五月は雨も多いけど抜けるように真っ青な雲の少ない晴天も多く、山も海も散歩するには気持ちの良い季節・・・
今日は小生の様に独り散歩(笑)でも彼氏彼女とのデートでも丁度良い、そんな江ノ島~鎌倉の浜辺歩きながら撮影した写真を紹介したいと思う。
・・・実は湘南モノレール江ノ島駅~江ノ島前の片瀬海岸や腰越海岸に出て、そこから由比ヶ浜の端っこの小坪飯島公園まで散歩し更に鎌倉駅にまで戻ると丁度、徒歩で11kmと程良い歩行距離と奇麗な景色を楽しむ事が出来る。
江ノ島~鎌倉散歩 久良岐のよし
このGoogleEarthの衛星画像をクリックして拡大して見て欲しい。
黄色く表示したのがコース。
赤いグラフがコースの海抜を現した起伏で下の青い字が小生が追記した見物先の地点名。
こうして見ると高低差が余りなく穏やかで歩きやすい事が判ると思う。
この11kmコースは普段の休みに山道を20km歩き回ってる小生には短い様で、実は砂浜を歩くので山道の20kmと遜色ない運動量に成る。
山は山で緑の匂いと風と鳥の囀る声も心地良く感じられるが、海風と波に戯れる人々の微笑ましい快活な様子を見られる風景も又気持ちが良い♪
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この日、小生はいつもと同じく日没の少し前に稲村ケ崎に着く様に逆算して徒歩で出発し大船駅から湘南モノレールに乗車し江ノ島を目指した。
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いつ見てもカッコ良い、線路が無い懸垂式の湘南モノレール!
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う~ん面構えが良い。
先頭車両からの景色はコンナ感じ・・・
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・・・大船駅だね。
途中端折って江ノ島駅に到着。
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そこから江ノ電片瀬江ノ島駅を通過、商店街を抜け江ノ島に向かって歩く。
途中見えるのが・・・
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玉屋のようかん 本店
この玉屋サンは明治四十五年(大正元年)の1912年に開かれた100年企業の老舗で、昔からこの本店と江ノ島島内の支店で羊羹を販売している。余り若い人は羊羹食べないかも知れないが、プレゼントする相手が高齢者(笑)だと玉屋の歴史が100年有る事を説明すると喜んで貰える、良い江ノ島の御土産に成るんだな。
前回も紹介したけど今回もホームページのリンク張って置く(笑)。
もう1軒魅力的な店が有って・・・
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紀伊国屋旅館
紀伊国屋サンて言う老舗の良い旅館、宿泊費も安い!しかも江ノ島の海水浴場まで徒歩5分!
高級なリゾート旅館やホテルじゃなくて、本当に旅館ちっく
でも事実上の停止命令の自粛で今年のONシーズンは宿泊も海の家の営業中止しちゃったんだって。
黒岩知事さぁ、貴方と安倍総理の初動対応の遅れと、その後のクッソ遅い補償と脅迫付き政策のせいで雰囲気良い老舗がバタバタ潰れてくんだわ。
・・・早く何とかしてね。
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江ノ島島外の紀伊国屋サンだけでなく江ノ島島内の旅館の皆さん、三浦半島の民宿や旅館の経営者の皆さん・・・
新型肺炎は感染に注意はしても、もう自粛止めて下さい!
皆、営業再開して生き残りましょう!
・・・中途半端な本来は強制ではないはずの自粛要請でビジネスマンは電車バス通勤して全く三密回避していないし、一番感染リスク高い性風俗店やキャバクラ普通に営業して西村経再大臣も黒岩知事も実名公開で自粛要請も何もしない事実上の黙認。
これで真面目にやってる観光業、旅館業、飲食店が自粛を脅迫されるのは不平等極まりない理不尽ですから、もう営業して自衛して欲しい。
・・・でも、安倍首相の鈍間加減にも、野党の反対しかしない愚鈍さに対しても・・・
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「駄目だこりゃ(笑)!」
「再開(つぎ)行って見よ~ぅ!」
・・・と思った小生の同士(笑)達がシッカリ三密回避しながら江ノ島で家族の安らぎの一時、恋人同士のユックリとした優しい時間を過ごしていました。
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パパが女の子の手をシッカリ繋いであげて渚で遊ぶ様子は見ていて微笑ましく羨ましい(笑)。
皆、観光して神奈川県の商店主達を助けてくれてありがとうねぇ~!
馬鹿な自民党の幹部老害と野党の極左実害政治家達や、鈍間な厚生労働省の国家公務員から我々庶民が個人判断で経済を守りながらお互いの物理的な距離を保ち、シッカリ消毒して日本人の生活と文化を守って行きましょう~♪
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ここから見る近い江ノ島と長い長い浜辺に打ち寄せる波も良いね。
さて、この江ノ島を正面にして左手の海岸を東浜と言うが、ここに元々は橋なんて無かった。
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干潮に成り潮が引くと島と海岸が繋がり徒歩で渡る事が出来る“神秘性”が有る島だったからこそ、欽明天皇や文武天皇が勅願所にした聖地であり、源頼朝公や足利成氏公や北条氏康公が戦勝祈願をして不利な合戦で大勝利を収めた魅力的な観光地として江戸時代の庶民にも愛され、わざわざ当時の人は東京から徒歩で江ノ島を参り、伊勢原の大山を登り、そして富士山を御参りするのが定番コースに成っていた訳だ。
それと後で実際の写真を掲載するが、恐らく江ノ島の橋脚やヨットハーバーの建設が潮の流れの変化を生み七里ヶ浜稲村ケ崎の砂の流出と思われ無関係では無いだろうと思う。
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幸いな事に境川河口に近い東浜~腰越海水浴場はまだ砂浜が残っている。
家族連れで賑わい、恋人同士が仲睦(なかむつ)まじく手をとり散歩するホンワカした風景が広がっている。
まぁ・・・
住宅街と商業街の下流の海だから水質は御世辞にも良くは無いのが江ノ島近辺なんだけど(笑)。
そこから小動の岬に向かって歩く。
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すると小動の岬の側面西側には戦時中に連合軍の上陸迎撃を想定して築かれたトーチカ遺構の入口が現在も残っている。
半島の側面そこかしこに内部の塹壕から狙撃する小窓状の四角い穴も開いている。
この様な遺構は相模湾から三浦半島西岸の崖地に今も多数残っていたりする。
小動岬の上に在る小動神社を目指して歩くと、渋滞に多くの多摩ナンバーや品川ナンバーの車を見かけた。
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いらっしゃい!ようこそ神奈川へ。
お金落としてくれてありがとう♪
本当にクラスタ感染の抑え込みが必要だった2~3月ならいざ知らず、今となっては政府の感染源特定不能が広がった4月以降は中国やイタリアみたいに完全外出禁止命令にしないと全く意味が無い状態だったので誰が来ようが最早関係ない(笑)。
もう感染覚悟で経済回さないと、今はダラダラ政府と黒岩知事の脅迫付き実質営業停止命令の自粛延長のせいで多くの中小企業や飲食店や旅館が潰れ始めている。
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バブル崩壊後、民主党政権の暗黒時代より酷い。
挙句の果てにド田舎39県は自粛解除され、首都圏の商店主や観光業や飲食業は自粛延長で潰れてる。
なのに安倍総理、西村大臣、黒岩知事は一番感染リスク高い性風俗を全く自粛対象にせず、店名名指しのペナルティも課さなかった。
理不尽極まりない。
普通に電車バス通勤を我々現役世代は強いられ、学校が休校中の中高生の子供は集団で遊びまわる、大学生はレンタカー借りて行楽地に行き海で山でBBQ、感染自覚ありながら高速バスで山梨にBBQ行って男とSEXして東京帰って来る女みたいな確信犯の奴等がカオス。
山に川に行くなと言わないし、寧(むし)ろ自然の中で人と物理的距離をとって単独で行動したり友人や恋人とも少し我慢して離れて歩けば全く問題ない。
でもこの女は自覚症状が有りながら彼氏に触れ合って高速バスで帰って来た訳だ。
石田純一並に最悪な行動だろうな。
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武漢市民が武漢市封鎖寸前に多く日本に逃げて来た1月初旬は法律上、彼等を政府が拒否しない限り我々にとって武漢の方々も大切な御客様だった。ならば政府は感染開始の1月~から成田や羽田で感染者特定の体温検査と特定後の隔離を草々に行うべきだった。
つまり1月~2月~3月初頭が水際作戦&クラスター追跡と隔離しながら検査を実施するベストチャンスだった。
台湾の蔡総統の成功例と習主席直接の防疫体制確立指示が出てからの中国の対処を日本は共有されていたから、その時期に同じ事を真似すれば良かっただけなのに、過去の事例と官僚の面子に拘ったせいで2月頭からのアドバンテージは発揮されず、3月中旬には失敗が確定した。
しかも中途半端な自粛で休校中の子供達は自由に遊びまわり、老齢の方々も必ず団体行動で感染リスクを高めた。
若者と老人が感染を恐れず広げ、現役世代は感染リスクに怯えながら1月~2月を過ごし、3月には諦(あきら)めた訳だ。寧ろ4月~5月に成っても政府の公称「自粛」の実質脅迫付き、自粛の損失補償無し「営業停止命令」は続いた。
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東京駅周辺も観光が殺され仮死状態から潰れた店がある。
申請しても直ぐに振り込まれない補償。
最初は家賃補助すら話題にもせず営業自粛“強要”だけ政治家にされて、家賃の支払いも出来ず絶望して店を閉めた店も有るだろう。
小生自身が恐らく失業する。
小生の幼馴染の両親がやっていた店も潰れた。他にも知ってる店が潰れた。
先ず対応遅れた戦犯の加藤厚労相と尾身とか言うジジイが殺意湧く程許せない。
ダラダラ中途半端な自粛をさせる安倍総理と西村大臣も許せない。
・・・とは言っても、人を呪ってもメシは食えない(笑)www
自分の精神衛生上の理由でも海や山を歩き神仏に御参りしストレスを追いやり、高温多湿で安全な各地の銭湯巡り、小さな良さげな店で美味い物を食う!
そして感染しない様に距離を取り、人の密な場所には・・・
元々行かないし、横浜駅界隈や東京の港区みたいなコンクリートの無文化な町(笑)嫌いだしな。
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小動神社小生は3月からはもう、三密リスク回避は自分でしながら通勤可能な外出自粛なんて中途半端で意味の無い事をせず、ガンガン山歩きと浜辺散歩をし、神社を御参りしてストレスを貯めず自分の健康維持に務める事にした。そして神社や御寺を御参りして、世界の新型肺炎終息終息の祈願を神仏に御願いしていた。・・・当然ながら一人行動でね。
小動神社に御参りしたのも、その一環。
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この小動神社は鎌倉時代に源頼朝公の与力の名将、佐々木盛綱公が近江国の八王子神社を勧進して開いたと伝わるが、宗派を超えて歴史を辿ると、どうやら神社が開かれる以前から小動の岬状の地形が典型的な古代の海からのランドマークとして聖地化されていたらしく、今は道路を隔てて反対側にポツンと存在する真言宗の浄泉寺は空海和尚が開いたと伝わる。

そして、この浄泉寺を佐々木盛綱公が船の上から参拝したと伝わっているので、恐らく元々八王子社の前身に成る牛頭天王社か何かを空海和尚が御寺の境内社として開いたんじゃないかと思う。
それを佐々木盛綱公が御参りしたと言う事だと、空海和尚は方々の港や岬に海上交通の守護神として日本神話に則(のっと)って牛頭天王(素戔嗚尊:スサノオノミコト)を御祀りする御堂を建立して回っている歴史事実とも整合性が出る。
そして、恐らく鎌倉時代には既に荒廃していたので改めて佐々木盛綱公が近江国から八王子社の御心霊を勧進したのだろう。八王子神社の御祭神も一般的に牛頭天王とその王子なので矛盾しない。
この神社は佐々木家と関係が深いので佐々木家の隅立て四ツ目結び紋に〇で囲われた社紋が現在でも使われている。
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小動神社は改めて別の独立記事にしたいと思う。
余談だが江ノ島は元々島全体が聖地で洞窟が欽明天皇の勅願所だった。その江ノ島を管理する別当が真言宗系修験の岩本坊で、岩本坊は明治の仏教弾圧に岩本楼と言う旅館に業種替えして現在も存続している。その岩本楼の社長が元々の江ノ島と奥津宮岩屋(洞窟)別当職で僧侶であり侵食だった岩本家で、明治までの本姓は間宮であり、平時は間宮家を公的には家祖である佐々木氏を称した。
つまり江島神社にも佐々木一族が深く関わっていた歴史が有る。

そこら辺は間宮家の簡単な解説を以前書いた時に触れている⤴
江ノ島観光した時の記事にも、もう少し詳しく解説を書いたと思う⤵

ところで小動神社には展望台が有って、そこからの眺望が凄く良いのだが・・・
小動神社展望台
・・・外出自粛で人が少ない17時過ぎに誰も参拝に来ないと思ったのか、三十代くらいのオラ系ファッションの男とギャルっぽいカップルがベンチで“だいしゅきホールド”で抱き合って明らかに♀に入った♂まんま、女の方はまさかの緊張感の眼差しで、小生が“ゆっくり(笑)”淡々と境内で一頻(ひとしき)り参拝をして回る間、ずっと身じろぎもせず男に抱き着いたまま顔はコッチを見ていた(笑)。
下半身は展望台の壁で見えず腰から上しか見えてないから、風景の写真撮るフリして撮影したろか(笑)?と思ったが、せっかく興奮して盛って交尾したのが嫌な思い出に変わったら可哀そうだから、一応見て見ぬふりしてあげていた。
ちなみに“だいしゅきほーるど”てのはコンナ⤵
そしたら後から来た白人カップルの参拝客が空気読まずに展望台に上ろうと近づいて、そんでも男女からまったまんま動けずにいたのが面白かったが、流石に白人も「変だな?アレ~?」と思ったらしく4~5m位手前でUターンして戻って来た(笑)。良かったなバカップル(笑)?
これが小生や優しい白人オジサンじゃなくてヤンキーだったら男はボコボコにされて女は輪姦されたかも知れないな。
SEXするなら神様に迷惑かけない場所でやりましょう(笑)。神罰くらうぞ(笑)。
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アホな男女の怪しいだいしゅきホールドのハプニング発見の後で小動神社を参拝し終えて七里ヶ浜に移動。ここから砂浜づたいに約5km稲村ヶ崎迄を歩く事にした。
・・・と、言うか砂浜を散歩するのがメインの目的だった。
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サーファーも良いねぇ~!

これぞ鎌倉の海!
でも可哀そうなくらい普通の波しか来てなかった(笑)。
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だいぶ歩いてきた。
で、毎回この辺り来ると一応立ち寄る場所・・・

鎌倉高校前駅があり、そこの踏切から海を臨む景色が有名。
スラムダンク鎌倉高校前駅横踏切
スラムダンクの舞台で台湾や中国からの新婚旅行の若夫婦なんかが記念撮影に来る場所。
・・・で砂浜に戻る階段にコレが書いてる。
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タバコボ?
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駐車場の辺りから振り返ると良い感じに夕陽に富士山の影が浮かび上がる時間に成って来た。
あとちょっと歩いたら稲村ケ崎。
砂浜歩くの止めた、と言うか歩けなくなった・・・
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・・・原因は最初の方に江ノ島の腰越海岸の部分で話してた砂の流出な。そもそも歩く砂浜が環境破壊のせいで皆無に成ってしまた。これを行政は温暖化だなんだと責任転嫁するが、実は違う。
潮流が変わる余計な堤防工事や、市街地化した部分の河川の護岸工事で砂が生成されずもう70年以上もまともに相模湾に砂が流れ込まなくなったからだ。
実に昭和の高度経済成長期の土木は無節操で20年前の中国の都市開発並みに稚拙だと思う。
全く自然への影響が考慮されていなかった。
縄文海進 久良岐のよし
縄文時代、東京湾?と言うか関東平野は海で最奥部は群馬県に達していた。東京なんて多摩地区以外は略々(ほぼほぼ)海の底。弥生時代位に段々と気温が下がって北極と南極と山岳の氷塊の体積が爆増し海が引いて行き、それと同時に山野が削られ洪水の度に土砂が堆積して行きやがて沼地となり更に広大な武蔵野平野となり、弥生時代も末期には稲作が普及し古墳時代には更に国家により統制された大規模開拓が全国で行われ、元々海だった平野の野草が生える土地には古墳時代に成ると軍馬の繁殖の場が設けられ房総半島や本牧半島や三浦半島の風通し良くも海が近く密林に成らない一部の地域が名馬の産地と成ったので、古代から存続する武蔵国の一之宮~六之宮の延喜式内社が集結し行う国府祭(こうのまち)神事では今も軍馬を奉納する儀式が継承されている。
川崎市川崎区周辺の海抜0m地帯 久良岐のよし
戦国時代の始まった頃に成っても神奈川県域だと川崎駅前の堀之内、間宮家の河崎城館址の直ぐ近くまで海が広がっていて、太田道灌公が「海が直ぐ近くの河崎って場所に泊まったよ」って書いてたりする。その古文書が証明する通り、標高を色で表示する国土地理院の色別立体図で見ると現在も川崎駅の南部には戦国時代の海の名残の海抜0m地帯の洪水リスク高い地域が広がっている。
言い換えると寒冷期だった戦国時代~平成時代のたかだか500年間でこれだけの範囲の海が土砂の堆積と海の後退で‟一時的”にも出来ていた方が、温暖化で陸地が消失するより驚愕の事実なんじゃないだろうか?
当然ながら昔の高度経済成長期の乱開発が始まる以前の藤沢市や鎌倉市域は森林や田畑が広がっていた、江ノ島の海に注ぐ川の上流域が森林伐採され河川がコンクリで固められ砂が生成されずに、砂そのものの流入が半世紀以上も無くなった事も要因だろう。
上流に当たる藤沢市鵠沼~村岡周辺~鎌倉市手広や深沢や大船~横浜市栄区や戸塚区がその上流に当たる。
写真で比較すると解かり易(やす)い。

←左が昭和初期の藤沢駅周辺
藤沢駅周辺の古今変化 久良岐のよし
       右が令和現在の藤沢駅周辺→

左側の戦後直ぐ位までは写真の60%を占めていた水田と畑と森林が、右側の写真では完全に全滅している。そしてこの写真に流れる河川の合流地点が旧高座郡を流れる境川、右から流れてくるのが柏尾川で、その柏尾川の源流水源が瀬上沢と鼬川であり、鎌倉市域~横浜市栄区~港南区~金沢区~磯子区の乱開発で消えてしまった森林が水源な訳だ。
円海山の上郷地区は更なる森林と源流瀬上沢の破壊計画があり、港南台地区の大森林は住宅街に変貌して完全消滅した
コンクリートで固めたから都市部の蓄熱率が上がり熱帯夜に成るのだし、地球環境の変化はそもそも戦国時代から寒冷期だったのが現代に至り、縄文時代に回帰する温暖化の“自然なベクトル”に向かってるだけだろう。
自然破壊しまくった欧米が森林伐採を二酸化炭素にすり替えるのは、土建が批判に晒されない為の論点粉飾でしかないだろう。
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海面が高く成れば当然ながら砂や土は瞬く間に削られる。それを遅らせるのが山を削り小川から河川となり河口から供給される砂だった訳だ。その砂が供給されなくなって70年も過ぎれば、当然ながら海が砂浜を侵食して“縄文時代の地形に戻ろう”とする自然のパワーが爆発するわな・・・
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この排水路のだけ海岸に浮いて存在するが、この排水路の高さまでちょっと20年くらい前まで砂で覆われていた訳だ。海水浴で賑わった映画“稲村ジェーン”の舞台の稲村ケ崎~七里ガ浜の海水浴場は既に泥岩の地層が露出し砂浜は完全に消え失せた。
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露出した小川の河口。無残な姿。
この高さでも覆い隠す程の砂の高さが有った訳だ。
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川を跨ぐ遊歩道の橋脚が空洞になってしまっている。
自然活かすのではなく自然に勝とうとする傲慢なコントロールは自然には必ず負ける。
その良い教科書が今の七里ヶ浜の惨状だね。去年の台風後の来訪時より荒れてる。
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辛うじて僅かに残る浜辺。
でも実は寒冷期だった戦国時代~江戸時代~明治大正昭和平成の近代、この場所が砂浜だった事の方が長い歴史で見たら“一時の偶然でしかない”事が判る証拠も露出していた・・・
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砂浜が無くなって露出した元は波打ち際の磯だった時代の泥岩の岩盤。
小さな気持ち悪い穴は実は穿孔貝類、一般的には“磯マテ貝”と呼ばれる種類の貝が堀った巣穴の跡で、地球が温かい時期の七里ヶ浜のあるべき姿の歴史を覆いかくしていた砂浜の消失で再度露出した訳だ。
今は昔の気候に戻りつつあるだけで温暖化は異常気象ではなく“寒冷期に文明を発展させた現代人”にとって不都合なだけと言う歴史事実をまざまざと見せつけてくれている訳だ。
縄文海進 久良岐のよし
こっちが多くの生物にとって繁殖しやすい温暖な気候の地球の本来の姿。
縄文の温かくて海面が高かった時代は高座郡の寒川町~伊勢原市辺りまで入り込んでた名残から神話の時代に当たる弥生時代になっても旧海底部分が湖沼地帯で住居に適さなかった。
だから平安時代以前から存在し弥生時代の古代の聖地が信仰対象化した延喜式内社と式外社も、古墳時代に開かれた平塚八幡宮や前鳥神社を除いては全て古代の海岸線より内側に存在する訳だ。
主な歴史千年以上の古社と古刹と古代の海岸線 久良岐のよし
ギャーギャー騒ぐのがオカシイ。
ツバルなんかも元は人が住んで無かった場所に海洋民族が進出しただけの話し。
ツバルの人を水没後にどこに移住させてあげるかって議論をする方が重要だと個人的には思う。
地球の異変じゃなくて自然の一部なのよ。
でもね、先に話した通り七里ヶ浜が地球の自然な温暖化の海蝕の影響をモロに受けた原因は、昭和の河川の護岸工事と砂防ダム建造に森林伐採、住宅乱開発だろう。
七里ヶ浜に流れ込む極楽寺川・音無川・辻川・行合川これ等の上流に当たる谷戸が全て森と自然の河岸が宅地造成されコンクリートで何でも固める治水の影響で七里ヶ浜東部の海に砂が流れ込まなくなった事の影響が大きい。
更に鎌倉や横浜や藤沢や大和の森林伐採宅地開発と江ノ島のマリーナ建設や境川河口の護岸工事で潮流が変わったり、砂が不自然に流れつかなくなったからだろう。
腰越海岸を辛うじて保つ程度の砂しか入らなく成った訳だ。KIMG8267
上の写真が今回の散歩で撮影したの。
下の写真が以前に冬場に撮影したの。
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やっぱ砂の無い七里ヶ浜も個人的には美しいと思うけど(笑)。
でも夕陽の写真撮影するなら空気が冷たく水蒸気の少ない晩秋~冬~初春がベストだね。
しかし、ここに長大な砂浜が続く江戸時代同様の穏やかな景色も見てみたいなぁ~。
富士三十六景
空き家が増えているのに、このまま無軌道に森林伐採を行い不必要な宅地開発を続ければ、やがて鎌倉~藤沢のみならず茅ヶ崎~大磯~小田原の砂浜の消失も早まるだろうな~。
今でも凄い奇麗だけどね~。
で、稲村ケ崎で写真撮影してたら、絵に成りそうな見知らぬ美人サン発見!
さっそく夕陽に浮かぶシルエットの写真撮影させてもらった。
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この日、最良の一枚に成ったかな?
海と夕陽の写真を撮りに行くと、良く知らない人(笑)に突然声かけてモデルに成ってもらうけど皆優しくて?ん?突然でビックリしてかな(笑)?断られる事は少ない。
数年前に撮影した由比ヶ浜の材木座側での写真も地元の女子高生がモデルに成ってくれた。
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これは結構好きな写真。
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地元の仲良し二人組が肩を並べて富士山と夕陽を眺める青春の一コマ的な。
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今年の初旬だと長者ヶ崎でも地元の御姉さんがモデルに成ってくれた。
女性の後ろ姿と海と夕陽は実に合う。
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この写真が一番綺麗。
黒崎の鼻で撮影したこの写真だけ他人じゃなくて身内だけど。
モデルのいる風景写真撮るのは御願いから始まるから独身男には難しい。
まぁ~そんな訳で七里ヶ浜も凄く夕陽と富士山と江ノ島と海が一編に撮影出来て奇麗な場所なんだな。
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砂は完全に無いけれど(笑)。
もう稲村ヶ崎界隈は七里ヶ浜から七里ヶ磯に改名しないと文字に整合性が無い。
磯にしちゃえば良いんじゃない?
まぁ~、色々と素直に自然の美しさだけを満喫していられないのが現在の七里ヶ浜だったりするんだな。
最終目的地の由比ヶ浜に向かって出発!
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由比ヶ浜の端っこから稲村ケ崎側~極楽寺側の崖を見る。
現在でこそ切通し状の道で稲村ヶ崎~由比ヶ浜は難なく歩いて来れるが昔は切通しが無く、あの崖上に上がる道しか鎌倉市街地と七里ヶ浜のを往来する手段が無かったから大変だった訳だ。
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この断崖絶壁が鎌倉市街中心の防衛網の役割を担っていた鎌倉城の一部で最南端が稲村ヶ崎、こちら側を突破するには極楽寺坂の切通しを攻略する必要が有った。
だから新田義貞公は稲村ヶ崎のヘリに恐らく突貫工事で道を作り、干潮時に海側から一気に大軍を市街地に乱入させた訳だ。
それは以前コレ⤴に解説しているので、御興味有る方は斜め読みしてくれれば成る程ねぇ~?と成ると思う。
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由比ヶ浜の最西端の岸壁からは反対側の三浦半島が奇麗に見える。
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見える煙突は火葬場。あの煙は誰かがこの日、本当の意味で旅立たれた家族と最後の御別れをした証拠。出来ればこの煙のたつ前に家族とちゃんと御別れ出来ています様に・・・
岡江久美子サンや志村けんサンは家族と御別れも出来なかったから。
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由比ヶ浜に到着~!
超~元気なワンちゃんが波にハシャイでて凄く可愛い!
ブラジル人ぽいカップルが犬の散歩していた。
こんな生活本当に良いなぁ~。
でも実際の鎌倉市は現在でもアジサイの季節と夏と秋は人でゴッタがえして大船駅から電車も満車で、江ノ電鎌倉駅なんて駅に入るのが1時間以上待ちとか生活に適さない上に、アホの松尾市長が市外からの車乗り入れ規制を決定していて、そうなれば観光客がバスにも電車にも乗れなくて最早、怒号が飛び交う地獄絵図が展開するのは決定事項。観光客にも不人気な都市に成りそうな気がする。
・・・まぁ~、山の中を往復20km歩いて余裕で鎌倉市街に遊びに行く小生には関係無いけど~(白目)。
でも、就労先も鎌倉中心部で住居も鎌倉なら、本当に生活するには天国だと思う。
本当に本当の教養有る大企業の社長さんとかは鎌倉市内とか京都の左京区の下賀茂神社辺りとか神戸とか横浜の元町の山の上に住んだり昔からすんだよな。
やっぱりちゃんとした人は文化と自然との共生に魅力を感じるんだろう。
最近、IT関連の会社が鎌倉に拠点をどんどん移してきてるのも、彼らは本能より“頭を使う”仕事の人達だから頭を休める場所の大切さを見だすのかもな。
ちょっと道路側に戻ってみる。
稲瀬川と言う川が有る。
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例によって昭和の無文化河川工事でコンクリートの用水路みたいにされてしまっているが、実はここは歴史文化的に大切な場所で昔は和歌が詠まれたり、いわゆる鎌倉時代の市の中心街との境目に成っていた場所で北条政子さんが鎌倉入りする時に、この由比ヶ浜から三浦半島を見渡す風景がいたく気に入ったらしく数日間、川の畔(ほとり)の庶民の民家に滞在させて貰った歴史が有る。
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北条正子さんと言うと怖いイメージが有るかも知れないが・・・
頼朝さん大好きで山野を歩いて韮山の蛭ヶ小島まで愛を遂げに行ったり・・・
農村育ちだから素朴で純粋だったり・・・
神奈川県を頼朝さんと夫婦で一緒に旅行して廻って、色んな神社を一緒に参拝して夫婦らしい子宝祈願したり・・・
義弟義経の愛人の静御前が鶴岡八幡宮の舞台で義経への愛情の和歌を詠(うた)って舞った時に共感して頼朝さんに助命嘆願したり・・・
頼朝さん死んじゃった後で長男頼家公が自分の父親に暗殺されちゃったり、次男実朝公が実兄に殺害されちゃったり(小生は実は実兄の義時公と大江広元公が国外に逃がしたと推測)した後で、家族が誰もいなくなった時に起きた承久の乱て戦争の時に頼って逃げて来たのが、旦那さんと良く御参りに来ていた思い出の弘明寺の山で、その山に立てたのが井土ヶ谷の乗蓮寺だったり・・・
実は夫が凄く出世しちゃっただけで、本人は気が強いけど可愛らしい普通の女性だったと思うよ。
実際、誰も家族がいなくなっちゃって井土ヶ谷に居た時期の乗蓮寺の木像は凄く寂しそうな顔をしてるんだよね。
北条政子様木像画像
写真は横浜市南区井土ヶ谷の元:北条正子様の山荘だった乗蓮寺にある生前に掘られた彫像。
夫が側室持つのが当たり前だった当時、頼朝さんが側室を持つとヤキモチ焼いて文字通り側室の家を武士と一緒に攻撃したりしちゃったから、そんなイメージついたんだろね。
乗蓮寺については以前に解説記事を書いている。

今なら政子さんの感覚は凄く正常だと思う。
自分も奥さん貰うなら、北条政子サンみたいな人が良いな。
ところで稲瀬川の辺りの歩道はデザインが可愛い。
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東西南北の方角+各季節どんなイベントが有るか絵で示してくれているマンホール蓋。
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4月は鶴岡八幡宮の静の舞
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9月は元々畠山重忠公が開基した横浜市金沢区の東光寺と言う御寺の旧所在地だった鎌倉宮の薪能。
鎌倉宮に成る前に東光寺で後醍醐天皇の皇子の護良親王が自害に追い込まれた後、東光寺は金沢区釜利谷に移転させられ鎌倉宮が開かれて護良親王を祀る事に成った。
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8月・・・アホの松尾が中止した由比ヶ浜の花火大会。
鎌倉の松尾と横浜の林文子は本当に無文化極まりない。
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8月の鶴岡八幡宮の雪洞(ぼんぼり)祭り・・・
以前何で八月に雪洞(せつどう)なんだ?
・・・とか思ってたら、実は雪洞(ボンボリ)=行燈(あんどん)の事だと大分後に知った思い出が有る。
始まったのが1930年頃と言うから、夜間ライトアップして御祭りにしたとか、まだイルミネーションが一般的じゃなかった当時の鎌倉の人は本当に昔から風流だったんだねぇ~。
砂浜に戻ったら高校生くらいの男女2組のカップルが海の中で青春を謳歌してた。
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う~ん微笑ましい青春の縮図。
いつまでも仲良し4人組でいて欲しいなぁ~。
社会人に成っても友達でいて欲しいな。
中学高校の友達って余り大人になったら大切な友達でいつづけるケースは実際少ないって統計があるから。でもそうじゃない場合も有る。
この子達がずっと仲良しでいれますよ~に♪
由比ヶ浜をずっと歩いたらスッカリ日没に成ってしまい、若宮大路から鎌倉駅に向かう事にした。
途中には遺構は残らないが史跡が有る・・・
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畠山重保邸址
実は以前も別の記事で紹介した鎌倉時代の武将、畠山重保公の館跡で、室町時代の供養塔も存在する。

新編相模風土記稿は鎌倉の御廟を墓所だろうと言ってるが明らかに間違い。
何故なら、この供養塔は室町時代の建立だから。
合戦は発生したろうが、当日は御父君:畠山重忠公が鎌倉に来る予定だったので大蔵幕府側の畠山邸で送迎の準備をしていたはずだから、由比ヶ浜の館で戦火が上がり事態を把握して、鎌倉に向かっている父親に陰謀を知らせる為に八王子街道を目指し、先ず鎌倉から脱出する為に兵が配置されている巨袋坂切通しと古鎌倉街道中道を避けて、平安時代の古道の天園ハイキングコースの山に逃げて白山古道を通り釜利谷に抜け、六浦道(むつらみち)から鎌倉街道下道から北上し保土ヶ谷区で八王子街道に入る事を目指す以外に選択肢が無い。
そして釜利谷の御廟所一帯は恐らく東光寺が移転した経緯からも、畠山家の所領だったはずだから、そこで追っ手にかかり最後の時を迎えた方が明らかに自然。
まぁ、そんな感じで鎌倉駅に到着した。
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常楽湯
・・・で大船駅まで電車で戻り、銭湯好きの小生は大船駅で下車して大船の常楽湯に入って徒歩で流した汗を流してサッパリしてから帰宅した。
小さいけれど実は約100年の歴史が有る銭湯だったりする。
中のトイレは未だに大正~昭和初期のボットン便所!
常楽湯は最初に訪問した時に御店主の方に許可を頂いて中の写真も撮影させて頂いてるので改めて別記事にしたいと思う。
この日のDoor to Doorの歩行距離は16km、22000歩と山歩きと比較すると歩数も距離も少ないが、砂浜10km位を歩いた疲労感は山道の20kmと同じ位だった(笑)。
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江ノ島~鎌倉散歩 久良岐のよし
江ノ島~由比ヶ浜~鎌倉駅、良い散歩コースだったので、皆さんも天気の良い日、夏に成る前に少しお出かけして見ては如何だろう?

海の砂浜侵食にはいろいろと考えさせられる1日だったが、まぁHカップルに遭遇したりハプニングも有ったが、全体的には海風が気持ち良く、良い写真も撮れて充実した1日だった。