歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:修験道

七所権現 八菅神社(行基大僧正も関わった修験道大霊場跡で日本武尊の聖地) 
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  御祭神・御本尊等:日本武尊・国常立命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・誉田別命・金山毘古命・大己貴命・天忍穂耳命  
  御利益:戦勝祈願・交通安全(陸・海)・治水・地鎮・子孫繁栄
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:修験者   役  小角(えんのおづの)
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     征夷大将軍 足利 尊氏 公
     鎌倉府公方 足利 持氏 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公 
  旧郡名:愛甲郡
  所在地:愛甲郡愛川町の八菅山全山が七所権現の聖地で修験道の大霊場
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊が東征の際に愛川町中津坂本地区から八菅山を見た所、蛇の形をしている事に気が付いたので蛇形山と呼ばれる様に成り、その後、修験者で古代豪族の賀茂氏出身の役小角が日本武尊の聖地として日本武尊に加えて六柱の神を祀り修行をした所奇跡が起こり神座の菅の菰(こも)から八本の根が生えたので八菅山七所権現の名前が定着した。丹沢山系を八菅山から大山阿夫利神社山頂本社の石山権現まで修行して廻り、後に京都の八幡市男山に在る修験道の聖地だった石清水八幡宮まで廻るのが東日本の修験道の重要な聖地巡礼の修行だった。現在でも山の峰々に神仏習合の修験道時代の堂塔の名残が地名に残り、明治政府の神仏分離令の宗教改革まで源頼朝公、足利尊氏公、足利持氏公、徳川家康公等が僧坊や社殿を多く寄進し最大時には別当寺だった光勝寺を含め50を越える僧院社殿が存在する神道・仏教・修験道の一大聖地だった。
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横浜市磯子区中原に、今では住宅街の中の普通の神社に成ってしまった元々凄い修験道の道場の跡地が有ります。
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今では、ただ熊野神社としか名前の表記が有りませんが、少しややこしいのですが、ここは現在でこそ“熊野神社”と呼ばれていますが、そもそもは鎌倉市山崎に存在して源頼朝公から崇敬された山崎泉蔵院と言う由緒ある修験道の大寺院の熊野権現を祀った道場でした。
山崎と言うのは今も鎌倉市北鎌倉駅~大船駅近くにかけて地名も残る丘陵地帯の事です。
現在の磯子区の熊野神社の前身と成ったのは大霊山泉蔵院桐谷寺と言う修験道寺院です。
その大霊山泉蔵院桐谷寺の更に前身が、今の鎌倉市山崎に存在した山崎泉蔵院です。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
源頼朝公が平家を倒して征夷大将軍に就任した際に、国と民百姓の安泰を祈願する為に鎌倉郡山崎の泉蔵院の大僧都真諦智覚法印と言う高僧に命じて、熊野三所権現から御神霊を勧進させて山崎泉蔵院の熊野権現を祀った道場を、この熊野神社の境内に開きました。恐らく当時は周辺の住宅街も全て道場だったはずです。
熊野三所権現と言うのは今の和歌山県熊野三山に鎮座する由緒ある那智大社、熊野速玉大社、熊野神社本宮の三社の事です。
つまり、磯子区中原の熊野神社に御参りすると、その三座の大社に御参りしたのと同じ事に成る場所として泉蔵院の道場が開かれた訳です。
まぁ、磯子区中原に鎌倉時代、泉蔵院の道場として熊野権現が開かれた当時は相当な敷地を誇っていたでしょうし、参道の両脇には明らかに旧境内地と思える住宅が有ります。
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この家とか参道と直結してるし・・・
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このマンションかアパートだかも明らかに旧境内地の谷戸(やと)の中に不自然に立っています。
さて、鎌倉山崎に在った泉蔵院は後に現在の磯子区中原の熊野権現に機能移転し、室町時代以降は現在の熊野神社の場所が泉蔵院の本拠地と成りました。
その時に、この山に囲まれた谷間の地名が❝桐谷(きりがやつ)❞だった事から、武蔵国久良岐郡に移転後の泉蔵院の正式な名称は大霊山泉蔵院桐谷寺と改められました。移転後も宗派は勿論、修験道で本山は京都市左京区に有る南禅寺近くの聖護院でした。現在は神道の神社ですけどね。
後で触れますが、戦国時代に泉蔵院を支援したのは北条家重臣だった間宮家です。
笹下城主の間宮信元公、間宮与七郎公、代々徳川将軍家の鷹匠頭を継いだ分家の杉田間宮家の江戸時代の当主だった間宮信久公の関与が現代に伝わる文書で確認出来ます。
この間宮家は水軍を率いており、戦国時代には現在の浦賀港の西浦賀を領有した間宮宗甫公、江戸時代には徳川家の水軍大将を務めた間宮信高公が三浦の横須賀市長坂に所領を有していましたが、三浦半島に三浦大根とは別に昔、聖護院大根が生産されていたのは、もしかしたら、この泉蔵院と間宮家が関係有るかも知れませんね。

頼朝公が没すると、鎌倉幕府は内戦が頻発し、鎌倉山崎の泉蔵院は戦火を逃れて、磯子区中原の熊野神社の道場に寺院機能を移転しました。その時に同地が桐ケ谷と呼ばれた場所だった事から寺名を大霊山泉蔵院桐谷寺と改めました。
しかし明治時代に成ると神仏分離令が発布され国策で当時の御住職は僧籍を返上し、桐谷寺は廃寺に成り熊野神社だけが残りました。
山崎地区
上は元々泉蔵院の所在した鎌倉市山崎地区の境界線を衛星写真上に再現した画像です。
北鎌倉駅を挟んで円覚寺と反対側の山、玉縄城址や大船駅の近くまでの山一帯が山崎と呼ばれた地域です。この山崎の“崎”と言う字には岬">(みさき)<と言う意味が有ります。
実は弥生時代位まで大船一帯は大船湾と呼ばれた海だったので、同地が昔は海に突き出した半島だった名残りに由来する地名でしょう。
古代の大船湾 久良岐のよし
緑色の地域が縄文時代に陸地だった場所で、白い場所は海底だった場所です。
山崎地区は見事に古代の大船湾に突き出した小さな半島=岬だった事が解ります。
修験道は山伏の神仏習合の宗派だったので日本古来の神道的な価値観に仏教の哲学と信仰を融合させていました。ですから延喜式内社と呼ばれる古代から存続する神社と同じ様に湧水地や山上の奇岩を御神体とし、自然に纏(まつ)わる神様の御分霊や仏様を祀り、修行の為の道場を開く宗派でした。
さて何故源頼朝公が、この磯子区中原に修験道の道場を開いたと言うと、頼朝公は日本神話を大切に信仰しておられ、更に神話を大切にする仏教の真言宗も大切にしておられました。
頼朝公は其(そ)れ故(ゆえ)に山岳信仰者でもあり、自ら神奈川県伊勢原市の大山や富士山の山頂まで当時の貧弱な装備で登山された史実が残っています。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
現在は熊野神社と成った泉蔵院は、頼朝公の時代には京浜急行に❝屏風ヶ浦❞の駅名が残る事からも察しがつくと思いますが海に切り立った断崖が現在の中区元町~金沢区六浦まで実に10kmに渡って続いていました。
この風景は江戸時代にも現在の神奈川区や関内に在った横浜の地名に成った半島の辺りから船に乗船して現在の京急杉田駅前を流れたいた聖天川までクルージングするのが観光コースに成っていたそうです。
そして熊野神社の出来る場所は湧水地と滝の有る場所なのですが、現在でこそ、それらしい物は現存しませんが周辺は中原四丁目緑地として遊歩道が設置されていて、壁面からの湧水でいつも地面がぬかるんでいます。
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今ではこの緑地帯の存在自体を知る人も少なく、歩く人も少ない。
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もし、この熊野神社に御参りされる方は是非、この辺りも散歩してみて下さい。
さて、現在の熊野神社其の物に話を戻します。
参道には様々な石碑が並んでいます。
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歌碑だったり、泉蔵院時代からの歴史を書いて有ったり・・・
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この関寅吉さんは、杉田浦が埋立られる以前の一大産業だった海苔の養殖を近代に発展させた人物でした。
今では豊かだった杉田や屏風ヶ浦の海はアホの横浜市が埋め立てて消えてしまいました。
東京湾京浜地区の海苔の養殖は今では、金沢区の野島と三浦半島横須賀市走水で一部行われており、特に走水産の海苔は美味しいので小生は毎年冬に走水神社の年末年始の御参りを兼ねて買いに行っています。
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この、ながつか水産等で、昔のままの江戸前の美味しい海苔を購入する事が出来ます。
実は屏風ヶ浦一帯の海は海苔よりも鮑(あわび)や海鼠(なまこ)の漁獲量が豊富で特上の品質を誇っていた事で勇名でした。幕末には清国向けの輸出品として大変に重宝され、現地でも最高級品扱いされたそうです。
アホの横浜市が海を埋め立ててしまったので、当然、鮑等が生息できる環境ではなくなりました。
内陸部に平地の耕作地が沢山余っていたのだから、ハッキリ言って埋め立てる必要は無かった訳で、これは当時の市長が建設利権と結びついていた人物だったからと言うのも、泉蔵院の歴史を現代から鎌倉時代まで順番に周辺の環境の変化も含めて追っていくと解る事だったりします。
今の林文子横浜市長も、する必要の無い埋め立て工事を本牧沖で行っていますね。
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まぁ、そんな感じで、この地域は昔、現代の政治家と違って心から地域発展に力を尽くされた民間人を多く輩出しているので沢山、偉人達の石碑が有ります。
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修験道の道場だった場所なので熊野神社の在る場所も崖地で、参道の後半は階段に成っています。
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横には神仏習合時代の名残の石塔。
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階段を中段まで登ると本殿が見えます。
この中段の左手に、明治時代に政府の命令で僧籍を捨て神職に成られた元い泉蔵院の初代熊野神社宮司様が昔、頼朝公が開いた修験道の大道場だった事を伝える為に名残を残して下さっています。CIMG1475
その名も泉蔵社と言う摂社です。
ここに神仏習合時代の仏様達が祀られているそうですが、それが御分霊を祀っているのか、将又(はたまた)仏像その物が収蔵されている訳ではないそうです。
恐らく神仏分離令が発布されて熊野神社だけを残し泉蔵院が廃寺に成った際に、周辺の御寺サンに仏様達は譲って守って頂いたのかも知れませんね。
まぁ、泉蔵院も戦国時代に房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有るので、その時に仏様ももしかしたら持ち去られていたのかも知れません。
戦国時代には間宮家が奉納した太刀が有り、江戸時代にも存在した事が記録されています。
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この中段を一段上がった場所に御本殿が在ります。
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ふむ
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真新しいけど立派な扁額。
本殿へ参拝して左手に目をやると他にも摂社があります。
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摩利支天・・・
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仏教の仏様で元々はヒンドゥー教の神様の戦神。武士に多く崇拝された神様。
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そして御稲荷さん。
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どこの神社に行っても、大きな御寺に行っても、御城の址に行っても、いつもお稲荷さんに御参りする機会が有る。必ずと言って良い程に御社が有る。それだけ昔は庶民に愛された日本人と近しい神様。
小生は毎日、御稲荷さんを行く先々で見かける度に、今日も御参りの機会を頂けてありがとう御座いますと御礼を伝えています。

さて、熊野神社さん、今でこそ小さいけれど、そもそもは泉蔵院と言う大道場の跡だった訳ですが、今では映画やアニメのロケ地に使われてもおかしくない雰囲気の、町の中に残された中原緑地に佇む雰囲気の良い神社で有る事は伝わったでしょうか?
もし、屏風ヶ浦地区や杉田駅周辺に御住まいの方は、是非、御散歩がてら御参りされてみては如何でしょうか?

・・・昨年末に書き書けの神社仏閣まとめて紹介一覧記事、今週から少しづつ更新します。
季節柄税務関連の申告書作成とか忙しく、中々更新できておらず申し訳ありませんね(笑)。


では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!



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