歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:北条氏康

江島神社=江ノ島弁才天
(式外社・日本三大弁財天・天皇勅願所の洞窟と鎌倉武士の聖地)
児玉神社
(初代台湾総督児玉大将を祀る台湾の人々が開いた神社)
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  御祭神・御本尊等:八臂弁財天(はっぴべんざいてん)・多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)・児玉源太郎大将
  御利益:戦勝・敵人懲服・立身出世・財運向上・芸能向上・縁結び 
  関係者:
  開基:欽明天皇
  中興:修験者      役 小角
     弘法大師      空海  和尚
     修験者 神融禅師   泰澄
     慈覚大師    円仁    和尚
     比叡山五代院  安然 阿闍梨
     征夷大将軍   源    頼朝 公
     征夷大将軍   源 實朝 公
     皇家護持僧  道智  大僧正
     証誠大師   一遍      上人
     立正大師     日蓮      和尚
     鎌倉府公方    足利 成氏 公
     相模守      北条 氏康 公
     北条家臣 岩本間宮 定次 公 以下江島別当岩本坊間宮家歴代(現:岩本楼)
  旧郡名:鎌倉郡(戦国時代:中郡)
  所在地:江島神社・・・藤沢市江の島全部が本来の江島神社聖域
  所在地:稚児ヵ淵・・・歌舞伎白浪五人男の弁天小僧の舞台、洞窟は天皇家の祈願所聖地
  所在地:児玉神社・・・児玉源太郎大将を慕う台湾の人々が建てた神社
  所在地:岩本楼・・・元は江の島の聖地の洞窟と江島神社を管理した真言宗修験道岩本坊が前身
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。 参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)で元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。その別当職を務めたのが 社長の家の御先祖、宇多源氏佐々木家諸流の間宮一族、岩本家だった。
頼朝公が戦勝祈願に岩屋に参篭された後に社殿と銅製鳥居が寄進され神社として整備された。江の島の岩屋で御神体とされたのは八臂弁財天で江島神社と岩本楼にそれぞれ御祀りされていた仏像が現存する。戦国時代には日本有数の大合戦で戦勝の御利益を発揮されてる。鎌倉公方足利成氏公と北関東の鎌倉公方軍が江ノ島に籠城し、反逆した関東管領山内上杉家と扇谷上杉家の連合軍の大軍勢と戦い、見事に足利成氏公に不利な戦を勝利させている。その後も❝日本三大奇襲戦❞の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万余りの上杉家連合軍の大軍相手に勝利を治めている。
江戸時代には徳川幕府から保護を受けただけでなく富士山詣で、大山詣り、杉田梅林等と並び江戸市民の人気の観光地として栄え歌舞伎の演目の白浪五人男の❝辨天娘女男白浪❞のモデルにも成った。
明治時代には、この江の島に児玉源太郎陸軍大将が逗留され軍事作戦を練られて、ロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
現在は女性の縁結びの神様としても有名で江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 他所の弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されているが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれ落城した歴史が有るから? 
弁天様について解説すれば本来、弁天様はインド神話のヒンドゥー教由来の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天/大黒天に習合された神様)の後妻であり多くの男神様から求婚されたモテモテの神様だったので女性にとっては心強い縁結びが期待出来るのは当然だろう。
明治時代には江ノ島に福沢諭吉先生、伊藤博文公、児玉源太郎大将や早川雪舟(日本人初のハリウッド俳優)も宿泊しており江ノ島の御利益を代弁する様な偉業を成し遂げている。
他にも俳画会を形成した文化人、間宮霞軒先生等を江ノ島から輩出している。
※北条氏康公と間宮家が活躍した河越夜戦解説の記事リンク
→杉田玄白と間宮林蔵の祖先、笹下城主間宮家の事績。

江の島に行ったら現代の名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?昔からの名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)と江ノ島丼も美味。 

前回の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←コレの続き・・・

大永峯嗣法山傳心寺・・・と言っても現代では判る人は少ないでしょうか?
もし新編武蔵風土記稿で久良岐郡の金沢領の項目を読んだ事が有る人なら「あ~!」と思い出す人もいると思います。
さて、この大永峯嗣法山傳心寺と明治時代以前まで正しい名前が伝わっていた御寺も、明治や戦後の宗教改革を経て寺院名は簡略化されて現代では昔とは大分異なっています。
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嗣法山 伝心寺(正式には大永峯嗣法山傳心寺)
さて、この御寺は❝北条氏繁公が開基(かいき=新設)したと❞神奈川県教育委員会や金沢区観光協会が間違った歴史を紹介しており、その事は前回の記事で書いた磯子区の龍珠院の伝承の勘違いと全く同じ❝文献の未確認❞❝歴史人物と伝承の生年の整合性の未確認❞と言う❝初歩的なミスを神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の誰かサン❞が犯して適当な仕事のまま伝心寺サンや金沢区観光協会に報告してしまったので❝公式❞に歴史が誤認されてしまっている様です。
少し前回の龍珠院の記事と被りますが、何故、この伝心寺が北条氏繁公の開基と言うのは有り得ない事かを説明させて貰います。
前回龍珠院の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←クリックで読めます。
さて、新編武蔵風土記稿には旧北条家臣間宮家の子孫で東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務め地誌編纂で多大な功績を残した間宮士信(ことのぶ)サンが伝心寺について以下の記載をしています。

~前略~
禪宗曹洞派相模國小田原香雲寺の末(すえ=末寺)、大永峯嗣法山と號(号)す本堂はなく本尊釈迦の坐(座)像は假(仮)堂に置(おけ)り、開山養拙宗牧、開基は北条左京大夫氏直、大永元年(1521年)の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず、
~以下省略~
因(ちな)みに江戸時代にも既に御寺を開いた人物についての認識に混乱が有った様で、どうも伝心寺の御住職は歴代伝える文書は無く口伝が中心だった用です。そして昭和に成ってからの御住職様は新編武蔵風土記稿も読んでらっしゃらなかったみたいですね~。御寺の復興に忙しかったんでしょうね。
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※伝心寺の参道、昔はこの辺りから御寺だった様です。道路の配置から一目瞭然。
まぁ、ちゃんと北条氏繁公や北条氏直公の誕生日を知っていればコンナ初歩のミスを犯さないんですが、何で歴代の和尚さんに御寺を開き寺領を与えて下さった大恩有る開基の御殿様の御名がちゃんと伝わらなかったか新編武蔵風土記稿の文中にヒントが有りましたね…

まず①で現代では簡略化され誤って伝えられている御寺の正式名称と字体が解ります。

そして伝承が正しく伝わらなかった原因が②に有ります。小生の推測では恐らく戦国時代末期に房総の里見家の海賊行為で御堂ごと焼け消失、江戸時代にも本堂は再建されずにいたから御寺その物が荒廃していたのでしょう。その為(ため)に造営から数年後には記録文書が消滅したと推測出来ますが、その原因と成ったであろう合戦の候補は二つ有ります。
●1つ目、永正十五年(1518年)八月二十七日に起きた三浦半島(横須賀市域)走水合戦
北条家臣で後の玉縄城主北条綱成公の付家老と成る前の時代の間宮家が単独で里見家を横須賀市走水で迎撃して殲滅した戦いです。この合戦では間宮家が水軍率いて横須賀市域で里見海賊を迎撃、特に活躍したのが走水を死守玉砕した間宮分家の杉田間宮家初代当主、間宮常信公でした。常信公は官途を兵庫頭(ひょうごのかみ)と名乗り、この合戦では海賊の大将の植松筑前守を討ち取った上に敵軍船14艘を奪い取った記録が残っています。間宮家は勝利したものの残念ながら間宮常信公は34歳の若さで戦死されその戦功が記録されています。常信公の菩提寺は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
妙法寺の記事は→妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。←クリック!
・・・結論から言うと時代が合わない。なのでこの合戦では有りません。が!いつの時代も役所の役人と言うのは適当な仕事をする奴もいれば真面目な人もいると言うのが判る一例として晒(さら)し上げの代りに誤記だらけの内容を解説して置きましょう。
先ず、この記録が登場するのは寛政重修諸家譜と新編武蔵風土記稿と言う文献ですが、寛政重修諸家譜に関しては近代若しくは昭和期の国家公務員か出版社の人間が適当な仕事をして永正を天正と誤記しています。これは江戸時代の文書から活版印刷に文字を起こす際に起きたミスでしょう。
更には新編武蔵風土記稿でも間宮家の子孫である間宮士信サンが❝間宮常信❞と書いている御殿様の名前を江戸幕府の馬鹿役人は❝間宮信常❞と誤記しています。
更に平成の世と成った現代でも間宮常信の事に関して適当な事を執筆して本にしているNHK歴史解説員と研究家である事を誇張してWikipediaでツラツラと書いて有るガクシャの人がいるのですが、文献の内容の事実確認をされない上に御子孫への取材をする事も無く上記2つのミスをコピペして出版している本に事実誤認や誤記を丸写ししていたりします(笑)。
酷いですよね、いつの時代も❝適当な仕事をする部類の人種❞って。

2つ目、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦
この合戦では恐らく、三浦半島と現在の横浜市域が里見家と正木家の軍隊と海賊に略奪されつくされ鎌倉市街地域に至っては放火され鶴岡八幡宮まで焼失してしまいました。
恐らく町屋地区も略奪放火され六浦から朝比奈峠を越えて里見の海賊は鎌倉市街に乱入し、正木の海賊は城ヶ島方面から北上して鎌倉に侵入したのでしょう。里見家も走水や金沢八景や杉田方面の各所から侵入を試みた様で、杉田に有る源頼朝公が開いた元は修験道の大本山だった熊野神社=大霊山泉蔵院桐谷寺も略奪に遭っています。
泉蔵院(熊野神社)の記事→横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。←クリック!
この鶴岡八幡宮合戦での略奪放火で八幡様が焼失した事件は北条家のみならず北条家と敵対していた小弓公方足利義明や関東武士団にとって文化的精神的なダメージと成る大事件で、里見家は失火の原因の責任から内紛が起こり、北条派の里見義尭(よしたか)が当主に成る程でした。
この際の鶴岡八幡宮と鎌倉市街地の再建事業では横浜の3人の殿様が活躍しているのを間宮家の事績解説で紹介しているので興味が有る人は御覧下さい。
鶴岡八幡宮再建事業関連記事→間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリック!
※余談ですが、間宮家の事績はこの文章を叩き台にして何れ書籍化する予定では有りますが調べ物増えすぎてブログとシェイプアップと銀の指輪造りと季節の散歩と合わせて予定が伸びに伸びて未定です(笑)!
さて小生の推測、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦で里見家の乱入が有った際に御寺も燃やされたので伝心寺は荒廃し書物も御堂も火事で無くなり御本尊の釈迦牟尼仏様だけが難を逃れていた事が皆さんにも「久良岐のよしの言ってる事は整合性有りそうだな?」と御納得頂けたかと思います。
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では新編武蔵風土記稿の伝心寺の解説の③と④ですが、もうそのままですね。
開基は北条左京大夫氏直、大永元年の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず
江戸時代には恐らく御寺を開いた殿様の名前が❝北条左京太夫(さきょうだいぶ)❞とだけ伝わっていたのでしょう、だから江戸時代の御住職が前代には御寺の歴史の引き継ぎが廃れていたのを何かの文献を読んで「あ!北条左京大夫って北条氏直公の事なのね?」と間違った解釈をして以後~明治まで御寺の歴史として伝わっていたんでしょう。しかし左京大夫は北条家歴代の殿様が名乗った官職名でした。
実は❝五位、左京大夫❞と言うのは元々は北条家の傘下の小大名で北条家より家格の高い蒔田吉良家の殿様の歴代が名乗った官途です。蒔田吉良政忠公の代まで左京大夫でした。しかし蒔田吉良家に北条家の姫君が嫁ぎ、吉良成高公や吉良頼康の代に成ると鎌倉公方の代理を務める様に成り官位も❝四位、左衛門佐(さえもんのすけ)❞に上がったので、その際に北条家に左京大夫の官職が譲られたのでしょう。
北条氏綱公
2代目の北条氏綱公の先代の初代北条早雲公は実は生前に北条姓を名乗っていませんでした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
それどころか早雲公の代までは伊勢姓で伊勢盛時と名乗り僧籍に入ってからは伊勢宗瑞となのっていらっしゃったので官職も左京大夫ではなかった筈です。
ですから蒔田吉良成高公が初代鎌倉公方代理だとすれば正に北条氏綱公の世代に当たるので、北条家初代の左京大夫を名乗った殿様は北条氏綱公と成り、伝心寺が開かれた大永元年(1521年)ともドンピシャで整合性が有る訳です。
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さて、これで取り合えず❝傳❞心寺を開いたのが北条氏綱公が有力で有る事が解ったかと思います。
では、何故(なぜ)現代、この御寺が「玉縄北条家の北条氏繁公が開いた」と誤った伝承を現在の御住職様も伝えているのでしょう?これは一つは先代の御住職の頃の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の責任です。素人(シロウト)歴史オタクの小生でも調べられる程度の事すらちゃんと調べずに御寺に嘘を教えたんでしょうね。
そして御寺に伝わっていた❝歴史事実はこれだけ❞だと思います・・・
「玉縄北条家の殿様の菩提寺である、でも誰か今では解らない」
・・・と。
これは他宗派の真言宗で、伝心寺の直ぐ近くに在る龍華華サンが成り歴史を紐解くヒントに成りそうです。
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知足山 彌勒院 龍華寺
龍華寺を紹介したブログ開始初期の拙い記事→龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。←クリック!
龍華寺に関しては関連記事も有ります
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。←クリック!
→休日雑記 2017年06月10の訪問先・・・【金沢区】上行寺~上行寺東遺跡(浄願寺跡)~伊藤博文金沢別邸~野島公園キャンプ場~野島稲荷神社←クリック!

・・・実はこの龍華寺は北条家の本拠地小田原城の前の城主の大森家の遺児が戦国時代初期に住職を務めていました。この御寺は扇谷上杉家と関係が非常に深く、大森家は扇谷上杉家の与力大名でしたし、同じく関東最強の無敗の軍師で築城の名手だった太田道灌公も扇谷上杉家の直臣で家宰(主将代理)でした。
太田道灌公
室町時代の太田道灌公と菅原道真公の御子孫の菅原朝臣(すがわらのあそん=菅原氏)中務丞の菅野資方(すけかた)公が御一緒に、鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が新田義貞による鎌倉幕府討伐の戦火で略奪放火され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、復興された御寺が龍華寺で、江戸時代には龍源寺と呼ばれていました。
この龍源寺を道灌公と一緒に復興した菅野さんは今の東京都の浅草辺りに住んでいた道灌公の与力武将でした。
先に伝心寺は里見家が鶴岡八幡宮同様に放火略奪した可能性が有る事を指摘しましたが、ちょうど大森家の遺児が龍華寺に居たのはその時代の話です。
鶴岡八幡宮再建事業の頃、玉縄城主は北条為昌公でした。北条家3代目当主の北条氏康公の実弟ですが、どうも小生の見立てでは自分の家来や他勢力と共謀して実兄を差し置いて跡継ぎに成ろうとした形跡が残っている人物です。
鶴岡八幡宮再建では為昌公は鎌倉の玉縄城主だった事も有り、鶴岡八幡宮再建に携(たずさ)わる人々と緊密に成る機会が有ったのですが、当時のこんな話が有ります「氏康公はアホだから、弟が跡継いだ方が良い」と噂が広められていたようです。
実は北条為昌公は烏帽子親や後見人が北条家初期の重臣であった笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公でした。この二人から名前を一字づつ貰って成人した事が解ります。そんな為昌公と鶴岡八幡宮再建で親密だったと推測出来るのが大道寺・笠原の他に❝神保輝廣❞公でした。この神保輝廣公、苗字が違うので歴史学者でも知らない人が多いのですが、実は北条早雲公の実子で2代当主北条氏綱公の実弟であり鶴岡八幡宮再建では檜皮奉行や財経担当として再建に携わっていたので北条為昌公を可愛がる動機が十分に有りました。
当時、北条氏康公は後の織田信長公の若い頃同様に評判が悪く奇行が多かったそうです。
北条氏康
※北条氏康公:KOEI信長の野望大志よりは画像拝借
そんな事も有り中の良かった人達だけで勝手に氏康公を廃嫡しよう等と言う協議がされたかも知れません、しかも敵方の小弓公方足利義明や里見家と結託した上で。
龍華寺の記録では北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している文書が紹介されています。
先に説明しましたが、北条早雲公の生前の名は北条姓ではありません。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代で、統治が安定して龍華寺に寺領保証の朱印を発給出来た人物は北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だと解ります。
さて、玉縄城主だった人物が、兄の北条氏康公を差し置いて三代目当主に成ろうとした動きが後の玉縄城主北条綱成公と俗説では混濁されています。
北条綱成
これは有り得ない事で、北条綱成公は養子なので実子を差し置いて跡継ぎに成る権利は有り得ません。
これは恐らく同じ玉縄城主でも先代の北条為昌公の話が玉縄城主として余りにも有名な北条綱成公と混濁され誤認された事が推測出来ます。
北条為昌公は烏帽子親が筆頭家老の大道寺盛昌公、名を同じく筆頭格の重臣である笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公から貰っているので、人脈的にも後ろ盾に成る人物がいて嫡男:氏康公の廃嫡を画策出来るのは彼以外におらず、更に1530年代後半に行われた鶴岡八幡宮再建では北条一族で伯父の神保輝廣公が買い会計関連と屋根に使う檜皮の調達と施工管理の奉行として頻繁に玉縄城近くの鶴岡八幡宮に出入りしていたので神保輝廣公とも兄の北条氏康公廃嫡の謀議を重ねれる状況に在(あ)りました。
小生はこの為昌公の菩提寺が、伝心寺なのだと推測しています。
実際に為昌公は1539年~公文書に登場しなく成り1542年に23歳の若さで亡くなっているのも1541年に北条氏綱公が没して後に兄の北条氏康公が跡を継いだ際に誅殺されたか自害したのかも知れませんね。
そして北条家所縁の傳心寺に葬られたのが、末寺の龍珠院開基の北条氏繁公の話とごちゃ混ぜに成り江戸時代以降に誤伝したのだろうと解る。
江戸時代の北条氏直公説なんぞ間宮士信サンが解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻すと・・・。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成ります。
玉縄城主が開基したと伝わるならば、当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している訳です。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろう事が判明します。
神保輝廣公も小田原所領役帳が編纂された1559年当時には北条一門なのに84貫32文と異常に低い中級武士待遇扱いをされている事が解り、これももしかしたら為昌公の陰謀に加担した懲罰としか思えない状況が有ります。為昌公の次の玉縄城主と成った北条綱成公は1370貫612文。
神保輝廣公と北条綱成公の所得を比較すれば、明らかに神保輝廣公が冷遇されており何某かの懲罰を受けて減封されている事が読み解ける訳です。
余談ですが伝心寺を開いたとか御廟所が有ると誤伝した北条氏繁公の菩提寺は鎌倉市玉縄の玉縄城下の龍寶寺で、氏繁公の母の大頂院様の菩提寺は鎌倉市大船の大長寺(大頂寺)で、子の北条繁廣公も大長寺にて菩提が守られている。
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※傳心禅寺、真新しい扁額にはちゃんとした字体で傳心寺の禅寺としての寺号が刻まれている。
さて、ここまで読んで頂けた人には少しは小生の説・・・
1伝心寺を開いたのは北条氏綱公
2伝心寺で菩提を弔われているのは北条為昌公
3北条氏康公を廃嫡させ三代目北条家当主と成ろうとしたのは北条為昌公
・・・この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測を納得頂けたんじゃないでしょうか?
更に伊勢原市の龍散寺の記事と丸々被(かぶ)りますが書き並べます。

❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、「嫡男の北条氏康公がアホ」等と敵と組んだり家臣団を分断してまでプロパガンダをやらかしたならば当然、犯人が北条氏綱公にバレて為昌公に懲罰を与える際は自分の所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈ですよね。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判ります。
そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不可解に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしています。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれるます。
ならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかありません。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然に成ります。
しかもソレは・・・
父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳です。
恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺でしょう。
そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?
・・・と小生は推測する訳です、その様に推測する理由もちゃんと有る。
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅しています。何らかの理由で没収されている事が解る訳です。
そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有ります。
この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解ります。余談ですが小田原北条家の直臣で玉縄北条家の付家老を務めた間宮家も入間郡の坂戸市戸宮に領地を持っていました。
つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳です。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけですからね。
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伝心寺の屋根や窓ガラスには北条家から下賜された北条家の家紋の三鱗紋が寺紋として装飾されています。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳ですが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全な訳です。その間に仏門に入り僧侶として修行して反省させたのかも知れませんね。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。
年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能する。
邪魔な為昌公は自害させられたか誅殺されたのでしょう。伝心寺で蟄居させられ仏門に入っていたのならば、ここに眠っているのが為昌公であり玉縄城主だったので末寺の龍珠院を支援した氏繁公と勘違いされた事も納得が行きますよね?

叔父上の神保輝廣公は氏康公廃嫡と為昌公の嫡子推薦を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介しています。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い訳です。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
そして鎌倉市と横浜市の金沢区と磯子区と港南区の歴史も繋がる訳です。
余談ですが、神保輝廣公の菩提寺は伊勢原市の龍散寺です。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりします。でも早雲公の御位牌、小田原城に貸し出した際に教育委員会が破損させたので、「もう外部には貸し出したくない」って副住職様が仰ってました。
・・・お~い神奈川県教育委員会、不真面目な奴はさっさと止めて、真面目で現場で頑張ってる教育者や学芸員が出世出来る仕組みにサッサと改革しろや!みたいな風に一般人として思う事件ですね。

さて、同じ曹洞宗の伊勢原市龍散寺、横浜市磯子区龍珠院、そして金沢区の龍華寺と傳心寺の歴史が繋がった所で、北条氏繁公と間違われている為昌公と思われる人物の御墓の場所ですが…
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・・・今では歴代住職の御墓の中でどれか解らないみたいです。
小生の推測通り龍珠院に蟄居させられて僧侶に成っていたのなら歴代住職の御廟所に御墓が在るのも納得が行きますよね?
でも背後の墓石、これ間違いなく室町時代の頃に多い御墓の様式なんですよ~。正面の立派な墓石は代表した供養塔ですね。
この記事を書くために改めて写真の撮影に伝心寺を再訪した時は二月初旬でした。
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梅が咲き始めた頃で境内にもとても綺麗な梅花が開いて心を癒してくれました。

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横浜市には伝心寺と龍珠院、そして港北区の泉谷寺、3つも戦国時代の関東で一番❝侵略❞と❝善政❞に長けた名将の北条氏綱公が関わった御寺が有ります。
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庫裡では御朱印も頂けますよ~。
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きっと皆さんの御近所にも今は規模は大きく無くても本来は凄い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れません、御散歩した山や公園が実はそんな神社仏閣に関わった歴史偉人の御城の跡かも知れません。
少し歩いて御寺や神社の説明や、屋根の瓦の模様を見て見ると、途端に過去の歴史偉人とその場所が皆さんを繋ぐタイムカプセルに成るんですよ!
・・・さあ、天気が良くて気分転換したければ、御近所を散歩してみませんか?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
次いつ更新するかは解りませんが(笑)!
肉体改造、四月一杯で形に成りそうです。少しだけ玉縄北条家と間宮家と太田道灌公と蒔田吉良家と宅間上杉家の殿様の顕彰文の原稿書くのとブログ更新のペース遅くなるの、猶予下さいね~。

んじゃ!

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









小田原北条五代祭り 公式様より拝借 久良岐のよし

神奈川県で日本最大級の武者行列の御祭が毎年行われているのを御存知でしょうか?
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戦国時代の関東の覇者、小田原城主北条家を顕彰する御祭りが毎年05月03日に開催されています。
この御祭の凄い所は、武者行列の数がとにかく多い事、そして実際の城跡で行われる事、極めつけは戦国時代当時の軍団編成と同じく各地方から各軍団の顕彰会が文字通り“手勢” を率いて行われる所だんです。
つまり小田原市単独では無く、鉢形衆、八王子衆、玉縄衆、津久井衆等の北条家の主戦力部隊が勢ぞろいする御祭りなんです。
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良く判らん普通のオッサンも歩いていたりします(笑)。

昨年までは席が無かったのですが、今年からは当日席のみで500円で大迫力の武者隊の出陣式を見学する為に観覧席が設けられているそうです!
ですから、今回掲載している小生の写真よりも、更に北条家の大軍勢をいっぺんに見渡せるそうです。

この小田原城址は明治期に徹底的に破壊され、昭和にも歴史知識の無かった政治家主導の観光用のハチャメチャな公園化が行われましたが、平成になり立派な城が復興されています。
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 写真の様に平成に入ってから発掘調査に基づいた江戸時代の建築復興が現在進行形で行われています。
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天守閣は鉄筋コンクリートですが、その背後の山には戦国時代の本丸や八幡曲輪の遺跡も発掘展示されていたりします。
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その辺りは以前書いた小田原城址の解説記事を御覧下さい。 
 2年前の記事→
ゴールデンウィーク、せっかくなので小田原に城に行ってみては如何でしょうか?
それともう一つ!
外郎(ういろう)は名古屋の名物と思っている人、多くないですか?
違います!
京都発祥、そして小田原の外郎(ういろう)家が本家で、元々天皇や朝廷貴族と室町幕府三代将軍足利義満公に薬師として仕えた外郎サンが、殿様達を接待する際に提供した御菓子が外郎なんですよ!
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ですから、本家本元の小田原の外郎サンは、北条早雲公に招聘されて戦国時代に京都から小田原に移住して以来ずっと今でも薬と御菓子の外郎を製造販売しています。
そして写真の建物は安土桃山時代に士分を捨てて薬一本を家業にした際に、天皇家から餞別として普通では庶民が許されない格の高い家柄しか作れない唐破風を多用した建築許可を頂いて以来、今でも伝統として天皇家の御好意を受け継いで唐破風を多用した建物を再建し続け店舗にしています。
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 包装用紙の五七桐紋も天皇家から下賜された物です。
解説記事→
あと、名物の曽我梅干しと蒲鉾、曽我梅林の梅酒も御勧めです!
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そして梅の季節には曽我梅林の梅が大変綺麗な街でもあります。
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皆さん、小田原は戦国武将の史跡と美味しい和菓子と魚と梅の有る素敵な街です。
箱根温泉も直ぐ近く!
5月3日、小田原北条五代祭り、是非!見学されては如何でしょうか?

【北条五代祭り】
開催地:小田原城とその周辺の城下町を武者行列パレード
日時 :2017年05月03日12:30~
住所 :〒250-0014 神奈川県小田原市城内地内城内5−3−22 
アクセス
小田原駅から徒歩10分
周辺に臨時駐車場多数。一般の有料駐車場の方が比較的空いていますのでナビを活用してみて下さい。
ホームページ
http://www.odawara-kankou.com/houjyou/ 

ブログネタ
今年のゴールデンウィーク、楽しみましたか? に参加中!
小田原城と言うお城が神奈川県小田原市にあります。
2015年05月03日に小田原城址公園で「小田原北条五代祭り」が開催されましたので、小田原城の解説と御祭りを紹介する記事とを書きたいと思います! 
※写真は小田原城復興天守閣
(注:復興天守なので鉄筋コンクリート製)
上の写真の様(よう)な建造物を「お城」と思い込んでる人もいますが、それは大きな誤りですよ〜!
写真の様なの様にそそり立つ建造物を「矢倉(やぐら)」と呼び、司令所の役割を果たす「本丸(ほんまる)」と呼ばれる場所に立つ物は特に「天守閣」と呼びます。
小田原城は戦国時代には既に、まだ珍しかった天守閣が有ったそうです。
しかも!
現在の小田原城址公園は戦国時代の小田原城域の「ほんの一部分」でしかありません。
北条家が治めていた当時は石垣城より殺傷能力の高い岩盤や土を削り出して建造する自然地形を利用した城塞で、守ると言うよりトラップだらけの「攻め手を如何(いか)になぶり殺す罠にかけるか」に重点を置いた攻撃重視の施設群で構成されていました。
つまり戦国時代の小田原城は…
例えるならば「防御側スナイパーによる敵兵射殺を行いやすくする構造」と「敵兵が自滅して事故死する構造」が幾重にも設けられていた訳です。 

以前書いた「滝山城」と「小机城」と「茅ヶ崎城」の記事を見た方は御理解頂けますよね?
御参考までに…
⚫︎滝山城の記事→「ココ 」←クリック!
⚫︎小机城の記事→「ココ  」←クリック! 
⚫︎茅ヶ崎城記事→「ココ  」←クリック! 

戦国時代に圧倒的に不利な兵力差で何回も攻められても敵は城を落とせなかった訳ですが…
先ず認識して頂きたい事が一つ!
※1万を超えたら戦国時代では大軍です。
で、小田原城の堅城ぶりを示す具体例は以下の通り!
⚫︎VS上杉謙信&以下関東管領連合軍11万
 
北条家は11万超の大軍を有する上杉謙信から小田原城を1ヶ月守り通した上に、偽報を用いて関東管領軍の各大名の協調を崩し上杉謙信が撤退せざるを得ない状況を作り出し防衛に成功。
更に敵軍から失地回復に成功。
※上杉謙信関連の過去記事は以下
】←クリックで記事へリンク!
】←クリックで記事へリンク!

⚫︎VS武田信玄2万
※昔よく見たアレは畠山義綱と近年判明。
※近年では武田信玄の肖像画としてよくコレ↓が使われてます。 
武田信玄は2万超の大軍で八王子の北条氏照公の守る滝山城を攻撃するも落とせず、鎌倉の北条氏繁公の守る玉縄城は包囲しても玉縄城の堅城ぶりから撤退、小田原城に侵攻するも小田原北条家当主の北条氏康公の守る本城小田原城も当然ながら落とせず撤退。
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⚫︎VS豊臣秀吉軍(九州除く日本全土)20万
 
豊臣秀吉は20万の大軍を動員し、小田原城を本拠地にする北条家攻略軍を発する。
殆どの支城が無血降伏する中、落城せず頑強に豊臣軍に抵抗した成田長親と成田甲斐姫の物語、映画「のぼうの城」の 舞台の北条家臣成田家の忍城や…
北条氏規(うじのり)公の守る韮山城の攻防も本城小田原城の戦い並みに有名。
忍城では豊臣方石田三成軍28000vs北条方成田家3000で成田勢が防衛に成功。
韮山城では更に凄く豊臣方40000vs北条氏規公勢たった300で攻撃側を翻弄し防衛に成功している。
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更に本城の小田原城では秀吉軍20万を迎撃し、功を焦り攻め込んだ秀吉軍を痛撃し長期戦に持ち込んだ。
しかし重臣松田憲秀(のりひで)が裏切り内応しようとする事件が発覚すると北条家側に動揺が万延し、ついに降伏。
ただし、長期の籠城戦中、城に攻め込もうとした敵勢は全て返り討ちにしている。
因(ちな)みに、この戦国期の小田原城の縄張(なわば)り=城域は下の写真の茶色の線で区切られた広大な範囲でした。 
小田原城域 縄張り図 

…凄まじい範囲でしょう? 
東側は太平洋時戦争時の軍艦:酒匂の名前にも成った酒匂川(さかわがわ)近く久野川、西側は箱根温泉から注ぐ早川の急流を大外堀に、更に旧城下町を取り囲む長大な土塁と総掘(そうぼり)がそっくり後北条家の首府小田原を取り囲んでいました。 
当時の城下町は戦災の続いた京都から多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていたので、上杉謙信や武田信玄の攻撃を経験した小田原を市街地ごとソックリ守る戦国時代最大級の城塞へと小田原城は変貌していたんです。 
ですので、室町時代に移住してきた薬屋の中に、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんもいました。その外郎さんが高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の菓子の「ういろう」なんですね。 
その歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
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八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
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本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
image 

…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 

そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

さて、そんな小田原の城下町を守った総掘りですが、戦国期の総掘りと同じ時期に作られた大空堀の堀切(ほりきり=山伝いに敵が進入できないように尾根を切った空堀)が今も一部のこっています。 
今の神奈川県立小田原高等学校に行くと、その付近が戦国期の本丸と推定されている地域なのですが、そこから北西に徒歩2分くらいの距離に、当時の大空堀の一部が現存しているので撮影してきた写真をご覧ください。 
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この写真、戦国期掘り底から撮影したものです。 
つまり上杉謙信や武田信玄が攻めた頃の堀切ですね。 
あまり写真だと深さが解りませんでしょうか? 
今でのその深さは浅い場所で8、深い場所で10m以上ありますので、当時は空堀の深さは13〜15m前後はあったはずです。 
更によくみると「障子掘り」といわれる横移動出来なくするための形状の遺構の様なウネリも少し残っています。 
写真の部分はS字型にクランクが効いていますね。 
右上は昔は何らかの郭だったのだと思います。 

深さが解る写真を見てみましょう。 
撮影当日、たまたま地元の子供が散歩していました。 
小学校高学年くらいでしょうか? 
この子供と左手の切岸(きりぎし=人工的に作った崖地)を比較すれば、その深さが解りますよね。 
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現在でこそ樹木がしげっていますが、当時は土が剥き出しの壁面で、戦時には堀底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする仕掛けが設置され、空堀に水をぶちまけて泥壁にし敵の進入が不可能な状態にしてしまう訳です。

この付近には案内看板も沢山あり、戦国時代の縄張り図も掲示されています。 
まず県立小田原高等学校のある辺りに行ってください。
そうすると、付近に下の案内看板があります。
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小峰の大堀切と言うのが戦国時代の大空堀残存部分です。
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で、小田原高校が現在地と書いてある位置で、戦国時代に本丸が置かれた辺りに近い重要な場所だったのが解りますね。
写真真ん中辺りの「本曲輪(ほんくるわ)」と言うのが、つまり江戸時代の御城で言う所の天守閣や殿様の御殿が置かれる本丸に当たる施設があった所です。
戦国時代の小田原城の位置関係を現在の小田原城の本丸と比較するとこんな感じ…
大空堀位置
今の本丸は戦国時代は本丸ではなく、戦国時代はもっと山の上にあったんですよ。
すっごく、スンゴク!巨大な城域だったんです!

そして、この巨大な城郭の出入口が「大手門」と呼ばれる城門や、「虎口(こぐち)」と呼ばれる裏口です。
実は間もなく宅地開発で消滅する、北条時代の小田原城の虎口の「百姓曲輪(ひゃくしょうくるわ)」と言う史跡が幸運にも2015年05月03日の小田原城址祭りの日に消失前最後の状態を観察してこれたので、その百姓曲輪の構造を参考に虎口を解説したいと思います。
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。
百姓曲輪は今、発掘調査中で調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。
八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分に掘ってしまっています。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
「角馬出し」とは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。
城門に突入しようとする敵は、城門の前の「角馬出し」と呼ばれる防御構造に陣取る守備側の狙撃手から容赦無く鉄砲や弓矢で射殺されてしまう訳です。
そんな構造が良く解るのが、この「百姓曲輪」なんですね。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

…上杉謙信が攻めた時代の小田原城に話を戻します。

アホのwikipediaで小田原城の項目を編集した人間は蓮池門を上杉謙信軍の太田資正に破られ落城寸前なんて阿呆な事を書いていますが、蓮池門なんぞ当時一番外側の門を一つ破られただけ、言い換えると引き込んで殲滅出来る状態な上に、その先に幾重もの曲輪と殺人トラップが設置されていた訳で、落城とは程遠い状態だった事が解ります。
ですから、蓮池門の前で上杉謙信はわざわざ北条勢に対し余裕を誇示するパフォーマンに弁当を食べたなんて演技じみた事をする必要があった訳で、いずれにしても戦国期、総掘りがまだない小田原城も城塞部分の縄張りは鉄壁だった事を示している訳です。
では、その蓮池門を今の小田原市と小田原城址公園を基準に衛星写真と縄張り図で比較して解り易く特定してみましょう!
【縄張り図】
蓮池門縄張り図
【衛星写真】
蓮池門航空写真
さて、位置関係は解って貰えたでしょうか?
これを踏まえて、上杉謙信が攻めた頃の戦国期の小田原城の予想範囲の全体像を再度みて下さい。
初期小田原城予想範囲図
この赤線の範囲を上杉謙信軍11万が包囲した初期小田原城域と見積もっても、たかだか蓮池門一つ突破されただけで落城云々言うのは「片腹痛いわ!」と、思わず言いたくなりませんか?
この範囲を初期の小田原城の範囲と小生が仮定した根拠は、じつはこの範囲が一つの尾根で繋がってる連結部分だからです。
航空写真で見たうえで実際に徒歩と車を併用して見て回った上での予想です。

この蓮池門跡は今現在、幸田門跡と名を変え商店街の中に存在しています。
現地には今でも蓮池門の曲輪跡の土塁が保存されています。
下写真↓この場所です…城跡には見えないでしょうか?
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現在でこそ水掘りは埋め立てられてしまっていますが、ちゃんと一部でも保存しようと言う小田原市民の気概が素晴らしいですね。

門跡の内側から外側の進入口だった商店街を見ると今は平和な風景が…
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そんな幸田門=蓮池門跡には城ファン以外の人にも城跡の一部分だと解るよう現地には看板もあります。

…心無い人に一部引き裂かれてしまっていますが、なんとか読めます。
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まぁ、しかし、小田原城で防戦指揮を執った名将の北条氏康公は、何とか軍神とも呼ばれた上杉謙信を撤退させる事に成功したとは言え北条家の支配地域の被害は甚大でした。
鬼畜の上杉謙信は北条家の小田原城と支城(しじょう=本拠地に付属する各地域の支配拠点の城)の城下町を焼き払い、至る所の神社や御寺や農家や商家を略奪して回り婦女子を奴隷として連れ去り売買したり、上杉謙信と、後に同じ事をする武田信玄の暴虐により農民がいなくなり廃村寸前になる村が沢山出てしまいました。
この反省を踏まえ、小田原城は安土桃山時代のには幾度の改修を加えられ茶線で囲まれた範囲に拡大され城下町ごと堀と土塁で取り囲む↓この範囲に成った訳です。
小田原城域 縄張り図
その改修過程で中期に、先述の「百姓曲輪」のある丘陵が外側の守りとして拡張された総構えに成っていたのだと思います。
百姓曲輪は出撃も出来る虎口「角馬出し」を有しつつ、別ルートから内側に侵入した敵を迎撃する構造のある郭が有り、更にその「角馬出し」と「百姓曲輪」の間に土塁で城門跡と思しき幅の出入口が設けられていましたからね。
恐らく上杉軍の「略奪」や「人取(ひとど)り=民間人の大量拉致」を経験し、農民を守る為に農民の収容先として想定されて造られたから名前に「百姓曲輪」の名残があるのでは?と、推測しています。
更に武田信玄による農村焼き討ちや略奪も経験し、最終形態の「総構え」に成ったのだと思います。

で、その総構えの外側の防衛施設「総掘り」の規模が先に紹介した戦国時代当時は深さ15m以上傾斜角度60度以上あったであろう「小峰の大堀切」と同規模かそれ以上のものだった訳です。
※一応、小峰の大堀切↓画像
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さてさて、では、ここからは皆さんが想像する「御城らしい御城」の部分、現在の小田原城址公園=江戸時代の小田原城復興史跡を見学する際の小生の御勧め見学ルートを辿りながら、構造を解説して行きたいと思います!
御勧めのルートは、まず最初に先ほど説明した「蓮池門=幸田門跡」を見学コースのスタートとしたルートです。
①幸田門跡
  ↓
②銅門(戦国~江戸時代の城門復興史跡)
  ↓
③馬屋曲輪
  ↓
④馬出曲輪
  ↓
⑤二の丸~本丸への進入口
  ↓
⑥本丸と本丸の売店(笑)
  ↓
⑦天守閣
  ↓
⑧御米曲輪
  ↓
⑨車の人は二の丸方面から三の丸へ抜けて退場、戦国時代の城域を見学したい人と電車の人は御米曲輪側裏口から退場。

※位置関係は↓コンナ感じ
小田原城見学

見学に際し気をつけて頂きたいのは…
JR小田原駅からだと裏門、小田原城址公園の市営駐車場からだと城正面の最近架橋された歴史の無い赤い橋から入場してしまいますので、遠回りでもまずは「幸田門跡」に行ってみて下さい!
さもないと昭和の高度経済成長期に破壊された殺風景な城らしくないただの公園を散歩しているような印象を受けかねません!

幸田門跡は既に解説したので改めて説明の必要はありませんね。
では幸田門跡~現在の小田原城址公園に歩いて行くと、そこは昔の三の丸の跡です。
そこでは、こんな風景が見えます…

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水掘りと石垣が見えますね。幸田門側から見たこの石垣側が昔の二の丸です。
そして、この端っこの一段高く造られた建物の土台の様な石垣は「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれる防御施設が有った遺構です。
この土台の上に、防衛側が鉄砲や弓の射撃手に敵を射殺させる為の防衛拠点が立っていました。
その建物は小さな天守閣の様な構造の物が多かったようです。

この隅櫓を横目に二の丸の水掘り沿いに進んで下さい。
そうすると下の「赤い橋」が見えてきます。
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注意!:絶対にこの橋から二の丸に入らないで下さい!
何故(なぜ)この橋を渡ってはいけないかと言うと、この橋は戦国代や江戸時代には存在しなかった偽物の建築物で、ここを渡っても御城らしい施設を見る事は出来ません!。
昭和の高度経済成長期、無知な当時の神奈川県行政は商業主義に走り史跡を破壊し、こう言った偽物の施設を史跡に沢山つくってしまったんです。
この橋を渡ると史跡を破壊し更地にした殺風景な広場があるだけです。

と、言う訳でこの「赤い橋」をスルーしてずんずん西側に進むと直ぐに江戸時代の城門を近年に復興した史跡が見えてきます。
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この漆喰塀の切れ目が見えたら、そこに江戸時代の城門があり、観光客もそこから城址公園に入場出来ます。
なお、この付近に下の看板があり、その「馬出門」と言う城門のと、「枡形虎口」と言う防御構造の解説が見れます。
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さっきの「赤い橋」じゃなくてこっち↓が本物の入口ですからね!
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ね?御城らしい風景に成って来たでしょう?
この「馬出し門」で見るべきポイントは2つあります。

一つは門を取り囲む城壁にある沢山の長方形と三角形の小窓。
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2つ目は馬出し門の最初の門を突破すると次の城門をぐるっと四角く取り囲む構造です。
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実はこの城門を四角く取り囲む城壁の構造が「枡形」と呼ばれる防御施設なんです。

滝山城の記事を書いた時にも触れましたが、「枡形」について改めて説明をさせて頂くと…
枡形と言うのは、城門を囲うように四方を壁で取り囲んだ施設で、進入してくる敵はその数を制限されてしまう上に、まさに防御側から見て攻撃側は「袋のネズミ」になり、防御側は城門を取り囲む枡形の城壁に設けられた射撃窓から雨あられと鉄砲玉と弓矢を射掛(いか)けて、侵入者を集団射殺してしまう恐ろしい構造です。
この枡形虎口は北条流の築城術の特徴です。
敵を引き込んで殲滅する、恐ろしい施設なんですね。

因みに、武田家は「丸馬出し」と言う構造を城門の前に多用していました。
※武田家最後の拠点「新府城」の縄張り図と丸馬出しの拡大図。
新府城
真田幸村(本名:信繁)が大阪城で徳川軍を散々に痛めつけた時に立て籠もっていた要塞「真田丸」も、この丸馬出しを巨大にした構造物でした。
北条流の枡形虎口が防御しながら敵を引き込んでなぶり殺し殲滅する」のに対し…
武田流の丸馬出しは敵を引き付けて、そこから全方位射撃を積極的に加える言うなれば相手をおびき出して集中砲火を加える「攻撃の為に敵をおびき出す」構造と言えます。
丸か四角かだけでも戦術が違うのが理解出来ますよね?

話を小田原城の「馬出し門の枡形」に戻します…

敵を引き込み袋叩きにするのが枡形な訳(わけ)ですが、その敵を射殺する為に防衛側がスナイパーを配置する馬出し門の入口を狙う位置に有るのが下の写真の射撃用の窓です。

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長方形の窓が弓矢用、三角形の窓が鉄砲用だそうです。
恐らく長方形は弓矢を突っ込む為に必要な形状で、細長い筒状の鉄砲は先を出せる三角形の小さい窓で十分なんでしょうね。

この射撃口は内側が広く外側が狭く角度がついているので、見た目以上に射撃可能な範囲が広く、且(か)つ敵からの攻撃を受けにくい構造になっています。
別の写真で角度別に三枚その射撃範囲を御見せしましょう。
※正面向き
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※左向き
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※右向き
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ね?
こんな小さい窓で結構広範囲を射撃出来るでしょう?
しかも正面なんか城門入って来た敵を狙い撃ちに出来る位置ですよね。
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よく考えられて作られていますよね~。
ちなみに、この復興城門は北条家の戦国時代の縄張(なわば)り=設計を、江戸時代に徳川家臣で後に小田原城主に成った大久保家が改修して今の姿に成ったと言われています。
恐らく戦国時代は土塁=土壁か土塁の上に設置した板塀や漆喰塀にこのような小窓が設けられていたんでしょう。
これらの馬出し門枡形防御構造の有る「馬出し曲輪」を突破すると、次に見えてくるのが馬屋曲輪です。
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今でこそ土塁は取り払われてしまっていますが、当時はこの馬屋曲輪を取り囲む様に高い土塁が張り巡(めぐ)らされおり、その上にさっきの馬出し門と同じ様な射撃用の小窓のついた塀が設けられており、更に角には隅櫓が設置されていました。
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下の写真を見ると当時の構造が良く解ります。
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この石垣が馬屋曲輪の隅櫓が有った土台なんですね。
ここから三の丸に侵入した敵を捕捉(ほそく)し、ここを守る武将が周囲の守備兵に対し作戦命令を指示する訳です。

馬出し門の右手には、いよいよ二の丸に侵入する敵兵を迎撃する小田原城で一番立派な城門「銅門(あかがねもん)」待ち構えています。
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銅門も見ての通り「枡形」構造に成っていますが、枡形銅門の最初の門の手前には「住吉橋」がかかり、水掘りによって敵兵が容易に城門にとりつけなくする意地悪(笑)な設計になっています。
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住吉橋の門の上の漆喰塀にも沢山の射撃口が見えますよね?
この狭い橋には槍を持った敵兵は2列か3列でしか突入できず、その3隊列の先頭の人間から順番に射殺されてしまう訳です…
怖いですよね。

銅門を内側から見ると下の写真みたいな構造に成っています。
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櫓門(やぐらもん)と呼ばれる構造で、この建物は倉庫の機能と守備兵を収容する機能があります。
守備兵はこの建物の床に設けられた小窓から、進入してくる敵兵に…
「加熱し沸騰させて煮えたぎった油や糞尿
…を浴びせかけて大火傷させたり、弓矢で攻撃したり石を叩き付けて敵を撲殺したりするんですね。
守備兵に攻撃された侵入者は臭いし熱いし大火傷して痛いし、後ろは味方の兵士がいて逃げ帰る事も出来ず身動き出来ないまま皮膚呼吸出来なくなり痛みにのた打ち回りながら酸欠死するかショック死するか…
いずれにしても悲惨な事に成る訳です。
因みにこの糞尿&油戦法、太平記の時代に赤坂城や千早城で足利尊氏公を苦戦させた有名な南朝方の忠臣の楠木正成(くすのきまさしげ)公が得意とした戦術でした。

さて、この銅門を突破すると、いよいよ江戸時代の本丸と天守閣が見えてきます。
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でも勿論(もちろん)、すんなり本丸に辿りつける訳は無く、その手前には常盤門と言う城門が待ち構えており、更に!そこに至る前に又、泥の堀と土橋を突破しなければいけませんでした。
下の写真は昔、本丸下の泥の堀が有った場所で、今は埋め立てられて観賞用の花が栽培されている畑に成っています。
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銅門を抜け二の丸~本丸に至る土橋を渡ると…
侵入しようとする敵に再び「枡形」構造のある城門が待ち構えています。
この門は常盤木門と言います。
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常盤木門も櫓門(やぐらもん)」と枡形とが一体になって設けられています。



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もう、ここまで攻め込んで来たら確実に蓮池門で先頭に立っていた兵士は生きていないだろうね…
幸い歴史上ここまで攻め込んで来れた攻撃者はいなかったので沢山兵士が死なずに済んだ訳ですが。
実は、戦国時代の御城の大半は戦争を経験していません。
小田原城でも城内で交戦が有ったのは、先述の上杉謙信&関東管領連合軍旗下の岩槻城主太田資正(おおたすけまさ)公が攻め込んだ蓮池門と三の丸までです。
豊臣秀吉軍は攻め込もうとした武将もいましたが城門を一つも突破する事すら出来ませんでした。

しかしながら…
豊臣秀吉の軍は強大で、小田原城攻め参陣武将は…
さながら戦国武将百科事典の様相(ようそう)を成していました。
その総兵力22万
対する北条軍は総兵力6万、籠城兵は3万とも…
衆寡敵せず勝てる筈は有りません。北条家が兵11000で古河公方軍兵80000に大勝した時とは異なり、相手は歴戦の織田軍の生え抜き。しかも名将揃い。


兵の多さ云々以前に羽柴勢(豊臣)に参陣している武将がとんでも無く凄い… 秀吉の小田原攻め布陣図
豊臣秀吉・豊臣秀次・羽柴秀勝・宇喜多秀家・加藤嘉明
徳川家康・酒井忠次・榊原康政・奥平信昌・大久保忠世
織田信雄・織田信包
蒲生氏郷・丹羽長重・池田輝政・細川忠興・堀秀政・九鬼嘉隆
毛利輝元・長宗我部元親
更に秀吉本隊には軍師黒田官兵衛や、加藤清正、福島正則等々…

この合戦、最大の敗因は確かに松田憲秀一族の内応は有りましたが、それ以前に北条氏政公が敵の戦力と先述と状況の分析を見誤った事にあります。

実は小田原征伐以前、北条家は過去上杉謙信の10万の軍から小田原城を守り切った事や武田信玄を撤退させた時と同じ様に、北条家のとった戦術は各地の支城(しじょう=地方拠点)の防備を強化し野戦を行わず徹底的に籠城させる作戦にでました…
その作戦は敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦です。
しかし!この豊臣秀吉は敵が経済的に優位で兵糧補給に事欠かず、しかも得意戦術は城攻めの際に敵城を包囲する陣城を構築し逆に籠城側を兵糧攻めにし戦意喪失させて離反者を増やし籠城不可能に陥らせる作戦なんです。
既に、戦術で逆転の目を潰されており完敗確定していたと言っても過言では有りません。
実はこの籠城戦術を強硬に主張したのが当時、北条家中で家老職に在り発言力の有った松田憲秀と、その息子なんですね。
彼等は当初、敵の戦力分析より過去の実績を盲信し、自分達の地位の保身の事を優先させたのでしょう。
しかし、この籠城には敗北しか無いんですよ。援軍も来なければ、敵軍の兵糧が枯渇し撤退する事も無いですからね。

以前との状況の違いを説明しましょう。
上杉謙信連合軍は参陣武将が寄り合い所帯の地方豪族ばかりで、個々の北条方が支城に戦力を分散させて籠城しても個々の豪族に北条家の支城を落とせるだけの戦力は有りませんでした。
この時の北条側の各支城の戦力は兵3000前後です。地方豪族の戦力もそれと同等でした。
しかし
豊臣秀吉軍は諸大名の連合軍を地方ごとに方面軍化し各大部隊が少なくとも2万以上の戦力を有していました。これは各方面軍がそれぞれ以前の武田信玄の最大動員数2万強に匹敵する戦力に成る訳で、その戦力でたかだか数千の支城を本気で攻めれば一般的には守りきるのは不可能に近い訳です。

しかも、以前と異なり、北条氏照公等各武将は小田原城に詰めてしまって居て、各支城は老兵や女子供ばかりな訳で普通にいけば秀吉の各方面軍には太刀打ち出来る要素が無いんですね。

もっとも…
こんな中で最後まで落城しなかった…
忍城  …成田長親公・成田甲斐姫3000vs石田三成軍20000⇒援軍到着後:石田三成軍50000
韮山城…北条氏規公300vs秀吉軍40000
この二城の戦果は通常ではあり得ない、防衛側の籠城成功からの北条家による開城命令で決着しました。
実は、この城以外の多くの城は戦わずに降伏してしまっていたんですね。
交戦した城は全て落城しています。八王子城や神奈川県相模原市の津久井城、伊豆の下田城、箱根の山中城、吉良家の世田谷区の世田谷城など、全て攻略されてしまいました。
落城した城の中で秀吉軍相手に健闘したのは、山中城の出城袋崎出丸で活躍した黄備え隊副将間宮康俊公の部隊200と、伊豆下田城に籠城した清水康英公の兵600くらいでした。
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上の写真は間宮康俊公が玉砕した際に活躍し名声を獲得した場所の山中城の衛星写真。

因みに強硬に小田原籠城を主張した松田憲秀は、言いだしっぺなのに息子と秀吉に内応(ないおう=うらぎり降伏する事)しようとして幽閉切腹処分されています。

この小田原城包囲に用いた攻城戦術において秀吉は既に「小寺家の御着城攻め」「別所家の播磨三木城攻め」「毛利家配下吉川経家の籠城した鳥取城」で成功実績を挙げていました

もし、北条家の執政者北条氏政公が、事前に秀吉の実績と周辺大名の外交情報をちゃんと分析していれば、この籠城作戦をとらず織田政権時代と同じ様に早期に傘下に入っていたでしょう。
寧(むし)ろ、何で織田信長公の勢力版図より広い領土を手中に治め、周辺有力大名を屈服させていた秀吉に交戦したのか小生には個人的に理解不可能なんです。
恐らく、全ての戦犯は北条家中で権力を牛耳(ぎゅうじ)っていた逆臣松田憲秀による政治判断の誤りでしょう。
しかし、北条氏政公の戦力分析と状況判断に誤りが有ったのは間違い有りません。

実は…
この北条氏政公の情報分析力の欠点を早くから見抜いていた人物がいました
…それが御父君で名君と名高かった北条氏康公です。
こんな逸話が現代に伝わっています。
ある日、合戦の陣中で北条氏康公と北条氏政公親子は食事を共にとりました。
戦時中の食事なので白米に味噌汁をかけて食べるだけの簡単な物です。
この"猫飯(ねこまんま)"を食べる際、氏政公はご飯に味噌汁を2杯かけたそうです
すると!
北条氏康公「将たる者、白飯にかける汁の分量なぞ1回で決めれずなんとするか!」と激怒したそうです。

皆さん、何で氏康公が怒ったのか、もう御判(わか)りですよね?
つまりこうです…
「御椀に入った飯の量」…敵兵の戦力
「飯にかける味噌汁の量」…投入するべき自軍の戦力
…この分量を見誤る様では、合戦で敵味方双方の分析を見誤り敗戦を招いてしまう訳ですね。

然(しか)して、氏康公没後、秀吉による小田原北条家への降伏勧告と討伐戦の両方で、北条氏政公は双方の勢力分析と戦術分析を誤り小田原北条家の滅亡を招いた訳です。

因みに小田原北条家は滅亡しましたが、北条家自体は存続している事を御存知無い方も多いので捕捉説明させて頂きますが…
実は!
韮山城で奮戦し防衛に成功した北条氏規公が秀吉に3万石で大名として復帰させられ北条家は江戸時代を生き抜き、明治時代まで大阪府狭山市の狭山藩として存続しました
狭山と言う地名は北条家の旧領武蔵国にもあり、何だか因果なものですね。
今も御子孫がちゃんと生きてらっしゃいます。

さて…
今日はここまで!

次回はいよいよ本丸の風景とにうつります!
が!
すみません!
前回、前々回と戦国期小田原城の写真ばかり撮影して天守閣に登る時間がありませんでした!
ですので、本丸の写真だけでは寂し過ぎるので、今年中にもう1回、箱根温泉にでも宿泊に行くついでに天守閣に登って写真撮影したら小田原城の記事を更新します!


小田原城の記事は又年内以内に! 

では又!次のブログ記事で御会いしましょう!

速報です!
戦国時代の小田原城虎口遺構部分の「百姓曲輪」が間も無く宅地開発され消失します!
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。

今発掘調査中で、調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
本日確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。

因(ちな)みに、八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分にも穿たれていました。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
角馬出しとは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

小田原駅から、それ程は離れていないので歩いて行けますし、車なら小田原高校周辺のスポーツ公園駐車場も使えます。
もちろん小田原城からも徒歩で八幡山古郭や小峰の大堀切と合わせて訪問出来る距離です。
無論、ちょっしたハイキングくらい歩きますが。
距離的には現在の小田原城本丸から1kmくらい、直行するなら徒歩なら30分かかりません。

因みに江戸期小田原城の見物後のオススメの散策順路とは以下の通り!
逆に回れば戦国期小田原城遺構を見てから、今の小田原城址公園の江戸期小田原城を巡るコースに成りますよ!

本丸天守閣から古小田原城散策スタート!
徒歩5分→戦国期東曲輪
徒歩5分→戦国期三味線堀遺構(小田原高校南東)
徒歩1分→戦国期本曲輪土塁遺構
徒歩10分→小峰の大堀切
徒歩15分→戦国期百姓曲輪と虎口(角馬出し?)
徒歩20分小田原駅/徒歩30分超小田原城址公園

ですので、小田原名物お土産の「外郎家」の「お菓子のういろう」

と山一の蒲鉾

は小田原城見学前か帰りに買うのがオススメです!
外郎サンとこには駐車場が有ります。
鈴廣の蒲鉾が欲しい人は小田原駅東口駅前に店が有りますよ!
曽我梅の梅干しは小田原城本丸の売店で販売してます。

では皆さん!
この百姓曲輪と北条期小田原城虎口遺構を見れるのは今の内だけですので、是非見学されてはいかがでしょう?

※次回記事は書きかけの小田原城の記事を更新予定です!
その後は神奈川区神大寺跡の「塩嘗め地蔵尊」か、「小机城址祭りで見つけた美人ママさん女武者隊」の城と趣旨離れた記事書く予定です。
その他に持ちネタは…
⚫︎蒔田吉良家世田谷城址で招き猫発祥の地のである井伊家の菩提寺豪徳寺
⚫︎世田谷八幡宮を中興した吉良家と杉田八幡宮を中興した間宮家が鎌倉鶴岡八幡宮を再建した話し
⚫︎北条家赤備え大将北条綱高公の御廟が昔在った法華寺跡の東京都目黒区円融寺
…などです。
※書く順番は気分次第(笑)

では又、次のブログ記事で会いましょう♪

戦国時代の北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
横浜と隣の鎌倉には、その内の3人の殿様と1人の名副将がいました。             
シリーズ化し個別に記事にします。 

関東最強武将だった1人を紹介します…

黄備え!
 
※KOEIさんのゲーム画像拝借

玉縄城主:北条綱成(つなしげ)公
北条五色備(ごしきそな)えの"黄備え"を務めた。
渾名(あだな)は「地黄八幡(じきはちまん)」。

北条"地黄八幡"綱成公が城主を務めた玉縄城は、今のJR大船近く玉縄地区〜横浜市栄区長尾台〜藤沢市二伝寺の広大な範囲にまたがって在った御城です。

鎌倉市一帯と相模湾を守る為に築城されました。


綱成公は今でも有名でKOEIの信長の野望天道でも高評価されてます。

統率92 武勇96 知略79 政治60 義理89

…恐ろしく強いですね。

実績と比較して、まだ不足ですが。


SEGAでは更に高評価。

 

武力10…最高評価です。


先日、玉縄城主だった北条綱成公の開基した龍寳寺に御朱印貰いに行ってきた時に撮影したのが以下の写真です。

龍宝寺の写真↓です。

 

 

 


龍寳寺には玉縄民族資料館があり、玉縄城址の遺物や復元模型も展示されています。

これ↓玉縄城の復元模型。

 

保管されている↓城門と本丸の礎石 

 

 

あと鎧と兜 

 

 

これ↑雪の下胴と言って鎌倉特産の甲冑でした。 

伊達政宗もコレ着てましたよ。


玉縄城の本丸は今では女子校が建っていて、男性の歴史ファンにとっては有る意味「攻略不可能」な最強の城に成ってしまいました…。


以下は綱成公の事跡説明。


綱成公は、まさにリアル5レンジャーでした。

地黄八幡とアダ名で敵武将達から呼ばれた玉縄城主の北条綱成公は、小田原北条家2代北条氏綱公の婿養子でした。

北条家3代目の殿様北条氏康公とは義兄弟に当たり、最前線の防衛や外交を任され非常に信頼されてました。


上杉謙信と武田信玄に合戦で撤退させる事数回、名実共に関東最強で、戦国最強クラスの指揮力・統率力・判断力・カリスマ性を備えた名将でした。


綱成公の余りの強さから綱成公の黄色地の布に八幡大菩薩と字が染め抜かれた旗印を武田信玄が和議で接収した城から持ち帰り、家臣の真田信伊(のぶただ※幸村こと真田信繁の叔父)に与えたそうで、この旗は今でも真田家の居城長野県松代城に保管されています。

この逸話や、河越夜戦や国府台の戦場で「勝ったぞ!」と叫びながら八幡大菩薩の旗印の黄備え部隊が敵陣を奇襲蹂躙し追撃する様から他家武将に"地黄八幡"の渾名(あだな)で畏敬の念を込め呼ばれていました。


綱成公の強さを示す1番の実績は"河越合戦(←クリックで再現動画)"での活躍です。

戦国時代、優れた民政により民百姓の支持を得た綱成公の主君北条氏康公は関東で勢力を拡大します。 

その過程で旧勢力の筆頭格関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った)で激突します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利。

北条家兵力  3,000

上杉家兵力80,000

河越城の主将は北条幻庵公。

幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主で風魔忍者の管理者でした。

それを補佐する玉縄城主綱成公。

両者の動員兵力はわずか。

対して関東管領上杉家&古河公方足利家の連合軍には関東地方の古豪大名達がこぞって参集し10万人に迫る勢いでした。


この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で半年間も敵を跳ね返し続けました。

そんな中、敵に厭戦(えんせん=ダラけ)氣分が蔓延し始めます。

それを待っていた綱成公の義兄で主君北条氏康公が小田原城より8000の兵を率いて来援します。

しかし綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

だからこそ、氏康公は敵勢がダラけるのを待っていたんですね。


敵勢が油断し酒盛りを始めたある晩、氏康公が夜襲で奇襲をしかけました。

同時に河越城から綱成公が出て敵に突撃します。

敵は多いが油断して規律も乱れボロボロだった状況で北条家の義兄弟コンビに奇襲挟撃(きょうげき=はさみうち)され瞬く間に壊滅しました。

上杉家連合軍側の被害は甚大で…


連合盟主:古河公方足利晴氏→捕虜

主要大名:扇谷上杉家→殿様死亡滅亡

主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小

その他の連合軍参加大名も散り散りに逃走し大幅に勢力縮小する事に成りました。


綱成公の強さは尋常じゃないですね。

こんな殿様が鎌倉にいたなんて、神奈川県民としてとても誇らしい。


皆さん、JR大船駅に電車で来たら何となくでも良いから綱成公の事を思い出して下さい。


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