歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:伝心寺

前回の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←コレの続き・・・

大永峯嗣法山傳心寺・・・と言っても現代では判る人は少ないでしょうか?
もし新編武蔵風土記稿で久良岐郡の金沢領の項目を読んだ事が有る人なら「あ~!」と思い出す人もいると思います。
さて、この大永峯嗣法山傳心寺と明治時代以前まで正しい名前が伝わっていた御寺も、明治や戦後の宗教改革を経て寺院名は簡略化されて現代では昔とは大分異なっています。
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嗣法山 伝心寺(正式には大永峯嗣法山傳心寺)
さて、この御寺は❝北条氏繁公が開基(かいき=新設)したと❞神奈川県教育委員会や金沢区観光協会が間違った歴史を紹介しており、その事は前回の記事で書いた磯子区の龍珠院の伝承の勘違いと全く同じ❝文献の未確認❞❝歴史人物と伝承の生年の整合性の未確認❞と言う❝初歩的なミスを神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の誰かサン❞が犯して適当な仕事のまま伝心寺サンや金沢区観光協会に報告してしまったので❝公式❞に歴史が誤認されてしまっている様です。
少し前回の龍珠院の記事と被りますが、何故、この伝心寺が北条氏繁公の開基と言うのは有り得ない事かを説明させて貰います。
前回龍珠院の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←クリックで読めます。
さて、新編武蔵風土記稿には旧北条家臣間宮家の子孫で東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務め地誌編纂で多大な功績を残した間宮士信(ことのぶ)サンが伝心寺について以下の記載をしています。

~前略~
禪宗曹洞派相模國小田原香雲寺の末(すえ=末寺)、大永峯嗣法山と號(号)す本堂はなく本尊釈迦の坐(座)像は假(仮)堂に置(おけ)り、開山養拙宗牧、開基は北条左京大夫氏直、大永元年(1521年)の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず、
~以下省略~
因(ちな)みに江戸時代にも既に御寺を開いた人物についての認識に混乱が有った様で、どうも伝心寺の御住職は歴代伝える文書は無く口伝が中心だった用です。そして昭和に成ってからの御住職様は新編武蔵風土記稿も読んでらっしゃらなかったみたいですね~。御寺の復興に忙しかったんでしょうね。
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※伝心寺の参道、昔はこの辺りから御寺だった様です。道路の配置から一目瞭然。
まぁ、ちゃんと北条氏繁公や北条氏直公の誕生日を知っていればコンナ初歩のミスを犯さないんですが、何で歴代の和尚さんに御寺を開き寺領を与えて下さった大恩有る開基の御殿様の御名がちゃんと伝わらなかったか新編武蔵風土記稿の文中にヒントが有りましたね…

まず①で現代では簡略化され誤って伝えられている御寺の正式名称と字体が解ります。

そして伝承が正しく伝わらなかった原因が②に有ります。小生の推測では恐らく戦国時代末期に房総の里見家の海賊行為で御堂ごと焼け消失、江戸時代にも本堂は再建されずにいたから御寺その物が荒廃していたのでしょう。その為(ため)に造営から数年後には記録文書が消滅したと推測出来ますが、その原因と成ったであろう合戦の候補は二つ有ります。
●1つ目、永正十五年(1518年)八月二十七日に起きた三浦半島(横須賀市域)走水合戦
北条家臣で後の玉縄城主北条綱成公の付家老と成る前の時代の間宮家が単独で里見家を横須賀市走水で迎撃して殲滅した戦いです。この合戦では間宮家が水軍率いて横須賀市域で里見海賊を迎撃、特に活躍したのが走水を死守玉砕した間宮分家の杉田間宮家初代当主、間宮常信公でした。常信公は官途を兵庫頭(ひょうごのかみ)と名乗り、この合戦では海賊の大将の植松筑前守を討ち取った上に敵軍船14艘を奪い取った記録が残っています。間宮家は勝利したものの残念ながら間宮常信公は34歳の若さで戦死されその戦功が記録されています。常信公の菩提寺は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
妙法寺の記事は→妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。←クリック!
・・・結論から言うと時代が合わない。なのでこの合戦では有りません。が!いつの時代も役所の役人と言うのは適当な仕事をする奴もいれば真面目な人もいると言うのが判る一例として晒(さら)し上げの代りに誤記だらけの内容を解説して置きましょう。
先ず、この記録が登場するのは寛政重修諸家譜と新編武蔵風土記稿と言う文献ですが、寛政重修諸家譜に関しては近代若しくは昭和期の国家公務員か出版社の人間が適当な仕事をして永正を天正と誤記しています。これは江戸時代の文書から活版印刷に文字を起こす際に起きたミスでしょう。
更には新編武蔵風土記稿でも間宮家の子孫である間宮士信サンが❝間宮常信❞と書いている御殿様の名前を江戸幕府の馬鹿役人は❝間宮信常❞と誤記しています。
更に平成の世と成った現代でも間宮常信の事に関して適当な事を執筆して本にしているNHK歴史解説員と研究家である事を誇張してWikipediaでツラツラと書いて有るガクシャの人がいるのですが、文献の内容の事実確認をされない上に御子孫への取材をする事も無く上記2つのミスをコピペして出版している本に事実誤認や誤記を丸写ししていたりします(笑)。
酷いですよね、いつの時代も❝適当な仕事をする部類の人種❞って。

2つ目、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦
この合戦では恐らく、三浦半島と現在の横浜市域が里見家と正木家の軍隊と海賊に略奪されつくされ鎌倉市街地域に至っては放火され鶴岡八幡宮まで焼失してしまいました。
恐らく町屋地区も略奪放火され六浦から朝比奈峠を越えて里見の海賊は鎌倉市街に乱入し、正木の海賊は城ヶ島方面から北上して鎌倉に侵入したのでしょう。里見家も走水や金沢八景や杉田方面の各所から侵入を試みた様で、杉田に有る源頼朝公が開いた元は修験道の大本山だった熊野神社=大霊山泉蔵院桐谷寺も略奪に遭っています。
泉蔵院(熊野神社)の記事→横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。←クリック!
この鶴岡八幡宮合戦での略奪放火で八幡様が焼失した事件は北条家のみならず北条家と敵対していた小弓公方足利義明や関東武士団にとって文化的精神的なダメージと成る大事件で、里見家は失火の原因の責任から内紛が起こり、北条派の里見義尭(よしたか)が当主に成る程でした。
この際の鶴岡八幡宮と鎌倉市街地の再建事業では横浜の3人の殿様が活躍しているのを間宮家の事績解説で紹介しているので興味が有る人は御覧下さい。
鶴岡八幡宮再建事業関連記事→間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリック!
※余談ですが、間宮家の事績はこの文章を叩き台にして何れ書籍化する予定では有りますが調べ物増えすぎてブログとシェイプアップと銀の指輪造りと季節の散歩と合わせて予定が伸びに伸びて未定です(笑)!
さて小生の推測、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦で里見家の乱入が有った際に御寺も燃やされたので伝心寺は荒廃し書物も御堂も火事で無くなり御本尊の釈迦牟尼仏様だけが難を逃れていた事が皆さんにも「久良岐のよしの言ってる事は整合性有りそうだな?」と御納得頂けたかと思います。
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では新編武蔵風土記稿の伝心寺の解説の③と④ですが、もうそのままですね。
開基は北条左京大夫氏直、大永元年の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず
江戸時代には恐らく御寺を開いた殿様の名前が❝北条左京太夫(さきょうだいぶ)❞とだけ伝わっていたのでしょう、だから江戸時代の御住職が前代には御寺の歴史の引き継ぎが廃れていたのを何かの文献を読んで「あ!北条左京大夫って北条氏直公の事なのね?」と間違った解釈をして以後~明治まで御寺の歴史として伝わっていたんでしょう。しかし左京大夫は北条家歴代の殿様が名乗った官職名でした。
実は❝五位、左京大夫❞と言うのは元々は北条家の傘下の小大名で北条家より家格の高い蒔田吉良家の殿様の歴代が名乗った官途です。蒔田吉良政忠公の代まで左京大夫でした。しかし蒔田吉良家に北条家の姫君が嫁ぎ、吉良成高公や吉良頼康の代に成ると鎌倉公方の代理を務める様に成り官位も❝四位、左衛門佐(さえもんのすけ)❞に上がったので、その際に北条家に左京大夫の官職が譲られたのでしょう。
北条氏綱公
2代目の北条氏綱公の先代の初代北条早雲公は実は生前に北条姓を名乗っていませんでした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
それどころか早雲公の代までは伊勢姓で伊勢盛時と名乗り僧籍に入ってからは伊勢宗瑞となのっていらっしゃったので官職も左京大夫ではなかった筈です。
ですから蒔田吉良成高公が初代鎌倉公方代理だとすれば正に北条氏綱公の世代に当たるので、北条家初代の左京大夫を名乗った殿様は北条氏綱公と成り、伝心寺が開かれた大永元年(1521年)ともドンピシャで整合性が有る訳です。
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さて、これで取り合えず❝傳❞心寺を開いたのが北条氏綱公が有力で有る事が解ったかと思います。
では、何故(なぜ)現代、この御寺が「玉縄北条家の北条氏繁公が開いた」と誤った伝承を現在の御住職様も伝えているのでしょう?これは一つは先代の御住職の頃の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の責任です。素人(シロウト)歴史オタクの小生でも調べられる程度の事すらちゃんと調べずに御寺に嘘を教えたんでしょうね。
そして御寺に伝わっていた❝歴史事実はこれだけ❞だと思います・・・
「玉縄北条家の殿様の菩提寺である、でも誰か今では解らない」
・・・と。
これは他宗派の真言宗で、伝心寺の直ぐ近くに在る龍華華サンが成り歴史を紐解くヒントに成りそうです。
2015-03-04-17-10-31
知足山 彌勒院 龍華寺
龍華寺を紹介したブログ開始初期の拙い記事→龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。←クリック!
龍華寺に関しては関連記事も有ります
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。←クリック!
→休日雑記 2017年06月10の訪問先・・・【金沢区】上行寺~上行寺東遺跡(浄願寺跡)~伊藤博文金沢別邸~野島公園キャンプ場~野島稲荷神社←クリック!

・・・実はこの龍華寺は北条家の本拠地小田原城の前の城主の大森家の遺児が戦国時代初期に住職を務めていました。この御寺は扇谷上杉家と関係が非常に深く、大森家は扇谷上杉家の与力大名でしたし、同じく関東最強の無敗の軍師で築城の名手だった太田道灌公も扇谷上杉家の直臣で家宰(主将代理)でした。
太田道灌公
室町時代の太田道灌公と菅原道真公の御子孫の菅原朝臣(すがわらのあそん=菅原氏)中務丞の菅野資方(すけかた)公が御一緒に、鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が新田義貞による鎌倉幕府討伐の戦火で略奪放火され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、復興された御寺が龍華寺で、江戸時代には龍源寺と呼ばれていました。
この龍源寺を道灌公と一緒に復興した菅野さんは今の東京都の浅草辺りに住んでいた道灌公の与力武将でした。
先に伝心寺は里見家が鶴岡八幡宮同様に放火略奪した可能性が有る事を指摘しましたが、ちょうど大森家の遺児が龍華寺に居たのはその時代の話です。
鶴岡八幡宮再建事業の頃、玉縄城主は北条為昌公でした。北条家3代目当主の北条氏康公の実弟ですが、どうも小生の見立てでは自分の家来や他勢力と共謀して実兄を差し置いて跡継ぎに成ろうとした形跡が残っている人物です。
鶴岡八幡宮再建では為昌公は鎌倉の玉縄城主だった事も有り、鶴岡八幡宮再建に携(たずさ)わる人々と緊密に成る機会が有ったのですが、当時のこんな話が有ります「氏康公はアホだから、弟が跡継いだ方が良い」と噂が広められていたようです。
実は北条為昌公は烏帽子親や後見人が北条家初期の重臣であった笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公でした。この二人から名前を一字づつ貰って成人した事が解ります。そんな為昌公と鶴岡八幡宮再建で親密だったと推測出来るのが大道寺・笠原の他に❝神保輝廣❞公でした。この神保輝廣公、苗字が違うので歴史学者でも知らない人が多いのですが、実は北条早雲公の実子で2代当主北条氏綱公の実弟であり鶴岡八幡宮再建では檜皮奉行や財経担当として再建に携わっていたので北条為昌公を可愛がる動機が十分に有りました。
当時、北条氏康公は後の織田信長公の若い頃同様に評判が悪く奇行が多かったそうです。
北条氏康
※北条氏康公:KOEI信長の野望大志よりは画像拝借
そんな事も有り中の良かった人達だけで勝手に氏康公を廃嫡しよう等と言う協議がされたかも知れません、しかも敵方の小弓公方足利義明や里見家と結託した上で。
龍華寺の記録では北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している文書が紹介されています。
先に説明しましたが、北条早雲公の生前の名は北条姓ではありません。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代で、統治が安定して龍華寺に寺領保証の朱印を発給出来た人物は北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だと解ります。
さて、玉縄城主だった人物が、兄の北条氏康公を差し置いて三代目当主に成ろうとした動きが後の玉縄城主北条綱成公と俗説では混濁されています。
北条綱成
これは有り得ない事で、北条綱成公は養子なので実子を差し置いて跡継ぎに成る権利は有り得ません。
これは恐らく同じ玉縄城主でも先代の北条為昌公の話が玉縄城主として余りにも有名な北条綱成公と混濁され誤認された事が推測出来ます。
北条為昌公は烏帽子親が筆頭家老の大道寺盛昌公、名を同じく筆頭格の重臣である笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公から貰っているので、人脈的にも後ろ盾に成る人物がいて嫡男:氏康公の廃嫡を画策出来るのは彼以外におらず、更に1530年代後半に行われた鶴岡八幡宮再建では北条一族で伯父の神保輝廣公が買い会計関連と屋根に使う檜皮の調達と施工管理の奉行として頻繁に玉縄城近くの鶴岡八幡宮に出入りしていたので神保輝廣公とも兄の北条氏康公廃嫡の謀議を重ねれる状況に在(あ)りました。
小生はこの為昌公の菩提寺が、伝心寺なのだと推測しています。
実際に為昌公は1539年~公文書に登場しなく成り1542年に23歳の若さで亡くなっているのも1541年に北条氏綱公が没して後に兄の北条氏康公が跡を継いだ際に誅殺されたか自害したのかも知れませんね。
そして北条家所縁の傳心寺に葬られたのが、末寺の龍珠院開基の北条氏繁公の話とごちゃ混ぜに成り江戸時代以降に誤伝したのだろうと解る。
江戸時代の北条氏直公説なんぞ間宮士信サンが解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻すと・・・。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成ります。
玉縄城主が開基したと伝わるならば、当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している訳です。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろう事が判明します。
神保輝廣公も小田原所領役帳が編纂された1559年当時には北条一門なのに84貫32文と異常に低い中級武士待遇扱いをされている事が解り、これももしかしたら為昌公の陰謀に加担した懲罰としか思えない状況が有ります。為昌公の次の玉縄城主と成った北条綱成公は1370貫612文。
神保輝廣公と北条綱成公の所得を比較すれば、明らかに神保輝廣公が冷遇されており何某かの懲罰を受けて減封されている事が読み解ける訳です。
余談ですが伝心寺を開いたとか御廟所が有ると誤伝した北条氏繁公の菩提寺は鎌倉市玉縄の玉縄城下の龍寶寺で、氏繁公の母の大頂院様の菩提寺は鎌倉市大船の大長寺(大頂寺)で、子の北条繁廣公も大長寺にて菩提が守られている。
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※傳心禅寺、真新しい扁額にはちゃんとした字体で傳心寺の禅寺としての寺号が刻まれている。
さて、ここまで読んで頂けた人には少しは小生の説・・・
1伝心寺を開いたのは北条氏綱公
2伝心寺で菩提を弔われているのは北条為昌公
3北条氏康公を廃嫡させ三代目北条家当主と成ろうとしたのは北条為昌公
・・・この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測を納得頂けたんじゃないでしょうか?
更に伊勢原市の龍散寺の記事と丸々被(かぶ)りますが書き並べます。

❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、「嫡男の北条氏康公がアホ」等と敵と組んだり家臣団を分断してまでプロパガンダをやらかしたならば当然、犯人が北条氏綱公にバレて為昌公に懲罰を与える際は自分の所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈ですよね。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判ります。
そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不可解に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしています。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれるます。
ならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかありません。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然に成ります。
しかもソレは・・・
父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳です。
恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺でしょう。
そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?
・・・と小生は推測する訳です、その様に推測する理由もちゃんと有る。
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅しています。何らかの理由で没収されている事が解る訳です。
そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有ります。
この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解ります。余談ですが小田原北条家の直臣で玉縄北条家の付家老を務めた間宮家も入間郡の坂戸市戸宮に領地を持っていました。
つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳です。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけですからね。
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伝心寺の屋根や窓ガラスには北条家から下賜された北条家の家紋の三鱗紋が寺紋として装飾されています。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳ですが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全な訳です。その間に仏門に入り僧侶として修行して反省させたのかも知れませんね。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。
年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能する。
邪魔な為昌公は自害させられたか誅殺されたのでしょう。伝心寺で蟄居させられ仏門に入っていたのならば、ここに眠っているのが為昌公であり玉縄城主だったので末寺の龍珠院を支援した氏繁公と勘違いされた事も納得が行きますよね?

叔父上の神保輝廣公は氏康公廃嫡と為昌公の嫡子推薦を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介しています。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い訳です。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
そして鎌倉市と横浜市の金沢区と磯子区と港南区の歴史も繋がる訳です。
余談ですが、神保輝廣公の菩提寺は伊勢原市の龍散寺です。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりします。でも早雲公の御位牌、小田原城に貸し出した際に教育委員会が破損させたので、「もう外部には貸し出したくない」って副住職様が仰ってました。
・・・お~い神奈川県教育委員会、不真面目な奴はさっさと止めて、真面目で現場で頑張ってる教育者や学芸員が出世出来る仕組みにサッサと改革しろや!みたいな風に一般人として思う事件ですね。

さて、同じ曹洞宗の伊勢原市龍散寺、横浜市磯子区龍珠院、そして金沢区の龍華寺と傳心寺の歴史が繋がった所で、北条氏繁公と間違われている為昌公と思われる人物の御墓の場所ですが…
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・・・今では歴代住職の御墓の中でどれか解らないみたいです。
小生の推測通り龍珠院に蟄居させられて僧侶に成っていたのなら歴代住職の御廟所に御墓が在るのも納得が行きますよね?
でも背後の墓石、これ間違いなく室町時代の頃に多い御墓の様式なんですよ~。正面の立派な墓石は代表した供養塔ですね。
この記事を書くために改めて写真の撮影に伝心寺を再訪した時は二月初旬でした。
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梅が咲き始めた頃で境内にもとても綺麗な梅花が開いて心を癒してくれました。

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横浜市には伝心寺と龍珠院、そして港北区の泉谷寺、3つも戦国時代の関東で一番❝侵略❞と❝善政❞に長けた名将の北条氏綱公が関わった御寺が有ります。
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庫裡では御朱印も頂けますよ~。
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きっと皆さんの御近所にも今は規模は大きく無くても本来は凄い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れません、御散歩した山や公園が実はそんな神社仏閣に関わった歴史偉人の御城の跡かも知れません。
少し歩いて御寺や神社の説明や、屋根の瓦の模様を見て見ると、途端に過去の歴史偉人とその場所が皆さんを繋ぐタイムカプセルに成るんですよ!
・・・さあ、天気が良くて気分転換したければ、御近所を散歩してみませんか?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
次いつ更新するかは解りませんが(笑)!
肉体改造、四月一杯で形に成りそうです。少しだけ玉縄北条家と間宮家と太田道灌公と蒔田吉良家と宅間上杉家の殿様の顕彰文の原稿書くのとブログ更新のペース遅くなるの、猶予下さいね~。

んじゃ!
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前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、三之宮比々多神社~伊勢原大神宮~高部屋神社)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
延喜式内社で2016年に社殿が国の指定文化財に登録された高部屋神社を御参りして氏子サン達と情報交換してから後の話しの続き・・・
元々、高部屋神社の次の訪問したいと思っていたのが厚木市小野の閑香大明神こと小野神社なのだが、途中に龍散寺も在るので必ず参拝する事にした。この御寺を再興し開基したのは小生が織田信長公、徳川家康公に次ぎ太田道灌公と並び尊敬する北条早雲公の実子の神保輝廣公だから、北条家の殿様に命を繋いで頂いた小生としては御寺の眼前を素通りする訳には行かないのだ。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音北条早雲こと伊勢盛時入道宗瑞公の実子で二代当主北条氏綱公の御舎弟に当たる宮内卿 神保輝廣公は現代では余り知る人もいない戦国武将で、快元僧都記と言う北条関連の貴重な文書の現代語読み下し版や後北条所領役帳を編纂した先生達の注釈でさへ「玉縄北条家の与力」程度の解説しかされていない。
しかし・・・神道や仏教の文化に対してリスペクトを感じる神奈川県人の中には神保輝廣公が高い実務管理能力を発揮した内政家だった事を知る人はいる。知る人ぞ知る高い教養を持っていた人物なのだ。
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龍散寺の山門は境内の竹林と木々と相まって文化人の草庵の様な雰囲気を醸し出す・・・
正に神保輝廣公に相応しい禅寺だ。
この日、2018年正月02日はちゃんと御寺に御挨拶もする心算(つもり)で訪拝した。
本堂が再建中だったので、先(ま)ずは隣の圓通殿に御参りした。
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その後、庫裡を訪れた所、若い副住職様が応対して下さり、色々と御話しを久しぶりに御教授して頂く事が出来た。
所で・・・
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この御寺を再興した神保輝廣公が余り詳しく龍散寺と“鶴岡八幡宮”の関係者以外に名を含め伝わらなかった理由は恐らく、北条家三代当主と成る北条氏康公が未だ当主に成る前に、氏康公の実弟で当時の玉縄城主だった北条為昌公を跡継ぎとして担ぐ動きに加担し北条氏康公の廃嫡を画策したから北条氏康公が当主と成ると権力と領地を減封され❝社会的に干された❞と小生は状況から推測している。
神保宮内卿の名は鶴岡八幡宮再建の記録に登場する・・・
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それが快元僧都記と言う文章なのだが、こんな風に登場する・・・

天文三年(1534年)二月
十七日、為檜皮奉行❝神保宮内入道❞社頭江越被了。
十八日、然間毎月諸大工下向工料等彼人躰ニ被仰付。今月神保宮内入道被加了。

現代語に訳すとこんな感じ・・・

1534年02月
17日に檜皮奉行(社殿の檜皮葺きの屋根に使う檜の皮の調達施工の管理責任者)と成った神保宮内入道(輝廣公)が社頭(当時は神宮寺だった鶴岡八幡宮)に御越しに成られました。
18日に工期の間の毎月の大工(関東や奈良から呼び寄せている宮大工)の滞在費や建築費等(の財務管理)を、その方(兵庫助 太田正勝公)に(北条氏綱公が)仰せつけられた。今月、神保宮内入道を加えられた。

・・・まぁ、もっと沢山名前は登場するが、キリが無いのでここまで。
実名が解らないので宗教をリスペクトして神社や御寺を廻ったり自分で取材しない学者はそれ以上辿(たど)れずに神保宮内入道が誰なのか解らないらしい。
後北条所領役帳にも以下の記載が有る・・・

玉縄衆知行役
一 神保孫三郎
廿二貫文 波多野 落合
六十弐貫三拾弐文 中郡 秋山内粟久保分
以上八拾四貫卅ニ文
玉縄御城御用従前々諸篇走廻候付知行役御免

・・・これは神保孫三郎と言う名前しか掲載の無い武将の所得証明書で、ザックリ言うと合計84四貫32文の所得が有って最後の部分で「昔の働きによって所得に応じた課役を免除する」と書いて有る。
この所領の❝秋山❞と言うのが丁度、現在の龍散寺の在る伊勢原市上粕屋地区の事だ。
ちょこっと龍散寺を参拝すれば、神保宮内入道の❝実名が輝廣❞公と判明し、更に北条早雲公の実子だったと解るのだが、文献しか読まない人には一生かかっても解らない。
因みに84貫32文と言う領地の所得は北条一門としては高くない。寧(むし)ろ低い。
例えば北条為昌公の没後(小生は誅殺と推測)に玉縄城主と成った北条綱成公の所得は1370貫612文有り、北条綱成公付家老の間宮康俊公でも698貫559文の所得が1559年編纂の役帳から判る。これと比較すると神保孫三郎=宮内卿輝廣入道の家が1559年までには北条氏康公から冷遇されている事が読み解ける訳だ。
神保宮内入道が活躍した鶴岡八幡宮再建は1530年代後半、北条為昌公は1539年から公文書に登場しなくなり1542年23才で没する。
この1539~1542年の間、学者は病床に伏していたと推測するが小生の推測は違う。
この間、蟄居幽閉もしくは横浜市金沢区の伝心寺で僧籍に入らされる懲罰を父の北条氏綱公から受けたのだろうと推測する。
理由は恐らく兄氏康公の廃嫡を神保宮内入道等と画策し、私利私欲で北条家中を混乱させ様としたからだ。
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大永峯嗣法山 傳心寺伝心寺は現在の山号は嗣法山と簡略化され寺名も伝心寺と簡体字化されている。そして北条氏繁公の開基と“金沢区観光協会の誤伝拡散で誤って”伝承している。これは簡単に説明が着くし新編武蔵風土記稿では江戸時代にも更に誤った寺伝で江戸期には“北条氏直公の開基”と伝わる旨記載が有るがコレにも誤りだろうと指摘が注釈されている。
至極簡単な話で、曹洞宗は世襲制では無かったので当然、和尚様が代替わりすると話がごちゃ混ぜに成る。
正しくは大永峯嗣法山傳心寺と言う名前で、開基は大永元年。
大永元年(1521年)には天文五年(1536年)生まれの北条氏繁公も、永禄五年(1562年)生まれの北条氏直公も当然この世に存在していない(笑)。現在、金沢区観光協会が北条氏繁公の開基と紹介してしまっているが、これは神奈川県教育委員会が悪い(笑)。神奈川県と横浜市の教育委員会は全く仕事をしないでありとあやゆる全国的に見ても貴重な城址や宗教聖地や古墳を‟開発利権を害さない様に配慮”してきて破壊黙認してきた組織なのだが「文献にさえ記載が有ればOK」「責任取りたくない」と言う姿勢が見え見えなのだ。
では龍散寺から少し脱線して北条為昌公の為に曹洞宗の和尚様達を尊敬する小生が教育委員会に代わり伝心寺と北条家の関わりを解説する。
先ず、北条氏繁公が開基した御寺として金沢区の伝心寺絡みの御寺が実は横浜市内に存在する。
デュオ歌手“ゆず”の地元、磯子区岡村町龍珠院だな。
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泉谷山 龍珠院この龍珠院こそが北条氏繁公が堂宇を建立し本格的に“傳心寺の末寺”として再興開基された寺院だ。
もっと突っ込んで言うと氏繁公の父君の北条綱成公が支援した仏教の草庵が前身で、そこを本格的に寺院化している事が新編武蔵風土記稿にも解説されている。
つまり、金沢区観光協会の解説は傳心寺の物では無く末寺の龍珠院の開基の伝承がいつの時代か混濁されたままコピペ紹介されている事が江戸時代の記録からも戦国時代の文書からも判る。
この金沢区観光協会の事実誤認の原因は、彼等が教えを請うた“教育委員会の杜撰(ずさん)な仕事のせい”な訳だ。
さて、もう北条氏直公説なんぞ解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻す。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成るだろう。当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろうと思う。
恐らく北条氏❝綱❞と北条氏❝繁❞の字を、草書体を読めなかった近現代の学者が誤読して取り違えたんだろう。そして、この御寺に「玉縄城主の御墓が在る」と伝承していたので先入観から北条氏繁公の御墓と決めつけてしまったのだろう。
因みに江戸時代の北条氏直公の説は簡単に何故誤認されたが説明がつく。
傳心寺の直ぐ近くには龍華寺と言う真言宗寺院が存在する。
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知足山 彌勒院 龍華寺(元:六浦山浄願寺&知足山光徳寺)源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が戦火で略奪され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、太田道灌公と菅原資方公によって再興開基された寺院なのだが、昭和初期まで付近一帯は“金沢八景”と呼ばれる景勝地として有名で海に面した眺望は戦国武将達も愛されたので太田道灌公、北条左京太夫(さきょうだいふ)、徳川家康公等が、この龍華寺を支援して宿舎として滞在した歴史が有る。当時は龍源寺と言う名前だった。
北条家の当主は代々、“左京太夫”の官職を継承するので、この寺に滞在した北条左京太夫の正体は、北条早雲公から始まる北条家歴代当主の誰かと解る。しかし名前が無いと誰かは年代からしか推測出来ないのだが、北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している記録が有る。
北条早雲公の生前の名は北条姓では無い。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代なので龍華寺に寺領保証の朱印を発給したのは北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だろう。
北条氏綱公
そして北条家が元の“伊勢”姓から“北条”姓に改称したのは北条氏綱公の代の事なので、龍華寺に関与し滞在した北条左京太夫は北条氏綱公だった事が解る。つまり金沢区一帯に深く北条家が関与した時代の当主は北条氏綱公なので時代的にも必然的に傳心寺を大永元年に開基した可能性が高い人物は北条氏綱公と成り、小生と間宮士信公の推測を証明してくれる材料と成る。
しかし、これも龍華寺を直接参拝せず新編武蔵風土記稿だけ読んでいても解らない事だ。
この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測通り❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、当然、北条氏綱公が懲罰を与える際は所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈だ。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判る。そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不自然に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしている。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれる訳だ。
それならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかない。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然だろう。しかもソレは父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳だ。恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺だろう。そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?と小生は推測する。
その様に推測する理由もちゃんと有る・・・
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅している。そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有る。この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解る。つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳だ。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけだ。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳だが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全だろう。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能すると、為昌公は自害させられたか誅殺されたのだろう。
神保輝廣公は氏康公廃嫡を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介している。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
小生はたまたま北条家の殿様達をリスペクトしているので、龍散寺との御縁が出来た結果、この推論に辿り着く事が出来た訳だ。
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龍散寺は曹洞宗としての再興開基当初は了珊寺(りょうさんじ)と別の字が当てられていた。
鶴岡八幡宮と御縁の深い神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりする。
基は了珊寺だったが、いつの時代か、それが転訛して龍散寺と成った。この龍の字が付く寺院は曹洞宗と真言宗に多いのだが、この名は曹洞宗の高僧に由来して改名されたのではなかろうかと副住職様が推論を御教授下さった。
この日は副住職様から曹洞宗について面白い御講義を立ち話しのまま1時間程聞かせて頂き、円通殿の名前の由来や仏教寺院に“圓通寺”と言う名の多い理由や、曹洞宗的な価値観や臨済宗との違いや相互の素晴らしい点、そして御寺の歴史等を改めてザックリと拝聴する機会を得た。
とても嬉しかったし御若い和尚様が一般人に親切に親身に色々と伝えて下さろうとする心に御正月2日目に感じる事が出来てとても嬉しかった。
この日は同じ曹洞宗の洞昌院でも御住職に良くして頂けたし、八菅神社でも九楊の朝日の写真も撮影で来たし、比々多神社でも今年も護符を授与して頂いた。何だか曹洞宗寺院と修験道と神社への恩返しが今年のテーマに成りそうだ。
龍散寺で神保輝廣公の御霊と副住職様への新年の御挨拶を終えて、次の目的地の小野神社へ移動した。
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小野神社の周辺は新興の宅地だが少し山側に行くと自然豊かで史跡も多い。
小野神社は江戸時代まで閑香大明神の異名で呼ばれ、古くは延喜式神名帳にも掲載される式内社の古社だ。日本武尊が騙し討ちされた焼津の神話に登場する小野の古い地名の土地でも有り、聖徳太子の腹心だった小野妹子の所領とも伝わる。
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閑香大明神小野神社そして小野妹子の御子孫と伝わる鎌倉武士、愛甲季隆からも崇拝され、更に鎌倉幕府初代政所別当を務めた大江広元公からも崇拝された由緒正しい神社だ。愛甲季隆公は弓射と乗馬の達人で鎌倉武士として最大の攻撃である騎射に秀でた豪将だった。源頼朝公や源頼家公の随兵(近衛武将)を務めたり、毎年の正月の幕府の御的始(弓射の神事)を務めた有職故実にも通じた教養も高い人物だった。
弓の技術は凄まじく、畠山重忠公が謀反の罪を着せられて北条義時公が討伐軍を編成した際に畠山重忠公追討軍に動員され、横浜市の二俣川で起きた二俣川合戦で川を挟んだ状況で畠山重忠公を射殺したスナイパーが愛甲季隆公だった。その後は源頼家公を守ろうとしたが守れず、打倒北条家の兵を和田義盛公が蜂起して和田合戦が勃発すると和田勢に加勢し敗戦した。
愛甲家の愛甲郡(厚木市~愛川町~相模原市津久井一帯)の支配が終わると大江広元公が小野の毛利台に所領を与えられて小野神社を支援した。
つまり、この神社は文武両道、学生の味方に成ってくれたり社会人の実務力やスポーツ向上等、言うなれば知恵と健康の神様な訳だな。
ここは春の景色が素晴らしい。
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桜が咲き乱れるが花見客も少ない。
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この正月02日は先に御夫婦の参拝客がいた。他にも娘さんと3人の若い親子連れ。
・・・う~ん羨ましい。まぁ、小生はこういった御縁は無い人生なので社会の役に立つ事に注力している。それはそれで幸せなのだろうが、素直に夫婦で寄り添う姿は羨ましい。
まぁ、人には役割と言う物が有るので今は神社や御寺や史跡や自然を守る活動に与力するのが小生の役割なんだろう。結婚する様な御縁が有れば、縁は結ばれるモノなんだろう。
だから思うんだよな、何で浮気するのか浮気する男の思考が理解出来ない。小生は過去にも各時代の彼女(笑)との交際中に浮気したいと思った事が無い・・・
だから余計に、こうやって老夫婦が手を組み支え合って参拝されている姿を見ると羨ましく感じる。
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小野神社は現在では宮司様はここに住んでおられない。だから社務所も無人だ。
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御参りしてから事前に連絡してアポをとって置いた小野神社から離れた場所に住む宮司様の御自宅を訪問する予定が有ったのだが、折角、久しぶりに戦国大名毛利家の発祥地である大江家所領毛利台が近いので、毛利台1丁目に記念に行って見る事にした。
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大江家の所領だった毛利の地名が残る毛利台は現在では住宅街だ。
まぁ古来毛利庄は相当広い範囲だった様で、厚木市(愛甲郡)小野~愛甲郡愛川町半原辺りの中津川南岸まで広がっていた様だが現在では毛利台にのみ地名が残る。
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毛利台1-1と表記された電信柱。
ここでの撮影を終えて小野神社宮司の“毛利”宮司の御自宅へ訪問して、3年越しで小野神社の御朱印を頂いた。
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毛利宮司の御自宅の住所や写真を掲載する訳にもいかないので、御朱印を頂きたい人は御自分でちゃんと小野神社を参拝して連絡先を調べてアポをとって下さいね。掲載しない事で朱印だけ目的の輩が小野神社に行かずに朱印受領する不敬な行動を防ぐ事にも成りますから。
小野神社の御朱印を頂いてから次の目的地である前鳥神社と、その御祭神の莵道稚郎子命が埋葬されていた真土大塚古墳の“跡地”へ向けて出発した。
この時点で15時30位・・・
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・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥完結編に続く。






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