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タグ:北条家

前回の記事で金宝山浄智寺を紹介しました。
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浄智寺と言うのは鎌倉市に今も在る臨済宗の御寺でして、鎌倉幕府~室町幕府を通じて歴代征夷大将軍しか住職を任命できない格式の高い❝鎌倉五山❞に定められた寺院の一つでした。
この浄智寺の開山(かいざん=御寺の最初の住職)が兀庵普寧(ごったんふねい)和尚と言う南宋人の高僧で、建長寺の第二代住職を務められた方でした。
※前回の浄智寺の記事は「ココ」←クリック!

そして、同じ時代、兀庵普寧和尚より少し先に元に征服された南宋から亡命していた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)和尚と言う人物もいらっしゃいました。
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写真は蘭渓道隆和尚と関係の深い鎌倉市大船の粟舟山常楽寺です。
この蘭渓道隆和尚は鎌倉幕府第3代執権で名宰相として名高い北条泰時公に大変尊敬された人物でした。
※以前書いた常楽寺の記事は「ココ」←クリック!

浄智寺の開山様と開基様の時代と近代に通じる日本と周辺の日本を敵視する国との関係について、歴史と合わせて説明しておきたいと思います。
浄智寺の開山と成った兀庵普寧和尚や建長寺の住職でもあった蘭渓道隆和尚を、鎌倉幕府執権の北条時宗公は尊敬していたのですが、その御二人から南宋を征服した元や朝鮮軍の様子を具(つぶさ)に聞き取っていたと思います。
その二人の情報から、元(朝鮮)の進駐を一度(ひとたび)許せば庶民も天皇家も武家も皆殺しにされ、美しい日本の山林は馬と羊の放牧地にする為に樹木を焼きつくされてしまうと判断して交戦準備を整えていたのかも知れません。
実際、モンゴルに日本征服を提言した朝鮮軍が日本に攻め込んで来た際に、今の対馬や壱岐の住民は元(朝鮮)軍に捕まると捕虜は全員、男は頭蓋骨を生きたまま叩き割られ、女性はアキレス腱を切断されたり逃げない様にされた上で元の皇帝(に従属する朝鮮)の軍の性奴隷にされました。
こうなる事を鎌倉幕府は御二人の和尚様から聞き取っていて、その情報から対馬・壱岐で起きた事が日本全土で起こる事を予見していたから、北条時宗公は降伏しなかったんでしょう。
朝鮮族やモンゴル族には捕虜にした女性を全員性奴隷にして従軍慰安婦にする歴史が自分達に有りました。
※当然、現在のモンゴルにそんな風習は有りません。

少し話は近代に脱線しますが、もしかしたら…
だから、太平洋戦争後に建国された大韓民国の初代大統領李承晩は、「当然、太平洋戦争中の日本もそうだろうと思い込んだのが原因で従軍慰安婦奴隷を捏造した」のかも知れませんね。
実際彼自身が済州(ちぇじゅ)島で反李承晩勢力を弾圧した際に大量虐殺を行い捕えた女性は全て強姦した上で殺害した事が済州島4・3事件として歴史記録に残っています。
ちなみに李承晩と仲間十数人は、朝鮮王室の李垠(りぎん)殿下が日本に存命中なのに英国に勝手に朝鮮王政を否定した亡命政府を樹立してしまいました。
だから根本的に李承晩は日本政府と交戦した事も無ければ、没落貴族の出身なので朝鮮総督府内部の事情を微塵も知る事が出来る訳が無いんですね。
朝鮮王室の後継者だった李垠殿下は、横浜市の野島に海水浴をしに遊びに来られたそうです。
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その時の滞在先が、伊藤博文公の金沢別邸で、現在も残っています。
伊藤博文公と朝鮮王室の関係は実際の所は極めて良好だったようです。
陸軍と朝鮮王室閔妃派の関係が悪かったので、李承晩が朝鮮王室を無視して自己の政権を樹立する際のプロパガンダとして朝鮮半島のが伊藤博文公を嫌う様に扇動した様ですね。
この時代の朝鮮王室の大院君派は日本政府と当初は関係が良好でした。
この事は当時の欧米の記者達が伊藤博文公の葬儀の際に「朝鮮人にとって最も良い友人だった」と評している事からも、事実が解ると思います。
この話を証明するのが当時の朝鮮半島の米の生産量と流通量から見てとれるのですが、幕末の朝鮮王朝の米の生産量は日本の石高換算で4500万石だった記録が有ります。
それが日本政府による農業近代化支援を受けた後は9000万石超に倍増し、その倍増分は日本や周辺国に輸出され農地を有する現地農民や領主の純粋な収入源と成り、豪農は大変豊かに成りました。
そして日本人に汚名を着せた従軍慰安婦問題ですが、従軍慰安婦ではなく日本軍の娼館についてと言った方が良いでしょう…
今の朴槿恵大統領の御父君の朴正煕大統領が発行した米軍慰安婦の公文書の存在からも、公募した売春婦だった事が歴史資料からも判明しています。
…まぁ、ちゃんと自分で古文書読んだり二次資料や三次資料でも読めば、事実はすぐに解るんですよ。
もし、この御寺を建てた北条時宗公や漢族の兀庵普寧和尚様と蘭渓道隆和尚様がいらしゃらなかったら、モンゴル族や朝鮮族に蹂躙され今の日本国は無かった訳です。

鎌倉の武士文化は、実は元に屈しなかった南宋の高僧達の影響も受けて高度な兵法と文化を導入し花開き、そして元軍と朝鮮軍を撃退する程の扶桑武士の強さに中国渡来の学問が融和し、室町文化へと繋がって行った訳ですね。
その継承者の代表格が、鎌倉五山の一つ臨済宗建長寺で軍事や文化を学んだ関東屈指の名軍師太田道灌公であり、同じく鎌倉でも活躍され臨済宗と関係深く曹洞宗の開祖とされる道元上人の残した文化を大切にされた北条早雲公で早雲公も戦国時代の関東に先進的な政治体制を導入した名将として名を残しました。
そして、この道灌公と早雲公は神奈川を舞台にライバルとして外交戦争と武力戦争でも協力したり敵対したりしながら、御互いをライバルとして認めていた様です。
道灌公が亡くなると、政治外交的な要因で対立していた北条早雲公は道灌公の菩提寺を復興し御廟所を整備し、道灌公を御祭神とした太田神社を造営されています。

歴史は必ず過去からも現在からも双方向に繋がります。
神社や御寺は、昔の人の文化を受け継いだタイムマシーンの様な場所です。
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鎌倉武士と南宋の高僧達の文化を今に伝えてくれる静かな鎌倉の神社と御寺は、実は日本を守った鎌倉武士の学問の場でもあり、武家文化の醸成地だった訳ですね。

では!又、次のブログ記事で。

北鎌倉駅の近くには浄智寺と言う大寺院が在ります。
現在では自然に囲まれた、広大な敷地に静かに佇(たたずむ)む清々しい空気感に満ちた御寺です。
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この寺院は、鎌倉時代の名宰相北条時宗公が開基となり、当時モンゴル帝国に征服された南宗から亡命して来た兀庵普寧(ごったんふねい)和尚が開山と成られた由緒有る御寺ですね。
北条時宗公と言えば、朝鮮から日本討伐を提言された元帝国から降伏する様に脅迫の使者が送られて来た際に、モンゴル(元)に降伏せず戦う事を決定して日本を守った名宰相ですね。
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鎌倉五山のと言うのは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五座の御寺の事です。
大変格式の高い御寺でして…
鎌倉時代は幕府の執権北条家の当主、室町時代に成ってからは京都の足利家の本家征夷大将軍しか、この鎌倉五山の御寺の御住職様を任命する事が出来ませんでした。
つまり、この歴代の住職は、室町時代までは将軍様の御声掛かりの御寺だった訳です。
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現代では6月にも成れば、参道境内の所々に紫陽花の咲く静かで素敵な御寺です。
ところで…
この御寺の開基(御寺や神社の造営者)の北条時宗公は開山(最初の住職)に招いた兀庵普寧和尚や蘭渓道隆和尚と言った中国大陸の漢族の和尚様達を大変尊敬していらっしゃった様ですが、同時に、南宗からの亡命者を受け入れる事で元の征服により滅びる南宋文化を保護し、更に元(モンゴル軍と朝鮮軍)の動向を詳しく聞いていたのだと思います。
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そして、元(の威勢を利用した朝鮮)との対決を決めたのだと思います。
なんだか今の台湾と日本の繋がりみたいですね。
日本に来た孫文先生がいなければ今の臺灣は無かったし、臺灣の蒋介石先生がいなかったら現代の日本も無かった。
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浄智寺は素敵な場所なのですが、若い世代に余り知られておらず観光客が少ないので、本当にゆっくり時間を過ごせます。
この御寺は、緑と花に囲まれた広大なスペースが有りますが、その規模を史実を用いて表現するなら・・・
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昔は鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府鎌倉府の将軍)が役職を就任して、鎌倉に入る時や戦地から帰ってくると真っ先にこの御寺に逗留(とうりゅう)する仮御所に成る程、立派な建物が沢山建ち並んでいました。
時代が下り、鎌倉幕府滅亡時や室町時代の戦乱、その時々に支援者が滅亡する度に建造物が維持できなく成り、極め付けは明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で御寺の領地が接収されてしまい、多くの建物を失いました。
小生は毎回批判しますが、当時の明治政府はキリスト教国を模した国家統治を目指し国家神道と言う新しい哲学に基づいた宗教統治をしたせいで、多くの延喜式内社と呼ばれる縄文文化を受け継いだ古代から続く神社や仏教関連の文化財が荒廃或いは消滅してしましました。
明治政府の唯一無二の失政は、この古来の伊勢系以外の神社弾圧と仏教弾圧により多くの文化財を消滅させた事だけだと思っています。
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ここまで説明すると、何となく御理解頂けたと思いますが、つまり…
この御寺に自然が多いのは、古来多くの堂宇(どうう)が立ち並んでいた場所の建物を、新田義貞軍よる略奪放火や明治時代の宗教弾圧による困窮から、建物が失われた訳です。
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そして、建物の在った場所に歴代の御住職がせめて文化的な心の休まる場に成る様にと、多くの御花や樹木を植えられた訳ですね。
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関東の紫陽花の名所として有名な御寺は鎌倉の長谷寺と、浄智寺と同じ北鎌倉地区の明月院が有名です。
この浄智寺は紫陽花の株は少ないのですが、境内の各御堂の散策路は本当に素敵な雰囲気を醸し出していて、一人でゆっくりしに来ても、カップルで手を繋いで歩いても、良い時間を過ごせます。
ついでに神奈川県の紫陽花の名所も三ヵ所紹介して置きます。
●【北鎌倉駅から徒歩10分の明月院ここクリック!
●【鎌倉市江ノ電長谷駅近くの長谷寺】←ここクリック!
●【横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)の永谷天満宮】←ここクリック!
この内、明月院は浄智寺や2015年公開の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台に成った東慶寺からも徒歩圏内です。
東慶寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!
駆け込み女と駆け出し男
この浄智寺、是非、紫陽花の季節や鎌倉江の島七福神巡りで他の御寺や神社サンと一緒に散歩されてみて下さい。
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鎌倉江の島七福神は↑こんな可愛い専用の色紙を購入すれば、こちらに各寺社の御朱印を頂けます。
この七福神御朱印巡りは1日では回り切れないので鎌倉や湘南に遊びに行く良い口実にも成り、数回に分けて充実した休日を過ごせると思います。
鎌倉の各地域を散策する事が出来ますよ~。
話を浄智寺に戻します。
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本当に色んな草花樹木が植えられていて、目の保養に成ります。


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何だか鎌倉時代にタイムスリップした様な雰囲気です。
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この、植木の散策路を歩いていると、そのまま大木に囲まれた道に出ます。
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この日は御婦達のグループもいました。因みに2年前の2014年の6月。
北鎌倉は紫陽花の季節なのに、こんなにユッタリ散歩出来るんですよ。
勿論、この遊歩道も広大な浄智寺の境内の一部分で、この先には昔の武将達の矢倉(やぐら=廟所)や布袋様の祀られているエリアにもつながっています。
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この隧道(トンネル)の先が布袋様。
残念ながら、布袋様の写真は撮り忘れていました。
そして、その先が庫裏(事務所:住居スペース)に繋がる出口です。
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どうやら家康公がちょくちょく旧鎌倉郡の野庭城~玉縄城周辺に鷹狩に来られた際に、浄智寺に山門を寄進されたそうで、それ以来、葵紋の使用を許されたそうです。
徳川家康公と参謀の本多正信公は熱心に神仏を保護された殿様だったので、横浜市や鎌倉市や藤沢市には、結構、徳川家所縁の御寺が残っているんですよ~。

6月、紫陽花の季節に成ったら是非!御隣の東慶寺サンや、北鎌倉の紫陽花寺として有名な明月院と合わせて御散歩してみては如何でしょうか?

あ~!そうだ!
開山の兀庵普寧(ごったふねい/ごつあんふねい)和尚様!
実は現代の日本語のグチャ混ぜって意味で使う「ごっちゃごちゃ」とか「ごったごた」の語源に成った人物だそうです。
鎌倉時代の臨済宗は、講義を中国大陸の華語(中国語)で行っていたので、恐らく兀庵普寧和尚はまだ華語の出来ない若い僧侶の為に、華語だけでなく日本語を交えながら解り易く御講義された様です…
だから❝日本語と華語が、ごったごた混ざってた❞事から、混ざってる事が❝ごったごた/ごっちゃごちゃ❞と成った様です。
建長寺はケンチン汁の発祥地ですし、当時の鎌倉が日本文化を昇華させた強い影響力を持つ重要な場所だった事が解る話ですね♪

では、又、次のブログ記事で。

金沢文庫博物館が再開され、非売品の配布をしてますよ~!
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しかも金沢文庫は入館料400円と激安の博物館!
拝観すると、こんなポストカードなんかをくれます。今だけ!
桜の名所でもあるので、御花見と合わせて是非!行ってみて下さい!御薦め!
専門書も閲覧出来る図書室も有ったりします。郷土史好きの天国。

金沢文庫って地名じゃないの?
…と、歴史に興味が無い人は思うかも知れないので、一応、説明しておきます。

神奈川県横浜市には金沢区と言う行政区が有りますが、その区名由来に成った金沢文庫と言う鎌倉時代に開かれた武家文化の象徴的な図書館が、現代では博物館と成って運営されています。

下の写真の称名寺と言う御寺が鎌倉時代の武士、金沢北条氏の邸宅跡の大寺院で、その邸宅を守る山に穿(うが)ったトンネルで繋がっていた山向こうの金沢北条氏の私設図書館として始まった文化財の宝庫です。
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この称名寺の西側の山が城壁の役割を担っていました。
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トンネルの金沢文庫側から見るとこんな風景。
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この写真は去年の物ですが、御覧の通り桜の名所でもありますので、今年は4月1日頃には五分~6分咲き位の桜で参道と境内が彩られ初めるでしょう。
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この境内の元に成った邸宅と金沢文庫を造営した偉大な人物は金沢北条実時と言う名将です。
さて、称名寺の話は置いておいて、金沢文庫は鎌倉時代~戦国時代の貴重な文化財書籍を多数管理しており、常設展示でも称名寺の御本尊の完全なレプリカ等の展示が有り、武士文化を知るタイムカプセルの様な場所です。
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こんな風に、鎌倉幕府を掌握していた執権北条家の政治体制や歴史も学べるし…
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鎌倉文化を実際に目で見て体感する事が出来ます。

因(ちな)みに、拝観すると再開記念で現在だけ貰えるグッズとか、改めて紹介。
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普通に入観券
拝観すると貰える物は…
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ポストカード。買ったら1枚200円くらいするよね、記念のポストカードとか。
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古地図
この地域は平安時代~昭和の埋め立てまで「金沢八景」の異名で呼ばれた日本屈指の風光明媚な観光地でした。
その昔の金沢区の様子が解る絵図が表紙、中は金沢文庫称名寺の古地図を現代風に書き起こした解説地図。
これを持って広大な称名寺と裏の稲荷山を散策すると、よいピクニックに成ります。
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ちなみに現在、再開記念で❝金沢百景❞の絵が特別展示されています。
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余談ですが、小田原北条家が豊臣秀吉に攻められた時に、この称名寺は金沢のロリコン変態大名の前田利家にだいぶ略奪されてしまいました。
歴代の日本国の統治者が保護した文化財を私的に略奪し、かってに加賀に持って行き町の名前までパクッて金沢にしちゃったんんだよね。
現在でも金沢市が勝手に市の文化財と言い張ってる文物には、鎌倉時代~江戸時代と通じて金沢文庫の蔵書だった証拠の❝印判❞が押して有ります。
もともと、金沢の地名は❝尾山❞だからな。ついでに前田家は称名寺の赤門も真似して、自分の江戸の前田家江戸屋敷の門を赤門にしてしまった。それが東大の赤門ね。

花見と合わせて是非、拝観して見てね~!
神奈川県と鎌倉武士文化の入口に立てる場所ですよ~♪

次は最近1カ月、訪問再開してる三浦半島~湘南~相模北部の史跡神社仏閣の単体解説記事書きたいなぁ~。
写真が何百枚も溜まってしまった…

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!

ブログネタ
旬なニュース に参加中!
永谷天満宮は…
室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の従兄弟、宅間上杉(たくまうえすぎ)家の重兼(しげかね)公の御子孫が開いた天満宮です。
今、その永谷天満宮の裏山では今、山の片面一面に紫陽花(あじさい)が咲き誇りとても綺麗です。
永谷天満宮は勿論、拝観無料で市民が自由に紫陽花を鑑賞出来ます。

この鎮守の森、名前を天神山と呼び頂上には小さな浅間神社の祠(ほこら)と菅秀塚が有りますが、菅秀塚の菅秀とは元々この永谷天満宮と貞昌院の敷地にお住まいだった菅秀才こと菅原淳茂(あつしげ)公の事です。
この結界の中が天神山で、自由に散策出来ます。
御祭神菅原道真公の五男淳茂公が当地にお住まいだったと言う伝承が今に伝わっています。
今の季節、長谷寺や明月院程の規模は有りませんが紫陽花のトンネルの中を散歩出来ます。
とても綺麗ですよ!
横浜に住んでるけれど鎌倉まで紫陽花を見に行く暇が無い…
…と、言う方、紫陽花見るの諦め無いで永谷天満宮を散歩してみませんか?
以前書いた永谷天満宮の歴史を説明した記事は「ココ」←クリック!

では又、次の記事で!お会いしましょう…

脳タリンTVマスコミは風評被害を流布拡大した責任とって経営者切腹してどうぞ!

バカなマスコミに扇動される奴も同罪!

箱根の宿泊キャンセルする様な無知な奴は先ず基本的に箱根山なんざ他の火山に比べりゃ大した火山でもなけりゃ、日本中に日々噴火してる火山有って、そこが観光地に成ってる事を理解して下さい!

そもそも箱根だろうが富士山だろうが、噴火した瞬間に関東甲信地方は火山灰だらけで逃げる事も出来ないんですがね(笑)!

と、言うか、仮にフルパワーで噴火したら東京千葉まで火山弾が雨アラレと降り注ぐわ落雷激しくて外出出来ないわ、火山灰で電線の架線がショートしていたる所で停電して信号止まり車使えないわ電車も止まるわでジタバタするだけ無駄(笑)!

だいたい…
今回は国土交通省も気象庁=防衛省も御丁寧に「そうはならん」「大涌谷半径300mの小っさい範囲」と公表しとるだろうが!

有志が作ってくれてる各地域の活火山の威力が分かる動画が有るから参考に見てみると良い。動画リンク↓これ。

富士山のフルパワーを1とした場合

この↑動画見たら、騒いだ奴は己の無知を反省してどうぞ!そんでもって下のTVじゃない新聞記事と小生の関連ブログ↓読んで良く考えてね…

規制は一部、観光して」=噴火警戒で旅館組合―神奈川・箱根
2015/5/7(木)14:18 時事通信社
 噴火への警戒が続く箱根山のある神奈川県箱根町は7日、地元の旅館組合幹部らと今後の対応を協議した。会見した箱根温泉旅館協同組合の鈴木茂男理事長(64)は「立ち入り規制エリアは噴煙地を中心に半径約300メートルの区域。エリア外では通常通り観光できる」と訴えた。


 町によると、ゴールデンウイーク期間中の観光客数は、例年と比べ、大きな変化はなかったという。ただ、鈴木理事長は「旅行のキャンセルなどの問い合わせは、今後本格化するのでは」と危惧。「逆境の中で箱根を盛り上げるため、町や組合が『オール箱根』の態勢で臨むべきだ」などと語った。 

あのね、危ない危ないって過剰演出して、バカなレポーターにギャーギャー騒がせれば「一般人」は箱根全体が危険とか、大涌谷がすんごく危ないって勘違いするでしょう?

普段から歴史にも地理にも興味持たないで情弱だから周りが騒いでると本当に「全部が危ないんじゃないかって思いこむバカ」が増えて、こうやって宿泊キャンセルしちゃうじゃん?

特定のチャンネルのマスコミは日本を弱体化させる煽動を普段からやってるのは、ネット民や各方面専門知識を持ってる人間、若しくは小生みたいな何かに特化した愛好家はよく知ってるけれどな!
今回の箱根の観光業の大打撃は明らかに知識の浅っさいマスコミのミスリードが原因だな…

今回の箱根の大涌谷の警戒LVなんざ、「普段の熊本の阿蘇山や鹿児島の桜島LVと同等に引き上げられただけ」です!
バカな観光客は二度と神奈川に来るな!
良識と知識を最低限持った客人だけ来てどうぞ!
箱根も二度とマスコミに協力する必要なし!

あのね~大涌谷だって普段から毒ガス噴出してて通行止めの散策ルート有るの!
それと比較したら阿蘇山や桜島なんかリアル噴火ちょくちょくしてて入山そのものがしょっちょう禁止に成ってる日が有るの!

今回のマスコミの風評被害拡散に煽動されて箱根の温泉宿泊キャンセルした旅客は本当に「バカを見る」の言葉通りキャンセル料金発生で「大損コイタ」ね(笑)。
ドタキャンしたような連中は、周りが人殺してたり集団レイプしてたら「あれ?自分もやっていいのかな」とか集団心理で自己判断能力皆無に成る屑か、全く基準に成る知識が無い無知なんでしょう。

マスコミとマスコミの煽動にかかった連中は中学生の古代史からやり直してどうぞ!
そんな屑達は小生のブログ記事のカテゴリー「歴史的教訓」に「富士山噴火の事」や「地球温暖化が二酸化炭素のせいじゃない事」が書いて有るから最低限それくらい読んで、それから自分で色々調べてこい!
カスが!
小生のブログ記事のカテゴリー歴史的教訓は「ココ 」←クリック!

箱根は「御嶽山」や「阿蘇山」や「桜島」より安全です!
だいたい、大涌谷の半径300mって気象庁も国土交通省も規制範囲指定してんのに何で箱根湯本や強羅や大平台の温泉客が宿泊キャンセルするんだ?
客も客でマスコミなみに「ど阿呆」だな。

ブログネタ
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今、北条五代祭りに向けて随時更新中の「小田原城」に関する記事の中の昨日書いた部分で、御菓子のウイロウはが本家だと言う歴史事実を紹介したのですが…
スイーツのカテゴリに分類したいので少し説明を補足して、今回独立記事として改めて立て直します。

さて、以下は小田原城記事からの抜粋と補足に成りますが…
先ずはウイロウは小田原が本家で京都が元祖だと言う歴史事実を説明します。

戦国時代、小田原城の城下町は応仁の乱で戦災が続き荒廃した京都から、多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていました。
その繁栄は小田原北条家初代の北条早雲(そううん)公の政策に由ると言われています。
三代北条氏康公の頃に成ると小田原城は上杉謙信や武田信玄の大軍による攻撃を複数回経験したので、小田原を市街地ごとソックリ守る「総構え」と呼ばれる土塁と空堀の城壁に囲まれた戦国時代当時、大坂城築城以前の日本最大の城塞へと変貌しており。 

そんな小田原城の城下町に室町時代に移住してきた薬屋が、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんです。
ういろう」が「お菓子の名前だと思ってる人」がいますがね…
ういろう=外郎=人の苗字です!

もう少し詳しく説明しますと、外郎と言うのは中国大陸の王朝、南宋王朝と元王朝の「礼部員外郎」と言う官職名由来の苗字です。
小田原市に現在住んで薬とお菓子のウイロウを販売している外郎家は、元は中国の王朝の官僚だった方で陳延祐と言う名の中国人でした。
陳延祐サンは今の中国浙江省台州市の出身で、元が明帝国に転覆され滅亡した際に日本に亡命し1368年、博多経由で嫡男(ちゃくなん=跡取り)の大年宗奇の代に天皇家に招聘され京都に移住しました。
伝承では、その頃、室町幕府三代将軍の足利義満公に提供したのが今の一般的に「ういろう」と呼ばれる外郎家が相伝で伝えた身分の高い客人の為に作っていた茶菓子だと伝わっています。
裁判でも、この小田原の外郎家の歴史事実は認定されています。
ウイロウは明治時代まで販売してはいけない物でした
あくまで身分の高い人をもてなす為だけに作られる菓子でした。
まぁ、現代ではウイロウが人の名前と知らない方が多く成ってしまいましたが。 
そして外郎家の本業はあくまで薬師でした。
元は高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の「ういろう」として大衆的に誤認されているものなんですね。 
小田原の外郎家では、菓子のウイロウは「お菓子のウイロウ」と言う名前で「薬のウイロウ」「外郎家そのものの苗字」とちゃんと現代でも分けています。

それ等の歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
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八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
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本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

繰り返しになりますが、この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
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…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 
「ウイロウ売りの口上」は今ではTVアナウンサーが朗読練習で必ず暗唱出来る様に練習する演目としても有名ですね。
因みに、内容は以下の通りです…

拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、
御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、
欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。

元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、
昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。
帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用うる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。
依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。
即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。
只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、
イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしは親方圓斎ばかり。
もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。
御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、
系図正しき薬で御座る。

イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、
されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。
先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、
薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。
魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。
さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。
ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。

そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。
アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。
開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。
一つへぎへぎに、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒、書写山の社僧正。
小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。
繻子・緋繻子、繻子・繻珍。
親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。
古栗の木の古切り口。
雨合羽か番合羽か。貴様の脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。
尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。
河原撫子・野石竹、野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。
一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。
京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。
御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。
来るわ来るわ何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。
武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。
菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。
麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。
あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。
向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。
がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。
たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干蛸。
落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。
中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。
鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。
小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。
おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く三里ばかりか、
藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。
隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。

アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、
産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまい。まいまいつぶりまいつぶり、
角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばち桑原桑原と、
羽目を外して今日御出での何茂様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、
東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃりませぬか。

…ね?江戸時代の人の認識でも外郎は小田原の外郎家の物だったんですよ。

そして何で小田原の外郎が近年全国に普及しなかったかと言うと、新幹線と家の格式のせいです。
朝廷との逸話から、明治時代になると外郎家のういろうが特許として内閣特許局にすぐに登録されました
しかし天皇家との関わりからウイロウは小田原の外郎家での直接相伝しかしないと言う伝統を守り販売も小田原外郎家の本店での直接販売しかしないと伝統を守って来た事が原因なんです。
新幹線は小田原は「ひかり」しか止まりませんからね…
そんな訳で某地方都市の偽物が新幹線開業を機会に大量生産する企業が多数参入し、歴史を御存知無い方々に事実誤認されてしまった訳です。


そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

如何でしょうか?
ウイロウの歴史、御理解頂けたでしょうか?
念の為に以下に時系列で纏めて置きます。
初代:陳延祐
元朝時官途:礼部外交院外郎 
長慶天皇の治世、正平二十三年(1368)年、元朝滅亡時に日本亡命。
医術、天文学に通じる。
博多に住す。
官職から陳外郎と日本では呼ばれる様に成る。
↓
後円融天皇の従弟、足利義満公により博多より京に招聘。
京に移住はせず博多に戻るが子を京に留める。
↓
子は京に留まり足利一門の断家、宇野の名跡と旧領を与えられ格を上げられた上で朝廷にも仕える。
外交使節の応対を担当。
足利一門の帰依していた禅宗に入門した事で法名は大年宗奇と伝わる。
父の初代延祐も禅宗に帰依し入道。
今は福岡市博多区に移転した、当時は太宰府に在った横岳山嵩福寺で剃髪、台山宗敬と名乗る。
※この入道号"台山宗敬"は恐らく陳家が浙江省台州出身の貴族である事に由来する。
※帰化後、本来は元朝の官職の外郎を苗字とし読みを官途の外郎(げろう)と区別し外郎(ういろう)にした。
※朝廷に上がる為に宇野を併用した。京極、六角に置ける苗字佐々木の併用に類似の事例。
↓
陳外郎宇野台山宗敬、享年73歳。
応永二年(1400年)七月二日没。
↓
後柏原天皇治世
永正元年(1504年)。
五代:陳外郎宇野藤右衛門定治の代に小田原の北条家より招聘され移住。
この際に弟の家を分家させ京に残し接待菓子や薬の製法も弟の家にも残した。
↓
しかし兵火により京の外郎(宇野)家は断絶する災難に遭う。
※当然、京都の財産や文書も消失。
この際に弟子が外郎の故知の博多、官領代として乱を沈静化させ当時の博多を傘下に置いた大内家により雇用され広まったと、外郎家では山口市と博多市の菓子の外郎を系統と社史で事実上公認している。
血脈は小田原のみ存続する。
天皇家の制約を守り菓子を販売せず。
薬の製法は明治まで一子相伝だった。
※明治時代の解説に繋がる。
↓
小田原でも北条家の外交使者接待担当。陳外郎宇野家は石高換算で江戸幕府の7000石超相当の格を継続して遇される。
※有職故実に通じたのでの江戸幕府に置ける高家対偶に類似。
※実際に其だけの所領を北条家でも与えられたとは考え難いので関東では室町幕府の格式の維持に留まったはず。実際、当時の石高換算の1貫=2〜4石の最大値で計算しても北条家臣筆頭の松田家で所領役帳で2798貫=11192石となり、やはり外郎家は格式に特化した保証を受けたと考えた方が自然。
↓
北条家、豊臣秀吉の小田原攻めにより改易、当主氏直公は蟄居。この際、士分の北条旧臣は小田原城下から退去を命ぜられるが朝廷との縁から特例で残留を認められる。
以後は医家として存続、嘗ての朝廷に置ける儀礼を守り透頂香と菓子も外郎の在所以外での販売をせず現代に至る。
この際に天皇家より医家にも関わらず以下の桐紋と建築様式の使用の御赦免を賜る。
八方八つ棟
表側三つ棟玉堂造り
唐破風に桐紋瓦
↓
江戸時代に至っても外郎家は高名で、今の市川海老蔵の祖先である二代目市川團十郎(元禄元年1688年〜寶歴八年1758年)が愛用し、享保年間に外郎の透頂香で喉の持病が根治した事を感動し歌舞伎の演目"外郎賣"を造り上げ以後は市川家十八番の演目の一つとして現代に至る。
↓
明治に成ると特許条例が制定されたが、天皇家との関わりで真っ先に特許承認された。
↓
外郎家系統の製法を受け継ぐ地方では外郎(ういろう)の名を使う事を憚(はばか)り、"ういろ"等と名を変えて敬意を近代まで払っていた。
その名残で今も「ういろう」と平仮名で書いても「ういろ」と発音する人が年配には多い。
但し、外郎家と無関係の名古屋は例に漏れる。

では!又、次の記事で!

JR小机駅近くに雲松院と言う御寺と、小机城と言う御城の跡が在(あ)ります。
雲松院は戦国時代の笠原信為(のぶため)公と言う武将の開基(かいき=建設)した笠原家の菩提寺(ぼだいじ)です。
この笠原信為公、実は北条家の重臣で雲松院と小机駅を挟んで反対側に在る小机城の城代を務めた人物です。御本人の居城は大曾根城と言う城が近くの大曾根~太尾地区に別に在りました。
しかも、信為公は戦国大名北条家で軍隊で言う所の軍団長に当たる白備(しろぞなえ)隊の大将代行の役割を担っていた重臣でした。
ですから笠原家の菩提寺である雲松院は現在でも広大な敷地を持ち、さながら小大名の武家屋敷の様(よう)な門構えです。
昔は漆喰塀だったんでしょうね。
雲松院は、そもそも神奈川区の神大寺地区に戦国時代に存在した❝神大寺❞と言う大寺院の塔頭か別院の様な扱いで、笠原信為公が御父君の笠原信種公の菩提寺として造営したと伝わっています。
その後、神大寺が戦国時代には既に焼失してしまったので、江戸時代にも成ると笠原家の菩提寺としての機能自体も雲松院に移転して来た様です。

笠原信為公は白備えの副将格(実質上の大将)です。
戦国大名の北条家には、五色に分けて編成した有事に即応する為の軍団が有りました。
その軍団は青・白・黒・黄・赤に軍装を色分けされていました。
各部隊の大将の名前と居城を北条家最強の時代を参考にあげますと…

●青備(ぞな)え 冨永直勝 公  
  葛西城主(東京都葛飾区)
  主に房総半島の里見家に備えた部隊。
※現在の葛飾区は昔は下総国葛西郡の一部。今の感覚で言うと葛飾区は千葉県の一部だった。

●赤備え…北条綱高 公
  江戸城主(現在の皇居)
  主に静岡県方面の攻防を担当した軍団。
  武蔵国多摩地方攻略にも活躍した軍団。
※北条綱高公は実家は九州の名族高橋家で、北条家2代目当主の北条氏綱公に気に入らて養子に成った人物。

白備え…笠原信為 公  
  小机城代 大曽根城主(横浜市港北区)
  主に、武蔵国の防衛を担った部隊。
※小机城はJR小机駅近く、大曽根城は大倉山記念館の丘一帯。
※小机城主は北条幻庵(げんあん)公。幻庵公は笠原家の上司で普段は小田原在住。又、箱根権現(今の箱根神社)の宮司を務め風魔忍者の管理者でもあった。
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●黒備え…多目(ため)元忠  公
  青木城主(横浜市西区と神奈川区の間)
  主に北条家の本隊として活動した部隊。
  吉良家の護衛も担った。
※青木城は今の京急神奈川駅一帯、本覚寺〜権現山にかけての半島上に築かれた城だった。江戸時代には東海道神奈川宿が置かれた。
※多目元忠公は北条氏康公の軍師で河越合戦などで活躍した。
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●黄色え…北条綱成 公
                 副将…間宮康俊 公
  玉縄城主(鎌倉市北部〜藤沢市市境一帯)
  対外遠征と前線の援軍を担当した軍団。
※玉縄城の範囲は広大で今の藤沢市渡内〜鎌倉市玉縄〜植木〜横浜市栄区長尾台にかけて築かれた城郭で、武田信玄と上杉謙信も撃退した堅城。
※実質的に北条家最強の軍団で肝心な合戦には必ず黄備え隊が参戦した。
※北条綱成公は綱高公同様に、2代当主北条氏綱公に気に入られ婿養子に成った人物。
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さて、五色備えは何となく御理解頂けたと思いますが、実はこの軍団編成は織田信長公に先駆ける事、数十年も早く作られた画期的なシステムだったんです。
現在の軍隊と同じシステムだったんですね。
そんな北条家白備えの大将だった笠原家の菩提寺だから、当然に雲松院の境内も立派な訳です。
この写真では分かりにくいですが、本堂の上の金色の家紋装飾は笠原家の「丸に三つ柏紋」と徳川家から許された「葵の紋」が入っています。
家格の高さが窺(うかが)い知れますね。
京都の相国寺や天龍寺くらいの敷地が有るでしょうか?
周囲の山林も含めて雲松院です。

鐘楼も立派ですよね。
この雲松院は明治時代の廃仏棄釈まで、付近の白山神社の別当(べっとう管理職)も
兼務していました。
つまり、笠原家は神道では白山神社を信奉していたと言う事ですね。

白山神社は北信越地方の神様です。
そして、曹洞宗の大本山が今の横浜市鶴見区総持寺に移る前の能登国永平寺だった頃から曹洞宗の守護神として崇めらてきました。
実は雲松院は曹洞宗の御寺です。
小田原北条家には曹洞宗を信仰する武将が比較的多い様です。
しかし、笠原家が白山神社を信仰したのは、北条家家臣だったから以外にも理由が有ると思われます…

笠原家ですが…
古代神話の時代には相模国と武蔵国を合わせた広大な範囲の佐賀牟国造(さがむのくにのみやつこ)を務めた人物の子孫だとも伝承しています。
そうであるなら、長野県の諏訪大社の神様、建御名方神(たけみなかたのかみ)の御神孫と言う事にもなりますね。
まだ、神奈川県や東京や埼玉が、相模国とも武蔵国とも呼ばれる更に前の「佐賀牟(さがむ)国と呼ばれた時代、古代の国主は「国造(くにつくりのみやつこ)」と呼ばれました。
その時代、初代の佐賀牟国造に任命されたのが、建御名方神から数えて6代後の子孫だそうです。
信州出身の家系だから、古代から北信越で自然信仰で崇拝されていた白山神社を神孫の笠原家も信仰する事は当然と言えば当然だと言えますよね。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)を信奉していましたしね。

その後、佐賀牟国造の乱で笠原氏は内紛を起こし分裂してしまい、更に大和朝廷の仲裁を受け弱体化と古代大和朝廷の大王(おおきみ=天皇)に臣下化し埋没していきました。
※写真は雲松院の文化財一覧

しかし小机城代の笠原家は古代〜室町時代まで、ずっと神奈川県に定住していた訳では無く北条家が、まだ伊勢を苗字にし岡山県にいた頃からの家臣でした。
おそらく、古代の国造の子孫は時代を経て鎌倉幕府の御家人と成り、岡山県に移住したのかも知れないですね。
室町時代に領地を拡大し支配するには大義名分が必要だったので、家臣の家系の祖先が治めた土地に、その家臣を領主にする事で支配権を公言するのは上等手段でしたから、北条家は笠原家に小机城を拠点に武蔵国橘郡と都筑郡の経営を任せたのかも知れません。
北条家の歴代殿様は古典歴史にも精通していましたから、笠原家のルーツもご存知だったはずです。
武田信玄の場合は、家臣に縁も所縁(ゆかり)も無い地域の滅んだ武士の苗字を自称させて強引に支配権を主張したりしました。

岡山県の笠原家ですが…
他の武家にも岡山県に移住した具体例が有ります。
鎌倉時代初期の当時、源頼朝公より岡山県に恩賞の領地を与えられ赴任した武士には、他に梶原家や長井家がいます。
梶原家は旧鎌倉郡梶原の地名を苗字にした坂東平氏梶原景時公の子孫です。
長井家は大江家の分家で、大江広元公の子孫です。
いずれも源頼朝公の重臣です。

笠原家は他に古代から信濃国より出なかった一族もおり、武田信玄に敵対しています。
そちらは佐賀牟国造の伝承を証明する様(よう)に「諏訪神氏系図」で神孫と記され長野県佐久郡志賀に定住していた事や、鎌倉時代に源頼朝公に臣従していた事が記録に残っています。
つまり、鎌倉時代に御家人として幕府に出仕した笠原家が、元:伊勢平家(平清盛の一族)の領地だった荘園を恩賞として源頼朝公より与えられ備前国に移住したか、北条家が本姓伊勢家だった頃に室町幕府の命令で伊勢家同様に移住したんでしょうね。

この様に古代からの由緒ある家系の笠原家ですが、笠原信為公は内政でも活躍し歴史に名を刻んでいます。
1526年、房総半島の里見家に鎌倉市街地に攻め込まれ、鶴岡八幡宮が略奪・放火され焼失する事件が起きました。
その後、鶴岡八幡宮を再建するに当たり、北条氏綱公は鶴岡八幡宮再建の総奉行に笠原信為公を任命しました。
この役割りは非常に重く、「統率力」「経済力」「高貴な血筋」「文化的歴史的知識の深さ」の全てが無いと担えない役割りでした。
結果、信為公は鶴岡八幡宮再建に成功します。
因(ちな)みに、この再建事業には黄備えの副将間宮康俊公も与力(よりき=部下)の奉行として参加しています。
間宮家も宇多天皇の子孫に当たり、室町幕府鎌倉府の武士の家系でしたので有職故実(ゆうそくこじつ=古いしきたり)に精通していたはずなので、抜擢は理解出来ます。
信為公ですが、他にも減税による民衆からの支持を得たり内政面での活躍が現代にも伝わっています。
更に文化人としても和歌や漢詩に長けていた事も伝わっています。

合戦指揮だけで無く、事務処理能力にも長けて文化人としても高名とは…
現代の会社にはなかなか、こんな素養の高い高級管理職いないですよね。
仕事が出来ても人間腐ってたり、金稼げても文化的素養が欠落した無文化成金だったり、仕事出来ない癖にふんぞり返って実力無かったり…
信為公の様な上司って少ししかいませんよね。

そんな信為公の笠原家御一門は、今でも小机の雲松院から横浜市民を見守って下さっています…
これ↓歴代殿様の御廟所から見た風景
新横浜が一望出来ます。

そして、御廟所の写真を撮影するのは不敬なので、今回も写しませんでしたが、御廟の石塔の配列説明を代わりに撮影してきました。


皆さん、もし、小机城を見学する機会が有れば、雲松院を御参りし笠原家の殿様達に神奈川県北東部の発展に寄与して下さった事に、一言お礼を伝えてみませんか?

本日はここまで。
では、又、次回の記事で!

今回は室町時代・・・戦国時代のお話です。

前回の記事「コレ(←クリック!) で、縄文時代~弥生時代の遺跡、三殿台遺跡を紹介した記事の冒頭で少し触れた、三人の三殿台周辺に住んで居た殿様達の事を紹介したいと思います。

一人目の殿様はマイナーで知る人ぞ知る殿様です。
●平子(ひらこ/たいらこ)氏の殿様
鎮守府将軍平良文公の御子孫で坂東平氏三浦氏の一族です。平安時代に三浦家二代当主三浦為継公の三男の久良岐(くらき)三郎公が此(こ)の地を領し、子孫が平子に改姓しました。
平子は五十子(いらこ)とも当字されますが、五十子の音読みが転化して今の「磯子(いそご)」の地名に変化したと推測出来ます。
室町時代には今の埼玉県本庄市五十子にも分家一族が住んでおり、関東管領上杉家の与力(よりき=組織での部下だが家臣ではない)として存在していました。五十子城は長尾景春の乱の際に舞台の一つに成った重要な軍事拠点でした。
磯子の平子氏本家の拠点は磯子城です。
磯子城跡は今の磯子小学校~腰越公園~"ゆず"の出身校の岡村中学校の裏の丘一帯辺りと推測されていますが、遺構は教育委員会に放置された挙句、保護はおろか調査すらされず小学校建設と宅地開発を容認され全貌不明のまま破壊されました。


二人目の殿様は結構有名な歴史好きには堪(たま)らない殿様です。
●太田道灌公
関東を代表する戦国初期の名将であり、扇谷上杉家の家宰(かさい=執事)として相模守護代を任された人物で、合戦においては不敗を誇った名軍師です。
今の皇居である江戸城や、埼玉県の河越城、岩槻城等の名城に加えて横浜市の佐江戸城等を築いた人物でした。
余りの能力の高さに主君である上杉定正が恐れと猜疑心を抱き、扇谷上杉家の本拠地であった神奈川県伊勢原市の七沢城(現在のリハビリテーション病院)の近くの糟屋館(現在の産能大学)で暗殺されてしまいました。
胴塚は高部屋の洞昌院公所寺にあります。首塚は伊勢原市に在りましたが改葬され鎌倉市扇ヵ谷地区の英勝寺裏手の鎌倉山山中に在ります。英勝寺は鎌倉での太田道灌公の本宅、伊勢原の洞昌院は塔中寺院が宿舎でした。
この道灌公の別宅が横浜市南区太田町の三春台、今の太田小学校の所在地に有りましたが、教育委員会による小学校建設時に無調査で全貌不明のまま破壊されました。

三人目の殿様は超有名な一族の殿様です。

●足利家の一門、吉良家の武蔵国吉良家の一門、蒔田吉良氏。 

忠臣蔵で悪名名高い吉良氏ですが、あのクソ性格悪い三河の吉良家とは違い、武蔵の吉良頼康公の御一門は周辺の武将から好かれていた様です。
本来室町時代に有名だった吉良氏は室町時代に足利家の支族で鎌倉府付きの重鎮として武蔵国に移住してきており、「足利家が倒れれば吉良家が立つ」と言われた程の名家でした。
関東では東京の世田谷~川崎市中部~横浜市東部が領土で、武蔵国の多摩川沿い、中原街道、鎌倉街道、武蔵国東部の沿岸部の交通の要衝を悉(ことごと)く抑えていました。
しかし扇谷上杉家と領土が入り乱れ係争地だった為か戦国時代には勢力が縮小していた様です。
戦国時代に成ると小田原北条家に従属しましたが、家臣扱いはされず特別視され「蒔田殿」と呼ばれていました。
小田原「北条氏の黒備え」の指揮官を務め神奈川区に有った青木城の城主、多目元忠公が蒔田城の保護を担当していた様です。
青木城と多目元忠公の記事は「ココ 」←クリック!
蒔田吉良家の居城、蒔田城は今の横浜市南区蒔田の横浜英和女学院小学校(旧成美学園遺跡)の所在地に有りました。

しかし、教育委員会に城址の調査がされないまま小学校建設許可容認され、破壊されました。 ですので、此方(こちら)も城址の詳細は不明です。

この三人の殿様が居た御城のちょうど真ん中に在るのが三殿台です。3つの御城が見えたから、三殿台なんでしょうね。 

だって其(そ)れ以外に「三」「殿」がからむ「台地」の要素無いですから(笑)。

さて、その中でも蒔田吉良家の殿様の蒔田城は申し上げた通り既に破壊されていますが、堅固な要害の地に在(あ)った事だけは今でも解ります・・・
写真です。
IMG_2179

・・・落ちたら死ぬよね。
実はここは成美学園遺跡と言う考古学的にも重要な遺跡だったのですが・・・
IMG_2178

城としての調査は神奈川県教育委員会が行わないまま開発容認してしまった為、どんな御城だったのか現代では不明に成ってしまいました。

ただ、周囲には帯曲輪(おびくるわ=長細い防御施設)と思(おぼ)しき地形は残っていました。
IMG_2180
本当にそうかは全く解らないし土塁も無いけれどね。
伝承では北側に曲輪が残存とされています。

IMG_2181
この地形なんかを見ると、恐らくこちら側から登城したんだろうなとか・・・
もはや、原型なんか無いので完全な想像でしか無いんですが、間違えなく堅固な地形ではあります。

実際、この蒔田城を含め、磯子城の在った岡村の丘や上大岡、中区の滝頭や根岸の丘~本牧の丘は江戸時代に掘削され分断されるまで長い一つの「久良岐の丘」でした。
その久良岐の丘は古代神武天皇が東征された際に「ここに城を造りたい」と言う主旨の事を申された程の堅固な丘陵地帯だったんです。
そして、その「久良岐の丘」が古代~昭和初期まで存続した行政区域「久良岐郡」の郡名の由来に成ったんですね。

この丘の下には、吉良家の菩提寺である「勝国寺」が現存しており、吉良家歴代の御廟所もあります。 IMG_2162
IMG_2163


立派な御堂がありまして・・・


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その裏手に在る墓所の中に吉良家の殿様の御廟所がありますが、いつも通り御廟所の写真は不敬なのでのせません。
IMG_2173

御寺の寺紋は桐(きり)の家紋でした。 

本山の総持寺由来で曹洞宗の寺紋は五七桐紋だそうです。
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勝国寺は五三桐紋…

吉良家の家紋は足利家の一族なので二引き両のはずです。
Ashikaga_mon_svg
東京の世田谷城主吉良家の菩提寺も世田谷の勝国寺ですが・・・

蒔田勝国寺と世田谷の勝国寺、世田谷城跡の豪徳寺でも桐紋が使用されているそうで、奥州流武蔵吉良家の殿様は併用されていたのかも知れませんね。

源氏一門である足利家分家の吉良家が何故桐紋を用いるかは謎です。源氏にとって桐紋の持ち主の藤原氏は本来平家以上に憎むべき存在であるから進んで用いるには何か理由が有るのでしょうか?

勧修寺流藤原家出身の関東管領扇谷上杉家に臣下の礼をとり桐紋の使用を許されたのかも知れないし…?

或(ある)いは室町幕府の足利尊氏公、義詮公に反逆し南朝に付いた時期に後醍醐天皇に直接下賜されたのかも知れませんし…由来は謎です。 

しかし、桐紋の由来は判らずとも、この蒔田の土地に殿様が居らっしゃった事と、その菩提寺がある事は地域の方々の誇れる歴史だと思います。
同様に周辺の平子の殿様が住んで居た磯子や、太田道灌公が別宅として住んで居た太田小学校や南太田周辺の地域の方々も、その歴史を知れば郷土に誇りを感じるんじゃないでしょうか?







JR新横浜駅は新幹線が通る交通の要所で、その直ぐ裏手が旧街道なのを知る人は今では多く有りません。その旧道の他に第三京浜道路と言う自動車専用道路が通り、近くの神奈川区三枚橋町は江戸だ時代まで三枚田と呼ばれた地域で、古代の“店屋”と言う古代大和朝廷の駅伝制(伝馬制とも言う)の馬を交換する情報伝達網の中継基地が置かれた重要な地域でした。
そんな重要な地域を抑える城がJR横浜線小机駅の直ぐ隣の“小机城”と新横浜駅裏の篠原城(←クリックすると紹介記事にリンクします)でした。
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小机城は現代では竹灯籠祭りが行われる風流な竹林の城址に成っています。この小机城と篠原城は鶴見川の水運を守る位置に築かれとても重要な役割を果たした城でした。
室町時代の初期に恐らく扇谷上杉家により築城され、東京の石神井公園の場所に在った石神井城城主の豊島家の一族が籠城し、関東を代表する名軍師の太田道灌公と攻防戦が行われた事でも歴史ファンには有名な御城です。
太田道灌公
そして太田道灌公が内紛によって主君に暗殺されると扇谷上杉家が衰退し、そこに北条早雲こと伊勢盛時、改め入道(にゅうどう=出家する事)宗瑞(そうずい)公と跡継ぎの北条氏綱公が神奈川県東部まで侵攻して来て小机城は北条家の持ち城と成りました。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
この頃、明確な史料は現存しませんが所領や後の城主等を見ると状況的に初代の城主は北条早雲公の三男の北条幻庵公だった様です。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
太田道灌公や北条早雲公の生きた戦国時代初期には経済は一部輸入した中国貨幣と日本で産出される金銀の粒、そして直接商品を交換する物々交換によって経済が成立していましたが、鶴見川を使った水運の流通経済網に置ける重要地点だったんですね。
その小机城や篠原城の先には現在の六角橋商店街が有りますが、その直ぐ近所の久応山寶秀寺は古代の大伴久応とも大伴黒主とも呼ばれた日本武尊の与力豪族の邸址で日本武尊が滞在した伝承も伝わっていたりします。
更に、直ぐその横には神大寺と言う江戸時代の人が“城址”と間違える程に巨大な寺院跡が存在したのですが、その御寺の址に陣地を置いて太田道灌公が休息した伝承が現在も一帯には伝わっており昔は道灌森と呼ばれ緑豊かな場所でしたが、現在では農地開拓と戦後の農地改良でスッカリ削平地にされて何も遺構は残っていません。
ただ、神話の弥生時代後半~古墳時代には既に超重要な交通の要所だった事は神話と店屋の地名の伝承から伝わっている訳です。
もっとも、神話時代の少し前の縄文時代には鶴見川は小机城の辺りまで海で小机湾と呼ばれていたんですけどね。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
白い部分が縄文時代の鶴見湾と現代人に名付けられている海だった地域で、一帯は鎌倉時代初期に成っても古代海だった名残で湿地帯でした。
今では干拓され広大な平地と成り、小机城の近くには日韓共催サッカーワールドカップの決勝戦が行われた日産スタジアムも在ります。
交通の要所なので昔は湿地帯でしたが鎌倉時代には佐々木泰綱公が開拓を幕府に申請している事が記録に残っており、鎌倉幕府成立以前、源頼朝公による関東統治過程で重要な与力だった佐々木高綱公に一帯の土地が与えられていたりします。
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だから別のブログ記事でも触れた鎌倉時代の佐々木高綱公の館址の鳥山八幡宮も在ったり…
(高綱公の記事は「ココ」←クリック)
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新横浜駅裏には篠原城と言う御城の在った大豆戸町と言う地域が在ったりします。

以前、今月の2014年10月25日に行われる小机城址竹灯籠祭りの紹介ブログでも少し触れた「小机城」と言う戦国時代のお城が在ったり城址だらけなんです。
(竹灯籠祭りの記事は「ココ」←クリック)
これ↑は小机城現存部の復元縄張り図。
現在城址に在る看板は↓こちら。
看板を見て頂くと分かりやすいのですが、現在城址はJR横浜線と第三京浜高速道路に分断されています。
しかし!
複数の地権者の方々の郷土愛により現存部は守り抜かれ「非常に良好な状態で空堀や曲輪群が現存してる」んです!

その様子は本当に素晴らしいので、小机城の殿様の紹介を始める前に城址公園の写真を先に御覧頂こうと思います…

伝・本丸直下の空堀
この空堀、風化している現在でさえ高さ6m以上なので当時は堀底〜曲輪まで7〜8m、土塁を入れれば10m近い高低差が有ったはずです。

本丸に続く土橋

写真だと判り難いけど横堀と帯曲輪
小机城は素人でも土の城を理解出来る程に状態が良いのです。
石垣よりタチが悪く殺傷能力の高い、土を削りこんで作る関東流の城を一目瞭然理解出来ます。
石垣城はライフタイムが長いのですが、敵兵が登れてしまいます。
しかし
土塁と土の空堀の北条流の空堀は、戦時には堀底に大量の竹槍が設置され、更に水がブチまけれ壁面は泥と化し、屈強な武者や忍者も登れなくなります。
落ちれば竹槍に串刺しに成ってしまうんですね…。
怖い!痛い!エグい!

更に北条流の空堀を発展させたのが障子堀(しょうじぼり)と言う、その名前の通り和室の障子みたいに仕切りがついた空堀です。

これ↑ね。
この写真はネットから持って来た借り物ですが、伊豆山中城の障子堀です。
それぞれの凹みは深さが1m〜2m位あり、ここに戦時に水をブチまけ泥ドロにしてしまうと空堀に進入した敵は必ず穴に落ちます。
武者は総重量30kgの鎧兜や刀を装備しているので当然登れませんし、穴の狭さで逃げる事も出来ません。
その逃げる事が出来なく成っている敵を、防衛側は淡々(たんたん)と弓矢や鉄砲で射殺して行くんですね…。
北条流の空堀は凄く残虐で堅固な防御施設なんです。

実はこの北条流の空堀を、小田原城攻めで苦戦した豊臣秀吉も模倣し大坂城の総堀に採用していたんですよ。

さて、この小机城、古くは関東一の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公と豊島氏が1ヶ月に渡る攻防を繰り広げた舞台でもあるのですが…

小田原北条家の宿老で箱根の風魔忍者を管理した怪軍師北条幻庵公か御子息の北条時長公が城主を務めていたんです。

KOEIのゲームでは↑こんな頭デッカチに描かれてます(笑)。
この北条幻庵公は先程も話した通り、北条早雲公の三男で長生きしたので第三代小田原北条家の当主で名将名高い北条氏康公の時代に成っても活躍しており名軍師であり外交官としても歴史ファンには有名な方です。
文化人としても日本古来の神仏習合時代の伝統を守る宗教家としても教養高く当時から有名な方だったのですが、その教養の高さを示すのが衰退した室町幕府が本来行っていた武家としての儀式を鎌倉公方(くぼう=将軍)代を務めた蒔田(まいた)吉良家の吉良頼康公に北条家から姫が嫁(とつ)ぐ際に有職故実(ゆうそくこじつ=当時は失われかけていた武家の儀式)や人間関係の掌握方法や個々の人物毎での対応の仕方等を書付けアドバイスした“北条幻庵覚書”と言う古文書が今も残っており、室町時代の武士の生活を知る貴重な第一級資料として有名だったりします。
実は北条幻庵公は北条家の家臣団の中で最大の領地を有しており、“小田原衆所領役帳”とか“北条家所領役帳”とか色んな呼び方の有る古文書(小生は小田原所領役帳と言う名を採用している)によると合算して五千四百四拾弐貫百文の永代(子孫まで保証された)給与を貰っていました。
安土桃山時代の石高に換算すると1貫文=2石です。
北条幻庵公の所領=5442.1貫=10884.2石。これを収入にすると・・・
1石=米150㎏ 現代の米相場平均1㎏=400円前後。
10884.2石×150㎏×400円=年収653,052円(6億5千3百5万2千円)となります。
この1万石がどれ程凄い事かと言うと、初期の北条家が治めた相模国は1国で16万石しか有りませんでした。そして小田原所領役帳が編纂された1559年頃には武蔵国南部も支配地に組み込んでいましたが、武蔵国は1国で約67万石ざっくり半分で33.5万石です。
16万石+33.5万石=49万5千石が北条幻庵公や息子さんの北条時長公が城主だった当時の大凡(おおよそ)の北条家の総石高だと試算出来ます。
北条家も所領役帳に乗る幹部クラス社員や管理職社員だけでも、ここで書き込めない程大量の北条家の社員がいた訳ですが、そんな中で北条幻庵公の所領は実に広大だった事が解りますね。
では49.5万石の内の1万石もたった一人で領有してしまっている訳です。
現代の感覚では6億5千3百万の収入はカルロスゴーンさんが日産自動車の社長だった頃の年収に匹敵しますが、ただ、この1万石の収入で非正規の兵士も含めて戦時には兵士500人を集めないといけなかったので幹部でも決して豊かな状態とは言えないのが当時の武士でした。
しかし初期の北条家で所領以外にも本光院殿(所領役帳編纂時既に亡くなってる北条為昌公の戒名)衆の代理統率官を行っていたので、支配した勢力数は北条家中で相当な物が有りました。
この様に直臣では無くて本家の家臣を預かる武将を寄親(よりおや)と呼び、その部下に成る人を(寄子)と呼びますが、有名どころだけでも相当数の寄子が記録に残っています。
【小机衆】に関しては、本稿の最期の方で歴代城主と与力武将達の簡単な紹介を纏めて載せようと思います。きっと港北区や都筑区に住んでいる人は「おっ!」と思う地名が出てくると思います。
白備え隊の笠原信為公を小机城代として小机城近辺の武将で構成された軍団を率いた北条幻庵公は武人としても功績を挙げており、中でも河越合戦や国府台合戦での活躍が有名です。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
北条幻庵公は関東最強だった武将の北条綱成公と今の埼玉県川越市に在った河越城に援軍に赴き河越城主の大道寺盛昌公と合計3000の兵士と共に籠城します…
敵兵80,000を率いる関東管領上杉家と古河公方との合戦で半年間も防衛に成功した上、大逆転勝利に導いた名軍師でした。
8万対3千と絶望的な戦力差ですね。
・・・こんな兵力差の敵兵に囲まれて、小田原の主君北条氏康公との連携を可能にしたのが彼が管轄した「風魔忍者」とその首領「風魔小太郎」の存在でしょう。

KOEIでは↑こんな感じに描かれてる風魔の小太郎。
彼等忍者がいたからこそ、外部との連絡が取れ、また謀略に長けた北条幻庵公だからこそ軍略に長けた北条綱成公と共に河越への後詰(ごづ)めを任されたんでしょうね。
さて、いくら北条幻庵公が謀略に長けていても統率者として優れた副官がいないと軍は統制出来ません。
この小机城、実は平時は笠原信為と言う武将が城代を務めていたのですが…
実はこの笠原信為公も優れた武将で文化人でした。
戦国時代の北条家には五色備えと言う5色に色分けされた5つの主力部隊が存在しました。
その内、"白備え"を率いたのが北条幻庵公で、老齢の幻庵公の代官を務めていたのが城代の笠原信為公だったんですね。
更に里見家と正木家による鎌倉市街地と鶴岡八幡宮への乱入、掠奪、放火、破壊で鎌倉が壊滅した鶴岡八幡宮合戦の復興を統括し、北条家の敵対勢力である上杉家の協力まで取付け鶴岡八幡宮再建を成功させています。
この事業では同じく横浜の蒔田城主吉良頼康公や笹下城主間宮康俊公も活躍しています。
笠原信為公は血筋も由緒ある家系で、古代、律令制以前に存在した相武国(さがむこく:埼玉県東京都神奈川県全域を合わせた行政区域)を治めた相武国造(さがむのくにのみやつこ)の子孫に当たる方なんですが、武士として教養も高く和歌の名人として有名だったそうです。
彼は1557年没なので、丁度、河越合戦で白備えを指揮したのは彼だったはずです。
この信為公と小机城を顕彰する祭りが毎年春に行われています。
小机城址祭り
…と言うお祭りです。
白じゃないじゃん!赤じゃんか!
…なんて無粋なツッコミはしないだけてくだせぇな。
何せ、地域振興のボランティアだから皆。

横浜市港北区長が信為公に扮し、地域住民の方々が扮する白備え部隊を率いパレードや小机城にていくつかの演出もあります。
屋台も沢山出るので家族連れも楽しめるイベントです。
冒頭で触れた今月の竹灯籠祭りと合わせてオススメのレクリエーションです。
イベント抜きにしても、小机城は歴史好きな方にはオススメの場所です。
JR小机駅から徒歩10分もかからないので竹林に覆われた城址公園の遊歩道で、是非、一度お散歩されてみてはいかがでしょうか?
御祭りの様子を崩壊した過去記事へのリンクを以下に掲載して置きます。
※以下のタイトルをクリックすると記事へリンクします。



さて、最後に小机城の歴代城主と小田原所領役帳に掲載される白備え隊小机衆の主だった武将達を紹介して記事を〆たいと思います。

【歴代城主】
●北条 長綱公・・・入道号:幻庵宗哲。
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその家臣団も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。先述の通り、河越夜戦で白備え隊を率いて黄備え隊大将北条綱成公と黄備え隊副将間宮康俊公等と古河公方ー上杉連合軍8万の大軍を城兵3千で半年間の防衛に成功し、更に国府台合戦でも活躍した文武両道を地で行く武将だった。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・戒名:宝泉寺大年用公。
早世したので城主としての事績は詳(つまび)らかでは無い。
所領役帳には“三郎殿”と記されている人物。近年になり実名が時長と判明したが城主としての在任期間は短命の為に短かった。“新編相模風土記稿 足柄下郡の風祭村(小田原城下の東海道から箱根への入口) ”に在る宝泉寺の“開基北条時長”と書かれた文書の存在や、永禄三年(1560年)07月20日が命日と判明している事、同年に北条氏尭公が小机城主の座を継承している事の整合性から宝泉寺が菩提寺の北条時長公が三郎殿だと推定されている。
※風魔忍者の根拠地が風祭で箱根の山を熟知した集団と言われている。
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
永禄三年(1560)年に小机城址と成る前は平井城主だった。平井城は上杉謙信が相続した山内上杉家の本拠地だった事もある重要な城だった。武蔵国の防衛で活躍し、上杉謙信の関東侵略に際して河越城に援軍に赴き撃退に成功している武勇の持ち主だった。
伊達家との外交でも活躍していた事が古文書の存在によって明らかに成っている。
●北条 氏光公・・・北条氏康公の八男と言われるが確定されてはいない。
北条幻庵公の姫が正室(せいしつ=本妻)。元々は戸倉城主だった。
織田家の中部地方支配が本能寺の変で崩壊すると、羽柴秀吉の了解を得て甲府を制圧した徳川家康公が武田家最後の居城だた新府城(山梨県韮崎市)へ入城する。武田家と縁戚だった北条家も織田領へ侵攻し旧武田領を切り取り始める。新府の徳川家康公を挟撃殲滅するべく北条家第五代当主の北条氏直公の大軍は新府の北の若神子城(山梨県北杜市)に大軍着陣し徳川軍を引きつけ、別動隊として北条氏光公の小机衆と北条氏勝公の玉縄衆が富士山の東側を回り甲斐と駿河国境側から御坂城(標高1600m山梨県笛吹市)へ兵10000で着陣し挟撃の機会を伺った。しかし小山城(笛吹市)を兵3000で守備していた鳥居元忠公が北条家の動きを察知しており、統率者が若い小机衆と玉縄衆は急峻な山を下り黒駒の狭隘な谷間で鳥居元忠公の急襲を受け壊滅、殿軍(しんがり)を務めたと思われる玉縄衆の付家老である間宮家を継承していた間宮康信公が討ち死にする等大損害を受けた。
尚、間宮康信公は当時、父の間宮康俊公の跡を継ぎ笹下城(横浜市港南区)の城主に就いていたと思われるが武田信玄の存命中に駿河東部で当時の寄親である玉縄城主北条綱成公が深沢城(静岡県御殿場市)の守備も兼務したいた時代に、間宮康信公が率いる黄備え隊の分隊は武田軍を駆逐して追撃壊滅させる大活躍をしています。
代替わりした大将が実力不足だと河越城防衛で活躍した白備え隊も黄備え隊も軍団の実力を発揮出来なかった様です。
【歴代城代】
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。

【小机衆寄子】
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。
領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
●福田    ・・・領地は都筑区大熊町。
●高田 玄蕃助・・・領地は川崎市宮前区中部~西部一帯。

他にも小机衆は沢山居て切りが有りませんが主だった人達は又おいおい追記しようとおもいます。
どうですか?小机城と小机城に関わった人々、皆さんの地元が関わりの有る武将も多かったんじゃないでしょうか?
又、こんな感じで北条家の各軍団と皆さんの地元の御縁を紹介して行けたら良いなぁ~と思います。

では!、又この記事の小机衆の名簿更新と新しい別の記事で御会いしましょう!

北条泰時公を御存知ですか?
その北条泰時公の開基(かいき:建設する事)した常楽寺と言う名寺が鎌倉市大船に在(あ)ります。
現代では余り有名とは言えませんが、由緒正しい御寺なんですね。
しかも中国大陸の仏教寺院と開基以来、今でも縁があるんです。

もっとも…
私達日本人にとって明朝を受け継いだ正統な華人文化国は台湾なんですが。

御寺の在る「大船(おおふな)」の地名は元は「粟船(あわふね」と言い、平安時代には海面が今よりも高く、鎌倉市大船を流れる柏尾川が今よりも深かったので海からの輸送船の往来が有ったそうです。
戦国時代でも付近の玉縄城は輸送船が城下のお堀まで入って来ており、造船集団がいた事に由来します。

さて…
常楽寺は今でも立派な山門(さんもん:御寺の門)と御堂、泰時公の御廟所もあります。
北条泰時公は"義務教育で必ず習う人物"です。
…もし御知り合いが知らないなら「中学生の時、授業中に寝てたでしょ?」とツッコミ入れて下さい(笑)。

さて、北条泰時公は、源頼朝公の奥さん北条政子さんのお兄さんの北条義時さんと離婚した奥さんとの間に産まれた御長男で、頼朝公に外甥っ子として幼少の頃は大変に可愛がられた人物だったそうです。
ですから最初の名前は叔父で主君に当たる頼朝公より一字拝領し「頼時」でした。
大人に成ってからは鎌倉幕府三代目の執権として清廉潔白な人柄で善政を行い武士達から慕われていました。
しかしながら父親の北条義時は謀略家で幕府内の同僚達を次々と奸計(かんけい:汚い謀略)により排除して行く過程で当然、泰時公も作戦に参加していました。
その為か、父親が主家に当たる源氏を滅ぼすと名前も「泰時」と改めてさせられたようです。

もっとも、源氏より関東にいち早く根付いた"平氏の出身の鎌倉武士達"の視点では鎌倉幕府は「皇族出身武士による共和政権」で「源氏の家臣ではなく協力者」と言う観念を持っていたそうです。
この事は平良文公の御子孫で坂東武者の代表格の鎌倉景政公が祀られている御霊神社の方がおっしゃっていましたし、歴史の推移を見るに実際、鎌倉武士達の頼朝公への関わり方は実際そのような形だったので納得出来ます。

本来の武士は政治信条や信仰による己の思想を大事にし、誰と組むか誰と戦うか、都度(つど:毎回)、考えるものですからね。
保元の乱も平治の乱も武士達は正に己の思想に従い親兄弟に各家で別れ戦い合いましたし。

儒教を導入し独裁政治を行おうとした節がある源氏側に非がない訳とも言い切れませんね。
源頼家公しかり。

歴史は勝者のみ記録出来ます。
ですから吾妻鏡は当然、北条氏側の観点で書かれてると思います。
泰時公の人格の逸話の多くは、北条氏の制圧した鎌倉幕府側の書いた吾妻鏡の中の記載です。
しかし、泰時公が人格や能力から武士達から絶大に支持されていた事は事実でしょう。
でなければ、その後、藤原氏に朝敵にされた幕府軍を統率出来なかったでしょうね。

泰時公の活躍された時代に「承久の乱」と言う事件が起きました。
承久の乱は、鎌倉幕府成立以前に貴族の藤原一族が独占していた権利を、鎌倉幕府から奪い返そうと藤原氏が傀儡の天皇を利用し起こした政変に対し、醍醐天皇以来の悲願で全国の皇族臣籍降下武士達が協力して打ち立てたた鎌倉幕府側が逆襲し京都に攻め上がり朝敵扱いから大逆転した事件でした。

泰時公は教科書で誰しもが習う「御成敗式目」を制定したり法治主義により鎌倉幕府を運営されました。
その統治能力と裁判官としの実績と軍才が今日でも評価されているんですね。

さて、常楽寺の話に戻ります。

常楽寺は泰時公の開基ですが、実は非常に中国と所縁(ゆかり)がある御寺でして、中国の高僧の方が最初の御住職でした。
四川省出身の蘭渓道隆と言う方です。
当時の中国大陸は「南宋(なんそう)」と呼ばれた国家で、まだ中国が外国人に征服される前で本来の華人文化が残っていました。
しかし当時すでにモンゴル帝国が「宋」の北部を侵略し始めており、鎌倉幕府はその宋の文化人の亡命者達を多く受け入れ保護していました。
中華民国を作った孫文先生を保護した明治政府に関係が似ていますね。
さて、蘭渓道隆和尚も宋から日本に渡って来られた方でした。

この常楽寺の宗派の臨済宗は一番偉い御寺が鎌倉五山の一つの建長寺(けんちょうじ)なのですが、蘭渓道隆和尚は建長寺の御住職も務められていた経緯で、本山と末寺の立場的な問題から常楽寺の開山(かいざん:最初の住職)は退耕行勇和尚とされています。
いずれにせよ蘭渓道隆和尚と退耕行勇和尚と北条泰時公の三者がいらっしゃった御蔭(おかげ)ではじめて御寺が成立したので皆様等しく御寺にとっては大切な方ですね。
ちなみに建長寺は「けんちん汁」の発祥地です。

さて、蘭渓道隆和尚のいらっしゃった頃の日本は、漸(ようや)く武士文化と言う完全独自の文化を持ち始めたばかりなの頃で、まだまだ一般人の識字率低かった時代でした。
そんな時期の日本にはるばるいらっしゃって、仏教文化を通じて日本人の識字率や文化度の向上に貢献して下さったんですね。
何だか鑑真和尚の逸話に似ています。
鑑真和尚の時代、仏教の伝来は日本の建築技術の飛躍的な向上をもたらしました。

確かに独自の神道と言う宗教とは異なりましたが、儒教や基督(キリスト)教と異なり神道を尊重し相互の良い部分を融合させ日本に定着しました。
仏教が攻撃的な宗教で無かった事や、仏教自体が多神教で日本に伝来する過程でヒンドゥー教や中国道教と融合し多様性に寛容な多神教でしたので、多様性を良しとする神道の価値観を持つ日本人に受け入れられ易(やす)かったのかも知れませんね。
近年でも常楽寺と中国の関わりが有りました。
以下は現御住職から聞いたお話しです。
中国が日本と国交正常化して暫くし中国の経済発展が始まった頃、常楽寺に知らない中国人僧侶が突然通訳を伴って来られたそうです。
当時のアメリカ大統領がパパブッシュだった頃だそうです。
その僧侶がおもむろに庭作業中の御住職に中国から来た経緯を通訳を介して話しだしたそうです。
実はこの中国人僧侶は蘭渓道隆和尚の中国時代の御寺の現代の高僧でしが、当時御住職は最初わからなかったそうです(笑)。
相手も蘭渓道隆和尚の開山された常楽寺の御住職が、まさか庭作業なんぞするわけないないと思い最初は御住職を下っ端の僧侶と勘違いしたそうです。
よくよく話を聞いて、お互いの立場がわかると相手は蘭渓道隆和尚の足跡を辿り中国の御寺の記録を頼りに鎌倉市の常楽寺を訪ねて来られたそうです。
そして常楽寺と建長寺に、中国で廃寺に成っている蘭渓道隆和尚と所縁が有った寺院の再興式典に参加を要請に来られたそうです。
改革解放前の中国共産党は文化大革命により仏教を含めた全ての宗派を弾圧しましたからね。
改革解放が始まり漸く宗教活動が大々的に出来るように成った頃ですね。
常楽寺の御住職は要請に応じ、その後、船便で届いた招待状を手に上海に行くと日本の蘭渓道隆和尚と所縁のある御寺の和尚様達と共に国賓待遇で迎えられたそうです。

そうやって蘭渓道隆和尚の御縁で結ばれた中国と常楽寺(日本)の縁でしたが、御住職は最近、中国に対して気持ちは複雑だそうです。

実は小生も中国に留学していましたが、最近の習近平政権の排日政策と日本人差別に嫌気がさしてます。
小生は三国志好きで中国人の友達いますが今は中国に行く気には余り成りません。
商業工業で中国に拠点を持つのもお勧め出来ません。
韓国と中国とは国として政府間交流は挨拶するだけの苦手な隣人くらいの距離の取り方が無難だとも考える程です。
本当に行く必要のある家族が相手国にいる人と、相手の文化を尊重出来る人だけが往来すれば良いと思います。
中国人との関わりは個人単位で誰と付き合うかが大切ですから。
中国人にもモラルの高い階層は文化大革命を経ても生き残っています。

習近平政権は日本人排斥と日本企業弾圧しようとしていますが、宗教も弾圧し始めていますね。
何だか文化大革命の頃に逆行したいみたいだと感じてしまいます。
蘭渓道隆和尚の頃の中国人の面影は、もはや大陸には価値観として余り残って無いのかも知れません。

北条泰時公と蘭渓道隆和尚と常楽寺を通じてモンゴル帝国に征服される前と後の中国人についても考えさせられ、その当時の蘭渓道隆和尚達、南宋亡命者の文化人達の情報により鎌倉幕府が元との対決を決めたのだろうなと…

ただ日本人は忘れないでおきましょう。
蘭渓道隆和尚の様に、日本の為に貢献して下さった華人がかつていらっしゃった事を。
正統な華人文化を受け継いだ台湾と、一部の高文化階層の親日派大陸人は大切にしましょう。
鑑真和尚や蘭渓道隆和尚の為に。
和魂漢才を唱えた菅原道真公の天神様を祀る日本人として。
神道と仏教の融合した八幡神を信仰した鎌倉武士達の意思を引き継ぎ。

最後に北条泰時公の御廟所前の説明石碑と鎌倉武士も見ていた今日の富士山の写真を載せます。
お墓の写真は失礼に当たるので掲載しません。
皆様、御自分で足を運ばれてみて下さい。

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