歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:北条氏綱

午前中に母と二人で義祖母の御墓を掃除してきた。
御正月に会いに行ってあげられなかったからね~。
お婆ちゃん、血が繋がって無いのに本当の孫同然に可愛がってくれて本当にありがとうね~。
家族で一緒に川崎大師に御参りしたり、八幡橋の八幡様御参りしたり、緑区にハマ梨の果樹園に梨狩りに行く時にいつも買ってくれたビスコかコアラのマーチかヨーグル、飽きてたけれど嬉しかったよ~。

昼寝して起きたら夕方に海と夕陽を見たく成った。
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由比ヶ浜、昔は由比ヶ浜だった材木座、その海岸に聳える砦跡だった住吉城塞跡に建つ正覚寺とその城址の寺院の更に奥にひっそりと佇む住吉神社を御参りして海と夕陽と富士山を眺めて来た。
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この風景が見える住吉城址は神奈川県の戦国時代を代表する武将で尊敬する先人でもある北条早雲公こと伊勢盛時公の小田原北条家と三浦義意公の三浦一族の激戦地に成った場所だ。
丁度、鎌倉郡と三浦郡の境目、つまりこの城を起点にして三浦半島に入る。
住吉城址と和賀江島 久良岐のよし
ここを攻め落とされたら三浦家は戦略敵に情況挽回困難に成る場所で、正に海の断崖に聳(そび)え立つ城のまま❝瀬戸際❞の城でもあった。そんな城だから相模の大名、佐原三浦家でも重要な武将、三浦道香公の居城だった。三浦道香公は当主の三浦道寸公の御実弟で小生の尊敬する武将の一人である三浦義意公の叔父上だった。
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しかし伊豆韮山城に隠居した北条早雲公の跡継ぎの小田原城主北条氏綱公は戦国時代初期に置いて攻城戦を得意とする屈指の武将で、この住吉城に至るまで関東最大級の大城郭であり湖沼に浮かぶ丘の城だった伊勢原市平塚市に跨る三浦家の岡崎城攻略を皮切りに、佐原三浦道寸公の実家の扇谷上杉家の大城郭、伊勢原市糟屋舘を攻略。更に糟屋舘や岡崎城や小田原城よりも巨大で堅固な大庭城も攻略し三浦道寸公を三浦家最後の拠点にして絶海の堅城新井城に追い詰めた。そして4年の包囲攻城を経て新井城は落城する。
住吉城の城名恐らく古代から存在したであろう正覚寺裏の住吉神社が存在した事に由来する。
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正覚寺の参道を登る。
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住吉山 悟眞院 正覚寺
ガラス戸で覆われた本堂を参拝し、生け垣の向こうを右手に折れ墓地を抜ける。
すると隠し道の様に住吉神社の参道が現れる。
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人の往来が途絶えた今、映画のロケ地にも使われそうな、神様の式神が帯剣して出迎えて下さりそうな雰囲気の漂う神秘的な神社。誰も参拝に来なく成ってしまったのでひっそりとしている。
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住吉神社(住吉城城名由来の古社)
でもこの神社には最低でも鎌倉時代に人の往来の在った証拠が有る。
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矢倉、納骨穴も確認出来る。
ここに船の往来の安全と土地開拓を見守る住吉神社が開かれたのは目の前が海で古代の街道だったからだろう。
そして城を築くのに相応しかった場所で有る事も湧水が有る事から解る。
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今では大切にはされていない神社だが、ここでは鎌倉時代や室町時代くらいまでは雨乞いの神事も行われたかもしれない。
井戸の奥には住吉城址の馬場に通じていた隧道が存在する。
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しかし土建屋がリゾートマンションを建設してしまったので馬場への出口は封鎖されており今では通行できない。
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ここが解放されて又、人が久木方面へ往来する様になれば小坪も栄えるのにと思う。
城を降りて嘗(かつ)ての城壁の役割を果たしていた断崖絶壁を下から仰ぎ見る。
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古代東海道:住吉要害直下の切通し(廃道)
何回かここ住吉城址の❝古代❞の事を記事に書いた事も有るが、この城址下の廃道の切通しが古代東海道と考古学的に考えられていたのだが神奈川県と逗子市が交通封鎖してしまい日本武尊が通ったかも知れない古道はいまでは鬱蒼とした雑草に覆われ往古と同じ人の往来は絶えた。
この雑草の生い茂る廃道の上、崖の壁面にも大潮の日や台風の日も想定された恐ろしく幅の狭いとってもじゃないけど渡る気のしない切通しが2本開削されているのが解かるだろうか?実際に昔の写真にも乗っている道なので、あの崖の細道を人が往来した様だ。
・・・仮に現代、フェンスで通行止めに成っていなくても高所恐怖症気味の小生には無理だ。
そこから小坪飯島公園の海辺に降りて来た。
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小坪飯島公園小坪飯島公園の埋め立て地の突端からは綺麗に相模湾の由比ヶ浜の海~稲村ヶ崎~江ノ島~箱根山系~富士山が見える。
2年前、ここで地元の女子高生2人が夕日と富士山と一緒に写真のモデルに成ってくれたのを思い出した。
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あの子達は元気に大学生に成って頑張ってるだろうか?きっといつまでも親友で交流が続くんだろう。
お互いに子供を産み、御互いに家族で交流する様な、そんな末永い友情を育んで欲しいと思う。
昨日2019年の正月04日は雲は多かったが、それなりに良い写真が撮れた。
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1人は寂しいけれど少し爽やかな気分に成った。
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源実朝公も寧波に渡りたくて和賀江島で船を造船させて度々見に来ていた美しい風景、小生は鎌倉と横浜を行き来して今と過去を行き来しながら生きている・・・
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やっぱり歴史と綺麗な景色が好きだ~。
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冬凪に偉人も眺めし由比の富士
吾今に生き往古を活かす
作:俺氏
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冬望
作:俺氏

冬和風度由比濱
故人自此望寧波
海波在夕陽下萌
彩雲散歴歴富士
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ー自作の漢詩意訳するとこんな意味ー
冬望    作:俺氏
(冬に望む)
真意:厳しい時の細やかな望み。

冬和風度由比濱 
(冬、由比ヶ浜に優しい風が吹き渡る)
真意:厳しい情況でも鎌倉に来て景色や文化に触れると落ち着く。

故人自此望寧波 
(昔の人は此処から遠く寧波の海を見た)
※昔の人=源実朝公
真意:源実朝公は家臣達が殺し合い謀略飛び交う政権を嫌い、自ら地位財産名誉を捨て、此所の和賀江島で船を建造し寧波に行き南宋に亡命し個人として健やかに過ごす事を願って度々海を見に来ていた。

海波在夕陽下萌 
(海波は夕陽の下で萌えている)
真意:夕陽に照らされた青い海が緋に染まる様が、自分の落ち込んだ気持ちを明るくしてくれる。

彩雲散歴歴富士 
(彩雲も散り富士山もよく見える)
真意:綺麗な雲に隠れていた富士山も風に雲が散りハッキリと見えて来た様子が、モヤモヤした気持ちを吹き飛ばしてくれる。

源実朝公と自分は同じ鎌倉の文化や風景を見てる時代も立場も感じ方も違うけど、望みはささやかで同じ、二人とも人として健康に幸せに成りたいだけ。
健康で心休まる生活と信頼出来る人と家族が欲しい。
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夕陽を見て少し物悲しくも爽やかな気分を満喫して車に乗り込むと家路に着いたのだが、そう言えば今年は鶴岡八幡宮の源頼朝公や源頼家公の御神霊に新年の御挨拶を申し上げて無い事が気にかかり、大町の辺りで鶴岡八幡宮の前身の元鶴岡八幡宮=由比若宮が有る事を思い出し、ついでに以前から気に成っていたJR横須賀線の踏切近くに在る辻薬師堂にも御参りする事にした。
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辻薬師堂CIMG7904
往古は木食五行上人様も御関わりに成られた場所の様だ。未だ詳しい事は調べていない。
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それなりに大きな寺院が前身寺院だったと言うのは境内の掲示物で判った。
関わった木食上人と言うのは珍しい御方で仏僧でありながら、どの宗派にも属さず、仏像彫刻を極めた事で僧侶として高名に成られた方なので、今でいえば僧侶兼仏師と言った所だろうか?
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色んな神様の石祠も有り、神仏習合の場所として開かれた事が解かる。
この御寺が衰退してしまったのは、逆にどの宗派にも属さなかったせいかも知れない。
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掲示によると元々、この辻薬師堂に祀られている薬師如来様はは源頼朝公の建てた大寺院永福寺の塔頭の様な存在の僧坊に藤原一族の二階堂行光によって造営されたらしい。
現在の辻薬師堂は一見すると真っ暗で何も見えず正直余り期待せずに御参りしたのだが、御賽銭いれたらビビった!
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堂内が点灯し中の立派な薬師如来様と脇侍仏様がライトアップされて参拝者の小生に御姿を見せて下さった。う~ん粋な演出だね~!
一応、これからも辻薬師堂が多くに人に大切にされますように~とお祈りして来た。
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線路を渡り10mもしない所から由比若宮=元鶴岡八幡宮=鶴岡八幡宮元宮に入る参道に辿り着く。
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ここも古来の規模で社殿は大きくは無いが、関西ら八幡様の御分霊を源頼義公が勧進して開いた本当に本当に由緒正しい八幡宮だ。源頼義公の時代は鎌倉市街も材木座上りは海や入江の干潟だったので、鶴岡八幡宮元宮は治水・海の神様として高潮除けに勧進されている事が地理から良く解る。
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正月だったのでいつもやってない社務所が営業していて、販売員のお姉さん方と少し雑談をした。
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由比若宮=元鶴岡八幡宮ここが源氏の征夷大将軍への道の第一歩としても過言では無い由緒正しい神社だったりする。
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手水社は普通。
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でも軍神の異名を持った源頼朝公の四代御先祖に当たる源❝八幡太郎❞義家公が旗を立てた場所でも有ったりする。
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何にせよ由緒正しい場所で、関東地方や東北を含めた東日本全体の八幡信仰の起点はここで、ここから鎌倉武士団によって其々の国へ八幡信仰が拡散された歴史を辿れる場所にも成っている訳だ。
因みに近代、この場所には芥川龍之介の家が有ったそうだ。
だから明治の文豪が好きな人にも大切な場所かも知れない。

今回は訪問件数こそ多く無いが、それなりに充実した時間を過ごせた。


前鳥神社(延喜式内社・相模国四之宮・応神天皇の皇子の莵道稚郎子が住んだ聖跡)
真土神明神社(近年建築業者に破壊され消失した真土大塚古墳:莵道稚郎子の御陵跡)
真土大塚山公園(真土大塚山古墳の偽物を模造した公園)
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  御祭神・御本尊等:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・日本武尊  
  御利益:交通安全(陸)・戦勝・学問向上・合格祈願・開運・適職就職
  関係者:
  開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・・・応神天皇の皇子、仁徳天皇の実弟。
  中興:征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:前鳥神社・・・平塚市四之宮の古代の海岸線上の、現在の河岸段丘上の微高地
  所在地:真土神明神社・・・古代の砂丘上に存在した前方後円墳を近年土建屋が破壊して造成した宅地
  所在地:真土大塚山古墳のニセモノ・・・真土神明神社の北に徒歩3分の公園
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷の王族と緊密な繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘され国立博物館に持ち去られ収蔵されている。この銅鏡の存在からも莵道稚郎子命の御陵とされる伝承とも合致している。又、日本武尊が当地に滞在したのの伝承も有る事から、日本武尊(ヤマトタケル=倭建)と言う神号は一人の古代の王族に対して用いたものではなく征夷大将軍の様な古代の官途名に当たる神号であり古代の四道将軍成立以前の大将軍を務めた複数人の皇族将軍を1人の神格として習合している事も示唆される。
莵道稚郎子命は日本で最初に大陸由来の漢学や工業技術を学んだ実在した皇族の歴史偉人で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から前鳥神社は古くから学問の神様としても有名。現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子様からの崇敬も有り、戦国時代初期には北条早雲公と北条氏綱公の父子の名将が前鳥神社の宮司家の支持を受け、当時戦略家の名将として有名だった三浦道寸公の居城を岡崎城を落城させ三浦家を三浦半島の油壷マリンパークの半島に存在した新井城まで追い詰め勝利した歴史が有る事から勝負運向上の戦勝祈願や合格祈願の御利益も期待出来る。

前回の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←コレの続き・・・

大永峯嗣法山傳心寺・・・と言っても現代では判る人は少ないでしょうか?
もし新編武蔵風土記稿で久良岐郡の金沢領の項目を読んだ事が有る人なら「あ~!」と思い出す人もいると思います。
さて、この大永峯嗣法山傳心寺と明治時代以前まで正しい名前が伝わっていた御寺も、明治や戦後の宗教改革を経て寺院名は簡略化されて現代では昔とは大分異なっています。
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嗣法山 伝心寺(正式には大永峯嗣法山傳心寺)
さて、この御寺は❝北条氏繁公が開基(かいき=新設)したと❞神奈川県教育委員会や金沢区観光協会が間違った歴史を紹介しており、その事は前回の記事で書いた磯子区の龍珠院の伝承の勘違いと全く同じ❝文献の未確認❞❝歴史人物と伝承の生年の整合性の未確認❞と言う❝初歩的なミスを神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の誰かサン❞が犯して適当な仕事のまま伝心寺サンや金沢区観光協会に報告してしまったので❝公式❞に歴史が誤認されてしまっている様です。
少し前回の龍珠院の記事と被りますが、何故、この伝心寺が北条氏繁公の開基と言うのは有り得ない事かを説明させて貰います。
前回龍珠院の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←クリックで読めます。
さて、新編武蔵風土記稿には旧北条家臣間宮家の子孫で東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務め地誌編纂で多大な功績を残した間宮士信(ことのぶ)サンが伝心寺について以下の記載をしています。

~前略~
禪宗曹洞派相模國小田原香雲寺の末(すえ=末寺)、大永峯嗣法山と號(号)す本堂はなく本尊釈迦の坐(座)像は假(仮)堂に置(おけ)り、開山養拙宗牧、開基は北条左京大夫氏直、大永元年(1521年)の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず、
~以下省略~
因(ちな)みに江戸時代にも既に御寺を開いた人物についての認識に混乱が有った様で、どうも伝心寺の御住職は歴代伝える文書は無く口伝が中心だった用です。そして昭和に成ってからの御住職様は新編武蔵風土記稿も読んでらっしゃらなかったみたいですね~。御寺の復興に忙しかったんでしょうね。
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※伝心寺の参道、昔はこの辺りから御寺だった様です。道路の配置から一目瞭然。
まぁ、ちゃんと北条氏繁公や北条氏直公の誕生日を知っていればコンナ初歩のミスを犯さないんですが、何で歴代の和尚さんに御寺を開き寺領を与えて下さった大恩有る開基の御殿様の御名がちゃんと伝わらなかったか新編武蔵風土記稿の文中にヒントが有りましたね…

まず①で現代では簡略化され誤って伝えられている御寺の正式名称と字体が解ります。

そして伝承が正しく伝わらなかった原因が②に有ります。小生の推測では恐らく戦国時代末期に房総の里見家の海賊行為で御堂ごと焼け消失、江戸時代にも本堂は再建されずにいたから御寺その物が荒廃していたのでしょう。その為(ため)に造営から数年後には記録文書が消滅したと推測出来ますが、その原因と成ったであろう合戦の候補は二つ有ります。
●1つ目、永正十五年(1518年)八月二十七日に起きた三浦半島(横須賀市域)走水合戦
北条家臣で後の玉縄城主北条綱成公の付家老と成る前の時代の間宮家が単独で里見家を横須賀市走水で迎撃して殲滅した戦いです。この合戦では間宮家が水軍率いて横須賀市域で里見海賊を迎撃、特に活躍したのが走水を死守玉砕した間宮分家の杉田間宮家初代当主、間宮常信公でした。常信公は官途を兵庫頭(ひょうごのかみ)と名乗り、この合戦では海賊の大将の植松筑前守を討ち取った上に敵軍船14艘を奪い取った記録が残っています。間宮家は勝利したものの残念ながら間宮常信公は34歳の若さで戦死されその戦功が記録されています。常信公の菩提寺は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
妙法寺の記事は→妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。←クリック!
・・・結論から言うと時代が合わない。なのでこの合戦では有りません。が!いつの時代も役所の役人と言うのは適当な仕事をする奴もいれば真面目な人もいると言うのが判る一例として晒(さら)し上げの代りに誤記だらけの内容を解説して置きましょう。
先ず、この記録が登場するのは寛政重修諸家譜と新編武蔵風土記稿と言う文献ですが、寛政重修諸家譜に関しては近代若しくは昭和期の国家公務員か出版社の人間が適当な仕事をして永正を天正と誤記しています。これは江戸時代の文書から活版印刷に文字を起こす際に起きたミスでしょう。
更には新編武蔵風土記稿でも間宮家の子孫である間宮士信サンが❝間宮常信❞と書いている御殿様の名前を江戸幕府の馬鹿役人は❝間宮信常❞と誤記しています。
更に平成の世と成った現代でも間宮常信の事に関して適当な事を執筆して本にしているNHK歴史解説員と研究家である事を誇張してWikipediaでツラツラと書いて有るガクシャの人がいるのですが、文献の内容の事実確認をされない上に御子孫への取材をする事も無く上記2つのミスをコピペして出版している本に事実誤認や誤記を丸写ししていたりします(笑)。
酷いですよね、いつの時代も❝適当な仕事をする部類の人種❞って。

2つ目、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦
この合戦では恐らく、三浦半島と現在の横浜市域が里見家と正木家の軍隊と海賊に略奪されつくされ鎌倉市街地域に至っては放火され鶴岡八幡宮まで焼失してしまいました。
恐らく町屋地区も略奪放火され六浦から朝比奈峠を越えて里見の海賊は鎌倉市街に乱入し、正木の海賊は城ヶ島方面から北上して鎌倉に侵入したのでしょう。里見家も走水や金沢八景や杉田方面の各所から侵入を試みた様で、杉田に有る源頼朝公が開いた元は修験道の大本山だった熊野神社=大霊山泉蔵院桐谷寺も略奪に遭っています。
泉蔵院(熊野神社)の記事→横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。←クリック!
この鶴岡八幡宮合戦での略奪放火で八幡様が焼失した事件は北条家のみならず北条家と敵対していた小弓公方足利義明や関東武士団にとって文化的精神的なダメージと成る大事件で、里見家は失火の原因の責任から内紛が起こり、北条派の里見義尭(よしたか)が当主に成る程でした。
この際の鶴岡八幡宮と鎌倉市街地の再建事業では横浜の3人の殿様が活躍しているのを間宮家の事績解説で紹介しているので興味が有る人は御覧下さい。
鶴岡八幡宮再建事業関連記事→間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリック!
※余談ですが、間宮家の事績はこの文章を叩き台にして何れ書籍化する予定では有りますが調べ物増えすぎてブログとシェイプアップと銀の指輪造りと季節の散歩と合わせて予定が伸びに伸びて未定です(笑)!
さて小生の推測、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦で里見家の乱入が有った際に御寺も燃やされたので伝心寺は荒廃し書物も御堂も火事で無くなり御本尊の釈迦牟尼仏様だけが難を逃れていた事が皆さんにも「久良岐のよしの言ってる事は整合性有りそうだな?」と御納得頂けたかと思います。
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では新編武蔵風土記稿の伝心寺の解説の③と④ですが、もうそのままですね。
開基は北条左京大夫氏直、大永元年の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず
江戸時代には恐らく御寺を開いた殿様の名前が❝北条左京太夫(さきょうだいぶ)❞とだけ伝わっていたのでしょう、だから江戸時代の御住職が前代には御寺の歴史の引き継ぎが廃れていたのを何かの文献を読んで「あ!北条左京大夫って北条氏直公の事なのね?」と間違った解釈をして以後~明治まで御寺の歴史として伝わっていたんでしょう。しかし左京大夫は北条家歴代の殿様が名乗った官職名でした。
実は❝五位、左京大夫❞と言うのは元々は北条家の傘下の小大名で北条家より家格の高い蒔田吉良家の殿様の歴代が名乗った官途です。蒔田吉良政忠公の代まで左京大夫でした。しかし蒔田吉良家に北条家の姫君が嫁ぎ、吉良成高公や吉良頼康の代に成ると鎌倉公方の代理を務める様に成り官位も❝四位、左衛門佐(さえもんのすけ)❞に上がったので、その際に北条家に左京大夫の官職が譲られたのでしょう。
北条氏綱公
2代目の北条氏綱公の先代の初代北条早雲公は実は生前に北条姓を名乗っていませんでした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
それどころか早雲公の代までは伊勢姓で伊勢盛時と名乗り僧籍に入ってからは伊勢宗瑞となのっていらっしゃったので官職も左京大夫ではなかった筈です。
ですから蒔田吉良成高公が初代鎌倉公方代理だとすれば正に北条氏綱公の世代に当たるので、北条家初代の左京大夫を名乗った殿様は北条氏綱公と成り、伝心寺が開かれた大永元年(1521年)ともドンピシャで整合性が有る訳です。
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さて、これで取り合えず❝傳❞心寺を開いたのが北条氏綱公が有力で有る事が解ったかと思います。
では、何故(なぜ)現代、この御寺が「玉縄北条家の北条氏繁公が開いた」と誤った伝承を現在の御住職様も伝えているのでしょう?これは一つは先代の御住職の頃の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の責任です。素人(シロウト)歴史オタクの小生でも調べられる程度の事すらちゃんと調べずに御寺に嘘を教えたんでしょうね。
そして御寺に伝わっていた❝歴史事実はこれだけ❞だと思います・・・
「玉縄北条家の殿様の菩提寺である、でも誰か今では解らない」
・・・と。
これは他宗派の真言宗で、伝心寺の直ぐ近くに在る龍華華サンが成り歴史を紐解くヒントに成りそうです。
2015-03-04-17-10-31
知足山 彌勒院 龍華寺
龍華寺を紹介したブログ開始初期の拙い記事→龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。←クリック!
龍華寺に関しては関連記事も有ります
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。←クリック!
→休日雑記 2017年06月10の訪問先・・・【金沢区】上行寺~上行寺東遺跡(浄願寺跡)~伊藤博文金沢別邸~野島公園キャンプ場~野島稲荷神社←クリック!

・・・実はこの龍華寺は北条家の本拠地小田原城の前の城主の大森家の遺児が戦国時代初期に住職を務めていました。この御寺は扇谷上杉家と関係が非常に深く、大森家は扇谷上杉家の与力大名でしたし、同じく関東最強の無敗の軍師で築城の名手だった太田道灌公も扇谷上杉家の直臣で家宰(主将代理)でした。
太田道灌公
室町時代の太田道灌公と菅原道真公の御子孫の菅原朝臣(すがわらのあそん=菅原氏)中務丞の菅野資方(すけかた)公が御一緒に、鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が新田義貞による鎌倉幕府討伐の戦火で略奪放火され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、復興された御寺が龍華寺で、江戸時代には龍源寺と呼ばれていました。
この龍源寺を道灌公と一緒に復興した菅野さんは今の東京都の浅草辺りに住んでいた道灌公の与力武将でした。
先に伝心寺は里見家が鶴岡八幡宮同様に放火略奪した可能性が有る事を指摘しましたが、ちょうど大森家の遺児が龍華寺に居たのはその時代の話です。
鶴岡八幡宮再建事業の頃、玉縄城主は北条為昌公でした。北条家3代目当主の北条氏康公の実弟ですが、どうも小生の見立てでは自分の家来や他勢力と共謀して実兄を差し置いて跡継ぎに成ろうとした形跡が残っている人物です。
鶴岡八幡宮再建では為昌公は鎌倉の玉縄城主だった事も有り、鶴岡八幡宮再建に携(たずさ)わる人々と緊密に成る機会が有ったのですが、当時のこんな話が有ります「氏康公はアホだから、弟が跡継いだ方が良い」と噂が広められていたようです。
実は北条為昌公は烏帽子親や後見人が北条家初期の重臣であった笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公でした。この二人から名前を一字づつ貰って成人した事が解ります。そんな為昌公と鶴岡八幡宮再建で親密だったと推測出来るのが大道寺・笠原の他に❝神保輝廣❞公でした。この神保輝廣公、苗字が違うので歴史学者でも知らない人が多いのですが、実は北条早雲公の実子で2代当主北条氏綱公の実弟であり鶴岡八幡宮再建では檜皮奉行や財経担当として再建に携わっていたので北条為昌公を可愛がる動機が十分に有りました。
当時、北条氏康公は後の織田信長公の若い頃同様に評判が悪く奇行が多かったそうです。
北条氏康
※北条氏康公:KOEI信長の野望大志よりは画像拝借
そんな事も有り中の良かった人達だけで勝手に氏康公を廃嫡しよう等と言う協議がされたかも知れません、しかも敵方の小弓公方足利義明や里見家と結託した上で。
龍華寺の記録では北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している文書が紹介されています。
先に説明しましたが、北条早雲公の生前の名は北条姓ではありません。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代で、統治が安定して龍華寺に寺領保証の朱印を発給出来た人物は北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だと解ります。
さて、玉縄城主だった人物が、兄の北条氏康公を差し置いて三代目当主に成ろうとした動きが後の玉縄城主北条綱成公と俗説では混濁されています。
北条綱成
これは有り得ない事で、北条綱成公は養子なので実子を差し置いて跡継ぎに成る権利は有り得ません。
これは恐らく同じ玉縄城主でも先代の北条為昌公の話が玉縄城主として余りにも有名な北条綱成公と混濁され誤認された事が推測出来ます。
北条為昌公は烏帽子親が筆頭家老の大道寺盛昌公、名を同じく筆頭格の重臣である笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公から貰っているので、人脈的にも後ろ盾に成る人物がいて嫡男:氏康公の廃嫡を画策出来るのは彼以外におらず、更に1530年代後半に行われた鶴岡八幡宮再建では北条一族で伯父の神保輝廣公が買い会計関連と屋根に使う檜皮の調達と施工管理の奉行として頻繁に玉縄城近くの鶴岡八幡宮に出入りしていたので神保輝廣公とも兄の北条氏康公廃嫡の謀議を重ねれる状況に在(あ)りました。
小生はこの為昌公の菩提寺が、伝心寺なのだと推測しています。
実際に為昌公は1539年~公文書に登場しなく成り1542年に23歳の若さで亡くなっているのも1541年に北条氏綱公が没して後に兄の北条氏康公が跡を継いだ際に誅殺されたか自害したのかも知れませんね。
そして北条家所縁の傳心寺に葬られたのが、末寺の龍珠院開基の北条氏繁公の話とごちゃ混ぜに成り江戸時代以降に誤伝したのだろうと解る。
江戸時代の北条氏直公説なんぞ間宮士信サンが解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻すと・・・。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成ります。
玉縄城主が開基したと伝わるならば、当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している訳です。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろう事が判明します。
神保輝廣公も小田原所領役帳が編纂された1559年当時には北条一門なのに84貫32文と異常に低い中級武士待遇扱いをされている事が解り、これももしかしたら為昌公の陰謀に加担した懲罰としか思えない状況が有ります。為昌公の次の玉縄城主と成った北条綱成公は1370貫612文。
神保輝廣公と北条綱成公の所得を比較すれば、明らかに神保輝廣公が冷遇されており何某かの懲罰を受けて減封されている事が読み解ける訳です。
余談ですが伝心寺を開いたとか御廟所が有ると誤伝した北条氏繁公の菩提寺は鎌倉市玉縄の玉縄城下の龍寶寺で、氏繁公の母の大頂院様の菩提寺は鎌倉市大船の大長寺(大頂寺)で、子の北条繁廣公も大長寺にて菩提が守られている。
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※傳心禅寺、真新しい扁額にはちゃんとした字体で傳心寺の禅寺としての寺号が刻まれている。
さて、ここまで読んで頂けた人には少しは小生の説・・・
1伝心寺を開いたのは北条氏綱公
2伝心寺で菩提を弔われているのは北条為昌公
3北条氏康公を廃嫡させ三代目北条家当主と成ろうとしたのは北条為昌公
・・・この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測を納得頂けたんじゃないでしょうか?
更に伊勢原市の龍散寺の記事と丸々被(かぶ)りますが書き並べます。

❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、「嫡男の北条氏康公がアホ」等と敵と組んだり家臣団を分断してまでプロパガンダをやらかしたならば当然、犯人が北条氏綱公にバレて為昌公に懲罰を与える際は自分の所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈ですよね。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判ります。
そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不可解に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしています。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれるます。
ならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかありません。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然に成ります。
しかもソレは・・・
父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳です。
恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺でしょう。
そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?
・・・と小生は推測する訳です、その様に推測する理由もちゃんと有る。
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅しています。何らかの理由で没収されている事が解る訳です。
そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有ります。
この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解ります。余談ですが小田原北条家の直臣で玉縄北条家の付家老を務めた間宮家も入間郡の坂戸市戸宮に領地を持っていました。
つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳です。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけですからね。
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伝心寺の屋根や窓ガラスには北条家から下賜された北条家の家紋の三鱗紋が寺紋として装飾されています。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳ですが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全な訳です。その間に仏門に入り僧侶として修行して反省させたのかも知れませんね。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。
年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能する。
邪魔な為昌公は自害させられたか誅殺されたのでしょう。伝心寺で蟄居させられ仏門に入っていたのならば、ここに眠っているのが為昌公であり玉縄城主だったので末寺の龍珠院を支援した氏繁公と勘違いされた事も納得が行きますよね?

叔父上の神保輝廣公は氏康公廃嫡と為昌公の嫡子推薦を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介しています。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い訳です。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
そして鎌倉市と横浜市の金沢区と磯子区と港南区の歴史も繋がる訳です。
余談ですが、神保輝廣公の菩提寺は伊勢原市の龍散寺です。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりします。でも早雲公の御位牌、小田原城に貸し出した際に教育委員会が破損させたので、「もう外部には貸し出したくない」って副住職様が仰ってました。
・・・お~い神奈川県教育委員会、不真面目な奴はさっさと止めて、真面目で現場で頑張ってる教育者や学芸員が出世出来る仕組みにサッサと改革しろや!みたいな風に一般人として思う事件ですね。

さて、同じ曹洞宗の伊勢原市龍散寺、横浜市磯子区龍珠院、そして金沢区の龍華寺と傳心寺の歴史が繋がった所で、北条氏繁公と間違われている為昌公と思われる人物の御墓の場所ですが…
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・・・今では歴代住職の御墓の中でどれか解らないみたいです。
小生の推測通り龍珠院に蟄居させられて僧侶に成っていたのなら歴代住職の御廟所に御墓が在るのも納得が行きますよね?
でも背後の墓石、これ間違いなく室町時代の頃に多い御墓の様式なんですよ~。正面の立派な墓石は代表した供養塔ですね。
この記事を書くために改めて写真の撮影に伝心寺を再訪した時は二月初旬でした。
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梅が咲き始めた頃で境内にもとても綺麗な梅花が開いて心を癒してくれました。

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横浜市には伝心寺と龍珠院、そして港北区の泉谷寺、3つも戦国時代の関東で一番❝侵略❞と❝善政❞に長けた名将の北条氏綱公が関わった御寺が有ります。
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庫裡では御朱印も頂けますよ~。
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きっと皆さんの御近所にも今は規模は大きく無くても本来は凄い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れません、御散歩した山や公園が実はそんな神社仏閣に関わった歴史偉人の御城の跡かも知れません。
少し歩いて御寺や神社の説明や、屋根の瓦の模様を見て見ると、途端に過去の歴史偉人とその場所が皆さんを繋ぐタイムカプセルに成るんですよ!
・・・さあ、天気が良くて気分転換したければ、御近所を散歩してみませんか?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
次いつ更新するかは解りませんが(笑)!
肉体改造、四月一杯で形に成りそうです。少しだけ玉縄北条家と間宮家と太田道灌公と蒔田吉良家と宅間上杉家の殿様の顕彰文の原稿書くのとブログ更新のペース遅くなるの、猶予下さいね~。

んじゃ!

横浜市港北区に在る「泉谷寺」と言う谷戸に囲まれた歴史の古い御寺が在ります。

しかし全く明治時代以前の伝統が伝わっておらず個人的にガッカリしました。
雰囲気は、鎌倉時代の名残を感じます。
ここは浄土宗で「中本山」格を与えられ、戦国時代には北条氏綱公…

…江戸時代には徳川家康公の保護を受けた寺院です。

恐らく旧街道が鐘つき堂の裏を通る昔の峠道なのでしょう。
戦国時代には大名達は神仏を大切にしていた事や、昔はどこも開けておらず宿泊地が無かった事から御寺を開き時に宿泊所として利用する傍ら和尚様達に御寺を任せて文化醸成の場として大切にしました。
泉谷寺の総門が「冠木門(かぶきもん)」なのは、この名残なのかなぁ〜と感じます。
この冠木門は殿様の陣屋(じんや=宿泊所)や関所に用いられる門ですからね。
にも関わらず、江戸時代には伝わっていた北条氏綱公の事は現代には伝わらず御堂も全く違う用途で使われていました。

本来の浄土宗は日本古来の神様を大切にされた法然上人の教えを受け継いでおり、京都の総本山知恩院は牛頭天王(インドラ神と素戔嗚尊の神仏習合の象徴)の降臨の神話の聖地に建っています。
だから御隣には旧祇園社、八坂神社が鎮座していますね。


後醍醐天皇と関わりの深い百万遍知恩寺は、浄土宗の日本神話と文化への理解の深さから明治時代まで下鴨神社の別当を務める神宮寺の格式を有していました。
ですから境内には神社も在ります。
別当を務めた下鴨神社ですが…
下鴨神社と言えば天皇家の皇女が歴代の斎王を務められた由緒ある京都最古の御社です。
しかし、残念ながら現在の泉谷寺には、浄土宗のそうした歴史も伝統も日本文化も伝承していなかった…
浄土宗だけでなく、他宗派でも仏教界は日本神話と文化へのリスペクトが有るのにね…
なんか、芸術品は大切にしているみたいです。
泉谷寺では、御寺を開いて下さった先人の大旦那への崇敬は途絶え、開基様の事を余り御存知も無い様だし神仏習合の神様が消えていました…

山門…当時と違う位置に再建されてる。
※礎石の位置で嘗ての門の位置は解る。

涅槃堂…涅槃堂なのに涅槃の御釈迦様は祀られていない。
※火災で焼失後、関係無い仏像を置いているのか?それとも徳川家康公所縁の仏様に御堂を当てがったのか?

観音堂は新編武蔵風土記稿の通り。
でも新編武蔵風土記稿の八幡社の位置は観音堂の横に弁天様と祀られているはずの建物は見当たらない。
御寺の先代家人が八幡社の神様が神仏習合の象徴と知らずに明治時代の国家神道の名称「八幡神」から差別撤去したと思われ…
八幡社の神様は正式名称「八幡大菩薩」と自ら神託で自称した記録が有るのだけどな〜。
その山門の左手に在ったはずの八幡社の傍らには弁天様が祀られていたそうだが…
弁天堂も現存せず(撤去されたか?)
現在では山門左手に名残りらしき池だけが在る。
弁天様は池のほとりに祀られている場合が、北条家所縁の寺社仏閣には多い。

弁財天も正しくは「辯才天」「辨財天」と書く「ただの神」では無く仏教に取り込まれたヒンドゥー教のサラスバディー由来で、日本に伝来すると日本神話の市杵島姫に習合され御祀りされた神仏習合の神様。
日本古来の神様と仏教に組み込まれたインド神話の神様の平和的な融合の象徴なのに弁天堂は撤去、或いは火災後に放置されている様だ。
八幡信仰と辨天信仰は北条家の文化の一環なので、大旦那北条氏綱公と二宮織部丞の時より存在したはず。

いずれにせよ、北条氏綱公と二宮織部丞と言う先人による中興開基以来の伝統は廃れ、大旦那に対するリスペクトも現代には伝わっていないようだ…。

しかし、谷戸を形成する周囲の丘と森が鎌倉時代の雰囲気を境内に残してくれていました。
昔と位置は違いますが山門は朱塗りです。
手水舎には徳川家と関わりの有った事を伝える三つ葉葵紋が刻まれています…
御近所の真言宗三会寺さんや磯子区杉田の臨済宗東漸寺さんも格の高さから三つ葉葵の家紋を与えられています。
横浜市は格式高くかつ、庶民との距離が近い御寺が沢山在るんですね。
…泉谷寺さんは少し庶民との距離を置かれていますが格式高い事には間違い有りません。

鐘楼も丘上に在り良い雰囲気です。
鐘楼の山の下にある石碑…
和歌には水で清めるとか書いて有るから、昔は修験道みたいに池で禊ぎでもしたのでしょうか?
御本堂は木製ではありませんが、立派な規模でした。
扁額は木製かな?

総本山の知恩院が何故「恩」を「知る」と漢文の並びで寺院名にしているか、まず、その事を顧みて欲しいと思いました。
折角、関東の偉大な歴史人物との関わりが有った御寺なので、もう少し御寺の存続に尽力された偉人や旧来の建物の歴史を大切になされたら良いのにと感じました。

では、又、次の記事で!

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