深見城と言うお城が大和市深見にありました。
大和市の教育委員会グッジョブ!
…と言いたくなる程、自然のままに保存され、かつ、ちゃんと調査もされています。
ちゃんと現地には調査結果判明した縄張図(なわばりず=城施設の設計図面)もあります。

衛星写真だと右側の川沿い、浄水場横の森が深見城址です。
別名一ノ関城址。

しかし、小生が思うに、この区域以外に写真左手に広がる森の中にも城の郭と思える地形がちらほらありました。 

こことかね…
深見城址の「一ノ関城址」と言う別名からすると、「ニノ関」「三ノ関」も付近に有ったのかもしれませんね?

何せ上の写真の深見城址の一部…
昭和に横の境川の河川工事が行われるまで現地の方々に利用されていた「天竺坂」と呼ばれた空堀の堀底道で、鎌倉古道と十字路を形成した街道沿いの城でしたから、関所が何個か有って可笑しくはありません。

で、下がその天竺坂空堀
昭和初期まで人の往来が有ったんですね…
なんかトトロが出そうな多摩丘陵の風景そのもの。
右の盛り上がりは城の曲輪(くるわ=防御施設)の一部ですよ〜。
ちゃんと方形に削られてるのが言われたら分かるでしょう?

でも、城址公園化はされていないので、空堀や曲輪は土に還った木の葉に埋もれ浅くなり、余り城址を見慣れてない人には自然地形に見えても可笑しくはありません。
しかし、よく見ると土塁跡の盛り上がりは平面的には直線と折れ曲がりで構成されているのが分かるはず。
判り難(づら)いかな(笑)?

でもね、破壊しない代わりに手を加えず掘り返さないのも、立派な史跡の保護なんです。

勿論…
八王子市の滝山城や、横浜市港北区の小机城と都筑区の茅ヶ崎城の様に綺麗に当時の姿を発掘復元し、土の流出止めの芝生を植えて公園化する事が理想なんですが…
コレはコレで大和市教育委員会は史跡破壊がお家芸の神奈川県の中にあって、類い稀な、かなり良い仕事をなさってるんです。
完全調査→保存。
調査すらされないで破壊された史跡ばかりですからね、神奈川県。
大和市は外国人移民が多い代わりに郷土史も大切になさってるみたいですね。

さて、この城址、室町時代初期築城と伝わっているそうですが室町時代後期の戦国時代初期にも改良の手が入っているようです。
縄張的に。

室町初期時代築城と言うのは間違いでは無いと思いますよ!
何故なら…
付近に八雲神社が有りましたから。
城との位置関係はこんな感じ…
航空写真の深見城址の森の一番左手の下

この部分
恐らく、深見城址の一番外側か出城がこの辺りだったと思うのですが…
何で八雲神社が有ると室町時代初期築城かと言いますと…
古来武士は氏神様を自分の領地に勧進(かんじん=神社をまつる)する習慣が有りました。
この八雲神社や出雲系の神様を祀る習慣が有った関東の武士は有名な一族です。
坂東八平氏ですね。
八坂神社、浅間神社なんかも祀っていたようですし。
彼等が関東で活躍したのは平安時代末期〜戦国時代初期までです。
だから八雲神社の存在的にも城の縄張り的にも室町時代初期に築城と言うのは整合性があります。
平安時代〜鎌倉時代の城の大半は崖の急峻な大きな丘や山上に造られた山城ばかりでしたから。
この深見城址は平城です。
もしくは川の対岸から見ても平山城と辛うじて言えなくも無い程度。
城主は山田何某と伝わりますが、坂東八平氏のいずれかの子孫なのかな?
室町時代初期に関東にいた武士は平安時代に神奈川県旧鎌倉郡から関東に散らばった一族が多数で他所から来たのはごく一部です。
異なる家系で有力な武士は藤原秀郷子孫の一族と、在原業平子孫と大江氏の一族くらいかな。
城跡と近所の八雲神社との関連を考えると坂東平氏系鎌倉武士後裔のはず。

まぁ、こんな説明をするまでもなく、鎌倉時代、この大和市や付近の相模原市や愛甲郡や厚木市には沢山有名な武士が居ましたから。
隣の相模原市には大江広元公の子孫で戦国大名毛利元就の祖先の毛利季光公や三浦氏族津久井氏と大江氏族津久井氏。
厚木市には那須与一公と双璧を為した弓の名手で畠山重忠を討ち取ったスナイパーの愛甲季隆(あいこうすえたか)公がおり…
横浜市港北区烏山には名将佐々木高綱公の居館があり(記事リンク→「ココ」)…
川崎駅前には佐々木定綱公の居館がありましたからね。

皆さんのお家の御近所にも、必ず殿様が住んでいた筈(はず)です。
地元に殿様が居たって何か誇らしいですよね!

皆さん、何で御近所にこの神社やあの御寺が有るんだろう?
…とか、少し調べてみて下さい。
きっと、いつの時代かの殿様が勧進した神社や御寺が有ると思いますよ!

では!又次回!