歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:北条綱成

2017年07月15日、この週の火曜日07月11日が新井城落城した日で尊敬する武将の一人である三浦義意公と御父君の三浦道寸公の供養の為に菩提寺である網代山海蔵寺に参拝し、御住職様から海蔵寺専用の納経用の奉書を頂いていたので三崎漁港の海南神社の例大祭に合わせ、土曜日に写経した妙法蓮華経観世音菩薩普門品世尊偈を携えて海蔵寺に納経に再訪した。

海蔵寺さん参拝の後、最初に訪れたのは天然記念物諸磯隆起海岸だった。
CIMG4649
…と、その前に少し小生の神社と御寺に対する思い入れの根源の話し。

小生の祖先は某延喜式内社の宮司家なので御寺や仏教と言うと子供の頃は除夜の鐘程度の認識しかなく、なんと言うか御祭りの様な楽しい場所と言う感じだった。
大人に成って仕事でリーマン破綻直後に3ヶ月間、毎日睡眠が3時間以下と言う労働が続いて過労に成って頭ハゲそうなハチャメチャな状況に成って心身共に参っていた。
同僚が中国語話せないのに突然中国へ転勤に成ったり、小生は中国語話せるのに国内に残りソイツの分も含め複数人から仕事を引き継いだり、ハッキリ言ってキャパを超えていた。
朝の定時出勤時間前から出勤して客先の就業開始直後に御用聞きで訪問できる様に直行。
夕方の18時に帰社、そこから自分のオフィスワークと2人から引き継いだ分のオフィスワークを始める。当然朝までかかる。だから休日も潰れる。20時以降はタイムカードを切らされてサービス残業を強要され、当然休日出勤は申請不可。そんな会社だが実は中堅企業の中の大手の部類の企業だった。
アジア圏や国内遠方に出張する際は、上司に指名されたいい加減な同僚に仕事を任せるのが嫌で嫌で仕方なかったが、馬鹿でも出来る様に完璧にスケジューリングして協力会社にも念入りに事前に打ち合わせで部材の製作をお願いして置き、資料も準備して小生の仕事を代理で行う人間はスケジュールの時間通りに指定の場所を訪問して人に会い物を受け取り、物と資料を渡すだけで何にも考えず何にも余計な事を話さず済む様にしてあった。
だけどね、世の中、いい加減だけど何だか知れないけど上司に信頼される奸臣と言うのが居て、その上司に仕事を御願いする様に指定された同僚は「案の定ちゃんと俺のスケジュールを踏んで行動しない」で当日に訪問しなかったり、結果的に納期に遅れたりやらかしてくれた。
だけど狡猾な奴で上司には小生のミスの様に粉飾し、小生が出張から帰って来ると何だか知れないけど叱られたり。それを残業時間に成って同僚を呼び止め問い詰めると開き直りクソ同僚はこんな捨て台詞を言った…
「そんなに完璧にやれんて!」
…おい、俺は馬鹿でも出来る様に御膳立てしてやった上に協力会社の皆さんも文字通り万全の協力をして下さっていたんだがな?
まぁ、そんな事が何回か有ったりハードな仕事が三ヶ月休み無しで続いて自分で洗濯物洗う暇すら無くてクリーニングにシャツやスーツを丸投げしても、今度はクリーニング屋に服を引き取りに行く暇も無く、前日着たシャツにファブリーズだけして又着て仕事したりしていた。
小生がそんな事に成っていた時期に社員の1人が交通事故を起こして人を轢き殺した。
更に社員が1人自殺、でも家庭の問題とされていた…本当かよ?
子会社でも1人が過労要因と思われる交通事故死。
自分も高速道路で運転中に意識が飛んだり2回経験した。赤信号も認識できずに信号無視をしたり、自分で「やばいのかな~?」と思い、そのクソ会社を辞めた。
因(ちな)みに、その会社は今でも存続していて何だか知らないけど某大手企業のベストパートナーにも選ばれたりしている。御客さんは、そんな状況知らないだろう。まぁ、知ってる会社も有ったけど。
これ、当時、退社後に労働基準監督署にも職安にも相談していたけれど、「管轄外」と言われたり「ウチでは出来る事に限りが有って対処できない」と言う主旨の事ばかり言われたんだな。
まぁ、泣き寝入りするしかなかった。
アレから数年が経ったが、日本の労働基準法って今でも守られてないよね。実際。
有休消化なんて超大手企業しか出来ないでしょう?
週休二日制も守られてない会社多いでしょう?
サービス残業の会社多いよね?
安倍さんが賃金上げろと急(せ)かしても無視するクソ企業多いよね。
その癖に横浜市長みたいに日本を敵視する北朝鮮の学校に補助金出したり意味わからない政治家もいるよね。
新しい制度考える前に、既に施行した法制度を順守させる方が大切だと思うんだよな。
まぁ、そんな事が有ってリアルに昔は無責任不倫上司のせいで死ぬ寸前に追い込まれた。
だから、昔の善政を行ったり農民や商人に好かれた殿様達に余計に尊敬の念を抱くんだろうな。

そのクソ会社にいた頃に不思議な夢を見て…
横浜の歴史偉人とその上司の玉縄北条家や源頼朝公とその与力衆の鎌倉武士団の偉人達に"命を救われて"以来、歴史の資料を趣味で読み漁り墓所や御関わりに成られた神社仏閣と史跡を訪問し、殿様達に感謝して回るのが休日の趣味に成った。
…もっと言うと三浦の海に命と精神を救われた感が有るんだな、小生の人生は。
当時はボロボロで、ハチャメチャな仕事を命を繋ぐ為に辞めた。
不思議と普通なら「自殺したい」とか思う状態に成るであろう状況に、小生は「海見たいな~」としか思わなかった。死にたいとは思わなかった。
でも仕事の通勤帰りに電車に乗ってる時は危なかったね。夜の町の中を走る車窓から外を見てると引き込まれるんだよ。
あれ、一種の催眠状態なんだろうね、気持ちが暗い時や挫折を感じてるとハマりやすいのかも。
そんで、休みに良く観光客の余り行かない三浦半島の南端の江奈湾に行って磯で少し泳いだり、散歩したりして過ごした。
・・・そうこうしてる内に気力も回復して来た。
DSC_3346
この江奈湾の磯が大好きで良く散歩しにドライブしに行ってた。
台風の翌日、ここの岩場が高波にバッシャ~ン!バッシャ~ン!と洗われている時にアホな小生はクロックス履いて出掛けてて岩場の海苔で足を滑らせ仰向けに素っ転んで強く背中を打って息も出来ず、何回も打ち寄せる波にさらわれそうに成った。
その時に強く思った「こんな恥ずかしい死に方出来ね~し!」と(笑)。
DSC_3348
江奈湾の近くの松輪からは富士山も綺麗に見えたりする。
DSC_3353
富士山、此花咲耶姫命様も小生の命を繋いで下さった神様なんだな。
家の近所の円海山に登っては、そこから見える赤富士を見て円海山の自然にも癒された。
IMG_0065
神社や御寺と自然と彼女の存在ってのはね~、どんな向精神薬や安定剤や睡眠薬よりも効果が有るんですよ~。家族は当てに成りませんがね~。
大切なのは自分で選んだ家族に成って欲しい人なんだと思う。つまり血縁よりも理解者だね~。
それと脳味噌を休ませてくれる環境。
2015-12-26-17-16-07
御蔭で小生は薬漬けに成らずに働けた。
あと、当時はまだミシェランガイドに紹介されておらず観光客も少なかった鎌倉の報国寺の竹林に行って座禅を組む様に何も考えずに時間を過ごしたり。
2008-12-12-15-17-01
そこの草庵で少し休んで、抹茶を飲む事で大分気力が回復したと思う。
2008-12-12-15-18-52
今では観光客が多くなり、余り気の休まる静けさは無い。でも癒されるのは変わらない。
2008-12-12-14-48-30
今では現:鎌倉アホ市長によって通行止めにされた釈迦堂の切通しの辺り衣笠山~今泉台~報国寺の宅間谷(たくまがやつ)をグルっと一周散歩して回ったり、殿様達の残して下さった鎌倉の文化と景勝地と三浦の海は医者の処方する薬より疲労が蓄積して赤信号も無意識に無視した脳味噌を少しづつ回復してくれた。
後で知ったのだけれど、この報国寺を開いたのも横浜市の殿様の宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の御爺ちゃんの足利家時公だったんだな。
そして、更に後に知るのだが横浜市港南区の永谷天満宮も宅間上杉家の殿様が開いた神社だった。
CIMG2017
それ以来、紫陽花の季節には永谷天満宮に絶対に行く様に成った。
この少し前位、小生を身近に支えてくれた当時の彼女さんもいた。
この彼女とは結婚して幸せにしてあげたかったのだけれど、残念ながら小生がボロボロだったので縁が無くなったが、御蔭で小生はクソ会社退職後暫くして又、働ける様に成った。
2009-01-10-06-29-00
その頃に七里ヶ浜も行くように成った。
この変な棒は流木を砂浜に突き立てた写真。こんな風景七里ヶ浜に有りません(笑)。
その時に傍で支えてくれた昔の彼女さんを幸せにして恩返し出来なかった事を悔やんでいたりする。
丁度その頃だ。
ボロボロだった状態で夢の中に「龍寶寺」と書かれた石柱が出て来て起きてから「何だろうな?」と思って調べて見たら、戦国時代関東最強の武将だった北条綱成公の菩提寺の名前のだった。
場所も大船駅の近くで近かった。
2014-09-04-12-54-06
学生の頃に友達と遊んだ信長の野望シリーズに登場する名将の御寺だった。
2014-09-15-06-09-37上杉謙信と武田信玄に称賛された名将。
三つ鱗紋学生当時、北条家は少し地味で友人達には人気が無かった(笑)。
まぁ、どちらかと言えば三国志の方が学生時代は好きだったし。
夢の事でビックリして直ぐに参詣して、当時は今と違って旧境内地近くの山の上に存在していた御廟所に御線香を上げに行った。今では綱成公の御廟所は境内本堂横に移設された。
そうこう調べていると何と北条綱成の家老が横浜市の殿様の間宮家だった。しかも更に詳しく調べて見ると子供の時に同じサッカークラブに通っていた幼馴染の近所の子等の家の周りが綱成公の家老の間宮家の居城の笹下城址だった。
2014-09-10-05-21-33
何と小学校の頃、サッカークラブの幼馴染やその近所の子と遊んだ山が笹下城の本丸だった。
元々中学生の頃から家から鎌倉が近くて自転車で由比ヶ浜に行ったり、源頼朝公の御墓参りをしたり、江の島に行ったり、金沢区の野島公園に行ったりして遊んでいたので、歴史は好きだった。
子供の頃は大好きとまでは行かなかったが、大人に成り事情を知り直ぐに北条綱成公や間宮家の殿様達に尊敬だけで無く親しみも深く感じる様に成った。そして歴史が本格的に好きに成った。
最初は何となく資料を読んで、殿様達の開いた神社仏閣を訪問していた。そこから暫くして御朱印も貰う様に成り、更に地域の人にも偉人の存在を伝えたいと思う様に成ったのが3年ちょっと前。
もう一度、北条家の事を調べると足利家の鎌倉公方家の殿様と忠臣だった宅間上杉家や扇谷上杉家の事も知り、足利家に滅ぼされた鎌倉幕府の執権北条家の殿様達が元寇から日本を守って下さった事を再学習し北条泰時公と北条時宗公を尊敬する様に成り、更に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公とその与力武将達を物凄く尊敬する様に成り、三浦家や千葉家や佐々木家の殿様の事も鎌倉だけでなく横浜市と関係が有った事も知った。
その平安末期の武将中でも特に尊敬するのは、やはり平良文公、源義家公、源頼朝公、鎌倉景正公、三浦義明公、和田義盛公、三浦義澄公、佐原義連公、多田行綱公、渋谷重国公、佐々木高綱公だった。
CIMG4580
その人々の足跡を辿って油壷に行き、戦国時代に扇谷上杉家から三浦家を継いだ三浦義意公の民話を聞いて回る内に深く尊敬する様に成った。

まぁ、小生の命は自分で勝手に生きて来れた訳じゃなくて…
殿様達の御蔭、神奈川の自然の御蔭、そして当時の彼女さんの御蔭の3つで繋がったんだな。
…だから社会の役に立つ事をして生きた証を残して皆さんに恩返しせんといかんのよ。

そして2017年07月15日の休日雑記の三浦海蔵寺への三浦義意公と道寸公の供養の納経へと繋がっていく…

前回の記事
  ↓
休日雑記 2017年06月24日の訪問先その②・・・江ノ島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮・龍宮)
  ↑
コレの続き。
CIMG4365
江島神社奥宮の辺津宮と龍(わだつみ)宮を御参りして八方睨みの亀を見学してからの続き・・・
CIMG4367
辺津宮は江島神社の奥宮で、源頼朝公が奉納した石鳥居等が現存している。古き良き江島神社の姿を残す場所だ。
CIMG4363
“神社”としては奥宮、ここ迄だが実は江ノ島はここから先が最重要な聖地なのだが知らない観光客も多く、ここで引き返すカップルも少なくないのだが、江ノ島に来て“岩屋”=洞穴に行かないと本当に御神体としての“江ノ島”に来たとは言えないのだ。
コレ→(休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼)でも少し触れたが、江ノ島は欽明天皇以来の天皇家の勅願所(ちょくがんじょ=天皇家の祈願事を代理で行う聖地)として機能しているのだが、その場所は江島神社では無く江ノ島の稚児ヵ淵(ちごがふち)に存在する数ヵ所の洞窟な訳だ。
その場所は辺津宮から、そう遠くないが少々階段の上り下りが有るので知らない人は面倒くさがり行かない事も有る。
辺津宮から稚児ヵ淵に向かう途中、周辺には猫が沢山いて民家の玄関先等でくつろいでいる姿を見せてくれたりする。
CIMG4369
その②で紹介した猫ちゃん、人馴れしてる子ばかりで触っても逃げない子も多い。かわえぇ~。
日本の猫の大多数は仏教の経典や仏像を鼠の害から守る為に遣隋使~遣唐使と一緒に船に乗って日本に来た子達の子孫なのだが、つまり現在の唐代の中国建築の影響を受けている神社仏閣の建築技術を伝える図面やなんかを守ってきてくれた猫チャンの子孫達であり現代では多くの人を癒してくれる"聖獣(笑)"な訳だな。
こんな猫チャン達を数匹見かけつつ階段を降りて行くと、こんな場所に行き当たる。
CIMG4371
CIMG4374
松尾芭蕉や服部南郭を始め、文人達の句を紹介した石碑が沢山有る場所。
CIMG4373
松尾芭蕉の句は直接江ノ島と関係無いが、服部南郭は此処(ここ)で漢詩を詠んだらしい。
CIMG4372
明治の元勲達も皆そうだが、江戸時代~大正時代の偉人達は教養の高い人が多く、余裕で現代中国人の詠めない漢詩を創作したりする知識と風流さを兼ね備えていたんだな。
因みに偉そうに解説する小生は、華語が話せて武士の言葉も読めるので漢文の意味は解るが詠み創作する事は出来ない低文化人だ(笑)。
何故この一角に句碑が沢山有るかと言うと・・・
CIMG4375
もう海が見えるから、この風景に関係のある詩句が紹介されている訳だ。
この下の岩場が稚児ヵ淵と呼ばれる。
歌舞伎の演目の“白浪五人男”の弁天小僧は岩本院(現在の岩本楼)の稚児がモデルに成っていると伝わるが、不勉強な小生はコレを笹下城下に取材に行った際に偶然、岩本楼の先代の奥様の御身内から御教授頂いてから調べて知る事と成った。
江戸時代の娯楽も見ておくべきだね。
因みに弁天小僧には、こんなセリフが劇中有る・・・
「岩本院の稚児上がり、普段気馴れし振袖から、髷(まげ)も島田に由比ヶ浜!」
・・・意味わかります?
コレは江戸時代の民間人特有の洒落(しゃれ)っ気が効いたセリフに成っています。
セリフを区切って解説して見ましょう。

[岩本院の稚児上がり]
江島弁才天を管理する岩本院で幼少時代修行していた人物である事を説明している。弁天様を祀っている岩屋(洞穴)の前の稚児ヵ淵の磯の地名とも掛けてラップの様に音(いん)を踏んでいる。

[普段気馴れし振袖から]
弁天小僧達、白浪五人衆は実は盗賊なのだが善玉の義賊として描かれている。その中でも弁天小僧は女装の変装が得意な美少年だったので「普段気馴れし振袖」そのまま、女装して呉服屋に乗り込んだりする役柄。

[髷も島田に由比ヶ浜]
髷は丁髷(ちょんまげ)の事、島田は江戸時代の女性の髪型の結い方の一つ、つまり男性が女装している様子を形容している。
由比ヶ浜の部分は江ノ島は現在は藤沢市だが明治までは鎌倉郡だったので、鎌倉の有名な由比ヶ浜の地名の“由比(ゆい)”と髪を結う“結い”を掛けて洒落たラップの様にしてある。

そんな感じで江戸市民ってのは他地域と違ってユーモアを好み、かつ現代の芸人みたいに人をイジメたり笑い者に成る教養の無い嘲笑を煽る笑いの取り方では無くて、文芸や歴史知識と世相や時事ネタを入れ込んで謎かけみたいな事をするのが大好きな人達だったんですね。
まぁ、江戸を築いたのは大坂の佃村から移住して来た人々と品川と江戸城周辺の農民だったので、本来の大坂の笑いも江戸時代までは江戸の古典落語や歌舞伎や狂言の笑いみたいに教養に溢れたものだったのかも知れない。
東京にしろ大阪にしろ、落語家達には当時の笑いの流儀が受け継がれている様に素人目に感じる。
CIMG4404
さて、稚児ヵ淵は多くの観光客で賑わうが、鎌倉の護岸工事される以前の磯が残っている。
風景が良いだけでなく、子供には良い自然観察の場にも成る。
CIMG4406
だから立派な藤壺やら・・・
CIMG4408
・・・亀の手が沢山生息している。オッサンの小生にはどれも採取して家で湯がいて食べたい蟹の御仲間の水生生物、酒の肴にしか見えないんだが(笑)。
CIMG4376
三浦半島と伊豆半島も見えてとても景色の良い場所だ。
CIMG4379
ここを過ぎると欽明天皇が天皇家の勅願所に定めた洞穴が有って、豊かさの象徴の神様であり古代は水の神様だった宇迦之御魂神が祀られている。
CIMG4380
立派に観光地化されており、入口は屋根が付いているが洞窟の深部はそのままに成っている。
CIMG4381
入口横には古代の海洋生物の化石も沢山露出していたりする。
CIMG4382
入場料は大人500円と安い。だからカップルだけでなく親子連れや団体観光客でも賑わっている。数年ぶりに来たら外国人観光客も増えていた。
CIMG4383
中に入ると池が有る。
CIMG4384
実はこの水辺が聖地と成った大切な意味を成しているのだが、これは後で説明しようと思う。
CIMG4385
池の中の句碑は与謝野晶子さんの物で、知らなかったのだが彼女は江ノ島が大好きだったそうだ。
そう言えば先日、御子孫の与謝野馨前特命大臣が他界されたばかりだな。
CIMG4386
洞窟の壁には深部に行くまで色々な解説の掲示物が有るので、是非、ちゃんと読んで欲しい。これを読んで置けば、将来、自分の子供にも、又は皆さんが現在の恋人と別れて新しい彼女と(笑)再訪しても説明して上げれるだろう(;^ω^)。
CIMG4387
ここは昔から、途中で係員から蝋燭(ろうそく)を貰って自分で足元を照らしながら探索する、ちょっとしたイベント的な要素が有ってカップルに大人気だったりするんだな。
CIMG4388
途中、天井部分に透明のビニールシートが貼られている場所が多くあるのだが、これは石清水が多く湧き出していて雨の様に降ってきているから。これが古代の人々や頼朝公には神秘的に感じられた訳だ。
CIMG4389
そして多くの石仏や石の御神像が昔のまま並んでいる。
CIMG4391
場所によっては結構な暗さだったりもする。夏なので今自分は観光客が多く若干渋滞する場所も有るのだが、天井が低い部分も有るので気を付けないと頭をぶつけて文字通り頭が割れて血だらけに成る事に成る(笑)。本当に気を付けないといけない。
CIMG4392
どちらかの和尚様の座像・・・
CIMG4393
そして最深部、この場所が欽明天皇以来の勅願所の始まりと成った場所。
恐らく当時は祠(ほこら)も無かっただろう。祠の下の石の台座の上で神職者が神事を行ったり修験者や真言宗の僧侶が護摩炊きしたりして旱魃(かんばつ)の回避や降雨を祈願したり、稲の豊穣や疫病鎮定の祈願をしたんだろう。
さてそこで、先ほどの与謝野晶子さんの句碑の有った池が大切に成る。
CIMG4384
ここは曲がりなりにも海辺の洞穴である。
しかし洞窟内は雨が降る様に清水が天井や壁面から湧き出し、一年中、例え旱魃の年も枯れる事が無い訳だ。その洞窟の池が本当に海水では無い事の証明が下の写真だ。
CIMG4394
なんと淡水魚の金魚が悠然と泳いでいる訳だが、これだけ豊かな水量を誇る清水が海に突き出した江ノ島でずっと湧き出している事が既に古代人にとって奇跡な訳だ。
西暦900年代の醍醐天皇達から見ても古い神社を記録した一覧の延喜式神名帳に掲載された古社の中には神奈川県内でも有鹿神社、大山阿夫利神社、比々多神社や未掲載だが天皇家の勅願所だった仏教施設になっていた師岡熊野神社等は縄文時代からの遺跡を旧境内地に抱えている、そしてどこも水や酒に関係する神様が祀られている訳だ。これが何を意味するかと言うと、小生のブログの読者様は飽きる程繰り返し読まされているが、古代人は井戸を掘る術も無いし、川の水を直接飲むと病気に成るので湧き水が聖地であり命を繋ぐ飲料水を確保する大切な場所だった訳だ。この習慣は古墳時代や飛鳥時代に成っても続いたので、当然奈良時代にも平安時代にもその文化は形骸化しても残っていた訳だ。
そして戦国時代に江の島険阻な地形を利用して逆臣上杉家と戦った鎌倉公方の足利成氏公は、長期間江ノ島に籠城出来たのも、数千の兵士に行き渡る水源が江ノ島島内に確保出来ていたからだった訳だ。
米の補給は房総半島から船で出来たとしても、水が無ければ忽(たちま)ち兵士は活力を失い士気が下がり降伏せざるをへ無くなるから。
そして、この奇跡の土地の宇迦之御魂神様や弁天様の御利益で、源頼朝公は伊勢平氏の平清盛の軍勢を打ち破り藤原秀衡の子達を屈服させて鎌倉幕府を開き、足利成氏公は逆賊上杉家相手に奇跡の大勝利を収め、戦国時代には北条氏康公が岩本院の前身の岩本坊に宿泊しここで源頼朝公の様に戦勝祈願をして河越夜戦で奇跡の北条家兵8000人で上杉家兵80,000を破る大逆転勝利を収めた訳だ。
つまり戦勝祈願としては古今無双と言って良い御利益が有る訳だな。
そして神道成立以前の古代からの原始宗教~古代の神道の原型~仏教との融合~明治時代の神仏再分離による誤った神様の名前の誤植の歴史の変遷も知る事が出来る場所な訳だ。
現代の女性にとっては縁結びの心強い神様でもあるのが江ノ島の弁才天様なんだな。
・・・でも女性の味方の神様だから、駄目な彼氏と一緒に行ったら縁切りの御利益も有るかもね(笑)。
さて、第1洞穴を出て第2洞穴へ行く途中に下の写真の場所が有る。
CIMG4395
第二洞窟の入口との連絡通路から見える亀に見える石だな。
江ノ島弁才天は、鎌倉時代以前からの社紋は確か亀甲紋だったと思う。現在、表立って使われているのは鎌倉幕府の北条時頼公由来の三鱗紋と波切り紋を合わせた社紋に成っている。
古代に海を収めた息長一族(素戔嗚尊の御神孫)や出雲族達は亀甲紋を社紋にしていたのだが、江ノ島の弁天様は海の神様でもあるので何とも因縁めいた亀の形をした岩の見える風景が有る訳だな。
CIMG4397
その亀の石の見える海の上の岸壁に洞窟がもう一つ口を開いているが、恐らくこれは近代に成って築かれた要塞の跡だろう。形状が完全に人口の洞穴だな。
この相模湾周辺は、米軍の上陸が予想されており七里ヶ浜の稲村ヶ崎や玉縄城址出城の二伝寺に高射砲が設置されたり要塞が築かれていた。つまり昭和の戦争史跡でもある。これは戦争が他国の侵略から国民の生命と財産と自由と信仰を守る意味が有る事や、一歩間違えると侵略側に成ってしまう歴史の両面を教え伝える意味でも本来公開するべきだと個人的には思う。
まぁ、公開すれば左翼が発狂するし、右翼は自己都合の歴史観を現実逃避して主張し混乱するので事なかれ主義の現代の教育委員会は公開しないのだろう。
寧(むし)ろ、左派も右派も中道も保守も改革も、議論するのは悪い事では無いと小生は思うのだが。
左派の中にも中道左派で良い政策を提言する方もいれば、中道保守にも真面目に国防を考え経済振興政策も提言する方も少なくない。
用を成さない連中は自己肯定の為にステレオタイプに他人の主義主張をコピーしてる連中と何でもかんでも相手の批判しかしない民進党と共産党の連中だけだからな。
まぁ、そんな訳で、江ノ島には日本の各時代を網羅した遺跡が在る訳だ。
第2岩屋に入って見よう。
CIMG4398
コチラは要塞化されていた様で、明らかに人工的な部分も多い。
CIMG4399
とは言え、こちらも民話の伝承する場所でもある。
CIMG4400
中に進んでいくと、民話を元に設置された龍の張りぼてがある。
CIMG4403CIMG4402
解説では江ノ島生まれの民話とされるが、その説明は間違いだ。
CIMG4401
旧鎌倉郡全体の民話と捉えた方が良い。
現在の鎌倉市深沢辺りと江ノ島が舞台の民話で、古来より深沢の山中の池に住んでいた暴れん坊の龍が、江ノ島の弁天様がモデルの天女に惚れて、その天女にプロポーズしたところ説教されて改心し尻に敷かれて幸せに成ると言う話だ。
小生は、この民話の龍のモデルも察しがついている。
山崎地区
鎌倉市の山崎地区には鎌倉中央公園が有り、そこには大きな池が有る。
この山崎地区には源頼朝公も崇拝した山崎泉蔵院と言う修験道の大寺院が有ったが、現代の鎌倉市や神奈川県の教育委員会も場所を把握していない。泉蔵院は熊野権現と不動明王を大切にする寺院だったので、湧水地を聖地として寺院や山伏(やまぶし)の修行道場を造営する宗派なのだが、恐らく鎌倉中央公園の場所が泉蔵院の室町時代の横浜市移転前の旧所在地だろう。
そして修験道は日本古来の信仰の聖地を寺院や神社化する宗派なので、この龍の神話の池が鎌倉中央公園の池なのだろうと小生は推測している。
山崎地区の隣接平野部は寺分とされ、古代より後の時代に寺領に成り地名が変わっている事も解るし、山崎は昔は只の“山崎”と言う地形を表す言葉だけで深沢も同様だっただろう。だからこの周辺は一色単に山崎や深沢と言われていたのだと推測出来る。
例えば山崎に在った泉蔵院は水辺で神様を祀る熊野信仰と関係が深いが龍神信仰が有ったかは現代では伝わらない。しかし関東では古代から根強く雨乞いの神様として龍神様が信仰されていて、伊勢原市大山阿夫利神社の二重滝のOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)や大和市の深見神社の御祭神の闇Okami 10.5pt.png神(くらおかみ)は何れも雨乞いの神様で有り龍神様だ。そして多摩地方の雨乞いも龍神信仰だった。
2014-07-27-19-06-56
大山阿夫利神社下社、徒歩10分の場所にOkami 10.5pt.png神の権化とされる二重滝(ふたえのたき)が在る。
CIMG3293
大山に入山する修験者や僧侶や一般参拝者は、昔はここと下の方の良弁の滝で禊(みそぎ)=行水=沐浴(もくよく)をして身を清めてから山頂奥宮の石山権現へ参拝したそうだ。
DSC_0542
大和市の深見神社、闇Okami 10.5pt.png神が御祭神。こちらは神社と地域の名前から推察して境川沿いの深水が龍神信仰の聖地だったと推測出来るが、地域の伝承に古代は付近まで湾が入って来ていたも伝わるので境川沿いに細長い入江が入って来て可能性も有るが龍神信仰は八幡信仰に通じる八大竜王信仰やインドや中国の水生生物の鰐の神格化された神様の影響なので淡水に関する信仰の場合が多い。
DSC_1084
旧武蔵国多摩郡の東京都羽村市にも近代まで龍神信仰が残っていて、羽村市内を流れる多摩川上流の深い淵が龍神信仰の聖地だった。そして日野市の高尾山、この高尾山(たかおさん)の高尾(タカオ)は大山阿夫利神社と同じOkami 10.5pt.png神のOkami 10.5pt.png(タカオ)が転訛した当て字だろう。その証拠に大山も高尾山も天狗伝説の土地だ。天狗はウィグル族やインド系の西方の人で、龍神信仰は彼らが日本に帰化して広まったのかも知れない。飛鳥時代の大和朝廷にはウィグル人の官僚がいた事が知られている。
大山も高尾山も大和市深見の何れの龍神信仰も、八幡信仰や弁天信仰の仏教成立後の中国伝来の信仰よりも古いのは間違い無い。
つまり、この江ノ島と深沢の民話は、古来の龍神信仰していた豪族が中央大和政権の影響で弁天様へ信仰対象を宗旨替えした事の比喩だと小生は推測している。
そして、その弁天信仰の極め付けの火付け役と成ったのが鎌倉幕府を成立させた源頼朝公と北条政子様ご夫妻だった訳だ。
CIMG1523
上は横浜市南区の瑞応山蓮華院弘明寺が所有する北条政子様の彫像。
弘明寺は古くは善無畏三蔵法師がインドから渡来し聖地を開き、弘法大師空海様が民百姓の為に災難除けの仏事を行い、平安時代末期に源頼朝公から崇敬を集めた御寺なので厄除け大師として有名だが、源頼朝公が信仰した弁天様を祀る御寺としても有名だ。
CIMG1524
弘明寺には今も立派な八臂弁財天様が祀られている。
まぁ、江ノ島と鎌倉市深沢周辺の龍神と天女の伝承の様に、歴史や民話は解らない部分が有るから謎解きが面白い。
しかし職業歴史学者は小生と違って、こういう自由な推測を文字に起こすとバッシングされる可能性が有るので書けないが、小生は歴史好事家(オタク)の一個人(笑)なので昔の人の気持ちに成って書いても誰からも何も言われない(笑)。仮に親切な学者さんに間違いを指摘され正しい知識を教えて頂けるなら、それこそ学ぶ機会と小生は狂喜する訳だ。
まぁ、立身出世が目的でなく宗教的な意味も大切にするので毎回、行く先々で御会いする色んな神社の宮司様や御寺の和尚様から宗派を超えて民話伝承を御教示頂けたり非公開の文書や保有する遺物を見せて頂いたり、宗教的な側から歴史を学ぶ機会が増えて嬉しかったりする訳だな。
社会人に成ったら色んな事は自分で学ばなきゃいけない。人は教えてくれないし、教えてるフリしてる客先や上司は自己利益を追及する為にマウントポジション取る為に意見してるだけの場合が多い訳だ。
社会人に成っても文化と人々の精神的な支柱である宮司様や和尚様達に師事出来るのは本当に幸せな事だ。色々有ったが、これは本当に小生の人生が他の人と違って幸せだと言い切れる部分だ。
CIMG4407
岩屋を出て稚児ヵ淵を通り江ノ島から江ノ電の駅を目指す。
・・・フジツボと亀の手、気持ち悪っ(笑)!でも蟹の仲間で食べると美味しいんだよね。
戻る途中、撮影し忘れた句碑を改めて訪れた。
・・・福島漁村の句碑。
CIMG4414
江ノ島奥津宮と聖地の岩屋の別当の岩本院を治めたのが間宮。この福島漁村さんの兄弟子に当たる人物である間宮霞軒さんは、岩本院の間宮家出身だそうだ・・・
日本俳画会を起こした人物で更に江の島の初代郵便局長、中津宮の境内に在る句碑は昭和33年81歳の時、親交の有った文化人の飯田九一サンや有志等が建てたそうだ。
・・・そして福島漁村。昭和31年1868年~1956年を生きた人物で辺津宮の近くに有った旅館の江の島館の主、地方自治に活動した政治活動家でもあったそうだ。この福島姓は間宮家の戦国時代の上司、玉縄城主北条綱成公の生家の姓だ。
主従の義理と交友関係は近世に入り近代に至っても地縁と人の縁で繋がっているのを知る学者は少ない。何故なら悪の権化、堀内一族のせいだ。堀内一族は玉縄北条家の有力武将だった。戦国時代を通じて家老は間宮家だったのだが、堀内は近世に殿様の実弟の北条繁広公を殺害し保科家から北条家の名跡を繋げる為に殿様の養子を迎えて事実上、玉縄北条家を乗っ取った。結果的に福島家に関する古文書はありとあやゆる所から確認出来なく成った。完全に堀内一族の粉飾による歴史改竄と抹消だ。
この堀内一族は現代でもとんでもないデマを流布していて、徳川家康公の軍師に成り鉱山経営で活躍し真田丸や大坂城総掘り埋め立てを進言したのが間宮家の手柄で有る事が兵庫県や間宮関連の寺院でも有名な事実なのに堀内家の古文書は偽書が多く現在も間宮家の手柄や福島家の手柄を自分の家の手柄と喧伝している。とんでもない一族だが、実際に風土記でも関連の神社仏閣でも朝来市教育委員会でも実物の古文書や資料が編纂されていてそこに大坂城関連の事に堀内は一言も出て来ないので情報共有し易い現代では堀内のデマだと赤っ恥を晒している。
そもそも玉縄北条家を私物化して乗っ取っていたが、たかが小藩の家老の堀内家が、徳川家康公の外戚で鉱山奉行や地方代官を務めた間宮家の様に直接徳川家康公に謁見出来る訳が無い(笑)。
そんな事も辿れたりするんだな。
CIMG4413

残念ながら福島家が辺津宮近く、丁度小生が"その②"で紹介した海花亭の横の江ノ島大師、最福寺別院が建てられている場所に存在した福島家の江の島館は、昭和三十一年(1956年)に火災で焼失し営業終了してしまったそうだ。
CIMG4412
間宮一族岩本家の岩本楼の成立の例を考えると、この江の島館の福島家も中津宮や辺津宮の別当だった上ノ坊や下ノ坊の何れかの寺院が前身だったのかも知れない。江ノ島大師様にも聞いてみたのだが、やはり江ノ島館の福島家は前進が寺院だったと言う事は解っているが、現在の江ノ島大師様とは直接繋がりは無く、江ノ島館の寺院時代の事も伝わっていないそうだ。
これは風土記を読めば上ノ院に関する事は掲載されていると思うので、今後調べてみたいと思う。

CIMG4415
サムエルコッキング園まで戻って来て、タコ煎餅作ってる所を見学。CIMG4416
う~ん、どっかの工場にしか見えない(笑)。

CIMG4417
中津宮の参道を降りる時の風景が綺麗だった。
登って来る時は気が付かなかったが小動~腰越の辺りが良く見渡せて美しい。
江ノ島を後にして、江ノ電江の島駅へ向かう途中、江の島大橋でけたたましい騒音を故意に鳴らす迷惑なバイクを見かけた。
CIMG4421
日本の恥部。見てイラっとしたが、そう言えば行きに気に成っていた甘い物の店を思い出し直ぐに嫌な事を忘れ、その店に向かった。
CIMG4422
玉屋のようかん。
CIMG4423
ここでは江戸時代以来の名物、海苔羊羹を始め様々な伝統的な羊羹が製造販売されている。CIMG4424
店構えも立派で、もし電車で江の島に行く機会が有る人には是非御薦めしたい昔ながらの江の島土産の店だな。
小生は自分でも何故だか知らないが羊羹を買わずに、ここでキャラメルを買った(笑)。
ここから江ノ島駅は直ぐ近く・・・
CIMG4425
暫く待つと直ぐに電車が来た。

CIMG4426
今回はここまで!
続きは江ノ電観光と鎌倉市内の史跡辺となる“その③”で紹介します!
では又!続きでお会いしましょう~!

前回の辛垣城址編↓これの続き…

辛垣(からかい)城址の頂上で海禅寺の御住職に「10時位の到着に成ります」と連絡をして、城山を降りて御寺に向かった。
CIMG3378
海禅寺は現代では参道がJR青梅線に分断されている。
CIMG3376
こう言った事は良く有る事で、鎌倉でも臨済宗鎌倉五山第二位の格式を持つ円覚寺や、坂東平氏の祖先を祀る御霊神社の総本社である鎌倉坂の下の御霊神社も同じ様に江ノ電が参道を横断している。
まぁ御寺や神社の境内地は昔は広大だったので、明治~昭和初期にかけて鉄道開発をする際に線路を敷設しやすかったので政府に土地を接収されてしまう事が多かった様だ。
CIMG3379
だから昔の山門は場所を移して、現在は中央線の踏切に成ってしまった参道の左手に移設して現存している。
「不許葷酒入山門(酒を帯びて境内に入っちゃダメ)」
ふむ、禅宗寺院の昔の厳格さを忍ばせる石碑だ。
まぁ、今は禅宗寺院でも御酒を飲む和尚さんばっかだけどね。
小生は現代人の庶民だが「(酒を)飲む」「(博打を)打つ」「(女を)買う」を一切しないので、ある意味では仏様に好かれるのかも知れない。神様にもいつも礼拝しているし、神様にも好かれると思う。
じゃないと小生の様に仕事徹夜空けで遠征ドライブし山登りまくって、性格も喧嘩っ早いのに無事でいられたり過去8回ひき逃げや交通事故に遭って掠り傷だけで済んだりしないだろう。
でも幼少期にハチャメチャ過ぎて手を2回骨折してるし、医療技術の発達してなかった時代なら障害者に成ってたね。
まぁ~神様や仏様や尊敬する偉人と、幼少期に可愛がってくださった恩人や御先祖、友人達と御医者様に感謝しないといけない。
そもそも、今生きているのも北条綱成公の御蔭だし。
そんな訳で北条綱成公の顕彰活動を始め、家老の間宮家の顕彰活動も始め、その間宮家と関係が深い海禅寺サンに横浜から御参り&御住職様に取材に来た訳だ。
CIMG3380
海禅寺は三田氏の菩提寺とだけ伝わるが、それは曹洞宗の寺院として再興されて以降の歴史しか現代に伝わっていないからだろう。曹洞宗は荒廃したり戦火で消えた御寺を北条家の支援で多く曹洞宗寺院として復興(再開基)しているのだが、何せ一度消えた御寺を復興してる場所だらけで、それ以前の歴史が伝わらない場所は多い。
海禅寺も実際は天正三年(1575年)に天皇家の勅願所に定められている格式の“状況”から言って、昔、荒廃してしまった格式の高い前身寺院が必ず存在していたはずだ。
実はこのヒントが神奈川県横浜市と新編武蔵風土記稿に残されていて、その話も御住職に確認したかった。
例えば、この謎を解く例を挙げると…
DSC_0355
上の写真は神奈川県藤沢市大庭に存在する曹洞宗の宗賢院。
この御寺は詳しい歴史は戦国時代の復興以後の事しか解らない。しかしながら源頼朝公の御父君、源義朝(よしとも)公の重臣だった大庭景義公と弟の大庭景親公の居城だった大庭城址に近在し、更には大庭景親公が陣中で使用していた釜が寺宝として現存する。つまり平安時代末期には前身寺院が存在していたはずだ。
加えて延喜式内社の神社である大庭神社舊(きゅう=旧)跡の熊野神社が近くに存在する事から鎌倉時代は大庭神社別当寺(べっとうじ=神社を守る為の御寺)だった可能性が非常に高い。
この熊野神社が大庭神社の旧址だと言う事は江戸時代の人々にも認識されており、それは相模国五之宮であり古代の一之宮だった有鹿神社と、今の一之宮の寒川神社に証拠が残っている。
CIMG3476
江戸時代の相模国延喜式内社を網羅した掛軸、これは寒川神社の当時の宮司が書いた物だが大庭社熊埜天神と書かれている。熊野神社に成っているのは大庭神社旧跡、菅原道真公を江戸時代に習合しているのが現在の大庭神社本宮、つまり両方の名を合わせた大庭社熊埜天神と記載されている訳だ。
格の高い神社の傍には別当寺が必ず存在しているものなのだが、熊野社に成っている大庭神社旧跡の別当は室町以後~現代でこそ本宮の方と同じ別当寺だが位置的に不自然きわまりない。昔は宗賢院の前身寺院が旧跡の別当だったはずだ。
極め付きは宗賢院の寺紋(じもん=御寺の家紋みたいな物)が太田桔梗、そして山号が蟠龍山である事だ。
昭和初期までの神奈川県民と県役人達の認識でも、伝承や状況証拠でも大庭城は室町時代のある時代、永享の乱の頃まで扇谷上杉家の本拠地だった様だ。
戦国時代の扇谷上杉家は武蔵国に勢力を誇ったが、元々は武蔵国南部は宅間上杉家の支配地だった。
そして扇谷上杉家の家老だったのが太田家だ。
太田家の一番有名な太田道灌公の菩提寺は神奈川県伊勢原市の“蟠龍山”洞昌院公所寺なのだが、山号が同じで、やはり太田家から使用を許された太田家の家紋の太田桔梗を寺紋にしている。
2015-11-25-15-13-16
だから公所寺の本堂にも宗賢院と同じ太田桔梗紋が彫刻されている。
これ等の事は宗賢院が大庭城主扇谷上杉家の家宰(かさい=社長代理みたいなもの)だった太田家と関わりが深かった事を知る十分な状況証拠に成っている。
そもそも曹洞宗が明治政府の神仏分離令まで日本神話や聖地を大切にしていた歴史その物がある訳で宗賢院も曹洞宗な訳だから大庭神社の事も関係が有って当たり前なのだが、残念ながら昔は和尚様達は世襲制では無く宗派の有力寺院から派遣されて来ていたので歴史が全て正確に伝わる訳も無いし、そもそも曹洞宗が復興した場所は全部廃寺に成っていた場所ばかり。
だから以前の事は解らず、曹洞宗に成ってからの記録しか御寺自体には伝わっていない事が多い。
そして海禅寺も開基されて100年足らずで唐突に❝天皇家の勅願寺❞や❝10万石の格式❞に成れる訳が無いので必ず格式高い全身寺院か神道や修験道の聖地が有った筈(はず)なのだ。
まぁ、そんな訳で「グチャグチャ文献だけ読んでても良く解んねぇ~し仕方ねぇ~な(笑)」と言うのが小生のスタンスなので、自分で実際に毎回取材に行く訳だ。
すると神社も御寺も歴史史跡も、文献には載っていない事が多く口伝や証拠が伝わっていたりするんだなコレが。

話を海禅寺に戻す。
海禅寺はそもそも福禅寺と言う名前だった。
江戸幕府の役人がド阿呆で、幕府の寺に対する領地保証書を発行する際に❝海禅寺❞と書き間違えてしまったので、土地の権利を守る為に仕方なく当時の御住職は海禅寺の名に寺名を改めるしか無かった。
役人が別寺院宛ての文書を誤って発給したか、教養が無くて寺名を書いた資料の草書体を読めず間違えて福を海にしたかは今では良く解らない。
実は幕府を開いた直後に三河、遠州から来た徳川家官僚には、この手のミスが多い。
…と言うか、恐らくいつの時代も官僚の中に適当な奴がいる。小生の様に趣味でやってるブログでは無くて仕事なのに校閲もせず適当に仕事をして、色んな文書の元号や武将の名前や法名を書き間違えている事が多い。
しかし被害者が幕府に抗議すれば、それがたちどころに官僚は己のミスを隠して被害者側を❝謀反人❞扱いして武士なら所領、寺なら寺領、神社なら社領を没収されてしまう訳だ。
海禅寺と関わり深かった横浜の間宮家の間宮康俊公も恐らく幕府によって戒名を誤って認識されて、間宮家側が❝忖度(そんたく)❞して家系図を補修しなくてはいけなくなっていたりする。
まぁ、しかし海禅寺自体は格式高いだけでなく、昔から風流な寺として有名だったようだ。
CIMG3381
室町時代から花の寺として有名だった海禅寺、新編武蔵風土記稿の多摩郡三田領二股尾村に掲載されているが、風土記は「歴史の目次」みたいな物なので詳しくは掲載されていない。
こう言った郷土史調査は「他都市からの移住者で“横浜=近代”の先入観しか無い精神的カッぺが職員ばかりの横浜市教育委員会と横浜市歴代市長の中で左派思想の人物は文化財保護法の設置を最後まで拒んでいた建設利権に癒着した無文化で使えない連中」なのだが、他の自治体は郷土の人が職員に成るので青梅市の様に盛んに調査、保護が行われている。
CIMG3382
訪問時は4月下旬で既に桜は散っていたが、辛垣山城址登山前に踏切で小学生の交通整理をしてらっしゃった駐在所の御巡りさんと雑談した所、境内は桜が多く現代でも「花の寺」として有名だそうだ。
CIMG3383
山門も素晴らしい。もしかしたら構造的に仁王門にする心算だったのか?
本当に立派な楼門だ。
丁度、幼稚園の先生と園児達が鬼ごっこをしていて遊んでいた。
CIMG3388
可愛らしい光景に思わず顔がデレてしまった(笑)。
こんな良い環境で育った子供達は、きっと素直で優しい大人に成るんだろうなぁ~。
間違っても小生の様に「史跡不保護無文化市長」とか「無能な横浜市教育委員会」とか事実とは言え悪態を吐く自分の価値を貶める心の狭い発言をする人間には育たないだろう(笑)。
皆すくすく、優しい子に育ってねぇ~♪
CIMG3384
山門の脇には鐘楼が有った。こちらも立派だった。
屋根の構造を見るに昔は茅葺屋根だったんだろうと思う。
茅葺屋根は高級で保持には費用が嵩(かさ)むので、現代では御覧の様に銅葺きや瓦葺きに吹き替えている場所も多い。
CIMG3386

この説明文では三田家の中興と有るが、この規模の寺院は必ず元々は主家であった扇谷上杉家の支援の下で三田家が復興を果たしているはずだ。
そして戦国時代には北条家が必ず復興している筈だ。元:三田家臣何某だけで再興できる規模でも無ければ格の高い住職を招ける訳も無い。
歴史の解説の前に施設の紹介を進めよう。
CIMG3390
境内からの景色は良い。楼門と花々越しに青梅の山脈(やまなみ)が見えた。
CIMG3385
本堂も大きい。
CIMG3393
玉縄北条家の菩提寺龍寶寺や初期の北条家において神奈川領をまとめた間宮家の菩提寺の寶泉寺や宗三寺と同規模を誇っている。
CIMG3394
つまり軍団長レベルの部将でないと建てれない規模の御堂だ。
この規模の堂宇を一、三田家臣が復興出来る訳が無い。絶対に北条家の支援が入っている。
そして、先述の通り、戦国時代に天皇家の勅願所に成る時点で前身寺院が途轍もなく格式が高かった筈だ。これは後で前身寺院の推測を紹介する。
CIMG3387

境内には凄く立派な枝垂れ桜も有った。きっと桜の季節には見事な景色に成るだろう。
CIMG3389
境内の谷戸そこかしこ、本当に花が多かった。
素敵な御寺だ。

御住職に面会すると本堂に通され、色々と御寺の歴史にういて御教授頂いたり小生の推論を述べたり、地図を見て周辺を歩き、御近所の旧家についてや地形的な事等々、気に成った事を質問させて頂いたりした。
その御住職様とのやりとりを踏まえて小生の推論と合せて三田家と海禅寺の歴史を紹介しようと思う。

海禅寺はそもそも「福禅寺」と言う名前の寺院だった。
まぁ…既に御寺の旧名自体が前フリでネタバレなんだが。
それは後に説明するとして、御寺の主な檀家は三田家だった。
三田家の治める当時の青梅を含めた多摩地方は扇谷上杉家の与力衆の武将達の土地だった。
しかし天文十五年(1546年)の河越夜戦で三田家の旧主の扇谷上杉家が北条家によって滅亡させられると、その後は暫く八王子の高月城主大石家同様に北条家に臣従していた。
永禄四年(1561年)に杉謙信(当時の名は長尾景虎)の連合軍勢10万が北条攻めを敢行した際に、元々扇谷上杉家臣でもあった事も有り北条家を離脱して上杉謙信に寝返った様だ。なので上杉家与力衆の名を記した“関東幕注文”にも記載されている。
そして上杉謙信が小田原攻めに失敗して北条家の逆襲が始まる。
多くの多摩地方の武将は善政を布(し)く北条家に臣従していたし、一度、上杉謙信の大軍に恐れを成して北条家を裏切った成田家や千葉家の武将達も再び北条家に与力していた。
しかし、三田家の当時の当主の三田綱秀公は義理堅い人物だった様で、一度自分で謙信に付いてからはずっと謙信の援軍到来を信じて北条勢に頑強に抵抗した。
永禄六年(1563年)、とうとう北条家当主の北条氏康公の子で滝山城主の北条氏照公の軍勢が北条家から見て裏切り者の三田綱秀公の居城、勝沼城を攻めた。
DSC_1155
※写真は勝沼城址から見た青梅市の風景。2016年撮影。
すると勝沼城は小規模で鉄砲攻撃を受けた際の防衛にも耐えれないと判断し、辛垣山城へ兵を引いて籠城したそうだ。
CIMG3363
辛垣城は中世的な山城に北条家の築城術が加わっているので、三田家北条家臣時代に北条家による改修が入っていると考えられる。
後で和尚様に小生の推論を述べた時に「その通り」と太鼓判を頂いたのだが、今の登山道の入口辺りで激戦が展開されたそうだ。
しかし敗戦を悟ったのか三田綱秀公は子供の事を家臣団に託して、青梅の伝承では「北条家と一戦する為に埼玉県の岩槻城の太田家を頼って落ち延びて、そこで切腹した」そうだ。
だが、この話は少しおかしい。
1563年当時、太田家は上杉派の太田資正(すけまさ)公は北条派の嫡男の太田氏資公が対立しており頼れる状況ではない。
三田綱秀公は1563年に岩槻城で切腹したとされている。つまり、方針も決まっていない太田家が切腹させた事に成ってしまう。ましてや綱秀公が太田家を頼る筈が無い訳だ。仮に頼ったとしたら死亡年は実際は1564年だった筈だ。そして、家臣団と三田綱秀公の御子息達は開城後も全員生きている。
状況を整理する。
三田綱秀公は上杉謙信の大軍を見て上杉に付いた。しかし上杉謙信は小田原に攻め上がるまで多摩地方を含め東京や神奈川で略奪放火を行い多くの神社仏閣を焼き払い、婦女子を捕まえては上杉の軍兵が犯しまわり奴隷として売買した。常陸国の小田城下で上杉謙信は奴隷公設市場を開いたりしている鬼畜、不義の人だ。北条家でこういった事は無い。
北条家の統治と比べ、そんな上杉軍の無軌道な状況を快(こころよ)く思わない三田家臣団も多かっただろう。
そして己の判断ミスで三田家家臣団や農民達が今度は北条家から逆襲される羽目に遭った。
三田綱秀公は誠実な人柄だった様なので、旧主扇谷上杉の更に主家の上杉家を継いだ上杉謙信に味方した後はずっと上杉家に付いていた。しかし統治能力も無く関東で乱暴狼藉を繰り返した上杉勢にも疑問も感じただろう。結果的に上杉家は関東を支配する事に完全に失敗し瞬く間に北条家の逆襲が始まった訳だ。
三田綱秀公は家臣や兵士として徴用した農民が北条家から殲滅される事を回避しようとしたのだろう。
だから家臣に子を預け、北条家と交渉し、家臣団と兵として徴用した農民達の生命の安全保証の条件として“引き換えに自らの城の退去そして切腹”が北条家と確約されたのではないだろうか。
そして太田家を頼ったのではなく、1563年当時は北条家にも上杉家にも両属していた中途半端な太田家預かりと成り、1564年に第二次国府台合戦で再び太田資正公が北条家に背いて結果的に御子息で親北条派の太田氏資公に追放された時点で正式に切腹をしたのではないだろうかと思う。
同年、三田綱秀公の御子息も全員亡くなっている。恐らく、三田家旧臣領民の生命安堵の条件だった北条家と不戦の約定を太田資正公が破って国府台合戦に参戦したからだろう。
でなければ三田家臣団が悉(ことごと)く生き残り、更には徳川幕府にも仕えた状況は成立しない。
辛垣城開城後、三田家臣団は三田綱秀公の誠実な領主としての対応と引き換えに北条家に属していた筈だ。
そして、御巡りさんや御住職に聞いて回った所、やはり北条家に三田領が属した名残を二俣尾で発見した。
二俣尾には「福島家住宅」と言う江戸時代を通じて名主を務めた家がある。
東京都の有形文化財指定を受けている住宅だ。
福島家住宅 公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式ホームページより拝借。
この福島と言うのは、武蔵国出身で黄備え隊玉縄衆の軍団長を務めた北条綱成公の旧姓だ。
北条綱成公の弟君は福島弁千代として有名な後の北条綱房公だ。
この北条綱房公の足跡が1549年以後確認できる資料が無いそうだが、北条家では統治が行き届き戦火に巻き込まれなくなった地方の事が文献に登場しない事は良く有る。
例えば神奈川県の伊勢原市周辺もそうで岡崎城や北条一族の神保輝廣公の事、藤沢市の大庭城の事も良く判らなくなる。登場しないだけで、無かった訳では無いのだが学者は記録に残らない事を事実としても書けないので推論も書かない。しかし小生は学者で無くて、たまに学者に論戦で勝つ事も有る只の歴史マニアなので自由に書かせてもらえる。飯のタネじゃないからね、逆に学者さんが言いたくても言えない事も言っちゃう訳だ。
恐らく、北条綱房公は三田領の二俣尾、辛垣城周辺の統治に入っている。
そして北条家滅亡後は福島姓に復帰している。
玉縄北条家は奸臣堀内家により事実上の権力乗っ取りが行われ、江戸い時代には保科家から養子が入り北条綱成公の親族は駆逐されている。その際に福島家は奸臣堀内家の陰謀を逃れて旧知の人の多い二俣尾に逃れて来たのではないだろうか。
実は立川市柴崎町周辺は元々は福島と言う地名だった。つまり、福島姓のルーツのはずだ。
そして福島家は遠州堀内今川家の家来で後に扇谷上杉家を頼っていた一族のはずだ。
実は、那古野城、今の名古屋城は織田家以前は遠州今川家の城だった。織田に城を盗られて今川領に逃げて行ったのだが、その時に福島家も逃げたのだろう。更に堀内今川家は本家の今川義元と対立する。
その際に負けるのだが、福島家は恐らく旧主“遠州”堀内今川家と関係の有る扇谷上杉や北条を頼ったはずだ。だから、今も扇谷上杉家の最後の居城だった川越市には今も福島姓が多い。
実は戦国時代の覇者と成った豊臣秀吉の甥の福島正則公は青年期まで駿河や伊豆の国境の深沢城の城代を務め伊豆と駿河東部の守備を担っていた北条(福島)綱成公を頼って一時的に駿河国に行っていた事が菩提寺の愛知県の菊泉院に伝わっている。
CIMG0416
これも菊泉院の御住職様を訪問し、直接御教授頂いた歴史秘話だ。
秀吉は織田信長公に軍団長に抜擢され信長公の子を養子にとる「家格」が有ったはずだ。
そのヒントが福島正則公の話だろう。
恐らく、木下秀吉の実父は尾張国愛知郡中村の名主と伝わるが旧那古野城主の堀内今川家の旧臣だったんじゃないだろうか。そして福島正則公も。そして北条綱成公の実家の福島家も。
福島を櫛間と書くとか一部の学者は当字の表記に拘るが、実際、武将の名前も音だけ同じで違う文字を当てる事は文書中に良く有るので、そこは幅を持たせておけばいい。
とにかく、秀吉が織田家に仕える以前に今川家重臣松下家に仕える事が出来たり、後に信長公の実子を養子に迎える事が出来たり軍団長に成れるのは実力が有っても絶対に家格がそれなりに無ければ無理。
状況を見れば那古野城主今川家の旧臣、那古野の今川家の没落後に秀吉の実家は帰農、そして秀吉本人は今川家のつてを頼って松下家に仕え、福島正則公は同族で駿河東部の経略を担当していた北条綱成公を頼って駿河に赴き、❝福島伊豆守❞に保護されていた歴史等すべての話は小生の推測通りなら自然に繋がる。
因みに、福島伊豆守は恐らく「伊豆方面に居た北条綱成公の実弟、福島伊賀守勝広」こと北条綱房公の事だろう。

もっとも…この青梅市の福島家の家系図では祖先は鎌倉時代まで遡(さかのぼ)れる生粋の武士で家系は源氏系に成っている。
しかし一般的に学者達の間では三田家と同じ坂東平氏の子孫、若しくは古代に神奈川県中央北部~北東部~東京都多摩地方に戦力を持っていた小野家(小野妹子の子孫)である武蔵七党じゃないかとする説が一般的だ。
青梅市教育委員会様の郷土博物館様にも御教授頂いたのだが、正直、江戸幕府に成ってからも家名を残した三田家ですら祖先の事は時代時代で色々と説が有るし、家紋も時代ごとに使い分けているので良く解らないそうだ。
まぁ、ここら辺りは小生の様な考え方も有るんじゃない?と言う可能性を残す事しか出来ないし学者さんも同じレベルで話してる程度の人が多い。
黒田基樹先生なんかは色々と資料を探し漁っている様だが、やはり完全な証拠は残ってないようだ。

歴史は紙で残っている事だけが全てではない。しかし、学者は仕事なのでそうも行かない。出典を明記しないと他の学者から❝イジメ❞に遭うからだ。
小生はガクシャセンセイでは無いので学者の利権を犯す立場にない。
だから自由に発言を出来るし、本当は学者さんが心の中で思ってる事を聞き出して代わりに言ってあげる事も出来るし、自分で文書に残らない各地の伝承を見たり教えてもらって廻りパズルの様に繋げ合わせて一つにして状況証拠で、こうやってブログに書く事も自由に出来る。
だからこそ利権と関係の無い小生は、金銭と関係なく思いだけで行動しているので色々な御住職様や宮司様達に気に入って頂けて学者も見た事ない文献や宝物を見せて頂いたり話を教えて頂いたける。
これはありがたい事だ。
さて、そんな訳で、恐らく尾張の福島はも北条綱成公の御一族と無関係では無いと思うのだが…
何でこの話をしたかと言えば、武将の話の様に御寺にも他の御寺や神社との❝血縁❞みたいな物が有って、それは必ずしも文章に残っているものだけでなく伝承も拾わないといけないと言う実例を挙げる為だ。
海禅寺は昔は福禅寺と言う名だったが…
2015-06-10-09-06-23
恐らく前身寺院が横浜市森浅間神社と同じだ。
森浅間神社の前身は鎌倉の扇谷に在った修験道の大道場だった❝福禅寺❞権現堂だ。
そして鎌倉時代の歴代の住職は歴代天皇の皇子つまり❝親王殿下❞が務めた訳だ。
恐らく、鎌倉で新田義貞の乱暴狼藉が有って福禅寺が焼けた際に寺の機能は青梅市に移転したのだろう。そして聖地道場としての機能は福禅寺の飛び地境内として存在した権現堂家の管理する浅間権現や天照大神宮で存続した。久良岐郡つまり今の横浜の磯子区森浅間神社や港南区港南に在る天照大神宮の遷座前の場所だ。これらを管理する権現堂松本家は間宮家から下賜された家紋を現在も使用している。
一方、恐らく青梅の福禅寺も前身は修験道福禅寺で永享の乱の頃に廃寺状態に成り後に三田家によって曹洞宗寺院として再興されたはずだ。
そして横浜の間宮家菩提寺と成った鶴見区下末吉の寶泉寺を開く際に、間宮家によって青梅の福禅寺の住職が招かれた記録が残る。だから遠く離れた横浜市の寶泉寺は青梅市の海禅寺の末寺だったりする。
戦国時代、再び三田家と北条家の合戦で再び燃え落ち、恐らく北条家の発願と支援を受けた旧三田家臣団により境内に立派な伽藍堂宇が復興され1575年には天皇勅願所に成る程に勢いを取り戻した。
しかし北条家が豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡すると、徳川家のアホ役人が寺の領地の保証書の名前を書き間違えたせいで現在の寺名を使わなければいけなくなってしまったが、10万石格の格式だけは受け継がれた。
森浅間神社地形
この様に状況を纏めると前身寺院は推測だが格式から言って鎌倉の源頼朝公が開いた、その名も「福禅寺」と言う歴代住職を天皇の皇子である親王が勤めた関東の修験道の大本山とも言うべき大道場だ。
しかし、新田義貞の兵火に遭い鎌倉福禅寺は消滅している。
更に室町時代には完全に森浅間神社に機能移転して管理する権現堂松本家だけが横浜市に残った。
恐らく、福禅寺は焼けた際に兵火を逃れて青梅市で扇谷上杉家によって永享の乱以後に復興されたのかもしれない。
そして青梅の海禅寺の隣には…
同じく鎌倉の修験道の大本山だった山崎泉蔵院と同じ寺名の現在は真言宗の泉蔵院も在る。
…この 両方の寺は格の高さに反比例して中興開基より昔の事が戦火と火災や諸般の事情で伝わっていない。
山崎地区
…その鎌倉時代には鎌倉市山崎に有った泉蔵院も、室町時代には久良岐郡森村、今の横浜市磯子区中原に保有していた熊野社の道場に機能移転した。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
そして大霊山泉蔵院桐谷寺と名を一部改めたが、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の仏教弾圧で修験道の大道場だったのを寺院機能を廃止して泉蔵院の名を捨てさせられ、ただの熊野神社に成ってしまった。
CIMG1459
しかし当時の宮司の気転で、神殿の一つとして❝泉蔵社❞として残され、源頼朝公に繋がる歴史が残された。
CIMG1480
まぁ、そんなこんなで青梅の海禅寺や泉蔵院は由緒有る御寺のはずだが、格が高い事は江戸時代の記録でも間違いない。
ただ、その格の高さは小生の説を用いないと説明が出来ない。
参考までに以前、森浅間神社と泉蔵院の解説をした記事リンクを貼っておく。

 また、何か解れば追加報告を書きたい。

取り合えず、御住職と面会を果たし色々話を聞けて御礼を申し上げて海禅寺を後にし、次の目的地の阿蘇神社を目指す今年した。

では、次回はこの休日雑記の続きを書きます~! 

小田原北条五代祭り 公式様より拝借 久良岐のよし

神奈川県で日本最大級の武者行列の御祭が毎年行われているのを御存知でしょうか?
IMG_7991
戦国時代の関東の覇者、小田原城主北条家を顕彰する御祭りが毎年05月03日に開催されています。
この御祭の凄い所は、武者行列の数がとにかく多い事、そして実際の城跡で行われる事、極めつけは戦国時代当時の軍団編成と同じく各地方から各軍団の顕彰会が文字通り“手勢” を率いて行われる所だんです。
つまり小田原市単独では無く、鉢形衆、八王子衆、玉縄衆、津久井衆等の北条家の主戦力部隊が勢ぞろいする御祭りなんです。
IMG_8024
良く判らん普通のオッサンも歩いていたりします(笑)。

昨年までは席が無かったのですが、今年からは当日席のみで500円で大迫力の武者隊の出陣式を見学する為に観覧席が設けられているそうです!
ですから、今回掲載している小生の写真よりも、更に北条家の大軍勢をいっぺんに見渡せるそうです。

この小田原城址は明治期に徹底的に破壊され、昭和にも歴史知識の無かった政治家主導の観光用のハチャメチャな公園化が行われましたが、平成になり立派な城が復興されています。
2015-02-28-16-17-03
 写真の様に平成に入ってから発掘調査に基づいた江戸時代の建築復興が現在進行形で行われています。
2015-02-28-16-13-30
天守閣は鉄筋コンクリートですが、その背後の山には戦国時代の本丸や八幡曲輪の遺跡も発掘展示されていたりします。
image
その辺りは以前書いた小田原城址の解説記事を御覧下さい。 
 2年前の記事→
ゴールデンウィーク、せっかくなので小田原に城に行ってみては如何でしょうか?
それともう一つ!
外郎(ういろう)は名古屋の名物と思っている人、多くないですか?
違います!
京都発祥、そして小田原の外郎(ういろう)家が本家で、元々天皇や朝廷貴族と室町幕府三代将軍足利義満公に薬師として仕えた外郎サンが、殿様達を接待する際に提供した御菓子が外郎なんですよ!
2015-02-28-15-04-57
ですから、本家本元の小田原の外郎サンは、北条早雲公に招聘されて戦国時代に京都から小田原に移住して以来ずっと今でも薬と御菓子の外郎を製造販売しています。
そして写真の建物は安土桃山時代に士分を捨てて薬一本を家業にした際に、天皇家から餞別として普通では庶民が許されない格の高い家柄しか作れない唐破風を多用した建築許可を頂いて以来、今でも伝統として天皇家の御好意を受け継いで唐破風を多用した建物を再建し続け店舗にしています。
image
 包装用紙の五七桐紋も天皇家から下賜された物です。
解説記事→
あと、名物の曽我梅干しと蒲鉾、曽我梅林の梅酒も御勧めです!
imageimage

imageimage
そして梅の季節には曽我梅林の梅が大変綺麗な街でもあります。
2015-02-28-17-33-47
皆さん、小田原は戦国武将の史跡と美味しい和菓子と魚と梅の有る素敵な街です。
箱根温泉も直ぐ近く!
5月3日、小田原北条五代祭り、是非!見学されては如何でしょうか?

【北条五代祭り】
開催地:小田原城とその周辺の城下町を武者行列パレード
日時 :2017年05月03日12:30~
住所 :〒250-0014 神奈川県小田原市城内地内城内5−3−22 
アクセス
小田原駅から徒歩10分
周辺に臨時駐車場多数。一般の有料駐車場の方が比較的空いていますのでナビを活用してみて下さい。
ホームページ
http://www.odawara-kankou.com/houjyou/ 

神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
CIMG2612
・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
CIMG2613
昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
CIMG2615
玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
CIMG2617
黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
image
今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
CIMG2621
この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
image
ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
CIMG2623
そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
image
image
小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
image
image
CIMG2639
CIMG2638
CIMG2642
CIMG2643
多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
CIMG2646
このエリアにも玉縄桜が有ります。
CIMG2625
CIMG2627
綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
CIMG2630
台湾原産の紅葉ばふう。
CIMG2632

CIMG2633
CIMG2634

そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
CIMG2647
熱帯植物の温室です。
CIMG2649
いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
CIMG2650
CIMG2651
CIMG2652
CIMG2653
完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
CIMG2654
CIMG2655

CIMG2657
CIMG2659
可愛らしい花も有れば・・・
CIMG2662
毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
CIMG2663
蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
CIMG2664
CIMG2665
CIMG2666
CIMG2668
CIMG2669
CIMG2670
わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
CIMG2671
CIMG2672
CIMG2673
CIMG2674
小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
CIMG2675
あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
CIMG2682
小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
CIMG2683
CIMG2684
盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
CIMG2676
小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
CIMG2680
こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


本日2017年02月26日午前10時から、“ゆず”の地元、旧岡村天満宮境内地岡村公園の岡村梅林で観梅会が開催されます!
模擬店も出店するので、恋人同士や御子様連れの若夫婦の皆さん、写真撮影の好きな皆さん、是非、足を運んでみては如何でしょうか?
2015-02-25-16-33-50
写真は2015年撮影の物ですが、2017年現在の開花状況は5分咲き~8分咲き、十分見頃に成っています。
2015-02-25-16-29-22
あと1週間もすると満開に成り更に綺麗な梅林の様子も見られるので、岡村梅林に足を運んだ事の無い近隣の磯子区・中区・南区・港南区・金沢区の人々はこれを機に是非訪れて見てください!
屋台も有り御子さんも喜ばれるかと思います!
では、ついでに昨晩開かれた夜観梅会の様子も掲載します。
余計な解説は不要だと思うので、写真を沢山載せたいと思います。
その夜観梅の写真の後に、周辺の史跡や見所の解説もしたいとおもいます。
image
image
image
image
image
image
image
image
image
image
CIMG2694
CIMG2693
CIMG2692
CIMG2690
CIMG2689
CIMG2687
CIMG2685
image
さて、では周辺の見所を紹介します。
2015-02-25-15-57-28
近くには岡村天満宮と言う、源頼朝公の最初の暗殺を未遂に食い止めた名将の平子有長公が京都の北野天満宮から御分霊を頂いて造営した由緒正しい天神様も鎮座しています。
※岡村天満宮の歴史に興味の有る人は以前書いた記事を下のリンクをクリックして御覧下さい!


そして境内は“ゆず”の聖地らしいモニュメントも有ったりします。
2015-02-25-15-58-47
昔、伊勢佐木町の松坂屋に在った“ゆず”の路上ライブの様子を再現したレリーフです。
松坂屋の解体時に現在の岡村天満宮境内に移設保護されました。
流石、ゆずの地元ですね!
2015-02-25-16-45-40
岡村天満宮と岡村梅林から徒歩直ぐの場所には、“ゆずファン”が愛用する“岡中ジャージ”を購入できるオリオンスポーツや、歌に出てくるモンマルトルと言うケーキ屋さんも在ったりします。
更に歴史好きに御勧めの場所は、徒歩圏内に下の写真の龍珠院と言う御寺が在るのですが…
2015-02-25-16-51-07
ここはJR大船駅の近くに在った玉縄城で上杉謙信の攻撃を撃破した名将の北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺で、御朱印も頂く事が出来ます。
この御寺は金沢区の伝心寺と言う、玉縄北条家所縁の御寺の末寺として開かれたのですが、何故、ここにそんな名将が関与したかと言うと、直ぐ近くに蒔田御所と呼ばれた蒔田城が在り、そこの城主が戦国時代に一時期、鎌倉公方(かまくらくぼう)の代理を務めた吉良成高(きらしげたか)公や吉良頼康公の居城として機能していたからでした。
IMG_2179
蒔田城址の断崖絶壁は現代人でも攻略するのは難しい要害性の高い地形です。
そして、蒔田城址の大手口には勝國寺と言う御寺が在ります。
IMG_2162
ここは吉良家の戦国時代の菩提寺で、今も吉良政忠公以下成高公、頼康公等の菩提が弔われる御廟所が存在します。
この歴史に興味が有る人は、昔書いた以下の記事を御覧下さい。

鎌倉公方代を訪問する際に、宿舎が必要に成るので岡村梅林の近くに龍珠院が開かれたと推測出来る訳です。
戦国時代の武将は自分の土地に御寺を開いて、宿舎替わりに使う事が良く有ったんです。
その代わりに、和尚様達の生活の面倒を見たり御堂を建てたりして支援した訳ですね。
宗教的に和尚様達を尊敬している事に加えて現実的な用途も寺院には有ったんです。
この蒔田城址や勝国寺と、岡村梅林の中間位には三殿台遺跡が在ります。
IMG_0427
ここは縄文~弥生時代の遺跡で、当時の様子が再現された住居跡や出土品の常設展示が有ります。
興味の有る人は、これも昔書いた記事が有るので、以下のリンクをクリックして見て下さい!

さて!
今日はお出掛け日和です!
記事は岡村梅林鑑賞会当日のUPで申し訳無いのですが、梅もこれからまだまだ2週間は見頃です!
是非!岡村梅林に足を運んで、ついでに“ゆず”の聖地巡りや歴史散歩をしてみては如何でしょうか?

では!又、次のブログ記事で!



野庭神社(のばじんじゃ)/旧名:野庭蔵王権現御嶽社
主祭神:蔵王権現(神仏習合の山岳信仰の神。明治期に日本武尊と習合)
御利益:勝負運?地鎮?交通安全?
開基:1570年、地主の臼居杢右衛門が金峰山寺より蔵王権現の御分霊を勧進。
場所:横浜市港南区野庭町1838
image

最近(2016年現在)、旧神奈川県立野庭高校吹奏楽部の実話をモデルにしたドラマの❝仰げば尊し❞でロケ地にも成った野庭高校ですが、その旧野庭高校や近くの野庭団地一帯が戦国時代の野庭関城だと言う話を以前、ロケ地解説記事で書いた事が有ります。
⇐その記事リンク。
image
その野庭関城の外郭、馬洗い川を利用した外堀の谷間、切岸の役割をした河岸段丘上に建つ野庭神社と言う神社が在ります。
田舎の鎮守の御社と言った雰囲気を醸し出す素敵な神社ですが、この丘の背後には宅地開発され消滅した野庭城が控えていました。つまり、こんな懐かしい雰囲気を漂わせていますが、背後は団地なんです。
IMG_9502
団地の中心の公園が本丸跡です。
神社前の谷間が沼掘りの役割を果たしていた。
この一帯は緑地として保護されているので横浜市の旧鎌倉郡域の風景を現代に留めています。
image
出来ればこれ以上、開発されませんように。延喜式内社が沢山有る伊勢原や厚木の田舎に来た様な鎌倉の原風景が小生は好きです。
神社の鳥居の横には、熱心な町内会の方々が昭和後期に建てた解説看板が有ります。
昭和55年の事だそうで野庭地域が開発され城址が消滅したり宅地に成ったりして行った時期ですね。
image
この説明には知識不足から来る誤りが多数あるので後で補足と訂正を小生の方でして置きます。

さて、そんなこんなで、ここは戦国時代から存続する神社な訳ですが江戸時代の寛政年間に現在地に移転された様ですが、何んで移転されたんでしょうね?
image
石段を見ると、江戸時代の石材加工技術で作られています。風化具合から見て江戸時代~明治時代の物に見えます。
となると、戦国時代の御社は遷宮時には転用されず、新たに石材から集められて建てられたのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿で記載を探してみますが掲載されているか解らないので、最悪、氏子さんか地元の古老に取材してみます。
image
社殿は小さいながら立派ですね。瓦葺なのでもしかしたら建物も江戸時代の物が現存しているのかも知れない。
image
扁額は立派です。でも社殿が江戸時代だとすると江戸時代には既に野庭神社と呼ばれていたのだろうか?
解らない。
この地域は都会化から保護された緑地帯で氏子サンも少なく成っているかも知れませんが、この立派な扁額を奉納された氏子サン達に敬意を抱きます。
image
社殿が雑木林に囲まれています。
左側の雑木林は造営当初は無かったはずなので、伐採して神社の日当たりを良くするだけでも、通りがかる人々の目を引くと思います。
ともあれ、すっごく雰囲気の良い神社な上に戦国時代に繋がる場所、何かドラマのロケ地とかに成ってもおかしくない場所だなぁ~とか感じました。
銅葺(あかがねぶ)き屋根の緑の屋根の神社も素敵ですけど、江戸時代の大らかな庶民文化の御社も良いですね~。
周囲の風景も農道が残っていて良いし、とても横浜とは思えない元鎌倉郡の神社でした。

きっと、この神社を野庭関城の城将だった戦国時代の名奉行として有名な北条家臣の安藤良整公や、北条氏康公の馬回り衆(直属部隊)の侍大将だった石巻康保(いしのまきやすもり)公や、外交官として有名な板部岡江雪斎公も御参りした事でしょう。

町の中の小さな神社も歴史背景を辿ると、思いがけず歴史偉人との繋がりが有るかも知れない典型的な神社さんですね。
この田舎っぽい雰囲気の良い神社、地域の人には子々孫々まで大切に伝えて欲しいです。

以下は上野庭町内会文化部さんの作った野庭神社の歴史解説の誤り指摘と小生による訂正です。
image
●開基された時期の説明訂正
1570年の室町幕府の将軍は足利義秋(改名:義昭)です。足利義明は小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた房総半島の生実城(おゆみじょう)を本拠地にした鎌倉公方の一族で、同音ですが室町幕府将軍とは別人物です。
野庭神社を造営した臼居家は当時、小田原北条家の統治下に在ります。小弓公方は北条家と対立関係に有り尚且(なおか)つ足利義明は北条氏康公によって討ち取られているので、小弓公方を基準にして歴史を語る事は無いでしょうし1570年の話ならば足利義秋を基準にした話でしょう。
※よって、この説明は造営年代は1570年で足利義昭の時代と訂正するべき。足利義明ではない。
●御神体勧進の経緯についての訂正
この神社の神様は、吉野山の❝蔵王権現(ざおうごんげん)社から勧進した❞ものではありません。そもそも、吉野山で蔵王権現と呼ばれるのは、金峰山寺と言う名前の歴代天皇家が崇拝した神仏習合の現在では修験道の御寺に分類される大寺院です。和尚サンでもあり神主様でもある山伏(やまぶし)サン達の宗派ですね。
そこの御本尊が蔵王権現と言う日本独自の神仏習合の神様で、金峰山寺には蔵王堂が現在も在ります。この金峰山寺を特に崇敬したのが後醍醐天皇で、武士では源八幡太郎義家公を筆頭にした河内源氏の殿様方です。この事実を踏まえると、野庭の土地には平安時代~鎌倉時代には野庭関城を源氏の与力の和田義盛公が築城した歴史が有る事、この土地が執権北条家の所領だった事から蔵王権現社自体は源頼朝公の時代には前身の祠か何か存在した可能性も有りますね。
※よって、この説明は吉野山の金峰神社から勧進と言うのは誤りで、後醍醐天皇の守護神だった修験道の本山、吉野の金峰山寺から蔵王権現を勧進したと改めるべき。
●御祭神についての訂正
説明では御祭神は日本武尊とありますが誤りです。蔵王権現は蔵王権現と言う神様です。神仏習合の時代の神格でも蔵王権現は安閑天皇と同格とされ山岳信仰の神様です。つまり日本武尊は少しも関係が有りません。
実は蔵王権現は神仏習合の神様なので明治時代に弾圧対象にされました、歴代の天皇家が崇拝して来たのに明治時代に水戸学なんてカルトに基づいて宗教改革をした弊害ですね。その際に神仏分離令と廃仏毀釈の弾圧から逃れる工夫として全国の蔵王権現社は蔵王権現を日本武尊を祀(まつ)ったり社名を同じ山岳信仰の御嶽社(みたけしゃ/おんたけしゃ)と改める事で弾圧を免(まぬが)れました。
つまり、この野庭神社が野庭の蔵王権現社から野庭神社に名前を改めたのも御祭神を日本武尊に改めたのも、その歴史が端折られ、そのまま誤って記載されています。
※御祭神について金峰山寺から勧進された蔵王権現と改めるべき。
●社名について
古来、蔵王権現社として勧進されたのだから野庭神社から野庭蔵王権現社として説明するべき。

余談ですが臼居家の事も掘り下げてみたいと思います。
この神社を建てた臼居家の家紋は❝蔦(つた)の葉紋❞です。
蔦の葉紋
以前、港南区の間宮家関連の神社を訪れた際に区役所で郷土史研究家の方が発刊された❝先駆者と遺宝❞と言う港南区の歴史人物をまとめた本を購入しており改めて読みましたが、その本では千葉家の子孫で遠祖は平良久と書いてますが誤りです。
千葉家の祖先は平良文(たいらのよしふみ)公です。この野庭辺りの旧武蔵国久良岐郡~旧相模鎌倉郡を含めた神奈川県沿岸部域を開拓したのも平良文公の御子孫達です。
内陸に関しては早くから小野氏や出雲神族の御神孫が開拓しました。
そして神奈川県域の発展に寄与された平良文公の御子孫の内、❝蔦の葉紋❞は千葉家の家紋ではありません。また千葉家の家臣の臼井家は臼❝井❞であって臼居ではありません。
そして千葉家の家紋は❝九曜に半月紋❞です。
九曜に半月紋
これが千葉家の家紋。
千葉家臣臼井家の家紋は九曜紋。
九曜紋
なので、家紋からは野庭の臼居家は千葉家子孫とは考え難いですね。しかし鎌倉の浄土宗大本山光明寺に千葉家からの家系を辿れる資料が有るらしいので、可能性としては房総半島の臼居城を退去し野庭に移住し北条家に臣従した時代に上司や目上の外戚から蔦の葉紋を譲り受けた事が推測出来ます。
蔦の葉紋
では蔦の葉紋は千葉一族の祖先で鎌倉御霊神社の御祭神でもある平良文(たいらのよしふみ)流の坂東平氏の家紋ではないかと言えば、そうでもなく良文公の子孫の中で有名な蔦の葉紋を使う武士はいます。
しかも、その家系も千葉家と同格に由緒正しい血筋で、現在の高座渋谷や綾瀬市辺りを領地にした渋谷重国公の家系です。
DSC_0490

※写真は綾瀬市の早川城址公園。空堀土塁等が現存。
野庭の臼居は苗字が同族の千葉家の臼井に似てる事に肖(あやか)って臼居家が家系を誤って伝えたんでしょうか?何で千葉氏流臼井家が野庭の臼居家の祖先なら、九曜紋じゃないのか説明が出来ません。
小生が思うに、北条家臣時代に成ってから姓を臼井城に残った一族と区別する為(ため)に"臼居"と字を改め、更に家紋も先述の様に野庭関城の有力者で蔦の葉紋を使う武将と懇意に成り家紋を譲り受けたか、外戚の武将から譲り受けた事が推測出来ます。まぁ、あくまで小生の想像です。
戦国時代、臼居家は鎌倉の玉縄城主、北条綱成に従って武田信玄と戦ったと系譜上に記載しています。
これが正しければ深沢城の籠城戦か三増峠合戦でしょう。
北条綱成公に従っていたのなら玉縄衆だったはずで、手勢の武士30騎動員兵力300と書いて有りましたが少し疑問ですね。計算上おかしい。武士30人を配下に抱えていたなら、動員兵力は武士1人につき3人前後の足軽がつくので、実際の手勢300の半数の兵150以下が手勢と言う所でしょうか。それでも立派な侍大将です。北条綱成公の家老の間宮家でさえ笹下間宮家で動員兵力200弱ですからね。
玉縄北条家の石高が1万石~2万石、単体での動員兵力は300~600、そこに与力の間宮家や堀内家やらが加わり玉縄衆全体で兵3000前後、規模10万石な訳です。
だから野庭の臼居家のみで兵300と言うのは少し考えにくい話ですね。恐らくは手勢150に配下の与力武将の兵力を合わせた総数が300だったんじゃないでしょうか?

image
※写真は玉縄北条家が徳川家臣と成り1万石で転封された千葉県佐倉市弥富の岩富城址から見た風景。
信憑性が有る部分は中田加賀守の次女を妻にしていたのが野庭神社を開いた臼居杢右衛門と言う事でしょう。
中田加賀守は戸塚区の殿様なので地域的にも縁戚に成るのも自然な話です。そして東慶寺に300石を治めて地頭に成ったと有りますが、これには少し疑問が残ります。
この野庭辺りの旧住所で小名:政所(まんどころ)と言う場所は本当に東慶寺由来の土地なので地域的には整合性は有るのですが、そもそも野庭郷自体の石高が106貫307文と判明しており石高に換算すると1貫=2石なので約212.6石と言う計算に成ります・・・
野庭全体を東慶寺に寄進しても300石には成らない。この東慶寺に300石と言うのは、地頭=名主として治めた領地300石の内、東慶寺へ小名:政所領分の年貢を納めていた地頭と解釈した方が正しいと思います。
2015-05-20-15-41-36
※写真は東慶寺。開いた人物が鎌倉幕府の北条時宗公の御妻女で最初の尼住職。以後、後醍醐天皇の皇女の用堂尼や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼が歴代住職を務めた女性や子供を保護する縁切り寺として機能した。
⇐東慶寺解説したブログ記事。

まぁ、こんな事を考えられるのも、野庭神社を氏子サン達が守って源氏以来の武士達の蔵王権現信仰を伝えて下さったからですね。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

笹下城址の宅地化による破壊がいよいよ始まりました。
※本丸跡周辺の地形破壊2015/10月
※堀の役割を果たした旧沢跡の道路に面した堀切地形の地形破壊開始。2015/10月

笹下城とはなんぞや?と言うご存じ無い方は笹下城と城主間宮家を説明した記事ココ」←クリック!して以前の記事をご覧ください。
笹下城址は城域主要部を前土地所有者のIHIにより、既にその大半が破壊されていますが、その破壊を免れた大空堀が最近まで現存していました。
この空堀や切岸の内、完全な状態のままの遺構だった成就院横の大空堀は既に2013年迄に消滅し、残るは本丸跡周辺地形と堀の役割を果たした沢跡の堀切状の道路地形と、出城松本城の地形と笹下中学校周辺の町内会名に残る旧地名のみとなっていました。
その本丸跡周辺地形と沢跡の道路周辺地形も写真の通り破壊が始まりましたので神奈川県民の皆様に御報告差し上げます。
間宮林蔵や杉田玄白に関係が有り、横浜市南部で最重要城跡であった笹下城址が何の調査も保護もされずに消えゆく、その責任者と開発業者の記録をネット上に公に記録し公開し市民が問い合わせ出来るようにしたいと思います。
しかし、これ等の宅地開発は市の許可を得た正当な開発であり、ディベロッパーには罪は無い事を皆さん御理解下さい。

史跡/城址としての調査や保護の責任を有するのは破壊開始された時期に任期を務めている以下関係各所の代表者及び上級管理職者です。
彼等にも法律的に罪は有りませんが、市民に対し、この様な案件の責任所在開示の為に役職及び氏名は公開されているので、そのまま転載します。
※彼等は職務上の責任は問われますが、犯罪を犯した訳ではないので暴言や嫌がらせ等を問い合わせ先に行わないようにして下さい。
笹下城址を未調査破壊した責任者達としての意味でも書いて置きます。

神奈川県教育委員会
  代表連絡先:045-210-1111

  委員長…具志堅幸司
  ※ロス五輪体操金メダリスト
  ※日本体育大学体育学部長
    上記連絡先:広報課03-5706-0948

  第一委員長職務代理者…高橋  勝
  ※横浜国立大学名誉教授
    上記連絡先:045-339-3014
  ※帝京大学大学院教授
  ※帝京大学大学院教職研究科長
    上記連絡先:0120-508-739

  第二委員長職務代理者…倉橋 泰(ひろし)
  ※株式会社ぱど代表取締役会長
    上記連絡先:0120-090-810

  委員…河野真理子(こうのまりこ)
  ※株式会社キャリアン代表取締役
    上記連絡先mail:  info@carian.jp
  ※公益財団法人日本生産性本部 
    ダイバーシティ推進センター 顧問
    上記連絡先:03-3409-1122

  委員…吉田勝明
  ※横浜相原病院病院長
    上記連絡先:045-362-7111

  委員/教育長…桐谷次郎
  ※前産業労働局長
  上記連絡先:045-210-1111

横浜市教育委員会
  上記連絡先:庶務課045-671-3240
  委員長…今田忠彦
  教育長…岡田優子

ディベロッパー側も問い合わせ先情報を開示しているので、写真と共に情報掲載しておきます。
開発者:野村不動産
仲介者:武本測量株式会社
工事者:株式会社竹中土木
開発者:三井不動産レジデンシャル株式会社
工事者:みらい建設工業株式会社
重ねて強調しますが、彼等ディベロッパーは犯罪者ではありません。
史跡を破壊するのは調査も保護も行わない教育委員会の責任です。
また、教育委員会も当然、犯罪を行っている訳では無く、不見識なだけです。
不見識な人間をそのような役割に置いた黒岩県知事と林横浜市長の責任です。
特に林横浜市長は貴重な蛍の生息地で歴代市長が守って来た瀬上市民の森もディベロッパーに宅地開発容認したり、非常に文化史跡と緑地保護の観点からは今の所、問題が有る判断ばかりする市長さんです。
近年の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が破壊黙認したり保護を怠っている、又は破壊している最中の史跡と文化財を以下に記します。

上行寺東遺跡(伝:浄願寺旧跡)
マンション:ライオンズヒル金沢八景の建設により破壊された金沢区六浦の大寺院遺跡。
源頼朝と文覚上人が開基した大寺院の史跡で豊富な石窟群や石塔群を有した。
新田義貞の鎌倉攻めの際に略奪放火され廃寺になり、後に金沢区町屋に龍華寺として再興されたが、鎌倉時代末に焼け落ちたままの良好な保存状態を保っていた。
学者、郷土史家、地域住民からの度重なる非常に多くの指摘と保護要請を横浜市教育委員会と横浜市が無視しライオンズヒル金沢八景建設で貴重な史跡は破壊された。
後に重要性に気がついた教育委員会と市により、隣りに無意味なハリボテで破壊した史跡に似せた偽物が作られた。

金沢文庫博物館…蔵書の古文書(経典)
新たな箱物を作りながら、蔵書保管環境関連空調予算を適切に付けず、古文書をカビさせ破損させた。
古書保存は湿度管理が重要であり、20年近く使用し老朽化した空調交換を要していたが学芸員からの適切な度重なる予算請求がされたにもかかわらず教育委員会が空調予算を付けずカビさせた。
…しかし県は数千万単位の箱物は作り続けている。
同地は武家初の私設図書館「金沢文庫」の史跡の上に建っており、周辺全域が鎌倉時代よりの史跡群を地下に埋蔵している。
史跡金沢文庫旧跡及び史跡称名寺周辺の谷戸構え要塞と塔頭群の山々を野村不動産が宅地開発しようとした事もあるが、上行事東遺跡破壊を経験した有識者達の指摘により阻止され守らた。

百姓曲輪:戦国時代小田原城大規模遺構
小田原市にある戦国時代の小田原城の大規模城郭遺構。良好な状態の「曲輪群」「大土塁」「虎口」「切岸」「武者走り」が残る現在破壊の真っ最中で教育委員会は保護するつもりが無い貴重な城跡で歴史史跡。

釈迦堂切り通し
鎌倉市浄明寺地区にある鎌倉時代の貴重な美しい隧道形状の切り通し。
落石を名目に通行止にしたまま、県民の目に触れさせない状況に置き、教育委員会が保全を怠っている。

笹下城址
横浜市最大の城域を誇った城郭史跡だが、教育委員会が調査も保護も行わないので三井不動産レジデンシャル、野村不動産、竹中土木等のディベロッパーにより最後のトドメを刺す残存部も地形破壊の真っ最中。
また、城主間宮家は鶴ヶ丘八幡宮再建や佐渡奉行但馬奉行として金山銀山開発も務め、その他県にある佐渡金山などは歴史史跡に成っている。
間宮家子孫には間宮士信、間宮林蔵、一族に杉田玄白などがおり横浜市民はおろか日本国民にとっても重要な文化貢献をした一族でもある。笹下城址は非常に深い歴史意義を持つ城址であった。

以上、笹下城址完全破壊開始の速報でした。

次回は国家「君が代」発祥の御寺を紹介します!
では、又、次の記事で!

上京・安土訪問で成果の有った事。

1.沙沙貴神社
滋賀県蒲生郡安土町に所在。
一寸法師のモデルの少彦名神と仁徳天皇の神話の残る古えの神社であり、全ての近江源氏武士の祖先に当たる淳実親王を祀る神社でもある。
規模も大きく、建築物自体も社格を表す歴史と外観を有する。
沙沙貴神社の宮司に直接の御面会の機会を得た上、北条家臣近江源氏支族間宮家顕彰の御支持と、沙沙貴神社の写真使用の許可を得て、更に沙沙貴神社関連の様々な書籍を宮司様より御厚意で無償提供して頂いた。
偶然にも沙沙貴神社宮司様は昔、最終日に訪れた石清水八幡宮で全国八幡宮から研修に来る神主の指導者を務めた方だったらしい。後に石清水八幡宮で逆に、この事実を知った。
併せて安土城址と博物館数軒も見学出来た。

2.建勲神社
明治天皇の命で信長公を祀る。
間宮綱信公が謁見した織田信長公が明治天皇より古式復古の功績や戦乱を収束させる礎を築いた功績により「建織田神」の神号を追贈され京都北面鬼門鎮護の神として祀られているのが、京都市北区の建勲神社。
こちらで宮司様より間宮家と信長公との事績顕彰への御了解を得た。

3.蓮臺山阿弥陀寺 
京都市左京区蓮臺山阿弥陀寺
この阿弥陀寺は豊臣秀吉の嫌がらせで規模縮小移転させられた寺院だが、信長公討死に直後に皇室から信長公本廟の称号を賜り、信長公を供養するべく信長公に中国風の官位「大相国」の役職と「一品」を追贈する事が伝えられた寺院。
「大相国」は日本の「関白」に、「一品」は「正一位」にそれぞれ当たる。
開山の玉誉清玉和尚様が信長公諸兄の織田信広公に大恩有り、更に信長公が朝倉家金ヶ崎城攻めの際に浅井長政の裏切りで京都へ命からがら退却して来た際に関係が深まった御縁で、「本能寺の変」の勃発時、玉誉清玉和尚様が命の危険も顧みず戦火の中の本能寺に入り信長公家臣から火葬中の信長公の御遺骸の一部を持ち帰り供養した事が有名。
その後、奸臣羽柴秀吉が織田家乗っ取り正当化の為の信長公法要開催の喪主を勤める口実に玉誉清玉和尚様へ信長公御遺骸の提出を求められたが、和尚様は頑として断り信長公への恩義に報いた為、秀吉の嫌がらせで現在地へ阿弥陀寺は移転させられた。
結果的に秀吉は信長公後継者の大義は得られず、信長公木造を香木で作り、それを火葬して無理矢理追善供養を行なった。
間宮綱信公が謁見した織田信長公の本廟阿弥陀寺にて、間宮家顕彰文を奉納し信長公との事績顕彰への御了解を得た上、6/2の信長公法要への参加を御勧め頂いた。
信長公を信奉する身として断われる訳が無い。非常に光栄だ。

4.百万遍知恩寺
左京区百万遍地名の由来の大寺院。
後醍醐天皇の勅願所で、当時、伝染病が流行し社会情勢が不安定だったのを鎮める為に後醍醐天皇は諸神社仏閣に祈祷祓い念仏をさせたが効果無く、最後に知恩寺の住職に依頼した所、効果を得た。
その際に後醍醐天皇が住職に「何をしたら効果を得たか?」と言う主旨の質問をされ、住職は「百万回くらい念仏を唱えた」と言う主旨の回答をしたのが同寺院の異名と周辺地名の「百万遍」の由来に成った。応仁の乱で戦火に巻き込まれ規模が縮小したものの、知恩寺の周りは今も無数の塔頭寺院に囲まれ、大本山としての風格を有する。
しかし和尚様達は皆さんフレンドリーで、自由に本堂に上がらせて下さり、庶民が直接御参りする機会を広く設けてらっしゃる。
知恩寺は嘗て明治時代までは寺社格が神宮寺だった場所なので、境内にはいくつかの神社もあるが、明治政府の神仏分離令で無理矢理管轄から外された。
毎月15日にはフリマも開かれる。
昔、個人的に小生が精神的苦難に遭った時に、こちらの和尚様に…
「キリスト教も仏教も神様も関係なしに、何か辛い時も何にも無い時も、誰でも落ち着きたい時はここに来てゆっくりして行ったら良いんやで」
…と言って頂いた事で心を救って頂いた、当時の御礼の御参りに行った。
お陰様で生きられてますと報告し、間宮家顕彰活動とは無関係だが個人的に御朱印も頂いてきた。

5.石清水八幡宮
宇佐八幡宮より八幡大菩薩の御神霊が平安時代に遷座された大社格の神社で、神仏習合時代、大伽藍を擁し石清水八幡宮の鎮座する男山全山には四十八ヶ所の宿坊を有した。
現在もその規模はとてつもなく大きい。
また、明治以前の歴代天皇家の神仏習合の文化を大切に保護する文化研究も行う最早学問所的な機能も持つ。
考古学や文化的にも学識高い職員の方が多く在職されている。
こちらで禰宜職に在る神官様や石清水八幡宮在職研究者の神官様に御面会の名誉を賜り、八幡大菩薩を信仰した地黄八幡北条綱成公と間宮家顕彰文を提出した。
野村不動産、三井不動産、竹中建設による城址宅地開発で消え逝く笹下城が横浜市港南区笹下に存在した事を石清水八幡宮に残して頂いた。
八幡大菩薩を信仰した間宮家と上官の地黄八幡北条綱成公と間宮家居城笹下城の事績を石清水八幡宮御祭神へ言上して頂いた。
その際、御供物として献上した菓子と間宮家顕彰文が御神前に供えられ、間宮家と笹下城の事績が物理的にも御神前に届けられた。
更に、御厚意により自身も御祓いをして頂いた上に、光栄にも石清水八幡宮の一般人の入らない場所を案内して頂き、石清水八幡宮の建築様式や宝剣の謎や八幡信仰と神仏習合に関する御講義を拝聴出来た。
人生で最も豊かな1日と成った。

この他にも、いくつかの神社仏閣を廻り、関わった歴史偉人の伝記に触れ有意義な時間を過ごせた。
特に新京極商店街の和泉式部の誠心院で御朱印を頂いた事は嬉しかった。
この誠心院は日本全国の尼寺の先駆けで、和泉式部が今の兵庫県姫路市に在る書写山圓教寺に籠った後に開いた寺院で、境内には和泉式部御本人の御廟所も現存する。
因みに今回の京都訪問とは関係無いが書写山圓教寺は映画「ラストサムライ」や「駆け込み女と駆け出し男」のロケ地に成った大建築物群が残り、かつては源義経の郎党武蔵坊弁慶が修行した大寺院でもある。又、豊臣秀吉の弟の羽柴秀長の軍勢が無体を働いた落書きなんかも残る。

以上、今回の京都と安土で、横浜鎌倉の殿様北条綱成公と間宮家、笹下城の顕彰活動で得た成果でした。
全ての御縁、全ての方の御厚意に感謝します。

次回は話を横浜に戻し、又、近代西洋建築か、そろそろ国歌「君が代」と「吹奏楽」発祥の御寺の本牧山妙香寺の話をしようと思います。
無論、今回の京都安土で回った神社仏閣や坂本龍馬公や新撰組関連史跡、美味しい和食レストランも合わせ20ヶ所以上なので、いずれ記事にしますよ〜♪

では、又、次の記事で!

ブログネタ
今年のゴールデンウィーク、楽しみましたか? に参加中!
小田原城と言うお城が神奈川県小田原市にあります。
2015年05月03日に小田原城址公園で「小田原北条五代祭り」が開催されましたので、小田原城の解説と御祭りを紹介する記事とを書きたいと思います! 
※写真は小田原城復興天守閣
(注:復興天守なので鉄筋コンクリート製)
上の写真の様(よう)な建造物を「お城」と思い込んでる人もいますが、それは大きな誤りですよ〜!
写真の様なの様にそそり立つ建造物を「矢倉(やぐら)」と呼び、司令所の役割を果たす「本丸(ほんまる)」と呼ばれる場所に立つ物は特に「天守閣」と呼びます。
小田原城は戦国時代には既に、まだ珍しかった天守閣が有ったそうです。
しかも!
現在の小田原城址公園は戦国時代の小田原城域の「ほんの一部分」でしかありません。
北条家が治めていた当時は石垣城より殺傷能力の高い岩盤や土を削り出して建造する自然地形を利用した城塞で、守ると言うよりトラップだらけの「攻め手を如何(いか)になぶり殺す罠にかけるか」に重点を置いた攻撃重視の施設群で構成されていました。
つまり戦国時代の小田原城は…
例えるならば「防御側スナイパーによる敵兵射殺を行いやすくする構造」と「敵兵が自滅して事故死する構造」が幾重にも設けられていた訳です。 

以前書いた「滝山城」と「小机城」と「茅ヶ崎城」の記事を見た方は御理解頂けますよね?
御参考までに…
⚫︎滝山城の記事→「ココ 」←クリック!
⚫︎小机城の記事→「ココ  」←クリック! 
⚫︎茅ヶ崎城記事→「ココ  」←クリック! 

戦国時代に圧倒的に不利な兵力差で何回も攻められても敵は城を落とせなかった訳ですが…
先ず認識して頂きたい事が一つ!
※1万を超えたら戦国時代では大軍です。
で、小田原城の堅城ぶりを示す具体例は以下の通り!
⚫︎VS上杉謙信&以下関東管領連合軍11万
 
北条家は11万超の大軍を有する上杉謙信から小田原城を1ヶ月守り通した上に、偽報を用いて関東管領軍の各大名の協調を崩し上杉謙信が撤退せざるを得ない状況を作り出し防衛に成功。
更に敵軍から失地回復に成功。
※上杉謙信関連の過去記事は以下
】←クリックで記事へリンク!
】←クリックで記事へリンク!

⚫︎VS武田信玄2万
※昔よく見たアレは畠山義綱と近年判明。
※近年では武田信玄の肖像画としてよくコレ↓が使われてます。 
武田信玄は2万超の大軍で八王子の北条氏照公の守る滝山城を攻撃するも落とせず、鎌倉の北条氏繁公の守る玉縄城は包囲しても玉縄城の堅城ぶりから撤退、小田原城に侵攻するも小田原北条家当主の北条氏康公の守る本城小田原城も当然ながら落とせず撤退。
】←クリックで記事へリンク!
】←クリックで記事へリンク!

⚫︎VS豊臣秀吉軍(九州除く日本全土)20万
 
豊臣秀吉は20万の大軍を動員し、小田原城を本拠地にする北条家攻略軍を発する。
殆どの支城が無血降伏する中、落城せず頑強に豊臣軍に抵抗した成田長親と成田甲斐姫の物語、映画「のぼうの城」の 舞台の北条家臣成田家の忍城や…
北条氏規(うじのり)公の守る韮山城の攻防も本城小田原城の戦い並みに有名。
忍城では豊臣方石田三成軍28000vs北条方成田家3000で成田勢が防衛に成功。
韮山城では更に凄く豊臣方40000vs北条氏規公勢たった300で攻撃側を翻弄し防衛に成功している。
】←クリックで記事へリンク!
】】←クリックで記事へリンク!


更に本城の小田原城では秀吉軍20万を迎撃し、功を焦り攻め込んだ秀吉軍を痛撃し長期戦に持ち込んだ。
しかし重臣松田憲秀(のりひで)が裏切り内応しようとする事件が発覚すると北条家側に動揺が万延し、ついに降伏。
ただし、長期の籠城戦中、城に攻め込もうとした敵勢は全て返り討ちにしている。
因(ちな)みに、この戦国期の小田原城の縄張(なわば)り=城域は下の写真の茶色の線で区切られた広大な範囲でした。 
小田原城域 縄張り図 

…凄まじい範囲でしょう? 
東側は太平洋時戦争時の軍艦:酒匂の名前にも成った酒匂川(さかわがわ)近く久野川、西側は箱根温泉から注ぐ早川の急流を大外堀に、更に旧城下町を取り囲む長大な土塁と総掘(そうぼり)がそっくり後北条家の首府小田原を取り囲んでいました。 
当時の城下町は戦災の続いた京都から多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていたので、上杉謙信や武田信玄の攻撃を経験した小田原を市街地ごとソックリ守る戦国時代最大級の城塞へと小田原城は変貌していたんです。 
ですので、室町時代に移住してきた薬屋の中に、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんもいました。その外郎さんが高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の菓子の「ういろう」なんですね。 
その歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
2015-02-28-15-04-57   
八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
2015-02-28-15-04-38 
本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
image 

…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 

そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

さて、そんな小田原の城下町を守った総掘りですが、戦国期の総掘りと同じ時期に作られた大空堀の堀切(ほりきり=山伝いに敵が進入できないように尾根を切った空堀)が今も一部のこっています。 
今の神奈川県立小田原高等学校に行くと、その付近が戦国期の本丸と推定されている地域なのですが、そこから北西に徒歩2分くらいの距離に、当時の大空堀の一部が現存しているので撮影してきた写真をご覧ください。 
2015-02-28-14-07-06 
この写真、戦国期掘り底から撮影したものです。 
つまり上杉謙信や武田信玄が攻めた頃の堀切ですね。 
あまり写真だと深さが解りませんでしょうか? 
今でのその深さは浅い場所で8、深い場所で10m以上ありますので、当時は空堀の深さは13〜15m前後はあったはずです。 
更によくみると「障子掘り」といわれる横移動出来なくするための形状の遺構の様なウネリも少し残っています。 
写真の部分はS字型にクランクが効いていますね。 
右上は昔は何らかの郭だったのだと思います。 

深さが解る写真を見てみましょう。 
撮影当日、たまたま地元の子供が散歩していました。 
小学校高学年くらいでしょうか? 
この子供と左手の切岸(きりぎし=人工的に作った崖地)を比較すれば、その深さが解りますよね。 
2015-02-28-14-09-16 
現在でこそ樹木がしげっていますが、当時は土が剥き出しの壁面で、戦時には堀底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする仕掛けが設置され、空堀に水をぶちまけて泥壁にし敵の進入が不可能な状態にしてしまう訳です。

この付近には案内看板も沢山あり、戦国時代の縄張り図も掲示されています。 
まず県立小田原高等学校のある辺りに行ってください。
そうすると、付近に下の案内看板があります。
2015-02-28-13-52-59
小峰の大堀切と言うのが戦国時代の大空堀残存部分です。
2015-02-28-13-51-25
で、小田原高校が現在地と書いてある位置で、戦国時代に本丸が置かれた辺りに近い重要な場所だったのが解りますね。
写真真ん中辺りの「本曲輪(ほんくるわ)」と言うのが、つまり江戸時代の御城で言う所の天守閣や殿様の御殿が置かれる本丸に当たる施設があった所です。
戦国時代の小田原城の位置関係を現在の小田原城の本丸と比較するとこんな感じ…
大空堀位置
今の本丸は戦国時代は本丸ではなく、戦国時代はもっと山の上にあったんですよ。
すっごく、スンゴク!巨大な城域だったんです!

そして、この巨大な城郭の出入口が「大手門」と呼ばれる城門や、「虎口(こぐち)」と呼ばれる裏口です。
実は間もなく宅地開発で消滅する、北条時代の小田原城の虎口の「百姓曲輪(ひゃくしょうくるわ)」と言う史跡が幸運にも2015年05月03日の小田原城址祭りの日に消失前最後の状態を観察してこれたので、その百姓曲輪の構造を参考に虎口を解説したいと思います。
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。
百姓曲輪は今、発掘調査中で調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。
八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分に掘ってしまっています。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
「角馬出し」とは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。
城門に突入しようとする敵は、城門の前の「角馬出し」と呼ばれる防御構造に陣取る守備側の狙撃手から容赦無く鉄砲や弓矢で射殺されてしまう訳です。
そんな構造が良く解るのが、この「百姓曲輪」なんですね。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

…上杉謙信が攻めた時代の小田原城に話を戻します。

アホのwikipediaで小田原城の項目を編集した人間は蓮池門を上杉謙信軍の太田資正に破られ落城寸前なんて阿呆な事を書いていますが、蓮池門なんぞ当時一番外側の門を一つ破られただけ、言い換えると引き込んで殲滅出来る状態な上に、その先に幾重もの曲輪と殺人トラップが設置されていた訳で、落城とは程遠い状態だった事が解ります。
ですから、蓮池門の前で上杉謙信はわざわざ北条勢に対し余裕を誇示するパフォーマンに弁当を食べたなんて演技じみた事をする必要があった訳で、いずれにしても戦国期、総掘りがまだない小田原城も城塞部分の縄張りは鉄壁だった事を示している訳です。
では、その蓮池門を今の小田原市と小田原城址公園を基準に衛星写真と縄張り図で比較して解り易く特定してみましょう!
【縄張り図】
蓮池門縄張り図
【衛星写真】
蓮池門航空写真
さて、位置関係は解って貰えたでしょうか?
これを踏まえて、上杉謙信が攻めた頃の戦国期の小田原城の予想範囲の全体像を再度みて下さい。
初期小田原城予想範囲図
この赤線の範囲を上杉謙信軍11万が包囲した初期小田原城域と見積もっても、たかだか蓮池門一つ突破されただけで落城云々言うのは「片腹痛いわ!」と、思わず言いたくなりませんか?
この範囲を初期の小田原城の範囲と小生が仮定した根拠は、じつはこの範囲が一つの尾根で繋がってる連結部分だからです。
航空写真で見たうえで実際に徒歩と車を併用して見て回った上での予想です。

この蓮池門跡は今現在、幸田門跡と名を変え商店街の中に存在しています。
現地には今でも蓮池門の曲輪跡の土塁が保存されています。
下写真↓この場所です…城跡には見えないでしょうか?
2015-02-28-16-03-30 2015-02-28-16-03-05
現在でこそ水掘りは埋め立てられてしまっていますが、ちゃんと一部でも保存しようと言う小田原市民の気概が素晴らしいですね。

門跡の内側から外側の進入口だった商店街を見ると今は平和な風景が…
2015-02-28-16-05-41
そんな幸田門=蓮池門跡には城ファン以外の人にも城跡の一部分だと解るよう現地には看板もあります。

…心無い人に一部引き裂かれてしまっていますが、なんとか読めます。
2015-02-28-16-02-36


2015-02-28-16-02-26 2015-02-28-16-02-16


まぁ、しかし、小田原城で防戦指揮を執った名将の北条氏康公は、何とか軍神とも呼ばれた上杉謙信を撤退させる事に成功したとは言え北条家の支配地域の被害は甚大でした。
鬼畜の上杉謙信は北条家の小田原城と支城(しじょう=本拠地に付属する各地域の支配拠点の城)の城下町を焼き払い、至る所の神社や御寺や農家や商家を略奪して回り婦女子を奴隷として連れ去り売買したり、上杉謙信と、後に同じ事をする武田信玄の暴虐により農民がいなくなり廃村寸前になる村が沢山出てしまいました。
この反省を踏まえ、小田原城は安土桃山時代のには幾度の改修を加えられ茶線で囲まれた範囲に拡大され城下町ごと堀と土塁で取り囲む↓この範囲に成った訳です。
小田原城域 縄張り図
その改修過程で中期に、先述の「百姓曲輪」のある丘陵が外側の守りとして拡張された総構えに成っていたのだと思います。
百姓曲輪は出撃も出来る虎口「角馬出し」を有しつつ、別ルートから内側に侵入した敵を迎撃する構造のある郭が有り、更にその「角馬出し」と「百姓曲輪」の間に土塁で城門跡と思しき幅の出入口が設けられていましたからね。
恐らく上杉軍の「略奪」や「人取(ひとど)り=民間人の大量拉致」を経験し、農民を守る為に農民の収容先として想定されて造られたから名前に「百姓曲輪」の名残があるのでは?と、推測しています。
更に武田信玄による農村焼き討ちや略奪も経験し、最終形態の「総構え」に成ったのだと思います。

で、その総構えの外側の防衛施設「総掘り」の規模が先に紹介した戦国時代当時は深さ15m以上傾斜角度60度以上あったであろう「小峰の大堀切」と同規模かそれ以上のものだった訳です。
※一応、小峰の大堀切↓画像
2015-02-28-14-01-41 

さてさて、では、ここからは皆さんが想像する「御城らしい御城」の部分、現在の小田原城址公園=江戸時代の小田原城復興史跡を見学する際の小生の御勧め見学ルートを辿りながら、構造を解説して行きたいと思います!
御勧めのルートは、まず最初に先ほど説明した「蓮池門=幸田門跡」を見学コースのスタートとしたルートです。
①幸田門跡
  ↓
②銅門(戦国~江戸時代の城門復興史跡)
  ↓
③馬屋曲輪
  ↓
④馬出曲輪
  ↓
⑤二の丸~本丸への進入口
  ↓
⑥本丸と本丸の売店(笑)
  ↓
⑦天守閣
  ↓
⑧御米曲輪
  ↓
⑨車の人は二の丸方面から三の丸へ抜けて退場、戦国時代の城域を見学したい人と電車の人は御米曲輪側裏口から退場。

※位置関係は↓コンナ感じ
小田原城見学

見学に際し気をつけて頂きたいのは…
JR小田原駅からだと裏門、小田原城址公園の市営駐車場からだと城正面の最近架橋された歴史の無い赤い橋から入場してしまいますので、遠回りでもまずは「幸田門跡」に行ってみて下さい!
さもないと昭和の高度経済成長期に破壊された殺風景な城らしくないただの公園を散歩しているような印象を受けかねません!

幸田門跡は既に解説したので改めて説明の必要はありませんね。
では幸田門跡~現在の小田原城址公園に歩いて行くと、そこは昔の三の丸の跡です。
そこでは、こんな風景が見えます…

2015-02-28-16-08-58
水掘りと石垣が見えますね。幸田門側から見たこの石垣側が昔の二の丸です。
そして、この端っこの一段高く造られた建物の土台の様な石垣は「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれる防御施設が有った遺構です。
この土台の上に、防衛側が鉄砲や弓の射撃手に敵を射殺させる為の防衛拠点が立っていました。
その建物は小さな天守閣の様な構造の物が多かったようです。

この隅櫓を横目に二の丸の水掘り沿いに進んで下さい。
そうすると下の「赤い橋」が見えてきます。
2015-02-28-16-08-00
注意!:絶対にこの橋から二の丸に入らないで下さい!
何故(なぜ)この橋を渡ってはいけないかと言うと、この橋は戦国代や江戸時代には存在しなかった偽物の建築物で、ここを渡っても御城らしい施設を見る事は出来ません!。
昭和の高度経済成長期、無知な当時の神奈川県行政は商業主義に走り史跡を破壊し、こう言った偽物の施設を史跡に沢山つくってしまったんです。
この橋を渡ると史跡を破壊し更地にした殺風景な広場があるだけです。

と、言う訳でこの「赤い橋」をスルーしてずんずん西側に進むと直ぐに江戸時代の城門を近年に復興した史跡が見えてきます。
2015-02-28-16-10-29
この漆喰塀の切れ目が見えたら、そこに江戸時代の城門があり、観光客もそこから城址公園に入場出来ます。
なお、この付近に下の看板があり、その「馬出門」と言う城門のと、「枡形虎口」と言う防御構造の解説が見れます。
2015-02-28-16-11-07

2015-02-28-16-10-59
さっきの「赤い橋」じゃなくてこっち↓が本物の入口ですからね!
2015-02-28-16-12-31
ね?御城らしい風景に成って来たでしょう?
この「馬出し門」で見るべきポイントは2つあります。

一つは門を取り囲む城壁にある沢山の長方形と三角形の小窓。
2015-02-28-16-13-13
2つ目は馬出し門の最初の門を突破すると次の城門をぐるっと四角く取り囲む構造です。
2015-02-28-16-13-30
実はこの城門を四角く取り囲む城壁の構造が「枡形」と呼ばれる防御施設なんです。

滝山城の記事を書いた時にも触れましたが、「枡形」について改めて説明をさせて頂くと…
枡形と言うのは、城門を囲うように四方を壁で取り囲んだ施設で、進入してくる敵はその数を制限されてしまう上に、まさに防御側から見て攻撃側は「袋のネズミ」になり、防御側は城門を取り囲む枡形の城壁に設けられた射撃窓から雨あられと鉄砲玉と弓矢を射掛(いか)けて、侵入者を集団射殺してしまう恐ろしい構造です。
この枡形虎口は北条流の築城術の特徴です。
敵を引き込んで殲滅する、恐ろしい施設なんですね。

因みに、武田家は「丸馬出し」と言う構造を城門の前に多用していました。
※武田家最後の拠点「新府城」の縄張り図と丸馬出しの拡大図。
新府城
真田幸村(本名:信繁)が大阪城で徳川軍を散々に痛めつけた時に立て籠もっていた要塞「真田丸」も、この丸馬出しを巨大にした構造物でした。
北条流の枡形虎口が防御しながら敵を引き込んでなぶり殺し殲滅する」のに対し…
武田流の丸馬出しは敵を引き付けて、そこから全方位射撃を積極的に加える言うなれば相手をおびき出して集中砲火を加える「攻撃の為に敵をおびき出す」構造と言えます。
丸か四角かだけでも戦術が違うのが理解出来ますよね?

話を小田原城の「馬出し門の枡形」に戻します…

敵を引き込み袋叩きにするのが枡形な訳(わけ)ですが、その敵を射殺する為に防衛側がスナイパーを配置する馬出し門の入口を狙う位置に有るのが下の写真の射撃用の窓です。

2015-02-28-16-30-53

2015-02-28-16-30-47
長方形の窓が弓矢用、三角形の窓が鉄砲用だそうです。
恐らく長方形は弓矢を突っ込む為に必要な形状で、細長い筒状の鉄砲は先を出せる三角形の小さい窓で十分なんでしょうね。

この射撃口は内側が広く外側が狭く角度がついているので、見た目以上に射撃可能な範囲が広く、且(か)つ敵からの攻撃を受けにくい構造になっています。
別の写真で角度別に三枚その射撃範囲を御見せしましょう。
※正面向き
2015-02-28-16-31-03
※左向き
2015-02-28-16-31-12
※右向き
2015-02-28-16-31-24
ね?
こんな小さい窓で結構広範囲を射撃出来るでしょう?
しかも正面なんか城門入って来た敵を狙い撃ちに出来る位置ですよね。
2015-02-28-16-31-31
よく考えられて作られていますよね~。
ちなみに、この復興城門は北条家の戦国時代の縄張(なわば)り=設計を、江戸時代に徳川家臣で後に小田原城主に成った大久保家が改修して今の姿に成ったと言われています。
恐らく戦国時代は土塁=土壁か土塁の上に設置した板塀や漆喰塀にこのような小窓が設けられていたんでしょう。
これらの馬出し門枡形防御構造の有る「馬出し曲輪」を突破すると、次に見えてくるのが馬屋曲輪です。
2015-02-28-16-17-23
今でこそ土塁は取り払われてしまっていますが、当時はこの馬屋曲輪を取り囲む様に高い土塁が張り巡(めぐ)らされおり、その上にさっきの馬出し門と同じ様な射撃用の小窓のついた塀が設けられており、更に角には隅櫓が設置されていました。
2015-02-28-16-17-46
2015-02-28-16-17-53
2015-02-28-16-18-01

下の写真を見ると当時の構造が良く解ります。
2015-02-28-16-18-09

2015-02-28-16-19-08
この石垣が馬屋曲輪の隅櫓が有った土台なんですね。
ここから三の丸に侵入した敵を捕捉(ほそく)し、ここを守る武将が周囲の守備兵に対し作戦命令を指示する訳です。

馬出し門の右手には、いよいよ二の丸に侵入する敵兵を迎撃する小田原城で一番立派な城門「銅門(あかがねもん)」待ち構えています。
2015-02-28-16-16-24
銅門も見ての通り「枡形」構造に成っていますが、枡形銅門の最初の門の手前には「住吉橋」がかかり、水掘りによって敵兵が容易に城門にとりつけなくする意地悪(笑)な設計になっています。
2015-02-28-16-17-03
住吉橋の門の上の漆喰塀にも沢山の射撃口が見えますよね?
この狭い橋には槍を持った敵兵は2列か3列でしか突入できず、その3隊列の先頭の人間から順番に射殺されてしまう訳です…
怖いですよね。

銅門を内側から見ると下の写真みたいな構造に成っています。
2015-02-28-16-33-24
櫓門(やぐらもん)と呼ばれる構造で、この建物は倉庫の機能と守備兵を収容する機能があります。
守備兵はこの建物の床に設けられた小窓から、進入してくる敵兵に…
「加熱し沸騰させて煮えたぎった油や糞尿
…を浴びせかけて大火傷させたり、弓矢で攻撃したり石を叩き付けて敵を撲殺したりするんですね。
守備兵に攻撃された侵入者は臭いし熱いし大火傷して痛いし、後ろは味方の兵士がいて逃げ帰る事も出来ず身動き出来ないまま皮膚呼吸出来なくなり痛みにのた打ち回りながら酸欠死するかショック死するか…
いずれにしても悲惨な事に成る訳です。
因みにこの糞尿&油戦法、太平記の時代に赤坂城や千早城で足利尊氏公を苦戦させた有名な南朝方の忠臣の楠木正成(くすのきまさしげ)公が得意とした戦術でした。

さて、この銅門を突破すると、いよいよ江戸時代の本丸と天守閣が見えてきます。
2015-02-28-16-32-34

でも勿論(もちろん)、すんなり本丸に辿りつける訳は無く、その手前には常盤門と言う城門が待ち構えており、更に!そこに至る前に又、泥の堀と土橋を突破しなければいけませんでした。
下の写真は昔、本丸下の泥の堀が有った場所で、今は埋め立てられて観賞用の花が栽培されている畑に成っています。
2015-02-28-16-37-02



銅門を抜け二の丸~本丸に至る土橋を渡ると…
侵入しようとする敵に再び「枡形」構造のある城門が待ち構えています。
この門は常盤木門と言います。
2015-02-28-16-38-21
常盤木門も櫓門(やぐらもん)」と枡形とが一体になって設けられています。



2015-02-28-16-38-08
2015-02-28-16-38-21
もう、ここまで攻め込んで来たら確実に蓮池門で先頭に立っていた兵士は生きていないだろうね…
幸い歴史上ここまで攻め込んで来れた攻撃者はいなかったので沢山兵士が死なずに済んだ訳ですが。
実は、戦国時代の御城の大半は戦争を経験していません。
小田原城でも城内で交戦が有ったのは、先述の上杉謙信&関東管領連合軍旗下の岩槻城主太田資正(おおたすけまさ)公が攻め込んだ蓮池門と三の丸までです。
豊臣秀吉軍は攻め込もうとした武将もいましたが城門を一つも突破する事すら出来ませんでした。

しかしながら…
豊臣秀吉の軍は強大で、小田原城攻め参陣武将は…
さながら戦国武将百科事典の様相(ようそう)を成していました。
その総兵力22万
対する北条軍は総兵力6万、籠城兵は3万とも…
衆寡敵せず勝てる筈は有りません。北条家が兵11000で古河公方軍兵80000に大勝した時とは異なり、相手は歴戦の織田軍の生え抜き。しかも名将揃い。


兵の多さ云々以前に羽柴勢(豊臣)に参陣している武将がとんでも無く凄い… 秀吉の小田原攻め布陣図
豊臣秀吉・豊臣秀次・羽柴秀勝・宇喜多秀家・加藤嘉明
徳川家康・酒井忠次・榊原康政・奥平信昌・大久保忠世
織田信雄・織田信包
蒲生氏郷・丹羽長重・池田輝政・細川忠興・堀秀政・九鬼嘉隆
毛利輝元・長宗我部元親
更に秀吉本隊には軍師黒田官兵衛や、加藤清正、福島正則等々…

この合戦、最大の敗因は確かに松田憲秀一族の内応は有りましたが、それ以前に北条氏政公が敵の戦力と先述と状況の分析を見誤った事にあります。

実は小田原征伐以前、北条家は過去上杉謙信の10万の軍から小田原城を守り切った事や武田信玄を撤退させた時と同じ様に、北条家のとった戦術は各地の支城(しじょう=地方拠点)の防備を強化し野戦を行わず徹底的に籠城させる作戦にでました…
その作戦は敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦です。
しかし!この豊臣秀吉は敵が経済的に優位で兵糧補給に事欠かず、しかも得意戦術は城攻めの際に敵城を包囲する陣城を構築し逆に籠城側を兵糧攻めにし戦意喪失させて離反者を増やし籠城不可能に陥らせる作戦なんです。
既に、戦術で逆転の目を潰されており完敗確定していたと言っても過言では有りません。
実はこの籠城戦術を強硬に主張したのが当時、北条家中で家老職に在り発言力の有った松田憲秀と、その息子なんですね。
彼等は当初、敵の戦力分析より過去の実績を盲信し、自分達の地位の保身の事を優先させたのでしょう。
しかし、この籠城には敗北しか無いんですよ。援軍も来なければ、敵軍の兵糧が枯渇し撤退する事も無いですからね。

以前との状況の違いを説明しましょう。
上杉謙信連合軍は参陣武将が寄り合い所帯の地方豪族ばかりで、個々の北条方が支城に戦力を分散させて籠城しても個々の豪族に北条家の支城を落とせるだけの戦力は有りませんでした。
この時の北条側の各支城の戦力は兵3000前後です。地方豪族の戦力もそれと同等でした。
しかし
豊臣秀吉軍は諸大名の連合軍を地方ごとに方面軍化し各大部隊が少なくとも2万以上の戦力を有していました。これは各方面軍がそれぞれ以前の武田信玄の最大動員数2万強に匹敵する戦力に成る訳で、その戦力でたかだか数千の支城を本気で攻めれば一般的には守りきるのは不可能に近い訳です。

しかも、以前と異なり、北条氏照公等各武将は小田原城に詰めてしまって居て、各支城は老兵や女子供ばかりな訳で普通にいけば秀吉の各方面軍には太刀打ち出来る要素が無いんですね。

もっとも…
こんな中で最後まで落城しなかった…
忍城  …成田長親公・成田甲斐姫3000vs石田三成軍20000⇒援軍到着後:石田三成軍50000
韮山城…北条氏規公300vs秀吉軍40000
この二城の戦果は通常ではあり得ない、防衛側の籠城成功からの北条家による開城命令で決着しました。
実は、この城以外の多くの城は戦わずに降伏してしまっていたんですね。
交戦した城は全て落城しています。八王子城や神奈川県相模原市の津久井城、伊豆の下田城、箱根の山中城、吉良家の世田谷区の世田谷城など、全て攻略されてしまいました。
落城した城の中で秀吉軍相手に健闘したのは、山中城の出城袋崎出丸で活躍した黄備え隊副将間宮康俊公の部隊200と、伊豆下田城に籠城した清水康英公の兵600くらいでした。
e7634426
上の写真は間宮康俊公が玉砕した際に活躍し名声を獲得した場所の山中城の衛星写真。

因みに強硬に小田原籠城を主張した松田憲秀は、言いだしっぺなのに息子と秀吉に内応(ないおう=うらぎり降伏する事)しようとして幽閉切腹処分されています。

この小田原城包囲に用いた攻城戦術において秀吉は既に「小寺家の御着城攻め」「別所家の播磨三木城攻め」「毛利家配下吉川経家の籠城した鳥取城」で成功実績を挙げていました

もし、北条家の執政者北条氏政公が、事前に秀吉の実績と周辺大名の外交情報をちゃんと分析していれば、この籠城作戦をとらず織田政権時代と同じ様に早期に傘下に入っていたでしょう。
寧(むし)ろ、何で織田信長公の勢力版図より広い領土を手中に治め、周辺有力大名を屈服させていた秀吉に交戦したのか小生には個人的に理解不可能なんです。
恐らく、全ての戦犯は北条家中で権力を牛耳(ぎゅうじ)っていた逆臣松田憲秀による政治判断の誤りでしょう。
しかし、北条氏政公の戦力分析と状況判断に誤りが有ったのは間違い有りません。

実は…
この北条氏政公の情報分析力の欠点を早くから見抜いていた人物がいました
…それが御父君で名君と名高かった北条氏康公です。
こんな逸話が現代に伝わっています。
ある日、合戦の陣中で北条氏康公と北条氏政公親子は食事を共にとりました。
戦時中の食事なので白米に味噌汁をかけて食べるだけの簡単な物です。
この"猫飯(ねこまんま)"を食べる際、氏政公はご飯に味噌汁を2杯かけたそうです
すると!
北条氏康公「将たる者、白飯にかける汁の分量なぞ1回で決めれずなんとするか!」と激怒したそうです。

皆さん、何で氏康公が怒ったのか、もう御判(わか)りですよね?
つまりこうです…
「御椀に入った飯の量」…敵兵の戦力
「飯にかける味噌汁の量」…投入するべき自軍の戦力
…この分量を見誤る様では、合戦で敵味方双方の分析を見誤り敗戦を招いてしまう訳ですね。

然(しか)して、氏康公没後、秀吉による小田原北条家への降伏勧告と討伐戦の両方で、北条氏政公は双方の勢力分析と戦術分析を誤り小田原北条家の滅亡を招いた訳です。

因みに小田原北条家は滅亡しましたが、北条家自体は存続している事を御存知無い方も多いので捕捉説明させて頂きますが…
実は!
韮山城で奮戦し防衛に成功した北条氏規公が秀吉に3万石で大名として復帰させられ北条家は江戸時代を生き抜き、明治時代まで大阪府狭山市の狭山藩として存続しました
狭山と言う地名は北条家の旧領武蔵国にもあり、何だか因果なものですね。
今も御子孫がちゃんと生きてらっしゃいます。

さて…
今日はここまで!

次回はいよいよ本丸の風景とにうつります!
が!
すみません!
前回、前々回と戦国期小田原城の写真ばかり撮影して天守閣に登る時間がありませんでした!
ですので、本丸の写真だけでは寂し過ぎるので、今年中にもう1回、箱根温泉にでも宿泊に行くついでに天守閣に登って写真撮影したら小田原城の記事を更新します!


小田原城の記事は又年内以内に! 

では又!次のブログ記事で御会いしましょう!

↑このページのトップヘ