歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:北条泰時

前回の記事で金宝山浄智寺を紹介しました。
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浄智寺と言うのは鎌倉市に今も在る臨済宗の御寺でして、鎌倉幕府~室町幕府を通じて歴代征夷大将軍しか住職を任命できない格式の高い❝鎌倉五山❞に定められた寺院の一つでした。
この浄智寺の開山(かいざん=御寺の最初の住職)が兀庵普寧(ごったんふねい)和尚と言う南宋人の高僧で、建長寺の第二代住職を務められた方でした。
※前回の浄智寺の記事は「ココ」←クリック!

そして、同じ時代、兀庵普寧和尚より少し先に元に征服された南宋から亡命していた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)和尚と言う人物もいらっしゃいました。
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写真は蘭渓道隆和尚と関係の深い鎌倉市大船の粟舟山常楽寺です。
この蘭渓道隆和尚は鎌倉幕府第3代執権で名宰相として名高い北条泰時公に大変尊敬された人物でした。
※以前書いた常楽寺の記事は「ココ」←クリック!

浄智寺の開山様と開基様の時代と近代に通じる日本と周辺の日本を敵視する国との関係について、歴史と合わせて説明しておきたいと思います。
浄智寺の開山と成った兀庵普寧和尚や建長寺の住職でもあった蘭渓道隆和尚を、鎌倉幕府執権の北条時宗公は尊敬していたのですが、その御二人から南宋を征服した元や朝鮮軍の様子を具(つぶさ)に聞き取っていたと思います。
その二人の情報から、元(朝鮮)の進駐を一度(ひとたび)許せば庶民も天皇家も武家も皆殺しにされ、美しい日本の山林は馬と羊の放牧地にする為に樹木を焼きつくされてしまうと判断して交戦準備を整えていたのかも知れません。
実際、モンゴルに日本征服を提言した朝鮮軍が日本に攻め込んで来た際に、今の対馬や壱岐の住民は元(朝鮮)軍に捕まると捕虜は全員、男は頭蓋骨を生きたまま叩き割られ、女性はアキレス腱を切断されたり逃げない様にされた上で元の皇帝(に従属する朝鮮)の軍の性奴隷にされました。
こうなる事を鎌倉幕府は御二人の和尚様から聞き取っていて、その情報から対馬・壱岐で起きた事が日本全土で起こる事を予見していたから、北条時宗公は降伏しなかったんでしょう。
朝鮮族やモンゴル族には捕虜にした女性を全員性奴隷にして従軍慰安婦にする歴史が自分達に有りました。
※当然、現在のモンゴルにそんな風習は有りません。

少し話は近代に脱線しますが、もしかしたら…
だから、太平洋戦争後に建国された大韓民国の初代大統領李承晩は、「当然、太平洋戦争中の日本もそうだろうと思い込んだのが原因で従軍慰安婦奴隷を捏造した」のかも知れませんね。
実際彼自身が済州(ちぇじゅ)島で反李承晩勢力を弾圧した際に大量虐殺を行い捕えた女性は全て強姦した上で殺害した事が済州島4・3事件として歴史記録に残っています。
ちなみに李承晩と仲間十数人は、朝鮮王室の李垠(りぎん)殿下が日本に存命中なのに英国に勝手に朝鮮王政を否定した亡命政府を樹立してしまいました。
だから根本的に李承晩は日本政府と交戦した事も無ければ、没落貴族の出身なので朝鮮総督府内部の事情を微塵も知る事が出来る訳が無いんですね。
朝鮮王室の後継者だった李垠殿下は、横浜市の野島に海水浴をしに遊びに来られたそうです。
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その時の滞在先が、伊藤博文公の金沢別邸で、現在も残っています。
伊藤博文公と朝鮮王室の関係は実際の所は極めて良好だったようです。
陸軍と朝鮮王室閔妃派の関係が悪かったので、李承晩が朝鮮王室を無視して自己の政権を樹立する際のプロパガンダとして朝鮮半島のが伊藤博文公を嫌う様に扇動した様ですね。
この時代の朝鮮王室の大院君派は日本政府と当初は関係が良好でした。
この事は当時の欧米の記者達が伊藤博文公の葬儀の際に「朝鮮人にとって最も良い友人だった」と評している事からも、事実が解ると思います。
この話を証明するのが当時の朝鮮半島の米の生産量と流通量から見てとれるのですが、幕末の朝鮮王朝の米の生産量は日本の石高換算で4500万石だった記録が有ります。
それが日本政府による農業近代化支援を受けた後は9000万石超に倍増し、その倍増分は日本や周辺国に輸出され農地を有する現地農民や領主の純粋な収入源と成り、豪農は大変豊かに成りました。
そして日本人に汚名を着せた従軍慰安婦問題ですが、従軍慰安婦ではなく日本軍の娼館についてと言った方が良いでしょう…
今の朴槿恵大統領の御父君の朴正煕大統領が発行した米軍慰安婦の公文書の存在からも、公募した売春婦だった事が歴史資料からも判明しています。
…まぁ、ちゃんと自分で古文書読んだり二次資料や三次資料でも読めば、事実はすぐに解るんですよ。
もし、この御寺を建てた北条時宗公や漢族の兀庵普寧和尚様と蘭渓道隆和尚様がいらしゃらなかったら、モンゴル族や朝鮮族に蹂躙され今の日本国は無かった訳です。

鎌倉の武士文化は、実は元に屈しなかった南宋の高僧達の影響も受けて高度な兵法と文化を導入し花開き、そして元軍と朝鮮軍を撃退する程の扶桑武士の強さに中国渡来の学問が融和し、室町文化へと繋がって行った訳ですね。
その継承者の代表格が、鎌倉五山の一つ臨済宗建長寺で軍事や文化を学んだ関東屈指の名軍師太田道灌公であり、同じく鎌倉でも活躍され臨済宗と関係深く曹洞宗の開祖とされる道元上人の残した文化を大切にされた北条早雲公で早雲公も戦国時代の関東に先進的な政治体制を導入した名将として名を残しました。
そして、この道灌公と早雲公は神奈川を舞台にライバルとして外交戦争と武力戦争でも協力したり敵対したりしながら、御互いをライバルとして認めていた様です。
道灌公が亡くなると、政治外交的な要因で対立していた北条早雲公は道灌公の菩提寺を復興し御廟所を整備し、道灌公を御祭神とした太田神社を造営されています。

歴史は必ず過去からも現在からも双方向に繋がります。
神社や御寺は、昔の人の文化を受け継いだタイムマシーンの様な場所です。
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鎌倉武士と南宋の高僧達の文化を今に伝えてくれる静かな鎌倉の神社と御寺は、実は日本を守った鎌倉武士の学問の場でもあり、武家文化の醸成地だった訳ですね。

では!又、次のブログ記事で。
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北条泰時公を御存知ですか?
その北条泰時公の開基(かいき:建設する事)した常楽寺と言う名寺が鎌倉市大船に在(あ)ります。
現代では余り有名とは言えませんが、由緒正しい御寺なんですね。
しかも中国大陸の仏教寺院と開基以来、今でも縁があるんです。

もっとも…
私達日本人にとって明朝を受け継いだ正統な華人文化国は台湾なんですが。

御寺の在る「大船(おおふな)」の地名は元は「粟船(あわふね」と言い、平安時代には海面が今よりも高く、鎌倉市大船を流れる柏尾川が今よりも深かったので海からの輸送船の往来が有ったそうです。
戦国時代でも付近の玉縄城は輸送船が城下のお堀まで入って来ており、造船集団がいた事に由来します。

さて…
常楽寺は今でも立派な山門(さんもん:御寺の門)と御堂、泰時公の御廟所もあります。 
北条泰時公は"学校で必ず習う人物"です。
…もし御知り合いが知らないなら「学生の時、授業中に寝てたでしょ?」とツッコミ入れて下さい(笑)。

さて、北条泰時公は源頼朝公の奥さん北条政子さんのお兄さんの北条義時さんと離婚した奥さんとの間に産まれた御長男で、頼朝公に外甥っ子として幼少の頃は大変に可愛がられた人物だったそうです。
ややこしい血縁関係(笑)。
ですから最初の名前は叔父で主君に当たる頼朝公より一字拝領し「頼時」でした。
大人に成ってからは鎌倉幕府三代目の執権として清廉潔白な人柄で善政を行い武士達から慕われていました。
しかしながら父親の北条義時公の更に父、つまら北条泰時公の祖父の北条時政公は奸計(かんけい:汚い謀略)で幕府内の同僚達を次々と暗殺したり攻め滅ぼしたり政治的に粛清し排除して行く過程で当然、泰時公も作戦に参加させられていました。
その為か、祖父達が主家に当たる源氏を滅ぼすと名前も「泰時」と改めてさせられたようです。

もっとも、源氏より関東にいち早く根付いた"平氏の出身の鎌倉武士達"の視点では鎌倉幕府は「皇族出身武士による共和政権」で「源氏の家臣ではなく協力者」と言う観念を持っていたそうです。
この事は平良文公の御子孫で坂東武者の代表格の鎌倉景政公が祀られている御霊神社の方がおっしゃっていましたし、歴史の推移を見るに実際、鎌倉武士達の頼朝公への関わり方は実際そのような形だったので納得出来ます。

本来の武士は政治信条や信仰による己の思想を大事にし、誰と組むか誰と戦うか、都度(つど:毎回)、考えるものですからね。
保元の乱も平治の乱も武士達は正に己の思想に従い親兄弟に各家で別れ戦い合いましたし。

儒教を導入し独裁政治を行おうとした節がある源氏側に非がない訳とも言い切れませんね。
源頼家公しかり。

歴史は勝者のみ記録出来ます。
ですから吾妻鏡は当然、北条氏側の観点で書かれてると思います。
泰時公の人格の逸話の多くは、北条氏の制圧した鎌倉幕府側の書いた吾妻鏡の中の記載です。
しかし、泰時公が人格や能力から武士達から絶大に支持されていた事は事実でしょう。
でなければ、その後、藤原氏に朝敵にされた幕府軍を統率出来なかったでしょうね。

泰時公の活躍された時代に「承久の乱」と言う事件が起きました。
承久の乱は、鎌倉幕府成立以前に貴族の藤原一族が独占していた権利を、鎌倉幕府から奪い返そうと藤原氏が傀儡の天皇を利用し起こした政変に対し、醍醐天皇以来の悲願で全国の皇族臣籍降下武士達が協力して打ち立てたた鎌倉幕府側が逆襲し京都に攻め上がり朝敵扱いから大逆転した事件でした。

泰時公は教科書で誰しもが習う「御成敗式目」を制定したり法治主義により鎌倉幕府を運営されました。
その統治能力と裁判官としの実績と軍才が今日でも評価されているんですね。

さて、常楽寺の話に戻ります。
常楽寺は泰時公の開基ですが、実は非常に中国と所縁(ゆかり)がある御寺でして、中国の高僧の方が最初の御住職でした。
四川省出身の蘭渓道隆と言う方です。
当時の中国大陸は「南宋(なんそう)」と呼ばれた国家で、まだ中国が外国人に征服される前で本来の華人文化が残っていました。
しかし当時すでにモンゴル帝国が「宋」の北部を侵略し始めており、鎌倉幕府はその宋の文化人の亡命者達を多く受け入れ保護していました。
中華民国を作った孫文先生を保護した明治政府に関係が似ていますね。
さて、蘭渓道隆和尚も宋から日本に渡って来られた方でした。

この常楽寺の宗派の臨済宗は一番偉い御寺が鎌倉五山の一つの建長寺(けんちょうじ)なのですが、蘭渓道隆和尚は建長寺の御住職も務められていた経緯で、本山と末寺の立場的な問題から常楽寺の開山(かいざん:最初の住職)は退耕行勇和尚とされています。
いずれにせよ蘭渓道隆和尚と退耕行勇和尚と北条泰時公の三者がいらっしゃった御蔭(おかげ)ではじめて御寺が成立したので皆様等しく御寺にとっては大切な方ですね。
ちなみに建長寺は「けんちん汁」の発祥地です。

さて、蘭渓道隆和尚のいらっしゃった頃の日本は、漸(ようや)く武士文化と言う完全独自の文化を持ち始めたばかりなの頃で、まだまだ一般人の識字率低かった時代でした。
そんな時期の日本にはるばるいらっしゃって、仏教文化を通じて日本人の識字率や文化度の向上に貢献して下さったんですね。
何だか鑑真和尚の逸話に似ています。
鑑真和尚の時代、仏教の伝来は日本の建築技術の飛躍的な向上をもたらしました。

確かに独自の神道と言う宗教とは異なりましたが、儒教や基督(キリスト)教と異なり神道を尊重し相互の良い部分を融合させ日本に定着しました。
仏教が攻撃的な宗教で無かった事や、仏教自体が多神教で日本に伝来する過程でヒンドゥー教や中国道教と融合し多様性に寛容な多神教でしたので、多様性を良しとする神道の価値観を持つ日本人に受け入れられ易(やす)かったのかも知れませんね。
近年でも常楽寺と中国の関わりが有りました。
以下は現御住職から聞いたお話しです。
中国が日本と国交正常化して暫くし中国の経済発展が始まった頃、常楽寺に知らない中国人僧侶が突然通訳を伴って来られたそうです。
当時のアメリカ大統領がパパブッシュだった頃だそうです。
その僧侶がおもむろに庭作業中の御住職に中国から来た経緯を通訳を介して話しだしたそうです。
実はこの中国人僧侶は蘭渓道隆和尚の中国時代の御寺の現代の高僧でしが、当然ですが御住職は最初相手が何者か解らなかったそうです(笑)。
相手も蘭渓道隆和尚の開山された常楽寺の御住職が、まさか庭作業なんぞするわけないないと思い最初は御住職を下っ端の僧侶と勘違いしたそうです。
よくよく話を聞いて、お互いの立場がわかると相手は蘭渓道隆和尚の足跡を辿り中国の御寺の記録を頼りに鎌倉市の常楽寺を訪ねて来られたそうです。
そして常楽寺と建長寺に、中国で廃寺に成っている蘭渓道隆和尚と所縁が有った寺院の再興式典に参加を要請に来られたそうです。
改革解放前の中国共産党は文化大革命により仏教を含めた全ての宗派を弾圧しましたからね。
改革解放が始まり漸く宗教活動が大々的に出来るように成った頃ですね。
常楽寺の御住職は要請に応じ、その後、船便で届いた招待状を手に上海に行くと日本の蘭渓道隆和尚と所縁のある御寺の和尚様達と共に国賓待遇で迎えられたそうです。

そうやって蘭渓道隆和尚の御縁で結ばれた中国と常楽寺(日本)の縁でしたが、御住職は最近、中国に対して気持ちは複雑だそうです。

実は小生も中国に留学していましたが、最近の習近平政権の排日政策と日本人差別に嫌気がさしてます。
小生は三国志好きで中国人の友達いますが今は中国に行く気には余り成りません。
商業工業で中国に拠点を持つのもお勧め出来ません。
韓国と中国とは国として政府間交流は挨拶するだけの苦手な隣人くらいの距離の取り方が無難だとも考える程です。
本当に行く必要のある家族が相手国にいる人と、相手の文化を尊重出来る人だけが往来すれば良いと思います。
中国人との関わりは個人単位で誰と付き合うかが大切ですから。
中国人にもモラルの高い階層は文化大革命を経ても生き残っています。

習近平政権は日本人排斥と日本企業弾圧しようとしていますが、宗教も弾圧し始めていますね。
何だか文化大革命の頃に逆行したいみたいだと感じてしまいます。
日本人は三国時代の魏の皇帝曹叡や丞相の司馬懿、隋や唐の歴代皇帝からは友好的な支援を受け国を発展し平安文化や武士文化を起こす技術支援を受けた感謝は有ります。しかし蘭渓道隆和尚の頃の生粋の中国人の面影は最早、今の中国大陸には価値観として余り残って無いのかも知れません。

北条泰時公と蘭渓道隆和尚と常楽寺を通じてモンゴル帝国に征服される前と後の中国人についても考えさせられ、その当時の蘭渓道隆和尚達、南宋亡命者の文化人達の情報により鎌倉幕府が元との対決を決めたのだろうなと…

ただ日本人は忘れないでおきましょう。
蘭渓道隆和尚の様に、日本の為に貢献して下さった華人がかつていらっしゃった事を。
正統な華人文化を受け継いだ台湾と、一部の高文化階層の親日派大陸人は大切にしましょう。
鑑真和尚や蘭渓道隆和尚の為に。
和魂漢才を唱えた菅原道真公の天神様を祀る日本人として。
神道と仏教の融合した八幡神を信仰した鎌倉武士達の意思を引き継ぎ。

最後に北条泰時公の御廟所前の説明石碑と鎌倉武士も見ていた今日の富士山の写真を載せます。
お墓の写真は失礼に当たるので掲載しません。
皆様、御自分で足を運ばれてみて下さい。
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