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タグ:北条氏照

Twitterで朝日寺サンと言う志田峠に在る御寺の方に武田家vs北条家の大合戦、三増峠合戦の経過を時系列で話す機会が有ったので、そのツイートを画像に切り取って転載しときます。
    武田軍       北条軍
武田菱vs 三つ鱗紋
兵力  20,000                  20,000

死傷    1,000                    3,000
武田信玄が北条家の息子達を翻弄し、北条家も局地戦で黄備え玉縄衆大将の地黄八幡北条綱成公が活躍した合戦なのに結構、歴史ファン入門くらいだと知らない人も多い名合戦なんだけど。
因みに話題に登場する主要人物紹介。
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ゲームの武田信玄⤴
肖像画の武田信玄⤵
武田信玄

北条氏康
ゲームの北条氏康公⤴
肖像画の北条氏康公⤵
北条氏康公
北条氏政
高嶋政伸サンの北条氏政公(笑)
丸に三ツ鱗紋玉縄北条家

隅立て四ツ目結び紋間宮家
蔦の葉紋臼居家


では以下Twitterからの転載です。
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前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説①
・・・城址(慶應日吉キャンパス)の地勢解説編。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
前回の記事では・・・
1,北条家臣の中田加賀守が居城としていた矢上城の跡が現在の慶応大学日吉キャンパスや日吉駅一帯の台地である事。
2,その日吉の台地が城として防衛に適したとても険阻(けんそ)な地形である事。
3,矢上川や鶴見川と東京湾を利用した水運と交通の要所として経済活動でも重要な最良の❝地勢❞に当たる場所を押さえている事。
・・・この3点の内容を簡単に解説して見ました。
今回の記事は続きですが、引き続き国土地理院色別立体図に加え、実際の現地の写真を交えて御寺の歴史を紹介して行きたいと思います。

先ずは中田加賀守が城の大空堀部分に開いた保禅寺サンの現在の様子の写真と位置を見てみましょう。
DSC_0270
谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
保福禅寺サンは直線距離ですと日吉駅から非常に近い位置に存在しますが、旧境内地の丘や谷は大部分が慶応大学日吉キャンパスに成っていて駅から直接来る事は出来ず遠回りする必要が有ります。この慶応大学日吉キャンパス~日吉駅を挟んで反対側の丘の端っこまで城跡と推測出来る地形が今も現存しています。御寺の山号が❝谷上山(こくじょうさん)❞とされている事から、どうやら江戸時代には❝矢上❞と表記される様に成った矢上~日吉一帯の本来の地名は❝谷(たに)❞に❝上(うえ)❞と書いて❝谷上(やがみ)❞と呼ばれていた事が解かり、現在では矢上城と伝わる城名も本来は地形通りに❝谷上城(やがみじょう)❞だったと推測出来ます。
御城には殿様が祖先を弔ったり禅の道場として修行する御寺がよく作られました。保福寺サンも城の大規模な空堀だった谷底に存在しています。敵の侵入口とも成る空堀の先の坂道の手前で敵を迎撃する必要も有り、砦としても機能しながら人を住ませて常時警戒する役割も担う位置に保福寺サンが築かれた事が良く解ります。
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写真は保福寺サンの境内地で、現在は慶応大学に貸し与えてる野球場の城址側や少林寺拳法部の道場の空堀側に続く大空堀南側の岸壁です。
つまり戦国時代~安土桃山時代の廃城まで、この谷間の壁面の端っこから端っこまで塞ぐ形で保福寺の土塀が設置されていて、関東流の築城術である❝谷戸構え(やとがまえ)❞を形成していた事が解かります。ついでに言えば、ここは谷間の平地で入口を塞いでしまえば警備上も安全な上に当時は井戸を掘る技術が未熟で飲み水の確保が困難な台地上より居住し易い低地な上に矢上川を使えば船で鶴見川にでて更に間宮家の領地の鶴見川下流末吉や川崎館辺りで海の船に乗り換えれば主家の北条家の小田原城や、重要な江戸城にも直ぐに急行出来た交通の便の良さも判ります。
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御城の跡の慶応大学の野球場側からは保福寺の墓地が見えます。
余り御城や歴史に興味が無い人は・・・
「御城の中に御寺が在るのって変じゃない?」
・・・と思うかも知れませんが、実は鎌倉時代~安土桃山時代には良くあった事なんですよ!逆に室町時代なんかは御寺の立地が御城に適しているので御寺を移転させて御城を造る事も良くありました。代表的な例は戦国時代最高クラスの謀略家で梟雄(きょゆう=不正義な人)だった松永久秀公の居城の多聞山城が有名です。鎌倉時代から良くある事だったのですが、武家の学問所として臨済宗や精神訓練の場としての曹洞宗の禅宗が道場として機能し、それとは別に各武家に宗旨(しゅうし=祖先からの宗派)も両方とも大切にしていました。ですから面白い事に昔の殿様達の戒名には武士としての禅宗の法名と家系としての菩提寺の宗派の法名の両方が死後に戒名に併用されるケースも多々有りました。
例えば中田加賀守と一緒に黒駒合戦で戦った横浜市南部を治めた間宮家の末裔で、戦国時代から平和に成って色んな現代の文化の基礎が花開いた江戸時代の頃の人を戒名を例に挙げて見ましょう・・・

源朝臣 佐々木氏 間宮 孫太郎 俊信 入道 宗智
これは生前の名前です。この殿様の没後に和尚さんから贈られた戒名は以下の通りです。
正禮院殿 宗智 日惠 居士
〇〇院殿と言うのは家柄や高い役職ついて社会貢献した人物に送られる❝院殿号(いんでんごう)❞と呼ばれる名です。
❝宗智❞は禅宗の法名で一般的に曹洞宗で多く用いられる法名です。法名ですから、生前に精神修養の道場や学問所としての御寺で修行する際に貰う禅宗の弟子としての名前です。間宮家は鎌倉公方の家来を経て戦国時代には小田原北条家に仕えた武家なので、古河(鎌倉)公方家や小田原北条家の宗旨で学問所として機能してた曹洞宗と江戸時代に成っても深い関わりが有りました。
次に❝日惠❞は日蓮宗の法名です。日蓮宗の和尚さんに弟子入りして出家すると法名として❝日〇❞の様に❝日❞の名の付く法名を与えられる事が非常移多く有ります。家の菩提寺が日蓮宗だと没後に戒名として諡(おくり名)として付け加えられる事も多く有ります。この間宮俊信サンは杉田間宮家の一族なのですが杉田間宮家は室町時代に間宮本家から分家して以来ずっと日蓮宗の宗徒でした。
この様に武士の戒名からも現代と違って江戸時代迄は宗派間の争いも少なく平和で仏教同士だけでなく神社と御寺と修験道の道場は御互いに交流が有り、当時の人々も色んな宗派に勉強に行き来していた事実が戒名にも残っていたりします。
中田家も間宮家と同じく北条家臣だったので、ここ横浜市港北区矢上城址の曹洞宗保福寺サンや保土ヶ谷区の正觀寺サン随流院サンの他に日蓮宗の妙福寺サンとも関係が有ったりします。
間宮家の場合は本家の笹下城主間宮家が江戸時代に本牧奉行や摂津奉行等の地域単位を統括する知事を務めた時期も有るので、北条家臣化以前から関係の深かった天台宗系修験道、真言宗系修験道、真言宗、真言律宗の他に、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院とも関わりが有ったりしました。
まぁ、そんな訳で当時の御寺と言うのは御城の防備や殿様の学問所を兼ねる事があり、中田家の殿様の御子息や一族郎党の学問所としても城下の大空堀の谷にも保福禅寺が建立されたんでしょうね。
ここで御城の遺構残存部の話を始めたい所ですが、先ずは御寺を見て行きます。
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先に解説しましたが、この保福寺サン、山号を❝谷上山(こくじょうさん)❞と呼びます。谷上(矢上)城の御寺だから谷上城から山号を頂き谷上山なんですね。
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だから谷上山だけど谷間に在る(笑)。
さて山門に戻ります。
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この山門をくぐると右手に御堂が一つ有ります。
因みに小生の推測ですが、中田家は江戸時代の藤左衛門サン以前は歴代当主が❝加賀守❞を名乗ったはずなので、この御寺の開基は正直な所いつの時代かは判りません。
中田家の話しに関しては、以前書いたもう一つの正觀寺サンの解説記事を御覧頂けると解かるかと思います。

クリックで記事にリンク⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺・・・保土ヶ谷区東川島町

但(ただ)し、新編武蔵風土記稿にはヒントに成りそうな記載が有ります・・・

新編武蔵風土記稿巻之八 矢上村の項
保福寺
村の中ほとにあり谷上山と號す曹洞宗小机村雲松院末寺なり開基は中田加賀守某なり八王子心源院第六世の僧春悦開闢なればもとより心源院の末に属せり然るに春悦後に當寺をもて小机雲松院の住僧楞室へゆつり與へしが今楞室をもて開山とし雲松院の末寺とはなれり楞室は寛永十五年七月二十九日寂せり、客殿七間半に六間半、本尊阿彌陀を安置す

これ、新編武蔵風土記稿は曹洞宗あるあるに嵌って時代をゴッチャにして誤った解説をしてしまってます。文章で赤字の部分寺を開いた人が中田加賀守曹洞宗雲松院末寺と解説していますが、この時点で既に間違っています。曹洞宗寺院として再興開基したのが中田加賀守です。何故そう言い切れるかと言いますと、緑字の部分小机雲松院の末寺として開かれたと書いていますが小机雲松院は歴史500年弱の比較的新しい御寺です。雲松院は中田加賀守の上司だった小机城城代家老で白備え隊副将の笠原家の菩提寺であり、元々は北条家宿老の笠原信為公の更に御父上が無く成った時に菩提を弔う為に開かれた寺院です。安土桃山時代を生きた中田加賀守と時代的に交流が有りそうなのは笠原信為公の跡を継いだ笠原康勝公ですが、笠原康勝公が開いた龍松院と言う同じ港北区内に在る御寺も笠原家の菩提寺の雲松院も更に又隣町の神奈川区神大寺地区に戦国時代初期まで存在した神大寺の末寺として開かれています。しかし青字部分で登場する八王子心源院と言う御寺は平安時代末期の西暦900年代初頭の延喜年間の開基です。その古い御寺の第六世住職が西暦1500年代末~1600年代初頭では歴史的経過年数に整合性が無い訳です。
しかし八王子の深澤山 心源院の歴史では最初は真言律宗の寺院として延喜年間(西暦901~923年)に智定律師が創建した一寺を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたと伝わるそうです。
更に後に扇谷上杉家の家臣武蔵国守護代の遠江守 大石定久公が(再興)開基となり遠州の高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗した歴史が有ります。
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※写真は❝あきる野市❞の秋川。左手には高月城、更に日本100名城の一つ滝山城が在る。
高月城址と圓通寺 久良岐のよし
この大石定久公は後に扇谷上杉家が滅亡する過程で小田原城主の北条家に従属して、北条氏康公の子息の北条氏照公を娘の比佐(ひさ)姫の婿養子に迎えて家督を譲って隠居しています。
つまり中田家が横浜市港北区の保福寺を曹洞宗寺院として再興出来るのは、早くとも大石家が北条家に降伏して家臣化して以後のタイミングしか有り得ないので、永禄二年(1559年)11月に北条氏照公が17歳で多摩郡の大石家に婿養子入りして以降の話しなのが解かる訳です。
その大石家が心源院と同じく支援した御寺が戦国時代初期に大石家の居城だった高月城の真下に存在する天台宗の惠日山 觀音院 圓通寺です。
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惠日山 觀音院 圓通寺
この御寺の写真の背後の秋川に突き出した舌状丘陵が高月城跡です。
この八王子市界隈の大石家の歴史から解りますが、心源院は凄まじく古い御寺なので第六代目の住職の春悦開闢和尚は曹洞宗の寺院として再興されてから第六代目の住職だったと言うのが解かる訳です。1500年代初頭に曹洞宗に成っていたとすれば、当時の寺院は世襲制では無いので安土桃山時代頃に港北区の保福寺が曹洞宗として改宗の上で復興される際に心源院が曹洞宗と成って第六世の春悦開闢和尚が関わったとすれば時代的にも整合性が高くなり、極々自然な時間経過と成る訳です。
ですから、新編武蔵風土記稿の保福寺の解説に関しては時代を整理しないまま文章に書き起こしてしまって間違えているのが解かりますが・・・
結論から言うと、矢上城址の保福寺はどっちにしても凄く由緒正し御寺の末寺として開かれたと言う事が解かる訳です。
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そして安土桃山時代に曹洞宗として保福寺が再興されたのと前後して雲松院が開かれた後に、地域的に八王子の心源院より雲松院の方が保福寺から近い事や、北条家宿老で小机城代の笠原康勝公と北条家直臣で小机衆として勤務した中田加賀守公の関係性からも保福寺は中田家によって雲松院の末寺として改められた可能性が推測出来ます。
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御本堂は比較的新しい再建ですが、今も稲毛六阿弥陀の第一番霊場、都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目としても由緒正しい歴史が有る事を伝えています。
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山門をくぐって直ぐ右手の御堂が
都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目の御地蔵様が鎮座していらっしゃる場所です。
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昨年末の初参拝時にガラス越しですが拝む事が出来ました。
曹洞宗の御寺は余り御朱印目的の巡礼を感心されない和尚様が現代では多くいらっしゃいますが、この保福禅寺は昔からの真言律宗時代からの歴史が有るので御朱印を頂戴に来る参拝客も事前に電話で問い合わせして御住職様と予定を調整すれば快(こころよ)く受け入れて下さいます。
墓地側に廻ると、人工的な手の入っている長い谷地形を確認できます。
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この先は明らかに日吉キャンパス側と慶応大学の日吉キャンパス野球場の台地の通路を狭くする人工的に谷を拡張した上で裾切りして崖地=切岸にした地形が続いて来ます。
もうここら辺から城の解説に成ってしまうので、御城としての地形の観察は次回の記事で書きたいと思います。
最後に、保福寺の南東側の野球場には中田家の大切な場所が有ります・・・
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中田家の供養塔で、元々中田加賀守の墓所が在ったとされる当たりなのです。
この場所に上がる階段は保福寺の山門から見える場所に在ります。
旧境内地に当たりますが現在は慶応大学に安全上の理由で立ち入り禁止にされています。
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実はこの上にはアーチェリー部の練習場が有るので下手くそな学生の流れ矢が頭に突き刺さってしまう可能性が有る訳です(笑)。しかし保福寺から慶応大学が借りている土地なので、慶応大学の事務所に御願いをするか、保福寺の御住職様から話を通して貰えば大学側の都合の良い日に見学をさせて貰う事が出来ます。

さて、一つの御寺にも色んな時代に色んな宗派だった歴史が有るので、明治時代に成る前の江戸時代までの人達は色んな神道も仏教各宗派も修験道も御互いを尊重して共存していた訳ですが、中田家の菩提寺もそんな日本の宗教の変遷を辿る事が出来る由緒ある御寺なのが何となく皆さんに伝わったでしょうか?
次の記事では御城の遺構と思われる地形の解説をしていきたいと思います。

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪

⬆️
一昨日の事件のニュース記事リンク。
楽しい旅行中の乗客は凍りついたろうな。

本当、酒の上なら許されるとか思い込んでる法治主義のカケラも理解出来て無い奴は、んなもん・・・
法の世界じゃ非常識な反社会的思考者なだけだわ!日本の恥。酒飲んで暴れる韓国人留学生集団と変わらん。
三國志じゃ張飛が酒で度々失敗し、最後も酔ってパワハラ指示部下に出して寝首掻かれて死んどる。
日本神話でも八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)は八塩折之酒で酔わせてから素戔嗚命が首を切り落とし殺し、熊襲長が倭建命に酔った所を暗殺され、酒天童子も源頼光公が八幡大菩薩応神天皇の御神霊から授かった神変奇特酒で酔わされてから寝首を掻かれ討伐されている。
酒は“万人之敵=万夫不当”つまり一騎当千を超えた一騎当万の名将軍張飛の判断力も奪い、日本神話の豪傑や荒神や鬼神すらも酩酊意識混濁させ、そしてそれらの全ての命を奪い去る道具に成った。
だ~か~ら~!
仏教では明治以前までは酒を禁じていたし、禅寺の入口には「酒の匂いさせて境内に入るなクソが」って意味の「不許葷酒入山門」がどこも有るんだよな。
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関東屈指の堅城、八王子の滝山城址に在る少林寺は北条氏照公が先立った奥方様の菩提寺として開いた御寺だが、やはりこの石柱が境内地入口に在る。
「不許葷酒入山門」
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
小生は基本的に大社格の某神社の宮司家一族の末裔だが、仏教の倫理観は大いに賛成だ。
まぁ小生も清めの御神酒は神事の時に神社で有り難く頂くよ、後は遠方から親友が来た時かJazz聞きに行ったら少しは飲むが基本的に車移動だから飲まないし酒は祖先も失敗してるから飲まないし父が酒飲むと他人の悪口を言うので飲みたく無いし、酒の席にも居たくない。
多くの神話の化物や歴史偉人が命を落とした酒、それでも「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う輩がいる。何の自信だコラ?
いくら飲んでも全く酔わない小生でも飲まない酒を、酩酊したくて飲む奴はクズだ、最初から倫理観が欠如している。
「おい、オマエは張飛以上の豪傑かヤマタノオロチより酒強いんか?」
・・・「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う思考の人間は弁護士や警官の知り合いに言わせると民事なり刑事なり少なからず法律に抵触する事をやりながら生活してるパターンの奴が多いそうだ。
最近、法律的な事に詳しい友人から色々話を聞く機会が有って非常に面白かったので酒乱の行動パターンを列挙してみる。
確かに当てはまるんだなコレが(笑)!
①業務中の不正・・・社内規定や法で定められた事項を違反する、労働時間申告の粉飾、休憩時間をとった時間を申告しない、業務をエスケープしてサボる、部下への管理責任違反やアルハラ等。
②不倫・・・まぁ民事だから相手か自分か自分の家族が不幸せに成る。必ず人生が狂う人間が出る。
③脱税・・・関係無い領収書を利用したり架空の経費計上するカス、年金保険料の滞納又は虚偽申告による軽減や免除詐欺。健康保険の不正還付詐欺。
④程度の酷い道交法違反・・・故意の車線変更禁止区域での車線変更や信号無視や一時停止や進入禁止の違反、警察に届けず当て逃げ、免停中運転や異常なスピード超過、飲酒運転、轢き逃げ。
⑤シンナー吸引、脱法ドラッグや違法な睡眠薬や向精神薬の入手と使用、麻薬や覚醒剤の使用。
⑥犯罪性の高い詐欺。
⑦傷害事件、殺人事件。
・・・確かに当てはまる奴がいる(笑)!
酒の席ならOKと考える思考の人間は、例え今やってなくても法治意識や倫理観が欠如しているので必ず上記の何れかに当てはまる行為をしながら生きている、若(も)しくは過去にやっていたが一時的にそれ等から離れているだけ。
「酒飲んだら何しても良いって」思考の奴は大なり小なり必ず民法か刑法に抵触する事をしながら生きてるって事だわな~確かに(笑)。
具体的に刑事事件だと言えばコンナ事するそうだ。
①酒飲んだから暴言が許される←侮辱罪だわな。
②酒飲んだから凶器を所持したり振り回して良い←普通に逮捕されるわ(笑)!
※今回の新幹線での記事は☝️コレな。
※少し前のコレ👇は①②に傷害罪が加わる。
③酒飲んだから後輩を説教の為にカラオケのリモコンで殴って良い←日馬富士山か!普通に傷害致傷だわ!
⑥酒飲んだから泥酔した女犯してよい←慶応大学生が葉山で事件起こしたけどな、普通に強姦罪だ馬鹿か!
⑦酒の席で喧嘩に成ったから相手を殴ったら死んじゃいました←たまに有るけどな、殺人だわ。

泥酔して判断力も記憶力も法治意識も理性も無くなる奴は一生酒飲むんじゃねーよ、最近そんな奴がいたな・・・そう言えば。

酒飲んでようが飲んでいまいが罪は罪なんだよな~。
本当に酒嫌いだし飲みたく無いし、その場にいたくないし酒乱死ねよと思う。
酒で暴言吐いて自分の最大支援者を失う事に成る奴もいるだろうし、日馬富士みたいに酒飲んで判断力無くなり他人に暴言吐いて勝手に逆上して凶器を手に取り暴行傷害事件や殺人事件を起こす人間の屑もいる。
酒なんて飲むな。特に鬱病経験者や依存症持ちはな。悪酔いして失敗するだけ。そんな奴をこの間も見たばかり。


酒は万人之敵と称された豪傑の張飛も殺す万人之敵の敵、普通の人間がコントロール出来る訳が無い。まして細身の渡来人骨格と一重瞼の遺伝子の人間は遺伝的にアルコール分解能力低い。小生の様な骨格がゴツく二重瞼の縄文系遺伝子の強い生粋の日本人やサモアン等太平洋の海洋民族と比較して酔い易く酒に弱い。
だから韓国人と同じ朝鮮半島渡来系の骨格や一重瞼の奴は酒飲んで暴言吐く奴も多い。
酒弱い奴は飲むな。
酒を飲んで酩酊する事を良しとする思考は不倫と軽犯罪の始まり。そして重大な犯罪への入口。

2017年04月19日(水)、前日深夜まで仕事をして午前3時に徹夜で寝ずに青梅市へ移動した。
寝ずに移動した理由は2つ。
1、もし寝たら起きれなくなり、行動予定を熟(こな)す事が出来なくなるから。
2、東名高速や圏央道等の高速道路は午前4時まで深夜割引で半額に成るから。
そんな訳で寝ずに移動した。後はついてから8時位の予定開始まで1時間~2時間寝れば良いやと思っていたので睡眠時間は気にしなかった。
どうせ仕事に行くわけじゃないので寝不足でも関係ない。仕事ならば睡眠不足はミスの元、プライベートは事故ろうがなんだろうが自己責任なので、眠たくなり危険だと思えばコンビニか高速のPAで車中寝れば良いだけ。
んな訳で青梅市の二俣尾駅近くのセブンイレブンに着いた。
 CIMG3345
写真は撮り忘れたが二俣尾のセブンイレブンは軒先に薪(まき)が売っていて大変吃驚(びっくり)した。
横浜から来たのだが横浜ではコンビニに薪は売っていない事を伝えた上で…
「何で薪を売ってるんですか?」
…と店員の方に尋ねたら、こんな答えが返って来た。
「え?横浜じゃ売ってないんですか?」
小生…
「う~ん、売ってないです。」
…と答えると、店員さんが売ってる理由を教えて下さった。
どうも青梅市界隈は多摩川の上流で水も綺麗なので水遊びや釣りに来る観光客が多いそうで、キャンプやBBQの需要が非常に有るそうだ。しかしながら、横浜で売ってないんですか?と聞かれるとは思わなかったので正直少し驚いた。

この日の目的は大きく3つ有った。
1、海禅寺さんへの参詣、そして御住職様への取材。
2、羽村市の阿蘇神社へ熊本の御酒「通潤」を奉納し、熊本復興と熊本県民生活再建の祈願を祈祷して貰う事。
3、チューリップ祭の見学。
なので高速料金の安い深夜移動で横浜から青梅市まで向かった所、道路も予想以上に空いていて、ものの1時間半もかからずに到着してしまった。
当然、小生の到着時点で未だ時間は5時前、御寺を訪問出来るのは常識的に9時から。
そこでコンビニで朝食を買い車中で少し休憩して、その後は海禅寺から直ぐ近くの辛垣城(からかいじょう)の城山を登り、9時~10時位に御寺を訪問する事にした。

実は青梅市へ訪問前に地図を見て海禅寺の近所に“コーポ西乃城”と言うアパートが有る事に気が付いた。
西乃城と言うのは恐らく昔の小名で、城が在ったのだろうと推測した。
そしてGoogle mapで「城」と入力して検索した所…
「辛垣城(からかいじょう)」
…と言う城が検索結果に出て来て海禅寺から徒歩直ぐの裏山一帯が城山で有る事が解っていた。
手元に日本城郭大系の神奈川県の部分は持っているのだが、東京の部分は持っていないので調べる事が出来ず、ネットで検索したら城址一帯ハイキングコースに成っていると紹介されていた。
そして去年訪問した同じ青梅市の勝沼城を本拠地にしていた戦国武将、三田家の終焉の舞台だと言う事も紹介されていた。
この三田家は祖先が平将門(たいらのまさかど)公と伝わる。
この青梅の隣接市、羽村市の武蔵阿蘇神社は平将門公が開基の延喜式内社なので、三田家の出自は恐らく本当だろう。ただ、千葉家分流と言っているので、それは誤りだと思う。
千葉家の分流には相馬家がいる。それとは別に平将門公の直系の御子孫にも相馬家がいる。
両方共同じ家紋の九陽紋だ。
九曜紋
千葉氏の祖先は平良文(よしふみ)公だ。平将門公の叔父であり協力者であり菅原道真公と共に3名は宇多天皇と醍醐天皇の御親政奪還に与力された天皇家の忠臣だ。しかし藤原家の讒訴により謀反人扱いされ平将門公は討伐された。
菅原道真公と平将門公と言う宇多天皇と醍醐天皇を支えた智と武の忠臣の排除に藤原氏は成功したものの、全てが藤原氏の思惑通りにはいかず、醍醐天皇の気転で平良文公は鎮守府将軍に抜擢され関東を治める権限を持ち、平将門公の遺領を掌握した。つまり、藤原氏に天皇家一族の支配地を横領される事は防げた訳だ。
この平良文公の本拠地は今の神奈川県藤沢市村岡城址だった。その子孫には、鎌倉武士として有名な神奈川の三浦家や戦国時代の大名、上杉謙信や蘆名盛氏公、正木時茂公等の名将が多くいる。
まぁ、三田家の祖先が平良文公でも平将門公でも、どちらだったとしても桓武天皇の末裔で宇多天皇と醍醐天皇を支えた忠臣には変わりない。

なので、この城を御寺に行く前に登って見る事にした。これが意外に険阻な山城だった…
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…しかし、城に行くまでの家々は、どこの家も綺麗な花が溢れており青梅市の方々の心の豊かさを垣間見る様な住宅街の様子だった。
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城山のハイキングコース入口にはちゃんと看板が有った。
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実は海禅寺の後方の山の地形もGoogle earthで見ていて人工的な凸凹地形が見て取れたのだが、この看板を見て自分の推測が当たっていた事が解った。海禅寺の裏手には枡形山と呼ばれる曲輪群が有った様だ。しかし、今回は御寺に行くまでの暇潰し程度に考えていて余り詳しく散策する心算(つもり)は無く、そちらへは訪問せずに真っすぐ頂上を目指す事にした。
CIMG3349
途中、枡形山の方を見ると自然では無い竪堀(たてぼり)地形が見て取れた。
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この橋の下の沢は道路を断ち切る様に流れているので、水掘りとして拡張された沢だったんだろう。
そして往時はここに引橋(ひきはし=戦時に引っ込めて撤去出来る橋)が掛かっていたのだろうと推測した。
CIMG3352
この辺りはまだ傾斜も緩やか、そして木陰で涼しく清々しい空気を満喫出来た。
CIMG3353
途中で小生が写真を撮りながらユックリ歩いていると、1人、登山客に先を越された。
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二つ目の橋。ここも当時の空堀の底の沢の流路を人工的に道を断ち切る様に変えている様だ。
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下を見ると「にしじょうにのはし=西城二之橋」と書いて有った。
どうやら辛垣状は東側の枡形山の曲輪群と西側の本丸と尾根の堀切等を分けて2城1体の構造で考えられていた城の様だ。確かに相模原市の津久井城に近い広大な城域を誇る山城なので、昔の人は西の城、東の城と分けていたんだろう。
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この城は現地に到着してから色々と地元の人に聞いて回ったが「何もないよ~」と言われていたので期待はしなかったが、上の写真の様に薬研堀形状の竪堀が山麓に沢山残っている。
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約9年前に森林再生事業も始まった様だ。
まぁ、そんなこんなで良い森林の中を気持ちよく散歩出来たのはこの辺りまで…
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少しづつ険しくなり
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途中、曲輪跡と思しき切岸も見ながら
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山の林道は段々と角度を益し
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尾根に出て「あ~ここからは楽だ」と思ったら荒れ道の始まりだった(笑)。
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この写真の部分はV字に尾根が掘り切られており、尾根を断ち切る空堀と引橋が有った様だ。
裾切(すそきり=尾根の両脇の傾斜を人工的に掘削し急にする事)された尾根道は階段などは未整備で滑ったら少し滑落して骨折とかするかも(笑)。
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登リ口(急坂)と書いて有る。
小生には崖にしか見えなかった(笑)。
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もう、戦国時代と違って杉の木が茂ってるし足場は枯れ枝で歩き難いし
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そして、この崖が恐らく、本丸入り口の木戸の城門が有ったで有ろう切通(きりとお)し状の林道。
ここは城の防衛の最終関門だった筈(はず)だ。
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頂上の本丸は江戸時代に石切り場に成っていたのか、看板が有って原型を留めていないと書いて有る。
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まぁ、登って見た感想も看板に書いて有る通り、削平された郭の遺構は少ないが、竪堀と堀切と裾切りした尾根は良く残っている山城の城址だった。
帰りも竪堀にかかる林道の橋を通過した。
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恐らく、この橋も戦国時代は引橋として似た様な簡素な橋梁が有ったはずだ。
この様な竪堀は山の斜面を敵が移動するのを防ぎ、橋を架ける事で進入路を限定し、戦時は橋を取り払い敵を足止めする訳だ。
この様な構造は奥多摩地方の北条家の城には良く見られる構造だ。特に北条氏照公が築城した八王子城に似た構造が多用されている。
下の写真が八王子城の竪堀と引橋。
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まぁ、八王子城の山城部分については構造は辛垣城と似た様な感じなのだが間宮綱信(つなのぶ)公が縄張りしたと伝わる御主殿等の居住空間は安土城を見て来た間宮綱信公らしく、総石垣で壮大な造りに成っている。
下の写真が八王子城の御主殿と引橋。
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もし完成していたら立派な城に成っただろうが、小生的には北条氏照公が滝山城を放棄し八王子城を築城した事に疑問を感じる。滝山城の防御構造と飲水の確保の方がよっぽど完璧だからだ。
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滝山城は侵入者を殺害する為の土の城だが、土の滝山城の方がよっぽど北条流の当時の先進技術が多用されており、堅固な造りに成っているので、仮想敵が織田に成り甲斐国からの敵進入を想定したとは言えあんな防衛施設の建設が限定される山城に拠点を遷(うつ)した事が小生は理解出来ない。
まぁ、山城ってのは高低差が有って敵も登山で疲れるし一見すると堅固に見えるけれど、実際は構築可能な防御構造と設置場所が限定されて余り城として強いとは言えないんだな。

話を辛垣城に戻す。
まぁ~辛垣城の構造は八王子城や津久井城に似ている。どうも三田家の最後の居城とは言われるが北条流築城術の改修が入っている様だ。竪堀を多用した構造もだが、この規模の城を地方豪族の三田家単独で築城出来る訳が無い。或いは北条家以前の扇谷上杉家時代に既に城は存在し、扇谷上杉家が滅亡後に北条家に三田家が臣従した後、北条家が甲斐国境を守る城として改修したのかも知れない。
三田家は上杉謙信が関東に攻め上って来る以前は北条家臣だったので、その時代の話だろう。
そして滅亡したのは長尾景虎(後の上杉謙信)10万の大軍が、3万の北条家に圧勝すると思ったので最後の三田家当主の三田綱秀公は長尾景虎に味方し北条家を裏切った所、小田原城は落城せず北条勢の逆襲が始まり、やがて滝山城主北条氏照公に攻められ勝沼城を放棄し更に辛垣城に籠り、最後は家臣と徴用した農民兵士達の生命の保証と引き換えに自ら城を退去して自害し、当主としての責任を全(まっと)うされたのだと思った。
寺に行く為に山を下りる際に珍しい事が有った。
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ニホンカモシカと睨み合いに成った(笑)。
鹿とは言っても牛の仲間なのでカモシカの体躯(たいく)は結構デカイ。
こんなんに突進されたら谷に落とされて終わるだろうな(笑)。
でも小生は睨み合いに勝った気がしたのでデジカメ取り出して「パシャっ!」と撮影した瞬間に音でカモシカは逃げて行きました。
う~ん、図体デカいけど臆病な生き物なんだね。
しかし、出会ったのが“月の輪熊”じゃなくて良かった。
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寺へ行くまでの林道の草花も綺麗でした。
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 う~ん!三田綱秀公の御蔭で新鮮で清々しい空気を満喫できたし、鹿にも会えた!
綱秀公、ありがとうございました!
綱秀公、現代の会社経営者、市の執政官や、県や都の知事には、貴殿の様に己の失政の責任を取り部下を守る為に腹を切る様な政治家も経営者もいません。
皆、自分の事、不正で私服を肥やしたり名誉欲に駆られた輩しかいません。
ですから、己が上杉に寝返った責任を取って部下達の命を守る為に切腹された貴方は本当に立派な殿様だったと思います。
そして、恐らく開城勧告をしに行った海禅寺(当時の寺名は福禅寺)の御住職様も、地域の農民と低級管理職の命を守る為に殿様に生命を奪う勧告を行われ菩提を弔った事は、現在の青梅市に生きる旧三田家家臣団の子孫達に生命を繋いだ立派な行いだったと思います。
御住職様、三田綱秀公。貴方なりの正義を約400年の時を超えて見せて下さりありがとうございました。

さて!
次回は、この続き、海禅寺訪問~へそまんじゅう総本舗~阿蘇神社~チューリップ祭りを書きたいと思います。 
では、又、この日の休日雑記の続きで 御会いしましょう~♪

明日、2016年10月23日(日)、元八王子で❝北条氏照祭り❞が開催されます。前日22日土曜日は八王子城址の案内所で解説者による講演も有ります。
北条氏照祭り公式様拝借 久良岐のよし 
※画像は公式様拝借。
2016年第5回 北條氏照まつり←八王子市のホームページ該当ページ
北条氏照(うじてる)公は武田信玄が南関東に兵23000の大軍を率いて略奪に来た際に、農民を滝山城内に保護し手勢3000で籠城しました。防御構造の複雑な滝山城三ノ丸に武田勢を引き込み痛撃し撤退させた部将で小田原北条家の一門でした。
方面軍総指揮官としての実績には疑問は残りますが、自ら率いる滝山衆(後の八王子衆)だけで行った合戦では負け知らずでした。そして内政力が高く城の水掘り代わりの溜池を利用して城下の農村の水田を灌漑水田にして生産力を上げた実績も有る方です。
付家老は北条家相模十四騎筆頭の間宮家、その間宮綱信(つなのぶ)公と言う殿様や後に水戸徳川家の家老にも成った中山家等の古来の坂東武者の一族達でした。
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元八王子には❝日本100名城❞の一つに選ばれた八王子城も有ります。
この城は間宮綱信公の縄張り(なわばり=設計)と伝わっています。間宮綱信公は北条家の外交官として横浜市の小机城代笠原政尭公と共に織田信長公に謁見し、名将の滝川一益公に接待され安土城下を遊覧されたりした人物でもあります。
八王子城自体は立派な規模の居住区の御殿や武家屋敷だけ完成し、背後の城塞部分が完成する直前に豊臣秀吉配下の上杉景勝・真田昌幸・前田利家・裏切った大道寺政繁の大軍28000に攻められ、防御準備不足、更に北条氏照公が不在だった事も有って落城してしまいました。
もし完成していたら、この城も成田甲斐姫の籠城した忍城、北条氏規公の籠城した韮山城と共に豊臣軍の北国軍を足止めし、北条氏勝公の籠城した玉縄城とも連携して小田原北条家は豊臣軍を苦戦させた事でしょう。
もしくは滝山城を更に改修するだけでも、武田信玄を撤退させた名城だっただけに豊臣軍を苦戦させ長期戦に持ち込めたのは間違いないのですが…
しかし、この城が完成する前に豊臣家と開戦する事態を招いた事自体は、北条氏照公の実兄で北条家当主の北条氏政公の戦略眼や戦力比較分析力の低さ、北条氏照公自体の性格にも原因が有るので歴史にif無く結果が全てとも言えます。
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御殿跡の近くには❝御主殿の滝❞が在りますが、ここは多くの神社仏閣を巡礼している小生には延喜式内社の聖地と似た様な雰囲気を感じるパワースポットの様な場所で、高さ3mほどの小さな滝です。
御主殿や滝の有る場所は谷間で、とても清々しい空気感が漂っています。
ここに姫様や家臣達が飛び込んで自殺したとアホな事を書く学者がいます。それを鵜呑みにする自称霊能者もいます(笑)。
現地に行けば一目瞭然(笑)高さ3mの滝に大勢で飛び込んでも下の人は良くて骨折、飛び込める人数も狭いのでせいぜい1人~3人(笑)、アホ学者や偽霊能者が言う様な事は起こり様も無い(笑)!
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そして山上の要害部分からはとても眺望が良く、空気が澄んで居れば新宿副都心やスカイツリーも見渡す事が出来ます。
そして❝御主殿の滝❞の説明でも申し上げましたが、ここは延喜式内社の様な正常な空気が漂っています。
実は、古来、この八王子城の山自体が牛頭天王信仰の聖地でして、京都の東山や祇園八坂神社、愛知県の津島大社、と同じ様な神道で言う所の素戔嗚尊信仰の聖地だったんです。
八王子市の名前が牛頭天王の八人の王子と姫を祀(まつ)る、この八王子神社に由来している事を知っている人は現在では多くないかも知れません。
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しかし八王子城本丸には現在も八王子神社が鎮座しています。
夏も過ぎて大分と涼しく成ったので山登りがてら八王子城を散策するのも良いと思います。
八王子城の麓には宗関寺と言う御寺が在ります。
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この御寺は旧北条氏照公家臣団によって江戸時代初期に建てられた北条氏照公の菩提寺です。
氏照公の御廟所は小田原市内と、この御寺の背後の山に在ります。御朱印も既に作成して有る物を頂けます。

ちなみに、この元八王子から車で30分位の距離に❝新選組❞所縁(ゆかり)の日野市があり、新選組幹部の子孫が運営している資料館が沢山有ります。でも御子孫の資料館は日曜日しかやっていないので注意して下さい。訪問するなら❝日野本陣❞と言う甲州街道の陣屋で、土方歳三さんの親戚の佐藤彦五郎さんの自宅 兼 天然理心流の道場だった旧庄屋の邸宅が見所として御進めです。
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ここには近藤勇さんも土方歳三さんも沖田総司さんも井上源三郎さんも度々稽古だけでなく遊びにも来ていたそうです。
この御屋敷の前に道場が在りました。明治天皇もこちらに在った専用の部屋に宿泊されたそうです。
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そして、もう一つ。この❝新選組のふるさと歴史館❞も日野本陣から車で10分程度の場所に在ります。
中には日野市の歴史と新選組に関する展示物が有って、学芸員さんに色々質問すると詳しく解説して下さいます。
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近藤さんのお兄さんの宮川さんの御子孫、土方さんのお兄さんの御子孫、井上源三郎さんの養子の御子孫が一緒に檀家になっている高幡不動尊も、日野市に在ります。
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とても大きい昔ながらの神仏習合の伝統を守る真言宗の古刹で、境内には明治時代以前のまま、御寺と神社が融合して存在しており飛鳥時代~江戸時代までの本来の日本文化を見る事が出来ます。
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ここでも土方さんは多摩地域の誇りとして銅像が立っています。

どうでしょう?こんな戦国時代にドップリつかれる元八王子と北条氏照祭り、近くの日野市の新選組関連の史跡、是非、お散歩がてら見に行って見ませんか?

では!又、次の解説記事で!



朝6時半に友人と駅で待ち合わせ車でピックアップ…
なかなかの日帰りで日程パツパツに詰め込んだ遠出強行軍をする日に、人の同行を許す事は無いんだけどね。
今日は特別な場所にアポを取り参加を御許し頂いていたので、先方に同行者を連れて行っても良いと許可を先に頂いてから、友人に同行するか声を掛けていた。
6時半出発
→午前7時ちょい、海老名SAで朝食を物色。
名物メロンパンを購入。
再び出発
→東名高速〜圏央道経由して本日第1の目的地に到着。予想に反して早く1時間チョイで到着。
そこは日本100名城の一つ、八王子城址。
まぁ、八王子城址は別記事で詳しく書くつもり。
実は、文献しか読まず現地を訪れないステレオタイプ歴史学者を小馬鹿にする素材がここに在るんですよ(笑)。
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御主殿の滝。
高さ2~3m程度の小さい滝、滝つぼの深さは僅かに20cm程度。
このすぐ隣が嘗(かつ)ての御殿(ごてん=殿様の普段の家)跡が在る。
ここは現地も訪れない❝誰かが書いたいい加減な資料をコピペするだけで現地視察もしない無能な小説家と学者❞達が❝城が完成前に真田昌幸公・上杉景勝公・前田利家に2万超の大群で攻められて、守る兵士が僅かの八王子城は北条氏照公配下の武将と御姫様達が御主殿の滝に飛び込んで自害した❞と有り得ない事を妄想で書いて心霊スポットにしてしまった場所なんだな(笑)。
酷い風評被害(笑)。
2mの場所から飛び降りても、やれて酷い打撲か骨折…死ねるか(笑)!
しかも!御姫様や家臣達が皆で飛び込む程広く無いし!
アホのウィキペディアで飛び降りて死んだとかコピペ編集したバカは、ここで飛び降りてどうぞ(笑)。
この小さい滝は水も綺麗で寧ろパワースポットの様に小生は感じましたよ。
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八王子城は未完成でしたので1日で落城した。
写真の通り、居住区の御主殿付近だけ防御施設が完成しており山上の要塞部分は石垣化は進行中だったものの、まだまだ防御施設は不十分な状態だったと思われる。
中腹ぐらいまでは大規模な畝掘り(うねぼり=山の斜面に縦に空堀を掘って、敵が山を自由に横移動出来なくする施設)も見受けられた。
…と、言うか又、八王子城を別記事で書く時に詳しく城址の説明はしますが、落城の原因は恐らく未完成だっからでは無いと小生は思った。
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※山城に行く恰好じゃない↑友人。
1日で落城した原因は、裏切者のせいで周辺の狼煙台が抑えられ機能しなかった事と、直接城内に通じている旧陣馬街道の存在のせいだと思う。
推測だけれども…
恐らく元身内で裏切者の大道寺政繁が、前田利家達の大群を先導し、北条側から補足され難く尚且つ直接八王子城内に続く山間の陣馬街道に現れたから、山上の要害部を守る武将はろくに交戦も出来ず尾根伝いに撤退するしか無く、陣馬街道より下に在る御殿に住む姫様達は逃げる間もなく自害するしか無かったのが真相なんじゃないかと思う。
それが、たまたま御主殿の滝のそばだっただけで、別に滝壺に飛び込んで死んだ訳じゃないと思う。
だって、御主殿の滝は飛び込んでも死ねないからね~。
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実は八王子城の本丸は関東の素戔嗚尊=牛頭天皇信仰の本場だった八王子神社の付近に在る。
八王子の地名の由来も、この八王子神社が起源だったりする。
関東は関東最古の大社で関東総鎮守と言われた鷲宮神社でも、武士団から関東総守護と呼ばれた神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社でも、関東は出雲系の神様が開拓した神話が残っている。
つまり、鹿島神宮も本来は出雲系の神様のいた場所を、藤原氏が乗っ取って自分の氏神を祀ってしまった事が良く解る場所の一つが、この八王子神社だった。
古来の関東人の信仰を守り伝える場所が八王子城と八王子神社だったりするので、場内には古代からの山間の尾根の古道旧陣馬街道が在ったりする…
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城址には梅も綺麗に咲いていた…
植物に例えると梅の花の様な女性が素敵だと思う。
早く梅林紹介の記事も完成させないとな。

八王子城を見終わったら、城址駐車場の手前にある八王子城の資料館を見学してから、更に手前に在る北条氏照公の菩提寺宗関寺を御参りして来た。
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曹洞宗の御寺。
北条家は曹洞宗を主に信仰する家風が有る。
だから、神奈川県内や東京都内で曹洞宗の古い御寺を御参りすると、大体が北条家やその家臣と関係が有る。
無論、北条家は他の宗派の御寺も保護されていましたし、家臣団は北条家臣として曹洞宗の御寺を守る以外にも自分の信仰する宗派の御寺を菩提寺にしていたりもしています。八王子神社や鶴岡八幡宮の様に神社も多く復興していて、北条家が文化を厚く保護する家風だった事も、歴史を好きに成ると解ったりする。
御参りし終わり、次は隣の日野市に移動…
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日野館と言う手打ち蕎麦の名店で食事。
実は、この店、元は旧甲州街道沿いの宿場町だった日野宿(ひのじゅく)の本陣で元々営業していましたが、建物が重要文化財に指定されてしまった為、元の場所から1㎞有るか無いか位の離れた場所に移転して営業している。
でも内装も落ち着いて綺麗。
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小生は鴨汁つけ蒸籠(せいろ)食べてきた。
その後、新選組ゆかりの日野宿本陣に移動。
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電車だと日野駅から徒歩5分~10分て処か?
小生は約10年振りの来訪。以前、友人と来た時に写真を撮影していなかったので、今回は写真撮影が目的。
ここの住人が実は新選組副長、土方歳三サンの御姉さんが嫁いだ日野宿の名主の佐藤彦五郎サンだった。
この門の在る辺りに昔は天然理心流の道場を佐藤彦五郎サンが所有していて、そこに近藤勇サンが稽古を付けに来て、土方サンや沖田総司サン、新選組六番隊隊長の井上源三郎サンが修行をしていた。
ここも、また、改めてブログで紹介したいと思う。
一しきり見学を終えると、次は…
❝日野市立新選組のふるさと歴史館❞に移動。2016-02-13-13-29-18
ここで、友人を放置したまま(笑)、学芸員の方を捕まえて色々、地元ならではのコアな話を教えて頂いた。
ついでに戦国期の後北条と日野市の関連性も教えて頂けた。
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エントランスの土方さんの写真。イケメンなんだけれど、なんかヒロミチお兄さんに似てる…
見学終わり、今日のメインディッシュ!
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なんと天然理心流の稽古に加わらせて頂いた!
奥に見える白い道着を着用されている人物は、新選組六番隊隊長の井上源三郎サンの跡を御継に成られた親族養子の御子孫で、井上源三郎さんから数えて5代目の方。
そして、今日は宮川先生もいらっしゃったが、宮川先生は近藤勇サンの実兄の御子孫。
行く前はピリピリした雰囲気を想像していたが、実際は三谷幸喜さんのドラマ❝新選組!❞のアットホームな近藤さん友人隊士達の関わりそのまま、とても暖かくて優しい雰囲気の不思議な空間でした。
とにかく、宮川先生も井上先生も親切で御優しい方だった!

この天然理心流の道場の近くに立派な御寺が在ったので、多摩に来た御土産購入ついでに立ち寄ったら…
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なんと、この御寺…
土方歳三サンの菩提寺の高幡不動尊こと真言宗高幡山金剛寺だった!
日本の神道も大切にされている真言宗だけあり、境内には稲荷社や弁財天様の神社も在った。
昔の平安~江戸時代の武士の価値観を受けつく由緒正しい御寺だ。
開基も清和源氏の家祖である清和天皇だったりする。
天然理心流や坂東武者に相応しい御寺だ。
土方さんの菩提寺なだけあり、どうりで商店街の饅頭屋の看板が↓コンナのに成ってる訳だ。
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御土産も買えたし、沢山、北条家と新選組の資料も集めれたし…
新選組所縁の御子孫にも御会いできたし、有名な御寺で奈良時代~江戸時代まで続いた日本人の神様も仏教哲学も大切にする思想であり、清和天皇の価値観でもある神仏習合の御寺も御参り出来て、良い休日に成った。

ブログネタ
旅に出よう! に参加中!

今日は土曜日の空いた首都高外環線と東北道を利用して埼玉の鷲宮と栗橋に行って来ました〜。
昼の13時〜弾丸往復して20時に帰宅しました〜。
鷲宮神社に行ってから、栗橋城跡に行きました…
栗橋城跡さんは余りジックリ見れなかったけど。
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戦国時代に小生の住む笹下から間宮家の殿様の当時の嫡子(夭逝)の間宮康次公のお姫様が、当時の鷲宮神社の宮司家大内氏に嫁がれているので、鷲宮神社の方に話を聞きに行ったが現在の宮司様は大内氏の御子孫では無く社務所の職員は歴史を継承されていないらしく、ただ神社の権威をお護りに成っている方でした。
でも権禰宜さんは歴史に熱心な方だそうで、タイミング悪く話せませんでしたので、日を改めようと思います。
立派な神社ですが町に観光地が少なく、いくつかの訪問先を組まないと遊覧先としてはコスパ的には厳しいですね。
ただ、鎌倉時代には北関東の総鎮守的な地位だった神社なので、源頼朝公や室町時代の古河公方足利成氏や足利晴氏から崇敬されたそうです。
文化財としても御参りする価値は非常に高いと思います。
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…アニメのロケ地らしく、商店街はソレっぽいキャラの看板が沢山有りアニメで町興ししてるみたいでした。
どこの町も産業振興大変だね。

小生、鷲宮神社様だけでは「埼玉に来て高速代往復3600円は勿体無いな」と思い栗橋城址にも行きましたが、
生憎(あいにく)の日没寸前の17時到着…
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城址公園では無く「雑木林に」埋もれ「一部残存」している城跡なので、藪漕(やぶこ)ぎするには残念ながら日没TIME UPでした。
しかし、GoogleEarthで現在地記録スクショし、現地で一部地形の微高底差は確認出来たので衛星写真と縄張りを比較検証する素材は確保出来たかな…
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ただ、服にチクチクする雑草の種が付き捲くって取るのが大変でした。

まぁ、中の中の休日?移動距離は往復200kmくらい。

あと、芸人「北陽」の出身高校の前を横切りました…
なんだ、このどうでも良い情報での〆。
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あ!
一つ良かった事は、北関東との境目でも富士山は綺麗に見えましたよ〜♪
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鎌倉武士文化の象徴を古河公方の旧領からも見えて良い1日に成りました!

ブログネタ
今年のゴールデンウィーク、楽しみましたか? に参加中!
小田原城と言うお城が神奈川県小田原市にあります。
2015年05月03日に小田原城址公園で「小田原北条五代祭り」が開催されましたので、小田原城の解説と御祭りを紹介する記事とを書きたいと思います! 
※写真は小田原城復興天守閣
(注:復興天守なので鉄筋コンクリート製)
上の写真の様(よう)な建造物を「お城」と思い込んでる人もいますが、それは大きな誤りですよ〜!
写真の様なの様にそそり立つ建造物を「矢倉(やぐら)」と呼び、司令所の役割を果たす「本丸(ほんまる)」と呼ばれる場所に立つ物は特に「天守閣」と呼びます。
小田原城は戦国時代には既に、まだ珍しかった天守閣が有ったそうです。
しかも!
現在の小田原城址公園は戦国時代の小田原城域の「ほんの一部分」でしかありません。
北条家が治めていた当時は石垣城より殺傷能力の高い岩盤や土を削り出して建造する自然地形を利用した城塞で、守ると言うよりトラップだらけの「攻め手を如何(いか)になぶり殺す罠にかけるか」に重点を置いた攻撃重視の施設群で構成されていました。
つまり戦国時代の小田原城は…
例えるならば「防御側スナイパーによる敵兵射殺を行いやすくする構造」と「敵兵が自滅して事故死する構造」が幾重にも設けられていた訳です。 

以前書いた「滝山城」と「小机城」と「茅ヶ崎城」の記事を見た方は御理解頂けますよね?
御参考までに…
⚫︎滝山城の記事→「ココ 」←クリック!
⚫︎小机城の記事→「ココ  」←クリック! 
⚫︎茅ヶ崎城記事→「ココ  」←クリック! 

戦国時代に圧倒的に不利な兵力差で何回も攻められても敵は城を落とせなかった訳ですが…
先ず認識して頂きたい事が一つ!
※1万を超えたら戦国時代では大軍です。
で、小田原城の堅城ぶりを示す具体例は以下の通り!
⚫︎VS上杉謙信&以下関東管領連合軍11万
 
北条家は11万超の大軍を有する上杉謙信から小田原城を1ヶ月守り通した上に、偽報を用いて関東管領軍の各大名の協調を崩し上杉謙信が撤退せざるを得ない状況を作り出し防衛に成功。
更に敵軍から失地回復に成功。
※上杉謙信関連の過去記事は以下
】←クリックで記事へリンク!
】←クリックで記事へリンク!

⚫︎VS武田信玄2万
※昔よく見たアレは畠山義綱と近年判明。
※近年では武田信玄の肖像画としてよくコレ↓が使われてます。 
武田信玄は2万超の大軍で八王子の北条氏照公の守る滝山城を攻撃するも落とせず、鎌倉の北条氏繁公の守る玉縄城は包囲しても玉縄城の堅城ぶりから撤退、小田原城に侵攻するも小田原北条家当主の北条氏康公の守る本城小田原城も当然ながら落とせず撤退。
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⚫︎VS豊臣秀吉軍(九州除く日本全土)20万
 
豊臣秀吉は20万の大軍を動員し、小田原城を本拠地にする北条家攻略軍を発する。
殆どの支城が無血降伏する中、落城せず頑強に豊臣軍に抵抗した成田長親と成田甲斐姫の物語、映画「のぼうの城」の 舞台の北条家臣成田家の忍城や…
北条氏規(うじのり)公の守る韮山城の攻防も本城小田原城の戦い並みに有名。
忍城では豊臣方石田三成軍28000vs北条方成田家3000で成田勢が防衛に成功。
韮山城では更に凄く豊臣方40000vs北条氏規公勢たった300で攻撃側を翻弄し防衛に成功している。
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更に本城の小田原城では秀吉軍20万を迎撃し、功を焦り攻め込んだ秀吉軍を痛撃し長期戦に持ち込んだ。
しかし重臣松田憲秀(のりひで)が裏切り内応しようとする事件が発覚すると北条家側に動揺が万延し、ついに降伏。
ただし、長期の籠城戦中、城に攻め込もうとした敵勢は全て返り討ちにしている。
因(ちな)みに、この戦国期の小田原城の縄張(なわば)り=城域は下の写真の茶色の線で区切られた広大な範囲でした。 
小田原城域 縄張り図 

…凄まじい範囲でしょう? 
東側は太平洋時戦争時の軍艦:酒匂の名前にも成った酒匂川(さかわがわ)近く久野川、西側は箱根温泉から注ぐ早川の急流を大外堀に、更に旧城下町を取り囲む長大な土塁と総掘(そうぼり)がそっくり後北条家の首府小田原を取り囲んでいました。 
当時の城下町は戦災の続いた京都から多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていたので、上杉謙信や武田信玄の攻撃を経験した小田原を市街地ごとソックリ守る戦国時代最大級の城塞へと小田原城は変貌していたんです。 
ですので、室町時代に移住してきた薬屋の中に、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんもいました。その外郎さんが高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の菓子の「ういろう」なんですね。 
その歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
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八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
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本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
image 

…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 

そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

さて、そんな小田原の城下町を守った総掘りですが、戦国期の総掘りと同じ時期に作られた大空堀の堀切(ほりきり=山伝いに敵が進入できないように尾根を切った空堀)が今も一部のこっています。 
今の神奈川県立小田原高等学校に行くと、その付近が戦国期の本丸と推定されている地域なのですが、そこから北西に徒歩2分くらいの距離に、当時の大空堀の一部が現存しているので撮影してきた写真をご覧ください。 
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この写真、戦国期掘り底から撮影したものです。 
つまり上杉謙信や武田信玄が攻めた頃の堀切ですね。 
あまり写真だと深さが解りませんでしょうか? 
今でのその深さは浅い場所で8、深い場所で10m以上ありますので、当時は空堀の深さは13〜15m前後はあったはずです。 
更によくみると「障子掘り」といわれる横移動出来なくするための形状の遺構の様なウネリも少し残っています。 
写真の部分はS字型にクランクが効いていますね。 
右上は昔は何らかの郭だったのだと思います。 

深さが解る写真を見てみましょう。 
撮影当日、たまたま地元の子供が散歩していました。 
小学校高学年くらいでしょうか? 
この子供と左手の切岸(きりぎし=人工的に作った崖地)を比較すれば、その深さが解りますよね。 
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現在でこそ樹木がしげっていますが、当時は土が剥き出しの壁面で、戦時には堀底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする仕掛けが設置され、空堀に水をぶちまけて泥壁にし敵の進入が不可能な状態にしてしまう訳です。

この付近には案内看板も沢山あり、戦国時代の縄張り図も掲示されています。 
まず県立小田原高等学校のある辺りに行ってください。
そうすると、付近に下の案内看板があります。
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小峰の大堀切と言うのが戦国時代の大空堀残存部分です。
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で、小田原高校が現在地と書いてある位置で、戦国時代に本丸が置かれた辺りに近い重要な場所だったのが解りますね。
写真真ん中辺りの「本曲輪(ほんくるわ)」と言うのが、つまり江戸時代の御城で言う所の天守閣や殿様の御殿が置かれる本丸に当たる施設があった所です。
戦国時代の小田原城の位置関係を現在の小田原城の本丸と比較するとこんな感じ…
大空堀位置
今の本丸は戦国時代は本丸ではなく、戦国時代はもっと山の上にあったんですよ。
すっごく、スンゴク!巨大な城域だったんです!

そして、この巨大な城郭の出入口が「大手門」と呼ばれる城門や、「虎口(こぐち)」と呼ばれる裏口です。
実は間もなく宅地開発で消滅する、北条時代の小田原城の虎口の「百姓曲輪(ひゃくしょうくるわ)」と言う史跡が幸運にも2015年05月03日の小田原城址祭りの日に消失前最後の状態を観察してこれたので、その百姓曲輪の構造を参考に虎口を解説したいと思います。
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。
百姓曲輪は今、発掘調査中で調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。
八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分に掘ってしまっています。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
「角馬出し」とは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。
城門に突入しようとする敵は、城門の前の「角馬出し」と呼ばれる防御構造に陣取る守備側の狙撃手から容赦無く鉄砲や弓矢で射殺されてしまう訳です。
そんな構造が良く解るのが、この「百姓曲輪」なんですね。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

…上杉謙信が攻めた時代の小田原城に話を戻します。

アホのwikipediaで小田原城の項目を編集した人間は蓮池門を上杉謙信軍の太田資正に破られ落城寸前なんて阿呆な事を書いていますが、蓮池門なんぞ当時一番外側の門を一つ破られただけ、言い換えると引き込んで殲滅出来る状態な上に、その先に幾重もの曲輪と殺人トラップが設置されていた訳で、落城とは程遠い状態だった事が解ります。
ですから、蓮池門の前で上杉謙信はわざわざ北条勢に対し余裕を誇示するパフォーマンに弁当を食べたなんて演技じみた事をする必要があった訳で、いずれにしても戦国期、総掘りがまだない小田原城も城塞部分の縄張りは鉄壁だった事を示している訳です。
では、その蓮池門を今の小田原市と小田原城址公園を基準に衛星写真と縄張り図で比較して解り易く特定してみましょう!
【縄張り図】
蓮池門縄張り図
【衛星写真】
蓮池門航空写真
さて、位置関係は解って貰えたでしょうか?
これを踏まえて、上杉謙信が攻めた頃の戦国期の小田原城の予想範囲の全体像を再度みて下さい。
初期小田原城予想範囲図
この赤線の範囲を上杉謙信軍11万が包囲した初期小田原城域と見積もっても、たかだか蓮池門一つ突破されただけで落城云々言うのは「片腹痛いわ!」と、思わず言いたくなりませんか?
この範囲を初期の小田原城の範囲と小生が仮定した根拠は、じつはこの範囲が一つの尾根で繋がってる連結部分だからです。
航空写真で見たうえで実際に徒歩と車を併用して見て回った上での予想です。

この蓮池門跡は今現在、幸田門跡と名を変え商店街の中に存在しています。
現地には今でも蓮池門の曲輪跡の土塁が保存されています。
下写真↓この場所です…城跡には見えないでしょうか?
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現在でこそ水掘りは埋め立てられてしまっていますが、ちゃんと一部でも保存しようと言う小田原市民の気概が素晴らしいですね。

門跡の内側から外側の進入口だった商店街を見ると今は平和な風景が…
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そんな幸田門=蓮池門跡には城ファン以外の人にも城跡の一部分だと解るよう現地には看板もあります。

…心無い人に一部引き裂かれてしまっていますが、なんとか読めます。
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まぁ、しかし、小田原城で防戦指揮を執った名将の北条氏康公は、何とか軍神とも呼ばれた上杉謙信を撤退させる事に成功したとは言え北条家の支配地域の被害は甚大でした。
鬼畜の上杉謙信は北条家の小田原城と支城(しじょう=本拠地に付属する各地域の支配拠点の城)の城下町を焼き払い、至る所の神社や御寺や農家や商家を略奪して回り婦女子を奴隷として連れ去り売買したり、上杉謙信と、後に同じ事をする武田信玄の暴虐により農民がいなくなり廃村寸前になる村が沢山出てしまいました。
この反省を踏まえ、小田原城は安土桃山時代のには幾度の改修を加えられ茶線で囲まれた範囲に拡大され城下町ごと堀と土塁で取り囲む↓この範囲に成った訳です。
小田原城域 縄張り図
その改修過程で中期に、先述の「百姓曲輪」のある丘陵が外側の守りとして拡張された総構えに成っていたのだと思います。
百姓曲輪は出撃も出来る虎口「角馬出し」を有しつつ、別ルートから内側に侵入した敵を迎撃する構造のある郭が有り、更にその「角馬出し」と「百姓曲輪」の間に土塁で城門跡と思しき幅の出入口が設けられていましたからね。
恐らく上杉軍の「略奪」や「人取(ひとど)り=民間人の大量拉致」を経験し、農民を守る為に農民の収容先として想定されて造られたから名前に「百姓曲輪」の名残があるのでは?と、推測しています。
更に武田信玄による農村焼き討ちや略奪も経験し、最終形態の「総構え」に成ったのだと思います。

で、その総構えの外側の防衛施設「総掘り」の規模が先に紹介した戦国時代当時は深さ15m以上傾斜角度60度以上あったであろう「小峰の大堀切」と同規模かそれ以上のものだった訳です。
※一応、小峰の大堀切↓画像
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さてさて、では、ここからは皆さんが想像する「御城らしい御城」の部分、現在の小田原城址公園=江戸時代の小田原城復興史跡を見学する際の小生の御勧め見学ルートを辿りながら、構造を解説して行きたいと思います!
御勧めのルートは、まず最初に先ほど説明した「蓮池門=幸田門跡」を見学コースのスタートとしたルートです。
①幸田門跡
  ↓
②銅門(戦国~江戸時代の城門復興史跡)
  ↓
③馬屋曲輪
  ↓
④馬出曲輪
  ↓
⑤二の丸~本丸への進入口
  ↓
⑥本丸と本丸の売店(笑)
  ↓
⑦天守閣
  ↓
⑧御米曲輪
  ↓
⑨車の人は二の丸方面から三の丸へ抜けて退場、戦国時代の城域を見学したい人と電車の人は御米曲輪側裏口から退場。

※位置関係は↓コンナ感じ
小田原城見学

見学に際し気をつけて頂きたいのは…
JR小田原駅からだと裏門、小田原城址公園の市営駐車場からだと城正面の最近架橋された歴史の無い赤い橋から入場してしまいますので、遠回りでもまずは「幸田門跡」に行ってみて下さい!
さもないと昭和の高度経済成長期に破壊された殺風景な城らしくないただの公園を散歩しているような印象を受けかねません!

幸田門跡は既に解説したので改めて説明の必要はありませんね。
では幸田門跡~現在の小田原城址公園に歩いて行くと、そこは昔の三の丸の跡です。
そこでは、こんな風景が見えます…

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水掘りと石垣が見えますね。幸田門側から見たこの石垣側が昔の二の丸です。
そして、この端っこの一段高く造られた建物の土台の様な石垣は「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれる防御施設が有った遺構です。
この土台の上に、防衛側が鉄砲や弓の射撃手に敵を射殺させる為の防衛拠点が立っていました。
その建物は小さな天守閣の様な構造の物が多かったようです。

この隅櫓を横目に二の丸の水掘り沿いに進んで下さい。
そうすると下の「赤い橋」が見えてきます。
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注意!:絶対にこの橋から二の丸に入らないで下さい!
何故(なぜ)この橋を渡ってはいけないかと言うと、この橋は戦国代や江戸時代には存在しなかった偽物の建築物で、ここを渡っても御城らしい施設を見る事は出来ません!。
昭和の高度経済成長期、無知な当時の神奈川県行政は商業主義に走り史跡を破壊し、こう言った偽物の施設を史跡に沢山つくってしまったんです。
この橋を渡ると史跡を破壊し更地にした殺風景な広場があるだけです。

と、言う訳でこの「赤い橋」をスルーしてずんずん西側に進むと直ぐに江戸時代の城門を近年に復興した史跡が見えてきます。
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この漆喰塀の切れ目が見えたら、そこに江戸時代の城門があり、観光客もそこから城址公園に入場出来ます。
なお、この付近に下の看板があり、その「馬出門」と言う城門のと、「枡形虎口」と言う防御構造の解説が見れます。
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さっきの「赤い橋」じゃなくてこっち↓が本物の入口ですからね!
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ね?御城らしい風景に成って来たでしょう?
この「馬出し門」で見るべきポイントは2つあります。

一つは門を取り囲む城壁にある沢山の長方形と三角形の小窓。
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2つ目は馬出し門の最初の門を突破すると次の城門をぐるっと四角く取り囲む構造です。
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実はこの城門を四角く取り囲む城壁の構造が「枡形」と呼ばれる防御施設なんです。

滝山城の記事を書いた時にも触れましたが、「枡形」について改めて説明をさせて頂くと…
枡形と言うのは、城門を囲うように四方を壁で取り囲んだ施設で、進入してくる敵はその数を制限されてしまう上に、まさに防御側から見て攻撃側は「袋のネズミ」になり、防御側は城門を取り囲む枡形の城壁に設けられた射撃窓から雨あられと鉄砲玉と弓矢を射掛(いか)けて、侵入者を集団射殺してしまう恐ろしい構造です。
この枡形虎口は北条流の築城術の特徴です。
敵を引き込んで殲滅する、恐ろしい施設なんですね。

因みに、武田家は「丸馬出し」と言う構造を城門の前に多用していました。
※武田家最後の拠点「新府城」の縄張り図と丸馬出しの拡大図。
新府城
真田幸村(本名:信繁)が大阪城で徳川軍を散々に痛めつけた時に立て籠もっていた要塞「真田丸」も、この丸馬出しを巨大にした構造物でした。
北条流の枡形虎口が防御しながら敵を引き込んでなぶり殺し殲滅する」のに対し…
武田流の丸馬出しは敵を引き付けて、そこから全方位射撃を積極的に加える言うなれば相手をおびき出して集中砲火を加える「攻撃の為に敵をおびき出す」構造と言えます。
丸か四角かだけでも戦術が違うのが理解出来ますよね?

話を小田原城の「馬出し門の枡形」に戻します…

敵を引き込み袋叩きにするのが枡形な訳(わけ)ですが、その敵を射殺する為に防衛側がスナイパーを配置する馬出し門の入口を狙う位置に有るのが下の写真の射撃用の窓です。

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長方形の窓が弓矢用、三角形の窓が鉄砲用だそうです。
恐らく長方形は弓矢を突っ込む為に必要な形状で、細長い筒状の鉄砲は先を出せる三角形の小さい窓で十分なんでしょうね。

この射撃口は内側が広く外側が狭く角度がついているので、見た目以上に射撃可能な範囲が広く、且(か)つ敵からの攻撃を受けにくい構造になっています。
別の写真で角度別に三枚その射撃範囲を御見せしましょう。
※正面向き
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※左向き
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※右向き
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ね?
こんな小さい窓で結構広範囲を射撃出来るでしょう?
しかも正面なんか城門入って来た敵を狙い撃ちに出来る位置ですよね。
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よく考えられて作られていますよね~。
ちなみに、この復興城門は北条家の戦国時代の縄張(なわば)り=設計を、江戸時代に徳川家臣で後に小田原城主に成った大久保家が改修して今の姿に成ったと言われています。
恐らく戦国時代は土塁=土壁か土塁の上に設置した板塀や漆喰塀にこのような小窓が設けられていたんでしょう。
これらの馬出し門枡形防御構造の有る「馬出し曲輪」を突破すると、次に見えてくるのが馬屋曲輪です。
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今でこそ土塁は取り払われてしまっていますが、当時はこの馬屋曲輪を取り囲む様に高い土塁が張り巡(めぐ)らされおり、その上にさっきの馬出し門と同じ様な射撃用の小窓のついた塀が設けられており、更に角には隅櫓が設置されていました。
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下の写真を見ると当時の構造が良く解ります。
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この石垣が馬屋曲輪の隅櫓が有った土台なんですね。
ここから三の丸に侵入した敵を捕捉(ほそく)し、ここを守る武将が周囲の守備兵に対し作戦命令を指示する訳です。

馬出し門の右手には、いよいよ二の丸に侵入する敵兵を迎撃する小田原城で一番立派な城門「銅門(あかがねもん)」待ち構えています。
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銅門も見ての通り「枡形」構造に成っていますが、枡形銅門の最初の門の手前には「住吉橋」がかかり、水掘りによって敵兵が容易に城門にとりつけなくする意地悪(笑)な設計になっています。
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住吉橋の門の上の漆喰塀にも沢山の射撃口が見えますよね?
この狭い橋には槍を持った敵兵は2列か3列でしか突入できず、その3隊列の先頭の人間から順番に射殺されてしまう訳です…
怖いですよね。

銅門を内側から見ると下の写真みたいな構造に成っています。
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櫓門(やぐらもん)と呼ばれる構造で、この建物は倉庫の機能と守備兵を収容する機能があります。
守備兵はこの建物の床に設けられた小窓から、進入してくる敵兵に…
「加熱し沸騰させて煮えたぎった油や糞尿
…を浴びせかけて大火傷させたり、弓矢で攻撃したり石を叩き付けて敵を撲殺したりするんですね。
守備兵に攻撃された侵入者は臭いし熱いし大火傷して痛いし、後ろは味方の兵士がいて逃げ帰る事も出来ず身動き出来ないまま皮膚呼吸出来なくなり痛みにのた打ち回りながら酸欠死するかショック死するか…
いずれにしても悲惨な事に成る訳です。
因みにこの糞尿&油戦法、太平記の時代に赤坂城や千早城で足利尊氏公を苦戦させた有名な南朝方の忠臣の楠木正成(くすのきまさしげ)公が得意とした戦術でした。

さて、この銅門を突破すると、いよいよ江戸時代の本丸と天守閣が見えてきます。
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でも勿論(もちろん)、すんなり本丸に辿りつける訳は無く、その手前には常盤門と言う城門が待ち構えており、更に!そこに至る前に又、泥の堀と土橋を突破しなければいけませんでした。
下の写真は昔、本丸下の泥の堀が有った場所で、今は埋め立てられて観賞用の花が栽培されている畑に成っています。
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銅門を抜け二の丸~本丸に至る土橋を渡ると…
侵入しようとする敵に再び「枡形」構造のある城門が待ち構えています。
この門は常盤木門と言います。
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常盤木門も櫓門(やぐらもん)」と枡形とが一体になって設けられています。



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もう、ここまで攻め込んで来たら確実に蓮池門で先頭に立っていた兵士は生きていないだろうね…
幸い歴史上ここまで攻め込んで来れた攻撃者はいなかったので沢山兵士が死なずに済んだ訳ですが。
実は、戦国時代の御城の大半は戦争を経験していません。
小田原城でも城内で交戦が有ったのは、先述の上杉謙信&関東管領連合軍旗下の岩槻城主太田資正(おおたすけまさ)公が攻め込んだ蓮池門と三の丸までです。
豊臣秀吉軍は攻め込もうとした武将もいましたが城門を一つも突破する事すら出来ませんでした。

しかしながら…
豊臣秀吉の軍は強大で、小田原城攻め参陣武将は…
さながら戦国武将百科事典の様相(ようそう)を成していました。
その総兵力22万
対する北条軍は総兵力6万、籠城兵は3万とも…
衆寡敵せず勝てる筈は有りません。北条家が兵11000で古河公方軍兵80000に大勝した時とは異なり、相手は歴戦の織田軍の生え抜き。しかも名将揃い。


兵の多さ云々以前に羽柴勢(豊臣)に参陣している武将がとんでも無く凄い… 秀吉の小田原攻め布陣図
豊臣秀吉・豊臣秀次・羽柴秀勝・宇喜多秀家・加藤嘉明
徳川家康・酒井忠次・榊原康政・奥平信昌・大久保忠世
織田信雄・織田信包
蒲生氏郷・丹羽長重・池田輝政・細川忠興・堀秀政・九鬼嘉隆
毛利輝元・長宗我部元親
更に秀吉本隊には軍師黒田官兵衛や、加藤清正、福島正則等々…

この合戦、最大の敗因は確かに松田憲秀一族の内応は有りましたが、それ以前に北条氏政公が敵の戦力と先述と状況の分析を見誤った事にあります。

実は小田原征伐以前、北条家は過去上杉謙信の10万の軍から小田原城を守り切った事や武田信玄を撤退させた時と同じ様に、北条家のとった戦術は各地の支城(しじょう=地方拠点)の防備を強化し野戦を行わず徹底的に籠城させる作戦にでました…
その作戦は敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦です。
しかし!この豊臣秀吉は敵が経済的に優位で兵糧補給に事欠かず、しかも得意戦術は城攻めの際に敵城を包囲する陣城を構築し逆に籠城側を兵糧攻めにし戦意喪失させて離反者を増やし籠城不可能に陥らせる作戦なんです。
既に、戦術で逆転の目を潰されており完敗確定していたと言っても過言では有りません。
実はこの籠城戦術を強硬に主張したのが当時、北条家中で家老職に在り発言力の有った松田憲秀と、その息子なんですね。
彼等は当初、敵の戦力分析より過去の実績を盲信し、自分達の地位の保身の事を優先させたのでしょう。
しかし、この籠城には敗北しか無いんですよ。援軍も来なければ、敵軍の兵糧が枯渇し撤退する事も無いですからね。

以前との状況の違いを説明しましょう。
上杉謙信連合軍は参陣武将が寄り合い所帯の地方豪族ばかりで、個々の北条方が支城に戦力を分散させて籠城しても個々の豪族に北条家の支城を落とせるだけの戦力は有りませんでした。
この時の北条側の各支城の戦力は兵3000前後です。地方豪族の戦力もそれと同等でした。
しかし
豊臣秀吉軍は諸大名の連合軍を地方ごとに方面軍化し各大部隊が少なくとも2万以上の戦力を有していました。これは各方面軍がそれぞれ以前の武田信玄の最大動員数2万強に匹敵する戦力に成る訳で、その戦力でたかだか数千の支城を本気で攻めれば一般的には守りきるのは不可能に近い訳です。

しかも、以前と異なり、北条氏照公等各武将は小田原城に詰めてしまって居て、各支城は老兵や女子供ばかりな訳で普通にいけば秀吉の各方面軍には太刀打ち出来る要素が無いんですね。

もっとも…
こんな中で最後まで落城しなかった…
忍城  …成田長親公・成田甲斐姫3000vs石田三成軍20000⇒援軍到着後:石田三成軍50000
韮山城…北条氏規公300vs秀吉軍40000
この二城の戦果は通常ではあり得ない、防衛側の籠城成功からの北条家による開城命令で決着しました。
実は、この城以外の多くの城は戦わずに降伏してしまっていたんですね。
交戦した城は全て落城しています。八王子城や神奈川県相模原市の津久井城、伊豆の下田城、箱根の山中城、吉良家の世田谷区の世田谷城など、全て攻略されてしまいました。
落城した城の中で秀吉軍相手に健闘したのは、山中城の出城袋崎出丸で活躍した黄備え隊副将間宮康俊公の部隊200と、伊豆下田城に籠城した清水康英公の兵600くらいでした。
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上の写真は間宮康俊公が玉砕した際に活躍し名声を獲得した場所の山中城の衛星写真。

因みに強硬に小田原籠城を主張した松田憲秀は、言いだしっぺなのに息子と秀吉に内応(ないおう=うらぎり降伏する事)しようとして幽閉切腹処分されています。

この小田原城包囲に用いた攻城戦術において秀吉は既に「小寺家の御着城攻め」「別所家の播磨三木城攻め」「毛利家配下吉川経家の籠城した鳥取城」で成功実績を挙げていました

もし、北条家の執政者北条氏政公が、事前に秀吉の実績と周辺大名の外交情報をちゃんと分析していれば、この籠城作戦をとらず織田政権時代と同じ様に早期に傘下に入っていたでしょう。
寧(むし)ろ、何で織田信長公の勢力版図より広い領土を手中に治め、周辺有力大名を屈服させていた秀吉に交戦したのか小生には個人的に理解不可能なんです。
恐らく、全ての戦犯は北条家中で権力を牛耳(ぎゅうじ)っていた逆臣松田憲秀による政治判断の誤りでしょう。
しかし、北条氏政公の戦力分析と状況判断に誤りが有ったのは間違い有りません。

実は…
この北条氏政公の情報分析力の欠点を早くから見抜いていた人物がいました
…それが御父君で名君と名高かった北条氏康公です。
こんな逸話が現代に伝わっています。
ある日、合戦の陣中で北条氏康公と北条氏政公親子は食事を共にとりました。
戦時中の食事なので白米に味噌汁をかけて食べるだけの簡単な物です。
この"猫飯(ねこまんま)"を食べる際、氏政公はご飯に味噌汁を2杯かけたそうです
すると!
北条氏康公「将たる者、白飯にかける汁の分量なぞ1回で決めれずなんとするか!」と激怒したそうです。

皆さん、何で氏康公が怒ったのか、もう御判(わか)りですよね?
つまりこうです…
「御椀に入った飯の量」…敵兵の戦力
「飯にかける味噌汁の量」…投入するべき自軍の戦力
…この分量を見誤る様では、合戦で敵味方双方の分析を見誤り敗戦を招いてしまう訳ですね。

然(しか)して、氏康公没後、秀吉による小田原北条家への降伏勧告と討伐戦の両方で、北条氏政公は双方の勢力分析と戦術分析を誤り小田原北条家の滅亡を招いた訳です。

因みに小田原北条家は滅亡しましたが、北条家自体は存続している事を御存知無い方も多いので捕捉説明させて頂きますが…
実は!
韮山城で奮戦し防衛に成功した北条氏規公が秀吉に3万石で大名として復帰させられ北条家は江戸時代を生き抜き、明治時代まで大阪府狭山市の狭山藩として存続しました
狭山と言う地名は北条家の旧領武蔵国にもあり、何だか因果なものですね。
今も御子孫がちゃんと生きてらっしゃいます。

さて…
今日はここまで!

次回はいよいよ本丸の風景とにうつります!
が!
すみません!
前回、前々回と戦国期小田原城の写真ばかり撮影して天守閣に登る時間がありませんでした!
ですので、本丸の写真だけでは寂し過ぎるので、今年中にもう1回、箱根温泉にでも宿泊に行くついでに天守閣に登って写真撮影したら小田原城の記事を更新します!


小田原城の記事は又年内以内に! 

では又!次のブログ記事で御会いしましょう!

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