横浜市には神奈川屈指、いやいや日本規模でも聖地(パワースポット)に挙(あ)げられる熊野社(くまのしゃ)が在るのを御存知の方は少ないと思います。
その名も師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)と言います。
昨今、自作自演の詐欺紛いの偽パワースポットを捏造する新しい神社仏閣も多いですが、ここは光孝天王の勅願所だった由緒正しい熊野社です。
天皇家の勅願所(ちょくがんじょ)と言うのは、天皇自らが祈願する国の安寧や何某(なにがし)かの重要な御祈りを、その神社仏閣の宮司様や和尚様が天皇陛下に代わって神様や仏様に御願いする場所の事です。
つまり、この師岡熊野神社は古くは光孝天王の時代から、天皇家が祈願を依頼した霊験あらたかな場所と言う訳です。
境内には古代からの自然湧水のパワースポットも現存し、その聖地としての存在価値は光孝天王以来歴代天皇の勅願所だった事が示しています。
聖地や施設の説明は後回しにして…
熊野社と言ったのは敢えてそう言いましたが、昔の人は神様ごとに神社の種類をちゃんと分けて呼んでいたので敢えて、昔の人の風習に従って熊野社と言ってみました。
神社を何でもかんでも一色単にして❝神社❞と言う様に成ったのは、たかだか150年ちょい前、国家神道と言う新しい神道を管理統合する為の宗教観が出来てからの話なので、本来、全ての神社はそれぞれの系統に従って区別された名前で呼ばれる方が相応しい訳ですね。
例えば…
●熊野社
熊野社なら水神様の御霊を御祀(まつ)りする御社(おやしろ)で、滝や自然湧水の聖地そのものが御神体であったり境内の聖地の場合が本来の形です。別名で十二所神社と呼ばれる場合も有ります。
正に、この師岡熊野神社は自然湧水の聖地が数カ所有りますし、鎌倉市十二所の十二所神社は周辺の朝比奈峠に小さいながらも滝や多くの沢の水源が有ります。
熊野社の総本山の熊野大社は、本来は聖地熊野三山から流れる熊野川の中州に在りました。
上の写真は師岡熊野神社本殿裏の「❝の❞の池」です。
古代から自然湧水が枯れる事の無い、小さくとも聖なる池です。
●八幡社
八幡社なら誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩を御祭りする御社で、古い八幡社は大河川や海辺の水害の多い地域や古代の港湾の近くに御祀りされています。
日本でも指折りの鶴岡八幡宮は本来は現在の位置では無く、鎌倉市の材木座海岸に面した土地に、源頼義公が石清水八幡宮の御分霊を勧進し社殿を建立しました。由比ガ浜や材木座の海の安寧を願っての正に高潮避けの治水の神様としての勧進なのが解ります。
平安時代からの八幡社の総本社格である石清水八幡宮は、その鎮座する男山に自然湧水の池と小規模な滝が有り水神の性格も有りますが、何よりも古代は眼前に巨椋池と言う巨大な湖が有り、その巨椋池から流れる木津川や淀川は度々決壊する大河川でした。八幡社総本社格だけあり典型的な八幡社の役割を期待され誉田別尊の御霊を勧進する事で治水を祈願した先人の苦労が判ります。
又、応神天皇の武勇に肖(あやか)り軍神としての性格も持ち合わせています。
●弁天社
現在では弁財天と書かれますが、本来は❝辯才天❞と書かれ後に日本で❝辨財天❞とも書かれる様に成ったインド神話の神様でサンスクリット語の名前はサラスバティーです。
明治時代に成ってから弁天社の神様は壱杵島姫が習合されました。
辯才天辨財天と敢えて書いたのは、この神様は御利益が多く、本来は軍才の神様の性格を持つ戦神でしたが後に江ノ島の弁天様を信仰した河内源氏の源頼朝公や、滋賀県の竹生島の弁天様を信仰した宇多源氏の佐々木家が大いに繁栄した事から財神としての性格がクローズアップされる様に成り日本で辨財天の字も当て嵌めれる様に成りました。
戦神だったので、鎌倉時代、頼朝公の成功に肖(あやか)って自領に弁天社を作る武将が多かったので鎌倉武士の居た土地には大体、弁天社が鎮座しています。
この様に、本来、神社は神様によって役割が異なり、やたらめったら縁結びを御願いしたり合格祈願をするもんじゃないんですね。
さて、神社の神様にはそれぞれに役割が有る事が解った所で、師岡熊野神社が何で聖地なのかに話を戻しましょう。
この師岡熊野神社は周辺が平地で、この岡は比較的高い場所に在るのに、その丘の上と周辺に自然湧水地が在るので聖地なんです。
「それの何が珍しいの?」
と思うでしょうか…
地理の歴史を説明します。
この師岡熊野神社の鎮守の森は権現山と言われています。
熊野神社は、どこも奈良時代~江戸時代が終わるまで神仏習合の神様でしたから、師岡熊野神社の事も熊野権現と呼んだ訳で、つい160年前までの長い文化を引き継いだ名残りの地名がこの権現山です。
そして、この権現山からは貝塚が発掘されており、日本の神代に当たる縄文時代~弥生時代に既に人間の営みが行われていた場所なんです。
では何で、光孝天皇に聖地として勅願所に指定された、この師岡熊野神社の境内から貝塚が見つかるのでしょうか?
※ネット拝借地形画像
この師岡熊野神社の有る一帯は、古代、縄文時代~弥生時代位までは海でした。
つまり、古代から聖地であるこの場所は、周辺が海なのにも関わらず奇跡的に豊富な淡水の自然湧水が有ったので古代人も生活拠点を築けたんですね。
「は?」
「古代人が村作ってたから何なの?」
…と、思う人がいたら貴方の日本の神様に対する信仰心は偽物ですね。
関東最古の大社、鷲宮神社のある総国(下総上総)を鷲宮の土地から開発して行った神話の出雲族の御神孫達は、最初27人から土地開発を始めたんですよ。寧ろ、この人数は考古学的には村の初期の単位としては非常に信憑性が有る数字だとも言えます。
つまり、この師岡熊野神社の境内から貝塚が出て、嘗(かつ)ては海のど真ん中だった半島の上で貴重な飲み水が“こんこん”と湧き出ていたこと自体が当時の人からみても奇跡で、海が干上がって工作に適さないまだ塩分の多い土腐(どぶ)地帯に成っていた時でも平安時代の人々からすれば美味しい飲み水が有る事は奇跡で、そこを中心に街道が整備されて行って国が開拓されて行った訳です。
※ネット拝借地形画像
縄文時代の横浜市北部は、半分は海の底で半分はリアス式海岸の体を成していました。
東急東横線の綱島駅一帯なんて、本当に綱❝島❞だったんですから。
師岡熊野神社の在る場所が、古代は❝太尾岬❞と言う半島だった平野にポコっとした丘陵地帯です。
古代は本当に❝太い尾っぽ❞の様な形状の半島だったので、太尾岬と呼ばれた名残が現代でも太尾と言う隣接地域の地名に留められている訳ですね。
この様に地名には本来の意味があるのに、勝手に大手開発業者や土建屋が「○○ニュータウン」とか「○光台」とか地名を変えてしまうのは日本宗教観から言っても不遜不敬極まりない行為な上に、その土地の特性を有耶無耶に隠してしまう彼等の悪事で詐欺的な土地評価額偽装行為なんですね。
この様に古い神社は大体が丘の上に在るのは、古代は海が今より内陸まで入り込んでいた為です。
その境内の古代人の生活跡の自然湧水の在る師岡熊野神社を光孝天皇が勅願所に定めたのは当然ですよね?昔は周りが海や土腐(どぶ)だったのに、枯れない清涼な飲み水の湧き続ける泉を有する神社なんですから。
ですから、恐らく、その光孝天王の祈願内容は旱魃(かんばつ)=旱(ひでり)による水不足が起きた際に対策としての❝雨乞い❞だったはずです。
この推測を証明してくれる神事が受け継がれている❝場所❞が、師岡熊野神社の「❝い❞の池」です。
この「❝い❞の池」は古くから雨乞い神事が行われていたそうです。
他にも「❝ち❞の池」も有りましたが、例の如く文化史跡破壊が得意な横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が開発容認してしまいあろう事か埋め立てられ、現在では大曾根第二公園に成ってしまいました。
これらの池を並べると、❝い❞❝の❞❝ち❞と成るので、古来人々の命を繋ぐ水源だった事が伝承する神事と、記録と名前から解ります。
さて、古代の聖地と水源が関連深い事が御理解頂けたと思いますが、実は、この事が多くの平安時代~戦国時代の御城が神社や御寺の在る場所に建てられた理由でも有る訳です。
御城と言うのは敵が攻めて来た時に、領民の農民を匿(かくま)って防衛戦争を行う場所なので、険阻な丘陵地形と同時に❝飲み水の確保❞が第一条件に成る訳です。ですから、聖地に後に社殿が造営された神社仏閣の場所に御城が築城される事が多かった訳ですね。
その南関東での代表例が東京都の深大寺城、滝山城です。
深大寺城は豊富な水源を利用した水車動力の石臼で引く蕎麦切りが名物で現在もその伝統が受け継がれていますし、滝山城には弁天池と呼ばれる水源を堰き止めた池と山王権現社が有りました。
さて、ここまで話して何故(なにゆえ)、師岡熊野神社の湧水が昔の人にとって聖地としての価値を有していたか、そして何故にそこに貝塚が有るかが御理解頂けたとも思います。
貝塚があり海の真ん中の半島に飲み水に成る自然湧水が有る事が聖地なのか、紐解けたと思います。
この聖地としての価値を証明する材料が冒頭で述べて歴史偉人の、この熊野社に対する信仰です。
では、師岡熊野神社を勅願所にしたり、社殿を建設した歴史偉人を列挙してみましょう…
光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇…
歴史好きで感の良い人は直ぐに判(わか)ると思いますが、源氏の始祖の天皇ばかりです。
そして…
北条早雲公・徳川家康公・徳川家光公・徳川家綱公。
…関東の覇者達から、領地の安寧を願って信仰された訳ですね。
それ故(ゆえ)、権現と呼ばれ自然崇拝の神仏習合の発想に基づいて❝関東随一大霊験所熊埜宮❞の異名を光孝天皇より賜(たまわ)っているんですね。
その異名は完全に聖地認定を天皇家より受けている証拠と成る訳です。西暦800年代後半の話です。
凄いでしょう?
古い神社ですので最初の本殿も光孝天皇の代に造営され、その後、幾度の再建を経ているとは雖(いえど)も現在の本殿も正徳4年(西暦1714年)の建立(こんりゅう)です。既に300年の歴史が有ります。
拝殿は明治17年(西暦1884年)の建立です。
因(ちな)みに、この外観は覆(おお)い殿と言って昨今歴史有る神社仏閣で見られる建物ですが、本来の歴史有る神社仏閣の建物が文化財指定されたり貴重な建築文化財の場合に、本殿や御堂を丸ごと囲って保護してしまう建築物の事です。
覆い殿の部分は材木が新しいので一目瞭然。
この師岡熊野神社の建築物と神事を後世に伝承させようと言う、宮司様や氏子サン達の気概を感じる覆い殿の増築ですね。
素晴らしい!
港北区民は郷土愛が深く実に文化と史跡保護に熱心な文化度の高い方が多い!実に素晴らしい!
この歴代天皇と関東統治者が大切にした師岡熊野神社を守って来た氏子さん、笠原家の大曾根城址の景観を守ろうとした大曾根商店街の皆さん、鎌倉時代の名将佐々木高綱公の居館跡の鳥山八幡宮や高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺を守って来た鳥山地区の氏子サンや檀家さん、北条幻庵公が城主を務めた小机城址市民の森を守り通した区民皆さん、それ等全ての港北区民の心意気と言い、真に敬服するばかりです。
そんな郷土愛の強い港北区の師岡熊野神社の氏子サン達なので、明治時代の一村一社令と言う政令で破壊された周辺神社の御霊もちゃんと遷座した上で新たに綺麗な摂社の御社を建て、神仏習合文化の石仏も大切に保護されていました。
この関東地方は出雲神族の御神孫が古代に開拓を行い、平安時代に菅原氏と桓武平氏と源氏の武将達が文化を昇華させたので、この摂社に御祭りされている神様はどれも坂東武者が進行した神様ばかりですね。
ここの説明では山王社は日吉神社とされているますが、関東の開発に貢献された河内源氏の御一族は神仏習合と自然神に対する信仰心が強く修験道の影響も受けていたので関東における山王社と呼ばれる神社は山王権現だけでなく蔵王権現を明治時代に習合している場合が多く、実際に軍神として武士団に崇められた名将の源義家公は八王子の滝山城址に蔵王権現の御堂を修復していたりします。源頼朝公も山岳信仰をされた方で伊勢原市の大山や富士山を登山したり富士山の化身とされた此花咲耶姫命を御祀りする浅間神社を横浜市内に造営されています。
その他に、海や大河川を鎮める鶴岡八幡宮を元とした八幡社も多く造営した伝承が関東各地の八幡宮に残ります。
八幡社も明治以前は御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)は別名❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の天皇家の文化を代表する神様の一つです。京都府八幡市の石清水八幡宮や鎌倉市の鶴岡八幡宮には明治時代まで多宝塔も有りました。
師岡熊野神社を“大霊験所”として信仰した光孝天皇はじめ宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇等源氏の始祖に成られた天皇のいずれも神仏習合の時代に生きた方々ですので、神職と仏僧の両方の特性を持つ修験道の山伏達や修行者も大切にされたのでしょうね。
その影響を引き継いだのが源義家公や源頼朝公は自然信仰を大切にされたのでしょう。
日本人の宗教観は明治時代以前はおおらかなものだったので、八幡信仰や、この熊野神社に見られる権現信仰の様に自然崇拝や自分の祖先に当たる神様を祀る祭礼や歴史偉人を供養する菩提寺や仏教経典を全て、文化として等しく継承したんですね。
そして、この師岡熊野神社は、周辺が海に囲まれていた縄文の古代からの聖地なので、裏の権現山に貝塚が有る訳ですが、この権現山は少し変わった風景を見る事が出来ます。
新幹線が丘の下を走っているんですねぇ~。
望遠レンズを持ってる人なら、横浜~品川間の新幹線が住宅街の真ん中を走り抜ける様子を撮影する事が出来ます。
古代の人に大切だった、この師岡も…
平安時代~戦国時代には古代からの開拓された集落を結ぶ街道が出来て、その街道を抑える師岡付近には大曾根城や小机城、佐々木高綱公の鳥山城館が築かれました。
…現代には新幹線や第三京浜道路が通り人と物の輸送を担う日本の大動脈とも言える土地にまで成長した訳ですね。
最初に、この師岡熊野神社の神泉を見つけ飲料水を確保し集落を形成した先人への歴代天皇と関東統治者のリスペクトが、この❝関東随一大霊験所熊埜宮❞には沢山詰まっている訳です。
きっと、皆さんの御自宅の近くにも、思いがけない歴史を持つ神社や御寺さんや城跡の山が有ると思います。
町で買い物をするのも良いですが、ちょこっと都会の喧噪を離れて近所の鎮守の森を散歩してみませんか?
そこには先人とのタイムカプセルの役割を果たして来た歴史が詰まっているかも知れませんよ?
では!、又、次のブログ記事で御会いしましょう!
その名も師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)と言います。
昨今、自作自演の詐欺紛いの偽パワースポットを捏造する新しい神社仏閣も多いですが、ここは光孝天王の勅願所だった由緒正しい熊野社です。
天皇家の勅願所(ちょくがんじょ)と言うのは、天皇自らが祈願する国の安寧や何某(なにがし)かの重要な御祈りを、その神社仏閣の宮司様や和尚様が天皇陛下に代わって神様や仏様に御願いする場所の事です。
つまり、この師岡熊野神社は古くは光孝天王の時代から、天皇家が祈願を依頼した霊験あらたかな場所と言う訳です。
境内には古代からの自然湧水のパワースポットも現存し、その聖地としての存在価値は光孝天王以来歴代天皇の勅願所だった事が示しています。
聖地や施設の説明は後回しにして…
熊野社と言ったのは敢えてそう言いましたが、昔の人は神様ごとに神社の種類をちゃんと分けて呼んでいたので敢えて、昔の人の風習に従って熊野社と言ってみました。
神社を何でもかんでも一色単にして❝神社❞と言う様に成ったのは、たかだか150年ちょい前、国家神道と言う新しい神道を管理統合する為の宗教観が出来てからの話なので、本来、全ての神社はそれぞれの系統に従って区別された名前で呼ばれる方が相応しい訳ですね。
例えば…
●熊野社
熊野社なら水神様の御霊を御祀(まつ)りする御社(おやしろ)で、滝や自然湧水の聖地そのものが御神体であったり境内の聖地の場合が本来の形です。別名で十二所神社と呼ばれる場合も有ります。
正に、この師岡熊野神社は自然湧水の聖地が数カ所有りますし、鎌倉市十二所の十二所神社は周辺の朝比奈峠に小さいながらも滝や多くの沢の水源が有ります。
熊野社の総本山の熊野大社は、本来は聖地熊野三山から流れる熊野川の中州に在りました。
上の写真は師岡熊野神社本殿裏の「❝の❞の池」です。
古代から自然湧水が枯れる事の無い、小さくとも聖なる池です。
●八幡社
八幡社なら誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩を御祭りする御社で、古い八幡社は大河川や海辺の水害の多い地域や古代の港湾の近くに御祀りされています。
日本でも指折りの鶴岡八幡宮は本来は現在の位置では無く、鎌倉市の材木座海岸に面した土地に、源頼義公が石清水八幡宮の御分霊を勧進し社殿を建立しました。由比ガ浜や材木座の海の安寧を願っての正に高潮避けの治水の神様としての勧進なのが解ります。
平安時代からの八幡社の総本社格である石清水八幡宮は、その鎮座する男山に自然湧水の池と小規模な滝が有り水神の性格も有りますが、何よりも古代は眼前に巨椋池と言う巨大な湖が有り、その巨椋池から流れる木津川や淀川は度々決壊する大河川でした。八幡社総本社格だけあり典型的な八幡社の役割を期待され誉田別尊の御霊を勧進する事で治水を祈願した先人の苦労が判ります。
又、応神天皇の武勇に肖(あやか)り軍神としての性格も持ち合わせています。
●弁天社
現在では弁財天と書かれますが、本来は❝辯才天❞と書かれ後に日本で❝辨財天❞とも書かれる様に成ったインド神話の神様でサンスクリット語の名前はサラスバティーです。
明治時代に成ってから弁天社の神様は壱杵島姫が習合されました。
辯才天辨財天と敢えて書いたのは、この神様は御利益が多く、本来は軍才の神様の性格を持つ戦神でしたが後に江ノ島の弁天様を信仰した河内源氏の源頼朝公や、滋賀県の竹生島の弁天様を信仰した宇多源氏の佐々木家が大いに繁栄した事から財神としての性格がクローズアップされる様に成り日本で辨財天の字も当て嵌めれる様に成りました。
戦神だったので、鎌倉時代、頼朝公の成功に肖(あやか)って自領に弁天社を作る武将が多かったので鎌倉武士の居た土地には大体、弁天社が鎮座しています。
この様に、本来、神社は神様によって役割が異なり、やたらめったら縁結びを御願いしたり合格祈願をするもんじゃないんですね。
さて、神社の神様にはそれぞれに役割が有る事が解った所で、師岡熊野神社が何で聖地なのかに話を戻しましょう。
この師岡熊野神社は周辺が平地で、この岡は比較的高い場所に在るのに、その丘の上と周辺に自然湧水地が在るので聖地なんです。
「それの何が珍しいの?」
と思うでしょうか…
地理の歴史を説明します。
この師岡熊野神社の鎮守の森は権現山と言われています。
熊野神社は、どこも奈良時代~江戸時代が終わるまで神仏習合の神様でしたから、師岡熊野神社の事も熊野権現と呼んだ訳で、つい160年前までの長い文化を引き継いだ名残りの地名がこの権現山です。
そして、この権現山からは貝塚が発掘されており、日本の神代に当たる縄文時代~弥生時代に既に人間の営みが行われていた場所なんです。
では何で、光孝天皇に聖地として勅願所に指定された、この師岡熊野神社の境内から貝塚が見つかるのでしょうか?
※ネット拝借地形画像
この師岡熊野神社の有る一帯は、古代、縄文時代~弥生時代位までは海でした。
つまり、古代から聖地であるこの場所は、周辺が海なのにも関わらず奇跡的に豊富な淡水の自然湧水が有ったので古代人も生活拠点を築けたんですね。
「は?」
「古代人が村作ってたから何なの?」
…と、思う人がいたら貴方の日本の神様に対する信仰心は偽物ですね。
関東最古の大社、鷲宮神社のある総国(下総上総)を鷲宮の土地から開発して行った神話の出雲族の御神孫達は、最初27人から土地開発を始めたんですよ。寧ろ、この人数は考古学的には村の初期の単位としては非常に信憑性が有る数字だとも言えます。
つまり、この師岡熊野神社の境内から貝塚が出て、嘗(かつ)ては海のど真ん中だった半島の上で貴重な飲み水が“こんこん”と湧き出ていたこと自体が当時の人からみても奇跡で、海が干上がって工作に適さないまだ塩分の多い土腐(どぶ)地帯に成っていた時でも平安時代の人々からすれば美味しい飲み水が有る事は奇跡で、そこを中心に街道が整備されて行って国が開拓されて行った訳です。
※ネット拝借地形画像
縄文時代の横浜市北部は、半分は海の底で半分はリアス式海岸の体を成していました。
東急東横線の綱島駅一帯なんて、本当に綱❝島❞だったんですから。
師岡熊野神社の在る場所が、古代は❝太尾岬❞と言う半島だった平野にポコっとした丘陵地帯です。
古代は本当に❝太い尾っぽ❞の様な形状の半島だったので、太尾岬と呼ばれた名残が現代でも太尾と言う隣接地域の地名に留められている訳ですね。
この様に地名には本来の意味があるのに、勝手に大手開発業者や土建屋が「○○ニュータウン」とか「○光台」とか地名を変えてしまうのは日本宗教観から言っても不遜不敬極まりない行為な上に、その土地の特性を有耶無耶に隠してしまう彼等の悪事で詐欺的な土地評価額偽装行為なんですね。
この様に古い神社は大体が丘の上に在るのは、古代は海が今より内陸まで入り込んでいた為です。
その境内の古代人の生活跡の自然湧水の在る師岡熊野神社を光孝天皇が勅願所に定めたのは当然ですよね?昔は周りが海や土腐(どぶ)だったのに、枯れない清涼な飲み水の湧き続ける泉を有する神社なんですから。
ですから、恐らく、その光孝天王の祈願内容は旱魃(かんばつ)=旱(ひでり)による水不足が起きた際に対策としての❝雨乞い❞だったはずです。
この推測を証明してくれる神事が受け継がれている❝場所❞が、師岡熊野神社の「❝い❞の池」です。
この「❝い❞の池」は古くから雨乞い神事が行われていたそうです。
他にも「❝ち❞の池」も有りましたが、例の如く文化史跡破壊が得意な横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が開発容認してしまいあろう事か埋め立てられ、現在では大曾根第二公園に成ってしまいました。
これらの池を並べると、❝い❞❝の❞❝ち❞と成るので、古来人々の命を繋ぐ水源だった事が伝承する神事と、記録と名前から解ります。
さて、古代の聖地と水源が関連深い事が御理解頂けたと思いますが、実は、この事が多くの平安時代~戦国時代の御城が神社や御寺の在る場所に建てられた理由でも有る訳です。
御城と言うのは敵が攻めて来た時に、領民の農民を匿(かくま)って防衛戦争を行う場所なので、険阻な丘陵地形と同時に❝飲み水の確保❞が第一条件に成る訳です。ですから、聖地に後に社殿が造営された神社仏閣の場所に御城が築城される事が多かった訳ですね。
その南関東での代表例が東京都の深大寺城、滝山城です。
深大寺城は豊富な水源を利用した水車動力の石臼で引く蕎麦切りが名物で現在もその伝統が受け継がれていますし、滝山城には弁天池と呼ばれる水源を堰き止めた池と山王権現社が有りました。
さて、ここまで話して何故(なにゆえ)、師岡熊野神社の湧水が昔の人にとって聖地としての価値を有していたか、そして何故にそこに貝塚が有るかが御理解頂けたとも思います。
貝塚があり海の真ん中の半島に飲み水に成る自然湧水が有る事が聖地なのか、紐解けたと思います。
この聖地としての価値を証明する材料が冒頭で述べて歴史偉人の、この熊野社に対する信仰です。
では、師岡熊野神社を勅願所にしたり、社殿を建設した歴史偉人を列挙してみましょう…
光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇…
歴史好きで感の良い人は直ぐに判(わか)ると思いますが、源氏の始祖の天皇ばかりです。
そして…
北条早雲公・徳川家康公・徳川家光公・徳川家綱公。
…関東の覇者達から、領地の安寧を願って信仰された訳ですね。
それ故(ゆえ)、権現と呼ばれ自然崇拝の神仏習合の発想に基づいて❝関東随一大霊験所熊埜宮❞の異名を光孝天皇より賜(たまわ)っているんですね。
その異名は完全に聖地認定を天皇家より受けている証拠と成る訳です。西暦800年代後半の話です。
凄いでしょう?
古い神社ですので最初の本殿も光孝天皇の代に造営され、その後、幾度の再建を経ているとは雖(いえど)も現在の本殿も正徳4年(西暦1714年)の建立(こんりゅう)です。既に300年の歴史が有ります。
拝殿は明治17年(西暦1884年)の建立です。
因(ちな)みに、この外観は覆(おお)い殿と言って昨今歴史有る神社仏閣で見られる建物ですが、本来の歴史有る神社仏閣の建物が文化財指定されたり貴重な建築文化財の場合に、本殿や御堂を丸ごと囲って保護してしまう建築物の事です。
覆い殿の部分は材木が新しいので一目瞭然。
この師岡熊野神社の建築物と神事を後世に伝承させようと言う、宮司様や氏子サン達の気概を感じる覆い殿の増築ですね。
素晴らしい!
港北区民は郷土愛が深く実に文化と史跡保護に熱心な文化度の高い方が多い!実に素晴らしい!
この歴代天皇と関東統治者が大切にした師岡熊野神社を守って来た氏子さん、笠原家の大曾根城址の景観を守ろうとした大曾根商店街の皆さん、鎌倉時代の名将佐々木高綱公の居館跡の鳥山八幡宮や高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺を守って来た鳥山地区の氏子サンや檀家さん、北条幻庵公が城主を務めた小机城址市民の森を守り通した区民皆さん、それ等全ての港北区民の心意気と言い、真に敬服するばかりです。
そんな郷土愛の強い港北区の師岡熊野神社の氏子サン達なので、明治時代の一村一社令と言う政令で破壊された周辺神社の御霊もちゃんと遷座した上で新たに綺麗な摂社の御社を建て、神仏習合文化の石仏も大切に保護されていました。
この関東地方は出雲神族の御神孫が古代に開拓を行い、平安時代に菅原氏と桓武平氏と源氏の武将達が文化を昇華させたので、この摂社に御祭りされている神様はどれも坂東武者が進行した神様ばかりですね。
ここの説明では山王社は日吉神社とされているますが、関東の開発に貢献された河内源氏の御一族は神仏習合と自然神に対する信仰心が強く修験道の影響も受けていたので関東における山王社と呼ばれる神社は山王権現だけでなく蔵王権現を明治時代に習合している場合が多く、実際に軍神として武士団に崇められた名将の源義家公は八王子の滝山城址に蔵王権現の御堂を修復していたりします。源頼朝公も山岳信仰をされた方で伊勢原市の大山や富士山を登山したり富士山の化身とされた此花咲耶姫命を御祀りする浅間神社を横浜市内に造営されています。
その他に、海や大河川を鎮める鶴岡八幡宮を元とした八幡社も多く造営した伝承が関東各地の八幡宮に残ります。
八幡社も明治以前は御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)は別名❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の天皇家の文化を代表する神様の一つです。京都府八幡市の石清水八幡宮や鎌倉市の鶴岡八幡宮には明治時代まで多宝塔も有りました。
師岡熊野神社を“大霊験所”として信仰した光孝天皇はじめ宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇等源氏の始祖に成られた天皇のいずれも神仏習合の時代に生きた方々ですので、神職と仏僧の両方の特性を持つ修験道の山伏達や修行者も大切にされたのでしょうね。
その影響を引き継いだのが源義家公や源頼朝公は自然信仰を大切にされたのでしょう。
日本人の宗教観は明治時代以前はおおらかなものだったので、八幡信仰や、この熊野神社に見られる権現信仰の様に自然崇拝や自分の祖先に当たる神様を祀る祭礼や歴史偉人を供養する菩提寺や仏教経典を全て、文化として等しく継承したんですね。
そして、この師岡熊野神社は、周辺が海に囲まれていた縄文の古代からの聖地なので、裏の権現山に貝塚が有る訳ですが、この権現山は少し変わった風景を見る事が出来ます。
新幹線が丘の下を走っているんですねぇ~。
望遠レンズを持ってる人なら、横浜~品川間の新幹線が住宅街の真ん中を走り抜ける様子を撮影する事が出来ます。
古代の人に大切だった、この師岡も…
平安時代~戦国時代には古代からの開拓された集落を結ぶ街道が出来て、その街道を抑える師岡付近には大曾根城や小机城、佐々木高綱公の鳥山城館が築かれました。
…現代には新幹線や第三京浜道路が通り人と物の輸送を担う日本の大動脈とも言える土地にまで成長した訳ですね。
最初に、この師岡熊野神社の神泉を見つけ飲料水を確保し集落を形成した先人への歴代天皇と関東統治者のリスペクトが、この❝関東随一大霊験所熊埜宮❞には沢山詰まっている訳です。
きっと、皆さんの御自宅の近くにも、思いがけない歴史を持つ神社や御寺さんや城跡の山が有ると思います。
町で買い物をするのも良いですが、ちょこっと都会の喧噪を離れて近所の鎮守の森を散歩してみませんか?
そこには先人とのタイムカプセルの役割を果たして来た歴史が詰まっているかも知れませんよ?
では!、又、次のブログ記事で御会いしましょう!