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タグ:切通し

佐助稲荷神社
御祭神:宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)=倉稲魂神
開基:不明
中興:征夷大将軍 源頼朝公
住所:鎌倉市佐助2-22-10
アクセス:鎌倉駅から徒歩15~20分程度
映画ドラマのロケ:駆込み女と駆出し男
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この鳥居が連続する風景が京都ではなく鎌倉に在る事を御存知でしょうか?
皆さんは鎌倉市に観光に行かれたら、やはり由比ヶ浜の海や鶴岡八幡宮、または小町通りでショッピングや食事を楽しむんでしょうか?
小生は八幡様にも御参りしますが、浄明寺地区と扇谷地区と佐助地区を季節の変わり目に好んで散歩します。 その地域は鎌倉市がまだ郡だった頃の原風景が残る風致地区で、神社や御寺が緑に囲まれていてとても景色が良いんです。
佐助地区には源頼朝公が再興した佐助稲荷神社と言う御稲荷様が鎮座していて、ここが特に日本らしい清々しい神々しい雰囲気を漂わせています。
実はここ、昨年2015年公開の‟駆込み女と駆出し男”でも登場した神社なんです。
駆け込み女と駆け出し男
映画の舞台はこの佐助稲荷神社や北鎌倉の東慶寺と七里ヶ浜を中心に物語が展開します。
女性の主権が儒教のせいで軽視された江戸時代、DV夫から逃げた女性が離婚し、恋愛し再婚する物語。

女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆け込み女と駆け出し男」
映画に興味が有る人は↑上のリンクをクリックしてご覧下さい。
ここは伏見稲荷大社みたいに全山が稲荷社と言う訳ではありませんが、谷戸の奥、宅地開発が規制された場所に佇んでいます。

入口には下社と言うか社務所と縁結びの観音様が有るのですが、 そこに至る住宅街には少しお洒落な住宅兼店舗のカフェも数件有ります。
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 こんな感じ。この辺りは御金持ちの家が沢山(笑)。
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 この道の先が佐助稲荷神社。
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参道にこの御社が登場しますが、ここは下社ですから!この先にもちゃんと行ってくださいね!
ここだけ拝んで帰ったら、兼好法師の石清水八幡宮詣でみたいな事に成っちゃいますよ(笑)。
でも、ここも大切な場所ですから、拝んで下さい。そして横に在る祠(ほこら)にも注目して下さい。
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 この十一面観音菩薩様は“縁結びの御利益”で昔から有名な場所です。
今でこそ外に在りますが、恐らく明治時代に神仏分離令が出るまでは先程の御社の中に祀られて佐助稲荷神社を参拝する人々を見守って下さっていたんだと思います。
今は外に出て御参りしてくれる人に縁結びの御利益を授けてくれます。
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さて、何故(なにゆえ)、ここの地区名の由来に成った佐助稲荷神社が、この社名に成ったかと言いますと、源頼朝公の御父君の源義朝(よしとも)公が平清盛に合戦で敗れ、更に愛知県の知多半島で家臣の長田忠致(ただむね)に暗殺されると、源頼朝公は伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)、現在の伊豆の国市韮山に抑留され浪人生活を送る事に成りました。
この後、北条政子と婚姻関係と成り北条家や旧家臣団の一部と共に石橋山の合戦で挙兵し、その後の鎌倉幕府樹立と成るのですが・・・
この伊豆に居た時代の頼朝公の官職は右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)を辞職し無官だったので、頼朝公の通称は前(さきの)右兵衛権佐殿と呼ばれていました。
その頃、頼朝公は三日三晩夢にうなされ、この地の御稲荷様が老人の姿で頼朝公の夢に出て挙兵を促(うなが)したので石橋山合戦を起したそうです。
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つまり、ここは下社の十一面観音様は縁結び、奥社の稲荷大神こと宇迦御霊神は頼朝公を出世させた出世稲荷として御利益が昔から超有名だったんですね。
頼朝公=前右兵衛権‟佐”を‟助けた”から、この御稲荷様が以降、佐助稲荷神社と言う名で呼ばれる様に成ったそうです。
その御縁で頼朝公から社殿を再建され、現在の稲荷社の基礎が復興されました。
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ここは冒頭でも紹介しましたが自然豊かで静かな場所です。
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小さな鳥居のトンネルをくぐると参道の階段に辿(たど)り着きます。
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ものすご~く神社神社した神社でしょう?
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鳥居と夏の終わりの緑も綺麗ですが、この境内には楓が沢山有ります。
今年は昨年と異なり涼しい秋に成るのできっと、紅葉も色づきが綺麗な事でしょう。
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ちっちゃい御稲荷様が沢山!
鳥居を潜って正面の社殿は拝殿です。
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御本殿は、背後の階段の更に上に在ります。
でも先ずはこちらで御参りして、それから境内の本殿等を散策しましょう。
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小生、先週写真撮影に御参りに上がって新しい御朱印帳も延喜式内社以外の神社使用に購入しました。
ここは宮司様が坂ノ下地区の御霊神社と兼任で務めておられます。
実は御霊神社の先代宮司の小林前宮司様は昨年御隠居されてしまいましたが、その小林様はもの凄い家系の方だったんです。非常に引退が悔やまれる。
と、言うのも鎌倉の権五郎御霊神社は鎌倉景正(かまくらかげまさ)公とその祖先の平良文(たいらのよしふみ)公が御祭神で、この御二人は上杉謙信の御先祖様にも当たる方々です。
その平良文公の居城の村岡城を姓にした直系の御子孫で、代々村岡家が御霊神社の宮司様を平安時代以来務めていましたが、小林前宮司様は女性だったので結婚し姓が変わり、更に跡継ぎがいなかったので現在の宮司様が外部から赴任する事に成り、その1100年近い御祭神の直系子孫が宮司を務める伝統が途絶えてしまったんです。
しかし、職員様の御話しでは新しい宮司様あ血縁こそ無くとも、とても熱心な方でどうやったら廃(すた)れつつ有る古来の伝統を未来に残すか日々チャレンジされているそうです。
御朱印を頂きましたがとても新しい宮司様は字がとても綺麗でした。

←以前紹介した御霊神社の記事。

さて、佐助稲荷神社に話を戻します。
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小さな本殿には沢山の折なり様がビッシリ奉納されていました。
可愛いけど少し多すぎ(笑)。
佐助稲荷神社は境内の左手にも古い御社が在りました。
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なんだか童話に出て来そうな雰囲気の場所。
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小さな神様の祠が沢山在りましたので、恐らく昔の境内社の何某かの神様が祀られているんだと思います。
詳細は不明。
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下に又降りて来て拝殿の右側に廻り、その奥に行くと・・・
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こんな場所が有ります。
自然湧水。
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昔の宇賀神信仰に欠かせない自然の湧水。
現在の手水舎の水は、この水が引かれています。
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社務所で御守り等も販売しています。是非!恋人同士デートで御参りして見ては如何でしょうか?
近くには‟銭洗い弁天”として有名な‟宇賀福神社”も鎮座していて徒歩で直ぐに行けます。
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ここで御金を洗って金運アップを祈願して、佐助地区から武士達が往来した‟化粧坂(けわいざか)の切通し”を散歩すると鎌倉の原風景を巡るコースを散策できます。
化粧坂の切通しを抜けて扇谷地区まで行くと、海蔵寺が近くに在ります。DSC_2487
海蔵寺は十六井と呼ばれる文化財の井戸と春に咲くカイドウと言う花が綺麗で有名な御寺も近くに在ります。
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ここも観光客が良く訪れる場所です。
そこから小町通へ歩いて行く途中には英勝寺と言う御寺も有ります。
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ここは紫陽花(あじさい)で有名な場所ですが、実は徳川家康公の側室として寵愛された‟お梶の方”様の開いた御寺であり菩提寺でもあります。
だから、お梶の方の御廟所は東照宮の様な唐門でとても綺麗な建築物も有ります。そして御梶の方様の御先祖で関東一の名軍師だった太田道灌公の旧屋敷地でも有るので、こちらも御参りすると恋と知恵の面で御利益が期待できそうですね!
そして小町通を目指して歩くと、途中で名刀正宗を平安時代から製造する刀鍛冶の正宗工芸さんも在ります。
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ここでは日本刀を作る各段階の実物が店先に展示してあって自由に見学出来ますし、刀以外にも御子孫が正宗の技術で鍛える包丁やナイフも購入出来ます。夫婦の散歩なら包丁を買って帰るのも良い財産に成るかもしれませんね。
正宗工芸を過ぎればもう小町通・・・
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夕暮れ時の小町通は、ほんとに映画の世界に入り込んだような雰囲気ですよ!
そして日没直後の鶴岡八幡宮・・・
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なかなか日没後に参拝する人はいませんが、運が良いと夕暮れ時に松明(たいまつ)の中を歩く婚礼の儀式を見る事が出来ます。
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どうです?
佐助~化粧坂切通し~扇谷~小町通り~夜の八幡宮散歩、とても幻想的で良いでしょう?

もし気に入って頂けたら、是非!佐助稲荷神社、素敵な場所なので御稲荷様に会いにいってあげて下さい!
きっと御稲荷様も喜んでくれると思います。
・・・そして、鎌倉の武士達が歩いた空気を感じてみて下さいな。

では!又、次の記事で御会いしましょう!



 

2016年06月15日水曜日休日…
この日は、歴史に興味無い観光客は知らないいくつか名寺院と史跡を訪れる事に成った。

いつもの休日通り、時間が寝る時間勿体なくて徹夜のままお出掛け。
小町通りに買い物と、鶴岡八幡宮の某所に用事が有り鎌倉訪問。
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曹洞宗の道元禅師の顕彰碑が有る辺り、鶴岡八幡宮の駐車場からスタート。
鶴岡八幡宮の蔵書管理部門に鶴岡八幡宮の研究職の方の研究報告のコピーを依頼に行って来た。
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世間は平日のはずなのに、すげ~観光客。
それもそのはず、長谷寺と明月院の紫陽花が見頃だからね。長谷寺なんか整理券貰って1時間くらい待つし。
昼チョット前に到着、小腹空いていたので小町通に買い食いの為に移動。
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行きつけの❝シラスたこ焼き❞の店でブランチ。
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これ、シラスは入っててもアンマリ感じない(笑)けれど、関西に御縁の有る小生からしても❝たこ焼きその物❞として結構美味しい。
目標はミカドコーヒーの有る路地。その隣がタコ焼き屋。
食べ終わり、依頼した資料のコピーに時間がかかるとの事で普段は余り行かない扇ヵ谷(おおぎがやつ)地区を散歩に行った。
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小町通りの北側から脇道に入り東海道線の踏切を超えると、そこが扇谷地区。
そこは源頼朝公の祖先の代からの屋敷が存在した地区。
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実は鎌倉は、この扇ヵ谷地区、それと反対側の材木座地区の両端からスタートした町だ。
そしてメインストリートから外れている為(ため)に、この地区と浄明寺地区と言う辺りには鎌倉市の原風景が良く残っている。
小生が毎日心の中で御参りをする神社の一つが、ここに在る。
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八坂神社。
坂東でも名門の武家、相馬氏の居館に勧進された牛頭天王素戔嗚尊を奉る神社。
相馬家の居館の役割を終えて、神社として造営さた。
相馬氏は平将門(まさかど)公の子孫。更にそこに平良文(よしふみ)公の子孫が養子に入り家を継いだ坂東平氏きっての名門。何故名門かと言うと桓武天皇の直系子孫に当たるからだ。
桓武天皇統治の世は牛頭信仰が盛んだったので桓武天皇の建設した長岡京からは民間の牛頭信仰の遺物が発掘されてもいる。
DSC_2429桓武帝御子孫の坂東平氏の武将達も当然その牛頭天王=素盞嗚命と桓武天皇の御霊を崇拝した。
その典型的な場所が、この相馬氏邸宅跡の八坂神社だ。
この八坂神社の隣が報国寺で、そこが河内源氏の棟梁の屋敷地古址。
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明治政府成立以後、多くの神社仏閣の組織が解体されて個人の所有物として独立したり、組織的には国家体系に組み込まれ民間信仰が破壊された。
こちらも鎌倉時代~江戸時代終焉の長きに渡って鎌倉五山と呼ばれた国家運営の寺院だったのに、現在は個人経営状態に成ってしまった。
なので現在の御住職が老齢で体調も可成り悪いのに引退出来ず、巡礼者への御朱印も満足に応対出来ない程の状況に陥っている。そうやって多くの寺や小さい神社が滅んで行った。
現在の状況に困り果てた奥さんは参拝客に応対する事もままならず、御朱印も一切受け付けていない。
防犯すらも老人二人では覚束(おぼつか)無いので共に疲弊し、本堂への参拝も進入禁止されてしまっている。
御住職の妻帯による世襲や家族運営に頼らない、本来の仏教組織形態を維持出来ていたならば、こんな事にも成っていなかっただろう。
明治政府の唯一の失敗は、宗教改革の一点に尽きる。明治政府の宗教改革の失敗のせいで多くの神社と御寺が此の世から消えてしまった…

さて、寿福寺は今回は山門の前から御参りして終り、目的地じゃないから。
行きたかったのは銭新井弁天、鎌倉山の反対側の佐助地区。
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そこに至る道は緑深く空気も綺麗な上に、鎌倉時代に掘られた岩屋=❝やぐら❞や小さな御社や御地蔵様等、鎌倉文化の原風景が先述の通り多く残っている。
そして歴史に興味が無い観光客には余り知られていない名寺院が沢山在る…
例えば、この御寺…
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英勝寺。
浄土宗の尼寺。鎌倉で唯一現存する現行の尼寺。
そして、ここが何故臨済宗の多い扇ヵ谷地区において浄土宗として存在するかと言うと、浄土宗に帰依していた徳川家康公の愛妾の❝お梶の方❞が晩年、尼僧として暮らした御寺で彼女自身の菩提寺だからだ。
更に、この御寺は❝お梶の方の祖先の太田道灌公の屋敷跡❞に建つ寺院でもある。
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ここは建築遺産も立派だが❝隠れ紫陽花の名所❞であり❝隠れ竹林の名所❞で歴史好きと日本文化好きの隠れオアシスの様な聖地に成っている。規模が広い訳じゃない。
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詳しい事は、又、独立した解説記事を書きたい。
ここは小生が崇拝する偉人の一人の太田道灌公の邸宅古跡だけあり思い入れが有る。
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扇ヵ谷地区は観光地区では無いので、平地には鎌倉市民の一般住宅が多い。
さて、英勝寺を後にして先(ま)ず訪れたのが海蔵寺。
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ここは❝井戸❞と❝やぐら❞の御寺。
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山門入口に在る❝底抜け井❞は鎌倉で名水と言われた鎌倉十井の一つで、安達家の姫君の逸話が残る。
この井戸だけでなく、海蔵寺所管の井戸には名所が多い。
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普段は非公開の十六井
ここの御寺は多くの文化人が俳句に詠んだ場所でもある。
いずれ又、詳しく解説しようと思うが海蔵寺は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家が開基したと現在は伝承しているが小生は状況証拠から少々違うと思う。
ここは恐らく佐原三浦家が扇谷上杉家の命で開基した寺だと思う。
何故なら、三浦家終焉の土地、三浦半島油壷の新井城址、その傍に在る三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の名前も海蔵寺だからだ。そして、❝海❞蔵寺の海は正に水軍の三浦家に相応しい寺名。
恐らく歴史はこうだと思う…
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佐原三浦家の祖先、三浦家の宗家が存命中、まだ鎌倉時代に成る以前の平安時代末期、鎌倉の館を構えていたのがこの海蔵寺の場所。近くには三浦家が与力した大将の源義家公の御屋敷跡の寿福寺もある。
近習するには扇ヵ谷に屋敷も必要だったろう。
時代は下り、三浦家の宗家は鎌倉幕府の執権北条家に滅亡させられ、分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を継いだ。
その佐原三浦家の鎌倉時代の菩提寺は以前も紹介した横須賀市大矢部の清雲寺、三浦家の本城の衣笠城近くに現存する臨済宗の寺だ。
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対して新井城址近くの海蔵寺は、曹洞宗。
この海蔵寺は三浦道寸公が開基した寺だ。
現在でこそ曹洞宗だが、これは戦国時代の三浦家を滅ぼした小田原北条家が曹洞宗に帰依していたので曹洞宗寺院として改宗させたのだと思う。
元は恐らく鎌倉の海蔵寺、それを佐原三浦家が本拠を新井城に定めた時代、つまり道寸の時代に鎌倉の海蔵寺を三浦半島新井城の近くにも分教区の寺院の様な存在として勧進したのだと推測している。
…あくまで、想像。
そこで、この鎌倉の海蔵寺の話に戻る。
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海蔵寺は裏庭が綺麗なのに、ここを見ようとする参拝客は少ない。
この海蔵寺、鎌倉時代に将軍家を守ろうとした三浦家の本家の事績に肖りたかった鎌倉公方(鎌倉公方足利家は京都の足利将軍家と対立していて常に窮地に在った)が、三浦家の子孫である佐原三浦家に祖先の屋敷地の跡に鎮護の寺院を開基する様に❝佐原三浦家に佐原三浦家の上官である扇谷上杉氏定を経由して命令を下し造営させた寺院❞だったのでは無いかと妄想している。
証拠が状況証拠しか無いので、妄想や推測としか言えない。
因みに、この上杉氏定、鎌倉公方足利持氏公と山内上杉(やまのうちうえすぎ)家の上杉禅宗(うえすぎぜんしゅう)が対立した際に❝足利持氏公に忠義を尽くし負傷、藤沢で自害❞とされているが、この❝藤沢で自害❞の舞台が初期の扇谷上杉家の居城と考えられる藤沢市の大庭城だと推測出来る。
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もっとも、この大庭城址、メジャーな古文書しか読まない若しくは誰かの書いたメジャー論文しか読まないパクり俄か学者や研究者は存在すら知らないバカが多い(笑)。
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実は、扇谷上杉家の居城の中でも糟屋館と同規模、初期の江戸城や河越城を凌駕する規模と堅固な地勢に在った。
扇谷上杉家が江戸城や河越城を本城に定めるのは糟屋館や七沢城や大庭城を次々と失陥した後の話し。
これは関東南部の郷土史を読み漁る人間しか知らない事で、近畿と東海地方史観のメジャーな本を幾ら読んでいても微塵も登場しない事実。

さて、海蔵寺が鎌倉公方鎮護の寺と位置付けられていたと推測するには一つ根拠が有る…
実は鎌倉幕府が滅亡した際に、幕府の執権だった北条高時を攻めた新田義貞が鎌倉への侵攻口が正に、この海蔵寺に近在する鎌倉の切通し七口の一つ、❝化粧坂(かわいざか)の切通し❞なのだ。
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化粧坂に通じる道の入口には当時の道の高さに石碑が立っている。
実は!この上部の石碑がある方形の窪み、有名な悪七兵衛景清こと、伊藤(藤原)景清が閉じ込められた当時の岩屋牢屋の跡で歴史遺跡でもある。
現在では道が掘り下げられてしまい、当時の地表の高さの位置に牢屋の岩屋が半分破壊された様態で取り残された訳だ。
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現在は歩きやすく舗装され、道幅も車が通れる様に開削されているが、明治時代に成るまでの切通の道は人二人が並んで歩ける程度、つまり往来があって辛うじてスレ違える程度の道幅だった訳だ。
ただの街道なら道は広く真っすぐ作るが、鎌倉は幕府の首府だったので山々を直角に切削し城壁として防衛し、出入り口も防衛施設の機能を有していた。
この道も屈曲しているが、昔はもっと鋭角にS字に成っていて軍馬に騎乗した武者が容易に通れない構造だったと推測出来る。つまり、後の城郭の喰い違い虎口の走りだな…。

ここを過ぎると直ぐに、鎌倉時代の切通しが姿を見せてくれる。
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鎌倉石と呼ばれる砂岩の地層を削りだした道は、豊かな緑が雨水を染み込ませ粘土層との隙間から僅かな湧水をしたたらせ要害性を増す泥坂と成る…
この地層を利用して日本屈指の城郭建設技術を確立したのが戦国時代の小田原北条家の北条早雲公な訳だ。
そして、古代の海底だった土腐(どぶ)に囲まれた低湿地地帯の丘に築城する技術を発展させたのが先に訪れた英勝寺の❝お梶の方❞の祖先の太田道灌公だ。
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この切通しが貫く鎌倉城(山に囲まれた鎌倉市街中心部を歴史的には鎌倉城と呼ぶ)の城壁代わりの鎌倉山や十二所の山々は、直角に削られている訳だが、この構造は以前「カテゴリー城郭」で紹介した三浦家の❝衣笠城❞の記事でも紹介している。鎌倉武士が培(つちか)った築城技術だ。
この道を多くの人々が往来した。
既に季節は梅雨だが、鎌倉山は新緑に覆われ日差しから小生を守ってくれ、風も涼しかった。
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化粧坂を越えて、再び分かれ道を鎌倉市街方面に降りて行くと佐助地区に出る…
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佐助地区に入って最初の神社仏閣が銭洗い辨財天で有名な宇賀福神社だ。
独立解説記事をその内書いて改めて解説するが…
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ここは本来、弁財天を奉っている神社と言う訳では無い。
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宇賀神と平安時代の人々が呼んだ神様が、後に弁財天様と習合されて同一視されたので名前は宇賀福神社として残りながら御祭神が弁天様として現在に至っている訳だ。
この宇賀神と言うのは日本神話による所の❝倉稲魂命(うかのみたまのかみ)❞=❝宇迦之御魂神❞を指す。
豊かさの象徴の女神として信仰されていた。
古代に於(お)いては穀物やなんかの豊穣の女神で、頭人体蛇の姿をした女神だった。
鎌倉時代に成ると、中国から宋銭が輸入され富の象徴は穀物経済から貨幣経済に変化したので、本来は穀物の豊穣の女神が財神の性格を持つ様に成った訳だ。
そして、後に日本に来られた七福神の弁天様が戦神と財神と美人神の性格を併せ持った、宇賀福神様と似た神様だったので武士や民間の信仰で同一視される様に成った訳だ。
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なんにせよ、富の神様。
ちゃんと弁天堂の霊水で御金を洗って来た。今は小生の部屋で神様と仏様の前に御供えしている。
もし、御利益が有って大金が手に入ったら、必要な分以外の富は全て日本文化保護と郷里の産業振興に役立てたいと心願を御伝えして来た。

この日はこの後で、佐助稲荷神社にも御参りしようと思っていたら…
トイレでチャックが壊れて社会の窓が閉じなく成った‼
…そんな状況で観光を続けれる訳も無く、ズボンの前が開かない様にズボンのベルトを上に引っ張りポロシャツを下に伸ばして不自然な状態で鶴岡八幡宮に戻った。
鶴岡八幡宮の親切で美人な司書の巫女さんが準備していて下さった研究報告書のコピーを受け取り代金を払い、いつも親切にして下さる御礼に、いつもの小生の儀礼通り小町通りで購入した御菓子を差し入れして帰って来た。

ふむ、社会の窓のチャックが壊れてブルーに成った以外、非常に充実した1日に成った♪

皆さん、この風景を御存知(ごぞんじ)ですか?
"釈迦堂(しゃかどう)の切通(きりどお)し"と呼ばれる鎌倉時代に造られた隧道(トンネル)状の切通しです。
鎌倉は市街地の扇状地を除いて他の全域が入り組んだ山の尾根に囲まれています。
軍事的には防御力の高い地形であるが故(ゆえ)に武士政権の首府が置かれたのですが、郊外への交通が不便と言う欠点も有りました。

この釈迦堂の切通しの周辺には…
源頼朝の舅(しゅうと)で北条政子の実父の北条時政の屋敷の"名越邸"
鎌倉幕府の名文官で、東京スカイツリーのある青砥の領主だった青砥藤綱の屋敷
後の室町幕府将軍に成る足利家と関東管領(かんとうかんれい)上杉家の菩提寺に成った報国寺と犬懸上杉家の邸宅
後醍醐天皇の皇子で倒幕の立役者の護良親王が幽閉された東光寺
…等々、鎌倉時代当時から超重要施設が沢山在りました。
ですので市街地へのアクセス向上の必要性があり建設された切通しでした。

ちなみに報国寺は小生お気に入りの御寺で、よく息抜きに行きます。
綺麗な竹林の風景の中にたたずむで東屋(あずまや)で、落雁(らくがん)と言う和菓子と抹茶を頂けるんです。
ゆっくり時間を過ごせます。
数年前にミシェランガイドで3⭐️認定されてしまい観光客が増加し少し嫌なんですが、皆さんに偉人の事跡と日本文化の安らぎを共有して頂ける場所だと思います。
これ↓が報国寺の風景


本題の釈迦堂の切通しに話を戻します。
もう1枚別アングルで…
この↑写真だと解りやすいかと思いますが、隧道の上部には矢倉を組んで防御施設としても運用していた名残の掘り込まれた塹壕みたいな窪みが有ります。
洞門の左右の壁にも柱を渡す穴の跡があり、ここは戦時には戦国時代の城で言う"櫓門"のような弓兵を配置する施設としても使われた事が推測出来ます。

さて、この釈迦堂の切通しですが、2012年から通行止めは愚か、なんと鎌倉市教育委員会により封鎖されてしまったんです。
口実は落石からの通行者の保護。
その実情は教育委員会が史跡風化防止策を講じれず隠しただけなんです。
この洞門が立派に現存しているのは、教育委員会が禁止した人の往来が有ったからこそ、植物に侵食されずに残っていたのですが…
実は横浜市の称名寺にも小規模ですが同時代に造られた洞門があります。
落石を理由に通行止めにしたところ、数年後には植物の根による侵食で崩落が加速してしまいました。
これ↓ね。

もはや原型無し無残…

史跡の保護と言うのは、人に活用され続ける事が大切なんです。

本当に落石対策ならば文化史跡保護の観点からも人の往来を規制せず、樹脂製やセメントの硬化剤を噴霧し地盤ごと固めてしまえば良いんです。
欧州では、そうやって山ぶち抜いたトンネルを作りますからね。
崩落して原型とどめ無くなるよりマシ。

ちなみに硝子樹脂の浸透による耐久性耐火性UPした木材で造られた施設が横浜には有ります。
すなわち大桟橋こと国際客船ターミナルですね。
小さい空港程の規模ながら全木製の施設で、木材の欠陥である耐火性耐久性の向上を実現した施設です。

釈迦堂切通しも樹脂製の硬化剤を使うか封鎖を解き通行を再開させるべきだと思う。

皆さんにも見せてあげたい釈迦堂の切通し…

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