歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:兀庵普寧

前回の記事で金宝山浄智寺を紹介しました。
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浄智寺と言うのは鎌倉市に今も在る臨済宗の御寺でして、鎌倉幕府~室町幕府を通じて歴代征夷大将軍しか住職を任命できない格式の高い❝鎌倉五山❞に定められた寺院の一つでした。
この浄智寺の開山(かいざん=御寺の最初の住職)が兀庵普寧(ごったんふねい)和尚と言う南宋人の高僧で、建長寺の第二代住職を務められた方でした。
※前回の浄智寺の記事は「ココ」←クリック!

そして、同じ時代、兀庵普寧和尚より少し先に元に征服された南宋から亡命していた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)和尚と言う人物もいらっしゃいました。
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写真は蘭渓道隆和尚と関係の深い鎌倉市大船の粟舟山常楽寺です。
この蘭渓道隆和尚は鎌倉幕府第3代執権で名宰相として名高い北条泰時公に大変尊敬された人物でした。
※以前書いた常楽寺の記事は「ココ」←クリック!

浄智寺の開山様と開基様の時代と近代に通じる日本と周辺の日本を敵視する国との関係について、歴史と合わせて説明しておきたいと思います。
浄智寺の開山と成った兀庵普寧和尚や建長寺の住職でもあった蘭渓道隆和尚を、鎌倉幕府執権の北条時宗公は尊敬していたのですが、その御二人から南宋を征服した元や朝鮮軍の様子を具(つぶさ)に聞き取っていたと思います。
その二人の情報から、元(朝鮮)の進駐を一度(ひとたび)許せば庶民も天皇家も武家も皆殺しにされ、美しい日本の山林は馬と羊の放牧地にする為に樹木を焼きつくされてしまうと判断して交戦準備を整えていたのかも知れません。
実際、モンゴルに日本征服を提言した朝鮮軍が日本に攻め込んで来た際に、今の対馬や壱岐の住民は元(朝鮮)軍に捕まると捕虜は全員、男は頭蓋骨を生きたまま叩き割られ、女性はアキレス腱を切断されたり逃げない様にされた上で元の皇帝(に従属する朝鮮)の軍の性奴隷にされました。
こうなる事を鎌倉幕府は御二人の和尚様から聞き取っていて、その情報から対馬・壱岐で起きた事が日本全土で起こる事を予見していたから、北条時宗公は降伏しなかったんでしょう。
朝鮮族やモンゴル族には捕虜にした女性を全員性奴隷にして従軍慰安婦にする歴史が自分達に有りました。
※当然、現在のモンゴルにそんな風習は有りません。

少し話は近代に脱線しますが、もしかしたら…
だから、太平洋戦争後に建国された大韓民国の初代大統領李承晩は、「当然、太平洋戦争中の日本もそうだろうと思い込んだのが原因で従軍慰安婦奴隷を捏造した」のかも知れませんね。
実際彼自身が済州(ちぇじゅ)島で反李承晩勢力を弾圧した際に大量虐殺を行い捕えた女性は全て強姦した上で殺害した事が済州島4・3事件として歴史記録に残っています。
ちなみに李承晩と仲間十数人は、朝鮮王室の李垠(りぎん)殿下が日本に存命中なのに英国に勝手に朝鮮王政を否定した亡命政府を樹立してしまいました。
だから根本的に李承晩は日本政府と交戦した事も無ければ、没落貴族の出身なので朝鮮総督府内部の事情を微塵も知る事が出来る訳が無いんですね。
朝鮮王室の後継者だった李垠殿下は、横浜市の野島に海水浴をしに遊びに来られたそうです。
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その時の滞在先が、伊藤博文公の金沢別邸で、現在も残っています。
伊藤博文公と朝鮮王室の関係は実際の所は極めて良好だったようです。
陸軍と朝鮮王室閔妃派の関係が悪かったので、李承晩が朝鮮王室を無視して自己の政権を樹立する際のプロパガンダとして朝鮮半島のが伊藤博文公を嫌う様に扇動した様ですね。
この時代の朝鮮王室の大院君派は日本政府と当初は関係が良好でした。
この事は当時の欧米の記者達が伊藤博文公の葬儀の際に「朝鮮人にとって最も良い友人だった」と評している事からも、事実が解ると思います。
この話を証明するのが当時の朝鮮半島の米の生産量と流通量から見てとれるのですが、幕末の朝鮮王朝の米の生産量は日本の石高換算で4500万石だった記録が有ります。
それが日本政府による農業近代化支援を受けた後は9000万石超に倍増し、その倍増分は日本や周辺国に輸出され農地を有する現地農民や領主の純粋な収入源と成り、豪農は大変豊かに成りました。
そして日本人に汚名を着せた従軍慰安婦問題ですが、従軍慰安婦ではなく日本軍の娼館についてと言った方が良いでしょう…
今の朴槿恵大統領の御父君の朴正煕大統領が発行した米軍慰安婦の公文書の存在からも、公募した売春婦だった事が歴史資料からも判明しています。
…まぁ、ちゃんと自分で古文書読んだり二次資料や三次資料でも読めば、事実はすぐに解るんですよ。
もし、この御寺を建てた北条時宗公や漢族の兀庵普寧和尚様と蘭渓道隆和尚様がいらしゃらなかったら、モンゴル族や朝鮮族に蹂躙され今の日本国は無かった訳です。

鎌倉の武士文化は、実は元に屈しなかった南宋の高僧達の影響も受けて高度な兵法と文化を導入し花開き、そして元軍と朝鮮軍を撃退する程の扶桑武士の強さに中国渡来の学問が融和し、室町文化へと繋がって行った訳ですね。
その継承者の代表格が、鎌倉五山の一つ臨済宗建長寺で軍事や文化を学んだ関東屈指の名軍師太田道灌公であり、同じく鎌倉でも活躍され臨済宗と関係深く曹洞宗の開祖とされる道元上人の残した文化を大切にされた北条早雲公で早雲公も戦国時代の関東に先進的な政治体制を導入した名将として名を残しました。
そして、この道灌公と早雲公は神奈川を舞台にライバルとして外交戦争と武力戦争でも協力したり敵対したりしながら、御互いをライバルとして認めていた様です。
道灌公が亡くなると、政治外交的な要因で対立していた北条早雲公は道灌公の菩提寺を復興し御廟所を整備し、道灌公を御祭神とした太田神社を造営されています。

歴史は必ず過去からも現在からも双方向に繋がります。
神社や御寺は、昔の人の文化を受け継いだタイムマシーンの様な場所です。
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鎌倉武士と南宋の高僧達の文化を今に伝えてくれる静かな鎌倉の神社と御寺は、実は日本を守った鎌倉武士の学問の場でもあり、武家文化の醸成地だった訳ですね。

では!又、次のブログ記事で。
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北鎌倉駅の近くには浄智寺と言う大寺院が在ります。
現在では自然に囲まれた、広大な敷地に静かに佇(たたずむ)む清々しい空気感に満ちた御寺です。
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この寺院は、鎌倉時代の名宰相北条時宗公が開基となり、当時モンゴル帝国に征服された南宗から亡命して来た兀庵普寧(ごったんふねい)和尚が開山と成られた由緒有る御寺ですね。
北条時宗公と言えば、朝鮮から日本討伐を提言された元帝国から降伏する様に脅迫の使者が送られて来た際に、モンゴル(元)に降伏せず戦う事を決定して日本を守った名宰相ですね。
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鎌倉五山のと言うのは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五座の御寺の事です。
大変格式の高い御寺でして…
鎌倉時代は幕府の執権北条家の当主、室町時代に成ってからは京都の足利家の本家征夷大将軍しか、この鎌倉五山の御寺の御住職様を任命する事が出来ませんでした。
つまり、この歴代の住職は、室町時代までは将軍様の御声掛かりの御寺だった訳です。
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現代では6月にも成れば、参道境内の所々に紫陽花の咲く静かで素敵な御寺です。
ところで…
この御寺の開基(御寺や神社の造営者)の北条時宗公は開山(最初の住職)に招いた兀庵普寧和尚や蘭渓道隆和尚と言った中国大陸の漢族の和尚様達を大変尊敬していらっしゃった様ですが、同時に、南宗からの亡命者を受け入れる事で元の征服により滅びる南宋文化を保護し、更に元(モンゴル軍と朝鮮軍)の動向を詳しく聞いていたのだと思います。
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そして、元(の威勢を利用した朝鮮)との対決を決めたのだと思います。
なんだか今の台湾と日本の繋がりみたいですね。
日本に来た孫文先生がいなければ今の臺灣は無かったし、臺灣の蒋介石先生がいなかったら現代の日本も無かった。
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浄智寺は素敵な場所なのですが、若い世代に余り知られておらず観光客が少ないので、本当にゆっくり時間を過ごせます。
この御寺は、緑と花に囲まれた広大なスペースが有りますが、その規模を史実を用いて表現するなら・・・
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昔は鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府鎌倉府の将軍)が役職を就任して、鎌倉に入る時や戦地から帰ってくると真っ先にこの御寺に逗留(とうりゅう)する仮御所に成る程、立派な建物が沢山建ち並んでいました。
時代が下り、鎌倉幕府滅亡時や室町時代の戦乱、その時々に支援者が滅亡する度に建造物が維持できなく成り、極め付けは明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で御寺の領地が接収されてしまい、多くの建物を失いました。
小生は毎回批判しますが、当時の明治政府はキリスト教国を模した国家統治を目指し国家神道と言う新しい哲学に基づいた宗教統治をしたせいで、多くの延喜式内社と呼ばれる縄文文化を受け継いだ古代から続く神社や仏教関連の文化財が荒廃或いは消滅してしましました。
明治政府の唯一無二の失政は、この古来の伊勢系以外の神社弾圧と仏教弾圧により多くの文化財を消滅させた事だけだと思っています。
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ここまで説明すると、何となく御理解頂けたと思いますが、つまり…
この御寺に自然が多いのは、古来多くの堂宇(どうう)が立ち並んでいた場所の建物を、新田義貞軍よる略奪放火や明治時代の宗教弾圧による困窮から、建物が失われた訳です。
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そして、建物の在った場所に歴代の御住職がせめて文化的な心の休まる場に成る様にと、多くの御花や樹木を植えられた訳ですね。
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関東の紫陽花の名所として有名な御寺は鎌倉の長谷寺と、浄智寺と同じ北鎌倉地区の明月院が有名です。
この浄智寺は紫陽花の株は少ないのですが、境内の各御堂の散策路は本当に素敵な雰囲気を醸し出していて、一人でゆっくりしに来ても、カップルで手を繋いで歩いても、良い時間を過ごせます。
ついでに神奈川県の紫陽花の名所も三ヵ所紹介して置きます。
●【北鎌倉駅から徒歩10分の明月院ここクリック!
●【鎌倉市江ノ電長谷駅近くの長谷寺】←ここクリック!
●【横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)の永谷天満宮】←ここクリック!
この内、明月院は浄智寺や2015年公開の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台に成った東慶寺からも徒歩圏内です。
東慶寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!
駆け込み女と駆け出し男
この浄智寺、是非、紫陽花の季節や鎌倉江の島七福神巡りで他の御寺や神社サンと一緒に散歩されてみて下さい。
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鎌倉江の島七福神は↑こんな可愛い専用の色紙を購入すれば、こちらに各寺社の御朱印を頂けます。
この七福神御朱印巡りは1日では回り切れないので鎌倉や湘南に遊びに行く良い口実にも成り、数回に分けて充実した休日を過ごせると思います。
鎌倉の各地域を散策する事が出来ますよ~。
話を浄智寺に戻します。
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本当に色んな草花樹木が植えられていて、目の保養に成ります。


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何だか鎌倉時代にタイムスリップした様な雰囲気です。
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この、植木の散策路を歩いていると、そのまま大木に囲まれた道に出ます。
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この日は御婦達のグループもいました。因みに2年前の2014年の6月。
北鎌倉は紫陽花の季節なのに、こんなにユッタリ散歩出来るんですよ。
勿論、この遊歩道も広大な浄智寺の境内の一部分で、この先には昔の武将達の矢倉(やぐら=廟所)や布袋様の祀られているエリアにもつながっています。
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この隧道(トンネル)の先が布袋様。
残念ながら、布袋様の写真は撮り忘れていました。
そして、その先が庫裏(事務所:住居スペース)に繋がる出口です。
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どうやら家康公がちょくちょく旧鎌倉郡の野庭城~玉縄城周辺に鷹狩に来られた際に、浄智寺に山門を寄進されたそうで、それ以来、葵紋の使用を許されたそうです。
徳川家康公と参謀の本多正信公は熱心に神仏を保護された殿様だったので、横浜市や鎌倉市や藤沢市には、結構、徳川家所縁の御寺が残っているんですよ~。

6月、紫陽花の季節に成ったら是非!御隣の東慶寺サンや、北鎌倉の紫陽花寺として有名な明月院と合わせて御散歩してみては如何でしょうか?

あ~!そうだ!
開山の兀庵普寧(ごったふねい/ごつあんふねい)和尚様!
実は現代の日本語のグチャ混ぜって意味で使う「ごっちゃごちゃ」とか「ごったごた」の語源に成った人物だそうです。
鎌倉時代の臨済宗は、講義を中国大陸の華語(中国語)で行っていたので、恐らく兀庵普寧和尚はまだ華語の出来ない若い僧侶の為に、華語だけでなく日本語を交えながら解り易く御講義された様です…
だから❝日本語と華語が、ごったごた混ざってた❞事から、混ざってる事が❝ごったごた/ごっちゃごちゃ❞と成った様です。
建長寺はケンチン汁の発祥地ですし、当時の鎌倉が日本文化を昇華させた強い影響力を持つ重要な場所だった事が解る話ですね♪

では、又、次のブログ記事で。
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