歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:前鳥神社

前鳥神社(延喜式内社・相模国四之宮・応神天皇の皇子の莵道稚郎子が住んだ聖跡)
真土神明神社(近年建築業者に破壊され消失した真土大塚古墳:莵道稚郎子の御陵跡)
真土大塚山公園(真土大塚山古墳の偽物を模造した公園)
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  御祭神・御本尊等:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・日本武尊  
  御利益:交通安全(陸)・戦勝・学問向上・合格祈願・開運・適職就職
  関係者:
  開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・・・応神天皇の皇子、仁徳天皇の実弟。
  中興:征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:前鳥神社・・・平塚市四之宮の古代の海岸線上の、現在の河岸段丘上の微高地
  所在地:真土神明神社・・・古代の砂丘上に存在した前方後円墳を近年土建屋が破壊して造成した宅地
  所在地:真土大塚山古墳のニセモノ・・・真土神明神社の北に徒歩3分の公園
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷の王族と緊密な繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘され国立博物館に持ち去られ収蔵されている。この銅鏡の存在からも莵道稚郎子命の御陵とされる伝承とも合致している。又、日本武尊が当地に滞在したのの伝承も有る事から、日本武尊(ヤマトタケル=倭建)と言う神号は一人の古代の王族に対して用いたものではなく征夷大将軍の様な古代の官途名に当たる神号であり古代の四道将軍成立以前の大将軍を務めた複数人の皇族将軍を1人の神格として習合している事も示唆される。
莵道稚郎子命は日本で最初に大陸由来の漢学や工業技術を学んだ実在した皇族の歴史偉人で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から前鳥神社は古くから学問の神様としても有名。現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子様からの崇敬も有り、戦国時代初期には北条早雲公と北条氏綱公の父子の名将が前鳥神社の宮司家の支持を受け、当時戦略家の名将として有名だった三浦道寸公の居城を岡崎城を落城させ三浦家を三浦半島の油壷マリンパークの半島に存在した新井城まで追い詰め勝利した歴史が有る事から勝負運向上の戦勝祈願や合格祈願の御利益も期待出来る。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
相模国延喜式内社十三座の一社、小野神社の宮司様の御宅へ御邪魔した後、次の目的地の真土大塚古墳の❝跡地❞を目指して車に戻り出発した。
宮司様の御宅から真土大塚古墳や前鳥神社辺りへは道が混んでいても30分とかからず比較的近い。
小生が目指した真土大塚古墳の❝跡地❞は前鳥神社の伝承では八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)=応神天皇(おうじんてんのう)=誉田別命(ほんだわけのみこと)等、後世に様々な神格や僧位や天皇号が追贈された大鞆別命(おおともわけのみこと)と言う神号で恐らく最初は呼ばれていた古墳時代初期の古代大王(おおきみ)つまり天皇家の御先祖様に関わりの有る場所だった。
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莵道稚郎子命御陵=真土大塚古墳❝跡❞(神明神社)ここに眠っていた人物は恐れ多くも京都の宇治神社と同じ御祭神の莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命と神奈川県に在る14社の延喜式内社の一つである前鳥神社に伝承する。莵道稚郎子命は仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)の弟皇子に当たる皇族、つまり八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命の王子だった人物だ。
この神明神社が真土大塚古墳❝跡❞と現地人にも神職にも小生からも❝皮肉を込めて呼ばれる❞には意味が有る。何と神奈川県教育委員会と平塚市教育委員会が保護を怠り、歴代皇族の中でも神格を与えられた偉大な古代人物の莵道稚郎子命の陵墓と前鳥神社に伝承しているのにも関わらず宅地造成許可を出して偉大な皇子の御陵(みささぎ)を削平し破戒し住宅街にしてしまったのだ。
だから古墳跡なんだな。
当然、引っ越してきた住民も、そんな事情を後から知ったら事の重大さを思い知る訳だ。古参の地元民と一緒に神様の眠っていた古墳の跡地に慰霊の為に立てたのが、この神明神社だった。
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ここからは中央の大和政権との強力な関係を裏付ける三角縁神獣鏡等、古墳時代初期としては珍しい副葬品が多数出土している・・・神話を考古学が証明した訳だな。
この莵道稚郎子命は日本初の❝漢学(漢字・兵法・漢詩・金属鋳造技術等)❞を治めた文化人にして学者、そして小生の推測では恐らく日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に偉業が習合された人物の一人の筈だ。
真土大塚古墳の写真 平塚市公式より拝借 
平塚市が破壊した後に申し訳程度に掲載している破壊前の真土大塚の写真。
平塚市の地名由来は、古代の大きな古墳が風化して平たく成った物が有ったからと言う説と、坂東平氏の祖と成った平高望(たいらのたかもち)王の一族の平家の姫様が相模国鎌倉郡村岡郷の移住先に辿り着く前に旅の途中で亡くなり葬られた塚が有ったからと2つの説が有るそうだが、古墳説をとるならば正に真土大塚古墳が由来だろう。御覧の通り前方後円墳が恐らく、台風や渋田川や相模川の氾濫などで削れて大分と平たく成っているのが写真から解る。
この戦後の教育委員会が破壊容認した真土大塚古墳の調査は昭和11年に行われた。
つまり、戦前の昭和初期までの県職員は城址や史跡や自然の美しい景勝地を積極的に保護したのと同じく、ここもちゃんと調査して保護していた訳だ。
三角縁四神二獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁四神二獣鏡
三角縁変形四獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁変形四獣鏡
銅鏃 平塚市公式より拝借
銅鏃(どうぞく=銅製の矢じり)
他にも鉄剣や鉄斧等、王族や高位豪族しか持ちえない副葬品が多くの出土し、どれも弥生時代後期~古墳時代初期では高貴な身分を示す物ばかりだった。
中でも三角縁四神四獣鑑には以下の銘文が造形されていたそうだ・・・

「陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」

現代日本の漢字は奈良時代に藤原貴族によって改竄された日本の朝鮮訛りの漢字の意味に成っていて本来の中国の漢字の意味とは違うので、神話(弥生~古墳)時代の四道将軍の制度による東海道の統治を前提にして小生成りに意訳するとコンナ感じ。
  ↓
「古く造りが何もかも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」

・・・これね、もう完全に被葬者が誰だったか判るヒントでしょう。
古い中国語に近い漢字を使いこなせて、恐らく南関東で最初の漢字文化導入の証拠と成る物を製造或いは携行出来るのは莵道稚郎子命以外にいないでしょう。

恐らく百済王族か貴族出身であろう藤原貴族は初代の中臣鎌足は苗字も無く中臣(なかとみ)の古代官職しか伝わらず更には羽曳野市の古墳は朝鮮式の円墳な訳だが、彼等藤原家が自分達が殺した蘇我嶋❝大臣❞馬子つまり蘇我嶋大臣(大臣、鹿島馬子)を暗殺して鹿島家の領地財産地位を天智天皇の公認の下で乗っ取り自分達の家系を古来の日本人と粉飾するべく古事記を改ざんして国の公式史記として書かせたのが日本書紀な訳だ。
奈良時代が始まる最初に歴史改竄する為に書かせたのが日本書紀で、後に藤原氏は古代からの先住日本豪族の橘氏や大伴氏や紀氏や菅原氏、そして新興だが天皇家の平氏や源氏を悉く言いがかりと謀略で殺害したり左遷しまくり更に渡来人扱いして差別している。一方では天皇家に妃を送り込み続けて皇族を人質に取り続けた訳だ。
ところが応神天皇や仁徳天皇の時代には「天皇号」は存在しないし、当然、応神天皇=大鞆別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命が大王や王族として生きていた時代には藤原氏まだ日本に居なかったので、真土大塚古墳の副葬品の漢文は限りなく中国語に近い。しかもアホの小生でも余裕で意味が解る程度の文章。
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莵道稚郎子命の被葬地と知ってか知らずか、神明社は古墳跡に現代人の破壊の跡に建てられた。
小生は真土大塚古墳から出土した、この鏡の銘文に有るロマンを感じる。
それは、この鏡の銘文は、もしかしたら仁徳天皇から莵道稚郎子命が送られた者物かも知れないと小生は想像するからだ。上方(近畿)の歴史では莵道稚郎子の消息は良く解らない位にあやふやだったらしく・・・
1異母兄の仁徳天皇と帝位を争う意図が無いのを証明する為に自殺した説
2早く死んだ説
・・・が有るが要はハッキリしない訳だ。因(ちな)みに自殺説は元朝鮮人の藤原が捏造した歴史の日本書紀にしか登場しない一説で、他の神話では❝自殺❞なんて表現は全くない(笑)。
まぁ何にせよ関西では恐らく天皇家に憚って語られずにハッキリ伝わらなかったので、宇治神社の御祭神と成っている位しかハッキリした事が解らない。ところが古来、東日本では神奈川県の前鳥神社の御祭神として祀られ真土大塚古墳が御陵と伝わっていた訳だ。

因みに神様と成った莵道稚郎子命の名前を中国語の意味と歴史を前提に解析すると以下の様に成る。
●莵道(うじ)
ウジ=宇治=京都府宇治市一帯を本拠地にしていた人物。
●稚(わき) 
ワキ/ワカ/ワケ=和気(わけ)=別(わか/わけ)。歴代天皇が天皇号成立以前の大王時代に名乗った名には“ワカ/ワケ”を含む名が多い。恐らく今は姓を名乗る必要の無い、古代天皇家の尊称的な姓がワカ。
別/稚(ワカ)=和家=和+家=倭+家と成り、漢字文化導入後の倭国の大王の姓だったかも知れない。
例:大鞆和気(おおともわけ)命、獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ=雄略天皇)他多数。
●郎子(いらつこ)
郎(いらつ)=男系の家系の子=大王の男系男子の王子。
●命(~のみこと)
漢字文化の神号成立以前の神格化された人物や聖地や神器等の神様の魂への尊称。
例えば漢字文化では詔勅(しょうちょく)の詔と書いて詔(みことののり)と訓読みさせるが、詔(みことののり)を分解すると・・・命+祝詞(のりと)=みことののりと=みことののり=神託・・・と成る。
詔勅は天皇の命令を指すが、これは神様=天皇と言う古来の考え方に当たる。天皇を御上(おかみ)と俗に呼ぶのもその為だろう。

・・・つまり、名前を分解すると莵道稚郎子命が神話通り天皇家の人間だった事が解るし、本拠地も神話通り宇治市辺りだった事が解る。もしかしたら皇太子だったかも知れない。
だから小生が思うに、莵道稚郎子命は中国の史書や儒学も学んだであろう人物なので兄弟間の争いで国が亡ぶ先例を踏まえて父大王の応神天皇=大鞆別命の崩御(ほうぎょ=亡くなる事)した時に兄に大王位継承権を譲り、自分は関西を離れたのだろうと思う。
そして神話では没した時の様子がこう続く・・・
莵道稚郎子には大鷦鷯尊とは更に別に異母兄の大山守(おおやまもり)皇子(みこ)がおり、大王位継承権を得られなかった事を逆恨みし反乱の兵を起こそうとした際に、兄の大鷦鷯尊がこれを莵道稚郎子に暴露して逆に莵道稚郎子が大山守皇子を討ち取っている。
これは思うに、大山守ってのは神奈川県伊勢原市大山を中心とした佐賀牟国や磯長国一帯を古代から支配していた大豪族の姫を母として生まれた人物だったのではないだろうか?
そして、この一連の事件は戦乱となり、莵道稚郎子は兄王の大鷦鷯尊に大王位を譲ると自らは四道将軍成立前の日本武尊(ヤマトタケル)=倭建(やまとたける)=倭長(わかたける)=軍団長と成って大山守皇子の外戚が治める東日本を平定に東征し、平塚に鎮守府を設置し関東の古墳時代突入の文明開化を成し遂げ、そのまま関東で没したのでは無いかと思う。
そして宇治から軍を率いて近畿を離れて東海道制圧と大和朝廷による支配制度確立を担う大将軍として東征に赴く際に仁徳天皇から送られたのが、❝あの三角縁四神四獣鏡❞だったとしたら・・・
陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」
「古く造りがどれも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」
・・・この銘文には仁愛で有名な仁徳天皇の弟王子の莵道稚郎子への思いやりが垣間見えるのでは無いかと、近畿の宇治を離れて行く異母弟に父と義母との家族の思い出と、左に東の守り神であり皇帝の象徴である青龍、右に西の守り神である白虎が描かれている。つまり東を守る皇帝が左側(関西)にいて西を守る白虎が右側(関東)にいる、仁徳天皇と莵道稚郎子命が一心同体背中合わせに御互いを守っている事を描かせた鏡なんじゃないかと思う。
そして、この莵道稚郎子命は、初代日本武尊と思われる景行天皇と、二代目と思われる皇子の倭建命に続いて令外官として倭建(日本武尊)と同じ稚郎子(ワキノイラツコ)として磯長国・佐賀牟国・総国・毛国統治の為に赴任して来たのかも知れない。・・・兄大王の信頼を一身に背負って。

小生は学者じゃない。だから古文書の文字だけに拘らず状況証拠と伝承から自由に妄想と言う名の推測をしていたりする。
私利私欲無く学閥に属さない只の素人歴史オタク、学者じゃないから歴史偉人や神様や仏様や宮司様や和尚様を尊敬し、民間人と交流する学芸員サンを慕い歴史の楽しさを感じられる(笑)。

さて、そんな訳で前鳥神社の伝承の状況からも、出土品からも、前方後円墳の規模からも莵道稚郎子命が神格を追贈されて大和朝廷の権力によって古墳が造営され埋葬されたと考えれば極々自然な訳だな。
周りに水堀は無いが、これは古代は平塚市真土一帯が砂丘だったせいだろう。
まぁ、そんな訳で偉大な大王の大鷦鷯尊を支えた異母弟で元皇太子の莵道稚郎子の古墳を神奈川県教育委員会は保護せずにブッ壊した訳だ。・・・祟りに遭えば良い。
祟りが怖くて神明神社を開いたのだろうが、小生はツッコミ入れたい。
そもそも神明社の御祭神は天照大神で莵道稚郎子命じゃない!
ここは前鳥神社の別宮にすべき場所だろう!何で神明社なんだか訳分らんくてイライラする!
・・・和気郎子だけに。あ、神様に怒られそうだから冗談はここら辺までにして置こう。
そんな莵道稚郎子命と思金神と天満大自在天神菅原道真公の3柱の神様を小生は知恵と文化と智謀の神様として崇拝している。
だから2018年の正月二日に古墳跡に御参りに来た訳だ。

実はこの古墳の直ぐ近くに、後の平塚市が申し訳程度に作った偽物の真土大塚古墳のレプリカが有る公園が在る。
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ遊具が有り完全に県外からの移民だらけの地元民には大層な破壊の歴史を知る人も少なく、この公園の偽物見ても腹立つ人も少ないだろう。
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このコンモリした山を教育委員会は❝復元❞と言い張るが、城マニアや史跡マニアの我々に言わせれば❝復元❞と言うのは❝元有った場所に元通りの構造で再建する❞事を意味するので、この偽物は教育委員会と平塚市の欺瞞、自分達の罪悪感を和らげる免罪符、悪の権化の様なものだ。
・・・と怒りたいのだが。
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くそムカつく偽物から見える風景が美しく「あ~莵道稚郎子様は、富士山を拝みながら眠ってらしたんだなぁ~」とか感慨にふけってしまった。
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ここからは大山も見える。大山の山頂からは縄文時代以来の祭祀遺跡が出土し、麓の比々多神社も延喜式内社で大量の縄文時代以来の祭祀遺跡と古墳時代の遺跡から同製品や鉄器が見つかっている。
そして記録に残らない国府と思しき規模と推定される遺跡も発掘されており、これが小生の中で大鷦鷯尊と莵道稚郎子命と大山守皇子の神話と結びつき先程の推測に繋がる訳だ。
何にせよ、こんな重要な場所だが神奈川県教育委員会のせいで真土大塚古墳は消え去った。
近くの平塚八幡宮は元の名を鶴峯山八幡宮と呼び、やはり仁徳天皇が父大王応神天皇を御祭神として開いた場所だった。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
真土大塚古墳と平塚八幡宮の近くからは国府跡と推測される遺跡も発掘されている。そこに莵道稚郎子命の存命中に大将軍稚郎子として赴任していた鎮守府が存在したのかも知れない。
そう考えるとワクワクするし、神様と成った古代の天皇家の一族の傍に近寄らせて頂けた様な何と言うか嬉しい気持ちに成るんだな。
日も暮れて来て御腹も空いてきたし、神様としての莵道稚郎子命に参拝すべく、ついでに屋台での買い食いも楽しみに延喜式内社でもある前鳥神社へ移動した。
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前鳥神社・・・延喜式内社

ここも移動距離は短く車で真土大塚古墳から10分もかからずに到着した。
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参道に屋台は多くは無いが、まぁ、何か現代的なケバブ屋さんとか珈琲屋さんとか、少し小洒落た店がオーソドックスな屋台に交じって出店していた。
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ケバブとコーヒーを食べた。
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参道には神奈川県の古い歴史を持つ延喜式内社の多くで廃仏毀釈から保護された文化財の鐘楼を見かけるが前鳥神社もその一つだ。
実際、歴史の無い神社程、仏教を否定したがる。国家神道がキリスト教徒の政治家によって宗教改革されて出来た物だってのを知らないんだろうな、新しい神社や歴史の浅い所は。
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先鳥神社の境内地は現代では広い訳では無いが❝長い参道❞は奇跡的に残っている。
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神仏分離令以前の仏教文化の石塔もシッカリ残っていて日本文化の風情を守っているね。
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まぁ~日本近代化以後も文化人も多く訪れたらしい。
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この鎮守の森の参道を抜けると漸(ようや)く拝殿が見えて来る。
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途中には祖霊者も在る。
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住宅街の中の神社の正月2日目の夕刻なのに、まだ結構、参拝客が来ていた。
それだけ地元の人に大切にされていたり、学問の神様として受験間近の学生が合格祈願に来ていたのだろう。
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17時を過ぎても社務所も灯りは落ちていなかった。
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アルバイトの巫女さん達も頑張って参拝客に応対していました。偉いね、正月遊ばず働いて。
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ここは御本殿には小生が武神として崇拝する日本武尊と、そしてもう一柱、大山咋神が合祀されている。
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祈祷を受けに来た訳では無いので拝殿の中には入らずに外から普通に御賽銭を投げて神様に御挨拶をして心願成就の祈願と国籍人種問わず親日家の人々と国々の平和とか、御世話に成っている人や親友の幸福祈願をした。
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境内社には菅原道真公が祀られてらっしゃる。
小生は横浜市で知恵の神として地元の思金神社の思金神様と、文化と知識と実務の神様の菅原道真公も崇拝しているので当然ながら参詣し、有鹿神社の境内社有鹿天神社と合わせて当日2回目の菅原道真公への御挨拶をした。
参拝を終えて、巫女さん達がせっせか働いていた御守り授与の場所へ移動。
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小生も前鳥神社の御守りを購入した。
小生の文化と実務の神様は祖先も崇拝した菅原道真公、まぁ父方の氏神様はもっと古い御先祖の神様で某国造なのだが菅原道真公も実は父方のもう一方の氏神様なので、小生は神奈川県で一番の天神様と思っているのが旧鎌倉郡の永谷天満宮で良く御参りに行き厄払除け守りと取材活動用に足腰守りを大切に持ち歩いている。永谷天満宮は菅原道真公の御子息の菅原敦茂公が住んでいた由緒の有る天神様だったりする。思金神様は神様達の参謀だった神様だから横浜市民の知恵の神様だね。
そして前鳥神社の莵道稚郎子命が学問と兵法と仁義の神様と成る訳だ。

・・・参拝して駐車場に戻ると車中で財布に早速、莵道稚郎子命の御利益を授かる前鳥神社の御守りを付けた。その後、夜の20時頃から始まる追儺神事を見学すべく、そして昨年の八方除けの御利益の御礼参りと新年の御挨拶を寒川比女命と寒川比古命に申し上げるべく寒川神社へ向けて再出発した・・・
※本当は今回で寒川神社の追儺祭まで書き上げる予定でしたが、莵道稚郎子の神話解説が意外に長くなってしまったので寒川神社追儺神事見学は分けて書きます。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑦に続く。
  

















神奈川県平塚市四之宮には前鳥神社(さきとりじんじゃ)と言う、とても由緒正しい神社が在ります。
平安時代延喜年間の醍醐天皇から見ても歴史が古いと認識された“延喜式内社(えんぎしきないしゃ)”と呼ばれる神社が神奈川県内には14ヶ所、それ以外に当時は神社では無くて聖地霊場だった場所も数ヵ所在ります。
この延喜式内社の内、一之宮~五之宮の異名を持つ神社が5ヶ所有って、前鳥神社はその内の四之宮でした。
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神奈川県には国府祭と言う祭事が有ります。
昔、現在の伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は一つの佐賀牟国と言う大きな国だったのですが、その国が大和朝廷によって伊豆国、相模国、武蔵国に分割された際に、相模国の国府(現在の感覚の県庁)を何処にするかで神様(在地豪族)達が喧嘩する内容なのですが、その御祭にも登場するのが前鳥神社なんです。
古代の日本ではどの国にも一之宮~五之宮まで設置された様で、これが原始行政機関と成って行った様です。
現在では五之宮に平塚八幡宮を含みますが、平塚八幡宮は自らを五之宮と名乗った歴史は無いとの事なので恐らく昔は別の神社が五之宮だったのでしょう。
国府祭は比較的新しい御祭りなので(と言っても西暦500年代~700年代が起源のはず)、五之宮の問題が有ってもおかしくは有りません。
良い機会なので神奈川県内で古代に大和朝廷から既に官位を頂いいていた特に格式高い神社を名前だけでも紹介して置きます。
※現在の神社の序列は古代~江戸時代までの歴代天皇の御意思を無視した物で全く参考に成りません。

●有鹿(あるか)神社奥宮

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相模原市南区磯部勝坂遺跡に所在。
女神さまの有鹿比女命(あるかひめのみこと)が御祭神。
神奈川最古級の神社で縄文時代の遺跡の真ん中に在る。聖地有鹿谷自体が御神体で形式的に御社も存在する。飛鳥時代の朝廷からも国家鎮護の神社として信奉されている。
※現在の海老名市に在る本宮は、後の時代弥生時代の遺跡が近在する場所です。
対して勝坂遺跡の有鹿神社は縄文。

●石楯尾(いわたておの)神社
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相模原市緑区名倉に所在。
石楯尾大神が主祭神。
そもそも応神天皇の行在所(あんざいしょ=仮御所)が建っていた場所に存在する神社。
更に歴史は遡れ、日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)を埋蔵し御祀りしたのが石楯尾神社の始まり。中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。
朝廷から大切にされた古社だが、武田信玄によって略奪放火され古代からの神器等は消失した。その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡・・・。

●寒川神社
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高座郡寒川町に所在。
延喜式内社相模国十三座の中の筆頭格、一之宮。
御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)。
八方除け全方位の事故除けの神様や夫婦神様なので縁結びとしても有名だが、文化的には古代から続く追儺(ついな)祭が行われる。この追儺祭は現代では仏教の影響を受けている神事に変わっている場所も多い中、この寒川神社や京都の上賀茂神社では古来の形式が守られており、境内の湧水池で組んだ水を神前に供え聖水とした後に境内を清める伝統神事が毎年1月2日に行われる。

この他に二之宮~五之宮が有り・・・
●二之宮川勾神社    ・・・中郡二宮町
●三之宮比々多神社   ・・・伊勢原市三ノ宮
●四之宮が今回の前鳥神社・・・平塚市四之宮
●五之宮は延喜式では式外社の平塚八幡宮
・・・となっています。
この他に更に県内の延喜式内社には・・・
●有賀神社本宮          ・・・海老名市上郷
●深水神社            ・・・大和市深見
●杉山神社            ・・・横浜市緑区西八朔
●宇都母知(うつもち)神社      ・・・藤沢市打戻
●大庭神社舊跡(きゅうせき=元宮)・・・藤沢市大庭
●大庭神社            ・・・藤沢市稲荷
●小野神社            ・・・厚木市小野
●高部屋神社           ・・・伊勢原市下糟屋
●大山阿夫利神社(下/上社)     ・・・伊勢原市大山国定公園
●寒田神社            ・・・足柄上郡松田町
・・・が存在し、その他にも延喜年間には神社では無く霊場=聖地として扱われていた延喜式式外社と言う場所が有りまして、小生の把握する場所は以下の通りに成ります。
●橘樹神社  ・・・川崎市高津区子母口
●走水神社  ・・・三浦半島横須賀市走水
●師岡熊野神社・・・横浜市港北区師岡町
●八幡橋八幡宮・・・横浜市磯子区原町
●平塚八幡宮 ・・・平塚市浅間町
●六所神社  ・・・中郡大磯町国府本郷
●神揃山   ・・・中郡大磯町国府本郷の城山を含む丘陵全山
延喜式内社 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人には御馴染のこの加工画像で位置関係が解ります。
※既に記事に書いた場所が大半ですがリンク貼るの面倒なので暇が有る時に少しずつやります。
さて、以上に列挙した神社の中でも前鳥神社は、その中でも少し変わった由緒を持っています。
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ここは明治時代に境内地を縮小されたにもかかわらず現代でも立派な参道を有しているのですが、そもそもが応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)”様が移住した場所と伝わっています。
ですから御祭神も
莵道稚郎子命が祀られています。
莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子は生前、その名前の通り京都府宇治市に住んでおられました。
・・・小生の祖先も宇治市に関係が有るのでもしかしたら御先祖様が
莵道稚郎子様に御世話に成ったかも知れません。
莵道稚郎子の名前を現代語に翻訳するとこうなります・・・
莵道=うじ=宇治
稚=わけ=別(わけ)=和気(わけ)=古代皇族の名乗り
郎子(いらつこ)=良い男子=皇子
つまり、宇治に住んで居た皇子様と言う訳で、これは前鳥神社の伝承や日本神話とも整合性が有ります。
そして、前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する場所が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在しています。
 真土大塚山古墳と前鳥神社 久良岐のよし
真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳です。
この場所からは古代大和朝廷との関わりを証明する三角縁神獣鏡が発掘されています。
この古墳の主は恐らく
莵道稚郎子命でしょう。
考古学的にも地理学的にも面白いのは前鳥神社周辺は縄文~弥生時代は海の底でしたが、弥生時代も終盤に成ると地面が隆起し始め、古墳時代には陸地に成った様です。 しかし当時はまだまだ海だった名残りで沼地が多く、住める場所に限りが在りました。しかし、前鳥神社は相模川の浸食を受けなかった自然堤防上に在る事から、この一帯は古代には半島状、ないし島の地形だったと推測されています。
前鳥神社も古語を解読すると良く解ります。
前=さき=崎=みさき=半島の先端
鳥・・・これは島の字が書き間違えられて伝わったと伝承しています。
つまり岬や半島の様な地形だった場所に、
莵道稚郎子皇子が御所を築いたと言う事が地盤や神社の名前から推測出来たりします。そして、それは日本の歴史の空白の次代、西暦300年代初頭~400年代中盤の話だった筈です。
さて、前鳥神社の歴史解説はここまでにして、施設其(そ)の物の紹介をしたいと思います。
神奈川県の延喜式内社は明治以前の歴代天皇の伝統文化を良く守り、神仏習合時代の名残を残す場所が多く有りますが前鳥神社もその一座です。
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鐘楼が有ります。昔は神社を御寺が守っていたので、和尚さん達も出入りして御参りしていた訳です。
そして神社には別当寺と呼ばれる管理担当寺院が設置されていました。宮司さんと和尚さんが協力して日本の文化を守っていた訳です。
ついでに言うと莵道稚郎子命は学問の神様として崇拝を集めていますが、その理由は漢学(大陸渡来の学問)を日本で最初に本格的に学んだ人物だからです。つまり、八幡信仰や牛頭信仰に繋がる原始仏教も学んでいた訳です。それ故(ゆえ)、御父君の大鞆和気命(おおともわけのみこと)=応神天皇は別名で八幡大菩薩の名で古代~明治まで日本人に崇敬された訳です。応神天皇の名は大化の改新以降に付けられた名前なので、大鞆和気命か別名で御陵の地名でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと)と御呼びした方が良いでしょう。
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前鳥神社は現在も参道を改修中なのですが、整備を行えると言う事は氏子サン達が頑張ってらっしゃるんですね。
ただ、古い物にも文化財としての価値は有るので、何でも壊さずに保管もして頂きたい所ですが、前鳥神社さんに限ってはその心配も無用でしょう。神職に史学と神学を両方学ばれた博識な方もいらっしゃいますから。
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鎮守の杜(もり)に囲まれた参道の正面に本殿が在ります。
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その両脇には御神木や石碑。
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参道を抜けると右手に社務所が在ります。
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そちらで立派な字の御朱印を頂く事が出来ます。
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有名な神社は書道の心得の有る方が多く、御朱印が格好良い。
社務所の手前には神楽殿も在ります。
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江戸時代には祭りの度に近所の人がここで御神楽を演奏したんでしょうねぇ~。
明治政府が宗教政策を失敗していなければ、現在も神社の御祭は賑やかだったんでしょうね。
本殿の右手前には奨学神社が在って菅原道真公と百済皇子の阿直岐が祀られています。
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 ここも前鳥神社の主祭神
莵道稚郎子命と同じく菅原道真公も阿直岐サンも学問の神様なので、学生や資格受験を目指す社会人には御利益が有りそうです。
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中にはすごい数の達磨さんがいたので、それだけ御利益が有ったって報告でしょうか?
その横には神戸(ごうど)神社が在って、古社らしく素戔嗚尊(すさのおのみこと)=牛頭天皇が御祀りされていました。
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本殿は古い建物では無い様です。再建と言っても、それなりに古いのでしょう。
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本殿を参拝する頃には夕陽も地平線に沈む時間に成り、社殿の灯りがとても神秘的でした。
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境内にはちゃんと親切に予備知識が無くても御祭神や神社の縁起が解る様に説明が有ります。
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皆さん、神様がどんな人だったかも知らないままに願い事だけするタイプでしょうか?それともちゃんと調べてから行くタイプ?現地で良く看板を読んでから拝むタイプ?
神様にも色んな御利益が有るので、予備知識が無くてもちゃんと看板を読むと良いと思いますよ~。

そんな感じで、前鳥神社が伝承通りに重要な古墳が近くに在り、相模国四之宮の格式を持つ神社だと言う事は御理解頂けたでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも素晴らしい歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や城跡が有るはずです、その歴史や御利益と現在の建物の立派さは全く関係有りません。そこに関わった神様に成った人や偉人が私達の発展の礎(いしずえ)と成った土地を開拓して下さり縄文時代からの文化を現代に残して下さったと言う事が大切なんです。
きっと皆さんの近所にも素晴らしい歴史人物達と関わりの有る場所が存在します。
ですから、ちょこっと御散歩に出掛けてみては如何でしょうか?

では、又、次のブログ記事で!
次は神奈川県の御利益の強い神社仏閣一覧を更新します。
 

神奈川県高座郡寒川町には、寒川神社と言う延喜式内社の古社が在り、古代から今も大変多くの氏子サンの崇敬を集めており、大変立派な神社と参道を現在でも有しています。
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先日、寒川神社の神職の方に寒川神社に伝わる追儺(ついな)神事と、その御由緒を教えて頂く機会を得て寒川神社に御参りに行って参りました。
この寒川神社は古代に一之宮と定められた御宮でした。
ですから参道もとても立派で、神社の現在の境内から1kmも手前に大鳥居があり参道が続きます。
寒川神社参道 久良岐のよし
寒川神社神事を御教授をして頂いた神職様の御話によれば、この参道が屈曲しているのは古代の相模川が参道の横にあり、河原に参道が有ったからだろうとの御推測でした。小生も大凡(おおよそ)同じ推測をしていますが、若干解釈が異なり、相模川ではなく古代の海岸線に沿って作られた参道だったろうと推測しています。
延喜式内社 久良岐のよし
小生がそう、推測するのは現在の神奈川県の衛星写真上にに延喜式内社と式外社と呼ばれる古社を表示し、古代の陸地と海岸線を重ね合わせれば一目瞭然で寒川神社は海岸線の端に在るからです。
海の真ん中に前鳥(さきとり)神社と平塚八幡宮が在りますが、前鳥神社の縁起では西暦300年代の創建とされ、丁度(ちょうど)古墳時代の始まり頃の神社成立なのですが、その頃から相模湾は隆起し陸地に成って行きましたので縄文時代~弥生時代の海岸線より海側に前鳥神社と平塚八幡宮は存在する訳です。
史学と神学を両方やっておられ小生が前鳥神社尊敬する神職の方に教えて頂いた事ですが、前鳥神社の直ぐ近くには古墳が在り三角縁神獣鏡が出土しているとの事で少なくとも卑弥呼の次代より後の成立で有る事から、地理学、史学、神学の全てで整合性の有る歴史事実でもあります。
つまり、寒川神社はそれより古い時代には同地に鎮座していた事に成る訳です。
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※一番外の大鳥居。スマホで撮影した動画のスクショです。写真じゃないよ!
神社としての公式記録も古く、朝廷の公式行事が記録し始められた頃の西暦400年代、雄略天皇の時代には既に幣帛(みてぐら=奉納品)を賜った記録が有り、以後、歴代天皇に代わり朝廷の奉幣使が遣わされた歴史を有する由緒を持ちます。
ですから、参道も長く立派なんですね。
ところで、小生のブログでは度々登場する神奈川県の延喜式内社の一~五の序列の神社と国府祭と言う御祭が有ります。
昔、静岡県東部の駿河地方と伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は2つの国で磯長国と佐賀牟(さがむ)国と言われた行政区域でした。
その佐賀牟国は、西の方を相模国と残りの横浜市東部と川崎市東京都埼玉県に股がる武蔵国に分けられました。磯長国も駿河国、伊豆国と西湘が相模国に分けられました。現在の神奈川県は相模国全域と、武蔵国の内の久良岐郡・都筑郡と橘樹郡の一部から構成されています。相模国が成立すると、相模国の国府(県庁所在地)を何処(どこ)にするかで神様(御神孫の豪族)同士がモメました(笑)。

その際のケンカが今も神事に成っていて、神奈川県で古代から伝わる国府祭(こうのまち)と言う祭事です。

この祭事の際に延喜式内社の寒川神社と川勾神社の神様が、自分の御宮を国府(こくふ)にするべく喧嘩する話がそのまま神事に成って伝えられています。
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※写真は三之宮比々多神社。寒川神社と同じく延喜式内社。
面白い事に、この神事にはちゃんと仲裁役も居て、小生が氏神様、土地神様とは別に毎年御参りに上がる比々多神社の神様(当時の御神孫の豪族)が「決着は来年にして落ち着きましょうよ」と寒川神社と川勾神社の神様の仲を取り持って一件落着する御祭に成っています。
そこでもう一度、昔の海岸線を見て貰うと何で寒川神社と川勾神社で国府設置を争ったかも良く解ります。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
寒川神社と川勾神社は古代の海を挟んで東西に対峙している訳です。恐らく相模国が成立した頃には既に海は隆起していたと思いますが、比々多神社周辺の戦国時代の岡崎城は戦国時代に至っても周辺を土腐(どぶ)に囲まれていました。海だった古代から1000年以上過ぎた戦国時代でもまだまだ湿地帯の様な場所が多かった程なので、陸地に成ったと言っても国府祭神事が行われた当時は現在の平塚市や茅ヶ崎市辺りの湘南地区=県央部は人の住める場所は少なく、古代から陸地だった寒川神社と川勾神社が交通の便から自分の地域に国府を置きたかった事情が読み取れる訳です。
仲裁した比々多神社は丁度、寒川神社と川勾神社の古代の陸地で真ん中に位置します。
さて、そんな訳で小生が神事の解説を受けに訪問した寒川神社、非常に古い次代から存在する事は何となく御理解頂けたでしょうか?
因みに国府祭で神様同士が話し合って決めたか朝廷が定めたかは解りませんが、一之宮~五之宮は以下の通りです。
一之宮・・・寒川神社
二之宮・・・川勾神社
三之宮・・・比々多神社
四之宮・・・前鳥神社
五之宮・・・平塚八幡宮(平塚八幡宮では五之宮を自称しておらず、後世の人によって加えられた可能性有り。)
この中に平塚八幡宮ではなくて相模国最古の有鹿神社(あるかじんじゃ)を加える説も有ります。
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有賀神社本宮(海老名市)と奥宮(相模原市)は以前もブログで紹介記事を書きましたが、奥宮が縄文時代の遺跡の真ん中にあり、聖地として古代からの湧水地有賀谷を抱えている場所でも有ります。
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この有賀神社と寒川神社、石盾尾神社(いわたておのじんじゃ)の三社だけが奈良時代に朝廷から官位を賜ってるので、恐らく、平塚八幡宮の成立以前は有賀神社が五之宮だったんじゃないでしょうか。
推測ですが。
他に相模国惣社を称する六所神社もあり、そこの近所に国府祭が行われる❝神揃山❞が今も在ります。
古代からこれらの神社と国府祭の五社は朝廷と結びつきが強かった事が解ります。
寒川神社の境内そのものに話を戻します。
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寒川神社の駐車場の横には摂社の宮山神社が鎮座しています。
この宮山神社は周辺に有った幾つかの神社が廃社される際に御神霊を遷座し合祀して御祀(まつ)りしている場所です。
摂社だけで普通の町中に在ったらそこそこ綺麗な神社程に整備されています。
寒川神社に行ったら是非、こちらも御参りして下さい。
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家庭運と安産祈願の御利益が有るので、若夫婦は是非御参りすると良いかと思います。
この宮山神社と、寒川神社の正面は少しだけ離れた場所に在ります。
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寒川神社の正面。立派な石橋ですね。
氏子サンも多く、参拝者の絶える事の無い御宮なので、力(お金)も有ります(笑)。
と言うか、現代の氏子さん達が頑張ってらっしゃるんですね~。
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参道も良い雰囲気です。
この神社は、植物に一々、何の記念で植樹したかや木に込められた意味の解説を添えて下さっているので、ちゃんと読んで見るのも良いかと思います。
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小生はこう言うのちゃんと読むタチでして、神社の職員さん達の仕事の丁寧さを垣間見れました。
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凄く立派な門ですね。
実は、寒川神社は平成に入ってから社殿の建て替えを行っているので御本殿もまだまだ新品同然の状態で、現代にこれだけの規模の立派な建築物を宮大工さんに依頼すると、どれ程の御金が必要か考えてしまいますね。
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門の絵前右側に社務所が在りますが、こちらも大変に立派です。
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結婚式もよく行われる神社さんだけ有り、少しホテルのロビーみたいな雰囲気も有ります。
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社務所の手前には別の裏門も有ります。
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本殿に行く門の手前の両脇には狛犬さんが控えている訳ですが、この寒川神社の狛犬さんは何だかロボットぽいデザインで個性的です。
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力強く・・・なんだか小生が昔遊んだTVゲームのFFシリーズに召喚獣として出て来そうな・・・
狛犬さんの手前左手には神馬をお祀りする御社も在ります。
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昔はね、絵馬じゃなくて有力豪族は馬を寄進したんですよ。
小生の住む久良岐郡の本牧(ほんもく)半島は、昔は朝廷の牧場で軍馬生産地だったので本牧の地名が残ります。
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でも、この寒川神社の神馬の彫像はリアルで少し怖い(笑)。
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門を抜けると境内は広く、とても綺麗です。
氏子サン達の頑張りで建て替えられた御本殿と整備された境内の石畳、この先数百年の財産に成り神奈川県の文化財に成って行くんでしょうね~。
まぁ、神奈川県と言う制度が残っているかは疑問ですが。
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境内全街がとにかく綺麗。
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新しいし。
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巫女サンも美人だし(笑)。
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八方除けの交通安全の御守りを買いました。津島大社の交通安全の御守りで遠距離運転を守って頂き、寒川神社の八方除けの御守りで車庫入れで四方八方ぶつけない様に守って頂く事にしました(笑)。
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御本殿も立派で、明治神宮よりも立派かも知れない・・・
これだけの規模の建物を良くぞ現代に建てれたものだと感心するばかい。凄いですね。
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ちょうど御祈祷が始まる直前だったので、拝殿に参拝客が沢山いました。
毎日沢山の参拝者が集まるんですね~。古代から栄え続けている神社だけに、財運にも恵まれそうだ。
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本殿の手前左手には御神木が在り、御神木も代を経て現在に至るそうです。
さて、ここからが小生の訪問目的で本題の追儺(ついな)祭の事に成ります。
この神事、ステレオタイプの学者先生共は中国由来云々かんぬん言う連中がいますが、寒川神社や京都の上賀茂神社等、古社に伝わる神事は完全に日本古来の様式の神事で、それ以外の比較的新しい神社が中国風の行事を取り込んで神事を行っているんですね。
寒川神社 久良岐のよし
寒川神社には背後に湧水地が在ります。夜、境内の灯りをすべて消して神職様達が池の水を汲み神前に供えるそうです。
度々解説していますが、延喜式内社の多くでは古代人が生活する基本となる聖なる水=安全な水の湧く湧水地や、海の航行や陸上移動の目標物と成る奇岩等も信仰対象として大切にされて来ました。
この寒川神社や上賀茂神社ではその歴史が守り伝えられている訳です。
寒川神社の追儺祭では、池で水を汲んで神前に供え清前(きよさき=聖水?)とした後に、境内を廻り、清前を撒いて清めるそうです。
この御祭、正月の2日に行われます。是非、皆さんも御参加されて古代からの伝統を体験してみては如何でしょうか?
今回の訪問で新しく延喜式内社専用に購入した御朱印帳に改めて寒川神社さんの御朱印と、近所の前鳥神社さんも御参りして頂いてきました。
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寒川神社さんの御朱印、カッコいいでしょ?
神奈川県内の延喜式内社は14座有るのですが、神主様が常駐している場所も減ってしまって中々、御朱印集め大変なんです。だからほら、小生の御朱印帳も寒川神社さんの右手は山梨県の一之宮浅間神社さんでしょ?
県外の大規模な延喜式内社さんから集まっちゃうんですよね・・・
簡単に御朱印が貰えるのは深水神社、比々多神社、高部屋神社(伊勢原皇大神宮で貰える)、大山阿夫利神社、寒川神社、前鳥神社さんくらいでしょうか。
有賀神社は宮司様にお電話差し上げて自宅兼事務所まで行って漸く拝領する事が出来ました。
なかなか、昔と違って神社にも御寺にも御参りする人は減って、檀家さん氏子さんも減ったので、宮司様も和尚様も複数の神社・御寺を兼任してらっしゃって大変なんです。
上記以外は御参りしても宮司様不在の事が多くてなかなか貰えない。事前に電話してタイミングが合えばと成ってしまいます。
これ、来年の目標ですかね、神社仏閣と歴史偉人の顕彰活動とは別に神奈川県内の延喜式内社を改めて御参りして御朱印コンプリートするの。
では、本日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう!




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