歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:伊藤博文

小生の住まう場所は横浜市最大最後の蛍の大生息地である円海山の長い坂を下った辺りでして、そこから良くピカソと言う港南区港南台のドン・キホーテ系列の店に買物に行くのですが、その隣に韓国料理屋が在(あ)ります。
経済産業省から何とかって賞(笑)を頂いてる店で焼肉を押している店ですが、韓国の家庭料理がとても美味しいんです。
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羅生門
小生は今でこそ韓国人の中の反日思想を敵対的に観察していますが、本来は韓国料理や韓国文化はソレはソレ、コレはコレと分けて考えていて好きです。昔は韓国人の友達も沢山いました。
今では疎遠ですが。
韓国料理は今でも好きなんですよ~。
それで、ピカソに買物に行くとたまに羅生門で‟焼肉じゃなく(笑)”て韓国料理を食べます。
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羅生門は新しい店ではありませんが店内もとても綺麗で、でも家庭的な雰囲気も有ってとても好きなんです。
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まぁ~一般的な日本人の韓国料理に対するイメージって焼肉なので、ここも焼肉のコンロがあり焼肉屋としても横浜市南部では名店として名が通っています。
最近食べた物ですが・・・
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テグタンのクッパ
テグタンってのは大邱(テグ)と言う都市の郷土料理で、牛骨と牛肉を煮込んで出汁をとった見た目と違って優しい味のスープでして、クッパなので、それに御飯が投入されています。
これで830円。女性なら1杯食べれば御腹いっぱいに有ると思います。小生は晩御飯がわりに食べました。
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冷麺
サッパリしてて茹で卵やキムチや煮豚も入ってますから夏バテ対策にも良くランチに持って来いですね。羅生門の面は白いので蕎麦粉が入ってないタイプらしい。
これも850円なので拉麺と同じ位の値段でランチでも夕食でも良いですね。夏に拉麺食べる元気無ければ冷麺食べるか気温でチョイスすれば食欲無くても食べられる。
そして小生が略(ほぼ)毎回注文するのがモツ煮込み。
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赤々として辛そうですが旨味が先行し優しい味です。
日本人が想像する普通の日本風焼肉屋のモツ煮込みとは味が違って韓国料理のモツ煮は臭みが無くてとっても美味しいんですよ。
あと、御酒飲まない人には飲んで欲しいソフトドリンクがあります。
写真撮影忘れましたがwirukinnsonnのジンジャエール、市販の瓶の飲料ですが良く見るジンジャーエールよりも生姜が強くてとても美味しいです。余り置いてる店が無いので羅生門に行く機会が有れば是非試して下さい。

さて小生の個人的な韓国料理の思い出を少し・・・
テグタン、小生の特に好きな料理です。小生の留学仲間に大邱大学の連中が何人かいてとても仲良くしてくれたので知った懐かしい料理です。中国にも在中韓国人が多くて中国の日本料理屋みたいに中国人がやってる訳じゃなくて韓国人の開いた韓国料理屋が沢山有って良く食べました。
小生は仕事で中国に行ったり生活経験も有るのですが、中国って夏は気温40℃位の日が多くて油っこい中華料理を毎日食べる気力が無くなるんですよね~。
そうすると日本人が夏バテで食欲減退して最初に食べるのがパンなんですが、最近まで中国って美味しいパンの店がすくなかったんですよ。
それで中国で夏バテ中に次に日本人は昼はインスタント味噌汁とか飲み始めたり、和食料理店に行くのですが味噌汁だけじゃ栄養無いし、和食料理も安くない訳です。
そして最後に頼るのが韓国料理で、サッパリした冷麺とチャプチェとかの家庭料理は夏バテしてても食べられて体力を補給するのに重宝しました。
留学当時は韓国政府と韓国人政治家が竹島問題を起こす前で政治的にも日韓関係も悪くはなく、韓国キリスト教系のカルトが日本の神社仏閣で油を撒(ま)いたり石仏破壊するテロを始める前だったので小生も韓国人に対して政治的な問題を認識しておらず良い印象が先行していて在中国韓国人の友人が沢山いたりしましたしね。
日本でも、良く当時の彼女(日本人だよ)さんと一緒に妹夫妻が結婚する前にWデートしに新大久保に韓国料理を食べに行ったりしてましたから。

まぁ~政治的な理由で疎遠に成るのは仕方ないと思うんです、双方曲げられない事が有りますからね。向こうには立場、こちらには事実が有りますからね。
そんでも相手が友人でも政治的な議論や歴史的な議論に成ったらバチバチやり合えばイイと思うんです。個人的な利益や居心地の良さの為に日本人として間違った歴史認識や日本国民の利益を損なう事を相手に譲歩したり御機嫌取りで行ってしまっては、益々韓国人に対して間違った事を既成事実化させてしまい、更に日本人や韓国人全体で見た時に不仲に成る種を撒き散らす事に成りますからね。

韓国の人ってね仲良く成ると親切ですし、大半は紳士なんですよ凄くね。でも儒教国でママにチヤホヤされて育った我儘男の比率が諸外国より多いからか乱暴な奴や韓国の価値観を外国に居るのに他国留学生に押し付ける強烈な困ったチャンな奴が多くて、紳士と横暴2タイプの人種の落差が極端でしたね。
紳士で本当に物腰柔らかいリアルなヨン様か、反対に自分勝手でガキな俺様しかいなかった。
それと韓国人留学生は酒飲むと暴れる奴とか常に団体で行動して悪事も庇い合うのは問題でした。反面、仲が良いと集団で親切にしてくれる。
良く韓国人の留学生が日本人留学生とモメると韓国人留学生の先輩や卒業生が、某留学先大学で日本人留学生協会を立ち上げた小生に謝りに来て交渉したり(交渉てのはウヤムヤにしてくれって事)、それは韓国人と文化の違いですかね~裏で面子立ててくれって話しつけたがる。
まぁ色々有ったけど政治や歴史を除外すれば親切で気持ちの良い奴等ばかりでした。
でも社会人に成って直ぐ頃から日韓の外交対立と偽商標登録等の政治的な問題が大きく成って、彼等とSkypeやMSN messengerで討論に成り彼等は開き直って自己主張ばかりしたので小生は日本人として彼等の知らない歴史を話し抗弁し、韓国の問題も指摘したら疎遠に成りました。
まぁ~その辺の小生の知る韓国人に対して感じた文化の違いや、韓国政府が韓国人に教えない歴史や日本人も知らない伊藤博文公が韓国王室を守り日本国内の韓国王室廃止派から韓国の皇子を守っていた歴史なんかも以前紹介しているので御興味有る人は以下のリンクから過去記事を御覧下さい。
タイトルをクリックすると各記事にリンクします⤵
伊藤博文公の金沢別宅で夏の終わりの夕涼み。…横浜市金沢区野島。
最近の在日外国人差別について物申す。差別じゃなくて「区別せよ」と。
  保守なら天皇家の歴史観を否定するなよ。

円海山で蛍が観察出来る季節です。
  横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。

そして思うんです・・・
韓国料理‟も”超ウマいよ~!
・・・てね、ソレはソレ、コレはコレ。御互いの違いを理解した上での付き合い方ってのも有る訳です。

留学初期にほぼ毎日食事通学旅行で皆でつるんでたいたのだが、その留学仲間の一人である大阪のITが都内に出張で来てるので先週末に観光案内して来た。
出張先が渋谷の近くだそうで田園都市線でアクセス便利だし新大阪から新幹線で一本と言う事で、宿を新横浜駅近くのホテルを予約したらしい。
一ヶ月前から小生が作成中の神奈川観光の刷子原稿を送り行きたい場所はリサーチ済み。
そのITの仕事はニッチな産業のデザイナーだが廃墟マニアと言う趣向が有ると今回、訪問に当たって事前に行きたい場所の趣向を聞いた際に発覚し、とても意外だった。
かれこれ人生の半分近くの年数関わり、歴代の彼氏がどんな人物かも知っているのだが廃墟が好きなんて趣向は全く知らなかった。

そんな訳で近代の廃墟廻りを今回の観光案内の目的地にした。待ち合せもホテルに朝9時に迎えに行くと申し合わせて有り万全だった。
後は天候次第で臨機応変に訪問地を雨天仕様に組み替えるだけ。
んな訳で時系列で当日の行動を紹介するとこうなる。

04:00前後
早朝、睡眠少しで起きてしまい、小机城の紹介記事のリニューアルの為に加筆していた。

08:00
自宅を出発。新横浜駅へ向かう途中のコンビニATMで現金引き出しノンカロリーのレッドブル飲んで無理矢理に脳内シャキッとさせる。
09:00
迎えに新横浜駅前に到着。
大阪の親友ITはちゃんと寝れた様でシャキッとしてた。因みに留学で知り合った親友だが、たまたま小生とは祖先が同族。でも外見は似ても似つかない。
しかし好きな物は割りと似ていて気は合うし漫画も好き、廃墟好きと歴史好きも似ている。
奴は家具や革製品を、小生は銀の指環や組紐のブレスレットを造るのが趣味と言う工作好きなのも似てる。
関西に土着した奴の祖先は弥生系と古墳時代の渡来系との混血が進んでおり小生の如き胴長短足の縄文遺伝子は最早体形にも頭蓋骨にも名残が無い(笑)。多分、はた目に見て美人の部類だろう。
同氏族だからでも外見でもなくリスペクト出来るし信頼もしている。
まぁ、気が合う訳だ。
小生の親友は皆、そんな奴が多い。
09:45
野島に到着。
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季節柄、野島の海には昭和まで江戸前と呼ばれた東京都大田区~神奈川県川崎市~横浜市~横須賀市~三浦半島の東京湾沿岸部で盛んだった“海苔ひび”を見る事が出来た。
海苔“ひび”の“ひび”は現在では国語辞書にも元の漢字が掲載されていないが、小生は竹で海を囲った様子から轞(ひび)が語源では無いかと思う。この轞と言う漢字は三国志好きなら知っている古代中国の囚人や罪人を護送する際に用いた轞(jian=和音読み:ケン/カン)の事だと推測している。
盧植
三国志演義で後の蜀の皇帝と成る劉備と同郷であり学問の師匠に当たる“盧植(ろしょく)”先生が朝廷を私物化した奸臣の董卓の事を大将軍の何進に諫言(かんげん=上司への忠告)をした事で後に逆に逮捕されてしまったのだが、その際に乗せられていた護送車のアレが“轞(jian)”だな。
轞は文字通り、檻(おり)+車の構造物だ。
罪人を護送しながら晒し者にする為に檻(おり)の下に車輪を付けた構造、解り易く言うと馬車の幌(ほろ)が監獄(かんごく)に成った物だ。
この轞(jian)を日本語では訓読みで“轞(ひび)き”と呼んだ様(よう)だが、日本語辞書の解釈では護送車を引く音の形容詞と説明している物も有るがハッキリ言って辞書の筆者が知らないだけで轞は護送車その物の事だ・・・
まぁ轞は日本語にするなら護送車しか今が無いのだが敢えて言うなら“見せしめ晒(さら)し囚人輸送車”とでも言う物だろうか。
・・・もしかしたら轞の漢字は“車”+“監”で轞だが、現代では失われた発音として海苔が東京湾の大森海岸で開始された当時には"監(カン)”の発音の訓読み自体が"監(ひび)”だったのかも知れない。
そう言えば格子(こうし)状に割れる事を“ヒビが入る”とも言う。
そうなると現代では漢字の伝わらない"海苔ひび”の"ひび”は檻(おり)に似ている事から檻(おり)と書いて檻(ひび)と読む訓読みがもう一つ有ったのかも知れないと思う。
まぁ、檻(おり/ひび)は監獄(かんごく)を指すし、監獄(かんごく)って書いて檻(おり)を指す時点で小生の推測は100%間違い無いだろう。
恐らく海苔ひびの漢字は“海苔ひび=海苔檻”か“海苔轞”だった筈だ。
因(ちな)みに、今現在、江東区と大田区で帰属を巡ってモメている埋立地の人工島一帯が昔は大田区の海域で江戸前海苔の生産で有名だった地域だ。
歴史好事家(オタク)として個人的な意見だが、江東区はどの面下げてアソコを江東区の区域と主張するのか理解出来ない、ハッキリ言って片腹痛い(笑)。
折衷案を出した裁判官は歴史的な素養が乏し過ぎる(笑)。
あの一帯は昔から大田区だったのだから、江東区は引き下がるべきだと同じ海苔の名産地だったのに自民党に漁業権を捨てさせられた横浜市民の漁民の心痛と大田区の漁民の立場を重ねて思う所が有る。

もっとも、この風景を見て一緒に来たITはソンナ事は微塵も考えていなかったかも知れない(笑)。
まぁ、今回大阪から出張に前乗りして神奈川に遊びに来た親友は女性ながら"廃墟マニア”と変わった趣味の持ち主なので、今回は先(ま)ず野島掩体壕(旧海軍零式艦上戦闘機の格納庫)に連れて来た訳だ。
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この掩体壕=格納庫は実際には零戦の格納庫としては使用されなかった。
隣の日産自動車追浜工場とテスト用走行コースの敷地が横須賀鎮守府海軍飛行場だったので、当時は滑走路から先に在る野島に格納庫を作り米軍のB21爆撃機から戦闘機を守る計画が進行していた訳だ。
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説明の看板でも解る通り、戦時中の物資不足でコンクリート擁壁は入口と出口の先に掘削された部分だけに止まり、中心部はまだ完全な幅に広げられてもいなかった。
幸い、この基地が利用される前に戦争は終結したので戦争史跡として現存している。
明治時代の軍人と違って太平洋戦争末期当時の無責任に成っていた海軍の上級将校達は内陸の現在の慶応大学日吉キャンパスの地下に基地を掘って隠れてしまっていた。
そうこうする内に末端の将校は頑張っていたが、無駄に本土に戦火を及ばせた戦争末期には物資が不足し、この野島掩体壕ばかりか日吉の海軍参謀本部でさへ物資不足で入口のみ煉瓦とモルタル造りで奥は素掘りのままと悲惨な状況だった訳だ。
こんな状況で勝てる訳が無い。
そもそも陸軍の暴走で英国との条約を無視して万里の長城を超えて中国侵攻をしてしまったので英国による日本の満州宗主国としての地位保証も破棄される事に成ってしまった上、素人の小生すら理解している“兵站”の確保を陸軍は楽観的に無視、結果、日中戦争は完全に無益な物で更に収拾不可能に成り海軍の足を引っ張り、真珠湾攻撃にしても有利な状況で和睦を成立させて満州利権を連合国に承認させると言う目的が有ったのだが、開戦前に「3年かかったら負けますよ」と言う主旨の発言をしていた山本五十六サンも既に戦死して連合国と不利な現実を直視し和睦を提言する人もいなかった。
その間にも今日左翼を煽る様に当時は“朝日新聞が軍部と民衆を煽り捲って戦争へと向かわせた”のだが、そんな痴れ者の朝日新聞がプロパガンダで支持した当時の陸軍政府(一夕会)は当時の外務省の外交敗北と責任をすり替えようとしたが、ハッキリ言って越権行為の外交交渉を陸軍が勝手にやった挙句に条約を無視して全てを水泡に帰したのが日本斜陽の始まりだったと言う歴史も知っておかないといけないと思う。
だからと言って“鼻から日本文化破壊と日本の共産主義国化を目指して中国共産党やソビエト(ロシア)を誘引しようとする日本共産党や極左テロリストの支援を受けている政党政治家の主張はそもそも“外患を招く内憂”であり獅子身中の虫でしかない。
実はそう言った近代の歴史を知れるのが、この野島掩体壕と伊藤博文邸だったりする。
野島掩体壕から南側に回り、時計回りに反対の西側の出口に行く途中に野島稲荷神社が在る。
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ここは旧紀州徳川家金沢野島屋敷の鎮守の神社だな。親友のITは横浜市に紀州徳川家と所縁の場所が在(あ)るとは知らず意外だった様だ。
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この野島稲荷は鎌倉文化の影響を色濃く残しており、境内社は壁面に掘った横穴の中に御社が其々(ぞれぞれ)祀られている。
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この横穴は“矢倉(やぐら)”と呼び、平安時代からの関東武士団の墳墓や宗教施設に見られる様式で壁面に人工的に掘られた横穴の事を指す。
鎌倉武士には矢倉に祠(ほこら)や石仏や供養塔を祀る事が多かった。関西や中部地方からは想像がつかないかも知れないが、鎌倉武士の葬送は火葬も多く五輪の塔の真ん中に骨壺を納骨する四角いスペースが存在しており、地下に埋める形式と五輪の塔の中に収納するケースが両方存在した。
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武士の墓の構造は横須賀市衣笠に在る薬王寺廃寺の三浦義澄公の御廟の墓石を見ると解り易い。
納骨スペースが大きな四角の箱状の造りに成っている。残念ながら不届き物が骨壺を盗掘する際に箱状の構造物を破壊されているが、そのせいで納骨スペースの存在が目視で理解出来る状態に成っている。
恐らく、身分の高い武士の御廟所が一人に一つの菩提寺(ぼだいじ=供養する為の御寺)が築かれる様に成って来た鎌倉時代初期に成ると寺院に御廟所を設(もう)ける際は矢倉の掘れない地形の場合、五輪塔に納骨し其処を築地塀(つきじべい=数層に土と瓦を重ねて作る土塀)や石柱で取り囲んだのだろう。
まぁ野島稲荷神社の場合は・・・
礼拝所である神社なので矢倉には神様が祀られている訳だ。

野島稲荷神社から野島掩体壕の西側入口へ回る途中、野島掩体壕を含めた“野島砲台=野島要塞”の名残の塹壕が数ヵ所剥き出しで現存している。
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戦後に防空壕の入口はコンクリートで塞ぐ命令が施行されたので、中に入る事は現在では出来ない。
それでも戦時中に野島が要塞化されていた事を見る事が出来る訳だ。
そこから掩体壕西側の入口を見て、伊藤博文金沢別邸に移動した。
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余り日本国民のみならず、横浜市民でさえ知る人は少ないが金沢区の瀬戸神社の辺りと野島と夏島は昔は別荘地で、そこの宿を転々と変え宿泊しながら伊藤博文公等が明治憲法の草庵を起草した場所の一つが野島だったりする。
昔は金沢八景と呼ばれ源頼朝公以来、有力者と文化人に昭和初期のアホの横浜市の建設利権に因(よ)って海が埋め立てられるまで、その別荘地として景勝地としての文化は続いた。
伊藤博文公も野島の風景を紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)公と同じく愛されたので、終いにはここに金沢別邸つまり別宅を構えてしまった訳だ。
そして・・・
ここは日本と韓国が友好国で無二の友邦に成れたかも知れない韓国皇室のキーマンが愛した場所でも有ったのだが、それも知る人は少ないだろう。
・・・まぁ、“金沢八景”と“伊藤博文公金沢別邸”については以前に解説記事を書いているので御興味の有る方は以下の記事タイトルをクリックして過去記事を御覧頂くと良いと思う。





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さて、野島の伊藤博文公の別宅は実は明治天皇も利用した建築文化財であり“御所”だったと言う事実は伊藤博文金沢別邸の存在その物より更に知らない人が多い。
実は、この建物は明治天皇の旧赤坂仮御所の“御会食所”を解体移築した物である。
説明すると、明治天皇は赤坂の仮御所に御住いだったのだが、明治時代に欧米列強に倣(なら)って西洋式の御所と公館と接待所を新設するまでの御住いであり、接待所だった。
伊藤博文公御自身は神道形式の御廟所に埋葬されていらっしゃるが、実は仏教文化も大好きで金沢別邸からそう遠くない氷取沢の宝勝寺にも良く参拝してらっしゃって武士時代の遺物を奉納してらっしゃったりする。古来の神仏習合の文化が御好きだったようだ。だから明治時代の近代建築よりも和風の木造住宅が本当は好きだったみたいだ。
まぁ、こんな他府県民にとって意外な歴史が凝縮した場所が野島なのだ。
一頻り散歩して腹も減った(ITには朝食食べずに空腹にして置く様に要請してあった)ので昼食には少し早い11時少し前、ブランチに小柴の柴漁港へ移動し古来の横浜名物の穴子と地魚の天丼を食べに移動した。
11:00
鉄腕DASHで良く登場する芝漁港に到着。
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ここはTVでロケも来るが小生が好きで良く見るYouTubeのキャンプ動画投稿者“ソータロー”が漁協の許可を得た上で一般人が釣りが不可能な漁港内で夜釣りをした事でやっかみの対象と成り“密猟者”扱いされ“炎上した場所(笑)”だったりもする。

※一般釣りマニアのやっかみで炎上した動画は削除されてた(笑)。
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小柴のどんぶり屋で当日水揚げされた横浜名物の穴子を食べる事が出来る。
いつもは開店前に人が並びあっと言う間に品薄に成るのだが、ITの日頃の行いが良いのか運良く客は小生達を含めて未(ま)だ3組しか来店してなかった。
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穴子の三色天丼と地魚天丼を注文。
そして、この日はカワハギの煮付け定食が有ったので、カワハギの煮付けだけ食べたかったので米無しで注文をした。
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結果的に“かき揚げ”がもう一つ付いて来てしまい二人で朝から天麩羅三昧、胃袋もキャパオーバーに成った。腹も満たされ、次の廃墟、猿島へと向け移動。
11:20
横須賀海岸通りの駐車場に到着。
SAIKAYAパーキングと言う美少女アニメオタクが好きそうな(笑)アイコンが目印の駐車場はフェリーの乗船券が駐車料金割引券代わりに成るのを、去年の猿島散策で知っていたので今回も利用・・・
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何と300円も安く成るんだな。
・・・ITに小生の趣向と誤解されない様に(笑)ちゃんと割引券の説明した。小生はロリコンでは無いし、適齢期以上の女性にしか女性としての認識も持てない上に、どちらかと言うと同世代の女性が恋愛対象なのだが、そんな事を一々説明すると親友でもIT「何なんコイツ必死に弁解してホンマはロリコンとちゃうん⁉」と思われそうなので、2次元のSAIKAYAキャラ説明で深追いしないで置いた(笑)。
徒歩で三笠公園に移動。
ここから5分程度の距離と近く非常に便が良い。
11:30
三笠桟橋に到着。
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三笠桟橋は文字通り“世界三大記念艦の三笠”の横に有る桟橋で、桟橋の前で乗船券を購入出来る。
乗船券は純粋な船賃1200円(往復)+入島税300円と安い。
丁度タイミング良くチケット売り場に到着した頃に乗船時間と成り、ギリギリ待つ事無く猿島行きの遊覧船に乗船出来た。
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三笠桟橋~猿島は10分の航路と非常に近い。
この日は三連休最終日と言う事も有って大変な賑わいだった。
もう5分遅れたら定員オーバーで次便まで乗船出来なかっただろう。まぁ、そんな場合も想定して、その場合は三笠公園の売店で横須賀土産の物色と戦艦三笠に乗艦して時間を潰す計画だった。
バッチリ、小生の旅行は毎回ヌカリは無い(自画自賛)。
11:45
猿島桟橋に到着。
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今回初めて知ったのだが、何と猿島の休憩所兼売店の3F事務所でガイドツアー(200円)に入れる。
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小生は一度来ているし大体の解説を出来る知識を有している心算(つもり)だったので・・・
「ツアーに入る必要も無いかな。」
・・・と内心思いながら、ここはゲストであるITの意思を尊重すべきと思い確認。
小生「ツアーに入って専門的にガイド聞いて見たいか?それとも自分達で自由に回る?」
IT「ツアーに入ってみよう」
・・・このITの判断は正しかった。
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島内の明治時代の要塞跡を見学ツアーに入ると、一般では見学できない場所も入る事が出来たり小さな疑問も質問するとガイドさんが詳細な解説で回答を下さった。
例えば直接歴史とは関係無いが・・・

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・・・ツワブキの花。小生はこれが食べられる野草のツワブキと知らなかった。綺麗だなと思い写真を撮っていたら団体の先頭を歩くガイドさんが「黄色い花はツワブキです」と解説をして下さった。
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この構造物は通風孔かと思っていたら、中の穴は兵舎として利用されていたそうで明り取りの穴だったそうだ。
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この壁面の穴も質問する前に解説が有った。これは送電線を固定する金具を埋め込むモルタルのブロックが嵌(は)められて有った跡そうだ。
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この写真の様な金具が嵌っていたそうだ。
自然の砂岩の場所には煉瓦の様に直接金具を埋め込めないので方形のブロックに金具を取り付けてから砂岩に嵌め込んだ訳だ。
ここに島の浜辺近くの発電所から電気の送電線が伸びて、各砲台や兵舎へと電力が供給されていた訳だ。
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これはガイドさんがツアー客に質問する前に小生は正体を当てていた施設だ。
実はトイレの跡。
写真撮影するの忘れたが、実は下部に配水構造が有り便器が嵌っていた様な跡が有る左側のモルタルと、右側は壁状のモルタルの下が配水構造に成っていたので直ぐに解った。
三笠の小便のトイレに右側のモルタルの設計が似た構造だったのだ。
先に進むと今度はレンガの積み方に関して講義が始まった。
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この様に長辺と短辺を交互に並べ重ねて行くのを“フランス積み”と言うのだが、小生はこれを知らなかった。
これに対して横一列毎に長辺だけを並べ更に上に短辺だけを並べる積み方を“イギリス積み”と言う。
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このイギリス積みに関しては小生はたまたま本で見て知っていた。この写真の場所は変わっていてフランス積みとイギリス積みを両方一箇所で見られる日本でも珍しい近代史跡だそうだ。
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煉瓦の積み方の講義の次に、一般観光客は見学不可な弾薬庫内部の案内が始まり正直予想外の幸運。
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内部は漆喰で固められており、当時は白く綺麗な洋館の内部の様だ感じだっただろう事を推測出来る。
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天井には穴がポコポコ開いており、小生はコレをITに「空気孔かな?」と見当違いな予想を問いかけたらガイドさんによると“伝声管”の配管がココに通されていたそうだ。
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この弾薬庫は外部からは判り難いが2階建て構造に成っているらしい。
その2Fには砲台への弾薬補給の指示を出す人が居り、その伝令を配管を通じて糸電話の要領で行っていた訳だ。
だから当然ながら弾薬を2Fに送る人力のエレベーターも存在しており、今もその穴を見る事が出来る。
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こんな素晴らしい史跡なのだが、残念な馬鹿はいつの時代もいる様で、今の団塊~バブル世代が戦後に無断上陸して猿島要塞史跡に落書きをして回ったそうだ。
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おい石井智樹見てるか?
オマエのアンチモラルで低文化な落書きは、施錠の向こうで末代まで消される事無く晒し者にされ続けるぞ(笑)。反日文化テロリストと同類の己の傍若無人な振舞い、子々孫々まで恥として晒されれば良い。
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2Fと砲台の有る上部へは写真の様に階段を登って移動していたそうで、弾薬庫や兵舎の中から登れた訳では無いそうだ。
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今でも立派な煉瓦組みのトンネルも残っている。
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このトンネルの横にも多数の外へと通じる階段が設置されており、更に階段の途中にも先程の弾薬庫の様に横に伸びる穴状の構造物が有るそうだ。
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トンネルはともて趣が有り、ヨーロッパの城内を散策している様な感覚だな。
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最期に猿島の北端の砲台跡の開けた場所を抜け海辺に出て解散と成ったのだが、ここでも猿島要塞と同じ役割をした東京湾に浮かぶ明治時代の人工島要塞の東京湾第1海堡と第2海堡の解説が有った。
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実は東京湾には陸軍大将だった山縣有朋公によって建設された人工島の要塞が3つ在った。その内、第1海堡と第2海堡が現存していて第3海堡は前東京都知事の石原慎太郎に因って撤去された際にライオンズクラブによって解体され追浜の日産自動車の工場近くに移築され展示されていたりする。
そこ等辺の事も過去の記事で解説しているので、興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして解説を読んで見てくれると良いと思う。

望遠鏡やカメラのファインダー越しでないと目視し難いのだが、猿島からも第1海堡と第2海堡がガイドさんの言う通りに見る事が出来た。
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灯台が有る方が東京湾第一海堡。
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奥に見えるのが富津岬の直ぐ傍に在る第一海堡。
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繰り返しに成るが第三海堡は日産追浜工場近くの夏島地区の岸壁に移築されている。
ガイドさんの薦めもあり、島の海辺に在る通称“日蓮洞”と呼ばれる日蓮宗信者にとって聖地である縄文時代からの貝塚が発見されている洞窟も見学した。
島の北端の西側に当たる。
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この洞窟は江ノ島に繋がっていると昔から伝承しているが、ガイドさん曰(いわ)く・・・
「江ノ島の方では江ノ島の洞穴は富士山に繋がってると解説しています(笑)。」
・・・との事(笑)。江ノ島のガイドと真偽確かめ様と画策中らしい。
そこから日蓮洞と反対側の島の北東に移動。
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途中、又、要塞の中も通る。しかしココを抜けると入口に戻ってしまうのでトンネルは抜けないで山側に行った。
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・・・このショボい見張り台と言うか展望台、実は“仮面ライダーのロケ地”“ショッカーの秘密基地の入口”の設定の場所らしい(笑)。
ガイドさんによると、なのでコスプレイヤーの聖地に成っていて猿島全体含めてコスプレした女の子達が良く自分の写真集を作る際に撮影の為に来るらしい。実際、この日もコスプレした女性達が数人来ておりカメラマンが撮影していた。
まぁ、人畜無害な趣味なので、御寺や神社で撮影して場の雰囲気を乱すよりは猿島で撮影してくれた方が良いかと思う。
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こちら側から山の尾根伝いに島の桟橋方面に戻ると、砲台上部構造も見学出来る。
この穴を使い1F弾薬庫から弾薬を補給し、方形の小さい穴に弾薬を仮置きしたのだろう。
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関西には中々こう言った場所が残っていないらしく、和歌山県の方まで行かないと戦争史跡の廃墟は無いそうだ。
一頻(しき)り見学を終えて時間に合わせて桟橋に戻る。
14:45
ギリギリ乗船定員20人前位で乗船する事が出来た、ラッキー♪
14:55
三笠桟橋に到着。
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三笠公園に着いたら先ず、戦艦三笠の写真撮影タイム。そして三笠公園売店で御土産を物色。
余り興味を引く物は無かったようで、ITの要望で三笠公園前の古着屋に移動。
ここも気に入る衣服は見つからなかったそうで、駐車場に戻った。
15:30
駐車場から三浦半島三崎町へ出発。
16:10
城ヶ島第2駐車場に到着。
実は最初は城ヶ島公園の第1駐車場に行ったのだが、第1駐車場は17時で閉門施錠される為に管理人のオジちゃんのアドバイスで17時以降も出庫可能な第2駐車場に移動したと言う次第だ。
第2駐車場から城ヶ島公園はそれ程遠くない。
16:15
第2駐車場から徒歩で神奈川県立城ヶ島公園に到着。
すると綺麗な黒猫様が御出迎えして下さり、寛大な事におおいに“モフらせて”頂けた。


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凄く綺麗な毛並みと顔立ちの猫様。
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可愛かったな~。
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顔を洗っていたので「明日は雨だな」と言ったら、どうやら関東ローカルの迷信らしい。
それもとITが知らないだけなのだろうか。
取り合えず、翌日の天気は雨ではなかった(笑)。
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城ヶ島の海岸の夕景と富士山を見物予定が海がガスって秋季には珍しく富士山見えず。しかし夕陽と海と岸壁の風景は相変わらず綺麗だ。
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城ヶ島は展望台の近くに海岸に降りる階段が在る。
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そこを降りるとこんな風景が見れる。
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本当は今の季節、もっと水蒸気が少なく富士山も見えるのだが、生憎(あいにく)と低い所に雲が掛かっており富士山も今回は見られず日没も途中までしか見られなかった。
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釣り船は見えた。これはこれで風情が有る。
3月に台湾の友人夫妻を連れて来た時は雹(ヒョウ)が降った不運に比べれば綺麗な風景も見れて良かったのだろう。ITも満足してくれた様だ。
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日没後の夕闇迫る時間帯だが、小生達の他にも散策する観光客が数組居た。
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展望台に戻る階段は季節柄、薄木(ススキ)が茂って秋らしく綺麗な風景を見せてくれた。
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そして黒猫様と他の茶虎猫様達が再び見送って下さった(笑)。
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でもコイツ等、愛想悪かった(笑)。黒猫の神対応に感謝♪
写真を撮影するのを忘れたが実は城ヶ島も猿島や野島と同じく戦争史跡の廃墟が有り、明治~大正時代の砲台跡が花壇として保存されている他、岸壁には猿島要塞の弾薬庫と同じ構造物が残っているが弾薬庫の方は一般見学は不可能だ。
腹も空いたので夕食に三崎漁港に鮪を食べに移動する事にした。
17:10
駐車場に戻り城ヶ島を出発。
17:25
三崎漁港に到着。
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三崎漁港の鮪を夕食にしたのは、ITに折角なので神奈川名物を食べさせてあげたいと思い事前に・・・「葉山牛と、三崎漁港の鮪料理と、鎌倉野菜と海鮮のイタリアンとどれが良い?」
・・・とリサーチして「肉より魚、鮪食べたい」と回答が有ったからだった。
しばし三崎漁港の商店街を散策し鮪漁で栄えた頃の倉屋敷の外観を見物して廻り店の選定に入る。
17:45

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有名な鮪料理専門居酒屋の“黒羽亭”か・・・
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・・・鮪稀少部位を食べれる行き付けの寿司屋“紀の代”から好きな方をITに選ばせ“紀の代”に入店。
3月に台湾の友人もこの店に連れて来てあげたかったのだが生憎と当日は店が開いてなかった。ITはラッキーだったな。
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まぐろ寿司(インド鮪赤身漬け、中トロ、大トロ、備長鮪のトロの握り)、鮪サラダ、ワタ(鮪の胃袋湯引き)、皮ポン(鮪の皮のポン酢和え)、鮪のカマの焼き、鮪のツミレのお吸い物を食べる。
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鮪丼(大トロ、鮪ユッケ、漬け鮪、ネギトロ)、ネギトロ巻きを追加(笑)。
※因みに、この日、小生は先月ダイエット8㎏成功したのが1日で2㎏リバウンドした(笑)。
ITも美味しい美味しいと満足してくれた様で何より。
臺灣の友人が来た時も中国人の同僚が帰国する際もここに連れて来たが、一緒に来た人が自分の美味しいと思う店に連れて行って喜んでくれると嬉しいもんだな。
そして気兼ねなく安心して御腹いっぱに食べてくれる様子を見るのも嬉しい。
自分が大切に思う人達が幸せそうにしている様子を見るのは嬉しいもんだ。自分の御腹も幸せに成るしねぇ~(笑)♪
18:50
三崎町を出発。
19:20
横須賀PA(上り)に到着。
横須賀土産を物色。
海苔と葉山牛の佃煮と海苔と鎌倉の蛸の佃煮を購入し神奈川土産に渡す。
写真は撮り忘れた。
19:50
小生の地元、横浜最高峰の栄区の円海山(海抜たった300m)に到着。
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横浜の中心部の夜景を見物。去年の出張でITを案内した中華街~大桟橋界隈を指さし、みなと未来地区とベイブリッジの位置を解説。
一頻り夜景を見て新横浜のホテルへ送り届ける為に出発。
運転中に春に出張来るらしいので遊ぶ計画を相談。此方(コチラ)も間宮直元公の顕彰活動と城マニアの趣味で但馬地方に行く予定が有るので一応、ザックリと訪問予定地を伝え予定の擦り合わせを相談をしておいた。
20:20
新横浜駅近くのホテルに到着。
うむ、留学最初の半年の仲間達とは毎日皆で食事をし皆であちらこちら旅行して廻ったので、IT等初期の仲間と遊ぶと何だか留学中を思いだし面白い。
そして、未だに色んな事を相談する関係であり、ベタベタせず数ヵ月に一度のやり取りでも信頼関係が絶えない位信頼出来る奴。
それでなくても古馴染が訪ねて来てくれるのは嬉しいね。

子曰学而時習之不亦説乎
有朋自遠方来不亦楽乎
人不知而不慍不亦君子乎。

儒教は年長者の失態の責任追求を許さない組織の自浄能力を昨日不全させるばかりか実力主義も認めない年功序列の腐敗の温床で大嫌いだけど、論語のこの一文は気持ち解るかな~。
ITの御陰で有意義な時間を過ごす事が出来た1日だった。
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因みにITの土産は何故か鹿児島の醤油と煎餅だったが、この醤油がイカ刺しに付けて食べたら凄く美味かったので個人的に大瓶で取り寄せようと思う。
ありがとうIT!次は関西か又、神奈川か。又な!

日本で生活する外国人を一色単に「在日」とカテゴライズし差別するのは良くない。 これには歴史オタクとして少々思い入れが有るし、隣の中国や朝鮮や欧米諸外国やアジアの友邦から日本に留学に来たり働きに来て生活する人の内で何割かに当たる反日朝鮮人や反日韓国人や反日中国人や欧米史観至上主義者とを区別せずに、親日の人まで一色単に攻撃する事に成る。
無論、民主主義の韓国政権と自称民主主義の北朝鮮金王朝が存在するのは、その国民の政治的な意思や正義を貫かない不正義の結果なので批判しても良いと思うし責任を取らせても良いと思うし見捨てて良いと思うが、人種差別的な発言は宜しくない。
その言い回しだと「古代の在日朝鮮人から帰化した亡命者」を愚弄する事に成る。 そして「日本人を悪と教育する現代の中・韓・北朝のロジックと同程度」の歴史弱者としか言えない。
伊藤博文公
更には明治時代に朝鮮王族を保護し、明治・大正の政府の外交戦略に反して朝鮮王朝復活の可能性も温存していた伊藤博文公まで侮辱する事に成る。
伊藤博文公&李垠殿下
伊藤博文公は日本政府の中で朝鮮王族の李垠(りぎん)殿下を保護し、朝鮮王族血統排斥派から守り通した人物なのを知る人は日本人にも少ない。
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李垠殿下は伊藤博文公を慕っており、良く横浜市金沢区の野島の伊藤邸へ遊びに行って海水浴をしたそうだ。野島は平安時代末期には源頼朝公が景勝地として御好きだった金沢(かねさわ)の海に浮かぶ島で、江戸時代以降は周辺と合わせ金沢八景と呼ばれる名勝と成り、紀州徳川家の別荘も在った。
昔から海鼠(なまこ)、蝦蛄(しゃこ)、穴子(あなご)の特産地として知られ、李垠殿下もそれらの海産物を御召上がり成り舌鼓を打たれたのだろう。
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
今でも金沢区柴の柴漁港では小柴穴子の天丼を提供する“小柴のどんぶりや”や・・・
小柴のどんぶり屋 久良岐のよし
鎌倉時代に京の都を統治した武家最高の教養を誇る金沢北条家の邸宅跡の真言宗の別格本山寺院であり、東の正倉院の異名で歴史学者に重視される稱名寺の参道の文庫茶屋や・・・
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伊藤公の時代の与謝野晶子さんや海軍人達から愛された料亭“金沢園”の後継旅館である喜多屋で李垠殿下も食したはずの穴子料理を食べる事が出来たりする・・・
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・・・なので、小生同様に本当に歴史や神社仏閣や御城と古民家と日本料理が好きな“保守派”横浜市民は結構、この史実を知っている。
しかし、己の朝鮮民主主義人民共和国なり大韓民国なりの国家元首としての地位の保持の欲の為に国策として
嘘の反日歴史観を韓国国民や朝鮮国民に教えて普及させた李承晩や金日成の当該国籍の横浜市民達も当然この事実を知らない人間ばかりだろう。
伊藤博文公は当時の死に際し欧米のマスコミからも「朝鮮人の最良の友人であった」と批評されている事も、その真実が解る。
李垠殿下
李垠殿下は李皇帝の正式な跡継ぎとして戦時中には後継者指名を受けていたが、第二次世界大戦終結後も晩年まで帰国できなかった。それは李王朝復興に由(よ)って大統領の権限が脅かされる事を恐れた李承晩大統領が殿下の帰国を拒否し阻止したからだった。恐らく李承晩によるアメリカ合衆国への根回しも有っただろう。
小生は思う、李垠殿下が日本の無条件降伏後に米国の支援を受けれて直ちに韓国に帰国出来ていたら、明治時代に清王朝から独立して皇帝と成った韓国皇朝を復活させ見事に立憲君主制を実現させ、米国や昭和天皇や吉田茂総理や白洲次郎サンと協力して朝鮮半島の統一の原動力と成って民主化と先進国化を成功させる事が出来、現代の北朝鮮国民の餓死者も出す事も無く、キリスト教系カルト宗教の韓国人による日本の神社仏閣へのテロ行為を起こさせる事も無く、日本と韓国は真に対等で皇族同士が血縁も有る友邦と成り、古代の神功皇后こと息長長足媛命以前の日本ー朝鮮半島の様に素晴らしい盟友に成ったんだろうと思う。
・・・まぁ、何度も言うが歴史に「i f」は無いし、考えるだけ無駄。でも朝鮮には李垠殿下の名跡を継いだ李源サンがいらっしゃる。

伊藤博文公は李王朝の末裔達の命脈を保ったが、現代の日本人も助けている・・・
東日本大震災発生時に東北地方で一人の凍死者も出さずに済む要因と成った鉄道貨物輸送網整備は明治時代に横浜新港埠頭(みなと未来21地区)の赤レンガ倉庫を起点に整備された事業だった。
2011年03月11日に発生した2回の大地震と沿岸部の市町村を襲った津波に因って東北地方の鉄道網は壊滅した。その為(ため)に東北地方沿岸部を通る鉄道貨物輸送が利用不能に成り、東北地方は燃料補給が滞り救援物資輸送のみならず暖房の燃料すら確保出来ずに凍死者を多数出す危険性が迫り一刻を争う事態に陥っていた。
初春の東北の気候は関東や関西の冬の様に寒く厳しい。
この危機を救ったのが磐越西線だった。

これは明治時代に旧武士達まだ士分が保証されていた時代に明治政府が士分に与えた秩禄
(ちつろく)給与と言う旧武士階級特権と身分制度が廃止され四民平等に成り、旧武士へは金録(きんろく)公債の発行が行われ言わば退職金の手形が渡された。当時、その公債を売却した武士達が多くの民間銀行や鉄道会社を設立したが、磐越西線はそんな民間鉄道区間と伊藤博文公達の国家事業の合同の事業だった。
今でも小生の郷里に横浜銀行(旧:第二銀行)や信州には八十二銀行も健在だが、これらの漢数字を冠した銀行が当時、多くの民間鉄道会社と同様に日本の発展に寄与した幕末~明治の豪商や武士達によって設立されている事を知る人は歴史好きでも無いと少ないだろう。
はまぎん今昔写真 横浜銀行様ホームページより拝借
※横浜銀行ホームページ“はまぎん今昔写真”で近代と現代の横浜の風景の変遷を見られます。

因(ちな)みに横浜銀行を開いたのは原財閥で、幕末に生糸の貿易で日本有数の大家と成り財を成した集団だった。横浜銀行の他に昨年ユネスコに文化財認定された富岡製糸場ニューグランドホテル等も経営していた。そして関東大震災で横浜市街地が崩壊した際に政府よりも復興に寄与し私財を投げ打ったのも原財閥だった。
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そんな原財閥の当主、原三渓さんの個人宅だったのが現在の国指定名勝:横浜三渓園だ。
この原三渓サンの横浜銀行(明治七年:1874年)の創業から24年後に奥羽山脈の大森林と山川を切り開いて線路が引かれ磐越西線(明治三十一年:1898年)開通と成ったが、この区間は現在も無送電区間が有り、蒸気機関車やディーゼル機関車によって客車が牽引(けんいん)されている。そして川に架かる橋梁(きょうりょう)は正に明治時代の煉瓦造りやトラス鉄橋等が現在も利用されている。
その磐越西線を使い日本海側を通って横浜市中区の本牧埠頭に在るENEOS根岸製油所~根岸駅~関東平野を通り抜け~福島県~山形県~秋田県~青森県へと石油を大震災発災から僅か1週間で第一便が送り届けられた。無論、この事業を成し遂げたのは無能な民主党ではなく民間のENEOS根岸製油所JR貨物の職員達の独自の立案と迅速な判断に由(よ)る偉業だった。
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その根岸製油所は最近では若い女性から京浜工業地帯の夜景クルージングで人気のスポットだったりする。
ENEOSも又、明治時代創業の起業だ。明治の人達の国民の利益に寄与する公益世務の企業理念が活きている。そして彼等が東日本大震災でタッグを組んだのがJR貨物だ。
そもそも伊藤博文公等の明治政府の元勲等の起こした旧国営事業から後に民間会社化した神奈川臨港鉄道やJR貨物の職員達の企業精神の中には日本を支えるDNAが有り、それが東北の被災者を思う正義感として発揮された結果の迅速な対応だった訳だ。そして明治時代の人々の遺産で有り活きた鉄道史跡の磐越西線が東日本大震災で多くの東北の人を助ける事に成った訳だ。
・・・この旧国鉄貨物線の基礎を築いた伊藤博文公を始めとする幕末に佐幕派‐倒幕派の敵味方に分かれて戦い、後に協力して日本の近代化を成し遂げた先人に対する尊敬故(ゆえ)の願望で有る事は否めないが、いつか
韓国国民が歴史を直視して李王朝を復活させて今の国際条約を軽視する堕落した韓国が立憲君主政治国として皇帝の下で生まれ変り民主主義国法治主義国として成熟する事を、日本の真の友邦に成る事を、1人の歴史好事家(オタク)として切に望む。
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横浜のミナト未来21地区の赤レンガ倉庫の軌道や汽車道遊歩道が、正に伊藤博文公が整備した初代横浜駅の桜木町の先に築いた新港埠頭の貨物線の名残だったりする。
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果たして、ここをデートで散歩する現代人のどれだけが伊藤博文公の思いを理解している事か。
皆無だろうな・・・
古代の朝鮮からの亡命者、彼等の子孫には日本の天皇家の祖先に当たる大王家(おおきみ)の忠臣として活躍した人が多くいる事実を知らず、やたらめったら韓国人や朝鮮人や中国人を反日国の国民だからと言って敵対的に馬鹿にするのは歴史に対する知識が薄いと批判されて然(しか)る可(べ)き。
逆に在日外国人だからと言って差別するのは良く無いと言う主張だけして、実際に反日活動をする人間がいる事に目を瞑(つぶ)り無分別に擁護だけする人間もハッキリ言って内憂外患だし真面目に法律を守って留学したり働いてる在日外国人の為にも成っていない。
・・・極左派、極右派は両方とも問題だらけ。
我々の祖先には少なからず古代日本を心から好きで亡命して来た外国からの渡来人がいる。
彼等を受け入れ開拓の同僚として受け入れ、共に栄え日本国家と日本文化を築き上げた古来の豪族の子孫や天皇家から臣籍降下し鎌倉幕府の基礎を築いた天皇家の子孫の武士達人々が多くいる。
武士と成った人々の祖先達には渡来系も皇孫も多くいる訳だ。彼等が協力して元寇を撃退した訳だ。
だから、簡単に「朝鮮人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家を批判する事にも成る。 もし日本人を差別したり日本国や日本企業を転覆しようとする部類の朝鮮半島の国家の国民や中国大陸の中国人を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・ ●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人文化至上主義者or在日○○人 ●「反社会的勢力の」+在日○○人 ●「反日政治家に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左テロリストを支援する」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/廃人量産するパチンコやカジノ利権擁護の」+在日○○人or政治家 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか? そもそも日本人の中にも多くの渡来人の遺伝子が組み込まれている。
エラが張っているのは朝鮮人と言う流言飛語を鵜呑みにする「ネトウヨ」や「低学歴者」もいるが、こんな事は中学時代に真面目に社会科の教科書を読んでいれば縄文人と弥生人の骨格の違いを学んでおり惑わされる事も無い。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
エラが張っている骨格は寧ろ日本在来種の縄文人である琉球人・隼人・熊襲・アイヌ等の生粋の九州人や東日本の土着民に多いのは周知の事実だ。
そして韓国人に日本の縄文系同様にエラが張っている人が多いのは「古代邪馬台国時代の釜山周辺がそもそも古代日本の国土だった」からと言う基本的な事実さえ知らない“中卒”程度の学力も無いネトウヨが多過ぎるのも真の保守派や右派から見ると恥ずかしい事実だ。
彼等に日本の縄文系遺伝子同様に顎の四角い骨格が多いのは当たり前、中国の三国志、魏志倭人伝でも「倭人」として登場する訳で、百済滅亡時に大和王朝が唐帝国と逆徒の新羅王朝連合軍に敗れ朝鮮南部の領土を失地するまで、彼(か)の地は遥か神話の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の頃の弥生時代より日本領土であり住んでいる人々も日本人だった訳だ。
その後、三浦半島の走水神社の近くの御所ヵ崎を仮御所にして一時期暮らした日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)は西暦100年代に走水から東京湾を超えて大伴氏や吉備氏の古代豪族の水軍を与力として房総半島へ渡航している。日本武尊は複数人の古代大和王権の皇族将軍が合祀された神号だと考古学的には推測されているが神奈川県の複数の日本武尊関係の延喜式内社の神話や社宝と周辺から出土する遺跡を考慮すると、走水に来た日本武尊と弟橘姫は恐らく初代の王族将軍で弥生時代の終わり~古墳時代の始まりの人と推測出来るので神話と考古学的な誤差100年前後と整合性も高く成る。丁度卑弥呼の時代の人なので、そうなると倭姫(やまとひめ)が卑弥呼らしい事も解る。つまり景行天皇が卑弥呼の弟で行政を担当した人物らしい事も窺(うかが)い知れる。
丁度、この時代を境目に青銅器が普及して古墳時代に突入する。
古墳時代の王族の甲冑
その古墳時代の発展によって大和王権の成立に古代の在来豪族と一緒に協力して活躍したのが大王家に忠節を尽くした渡来系豪族達な訳だ。だから、その頃に鉄器製造や騎馬文化が日本でも開始され根付いたし大和王朝統治下で渡来民族と兵庫や大阪や奈良や京都辺りの古代人は多く混血したので、今では近畿には一重瞼で卵型の顎の骨格を持つ日本人が多い。

この歴史をネトウヨと低学歴右翼は知らない。
彼等は当然、ギャーギャー人の言葉を借りて騒ぐ割には、左翼同様に日本書紀も古事記も読まず、古来の延喜式内社も式外社も御参りせず、事もあろうか古代人の聖地が天皇家によって霊場として寺院化された御寺を外来文化として排斥する罰当たりまでいる。コイツ等と天皇家を潰そうとしたり日本の宗教施設に油を撒いたり放火したり石仏や御神像を破壊するアホの左翼やキリスト教系カルト信者の韓国人のやってる事と実質的害悪として差は無い!

結局、低学歴な右翼やオコ様ネトウヨは偽右翼に韓国人無差別排斥を煽る国際的に日本人を貶めるプロパガンダに利用され、朝日新聞や毎日新聞等の極左新聞社に良い様に書かれている。
ハッキリ言って、真の保守派からすれば左派や偽右翼同様に一部の低教養右翼は迷惑な存在だ。

寧ろ平安文化を築いた関西人の遺伝子は渡来系のエラが無い卵型の頭蓋骨に一重瞼(まぶた)の弥生系が多くて完全に帰化遺伝子が濃いんだがな・・・
近代に成って一重瞼が増えたってのは偽保守や在日右翼によるデマだ。在日右翼が自分の出自を粉飾する為の正当化に、低学歴右翼とオコサマネトウヨが騙されている訳だ。
先ず、本当の保守派ならば伊勢神宮や靖国神社だけでなく御朱印帳を購入して延喜式内社と式外社を巡拝して回るべきだ。合わせて各市町村の考古学関連の歴史博物館に行き、縄文人と弥生人の違いを学ぶべきだろう。
ここまでして漸く日本人の先人功労者を敬う精神を理解した上で最低限中卒程度の歴史知識が視覚的にも理解出来るだろう。
アイヌ人 
アイヌ人の服の文様は縄文時代の土器の文様にソックリだ。
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小生は子供の頃から近所の縄文時代~弥生時代遺跡で土器や石器を採取して遊んでいたので、写真でアイヌの人の服装や顔を見ると・・・
「あ~、素戔嗚尊の時代の縄文時代の終わり~弥生時代の人はこんな感じだったんだろうな~」
・・・と思う様に成った。丁度、青銅器の輸入やガラス製管玉の輸入も始まった時期だな。
弥生時代、後漢の時代に古代の九州の豪族達は漢帝国に朝貢して、これらの物資を得ていた訳だ。
考古学的には関西人は完全に弥生系の遺伝子が多い。だから一重瞼も多い。 対して生粋の九州人や東日本の人間は琉球人やサモア系人種と同じ海洋民族系の胴長短足でガッチリした体形、二重瞼、方形に近い顎を持つ頭蓋骨が多い。つまり縄文人系統だ。そして遺伝的に酒も強い。
例えばロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した柔道の山下サン、彼を含めた熊本近辺に多い山下姓の一族は阿蘇家臣団であり阿蘇家の末裔と伝わるそうだ。尊卑文脈を読むと清和源氏と書かれているが、これは阿蘇家が神武天皇直系だと称しているので河内源氏の徳川家を憚り、同じ天皇家の一族だが古すぎて出自の良く解らない阿蘇家の事より源氏(天皇家の子孫)と江戸時代の学者が改ざんしてしまったのだろう。だから尊卑分脈と山下一族の伝承が異なる事態が起きたと推測出来る。
山下泰裕サンの実家はやはり熊本県出身で、出生地も阿蘇家の戦国時代の本拠地である岩尾城下の矢部町だったそうだ。
山下泰裕氏
この山下家が阿蘇家だと言う伝承を元にするならば、限りなく生粋の縄文人に近い遺伝子である事は九州中央部の出身である事からも推測出来るが・・・
同じく縄文人の遺伝子を引くサモアンのマークハント選手、K1やUFCで活躍した選手だが、この人の骨格や顔つきもやはり山下サンにソックリだ。
マークハント選手 UFC
実際、アチラの方には縄文時代に船で日本の方から祖先が移住して来たと伝承が有ったり、縄文文化が有ったと子供の頃に「世界ふしぎ発見!」で見た事が有る(笑)。
つまり、日本文化は先住民で海洋民族の南方から来た縄文人つまり生粋の日本人と、後に呉や秦や漢の滅亡時に移住して古代日本の大王家に服属し早い段階で日本人に成った中国大陸南部や西域からの渡来人。そして後から来た朝鮮半島系も一緒に協力して農耕を普及させ餓死者を減らし、日本文化を育んで行き南宋から亡命してきた蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚等と鎌倉文化の中で南宋の失敗と中国伝来の兵法を学び、元軍を撤退させた訳だ。
そんな歴史が有る訳で、渡来系には卵型頭蓋骨一重瞼遺伝子の在日朝鮮人と同系統の祖先の人だけじゃなくて、海洋民族に似た胴長短足騎馬民族系統のモンゴル系もいるし、中国大陸からの渡来系だか「中国系」と一括りに出来ない中国の漢帝国成立以前に日本に亡命した秦氏もいれば、それ以前に来ている呉王系統の「臥薪嘗胆」の諺(ことわざ)で有名な夫差の子孫も居るんだわ。 当然、漢帝国滅亡時に日本に亡命した漢皇室系統の部族もいるしな。 それに南宋の滅亡時に鎌倉文化の発展に寄与して元寇撃退の一助と成った南宋時代の中国系渡来人もいるし、元朝の滅亡時に日本に来て室町文化発展に寄与した中国系渡来人もいる。当然、明朝の滅亡時に日本に帰化した中国系渡来人もいる訳だ。そして彼らは亡国の経験を日本に伝えた義の人であり、故国に対する忠義の人達でもある。 特に夫差の子孫の呉太伯は日本の天皇家のルーツである高天原(たかまがはら)に通じる高千穂峡とかが近い辺りに土着していた形跡が有るから、天皇家の祖先の大王(おおきみ)家を助けた忠臣に成っていた可能性も高いんだぞ? だから鹿児島県には太伯神社も有るだろう?隼人民族の強さのルーツは古代に兵法を理解していたからかもな。 逆に藤原家なんか初代の墳墓を見ても中臣氏の唐突な歴史の表舞台登場の時期を見ても「百済系」の状況証拠ばっかりだし、更に逆に蘇我氏は古代からの日本人だったとしか思えない方形墳墓だったり出雲大社の本殿の裏に古代の奥殿とも思える素我社が祀られていたりする訳だ。そして東日本は蘇我に通じる蘇我や須賀の漢字の付く地名が多い。 そこを平安時代に横取りしてるのが藤原氏な訳だ。古代の関東は製鉄と軍馬生産の先進地域だったからな。 蘇我氏を駆逐した後で何が起きたかは想像し易いだろう。例えば千葉県八千代市高津一帯は平安時代も軍馬生産地だったのだが、そこは菅原道真公を謀略で陥れた藤原時平の庄園に成っていた。千葉県には千葉市に蘇我の地名が残り神奈川にも小田原市に曽我の地名が残るし横須賀市が有り、福島県にも須賀川市が在る。 [画像:bd03d43d-s.jpg]
八千代市高津の高津比咩(たかつひめ)神社には菅原道真公を陥れた後に悲惨な目に遇った藤原時平一族が散り散りに成り、この地で時平の姫が隠遁生活を過ごした伝承が有る。
まぁ、蘇我家の旧領を藤原家が横領していた状況証拠だな。 中臣鎌足が暗殺した蘇我馬子のフルネームは「蘇我嶋"大臣”馬子」なんだが、これを見れば古代日本には大臣、中臣って官位の名残が伝わっていた事が判ったりすんだな。 ついでに言えば藤原家の家祖の中臣鎌足には苗字が無い(笑)。つまり古代大和王権に服属した何処ぞの小王国の末裔だから苗字が無いんだろう。恐らく百済人だ。そして蘇我家の財産を横領し蘇我家の古代爵位を歴史から消し去ろうとした事が状況証拠でバレバレなんだよ。 しかし蘇我が大臣の家柄なのは歴史書から抹消されてるが名前に残ってしまっている。 早くから原初の日本人に成っていたのに藤原氏の陰謀で日本書紀等で後に外国人扱いされた系統も有る訳だ。
じゃあ藤原氏は全て悪か?それは全く違う。平安文化を発展させたのは蘇我氏の財産を藤原氏が横領した後、志も結果的には受け継ぎ、蘇我氏が大臣の頃に招聘した外国帰化人官僚達と共に飛鳥~奈良文化を発展させ平安文化を花開かせた訳だ。そして平安時代の文化の成熟を経て武士文化が生まれ出る。
藤原氏も多大に文化発展に貢献したし、子孫にも日本を外国の侵略から守った人物を輩出している。

因(ちな)みに各豪族の系統を代表する人物の肖像画を同族同士で比較すると面白い位に遺伝子が受け継がれていて似ていたりする。
【葛原親王の御子孫の坂東平氏】 村岡(坂東平氏の氏神の鎌倉坂ノ下の御霊神社の元宮司家)・鎌倉・梶原・大庭・長尾(上杉謙信の実家)・三浦・佐原・朝比奈・蘆名・平子・熊谷・畠山(平姓)・足利(平姓)・豊島・稲毛・渋谷・江戸・喜多見・入来院・東郷(東郷平八郎元帥の系統)等
東郷平八郎元帥上杉謙信
分岐してから数百年も経つのに上杉謙信(長尾景虎)と東郷平八郎元帥は顔がソックリ(笑)。

【清和天皇の御子孫の河内源氏】 源・平賀・佐竹・足利(源姓)・吉良・今川・畠山(源姓)・武田(武田信玄の系統)・仁木・二木・榊原等
源頼朝公武田信玄 源頼朝公と武田信玄も顔面の骨格から髭(ひげ)の生え方まで似てたりする。

【摂津源氏】 多田・太田(太田道灌公の系統)・土岐・明智(明智光秀の系統、坂本龍馬さんの祖先?)等
太田道灌公坂本龍馬先生
太田道灌公と坂本龍馬も頭蓋骨のみならず禿げ具合(笑)までソックリ。

【敦実親王の御子孫の近江源氏】
佐々木・六角・京極・黒田(黒田如水の系統)・舟木・間宮(間宮林蔵・杉田玄白の系統)・乃木(乃木大将の系統)等
※家祖の敦実親王は延喜式内社で近江源氏の氏神である沙沙貴神社の御祭神として祀られる。
黒田如水公間宮林蔵公
黒田如水と間宮林蔵も顔がソックリ!実際に間宮家の御子孫には何人か御会いしたが現代の間宮サンもこの二人の肖像画に似ている。

【村上天皇の御子孫】
村上(村上義清・村上水軍棟梁家の系統)・北畠(北畠顕家の系統)・浪岡・白河・木造・田丸・藤方等
北畠顕家公村上義清公 北畠顕家公と村上義清公が似ているかは判断がつかない。

【素戔嗚尊の系統】
千家(高円宮典子様が嫁いだ出雲大社大宮司家)・諏訪家(諏訪大社大祝(大宮司)家)
※素戔嗚尊系統の御神孫一族が東日本を開拓した伝承が関東の延喜式内社には多く伝わる。
千家国麿氏
※写真は高円宮典子様と御成婚された千家国麿氏
千家さんは骨格がサモアン系で古い遺伝子が濃い様だ。

【野見家・土師家・和珥家系統】
菅原(菅原道真公の系統)・前田(前田利家の系統)・
和邇・和珥・丸子・能見・乃美・大江(大江広元公、毛利元就の祖先の系統)・毛利等
※採石や食器加工等に精通
※学問や文化的素養に精通した豪族。
※菅原道真公の功績を評価する醍醐天皇と、霊威を恐れた藤原貴族によって「天満大自在天」の神号を追贈された一族。
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前田利家
この二人も似ているかは解らない。菅原道真公の生前に彫られた彫像のレプリカは見た事が有るが太っているので痩せ型の前田利家と比較がつかない。

【忌部家系統】
織田(織田信長公の系統、平姓を僭称)・高河原等
※神事に精通した。古代の祭祀(葬礼)に深く関わった一族。
※戦国時代の信長公の代に伊勢神宮復興、御所復興、足利家が中絶させてしまった古代からの祭祀や有職故実を復活させた。
※明治天皇により織田家の功績に対して織田信長公が「建勲神」の神号を追贈され神に成った。
織田信長公

【大伴(おおとも)家・佐伯家系統】
佐伯・大伴・伴・大友(河内源氏を僭称、自称源頼朝公の御子孫)
※古代大王(天皇)家の近衛兵を率いた部落を纏め軍事や水運に精通した系統。
※古代に東日本を開拓した系統。
※応神天皇の天皇号成立以前の御名が大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、血縁の可能性を窺(うかが)い知れる。
大伴家持公大友宗麟公
大伴家持と大伴宗麟、似ている気がするが生前に描かれた物かは解らない。

【賀茂氏】 賀茂(京都の上賀茂神社・下賀茂神社宮司家)・鴨(賀茂家の別字)・徳川(得川)=松平(東照大権現徳川家康公の系統、本来は賀茂一族、源氏を僭称)等
※賀茂氏系統は渡来人説が有る。現在の京都を早くから開発した一族。
土木や土地開発の伝承が多い。古代に東日本を開拓した系統。 トルコ人や新疆ウィグル族と同じく頬骨の出た骨格、秦始皇帝皇子扶蘇の后の骨格もウィグル族系統。
徳川家康公
鴨長明
徳川家康公と鴨長明、もうソックリ。

【物部家系統】
穂積・鈴木・紀(紀貫之の系統)・越智・河野・弓削・中原・曾禰・曽根等
※熊野信仰と水運に精通した系統。
※製鉄や学問に精通した一族、軍事にも精通した武士(もののふ)の語源と思われる一族。
※古代に近畿地方南部~東海地方~神奈川県域西部南部を開拓した一族。
紀貫之公
紀貫之

【宇治家・阿蘇家系統】
阿蘇(阿蘇神社大宮司家)・宇治・高森・中村・竹崎・山下等
※古代からの天変地異観察や文化的素養に精通した一族。古く婚礼の場で歌われた高砂のルーツの一族。
※土地開発の伝承も多い一族。
※神武天皇直系を称するが、古代の熊襲長(くまそたける)の一族から大和朝廷に服属した一族と考えられる。後に大王家からも血縁が入っているとも考えられている。
くまもん

【東漢家・秦家・百済王家系統】
大内(鷲宮神社旧宮司家/藤原家や佐伯家一族とする説も有る)・長曾我部・香宗我部・曾我部等
※文化に精通し中世以降は武士団として大変に活躍した一族。
※大内家は関東最古の大社である鷲宮神社宮司家を代々明治時代まで務め、歴代には徳川家光が利根川で溺死寸前の所を助けた大内泰秀等がいた。
※大内義興は与力の毛利家等小豪族を従えて応仁の乱を収束させた大功労者。
大内義興公長宗我部元親公
大内義興公(騎馬武者)と長宗我部元親公、そもそも系統が違う。

【中臣家系統】
藤原・
丈部・成田・児玉(児玉源太郎大将の系統)・菊池・近藤・首藤・工藤・伊東・伊藤・伊達等
※歴史的に名将を多く輩出している一族。藤原秀郷公、菊池武敏公、伊達政宗公等。
児玉源太郎大将
・・・ハンサムな児玉源太郎大将。東郷平八郎元帥と児玉源太郎大将は若い時から美男。

確かに現代の韓国政府と反日教育はクソ、北朝鮮政府と抗日勢力もクソ、その両方の親分のヤクザ国家中国共産党独裁政府もクソで、悪いのは反日教育を信じて日本人を差別したり攻撃したり、日本人のフリをして偽名を使いながら反日活動をしたり反社会的活動をする連中な訳で、中国人や朝鮮人の全てが悪い訳ではない。
ロシア帝国の東亜侵略と植民地化の野望から日本を守った児玉源太郎公等は恐らく百済王の子孫である可能性が高い中臣氏=藤原氏の末裔でもある。 神奈川県や東京都や埼玉県には古代から高麗権現社や高麗郡が在り、多くの朝鮮系渡来人が亡命して来て在来種の日本人と混血しながら土地を開拓して武士文化の基礎と成る騎馬文化が発展して行った。
そして元寇で活躍した鎌倉武士達には南宋から亡命して来た臨済宗の蘭渓道隆和尚と兀庵普寧和尚が南宋を滅亡させた元軍の戦術や、自分達の持つ中国兵法や哲学等が伝えられ元軍と朝鮮軍の侵略を撃退する事に成功している。
日本人は時代毎に中国系・朝鮮系・トルコ系・環太平洋の海洋民族の遺伝子を受け入れ共に発展し文化を築き日本国を外敵から守って来た歴史が有る。
だから日本人は、反日プロパガンダ活動や日本人を差別したり日本文化破壊を行う連中を「差別」では無くて親日の人とは「区別」して対応し批判するべきなんだと常々思っている。
そして当然、差別は良くないと言いながら「日本人を差別し日本文化を破壊する悪い奴を区別しない日本人」も同様に批判するべきだろう。
日本の原始国家の中には、我々「日本人と気の合う臺灣人の祖先と同じ呉‐越‐楚王国の亡命者の子孫」が居た事実を無視してはいけないし、臺灣の人々には敬意を払わないといけない。それを馬鹿な右翼とネトウヨは中国語=中国人とステレオタイプで己が語学力と知識不足から区別出来ない阿呆が多い。
中国人以外にも批判の対象にやたらめったらする朝鮮系の在日外国人だって、そもそも古代から高麗神社ってのが全国に有り、滅亡した古代日本の友邦だった百済王朝からの亡命者や、それ以前に息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと)=神功皇后(恐らく歴人上の卑弥呼の後継者女王の臺与(とよ))の新羅征伐で古代大和王権の善政を慕って新羅から亡命して来た騎馬民族が移住して開拓民に成り土地を切り開いた土地の開拓者の氏神だったりする訳だ。
だから重ねて言う、簡単に「朝鮮人や在日外国人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家の価値観を批判する事にも成る。
もし朝鮮人や中国人の政治や外交姿勢や日本人差別や日本文化破壊行為を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・
●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人文化至上主義者or在日○○人 ●「反社会的勢力の」+在日○○人 ●「反日政治家に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左テロリストを支援する」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/廃人量産するパチンコやカジノ利権擁護の」+在日○○人or政治家 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか?

昨晩、綺麗な夜景を求めていつもと違う磯子界隈を走っていたら綺麗な夜景を見つけたので写真載せるだけの中身の無い記事ですが・・・
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JR磯子駅から徒歩だと少し無理な距離、東京ガス前バス停。そこから見たJXTG根岸製油所プラントの夜景。
夜景探してドライブしてたのにデジカメ不携帯のアホの小生、スマホ撮影。因って画質悪し。
この夜景の綺麗な場所は、東日本大震災発生当時に東北の人々を凍死の危機から救ったJR貨物と日本エネオス根岸製油所(当時)の人達の勤務場所なんだな。つまり現代の無名の英雄達の働く場所。
コレは明治時代の伊藤博文公や、東日本大震災時の根岸で働く無名英雄達の行動を紹介した記事。
  ↓

新磯子周辺 東京ガス前バス停位置 久良岐のよし
位置的にはこんな感じ、地図中央が東京ガス前バス停。
横浜市民にも知っている人は少ないけれど、実は、この先には良い海釣り公園が有ったり、東京ガスのISOGOエネルギープラザってのが有って、日曜日以外に施設が開かれていて火力発電の仕組みやなんかの模型の常設展示が見学出来たり出来るので小学生か中学生位の子供のいる家のパパさんママさんが家族で来ると良い場所だったりする。
そちらは手元に写真が無いので改めて写真撮影に行こうと思う。
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しかし綺麗だ。
昭和後期生まれには伝わると思うけれど“魔晄炉”みたいじゃない(笑)?
では!又、次のブログ記事で!

横浜市金沢区の八景島シーパラダイスや鉄腕ダッシュに度々登場する柴漁港の近くには金沢園と言う元料亭が存在します。この金沢園は昭和四年(1929年)に桜木町から移転して来た料亭で、その開業年は何と大正五年(1916年)に遡(さかのぼ)ります。
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その金沢園は昭和~平成を通じてずっと金沢区柴で営業を続け、大正時代に桜木町で建設され昭和四年に現在地に移築された建物は文化財にまで成りました。
そして平成27年、旅館喜多屋としてリニューアルオープンし、料亭時代の厨房を利用してオシャレなcafeとしてもランチタイムやディナータイムに営業を開始しました。
昔は料亭内から海が一望で来た景勝地で、その景勝は鎌倉時代に清朝(満州族=女真族の愛新覚羅家)によって滅ぼされた中国の明帝国から日本に亡命して来た東皐心越によって「金沢八景」と愛称で呼ばれた程の絶景が金沢区柴~乙舳~小泉(釜利谷周辺)~六浦~野島~内川橋~平潟湾の一帯にかけて江戸時代には大変に多くの観光客で賑わいました。
そんな訳で現在、喜多屋と成っても店の建物は文化財として価値が有り美しい造りで宿泊客を持てなし、cafeでの食事を楽しみに来る御客様には昔の薪を焚いて火を起こす窯で調理していた時代の煤(すす)が磨き込まれて黒光りする雰囲気有る旧厨房で食事を楽しむ事が出来る、とてもオシャレな店として復活しました。
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駐車場には昔の料亭時代の名残の池と石橋も有ります。
さて、客は先ず暖簾(のれん)をくぐり下の写真の玄関で靴を脱ぎます。
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靴を脱ぎ振り返ると料亭の頃のとても煌(きら)びやかな掛け軸や壁の欄間が御客様を出迎えてくれます。
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この店は予約無くてもランチを食べる事が出来るので、八景島で遊んだり稱名寺を散歩する際に御薦めです。
玄関から中に入り右手に進むと旧厨房が“cafeぼたん”として営業しています。
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何と目の前で料理をしている所を見ながら食事が出来ます。これは外国人の御客様に好評でしょうね。
日本人でも見ていて楽しいし、料理が好きな御子様なんかを連れて行けば良い影響を受けるんじゃないでしょうか?
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メニューはオシャレだけど価格はとてもリーズナブル、御子様ランチも有るので子連れのママさん達も安心して子連れ友達同士で来る事が出来ます。
まぁ…元料亭、今も旅館のレストランなので「ぎゃーぎゃー」と騒ぐ子等は連れて行くべきでは無いと思うし、逆にママさん達が日本人らしく子供を厳しく躾(しつ)ける良い機会にも成るかと思います。
小生は写真撮影に訪問したこの日は“国産地鶏の幽庵焼きオレンジ風味”の定食にしました。
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料理も和風に洋食のエッセンスを足していて横浜の開港以来の鎌倉武士文化と西洋文化のコラボを楽しむ様(よう)な献立が多いですね。
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この幽庵焼き、とても美味しかったです!
これにデザートのジンジャープリンが付いて1500円はとてもお得。
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食器も料亭金沢園から引き継いでいるそうで、とても美しい鎌倉彫の椀に汁物が入っていました。
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この写真を知り合いの博物館の女性職員達に見せたら「うわ~綺麗♪」と感心していました。
価格の話もしましたが、女性達が魅力を感じる御店としてどうやらコンセプトの確立に成功した様ですね。

さて、食事が終わり、館内を従業員の方に案内して頂く事が出来ました・・・
実は小生、この写真撮影の為の訪問に際し、1ヵ月程前に直接御挨拶に訪問し日を改めて館内の見学と写真撮影の申し込み、つまり素人取材の御相談にあがっていました。
・・・なので、今回の訪問で従業員の方に御話を通して頂き、食事後に旅館の客室としてリニューアルした元料亭客室部分で空室チェックイン前の部屋を見学させて頂く事が出来ました。
※見学したい人は訪問前に事前に客室の見学の可否を相談して下さい。小生の場合は事前に交渉しアポをとっています。通例だと思わないで下さいね~。
先ず案内されたのが1Fの客室に通じる廊下。
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ともても風情が有る。
下は金沢区野島の伊藤博文公金沢別邸。
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やはり明治に建てられた同じ金沢区の野島公園にある伊藤博文公の別邸に少し似ている印象を受けた。
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1Fには2人部屋の客室。元々料亭だったので書院造だ。
昔の日本人は男性平均身長も160cm位で体躯も小柄だったし、これで十分に広かったのだろう。
書斎といった印象を受ける。
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通路に戻り奥に進むと厠(かわや)すなわちトイレが有る。
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ここも大正モダンな和風建築がそのまま活用されている。勿論、必要な部分は現代の物に成っている。
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2Fに上る階段の奥にも客室が在る。
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うん、良い感じ。今度関西や台湾の友達が遊びに来たら横浜市内の味気ないホテルじゃなくて、ここの喜多屋か三浦の民宿やペンションか横須賀の米国軍人が宿泊するホテルに泊めてあげよう。
きっと喜多屋に泊めてたら皆、横浜にこんな場所が有るのかと喜んでくれるだろう。
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こちらは少し広めの部屋。3人部屋の様だ。
昔はこの部屋で4~6人位で宴会をやったのだろう。
料亭時代から宿泊も出来た様で、風呂も大正の素敵なタイル貼りの浴室だった。
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まぁ、本格的な旅館では無かったので、2つ有る浴室の内のコチラは大浴場ではない。
窓のガラスは大正時代の色ガラスだそうで、何だか教会のステンドグラスの様で日光を取り込んで素敵な淡い色に光っている。
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コチラも窓のガラスが美しい!
浴室はもう一つ有り、こちらは少し広い。家族4人でも同時に入れそうだ。
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色が暖かい。
大山阿夫利神社の参道に多く有る宿坊も大正時代や昭和初期の再建の場所が多いが浴室はやはりコンナ感じだ。富士山の溶岩で浴槽周辺を装飾されタイル張り。
浴室を出て階段を上る。
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階段の上からは昔は海が見える絶景だった大広間が存在する。
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とっても!立派な部屋。
昭和の映画スターの勝慎太郎さんが良く宴会をしていた京都の老舗すき焼き店の三嶋亭の大広間もこんな感じだった。一昨年三嶋亭で友人と食事をした際に店の御厚意で店内を見学させて頂けたのでたまたま知っている。
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部屋の周りも雰囲気が良い。
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現在では目の前にマンションが建ってしまい、更にアフォの横浜市が景勝地だった海を埋め立ててしまい眺望は失われたが横浜市内に在って豊かな緑が残っている御庭。
これも外国人の観光客には好まれるだろう。
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大広間の書院造りは大名屋敷に負けない程に立派だった。
さて、店の解説はここまでにして、少し周辺の地理の解説をしようと思う。
…と、その前に店の住所と連絡先を紹介して置こう。

この喜多屋の前身の金沢園が料亭として栄えていた頃周辺の風景は景勝地として政治家や財界や多くの文化人に愛され、昭和の初期まで、その景勝は大半が残っていた。
その景観は素晴らしく小生の顕彰する戦国時代の関東最強武将、北条綱成公の家老だった間宮康俊公の親族が代々江島神社奥津宮別当を務めたのだが間宮一族の治めた江の島を愛した与謝野晶子サンや、高浜虚子が歌会を開いたり滞在されたりしていたそうだ。
その当時の金沢区の風景はこんな感じだった…
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…戦後の昭和に他府県カッペ移民役人だらけの横浜市に破壊される前の"日本屈指の景勝地"金沢八景の地形。
京都の天橋立(あまのはしだて)に瀬戸内海の風景を足した様な絶景が広がっていました。

残念ながら横浜市は現在の林文子市長を含め日本文化や武士文化や歴史に興味の無い極左派やヤクザの親類と交流に深い人物が市長を務める事が多かったり、県外からの移転者が市の役人として多く採用された弊害で神社仏閣を含めた宗教的な自然の境内地の価値や、鎌倉時代の武士や江戸時代の庶民や外国人から愛された景勝地を、建設利権の為に多く埋立て或(ある)いは破壊してきました。
昔、浮世絵師の歌川広重が乙舳帰帆(おっともきはん)や称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)と言う絵で描いた美しい風景が昭和初期まで存在したり、源頼朝公が伊豆(静岡県三島市)の三嶋大社から勧進した御分霊を祀って開かれた瀬戸神社の鎮守の森の山も横浜市役所の役人達によって破壊されてしまいました。
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この風景は日本の名だたる歴史偉人達にも愛され、例えば近くの洲崎地域の龍華寺は前身寺院が六浦地区に在った頃、源頼朝公と文覚上人によってその景勝地を望む丘に御寺が開かれました。
新田義貞の鎌倉乱入等で新田軍等の放火と略奪の戦災に遭い廃寺と成った跡、横浜市と縁の深い菅原道真公の御子孫と関東最強の名軍師太田道灌公によって現在の寺町(洲崎)地区に龍華寺は復興されました。すると、その金沢八景の美しさは日本レベルで有名に成り北条早雲公、徳川家康公等が龍華寺に滞在され金沢八景の景色を楽しまれたそうです。
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鎌倉時代にも喜多屋の近くの金沢山稱名寺が鎌倉幕府の重鎮で執権も輩出した金沢北条家の邸宅に成り、後に邸宅は稱名寺として寺院化され現在に至るのですが、その景色も美しく江戸の市民が観光に訪れる場所の一つでした。そして、それ等の八ヵ所の景勝地として有名に成っていた風景を海の上から見た景色を歌川広重が絵にして“金沢八景”の地名は江戸から昭和初期まで南関東最高の景勝地として多くの人々の知る所と成っていたのですが…
戦後の横浜市役所に他府県出身の役人や、極左翼閥や非保守多国籍ヤクザと結託した役人や左派市長が横浜市を統治する度に不思議と海は埋め立てられ、金沢八景の景観は全滅しました。
そして海の公演も埋め立てられ、金沢園も商売が厳しくなった訳です。
この金沢区の埋め立てによる大景観破壊の被害、海の公園と八景島の建設による景観の悪化で客足も遠のいて、平成25年頃には経営がかなり難しく成っていました。そこを現在の喜多屋の運営会社さんが文化財と歴史を活かしてオシャレな店に復活させるプロフェッショナルな粋な企業だったのですが、その経営によって現在見事に復活した訳です。
同じ様な努力をされている西区の坂本龍馬の奥さんお龍さんが働いていた料亭田中家さんや、南区弘明寺の同じく料亭旅館で建築文化財に成るべき価値の有る中里温泉さんと3すくみで頑張って行って欲しいと思います。

本当に、この現在の喜多屋の運営者さんの努力は素晴らしいと思います。
そして料理も美味しい!
是非、この存在を皆さんに知ってもらいたく、お盆休み最後の週末に八景島や海の公園に訪れる人がいたら是非!ここでランチやディナーを召し上がれば良い思い出に成るので推薦させて頂きます。

今回金沢八景の解説で紹介した場所は過去に記事に書いていますので、ブログの「タグ」の一覧から興味の有るタグを選んでクリックして頂ければ関係の記事が出ると思います。

では、今回は喜多屋の解説でしたが、次回は金沢八景の地名の初出典と成った場所、能見堂と青ヶ台城の解説をしたいと思います!
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

前日、台湾の友人夫妻来浜→ ←これの続き。2日目。
台湾の友人夫婦が横浜に遊びに来てくれた2日目・・・
この日は朝から中華街のホテルに二人をピックアップし、藤子F不二雄ミュージアムに行って来た。
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ここは完全予約制で、ローソンでチケットを購入しないと入れない。
当日券は販売していない。来館者が快適に見学する為の配慮だ。
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まぁ、関連商品も沢山売っているので、御土産にも困らない。
小生の友人は日本が大好きでいてくれて、度々遊びに来てくれるのだが、今回訪問先と成った川崎・横浜・横須賀・三浦を含めた神奈川県は初めての旅行先だそうだ。
東京が近い弊害で東京より見る場所が多いのに海外の旅客にスルーされる事の多い我が県、何とか楽しんで欲しく、事前に友人(御妻君の方)と旦那さんの要望をリサーチして訪問先を分単位で計算して計画を立てていた。
しかし、この日は小生がドジをやらかしまくった。
高速で第三京浜川崎出口を降りた際、道路が複雑な進路変更が必要で道を間違えた。
更に、のちに話すが家系ラーメン総本山吉村家を食べさせてあげる事が出来なかった。
う~ん・・・
まぁ、話を先に進めると、友人(御夫君)が幼少の頃ドラえもんが大好きだったので、ここの存在を知った友人(御妻君)が小生に行きたい候補として事前に通知してくれていたのでチケットを予約しておいた訳だ。
入場料は1000円、安い。
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屋内展示物は写真撮影が不許可なので、屋外の展示物しか撮影出来ない。
しかしながら、多言語に対応した案内解説器具を各入館者に1台づつ渡して貰えたり、原画が多数展示されていたり、藤子F不二雄先生の生涯や、作業場等が再現された展示が有り有意義に時間が過ごせる。
子供向けと言う訳では無い施設だった。
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どちらかと言えば中学生高校生大学生等、進路に迷いがちな世代が来た方が良い場所。
最低限、小学校低学年程度の読み書きが出来ないと子供も理解出来ない展示が多い。
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でも屋外に出ると、子供も喜ぶ写真撮影の為の実寸のキャラクターが展示して有ったりする。
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ドコでもドアーとか・・・
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空地の土管とドラえもん。
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映画のワンシーン等も再現されていて親子連れや大学生位のカップルで賑わっていた。
でも入場制限がちゃんとかかっているので、酷く待ち時間が有る様な事が無いので快適に見学出来た。
小生も次ぎ来る時は、自分の恋人か奥さんと一緒に来られる様に頑張らねば(笑)。
まぁ、甥っ子姪っ子を連れてくるのが先に成りそうだな。
ここをいたく気に入った二人、4時間も滞在したので後の予定に少し影響が出た(笑)。
実はこの後、車で横浜駅西口の家系ラーメンの総本山である吉村家に向かったのだが・・・
月曜日店休日だった。
直弟子の店で吉村家発祥地の杉田家が年中無休なので当然やっているものと思い込んだ小生のミス。
この日二つ目のミスだった。
友人夫妻は「明日自分達で帰りに食べに行くから良いよ~」とは言ってくれたが悔やまれるミス。
時間的にも杉田家に回る時間が無いので、やむなく、藤子不二雄ミュージアムで購入したドラえもんのどら焼きと、ドラミちゃんのメロンパンで二人に間食して凌いで貰った。
目的地を3か所目の横浜市中区の国指定名勝の三渓園に移動した。
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※写真は昨年の写真。
ここまでの移動中、友人(御妻君)の勤務先の台湾の貿易会社が日本の顧客の会社のミスで少々トラブって、休暇中なのに電話が引っ切り無しに掛かってくる。
当然三渓園を友人(御妻君)はゆっくり見る事が出来ず少々可哀想だったが、御夫君の方は御妻君に指で指示を受けながらポイントを押さえて写真撮影に勤しんだ(笑)。
この後に城ケ島で富士山を見る計画だったので、三渓園は大急ぎの1時間のみの滞在と成り御団子も食べる事無く車に乗り込んだ。
う~ん、藤子不二雄ミュージアムの滞在が1時間長かったかな。
まぁ、三浦に行けば美味しい鮪料理も食べれるので、二人のテンションも下がらずに城ケ島には17時位に到着した。
本来ならコンナ↓風景を見せてあげられるはずだったのだが・・・
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・・・三浦に到着するや否や、雹と大雨のドシャ降り。
う~ん、富士山どころじゃなかったな。
傘さしてるとは言え二人とも外套(コート)の肩がビショビショ。
仕方なしに、三崎漁港の小生行きつけの寿司の名店「紀ノ代」に移動した。
そしたら臨時休業だった(笑)
もう、ここまで踏んだり蹴ったりだと笑えて来るのだが、事前に隣に在るマグロ料理居酒屋の「黒羽亭」の事も二人に紹介して置いたので、「そちらに行こう!」と二人が言ってくれたので助かった。
あぁ!エスコートしなきゃいけない側が、なんかフォローされて胸が苦しい。
でも二人はマグロ喜んでくれて大助かり。
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※顔は差し替えてあります。
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台湾で余り食べる事の出来ない“胃袋”“白子”“卵”を前菜に、珍しい骨髄・・・
あと三浦野菜とシラスのサラダ、鮪の刺身、鮪の刺身定食、サザエのつぼ焼き、トロカツ、顎肉のステーキ
それと二人にはキリンビールプレミアム横浜仕立て?とか言うのを注文。
二人の胃袋を一杯にして、店を後にして再び出発。
帰り道、横浜横須賀道路の横須賀PAに寄りたいと希望が有って立ち寄ったら19時閉店・・・
どうかしてるぜ横須賀PA!
24時間やれや!しかも大黒ふ頭PAも同じ。
この日、最終日なのに神奈川の夜を楽しめないで帰らせる訳にはいかず、鉄オタ御妻君友人が喜びそうなので前日に大さん橋から眺めたミナト未来地区へ移動。
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少し雨が降っていた事、平日の夜という事も有り、人もまばらで写真を撮るには良い環境だったので結果的には二人にとって良かったかも知れない。
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横浜市民でも余り知らない人が多いのだが、ここは伊藤博文公が整備した新港埠頭の鉄道史跡だったりする。
二人は鉄道が好きなので小生の解説に興味を持ってくれた。
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だから、気が付かない人も多いかも知れないが赤煉瓦倉庫の前には当時の汽車の線路が今も保存されていたりする。
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この建物の反対側に移動すると、横浜ベイブリッジも綺麗に1枚の写真に収める事が出来たり、その更に少し先に行くと、下の写真の場所が在って・・・
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暗くて上手く撮影出来なかったが、明治~大正時代の横浜税関の検査場の建物の史跡も在ったりする。
何より線路の上を歩きながら綺麗な風景を見られる絶好の観光スポットな訳だ。
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サークルウォーク(鉄橋の円形歩道橋)からの眺めも良い。
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そして、ワールドポーターズの前も嘗(かつ)ての新港埠頭の史跡。
だから、昔、貨物船が通っていたランドマークタワーの真下へ真っすぐ赤煉瓦倉庫から線路が続いている。
この道を歩いて、二人とランドマークタワー下のドックヤードガーデンへ移動。
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ここ、若い人や歴史に興味の無い人は只の野外コンサートホールだと思っている人も少なくないのだが実は、日本現存最古の造船所の史跡で重要文化財なのだ。
友人(御夫君)は建築企業の監督なので、これを見て「カッコいい!」と喜んでくれた。
実は友人(御夫君)は日本の歴史に精通しており、下手な日本の大学生よりも日本文化と歴史に対する理解が深い。御父上は中国大陸の上海出身なので中国の歴史に対する理解も深く、この前日に三笠公園で清帝国の戦艦“鎮遠”の弾頭を見て西太后の暴走独裁と頤和園の建設による近代化の遅れ等を直ぐに解説していたりした。
今回、改めて自分の県を回ってみて思ったのだが、横浜は非常に台北に文化が似ている。
だから彼らと価値観が合ったりするのかも知れない。
外国の租界が置かれた歴史、外国文化の流入
南宋滅亡時に元朝に寝返らなかった蘭渓道隆和尚達、鎌倉幕府へ亡命したた忠義の真の華人達と成熟させた鎌倉文化や、三渓園で見る事の出来る、その後の武家文化
そして自然豊かな三浦の景色
これを全部合わせると、台湾の歴史背景と文化背景、そして景色その物もなんとなく似ている所が多いのかも知れない。
友人は開港記念会館を見て、台湾の総督府に似ていると言っていた。
近代の建物で日本人のデザインだから似ているかもね~と言う話もした。
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上の2枚は2014年に台北に友人を訪ねて行った際に撮影した写真。
下の2枚は2015年にブログ素材様に撮影した横浜の写真。
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うん、やっぱりソックリ(笑)。
まぁ~台湾人は日本人と同じように神仏を信仰して、文化も似ている上に風景も似ているんだから友達として意気投合出来て当たり前なんだよなって改めて思い、そして2年ぶりの友人夫妻との再会を楽しんだ休日と成った。

ホテルまで二人を送り、ロビーで暫しの別れの挨拶。
握手して「又ね!」と言ってバイバイした。
寂しいな。

残りの人生、二人に何回会えて何時間一緒に遊べるか判らないから。
一期一会の心掛け、出来るだけ、やれる事を!
さぁ、成さねば、自分の事・・・
又、元気な二人に元気に会えます様に。

6年前の3月11日
高速総てストップ。
首都機能麻痺。
東北諸県被災地のインフラ崩壊。
まだ雪降る現地。
補給が滞り石油灯油が枯渇寸前で死線が近づく
生き残った人々。
そんな中、本牧半島、横浜市中区根岸の石油コンビナートのエネオス社員達が無能な当時の政権を見捨て、民間の力で被災地へ命を繋ぐ油を届けようと行動し出す。

発災2日目、エネオス社員とJR貨物社員が明治の元勲、伊藤博文公が整備した横浜を起点とした無電線区間の貨物列車網と言う偉大な遺産の活用に気が付く。
この路線は日本海側に繋がっている、つまり遠回りだが新潟県~山形県~秋田県経由で被災地へ、文字通り命の灯火と成る油を一気に大量輸送出来るのだ。
壊滅した太平洋側の軌道を使わずに済む。
根岸のエネオスとJR貨物と臨港鉄道の社員達は神がかった連携を見せる。
この区間は無電線、電車が走れない上に明治~昭和初期の近代に建造された"煉瓦製の橋脚"の橋を超重量の貨物編成で渡り、磐梯山を越える急勾配を通過しなければいけなかった。
発災3日目、エネオスの油の準備万端、いつでも貨物列車に充填出来る体制が整う。
JR貨物職員も何と1日で通過予定区域の煉瓦製橋脚の橋の耐久確認し、更には日本全国から時代遅れで退役予定の"ディーゼル機関車"をかき集め無電線区間の通過を可能にした。

かくして当時の無能な民主党政権が右往左往する間に、民間の社員達が会社の垣根を越え、更に時代を越えて伊藤博文公をはじめとした近代の政治家達と連携し、大地震と大津波発生から1週間も経たずに被災地へ横浜市中区本牧半島のJR根岸駅を出発した第1便の貨物列車により灯油と石油が届けらた。

色々と忘れちゃいけない事も有る。
そして、一見価値の無くなった様に錯覚する物にも必ず残さなきゃいけない物も有る。
それを忘れちゃいけないし、これからも油断しちゃいけないんだと思う。

皆さん、横浜の三塔ってご存知でしょうか~?
幕末~昭和初期の横浜市の旧中心街の日本大通りに、KingとQueenとJackと呼ばれる江戸幕府が終了し文明開化を迎えた頃に建てられた美しい近代西洋建築遺産があります。

本当は今回の記事で、公開中の映画「HERO」のロケ地にも成っている神奈川県庁旧庁舎に特化した記事を書くつもりだったのですが…
その前に、この地域の近代西洋建築と発展の歴史を写真と衛星写真で軽く解説させて頂く事にしました。
じゃないと、何で西洋建築をブログで取り扱うか意味も解らないと思うので。

冒頭で述べた「横浜三塔」と言うのは、実は横浜発展の歴史とも関係が有るんです。
では、まず、三塔の外観の写真を御覧下さい…

KING
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キングは神奈川県の旧庁舎の塔の事。

QUEEN
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クイーンは横浜税関の塔の事。
JACK
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ジャックは横浜開港記念館の事です。
横浜三塔
別角度でもGoogle Earthの3D地図で位置関係を見て見ましょう。
横浜山下地区:3塔位置関係
すべて幕末から文明開化を迎えて建設された近代西洋建築ですが、昔、海外から来日する国際航路の船舶の乗船者が船上から、この3塔を同時に見られたら幸運に成れると言われたそうです。
美しい建築遺産ですね。

実は、この3塔の前に今は山下公園や象の鼻パークが在りますが…
キングこと県庁旧庁舎の辺りは昔は今の横浜市の市名の由来に成った半島があり、その半島は海側から見ると本当に横に長い浜だったそうです。
ペリー提督
そこにアメリカのペリー提督が上陸し、その際、米国艦隊の海兵軍楽隊が演奏する吹奏楽を聞いたのが日本人が初めて西洋の音楽に触れた瞬間でした。
これを契機に日本と西洋諸国の間で通商条約が結ばれ、江戸幕府が国際船舶の貨物の荷揚げ積み下ろしの為に作った波止場が象の鼻パークでした。
ですので、現在も国際航路客船が停泊する「大桟橋」こと国際客船ターミナルが、象の鼻パークの前に建設された訳です。

では、三塔と象の鼻パーク周辺の位置関係を見て見ましょう。
横浜三塔と周辺位置関係
横浜市の都市設計は、今の林市長以前は海から来る外国の客船に綺麗に見える様に設計されていたと言うのは割かし有名な話で、明治時代から先代市長まで歴代市長が景観を大切に都市を創造されてこられました。
ので、大桟橋から見ると、正面に横浜スタジアムが見え… 横浜三塔と山下公園
右手には「赤レンガ倉庫」の立ち並ぶ旧新港埠頭やランドマークタワーとクイーンズスクエアが立ち並び夜景を彩るミナト未来地区…
横浜山下地区:大桟橋
左手には関東大震災以降に、市民の退避場と海浜公園の機能を兼ね備えて造られた「山下公園」や「みなとの見える丘公園」のあるオシャレな山手地区への海岸が在ります。

次回、HEROの公開中と言う事もあるので、HEROや華麗なる一族等のロケ地である、神奈川県庁内の写真を掲載したブログを書きますが、実は神奈川県庁、一般公開されています(ただし平日に限る)。
で、屋上のキングもすぐ目の前で見れますし、横浜市民も余り知らないのですが屋上からの横浜港の絶景を眺める事も出来ます。
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この県庁旧庁舎屋上からの写真、象の鼻(メリケン波止場史跡)の手前の方に左右に横切る陸橋の遊歩道が見えませんか?
実は、この遊歩道、昭和末期まで活用されていた鉄道輸送網の一部で、西郷さんや伊藤博文公が乗車した新橋~初代横浜駅(現:桜木町駅)を走ったSL(蒸気機関車)の路線を新港埠頭の赤レンガ倉庫へ延伸し、更に後に建設された新山下埠頭や本牧埠頭にも延伸されたその路線の線路の跡なんです。
ですので、小生が子供の頃この遊歩道にまだ線路が通っていて、開港記念日には記念にSLが走ったりしていました。

この地域、幕末に逸早く開かれた関内(かんない:関所の内側の外国人居留地)だったので、県庁の目の前には又じずれ別記事で詳しく書きますが、旧イギリス大使館の横浜開港資料館も在ったりします。
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この他にも沢山の近代西洋建築遺産があります。
いずれ順番に紹介しますね!沢山写真は撮り溜めてありますがか♫
なんで日本大通り周辺にこの様に近代西洋建築が密集しているかは、先程ちょっと触れましたが、横浜の地名の由来に成った半島が有ったので、その地盤がちゃんとした半島の上や山手地区から先に開発が進み、その後で埋め立て地である関内は旧吉田新田方面が発展していったんです。

実は地形を見ると、昔、この辺りが半島だった名残りが解ります。
それは横浜中華街に有る特徴で解るんです。
横浜の地名由来説明
横浜中華街だけ、他の道と違って斜めに町が設計されていますよね?
実は、この画像で赤い範囲で囲った辺りが、おおよそ横浜とも弁天半島とも呼ばれた半島だった場所なんです。
中華街が斜めに成ってしまったのは、最初に山手の丘の麓の、今の元町商店街がある海岸と半島の付け根に当たる部分から埋め立て始めたから、その様に斜めに道路が設置されてしまったんですね。
元々は町では無く、海を干拓し水田にする予定だったので、その畦道(あぜみち)の名残なんです。

さて、そんな訳で、この地区は日本の中でも兵庫県神戸市と並んで逸早く文明開化を迎えたので、沢山の西洋建築や文化の発祥地に成っている訳です。
数回前のブログ記事で紹介した「かをり」と言う老舗洋菓子店の話で少し触れましたが、この地域が西洋文化の日本発祥地に成った物は本当に多くて…
※「かをり」の記事はカテゴリー「スイーツ」から探してください!
●国家「君が代」
●鉄道
●電話事業
●西洋式ホテル事業
●吹奏楽
●テニス
●石鹸
●西洋野菜(現在一般的に売られているニンジンやキャベツやネギなどは西洋種で神奈川奉行が幕命で栽培)
●アイスクリーム
…他にも腐る程あるのですが、小生、不勉強なので余り知りません。又、機会が有ったら調べて見ます。

さて、次回からは、今回の記事を契機に、この地域の近代西洋建築遺産を順々に紹介しますね!
まずはHEROのロケ地のキングの内部の写真を次回の記事で沢山載せるので、また御覧頂ければ幸いです。

前回の記事で横浜市中区の麒麟公園が日本におけるビール事業の発祥地である事を書きましたが…
※前回の記事は「ココ 」←クリック!
header_grouplogo_01キリンさんのロゴは、このローマ字書体の物の他に…


…もう一つ、ネットの借り物の画像ですが、この麒麟のロゴが有りますよね?

麒麟2
この麒麟は、昔の中国人がアフリカのキリンから連想した馬と龍が混じった架空の動物です。
なんでビール会社のロゴが伝説の麒麟なんでしょうね?
実は、この事は麒麟麦酒の広報が認めている事実として、ある歴史偉人との関係が有ります。

昔、別の記事で少し触れた事が有ったかも知れませんが、現在のKIRINの創業者は三菱財閥の創業者でもある岩崎弥太郎サンと、もう1人、幕末のグラバー商会の社長だったトーマス・ブレーク・グラバーさんです。
麒麟
前回の記事で紹介したコープランド先生が創業した、日本初のビール醸造場のジャパンブルワリーの事業を後に買収し引き継いだのが、現在のキリンホールディングスの前身と成った麒麟ブルワリーで、その出資者が岩崎弥太郎サンとグラバーさんだった訳です。
そして、この御二人の創業者と友人だった歴史偉人の偉業を顕彰する意味で、この麒麟のロゴが選定されたと言われているそうです。
では、岩崎弥太郎サンとグラバーさんの友人だった歴史偉人とは誰でしょうか?
その答えは既に、このロゴで表現されているんですが…
先程、麒麟は馬と龍が混ぜられた架空の動物と御説明さしあげました。
その馬と龍の字が名前に成っている坂本龍馬サン、その人こそが、実はこのロゴで顕彰されている人物です。
坂本龍馬
では、御二人は坂本龍馬先生と、どの様な関わりが有って、結果リスペクトしていたのでしょうか?
実は、明治時代初期、坂本龍馬さんの存在は大日本帝国(明治時代の日本)の一般国民には知られていませんでした。その坂本先生の存在と偉業を世間に公表した人物が、当時、既に三菱財閥のトップだった岩崎弥太郎サンだった訳です。
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎サンと坂本先生の繋がりは、出身が同郷である事と共に商業により日本の近代化を推進した事に有ります。
御二人は今の高知県、土佐藩の出身で幕末当時、先に世間に功績を残し頭角を現したのは坂本先生の方でした。坂本先生は商社海運業者兼軍事会社である「海援隊」を設立し、薩摩藩と長州藩の同盟を成功させた外交活動や、軍艦・武器購入の代理店として、軍事物資補給で多大な事績を残されました。
そして、その協力者の海外武器商人こそがトーマス・ブレーク・グラバーさんだった訳です。
グラバー
グラバーさん、長崎に拠点を構えていたのですが、今もその邸宅はグラバー邸として長崎の観光地に成っています…
そして!そのグラバー邸、実は世界中で革命を起こし民主化を進める事を目的とした結社フリーメイソンのロッジとして機能していたと言われています。
事実、グラバーさんはフリーメイソンの構成員だったと言われているので、坂本龍馬先生もフリーメイソンの一員だった可能性は否めません。
つまり、ペリー提督の来航から既に、日本を民主化させる策謀が有ったのかも知れません。
ペリー提督の母国アメリカ合衆国の創始者であり初代大統領であるワシントン大統領もフリーメイソンの一員だったので、龍馬先生がフリーメイソンと何某か連携し活動した可能性は有ります。
ワシントン大統領
坂本龍馬と言う人物がフリーメイソンの一員であったとするならば、大政奉還の草案に議会制民主主義を想定していた事にも整合性が確かに有ります。
そして、それを知る可能性の有る人物は坂本龍馬本人、大久保利通先生や西郷隆盛先生も幕末や明治時代に悉く暗殺されたり、政争に因(よ)る内戦により戦死しています。
…ですので事実の確認は今では出来ません。
まぁ~、よくTVのCMに出演してる美容整形外科の経営者の高須さんはフリーメイソンの一員なので、あの方に真相を聞けば直ぐに解るんでしょうが、小者の小生に当然ながら、その様な人脈が有る筈がありません(笑)。

因(ちなみ)みに、麒麟公園の直ぐ近くの山手公園は日本最初の吹奏楽のコンサートが行われた史跡が有るのですが、その場所に日本最初のフリーメイソンのロッジが在った事は結構、有名な歴史事実でもあります。

さて、坂本先生、以下、親しみを込めて龍馬サンと呼ばせて頂きますが…
上記の方々の他に、龍馬サンと特に関わった歴史偉人が3人と龍馬さんと他人ではなかった人物が1人、神奈川県にも深い関わりが有ります。
1人は勝海舟先生…
勝海舟
坂本龍馬サンの海軍軍事技術と思想的な師匠に当たる人物ですが…
以前、戦後時代の城址、京浜急行神奈川駅近くの「青木城城址」に関する記事を書いた時に触れましたが、神奈川駅近くの金港町周辺、今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に「神奈川台場」と言う要塞を設計しています。
※青木城に関する記事は「ココ 」←クリック!

そして龍馬サンの没後、未亡人と成ってしまった「お龍サン」も、この勝海舟先生の紹介で神奈川台場の近く、江戸時代に東海道の神奈川宿で有名だった料亭の「田中家(たなかや)」で働いていました。
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この田中家は場所がら、東京から海軍の拠点であった横須賀鎮守府(現:横須賀市汐入一帯)に出張する政府の要人が利用する料亭だったので、きっと勝海舟さんのコネが有ったのでしょう。
現在も田中家サンは横浜市神奈川区、当時と同じ場所で営業していますが…
…ランチで1人予算1万円と少し敷居が高いので、まだ行った事が有りません(笑)。
機会が有ったら是非、行ってみたいと思います。

お龍サンのその後ですが…実は余り幸せではありませんでした。
実は、再婚して横須賀市に移住しています。
そこで亡くなったのですが、旦那サンは一般人の商人だったのですが余り大きい事業では無かったので龍馬サンと比べちゃうと可哀そうですね、しかし誠実な人物なら、お龍サンも幸せだったのかも知れませんが…
この再婚相手、とんでも無い事に、よりにもよって、お龍サンの妹と内縁関係に成った挙句、お龍サンを捨てて二人で出て行っちゃったんですね…。
…可哀想過ぎる。
しかし、この頃に成ると、先に説明した岩崎弥太郎サンの証言で坂本龍馬の存在が世間でも認知され、更に当時の美子皇后(昭憲皇后)が龍馬サンの霊夢を見た事で、お龍サンも世間に知られる様に成りました。
しかし、時既に遅く、その2年後に、お龍サンは危篤状態に陥って帰らぬ人と成ってしましました。

しかし救いは有りました。
井上良馨
お龍サンが危篤に成った際、当時、海軍大将だった井上良馨が発起人と成り、お龍サンへの見舞金の義捐金を集め、幕末の海軍の父とも言える龍馬サンの後輩、ある意味弟子に当たる多くの海軍軍人達が此れに賛同し、寄付金が集まったそうです。
残念ながら、お龍サンは生前不幸な余生を過ごしましたが、対馬海戦で大活躍し日本をロシアの侵略から守った多くの海軍軍人は、龍馬サンと御龍サン夫婦が残して下さった子供達みたいな存在とも言えます。
当時の海軍の士官達には、その様な意識が有ったからこそ、多くの見舞金が御龍サンに集まったのかも知れませんね。
現在、御龍サンの御廟所は横須賀市大津町に在る宮谷山信楽寺に有ります。
そこの墓碑には「贈正四位坂本龍馬之室」と刻まれ、龍馬サンの正妻として明治政府にも没後再評価された様です。

そして、御龍サンが働いた田中家や勝先生の設計した神奈川台場の傍に新港埠頭建設を決め、日本鉄道輸送網の基礎を創建したのが井上良馨卿の親友で日本の初代総理大臣と成った伊藤博文公です。
伊藤博文
後の2011年3月11に我々の世代が経験した「東日本大震災」の発災時、津波により東北沿岸部の石油関連施設と鉄道網は壊滅しました。その影響でまだ真冬の寒さの真っただ中の被災地は燃料枯渇により暖房が使用不能に成り、人々は多くが凍死の危機に瀕していました。
その際に、東北への燃料輸送に活用されたのが、福島県から北陸へ抜ける日本海側からの鉄道輸送網でした。
この話も以前の記事で紹介した事が有ります。
※関連記事のリンクは「ココ 」←クリック!

前回の記事でも今有る我々の生活は、昔の人の多くの苦労とちょっとの成功と幸せの経験の上に成り立ってると書きましたが、この様に、麒麟麦酒からも現代人を助けた鉄道輸送網や、その建設に関わった人や、その人と様々な人々の関わりは繋がりが有り、現代人を助けた組織や設備や人々にまでリンクしていたりするんです。

ですから、古代からの神話も、平安時代の伝承も、武士達の築いた歴史も、全てが大切で、その一人一人の先人達の悲哀と成功と喜びの経験が我々の生きるヒントでもあるんですね。

では!又、次の記事で御会いしましょう!

ブログネタ
「夏の終わり」感じるのはどんなとき? に参加中!
横浜市金沢区の野島公園は、キャンプ場が有り夏はBBQで一家団欒を楽しむ家族連れや、近隣の大学生グループで賑わいます…
眼前には金沢八景島シーパラダイスがあり「海の公園」側やこの野島公園で潮干狩りをする人達も多くいます。
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実はこの野島公園が、江戸時代に徳川家康公の十男で、紀伊徳川家の初代藩主徳川頼宣公の別荘が在った場所だったり…
初代総理大臣の伊藤博文公の別宅があったり…
大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所であった事を知る人は今では少なく成ってしまいました。
また、太平洋戦争時の末期には隣接する横須賀市に横須賀鎮守府があった関連で現在の日産自動車工場追浜工場には横須賀海軍飛行場があり、野島には零式艦上戦闘機の防空格納基地が建設されました。

※その辺りの情報は以前の記事で紹介したので以下にリンクを貼ります。
●野島の零戦格納庫の記事は「ココ 」←クリック!

大きくは無い島で、現在はレジャーの島に成っていますが、こんな狭い面積に沢山の重要な歴史が詰まった場所なんです。
今回は夏も終わりに近づき、御抹茶を頂きながら海辺の夕涼みが出来る場所として、又、日本が法治主義国家を歩みだした、その場所としての伊藤博文公別邸を紹介したいと思います。

小中学生の残り少なく成った夏休みの自由研究宿題のテーマとしても役に立てるかな~と思います。
この施設や野島内の周辺史跡を見学して写真を撮影し、野島の歴史自由研究として時代と説明文を原稿用紙に書き、そこにプリントアウトした写真を貼れば十分、提出に十分足(た)る内容になるんじゃないかと思います。

では…
キャンプ場と反対側に閑静な松林が在ります。
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小生が子供の頃は、まだ眼前の八景島は無く、この豊穣な海では海苔の養殖が盛んに行われ、特産品の海鼠(なまこ)や小柴のシャコが沢山獲れました。
その横、駐車場の目の前の牡丹園と古民家が伊藤博文公の金沢別邸です。
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この伊藤公別邸は無料で拝観できます。
入口の係員の方に、抹茶を飲みたい事を伝えると客間で抹茶を頂けます。
御茶の料金は乾菓子のセットは300円、茶菓子のセットは500円で頂けます。
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小生は、この日は御乾菓子を頂きました。

さて、建物を解説します。
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建物自体は昭和まで良く見かけた、明治~大正期の日本建築で、入口からは解りませんが結構な奥行が有ります。
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この玄関、昭和生まれ世代は結構多くの人が御婆ちゃんの家を思い出すんじゃないでしょうか(笑)。
まぁ、実際、ここには明治~大正時代に伊藤家の御一家や、その後も管理人さんがいらっしゃったから生活感有って当たり前ですよね。
とは言いつつも、ここは一回老朽化で解体修理され復元再建された建築遺産でもあります。

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中には、各部屋や歴史の詳細な説明も個々に展示されています。
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玄関を入ると、純和風の廊下の両脇に、客室用の雪隠(せっちん=トイレ)や炊事場(すいじば=キッチン)が在ります。
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その廊下からは中庭が覗けます。
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素敵な小庭ですね。
昔の少し立派な日本家屋は京都の京町屋と呼ばれる様式でもそうですが、この様な中庭を作る事で風の吹き抜ける通り道を作り、エアコンの無かった時代に自然の力で十分に涼む仕組みが設けられていたんですね。
中庭の右手に見える配管は、浴室から延びる煙突です…
実はこの煙突も明治時代には画期的な仕組みの一部なのですが、その説明は又後で。
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これが炊事場の写真です。
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明治時代の炊事場ですが、江戸時代の炊事場と余り機能的に変わりは無いですね…
まだまだ井戸水を汲み上げて飲料水にし、薪と炭で煮炊きし料理を作っていたようです。
…当時の使用人さん達は大変だったでしょうね~。
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それでも台所の外側の土間(どま=土足で行動出来る部屋)に、この家専用の井戸が有るだけ、別の庶民の家より重宝した事でしょう。

で、反対側の客間用の雪隠(せっちん=トイレ)へ…
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これも又、江戸時代の御城に有るトイレと余り変わらない木製の和式で、この状態からトイレの文化は近代に急速に発展した事が良く解ります。
大(笑)
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小(笑)
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小生、ここに来るまで知らなかったのですが…
トイレは和名では2種類に分類されるそうで、時代劇や老人が雪隠や厠(かわや)と呼ぶのは、実はトイレのタイプによって区別が有るそうです。
こんな感じ…
雪隠(せっちん)…ボットン便所、汲み取り式で人糞を肥料に再利用出来る様にトイレ下に穴が掘られている。
厠(かわや)   …水洗トイレ、川の水流を利用したトイレ。
…川の小屋のトイレだから、略して川の小屋=かわや=厠なんですね。

さて、客間です。
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この写真では余り解りませんが、眼前には海が広がり当時は金沢八景と称され、江戸時代に歌川広重が浮世絵に描いた程の景勝地でした。
水戸徳川家の黄門様こと水戸光圀公が明の禅僧の東皐心越(とうこうしんえつ)和尚を御連れして、この一帯の風景を遊覧された程でした。

この客間の入口からも中庭が見えます。
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反対側から見る中庭はさっきと様子が少し違います。
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さっきの煙突、実は浴室から延びています。
客間からも居間からもすぐに浴室に行ける便利な構造に成っていますね。
そして風呂場が中庭に面していると言う事は、入浴中、涼しい爽やかな風が吹き込んできたんでしょうね~。
流れで浴室を紹介しましょう。
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この浴室の壁は人口の御影石で出来ています。
昭和期まで、日本家屋に多く見かけられた人工石ですね。コンクリートより高級感が有ります。
さて、さっきの煙突の正体ですが…
右側から延びる配管が、浴槽の中に入って行ってますよね?
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実はコレ!明治時代には画期的だった湯沸かし器の構造物なんです!
当時は庶民の家では五右衛門風呂が主流で、直接、竈(かまど)の上にでっかい鍋みたいな風呂を置いて直に火力で御湯を温めましたが、この機能はボイラーの熱を配管で送り浴槽内の御湯を温める仕組みなので、火傷する心配が有りません。
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そして温泉の様に檜風呂で入浴出来る画期的な構造な訳です。
現代のガス式風呂釜湯沸かし器に通じる構造ですね。
この配管を伝う熱源の排煙をするのが、先程の中庭の煙突と言う訳です。

さて、客間に戻ります。
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御茶はこの客間で頂けるのですが、ここからの眺望は凄く素敵で、小生はたまにここにノンビリと頭をリセットしに来させて頂いています。
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繰り返しに成りますが、目の前が海。
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ここで御茶を飲んでゆっくり…いいでしょう?

昔の家らしく、縁側も有ります。
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平成世代は余り見た事が無いかも知れませんね。
昔の人は、こういう縁側でゆっくりと贅沢な時間を日常的に過ごしたもんなんですよ。

この金沢別邸には伊藤公の私室も当然有ります。
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意外かも知れませんが、居間は広くはなく、普通の家と余り変わらない大きさです。
伊藤公は賭け事が大嫌いな性格だったそうで、個人でいる時は余り華美な生活を好まれなかった様ですね。
公人として西洋式の華やかな生活を送らなければいけないので、普段は落ち着きたかったのかも知れませんね~。
この居間側にも裏口があり、そこからも庭に出られます。
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御庭から見た客間越しの金沢の海。
御庭は牡丹園の名前で同じく無料公開されています。
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牡丹園側から見た、居間の様子。
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庭には綺麗な花が咲いていました。
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こちらの牡丹園側の入口、つまり勝手口が下の写真です。
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意外かも知れませんが実は伊藤博文公、外戚閔妃派と日本政府の関わりで伊藤博文公のイメージを悪く混同されていますが…
韓国初代大統領の李承曉のロビー活動による結果で、悪いイメージを持つ韓国人も多くなっています。
しかし実は朝鮮王室との関係は極めて良好でした
ですので、、朝鮮の最後の皇太子李垠殿下も御滞在された場所でもあります。
李垠殿下も伊藤公の私邸へ度々(たびたび)御宿泊され金沢八景の風景を楽しみ遊覧される程に信頼関係が深かった訳です。
余談ですが、戦時中も日本の太平洋戦争終結後の無条件降伏時も李垠殿下は日本でちゃんと王族として保護されていました。終戦後に奥方と韓国に帰国しようとした所、李垠殿下御夫妻の韓国復帰を阻止したのが、朝鮮王室復興による失脚を恐れた李承晩だった事を多くの韓国人は知りません。
親日派だった朴正煕大統領に成って、漸(ようや)く李垠殿下御夫妻は韓国に帰国出来ました。
つまり、李承晩自身が知日派の李垠殿下に帰国されると非常に困る事情が有った訳ですね。
李承晩がいなければ、併合後に朝鮮王室を李垠殿下が復興し、現在の日本の天皇家と復興した朝鮮王朝で友好的な王室外交が成されていたはずなんです。
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野島の眼前には、野島と同じく伊藤公が大日本帝国憲法草案をまとめた場所の一つである夏島が見えます。
その夏島の前にあるのが、旧海軍飛行場、現在の日産自動車追浜工場です。

ここ野島は日本の近代化や法治主義化の礎と成った舞台でも有り、良くも悪くも、両方の歴史を伝える歴史遺産群が密集した場所でもあるんですね。
先人の苦労と同時に、明治政府樹立による法治主義の開始や鎖国からの脱却の重要性や、防衛戦争の必要性と、戦争の負の側面も考えさせてくれる場所であり、そして又、前政権徳川家の紀州藩別邸跡の有った場所であり徳川家が御参りした野島稲荷神社が現存し…
金沢八景の一つであり文化醸成地だった、横浜市民のみならず日本国民にとっても大切な場所と言えます。

夏も終わりですね…
皆さん、体調を崩されませんように。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

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