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タグ:佐原三浦家

2017年07月15日、この週の火曜日07月11日が新井城落城した日で尊敬する武将の一人である三浦義意公と御父君の三浦道寸公の供養の為に菩提寺である網代山海蔵寺に参拝し、御住職様から海蔵寺専用の納経用の奉書を頂いていたので三崎漁港の海南神社の例大祭に合わせ、土曜日に写経した妙法蓮華経観世音菩薩普門品世尊偈を携えて海蔵寺に納経に再訪した。

海蔵寺さん参拝の後、最初に訪れたのは天然記念物諸磯隆起海岸だった。
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…と、その前に少し小生の神社と御寺に対する思い入れの根源の話し。

小生の祖先は某延喜式内社の宮司家なので御寺や仏教と言うと子供の頃は除夜の鐘程度の認識しかなく、なんと言うか御祭りの様な楽しい場所と言う感じだった。
大人に成って仕事でリーマン破綻直後に3ヶ月間、毎日睡眠が3時間以下と言う労働が続いて過労に成って頭ハゲそうなハチャメチャな状況に成って心身共に参っていた。
同僚が中国語話せないのに突然中国へ転勤に成ったり、小生は中国語話せるのに国内に残りソイツの分も含め複数人から仕事を引き継いだり、ハッキリ言ってキャパを超えていた。
朝の定時出勤時間前から出勤して客先の就業開始直後に御用聞きで訪問できる様に直行。
夕方の18時に帰社、そこから自分のオフィスワークと2人から引き継いだ分のオフィスワークを始める。当然朝までかかる。だから休日も潰れる。20時以降はタイムカードを切らされてサービス残業を強要され、当然休日出勤は申請不可。そんな会社だが実は中堅企業の中の大手の部類の企業だった。
アジア圏や国内遠方に出張する際は、上司に指名されたいい加減な同僚に仕事を任せるのが嫌で嫌で仕方なかったが、馬鹿でも出来る様に完璧にスケジューリングして協力会社にも念入りに事前に打ち合わせで部材の製作をお願いして置き、資料も準備して小生の仕事を代理で行う人間はスケジュールの時間通りに指定の場所を訪問して人に会い物を受け取り、物と資料を渡すだけで何にも考えず何にも余計な事を話さず済む様にしてあった。
だけどね、世の中、いい加減だけど何だか知れないけど上司に信頼される奸臣と言うのが居て、その上司に仕事を御願いする様に指定された同僚は「案の定ちゃんと俺のスケジュールを踏んで行動しない」で当日に訪問しなかったり、結果的に納期に遅れたりやらかしてくれた。
だけど狡猾な奴で上司には小生のミスの様に粉飾し、小生が出張から帰って来ると何だか知れないけど叱られたり。それを残業時間に成って同僚を呼び止め問い詰めると開き直りクソ同僚はこんな捨て台詞を言った…
「そんなに完璧にやれんて!」
…おい、俺は馬鹿でも出来る様に御膳立てしてやった上に協力会社の皆さんも文字通り万全の協力をして下さっていたんだがな?
まぁ、そんな事が何回か有ったりハードな仕事が三ヶ月休み無しで続いて自分で洗濯物洗う暇すら無くてクリーニングにシャツやスーツを丸投げしても、今度はクリーニング屋に服を引き取りに行く暇も無く、前日着たシャツにファブリーズだけして又着て仕事したりしていた。
小生がそんな事に成っていた時期に社員の1人が交通事故を起こして人を轢き殺した。
更に社員が1人自殺、でも家庭の問題とされていた…本当かよ?
子会社でも1人が過労要因と思われる交通事故死。
自分も高速道路で運転中に意識が飛んだり2回経験した。赤信号も認識できずに信号無視をしたり、自分で「やばいのかな~?」と思い、そのクソ会社を辞めた。
因(ちな)みに、その会社は今でも存続していて何だか知らないけど某大手企業のベストパートナーにも選ばれたりしている。御客さんは、そんな状況知らないだろう。まぁ、知ってる会社も有ったけど。
これ、当時、退社後に労働基準監督署にも職安にも相談していたけれど、「管轄外」と言われたり「ウチでは出来る事に限りが有って対処できない」と言う主旨の事ばかり言われたんだな。
まぁ、泣き寝入りするしかなかった。
アレから数年が経ったが、日本の労働基準法って今でも守られてないよね。実際。
有休消化なんて超大手企業しか出来ないでしょう?
週休二日制も守られてない会社多いでしょう?
サービス残業の会社多いよね?
安倍さんが賃金上げろと急(せ)かしても無視するクソ企業多いよね。
その癖に横浜市長みたいに日本を敵視する北朝鮮の学校に補助金出したり意味わからない政治家もいるよね。
新しい制度考える前に、既に施行した法制度を順守させる方が大切だと思うんだよな。
まぁ、そんな事が有ってリアルに昔は無責任不倫上司のせいで死ぬ寸前に追い込まれた。
だから、昔の善政を行ったり農民や商人に好かれた殿様達に余計に尊敬の念を抱くんだろうな。

そのクソ会社にいた頃に不思議な夢を見て…
横浜の歴史偉人とその上司の玉縄北条家や源頼朝公とその与力衆の鎌倉武士団の偉人達に"命を救われて"以来、歴史の資料を趣味で読み漁り墓所や御関わりに成られた神社仏閣と史跡を訪問し、殿様達に感謝して回るのが休日の趣味に成った。
…もっと言うと三浦の海に命と精神を救われた感が有るんだな、小生の人生は。
当時はボロボロで、ハチャメチャな仕事を命を繋ぐ為に辞めた。
不思議と普通なら「自殺したい」とか思う状態に成るであろう状況に、小生は「海見たいな~」としか思わなかった。死にたいとは思わなかった。
でも仕事の通勤帰りに電車に乗ってる時は危なかったね。夜の町の中を走る車窓から外を見てると引き込まれるんだよ。
あれ、一種の催眠状態なんだろうね、気持ちが暗い時や挫折を感じてるとハマりやすいのかも。
そんで、休みに良く観光客の余り行かない三浦半島の南端の江奈湾に行って磯で少し泳いだり、散歩したりして過ごした。
・・・そうこうしてる内に気力も回復して来た。
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この江奈湾の磯が大好きで良く散歩しにドライブしに行ってた。
台風の翌日、ここの岩場が高波にバッシャ~ン!バッシャ~ン!と洗われている時にアホな小生はクロックス履いて出掛けてて岩場の海苔で足を滑らせ仰向けに素っ転んで強く背中を打って息も出来ず、何回も打ち寄せる波にさらわれそうに成った。
その時に強く思った「こんな恥ずかしい死に方出来ね~し!」と(笑)。
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江奈湾の近くの松輪からは富士山も綺麗に見えたりする。
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富士山、此花咲耶姫命様も小生の命を繋いで下さった神様なんだな。
家の近所の円海山に登っては、そこから見える赤富士を見て円海山の自然にも癒された。
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神社や御寺と自然と彼女の存在ってのはね~、どんな向精神薬や安定剤や睡眠薬よりも効果が有るんですよ~。家族は当てに成りませんがね~。
大切なのは自分で選んだ家族に成って欲しい人なんだと思う。つまり血縁よりも理解者だね~。
それと脳味噌を休ませてくれる環境。
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御蔭で小生は薬漬けに成らずに働けた。
あと、当時はまだミシェランガイドに紹介されておらず観光客も少なかった鎌倉の報国寺の竹林に行って座禅を組む様に何も考えずに時間を過ごしたり。
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そこの草庵で少し休んで、抹茶を飲む事で大分気力が回復したと思う。
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今では観光客が多くなり、余り気の休まる静けさは無い。でも癒されるのは変わらない。
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今では現:鎌倉アホ市長によって通行止めにされた釈迦堂の切通しの辺り衣笠山~今泉台~報国寺の宅間谷(たくまがやつ)をグルっと一周散歩して回ったり、殿様達の残して下さった鎌倉の文化と景勝地と三浦の海は医者の処方する薬より疲労が蓄積して赤信号も無意識に無視した脳味噌を少しづつ回復してくれた。
後で知ったのだけれど、この報国寺を開いたのも横浜市の殿様の宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の御爺ちゃんの足利家時公だったんだな。
そして、更に後に知るのだが横浜市港南区の永谷天満宮も宅間上杉家の殿様が開いた神社だった。
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それ以来、紫陽花の季節には永谷天満宮に絶対に行く様に成った。
この少し前位、小生を身近に支えてくれた当時の彼女さんもいた。
この彼女とは結婚して幸せにしてあげたかったのだけれど、残念ながら小生がボロボロだったので縁が無くなったが、御蔭で小生はクソ会社退職後暫くして又、働ける様に成った。
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その頃に七里ヶ浜も行くように成った。
この変な棒は流木を砂浜に突き立てた写真。こんな風景七里ヶ浜に有りません(笑)。
その時に傍で支えてくれた昔の彼女さんを幸せにして恩返し出来なかった事を悔やんでいたりする。
丁度その頃だ。
ボロボロだった状態で夢の中に「龍寶寺」と書かれた石柱が出て来て起きてから「何だろうな?」と思って調べて見たら、戦国時代関東最強の武将だった北条綱成公の菩提寺の名前のだった。
場所も大船駅の近くで近かった。
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学生の頃に友達と遊んだ信長の野望シリーズに登場する名将の御寺だった。
2014-09-15-06-09-37上杉謙信と武田信玄に称賛された名将。
三つ鱗紋学生当時、北条家は少し地味で友人達には人気が無かった(笑)。
まぁ、どちらかと言えば三国志の方が学生時代は好きだったし。
夢の事でビックリして直ぐに参詣して、当時は今と違って旧境内地近くの山の上に存在していた御廟所に御線香を上げに行った。今では綱成公の御廟所は境内本堂横に移設された。
そうこう調べていると何と北条綱成の家老が横浜市の殿様の間宮家だった。しかも更に詳しく調べて見ると子供の時に同じサッカークラブに通っていた幼馴染の近所の子等の家の周りが綱成公の家老の間宮家の居城の笹下城址だった。
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何と小学校の頃、サッカークラブの幼馴染やその近所の子と遊んだ山が笹下城の本丸だった。
元々中学生の頃から家から鎌倉が近くて自転車で由比ヶ浜に行ったり、源頼朝公の御墓参りをしたり、江の島に行ったり、金沢区の野島公園に行ったりして遊んでいたので、歴史は好きだった。
子供の頃は大好きとまでは行かなかったが、大人に成り事情を知り直ぐに北条綱成公や間宮家の殿様達に尊敬だけで無く親しみも深く感じる様に成った。そして歴史が本格的に好きに成った。
最初は何となく資料を読んで、殿様達の開いた神社仏閣を訪問していた。そこから暫くして御朱印も貰う様に成り、更に地域の人にも偉人の存在を伝えたいと思う様に成ったのが3年ちょっと前。
もう一度、北条家の事を調べると足利家の鎌倉公方家の殿様と忠臣だった宅間上杉家や扇谷上杉家の事も知り、足利家に滅ぼされた鎌倉幕府の執権北条家の殿様達が元寇から日本を守って下さった事を再学習し北条泰時公と北条時宗公を尊敬する様に成り、更に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公とその与力武将達を物凄く尊敬する様に成り、三浦家や千葉家や佐々木家の殿様の事も鎌倉だけでなく横浜市と関係が有った事も知った。
その平安末期の武将中でも特に尊敬するのは、やはり平良文公、源義家公、源頼朝公、鎌倉景正公、三浦義明公、和田義盛公、三浦義澄公、佐原義連公、多田行綱公、渋谷重国公、佐々木高綱公だった。
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その人々の足跡を辿って油壷に行き、戦国時代に扇谷上杉家から三浦家を継いだ三浦義意公の民話を聞いて回る内に深く尊敬する様に成った。

まぁ、小生の命は自分で勝手に生きて来れた訳じゃなくて…
殿様達の御蔭、神奈川の自然の御蔭、そして当時の彼女さんの御蔭の3つで繋がったんだな。
…だから社会の役に立つ事をして生きた証を残して皆さんに恩返しせんといかんのよ。

そして2017年07月15日の休日雑記の三浦海蔵寺への三浦義意公と道寸公の供養の納経へと繋がっていく…

平安時代末期~戦国時代まで続いた相模国の小大名、三浦家の聖地と江戸時代に庶民の信仰を集めた神社仏閣や弁財天を祀る洞穴が、ねつ造された嘘の歴史を流布するカルト信仰によって乗っ取られる危機に瀕しています!

以下の事を行って、史跡乗っ取りを阻止して頂きたく、歴史好きの皆さんに拡散致します!

Google mapで以下の●の地名の場所を検索して見て下さい。
( )内が正式名称
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
以上の場所が明治時代設立のカルトを踏襲した新興カルトに乗っ取られ、Google map上で●表記の施設名称に書き換えれたり、小生や仲間達で正しい歴史を警告するとレビューから削除されます。

実は最後の三浦家の頭領の三浦義意公と房総半島の真里谷武田家出身の側室をモデルにして明治時代に書かれた架空歴史小説「桜の御所」に登場する架空ヒロイン小桜姫をカルトを用いて実在したかの様に広めカルト組織がそれぞれの史跡や別の神仏の崇拝場所を乗っ取ろうとしています。
実在せず、時代設定もハチャメチャな話をさも実話の様に信者や歴史に無知な女性に「縁結びの神」と悪質な情報で勧誘しては自分達の宗教施設の様に事実上乗っ取りにかかっています。
独身女性の結婚願望に付けこみ信者を増やそうとしている訳です。
ソイツ等は❝神奈川県神社庁や菩提寺、菩提寺宗派の曹洞宗とは全く無関係❞の新興宗教系統のカルトです。にもかからず、さも自分達の宗教施設の様に佐原三浦家関係の宗教施設へ、縁結び願望の有る女性達を連れまわしては歴史事実と異なる解説をして信じ込ませています。
このせいで、佐原三浦家最後の武将、三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の三浦氏三崎町小網代に在る海蔵寺は一般参詣不許可の対応をせざるを得ない状況に追い込まれています。

そこで以下のお願いです。
①下記3ヶ所をGoogle mapで検索して、小生達の歴史解説レビューに「」を押して頂けませんか?
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
②出来れば「情報の修正を提案」から小生が( )に示した正しい名前に戻すように名前を提案して下さい。
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
③可能ならばレビューに三浦家の歴史書に小桜姫の名前は登場しない事、三浦義意公の妻は真里谷武田家の姫である事、桜の御所の時代設定で架空人物の小桜姫の実家とされる金沢北条家は戦国時代の三浦義意公の佐原三浦家滅亡より200年も前に滅亡した事実、この三点をレビューに書いて頂ければ幸いです。

目的としては、縁結び目的の独身女性達がカルトに入信するのを防ぎ且つ正しい神社の名前と仏教施設としての名前をGoogle mapで取り戻し、史実を周知して頂いた上で女性の皆さんには縁結び祈願に安心して自分で来て頂ける様にする為の対抗策です。
ひいては三浦半島の観光が小説桜の御所の舞台として、そして源頼朝公や三浦家所縁の観光地として正しい形で活性化するのが最終的な目的でもあります。

無論、皆さんのお手を煩わせたく無いので出来る範囲の協力、又は拡散で結構です。

すみませんが、拡散協力願います。

三浦家について詳しい歴史は以下に纏め解説してあります。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/64025466.html
上記URLの解説を参考にして頂ければ幸いです。

仮にカルトを利用してでも観光振興の為にやっているのならば、カルトを巻き込むのは三浦ブランドを落とすマイナス効果しか生まず、周辺自治体にも迷惑をかける行為に成ります。
三浦半島には元々源氏と平家の三浦家所縁の豊富な史跡群に加え、近代の要塞や、アメリカ文化の観光地、そして問題の三崎周辺は風光明媚な夏の観光地や冬のミカン狩りや鮪や松輪鯖や三浦大根のブランドが元々有名な場所です。もっと真っ当な宣伝をして城ヶ島や三崎をアピールして欲しいと願うばかりです。
三浦家滅亡の新井城址は日本最長の4年間に及ぶ籠城戦が展開された名城として歴史好きには有名な場所です。カルトが小桜姫の祠と名を変えて宗教活動に利用している場所も江戸時代に遭難した漁民を助けた強い御利益の在る弁財天様として庶民から崇敬された場所です。
諸磯神明社も天照大神を祀る大切な神社ですし、三浦義意公の奥方が北条勢に捉えられたと伝承する諸磯神明社摂社の若宮社も、鶴岡八幡宮の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇=八幡大菩薩)の御分霊以外に何者でもありません。神道の信者にとってとても大切な神様達の御社です。
そこをカルトで汚さないで下さい。

三浦には沢山の景勝地と近代公園や自然公園、そして史跡とヤマトタケル神話や三浦家歴史の舞台の神社やと寺も有ります・・・
三浦海岸(海水浴場)
三浦市下浦町~三崎町周辺(西瓜と三浦大根の名産地、冬季はミカン狩り、初春は苺狩り)
江奈漁港(高級ブランド鯖の松輪鯖の漁港)
剣崎灯台周辺(神奈川の景勝50選)
盗人狩り(神奈川の景勝50選)
城ヶ島大橋と城ヶ島の景勝(神奈川の景勝50選)
城ヶ島のホテルや旅館(海に面したホテル、旅館、ペンション多数)
城ヶ島公園(景勝地、自然公園)
城ヶ島灯台(景勝地)
城ヶ島長津呂崎(景勝地)
城ヶ島北原白秋記念館(北原白秋三崎在住時代の解説展示館)
三崎漁港(鮪の水揚げ漁港、昔からの名産地)
三崎銀座商店街(鮪料理専門店が並ぶ商店街)
三浦映画社(三浦半島に映画ロケとドラマを誘致するNPO、過去ロケの作品の紹介場所)
三崎城址(北条氏規公居城)
本瑞寺(源頼朝公別荘跡、後に入舩地区に三浦義意公が開基し江戸時代に現在地に移転た寺院)
油壷湾(神奈川の景勝50選:昭和の映画スターのヨット遊び場)
油壷マリンパーク(皇太子殿下と雅子妃殿下始め皇族の方々のデート場所)
新井城址(佐原三浦家終焉の城)
荒井浜(流鏑馬神事が行われる)
海蔵寺(三浦道寸公開基の寺院、三浦道寸と三浦義意公の菩提寺)
小網代の森(原生林の遊歩道)
荒崎海岸(神奈川の景勝50選)
諸磯隆起海岸(フィリピン海プレートと太平洋プレートの衝突による隆起地形観察公園)
葉山マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、商業施設)
大楠山(神奈川の景勝50選)
森戸神社(源頼朝公勧進の三島大社御分霊)
名島(源頼朝公別荘跡の水没した島)
森戸の夕照(神奈川の景勝50選:森戸神社から名島を見た夕景)
鐙摺城址(三浦義澄公拠点)
鐙摺城址出丸旗立山(伊東祐親公御廟所)
秋谷の立石(神奈川の景勝50選)
秋谷海岸(景勝地)
長者ヶ崎(神奈川の景勝50選)
佐島マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、リゾートホテルとレストラン)
天神島臨海自然教育園(自然観察公園、佐島マリーナ横)
関口牧場(酪農家、アイスクリーム製造直売)
ソレイユの丘(BBQ等の複合レジャー施設)
披露山公園(神奈川の景勝50選)
住吉城址(平安時代末期三浦義澄公が籠城し、戦国時代に北条早雲公が籠城した城址)
逗子海岸(昔は明治の侯爵達の遊び場、昭和期は太陽族、今はチャラ男にチャラ女の聖地)
逗子マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場)
逗子市郷土資料館(徳川家別荘)
衣笠城址(平安~鎌倉時代の三浦本家の居城)
大善寺(衣笠城址に在る、鎌倉時代の三浦本家の学問所だった寺院)
満昌寺(源頼朝公が鎌倉幕府設立の立役者の三浦義明公供養に開基した寺院)
清雲寺(佐原三浦家の鎌倉時代~室町時代初期の菩提寺)
怒田城址(和田義盛公の平安時代の居城)
佐原城址(源義経の鵯越の逆落としの作戦を立案した佐原義連公の居城)
田浦梅林(今上天皇生誕記念に植林された4000本超の梅林の公園)
塚山公園(神奈川の景勝50選)
塚山公園按針塚(徳川家康公外交顧問のウィリアムスアダムス=三浦按針公と奥方御廟所)
どぶ板商店街(アメリカ第7艦隊の将兵が遊ぶアメリカ文化の商店街)
戦艦三笠(世界三大旗艦の一つ、東郷平八郎元帥の乗艦)
三笠公園(戦艦三笠が展示された公園、猿島へ渡る船の桟橋)
猿島要塞(明治時代の要塞、日蓮聖人の史跡、縄文時代の遺跡)
信楽寺(坂本龍馬室お龍さん菩提寺、土肥実平公持仏を祀る寺)
走水海岸(日本武尊と弟橘姫の神話の舞台)
走水神社(日本武尊の冠を社殿地下石室に埋蔵した神話の神社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の仮御所が在った、明治期に神社を壊し砲台設置)
観音崎(神奈川の景勝50選、昭和の映画スター達のリゾート地)
観音崎要塞(明治時代の要塞史跡)
観音崎灯台周辺(今上天皇と皇后様も訪問)
多々良浜(景勝地:貝殻で出来た真っ白な砂浜)
・・・等々、挙げればキリが無く・・・
どこも昭和のリゾート地として映画スター達に人気だった場所や現在の天皇陛下や明治の東郷元帥や三浦家と源頼朝公の大切にされた御寺や御城や別荘の跡、ばかりです。
もしも三浦市非公認のままの観光振興の心算なら、歴史歪曲は三浦ブランドを貶め神仏と歴史偉人を愚弄する行為です。
仮に嘘の歴史を教えられて小桜姫は実在しなかった小説の架空の人物である事を知らず、モデルが真里谷武田家の姫だと知らずに信仰してしまったなら、これからは真里谷武田家の姫様として、小説桜の御所のロケ地として三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫に縁結びを御願いしてみて下さい。

先週末土曜日、学生時代の仲間との三浦半島弾丸日帰り小旅行。

友人を本牧の自宅に迎えに行き、三崎漁港に移動…
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個人的には1ヶ月間で3回目の訪問(笑)。
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三浦半島に来ると気分が晴れやかに成る。そして海風と日差しが気持ち良い。
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漁船やヨットが行き交う様も見ていて丘とは違う解放感を感じさせてくれる。
❝うらり❞と言う観光漁港の中に、小生オススメのB級グルメの屋台が有る。
鮪の串カツと鮪のコロッケだ。
その二つにサザエの壷焼を注文し、ブランチ?代わりの軽食ですきっ腹を大人しくさせた。
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写真をとっていないが、❝うらり❞の2Fはテーブル席が並んでいて、1Fで購入した特産品を食べる事も出来る。
何故外で潮風に当たりながら食べないかと言うと神奈川の三浦半島以東の海辺は非常に鳶(とんび)が多くて、折角購入した食べ物を盗られてしまうからだ。
腹を満たすと油壺に移動し新井城址の下の荒井浜を散策…
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…油壷マリンパークへ行く途中の、この道がクビレた部分は❝内の引橋❞と呼ばれる新井城址の遺構で、荒井浜の半島への敵の侵入を防ぐ❝堀切❞状の空堀の跡で、現在埋め戻されているが戦国時代当時は空堀に木製の橋が架かっていて、その橋は戦時に収納出来てしまう様に成っていた。その様な城址の橋を❝引橋❞と呼ぶ。
小生達はマリンパーク側に廻らず、新井城址の土塁残存部分側から荒井浜を目指した。
そちら側の風景は❝神奈川の景勝50選❞の一つにも選ばれている。
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この遊歩道を荒井浜目指して歩くと右手にある土と雑木林の傾斜が新井城の土塁の跡で、遊歩道敷設で削られたものの、上に登ると内側より少し高い土塁で有る事が確認出来る…
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解りずらいかな?写真の左手が土塁の海側、右手が半島陸側。
下の写真は空堀の跡。
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私有地とも市の地所とも判断がつかない境界にあるので登ってみるかどうかは個人の判断に任せます。
ここを過ぎて階段を降りると、普段は人の居ない(笑)荒井浜に夏のバカンスに来た若者や家族連れが溢れ、この時期ばかりは賑やかさに溢れている。
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小生達は、水着ギャルを❝後目(しりめ)❞に(笑)、更にこの荒井浜を通り過ぎて奥の険しい岩礁地帯へ行く。
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実は、その奥に遭難した漁師を助けた御利益の有る弁天様を祀(まつ)る洞窟がある。
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ここは中々皆見つけられない危険な場所に在る、だからこそ地元の人も大切にしている。
明治時代の小説、❝桜の御所❞に登場する小桜姫のモデル、三浦義意公の側室の真里谷武田家の姫様所縁の場所を事実誤認している人も多いが、ここは小説の小桜姫とは全く関係ない。
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しかしながら漂流した漁民を生還させたり、多くの参拝者が御縁を結んで頂けたのは事実なので、きっと新井城主だった三浦荒次郎義意公と小桜姫のモデルに成った真里谷家の姫様の御夫婦の御霊が、弁財天様を介して良縁をとりもって下さるのかも知れないね。

弁才天洞窟で小生も良縁を祈願。
これも今月2回目(笑)。
荒井浜でBBQを楽しそうにやってる水着ギャルや家族連れの前をすり抜け、海の家に立ち寄る事無く、小生達は本日のメインイベント❝ネイビーバーガー❞を食べに横須賀ドブ板通りへ移動…。
…「くそ!俺も奥さん見つけたら奥さんに水着着てもらってイチャイチャしてやる!」と思いながら(笑)。

夕食の時間が近づいて来たので、横須賀ドブ板通りを目指し車で再び移動…
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…ドブ板通りの異国情緒は神奈川県内なのに少しウキウキする。
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前回の横須賀宿泊旅行で見つけたネイビーバーガーの老舗、SURF TAKOに夕食の場所を決定。
実は、この日のメインイベントはこれだった!DSC_0019
この友人は通関士で小生とは貿易を一緒に学んだ仲間なのだが、彼とは一年に数度は会う。
小生は休日は略(ほぼ)予定がギッシリ埋まっていて、必ずと言って良い程家に居る事が無く1日に8ヵ所位の訪問地を事前に廻る準備をして訪問先でいつも最低5時間以上は歩き回っている。長いと8時間以上、運転時間を合わせると大体12時間は出掛けっぱなし。
そうで無い時は、鶴岡文庫か図書館か博物館の資料を漁って歴史関連資料をむさぼり読んでいる事が多い生活をもう3年近く送っている。もちろん、趣味の範疇。
なので、友人と遊ぶ事も少ないが、コイツとはたまに会う。
友人はチリビーンズバーガーを…
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…小生は照り焼きをチョイス。
やっぱウンマ〜(*´∀`)至福♪
この店のハンバーガーを食べたら、他所の店より遥かに美味くて衝撃を受ける。
そしてファーストフード店のハンバーガーが文字通りジャンクに感じてしまうかも知れない。

食べ終わって少し散歩しようとしたが、当日は丁度、横須賀花火大会でしかも開催時間目前…
客も町に多くてゴミゴミしていたので、我々は横浜側の横須賀港一望出きるシークレットスポットに移動。

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横浜市の横須賀港を一望出きる場所に移動。
ここからは横須賀港だけで無く八景島、伊藤博文公が大日本帝国憲法草案を纏(まと)めた場所である野島、夏島の夜景も全て一望出来る。絶景だ。
ヒントに上の写真を掲載する。興味の有る人は自分の足で歩いて探すと良い。
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三日月が綺麗だ。
散歩は郷土史に通じる。
さて、絶景で花火を楽しむつもりが…
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回りに客いない場所なので男二人で盛り上がらず数発見ると二人で・・・
「よし見たな、夏らしいことしたな。」
「そだな。みたな。」
「腹も満足だし充実したな。」
「帰るか。」
・・・終了(笑)。
友人を送り、まぁまぁ、充実した弾丸ツアーだった。

追記
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三浦から横須賀へ行く時に、行きつけの農家、石井農園の直売所のザ作兵衛で先月に引き続き又、小玉西瓜を買ったが当たり!
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三つ千円で凄く甘かった。
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石井農園の皆さん、おまけの茄子も美味しかったです。
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ありがとうございました!

ふむ、慌ただしく移動をした1日だったが振り返っても良い休日を過ごせたな。
今年の三浦の西瓜は当たり年、行くなら是非購入をお勧めする。

前回の記事が7月30日の休日雑記なので前後してしまうけれど、7月16日の休日雑記も兼ねた❝三崎漁港❞の❝海南神社❞の例大祭を紹介したい。

2016年07月11日が尊敬する三浦義意公の太陽暦での命日だったので連休を取り菩提寺への御参りと御廟所への献花をするがてら横須賀~観音崎~三崎~城ケ島~油壷~諸磯~三浦海岸を旅行した。
…横浜に住んでいるので車で45分程度の距離、本来は宿泊する必要も無いのだけれども三浦半島をたまにはユックリ旅して見ようと思った訳だ。
その時に、宿泊先の給仕係のオバちゃんと三崎城址のローカル知識を御教授下さった三浦市の教育委員会の方に、「週末16日に行われる海南神社の例大祭がとっても賑やかだから是非、見学に来られては如何か?」と観光の御推薦を受けていたので「是非にも!」と約束をした事を守る為にも、美味しい物を食べる為にも御祭りを見学する事にした。
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真ん中で鉾(ほこ)を持ち、天狗面で左右に部下を従えて立っているのが猿田彦(さるたひこ)を演じる氏子サン。
猿田彦は天照大神系の武御雷(たけみかずち)神等、敵方の軍勢を先導し出雲神族の神域への侵攻させた❝出雲系の神様❞で神楽等を司(つかさど)っていた。
だから祭りの先頭にたっているんだろう…

この日の祭りは12時から海南神社で神事がスタートすると三浦市役所の方に聞いていたので家を10時に出て、御寺で写経をして11時に横浜を出発したのだが、生憎(あいにく)と夏季の三浦半島の観光地はどこも繁忙期で高速道路も一般道路も全て渋滞…
三崎漁港の海南神社に到着したのは12時半頃だったが、まだ海南神社の境内では神輿の担ぎ手が気勢を発し大声を上げて町内の人々や観光客で盛り上がっていた。
どうやら三崎町の町内各地区に何基も神輿や山車が有るらしく、地区毎に順番に海南神社で出発の儀式をやるらしい…
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だから商店街にも待機している山車が沢山いたんだね…
先に出発した神輿も見かけたので「もう神社の御祭りは終わったのか?」と勘違い。
だってね…
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お好み焼きの屋台も、❝ちんちん❞焼き(笑)の屋台も観光客が全くいない!
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海南神社に向かう途中は焦って小走りに成ってしまった。
因(ちな)みに❝ちんちん焼き❞なんてハマっ子の小生も三崎町でしか見た事が無い(笑)。
なんか卑猥(笑)な名前だが、オノマトペで「ちんちんに熱い」とか言う熱さを表現する言葉が恐らく名の由来だろう。
しかし、そんな懸念は何のその、到着した海南神社は参道は人出溢れかえり、寧ろなかなか境内に入れない程だった。
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ものすっごい活気!
新興住宅地だれけの横浜市内では廃れてしまった昔ながらの御祭りの活気!
そして漁師町=三浦水軍=北条水軍の町だけあって、参加者の町民がワイルドな人が多い(笑)。
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担ぎ手たちが神輿を持ち上げ激しくゆする度に観客達から「オオぉ~っ‼」と言うどよめきと歓声と拍手が巻き起こる。
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海南神社は狭くはない境内、寧ろ中の上位の敷地が有る。この時は境内に神輿が3基残っていて氏子と参拝客と観光客でゴッチャゴチャ(笑)で狭く感じる程だった。
しかしながら、この様な活気有る御祭りは横浜に現存しないので非常に羨ましい。
実は❝ちんちん焼き(笑)❞の強烈な名前を見て思い出したのだが、多分、小生は過去に数回、この海南神社の例大祭を偶然見ていた。
この神社を支援した鎌倉時代の水軍大将で三浦家当主の三浦義澄公に引き寄せて頂いたんだなぁ~としみじみと思う。
病気で辛かった時期に、本当に三浦半島の海に癒されて回復する事が出来たのも御縁なのだろう。まぁ、当時の彼女さんの存在も有ったのだけれど、三浦家の殿様達にも、昔の彼女にも、三浦の風景にも、三浦の海にも、親切な三浦の人々に感謝しかない。
さて、海南神社はこの例大祭の外にも源頼朝公由来の❝チャッキラコ❞と言う神事が有る。2014-01-15-13-52-26
ユネスコに❝世界無形文化遺産❞に指定されている、町の御祭りだ。
※チャッキラコを紹介した以前の記事は「ココ」←クリック!
頼朝公の宿泊する各季節ごとの異なる別荘が三崎町内にいくつか在ったので、この様な頼朝公所縁(ゆかり)の祭りが伝承しているのだ。
因みに、三崎漁港だけでも❝桜の御所❞と❝椿の御所❞が嘗(かつ)て存在した。頼朝公もこの地の風景と人と食事が好きだったのだろう。同地は源頼家公や源実朝公も滞在されたそうだ。
現在では鮪の水揚げが海外勢に押され気味で江戸時代~昭和初期の活気は無いが、平安時代末期~戦国時代の鎌倉文化と水軍の町の色が現在も多く残る土地でもある訳だ。
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町の中にも幾つも山車や神輿が繰り出すので、次第に普段は過疎に成りつつある三崎漁港が全盛期の活気を取り戻していく…
その様にも感慨深いものが有る。

海南神社の夏季例大祭の賑やかさは伝わったと思う。

ここからを休日雑記代わりの07月16日の日記部分としよう。
御神輿に随伴しながら賑やかな御祭りをひとしきり見て満足したら、大好きな三崎漁港の商店街をプラプラ散歩、つい4日前にも、この三崎に宿泊した直後だけど飽きない。三崎漁港は良い…
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昭和の雰囲気を残す建物が多く有る。写真館とか蔵屋敷とか…
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駄菓子屋さんとか…
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玩具店も…
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懐かしい昭和のオモチャ屋さんぽい感じ。
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この町で育ったら、根性ねじ曲がった人間には成らなそうだ。何だか町全体で子育てしてるような人々の繋がりを感じる。
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三崎町は映画ドラマの撮影にも協力していてNPO法人❝三浦映画舎❞なんて団体がいて、休日だと上の写真の展示館で撮影された作品の撮影中の写真や芸能人のサイン等が展示されている。
仰げば尊し
現在放送中のドラマ❝仰げば尊し❞の撮影にも関与している様で、三浦半島の風景がドラマ中に多く登場する。
その事は最近、ブログで紹介したので御興味有れば見て貰うと、ロケ地が書いて有る。
】←ココをクリックで記事にリンク!

一しきり散歩して御腹が空いて来た所で、昼食をとる事にした。
昼食は城ヶ島でとると決めていた。
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前回、城ヶ島を散歩した際に気に成っていた上の写真、旅館の港屋さんが提供しているヤドカリの味噌汁。
これを食べて見たくて車に乗り移動…
港屋に行く前に北原白秋の歌碑と、記念館を見に行った。
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余り知られていないのだが城ヶ島にも砂浜が有って、そこに白秋記念館も在る。
行くには上の写真の石碑の建つ遊歩道を歩いて行くと良い。
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そこを抜けると城ヶ島大橋の橋脚の下の砂浜に出る。
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北原白秋は東京で隣家の奥方と不倫の後、その奥方の離婚成立を待って略奪愛の末に結ばれて、世間の批判から逃れる様に静かな三浦半島の最南端の三崎に新居を構えたそうだ。
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白秋記念館の職員の方に教えて頂いたのだが…
その時に作詞した歌❝城ヶ島の雨❞の歌詞の舞台がこの島なのだが、当時、姦通罪に問われたり父弟が商売に失敗したり暗い時期の作品なので歌詞も暗い描写に成ったそうだ。
…因(ちな)みに、その不倫の末、結婚した女性は松下俊子さんと言うのだが、1910~1914年の僅(わず)かな期間で結婚生活は終了したそうだ。

北原白秋関連の場所の見学を終えて、港屋に移動。
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港屋は眼前に磯が広がる。露天風呂も有り、親子連れが宿泊すれば良い夏休みを過ごせるだろう。上の写真は港屋の庭からの眺望。
しかし小生の目的はヤドカリ…
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でこれが、シラス丼とヤドカリ。
食べてみたら出汁が美味しかったが、ヤドカリはグロテスク過ぎて箸を付けれなかった(笑)。
シラス丼はただシラスを載せただけでなく、御飯に紫蘇の香りがして、とても美味しかった。
周りの客層は熟年夫婦~若いカップル、友達同士と見える連れ等、幅広い年齢層の御客さんで賑わっていた。
前回、この旅館に興味を持った時は平日の昼間に散歩に来たので余り活気は無かったが、この日は土曜日だったので非常に多くの観光客で賑わっていた。
どうも京浜急行電鉄と城ケ島・三崎町がタイアップしているらしく、その観光客が多いようだ。
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だからかは不明だが、多くの芸能人も宿泊しているようだ。
まぁ~これだけ眺望の良い旅館で新鮮な地魚料理を食べれるなら人気あるのも納得。
…いつか泊まりに来よう。

さて…
城ヶ島散歩と腹ごしらえも済み、小網代地区は移動する事にした。
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城ヶ島からは車で20分位だろうか?
小網代には戦国時代最後の三浦家当主である三浦道寸公が開基した海蔵寺と言う御寺が在るのだが、前回の訪問時が丁度、新井城落城から500年、三浦道寸公と三浦義意公の500回忌に当たり、御住職に納経を依頼されていたので約束を果たしに写経した般若心経を持参した次第だ。
小生の遠い遠い祖先は古事記にも登場する、国造で、嫡流の御子孫は大宮司家だったりするのだが、小生は延喜式神名張を編纂させ古代の信仰と文化を守ろうとなされた醍醐天皇の時代の価値観を大切にしているので宗教観的には平安時代の人々や鎌倉武士達と同じ神仏両方とも等しく大切に思っているので、神社も御寺も大好きだったりする。
それとは別に文化的な物が大好きなのでキリスト教の教会の荘厳さも又別格に好きだったりイスラム教のモスクも素敵だと思うし、キリスト教の慈愛の精神とイスラム教の友愛と互助の精神も大好きだったりする。
寧(むし)ろ無宗教の連中が嫌い…
宗教を下に見て先人への敬意も払わず文化と史跡を破壊して回るマルクス主義者とかね。
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海蔵寺は一般参拝不可、飛地の境内地の三浦道寸公・義意公の御廟所への立ち入りも一般は不可なのだが、小生は御住職に三浦家や先人に対するリスペクトと宗教的にも神仏を大切にしている事を認知して頂けたので、御寺への参詣と御廟所への参拝の自由の御許可を頂いている。
今回、尊敬する三浦家最後の殿様の御二人500周年に納経の機会を与えて頂いた事は非常に光栄だった。
どうやら、小生の納経した写経は他に依頼した32人の方の分と共に、経塚に入れられ名前が塚に残るそうだ。
これで殿様が三浦の民に愛された歴史が後世に伝わって行けば良いなぁ~と願いを込めて奉納した。
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小生は佐原三浦家と最期に敵対した北条家の善政も尊敬し、北条早雲公・北条氏綱公・北条氏康公と玉縄北条家の北条綱成公もリスペクトしている。そして北条家と対立した扇谷上杉家の中で最後の鎌倉公方に忠義を尽くした武士の鑑とも言える上杉氏定公、扇谷上杉家の家臣で北条早雲公と三浦道寸公の両方とも盟友だった名軍師の太田道灌公も尊敬している。
なので、写経の為書は三浦家の殿様の供養祈願と共に関わった方々の供養祈願ともさせて頂いた。
この様な敵味方問わずリスペクトするのが本来の神道の寛容な価値観でもあり、柔和で静かな哲学を基本とする仏教との親和性でもある訳だが、それこそ日本人の習俗の源だと思っている。
…良く遊び、最後に尊敬する方々へ日本の発展の一端を担って下さった事に対する感謝も感じた有意義な一日に成った。

帰路は横浜横須賀自動車道で帰るのだが、三浦縦貫道路を通らず、一般道から横横に移動した。
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目的は行きつけの農家、石井農園の直売所❝ザ・作兵衛❞に作兵衛ブランドの西瓜を買いに行く為(ため)だ。
ここの西瓜は独自の❝作兵衛ブランド❞で売っているのだが、本当に美味しい!
ここで夏は西瓜や瓜、秋~冬は大根や蜜柑、初春にキャベツを買いに来る様に成って、もう10年位に成ると思う。
毎年何回も買いに来る。近所に横浜南部市場や小柴ファームと言う産直の販売所が有っても、作兵衛には絶対に季節の果実と野菜を買いに来る。この石井農園が好きなんだな~。
今年は看板娘の御婆ちゃんは骨折して治療中、残念ながら会えなかった。無事に治ります様に…
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今年は家族様に普通のサイズを1つと、自分用(笑)に小玉西瓜を購入。
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中にスが入ってるから安くすると言われた通り割れていたがギッシリ実がつまっていて、しかも今年は特に良く出来ていて甘い!
てな訳で、八月中に又買いに行く事にした。
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三浦からの帰路、最早、恒例に成っている横須賀PAに立ち寄りって買い食い。
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湘南ゴールドと言う湘南地方で生産されているグレープフルーツのフレーバーのアイス。
悪くなかった。てか、なかなか美味しい。

ふむ、歩いて知識詰め込んで感謝して充実した良い休日を過ごせた。



小桜姫は明治時代の小説のヒロインであり歴史上実在しない架空の人物です!
それを利用した悪質なカルト宗教の独身女性の縁結び願望につけ入った宗教勧誘旅行が三浦半島で横行しています!


縁結びを三浦義意公と奥方様の御霊(ごりょう)に御願いするなら御二人に対する正しい歴史認識をここで学んで、カルトに騙されないで済む様に備えて下さい!
ここで正しい歴史と三浦家の聖地一覧を見て置けば、カルトと偽霊能者が如何に歴史的教養が無く嘘ばっかり吐いているかが解ります。

そして、どうすれば縁結びの強い御利益をより得られるか、嘘と本当を見分けて参考に成り良い彼氏さん旦那さんに巡り合える切っ掛けの縁結び祈願が出来るでしょう!
しかし、ちゃんと注意事項と解説も読まない人が、いくら異性との出会いを御願いしても無駄でしょうし、カルトに騙され続けて宗教に入信させられて終り自分で人生を台無しにして終わるでしょう。
※注意事項※
史跡と縁結びの神社の内、直接、小桜姫や三浦義意公に関係の有る場所は【紫色の字】で場所の名前を表示します。

小桜姫様への縁結びの礼儀
縁結びで願掛けをしたいのならば、ちゃんと御寺の場合は❝供養祈願の納経❞する為(ため)の写経した般若心経と御賽銭を、神社の場合は御賽銭を準備して置いて下さい。
まさか、神様にお願いするのに「クレクレ」言うだけで奉仕する心が無いなんて事無いですよね?


歴史事実と自称霊能者が広めた話しと異なる小桜姫神社の差異の解説
小桜姫について
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明治時代に村井弦斎と言う作家が❝都新聞=現在の東京新聞❞に連続架空時代劇小説として掲載した❝桜の御所❞と言う名前の小説架空の人物が小桜姫です。
架空のヒロインだが、小説内で夫とされている三浦義意公の実在の妻と側室の真里谷武田家の姫をモデルにして小桜姫を創作した可能性は否定出来ない。
小説❝桜の御所❞出版以前に、全ての歴史遺物に❝小桜姫❞の人物名は登場しない。又、一般的に歴史上、名前の記録が残る女性は極少数。小桜姫に関しては完全に明治時代以降に登場する名前で創作と確認出来る。
先ず、小説では小桜姫は武蔵国久良岐郡(現:横浜市金沢区)金澤城主楽岩寺の姫とされるが、この時点で創作の人物である事を明言できる。
先ず、金澤城と言うのは現在の金沢文庫駅近く、金沢文庫の地名の由来に成った金沢山稱名寺を取り巻く山に在った鎌倉時代の城砦の事で有るが、この金澤城を要塞として活用したのは歴史上、後にも先にも鎌倉時代の金澤北条(かねさわほうじょう)家のみである。
ところが小桜姫は楽岩寺家と設定されているので金沢城主たりえる事は全く不可能。
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※写真は稱名寺裏の金沢城址、稲荷山からの眺望。
戦国時代に金沢を所領にしたのは小田原北条家臣の伊丹家であり、更に周辺で水軍として勢力を誇っていたのは同じく北条家臣の間宮家や伊東家である。小説の金沢城主楽岩寺家の設定は❝これは完全にフィクションですよ❞と筆者から解り易いメッセージが込められている訳だ。にも関らず、歴史に無知だった偽霊能者はそれを本当と誤認して宗教活動を始めてしまった。
しかも金沢城を稱名寺の敷地に在った居館の詰め城にしていた金沢北条家は、三浦道寸公・三浦義意公の時代よりも約200年前に既に滅んだ家、架空の設定である事が解る様に小説にも書かれている。
当然ながら金沢北条家に“小桜姫”等と言う人物の記録は一行たりとも存在しない。金沢北条家が開いた東日本最大最古の私設図書館で現代の金沢文庫博物館の記録にも登場しない。つまり自称霊能者が媒介と成って小桜姫の言霊を著書にしているならば、その内容は“自称霊能者の虚言”か“自称霊能者が誤って別の自称小桜姫のキチガイ霊魂を召喚して偽称偽証”されられており頭も霊感も弱い三流霊媒師と言う証明に成ってしまう訳だ(笑)。
小桜姫を実在したかの様にデマを拡散する連中に止めをさそう。
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※写真は近世、赤坂と呼ばれた地域から同じく古くは東青野台と呼ばれた能見堂へ繋がる険阻な丘。
そもそも金沢北条家の金沢城は邸宅の詰めの城でしかなく、完全な軍事拠点は青ヶ台(あおがだい)城だった。青ヶ台城は横浜市が発掘調査も保護もせず全容が解らないまま消滅したが、場所は江戸時代まで青野台と呼ばれた能見堂址~東横レジデンス~釜利谷高校一帯の険阻な崖地の上の丘陵と解っている。
金沢城の話から実家とされた楽岩寺家の話に解説を移す・・・
決定的にフィクションと解るのが小桜姫の実家の武蔵国金沢城主楽岩寺家の設定で、楽岩寺家と言うのは武蔵国久良岐郡(横浜市中区~南区~磯子区~港南区~金沢区)に歴史的に存在しない武家である。楽岩寺家自体の姓も存在しない。但(ただ)し武田家と戦った信州の武将に楽巌寺一族はいるが、あくまで信濃国(しなのこく=現:長野県)の武将である。
小桜姫のモデルは実在した三浦義意公の側室で真里谷武田家出身の姫だろう。しかし真里谷武田家は房総の小大名、親戚の武田家とも支配地が違う上に決定的に楽巌寺家は武田家の敵対者だった訳だ。
仮に甲斐武田家の話に置き換えても、楽巌寺家が武田家従うのは武田信玄の時代の弘治年間(1550年代)の話で、当時既に小説で小桜姫の夫と設定された三浦義意公の治めた佐原三浦家は存在していない。
佐原三浦家は永正十三年(1516年)の07月11日新井城(現:油壷マリンパーク敷地周辺一帯)落城と共に滅亡している。史実だとしたら矛盾だらけな訳だ。
つまり、仮に小説の楽岩寺家の小桜姫のモデル人物が実在した千葉県の真里谷武田家の設定を甲斐武田家に置き換えたとしても、楽巌寺家の武田家従属より40年も前に三浦義意公の佐原三浦家は滅んでいるので❝桜の御所❞の著者の村井弦斎から「小桜姫はフィクションの人物設定ですよ~」と少し歴史を知っていれ解るメッセージがふんだんに盛り込まれている架空歴史ファンタジー小説な訳だ。
これを事実誤認した霊能者は、悪意が有ってやってなければ歴史知識が足りないまま嘘を吐いてしまって引っ込みつかないだけか、相当霊能力が乏しいのだろう(笑)。
更に止(とど)めを刺すと、久良岐郡の間宮家の一族で安土桃山時代の武将の間宮信高公は三浦半島の長坂(現:横須賀市長坂)に所領を持ち、実は小桜姫のモデルの人物の実家の真里谷武田家の御子孫、真里谷武田直信公の舅に当たる人物だ。
徳川家の水軍大将として活躍した人物で娘が真里谷武田家に嫁いだのだが、この間宮家の家系図にも歴史書にも一切、小桜姫の名は登場しない。
そして真里谷武田家は小説の仮名で小桜姫のモデル成った真里谷城主の武田家の姫の兄、真里谷武田信隆公の子である真里谷武田信政公と思われる“武田殿”が北条家から久良岐郡六浦木曽分127貫を与えられ北条家臣化し江戸時代にも徳川幕府に仕え愛甲郡に僅(わず)かな領地を貰い存続している事が確認出来る。
その真里谷武田信隆公の子孫は以下の様な系図に成るのだが・・・

【真里谷武田 信保】※上総国真里谷城主、法名“恕鑑(じょかん)”。三河守(みかわのかみ)。
戦国時代(室町末期)の人。
三浦義意公の最初の妻の父親。天文三年(1534年)に亡くなっている。
一般的に真里谷城主の座を巡って兄弟間で内紛が起きたのは、この人物の代とされる。
諸長子(長男だが母が側室)であり嫡子(後継者指名を受けた人物)では無い。
真里谷武田一族の北条家への亡命は、既に佐原三浦家の滅亡した後で御子息の信隆公と信応公の兄弟が真里谷城主の座を争って信隆公が敗北した天文六年(1537年)頃の事なので、真里谷武田家と三浦半島の三浦義意公が合戦をする事は歴史的に有り得ない事実。そして、その時代には既に真里谷武田恕鑑公もこの世にいない。

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【真里谷武田 信隆】※金沢区移住初代。官途は丹波守(たんばのかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。千葉に在った真里谷城主。
三浦義意公の二番目の妻の父親、時代的にこの信隆公の姫が小桜姫のモデルだろう。
永正十三年(1516年)の佐原三浦家滅亡後、父の恕鑑と叔父の争いの後、1537年に信隆公の代でも実弟の信応(のぶまさ)公との争いが起きた。実弟の信応公が父とも争っていた叔父の真里谷武田信秋公に支援され、その二人との争いに敗れ北条家を頼り久良岐郡の六浦(金沢区)に亡命。

最初に北条家に亡命し現在の金沢区に六浦木曾分127貫文の所領を与えられたのは時代的に、この人物だろう。その後、信隆公は北条家の支援を得て上総国(千葉県中部)の真里谷城主に復帰している事から、六浦木曾分127貫文は当初は亡命時代の所領だったと考えられる。
三浦義意公が亡くなった年に北条早雲(伊勢盛時)公の援軍を得て城主の座を争い内戦を戦っているので、房総の三浦一族である正木家との縁も切れている様だ。信隆公の代で一度は北条家の支援を得て真里谷城主に復帰したが、衰退。御子息の信政公の代には、正木家を従える里見家に敗北して父の隠居料だった元の亡命先の金沢区六浦の所領に逃げ帰り信政公の代から土着したと考えられる。

  ↓
【真里谷武田 信政】※官途は三河守を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
恐らく里見家に敗北して真里谷城から駆逐され、元は父の亡命先であった現在の金沢区六浦の所領に逃げて来て土着した人物だろう。真里谷城を落ち延びてからは北条家から父の信隆公が一時亡命していた金沢区六浦に土地を与えられ以後は北条家の家臣化したと考えられる。
間宮家の所領の杉田郷と金沢は隣接地なので、間宮家との交流は信政公の代から始まっているのだろう事も推測出来る。

  ↓
【真里谷武田 信次】※官途は信濃守(しなののかみ)を称する。
戦国時代(室町末期)の人。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
江戸幕府による系図編纂の都合上、良く解らない世代の説明の為に広意義で主家の北条家が足利幕府家臣なので、足利義昭に仕えると書き加えらえたと考えられる。
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【真里谷武田 直信】※妻が間宮信高公の姫。官途は兵衛尉を称する。
安土桃山時代~江戸時代初期の人物。
系図上は室町幕府最後の15代将軍、足利義昭に仕えたと改竄が有るが、生きた時代の参考には成る。
間宮信高公の姫を妻に迎えている事からも、実際は間宮信高公と行動を共にしたと考えた方が自然なので、北条家→甲斐武田家→徳川家と転々とした筈だろう。間宮信高公が一時武田家に仕えた縁も、真里谷武田直信公と甲斐武田家が同族である血縁に因(よ)ると考えると自然。
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【真里谷武田 信正→改姓→間宮 信正】※間宮姓へ改姓した初代。助左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府二代将軍の徳川秀忠公に仕えた人物。
徳川家臣として愛甲郡に所領200石を得る。
俗名の助左衛門の左衛門は間宮家が代々継いだ官途名でもある。
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【間宮 信敏】※半左衛門を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
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【間宮 信輝】※この世代で家が滅亡。※権之助を称する。
江戸時代初期、徳川幕府四代将軍の徳川家綱公に仕えた人物。
15歳で亡くなってしまった為に子供がおらず、久良岐郡と縁の有った真里谷武田系間宮家は信輝公の代で断絶した。

・・・久良岐郡と縁の有った真里谷武田家の系図は御覧の通りだ。
信政公の子に当たる直信公に間宮信高公の姫君が嫁いで、武田直信公と間宮信高公姫の御夫妻の御子息が真里谷武田信正公に当たる。この真里谷武田家は信正公の代に母方の間宮姓に改めている。
この信正公の改姓は造酒之丞家が徳川幕府内に置いて水軍を任される重要な侍大将に成っていた事と、間宮本家の笹下間宮家が間宮康俊公の姫君の於久方(おひさのかた)が徳川家康公の側室に有り徳川縁戚として久良岐郡北部や佐渡国や但馬国や摂津国や駿河国で奉行を任された家柄だったので、江戸時代初期に成り真里谷武田家は北条家滅亡後に元々は隣町の御近所同士だった間宮家を頼ったと推測出来る。
例えば当時の佐渡奉行職は先祖代々の給料の領地とは別に3000両もの大金が支給されるので、当然、親族や没落したが有能な旧北条家臣の縁者を雇って救済する事が出来た訳だ。
江戸時代初期の貨幣価値を今の円に換算すると、大凡(おおよそ)、1両=12万円前後と言われてる。だから例えば間宮本家の江戸時代最初の当主で佐渡奉行、但馬奉行、本牧奉行を務めて間宮直元公の基本所得は1000石たが少し計算するとどれだけ収入が有ったか現代でも推測出来て・・・
【笹下間宮家の基本所得】
1000石 ×(1石=米150kg)×(現代の大体の米相場1kg=400円前後)=年収:6000万円
【間宮直元公の奉行職】
本牧奉行(横浜市磯子区、港南区、南区、中区の経営)・但馬奉行(但馬国内の生野銀山、金山の経営)・佐渡奉行(佐渡金山の経営) 奉行職×3
佐渡奉行給与は3000両の手当てが支給されていました。これを参考に但馬奉行職給与も3000両。
3000両×2=6000両 6000両×12万円=年収:7億2千万円
町奉行は1000俵の米の現物支給
1俵=60kg×400円=24,000円 24,000円×1000=年収:約8400万円

7億2000万円(鉱山奉行手当)+8400万円(本牧奉行手当)+6000万円(基本給)=8億6400万円
間宮家の本家、間宮直元公の年収だけで8億6400万円の収入が有った訳だ。しかも奉行職については自分の基本給から人を雇わなくても幕府が与力を配置してくれる、なので人件費は掛からない。そして奉行職として自らに付く与力させる人物を幕府に推薦する事も出来ただろう、何せ間宮直元公は伯母であり名将の間宮康俊公の娘の於久様が徳川家康公の側室に成り姫を生んでいたので事実上の外戚扱いだった訳だ。但し基本給の6000万円の方は、幕府指定の人数の家臣団を常時雇っていなくてはいけなかったので丸々年収に成った訳では無く、相当経営は苦しかった筈だ。
因みに1000石だと雇用しなければいけない人数は以下の通り・・・
鉄砲兵2人(鉄砲1丁約1000万円)+槍兵5人+弓兵1人、騎馬武者1人(馬1頭8~10両=120万円)
そして雑兵(農民)10人+物資輸送担当2人。合計21人+自分自身。
この人達を生涯雇用するだけでは無く当然子々孫々まで永久雇用する必要が有る上に、鉄砲のメンテナンス、数年に一度の馬の買い替え、安くても数十万円する鎧兜のメンテナンス或いはフルオーダーメイドで数百万円。
・・・年収が6000万円でも、そこから途轍もない人件費が消えて行く訳だ。
因みに戦国時代だと1000石では50人前後の兵隊を雇用して、侵略戦争を行う際でも30人程度連れて行き更に食糧費も掛かる訳だ。
戦国時代の間宮本家は単独で200人動員したそうなので、北条家臣時代の給与は動員兵士数の200人から計算すると・・・
間宮家総兵力200人÷(1万石=300人)=1万石の66%の動員数
1万石=米150万kg=年収6億円
6億円×66%=3億9千600万円
所得全体の3億9千600万円から戦国時代は200人雇わなきゃいけなかったので、北条家の玉縄衆黄備え隊の副将だった間宮家でも殆ど贅沢は出来なかっただろう。この玉縄衆黄備え隊と言うのは解り易く言うと神奈川県中央~東部エリアの統括みたいな組織で、間宮家はその副統括だった訳だ。副統括でも生活は楽じゃなかった。しかし、江戸時代は沢山の奉行職を兼務させてもらっていたので、それ等の人件費を補って余有る奉行職の年収が有った訳だ。
この他にも間宮家では戦国時代に分家した隣町の杉田領の江戸時代最初の当主である間宮信繁公も徳川家康公の家臣と成って徳川幕府初代鷹匠頭の奉行職に就いていた。

・・・だから真里谷武田家はじめ安土桃山時代に北条家滅亡で失職した多くの旧北条家臣の同僚を間宮家だけでかなり救済出来た事が解る。
実際に間宮家旧領の横浜市磯子区~港南区~中区~南区一帯には間宮家臣の他に多くの旧北条家臣団と蒔田吉良家臣団の臼居・岡本・金子・北見(喜多見)・苅部(かるべ)・森・佐々木・並木・野本それ等の旧家名士が平成の世に成っても存続している。

その様な経緯が有って、真里谷武田家も間宮家と婚姻関係を結び与力と成り間宮姓に改めた事が推測出来る。しかし、間宮造酒之丞家と関わりの有った真里谷武田家は御覧の通り江戸時代初期の話でなので、三浦義意公や房総半島から嫁入りした真里谷武田家の姫様の室町時代末期の世代とは全く以(もっ)て混同しようが無い時代の差が有る事が解る。

そして江戸時代の武将、旧姓が真里谷武田の間宮信正公の所領が愛甲郡(厚木市~愛甲郡愛川町~相模原市西部)に200石の小録で存在した歴史が有るので、明治時代に愛川町や相模原市でも小説“桜の御所”のロケ地に比定した観光誘致宣伝として地元の本来の民俗伝承に小桜姫伝説を当て嵌め聖地捏造したのが容易に推測出来る。尚、そちらでは小桜姫のモデルを大江家の姫としているそうだが、そうなると更に歴史矛盾が拡大する(笑)。

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※写真は愛甲郡愛川町の中津川の渓流風景。
小桜姫が大江の姫と言う方の解説を採用すると愛甲郡を大江家が治めた時代は鎌倉時代のごく短い期間であり、戦国時代の武将で扇谷上杉家の血筋の三浦義意公の存在を全否定するしかなくなる。根拠作りに困って、この説を持ち出した自称霊能者の判断は実に浅慮で無知だし事実確認が全くされていない。
そもそも関東では鎌倉時代に滅んだ大江家と、戦国時代の三浦道寸公とその御子息が合戦をする事自体が物理的に不可能(笑)!
そのカルトは三浦道寸公の子息を三浦義光と言っているそうだが三浦道寸公の御子息に義光の記録は無い・・・
まして三浦家の所領は三浦道寸公が生きた戦国時代当時に愛甲郡には無い。主家の扇谷上杉家の所領が愛甲郡南西部~伊勢原市北部にかけて存在したので、仮に三浦家が愛川町~津久井~相模原に攻め込めば主家に反逆する事に成る訳だ。歴史的に完全に間違ってる"設定"な訳だ。
仮に本当に霊能者が霊媒と成って、小桜姫を称する霊にソンナ事を言わされたのなら、その霊が
明治時代の小説ヒロイン小桜姫の名声を利用して自分を拝ませようとする“狡猾な詐欺師的な霊”だろう。
更に設定の甘さを追及すると三浦義光って名前を捏造する際、鎌倉時代の大江広元公の御子息で愛甲郡毛利台を所領にしていた毛利季“光”(すえみつ)公の名前と、戦国時代の三浦道寸公の御子息の三浦“義”意(よしおき)公の名前を安易に+して割ってるな。詐欺女悪霊か女霊能者のどちらが決めた設定か知らんが適当過ぎて本当に設定が甘い。
・・・そんな基礎知識も無いから霊媒たる霊能者も簡単に悪霊に騙されるんだろう(笑)。多分、学校で歴史の成績が悪かった人なんだろう。仮に人を騙す心算で小桜姫信仰を小説に乗っかって捏造したなら設定の甘さが馬鹿過ぎる。いずれにせよダメ。反省するべき。
霊能者も霊能者で、ソンナ詐欺女悪霊の正体を見破れないのは歴史知識が乏しい不見識さから来るのだから、早く反省して断家譜、寛政重修諸家譜、北条五代記、小田原衆所領役帳、新編相模風土記稿、新編武蔵風土記稿位は最低読んで勉強する事をお勧めする。それを読んで置けば二度と悪霊に騙される事も、或いは自分が詐欺師なら"設置をミスる(笑)"事も無いだろう。
まぁ~落としどころとして、当該の霊能者は、悪霊の嘘を見抜けない自分の霊感不足や歴史知識不足の不甲斐無さを認めるべきだな。
先ずはちゃんとした宗教指導者に成るべく、神様に興味が有るのなら、この説を流布してしまった霊媒師と霊能者の方は國學院大學か皇學館大学に入り神職の資格を取得される事をお勧めする。
仏教的な知識習得と修行をしたいのであれば、仏教系大学に行くべきだろう。
高野山大学、駒澤大学、大正大学、立正大学、身延山大学、龍谷大学なんかが御薦めだろう。或いは修験道の総本山である奈良の蔵王権現こと金峰山寺で学ぶのも良いだろう。
何(いず)れにせよ、当該の説を流布した霊媒たる霊能者はちゃんとした場所で修行し直し、ついでに歴史も勉強するべきだな。
そして、自称霊能者の本人が歴史知識も嘘を見抜く霊感も無いんだから、ちゃんとした古来の権威ある神道の神社や仏教宗派寺院で、ちゃんとした神社庁に属す宮司様や旧来の仏教宗派の和尚様に払ってもらうべきだろう。
幸い、当該地域周辺には本物の聖地の八菅神社や、大江家旧領愛甲郡小野に延喜式内社の“閑香大明神小野神社”や金徳山光明寺も在る。その神社仏閣で宮司様に払って頂き神様の力で詐欺女悪霊を封じ込めて貰うか、釈迦牟尼仏の力で和尚様に悪霊を供養して貰い閻魔様に送って貰うと良いだろう。
小桜姫と実在しなかった人物名を自称する悪霊を憑依させてしまった霊感不足、知識不足の霊能者にはアドバイスしフォローして置く。

余談だが大江家が愛甲郡の中で所領としたのは現代では毛利台と言われる土地で、大江家は戦国時代の大大名、毛利元就公の祖先に当たる。つまり安芸の広島城主で後の長州藩毛利家の殿様の祖先の故地は神奈川県厚木市毛利台一帯なのだが、それを知る人は現代では少ない。
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愛川町は県内最高の水質を誇る中津川が流れており、キャンプやBBQや鮎釣りの客で夏休みの時期には多くの観光客で賑わう。
仮に愛川町がしかけた聖地捏造ならば、こんな変な宣伝をしなくても素晴らしい観光資源や八菅神社と言う古来権力者に支援を受けた霊験あらたかな聖地も存在する。又、武田家と北条家の三増峠の大合戦を模した三増合戦祭りも毎年行われる。愛川町は歴史探訪で方々を旅している小生から見ても魅力的な観光地として推薦しフォローして置こう。

まぁ、三浦の小桜姫伝承とは関係なので愛川町と厚木市の話から、小桜姫の設定そのものに話を戻す。
何(いず)れにせよ、間宮家と真里谷武田家の血脈にも文献にも「小桜姫の名は1つも登場しない」ので、佐原三浦家、金沢北条家、楽巌寺家、真里谷武田家、間宮家関連の文書を調べ尽くしても小桜姫の名は明治時代に村井弦斎先生による創作されたヒロインの創作名であり伝承は小説に乗っかった観光客誘致目的での悪質な明治時代以降の創作と真里谷武田家の姫の伝承の混同と断言できる。
恐らく、悪意無く小桜姫の存在を歴史事実と誤認した連中の場合は歴史的な知識が乏しく小説が文語で書かれているので「あ~これは歴史書だ!」と思いこんだのだろう。
明治時代に桜の御所の出版で、小説のロケ地巡りとして三浦旅行が流行したので小説に乗っかった明治生まれのカルト宗教や聖地捏造した観光業の連中に騙されたり明治~昭和の歴史知識の乏しい人々が事実誤認した結果が招いたカルト流入と神社仏閣聖地の乗っ取り縁結び旅が今の三浦市の惨状な訳だ。

補足として三浦義意公は扇谷上杉家から三浦家を乗っ取った三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう=僧籍に入る事)道寸公の子で三浦の正当な血統とも言えないが人望と武勇は高かった。しかし、それ以上に父の三浦道寸公は北条早雲公のライバルとしても太田道灌公の親友としても有名な人物で名将だった。

間宮信高公の父君、間宮康俊公は歴史上の名将として有名で地理学者で幕府の御庭番を務めた間宮林蔵公、蘭方医学者の杉田玄白、東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務めた歴史学者地理学者の間宮士信公達の祖先のに当たる。
つまり東大前身の昌平坂学問所で頭取を務めた江戸時代の地理と歴史の大ボスの間宮家は小説で小桜姫と仮名された真里谷武田家の姫と遠い親戚同士であり、その間宮家が江戸幕府の命令で編纂した歴史書にも、後に老中の堀田家が編纂した家系譜にも、各都市の郷土資料にも、問題の時代の北条家の詳細な歴史書にも微塵も小桜姫の名前は登場しない訳だ。

では再び小桜姫の解説も戻ろう。
もう一度おさらいする・・・
モデルに成った人物は、どのような人物かと言うと御夫君の三浦義意(よしおき)公には、房総半島の小大名の真里谷武田家から来た正妻と側室がいた事実が有る。その姫様の内、側室だった方がモデルに成っていると推測出来る。
そして小桜姫の実家を楽巌寺家、或いは歴史的に最初で最後の金沢城主の金沢北条家と設定したのは、小説の舞台に成った時代に小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の実在の正妻と側室の生家である真里谷家が諸長子と嫡子の間で家督相続争いが起き、真里谷の姫の兄に当たる諸長子の真里谷武田信隆公が災難を逃れて北条家の支配する現在の横浜市金沢区金沢文庫辺りに亡命したきた事実が有る事を参考にし、同地の著名な鎌倉幕府重鎮だった金沢北条家の雅(みやび)なイメージをヒロインのイメージに取り込んだと思われる。
繰り返しに成るが、金沢北条家は佐原三浦家より約200年早く滅亡して同地に一族も生存していない。
久良岐郡(横浜市)の金沢城主も後にも先にも金沢北条家だけ。
楽岩寺家は戦国時代の小田原北条家の家臣に存在せず楽巌寺家は信濃国(長野県)の国人領主、よって三浦義意公の実在した正妻と側室の真里谷家の姫君がモデルなのは間違いない。
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※写真は小桜姫の実家として設定されている三浦義意公の時代より200年前に滅んだ❝金沢北条(かねさわほうじょう)家❞の邸宅跡、金沢文庫称名寺。江戸時代は真言宗の壇林として多くの学僧がここに学んだ。真言宗の別格本山の格式を持つ。
又、金沢文庫(かなざわぶんこ)の地名は金沢北条家の北条実時(さねとき)公が称名寺の隣の文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)の谷戸(やと=谷間に木戸を設けた居住区)に開いた日本史上初の私設図書館❝金沢文庫(かねさわぶんこ)❞に由(よ)る。
小桜姫伝説を生んだ小説❝桜の御所❞のシナリオは、いくつかの異なった時代の三浦半島周辺の歴史を融合させて構成されていると考えられる。
房総半島の真里谷城主真里谷武田家から三浦半島の新井城主三浦荒次郎義意公に嫁がれた❝真里谷の姫の最後の悲話❞

三浦義意公の時代よりも❝約200年前に実在し鎌倉幕府滅亡と同時に既に滅亡した金沢北条家❞の高文化で風流な家柄のイメージ
そして…
義意公の没後に三浦家の一族が活躍した❝鶴岡八幡宮合戦❞と❝真里谷武田家の跡目争いの内紛❞の史実。
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※写真は鶴岡八幡宮合戦で里見家と三浦一族正木家の放火で一度は鎌倉の町とともに焼失した鶴岡八幡宮。北条氏綱公の差配の下、三浦道寸・三浦義意公の盟友だった蒔田吉良家や太田家、北条家の武将達、諸大名によって敵味方の垣根を超えて再建事業が行われた。
以上の解説の通り、複数の史話と地元伝承をモデルにして融合させ脚色した
と思われる創作小説に登場する架空の人物が現代の小桜姫のイメージで小桜姫伝説は史実では無いが郷土に伝わる真里谷の姫の最期が小説の名とすり替わり、小桜姫とされる様に成ったと推測出来る。しかし新井城や主人公三浦義意公、その約200年前の金沢北条家の存在が歴史上実在した為(ため)に明治時代に小説内の小桜姫の物語や実際の歴史伝承が歴史に疎(うと)い庶民や自称:霊能者に史実と誤解され、流行小説の舞台として観光客向けに明治時代に小説のロケ地と思われる場所が観光名所と成り、自称:小桜姫神社の舞台等が南関東に多数、登場した。
実際の小桜姫神社の舞台は真里谷家の姫の悲話の有る諸磯神明社の境内地と三浦家旧臣の御子孫と地元民も伝えている。
後世、歴史に疎(うと)い人間が、小桜姫の存在や小説ロケ地と自称する場所を歴史事実上の神社と誤認した後に、更に時代が下って平成に成ると、その人気小説の聖地巡礼の名残が更に事実誤認を生んで平成の自称霊能者が明治の自称霊能者の書いた本を鵜呑みにして戦国時代の昔から存続する実在の神社かの様な誤解を生んだのが、❝小桜姫伝説の真相❞です。
❝桜の御所❞執筆者が❝小桜姫を金沢北条家❞としたのは、時代の違う家をヒロインの実家にする事で架空小説であり歴史小説では無い事を明確に読者に理解させる意図が窺える。
にも拘(かかわ)らず、歴史に無学な一部の自称霊能者が事実と誤認して、平成に入ってから紹介してしまったので多くの縁結びを祈願する女性に誤解を与える事に成った。無教養と言うのは罪だと言う典型的な例が誤った小桜姫信仰だ。
しかし実在した三浦義意公の正妻と側室に真里谷武田家の姫がいたので、小桜姫を真里谷家の姫とするならば御利益は否定出来ない。
但(ただ)し、自称霊能者が小桜姫としているのは架空の戦国時代の金沢北条家の姫であって、真里谷家の姫では無い。仮に真里谷家の姫で有るならば、明治時代以前に小桜姫と言う名前は伝承していない。
更に自称霊能者やカルトや商業利用を目論む輩等によって小桜姫神社と誤って違う弁財天を祀る洞窟を紹介しているケースが有るので、本記事内で区別して指摘しておく。

小桜姫の名の由来について
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村井弦斎が小説❝桜の御所❞を執筆した場所が、現在の三浦市三崎町1丁目に所在する本瑞寺だった。
本瑞寺は平安末期~鎌倉時代に征夷大将軍の源頼朝公が桜の花見の為(ため)にに築いた別荘❝桜の御所❞跡地。往時は境内地と対岸の城ヶ島に多くの桜が植林されていたと伝承する。
本瑞寺は小説で小桜姫の夫に設定されている三浦義意(よしおき)公が、戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に開基した史実の有る御寺だが、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。現在の本瑞寺境内にも観光客向けの歴史説明看板が有る。その義意公の事績と、源頼朝公時代の桜の御所のイメージが小説に盛り込まれた。

小桜姫の御主人、三浦義意公と佐原三浦家の歴史事実について
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※写真は三浦家の拠点の一つ住吉城址から見た相模湾の風景。
三浦義意(よしおき)公が継いだ佐原三浦家は、平安時代末期~鎌倉時代の有力武士の三浦家の分家に当たる家系で、鎌倉時代に本家が滅亡した後に佐原三浦家が名跡を継ぎ、室町時代に鎌倉公方の有力家臣として活躍した家。
但(ただ)し、三浦義意公の実父の三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう:僧籍に入る事)道寸(どうすん)公は、鎌倉公方の家老の扇谷(おおぎがやつ)上杉家から、佐原三浦家へ戦国時代初期に養子に入った人物。
関東に於(お)いて韮山城主の伊勢宗瑞(北条早雲)公、江戸城主の太田道灌公と並び称された名将が三浦道寸公だった。
佐原三浦家と伊勢(北条)家は、扇谷上杉家が山内上杉家と和議してしまった事によって伊勢(北条)家と古河公方家(こがくぼうけ=鎌倉公方足利持氏公の子孫)の外交的な問題で対立するまで扇谷上杉家と古河公方家を支えた盟友だった。
やがて古河公方家―山内上杉家連合の成立により孤立した伊勢(北条)家は独立し北条家を名乗り関東の領地の支配権の正当性を主張して大森藤頼を攻め小田原城を奪取する。すると三浦道寸公は実母が大森藤頼の実父大森氏頼の娘であり大森藤頼は義兄弟に当たる為に、三浦家はやむなく伊勢家と対立するしか無く成る。
ここに岡崎城に大森家を匿(かくま)った三浦家と、伊勢家の戦端が開かれ、以後、断続的に10年に及ぶ岡崎城の攻防が繰り広げられた。
その後、岡崎城が落城すると、瞬く間に北条家は藤沢市の扇谷上杉家の初期の居城だった大庭城、逗子市の三浦家の住吉城を攻め落として、新井城に迫り、新井城では名将三浦義意公の奮戦と指揮により日本最長の約4年間の籠城戦を展開した後に佐原三浦家は滅亡した。
しかし房総半島の佐原三浦家分家の正木家が戦国時代に小弓公方足利義明・里見義豊と結び逆襲し、三浦半島を一時取返し鎌倉まで攻め込んだ鶴岡八幡宮合戦を起こした。しかし里見義豊が源頼朝公以来の武家の八幡信仰の総本社格であった鶴岡八幡宮と鎌倉市街で放火の上乱暴狼藉を働いてしまった為に支配するに至らず、寧(むし)ろ北条氏綱による鶴岡八幡宮再建事業が行われるに至って北条家による相模国支配の正当性が確立されて、三浦家残党の正木家は三浦家の故地に復帰する機会を逸してしまった。
※横浜市磯子区域にも鎌倉以来の三浦家の一族である平子家(ひらこ/たいらこ)がいたが、小生は平子家も鶴岡八幡宮合戦で正木家に呼応して、後に北条家によって駆逐されたと推測している。

以下、小桜姫と三浦義意公、三浦家歴代の史跡、聖地の一覧


●二伝寺…神奈川県藤沢市渡内
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三浦家の全ての直系子孫の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公と初期御子孫の菩提寺。
現在の二伝寺自体は北条氏時公(北条氏綱公御実弟)により開基され、浄土宗大本山、鎌倉光明寺の正空和尚が開山と成って造営された寺院。
それ以前の記録は残らないが藤沢市の蟠龍山宗賢院や伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺の実例を踏まえると、同所に前身寺院や廃寺跡が有り再興開基した可能性は有る。
又、同所は、戦国時代に難攻不落を誇った玉縄城址の出城二伝寺砦でもあった。秀吉の小田原征伐による戦国大名の北条家滅亡後は徳川家臣、大河内松平家の菩提寺と成った。大河内松平家は日光街道に杉並木を植林した一族。

●村岡城址公園…神奈川県藤沢市村岡
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三浦家を含めた良文流坂東平氏系の武将の祖先、平良文(たいらのよしふみ)公の居城跡。
城址公園としては遺構は略(ほぼ)、児童公園化されてしまい存在しない。子孫に当たる明治時代の海軍の東郷平八郎の甥の東郷吉太郎海軍中将が揮毫(きごう=文章を直筆で代書する)した石碑が現存する。
平良文公の子孫には名将が多く、鎌倉幕府御家人や戦国時代の大名に成った家系も多い。
主だった子孫の家系と名将を挙げると…
太字は特に有名な人物
【三浦家一族】
三浦義次
三浦義明三浦義澄岡崎義実・真田義忠・和田義盛・朝比奈義秀・朝比奈泰朝佐原義連・平子有長・正木時茂芦名盛氏由比正雪
【鎌倉家一族】
鎌倉景正大庭景義大庭景親梶原景時梶原景季・俣野景久・長尾景春長尾景虎(上杉謙信)
【渋谷家一族】
渋谷重国・早川実重・東郷頼重・祁答院良重・入来院重嗣東郷平八郎
【中村家一族】

中村重平・土肥実平・小早川遠平(小早川隆景の家名上の祖先)・土屋宗遠(土屋昌続の家名上の祖先)
【秩父家一族】
畠山重忠・江戸重長・喜多見重政河越重頼(源義経の妻の実父)・葛西清重・豊島泰経・小山田信茂
【千葉家一族】
千葉常胤千葉胤富・臼居胤知・千葉周作(山南敬助・山岡鉄舟・清川八郎の剣術師匠)・千葉定吉(坂本龍馬の剣術師匠)
…等の何(いず)れも名将が多い。

●衣笠城址公園…神奈川県神奈川県横須賀市衣笠
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※写真は衣笠城址の本丸跡と伝わる辺り、右側に長い土塁の遺構と思われる風化した盛土が続く。
本家の三浦家歴代の居城。三浦本家が滅亡するまで三浦党の本拠地として機能したが、三浦家滅亡時に廃城と成った。
石橋山合戦での源頼朝公蜂起に呼応し、三浦党は和田義盛公を陸軍大将として三浦義澄公を水軍大将として援軍を送るも陸軍は敵の大庭景親居城大庭城を背後にして相模川を渡河出来ず石橋山合戦に間に合わず、水軍も酒匂川辺りで源頼朝公は敗退し海路を房総半島に逃走してしまった事を知った。更に北から畠山重忠公率いる伊勢平氏(平清盛)の大軍が迫って三浦勢は西と北東から挟撃されてしまう形に成った。それを知った三浦義澄公の水軍は鐙摺城(あぶずりじょう)に撤退、和田義盛公の陸軍は衣笠城に帰還。三浦勢と畠山勢が逗子市住吉城辺りで戦端が開かれたが寡勢(かぜい=少数)の三浦党は撤退し衣笠城に集結する。当時の長老、三浦義明公は88歳と高齢だったが一族を源頼朝公に合流させるべく水軍で房総半島に撤退させ、自(みずか)らは衣笠城に直属の手勢を率いて籠城し畠山軍を引き付け囮(おとり)に成り時間稼ぎをした後、玉砕した。この義明公の活躍により、頼朝公は三浦党の軍勢を旗下に組み込む事が出来たので関東の制覇に繋がり、そして鎌倉幕府樹立へと繋がって行く…。
現地には一部分、土塁遺構と思しき連続した風化した盛土と、切岸と思しき地形が残存し、伝:本丸の広大な削平地と物見岩も現存する。
※ただし城マニア初心者には只の山にしか見えません。
嘗(かつ)ては城域だった、衣笠城址公園と谷を挟んだ衣笠山公園は現在では桜の名所として有名で、衣笠城址にも多くの桜が植林されている。
周辺一帯には三浦家所縁(ゆかり)の神社仏閣と、廃寺史跡が現存する。


大善寺…神奈川県横須賀市衣笠
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衣笠城址内に現存する鎌倉時代の三浦家の学問所の機能をした寺院。それ故(ゆえ)に山号も衣笠山と成っている。三浦家の文化醸成地の址。
大善寺自体も、嘗ての衣笠城の曲輪の一部と考えられる地形に存在していて、急峻な石垣は平安時代の切岸に後から石積みされ参道の階段が設けられたと推測出来る。
大善寺の裏手には、衣笠城本丸や物見岩と伝承する場所への入口。
又、御当寺の周辺は石垣城では無い時代の城らしい人工的な切岸と思われる断崖地形が連続している。

清雲寺…神奈川県横須賀市衣笠
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三浦家本家、分家の佐原三浦家の菩提寺。
三浦家本家の菩提寺は本来は圓通寺だったが、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈の煽りを受けて存続困難に成り廃寺と成った。その後、三浦分家の佐原三浦家の菩提寺として開基された、現在の清雲寺に明治時代に成り圓通寺の三浦本家の菩提は合祀された。
嘗ての圓通寺を吸収した名残で本殿は圓通閣と呼ばれ、屋根の寺紋は三浦本家の三つ引き両紋である。
多くの三浦家所縁(ゆかり)の重要文化財を収蔵している寺院でもある。

●満昌寺…神奈川県横須賀市衣笠
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源頼朝公への忠義第一の名将として有名な三浦義明公の菩提寺。源頼朝公によって三浦義明公の供養の為(ため)に開基された寺院。
現在も頼朝公御手植えの躑躅(つつじ)が現存していて、頭を躑躅に突っ込むと賢く成ると伝承している。境内の三浦義明公の首塚とされる場所からは遺品が多数出土しており、事前に拝観予約すると御住職様の予定が空いていれば見学出来る。

●佐原城址…神奈川県横須賀市佐原
佐原城址 久良岐のよし
戦国時代初期の大名、佐原三浦家の平安時代の居城。
源義経の❝鵯越の逆落とし❞を立案した名軍師の佐原義連(さはらよしつら)公の時代からの居城。室町時代に成ると佐原家は佐原三浦家を名乗り三浦家本家と成り、居城を三浦市三崎町油壷の新井城へ転居した。
城址は横須賀ダイヤランドテニスクラブ周辺一帯の山で宅地開発により城址遺構は確認出来ない。昭和初期まで地名にも城址の名残りが在ったが、地名の字(あざ)と小名(こな)の廃止により地名も現存せず。

●鐙摺(あぶずり)城址…神奈川県三浦郡葉山町~逗子市桜山
鐙摺城 久良岐のよし
平安時代末期に葉山マリーナ近くには小浜の入江と呼ばれた湊(みなと)が在り、同港は三浦党の相模湾側の水軍拠点として機能していた。
300年余りの歴史を有する有名な和食店日影茶屋の前面に鐙摺城出丸と思しき旗立山が有る。
源平盛衰記に❝旗立山は鐙摺山の北❞と記載されている事から嘗(かつ)ての鐙摺城址の城域は、現在の日影茶屋周辺の現在は桜山と呼ばれる逗子市の葉山町の堀内地区一帯の桜山全域に及ぶ事が、地名と地形から推測出来る。
源頼朝公が伊勢平家(平清盛)に対して挙兵した石橋山の合戦に、三浦党は同地の小浜から三浦義澄(よしずみ)公を大将とした水軍を派遣するが小田原市の酒匂川辺りまで達するも、救援間に合わず頼朝公は伊豆半島より海路房総半島へ敗走した。
それを聞いた三浦義澄公は鐙摺城へ撤退。小坪辺り(住吉城か?)で畠山重忠公率いる平家軍の大軍に遭遇した三浦党との間で開戦。その際に鐙摺城址の出丸と思われる規模の旗立山に三浦党の軍旗を掲げたのが旗立山地名の由来。

●旗立山(鐙摺城址の出丸か?)…神奈川県三浦郡葉山町
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※写真は日影茶屋から見た旗立山と登リ口の階段。
鐙摺城址の項目で説明した通り、平安時代の三浦家の要害の一部。
旗立山には源頼朝の初期の通婚の妻女の実父の伊東祐親公の御廟所が在る。
伊東祐親公は頼朝公と三娘の間に生まれた子、千鶴御前(頼朝公の男児と伝わるが名前の後に付く敬称が❝御前❞である事からして伊東祐親公の三女本人の名だろう、子は❝千鶴御前の子❞とするべき)を見て怒り狂って家来に命じて溺死さた上に、三女は源頼朝公と離縁させて江間四朗(後の北条義時)に嫁がせてしまったとされる。この江間家四朗を北条義時と別人とする説も有るが、鎌倉幕府2代執権の北条泰時は庶長子なのに北条得宗家の嫡流に成り幕府の首相と成っている事、又、生前の頼朝公から可愛がられ初名が❝頼時❞だった事から千鶴御前と推定する歴史ファンも多いが証拠は無い。
同地に伊東祐親の供養塚を築いたのは三浦義澄公で、伊東祐親の長女は三浦義澄公の正妻だった縁に由(よ)る。
※仮に北条泰時公が伊藤祐親三女と頼朝公の実子だとしたら三浦一族が源頼家公・実朝公の将軍家御兄弟を見殺しにしたり、和田合戦の際に北条義時・北条泰時親子に加担した事は伊東家の血筋を優先した利害関係に基づくと説明出来る為、小生も北条泰時公の頼朝公御落胤説を否定出来ない。

●怒田城址…神奈川県横須賀市吉井
怒田城 位置 久良岐のよし
三浦一族で三浦長者と呼ばれた初代鎌倉幕府侍所別当職の和田義盛公の築城した和田家初期の居城で三浦水軍の最重要拠点だった。
同地は縄文時代~平安時代末期の城として活用された時期まで、半島で城址は浪に現れていた入江を抱える港湾の城だった。
現在も城址の麓(ふもと)には❝船倉❞の地名が残り、衣笠~佐原~怒田各城址の下を流れる川は嘗ての湾の名残。
源頼朝公の石橋山合戦での蜂起に援兵を送ろうとしたが間に合わず参戦出来なかった三浦家は、畠山重忠公率いる伊勢平家(平清盛)方の大軍に攻められる。その際に、主城の衣笠城より堅固な和田家が水軍と共に管理する怒田城への撤退を族長の三浦義明公に進言するが却下された。
しかし、義明公が衣笠城へ敵勢を引き付けた事で三浦軍は房総半島へ逃げる事が出来て兵力温存に成功し、それによって源頼朝公の関東制覇が成功する事に繋がった。

●金剛山無量寺・・・横須賀市長坂
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三浦一族で大出世し鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公が開いた御寺。
明治時代の小説で小桜姫のモデルに成った三浦義意公の奥方の実家である真里谷武田家に戦国時代に御嫁さんを嫁がせた間宮造酒之丞家の菩提寺でもある。
近世に成り間宮造酒之丞家は東京に墓所を移したが、現在も戦国~安土桃山~江戸時代初期の間宮家の御廟所が大切に守られている。
三浦氏族和田家も間宮造酒之丞家も水軍大将の家系なので、海に関係する仕事の人が御本尊と間宮造酒之丞家の御廟所を御参りすると御利益が有るかも知れない。

●和田長浜(わだなはま)海水浴場・・・三浦市初瀬和田3136
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神奈川県屈指の水質の良さを誇る海水浴場。実は背後の丘陵一帯は和田城址で鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公と愛妻で女武将として有名な巴御前が暮らした場所だった。その二人の子供が鎌倉時代初期の名将として名高い朝比奈義秀公だったりする。
つまり、ここの海水浴場に思い人と遊びに来れば和田義盛公と巴御前の御威徳で良縁で結ばれたり、子宝に恵まれる事も有るかも知れない。聖地かどうかを抜きにしても風景も海水も綺麗な場所なので穏やかな時間を過ごせる場所である。

●扇谷山(せんこくさん)海蔵寺…神奈川県鎌倉市扇谷
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臨済宗の寺院で鎌倉公方足利持氏によって命を受けた、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定公によって開基された。
井戸を掘ると海水が湧いてしまう事の有る鎌倉市街において水質の良さで十本指に入る事から鎌倉十井(じっせい)の一つと呼ばれた❝底抜の井❞や、❝十六の井❞と呼ばれる神秘的な洞窟の中の井戸を寺領に持つ寺院。
風景が綺麗で、観光名所にも成っている。
周辺には❝鎌倉七切通❞の一つ❝化粧坂切通❞と、平清盛の家臣で源頼朝公暗殺を画策した❝藤原景清❞が幽閉された石窟❝景清の土牢❞、三浦道寸公の盟友である太田道灌(どうかん)公の直系子孫で徳川家康公の側室と成った❝於梶(おかじ)の方❞が太田道灌公の鎌倉邸古址に造営した東光山英勝寺等の史跡等が近在する。

●岡崎城址…神奈川県伊勢原市岡崎~平塚市岡崎
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※写真は岡崎城本丸跡に移転した無量寺。
鎌倉時代に三浦義明公の御実弟で猛将名高い岡崎義実(よしざね)公によって築城された。
本丸跡の無量寺裏手には、三連の郭と、堀切が非常に良好な状態で現存する。寺境内地を外れ農道を回り込むと辿りつける。
縄張(なわばり=城の設計)は典型的な扇谷上杉家流の群郭式縄張と沼田に囲まれた平山城。周囲は縄文時代~弥生時代の古代に海だったので沼地だった。
室町時代には三浦家を相続した佐原三浦家の城と成った。
戦国時代初期に小田原を攻略した北条早雲・氏綱親子によって攻められるが、三浦道寸(どうすん)公が籠城する岡崎城は守り堅く、攻略に10年を要した。
佐原三浦家は相模守護として相模国内の大半に領地を保持したが三浦時高が当主の代に犬懸(いぬかけ)上杉家の上杉禅宗が鎌倉公方(くぼう=将軍)の足利持氏(もちうじ)公に反抗して引き起こした❝上杉禅宗の乱❞の際に、三浦時高は犬懸上杉家を支持した為に戦後、鎌倉公方によって相模守護職を解任された。
永享の乱の際に最初は足利持氏(もちうじ)公に属したが、後に相模守護を解任された経緯も有って裏切り、鎌倉を占領し山内上杉勢と室町幕府勢を誘引した。
時高は無嗣(むし=男児がいない)の為、戦後、元鎌倉公方家臣の扇谷(おおぎがやつ)上杉家の上杉氏定の孫の三浦高救(みうらたかもと)公が扇谷上杉家から三浦家に養子に入り継いだ。三浦高救公の実子が三浦道寸どうすん)公。
三浦道寸公の嫡子が明治時代に流行した架空時代劇小説❝桜の御所❞の主人公でヒロイン❝小桜姫❞の恋人役の❝三浦 荒次郎 義意(よしおき)❞公。
三浦高救公は実家の扇谷上杉家当主が討死した際に、三浦家を子の義同(道寸)公に相続せ御自身は三浦の家名を捨てて実家の扇谷上杉に復姓しようとするが、養父の三浦時高は所領が扇谷上杉家の傘下に入る事に成ってしまう事から怒り、三浦高救公・道寸公親子は三浦家から追放された。
暫(しばら)くして道寸公は、この岡崎城で挙兵し三浦家に復帰し三浦時高は死亡した。その後、岡崎城は小田原城の北条家によって落城させられる。

●住吉城址…神奈川県逗子市小坪
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※写真は住吉城址内に築城時から建っている住吉神社。
住吉神社には住吉城址の説明看板が有る。住吉神社の削平地と石段下の削平地も往時の城の曲輪の名残りと思われる。
築城年代は定かでは無いが、要塞としては鐙摺城の旗立山の逸話に登場する❝小坪辺りで三浦軍と畠山軍が開戦❞と有るので、その際に三浦家が陣取っていたのが、この住吉城址と推測出来る。つまり要塞としての歴史は平安時代末期に遡(さかのぼ)れる。
本格的に城として運用されたのは室町時代の様で、現在の京急神奈川駅付近に存在した権現山城(ごんげんやまじょう)で起きた権現山合戦時に、伊勢盛時(北条早雲)が後詰(ごづめ=救援部隊)として❝住吉要害❞に入城した記録が残っているので、この頃に改めて戦国時代の城として改修されたと思われる。
城址は正覚寺~シーサイドコート逗子望邸~海前寺に及ぶ山城で近年まで遺構も存在したが❝シーサイドコート逗子望邸❞の開発によって破壊された。
又、城址には❝住吉神社❞があり、その背後には馬場に通じる抜け道の隧道が存在するが封鎖されてしまった。寺の参道の目の前にも封鎖された古道が有り古代の東海道の街道の一部と考えられている❝切通し❞が現存するが、逗子市が城址と古道史跡の保護を怠(おこた)った為に宅地化され塞がれて通行不可能な状態に成ってしまった。
北条家と三浦道寸公・義意公親子の抗争時、この城には道寸公の実弟で義意公の叔父に当たる三浦道香が城主として在番しており岡崎城を落とされ逃げて来た兄の三浦道寸も共に籠城したが、結局は北条家によって攻め落とされ、三浦家終焉の舞台、新井城まで撤退する事に成った。

●網代山海蔵寺…三浦市三崎町小網代
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曹洞宗の寺院で三浦義同(よしあつ)道寸公によって開基された寺院で、三浦道寸公、三浦荒次郎義意公の菩提寺。
新井城址に当たる油壷マリンパーク近くに三浦道寸公と三浦義意公の御廟所を所有する寺院でもある。
新井城址北側の港である小網代湾の直ぐ傍に在る事から、往時は新井城址の北の鬼門鎮護の寺院だった事も推測出来る。
寺名から三浦道寸公の実家である扇谷上杉家が開基した臨済宗の鎌倉市に所在する扇谷山海蔵寺と無関係では無いと推測出来る。
本来、扇谷上杉家も佐原三浦家も臨済宗の信徒だが、この海蔵寺が曹洞宗なのは曹洞宗の信徒であった伊勢氏流北条家の伊勢宗瑞(北条早雲)公が道寸公・義意の供養として御茶湯領を保護した際に改宗して曹洞宗と成った可能性が有る。
※網代山海蔵寺は原則一般参詣不可、非公開。檀家信徒の参拝だけ可能。
明治時代の小説❝桜の御所❞の小桜姫伝説を流布した自称霊能者とカルト団体のせいで、道寸公と義意公に敬意も無ければ仏教に対する信仰心も無い観光客が本堂も拝まずに帰ったり、建築物だけ写真を撮って帰る等の乱入が相次いだ為の処置。
※私見だが歴史偉人の菩提寺としては当然の対応で、カルト団体と自称霊能者と商業利用しようとした連中に問題が有るので御住職の御心痛は理解出来る。


●新井城址…神奈川県三浦市三崎町小網代

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※写真は諸磯湾の対岸側から見た新井城址遠景。
佐原三浦家の室町時代の本拠地。同地は現代の神奈川の景勝50選の一つでもある。
日本史上最長の約4年間の継続した籠城戦の舞台。
城址の主要部分は現在、油壷マリンパークと東京大学関連施設のある断崖の半島上に築かれた連郭式平城だった。周辺の城塞群と引橋を含めた巨大な群郭式の体を成しており、南・北・西を諸磯湾・小網代湾・油壷湾に囲まれており堅固な城塞群だった。
遺構は略(ほぼ)消滅したものの、東大関連施設内には部分的に土塁が残存、又、周辺の地名に❝引橋❞や❝千駄矢倉(せんだやぐら)❞等が残る。周辺にも引橋を置いた堀切の痕跡と思われる道幅程に削平地の幅がくびれた場所が数ヵ所残る。小網代側には住宅街に井戸も有る事から、海に突き出した籠城戦に際しても水不足に成る心配は無かった事が窺(うかがい)い知れる。

三崎漁港側の三崎城まで城域に含むと主張する説が有るが同説は根拠が無い。完全に別の城である。同時期に運用された可能性は比定出来ない。
※新井城落城時の悲話
(老夫婦の自害)
現在の三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に戦国時代当時に新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)が存在した。その近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれており茶屋を営む老夫婦が居住していた。
ある日、その老夫婦は相手が北条家の密偵とは知らずに、城と殿様の自慢話をして新井城の事を根掘り葉掘り解説してしまった。後日、老夫婦は、その人間が北条家の密偵で有った事を知ると老夫婦は「殿様に申し訳ない事をした」と心中してしまった。
これと類似の話が藤沢市の大庭城の船地蔵にも有るので、北条家は敵城偵察の際に地元の老人に話を聞く事も諜報活動の一環にしていたようだ。この老夫婦の悲話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
(三浦義意公の妻女(側室とも)の最期)
現在の油壷マリンパークの半島上に新井城の主要部分が存在した。いよいよ小田原北条家(小説と小桜姫伝説では金沢北条家)の兵が新井城の主要部分に攻め込んでくると成った時、城主の三浦義意公の妻女は船で諸磯側に逃げた。その場所が諸磯神明社の辺りと現地で伝承するが、結局、三浦義意公の妻女は敵方北条家に捕縛されてしまった。小説では自害と脚色されている。
尚、小説内では結婚すらして居らず相思相愛のまま敵味方として最後まで戦い、思い人三浦義意公が新井城落城後に自害し、小桜姫が後追い自害したシナリオに成っている。
実際は兄の真里谷信隆公が北条家に亡命して庇護下に在った事や、新井城落城から約50年後に武田信玄の水軍大将として駿河で活躍し江戸時代に徳川家康公の水軍大将に成り間宮造酒之丞家として存続した間宮家分家の初代の間宮信高公は娘が真里谷武田家に嫁いだ姫である事から、北条家中でも真里谷武田家の血縁者が凄惨な扱いを受け殺害されたとは考え難い。
小桜姫伝承には不自然で小説中の脚色が史実と混濁されていると考えると自然。恐らく自害しておらず剃髪し門跡寺院だった鎌倉の松岡山東慶寺辺りで尼に成るかして生き延びたと考えた方が当時の価値観からしても自然だろう。

個人的な希望としては間宮家や鎌倉に居た千葉家分家臼居家に再嫁して名の残らない女性人物として幸せに成ってくれていた方が、前夫三浦義意公も安心するのではないかと個人的には思うが・・・
・・・脚色としては夫を思い自刃した方が小説としては美しい悲話に成り盛り上がるのだろう。

●新井城址の荒井浜海水浴場・・・三浦市三崎町小網代(こあじろ)1036
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新井城址の油壷マリンパーク裏手に在る海水浴場。和田長浜と並ぶ神奈川県内屈指の水質の良さを誇る隠しプライベートビーチの様な神秘的な雰囲気の有る海水浴場。夏季は素敵な海の家も営業し、浜辺には蓼科高原の白樺湖畔のペンションの様な素敵な民宿も通年で営業している。
水質の良さから何と河豚(ふぐ)が産卵に来る程の場所でもある。
マリンパークの直ぐ横なので、恋人や子連れ家族でマリンパークの水族館やイルカショーを見学てから来ても良いし、周辺には海鮮料理のレストラン食堂も数軒有り、観光地としても良い。
この浜辺には新井城で生活した三浦義意公と奥方の真里谷武田家姫君も一緒に仲良く散歩したかも知れないので、思い人や恋人と一緒に散歩に来れば三浦義意公と真里谷武田の姫の御威徳に肖(あやか)れて恋愛も成就するかも知れない。普通に散歩に来るだけでも素敵な場所。

●新井城址の弁財天様(小桜弁財天と誤って紹介されている)…神奈川県三浦市三崎町小網代
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小桜姫に縁結びを求めてくる巡礼者の多い場所だが実際は小桜姫とは全くの無関係な弁財天様。
但(ただ)し強い御利益あり、遭難して行方不明に成った江戸時代の漁師の身内が霊夢を得て、御告げの通り、この洞穴に祀られている弁財天様の折れた首を繋げて差し上げた所、三浦で遭難した漁師は無事、藤沢市辺り(鵠沼海岸辺りか?)に漂着して、徒歩、油壷へ帰還した。人命救助でも強い御利益が有る上に、元来、弁財天様は男神にモテた印度神話のサラスバティー神なので、当然縁結びの御利益も期待出来る。
何より強い御神威を発揮された事績が有るので、縁結びで御参りすれば御利益が有るはず。
※但し、小桜姫と関係ないので弁財天様として参拝して然るべき。

●小桜姫神社(諸磯神明社の摂社:若宮社に合祀?)…神奈川県三浦市三崎町諸磯
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本家本元の小桜姫神社。しかし小桜姫の名前は一切無い。
神明社本殿裏手の摂社群の内、左から二番目の若宮社に小桜姫が合祀されていると教えられた。
明治時代に流行した❝小説:桜の御所❞のヒロインとして登場する架空の人物の小桜姫と、地元に伝承する史実では(小田原)北条家による新井城攻めの際に、三浦義意公の妻女か側室が諸磯神明社の土地に実際に逃げて来たものの敵勢に発見され最期を迎えたとされる。
諸磯神明社は説明看板の字の劣化が激しく、現在、何が書いて有るかサッパリ読めない。
神明社なので主祭神は天照大神で間違いないだろう。
この話の姫君を小説と混同し小桜姫と比定して若宮社に合祀したのが始まりだろう。
若宮社とは本来は鶴岡八幡宮の御分霊である。しかし明治時代の廃仏毀釈運動と神仏分離令のせいで多くの八幡社は弾圧の対象となり消滅した。理由は八幡宮の主祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)応神天皇は明治時代以前まで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の象徴であった為だ。
平安時代以来の日本全国の八幡宮の総本社である石清水八幡宮には現在も仏像を安置する部屋が残されているし、鶴岡八幡宮の境内は明治以前は現在の横浜国大付属中学の敷地全てを含み壮大な仏教施設を持つ神宮寺が併設されていた。
❝若宮❞と言うのは、鶴岡八幡宮は造営当初は現在地ではなく由比地区に存在し、源頼朝公によって現在地を本社とて新たに造営された為に、❝旧の社殿より若い❞と言う事から鶴岡八幡宮の別名が若宮八幡宮と鎌倉時代当時に呼ばれていた名残りだ。よって鶴岡八幡宮の参道は現在も❝若宮大路❞の名で呼ばれている。
由比の八幡社は現在❝由比若宮❞と名付けられ再建されているが、元々は❝元鶴岡八幡宮❞と一般的に呼ばれている。
つまり、諸磯神明社の小桜姫神社は本来は鶴岡八幡宮の御分霊を頂いた若宮神社だったが、神仏分離令による破壊を免れる為、もう一つは先述の通り地元の姫の悲話に、後から架空の小桜姫の名前が融合し、廃社の危機にあったであろう若宮社=八幡社に小桜姫を御祭神とする事で存続を図ったと思われる。
しかしながら実際の姫君に小桜姫の名が合わさった形式なので、真里谷武田家の姫君として若宮社を御参りすれば実在した真里谷家の姫君にも三浦義意公にも縁結びの御利益を授けて頂けるんじゃないかと思う。但し、若宮社の本来の御祭神は八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、先に八幡様に御挨拶した上で真里谷武田の姫にも御挨拶をするべき。

●本瑞寺…神奈川県三浦市三崎町
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三浦義意公が戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した寺院。その後、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。
移転先に選ばれたのが源頼朝公の❝桜の御所❞と言う別荘地だった現在地だった事もあり、鎌倉時代の三浦家以来の御寺と勘違いされる方も少なくない。
平安時代末期~鎌倉時代は本瑞寺の丘と、対岸の城ヶ島には桜が植林されており、源頼朝公・源頼家公・源実朝公の将軍家三代に渡って遊覧の地と成っていた。
御当地は戦国時代の北条氏規の居城の三崎城址の一部だった。昭和初期まで土塁も一部残存していた事が三崎町公認の三崎城の縄張図から確認出来る。

●小桜観音…神奈川県三浦市三崎町城ヶ島
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古くから縁結びの観音様として有名な場所だった様で、実際に現在も縁結びの御利益が有るとされる。
名は本来は観音様であり、洞穴内に観音菩薩像も有るが近年、小桜神社に列しようとする動きが有った様で神道形式の真新しい御神体(鏡)が観音様を横に置いて洞穴の入口に正対する様に設置されている。
あくまで観音様なので、観音様を拝むと縁結びの御利益も有ると思われる。
又、観音様へ小桜姫への願掛けを御願いするのであれば、小桜姫の名の初出展となる小説❝桜の御所❝の世界観を大切にしたいならば、実在した先人に対して不敬に成らない様に実在した三浦義意公の奥方の「真里谷武田家の小桜姫様」と祈願の際に御名を念じて然るべきだろう。
尚、当時の三浦家の居城は城ヶ島対岸の三崎城でも無いし城ヶ島でも無いので、明治時代に小説のロケ地として推定され小説のファンが訪れたのが、小桜観音の名で呼ばれる様に成った理由と推測出来る。
同地には小桜神社と小桜観音両方の名が有るが、小桜観音自体の石積み等文化的な状況が仏教文化なので観音様として祀られていた歴史が先である事が明らかに解る。
実際に縁結びの御利益が昔から有った場所だから、後に小桜姫ロケ地巡礼の一つに成った事も推測出来る。
※何れにせよ、強い縁結びの御利益が有るのだから、「観音様と、小説の小桜姫様と、実在した真里谷家の姫君」として三方の名を思いながら祈願すれば神仏の加護を得られるのでは無いかと思われる。

●三崎城址…神奈川県三浦市三崎町
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※写真は嘗ての三崎城下水軍基地だった北条湾からの三崎城址の丘の遠景
伊勢氏北条家(小田原城主)の一族で名将の北条氏規公の居城。
築城年代は不明。
三崎城下の入江は北条家の三浦水軍の基地だった事から、現在、漁船の係留地は北条湾の名で呼ばれる。
城址の遺構は土塁と空堀は大部分が宅地化や学校建設で破壊されたが、搦め手側に土塁が一部残り、大堀切や部分的な曲輪の地形も大体の形を残して生活道路に成っている。
築城年代に関しては、三浦氏統治時代にも新井城の一部だった説が有る。
三浦義意公の開基した本瑞寺が三崎城址内に移転したのは江戸時代の事なので、当初は入舩地区に本瑞寺が造営されている事もあり戦国時代初期の三浦家の統治下では現在のメインストリートである三崎銀座商店街より更に南の平地に所在したので、三浦統治時代は漁村程度で水軍の船溜まりが在った可能性は否定出来ないが城塞が在った可能性は低く、新井城の出城説は全く確証が無い。
又、近くの海南神社は元々は筌籠弁才天と呼ばれ平安末期~鎌倉時代初期に三浦一族の和田義盛公によって開かれた弁才天様として有名だったが、やはりこの海南神社の参道も入舩地区へと続いている。
三崎城を鎌倉時代からの新井城城砦郡として含めるのは無理が有り、小桜姫伝説を利用した観光誘致の為に、城ヶ島を組み込む目的で三崎城址まで新井城の一部と無理な解釈をする動きに見える。
仮に小規模な要塞が平安末期に存在したとしてもあくまで新井城とは別の城。

三浦市以外の小説:桜の御所の小桜姫伝説のロケ地と伝わる場所
●天野神社…神奈川県愛甲郡愛川町坂本
三浦義意公と恋仲に成った小桜姫は、北条家と三浦家の双方の所領を天野神社辺りで中津川を挟んで、待ち合わせの相図に御互いに手鏡の反射を用いて連絡として、恋仲の逢引(あいび)き=男女の関係を繰り返した。
しかし、有る時、三浦家の敵方に小桜姫は三浦家の本城の秘密を漏らしてしまった事から三浦義意公によって誅殺されたと伝わる。
※当時の愛川町一帯の領主は津久井城主内藤家の分家で、佐原三浦家の領地は愛川町には存在しない、当然相模原側にも存在しないので完全なフィクション。また、佐原三浦家の居城は初期は岡崎城、後に新井城なので津久井の内藤家は全く関係ない。
※三浦家の居城、新井城の構造を北条方の密偵に騙されて漏らしてしまったのは、現在の神奈川県三浦市南下浦菊名の❝引橋バス停❞付近に当時本当に在った新井城の外郭の引橋(ひきばし=戦時に格納し敵の侵入を防げる橋)の近くで当時は❝六万本の坂❞と呼ばれた場所に居住した茶屋を営む老夫婦だと伝わっている。
又、この老夫婦の逸話を三浦市発刊の郷土資料でも正式に紹介している。
※観光客誘致のモデルとして御当地の別の伝承に小桜姫と三浦義意公を混同させたと思われる。
※愛川町が小桜姫伝説を混同した原因と考えられるのは、平安時代には三浦半島の津久井を治めた三浦一族の津久井家と、津久井城を治めた内藤家も鎌倉時代から存続した家と家伝に伝えていた為に混同されたと思われる。尚、津久井城主内藤家は北条家臣に成ったので、この史実も小説:桜の御所の小桜姫と整合性が無い。更に、津久井城主内藤家は北条家の津久井衆を編成し統治を任される身分だったが、その祖先を鎮守府将軍藤原秀郷と明確に自称している事から、やはり愛川町の小桜姫伝説は小説の話と地元の実在した事件の伝承の混同か、観光地としてのロケ地化宣伝に由るものと推察出来る。
※当然、実在した人物の伝承を混同している可能性が当然高いので、昔から縁結びの御利益が有ったであろう天野神社を御参りすれば縁結びの御利益が得られる筈(はず)。

さて…
纏めると
●三浦義意公の実際の本妻と側室は真里谷武田家の姫君なので、真里谷家の姫君として小桜姫を参詣しないと歴史に矛盾が出るし、三浦義意公にも側室の姫様にも失礼です。
●油壷の弁財天は小桜弁財天はなくて、漁師を遭難から救った強い御利益の有る弁天様であり、弁天様自体が男神にモテまくった神様だし美しい女神様だったから当然、縁結びを御利益出来ます。但し、小桜姫じゃなくて縁結びの弁天様として御参りしてね。
●小桜姫神社の場所は、諸磯神明社の摂社です。場所は本殿の後ろに並ぶ摂社の左から2番目の若宮社です。ただし、モデルに成った元からある三浦義意公の奥さんに纏(まつ)わる地元の伝承の神社の場所が諸磯神明社なのであって、明治時代の神仏分離令や国家神道の都合上、主祭神は天照大神です。小説の小桜姫様=実際の真里谷武田家の姫様に御参りする場合は「小桜姫様と伝わる真里谷家の姫様」と名を呼んで差し上げて然るべきです。
●小桜姫伝説は根本的に明治時代の小説、❝桜の御所❞が初出典であり創作ですが、実在した様々な時代の戦史や人物がモデルに成っています。舞台も実在した新井城で主人公の三浦荒次郎義意公は武勇に長けた名将でした。なので、新井城主三浦義意公と奥方に敬意を持った参拝をして下さい。
●もし、本当に小桜姫のモデルに成ったであろう真里谷家の姫様は三浦家をリスペクトするのであれば、紹介した神社仏閣や城址を巡礼しては如何でしょうか?自分の都合だけで縁結びを御願いしても、神様や仏様に成られた先人からすれば「何、この自分勝手なお願いしかしない奴?」と成るでしょうから。

【小桜姫以外で三浦半島付近の日本神話に登場する由緒正しい縁結びの神様の聖跡】
小桜姫伝説とは無関係ですが、ちゃんと神奈川県神社庁に認められた延喜式外社の神社で日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)様の夫婦神に関する神社が存在します。当然、縁結びの御利益は最高でしょう。

●走水神社…神奈川県横須賀市走水
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走水は現存する関東の地名で唯一の古事記にも登場する場所。
日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一緒に過ごした御所ヶ崎の近くに建つ縁結び、勝負運、交通安全、漁業に強い御利益が有る神社。
走水神社本殿の地下には日本武尊が奉納した冠を入れた石室が埋蔵されていると伝承したが、近年の本殿改修で実際に石室の蓋が発見された。開封されず社殿再建で石室を埋蔵し、そのまま地下に保管されている。
同神社近くの御所ヶ崎で御二人が過ごされ、かつて弟橘姫を単体で御祭りしていた御所ヶ崎の砂が縁結びの御守りとして無料で配布して頂ける。大伴黒主と伝わる人物が御二人を歓待したと伝わるが、同様の伝承が神奈川区六角橋にも伝わり、六角橋の地名由来は日本武尊が使用した箸が六角形で大切にされた事から六角橋の地名に転化したと伝わる。そして六角橋の久応山宝秀寺が日本武尊を歓待した大伴久応の邸址と伝わる。この六角橋の大伴久応と走水の大伴黒主は恐らく同一人物か一族だろう。
古代の大伴家は古代の天皇=大王の近衛部隊を率いた軍閥であり、一族の佐伯氏ともども水軍を率いた人物なので六角橋~三浦半島にかけて勢力を誇ったのだろう。
走水では大伴黒主は漁師で海鮮料理人でもあると伝わる事から、まず水軍関係者で間違い無いだろう。
走水神社は普段は宮司不在だが、氏子様が交代で在番しており御朱印も頂けます。

●宝秀寺・・・神奈川県横浜市神奈川区六角橋
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太平洋戦争等の戦火や各時代の火災で古い物は存在しないが、門前に神話の時代(弥生時代頃)に日本武尊一行を歓待した大伴久応の土饅頭=陵墓型の供養碑が有る。その大伴久王の邸址と伝承する聖跡に後世に成り寺院が建てられた。
実は背後の丘陵は戦国時代まで神大寺と言う恐らく権現山城(京急神奈川駅近く幸ヶ谷公園~本覚寺一帯に在った城)の戦いだと思われる戦火で焼けた大寺院が存在した。名前の通り神様との関係が推測される事から、神大寺は日本武尊と弟橘姫を祀る寺院化した聖地だったと推測出来る。これ等の推測と宝秀寺の伝承を補強する史実として周辺の三枚橋町辺りに“店屋”の地名が残り亀甲峠と呼ばれた神奈川区浦島~新横浜駅篠原口へ繋がる丘は古代の街道だった。そして店屋の意味は古代大和朝廷の官営の駅伝制つまり伝達手段の馬の交換地点の事で、既に弥生時代後期頃には古墳時代に駅伝制の基地が置かれる前身の集落が形成されていた可能性が高い。
更に、神話では日本武尊に大伴部と吉備家の軍団が与力として与えられている事実が日本書紀に記載されている。この大伴部の部は部落の部で有り、古代の部落と言うのは一族が固まって住む集落の意味であるので港湾を抑えた水軍一族の大伴家が全国から集まり日本武尊を援護した事が推測出来る。
これらの走水の伝承、宝秀寺の伝承、神大寺の存在と寺名、三枚橋町周辺の古代地名の店屋の全てはリンクしており、更に佐伯一族大伴家が水軍豪族だった史実と天皇の近衛武将だった事もリンクしている。
余談だが源氏所縁の鶴岡八幡宮も宮司家は戦国時代まで大伴家だった。

●橘樹(たちばな)神社…神奈川県川崎市高津区
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弟橘姫が、日本武尊の房総半島への渡海の神事で東京湾に入水した後に、遺品の装飾品が流れ着いた場所が現在の橘樹神社の所在地で、神社の社殿の真裏の宅地化されてしまった丘陵は弟橘姫の古墳と古来から伝承している。
時代を経て橘樹神社の境内地は縮小し、宅地化により古墳の大部分は消滅したが古墳の最頭頂部は部分的に現存し、保護されている。
弟橘姫の古墳なので、当然、縁結びの御利益は強い。

以上、❝久良岐のよし❞による小桜姫と三浦家関連の史跡群と史実と伝承の解説でした!

…まだまだ紹介しきれてない❝真のパワースポットを抱える神社仏閣❞が沢山あるので、早く書きたいと思っています。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

※本記事は時間が無くて写真未掲載ですが、順次、実際の場所の写真を差し込んで行きます。

07月10日②の休日雑記の続き。

三連休をとり、三浦半島を旅行した11日最終日、朝は宿泊地の三崎漁港、その三崎に戦国時代に小田原北条氏が三崎衆を編成し戦国後期の三浦水軍拠点として運用した❝三崎城址❞周辺を散策し、鎌倉時代に源頼朝公が❝桜の御所❞と言う別荘を置き同地に戦国時代の初期に三浦義意(よしおき)公が開基した本瑞寺(ほんずいじ)を訪れた事、その本瑞寺と三浦義意公のイメージで創作されたのが小桜姫伝説の基に成った❝桜の御所❞と言う小説だと言う事を前回の休日雑記で紹介した…。

実はこの日、2016年07月11日は道寸公と義意公が、日本史上最長の4年間と言う籠城戦を戦い抜いた新井城(油壷マリンパークの半島が主要城址)の落城から500回忌に当たる。

この三連休、訪問の一番の目的は❝三浦道寸公と三浦義意公の命日❞の御廟所参詣と献花だった。
その為(ため)、車に乗り込み三崎漁港を後にして最終目的地の❝新井城址❞=油壷マリンパークの半島へ向かい、先ず予(あらかじ)め三浦道寸、義意公の御二方の菩提寺である❝海蔵寺❞に御住職を訪問する前に、道寸公の名を冠した❝道寸餅❞と言う銘菓を売る❝なこう❞と言う御当地の和菓子屋を訪れた。
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ここは小生、三浦に良く来るように成り始めた頃、道寸公の名を冠した看板が目に留まり道寸餅を購入して以来の御付き合いに成った。
小生は三浦家と北条家、不運にも主家古河公方家の内紛によって敵対した両家の武将に尊敬する偉人がいる。
特に崇拝しているのは、1人は小田原北条家の名将北条綱成公、もう1人が三浦義意公、両将とも智・仁・勇を兼備した名将だったが義意公は家運に恵まれず、韮山城主で北条家創業者の伊勢盛時公と其(そ)の子の氏綱公によって攻め滅ぼされる事に成った。
両家とも素晴らしい名将を多数輩出している。
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※道寸餅
道寸餅を自宅用と、海蔵寺様への奉納様に2揃(そろ)え用意して貰い、御住職との面会の準備も整い海蔵寺へ移動。
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海蔵寺は小網代の森の西の端、長い階段の上に所在する三浦義意公の御父君の三浦道寸公が開基した御寺だ。
道寸公と義意公の御廟所へ参詣の許可を御住職に頂いていたが、御寺と離れた御廟所を参詣する前に御住職に御挨拶に伺った。道寸餅は、その菓子折り。
御住職は小生と同じで、先人への尊敬や神仏への信仰心を持たない❝俄(にわ)か歴史ファン❞と❝エセ歴史学者❞が大っ嫌いな人物。
御住職がそう成ったのには、いい加減なデマの小桜姫伝説を広めた霊能者気取りの人間と、ソレを商業化しようとした連中に責任がある。
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この明治時代に流行した創作時代劇小説❝桜の御所❞を史実と鵜呑みにした無学な霊能者気取りの人物が書いた史実と全く異なる小桜姫伝説を信じ込んだ連中、つまり騙された人が大挙して押し寄せた事が有った。
先人を冒涜する行為に成る自覚もしない❝御寺マニア❞と❝縁結び巡礼の女性❞が、信仰心も先人への尊敬も無く大挙ズラズラと集団で御寺を訪問し、本堂も拝まずに帰ったり、油壷マリンパーク横の(新井城址)に飛地の海蔵寺寺領にある道寸公と義意公の御廟所に無許可で入る不法侵入が横行してしまったのだ。
御住職は、小桜姫を実在の人物と誤認して心霊スポットとして広めたエセ霊能者詐欺師に怒り、無礼不見識な女性達に嘆(なげ)いておられる。
だから、海蔵寺は一般非公開にせざるを得なく成った。
ちなみに、そのいい加減な小桜姫伝説に踊らされた霊能者気取りの人物はTVにも良く出る江原と言う人物だ。
でも本当に彼に霊感が有るなら、小説と史実の相違も気が付くだろうしウソくらい気が付いただろう。
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御住職様には、小生が平安時代の平良文(たいらのよしふみ)公以来、三浦義継公、三浦義明公等の歴代三浦家の殿様を尊敬し御廟所を参詣している事、道寸公の御実家である扇谷上杉家の所縁の神社仏閣も巡ってきている事は御存知なので❝海蔵寺参詣と御廟所への献花の自由❞を認めて頂いている。
それでも、御廟所を御参りする前には、ちゃんと御住職様には御挨拶に伺い、本堂で御参りしてから油壷の御廟所を訪問する事にしている。
この日も御住職に御会いして、改めて御廟所訪問の御許可を頂いた。
丁度御寺では500回忌もあり、経塚を建設されるそうで御住職様から小生へ最初の33人の納経者に成る様に光栄な役割を依頼されたので写経用の和紙を受け取り、一週間後に納経に来る約束をして海蔵寺を後にした。
新井城址と海蔵寺周辺の位置関係は下の衛星写真の通り近い。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
しかし、周辺は城址と言うだけあり、地形は複雑に谷が入組み直進は出来ず、車では10分程かかる。
海蔵寺の在る小網代湾は新井城址の北側の湾で、水掘り不要の半島城の頑強な守りを担っていた。
つまり海蔵寺~新井城址の遺構残存部は直線距離にして1km程と極近い。
現在、関東大震災による三浦半島の隆起と海岸の埋め立てで、小網代~新井城址まで徒歩で海辺伝いに行く事が出来るが、戦国時代は新井城址の半島の岸壁は海波に洗われていたので鎧武者の行く手を阻む海だった。
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駐車場に車を停めて、おみやげ物屋の御婆さんに久々の挨拶をしてから御廟所へ移動。
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花は近くのコンビニで売っていたので2揃え2組、合計4本の花束を購入した。
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先人への敬意から、御廟所の写真は撮影しない主義なので、御廟所入口に海蔵寺さんが建立した新井城合戦石碑を掲載する。
この奥に三浦義意公の御廟所、一段下がった恐らく戦国時代は物見曲輪か船着場だった場所に道意公の御廟所が在る。
無事、献花を終えてから、油壷の浜に降りて海沿いを散歩しながら地元の人々が弁天洞として崇敬する洞窟に向かった。
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弁天洞へは荒井浜から廻るのだが、この日は道寸公の御廟所の方の浜をユックリ散歩しながら遠回りして相模湾の景色を楽しむ事にした。
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この三浦半島の磯は場所々々で異なった風景を見せてくれて飽きない…
米が栽培できない地質なので、却(かえ)って様々な西欧野菜の栽培が盛んに成った。
東京湾と相模湾と太平洋の三方に面しているので、様々な種類の魚も獲れる。
その上、天気が良いと江ノ島~大山~丹沢~箱根~伊豆~富士山が一望出来る。
だからこそ、逗子・葉山・秋谷・佐島・三崎は明治時代~昭和中期まで別荘地として富裕層が集まった。
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そして、相模湾側は太平洋から直接潮流が流れ込む上に、人の多い湘南地区からも離れているので海水の透明度が高い。
この日は面白い写真が撮れた。
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波が、隆起した縦の地層にぶつかり真上に飛沫(しぶき)を上げる瞬間。
こんな場所をゆっくり散歩していると、岩場は段々険しく成り、そうこうするウチに❝江原が二重に勘違いして小桜姫神社と嘘の紹介をしてしまった弁天洞❞に辿(たど)り着く。
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小生はココ話しは三浦家家臣の御子孫に教えて頂いた。
一般人は探し出せないだろう。
昔からここは弁財天様が祀られる様に成ってから❝弁天洞❞だった。
先に正しい民話を教えて頂いていたので、❝霊能者気取りの人物が誤認して広めた誤った小桜姫伝説を歴史オタクの小生の知識とと三浦同寸研究会の見解で正しておく❞事にしよう。
この油壷の新井城址の弁天洞は小桜姫弁財天と言う名前では無い
ここの弁天様は昔から辨財天とだけ呼ばれていた
※何故辨財天が鎌倉文化圏で洞穴と遊水地に祀(まつ)られるか以前書いた【】の記事の中の【宇賀福神社=銭洗い弁財天】の紹介で触れているので、其れを参考にして貰いたい。
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この油壷、新井城址の弁財天様については、改めて独立記事で詳細に紹介するが、ここは❝漁師が遭難して行方不明に成った際に、折れていた弁天様の首を元通りに繋げて願掛けをしたら、行方不明に成った漁師が藤沢辺りの浜に流れ着き、生きて帰って来る事が出来た御利益の有る弁財天様❞であって、小桜姫伝説とは全く関係ない。
多分、霊能者気取りの人物は何かの明治時代の浅野と言う名のカルト宗教家が同じ様に小説❝桜の御所❞と言う本を読んで事実と誤解して書いた本か何かを更に鵜呑みにした挙句、良く調べもしないで新井城址に在る神社だから小桜姫神社として紹介してしまった訳だ
実は、小桜姫神社は油壷ではなく別にちゃんと諸磯神明社の摂社として存在する。
正確に言うと、そこは小説桜の御所の小桜姫と、地元の新井城址籠城戦の時に三浦義意公の奥方が避難した諸磯で敵勢に捕ってしった秘話が合わさり、小桜姫神社のモデルと成っている。
霊能者気取りの人間の事実誤認は御粗末過ぎて、多くの宮司様や和尚様、郷土資料を司る学芸員サンや司書サン達と交流のある小生からすれば…
「へぇ~霊能者ねぇ~(笑)」
「霊能者なら小説と本当の史実の相違点に気付くだろうに(笑)」
「まして小説の登場人物設定は金沢北条氏、この時代の北条氏は伊勢氏流北条氏で時代に誤差200年を筆者が故意に設定し事実誤認を招かない様にして下さっているのに(笑)」
「義務教育で散々習う❝鎌倉幕府❞と❝下剋上❞で勉強してる筈(はず)なのに無教養って不幸だね(笑)」
…と言った感想しか湧かない(笑)。

ところで、油壷の弁財天様は如何(いか)にも鎌倉文化圏らしい場所に祀られている。

この弁天様が洞窟にいらっしゃり、且(か)つ偶像崇拝の対象に成っているのは、三浦家や三浦半島の人々が鎌倉時代以前からの源氏の御家人であった事から、その文化を受け継いだ名残だろう。
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鎌鎌倉には銭洗い弁天=宇賀福神社と言う場所が在る。
そこを訪問すると文化の変遷に興味が無い人でも鎌倉文化の弁財天信仰には色んな神様が習合されているのが良く解る。
古代日本の豊かさの象徴の神様だったのは❝宇賀神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)❞だ。
宇迦之御魂神は別の漢字で❝=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)❞と書くので、名前からしても縄文後期~弥生時代頃に米穀類の水耕栽培が始まって穀物を保存できる様に成った頃に誕生された神様だろう。
日本の神の系譜で倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、須佐之男命=素戔嗚尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた神様だ。
南関東の❝延喜式内社❞の古社全てが素戔嗚尊や其(そ)の御神孫の出雲系の神、又は日本武尊(やまとたけるのみこと)か伊勢系と異なる土地神様が主祭神だ。
この事実と考古学と神話の整合性から、素戔嗚尊が縄文時代から弥生時代に変革させた、つまり稲作を関東地方に導入せしめた人物が神格化さた神号(しんごう=偉大な人物に死後送られる神としての名)だろうと思っている。
素戔嗚尊が稲作を普及させた王だからこそ、その妻が奇稲田媛(くしなだひめ)と名に稲田の字が入り、子が倉稲魂命の漢字を当てられる神に成ったのだろう。
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その後、日本武尊は青銅器導入を南関東一帯に普及させて弥生時代を終わらせた人物だろう。走水神社の西暦100年代の伝承とも整合性が有る。この時代には既に先進地域だった北九州の王族達は中国と交易によって青銅器を導入していたから恐らく間違いない。古代の大将軍や関東知事として九州の叛乱を鎮定し東日本に青銅器を導入し軍事編成を整えた偉大な王子に当てられた神号が日本武尊だったのだろう。
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平安時代末期~鎌倉時代初期に成ると経済活動が米穀や海産物等の直接の備蓄出来る食物の物々交換から、❝貨幣経済❞に変わった事で豊かさの象徴が❝米穀❞から❝銭=金❞に変わった。だから源頼朝公によって財神として日本で信仰されていた宇迦之御魂神=宇賀神=倉稲魂命に、古代インドの財神である❝サラスバディー❞を漢字訳した弁財天が習合された。
だから、鎌倉文化圏や三浦半島では弁天様や宇賀神を湧水地や洞穴に祀る習慣が今も残る。

鎌倉時代~室町時代に成ると、武士達に弁財天は水神であり軍神でもある事から泉や海の航行の神様としても信仰される様に成った。
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その最も有名な場所が欽明天皇が勅願所と定めた霊場の洞穴に、源頼朝公が八臂弁財天(はっぴべんざいてん)を奉納し祀(まつ)った写真の江ノ島辨財天だろう。
関東の鎌倉御家人の関係した土地の弁天社は、この江ノ島弁財天の御分霊が多いはずだ。実際、関東の弁天社の大半は鎌倉武士団の居館跡や城址、又は武士が鶴岡八幡宮から勧進した八幡社に近在する。

幕末に成り武士の時代を変革しようとし始める維新志士たちの勢力が胎動しだす頃、伊勢神道による思想統制をされ、明治時代に成ると❝国家神道❞が正しいとされた事で水神様として弁財天と似た御神威を持つ❝一杵島姫(いちきしまひめ)❞が習合された。

明治時代に成り近代化が進むにつれて、時代遅れの印度由来~中国経由の仏教文化を否定する風潮が強く成り、更に明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動で仏教経由の古代インドの神である弁財天が否定され、現存する昔は❝倉稲魂命信仰❞から始まった全国の❝弁財天❞信仰の御社(おやしろ)は❝一杵島姫❞に名を変える事に成った…

新井城址の洞穴の弁天様は遭難した漁師を生還せしめた強い霊験有る弁天様だ。
弁財天様=サラスバティー神は美の女神でもあり、2柱の男神と結婚した神話も有るので縁結びの神様としての御利益も有る
だろう。
ただし!ちゃんと小桜姫では無くて、弁財天様として崇敬すればだろう。
…それも一方的に「男と結婚させてくれ~良い彼氏と付き合わせてくれ~」と信仰心や、神社仏閣に関わった歴史偉人へのリスペクトも無くただ御願いする人は、神様にも仏様にも怒られるだろう。
小桜姫は小説の架空の人物だが、名前が小桜だったかも知れない、実在した三浦義意(よしおき)公の奥方と側室は別にいる。房総半島の小大名、真里谷武田氏の二人の姫君だ。
だから、小桜姫と呼ばれたかも知れない真里谷家の姫に縁結びを御願いする成らば、「真里谷の小桜姫様」と名を正しく呼んで、小説の架空の人物の金沢北条家の小桜姫と分けるべきだ。
もっとも、当時の女性が歴史書に名を残す事はほとんど無く、小桜姫の名が登場するのは明治時代の歴史ファンタジー小説❝桜の御所❞が最初なので、縁結びを姫君に御願いするなら「真里谷の姫様」に御願いするべきだろう。
ではどこに行けば❝三浦家の奥方様が逃げて来て敵に捕まった伝承の有る小桜姫神社のモデルに成った御社の所在地❞に行けるのか…
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明治時代に小桜姫神社のモデルに成った伝承の有る場所には、弁天洞を後にして、駐車場を戻る道すがら荒井浜の御洒落(おしゃれ)な海の家の前を通り、この新井城址を離れる必要が有る。

せっかく、小桜姫伝説(江原の嘘を含む)の場所に2箇所も関わったので、明治時代の小説❝桜の御所❞の流行で正しい小桜姫神社の❝小説のモデルに成った舞台❞として明治時代以来、地元の人々に認知されている正しい小桜姫神社にも入ってから横浜に帰る事にした。
正しい小桜姫神社の神社の位置新井城址周辺の位置関係 久良岐のよし
正しい小桜姫神社の場所は、三浦義意公の奥方が逃げて来た伝説の有る油壷湾と反対側の❝諸磯湾❞側の❝諸磯神明社❞だ。
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こちら側から湾を挟んで新井城址が見える。
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又、詳しく小桜姫伝説と小桜姫神社の真相の解説は独立記事にするが、今回は重要な事だけ書いて置こう。
江原は恐らく小桜姫神社を探そうとしたが、新井城址に神社らしいものが無いから弁天洞を小桜姫ゆかりの場所と紹介してしまったはず。
そりゃそうだ、小桜姫神社なんか昔から存在しないが、モデルに成った神社なら存在する。
だから小桜姫神社の名前を探しても見つからなかった筈だ。
しかも、明治時代の❝小説桜の御所❞の流行による観光客の増加で観光客に対応する為に小桜姫神社とされている場所も、この諸磯神明社の摂社の❝若宮社❞だから名前も根本的に違う。
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※写真は鶴岡八幡宮、神仏習合の名残で仁王像=金剛力士像が安置されたいたであろうスペースは廃仏棄釈により随神門と成っている。
※鶴岡八幡宮の東側、鎌倉国宝館や横浜国大付属小の場所は鶴岡八幡神宮寺の寺院部分だった。
※八幡宮の総本社、石清水八幡宮の本殿横には今も仏像を祀る部屋が現存し保存されている。
若宮社と言うのは、源頼朝公の時代の「鶴岡八幡宮」の事だ。鶴岡八幡宮は元々は❝元鶴岡八幡宮❞=❝由比若宮❞に在った。それを頼朝公が現在の鶴岡に社殿を造営し御遷座され奉ったので、当時の人から見て新しい鶴岡八幡宮は❝若い鶴岡八幡宮❞=❝若宮❞と呼ばれた。だから、この時代に関東で鶴岡八幡宮の御分霊を頂いて造営された八幡社は現在も名前を❝若宮八幡宮❞とか❝若宮神社❞と呼ぶ場所が多い。
しかし、八幡宮の御祭神は明治時代に成るまで❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の神宮寺だったので、歴代天皇家の価値観を否定する明治時代の国家神道による神仏分離令や廃仏毀釈と言う愚かな政策で、其の多くが破壊された歴史が有る。
だから、今残ってる八幡社の多くは御祭神の名前を❝八幡大菩薩❞から→❝八幡大神❞に変更して純粋神道の神様としたり、八幡大菩薩が習合された❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇❞の名を改めて主祭神とする事で存続させる努力をした歴史が有る。
だから、諸磯神明社の若宮社は❝小桜姫の神社❞とする事で存続を計ったのだろう…
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なので、世間で小桜姫神社と呼ばれるこの御社は❝小桜姫若宮社❞と呼ぶのが正しいと思う。
その御社は、諸磯神明社の本殿後方に並ぶ摂社の左側から二つ目の上の写真の御社だ。
これは、郷土史も読まないで適当な事を言う❝エセ霊能者❞には解らないし探し出せない場所だろう(笑)。
或いは本当に偽霊能者達に霊能力が有れば、ここを探し出せたろうに(笑)。

根本的な話しを強調し繰り返すが…
❝小桜姫❞と言う人物は歴史文献に一切出て来ないし、明治時代に成って初めて登場する名前だ。
史実では三浦義意公は、真里谷(まりやつ)武田家=房総半島の武田家の姫君が正室と側室として婚姻関係にあった。
この姫と、三浦家を攻めた北条家の立場を入れ替えて三浦家滅亡後に三浦半島~鎌倉を支配した北条家に逆襲し房総から攻め込んだのが正木家(三浦家分家)で、その合戦は❝鶴岡八幡宮合戦❞と呼ばれている。
この合戦や北条家と三浦家の立場を入れ替えて、かつ源頼朝公の桜の御所跡地に建つ本瑞寺のイメージと三浦義意公の新井城落城等を素材にして書かれたのが明治時代の小説❝桜の御所❞で、そこに登場するのが真里谷家の姫君と桜の御所のイメージをモデルにしたと思われる❝小桜姫❞と言う架空の人物な訳だ。
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※写真は城ヶ島の小桜観音。

だから、結婚したくて縁結びの小桜姫詣でをする女性陣には、いくつか諫言(かんげん)をしておこう
小桜姫の実家設定の金沢北条家は三浦義意公の生誕の約200年前に滅亡している、だから小説家も小桜姫を架空の人物でフィクションとして、色んな史実を混ぜて創作している事を念頭に置きなさい。

歴史家でも無いイカガワシイ人間が適当に書いた本を鵜呑みにしないで、自分で歴史書を読み込んで調べなさい。そんな姿勢じゃ❝ロクでも無い男に捕まる❞か❝結婚詐欺に遭う❞だろう。」

「確かに、弁天様や若宮社には御利益が有る、小説のヒロインの小桜姫の聖地(小説舞台)巡礼が流行したのが原因で、後に小説の存在と歴史を知らない後世の人によって、いつの間にか小桜姫が実在したと誤認される様に成ったが、実際には三浦義意公の奥方と側室の真里谷の姫がいたので、拝む事で真里谷の姫の御利益も得られるだろう。だから小桜姫の御名の下に縁結び祈願するなら小桜姫神社(神明社摂社社若宮社)で❝真里谷の小桜姫❞として拝みなさい。小桜姫と言う名が架空の名でも、正しい姓に美しい渾名(あだな)を加えるならモデルに成った真里谷武田家の姫様も喜んで願いを叶えてくれるだろう。」

油壷の弁天様は小桜弁天では無く弁財天なので❝弁財天❞として拝みなさい。

「普段から歴史や神様や先人に対して無関心な癖に願い事だけしている、その利己的な姿勢が出会いを遅らせるのでは?態度を改め、普段からの歴史と伝統を大切にして神社仏閣を御参りしなさい。」

「エセ霊能者に一々影響されず、利己的に縁結び巡礼するだけでなく、普段から自分の祖先神の氏神様と守護仏、或(ある)いは自分の崇拝する教会やモスクの神様を大切にして普段から信仰と文化と歴史を大切にしなさい。

まぁ、それだけ熱心に願掛けする情熱が有るなら、普通に普段から文化と伝統を大切にして、通りがかる神社仏閣を御参りしながら利己的な願掛けじゃなくて日常的に神様と仏様と御先祖様を大切にしてれば、歴史好きな男性や神職や跡取り和尚様等と知り合い、そこが男性との出会いの場に成るかもよ?

…そんな説教をしたく成る女性の何十人もの集団を見かけた三浦旅行最終日だったが、色んな神社の宮司様や御寺の和尚様と交流の有る歴史オタクの❝説教❞としてはそんな所かね。

帰りは横須賀PAで好物の日本蕎麦を食べて帰った。DSC_3598
信仰の在り方や、神社仏閣や先人に対する姿勢を考えさせられる最終日だったが、実際に廻った場所全て素晴らしく、行く先々で関わった人々も優しく親切で沢山色んな話を出来て良い三連休を過ごせた。

07月10日①の休日雑記の続き。

2016年07月10、早朝の城ヶ島散歩を終え、ホテルに帰り用意されていた朝食を美味しく頂いた後、朝風呂に入り、その後の予定を確認してからチェックアウトの時間までユックリ二度寝させて頂いた。
この日の昼前の散策予定は三崎城址と、当時から存在する周辺の史跡。そして三崎町の観光漁港うらりでの昼食がわりの買食いだった。

ホテルを出て、三崎漁港の駐車場に車を移動し、最初に訪れたのが商店街を抜けた先に在る北条湾…
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ここは現在、漁船の係留される場所に成っているが、戦国時代末期には三崎城の城将、北条氏規(うじのり)公が三崎城主として管理する三浦半島水軍の根拠地として漁船の他に軍船も係留されていた軍港だった。
北条家の水軍基地だったから❝北条湾❞と現在呼ばれる訳だ。
不運な運命で、主家古河公方家の外交政策によって、それまで同輩(ともがら)だった小田原北条家と佐原三浦家は敵対せねばならぬ間柄に成ってしまう。
これが、前回の休日雑記で紹介した❝小桜姫と言う架空の人物❞が明治時代に作り出された物語の基に成った史実だ。しかし小桜姫の基に成った奥方はいた訳で…DSC_3482
まぁ、その話は又、改めて解説するとして、釣鐘状の形をした北条湾の付け根に行くと橋が架かっていて、その名も❝北条橋❞と言う。そして写真右手に見える丘一帯が三崎城址だ。
成る程、海は穏やかで城址は江戸時代の石垣城では作り出せない扇谷上杉流と北条流の築城術のコラボ城址らしく、堅固さの基に成った自然の断崖が城郭外側に構えている。
北条湾の直ぐ横には❝諏訪神社❞が在る…
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城しか調べない学者、戦史しか調べない学者、宗教哲学しか調べない神職僧侶がいるが歴史と言うのは自称❝歴史オタク❞の小生に言わせれば、宗教施設の伝承や記録、城址周辺の地形、城主の崇拝した神様の種類と仏教の宗旨を把握していないと色んな事を見落としてしまう。
例えば戦国時代の北条家は軍神として、この❝諏訪神❞か❝八幡大菩薩❞を城の守護神として城址近くに祀る傾向が有る。
南関東の山城として良く雑誌でも紹介される津久井城・伊豆箱根山中城等は、正にその典型だ。
ここ三崎町の諏訪神社はきっと多くの水軍武将達の崇敬を集めた事だろう。
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ところで、戦国時代も後半に成ると、北条家は初期に編成していた❝五色備え❞と言う方面軍制度を解体し、軍隊編成を地方別所属制に切り替える。
この三崎城は❝三崎衆❞の拠点と成り、鎌倉郡の一部と三浦半島の武将達で構成される編成と成った。
そこに小生の町、横浜市の❝宅間上杉家❞の殿様も三崎城主:北条氏規公の与力として編成された。名を宅間上杉規富(のりとみ)公とおっしゃった。
氏規公から一字拝領した様で、名には❝規❞の字が入っている。宅間上杉家の通し名は❝憲(のり)❞後に❝乗(のり)❞の字に成っていた。宅間上杉規富公も恐らく最初は❝上杉乗富❞と名乗っていただろう。
さて、この諏訪神社は改めて、いつか解説記事を書くとして…
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ここから三崎城址の遠景を見て、改めて三崎城址の丘の東端の一帯は雑木林もあり土塁等の遺構が有りそうだと推測、地形的にも武士達の住む根古屋(ねこや=城将達の集落)とする谷戸(やと=谷の入口に関所を設けた住宅地)に打ってつけの地形だったので、登城口として怪しそうだと推測した…
三崎城推定範囲 久良岐のよし
諏訪神社を降りて、付近の住人の方に質問をした所やはり上に登れる歩道が有るとの事で、そちらから散策する事にした。
三崎城も、いずれ詳細に解説を書くので今回は端折(はしょ)って散歩した時の写真を載せると…
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もう、如何にも北条家の山城でございと言った定番の細さと屈曲した道。
多くの現地を自分の足で廻って自分の目で確認しないバカ学者と雑誌記者と自称歴史家は「三崎城址は跡形も無い云々」書くが、小生が地元の人に現地でリサーチして実際に登って見ると土塁も一部現存し、更に大堀切なんかがちゃんと生活道路としても残っていた。
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その場所は戦没者慰霊堂、ここが三崎城址東端で諏訪神社から見えた雑木林だ。
あの細い道を登ってくると、腰曲輪と思しき崖の上の削平地が有り、そこから台地上に繋がる場所には大人数の通行を制限し行く手を阻む構造の土塁状の盛土と、土塁を切った入口状の道が現存していた。
これ、御城ファンなら小生ならずとも見た瞬間に…
「あ、これ多分搦め手の虎口だな」
…と、解るだろう。
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この削平地を囲むように土塁状の盛土が残っている。もう間違いなく当時の土塁遺構だろう。
土塁はここしか確認出来なかったが三崎城址は、ここを通り過ぎて更に旧三崎中学校を過ぎると、閉鎖された福祉施設辺りの地形は出丸の様な掘り切られた場所に橋を架けて有ったり、土塁は現存しないモノのそこかしこに縄張りを予測可能な地形が残っている。
旧三崎中学校の前には城址案内看板が有った…
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が!
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…しかし看板の白化が激しくて見えない(笑)。
丁度、先程の土塁や堀切と推測した場所の成否も確認したかったので、市役所に移動。
市役所の方を通じて、三崎町の教育委員会で三崎城址に御詳しい方にアポを取って頂いて、詳細を御教授頂く機会を得る事が出来た。幸運だ。
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なんと、三浦市役所の来朝者対応部門以外の各施設は旧三崎中学校の校舎に移転しており、なんだか不思議な感じだった。
もう丸っきり中学校の校舎。日本の中学校に入ったのはもう云十年ぶりだ。
昼の中学校にオタクが忍び込んで変な事をしている様な危ない感じ(笑)?
ここでは、城址が破壊される前にちゃんと編纂した資料が有り、赤星直忠氏著作の「三浦半島城郭史」と言う本を御紹介頂き縄張り図もコピーを下さった。
そして、小生の質問に一々丁寧に御回答下さり、この縄張り図を渡される前に話した小生の推測が完全に調査内容と一致する事から御関心頂けたのは、歴史オタク冥利に尽きる今回の旅で一、二、の光栄な出来事だった。
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因みに入手した縄張り図はこれ。
小生が予想出来無かった事もいくつか有って…
・旧三崎中学校を取り巻く車道が、実は埋め立てられた空堀の跡だった事
・北東の谷は自然地形では無く、人工的に掘り切られた大空堀の跡だった事
・現在の旧中学校と市役所付近の失われた土塁の構造
・旧中学校校庭に大手口からの最期の関門の❝馬出し状の枡形❞が存在した事
…これらは三崎町教育委員会の方に詳細に御教授頂けなければ解らない失われた遺構だったので、本当に三崎市役所と三崎町教育委員会の皆さんには感謝しないといけない。
いずれ、宅間上杉家の殿様達の顕彰文を書く際に、この感謝の便も盛り込みたい。

さて、三崎城址は改めて事細かに書くとして、城址の一角に在る本瑞寺に久々に御参りに行って来た。
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ここも改めて解説記事を書くが、鎌倉時代には源頼朝公の別邸で❝桜の御所❞と呼ばれた。最初本瑞寺は現在の三崎銀座商店街の在る入舩(いりふね)地区に室町時代、三浦義意公が御寺を開基された。しかし三崎町が大火に度々遭い類焼したので、現在の旧頼朝邸桜の御所の旧跡地に江戸時代末期に移転して来た。
そして、先程話した古河公方の外交政策が元で勃発した北条家と三浦家の抗争と、この桜の御所のイメージを合わせて明治時代に村井弦斎によって執筆された❝創作小説「桜の御所」❞の架空の登場人物が前回の休日雑記で書いた小桜姫なのだ。
…つまり、これが小桜姫の由来、実在しなかった歴史事実と矛盾して、現在小桜姫信仰が熟女や独身女性に人気に成った正体だ。
この❝小説:桜の御所❞は都新聞(現:東京新聞)に掲載された連続時代小説で、現在の人気ドラマの様に凄まじい反響があり、そのロケ地とも言うべき三浦半島のモデルに成った場所に、いまで言う❝聖地巡礼❞の様に全国から旅行に行く人々が増え、そのモデルと成った神社仏閣や城址に参拝客が増えた。
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これが時代が下って、訳の分からないエセ霊能者❝浅野馮虚(ひょうきょ)❞と言う歴史を知らない人物が❝実話❞と勘違いして❝霊的(笑)❞に研究して本を執筆したので世間の混乱に拍車をかけてしまった(笑)。
実際には三浦義意公の本妻も側室も二人とも房総半島の真里谷(まりやつ)武田氏の姫君で、小説内に登場する小桜姫は金沢北条氏と設定されている(笑)。
三浦義意公は室町時代1500年代初頭の人物。架空の人物である小桜姫の家、金沢北条氏はそれよりも200年近く前の鎌倉幕府滅亡時に滅亡した家で、戦国時代の北条家とは全く関係が無い(笑)。これは原作者の村井弦斎が、読者を勘違いさせない為に架空の話とわざわざ解る様にした設定だった筈なのだが…
大体の女性は学生時代に真面目に歴史なんか勉強しないし、根本的に歴史に興味何か無いから、エセ霊能者の勘違いを鵜呑みにして騙される。
もっとも、浅野馮虚(ひょうきょ)の名を、日本語で訓読みに翻訳すると…
浅野馮虚(ひょうきょ)→馮虚(ひょうきょ)→馮(つく)虚(うそ)→うそつき
…と成る(笑)。だから、浅野馮虚自体も恐らく詐欺の自覚が有ったか、ギャグや三文霊能雑誌程度のつもりで執筆活動をしたのに人気が有る案件だったので妄信する輩が増えてしまったのだろ。
では、小桜姫関連の信仰が御利益が無いかと言えば…そんな事は無い。御利益は有る。何故なら小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の御正妻と側室の真里谷家の姫君は存在したから。
これについては、改めて次回の休日雑記で小生が古文書漁った知識と、三浦道寸研究会の副会長様の御見解と合わせて詳細に話そうと思う。
…エセ霊能者、本職の神職・僧侶・歴史家をナメるなよ!
三浦義意公の開基したこの本瑞寺の檀家サンが歴史を編集した小説を頂いたり、詳しく説明をして頂けたり大変、良くして頂けた。感謝。

ついでに言っておくと…
縁結びの御利益が欲しい女性は、「クレクレ言うだけじゃなくて、ちゃんと先人を敬い歴史を勉強し、御墓参りをして、三浦道寸公や三浦義意公が開いた神社仏閣や城址を廻り、小桜姫と言う架空の名前だけでは無くて❝真里谷の姫❞と実際の実家の名前で尊敬の念を表しなさい」って事だ。
…歴史を知らない偽霊能者のデマに踊らされた挙句、先人に「クレクレ」言うだけの乞食みたいな願掛けして感謝も表せないと天罰が下るぞ!
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さて、散歩に戻る。
本瑞寺の山門を下ると、実は三崎の鮪料理店として有名な❝黒羽亭❞と、寿司屋❝紀の代❞の前に出る。
以前、紹介記事を書いているので興味有る方は参考にしてもらいたい。
※【カテゴリー:旅行(風景/お祭り/食事/買物)】の中の【和食全般/居酒屋/懐石料理/旅館】の分類で書いて有るので、その中に解説記事が有る。
この三崎の商店街は昭和の風情と幕末~大正期の蔵屋敷の名残がある町で、遠洋漁業が海外拠点主流に成り寂れたが古い街並みは、ユネスコ世界無形文化遺産の❝チャッキラコ❞と言う祭りや、夏の海南神社の例大祭には活気が戻り漁師町の様相を復す。
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チャッキラコについては以前記事に書いて有るので【カテゴリー:お祭り】から探して貰えば詳しく書いて有る。
平日で人気の少ない商店街を抜けて、三崎の観光漁港❝うらり❞へ買い食いに向かった。
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ここには小生オススメのB旧グルメが有る。
三崎町観光協会は何故か三崎鮪ラーメンやトロ饅なんてゲテモノをプッシュするのだが、もっとシンプルで凄く美味しい物がここには有る。
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この店で売ってる❝鮪の串カツ❞と❝鮪コロッケ❞だ。
小生は10年ほど前に三崎漁港に良く遊びに来る切っ掛けが出来て、それ以来、三崎に来ると絶対にここの鮪串カツを食べる。
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値段も安いし、本当に美味しいから是非、皆にも食べて欲しい。
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小生は新商品の鮪軟骨入りのメンチ串揚げと、コロッケと串カツの三個をこの日の昼食にした。
ふむ、美味だ!本来B級グルメってこういうシンプルな物の筈だし、これは本当に美味しいし、どの店でも作れるのだから三崎町はこれを特産品にするべきだと思う。
これなら御土産にもなるんじゃないかな?
❝うらり❞は観光漁港なので他にも鮪の珍しい部位の肉が売っていたり…
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豊富な海産品、三浦の農産品もそろっている。
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城ヶ島に磯遊びに来たり、三崎に鮪を食べに来たら、是非、この❝うらり❞にも顔を出すと、良い御土産が揃う。
あと、今回写真は無いが黒羽亭の❝トロカルビ串❞と言うスパイス効いたタレで付け込んだ鮪の干物も御進めの逸品だ。黒羽亭は❝うらり❞に出店していないので、店で購入するしかない。

さて…
三崎漁港と三崎町の散策を満喫し、三浦市役所と三崎町の教育委員会の方、本瑞寺サンに大変親切にして頂いた事を感謝しつつ、今回の3連休とってまで三浦に来た目的の本命、❝三浦道寸公と三浦義意公の500回忌の献花❞をする為、車に乗り込み油壷に移動した…

→③へ続く。

前回07月10日の休日雑記の続き。

07月11日の朝は、宿泊先の三崎漁港のホテルで迎えた。
ビジネスホテルでは無くPCを置くスペースが無く、酒や菓子を広げる程度のテーブルしか無かったので、夜は良く眠れた。
朝、5時頃目が覚めただろうか?
この日の朝はホテルの朝食時間の7時過ぎまで、ドライブ&対岸の城ヶ島散歩を楽しむ事にした。
出発時、当初は大好きな城ヶ島公園の方を散策するつもりだった、そちらからは富士山も見える。
しかし、城ヶ島へ渡る連絡橋を走っていて…
「いつもと反対側、そう言えば行った事無いなぁ~?」
…と気に成ったので、公園駐車場との分岐点でハンドルを切らず、正反対の島の西側に行って見る事にした。
城ヶ島周辺
「どうせ開拓するなら思いっきり反対側が良い!」と思い、本当に真西に向かって車を走らせると暫くして東側とは違う何やら昼間なら賑やかそうな商店街が見えて来た。
その商店街の辺りの駐車スペースに車を停めて散策する事にした。
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最初に来たのが❝楫(かじ)の鼻❞と言う岩礁辺り。
この地形を見ると三浦半島は南西から地盤が押し上げられ隆起し、北東は東京湾に向かって沈下しているのが
一目瞭然だ。地層が斜めに立ち上がっている。
この楫の鼻の地名の由来に成った場所が有る。
この岩礁の手前がその場所。
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楫の三郎山。
三崎町の鎮守、海南神社の御祭神でもある藤原資盈(すけみつ)公が関東に亡命して来る際に、船の楫(かじ)を操船していた三郎と言う家臣が、資盈公の安住を祈願した伝承に由来する場所。
大正時代位まで大蛇が住んでいるから登ってはいけないと言って人々は崇拝対象としてだけ拝んでいた場所らしい。
頂上には楫三郎の神社が在った。
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なんか、名の有る武将の御廟所の様な造りで普通の神社とは又違う。
思うに、ここ実は菅原資盈公か楫三郎の御廟所なんじゃなかろうか?
ならば大蛇伝説が有った事が理解できる。
さて、三浦半島の崖地には、そこかしこに黄色い綺麗な花が咲いている。
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供えられていた。
余り花に関する知識が無いので解らないが、多分、ユリ科の植物。昔から気に成っていたが、三浦半島では良く見かける花だ。
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少し歩けば直ぐに見つける事が出来る。
楫の三郎山を離れ、細い商店街の路地を抜け、港屋や城ヶ島京急ホテルと言う風景の綺麗さで有名な宿泊施設の有る方に歩いて行くと、城ヶ島西側の灯台がある。
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灯台のの前は西洋式の庭園に成っているのだが、多分、カップルの観光客を呼びこむ為に作られたであろう西洋式の庭園だった。
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早朝で観光客はいないが、灯台が開いてる時間にくれば人が多いのだろうか?
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池には綺麗な蓮の花が咲いていて、何とも西洋と東洋の混じった不思議な空間だが、赤い花弁が白い庭園にマッチしていて雰囲気が良かった。
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綺麗だな…。
ここ城ヶ島灯台は明治時代に建設された場所で、云わば建築遺産でもある。
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漁船や太平洋を往来する船達の安全の為に建てられた場所で有るから、当然古い習慣の安全祈願も残っていて、庭園内には恐らく灯台より先に、この丘の住人だったと思われる御地蔵様もいらっしゃった。
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末永く旅人と地元民を御守護下さる様に御参りして、散歩を続ける事にした。
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城ヶ島灯台の遊歩道を西側に抜けると素晴らしい眺望に行き当たる。
その周辺に城ヶ島京急ホテルや、港屋が在る。
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途中、真っ赤な素敵な大人びた雰囲気の花も咲いていた。南方の植物だろうか?
今回、こちら側に来たのは偶然だったが、とても景色が良く東側城ヶ島公園も素晴らしいが甲乙つけがたいと言うのが正直な感想だろうか?又、こちら側には宿泊に来たいと思う。
小桜姫観音周辺 久良岐のよし
位置関係は衛星写真の通りで、一目瞭然、どの旅館も眼前に磯と海が広がり素晴らしい景色を部屋から楽しめそうだ。
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小生は城ヶ島京急ホテルの前の遊歩道を歩く事にした…
遊歩道に縁結びの聖地❝小桜観音❞と書いて有ったので気に成ったのも有るが、楫の三郎山から此方(こちら)側を見た時に素敵な遊歩道が設置されており、そこに沢山のユリ?が咲いていたので歩きたいと思ったのだ。
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ふむ。やはり雰囲気の良い遊歩道だ。
❝観光橋❞と、言う名らしい。
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橋の傍の崖には沢山の鼻が咲いている。
小生、元来、梅の花が一番好きなのだが…
どうやら蝋梅(ろうばい)、山吹、そしてこの三浦半島の海岸に群生するユリの様な黄色い花の写真も沢山撮っているので黄色い花々も好みらしい。
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実に明るい、なんだか南洋の島の女性の様な雰囲気の、笑顔を振りまいている様な花だ。
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この橋の上からユリ?の花の崖伝いに奥の方へ眼をやると、何だか御社らしき物が目に留まった。
どうやらアレが小桜観音のようだ。
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橋の上から澄んだ海を見ながら、御社を目指した。
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近くに行くと何やらホタテ貝に恋人同士で祈願を書いた絵馬?代わりの願掛けがされていた。
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どうやら洞穴に作られた御社の様だが、名前も観音様であり周辺に石塔が有るので、神社としての機能は極最近に設けられたのだろう。本来は小桜観音と言う名の通り仏教的な聖地霊場だったのだろうか?
後で調べたのだが、ここは小桜姫伝説の舞台らしい。小桜姫と言うのが小生はパッとしないのだが、戦国時代の三浦家所縁の御姫様らしいと言う事は解った。
ただ、平安時代~戦国時代の三浦家滅亡までの主だった御寺の住職様や神社の宮司様と直接面識の有る小生の知識をフル稼働しても、その様な人物は三浦家には実在していなかった。
どうやら小生の尊敬する三浦荒次郎義意(よしおき)公の奥方とか側室とか伝承が有るようだが、歴史上、小桜姫と言う名の奥方様の記録は無い。
三浦義意公の奥方は本妻も側室も房総半島の小大名、真里谷(まりやつ)武田家の姫君だけだ。
民間信仰として小桜姫と名が伝わっているこの伝承の理由、この後に書くが三浦同寸研究会副会長と面会した際に、副会長の御教授と小生の知識で詳しく解る事に成った。
姫様の名前の由来は置いておいても、三浦義意公には確かに真里谷家の奥方様がいたので、その方がモデルで有るかも知れないし、仮に小桜姫として拝んでも真里谷の姫を拝んでいるのと同じ事…
きっと縁結びの御利益は有るに違いない。

散歩を進めよう。
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車に戻る途中で、商店街の港屋の支店売店の前に大量に海藻が干してあった。
天草(てんぐさ)だな。
これを煮詰めて干して寒天の原材料にする訳だ。
寒天は現在ではカロリー0のデザートとしても重宝されている。小生も御世話に成っている。
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看板を見て気に成ったのだが港屋サンではどうやら、ヤドカリをアマ蟹と言う名で料理して提供しているらしい。
気に成るので次回食べに来ようと決めた。
早朝の5時過ぎ~7時半位の約2時間の散歩だったが、綺麗な花と海を見て、思いがけず三崎町の歴史に深い関わりの有る神社と観音様を御参りする事も出来て気分良く一日の始まりを迎える事が出来た。

宿に帰ると既に朝食の準備をして下さっていた。
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小生は働く時間が不規則なので、宿に外泊する時の和食の朝食がとてもありがたく美味しく感じる。
特に三崎はマグロと干物が名物なので、このエボダイも大変美味しく頂きました。
「美味しいよ」と宿の朝食調理担当の叔母ちゃんに御礼を言うと、そこから打ち解ける事が出来て談笑しながら三浦の事を色々話しをした。
すると来週(07月16日土曜日)は三崎町の鎮守、海南神社の例大祭でとても賑やかだから是非にも見たら良いと勧められたので、翌週も来る事に決めた…
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部屋に戻り、壁の絵画を見ながらチェックアウトの準備をして、散歩でかいた汗を流す為に大浴場で贅沢な朝風呂を浴びてから、少し仮眠してチェックアウトの時間を待つ事にした…

②へ続く。









2016年06月15日水曜日休日…
この日は、歴史に興味無い観光客は知らないいくつか名寺院と史跡を訪れる事に成った。

いつもの休日通り、時間が寝る時間勿体なくて徹夜のままお出掛け。
小町通りに買い物と、鶴岡八幡宮の某所に用事が有り鎌倉訪問。
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曹洞宗の道元禅師の顕彰碑が有る辺り、鶴岡八幡宮の駐車場からスタート。
鶴岡八幡宮の蔵書管理部門に鶴岡八幡宮の研究職の方の研究報告のコピーを依頼に行って来た。
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世間は平日のはずなのに、すげ~観光客。
それもそのはず、長谷寺と明月院の紫陽花が見頃だからね。長谷寺なんか整理券貰って1時間くらい待つし。
昼チョット前に到着、小腹空いていたので小町通に買い食いの為に移動。
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行きつけの❝シラスたこ焼き❞の店でブランチ。
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これ、シラスは入っててもアンマリ感じない(笑)けれど、関西に御縁の有る小生からしても❝たこ焼きその物❞として結構美味しい。
目標はミカドコーヒーの有る路地。その隣がタコ焼き屋。
食べ終わり、依頼した資料のコピーに時間がかかるとの事で普段は余り行かない扇ヵ谷(おおぎがやつ)地区を散歩に行った。
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小町通りの北側から脇道に入り東海道線の踏切を超えると、そこが扇谷地区。
そこは源頼朝公の祖先の代からの屋敷が存在した地区。
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実は鎌倉は、この扇ヵ谷地区、それと反対側の材木座地区の両端からスタートした町だ。
そしてメインストリートから外れている為(ため)に、この地区と浄明寺地区と言う辺りには鎌倉市の原風景が良く残っている。
小生が毎日心の中で御参りをする神社の一つが、ここに在る。
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八坂神社。
坂東でも名門の武家、相馬氏の居館に勧進された牛頭天王素戔嗚尊を奉る神社。
相馬家の居館の役割を終えて、神社として造営さた。
相馬氏は平将門(まさかど)公の子孫。更にそこに平良文(よしふみ)公の子孫が養子に入り家を継いだ坂東平氏きっての名門。何故名門かと言うと桓武天皇の直系子孫に当たるからだ。
桓武天皇統治の世は牛頭信仰が盛んだったので桓武天皇の建設した長岡京からは民間の牛頭信仰の遺物が発掘されてもいる。
DSC_2429桓武帝御子孫の坂東平氏の武将達も当然その牛頭天王=素盞嗚命と桓武天皇の御霊を崇拝した。
その典型的な場所が、この相馬氏邸宅跡の八坂神社だ。
この八坂神社の隣が報国寺で、そこが河内源氏の棟梁の屋敷地古址。
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明治政府成立以後、多くの神社仏閣の組織が解体されて個人の所有物として独立したり、組織的には国家体系に組み込まれ民間信仰が破壊された。
こちらも鎌倉時代~江戸時代終焉の長きに渡って鎌倉五山と呼ばれた国家運営の寺院だったのに、現在は個人経営状態に成ってしまった。
なので現在の御住職が老齢で体調も可成り悪いのに引退出来ず、巡礼者への御朱印も満足に応対出来ない程の状況に陥っている。そうやって多くの寺や小さい神社が滅んで行った。
現在の状況に困り果てた奥さんは参拝客に応対する事もままならず、御朱印も一切受け付けていない。
防犯すらも老人二人では覚束(おぼつか)無いので共に疲弊し、本堂への参拝も進入禁止されてしまっている。
御住職の妻帯による世襲や家族運営に頼らない、本来の仏教組織形態を維持出来ていたならば、こんな事にも成っていなかっただろう。
明治政府の唯一の失敗は、宗教改革の一点に尽きる。明治政府の宗教改革の失敗のせいで多くの神社と御寺が此の世から消えてしまった…

さて、寿福寺は今回は山門の前から御参りして終り、目的地じゃないから。
行きたかったのは銭新井弁天、鎌倉山の反対側の佐助地区。
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そこに至る道は緑深く空気も綺麗な上に、鎌倉時代に掘られた岩屋=❝やぐら❞や小さな御社や御地蔵様等、鎌倉文化の原風景が先述の通り多く残っている。
そして歴史に興味が無い観光客には余り知られていない名寺院が沢山在る…
例えば、この御寺…
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英勝寺。
浄土宗の尼寺。鎌倉で唯一現存する現行の尼寺。
そして、ここが何故臨済宗の多い扇ヵ谷地区において浄土宗として存在するかと言うと、浄土宗に帰依していた徳川家康公の愛妾の❝お梶の方❞が晩年、尼僧として暮らした御寺で彼女自身の菩提寺だからだ。
更に、この御寺は❝お梶の方の祖先の太田道灌公の屋敷跡❞に建つ寺院でもある。
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ここは建築遺産も立派だが❝隠れ紫陽花の名所❞であり❝隠れ竹林の名所❞で歴史好きと日本文化好きの隠れオアシスの様な聖地に成っている。規模が広い訳じゃない。
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詳しい事は、又、独立した解説記事を書きたい。
ここは小生が崇拝する偉人の一人の太田道灌公の邸宅古跡だけあり思い入れが有る。
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扇ヵ谷地区は観光地区では無いので、平地には鎌倉市民の一般住宅が多い。
さて、英勝寺を後にして先(ま)ず訪れたのが海蔵寺。
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ここは❝井戸❞と❝やぐら❞の御寺。
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山門入口に在る❝底抜け井❞は鎌倉で名水と言われた鎌倉十井の一つで、安達家の姫君の逸話が残る。
この井戸だけでなく、海蔵寺所管の井戸には名所が多い。
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普段は非公開の十六井
ここの御寺は多くの文化人が俳句に詠んだ場所でもある。
いずれ又、詳しく解説しようと思うが海蔵寺は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家が開基したと現在は伝承しているが小生は状況証拠から少々違うと思う。
ここは恐らく佐原三浦家が扇谷上杉家の命で開基した寺だと思う。
何故なら、三浦家終焉の土地、三浦半島油壷の新井城址、その傍に在る三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の名前も海蔵寺だからだ。そして、❝海❞蔵寺の海は正に水軍の三浦家に相応しい寺名。
恐らく歴史はこうだと思う…
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佐原三浦家の祖先、三浦家の宗家が存命中、まだ鎌倉時代に成る以前の平安時代末期、鎌倉の館を構えていたのがこの海蔵寺の場所。近くには三浦家が与力した大将の源義家公の御屋敷跡の寿福寺もある。
近習するには扇ヵ谷に屋敷も必要だったろう。
時代は下り、三浦家の宗家は鎌倉幕府の執権北条家に滅亡させられ、分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を継いだ。
その佐原三浦家の鎌倉時代の菩提寺は以前も紹介した横須賀市大矢部の清雲寺、三浦家の本城の衣笠城近くに現存する臨済宗の寺だ。
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対して新井城址近くの海蔵寺は、曹洞宗。
この海蔵寺は三浦道寸公が開基した寺だ。
現在でこそ曹洞宗だが、これは戦国時代の三浦家を滅ぼした小田原北条家が曹洞宗に帰依していたので曹洞宗寺院として改宗させたのだと思う。
元は恐らく鎌倉の海蔵寺、それを佐原三浦家が本拠を新井城に定めた時代、つまり道寸の時代に鎌倉の海蔵寺を三浦半島新井城の近くにも分教区の寺院の様な存在として勧進したのだと推測している。
…あくまで、想像。
そこで、この鎌倉の海蔵寺の話に戻る。
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海蔵寺は裏庭が綺麗なのに、ここを見ようとする参拝客は少ない。
この海蔵寺、鎌倉時代に将軍家を守ろうとした三浦家の本家の事績に肖りたかった鎌倉公方(鎌倉公方足利家は京都の足利将軍家と対立していて常に窮地に在った)が、三浦家の子孫である佐原三浦家に祖先の屋敷地の跡に鎮護の寺院を開基する様に❝佐原三浦家に佐原三浦家の上官である扇谷上杉氏定を経由して命令を下し造営させた寺院❞だったのでは無いかと妄想している。
証拠が状況証拠しか無いので、妄想や推測としか言えない。
因みに、この上杉氏定、鎌倉公方足利持氏公と山内上杉(やまのうちうえすぎ)家の上杉禅宗(うえすぎぜんしゅう)が対立した際に❝足利持氏公に忠義を尽くし負傷、藤沢で自害❞とされているが、この❝藤沢で自害❞の舞台が初期の扇谷上杉家の居城と考えられる藤沢市の大庭城だと推測出来る。
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もっとも、この大庭城址、メジャーな古文書しか読まない若しくは誰かの書いたメジャー論文しか読まないパクり俄か学者や研究者は存在すら知らないバカが多い(笑)。
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実は、扇谷上杉家の居城の中でも糟屋館と同規模、初期の江戸城や河越城を凌駕する規模と堅固な地勢に在った。
扇谷上杉家が江戸城や河越城を本城に定めるのは糟屋館や七沢城や大庭城を次々と失陥した後の話し。
これは関東南部の郷土史を読み漁る人間しか知らない事で、近畿と東海地方史観のメジャーな本を幾ら読んでいても微塵も登場しない事実。

さて、海蔵寺が鎌倉公方鎮護の寺と位置付けられていたと推測するには一つ根拠が有る…
実は鎌倉幕府が滅亡した際に、幕府の執権だった北条高時を攻めた新田義貞が鎌倉への侵攻口が正に、この海蔵寺に近在する鎌倉の切通し七口の一つ、❝化粧坂(かわいざか)の切通し❞なのだ。
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化粧坂に通じる道の入口には当時の道の高さに石碑が立っている。
実は!この上部の石碑がある方形の窪み、有名な悪七兵衛景清こと、伊藤(藤原)景清が閉じ込められた当時の岩屋牢屋の跡で歴史遺跡でもある。
現在では道が掘り下げられてしまい、当時の地表の高さの位置に牢屋の岩屋が半分破壊された様態で取り残された訳だ。
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現在は歩きやすく舗装され、道幅も車が通れる様に開削されているが、明治時代に成るまでの切通の道は人二人が並んで歩ける程度、つまり往来があって辛うじてスレ違える程度の道幅だった訳だ。
ただの街道なら道は広く真っすぐ作るが、鎌倉は幕府の首府だったので山々を直角に切削し城壁として防衛し、出入り口も防衛施設の機能を有していた。
この道も屈曲しているが、昔はもっと鋭角にS字に成っていて軍馬に騎乗した武者が容易に通れない構造だったと推測出来る。つまり、後の城郭の喰い違い虎口の走りだな…。

ここを過ぎると直ぐに、鎌倉時代の切通しが姿を見せてくれる。
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鎌倉石と呼ばれる砂岩の地層を削りだした道は、豊かな緑が雨水を染み込ませ粘土層との隙間から僅かな湧水をしたたらせ要害性を増す泥坂と成る…
この地層を利用して日本屈指の城郭建設技術を確立したのが戦国時代の小田原北条家の北条早雲公な訳だ。
そして、古代の海底だった土腐(どぶ)に囲まれた低湿地地帯の丘に築城する技術を発展させたのが先に訪れた英勝寺の❝お梶の方❞の祖先の太田道灌公だ。
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この切通しが貫く鎌倉城(山に囲まれた鎌倉市街中心部を歴史的には鎌倉城と呼ぶ)の城壁代わりの鎌倉山や十二所の山々は、直角に削られている訳だが、この構造は以前「カテゴリー城郭」で紹介した三浦家の❝衣笠城❞の記事でも紹介している。鎌倉武士が培(つちか)った築城技術だ。
この道を多くの人々が往来した。
既に季節は梅雨だが、鎌倉山は新緑に覆われ日差しから小生を守ってくれ、風も涼しかった。
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化粧坂を越えて、再び分かれ道を鎌倉市街方面に降りて行くと佐助地区に出る…
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佐助地区に入って最初の神社仏閣が銭洗い辨財天で有名な宇賀福神社だ。
独立解説記事をその内書いて改めて解説するが…
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ここは本来、弁財天を奉っている神社と言う訳では無い。
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宇賀神と平安時代の人々が呼んだ神様が、後に弁財天様と習合されて同一視されたので名前は宇賀福神社として残りながら御祭神が弁天様として現在に至っている訳だ。
この宇賀神と言うのは日本神話による所の❝倉稲魂命(うかのみたまのかみ)❞=❝宇迦之御魂神❞を指す。
豊かさの象徴の女神として信仰されていた。
古代に於(お)いては穀物やなんかの豊穣の女神で、頭人体蛇の姿をした女神だった。
鎌倉時代に成ると、中国から宋銭が輸入され富の象徴は穀物経済から貨幣経済に変化したので、本来は穀物の豊穣の女神が財神の性格を持つ様に成った訳だ。
そして、後に日本に来られた七福神の弁天様が戦神と財神と美人神の性格を併せ持った、宇賀福神様と似た神様だったので武士や民間の信仰で同一視される様に成った訳だ。
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なんにせよ、富の神様。
ちゃんと弁天堂の霊水で御金を洗って来た。今は小生の部屋で神様と仏様の前に御供えしている。
もし、御利益が有って大金が手に入ったら、必要な分以外の富は全て日本文化保護と郷里の産業振興に役立てたいと心願を御伝えして来た。

この日はこの後で、佐助稲荷神社にも御参りしようと思っていたら…
トイレでチャックが壊れて社会の窓が閉じなく成った‼
…そんな状況で観光を続けれる訳も無く、ズボンの前が開かない様にズボンのベルトを上に引っ張りポロシャツを下に伸ばして不自然な状態で鶴岡八幡宮に戻った。
鶴岡八幡宮の親切で美人な司書の巫女さんが準備していて下さった研究報告書のコピーを受け取り代金を払い、いつも親切にして下さる御礼に、いつもの小生の儀礼通り小町通りで購入した御菓子を差し入れして帰って来た。

ふむ、社会の窓のチャックが壊れてブルーに成った以外、非常に充実した1日に成った♪

三浦半島の西側は何処も絶景で…
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生憎の雨天でも、三浦半島の山々の向こうには相模湾に浮かぶ江ノ島が見える。
晴天だと江ノ島の奥に箱根山系がハッキリと見え、更にその奥に富士山が聳え、夕刻には山並みが朱に染まる。
この風景と土地の特性が逗子~葉山~油壷が明治~昭和初期に別荘地として繁栄した理由。
この眺望は勿論素晴しい。
しかし土地は水田に向かないので畑ばかり。
富士山由来の関東ローム層故(ゆえ)に水田に適さなかった土地に根差した畑文化による豊富な種類の地野菜、そして三浦半島特有の江戸湾と相模湾両方の海産物を堪能出来る保養地としての地勢的な有利に由(よ)る。
簡単に言えば…綺麗な風景と夕日を見ながら、豊富な種類の海の幸山の幸を堪能出来る訳だ。

さて…
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2016年06月05日、土曜日の朝は大正~昭和時代の雰囲気の家族経営旅館、大海荘で宿泊している部屋から始まった。
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…と言うか、いつもは飲まない御酒も飲んで休日の習性で前日徹夜していたままTBSふしぎ発見を見終わった直後に寝落ち、夜中の3時頃に起きてからずっと朝までPCで書き物してた。無論、リラックスは出来た。

朝食が朝7時~と言う事で早速食べに行った。
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久しぶりにまともな朝食を食べた。ランチや夜は美味しい物散々食べてるのにね。
焼き魚食べれて嬉しかったなぁ~。
その後、8時~朝風呂入浴出来るとの事で、表の長者ヶ崎の砂浜を散歩する事にした。
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もっと干潮だと小さい長者ヶ崎の岬の先端まで歩いていけるのだけどね~。
❝神奈川の景勝50選❞の一つだけあり、長者ヶ崎の眺望は良い。
因(ちな)みにコチラ側、落石注意立入禁止の看板が有るので、こちら側から行きたい人は先にFacebookとかTwitterに「落石事故に遭っても自己責任です」と投稿して下さい。
この先に行く事は無く宿に戻り、朝風呂の時間に成ったのでラドン温泉に朝から入浴。
良い小旅行に成りました。満足。
…大海荘の御主人と奥さん、ありがとう。
土曜日も休みにしてあったので、天気が良ければ長谷寺に紫陽花を見に行ってから、昨年の映画❝駆け込み女と駆け出し男❞で登場した佐助稲荷神社、それと義祖母が良く行っていた銭新井弁天に御参りする心算だったのだけども…雨天。
三浦方面に行き、大好きな石井農園(夏季は西瓜直売・秋季はミカン狩り)の直売所に看板娘の御婆ちゃんに会いに行き、石井農園の菖蒲園を見学しようかと思ったが、こちらも雨には合わないスケジュールなので、葉山近辺を散策する事にした。
逗子葉山訪問先
実際に廻った場所↑の地図。
●森戸神社…源頼朝公勧進の三島大社の御分霊を祀る神社と源頼朝公の別邸古址。
●鐙摺城址の一部、旗立山…葉山マリーナの前に在った源頼朝公の与力中最大勢力の三浦家の支城。
●日影茶屋…築100年以上の商家を改装したレストラン・和菓子屋・Bar
●逗子市郷土資料館…明治時代の旧徳川家別荘を転用した文豪:徳富蘆花と逗子市の考古学の博物館。
●住吉城址と正覚寺と住吉神社…戦国大名佐原三浦家の支城、城址を貫く古東海道の史跡。
●由比若宮(元鶴岡八幡宮)…鶴岡八幡宮が源頼朝公によって鶴岡に遷宮されるまで在った場所、鶴岡八幡宮の元宮。
長者ヶ崎~車を走らせて10分足らず、最初の訪問先は森戸神社。
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ここは源頼朝公が伊豆時代から信奉する三島大社の御分霊を勧進し造営した由緒ある神社で、鎌倉武士にとって重要な神社。だから流鏑馬(やぶさめ)奉納の神事も行われる。
詳しい事は何(いず)れ森戸神社の解説記事で説明する心算。
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ここは西と北が海に面していて眺望も良いのだが、背後西側の海に浮かぶ島を名島と言う。
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鳥居が立っている岩礁が名島。
今は磯だが昔は島だった。
そして名島と森戸神社の海岸の間に続く岩礁も昔は半島状の陸地で、なんと其処(そこ)には源頼朝公の別邸が在った。
頼朝公は鎌倉周辺、こと三浦半島が御好きだった様で色んな景勝地に別邸を持ってらっしゃった。
鮪で有名な三崎漁港にも春の御所を持っていた。その場所は本瑞寺や光念寺の丘。
森戸海岸の頼朝公別邸は海に沈んだ。
神職の方の解説では「海面が上がったから」との事だったが、それは歴史と整合しない。
三浦半島の地盤は関東大震災でも50cm隆起している。
つまり、この付近のプレートは盛り上がるベクトルの地盤な訳だ。
この地盤は下の方が堅い岩盤、上は海底に在った時代に砂だった鎌倉石と言う現代では採掘禁止の重要な石材に成る砂岩や、干潟の泥が固まった泥岩の地盤で出来ている。
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近くの秋谷にも❝立石と言う神奈川の景勝50選の一つ❞があるが、その秋谷には小生の推測を証明する地名も残っている。…❝大崩れ❞と言う地名だ。
表層の砂岩と泥岩の地層が波に洗われて崖の下部が浸食され、やがて上の地盤を支えられなく成り崩落する訳だ。
この付近の地層が柔らかい層と地底深くから盛り上がった堅い岩盤で構成されているから、結果的に島は波に浸食されて残るのは岩礁だけに成る訳だ。
頼朝公の別邸の在った陸地も実際は❝砂岩や泥岩の地盤だから浪に浸食されて消えた❞と言うのが正しい所だろう。
なんせ実際に三浦半島は地震の度に隆起するのだから。
何にせよ、頼朝公と三浦家の武士団所縁の神社を御参り出来て良かった。

御参りしたら「そう言えば近くに鐙摺城が在ったな」と日本城郭体系で読んだのを思い出し、まだ行った事が無かったので訪問する事に…
目標物は葉山マリーナだ。
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この港を押さえる城が、葉山マリーナ背後の鐙摺山に築かれた鐙摺城だったのだが、源頼朝公の石橋山の合戦時、ここに籠城した三浦義澄公が攻め寄せた畠山重忠公の平家軍を釘付けにして三浦家本城の衣笠城で一族が防衛体制を立て直す時間をかせいだ。
その時に源氏側の味方の志気を揚(あ)げる為に白幡を立てたと言われるのが、鐙摺城の出丸と考えられる旗立山だ。
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当時は海に突き出した断崖絶壁、味方に三浦の軍功だと知らしめる旗を立て、立て籠もるには十分な要害性が有るが規模は小さい。あくまで背後の鐙摺城の出城。
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鐙摺城の出丸の旗立山への登城は、築100年以上、歴史300年以上の和食・和菓子・BARの店の日影茶屋が目印。
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日影茶屋と道路を挟んで正面の駐車場に旗立山の入口階段が有る。
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鎌倉石の丘…雨でコケと砂岩が相まってメッチャ歩き難いし落ちたら死ぬ!
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本当に規模は小さいけれど、ここには城址として以外の史跡がある。
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伊東祐親公の供養塔だ。
伊豆の伊東を治めた伊東祐親公は源頼朝公と対立したのだが、子孫は良く頼朝公に仕えて日向国(宮崎県)の大名に成った。江戸時代にも飫肥藩の小大名として御子孫が存続した。
…実は内の母方は親類は伊東家の家老の子孫に養子を出していて、小生は疎遠だが母の世代はまだ交流が盛んな様だ。無論、今は皆して中の上下彷徨うくらいの庶民(笑)。
ここでウチの母方が御世話に成った伊東家の御先祖様に御参り出来て良かった。

しかし…
出発し結局、本能の赴くままに車を走らせたら、いつもの休みみたいに城跡・神社仏閣・古民家巡りに成っって。
…今にして思えば、これなら雨でも紫陽花庭園や菖蒲園の方が楽だろうに(笑)!

旗立山を下りて、日影茶屋の和菓子部門へ…
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倉を改装して営業している。
凄く雰囲気が良い。
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何故なら…
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この和菓子を展示しているスペース、夜に成るとカウンターに成り、BARとして営業しているから少し薄暗く大人な良い雰囲気なんだな。
ここで御土産に大福を購入した。

それから車停めた葉山マリーナ周辺を少し散歩。
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やはり昭和初期~金持ちの集まるヨットハーバーとして有名なだけあって、御洒落(おしゃれ)っぽい喫茶店やレストランが多いね…
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どこも御客さんいっぱいで繁盛していたよ。
小生の宿泊した大海荘から車で10分前後の距離だから、夕食はこちらに来てとっても良いかも知れない。
まぁ、大海荘の場合は相談するとBBQも出来るから、海らしい事は長者ヶ崎の方が出来るか。

旗立山の登り口の横には海寶寺と言う小さい御寺が在った…
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海寶寺と日影茶屋の間の道は❝切り通し❞なので、そこが古道なのだろう。ここを抜けて走水方面へ山を越えて行ったはず。
ここを打ち超えて、葉山町役場の辺りを通過して❝下山口❞の地名が残る辺りをを通過し❝上山口❞に至り、恐らくは三浦家の本拠地の衣笠城址へ辿り着いたはずだ。
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江戸時代も街道だった証拠に庚申塔が御寺の境内に移されて残っていた。
浄土真宗の御寺らしいけれど、規模に見合わない石仏群の多さから古い時代には真言宗の御寺だったんじゃないだろうか?多分、浄土真宗に成る以前にも御寺として存在したはず。
この辺は小生が古道と推測するルート沿いに御寺が多い。
そして、この道が古東海道に繋がっている。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
画像資料作るの面倒なので国土交通省関東地方整備局の画像を拝借すると一目瞭然。
昔の東海道は日本武尊と弟橘姫が仮御所を置いた走水神社の目の前~海路、房総半島の君津・袖ケ浦へ抜けて行く。
そして海寶寺の横には明治時代までは海寶寺サンが別当寺として管理されたいたと思われる須賀神社が有るが、これが正に古道の証拠。
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須賀神社の須賀と言うのは律令制度成立以前の神話の時代の地方名で、素戔嗚尊と此花咲耶姫命の御夫妻が開拓された国名で、とどのつまり素戔嗚尊様は海の神様であり、その後に走水神社の奥宮にも祀られている通り日本武尊も海神として崇拝した神様。
走水神社の奥宮には諏訪社・神明社も有る。ここら辺は以前の記事にも書いたので興味の有る人はカテゴリー「神社(延喜式式内社と歴史千年以上の古社)から「走水神社」の記事を見つけて読むと解説してある。
話を戻すと、旗立山や背後の鐙摺山の南側の平地は古代❝葉山湾❞だった。
昔の海岸線
なので、この切通しを通り抜け山沿いに下山口・上山口の地名が残る現在では名前無くなった峠道を通り抜け走水に抜けたはずだ。
この道は略(ほぼ)県道27号線なんじゃないかと小生は推測している。そして県道27号から、日本武尊が武蔵国橘樹郡~久良岐郡方面を抜けて~走水に至った道近くを辿(たど)る国道16号線に合流し、走水から房総半島に渡ったのだろう。
葉山マリーナは昭和以来の新しい観光スポットだが、実は目の前に山城跡が在ったり古道が存在したり、存外歴史が有るのを地元の人も今では知らない。
…ま、神奈川は基本移住者だらけだから。

さて、葉山を後にして、次は逗子市郷土資料館を目指した…

逗子が古代は海の底だった鎌倉市市街地よりも早く開けた土地で、逗子の山々の山頂からは巨大古墳が幾つも出土しているのだが、その相模湾側の風景は現在も美しい。
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今回の休日雑記冒頭で掲載したこの写真は逗子市からの眺望だ。
この風景と豊かな海産物農産物と浜辺が有る事から、明治時代の政治家や大富豪達がこぞって、この逗子に別荘を建てた。
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そして今回訪問した逗子市郷土資料館はなんと❝徳川家の宗家の大正~昭和時代の別荘❞だったのだ。。
逗子が葉山よりも有名な一大別荘地だった歴史を示す建物が資料館として転用されているのだ。
つまり、資料館時代が古民家で、重要文化財な訳だ。
ただし、駐車場が近くに無いので近所のレッドロブスターの有料駐車場に停めるしかない。
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う~ん、横浜市中区根岸の義祖母の家を思い出す…
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建物は素晴らしい保存状態。
ここは逗子を舞台にした不如帰(ほととぎす)を出版した文豪:徳富蘆花の関連展示物と、大正時代の徳川家に関する解説が多く興味の有る人にはたまらない場所だ。
職員さんは二人常駐していたが、とても親切に解説して下さった。
親切過ぎて約2時間、職員サンの解説を聞き込んでしまった…
気が付いたら「ヤベ!駐車場代金スゲぇ~事に成ってるんじゃね?」
…とビビッて、そこからは職員さんの苦手な時代の戦国時代に話をスリ替えて質問しまくり、上手く退散した(笑)。
しかし、ここの男性職員の方は話も御上手で近代史と地理は御詳しく、明治時代の話や太平洋戦争中の話し、徳富蘇峰と徳富蘆花兄弟の確執の話や徳川家の話を色々と解説して頂けて面白かった。
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因みに上の写真の離れが❝徳川家達(いえさと)❞青年が住んだ建物。
職員さんの解説だと話は濁しておられたが、どうも石原慎太郎氏の小説❝太陽の季節❞の映画版で石原裕次郎氏が演じた主人公の❝津川竜哉❞のモデルは、この徳川家達青年なんじゃないかと匂わせておられたが、実際に小生もそう感じた。
まぁ、逗子に住んだ石原慎太郎氏なので、地元の人物をモデルにした可能性は実際高いと思う。

この逗子市郷土資料館や徳川家と徳富蘆花の話は、又、別に独立記事として仕立てようと思う。

さて、駐車場代金がやはり高く成っていたので、昼食もまだだった事もあり、レッドロブスターで駐車料金無料にする為に遅い昼食をとる事にした…
この時点で15時前後か?
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すんごい久しぶりのレッドロブスター。
チェーン店を毛嫌いする様に成ってから10年近く来てなかった。
わざわざ逗子に来てまで食べる物か?と思ったけれど1480円のジャンバラヤのランチは普通に悪く無かった。

もう急がないと日も傾き始めるので、この日のメインディッシュだった住吉城址の丘に移動…
道に迷いながらレッドロブスターから車で30分位かかっただろうか?
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城址の一角だったのが正覚寺と海前寺だ。
ここは戦国時代の三浦家の大名三浦道寸公の武将で御実弟の三浦道香公が守将として配置されていた。
道寸公が伊勢原市の岡崎城で北条早雲公に敗れ主家扇谷上杉家の大庭城も陥落し、この住吉城へ逃れて来たがやがて、油壷マリンパークに在った新井城に撤退し日本最長の籠城期間4年を戦い抜いた後に滅亡した。
北条早雲公が攻略に10年を要した岡崎城についてはカテゴリー「城址」に解説記事を以前書いた。

実はこの正覚寺と海前寺は、古東海道の史跡と考えられていて山を貫く古道で近年まで繋がっていた。
しかも貴重な隧道(すいどう=トンネル)の古道だ。
そこには正覚寺の本堂の横から、参拝出来る住吉神社に行くと洞窟が見える。
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住吉神社も、古くから海の往来に関係の有る大伴氏や佐伯氏と言う古代の豪族が信仰した神社なので、縁起の定かでは無いこの住吉神社は古代から存続している古社だと小生は推測する。
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このトンネルは住吉神社側から入る事が出来るが…
反対側が封鎖されている。
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ここはそもそも逗子市民が通う大切な道だった!
しかも古道史跡で城址だ!
しかし名名高い❝東急グループ❞の❝東急リバブル❞が❝住吉城址と古東海道の史跡を破壊してシーサイドコート逗子望洋邸と言うマンションを建設してしまった。
現在進行形で隣の鎌倉市でも、ココより小規模な北鎌倉駅近くの古道の隧道の保護で土建屋と結託し隧道破壊を目論む市長が議会と報道からヤリ玉に挙げられ責任追及されているのにだ!
逗子市教育委員会、何やってんだ?仕事しろ!
この東急グループは横浜市でも自然公園の貴重な蛍の生息地でありながら、奈良時代からの❝蹈鞴(たたら)製鉄遺跡❞が出土し❝灌漑水田史跡❞や鎌倉武士の往来した❝鎌倉早駆けの道❞と言う歴史史跡・古道史跡・横浜最後の豊かな自然が残る円海山と瀬上池周辺を破壊し宅地化ようとしている。
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この水道は最近まで利用されていただけあり保存状態も良い。
鎌倉の釈迦堂切通しと並んで重要な史跡として認定されてもおかしくない。
…これ、石原慎太郎サンに陳情したら面白い事に成りどうだな。
生活道路の使用として裁判起こしたらシーダイドコートで分断された道、逗子市民が使用する権利認められるぞ多分。
住吉城も今後、解説記事を独立させて書いて行こうと思う。

ここの写真撮影後、本来は長谷寺で紫陽花を見る心算だったが時間も無いので鎌倉の佐助稲荷神社に参拝するつもりで車に乗り出発した。途中、ふと有る事を思い出した…
「そう言えば元鶴岡八幡宮(由比若宮)の写真、撮影した事無かったな」
…と言う事で、目的地に行く前に途中、鶴岡八幡宮の由比若宮に移動。
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鶴がヵ八幡宮は実は元々現在の場所では無く、源頼朝公の御先祖に当たる源頼義公が材木座に建てたのが始まりで、現在もその場所には由比若宮と言う形で本来の八幡様が存在している。
解説はカテゴリー「神社」の中から探してもらうと、そこに元鶴岡八幡宮に関する記事を以前書いて有る。
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ここが重要な場所なのは、境内に軍神と鎌倉武士達から崇拝された八幡太郎こと源義家公所縁(ゆかり)の物も存在する事から、歴史好きは直ぐに解ると思う。
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源義家公が源氏の白幡を立てた松。
恐らく、ここは白幡神社の総本社としても呼べるんじゃないだろうか?
源家の与力武将達は、皆それぞれの領地に八幡社を勧進しているが、その地名には白幡の名が残る場所が多い。そして、そこは大体が河川や海の港湾の近くだ。

参拝を終え、佐助稲荷神社に向かおうと亀ヶ谷方面にから佐助稲荷に抜ける鎌倉市街の御成地区に移動したが、佐助稲荷周辺の長谷地区東部が通行規制で車が入れず断念した。
大船へ抜けて横浜へ帰る途中、渋滞で停車中に面白い風景が撮れた。
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渋滞で停車中の車の上に、湘南モノレール。
世界でも珍しい釣り下げ式。
これ、大型特殊車両はこの道通れないよね。

1泊2日の鎌倉~逗子~葉山旅行、2日目は結局普通の休日の行動に成ってしまったけれど、葉山町の長者ヶ崎海岸に宿泊しユックリ出来たし、明月院の菖蒲園も綺麗だったし、元鶴岡八幡宮も御参りして写真も撮れたし良い小旅行だったと思う。

以上。

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