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タグ:八幡宮

神奈川県横須賀市に、欧米諸国と南米諸国、アラブ中東諸国、アジア諸国から、ロシア帝国主義を打破した象徴として称賛された第一次世界大戦時の日本の海軍、連合艦隊の旗艦「三笠」を皆さんは御存知でしょうか?
実はその三笠、前々回の記事でも触れましたが「世界三大記念艦」として数えられているのですが…
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実は横須賀市の「三笠公園」に今も「世界各国からの後押しが有り」保存、展示公開されています。
因みに世界三大記念艦とは…
●大英帝国海軍…ヴィクトリー号
●アメリカ合衆国海軍…コンスティチューション号
●日本の明治政府時代の連合艦隊旗艦…三笠
…以上の三隻です。政治的に帝国主義打破、軍事的に稀有な戦果を挙げた名戦艦で、現在も記念艦として保存されているものを指します。
※そこら辺りの内容は前々回の記事リンク「ココクリックして御覧下さい。
(前々回の記事は左翼と右翼が両方発狂する内容ですので閲覧注意!)
※以下イギリス国名を「英国」と呼称します。
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今回は、その戦艦三笠の構造や性能、外観そのものを御紹介差し上げたいと思います。
まず三笠の正面から見た様子です。
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全幅23.2m 喫水8.3m
現代の艦船と比べると、余り大きさは有りませんね。
しかし、ペリー提督がアメリカから乗船して来た時代は木造蒸気船の戦艦だったので、英国の産業革命の偉大さが良く解ります。
因みにこの「三笠は完全な英国製」です。英国は明治政府の近代化を支援して下さっており、英国から軍艦の購入のみならず、太平洋戦争でも活躍した「金剛」の購入時等には建造技術も日本に教授して下さいました。
その後、不幸にも日本は陸軍の暴走により外務省の努力空しく英国との同盟が破たんしてしまい、敵味方に別れてしまいました。

後部はこんな感じ…
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全長131.7m
思ったより船体は背が低く見えますね。
戦艦なのですが、当時の戦艦は全長も現在のイージス艦より小さかったんですね。

現代艦と比較するのはオカシイ話ですが、明治時代の名戦艦と現代の名艦船で色々比べて見ましょう。
日本帝国海軍 戦艦 三笠
全長131.7m
海上自衛隊 護衛艦 こんごう
全長161.0m 
この時代の動力では、この大きさを動かすのが限界だったのでしょうか?
では、エンジンの性能差は? 
三笠
出力: 15,000馬力 
最高時速:33km
航続距離:12,964km(時速18km) 
乗組員:860名
こんごう
出力100,000馬力 
最高時速:55km~ 
航続距離:11,112km(時速36km) 
乗組員:300名
…明治時代の戦艦なので、やはり現代艦とは技術の差を感じますね。

しかし、現代艦が当時の戦艦に劣っている部分も有ります。
それは装甲の厚さです。現代の艦船は当時の戦艦の砲撃の直撃を受けたら大穴空いて沈没します。
これは海戦が直接砲撃合戦から、装甲など意味を成さないミサイル爆撃に戦術が変化した為に現代艦は頑丈な装甲を必要としなくなった訳です。
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これは前部指令室塔を守る装甲ですが、33cmの厚みが有ります。
もし、ミサイル無しで明治の戦艦と平成の護衛艦が主砲だけで打ち合いしたら、護衛艦が瞬殺されるでしょう。 
ただしミサイル撃ち込まれたら三笠も1発で沈みますが…。

砲撃戦闘をする時代の戦艦なので、側面はハリネズミの様に大砲だらけです。
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主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
凄いでしょ?
しかも、この大砲、コンピュータの無かった時代なので当然手動です。
では、この副砲の射撃はどの様に行われていたかを覗いてみましょう…
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1人が照準を合わせ、更に大砲を腰と両手を使って動かします。
1人は弾薬の装填と砲撃。
1人は弾薬の準備でしょうかね?
…超肉体労働かつ数学のクイズを永遠とやる状態。絶対にやりたくない。てか、そんな体力も根性も無い。
しかし当時の人は、体と頭と精神をフル稼働して日本人を守って下さった訳です。
因(ちな)みに、ロシアやソ連と交戦して負けた場合どんな事に成るかは「尼港事件」と言うのを調べれば解り易いかと思います。先人がロシアの植民地化に抵抗し日本海海戦で勝って下さったので現代人はコンビニで御菓子買ってTV見ながらのほほんと生活出来たり、日本や海外の伝統文化を楽しめる訳です。
もしロシアの植民地に成って、その後ソ連にでも成ってたら共産主義独裁政治で民主主義選挙政治は無くなり、伝統文化弾圧や報道規制が行われ、計画経済で商売も自由に出来なくなり、オシャレも楽しめない無文化時代に成っていた事でしょう。

少し脱線しましたが、この副砲のパーツ毎の写真も載せます。
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この手前の輪っかみたいのに腰を入れて左右に動かします。
左上の立て板は、肩を入れて動かす為の物だそうです。
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砲身の後ろには弾を込める蓋と、操縦の為のグリップが有ります。
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このハンドルを回すと、砲身が上下に動きます。
そのすぐ上にアナログの照準と言うか…
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敵艦の距離を計算し、砲弾の射出角なんかを自分で計算する為の機材が有ります…
多分、昔の人の方がPC任せの現代人より、よっぽど頭良かったんだと思います。
…本当に凄い。

この口径15.2cm副砲が14門有り、下層階には更に20門の対水雷艇砲が有る訳です。

因みに手前の側面赤い階段が記念艦三笠への出入口です。
拝観チケットは、三笠公園入ってすぐの売店の自販機で販売しています。
入口階段の傍には、当時の色んな戦艦の砲弾が展示されています。
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世界最大の戦艦、大和の砲弾。
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明治政府時代の海軍と交戦した、満州族政府の中国清朝の戦艦鎮遠等の砲弾。
入口を上がると、後部主砲が出迎えてくれます。
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ベンチが有りますね。
主砲には三笠が参戦した海戦の戦歴が銘板に刻まれています。
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その下には、三笠の砲弾が展示されていて、実際に大きさを間近で体感できる様に成っています。
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でも、これだと良くわかんないでしょう?大きさ。
だから…
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…小生の靴を置いて比較してみました(笑)。
小生は足のサイズ28cmです。
だいたい砲弾は全長90cm位ですかね~?
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この砲弾に使われている下瀬火薬と言うのは、後の「焼夷弾」の様な性能を併せ持った艦船を「焼き尽くす」画期的で凄まじい兵器だったそうです。
もし、この主砲を現在ぶっ放した場合…
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射程距離は現在でも、とんでも無い範囲ですね。
10kmも先の標的を狙い撃ちに出来るようです。
関西で例えるならば…
京都駅から宇治や大山崎辺りまでバンバカ狙い撃ちにされる様な感じですかね。

大阪駅とか梅田駅からだと…
住吉大社や尼崎辺りまで正確に狙い撃ちされる感じですね。
…現代人の感覚でも凄まじい。しかもアナログ計算。明治の人間の脳内コンピュータ恐るべし。

所で、この後部主砲は皇族の伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王が指揮官として黄海海戦時に任務に当たった場所です。その際に伏見宮閣下(当時は軍人だったのでこの尊称を用います)は負傷しました。
また、次の記事で書こうと思いますが、戦艦三笠でも沢山の将兵が戦死しています。
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戦争と言うのは日清・日露戦争の様に必要な防衛の為の戦争も有りますが、三笠は日中戦争や太平洋戦争の様に回避する努力を優先するべき戦争が有る事も考えさせられる場所です。
戦死した方々を含めた先人の御蔭で、日露戦争では日本はロシアの植民地に成らずに済みました。
しかし軍隊が、侵略側に回るか国民を守る側に回るかは政治家次第なので、しっかり国民が中道保守派の政治家を選ばないといけない事も解る場所が、この記念艦三笠なんだと思います。

因(ちな)みに、この後部主砲で活躍された伏見宮閣下の「皇族伏見宮家」ですが、幕末に勅願所(ちょくがんじょ=祈願成就のお願いをする神社仏閣)を福井県の「剣神社」と定めていました。
実は、福井の剣神社の宮司家の御子孫が織田信長公で、剣神社の最初の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)=牛頭天王でした。
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ですので織田家は、愛知に移住後も牛頭天王を祀る津島大社を大切に保護されていました。
なぜ、伏見宮家と織田家の話を出したかと言うと、実は織田信長公は御自身を「第六天魔王=第六天神」と武田信玄との文通の喧嘩の中で自称した事が有るのですが、この三笠公園からそう遠くない隣町の横須賀市田浦町には今上天皇(現在の天皇)陛下の御誕生を祝して造営された梅花の名所「田浦梅林」が在ります。
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その田浦梅林の発祥地は第六天神社の小さな御社(おやしろ)の在る場所です。
そこから第六天神は横須賀の港と市民を見守って下さっているんです。
つまり…伏見宮家⇔織田家⇔第六天神は横須賀と三笠でも御縁が有る訳です。
※以前書いた田浦梅林の風景紹介記事リンクは「ココクリック!

さて、話を三笠の構造と装備に戻します。
主砲がどんな大きさなのか、見て貰いましょう。
下は前部主砲の写真です。
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解り難いでしょうか?
真上から見るとこんな感じ…
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まだ解り難いですかね~?
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艦橋(かんきょう)と言う場所から見た前部主砲。
では正面から…
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横に居る人と比べると、主砲の砲台がメチャクチャ大きい事が御理解頂けるかと思います。
今、艦橋と言う施設に触れましたので、その構造物の説明をしますと…
三笠の前後の主砲付近には「艦橋」と呼ばれる構造物が有ります。
下は多分、後部艦橋の写真です。
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艦橋の下の大砲は主砲じゃなくて副砲です。
後部主砲はテントの屋根の下の先に有ります。
この環境と言う場所が、交戦状態の時に司令官や参謀達が居る場所です。
ここから双眼鏡を使って状況を観察しながら作戦を調整して、伝令用の配管から乗組員達に命令を伝達する訳です。
つまり指揮を執る場所です。
現代の自衛隊の艦船や太平洋戦争中の艦船の「艦橋」も高所に設置されていますが、現在ではちゃんとした指令室に成っており屋根の有る部屋の構造物に成っています。
明治時代当時の艦橋は、この様に文字通り艦「橋」つまり、艦船に設けられた橋の様な構造物で、雨ざらしだった訳です。
当時の将校は風雨に晒され、敵の砲弾が海水に着弾する轟音と自分の乗艦の射撃音の中で良くも冷静に指揮を出来たものだと、頭と精神面の弱い小生は感服するばかりです。

下は前部艦橋です。
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ここが、日露戦争の時に東郷元帥が指揮を執った場所です。
艦橋下部の円筒形の部分が「装甲の厚さの説明」で先に紹介した司令塔です。
司令塔とは書いて有りますが、中は船の舵を執る操舵室(そうだしつ)に成っています。
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後部司令塔は艦橋が敵砲撃で危険な際の指令室の役割を果たす場所なのだと思います。
舵を切る操舵(そうだ=ハンドル)の前に有る真鍮製の円筒形の物は方位磁石です。
方向定めるのに必要ですからね。
この方位磁石は操舵室の他に、司令官が指揮を執る前後艦橋にも有ります。
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上は後部艦橋の方位磁石。本来、正面から見れるのですが、何故か板で蓋をされていました。
下は前部艦橋の方位磁石。正面から見れる様に成っています。
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ついでい艦橋の設備を説明します。
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写真に撮り忘れて面目ないのですが、艦橋の方位磁石と反対のマスト寄りの方には敵艦との距離を計測する機材が備え付けられています。
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艦橋の下、箱状の部屋に成っている場所は正規の操舵室と、後方が海図室です。
つまり航海士がそこに詰めて、現代ならGoogle Earthや人工衛星の様なコンピュータソフトを用いる様な事を人力で地図を見ながら計算し「脳内作業で海上ナビを行っていた」訳です…
凄いですよね、本当に、昔の人達の頭の回転。
海図室はこんな感じです…
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完全に事務室。
操舵室はこんな感じ。
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先程、司令塔にも同じ操舵設備が有りましたよね…
多分、どちらかが敵の砲撃で損傷したり人員が被弾戦死しても、機能維持出来る様に予備施設として二つ準備されていたんだと思います。PCで言う所のバックアップですかね。
それにしても、当時の機材はどれも工芸品の様にきれいですね~。
流石、英国製!
…でも、この艦橋、戦後にアメリカやイギリスや台湾の後押しで復元再建した場所だから現代日本の物かな(笑)?そこら辺はよく解りません。もしかしたら、敗戦後の甲板上部構造物撤去時に米軍か海上自衛隊で保管していたのかも知れませんしね。

この艦橋からは明治時代に作られた要塞で、現在は東京湾の有名な無人島でキャンプ等レジャー施設として利用されている「猿島」が綺麗に見えます。
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つまり、この眺望が無いと戦況は確認出来ないので、艦橋=指令所だった訳です。

さてさて、司令塔周りは何となく御理解頂けたでしょうか?
では、甲板の構造物に話を移します。
三笠は入口から入って来た辺りに通信室が有ります。
艦の真ん中より少し後ろ位でしょうか?
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この写真じゃ良くわかんね~な…
じゃあ、↓こっちで。
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ここでモールス信号使って、世界中の中継地を使いながら日本本土の参謀本部や仲間の艦隊とやりとりしてたんですね~。
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…実は戦国時代の横浜市南東部の殿様、間宮家の顕彰活動で情報を提供して頂いた家臣の御子孫が太平洋戦争中に学徒動員で輸送艦の乗組員に成ったそうなんですが、その方はモールス信号の試験に合格した御蔭で通信兵として輸送船で、この役割を担ったそうです。
御話では、確か1週間位の学習期間で1発合格しないといけないそうです。
難関ですよね。
もし、試験に不合格だったら前線の水兵に成って戦死されていたかも知れませんね…
人間の運命なんて、本当にそう言った僅かな差や出来事で大きく左右される理不尽で無情な物なんですよね。
逆に僅かの差で大きな幸せを掴んだ人もいる訳です。
小生はこの通信室を見て、そんな事を思いました。

船の通信と言えば、艦隊編成で航行中に仲間の船と連絡を取り合う手段があと2つ有りますよね!
一つは手旗信号…
小生詳しくないですし、資料写真も無いので手旗信号はスルーします(笑)。
もう一つが「照明」によるモールス信号ですね。
その照明設備が下の写真です。
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電波通信が妨害されたり不具合生じた時に仲間と目視で連絡を取り合う手段です。
艦橋と確か甲板にも有ったような樹がします。
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又、艦橋の写真ですが、この通信も風雨に晒された中で行う作業なのでさぞかし大変だったと思います。
戦艦三笠は「尼港事件」の時に極寒のシベリア方面にも「邦人とアメリカ人・ロシア系一般市民の救出」に向かった事が有るのですが…
その際、流氷に阻まれて氷原の中で立ち往生した事が有るそうです。
当時、甲板で勤務された将兵は、さぞ辛かったろうと思いますが、小生と違って誰も弱音なんか吐かなかったんでしょうね…。
小生はつくづく現代でしか生きれない弱い魂の持ち主だと思うばかりです。しかも、こんな平和な時代でも生き辛いと感じてしまいます(笑)。海外で感情表に出して言いたい事言って良い環境で生活してる方が楽だったな~とか留学中の事も少し思い出してしましました。
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甲板を写真左側前部主砲の方から船尾の方までパノラマ撮影するとこんな感じに見えます。
多分、主砲を撃つ時に砲身の直ぐ近くにいると衝撃波で目玉が飛び出たり鼓膜が確実に破けると思います。
第2次世界大戦時の世界最大の戦艦大和は、主砲の砲撃時に主砲の傍にいると衝撃波で人が死ぬ程だったそうです。

では、攻防を巡る戦艦三笠としての説明はここまでにして、以下は戦艦三笠で任務に就いていた「水兵・将校・司令官達の居住環境」と「三笠にまつわる神様」の説明をしたいと思います。

まぁ~、軍隊と言うのは政治家の馬鹿さ加減や賢明さや、根本とする哲学で中共やソ連の様な社会主義覇権軍事国家として暴走したり、東条政権での陸軍暴走からの外交失政の様に統制を執れなく成ったり…
逆に!
明治天皇御存命中の東郷元帥の様に日本国民を外国の植民地支配から守ったり、柴五郎大将の様に宗教国籍問わず一般市民をテロリストや宗教差別から守る為に活躍されたり臺灣司令官として現地人からも尊敬されたり、正反対の評価を受ける将校がいる訳です。
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上は関内入口近くに在る「Z旗」の説明看板の写真ですね。
東郷元帥の冷静沈着で国際法も熟知した英明さの結果、日本と旗艦三笠が率いた連合艦隊の日本海海戦での勝利が有った訳ですが、Z旗は現在では「大成功を期する印」としての意味も持つ様に成りました。

軍隊は政治家次第で悪にも善にも成る訳です。
又、勝か負けるかでも将校の評価も変わって行く訳です。もっとも実力主義でなければいけない世界です。
現在の年功序列の公務員制度は自衛隊には相応しくないのも、東郷元帥の抜擢が証明に成っています。
さて…
そんな軍隊は軍隊内の秩序と業務グループ毎の効率を管理する為に厳しい「階級」を基準に組織が編成される訳です。
当然組織は階級によって給与や福利厚生待遇も変わります。これは当時の軍隊も現在の民間企業も同じです。
では、先ずは末端の水兵達の居住空間を覗(のぞ)いて見ましょう… 2015-10-28-14-41-54
下級兵士の寝る場所は、こんなハンモックでした…落ちるだろ(笑)。
こんな布団で寝ながら国をロシアの植民地化から守って下さった当時の水兵さん達に頭が下がります。
最初の方で現在の「護衛艦こんごう」と「戦艦三笠」の乗組員数は比較しましたが、当時の戦艦はアナログ機材とエンジンで動いていたので乗組員も多く、就寝場所の確保すら難しかったのが良く解りますよね。
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860名の乗組員中、830名がこの状況で睡眠をとっていたそうです。
中尉って決して低い身分では無いんですが…
仕事中に満足に休憩する暇が無いとイラツク根性無し小生には、軍隊生活は耐えれないと思います。
しかも!

……
………驚愕の事実が………
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先に大砲の構造の紹介で見て貰いましたが副砲の直ぐ横に吊るされているんですよ!
しかも10名分。
ここで寝るとか…
「絶対に無ぅ~理ぃ~(泣)!」
…と思うのは小生だけですか?
横で同僚がバンバン大砲ぶっ放してる最中でも交代で睡眠とってたんでしょうかね~。
因みに、現代艦こんごうは三笠より全長が30m長く乗員も300名なので、こんなに狭い居住空間と言う事は無いでしょうね。
二段ベット位は有るんじゃないかな?

では、上級将校の職務室と個人部屋を見て見ましょう。
下は幕僚事務室。
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なんか撮影下手ですみません。
でも立派な家具が有るの見えますよね?
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会議を行う机とテーブルはちゃんとした物だし、周辺のソファーは革張りの立派な物ですね。
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まぁ~、これでもかなり狭いんでしょう。
下が参謀長公室です。
恐らく、兼用私室でもあった筈です。
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参謀長一人の部屋で、幕僚事務室と同程度の家具装飾品が備わっています。
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下の写真は箪笥(たんす=クローゼット)ですが…
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箪笥の上が立て板で囲われていますよね。推測ですが、恐らく当時は布団が敷かれていてベッドとしても機能していたんじゃないでしょうかね~?
部屋は5~6畳位、決して広くは有りません。
しかし!
長官=司令官にも成ると待遇がグッと変わり、ちょっと良いビジネスホテル並みに成ります!
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ちゃんと、ユニットバスが長官1人の為に用意されています。
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そりゃそうですよね~。
「偉いから」とか下らない理由じゃなくて、全ての判断に責任を持つ長官は常に心身とも清潔な状態でいてくれないとストレスで判断ミスをする事は許されませんから。この程度の最低限の準備は、従う下級士官達は自分達の生命の行く末を握っている長官の心身の健康の為に納得でしたでしょうね。
まぁ~、逆に悪い例が待遇が良すぎて「大和ホテル」と揶揄された太平洋戦争末期の世界最大の戦艦大和ですが、大和の通常献立も小生は見た事が有るのですが…
贅沢過ぎなんですよ、明治時代の軍人さんに比べて昭和の戦犯軍人達の待遇は。
戦艦大和の献立なんか、フレンチ料理3皿が常時出るんですよ?なんなんですかね?
結果、大和は自分達の役割を全うせず司令官の判断ミスにより、敵のいる陣地への艦砲射撃と敵殲滅をせず敵と交戦前に何故か反転撤退…
この自己防衛的な判断ミスで太平洋戦争の戦況悪化に拍車がかかって行く訳です。
上級公務員の待遇を良くし過ぎるのは既得権益や自己の保身に走らせる厭戦気分を起こす恐れが有る訳ですね。
続いて長官の公室を見て見ましょう。
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三笠に限らず、日本の戦艦には神社と言うか、神棚が据え付けられています。
三笠の鎮守の神様は海上航行の神で有り武神でもある「八幡大菩薩」ですね。
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三笠の起請文(きしょうもん=神様に願い事と、それを実現する為の誓いを立てる約束を記した文章)は八幡大菩薩に対して請願を立てています。
よく「天地神明に誓って!」と言うフレーズは、この起請文を立てるのと同じ意味が有り、嘘偽りが有れば己の氏神や誓いを立てた神仏から神罰仏罰を受けますと言う意味ですね。

国家神道が成立し(日本の古代神が政治上管理され)それが浸透した昭和には全国の八幡宮では「八幡神」と名前を改名してしましましたが、日本の歴史上は八幡宮の神様である応神天皇は「八幡大菩薩」と呼ばれて来ました。
つまり、東郷元帥達も平安貴族、平安武士や鎌倉武士、戦国武将や江戸時代の侍と同じ神仏習合の価値観を大切にされていた事の証明でもあります。
因みに、八幡大菩薩は最初、大分県の宇佐八幡宮に祀られた後で、御神霊が京都の石清水八幡宮に遷座され、現在は京都から日本の安全を見守って下さっています。
下は鎌倉武士団の子孫達や東日本の日本国民、横須賀ベースの米軍海兵から崇拝と人気を集める鶴岡八幡宮です。
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横須賀の三笠公園からほど近い鎌倉にも、現在は日本三大八幡宮と呼ばれる「鶴岡八幡宮」が在りますが、この鶴岡八幡宮を開いたのが京都石清水八幡宮で今で言う成人式を行った鎌倉武士団の始祖である源八幡太郎義家公とその御父君の源頼義公でした。 2015-01-07-17-47-47
写真は夜の鶴岡八幡宮
昔は福岡県の筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)が宇佐八幡宮、石清水八幡宮と合わせて日本三大八幡宮と呼ばれたのですが、それに鶴岡八幡宮を合わせて現代では四大八幡宮の体を成して日本の武家の子孫達から崇拝を受けています。
八幡大菩薩は伝承では自ら名を「八幡大菩薩」と名乗ったと一番古い記録に登場するそうなので、古代からの価値観を踏まえても神仏融合の神様で有り、現代の国家神道を第一とする人の価値観で言う所の「八幡神」では無い事が三笠に来ると良く解ります。
…東郷元帥の御先祖様は、昔は鎌倉郡の一部だった現在の藤沢市に在った村岡城を本拠地にした平安時代の名将、鎮守府将軍平良文(たいらのよしふみ)公です。 2014-09-04-13-09-01
上の写真は平良文公の御廟所の有る藤沢市の二傳寺。
※二傳寺と平良文公の記事は「ココ 」←クリック!
平良文公は鎌倉武士団の元に成った坂東平氏系大名の祖先にも当たる方なので、鎌倉の鶴岡八幡宮とは創建に関わった人々と非常に地縁と血縁も深い殿様でもあるので、武士的な神仏の価値観に基づいて言えば「神仏の中でも軍神格の八幡大菩薩の御霊を備えた三笠に乗船して活躍するのは運命」だったのかも知れません。
下は第11代艦長久保少将の遺品の屏風だそうです。
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日本海戦時の三笠で活躍された当時の秋山真之先任参謀の元同僚だったそうです。
艦長クラスで漸(ようや)く軍務と関係の無い私物を持ち込めたんですね…
下は長官公室ですが、この部屋で漸く少しだけ贅沢な造りに成ります。
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…と言っても、ここも職務室を兼ねているので、完全に私室では無い訳です。
この部屋の下の写真の鏡台に小さい厨子(ずし=神像や仏像をしまう箱)が見えますよね?
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実は、その中には東郷元帥の御遺髪が納められていて御神体として保存されています。
…神仏に抵抗なく、良く歴史偉人の御墓参りに行く小生でも、御遺髪と言うのは少し「ギョっ」としました。
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皇族の御写真も展示されています。
この部屋から、長官専用の外部デッキに出る事が出来ます。
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それがここです。
外に出て気分転換が出来る様に成っていたんですね。
先にも述べましたが、リーダーは常に心身共に清潔で無くては行けない訳です。
ちゃんと寝ない睡眠時間の短い経営者とか、その自分の勝手を従業員にも押し付けたりする事件よく有りますよね?
あんなんじゃ軍隊で人心は付いて来ない訳ですよ。戦闘開始して命を預ける気にも成らない訳です。
心の腐ったリーダーだと「ワ○ミ」のオーナーとか、「たか○ゆり」みたいに従業員に対しブラックな業務を押し付けて従業員に訴えられる様な事を平気でしてしまう訳です。
…東郷元帥や明治時代のリーダーが現代の政商やブラック経営者と全く違う道徳心を持てたのは、ちゃんと心身ともに清潔だったからでしょうね。

この様に、軍隊としての三笠の生活は階級によって福利厚生に差が有りました。
しかし、長官の居住空間でさえ、凄く贅沢な物ではありませんでした。
そう考えると、国家公務員や議員の宿舎も、三笠の長官室程度の設備で十分なんじゃないかと思います。
ユニットバス+寝室+リビング+キッチン…程度?
家族出来たら自分で民間人みたいに勝手に外に家買って住めってんだよ。
…みたいな?明治の東郷元帥の待遇と、昭和の日本人から見た敗戦の責任の有る戦犯将校や現代の腐れ高級官僚と政治家の比較も、歴史の現場を実際に観察すると感じれたりする訳です。
現代社会の「悪」や「誤り」を過去に実例を元に比較判断出来る訳です。
だから、歴史事件の発生現場に行ったり、史跡や城跡や神社仏閣を保護したりちゃんと調査する事が大切な訳ですね。

さて…
小生の歴史観では「歴史は辛い部分もちゃんと見たり、名前を忘れず亡くなった方に対する敬意を大切にしたり、日本に災難や不利益を齎(もたら)した戦犯も名前を晒し続けたりしないといけない」と思っていますので。
ですから、日本海海戦の旗艦三笠ですら戦死者が当然いた事実も、ここに記しておきたいと思います。
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先ずは、戦艦三笠の戦歴の銘板写真です。
拡大しても見れる画素数ですので、じっくり見て頂ければ幸いです。
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【氏名】
 品川一郎 中将 戦死 ※他負傷者1名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 記録するのを忘れました。再訪問の際に再確認し、加筆します。

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【氏名】
 殖田謙吉      少佐
 藤瀬慎二郎 中尉
 深田太郎      上等信号兵曹
 山本佐太 郎 上等信号兵曹
 山口朝蔵   一等軍楽手
 渡辺領吉   一等兵曹
 深沢半次   二等信号兵
 山本寅一   一等軍楽手
 以上戦死。
 ※他負傷者17名、艦長伊地知大佐を含む。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 前部艦橋周辺。

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【氏名】
 水野榮次郎 二等機関兵
 安藤榮太郎 三等機関兵
 以上戦死。
 ※他負傷者09名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 左舷前部の兵員病室(現:講堂付近)。

この他にも多くの方が戦死されていたと思いますが、戦死者銘板を撮影し忘れた場所も有るので、再訪問の際には撮影し、改めて加筆します。

さて…
三笠でも多くの方が亡くなっている事は御理解頂けましたか?
この方々が奮闘して下さった御蔭で現在の日本は在ります。
…それは戦争賛美ではありません。ただ淡々と歴史事実としての無名戦士の記録を我々が忘れない為に記録されているんです。
ロシア帝国主義による日本植民地化を防いで下さったのは「東郷元帥や秋山参謀だけではない」と言う無名兵士達への敬意でもあります。
又、戦争をすれば必ず人は死ぬ、しかし防衛戦争をしなければ人は大量に殺される、大義無き侵略戦争をしても敵味方兵士も戦死するし敵国市民も戦災に遭うと言う、戦争観を示す意味にも成ると思っています。
小生のこの価値観と、この戦艦三笠を記念艦として残す事に御尽力された米国のニミッツ元帥をはじめ、日本人と世界各国の皆さんの思いも、この小生の歴史観と同じだったのだと思います。
それは左右両極端な異常な思考を持つ者への楔(くさび)にも成ると思っています。


では!次回、この記事の続きの更新で又お会いしましょう!


次回は京都の御寺や安土城等を紹介し、12月には初詣向けに神奈川の凄い神社仏閣記事を更新したいと思います!
…気まぐれで最近訪問した御寺や神社やレストランの記事に成るかも知れませんが(笑)! 




ブログネタ
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旅ってのは遠遊ばかりでなく、県内や地域内で散策し安らぎや日常生活の中の発見を感じる小旅行も有りますよね?
皆さんの御近所には、どんな安らぎの場が有りますか?
小生は御縁が有って、最近、世田谷にちょくちょく行きます。
その世田谷区の東急世田谷線の駅の近くには、世田谷城址公園と豪徳寺、世田谷八幡宮、勝光院と言う古跡名刹が点在しています。
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この宮の坂駅、駅に地区センターが併設された少し変わった構造なのですが、駅の名前の由来は世田谷区宮坂1丁目に在るからです。
では、その宮坂の地名の由来ですが…
実は、駅の直ぐ目の前、つまり宮坂地区に「世田谷八幡宮」と言う歴史有る八幡宮が鎮座しているからなんです。
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この世田谷八幡宮は歴史は古く、平安時代に遡(さかのぼ)ります。
鎌倉幕府の創始者源頼朝公の御先祖様で源氏最強の武将だった源"八幡太郎"義家公が創建したとの伝承が有り、その境内には厳島神社も抱えています。
更に戦国時代に成ると、この一帯の殿様だった足利家の一族の蒔田吉良家の吉良頼康公が再興された歴史も有ります。
頼康公、実は横浜市の殿様の笠原信為公と間宮康俊公と協力し、戦災で焼失した鎌倉の鶴岡八幡宮も再建しています。
吉良家は戦国時代、北条家の影響下に入ると横浜市南区の蒔田に蒔田城を築き、古河公方の代理として蒔田御所と呼ばれ非常に重要視されていました。
当時、蒔田城の近くには蒔田湾と言う入り江や笹下川が流れていて、その水運を利用し吉良頼康公が材木を調達運搬し鎌倉の材木座海岸の若江島に輸送したそうです。
この鶴岡八幡宮や鎌倉の復興事業はのべ5万人が関わった大事業で、当時の吉良家の経済力が凄まじく豊かだった事が解ります。そして、その事業を成功させた頼康公の実務能力の高さにも敬服するばかりです。


吉良家は小田原北条家に組した大名だったので、安土桃山時代に豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に、この世田谷八幡宮の近所に在った吉良家の居城の世田谷城も落城し、吉良家は徳川家の支配下で下総(しもうさ)国に転封(てんぷう=領地の引っ越し)をさせられると、その後は徳川家康公により保護されました
なので江戸時代に世田谷八幡宮は大変な権威を誇り、武家の軍事教練として重要だった「相撲」の名所となり「江戸三大相撲」の開催場所だった為、境内には今も土俵が存在しています
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昔はここの土俵に多くの江戸の町民が相撲の取り組みを観戦に来たんでしょうね~。
※吉良家の関連記事は以下をご覧ください。
●蒔田吉良家の御所、蒔田城の記事は「ココ 」←クリック!
●吉良頼康公が間宮康俊公と鶴岡八幡宮を再建された事績の記事は「ココ 」←クリック!

源義家公は河内源氏と呼ばれた氏族です。つまり源氏の中でも河内国、今の羽曳野市辺りを元々本拠地にしていた、その後の源氏の本流に成った一族の平安時代の惣領(そうりょう=親分)です。
義家公は御父君、鎮守府将軍源頼義公と共に、今の神奈川県鎌倉市に拠点を置き、鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)の中の「亀ヶ谷(かめがやつ)」と呼ばれた地域に館を築いて関東地方や東北地方で土地開発や軍事に活躍された方です。その館の跡は今、「亀谷山寿福寺」と言う御寺に成り、源頼朝公の奥さん北条政子様と御次男で鎌倉幕府三代将軍の源実朝公の菩提寺として存在しています。
※以前、寿福寺を紹介した記事は「ココ 」←クリック!

さて、源義家公は神道と仏教の両方の神仏を信奉し、山岳信仰にも熱心だったので、「八幡神」や「権現様」の御社やを各地で創建したり再興したりされています。
この信仰は源頼朝公も引き継いでおり、頼朝公に至っては此花昨夜姫の権化として信仰対象に成っている富士山を、何の登山道具も無かった鎌倉時代に登山し火口を一周されたり、此花昨夜姫の父神の大山祇大神の権化とされる神奈川県伊勢原市の大山を登山したり、その大山信仰の元に成った比々多神社も参拝しています。
※大山阿夫利神社記事は「ココ 」←クリック!
※比々多神社の記事は「ココ 」←クリック!
義家公は御寺の仏様も熱心に信心された方で、その菩提寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺に追い込まれましたが、今も羽曳野市壺井に通法寺と言う御寺の跡が在り、そこに義家公の御廟所が在ります。
そして、その通法寺の近くにもやはり、壺井八幡宮と言う八幡様が在ります。
神仏習合の神様の称号である山岳信仰の対象「権現」を信仰していた痕跡は関東各地にも在りますが、東京都八王子市にも残っていて、それも以前書いた「滝山街道」の記事に有るので御興味有れば御覧下さい。
※源義家公の山岳信仰に関する滝山街道の記事は「ココ 」←クリック!

先に少し触れましたが、この世田谷八幡宮は厳島神社も境内に有ります。
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厳島神社の神様は3柱の姫神様で壱岐嶋媛達が祀られています。
女神さまだから縁結びの御利益が有りますかね~?
古くは海上交通の神様として祀られた神様なので、水神様も信仰していた源氏の義家公や蒔田吉良家らしい神社とも言えるのでしょうか?
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厳島神社自体の御社は小さいものの良く屋根の社紋を見ると…
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蒔田吉良家と血縁が有り、蒔田吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家の家紋が使用されています。
つまり、この世田谷八幡宮内の厳島神社には小田原北条家が少なからず関わっていたと言う事が解ります。

さて、話を世田谷八幡宮そのものに戻します。
世田谷八幡宮は関わって来た歴代殿様が凄い方達ばかりなので、縮小された現在でも可也(かなり)立派な規模を誇っています。
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説明看板も二種類有ります。
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境内は冒頭で掲載した惣門に当たる大鳥居の他に、参道を進むと更にもう一つ石造りの大きな鳥居が参拝者を出迎えます…
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現在も多くの方から信仰され多くの氏子様を抱える八幡様だけあり、中の鳥居には立派な注連縄(しめなわ)が掲げられていました。
禰宜の藏重さんの御話ですと、最近は世田谷八幡宮で神前式を上げる若夫婦も多いそうです。
ウエディングドレスの披露宴も捨てがたいですが、御話を聞いて、披露宴と別に結婚式を自分の家の氏神様で挙げると言うのも古来の習慣を大切にしていて良い日本文化伝承には良い傾向だと個人的に思いました。
無論、教会でも結婚式も神秘的で素敵ですよね。
まぁ、信仰はそれぞれ、日本人はそんな寛容さを古来から持っているし、日本の神様や仏様は外来の神様にも寛容な側面が有るので…
神前式を選ぶかどうか、教会式を選ぶかは日本の場合は権力を握る御嫁さん次第ですね(笑)!

さて、注連縄の掛かった石の鳥居を過ぎ石段を登ると、いよいよ本殿と社務所と神楽殿が見えて来ます。
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素敵な八幡様でしょ~?
住宅街の中の神社なのに清浄な雰囲気が漂っています。
この手前の石段右手に先程の土俵が在ります。
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土俵の横に何か建物が在ったので、これは昔、土地の領主や名主が相撲を観戦する際に利用した建物なんだと思います…
禰宜さんに聞くの忘れたので詳細は判りません。

ここは手水舎までも雰囲気があります。
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建物の感じだと、江戸時代位から有る手水舎なんですかね~?
手水舎の向こうには神楽殿かな?社務所と別棟の建物が在りました。
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どこを見ても江戸時代の雰囲気が漂っていますね。
そうそう!
この世田谷八幡宮、徳川家康公の庇護を経て、江戸時代に下総国に移住した蒔田吉良家の殿様の御子孫が再び支援したそうなので、江戸時代の雰囲気が現在も漂っているのだと思います。
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なんか…やけに眉毛の立派な狛犬様ですね。
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でも、この↑上の狛犬サン、子狛犬(笑)を優しくなでていて、何だか江戸時代の人のユーモアと人情や愛情が現代に垣間見えてホッコリしますね。
強くて優しいって理想ですよね~。
小生、この狛犬さんや御寺の仁王門の金剛力士みたいな人格に成りたいです。
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本殿も本当に立派でしたよ~。
本殿の御神籤(おみくじ)は24時間の自販機でした。
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現代に奉納された灯篭も立派ですね、そして周囲の雰囲気を壊さない素敵なデザインです。
この灯篭を良く見ると…
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吉良頼康公の家紋「五三桐」の紋ですね。
吉良頼康公が、この世田谷八幡宮を再興した事を感謝し子子孫孫に伝える氏子さん達の気概が伝わります。
そして、吉良家の領民だった誇りが、この世田谷区に昔から住んでいる方々には有るのでしょうね。
どうです?
素敵な神社だったでしょう?
大鳥居前の大きい社務所の駐車場には綺麗な花が元気に咲いて出迎えてくれていました。
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また、何度でも御参りに来たくなる八幡様でした。

さて、この世田谷八幡宮の近所には、蒔田吉良家の初期の居城だった世田谷城址公園や…
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世田谷城の主要部分だった豪徳寺が在ります。
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彦根藩主井伊家の2代目井伊直孝公からの歴代藩主菩提寺でもあり…
実は!招き猫の発祥地でもあります。
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可愛いでしょう?

この豪徳寺や世田谷城址公園も、近いうちに御紹介したいと思います。

では!今回はここ迄!
又、次の記事で御会いしましょう!



横浜市港北区鳥山に残念な事に神主不在に成ってる、立派な八幡神社があります。
ここ、地元の人も移民だらけで知らない人が多いのですが、実は、征夷大将軍源頼朝公の与力で平安時代後期〜鎌倉時代の名将、佐々木高綱公の居館跡なんです。
高綱公と言えば源義経と共に京都に攻め上り、宇治川の合戦や木曽義仲追討戦で大活躍された滋賀県出身の名将です。
しかし周辺住民は、現在、鳥山八幡宮が高綱公の屋敷跡と知らない人だらけで神社の手入れも本殿以外は疎かにされ旧参道や周辺の環境は余り良くなく、神社の由来を記した看板さえありません。
移民の多い鳥山周辺の住民はほとんど御存知(ごぞんじ)無いようです。

実は、この一帯は、佐々木高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺(さんねじ)が鎮座していたり、高綱公が宇治川の合戦の戦功により頼朝公から下賜(かし)され拝領(はいりょ)した名馬「生唼(いけずき)」が葬られた場所に建てられた馬頭観音(ばとうかんのん)の御堂も近くに在ったり、佐々木家所縁の史跡が沢山有ります。
陸上部の生徒や運動会で活躍したい学生サンは、この馬頭観音に御参りしたら"名馬生唼"の御利益に肖(あやか)れるかも知れませんよ?
歴史的にも高綱公の兄の佐々木家嫡流御曹司の佐々木定綱公の嫡孫に当たる佐々木泰綱公が幕府の命令で、この鳥山地区一帯を開墾した事も古文書に記されています。


この鳥山の八幡社の石段の手前右側には小さな祠(ほこら)があります。

実はこの祠も凄い場所の筈です。
源氏系の武士や、頼朝公の御家人の中には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ=八幡宮の御祭神)と、弁財天を信仰する武将が多くいました。
そして、弁財天様はだいたいが池の真ん中に島を築いて、そこに祠を築いて祀ったようです。
その事は、鶴岡八幡宮に白幡弁財天が祀られている事や、頼朝公が江ノ島弁財天を信仰した事、戦国時代の小田原北条家が八幡神を信仰した事も滝山城址に弁天池が設けられている事からも証明となります。
ご覧の通りの惨状で、鳥山の八幡社の弁天堂と思われる場所は荒れ放題です。
しかし良く見ると祠の手前には土砂に埋もれた石橋があり…
背後の「切岸(きりぎし=人工的に削った崖)」から湧き出る細い滝も確認出来ます。
今は手入れする氏子もいなくなり土砂で埋もれてしまってますが、恐らく昔は背後の滝から石橋まで池が広がっており、弁天様の祠と思われる場所は、多くの弁財天の祠と同じ様に池の中に浮かぶ島になっていたのでしょう。
この弁天様は財運の神様であり、強運付与の神様ですので、学生は勝負事や試験の前に御参りすると御利益が有るので受験前や部活の試合前に御参りしてみたら御利益有るかも知れませんよ~♫
しかも八幡神社の八幡神=応神天皇は軍神で勝負事にまつわる神様ですから。
だから源氏与力の鎌倉武士から崇拝された訳ですが…

さて、話を神社の地形と歴史に戻します。
神社本殿周辺の地形は鎌倉報国寺のように切岸に囲まれた谷戸(やと)状の館だったと推測が成り立ち、平安時代〜鎌倉時代の鎌倉武士の屋敷が谷戸に作られる事が多かった事から時代的にも佐々木高綱公の屋敷跡の伝承と符合します。
神社は鳥山の裾野部分にあり、恐らく位置的に平時の屋敷だったのでしょう。
背後の鳥山が詰めの城として機能していたのだとおもいます。
これは神奈川県藤沢市の大庭城址、同横須賀市舟倉の怒田城、同川崎市井田の井田城址、東京都日野市の平山城祉等の同時代の城とも地形的に相似しています。

神社は参道から立派だった名残があります。

いまでは鳥山山頂の住宅地への通り道としてしか認識されていないようですが…

どうぞ周辺住民の皆様
佐々木高綱公が残してくださった歴史と地域の誇りを、神社と馬頭観音、そして神社の御神木と共に大切になさって下さい。

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