浜をユックリ散歩しながら遠回りして相模湾の景色を楽しむ事にした。
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この三浦半島の磯は場所々々で異なった風景を見せてくれて飽きない…
米が栽培できない地質なので、却(かえ)って様々な西欧野菜の栽培が盛んに成った。
東京湾と相模湾と太平洋の三方に面しているので、様々な種類の魚も獲れる。
その上、天気が良いと江ノ島~大山~丹沢~箱根~伊豆~富士山が一望出来る。
だからこそ、逗子・葉山・秋谷・佐島・三崎は明治時代~昭和中期まで別荘地として富裕層が集まった。
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そして、相模湾側は太平洋から直接潮流が流れ込む上に、人の多い湘南地区からも離れているので海水の透明度が高い。
この日は面白い写真が撮れた。
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波が、隆起した縦の地層にぶつかり真上に飛沫(しぶき)を上げる瞬間。
こんな場所をゆっくり散歩していると、岩場は段々険しく成り、そうこうするウチに❝江原が二重に勘違いして小桜姫神社と嘘の紹介をしてしまった弁天洞❞に辿(たど)り着く。
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小生はココ話しは三浦家家臣の御子孫に教えて頂いた。
一般人は探し出せないだろう。
昔からここは弁財天様が祀られる様に成ってから❝弁天洞❞だった。
先に正しい民話を教えて頂いていたので、❝霊能者気取りの人物が誤認して広めた誤った小桜姫伝説を歴史オタクの小生の知識とと三浦同寸研究会の見解で正しておく❞事にしよう。
この油壷の新井城址の弁天洞は小桜姫弁財天と言う名前では無い
ここの弁天様は昔から辨財天とだけ呼ばれていた
※何故辨財天が鎌倉文化圏で洞穴と遊水地に祀(まつ)られるか以前書いた【】の記事の中の【宇賀福神社=銭洗い弁財天】の紹介で触れているので、其れを参考にして貰いたい。
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この油壷、新井城址の弁財天様については、改めて独立記事で詳細に紹介するが、ここは❝漁師が遭難して行方不明に成った際に、折れていた弁天様の首を元通りに繋げて願掛けをしたら、行方不明に成った漁師が藤沢辺りの浜に流れ着き、生きて帰って来る事が出来た御利益の有る弁財天様❞であって、小桜姫伝説とは全く関係ない。
多分、霊能者気取りの人物は何かの明治時代の浅野と言う名のカルト宗教家が同じ様に小説❝桜の御所❞と言う本を読んで事実と誤解して書いた本か何かを更に鵜呑みにした挙句、良く調べもしないで新井城址に在る神社だから小桜姫神社として紹介してしまった訳だ
実は、小桜姫神社は油壷ではなく別にちゃんと諸磯神明社の摂社として存在する。
正確に言うと、そこは小説桜の御所の小桜姫と、地元の新井城址籠城戦の時に三浦義意公の奥方が避難した諸磯で敵勢に捕ってしった秘話が合わさり、小桜姫神社のモデルと成っている。
霊能者気取りの人間の事実誤認は御粗末過ぎて、多くの宮司様や和尚様、郷土資料を司る学芸員サンや司書サン達と交流のある小生からすれば…
「へぇ~霊能者ねぇ~(笑)」
「霊能者なら小説と本当の史実の相違点に気付くだろうに(笑)」
「まして小説の登場人物設定は金沢北条氏、この時代の北条氏は伊勢氏流北条氏で時代に誤差200年を筆者が故意に設定し事実誤認を招かない様にして下さっているのに(笑)」
「義務教育で散々習う❝鎌倉幕府❞と❝下剋上❞で勉強してる筈(はず)なのに無教養って不幸だね(笑)」
…と言った感想しか湧かない(笑)。

ところで、油壷の弁財天様は如何(いか)にも鎌倉文化圏らしい場所に祀られている。

この弁天様が洞窟にいらっしゃり、且(か)つ偶像崇拝の対象に成っているのは、三浦家や三浦半島の人々が鎌倉時代以前からの源氏の御家人であった事から、その文化を受け継いだ名残だろう。
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鎌鎌倉には銭洗い弁天=宇賀福神社と言う場所が在る。
そこを訪問すると文化の変遷に興味が無い人でも鎌倉文化の弁財天信仰には色んな神様が習合されているのが良く解る。
古代日本の豊かさの象徴の神様だったのは❝宇賀神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)❞だ。
宇迦之御魂神は別の漢字で❝=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)❞と書くので、名前からしても縄文後期~弥生時代頃に米穀類の水耕栽培が始まって穀物を保存できる様に成った頃に誕生された神様だろう。
日本の神の系譜で倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、須佐之男命=素戔嗚尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた神様だ。
南関東の❝延喜式内社❞の古社全てが素戔嗚尊や其(そ)の御神孫の出雲系の神、又は日本武尊(やまとたけるのみこと)か伊勢系と異なる土地神様が主祭神だ。
この事実と考古学と神話の整合性から、素戔嗚尊が縄文時代から弥生時代に変革させた、つまり稲作を関東地方に導入せしめた人物が神格化さた神号(しんごう=偉大な人物に死後送られる神としての名)だろうと思っている。
素戔嗚尊が稲作を普及させた王だからこそ、その妻が奇稲田媛(くしなだひめ)と名に稲田の字が入り、子が倉稲魂命の漢字を当てられる神に成ったのだろう。
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その後、日本武尊は青銅器導入を南関東一帯に普及させて弥生時代を終わらせた人物だろう。走水神社の西暦100年代の伝承とも整合性が有る。この時代には既に先進地域だった北九州の王族達は中国と交易によって青銅器を導入していたから恐らく間違いない。古代の大将軍や関東知事として九州の叛乱を鎮定し東日本に青銅器を導入し軍事編成を整えた偉大な王子に当てられた神号が日本武尊だったのだろう。
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平安時代末期~鎌倉時代初期に成ると経済活動が米穀や海産物等の直接の備蓄出来る食物の物々交換から、❝貨幣経済❞に変わった事で豊かさの象徴が❝米穀❞から❝銭=金❞に変わった。だから源頼朝公によって財神として日本で信仰されていた宇迦之御魂神=宇賀神=倉稲魂命に、古代インドの財神である❝サラスバディー❞を漢字訳した弁財天が習合された。
だから、鎌倉文化圏や三浦半島では弁天様や宇賀神を湧水地や洞穴に祀る習慣が今も残る。

鎌倉時代~室町時代に成ると、武士達に弁財天は水神であり軍神でもある事から泉や海の航行の神様としても信仰される様に成った。
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その最も有名な場所が欽明天皇が勅願所と定めた霊場の洞穴に、源頼朝公が八臂弁財天(はっぴべんざいてん)を奉納し祀(まつ)った写真の江ノ島辨財天だろう。
関東の鎌倉御家人の関係した土地の弁天社は、この江ノ島弁財天の御分霊が多いはずだ。実際、関東の弁天社の大半は鎌倉武士団の居館跡や城址、又は武士が鶴岡八幡宮から勧進した八幡社に近在する。

幕末に成り武士の時代を変革しようとし始める維新志士たちの勢力が胎動しだす頃、伊勢神道による思想統制をされ、明治時代に成ると❝国家神道❞が正しいとされた事で水神様として弁財天と似た御神威を持つ❝一杵島姫(いちきしまひめ)❞が習合された。

明治時代に成り近代化が進むにつれて、時代遅れの印度由来~中国経由の仏教文化を否定する風潮が強く成り、更に明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動で仏教経由の古代インドの神である弁財天が否定され、現存する昔は❝倉稲魂命信仰❞から始まった全国の❝弁財天❞信仰の御社(おやしろ)は❝一杵島姫❞に名を変える事に成った…

新井城址の洞穴の弁天様は遭難した漁師を生還せしめた強い霊験有る弁天様だ。
弁財天様=サラスバティー神は美の女神でもあり、2柱の男神と結婚した神話も有るので縁結びの神様としての御利益も有る
だろう。
ただし!ちゃんと小桜姫では無くて、弁財天様として崇敬すればだろう。
…それも一方的に「男と結婚させてくれ~良い彼氏と付き合わせてくれ~」と信仰心や、神社仏閣に関わった歴史偉人へのリスペクトも無くただ御願いする人は、神様にも仏様にも怒られるだろう。
小桜姫は小説の架空の人物だが、名前が小桜だったかも知れない、実在した三浦義意(よしおき)公の奥方と側室は別にいる。房総半島の小大名、真里谷武田氏の二人の姫君だ。
だから、小桜姫と呼ばれたかも知れない真里谷家の姫に縁結びを御願いする成らば、「真里谷の小桜姫様」と名を正しく呼んで、小説の架空の人物の金沢北条家の小桜姫と分けるべきだ。
もっとも、当時の女性が歴史書に名を残す事はほとんど無く、小桜姫の名が登場するのは明治時代の歴史ファンタジー小説❝桜の御所❞が最初なので、縁結びを姫君に御願いするなら「真里谷の姫様」に御願いするべきだろう。
ではどこに行けば❝三浦家の奥方様が逃げて来て敵に捕まった伝承の有る小桜姫神社のモデルに成った御社の所在地❞に行けるのか…
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明治時代に小桜姫神社のモデルに成った伝承の有る場所には、弁天洞を後にして、駐車場を戻る道すがら荒井浜の御洒落(おしゃれ)な海の家の前を通り、この新井城址を離れる必要が有る。

せっかく、小桜姫伝説(江原の嘘を含む)の場所に2箇所も関わったので、明治時代の小説❝桜の御所❞の流行で正しい小桜姫神社の❝小説のモデルに成った舞台❞として明治時代以来、地元の人々に認知されている正しい小桜姫神社にも入ってから横浜に帰る事にした。
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正しい小桜姫神社の場所は、三浦義意公の奥方が逃げて来た伝説の有る油壷湾と反対側の❝諸磯湾❞側の❝諸磯神明社❞だ。
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こちら側から湾を挟んで新井城址が見える。
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又、詳しく小桜姫伝説と小桜姫神社の真相の解説は独立記事にするが、今回は重要な事だけ書いて置こう。
江原は恐らく小桜姫神社を探そうとしたが、新井城址に神社らしいものが無いから弁天洞を小桜姫ゆかりの場所と紹介してしまったはず。
そりゃそうだ、小桜姫神社なんか昔から存在しないが、モデルに成った神社なら存在する。
だから小桜姫神社の名前を探しても見つからなかった筈だ。
しかも、明治時代の❝小説桜の御所❞の流行による観光客の増加で観光客に対応する為に小桜姫神社とされている場所も、この諸磯神明社の摂社の❝若宮社❞だから名前も根本的に違う。
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※写真は鶴岡八幡宮、神仏習合の名残で仁王像=金剛力士像が安置されたいたであろうスペースは廃仏棄釈により随神門と成っている。
※鶴岡八幡宮の東側、鎌倉国宝館や横浜国大付属小の場所は鶴岡八幡神宮寺の寺院部分だった。
※八幡宮の総本社、石清水八幡宮の本殿横には今も仏像を祀る部屋が現存し保存されている。
若宮社と言うのは、源頼朝公の時代の「鶴岡八幡宮」の事だ。鶴岡八幡宮は元々は❝元鶴岡八幡宮❞=❝由比若宮❞に在った。それを頼朝公が現在の鶴岡に社殿を造営し御遷座され奉ったので、当時の人から見て新しい鶴岡八幡宮は❝若い鶴岡八幡宮❞=❝若宮❞と呼ばれた。だから、この時代に関東で鶴岡八幡宮の御分霊を頂いて造営された八幡社は現在も名前を❝若宮八幡宮❞とか❝若宮神社❞と呼ぶ場所が多い。
しかし、八幡宮の御祭神は明治時代に成るまで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の神宮寺だったので、歴代天皇家の価値観を否定する明治時代の国家神道による神仏分離令や廃仏毀釈と言う愚かな政策で、其の多くが破壊された歴史が有る。
だから、今残ってる八幡社の多くは御祭神の名前を❝八幡大菩薩❞から→❝八幡大神❞に変更して純粋神道の神様としたり、八幡大菩薩が習合された❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇❞の名を改めて主祭神とする事で存続させる努力をした歴史が有る。
だから、諸磯神明社の若宮社は❝小桜姫の神社❞とする事で存続を計ったのだろう…
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なので、世間で小桜姫神社と呼ばれるこの御社は❝小桜姫若宮社❞と呼ぶのが正しいと思う。
その御社は、諸磯神明社の本殿後方に並ぶ摂社の左側から二つ目の上の写真の御社だ。
これは、郷土史も読まないで適当な事を言う❝エセ霊能者❞には解らないし探し出せない場所だろう(笑)。
或いは本当に偽霊能者達に霊能力が有れば、ここを探し出せたろうに(笑)。

根本的な話しを強調し繰り返すが…
❝小桜姫❞と言う人物は歴史文献に一切出て来ないし、明治時代に成って初めて登場する名前だ。
史実では三浦義意公は、真里谷(まりやつ)武田家=房総半島の武田家の姫君が正室と側室として婚姻関係にあった。
この姫と、三浦家を攻めた北条家の立場を入れ替えて三浦家滅亡後に三浦半島~鎌倉を支配した北条家に逆襲し房総から攻め込んだのが正木家(三浦家分家)で、その合戦は❝鶴岡八幡宮合戦❞と呼ばれている。
この合戦や北条家と三浦家の立場を入れ替えて、かつ源頼朝公の桜の御所跡地に建つ本瑞寺のイメージと三浦義意公の新井城落城等を素材にして書かれたのが明治時代の小説❝桜の御所❞で、そこに登場するのが真里谷家の姫君と桜の御所のイメージをモデルにしたと思われる❝小桜姫❞と言う架空の人物な訳だ。
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※写真は城ヶ島の小桜観音。

だから、結婚したくて縁結びの小桜姫詣でをする女性陣には、いくつか諫言(かんげん)をしておこう
小桜姫の実家設定の金沢北条家は三浦義意公の生誕の約200年前に滅亡している、だから小説家も小桜姫を架空の人物でフィクションとして、色んな史実を混ぜて創作している事を念頭に置きなさい。

歴史家でも無いイカガワシイ人間が適当に書いた本を鵜呑みにしないで、自分で歴史書を読み込んで調べなさい。そんな姿勢じゃ❝ロクでも無い男に捕まる❞か❝結婚詐欺に遭う❞だろう。」

「確かに、弁天様や若宮社には御利益が有る、小説のヒロインの小桜姫の聖地(小説舞台)巡礼が流行したのが原因で、後に小説の存在と歴史を知らない後世の人によって、いつの間にか小桜姫が実在したと誤認される様に成ったが、実際には三浦義意公の奥方と側室の真里谷の姫がいたので、拝む事で真里谷の姫の御利益も得られるだろう。だから小桜姫の御名の下に縁結び祈願するなら小桜姫神社(神明社摂社社若宮社)で❝真里谷の小桜姫❞として拝みなさい。小桜姫と言う名が架空の名でも、正しい姓に美しい渾名(あだな)を加えるならモデルに成った真里谷武田家の姫様も喜んで願いを叶えてくれるだろう。」

油壷の弁天様は小桜弁天では無く弁財天なので❝弁財天❞として拝みなさい。

「普段から歴史や神様や先人に対して無関心な癖に願い事だけしている、その利己的な姿勢が出会いを遅らせるのでは?態度を改め、普段からの歴史と伝統を大切にして神社仏閣を御参りしなさい。」

「エセ霊能者に一々影響されず、利己的に縁結び巡礼するだけでなく、普段から自分の祖先神の氏神様と守護仏、或(ある)いは自分の崇拝する教会やモスクの神様を大切にして普段から信仰と文化と歴史を大切にしなさい。

まぁ、それだけ熱心に願掛けする情熱が有るなら、普通に普段から文化と伝統を大切にして、通りがかる神社仏閣を御参りしながら利己的な願掛けじゃなくて日常的に神様と仏様と御先祖様を大切にしてれば、歴史好きな男性や神職や跡取り和尚様等と知り合い、そこが男性との出会いの場に成るかもよ?

…そんな説教をしたく成る女性の何十人もの集団を見かけた三浦旅行最終日だったが、色んな神社の宮司様や御寺の和尚様と交流の有る歴史オタクの❝説教❞としてはそんな所かね。

帰りは横須賀PAで好物の日本蕎麦を食べて帰った。DSC_3598
信仰の在り方や、神社仏閣や先人に対する姿勢を考えさせられる最終日だったが、実際に廻った場所全て素晴らしく、行く先々で関わった人々も優しく親切で沢山色んな話を出来て良い三連休を過ごせた。

07月10日①の休日雑記の続き。

2016年07月10、早朝の城ヶ島散歩を終え、ホテルに帰り用意されていた朝食を美味しく頂いた後、朝風呂に入り、その後の予定を確認してからチェックアウトの時間までユックリ二度寝させて頂いた。
この日の昼前の散策予定は三崎城址と、当時から存在する周辺の史跡。そして三崎町の観光漁港うらりでの昼食がわりの買食いだった。

ホテルを出て、三崎漁港の駐車場に車を移動し、最初に訪れたのが商店街を抜けた先に在る北条湾…
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ここは現在、漁船の係留される場所に成っているが、戦国時代末期には三崎城の城将、北条氏規(うじのり)公が三崎城主として管理する三浦半島水軍の根拠地として漁船の他に軍船も係留されていた軍港だった。
北条家の水軍基地だったから❝北条湾❞と現在呼ばれる訳だ。
不運な運命で、主家古河公方家の外交政策によって、それまで同輩(ともがら)だった小田原北条家と佐原三浦家は敵対せねばならぬ間柄に成ってしまう。
これが、前回の休日雑記で紹介した❝小桜姫と言う架空の人物❞が明治時代に作り出された物語の基に成った史実だ。しかし小桜姫の基に成った奥方はいた訳で…DSC_3482
まぁ、その話は又、改めて解説するとして、釣鐘状の形をした北条湾の付け根に行くと橋が架かっていて、その名も❝北条橋❞と言う。そして写真右手に見える丘一帯が三崎城址だ。
成る程、海は穏やかで城址は江戸時代の石垣城では作り出せない扇谷上杉流と北条流の築城術のコラボ城址らしく、堅固さの基に成った自然の断崖が城郭外側に構えている。
北条湾の直ぐ横には❝諏訪神社❞が在る…
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城しか調べない学者、戦史しか調べない学者、宗教哲学しか調べない神職僧侶がいるが歴史と言うのは自称❝歴史オタク❞の小生に言わせれば、宗教施設の伝承や記録、城址周辺の地形、城主の崇拝した神様の種類と仏教の宗旨を把握していないと色んな事を見落としてしまう。
例えば戦国時代の北条家は軍神として、この❝諏訪神❞か❝八幡大菩薩❞を城の守護神として城址近くに祀る傾向が有る。
南関東の山城として良く雑誌でも紹介される津久井城・伊豆箱根山中城等は、正にその典型だ。
ここ三崎町の諏訪神社はきっと多くの水軍武将達の崇敬を集めた事だろう。
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ところで、戦国時代も後半に成ると、北条家は初期に編成していた❝五色備え❞と言う方面軍制度を解体し、軍隊編成を地方別所属制に切り替える。
この三崎城は❝三崎衆❞の拠点と成り、鎌倉郡の一部と三浦半島の武将達で構成される編成と成った。
そこに小生の町、横浜市の❝宅間上杉家❞の殿様も三崎城主:北条氏規公の与力として編成された。名を宅間上杉規富(のりとみ)公とおっしゃった。
氏規公から一字拝領した様で、名には❝規❞の字が入っている。宅間上杉家の通し名は❝憲(のり)❞後に❝乗(のり)❞の字に成っていた。宅間上杉規富公も恐らく最初は❝上杉乗富❞と名乗っていただろう。
さて、この諏訪神社は改めて、いつか解説記事を書くとして…
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ここから三崎城址の遠景を見て、改めて三崎城址の丘の東端の一帯は雑木林もあり土塁等の遺構が有りそうだと推測、地形的にも武士達の住む根古屋(ねこや=城将達の集落)とする谷戸(やと=谷の入口に関所を設けた住宅地)に打ってつけの地形だったので、登城口として怪しそうだと推測した…
三崎城推定範囲 久良岐のよし
諏訪神社を降りて、付近の住人の方に質問をした所やはり上に登れる歩道が有るとの事で、そちらから散策する事にした。
三崎城も、いずれ詳細に解説を書くので今回は端折(はしょ)って散歩した時の写真を載せると…
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もう、如何にも北条家の山城でございと言った定番の細さと屈曲した道。
多くの現地を自分の足で廻って自分の目で確認しないバカ学者と雑誌記者と自称歴史家は「三崎城址は跡形も無い云々」書くが、小生が地元の人に現地でリサーチして実際に登って見ると土塁も一部現存し、更に大堀切なんかがちゃんと生活道路としても残っていた。
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その場所は戦没者慰霊堂、ここが三崎城址東端で諏訪神社から見えた雑木林だ。
あの細い道を登ってくると、腰曲輪と思しき崖の上の削平地が有り、そこから台地上に繋がる場所には大人数の通行を制限し行く手を阻む構造の土塁状の盛土と、土塁を切った入口状の道が現存していた。
これ、御城ファンなら小生ならずとも見た瞬間に…
「あ、これ多分搦め手の虎口だな」
…と、解るだろう。
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この削平地を囲むように土塁状の盛土が残っている。もう間違いなく当時の土塁遺構だろう。
土塁はここしか確認出来なかったが三崎城址は、ここを通り過ぎて更に旧三崎中学校を過ぎると、閉鎖された福祉施設辺りの地形は出丸の様な掘り切られた場所に橋を架けて有ったり、土塁は現存しないモノのそこかしこに縄張りを予測可能な地形が残っている。
旧三崎中学校の前には城址案内看板が有った…
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が!
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…しかし看板の白化が激しくて見えない(笑)。
丁度、先程の土塁や堀切と推測した場所の成否も確認したかったので、市役所に移動。
市役所の方を通じて、三崎町の教育委員会で三崎城址に御詳しい方にアポを取って頂いて、詳細を御教授頂く機会を得る事が出来た。幸運だ。
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なんと、三浦市役所の来朝者対応部門以外の各施設は旧三崎中学校の校舎に移転しており、なんだか不思議な感じだった。
もう丸っきり中学校の校舎。日本の中学校に入ったのはもう云十年ぶりだ。
昼の中学校にオタクが忍び込んで変な事をしている様な危ない感じ(笑)?
ここでは、城址が破壊される前にちゃんと編纂した資料が有り、赤星直忠氏著作の「三浦半島城郭史」と言う本を御紹介頂き縄張り図もコピーを下さった。
そして、小生の質問に一々丁寧に御回答下さり、この縄張り図を渡される前に話した小生の推測が完全に調査内容と一致する事から御関心頂けたのは、歴史オタク冥利に尽きる今回の旅で一、二、の光栄な出来事だった。
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因みに入手した縄張り図はこれ。
小生が予想出来無かった事もいくつか有って…
・旧三崎中学校を取り巻く車道が、実は埋め立てられた空堀の跡だった事
・北東の谷は自然地形では無く、人工的に掘り切られた大空堀の跡だった事
・現在の旧中学校と市役所付近の失われた土塁の構造
・旧中学校校庭に大手口からの最期の関門の❝馬出し状の枡形❞が存在した事
…これらは三崎町教育委員会の方に詳細に御教授頂けなければ解らない失われた遺構だったので、本当に三崎市役所と三崎町教育委員会の皆さんには感謝しないといけない。
いずれ、宅間上杉家の殿様達の顕彰文を書く際に、この感謝の便も盛り込みたい。

さて、三崎城址は改めて事細かに書くとして、城址の一角に在る本瑞寺に久々に御参りに行って来た。
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ここも改めて解説記事を書くが、鎌倉時代には源頼朝公の別邸で❝桜の御所❞と呼ばれた。最初本瑞寺は現在の三崎銀座商店街の在る入舩(いりふね)地区に室町時代、三浦義意公が御寺を開基された。しかし三崎町が大火に度々遭い類焼したので、現在の旧頼朝邸桜の御所の旧跡地に江戸時代末期に移転して来た。
そして、先程話した古河公方の外交政策が元で勃発した北条家と三浦家の抗争と、この桜の御所のイメージを合わせて明治時代に村井弦斎によって執筆された❝創作小説「桜の御所」❞の架空の登場人物が前回の休日雑記で書いた小桜姫なのだ。
…つまり、これが小桜姫の由来、実在しなかった歴史事実と矛盾して、現在小桜姫信仰が熟女や独身女性に人気に成った正体だ。
この❝小説:桜の御所❞は都新聞(現:東京新聞)に掲載された連続時代小説で、現在の人気ドラマの様に凄まじい反響があり、そのロケ地とも言うべき三浦半島のモデルに成った場所に、いまで言う❝聖地巡礼❞の様に全国から旅行に行く人々が増え、そのモデルと成った神社仏閣や城址に参拝客が増えた。
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これが時代が下って、訳の分からないエセ霊能者❝浅野馮虚(ひょうきょ)❞と言う歴史を知らない人物が❝実話❞と勘違いして❝霊的(笑)❞に研究して本を執筆したので世間の混乱に拍車をかけてしまった(笑)。
実際には三浦義意公の本妻も側室も二人とも房総半島の真里谷(まりやつ)武田氏の姫君で、小説内に登場する小桜姫は金沢北条氏と設定されている(笑)。
三浦義意公は室町時代1500年代初頭の人物。架空の人物である小桜姫の家、金沢北条氏はそれよりも200年近く前の鎌倉幕府滅亡時に滅亡した家で、戦国時代の北条家とは全く関係が無い(笑)。これは原作者の村井弦斎が、読者を勘違いさせない為に架空の話とわざわざ解る様にした設定だった筈なのだが…
大体の女性は学生時代に真面目に歴史なんか勉強しないし、根本的に歴史に興味何か無いから、エセ霊能者の勘違いを鵜呑みにして騙される。
もっとも、浅野馮虚(ひょうきょ)の名を、日本語で訓読みに翻訳すると…
浅野馮虚(ひょうきょ)→馮虚(ひょうきょ)→馮(つく)虚(うそ)→うそつき
…と成る(笑)。だから、浅野馮虚自体も恐らく詐欺の自覚が有ったか、ギャグや三文霊能雑誌程度のつもりで執筆活動をしたのに人気が有る案件だったので妄信する輩が増えてしまったのだろ。
では、小桜姫関連の信仰が御利益が無いかと言えば…そんな事は無い。御利益は有る。何故なら小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の御正妻と側室の真里谷家の姫君は存在したから。
これについては、改めて次回の休日雑記で小生が古文書漁った知識と、三浦道寸研究会の副会長様の御見解と合わせて詳細に話そうと思う。
…エセ霊能者、本職の神職・僧侶・歴史家をナメるなよ!
三浦義意公の開基したこの本瑞寺の檀家サンが歴史を編集した小説を頂いたり、詳しく説明をして頂けたり大変、良くして頂けた。感謝。

ついでに言っておくと…
縁結びの御利益が欲しい女性は、「クレクレ言うだけじゃなくて、ちゃんと先人を敬い歴史を勉強し、御墓参りをして、三浦道寸公や三浦義意公が開いた神社仏閣や城址を廻り、小桜姫と言う架空の名前だけでは無くて❝真里谷の姫❞と実際の実家の名前で尊敬の念を表しなさい」って事だ。
…歴史を知らない偽霊能者のデマに踊らされた挙句、先人に「クレクレ」言うだけの乞食みたいな願掛けして感謝も表せないと天罰が下るぞ!
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さて、散歩に戻る。
本瑞寺の山門を下ると、実は三崎の鮪料理店として有名な❝黒羽亭❞と、寿司屋❝紀の代❞の前に出る。
以前、紹介記事を書いているので興味有る方は参考にしてもらいたい。
※【カテゴリー:旅行(風景/お祭り/食事/買物)】の中の【和食全般/居酒屋/懐石料理/旅館】の分類で書いて有るので、その中に解説記事が有る。
この三崎の商店街は昭和の風情と幕末~大正期の蔵屋敷の名残がある町で、遠洋漁業が海外拠点主流に成り寂れたが古い街並みは、ユネスコ世界無形文化遺産の❝チャッキラコ❞と言う祭りや、夏の海南神社の例大祭には活気が戻り漁師町の様相を復す。
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チャッキラコについては以前記事に書いて有るので【カテゴリー:お祭り】から探して貰えば詳しく書いて有る。
平日で人気の少ない商店街を抜けて、三崎の観光漁港❝うらり❞へ買い食いに向かった。
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ここには小生オススメのB旧グルメが有る。
三崎町観光協会は何故か三崎鮪ラーメンやトロ饅なんてゲテモノをプッシュするのだが、もっとシンプルで凄く美味しい物がここには有る。
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この店で売ってる❝鮪の串カツ❞と❝鮪コロッケ❞だ。
小生は10年ほど前に三崎漁港に良く遊びに来る切っ掛けが出来て、それ以来、三崎に来ると絶対にここの鮪串カツを食べる。
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値段も安いし、本当に美味しいから是非、皆にも食べて欲しい。
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小生は新商品の鮪軟骨入りのメンチ串揚げと、コロッケと串カツの三個をこの日の昼食にした。
ふむ、美味だ!本来B級グルメってこういうシンプルな物の筈だし、これは本当に美味しいし、どの店でも作れるのだから三崎町はこれを特産品にするべきだと思う。
これなら御土産にもなるんじゃないかな?
❝うらり❞は観光漁港なので他にも鮪の珍しい部位の肉が売っていたり…
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豊富な海産品、三浦の農産品もそろっている。
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城ヶ島に磯遊びに来たり、三崎に鮪を食べに来たら、是非、この❝うらり❞にも顔を出すと、良い御土産が揃う。
あと、今回写真は無いが黒羽亭の❝トロカルビ串❞と言うスパイス効いたタレで付け込んだ鮪の干物も御進めの逸品だ。黒羽亭は❝うらり❞に出店していないので、店で購入するしかない。

さて…
三崎漁港と三崎町の散策を満喫し、三浦市役所と三崎町の教育委員会の方、本瑞寺サンに大変親切にして頂いた事を感謝しつつ、今回の3連休とってまで三浦に来た目的の本命、❝三浦道寸公と三浦義意公の500回忌の献花❞をする為、車に乗り込み油壷に移動した…

→③へ続く。

実は、神奈川県には日本の歴史上最長の4年間もの長期間に及んで継続包囲された城、つまり防御力に優れた堅城が存在した事を知る人は歴史オタク以外には現代では余りいません。
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その名も新井城です。
そして、この新井城は戦国時代の幕開けに関与した佐原三浦家の御城なのですが、その佐原三浦家の事と戦国時代が如何にして始まったかも学校では教えないの根本的に三浦家が戦国時代まで存続していて大名だった事すら知らない人が多いのですが…

神奈川県と東京都と埼玉県と千葉県

…この地域が戦国時代の始まりの地域である事を御存知の方は全国的には少ないと思います。
更に言えば、鎌倉市浄明寺地区が戦国時代の幕開けと成った永享の乱の舞台で有る事を知る神奈川県民も非常に少ないのが現実です。
そこで、新井城の風景写真を見る前に、先ずは当時の歴史状況を解説したいと思います。
足利持氏邸古址周辺 久良岐のよし
この戦国時代の幕開けに始終関与したのは鎌倉の将軍=鎌倉公方と、その鎌倉公方と対立したり支持したり離合集散を繰り返した2家の大大名と1家の大名です。
それが…

鎌倉公方足利持氏→鎌倉(古河)公方足利成氏。
二つ両引き
足利家の二つ両引き紋

山内上杉家:今の埼玉県北部~群馬県~新潟県の大名達を支配した室町幕府(京都の征夷大将軍)の直臣。
扇谷上杉家:今の神奈川県~東京都~埼玉県の大名達を支配した鎌倉府(関東東北を治める将軍)の直臣。
竹に雀紋
上杉家の竹に雀紋

三浦家:今の神奈川県中部~三浦半島が所領の大名で平安時代以来の古豪。
三つ引き両紋
三浦家の三つ両引き紋

…以上の大名達の政権争いに鎌倉公方の室町幕府将軍への反抗心が大規模な戦乱に繋がり、そこに室町幕府の将軍に成る権利をクジ引きで引き当てた足利義教と駿河今川家の介入が加わった事で、今度は関東の武士団が反上杉独裁体制で蜂起し鎌倉公方足利持氏公に加担し、戦国時代の幕開けと成りました。
この政治的要因の舞台が鎌倉に在った事の他に、戦国時代が始まる切っ掛けは日本産の銀相場の世界での暴落、地球規模で気候が小氷河期の様に成り作物が取れなかった事も関係が有りました。
つまり纏めると…
戦国時代は、以下の様にして起き段々と西日本へと波及して行きました。
小氷河期で作物が取れず政治が乱れていた時に、足利幕府征夷大将軍4代目の足利義持公の急死で、くじ引きで将軍に成った足利義教への諸大名の不支持。それに因(よ)る鎌倉公方足利持氏と征夷大将軍の対立。
征夷大将軍と鎌倉公方をそれぞれ支持する大名同士の対立。
銀相場の下落が、貨幣価値の混乱を招き、庶民が土蔵(両替商や金貸し)を襲った❝嘉吉の土一揆❞や、応仁の乱の京都市街戦で関西中部中国地方の武士による京都の商人や寺院への略奪で、経済の疲弊した馬借(陸運の物流商人)や寺院と庶民が権利回復の為に連合して起こした❝山城国一揆❞等に繋がって行きます。
三浦家勢力 久良岐のよし
※地図上の城は大まかに有名な場所だけ表示。
そんな戦国時代に最も早く入り、領土争いを繰り広げたのが伊豆の伊勢家(後の北条氏)と、現在の伊勢原市~三浦半島辺りまで支配していた三浦家の抗争です。
この抗争の発端は、古河公方と今川家の外交戦略によって起きました。
今川家と今川家臣だった北条(当時の姓は伊勢)家は、永享の乱で室町幕府に滅ぼされた鎌倉府公方足利持氏公の遺児で古河公方と成り、今の埼玉県の久喜市栗橋に在った栗橋城や古河城に居た足利成氏公を支持していました。
永享の乱については以前、榎下城の紹介記事にも少し書いています。
※永享の御興味有る方は「ココ」←クリックして榎下城の記事を御覧下さい。
鎌倉公方足利持氏公は切腹させられたものの、遺児の成氏公は後に幕府の8代将軍足利義政公により承認され鎌倉公方に成りました。しかし、御父君を切腹に追い詰めた関東管領上杉家との対立は解消されず、その後、関東管領上杉家連合vs鎌倉(古河)公方足利成氏連合の大規模な戦争に発展します。
それが、❝江ノ島合戦❞です。
この戦いでは鎌倉公方郡に付いた関東諸大名の活躍で、上杉家連合軍は敗北します。
そして元は鎌倉公方派であった扇谷上杉家が、山内上杉家と再び対立する事と成り、扇谷上杉家は古河公方に近づき、今川家と伊勢(北条)家も古河公方を支持しています。
その事が伊勢家が、古河公方と対立する伊豆の堀越公方を責める大義名分と成りました。
しかし…
二つ両引き竹に雀紋
しかし後に、古河公方と山内上杉家が和睦してしまった事で、山内上杉家が支持していた堀越公方から伊豆を奪った伊勢家は、伊豆支配の大義名分が無くなりかねない事態に陥りました。
それまでは三浦家と伊勢家は共に山内上杉軍と戦う事も有る盟友だったのですが、対立せざるを得なくなった様です。
二つ両引き竹に雀紋三つ引き両紋
    VS
 三つ鱗紋
伊勢家は伊豆支配の正当性を主張する為(ため)に鎌倉幕府執権北条家の伊豆に残っていた一族に婿養子に入る形式をとり名跡を継ぐ事で、その支配の正当性を保ちました。
これが、切っ掛けで伊勢家は2代氏綱公より北条氏綱を名乗る事に成り、1509年に古河公方足利家の内紛、❝永正の乱❞が勃発した混乱の中で、今川家からも独立し単独で大名と成り、領土を相模国へと広げて行く事と成り、岡崎城を巡って三浦家と北条家が争って行く事と成りました。
そこで、もう一度、この時点での神奈川県内の各大名の支配する城を見てみましょう。
三浦家勢力 久良岐のよし
この頃、上杉家も伊勢原市や厚木市に拠点が点在し、三浦家の拠点も岡崎城まで保持しています。
しかし、岡崎城を巡る攻防は断続的に10年間続いた後、等々、北条家によって陥落させられて、三浦家は東の今の三浦半島の付け根に位置する逗子市に在った住吉城にまで後退します。
この岡崎城も又、断続的とは言え名将北条早雲公が攻略に10年を要した事から日本屈指の堅城だった事が窺(うかが)い知れます。
※以前書いた岡崎城の解説ブログ記事は「ココ」←クリック!
更に住吉城も落とされると、最後は新井城に追い詰められ、ここで日本最長の4年間も三浦家は包囲されたまま過酷な籠城戦を展開します。そして、その新井城の堅城ぶりと、鎌倉武士三浦家臣団の維持と強さを見せつけて滅ぶ事に成る訳です。

…ここまでで、新井城を巡る攻防が如何にして発生したか、歴史背景は御理解頂けたでしょうか?
では、次は新井城その物の構造について写真と伝承を交えて解説していきます。
新井城は、三浦半島の特殊な断崖と谷戸に何重にも囲まれた細長い自然地形に手を加えた堅城で、その谷間は並みの城の空堀では到底及びもつかない深さを誇っていました。
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今でこそ、御覧の様に浜辺に❝磯❞が見えていますが、これは大正時代に起きた関東大震災の際に三浦半島が最小でも50cm隆起した事で、戦国時代の海底が露(あら)わに成っているんですね。
…つまり、昔の三浦半島の地形は、入江の一部を除いては断崖雪壁の下は本当に上陸する余地も無い海だった訳です。
しかも
新井城址の主要部分は現在の油壷湾の所在地、京急油壷マリンパークや東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所(地震観測所)の在(あ)る半島一帯です。
荒井城主の佐原三浦家は平安時代~の関東流の築城術を受け継いでいます。
他地域では余り無いのですが、関東流の築城術では山の尾根の崖の両側を垂直に削り込み、通路幅の狭い城壁の様に加工してしまうので、この様な断崖絶壁上の起伏を削り、隘路(あいろ)に敵を誘い込み、或いは空堀で遮断し、断崖から敵を突き落としたり逃げ場の無い場所で弓矢を射掛けてハリネズミにし敵を殲滅する構造が幾重にも設けられていた訳です。
そして極め付けが、敵勢の侵入を防ぐ何重にも設置されていた断崖絶壁に掛かる引橋です。
引橋の位置は、現在に伝わる伝承と残存地形から十分把握出来ます。
三浦子供風土記
この資料は、三浦市教育委員会が編纂した❝三浦子供ふど記❞と言う本です。
三浦市の教育委員会は素晴らしいですね、土地を開発する際もちゃんと事前に調査をして建設会社に有利な嘘の報告をせず、先人へのリスペクトと地元の伝承を後世に伝える努力を為(な)さってる。
全く歴史のスペシャリストをメンバーに入れない史跡破壊容認が得意な金満土建屋のお友達、横浜市教育委員会とは大違いだ。
さて、この三浦の歴史を子供にも解る様に纏(まと)めた本の中に、新井城の構造に触れる伝承が沢山掲載されています。
先ずは、城の守りの要、大きな空堀状の渓谷の交通を遮断する❝引橋❞は数カ所有った事が解ります。
一番外側は現在も❝引橋❞の地名が残っています。丁度、その場所には現在❝引橋❞のバス停が有る辺りです。
そして、伝承の❝合戦場(江戸時代の城の三の丸の様な場所)❞の前に、伝承通り堀切状の地形が残っている事から、そこが❝内の引橋❞で有る事が解ります。
外側の引橋には、昔、人の良い老夫婦が住んでいて、北条家の偵察と気が付かずに、そのスパイに色々と新井城や三浦家の殿様の自慢をして話してしまったそうです。この老夫婦は、北条家が攻めてくると自分が話した相手が北条家のスパイだったと気が付いた様で、「三浦の殿様に申し訳ない事をした」と後悔して夫婦で自害してしまった悲しい伝承が残っています。
実は類似した伝承が扇谷上杉家の居城の一つだった藤沢市大庭城近くの船地蔵地区にも残っていて、やはり北条家のスパイが老婆に根掘り葉掘り、城の構造を聞き出したそうです。
…ですから悲しい御話しですが、引橋の老夫婦の伝承は実話でしょう。
どうも、生粋の相模国人の気質と言うのは老人程郷土愛が強く成り、又親切心が強くおしゃべりな様ですね。

では、引橋と新井城主要部分の位置関係を見てみましょう。
新井城周辺 久良岐のよし
小生が確認出来ただけでも、最低4カ所は大堀切と引橋の遺構と思われる地形が現地確認出来ました。
先ず、【引橋&堀切地形】と書いた場所が該当する地形です。
大外側、が(1)とした部分で、そこの辺りに戦国時代に老夫婦が茶屋を営んでいた様ですね。
段丘に登って来る渓谷が幾筋も、その(1)の地形に集まっていますので、現在のバス停の名称「引き橋」とも整合性が有ります。
ついで、❝内の引橋❞と呼ばれる場所が(4)と示した場所です。DSC_0187
この現在は遊歩道の入り口に成っている、元・東大の地震観測所の入り口の手前に、記載通り、内の引橋の堀切と思しき地形が在ります。
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ね?当時かなりの深さの空堀が穿ってあったのが現在も判断できる地形です。
反対側はこんな感じ…
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やはり、谷間です。この現在の道路は、後世埋め戻されたんでしょうね。
しかし、この2カ所以外、その手前にも道路として埋め立てられたと思(おぼ)しき両側が堀切状の地形が2箇所有りました。それが(2)(3)です。
又、不明瞭ながらも堀切と怪しい地形も他に幾つか有りました。。

話題は逸(そ)れますが、この本の堀切の老夫婦の伝承を紹介している❝三浦子供ふど記❞中で戦国時代三浦氏の祖先として解説されている佐原義連(さはらよしつら)公は源義経と源範頼兄弟による今の神戸に在った福原攻めの際に、有名な作戦❝鵯越の逆落とし❞を立案し提言した軍師だった事が伝わっています。因みに、この作戦を成功させた功績も源義経では多田源氏の多田行綱公の実績だと現代では解っています。
堀切の説明はココまでにして…
城址の訪問方法と景色の紹介をします。
城址を訪れる場合は最寄駅からバスか、車で行く事に成ります。
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この看板の通り、油壷マリンパークの駐車場が便利です。
小生は現在地と書かれた無料の駐車場を利用しました。
ここにバス停も有ります。
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便数が以上に少ないので、電車バスで行く人は気を付けた方が良いですね。
因みに、この場所には売店が在りまして…
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この売店「はっとり」さん。
この看板娘の御婆ちゃんが三浦家の事を非常に御詳しく、三浦道寸(どうすん)公と三浦義意(よしもと)公の御廟所の場所を聞こうと思って話しかけたら…
歴史オタクの小生が話す前に、御婆ちゃんの口から出るわ出るわ、三浦家関連の拠点の話や三浦家の殿様が何で最後まで抵抗したかの理由なんかが。
…三浦の人は今でも郷土愛が強いんだね~。
だから、ユネスコに世界無形文化遺産登録された❝チャッキラコ❞って御祭りも現在に残っていたりするんだろうね。
そして、なんだか引橋の伝承の老夫婦も、この御婆ちゃんみたいな感じの優しい人だったのかも知れませんね~。
※世界無形文化遺産の御祭り❝チャッキラコ❞に関しては「ココ」←クリック!

さて、御城の解説の続きです。
ぶっちゃけ、城址としては遺構は余り現存していません。
しかしながら、先に紹介した❝内の引橋❞から遊歩道に入ると、いくつかの遺構が見られます。
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この場所の奥の左側に民宿等の看板が有ります。
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ここを入って下さい。
ここに入ると、神奈川の景勝50選の油壷湾を望むポイントに行けるのですが、そこまで行く手前に東大の研究施設の門が有ります。
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確認するには油壷の半島と反対側に行かなければいけないのですが、伝承では、この東大の施設沿いの遊歩道下の岸壁の中腹に穴倉が有るそうです。
その穴が❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞と言われており、兵糧が貯蔵されていた遺構だそうです。
岸壁に矢倉を組んで穴を改修して穴倉として利用したんですね。
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この崖下に穴倉が有るらしい…
三浦市教育委員会の解説によれば、一駄は米2俵だそうで、つまり千駄とは米2千俵を貯蔵した場所と言う意味に成る様です。

2千俵を石高に換算して見ましょう。
1石=米俵で2.5俵です。
ちなみにkgに換算すると、1石で❝150kg❞です。
そして荷物の単位の1駄とは、輸送に使う馬に乗せれる量の単位で、米俵で2俵。
千駄=2000俵の米俵
2000俵÷2.5=800石
つまり、補給路が立たれても800石の臨時食料が保管出来ていた訳です。
小生の様な歴史好事家(オタク)でもないと石高で言われてもパッとしないでしょう?
では石高を動員可能兵力に換算して考えてみましょう。
だいたい、1万石で雇用可能な兵力を元にして考えると一般的な定説では以下の様に成ります。
防衛時…1万石=500人前後
遠征時…1万石=300人前後
では、これを元に800石で、どれくらいの兵力を雇えるか計算してみましょう。
新井城の戦いは城主三浦家が防衛側です。ですから防衛側動員数の基準です。
1万石=500人 800石=1万石の8% 500人×0.08=40人…
40人とか少なッ!
…と思った人!別に、この蔵の中の米は全兵士を養う為(ため)じゃなくて、非常食兼、城主と城詰めの職員の常備食ですからね!
戦時下では、各部隊がそれぞれ兵糧を持参しています。

米の話が出た所で、「何で4年も籠城出来たの?」と疑問が湧くでしょう?
それはですね…
新井城の地形 久良岐のよし
新井城の所在地は、現在でも御金持ちのヨットハーバーが有る港湾に適した地形なんですね。
だから備蓄米が底を突いても、水軍を保有する協力者が居て外部から食料と弓矢を補給し続ければ、勝敗が着くまで何年間でも籠城が可能に成る訳です。
そして、この新井城址には昔から民家も有ったので、恐らく塩水じゃない飲み水に適した淡水が湧く井戸が有ったのでしょう。

では、この新井城の三浦家を支援する同盟関係に有り、尚且つ三浦半島周辺を自由に航行出来る水軍を持つ勢力はいるのでしょうか?
新井城と房総の位置関係 久良岐のよし
います。
二つ両引き二つ両引き紋
この足利家の家紋を持つ三浦家の同盟者が房総半島の岡本港を掌握しています。
その名も❝里見家❞ですね。
この里見家は現代で言う所の小説家に当たる江戸時代の❝曲亭馬琴❞が書いた❝南総里見八犬伝❞のモデルに成った家でもあります。この南総里見八犬伝はバブル時代に❝里見八犬伝❞として薬師丸ひろ子サンと真田広之サン主演で映画にも成っています。
里見八犬伝
う~ん…薬師丸ひろ子サンが若くて可愛い。
この里見家と三浦家は協力関係に有ったので、房総半島の穀倉地帯から絶える事無く兵糧が運び込まれた訳です。
因みに、この新井城の攻防が因縁と成り、その後、小田原を本拠地にする北条家と里見家は戦国時代が終結するまで対立する事に成りました。
さて、この新井城が長期籠城に耐える地形的政治的条件に合致していた事が、ここまでの説明で御理解頂けたでしょうか?

では防御施設その物の遺構の有無を見てみましょう。
ぶっちゃけ、土塁や空堀の遺構が現存するハズの東京大学の敷地は当然無許可で入れません。
しかし、曲輪の遺構と思しき盛り上がりのある地形は数カ所見て取れました。
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東京大学の敷地に入る裏口側は、堀底道を利用した?と思える地形でした。
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この空堀状の地形が現代に設けられた地形だとしても、両横の曲輪遺構と思しき台地状の地形はハッキリと残存していますね。
入らなくても、遠目にいくらか確認出来ます…入りたい。今度、東京大学に予(あらかじ)め連絡して許可を貰って見学させて貰おう。
三浦市の教育委員会は歴史の伝承に熱心なので、ちゃんと遊歩道には説明の看板が有ります。
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先に説明した関東大震災の事が書かれていますね。
この隆起した元海底の地形は、遊歩道から下の海岸に降りると見られます。
地形は【後編】で「神奈川の景勝50選油壷湾」と周辺の風景紹介として別記事に書きますね~。
他に丁寧にも説明が幾つも有ります。
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これは神奈川県民の中の歴史好きに有名な話。
油壷の地名の由来。
…実は、4年間の合戦中に戦死した兵士の死骸が現在の油壺湾に満ち満ちて、血油で丸で油の壺の様な風景に成ってしまったそうです。
防衛側も敵味方問わず戦死した将兵の遺骸を城内に置いておくと伝染病が蔓延してしまうので、当然放置できないので海に投げ入れて水葬したりしたんでしょうね。4年間も籠城戦をやれば結果的に、伝承通りに成ると思います。
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まぁ、そんな凄惨な攻防戦が行われた新井城址ですが、風光明媚で昭和には神奈川の景勝50選の一つに選ばれた場所なので、明治時代の文化人達からも愛された様です。
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さて、遊歩道を進むと二手に分かれますが…
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直進すると引橋の遺構の様な地形が有り、その先には狼煙台か何かに使えそうな地形が有ります。
この↓奥のこんもりした森ね。
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戦国時代当時は、この砂浜は海の底で、その森は小さな半島が堀切で断ち切られて離れ小島状の地形だった筈です。
新井城 狼煙台と思しき地形周辺 久良岐のよし
位置関係はこんな感じ。
まぁ、城址としての遺構は概ねこんな所でしょうか?
あと、一カ所、当時の退避用の船着き場と思しき地形が、三浦道寸公の御廟所近くに在りました。
位置は上の画像で確認して下さい。
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この京急油壷マリンパークのゲートを通らず、反対側の海岸に降りる遊歩道の先に在ります。
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この遊歩道を歩いて行くと、道寸公の御廟所の説明が有ります。
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この看板の先…
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ここが三浦家最後の当主、道寸公の御廟所なのですが、この地形も城塞の一部だった筈です。
この御廟所の右手が竪堀の様な地形で海まで下る斜面に成っています。
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この右の斜面。
当時は海面が今より高かった上に、大正時代の隆起で三浦半島は戦国時代より50cm隆起したので、その場所は昔は海に降りる斜面で、隠し船着き場かなんかだった様に思えます。
そして、この道寸公の御廟所が、正に、切腹の場所で有り、三浦道寸の跡継ぎだった猛将❝三浦荒次郎義意❞公の❝300人切り❞の活躍の場だと思います。
余談ですが、❝荒次郎❞と言う名前は平安時代から三浦家の次代の跡継ぎに成る人物が名乗る名前でした。
新井城で活躍した三浦義意公は、生粋の平氏の子孫の三浦家では無く、父の代に扇谷上杉家から三浦家に養子に入った人物でしたが、荒次郎を名乗っているので三浦家の伝統をちゃんと受け継いでいた様ですね。
実は、三浦義意公、刀や弓や槍では無く、木の棒に鉄板と突起を付けた棍棒状の武器で、最後の戦いで北条方の兵士300人を殴り殺した伝説が残っているんです。
この伝説も、普通に考えると嘘くさいのですが、この新井城の地形を利用すると可能に成る訳です…
つまり、敵兵が1人づつしか通行出来ない引橋や隘路の上で、長大な❝釘バット❞で殴り殺すのではなく❝海に叩き落とす❞戦術を取れば300人倒す事も現実的に成る訳です。
昭和世代には解ると思いますが、昔、❝風雲たけし城❞と言うバラエティー番組が有りましたよね?
風雲たけし城アドベンチャーゾーン 拝借画像
アレのリアル版ですよ。
細い道を落ちたら浅い安全な池じゃなくて…
30kgの甲冑や刀装備したまま海に落ちて溺れ死ぬ。
鉄の釘バットで殴打されても顔面や手や肩が骨折して悶絶する。
凄惨な風雲たけし城。
※風雲たけし城を知らない世代はYoutubeで検索して見て下さい。
…まぁ、バラエティーはさておき、義意公が何で一人で戦う様な無茶な事をしたのかも、現代に成っても地元にはちゃんと伝承していました。
その活躍を語るに当たり、最初の方で紹介した、御土産屋さんの御婆ちゃんの御話を紹介したいと思います。
その御婆ちゃんの新井城の戦いに関する御話はコンナ感じでした…

「三浦家の殿様が何で逃げずに最後まで残ったか解るかい?」
「三浦家の殿様は、女子供や罪の無い身分の低い家来を全員船で房総半島に逃がす為に最後まで残って戦ったんだよ」
「今でも、その時に殿様に逃がされた家来の子孫達が日本中から御墓参りに来るんだよ」
「7月11日に成るとね、命日だから、又御墓お掃除しなきゃね~。」

その、御婆ちゃんが掃除すると言っていたのが先程紹介した道寸公の御廟所と、義意公の御廟所です。
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義意公の御廟所は、冒頭で掲載したこの写真の場所の横です。
親子で少し離れた場所に在るんですね。
小生、この御婆ちゃんの話を聞いて、自分が文書を読んで予想した事と、地元に伝わる伝承が合致してビックリしました…
「切腹したり逃げずに一人で戦うような無茶な事をするからには、何かを守る為に戦う以外に無い!」
…小生はそう推測していました。
それが、御婆ちゃん達、三浦家所縁(ゆかり)の地元の人々にちゃんと伝承していて、❝戦争に成った責任の無い身分の低い家来や女子供を逃がす為に最後の決戦に挑んだ❞と解り、小生の推測が伝承で証明された訳です。
この話を聞いて、帰路、車を運転しながら泣きました。
「最後の一人が逃げるまで、僅かな近習(きんじゅう=近衛兵)と共に敵兵に挑み、守るべき人達が逃げ切ったのを見て敵に突撃し討死した」殿様の気持ちを考えるとスンゴイ泣けました。

そしてこうも思いました。
神奈川県には源義家公や源頼朝公、平良文公や鎌倉景正公や三浦義明公、太田道灌公や北条早雲公や北条氏康公、北条綱成公みたいな有名な武将も沢山いらっしゃったけれど…
この三浦荒次郎義意公の事も、それと同じ程、後世に伝えて行かなければいけない、そんな名将だなと。
必ず、横浜の間宮家や蒔田吉良家や宅間上杉家の殿様達の事と、この三浦義意公の事を小説や顕彰文に起こして世間の人に再認識して貰う手助けや、御祭りを企画運営して地域産業としても殿様の名前を借りて三浦の油壷地区の町起こしを企画して、伝統に成る様な殿様の名前と事績の伝承の伝え方を創生したい。
そう感じた訪問でした。

【後編】油壷の風景は「ココ」←クリック!

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!






  


水曜日は昼から藤沢市の大庭城址公園に行って来た。
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戦前のカタカナ送り仮名は若い人には読み難いので石碑の碑文を平仮名に書き下すと…

この地は大庭景親(おおばかげちか=平安末期の武将)の居城と云(い)う、
後、(扇谷)上杉定正が修(おさ)めて居城せしが、永正9年、子の(扇谷上杉)朝長(ともなが)の時、北条早雲に攻め落とされ是(これ)より北条氏の持ち城と成った。
廃城の年代は未詳(みしょう=くわしく判らない)、空塹(からぼり)の蹟(あと)等(など)當代(とうだい=その時代)の城郭(じょうかく=御城)の制(おさえ=構え=構造)を見るに足(た)るが有る。

はしょって現代語にすると…
ここは大庭景親って武将の御城の跡なんだけれど~、後に上杉さんの御城に成って更に北条さんの御城に成ったんだけれど~空堀とか良く残ってて戦国時代の御城の良い教材だよ~
…ってせっかく昭和初期の神奈川県知事以下職員や教育者が石碑を建てたのに、現在では城址は半分ぶっ壊されて宅地にされちゃったんだよね。
石碑は昭和9年、今の建設業界と密着した腐れ教育委員会や利権政治家と違って当時の文化度の高かった県の行政によって保護されていた大庭城址に建てられた石碑。
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※空堀と土塁↑歴史興味ない人には只の雑木林にしか見えないだろな。
水曜日の訪問で大庭城址公園は3度目の訪問に成る。
前の携帯(ガラケー)の写真をバックアップしてなかったので、同城址の写真を再度撮影に来た次第だ。

ここは、寂(さび)れた管理事務所に実は戦国時代の城入門者には打ってつけの常設展示資料が有るんだな。
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小生も、御城に本格的に興味を持ちだした8年前位に来たのが最初で、良い勉強に成った。
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桜も綺麗な城址なので、是非近隣の人には先人の記憶を辿(たど)る散歩がてら、花見に来て欲しいなぁ~。

実は、この日のドライブの目的地は、この大庭城址を当初は含めて3カ所だった。
もう一つは地図を見ていて城址の近くに❝宗賢院❞と言う御寺を見つけたので、そこに行くのは既に決めていた。
実は❝宗❞の字が使われる御寺は、概(おおむ)ね曹洞宗の御寺で、戦国大名の北条家は曹洞宗の禅の修行を配下武将達に取り入れさせる目的で多くの曹洞宗の御寺を保護した歴史が有ったので、大庭城址の南側大手に当たる位置の宗賢院サンも北条家と必ず関係が有るだろうと推測しての訪問予定だった。
それともう一つは…
綾瀬市の早川城址公園に散歩に行って写真を撮ってくる予定だった。
でも、大庭城址に行く途中、車の中で…
「ん?そう言えば大庭城址公園の近所には延喜式内社の大庭神社が有ったな…そっちを優先するか!」
…と気が変わり、結局、当日回ったコースはこう成った。
●大庭城址公園
再訪問して管理事務所で大庭城落城のきっかけの船地蔵の伝承を知った。
 ↓
●船地蔵の近くのコンビニに移動、車止めて船地蔵を御参り。DSC_0324
船地蔵由来の御婆さんに、安らかに眠って下さいね、これからも地元の人と大庭城を見に来る人を見守って下さいねと御願いして来た。
 ↓
●大庭神社に移動する心算(つもり)が、セルフカーナビ(自分の記憶)ではなくて車の❝くそカーナビ❞に任せたらスゲぇ~遠回りされて、思いがけず別の神社経由で遠回りされた。
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実は、この思いがけない山王社参拝で、氏子サンが石碑に残して下さっていた、この神社の歴史を読んでいて藤沢のこの大庭の地に戦時中は海軍飛行場が在った事を知った。
貴重な訪問と成った。サンキューくそカーナビ(笑)。
 ↓
●山王社の坂を降りて大庭神社に行く途中で成就院と言う真言宗の御寺を見かけた。大庭神社との位置関係上、江戸時代までは大庭神社の別当時だった可能性が有ると推測出来たので、帰りに寄る事にした。
そして大庭神社へ…
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神社は今も立派な境内を抱えているのだけれど、残念ながら宮司様不在の荒廃ぶり。
ここは由緒正しい延喜式内社なのに、こんな有様なのは悲しすぎる。
本来は神奈川県神社庁が資金を投入しても神主様を常駐させ、もっと参拝客を増やす努力をしないといけない場所なんだと思うけれどなぁ~。
でも逆に明治の廃仏毀釈の影響を受けず境内には貴重な梵鐘も有った。DSC_0340
奈良時代~江戸時代が終わるまで、歴代天皇が大切にされた文化が、この式内社には残っていた。
きっと、この大庭の御厨(みくりや)を開拓された鎌倉の権五郎御霊神社の御祭神である鎌倉景正公や御子孫の大庭景義公、後にこの地を治めた扇谷上杉定正や太田道灌公、北条早雲公や北条氏綱公も、この鐘の音を聞いた事だろう。
そして、古来の日本の宗教としての大庭神社も参詣し、この土地を開発した平安時代の鎌倉景正公や古代~奈良時代の先人に感謝の念を抱いたのかも知れない。
 ↓
●大庭神社を御参りし終わって、近所の成就院に移動…
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門前の看板を読むと予想通り、明治時代の廃仏毀釈神仏分離令で仏教弾圧されるまでは、大庭神社を守っていた別当寺だった。
大庭神社は、この成就院さんと切り離されてしまったから荒廃したんだな。
だいたい、鵠沼とか3kmも離れた神社の宮司様に管理させる自体ナンセンスな気がする。
住民と顔つき合わせて普段から話すチャンスなんか無いだろう。そりゃ、地域住民も宮司様への親しみも感じる以前の問題に成るから、当然、宮司様との距離が地域住民との距離に成って行くだろうな。
もし、更に地元の人との郷土文化を保存する気概が有り効率的に古社に対する信仰心を維持する気概が神奈川県神社庁に有るならば、この管理体制は改革させるべきだと民間人としては思う。
どこの業界でもエリアマネージャーや支店長管轄区ってのは地域で担当区分するのが常識的かつ効率的な管理手段なのだから。
別に昔の様に御寺サンに御任せする代わりに、御住職に神事も勉強して貰えば良いのだし、逆に明治以降のまま神仏分離で棲み分けが共存に繋がると意固地に思うのであれば、神社の管理は明治時代の宗教観を忠実に復古して、郷社や村社の制度を再導入させるべきだろう。
地域ごとにそれこそ昔の様に郷社や村社といった神社の管理区分を明確にしたら管轄が地区ごとに集約出来るし神職者への資金分配や管理が行い易くて良いだろう。
そして、管理事務所兼戸建て宿舎を建設し、所管の神社の禰宜さんを支店長みたいに住ませ所得の低い内の家賃手当代わりに神社の保全に務めて貰った効果的なんじゃないのかな?
これから益々外国人が増えるんだから、本来の神仏習合のAll Japan体制で移民による文化破壊を食い止めないと、宮司不在の神社なんか無文化政治家の土建屋マッチポンプで瞬く間に強制移転や破壊対象にされてしまうぞ。
…なぁ~んて考えさせられる良い機会にも成った。
 ↓
●当初からの訪問目的である、宗賢寺さんに移動。
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結構な規模だった。
意外な発見も有った。
開基は1505年と伝わるが、平安末期の大庭城主大庭景親公所有の陣釜が有るなど、平安末期には前身の大寺院として同地に存在した匂いがプンプンしたが、やあはり戦国時代に移行する前の室町時代の大庭城所縁の上杉家と家宰太田道灌公の足跡が沢山御寺には残っていた。
自分の推測を御寺の家人に提起した所、目を白黒されて聞かれていたが、色々と御納得頂けた様で、檀家信徒以外読む機会の無い、戦国時代以降の寺史を纏(まと)めた書籍を貸与して頂けた。
最初、是非、これを御貸ししたいと本を手渡された時は「次、いつ参拝出来るかも解らないので無責任に拝借出来ません、購入させて頂きます」と固辞したのだが…
小生の人格を初対面で信頼して頂けた様で、「1年先でも2年先でも返却は良い」と、御好意の御言葉を頂けたので、恐縮しながら宗賢院様の歴史の本を拝借して帰路についた。
 ↓
●何か真っすぐ帰るのがシャクだったんで、大庭城と同じくガラケーでしか写真撮影していなかった藤沢市の村岡城址公園に帰り立ち寄って、改めてバシャバシャ写真とってきた。
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やっと満足して帰ろうと思ったら…
 ↓
●先週買ったジーンズの裾上げ頼んだまま引き取って無かったので、帰りに取って帰って来た。
又、徹夜だったので、帰宅し記事更新しようとしたら直ぐに寝落ちしてしまった。

今回の活動の主な範囲…
大庭城周辺
こんな感じ。横浜からは20km位離れてるけれど、藤沢市内では極めて狭い大庭地区周辺だけ。
あとは鎌倉との市境の村岡城址。因みに、藤沢市は昔は旧鎌倉郡で鎌倉の一部だったんだな。
今回参拝した山王社で、大庭に戦時中は海軍飛行場が在ったと知ったので、終戦直後の米軍が空撮した写真を見たら本当に荏原製作所の所在地が空港だった…
大庭城周辺(昔)
Google Earthに当時の写真を重ねるとこんな感じ。
右側の白い線が滑走路だね。
この広大な平地に昔は山王社が在って、大庭神社と並んで村民の崇敬を集めて、昔は村の御祭りなんかで賑わっていたんだろうなぁ~。

そう言えば…
大庭神社を含めて神奈川県神社庁は早急に復興するべき神社がいくつか有ると思う。
それは…
●大庭神社 藤沢市稲荷 合わせて古代の旧社地である大庭の現熊野社。
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
鵠沼の皇大神宮の管理。
●高部屋神社 伊勢原市下粕谷 
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
伊勢原大神宮の管理。
●杉山神社 横浜市緑区西八朔
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
川崎市麻生区の琴平神社の管理。
●烏山八幡宮 横浜市港北区鳥山
平安時代~鎌倉時代の名将で醍醐天皇の御実弟で沙沙貴神社の御祭神である敦実親王の御神孫に当たる佐々木高綱公の居館跡に開かれた立派で由緒有る八幡社なのに神主不在。
横浜市東神奈川の熊野神社の管理。
●森浅間神社 横浜市磯子区森
源頼朝公が海岸の断崖にコンコンと湧き出る滝の在る同所に神仏混合崇拝の修験道の山伏の修行場を兼ねて鎌倉幕府の陣所と合わせて開いた由緒ある神社な上に、鎌倉幕府最後の将軍を匿った場所だが、過去の横浜市による社地接収と団地と宅地造成により、周辺から存在を認知され難い不利な立地にされてしまっている。
関東武士団の鎌倉文化の醸成地の一つで有るだけに、もっと資金を投入し支援するべきだと個人的に感想を持つ。

由緒ある延喜式内社や凄まじい歴史偉人の関与と、古代からの遺跡や自然湧水等のパワースポットが境内や近所で確認出来るの神社を神主非常駐にせず、せめて管理神社の禰宜サンを常駐させるべきだと思う。
宿舎も兼ねた管理棟を県の文化財管理棟として建てて、禰宜さんの宿舎兼支店営業所的な運営させるべきだと思う。
そうする事で若い世代の神職サンの生活も安定させられる上に、神職者と住民の距離も近くなり親近感も湧き往時の信仰心と日本の文化を復古に役立つ事も出来るのでないだろうか?
なぁ~んて考えさせられた、今週の水曜日でした。
しょせんは歴史好事家(オタク)の世迷言。

今回、写真撮って来た城址や神社仏閣は、いずれ解説記事にちゃんと書きますよ~♪
さぁ~て、今日こそは綾瀬市の早川城の写真をとらないと…
来週再来週には桜が咲き始めてしまうので、今度は桜の名所巡りしないといけないからね。
そろそろ藪蚊と虻が増えてくるし、今年の古城廻りシーズンは終了かな?


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