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タグ:北条五色備え

26日の土曜日は小机城址の竹灯籠祭りが開催されます。
ポスターの通り凄く綺麗で幻想的な景色を見る事が出来ます。
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 開催場所:小机城址市民の森  入場受付:26日(土)17:30~19:30※雨天時は27日に順延。CIMG7555

上記記載の住所をクリックすればGoogleMap上で場所を確認出来ます。スマホならそのままカーナビや乗換案内としても使えます。
天候による順延などは上記掲載URLから日本の竹ファンクラブ❞ホームページで御確認下さい。
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過去にも紹介記事を書いていますので、記事のリンクを掲載して置います。
文字の大きいのが記事の題名です。題名をクリックすると解説に飛びます。


御祭りの様子を写真で紹介した記事
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下のリンクは小机城と城の武将を紹介した記事です。
以前のポスター⤴️
本当に綺麗だから電車で来れる距離の人は見に来た方が良い!

昼から来るなら新横浜ラーメン博物館にも合わせて行けますしね。
良いレクリエーションに成ると思います。

ただし城址なので「歩きやすい靴」と「汚れても良いズボン」で行くのがオススメです。

屋台も出ますよ!
雨天は27日に順延だそうです~。

今回、多目元忠公の記事をリニューアルするに当たり余りにも膨大な情報量に成ったので、今回はユックリと記事を三部に分けて解説をしたいと思います。
①北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
今回の記事⤴

今後追記予定の記事2部⤵
②多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説。
③多目元忠公は大活躍したのに子孫と思われる一族の禄高が低く抑えられている原因の推理。

そして、未訪問の三ッ沢に在る多目家菩提寺の豊顕寺さんの紹介記事もいずれ書きたいなと思います。

さて、では今回は多目元忠公の基本的な情報と当時の北条家の状況の解説、居城青木城と青木城前身の権現山城の構造と周辺の歴史を解説します・・・

戦国時代に神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部を統治した大名の北条家が100年後に日本を統治した徳川家よりも優れた政治で内政と軍政を行っていました・・・
三つ鱗紋北条家三鱗紋
小田原北条家というのは戦国時代に既に初期の江戸幕府を凌駕する善政の統治機構を持ち、各方面で有事に別々に運用できる軍団制度を織田信長公の登場よりも早くから導入した内政と軍政に優れた大名家でした。
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現在も部分的に現存する❝小田原用水❞は日本初の上水道(飲用水道)として歴史学者には知られている存在です。又、城郭建築に長けた家臣団を多く持ち、更には修験道や神道の宮司も兼ねる有職故実に通じた由緒正しい教養高い家柄の重臣も多くいる民政と教養と城郭建築に特に長けた家柄でした。
この事は余り現代では歴史好き以外には知る人も少ないのですが、その北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
この五色備えとは軍旗の色を、青色・黄色・白色・赤色・黒色の各色に分けて部隊編成された軍団で、この五色は仏教五色と呼ばれ当時神仏混合だった宗教観では仏教的な思想では唐時代の中国の高僧の不空三蔵法師が訳した経典で以下の意味が有り、その軍団には役目が有りました。
黄・・・皇帝
中心を指す、物事の本質を見抜き統率する知恵・・・北条綱成公、家中最高の統率力の名将
青・・・青龍
東方を指す、此の世の出来事を公平に見る知恵・・・富永直勝公、家中初期功臣家系の名将
白・・・白虎
西方を指す、此の世の全てを見極める為の知恵・・・笠原信為公、家中最高の文化人の名将
黒・・・玄武
北方を指す、此の世の物を完成させる為の知恵・・・多目元忠公、家中最高の知恵者の名将
赤・・・朱雀
南方を指す、此の世が平等である事を知る知恵・・・北条綱高公、文武の両面で優れた名将

この色分けと其々の方位を守る聖獣は横浜市民と神戸市民は良く知っていると思います。
横浜中華街仏教五色四方聖獣の門と黄色の善隣門位置 久良岐のよし
横浜中華街には東西南北の四方を守護する青龍・白虎・朱雀・玄武の門が在り、中心には善隣門が据えられており、この善隣門の屋根瓦は正に日本の神道にも影響を与えた中国道教と仏教で皇帝を表す黄色の瓦が用いられています。
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そして海側の大手口と成る朝陽門は鯱鉾(しゃちほこ)の部分の飾瓦が青龍のデザインで屋根瓦全体も仏教五色の青に成っています。
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安土桃山時代~江戸時代初期に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公や徳川家光公によって寄進され神社建築遺産や居城だった安土城や伏見城等、海外との貿易が活発で華やかな色合いが好まれた当時の建築文化や仏像の極彩色装飾では、正にこういった道教と仏教の影響を受けた華やかな仏教五色を彩色された場所が多く有りました。
明治に廃仏毀釈で多くの華やかな社殿が消え官製神社に質素な色の鳥居や社殿が増えたのは実は明治の宗教改革をやった政治家がプロテスタントキリスト教徒で仏教を弾圧した影響なんですね。
日光東照宮の陽明門が正に現存する極彩色に装飾された建築文化財の代表例でしょう。
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織田信長公が社殿再建した京都府八幡市の男山、石清水八幡宮や・・・
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秀吉が社殿寄進した織田家所縁の愛知県津島市の津島大社とか…
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静岡市駿河区の久能山東照宮とか…
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神奈川県鎌倉市扇ヶ谷に在る徳川家康公に勝利の女神として大切に愛された側室の太田お梶の方の御廟所とかですね。
当時は神社仏閣で白黒と赤の基調の差は有れど、華やかな極彩色に彩られた場所が多く有った訳です。
色には宗教哲学や易学的な意味で方位守護を目的とした鎮護の意味が込められていたんですね。
北条家初期の北条五色備え軍団奇(く)しくも各軍団と大将は不空三蔵法師の仏教解釈の通りの色に符号した役割と能力を有しており、その為に軍団長として任命されている事も解ります。
北条氏綱公
そして
北条家二代当主でこの軍団編成をした北条氏綱公時代は、実際に色別に方角的な意味でも、それぞれの軍団は重要な合戦で各方角に出張する事が多く有りました。つまり、この五色備えは方角別に防衛や侵攻を担っていた事が解ります。
例えば青備え隊は初期は江戸城を後に葛西城を本拠地にしており、現在の東京都葛飾区辺りに居り北条氏綱公時代の領地の最東端に位置する地域の防衛を担(にな)っていました。
黄備え隊は武家の本拠地である鎌倉郡玉縄城に在り、主だった合戦では各方面に援軍として出張し主力として戦っていました。
白備え隊は甲斐武田家や後に徳川家に対する備えとして伊豆と相模の国境を守備する事が多い部隊でしたし、徳川家と北条家が激突した黒駒合戦でも黄備え隊と合わせて2万の大軍で相模国の西側の駿河国から甲斐国へ侵攻しました。
赤備え隊は初期の北条綱高公の時代には南方の要として江戸城で里見海賊の来襲に備え且つ、伊豆方面を守備する事が多く有りました。北条綱高公が江戸城で没した頃に小大名から北条傘下の軍団に組み込まれた世田谷城主蒔田吉良氏朝公の与力武将は江戸衆に成っていた様で豊臣秀吉の北条征伐の際には、やはり伊豆国下田の下田城防衛を担当し、城将清水康英公と共闘しています。又、蒔田吉良家には喜多見江戸家や河野家や杉田家や並木家等の水軍も保有しており江戸城周辺と品川港一帯東京湾中央部の防衛の要として機能していました。
そして多目元忠公の黒備え隊は北条家の知恵袋として良く本隊に組み込まれていましたが、北条早雲公や北条氏綱公の時代の初期の北条家北限が青木城周辺でした。北条家は当主自ら本隊を率いて敵軍と激突する事が多く、黒備え隊は遊軍でありながら隊長の多目元忠公が戦全体をコントロールする軍師としての役割を本陣で担う事が多かった軍団でした。秀吉の小田原攻めの際も多目家は小田原城に籠城していますし、小田原に籠城しなかった者は蒔田御所こと室町時代まで鎌倉公方代理だった蒔田吉良家の吉良頼康公の保護の為に近くの南区蒔田の蒔田城にもかけつけています。この時、吉良頼康公は水軍で城下の蒔田湾や磯子から出陣して単独で鎌倉防衛しようと無謀な構えを豊臣軍に対して準備していたので、もし多目一族が吉良頼康公を止めていなけらば、その後の江戸幕府高家の蒔田家→吉良家は存在しなかったでしょう。
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南区蒔田城跡の城下には太田道灌公の親友で戦上手として記録の残る吉良成高公が開いた勝國寺が現存しており、吉良成高公の先代の吉良政忠公から吉良頼康公までの御廟所と家臣団である佐々木家、森家、並木家等の御子孫達檀家サンの御墓が今でも殿様の御廟所を囲む様に存在しています。
以前書いた記事⤵
三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区の笹下川~大岡川流域蒔田湾の流通の拠点。
世田谷八幡宮所縁の殿様、吉良頼康公…東急世田谷線宮の坂駅と横浜市営地下鉄蒔田駅の殿様。
招き猫発祥の寺、世田谷区の豪徳寺…彦根藩井伊家の菩提寺で、蒔田吉良家所縁の大寺院。

今回紹介するのは北条家で最も有名な北条早雲公の時代の話でも無く、民政化として最も有名でありながら軍才に長けて北条家最強時代を築き上げた北条氏康公の時代の五色備えの黒備え大将だった武将の話です。
北条氏康
※KOEIさんのゲームより画像拝借。
・・・北条氏康公が小田原北条家第三代当主と成った頃、五色備え軍団の大将の内の3人の殿様と2人の名副将が現在の横浜市と成った昔の鎌倉郡・久良岐郡・橘樹郡・都築郡に居住していらっしゃいました。
 
1人目は旧鎌倉郡の内横浜市栄区長尾台に在った長尾城を外郭とし鎌倉市植木~玉縄~藤沢市村岡~小雀に跨る巨大城郭だった玉縄城主の北条綱成公。
北条綱成
※KOEIさんのゲーム画像拝借。
玉縄城主、黄備え隊の大将として活躍し各ゲームでも関東最強の武勇の評価をされる武将です。
そしてこの綱成公には名副将が二人いました。
実弟の福島勝広と北条本家家臣で付家老の間宮康俊公です。
弟の福島勝広公は河越夜戦で活躍した美少年として有名ですが、江戸時代の福島家の一族の中には現在の観光地デートスポットとして有名な江ノ島の江島神社の中津宮別当を務めた家もおり、明治以降は旅館を営みましたが廃業しました。
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豊臣秀吉子飼いの名将、福島正則公が少年時代に名古屋の甚目寺で殺人事件を起こして同族福島氏出身の北条綱成公を頼り駿河伊豆に落ち延びた際、当時深沢城代だった兄北条綱成公に代り直接福島正則公の面倒を見たのが小生はこの福島勝広公だと推測しています。
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愛知県あま市の福島正則公生誕地に在る菩提寺の菊泉院もやはり北条家の武将達が関わった御寺に多い曹洞宗で、御住職に面会に行った際に福島正則公の家臣団に伝わった北条家臣福島家との関わりを色々と教えて頂きました。
そして黄備え隊の副将で付家老が横浜市港南区~磯子区に跨る大城塞の笹下城主、間宮康俊公でした。
この間宮家は祖先が近江国の大名である宇多源氏佐々木家で、佐々木家氏神の延喜式内社沙沙貴神社宮司家を務め修験道にも通じた神道と仏教に精通し更には城砦建築と宗教建築の土木と海運と水軍と鷹の飼育、更に武勇に優れた武将を多く輩出した家柄で、学問気質でありながら豪胆な人物の多い家柄でした。子孫には学者の間宮士信や地理学者で探検家の間宮林蔵公や医学者の杉田玄白公がいます。
鶴岡八幡宮再建でも水運を利用して材木奉行を務めた北条綱成公の任務を代行している事が改元僧都記や蒔田吉良家臣団の伝承からも判っています。
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実際、間宮家江戸時代の当主で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を立案した徳川家康公の軍師の間宮直元は間宮康俊公の嫡孫(ちゃくそん=孫で跡継ぎ)に当たりますが彼は横浜市域の多くの神社仏閣を復興したばかりでなく、同族間宮一族の岩本間宮家(佐々木家=明治以降岩本に改姓)は江ノ島の奥津宮(本来の江島神社)と欽明天皇以来の勅願所の江ノ島の洞窟を管理する岩本坊で別当を務め、その家は明治に成るまで存続しましたが、明治政府の政策で仏教と神道的な場所が分離されると寺院機能を停止して宿坊として旅館業を営み始め有名旅館❝岩本楼❞として現代も江島に存続しています。初代江ノ島郵便局長で俳人としても有名だった間宮霞軒さんも御一族でした。
更に間宮家より家紋を下賜された久良岐郡松本村の松本家は笹下間宮家の陣屋を守っていた武内家に伝わる家系図でも間宮家から養子が入っている事が確認できるのですが、この家は源頼朝公が開いた修験道の大道場で門跡寺院だった鎌倉亀谷山福禅寺配下の重要な武蔵国域の大道場権現堂別当職を明治まで受け継ぎ、明治の廃仏毀釈後に権現堂は廃寺に成ったものの森浅間神社として権現堂の修験道場機能は神社化し存続しました。
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以前書いた記事⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
この歴史からか森浅間神社の所在地の横浜市磯子区森には神奈川県神社庁が置かれており、間宮家が室町時代から関東で担っていた宗教的な役割の重要さを窺い知る事が出来ます。
又、磯子区には福禅寺と同じく元々は鎌倉市山崎に所在し源頼朝公から崇敬を集め修験道の大道場だった山崎泉蔵院の重要道場だった中原村(磯子区中原)の熊野神社は後に泉蔵院が鎌倉から機能移転したことで大霊山泉蔵院桐谷寺と改名し室町時代から間宮家が領主となり保護し福禅寺権現堂と同じく明治の廃仏毀釈で泉蔵院が廃寺になり熊野神社に名を改めるまで存続していました。
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以前書いた記事⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
福禅寺の寺院機能は東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家によって機能移転され三田氏が奉行と成り寺院が造営されたと小生は推測しており、同地には間宮一族と伝わる杉田家の初代が三田領に居た事も間宮家の子孫の間宮士信さんが新編武蔵風土記稿に書いています。
そんな青梅市二俣尾の福禅寺は江戸時代のアホの幕府役人が寺領保証の御朱印書きで寺名を誤記したせいで海禅寺と名前が変わってしまいました。
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以前書いた記事⤵
【第2部:海禅寺編】休日雑記 2017年04月19日の訪問先…【青梅市】辛垣城址~海禅寺~へそまんじゅう総本舗~【羽村市】阿蘇神社~チューリップ祭~【あきる野市】中村酒造
そう言えば、この二俣尾の江戸時代の名主さんも福島姓だったので、もしかしたら北条綱成公の御先祖様と二俣尾や近い立川市周辺の室町時代以前に福島郷と呼ばれた柴崎~昭島辺りは関係が有ったかも知れないと小生は推測していますが調べても文献が無く僅かな状況しか無いのですが、この海禅寺の前身の福禅寺からわざわざ間宮家は菩提寺と成る鶴見区下末吉の寶泉寺初代の住職を迎えているので福島家と間宮家の関わりからも亀谷山福禅寺と青梅の海禅寺は無関係では無い可能性が有ります。
さて、黄備え隊の事は又、色々記事が有るので御興味有る方はそちらを読んで見て下さい。

2人目は笠原信為公です。
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※毎年4月初頭に開催される小机城址祭りでは港北区長サンが笠原信為公の役を演じています。
高文化の北条家中で宿老の北条幻庵公と並び屈指の教養を持つ人物で詩歌に通じるばかりではく、寄親で初期の小机城主と思われる北条幻庵公に代り小机城代を務め白備え隊大将として統率力と実務能力も高い人物でした。その実務能力の高さから、蒔田城主で鎌倉公方代理の蒔田吉良頼康公や北条綱成公付家老間宮康俊公等を纏め上げて鶴岡八幡宮再建総奉行を務め見事に成功させた名将でした。
又、笠原家は間宮家と共に北条家中を代表して対外的な外交を担う事の多い家系だったので、高い外交力を有した家柄でもありました。
恐らく初期の北条家に置いて最高の内政力の高さの両方を有した武将は、この笠原信為公だったのでしょう。そして謀略と外交に長けたのが北条幻庵公だった様です。そして御二人とも北条家中最高の文化人だった訳です。まぁ、宗教的な教養では間宮家と関家が北条家中では最高クラスだった様です。

さて、長い前振りでしたが多目元忠公の事を紹介します(笑)・・・

今回のブログ記事では戦国大名小田原城主伊勢氏流北条家の家臣中で最高の軍師、そしてゲームでも関東最高の軍師として能力評価される事の多い人物と、その居城の横浜市神奈川区青木城と権現山城の事を解説しますが、先に多目元忠公の時代の北条家周辺状況と、その状況の発端とを知る必要が有ります。

黒備え大将、青木城主、多目元忠公。

※KOEIさんのゲーム画像拝借
多米元忠公の居城だった青木城は今の京浜急行神奈川駅と横の権現山と本覚寺を繋ぐ昔の半島と背後の台町の丘に在(あ)った比較的大きな御城でした。
鎌倉時代末期~室町時代初期には後の征夷大将軍と成り室町幕府を開いた足利尊氏公が権現山を城塞化し籠城した記録が残ります。
新編武蔵風土記稿には以下の記載が在ります・・・
橘樹郡巻十三 七軒町の項
ー冒頭省略ー
本覺寺
西側にあり海道より少し引いりて石段ありそこを上(あが)りて山の上なり曹洞宗小机村雲松院の末青木山延命院と號す
ー以下中略ー
裏門は東の方にありて門外は陸田とうちひらけし地も今城跡と云(言う)所あり永正七年上田蔵人入道か當(当)所權(権)現山に砦をかまえあたり近き本覺寺の地蔵堂をとりこみて要害とせしなといへること古戦の記にも見ゆるはさもあるへく覺(おぼ) ゆ猶(なお)古跡の條合せ見るへし

権現山砦跡
宗興寺の山につ々(続)きたる所なり永正七年長尾爲景蜂起の時上杉高救(たかもと)入道建芳か被官上田蔵人入道北條早雲と議して當所へ砦をかまえしことあり小田原記等の書を閲(けみす)るに此(この)時蔵人入道は神奈川へ打(うっ)て出熊野権現山を城郭にとりたて、謀反の色をたてけれは管領家謀議し主の建芳を打手(うって)の大将として加勢には成田下総守渋江孫三郎藤田虎壽丸大石源左衛門矢野安藝入道成田中務丞を始(はじめ)として武州南一揆を催し雲霞の如く取(とり)巻けり時に永正七年七月一日なり
ー以下中略ー
寄手は大勢なれはこと々もせす喚(わめ)きさけんて切(きり)て入(いる=切りて入る=突撃する)神奈川の住人間宮の某と名のり黒鎧に四ツ目結びの笠しるし(印)濱風に吹かさし木戸を開(ひらい)て出寄手(よせて=攻撃側)も是(これ)を討とれとて射向いの袖を差かして一面に切むすふ城中のつわもの共間宮をうたすなと聲々(声々)に叫(さけび)て追(おい)つまくりつ戦いけるが遂に討(うち)まけて引(ひき)て入寄手彌(に)勝にのりつ々いて城へ入らんとする所に襄平木戸ををろして大石をなけ出す寄手先陣
ー以下省略ー
まぁ、こんな感じでかなり詳細に北条五代記や新編武蔵風土記稿には合戦の様子が紹介されています。
・・・新編武蔵風土記稿の編集長が何たって東大の前身の昌平坂学問所で頭取だった間宮士信さんで間宮家の子孫だからね。
簡単に説明すると青木城は元は権現山城って御城で、その権現山城で永正七年(1510年)旧暦七月一日に勃発(ぼっぱつ)したのが北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦でした。
※扇谷上杉を知らない人「ココ」←クリックして扇谷上杉の説明文を探して!
この権現山合戦で北条早雲公側の城将として活躍したのが川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。

 
北条家が敗戦したものの、信冬公は単騎突撃で名声を獲得しました。
その間宮信冬公の子孫が後の笹下城主間宮康俊公です。
※笹下城を知りたい人は「ココ」←クリック!
さて、そんな権現山城の戦いは北条側の敗戦に終わります。
ココ↓辺り木々に覆われた場所が全部権現山城址で後の青木城址の外郭出城。
この戦いは現在の本覚寺側、台町の方から敵が丘伝いに侵入して来て籠城側は防戦に失敗したと言われています。その反省から城主が多目元忠公に成った時代には本覚寺側の丘に防衛機能の主要部を移動して村名から青木城と改名した様です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
Google mapで衛星写真を表示すると現在は明治の国道1号線開削と鉄道建設で分断された昔の青木城~権現山城の地形が海に突き出した半島地形で要害性の高い断崖だった名残が見て取れます。
現在の横浜駅や金港町辺りは江戸時代までは海だったんですよ。幕末に勝海舟さんが神奈川台場と言う要塞を築くために権現山城址の山を削り、更に明治時代に成ってから周辺の海は神奈川台場もろとも埋め立てられました。

この青木城主の多目元忠公は北条氏康公の軍師(ぐんし=参謀)で、史実では河越合戦において北条氏康公の手勢8000の内、兵2000もの大部隊の指揮を任されていました。
また元忠公は全軍に作戦命令を出せる立場にあり、河越合戦でも殿様の北条氏康公と全軍に対し彼が独断で攻撃中止命令を出せる程に信頼されていた名軍師でした。
北条氏康公は内政に優れていただけでなく武将として優れた武勇と統率力を有し直接危険な合戦で部隊指揮を担う事も有り河越夜戦では主力の内、本隊御馬廻り衆を率いて敵の扇谷上杉家や山内上杉家の大軍に突貫し壊滅させた程でした。この時に北条氏康公と敵軍を挟撃して大混乱に陥れたのが僅(わず)か3000の兵で河越城籠城を本隊8000到着まで半年間持ち堪(こた)え成功させた黄備え隊北条綱成公でした。
しかし北条家で最強の二入は敵軍と交戦状態に在り、乱戦の中で全軍の指揮をとれなかったので本陣で戦況をコントロールしたのが多目元忠公だった訳ですね。
つまり三国志で言えば劉備の徐庶や諸葛亮の役割を、孫権における周瑜や呂蒙や陸遜や徐盛や丁奉の役割を、曹叡における司馬懿や満寵の役割を担ったのが北条家では多目元忠公だった訳です。
KOEIのゲーム信長の野望天道PKにも以下の超高スペックで登場しています。
統率73 武勇40 知略97 政治46 義理90
…凄いんだよ結構。

SEGAの戦国大戦でも低コストなのに高評価↓コレね。
 
ちなみに…
しかし彼の子供達と思われる人物の所領は総合計しても玉縄衆黄備え隊の付家老だった間宮家に遥かに劣り、軍団長としては不可解な冷遇をされている可能性が有り、それがもしかしたら北条為昌公が起こしたかも知れない北条氏康公廃嫡運動=謀反未遂事件に関与したからかも知れません。
これは解説③の回で小田原所領役帳で多目姓の武将の所得と立場を見ながら解説します・・・

ここからは青木城周辺の地勢と歴史を解説し、それから青木城の❝縄張(なわば)り=構造❞の推測を解説したいと思います。

・・・戦国時代の名将多目元忠公と居城の青木城も江戸時代に成ると廃城に成りますが古くから海運と陸運の交通の要衝だったので青木城の在った場所には東海道「神奈川宿(かながわじゅく)」が置かれ、旅客で賑わいました。
実は古代には恐らく一帯は港として流通拠点と成って開けており、直ぐ近くの六角橋と言う綱島街道の旧道と東横線の駅に沿って伸びる商店街の辺りには日本武尊(やまとたけるのみこと)が西暦100年代に滞在した伝承が御当地の久応山寶秀寺と三浦半島の走水神社の神話に残っています。
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※以前六角橋商店街や神話の土地を散歩した時の休日雑記⤵
休日雑記 2017年03月18日の訪問先…【神奈川区】昭和の風情漂う六角橋商店街と安くて美味いオデン屋"かずさや"さんと塩嘗め地蔵と寳秀寺参拝で美味しい神話探訪。

冒頭の方で室町時代にも足利尊氏公が青木城の前身と成った権現山を城砦化して籠城し、更に室町期も戦国時代に突入すると北条家臣間宮信冬公が籠城した事も少し触れましたが、この付近が重要な地域だった事が解るのが青木城址の在る神奈川区の隣接区である鶴見区の長谷山寶泉寺と間宮家の歴史です。
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寶泉寺と間宮家の関わりを解説した記事→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
戦国時代の北条家にも江戸時代の徳川幕府にも重視された神奈川宿には幕末にも超メジャーな歴史人物が関わっています。
昔の神奈川宿の東海道旧道沿いに現代も存続する「田中家」と言う料亭で働いていた人物です。

その人は坂本龍馬の奥さんで未亡人の「お龍さん」です、意外でしょ?
京都生まれのお龍さんの終焉の地は神奈川県なんですよ。お墓は横須賀市大津に在ります。
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以前書いたお龍サンの菩提寺、横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)の記事。
これクリックで読めます⤵
坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
こんな歴史偉人達が関わった神奈川宿、その神奈川宿の下に成ったのが青木城の一部が江戸時代には今の本覚寺です。本覚寺は幕末にアメリカ領事館として利用されアメリカ公使のハリスサンやドール領事が住んでいました。歴史で誰でも習う人ばかりでしょ(笑)?
この本覚寺の山門がハリスさん達が住んでた頃にアメリカの一般住宅風に白いペンキで塗ったくられてしまうなんて珍事も発生してるんですよ(笑)。まぁ、仏教寺院は平安時代の昔は五色彩色され華やかだったので白く塗られる位は何て事無いのだけれど・・・
黒備え隊、多目元忠公の本拠地だからどうせなら黒いペンキの方がマシだったのかな(笑)?
実はここが生麦事件の重要な現場の一つにも成っています。
薩摩藩の大名行列と英国民間人の間で生麦事件が発生した際に、薩摩藩士に斬りつけられた英国人が逃げ込んだのが、この本覚寺でした。
生麦事件が起きた事により薩英戦争が勃発し、それまで攘夷派(じょういは=外国人拒絶派)だった薩摩藩はヨーロッパの実力を思い知り政策を180°転換し近代化の道を歩むことに成りました。
この幕末の攘夷運動の生麦事件や鎌倉事件も間宮家と関連有るのでが以前解説記事を書いて有ります。
これ⤵
幕末の生麦事件と鎌倉事件、そして江戸時代の梅花山成就院と安土桃山時代~江戸時代の本牧奉行・但馬奉行の間宮家…横浜市港南区、鶴見区、鎌倉市雪ノ下。
さて、こんな重要な土地だったので古代には直ぐに近所の六角橋に日本武尊が滞在し~室町初期の足利尊氏公の権現山城籠城~戦国時代の間宮信冬公と上田蔵人vs扇谷上杉家山内上杉家連合の権現山合戦~江戸時代の東海道神奈川宿設置~幕末の勝海舟による神奈川台場建設~日本初の新橋~横浜(桜木町)間の鉄道建設と神奈川駅設置~現代の瑞穂埠頭米軍基地と横浜中央市場の開設と全ての時代を通じて重要な交通と海運の要所だった訳です。
ですから戦国時代にも権現山城の落城後に地続きの丘を主要部に城を改修して❝青木城❞が改めて築城された訳です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
画像はGoogle mapに衛星写真を投影した物です。写真の中央には現在の国道1号線=東海道とJR・京浜急行の線路が通っており、線路と国道を挟んで左右に伸びる細長い緑地の右手が本覚寺と台町の丘で青木城址の主要部分、道を挟んで左手の幸ヶ谷(こうがや)公園の丘が昔の熊野権現社の跡であり権現山城跡の主要部分です。
北条家臣の間宮信冬公と上田蔵人が上杉家2万の大軍をここで迎撃した際は権現山城の丘周辺は海で僅(わず)かな砂浜が在る程度の険阻な海に突き出した要害性の高い半島でした。その麓の砂浜が平安時代~江戸時代末期までの旧東海道で、当時は海だった横浜駅周辺は通れないので料亭田中家の前の坂道を登って生野が当時の道順でした。つまり権現山城時代から街道を抑える重要な拠点であり、水神信仰の熊野信仰の場所でも有った事から海に突き出した半島にも関わらず飲み水に成る湧水の泉か滝が存在した事が推測出来ます。
海道を抑える場所な上に、三方を海に囲まれた険阻な場所ながら飲み水が確保出来たからこそ、足利尊氏公、そして後に北条早雲公の命を受けた間宮信冬公が城を築城して籠城する事が出来たのでしょう。
権現山城址遠景(Google map)
権現山城の地形は今でも険阻な丘ですが、幕末の神奈川台場建設で海の埋め立ての為にだいぶ削られたので昔の高さも城の遺構も残っていません。
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でも幸ヶ谷公園に行くと、権現山合戦の現場である説明の看板が有ります。
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幸ヶ谷公園に登ると昔は地続きだった本覚寺や背後のマンションを含めた青木城の主要部分が良く見えて平地からの高さを確認する事が出来ます。
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青木城部分の本覚寺は幕末にアメリカ領事館に成っていましたが、実は権現山部分も外国の大使館に成っていました。
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浄土真宗高田派の堪行寺サンです。フランス公使館として機能していました。
この辺り一帯が戦国時代の青木城址だった名残りは少ないので現代では城跡で、しかも北条家の重要拠点だった事なんて現代の横浜市外から移民して来た横浜市民には余り知る人も少ないでしょう。
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でも明治時代に丘を掘り切って削り込んだ鉄道の広い線路の上に架かる橋は❝青木橋❞と言う名前なんですよ!
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橋の両端の交差点の名前にも成っていて交差点の信号に付いている看板を見ると、ここが青木城だった事を知る事が出来ます。
迅速測図 神奈川宿周辺 久良岐のよし
権現山を削って作られた神奈川台場は明治時代の迅速測図でも形を見る事が出来ます。
画像の右下の海に飛び出した島が人工島の神奈川台場と言う大砲を何基も据えた近代海上要塞でした。この台場の大砲は、外国人居留地と成っていた現在の山手~元町~横浜中華街~日本大通りの関内地区に向かって設置されていて、外国人居留地に駐留する英国軍やフランス軍が争乱を誘発しようとした瞬間に横浜港に停泊する外国軍船や貨物船や居留地を「砲撃で打ち払い駆逐するぞコラっ(; ・`д・´)‼」と言う虚勢と言うか無意味では無い威嚇の役割が有りました。
今では神奈川台場建設の見て取れない幸ヶ谷公園側にも恐らく城の遺構と小生が推測する場所が辛うじて一箇所だけ存在します。
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幸ヶ谷公園と創価学会東神奈川平和会館の間を貫く微妙な深さの道路ね・・・
これ、もしかしたら権現山城の先端部分と当時の主要部分を曲輪として分断する為の堀切を兼ねた堀底道の名残で山の切削で堀が浅く成ったものの生活道路として利用されてるんじゃないのかな?
・・・と城好きの小生には見えました。
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今は削られて真っ平らだけどね。新編武蔵風土記稿の絵を見ると丸いラクダの背中みたいな形の山だったんですよ。
さて、地形の名残の余り無い権現山城時代の主要部分と違い、JRと京急線の線路を挟んで反対側の本覚寺側には恐らく城の曲輪跡と思われる地形が沢山残っています。
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先ず、この本覚寺の登り自体も青木城の大手口の名残だと思います。
御覧の通り登って来て、山門と本堂の在る一段高い削平地を横切る形でS字クランクしています。
これは❝食違い虎口❞の跡だと小生は推測します。
青木城主要部分明治期 迅速測図 久良岐のよし
明治時代の迅速測図でも同じ地形なので、これは近代土木技術の無かった室町~江戸時代に作られた地形だったと言うのが小生の推測の根拠ですね。
そして本覚寺の庫裡と本堂はL字に配置されていますが、左手の墓地や周辺の段地や断崖地形も迅速測図で確認出来ます。
これをGoogle mapの立体衛星画像で見て見ましょう。
青木城主要部(Google map)
小生と同じく城好きな人、これどう思います?
墓地の中で本堂側に突き出した小さな半島状の突起構造は本堂背後に上がる道を塞いでいた城門の枡形虎口の片側遺構だと小生は睨(にら)んでいます。つまり切り残された❝土塁❞ですね完全に。
本覚寺の墓地の段地は完全に帯曲輪と武者走りの遺構ですよね?そして恐らく当時の本丸は背後の住宅街なの略略(ほぼほぼ)間違い無いでしょう?地形的に。
当時の本丸へのアプローチは本覚寺本堂裏手の半島の上の更に半島の様な地形の墓地の段地でしょう。そこの墓地への登り口が武者走りで、本覚寺は三之丸の様な場所、権現山城は青木城時代は出丸として機能し本覚寺本堂裏の墓地から段々に本丸の集合住宅地の台地最後部へ続く❝連郭式(れんかくしき)城砦❞つまり細長く段々に兵を配置する曲輪が設けられ、曲輪を順番に突破しないと本丸に辿(たど)り着けない城の構造だったと推測出来ませんか?
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この本覚寺墓地裏手の白い集合住宅の在る削平地の台地が本丸でしょう。恐らく左手の坂道は裏手の門へと続いた別の道だと思います。
青木城址遠景(Google map)
この坂道の有る本覚寺入口側では無くて青木城址の台地を反対側の衛星写真で北側から見ると良く解りますが、この坂道の先には大きくくびれた人口の竪堀(たてぼり=山裾をえぐり取り丘の侵入経路を細くしたり、山の斜面で敵の横移動を防ぐ構造)の大空堀と思われる地形が有りますよね?
本覚寺高島山公園周辺地形 久良岐のよし
丁度、高島山公園の辺りです。ここが丘側の城門が在った要所であり、高島山公園横の台地がV字に抉れた地形は人口の大空堀だと小生は推測します。
これ程大規模なのは自然地形でしょ?と北条流の築城術を知らない他府県、こと中部地方の人は思うかも知れませんが違いますよ。これは恐らく人工地形です。
戦国時代の北条家が末期に水軍の拠点にしたのは久良岐郡杉田湊(みなと:横浜市の埋め立てで消滅)、三浦半島の三崎城の北条湾、伊豆半島の下田城の下田港が特に有名でした。
その三崎城にも同様の大空堀が存在し、自然地形に見えますがV字の人工地形と三浦氏教育委員会も認識しています。
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縄張り図の右上のV字の谷が大空堀で人工地形です。
北条流の築城では台地に築城する際は台地側面を深く抉(えぐ)って大手と反対の防御の弱い地形の侵入経路を細くして虎口を作る事が多かった様です。
さて、御城としての名残を辿れるのはここまででしょうか?
では次に本覚寺さんを見て見ましょう。
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山門の横には高度経済成長期に歴史と文化の史跡の名残を少しでも残そうと尽力された細郷市長が揮毫(きごう=言葉とか名前を記念に書く事)された石碑が有ります。
横浜開港の主導者だった肥後守、岩瀬忠震(ただなり)公の記念碑ですね。
幕末にペリー提督達が日本に開港を迫った際に、遠い下田じゃ嫌だと言い出し交通の要所で江戸からも近い神奈川宿を無理に開港させようと圧力をかけて来た時に、江戸防衛上非常に問題に成るので対案として埋立地の吉田新田の中の水堀と海で外部と隔離出来て外国人の安全も保障できる上に港としても適している横浜村の開港を対案として提唱したのが岩瀬忠震公でした。
明治時代の有吉忠一市長や昭和期の細郷道一市長や後の高秀秀信市長は、今の史跡と自然破壊容認が得意技でヤクザを勢い付かせるカジノ建設に躍起の林文子市長とは違い、歴史と文化の見識が深く多くの史跡を保護或いは記念碑の建設と歴史を後世に伝える努力と街作りを両立された方々でしたので、細郷市長はこの様に日本近代化の舞台と成った本覚寺にも関わってらっしゃったんですね。
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この山門がアメリカ合衆国の役人に真っ白に塗ったくられた物だそうです(笑)。
柱に名残が少し残っていますね。
本覚寺は曹洞宗の神大寺の末寺としてスタートした小机城下の雲松院の末寺でした。
雲松院は神大寺の廃寺後に神大寺の機能が移転され、周辺の本寺と成ったので古い御寺と誤解される事も多いですが実際の所は白備え大将で小机衆の副将だった笠原信為公が父上の菩提寺として開いた神大寺の末寺です。
さて、そんな経緯が有って雲松院の末寺として開かれた本覚寺ですが、現代では山も削られ背後も住宅街に成り城だった戦国時代どころか江戸時代の昔とも随分と風景も違うでしょうが、御本堂は立派です。
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記録に無い情報もちゃんと取材しないと気が済まず現地に行く主義の小生、数年前にちゃんと御寺に御参りに数年前の取材の際に行って奥様と話しましたが、多目家との関わりは無いそうです。
まぁ、菩提寺は三ッ沢の豊顕寺と解っているので、やはり戦国時代には寺院機能は無かった様ですね。
でも曹洞宗の御寺なので、北条家の支援した宗派の御縁である事は偶然とは言え運命なのでしょう。
御寺の寺紋も鶴見の曹洞宗大本山総持寺さん由来の桐紋です。
多目家の家紋、小生はまだ存じ上げません。いつの日か、ちゃんと多目家の御子孫に御会いして家紋の事もお伺いし皆さんにも紹介したいと思います。


次回は青木城の解説から離れて城主の多目元忠公の活躍した合戦と、その合戦の事件背景を解説します・・・

北条家の五色備えは独立したカテゴリーにも成ってますので、御興味有る方はカテゴリー検索してみて下さいね!青備え隊の富永直勝公以外は既に紹介記事が幾つか有ります。
カテゴリー「戦国時代:北条家五色備え」
ここ⤴に記事有るので皆さんの興味を引く人物の事が書いて有るかも知れません。

その②に続く→北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。





ブログネタ
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節分の季節ですね。
節分は太陰暦(たいいんれき)=農暦の名残で、アジア圏で今も続く春節が由来の行事です。
因みに今の日本の暦は太陽暦ですが…
農暦は農業を行うに当たり古代から指針とした暦(こよみ)の伝承ですね。
節分に鬼に豆をまいて追い払うのは、もしかしたら作物の種を植えた際に、畑荒らす鳥に炒って硬く消化悪く成った豆を食べさせて、満腹にさせて畑に蒔いた種を食べられるのを防いだりする為かな?
節分の豆巻きの由来は今となっては解りませんが…
農暦が伝承する様(よう)に神話や文化も現代に伝わる場所も日本中沢山有りますよね?

横浜市磯子区には、妙法寺と言う由緒有る寺院が有りまして…
門前の柏槇(ビャクシン)の大樹は「神奈川の名木百選」にも選ばれた御神木であり…
…その大樹がある事からも、何となく御寺の凄さが伝わって来ませんか?

実は此方(こちら)の妙法寺、御寺ではありますが日本武尊(やまとたけるのみこと)に関する神話の伝わる場所なんです。
門構えはこんな感じ…
門前の石柱が立派ですが、趣きは武家の小大名クラスの陣屋の様な印象の門構えです。
……何を隠そう、歴史好きは知っている伊豆山中城の戦いで大活躍した戦国武将の間宮豊前守康俊公の間宮家の菩提寺でもあるんです。
間宮家は戦国時代に小田原北条家に従い、北条家中で相模国国人(こくじん=在地領主)衆の筆頭として「相模十四騎筆頭」の栄誉を授かった家であると同時に、今の横浜市港南区と磯子区にまたがる広大な笹下城を拠点に杉田港を水軍基地として相模国武蔵国2カ国の北条水軍を統括した家なんです。

間宮家の話しの前に、先ずは冒頭で触れた日本武尊神話に話題を戻しますね。
御寺ですが、日本神話に関係が深いので、境内にはちゃんと神社同様に手水舎(ちょうずしゃ=手と口を浄める場所)も有ります…

この妙法寺、日蓮宗ですが開基は空海和尚=弘法大師なんです。
空海和尚は、どうも日本武尊神話を辿って関東の日本武尊の聖地を巡礼(じゅんれい=聖地を旅しする事)していた節(ふし)が有るのですが…

空海和尚は神話で日本武尊が此の地に立ち寄られたと伝わる事から、今の妙法寺の境内に日本武尊が信仰していた神道では素戔嗚尊(すさのおうのみこと)と同一視されている牛頭天王ですが…
牛頭天王の御社(おやしろ)を京の祇園精舎(今の京都の八坂神社)から空海和尚が勧進されたのが、妙法寺の始まりだそうです。 
上の写真、階段上の御堂が現代の牛頭天王舎です。
階段手前の左側には、日本武尊の奥様の弟橘媛(おとたちばなひめ)も祀られています。
因みに牛頭天王、仏教成立以前のインドの神様インドラ神が原型だそうです。
インドラ神は古代インド神話では天帝とも呼ばれ軍神で、少々破壊神的な側面もあったみたいです。
つまり荒神様ですね。
仏教では帝釈天なんて訳されたりもしています。
日本神話や仏教成立よりだいぶ早い紀元前14世紀には記録の有る神様だそうです。

ところで、この妙法寺のある場所に日本武尊が立ち寄られた可能性は実は本当に高いんです。
下の写真は走水神社です。

日本神話上、日本武尊は西暦110年に今の神奈川県三浦半島横須賀市の走水神社のある場所に立ち寄られ、そこから房総半島に渡ったと伝わっています。
神話に数百年前後して誤差が有ったとしても、日本武尊の称号で呼ばれた人物が関東に東征して来られた事は関東各地に神話通り郷土史が伝わっているので、まず間違いないでしょう。

下の写真は走水神社付近の空撮ですが…

走水神社前の湾の左側、御所ヶ崎(ごしょがさき)と呼ばれる半島が有ります。
今でこそ地続きの半島に成ってますが、当時は島だったはずです。
御所ヶ崎は走水の浦に浮かぶ島だった訳ですが、この島に日本武尊の御所が房総半島への渡航前に置かれていたそうです。
日本武尊の軍船は御所ヶ崎の反対側、写真右手の今は防衛大学の敷地の半島側に停泊してそこから出航したそうです。
※走水神社の記事は「ココ」←クリック!
神話の時代の弥生時代〜貴族の時代の平安時代までは今より海面は高い位置にあり、だいぶ内陸まで海だったんですよ…
逆に言えば、現代の津波警戒区域は海の底。

ほら、横浜なんて是(こ)れ此(こ)の通り半分は海の底…
港北区の綱島なんて、本当に「島」だった訳です。

日本武尊、実は走水からの房総半島渡航に一度失敗しています
これは走水神社の氏子さんから聞いた伝承ですが、出港後、東側に東京湾を突っ切り房総半島に渡るつもりが潮流に流されてしまい、ぐるっと回って走水に戻って来たそうです。
この神社を証明するかの様に現代でも、この海域は浦賀水道と呼ばれ潮流が酷く早い上に岩礁が多く危険地帯なので、外国船がこの海域を航行する際は専門の航海士が乗り込み操舵を交代すると、港湾業務関係者に聞いた事が有ります。

つまり、神話で日本武尊の船が流されたと言うのは信憑性が高い訳です。
さて、そこで杉田の妙法寺が関わって来る訳です。

今度は妙法寺の有る、横浜市沿岸部の地形を見てみましょう…
写真左手、妙法寺の周囲は断崖絶壁が続きます。
昔は海面が高かったので妙法寺裏から続く断崖絶壁は海の波に洗われていました…
この海岸段丘の断崖絶壁は何と三浦半島の付け根の金沢区〜中区の本牧半島の裏側、今の横浜中華街元町辺りまで続く長大な範囲でした。
この丘陵地帯は久良岐の丘と呼ばれ、横浜市成立以前の久良岐郡の地名の由来に成った場所でした。
実は浦賀水道は北西に流されてしまうんだと思います。
何故かと言うと、本牧半島の先には大岡川・帷子川・鶴見川・多摩川・隅田川の河口が狭い範囲に集中してあります。
この大河川は神奈川県部分は西側から東向きに、東京部分は北西側から南東向きに東京湾に注ぎ込みます。
その流れの影響で潮流は房総半島の富津でぐるりと反射し西向きに流れるはずなんです。
この潮流、つまり富津岬の西の先が、正に今の横浜市磯子区杉田辺りに成る訳です。

明らかに富津岬にぶつかる潮流で砂洲が出来てますよね?
その流れの先は正に妙法寺の在る磯子区や金沢区六浦辺り…

現代の地形で当てに成るか分かりませんが、日本武尊神話の弥生時代の人が行動開始したであろう日が昇って来る早朝の東京湾の潮流は調べたらこんな感じでした。
予想通り、満ち潮で東京湾に流れ込む海流は浦賀水道付近から北西向きに流れています。
満ち潮の時間帯、弥生時代の手漕ぎ船では走水から北西に流されて富津には辿(たどり)りつけないですよね〜。

もう一度東京湾の写真を…
日本武尊一行の船団が走水から東に向かうつもりが北西に流された場合、当時、上陸や停泊可能な場所は限らていたはずです。走水以北で上陸可能な地点は弥生時代の貝塚の分布する場所のみ となる訳ですが…
それは、金沢区の夏島と野島、昔の六浦湾、磯子区の杉田妙法寺の付近、屏風浦、南区に有った蒔田湾三殿台付近、横浜市の地名の由来に成った中区関内に有った横浜と言う小さな半島付近、海だった頃の港北区の小机湾鳥山〜小机町か対岸の神奈川区に有った亀甲山や浦島町、川崎市高津区子母口の橘樹神社辺り…
この中の何処(どこ)かに成る訳です。
…まぁ、全て日本武尊伝承と浦島太郎伝説や佐賀牟国造の乱の関係地域でも有る場所ですね〜。

この内、南側の夏島や野島に上陸しても陸路で走水に帰れないので夏島野島は日本武尊漂流後の上陸地点では無いでしょう…
付近は昔は断崖でしたしね。

又、北西に流された場合、磯子区中区方面に行き着きますので金沢区六浦湾には入港出来なかったかも知れません。
実は妙法寺の伝承通り、妙法寺境内の付近、又は屏風ヶ浦一帯こそ、古代の杉田付近では地形的に上陸可能だった場所の可能性が高いと思うんす。
貝塚も出土してますし。
妙法寺説は写真を見て頂くと解り易いです…
周囲は断崖絶壁なんですが、妙法寺の墓地や牛頭天皇社に成ってる西側裏山だけが緩やかなんですよ。
ここからなら上陸可能ですよね。

だからこそ、日本武尊神話を調べた空海和尚は実際に久良岐郡を歩いて回り、現在の妙法寺の境内の場所が日本武尊の立ち寄られた所と当たりを付けたのかも知れませんね。

ちなみに日本武尊は漂流し走水に戻ると、東京湾の潮流を鎮める為(ため)に奥さんの弟橘媛が入水自殺し人柱と成る事で、渡航に成功したそうです。

では弟橘媛様の神話に踏まえ…
なんで入水し人柱に成ったら渡航出来たかですよね。

古代人は天照大御神=太陽神を信仰していたで、太陽が昇ったばかりの早朝から人柱の儀式が執(と)り行なわれたとして、昼に出航したら潮流はどうでしょう?
う〜ん!ビンゴ‼︎
この潮流なら東を目指せば富津に辿りつける訳です。
つまり2回目の渡航は、太陽信仰の古代日本人達の朝から行動開始する習慣が有ったとしたら、弟橘媛様の入水儀式を執り行う事により出航時間を遅らせれたので潮流に阻まれず、昼頃の穏やかな状況で渡航出来たんじゃないかなと思います。

つまり、伝承通り最初の渡航失敗時に日本武尊は弟橘媛様とご一緒に杉田に立ち寄られた可能性が有ると思います。

弟橘媛神話は以前、橘樹神社の記事にも書いたので、そちらを御覧下さい。
※橘樹神社の記事は「ココ」←クリック!

妙法寺と日本武尊の伝承の検証如何でしたでしょうか?
ひとまず日本武尊神話は、この辺りまでにして…
次は室町時代〜戦国〜江戸時代の妙法寺の話をしたいと思います。

冒頭で触れましたが、この妙法寺さんは戦国武将間宮家の菩提寺です。
境内には歴代殿様の御廟所には巨大な石塔群が現存しており、誰でも御参り出来ます。
墓石を写真に撮るのは不敬なので、今回も載せませんが、皆さん、参拝されたらビックリすると思いますよ!
人の身長程も有る歴代殿様の石塔が沢山有りますからね。

因みに戦国時代、間宮家の軍港だった杉田港、現代ではIHIが自衛隊や米軍の艦船を整備するドックが有ったりします。
この様な軍港を任され北条水軍の中核を担った上に鎌倉の最終防衛ラインに成る大城郭笹下城を任されていた事からも、間宮家が厚く信頼されていた事が判りますね。

間宮家の属した部隊は北条軍の中で5分割され色分けされた「五色備え」と言う軍編成の内、関東最強の武将北条綱成(つなしげ)公が統括した「黄備え」と呼ばれる部隊でした。
その辺りの事も北条綱成公と間宮家の関連の記事にしてあるので御覧下さい。
※北条綱成公の記事「ココ」←クリック!
※笹下城の記事は「ココ」←クリック!

笹下城主間宮家で一番有名なのは間宮康俊公です。
小田原北条家最強の武将北条綱成公の黄備部隊副将でした。
豊臣秀吉の小田原攻めの際、伊豆山中城に籠城。部隊長の北条氏勝公を撤退させた後、秀吉軍本隊8万の先鋒隊2万6千を、 たった200人前後の手勢で迎撃しました。
※下の写真が山中城(借り物画像)

伊豆山中城外郭の袋崎砦で秀吉軍先鋒隊の先陣中村隊・山内隊・堀尾隊・一柳隊など秀吉の有名家臣達を大苦戦させた末に、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取る等の大活躍をして御子孫は徳川家康公の旗本として登用されました。
江戸時代の杉田玄白と間宮林蔵は、その子孫です。

そして、もう一人有名なのが、杉田梅林と言う広大な梅林を築いた間宮信繁公です。
この事は妙法寺にも碑文があり、説明を読む事が出来ます。
昔は梅林を見学に来る江戸からの観光客で栄えたそうで、明治時代には明治天皇や皇族方も度々行幸されて見学にいらっしゃったそうです。

杉田梅林は高度経済成長期に無碍な宅地開発で消失てしまいましたが…
妙法寺には今も梅が植林されて、往時の風流さの名残りを今に伝えてくれています。

今の神奈川駅辺りや本牧半島から船でクルージングして屏風浦と梅林の絶景を船上から見学した後、杉田聖天川に有った桟橋から上陸し梅林を散策するのが当時の江戸からのツアーコースだったそうです。

近郊の「峰の灸」ことお灸治療の総本山、円海山護念寺に行く人も多く、その行列は昭和初期まで蟻のよう沢山の人だったと、峰地区の白山神社の御近所の翁から聞きました。
※護念寺の記事は「ココ」←クリック!

残念ながら、間宮の殿様の笹下城は今年、本丸遺構の切岸も野村不動産の宅地開発で消失します。
円海山の蛍が見れる自然も東急グループにより破壊されようとしています…

せめて私達だけでも、横浜市や周辺の発展に寄与して下さった先人達の偉業や残して下さった文化や歴史を後世に伝えて行きたいですね。

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう!

戦国時代の北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
横浜と隣の鎌倉には、その内の3人の殿様と1人の名副将がいました。             
シリーズ化し個別に記事にします。 

関東最強武将だった1人を紹介します…

黄備え!
 
※KOEIさんのゲーム画像拝借

玉縄城主:北条綱成(つなしげ)公
北条五色備(ごしきそな)えの"黄備え"を務めた。
渾名(あだな)は「地黄八幡(じきはちまん)」。

北条"地黄八幡"綱成公が城主を務めた玉縄城は、今のJR大船近く玉縄地区〜横浜市栄区長尾台〜藤沢市二伝寺の広大な範囲にまたがって在った御城です。

鎌倉市一帯と相模湾を守る為に築城されました。


綱成公は今でも有名でKOEIの信長の野望天道でも高評価されてます。

統率92 武勇96 知略79 政治60 義理89

…恐ろしく強いですね。

実績と比較して、まだ不足ですが。


SEGAでは更に高評価。

 

武力10…最高評価です。


先日、玉縄城主だった北条綱成公の開基した龍寳寺に御朱印貰いに行ってきた時に撮影したのが以下の写真です。

龍宝寺の写真↓です。

 

 

 


龍寳寺には玉縄民族資料館があり、玉縄城址の遺物や復元模型も展示されています。

これ↓玉縄城の復元模型。

 

保管されている↓城門と本丸の礎石 

 

 

あと鎧と兜 

 

 

これ↑雪の下胴と言って鎌倉特産の甲冑でした。 

伊達政宗もコレ着てましたよ。


玉縄城の本丸は今では女子校が建っていて、男性の歴史ファンにとっては有る意味「攻略不可能」な最強の城に成ってしまいました…。


以下は綱成公の事跡説明。


綱成公は、まさにリアル5レンジャーでした。

地黄八幡とアダ名で敵武将達から呼ばれた玉縄城主の北条綱成公は、小田原北条家2代北条氏綱公の婿養子でした。

北条家3代目の殿様北条氏康公とは義兄弟に当たり、最前線の防衛や外交を任され非常に信頼されてました。


上杉謙信と武田信玄に合戦で撤退させる事数回、名実共に関東最強で、戦国最強クラスの指揮力・統率力・判断力・カリスマ性を備えた名将でした。


綱成公の余りの強さから綱成公の黄色地の布に八幡大菩薩と字が染め抜かれた旗印を武田信玄が和議で接収した城から持ち帰り、家臣の真田信伊(のぶただ※幸村こと真田信繁の叔父)に与えたそうで、この旗は今でも真田家の居城長野県松代城に保管されています。

この逸話や、河越夜戦や国府台の戦場で「勝ったぞ!」と叫びながら八幡大菩薩の旗印の黄備え部隊が敵陣を奇襲蹂躙し追撃する様から他家武将に"地黄八幡"の渾名(あだな)で畏敬の念を込め呼ばれていました。


綱成公の強さを示す1番の実績は"河越合戦(←クリックで再現動画)"での活躍です。

戦国時代、優れた民政により民百姓の支持を得た綱成公の主君北条氏康公は関東で勢力を拡大します。 

その過程で旧勢力の筆頭格関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った)で激突します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利。

北条家兵力  3,000

上杉家兵力80,000

河越城の主将は北条幻庵公。

幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主で風魔忍者の管理者でした。

それを補佐する玉縄城主綱成公。

両者の動員兵力はわずか。

対して関東管領上杉家&古河公方足利家の連合軍には関東地方の古豪大名達がこぞって参集し10万人に迫る勢いでした。


この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で半年間も敵を跳ね返し続けました。

そんな中、敵に厭戦(えんせん=ダラけ)氣分が蔓延し始めます。

それを待っていた綱成公の義兄で主君北条氏康公が小田原城より8000の兵を率いて来援します。

しかし綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

だからこそ、氏康公は敵勢がダラけるのを待っていたんですね。


敵勢が油断し酒盛りを始めたある晩、氏康公が夜襲で奇襲をしかけました。

同時に河越城から綱成公が出て敵に突撃します。

敵は多いが油断して規律も乱れボロボロだった状況で北条家の義兄弟コンビに奇襲挟撃(きょうげき=はさみうち)され瞬く間に壊滅しました。

上杉家連合軍側の被害は甚大で…


連合盟主:古河公方足利晴氏→捕虜

主要大名:扇谷上杉家→殿様死亡滅亡

主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小

その他の連合軍参加大名も散り散りに逃走し大幅に勢力縮小する事に成りました。


綱成公の強さは尋常じゃないですね。

こんな殿様が鎌倉にいたなんて、神奈川県民としてとても誇らしい。


皆さん、JR大船駅に電車で来たら何となくでも良いから綱成公の事を思い出して下さい。


笹下城と言う御城が横浜市港南区に在(あ)ったのを御存知(ごぞんじ)でしょうか?
小田原北条家の家臣で相模十四騎の筆頭とされた間宮氏の居城でした。
そして北条家で最強の部隊「黄色備え(きぞなえ)隊」の大将北条綱成(つなしげ)公の付家老(つけがろう)を務めた殿様が間宮家の間宮信元公や間宮康俊公でした。

先日、野村不動産と三井不動産レジデンシャルに宅地造成されてしまう直前の今だけ笹下城の本丸跡の切岸(きりぎし=土の防壁)が見えると言う内容の写真と記事をUPしました。 
※2015年05月10日時点ですでに老人ホームの建設が開始され本丸大空堀遺構の埋め立てが始まりました。
今回、これを機に笹下城の説明を皆さんにしておきたいと思います。
長文だよ。
文句言う人は数百年の歴史を自分でレポートにまとめてどうぞ(笑)!

先ずは笹下城の城域図をご覧ください。
この資料は旧笹下郷の総社だった天照大神宮の神主様の御厚意で撮影させて頂きました。

さて笹下城とは…
鎌倉市街や鶴岡八幡宮を守る為(ため)に三浦半島の根元を鎌倉市玉縄城と東西で挟み込む位置で築かれた城でした。
笹下城の仮想敵は二ついました。

1つ目は扇谷(おうぎがやつ)上杉家
江戸方面から陸路で鎌倉街道を攻め上って来る敵勢力です。

2つ目は里見家と正木家
房総半島から水軍で来襲し、鎌倉の外港の六浦港(横浜市金沢区六浦に在った港)への上陸を狙う敵勢力です。

その2勢力を抑え今の横浜市域と鎌倉市域を東京湾側で防衛する目的で築かれたのが笹下城でした。

笹下城主間宮氏が今の横浜市磯子区の杉田を海軍拠点にしながら三浦半島の水軍も統括し、今の東京湾の海防と、鎌倉街道と六浦道(むつうらみち=現:笹下釜利谷街道)を抑え敵の侵攻を防ぐ役目を担っていました。
地理的にも交通の要衝全てをカバーする城で、その規模は正に鎌倉を挟んで東西で対(つい)をなし相模湾側を守った鉄壁の玉縄城と同規模でした。

ちなみに玉縄城は城主北条綱成(つなしげ)公ともども歴史に名を遺している名城で、武田信玄と上杉謙信の攻城にビクともせず両者を撤退させた難攻不落の城でした。
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※画像はKOEIのゲーム信長の野望から拝借した北条綱成公の絵
そして、城主の玉縄北条家の北条綱成(つなしげ)公は北条家当主北条氏康公の義弟に当たり…
河越夜戦
国府台合戦
深沢城籠城戦
上田城の救援
…等で大活躍され、他家の武将達から「地黄八幡」の異名で畏怖尊敬される程の指揮官でした。
その綱成公の率いた部隊が「玉縄衆」と呼ばれた集団で、合戦時には黄色の軍装を配備していた事から「黄備え」と呼ばれた部隊でした。
その玉縄衆の付家老が間宮家であり、玉縄衆与力中で1番の戦功を残し、更に鎌倉と鶴岡八幡宮の復興再建や大規模梅林の植林や神社仏閣の保護で多大な文化貢献をされたのが間宮家の殿様でした。
尚、この鶴岡八幡宮再建は間宮康俊公が奉行としてさんかしており…
白備え隊副将」で横浜市港北区の小机城城代家老の笠原信為(のぶため)や…
足利将軍家の一族で今の横浜市南区蒔田に拠点蒔田城を置き川崎市中原区や東京都世田谷区一帯を支配した吉良頼康公も主要人物として参加されていました。
間宮康俊公は奉行としての実務能力以外にも間宮家の歴代殿様の中で特に武勇に優れており、豊臣秀吉の小田原北条家征伐の際、豊臣秀吉軍の本隊80,000の先陣26,000を率いる豊臣秀次軍を箱根山中城の出城「岱崎出丸(だいざきでまる)」にて僅(わず)か200前後の兵で迎撃、豊臣軍を痛撃し秀吉の旗本大名一柳直末を討取る等の大損害を敵軍に与え玉砕し、全国に北条家最強の黄色備え隊と間宮家の武名を轟(とどろ)かせました。

そんな間宮家の居城笹下城ですが…
笹下城の構造は昭和の高度経済成長期当時の神奈川県と横浜市教育委員会の無知と怠慢で詳細にはわかりません。
城址が発掘調査される前に宅地化で九割九分九厘破壊されてしまったからです。

しかし、城好きの小生が城域の伝承地を散歩して見ると、結構、当時の構造が見てとれました。
まだ地形や道路に当時の形跡がありありと残っていました。

以下に「洋泉社MOOK」さんから出版されている「戦国の城を攻める!」と言う雑誌に掲載されている「防御施設のCG」をお借りし小生が撮影して来た笹下城跡の「地形写真」と比べながら、笹下城がどんな城だったか説明して行きたいと思います。

まず笹下城の規模を説明します。
城域に笹下城の出城、北見掃部(かもん)屋敷後の大切岸(きりぎし)と松本城の二つの砦を取り込む三城一体の構えでした。
その規模は南北に2km超、東西に1km程の範囲が城域です。
玉縄城も同じような自然地形に手を加えた広大な城でした。

先ずは笹下城の大手門跡の写真から構造を説明します。
笹下城の大手門は笹下川に架かる今の「元笹下橋」だと伝承しています。
コレ↓笹下城の外堀の笹下川。
元笹下橋↑の上から左右の川の流れを撮影しました。

川に架かる橋を渡ると城門だったそうです。
ここ↓ね

ここには恐らく「かざし」と言われるコンナ↓施設が有ったはずです。
この防御構造で、城門前の橋に侵入しようとする敵勢を妨害したはずです。
そして城門横の土塁(どるい=土の防壁)の上に設けられた木製の防御盾の矢狭間(やはざま=狙撃窓)から弓矢や鉄砲で狙撃するんですね。

次に城門を突破されても、敵兵はコンナ構造の防御施設↓に行く手を阻(はば)まれます。
「食い違い」↑と言う構造の土塁に囲まれた道です。
真っ直ぐ進めず、常に進路の正面から敵に狙撃されます。
笹下城は大手門を抜けるとこの構造がありました↓ココね。
今でこそ平地に見えますが、S字にクランクした道の左右には土塁の跡と思われる1m程、今でも道より高く盛土された地形が見えます。
食い違いの土塁跡と↑おぼしき地形。

第1関門の笹下川〜城門を突破
                ↓
第2関門の食い違いを抜けると…
                ↓
第3関門の「若宮曲輪」の空堀跡らしい地形が↓ココ。
ココ↑を真っ直ぐ行って左に曲がると登城口の若宮曲輪(わかみやくるわ)にたどり着く。
曲輪の下のT字路は周りの宅地により少し低いので城の推定図と照らして空堀だったんだろう。
で、今家やアパートが建ってる一段高い場所は土塁の名残りかも知れない。。
この若宮曲輪の空堀が堀底道に成っていて「角馬出(かくうまだ)し」と呼ばれる施設と同じ機能をしてたんじゃないかと思う。
馬出しと言うのは城兵が出撃したり敵兵を狙撃する施設です。
小田原北条家の城によく見られる構造です。
コレ↓角馬出し
そして若宮曲輪(わかみやくるわ)下の角馬出しぽい道路と地形が以下。
ココ↓若宮曲輪跡の若宮御霊神社入口
この参道は後から作られたモノでしょう。
でコレ↓正面の空堀ぽいT字路の左右の写真
若宮御霊神社参道入口のT字路周りより低い位置にあり空堀跡で、若宮曲輪が四角い土塁で囲まれていたと推測出来る。
そして若宮曲輪へ…
若宮曲輪跡↑の若宮御霊神社。
曲輪(くるわ=廓=丸(まる))と言うのは纏(まと)まった数の兵隊を置いて、城壁や土塁の矢狭間から敵を狙撃し安全に撃ち殺す為の施設です。

今でこそ若宮曲輪に神社の参道階段が有りますが、城だった頃の構造は空堀、土塁、埒(らち=柵列)が並び正面からは登れず回り込む間に槍で突き殺されたり弓矢で蜂の巣にされ射殺されてしまう構造だったんでしょう。

残念ながら笹下城の遺構はこの他に本丸跡の切岸しか残ってません。

本丸跡
本丸横の大空堀地形の残存部

多分昔はコンナ↓毛抜堀(けぬきぼり)の水の無い空堀だった。

そして下屋敷が在った御下(おんしも)公園近くに今でも在る笹下城主間宮氏の関係者の墓がある寺の成就院。
実はこの成就院の山門(さんもん=寺の門の事。時として寺そのものを指す)は間宮の殿様の屋敷の門を移築した物だそうです。
寺の中には間宮家に関係がある方々の墓所が有るのですが、直ぐ後ろに土塁らしき地形が↓残ってました。
多分、この墓地は本丸下の曲輪の一部だったんでしょうね。
横浜の発展に寄与して下さった先人達に感謝のお祈り…
因みに成就院の御住職は字がとっても綺麗ですよ、そして物腰は柔和で親切です!
書いて頂いた御朱印も素晴らしかった!

笹下間宮家の菩提寺は、元笹下橋近くの妙法寺と推測出来るのですが完全に笹下間宮家の家の菩提寺とされる場所は伝わってはいません。
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ここは笹下間宮家の分家、氷取沢間宮家の御子孫に当たる江戸幕府の昌平坂学問所の学者だった間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿にも、間宮直元公の菩提を弔う寺と書いて有ります。
そして、昭和中期に火災で御寺が焼失させた木の彫像は間宮家御子孫が撮影し現存する写真と新編武蔵風土記稿に記載されている彫像の模写が酷似しているので、それこそが間宮直元公の彫像だと解ります。
現在の御寺の家人は余り歴史を把握されておらず、御墓は区画整理で行方不明に成り、彫像も失火で焼失と散々な状態です。
直元公の墓所は区画整理で不明ですが、彫刻された日付と女性の戒名から直元公の母上か奥方の御墓と思しき墓石が無下に扱われながら存在しています。

この他に間宮家は磯子区の上中里~氷取沢辺りに間宮寺(けんぐうじ)と言う御寺を杉田の妙法寺末寺として再興し共有していましたが、檀家少なく廃寺と無り、元々間宮寺の石仏だった不動明王像が磯子区上中里地区の上中里神社に移され、参道の脇にポツリと鎮座されています。
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往来する人が無い場所に移されても、間宮の武将達の拝んだ石仏が、この地の住民の安全を守ってくれています。

因みに分家で江戸時代に大身旗本と成った杉田間宮家の歴代殿様の御廟は杉田の妙法寺にあります。
妙法寺さん↑の山門
御住職は大学の先生なのに飾らない気さくな雰囲気の方です、そして御話が面白い。
妙法寺の御廟所は人の背丈程もある間宮歴代御一門の墓石が立ち並び圧巻です。
中でも間宮信繁(のぶしげ)公が植林した梅が江戸時代には杉田梅林として江戸市民から人気の観光地になり、当時、杉田梅は紀州南高梅より上の最高級ブランド品として流通していました。
明治天皇御一家も、度々、杉田梅林を観賞に間宮御一門の旧領を訪れたそうです。
しかし昭和の高度経済成長期に県教育委員会が保護を怠り土建屋に乱開発され消失してしまいました。
因みに、信繁公の家系の杉田間宮氏の御子孫が解体新書を書いた有名な杉田玄白さんです。
また間宮家には他にも間宮海峡を発見した間宮林蔵さんもいます。

信繁公は武将としても天下の趨勢を左右する大功績を関ヶ原の戦いで残されています。
北条家滅亡後、信繁公は有職故実や鷹狩と鷹の育成方法や外交儀礼としての鷹の贈答作法に明るかった事から徳川家康公に直臣として取り立てられ「鷹匠の総奉行」として仕える事になります。
軍役は無い役割でしたが、関ヶ原の合戦に信繁公は鷹匠衆に自家の軍装を貸与し自主的に随行しました。
関ヶ原では戦場配置で徳川軍は圧倒的に不利な布陣を強いられ、開戦当初は石田三成率いる西軍有利に展開していました。
開戦当時の布陣を見てみましょう。
※画像はネットからの借り物です
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御覧の通り、間宮信繁公の所属する東軍主力の徳川家康軍本隊は背後に敵方西軍の毛利軍の大軍がいて前進出来ないので味方を救援出来ずにいました。
味方の先鋒左翼側の福島正則隊は敵主力宇喜多軍の大軍に押し込まれ不利…
味方右翼側の細川忠興軍と黒田長政隊は、石田三成本隊が陣城(じんじろ=戦場で簡易的に築く城塞)から放つ大砲の弾丸に陣容を崩され大苦戦していました。
この東軍徳川方の不利な状況の為、最初から徳川家康公に味方する「内通(ないつう)の約束」をしていた小早川秀秋軍15,000の大軍が味方に付かず更なる窮地に追い込まれていました。
つまり、この戦は徳川本隊が前面に押し出し先陣を救援できるかどうかがキーポイントだった訳です。
徳川家康公は後方の敵毛利軍の中の内通者吉川広家が毛利軍の下山を約束通り阻止している事を確認した後に前進し小早川隊を裏切らせ、たった1日で関ヶ原の決戦に勝利する事に成功しました。
実は!
この吉川軍の内応を確認し毛利軍と周辺敵陣の陣容をつぶさに偵察し
    ↓
徳川家康公に前進しても安全な状況を報告
    ↓
徳川軍本隊の前進を成功させたのが間宮信繁公なんです!

鷹匠は勿論、戦国時代までは武士でした。
と、言うか支配階級の身分の人間のスポーツが鷹狩だった訳です。
鷹狩は山川を駆け回る事に長けており、かつ家康公の鷹匠衆は家康公による鷹狩りが行われる際、事前に周辺の状況分析や領民との折衝も任務として常に行っていました。
そして信繁公自身は元々が武勇名高い間宮家の武将です。
信繁公はこの鷹匠衆の機動性と情報分析能力を活用して偵察を成功させ、東軍の前進に貢献した訳です。
事実、この功績の大きさから家康公は関ヶ原合戦後、鷹狩を行う度に間宮信繁公に対してこの時の事を毎回話題にし領地を加増して下さった事が文献にも記されています。
信繁公は内政と智謀に優れた武将だった訳です。
話を成就院に戻します。
成就院の横には笹下城本丸下のもう一つの大空堀が昨年まで残ってましたが、宅地に成ってしまいました。
ココ↓ね
この歩道は空堀に在った「犬走(いぬばし)り」と呼ばれる曲輪と曲輪を繋ぐ通り道の跡。
小生が子供の頃は、まだ家が無く綺麗に空堀も犬走りも土のまま残っていました。

さて…
出城の松本城へ。
松本城は今の笹下中学校と天照大神宮と桜道頂上の陣が台が城跡でした。
中の丸と言う地名↓が今でも残る…
中の丸跡の天照大神宮から本丸跡の陣が台を見る↓コレね。
そして本丸跡の陣が台
春には桜が綺麗な場所。

天照大神宮から、もう一つの出城の北見掃部屋敷跡を見る…

天照大神宮は笹下地区の鎮守の神社だった由緒正しい神社なんですよ!
そして城跡の一部でもある。

次回から横浜の殿様シリーズはじめますね!

笹下城本丸跡の切岸(きりぎし=石垣じゃない城の山を削って作る防御壁)と大空堀の名残が今だけ綺麗に露出してますよ!
石川島団地跡の再開発に伴い、今だけ見られます!
今見ておかないと下手したらコンクリートで跡形も造成され無く固められてしまいますよ!
既に成就院側の本丸大空堀は去年宅地開発で消えてしまいました!
笹下城本丸大空堀跡
横の坂道が恐らく昔IHI団地造成以前は坂では無く山で、写真の切岸が巨大な横堀状に成就院側まで繋がっていたと、本丸跡の切岸を見ると容易に推定出来ます。
コレ↑なんか特に、片側削られた今でも素人でさえ空堀の形状が一目瞭然だと思います。
野村不動産と三井不動産レジデンシャルに周囲の高低差の解る地形も破壊されていますし、宅地化され家が立ち並ぶと見えなくなりますね。
鎌倉市大船駅近くにあった玉縄城や新横浜駅裏にあった篠原城、横浜市緑区旧城寺に現存する榎下城の大空堀の作りに酷似しています。

笹下城については、笹下城の殿様で間宮林蔵や杉田玄白の御先祖の間宮信冬公と間宮康俊公の話を混ぜて、また改めて記事を週末に載せます!

新横浜の日産スタジアムの近く、JR小机駅の側に在(あ)る小机城址で今年も竹灯籠祭りが開かれるよ〜!
竹灯篭祭りのホームページURLは↓こちら。
http://takefan.jp/taketourou/index.html
これ↓去年のポスター
綺麗だから彼氏彼女家族と是非見に来てね!
去年の↓写真
綺麗↑でしょ?
本丸跡には屋台も沢山出ますよ〜♬
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ところで風魔忍者って知ってます?
今の箱根峠一帯を本拠地(ほんきょち)にしていた忍者集団で、リーダーは代々、風魔小太郎を名乗っていたんです。
歴史やゲーム好きな人は知ってるかな?
その風魔忍者の管理者が、この小机城主だった北条幻庵さんなんです。

そんな歴史も感じられる場所ですが…
竹灯籠祭りでは城址内全箇所が竹のランプで照らされ神秘的に成ります。
是非!楽しんで下さい!

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