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タグ:北条綱成

Twitterで朝日寺サンと言う志田峠に在る御寺の方に武田家vs北条家の大合戦、三増峠合戦の経過を時系列で話す機会が有ったので、そのツイートを画像に切り取って転載しときます。
    武田軍       北条軍
武田菱vs 三つ鱗紋
兵力  20,000                  20,000

死傷    1,000                    3,000
武田信玄が北条家の息子達を翻弄し、北条家も局地戦で黄備え玉縄衆大将の地黄八幡北条綱成公が活躍した合戦なのに結構、歴史ファン入門くらいだと知らない人も多い名合戦なんだけど。
因みに話題に登場する主要人物紹介。
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ゲームの武田信玄⤴
肖像画の武田信玄⤵
武田信玄

北条氏康
ゲームの北条氏康公⤴
肖像画の北条氏康公⤵
北条氏康公
北条氏政
高嶋政伸サンの北条氏政公(笑)
丸に三ツ鱗紋玉縄北条家

隅立て四ツ目結び紋間宮家
蔦の葉紋臼居家


では以下Twitterからの転載です。
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お盆休み、まだ尊敬する北条綱成公の御墓参りを済ませていなかったので、菩提寺の龍寳寺に御佛前に供えて頂く御菓子を購入して伺った。
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龍寳寺は巨大な玉縄城址城塞郡の一角である鎌倉市植木に“現在の境内”がある。鎌倉市と謂(い)えども略、大船なので小生の自宅からも車で近い。
城跡だから寺の在る谷の山裾は全て裾切りされた城壁石垣より強力な防御壁となる断崖絶壁の切岸に囲まれている。
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元々は山上の栄光学園一帯が旧境内地だったのだが、儒学者で徳川家六代将軍の側用人だった新井白石が玉縄領主に成った際に龍寳寺を現在の谷間に移して今に至る。つまり昔は龍寳寺は山頂にあり非常時には砦の詰所の役割も担っていた訳だ。
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山門横を車で通り過ぎ、庫裏(くり)=現在の僧侶の居住区兼事務所前の駐車場に車を停めて、御本堂の御釈迦様に御参りしてから数年前に御本堂の横に移設された歴代玉縄北条家の御廟を御参りし綱成公達に御盆の御挨拶と近況報告を済ませた。
駐車場前の花園の黄花秋桜(キハナコスモス)がとっても美しかった。
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大将の北条綱成公と副将の間宮康俊公が統率した“玉縄衆”は、軍団の前身が“北条五色備え”の内の“黄備え隊”で、統一された隊旗が朽葉色=黄色地に“八幡大菩薩”の御神名を染め抜いた馬印(うまじるし=部隊識別シンボル)だった。
正にキハナコスモスの色がそれだな。
丸で綱成公や康成公を御盆休みに御迎え見送るのに合わせて咲いている様に感じた。
庫裏に御住職を訪ね御盆の御挨拶をし、御佛前に供えて頂く“葡萄餅”を御預けし少し雑談をしてから車に戻った。
柏尾川沿いの道を栄区方面と反対の江ノ島に向かい下って行った。
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実は今週半ばから酷いギックリ腰で昨日まで立ち上がるのも辛かったのだが、少しだけ足を引き摺(ず)り歩ける位に回復したのと気分が暗かったのも有り、殿様に近況報告してから海にリハビリを兼ねて散歩に行くつもりだった。午前中は背を伸ばして立つ事も困難だったので、まだ整骨院にも行ってない。
午後に調子が良くなり、龍寳寺参り&七里ヶ浜散歩を決めた次第だ。
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夏なので鎌倉の海岸沿いは渋滞激しく流れない。
なので、止まる度にゆっくり風景を見る事が出来た。
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スラムダンクの踏み切りは今日も観光客でいっぱい。
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程なくして七里ヶ浜に到着。
台風で砂浜が又、流出したと聞いて確認を兼ねて気分転換の散歩に来た。
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このMAINと言う御洒落(おしゃれ)なレストランは以前も紹介したが、ロケーション良く窓側の席だと秋冬には江ノ島と夕陽と七里ヶ浜と富士山を一編に眺めながら食事が出来る。
このレストランの横に公共駐車場があり、今日もそこに車を入れた。
関係ないけど、渋滞に巻き込まれ運転時間長引いてる間にギックリ腰が又悪化して、この写真撮影してる頃は既に痛くてマトモに歩けていない(笑)
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思ってたより“砂浜の後退”が激しかった。台風で砂浜が流出し遊歩道の橋脚が露出する事態が発生中。渡れない。
でも、これで小生は文字通り“自然だな”と感じた。
実は1990年代には砂浜は幅はもっともっと有り海水浴場も有ったぐらい。しかし2004年に海水浴場は閉鎖し更に昨日は御覧の通りだ・・・
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・・・遊歩道の橋脚は砂が流出し人が歩けない高さに取り残された状態成っており、砂浜は手前の鎌倉寄りで幅“10m”を残すのみ、奥の江ノ島寄りは“最早、砂浜が消滅”した状態だった。
小生は“これが自然”だと思う。
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稲村ヶ崎は新田義貞が鎌倉幕府攻撃の際に奇襲をしかける突破口に選んだ場所として歴史の授業でも習う。
超有名な観光地。
そこの砂浜が反日バンドと化したサザンオールスターズの“稲村ジェーン”の舞台にも成っていた。
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しかし、この間の台風でゴッソリ砂が持っていかれた訳だ。 
水は海水も地下水も川の流路も、いくら人間が“盛土”したり“掘削”した人工的に改変した地形をコンクリートで固定しようとしても、容赦なく周りの砂や土から抉(えぐ)り取り元に戻ろうとする力を発揮する。
2018年と2002年の衛星写真を比較すると解り易いかも。
下の衛星写真、上段が2018年1月、下段が2002年8月。
七里ヶ浜~稲村ヶ崎2018年
右手鎌倉市側の稲村ヶ崎と、左手江ノ島側の小動(こゆるぎ)の砂の流出が特に顕著だ。
これ比較すると小動側の防波堤の形状も工事で変化が在ったみたいだから、波の影響で破損が酷かったのだろうか?
繰り返すが小生に言わせりゃ・・・
「これで普通」
・・・なんだな。
気象予報士のお姉ちゃんが知ってる自然なんて考古学から見たら短い観測期間しかない。
今の温暖化は普通に元に戻りつつあるだけでしょ?
余り知られてないが室町時代は小氷河期。実は最近まで“地球が冷えてる時期”だったて事だね。
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だから農作物も凶作ばかりなので、料の乏しい冬に成ると上杉謙信や武田信玄は地元の農兵を引き連れて、神奈川県や東京に来ては略奪や婦女子を拉致し奴隷として地元や地方で販売したり鬼畜な事をして越冬していた歴史が有る。
まぁ、生き残るのに人の物を奪いとらなきゃいけない地方が有ったんだ。今の日本は恵まれているね、まだ良くならなきゃいけないけど。
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地球が縄文時代の気候に戻ろうと“二酸化炭素の影響ではなくて”温暖化して行く“自然の力”は凄いね。
もう、こんなに砂浜が減った。考古学的な話をすると、だいたい日本神話の時代と比較して現在の平らな地域の海岸線は少なくとも12km位は後退してるから逆に過去の地震による隆起を考慮してもかなり内陸まで海に戻ってもおかしくないのかな?
由比ヶ浜なんかは15年で50m砂浜が無くなってるから、対応しなければ今後10年で33m海岸線が陸を侵食する。
1000年後は少なくとも3.3km。
それがどれくらいかと言うと・・・
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・・・江ノ島からだと藤沢駅の手前の石上・本鵠沼・柳小路辺りまで海没する計算に成る。無論、微高地は残るだろうね。
小生が思うに七里ヶ浜の砂浜の減少は河川の護岸工事で砂の体積が阻害されてる影響も大きいのだと思う。江ノ島の境川とか、七里ヶ浜の極楽寺川とか音無川とかの上流が住宅街にされてしまい、風化した鎌倉石の地盤から砂が運ばれなく成ってしまったんだろう。
鎌倉も材木座~大町辺りは平安初期にはまだ入江だった。
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それでも約1km程度内陸だっただけ。
つまり15年で50m侵食は比較的早い。人工的な河川工事は海岸部の地形に影響を与えやすいって事かな。
いつまでも自然の摂理で風化した砂が体積するのを阻害する河川の土木工事のままでは内陸まで“元通りの海”に戻るスピードを早くするって事。

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この稲村ヶ崎は数百年後には又、一部だけ海から顔を出す半島か島に成ってるんだろうか。
1000年後には茅ヶ崎市平塚市は大部分が海の底に戻ってんじゃない?
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砂浜は無くとも夕陽と江ノ島と海には癒され、ギックリ腰等で落ちた気分も少し晴れた。
帰り、元来た道を村岡方面~大船に抜け円海山の麓(ふもと)の自宅に戻ろうかと思いながら駐車場に戻る途中目にしたこの光景。
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往路は空いていた江ノ島方面に向かう下り車線が凄まじい渋滞。
鎌倉市街地を抜けて帰る上りルートに変更。
帰路、無性に京都拉麺のチェーン店の魁力屋の“唐揚げ”が食べたくなり、朝比奈方面の上郷側にある魁力屋に遠回りして夕飯を食べた。
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旨いんだよ、この唐揚げ。

ふむ、身体はまだまだ、気持ちも暗かったが、少し殿様と海と夕陽の御影で癒され楽に成った。
ちなみに、この時点で無理して歩いたので、もう腰が痛く高齢のお爺ちゃんみたいにビッコ引いて歩いてる状態(笑)。

夕陽さん、海さん(笑)、御釈迦様、江ノ島の弁天様、綱成公と玉縄北条家御一族の皆様に感謝を感じた午後だったかな?

では、今日の休日雑記はここまで~♪

新編武蔵風土記稿巻之八十二 都筑郡之二 川島村
そこに横浜の殿様の一人である中田加賀守の名前と菩提寺の正觀寺と言う御寺の名前が登場します。
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補陀山 正觀寺
(小机領三十三観音霊場の第五番)
御寺の正式名称は補陀山 正觀寺と言います。現代では略して正観寺と呼ばれ字体も正觀寺⇒正観寺の現代日本体字が普段使われています。
宗派は曹洞宗の寺院で、曹洞宗は中田加賀守が仕えた主家の北条家(伊勢氏)の宗旨ですので、この御寺が豊臣征伐による北条家改易(かいえき=廃業)の前後直ぐに建てられている事が判ります。
正確に言うと中田家の菩提寺で、中田加賀守公の独立した墓碑は港北区の矢上城址(慶應大学日吉キャンパス)に在ります。DSC_0287
慶応大学に境内地を貸与しているのが同じく中田家が戦国時代に建てた保福禅寺と言う同じ曹洞宗の御寺です。そして正觀寺サンと同じ旧川島村の中の瑞流院と言う御寺も中田家の菩提寺でそれぞれで中田加賀守の菩提を弔ってらっしゃる訳ですが、特に御本家子孫と現在も直接的な関わりが深いのが正觀寺サンなんです。
色々と中田加賀守や旧:都筑郡川島村について解説したい所ですが、先ずは御寺の説明がされている文書と今の御寺の様子を写真から一緒に見て行きましょう~♪
正觀寺 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に登場する正觀寺の解説はコンナ感じです。
中田藤左衛門サンが開いた事が解かります。
現在の御寺の様子ですが・・・
住宅街の中、旧八王子街道の直ぐ近くに存在します。
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門の横には御寺の掲示板。曹洞宗なので曹洞宗のイベント広告が掲示されてますね。
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門の横に御寺の簡単な解説が有ります。
大体の説明はここに書いて有る通りですが、現在も行われる小机三十三観音霊場巡りの御朱印の由来は、元々戦国時代の北条家の家老で小机城代、大曾根城主だった笠原信為公の奥さんと御姫様が立て続けに亡くなってしまった供養の為に始まった文化だそうです。これは御寺を訪問するまで小生も知りませんでした。
笠原信為公は鎌倉市街地と鶴岡八幡宮が房総半島の里見家や正木家と海賊達の攻撃と略奪放火で炎上、灰燼に帰し(かいじんきす=燃え尽くされた)た際に、鶴岡八幡宮再建の総奉行を務め北条家だけでなく敵対する関東の諸大名にも指示を出して再建事業と鎌倉の復興を成功させた偉大な統率力と、北条家の外交官を務める高い教養と政治力を持つ殿様でした。中田家は近くの港北区の小机城に勤務していましたが、そこを拠点にした“白備え隊”と言う軍旗を白色で統一した別名:小机衆と呼ばれた軍団を実質的に統率したのが笠原信為公と、その御子息の笠原康勝公でした。
つまり現代も正觀寺サンには北条家の名将だった中田加賀守公の時代の文化が残ってる訳ですね~。
小机城や笠原家に関しては以前に解説記事を書いたので、御城に興味が有る方は是非読んで見て下さい♪
コレをクリックで記事にリンク!
❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
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門を入ると正面に観音堂と墓地の在る段丘が在ります。段丘と言うか人工的に掘削された切岸地形ですね。
正観寺地形 久良岐のよし
地形的には急峻な丘の裾を切り開いた立地に在り、目の前を八王子街道旧道が通るので戦国時代には砦を兼ねた烽火(のろし)台が山上に有った事も予想出来ます。
御近所には鎌倉時代に木曾義仲の副将の今井兼平が源頼朝公に帰属して居城したと伝わる今井城址もあり、今井城は戦国時代も活用されていましたが、正觀寺の丘と同じ様な街道を抑える急峻な丘の立地です。
今井城址も以前、簡単な紹介記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
コレをクリックで記事にリンク!
●今井城址…横浜市保土ヶ谷区今井…破壊される城址。
昨年末の参拝時点は観音堂と墓地に登る場所が工事中で足場が組まれていました。
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手水社も有りますが、この御寺は戦国時代の殿様の文化を大切にしていて、今でも神仏習合時代のまま神様も大切に祀っているので境内に神社が有ります。
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階段を上ると観音堂を立て直してる最中でした。以前の御堂は老朽化したんでしょうね。ちゃんと立て直せるだけの檀家サン達が中田加賀守と藤左衛門サンと笠原信為公由来の歴史を守ってくれていて嬉しく感じました。
ここから振り返ると昔の川島村に当たる地域を一望出来ます。
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殿様が村を見守って下さるよう、中田藤左衛門サンはここに御寺を築いたんですね~。
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さて、左手が現代の本堂で立派な鉄筋コンクリート造りです。東向き。
正觀寺 久良岐のよし
昔の記録では東向きの客殿に御本尊の観音様を祀っていると書いて有るので、客殿が現代では本殿に成り、元来は本堂として機能していた客殿の右側に在る少し小さめの観音堂は観音堂として存続し現在になり新築され直してる最中の様ですね。
昔は神明社=天照大神を祀る祠(ほこら)も有った様ですが見当たりませんでした。
写真撮影し忘れたかな?
でも豊川稲荷サンと、弁財天様を祀る水源地が鎌倉武士以来の文化の形式でちゃんと祀られてました。
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御稲荷様は多くの御寺でも大切にされていますね~♪
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小生も行く先々で旅の安全を御加護頂いており感謝し崇敬しています。
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そして開運弁才天様。日本では水源地は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が最初に祀られ安全な飲み水に適した聖地として古代の信仰を引き継ぎ、そこにヒンドゥー教由来の同じ水神で財神で軍神でもあり文化と男性にモテモテの水の女神様でもある弁天様が源頼朝公等の鎌倉武士によって同一視されて祀られる様に成りました。
そして明治時代にプロテスタント国家のイギリスの支援下で近代化が推し進められ宗教改革も行われ、日本古来の自然崇拝と偶像崇拝仏教の弾圧が始まり国家神道が成立する過程で、ヒンドゥー教由来の仏教の神様として弁天様の名前のまま祀る事が良くないと考える人間が英国のプロテスタントに影響を受けたキリスト教に改宗した政治家やプロテスタント形式の国家神道を支持する神職によって日本の水神である“市杵島姫命(いちきしまひめ)”に挿(す)げ替えられてしまったのですが、仮に彼等が正しい歴史知識が有ったのなら、市杵島姫命ではなくて宇迦之御魂神に名前を戻せば良かっただけの話しなんですがね~。
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この御寺はちゃんと江ノ島の弁天信仰や鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁財天)と同じく湧水を大切にしている所からスタートしているので今も湧き水を大切にしています。
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掘りぬいた洞穴から水を獲得するのは鎌倉武士の知恵なので洞穴も御住職様が武士文化を理解されていて武士の信仰と同じ形式で横穴から水源を掘り当てたので弁天様を近現代に成って勧請したのかも知れませんね。
弁天様に関してまぁ詳しい事は風土記に書かれていないので、小生の予想としては恐らく新しい神社でしょう。
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う~ん・・・
それとも、もしかして正觀寺は再興開基で真言宗の前身寺院が存在したのかな?
観音様を祀る場所は真言宗に多いですからね。
この訪問日は中田家の殿様の事ばかり御住職に質問したので、御寺の起源の詳しい事は質問してませんでした。先に中田家が開いたという文献を読んで来てたので先入観が有ったのと、殿様の事で頭が一杯だったんですね(笑)。
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境内には色んな石仏様達がいらっしゃいました。
御寺の様子の解説はここまで!

では此処(ここ)からは、この御寺を開いた中田藤左衛門サンを皮切りに、いよいよ中田家の解説に話を進めます。
御住職の話しによると御寺を開いた中田藤左衛門サンは中田加賀守公の御子息、つまり北条家滅亡後、二代目の中田家当主に当たる方でして、以後、中田家の本家歴代当主は屋号として藤左衛門の名跡を継承したそうです。そんな訳で当初は正觀寺サンも開いたのが中田加賀守の御子息の二代目か嫡孫(ちゃくそん=跡継ぎの孫)の三代目か混乱したそうなのですが、近年、御本家で歴代御当主の戒名を確認した際に正觀寺を開基(かいき:御寺や神社を建てる事)したのが二代目で初代藤左衛門サンだった事が確認できたそうです。
中田藤左衛門サンは‟藤”左衛門と藤の字を含みますので中田家は藤原一族だと言う事も判ります。
ですから保土ヶ谷区~旭区一帯に多く現在も住む中田一族の皆さんは藤原家の末裔と言う事になるようです。因みに家紋は少し変わった沢潟(おもだか)紋です。
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抱き沢潟紋抱き沢潟紋と言います。
普通の沢潟紋はこんな感じ立ち沢瀉
少し違うのは何か意味が有ると思うんですが、この区別の由来は詳しくは知りません。
因(ちな)みに鎌倉市大町と横浜市港南区野庭地域には戦国時代に中田家から御姫様が嫁いだ遠い遠い親戚が今も住んでいます。
蔦の葉紋臼居家です。
臼居家は元は房総半島の小大名で、平安時代末期以来の武家の名門大名の千葉家の分家に当たります。
戦国時代に臼居杢右衛門(もくうえもん)サンが小学校~中学校位の年齢の時に、外祖父の原サンが孫の臼居家を乗っ取ってしまい、更にその城を房総半島南部の里見家に奪われてしまい支配権も治める土地も無くしてしまい最初鎌倉市大町に移住して北条家に臣従し、安土桃山時代に成ると北条家も滅亡してしまいましたので自分の領地の野庭の支配権を維持する為(ため)に、関東全域の女性を助ける寺院として有名だった北鎌倉駅近くの梅の綺麗な境内を持つ“縁切寺”の松岡御所こと東慶寺の寺領として野庭の統治をする政治工作をして徳川家に承認され帰農し、幕末を迎え、現代も大町と野庭に御子孫が住んでらっしゃいます。
この臼居杢右衛門サンの奥さんが中田加賀守の御姫様だったんですね。
つまり今の臼居家の御子孫達は中田サン一族と御姫様の血縁で繋がっている訳です。奇しくも中田家は戦国時代の北条家を代表する名将の北条綱成公とその副将の間宮康俊公と同じ官職の左衛門尉(さえもんのじょう)に由来する屋号を継承しています。
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三増合戦古戦場石碑
臼居杢右衛門サンは武田家と北条家の大軍団が神奈川県愛甲郡愛川町で激突した“三増峠合戦”で臼井衆の軍代として参戦し兵300の侍大将として北条綱成公の軍勢に与力しています。一緒に戦った上官の北条綱成(つなしげ)公が左衛門大夫(さえもんたいふ)だったので、この綱成公から左衛門尉の官位は、臼居杢右衛門サンと中田加賀守の姫様が結婚した時に北条綱成公から中田家の御曹司だった藤左衛門サンに官職が与えられたのかも知れませんね~。
もしかしたら・・・
中田加賀守の御姫様と臼居杢右衛門サンの仲人(なこうど)となり婚姻の話しを勧めた恋のキューピットは状況的に北条綱成公だったかも知れませんね~♪
・・・確証何にも無いですけど(笑)。
旧鎌倉郡の大町も野庭も守るのは北条綱成公の居城玉縄城と、北条綱成公の副将の間宮康俊公の笹下城でしたからね~。立地的にも笹下城と中田家の川島村は近いし、臼居家のいた野庭の野庭城と北条綱成公の玉縄城と間宮家の笹下城と中田家の川島村は全て御近所ですからね~。
臼居家の解説については以前書いた記事が有るので、御興味有る人はソチラも読んで下さい。
コレをクリックしたら記事読めます
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。
美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。


さて、御寺の事が書かれている新編武蔵風土記稿では都筑郡川島村の項に登場する訳ですが、そもそも川島村が何処(どこ)か現代人は横浜育ちで小学校で横浜市歌を叩き込まれて横浜市かを暗唱出来るハマっ子ですら旧:川島村の範囲がどこか知らない人も多いので、川島村の範囲を一緒に見て見ましょう・・・
保土ヶ谷区川島町~東川島町~西谷町~旭区川島町~西川島町~三反田町~鶴ヶ峰~左近山~桐が作
kawashimamura
・・・ザックリこの地図一帯を指します。結構広い範囲ですよね。
御寺は現代では保土ヶ谷区に所属します。
しかし保土ヶ谷区で川島の地名の付く範囲は2箇所で、川島町と東川島町だけです。
川島村
白い範囲が川島町と東川島町。残りの旧川島村は全て旭区所属しています。
川島村は北条家の時代には川島村を中田加賀守と山川淸九郎の二人が所領として分けて持っていたと風土記に関わていますが、詳しい事は北条家が滅亡したせいで江戸時代には既に文献も残っていなくて山川淸九郎がどんな武将だったか分(わか)らなかった様です。
同じ様に中田加賀守は北条家滅亡直前には3万石の小大名に匹敵する所領を持っていた事も書かれていますが、北条家臣団の所領は1560年前後の所領役帳の更に写ししか現存しないので、安土桃山時代の頃の滅亡直前の各家臣の所得は現代では調べる事が出来ず、小生や盛本昌弘先生や正觀寺の御住職様の緒様に状況証拠を書き集めて推測するしか知る手立てが有りません。
まぁ~泉区に中田の地名が残るので中田家の発祥地は泉区で、戦国時代末期には現在の横浜市北部~川崎市西南部を最終的には治めていた代官と言うか、与力衆を付けられた部将に成っていたらしい事が何となぁ~く判ります。
所領役帳を見ると1560年頃は小机衆に所属している事が判りますが、他にも「中田家が蒔田吉良家与力だった」と言う事も中田家と同じ旧:北条家臣の間宮家の子孫で江戸時代の歴史学者の間宮士信サンが書いているので、紆余曲折有って軍団の中の部将級にまで最終的に出世していた事も推測出来る訳です。
軍団も小机衆から蒔田吉良家の世田谷衆と言うか江戸衆と言うか?蒔田吉良家与力に編成され、その段階で蒔田吉良家の現在の横浜市域北部の所領を管理する代官で部将に抜擢されていたらしい事も何となく解ります。
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蒔田吉良家は東京都世田谷区豪徳寺の世田谷城と、横浜市南区蒔田の蒔田城の2つの城を両方とも根拠地にしていました。
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前回書いた【休日雑記】でも書きましたが蒔田吉良家の蒔田城から程近い磯子区岡村町の岡村天満宮の旧参道大鳥居を昭和13年に単独で寄贈した中田サンと言う昭和初期の資産家がいるので、寄り親の蒔田吉良家の居城近くに所領を貰って土着した一族がいたのかも知れません。
因(ちな)みに以前、別の記事でも紹介しましたが中田加賀守の1560年頃の所領は以下の通りです・・・
拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
そして江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
どうやら最初は太田康資(やすすけ)公の配下で太田家から所領を貰っていたけど所領役帳の検地が終わる前に太田家が謀反して北条家を裏切って国府台合戦を起こした事で太田軍団が解体されて、それぞれ武士が北条家の直接雇用化して中田家の配下武将も与力から解体されて所領が少なかった時代の記録が上記の北条家所領役帳時点での所領にだったみたいです。
川崎市中原区に所領が有りますが、同じ地域は元々吉良家の殿様の領地だったので、やはり吉良家の与力に成っていた時期が有ると考えるのは自然ですね。すぐ近くに井田城も有り、中田加賀守の持ち城だった伝承も残ってますから。

そして先日書いた休日雑記、“ゆずの町”岡村町を散歩した時の記事でも触れましたが・・・
コレ⤵
●【休日雑記】2019年03月02日の訪問先・・・❝ゆず❞の磯子区岡村町(モンマルト・岡村天満宮・岡村梅林・久良岐能舞台)~小田原市曽我梅林。
どうやら南区~磯子区辺りにも御一族が住んでいて有る程度大きな財力を昭和初期まで持っていたみたいです。岡村町の岡村天満宮は料理業組合が支援した神社だったので、小生の予想では磯子~根岸が富豪の別荘地で花街も有った頃に中田家が料亭とかを運営したのかも知れません。
ブロガーで歴史仲間の“知の冒険サン”の話しでは昔は岡村の隣町の弘明寺にも花街が有ったそうなので、料理業組合はそちらの可能性もあるそうです。
知の冒険さんは小生とは異なり主に色町、大人の世界の花柳界の歴史を調べてる歴史オタク(笑)でして、全く女遊びに興味の無い小生ですが歴史として実際に現地に行き取材をするスタンスが小生と同じで記事を読んでいて楽しいんです。
智の冒険サンのブログのホームページ⇒https://chinobouken.com/
まぁ、だから弘明寺に花街が有った事とか御存知な訳です。

中田サンに関しては岡村天満宮の宮司様に御教授頂けました。
岡村天満宮の宮司様の話では、岡村天満宮の大鳥居を寄贈した中田家は杉田の中原に戦前までは居た家だそうで、戦国時代末期に岡村町辺りに所領を得ていて土着した分家子孫がいて第二次世界大戦以前まで地主として高い経済力を維持していたのかも知れませんね。
そして杉田は戦国時代~江戸時代中期の間宮家の領地でした。この間宮家が崇敬した修験道の神社が杉田の熊野神社(旧:大霊山泉蔵院桐谷寺)で、この宮司家の杉原家が平安時代末期に泉蔵院=山崎泉蔵坊を鎌倉市山崎で運営していて源頼朝公から修験道の大道場として崇敬を得ており、頼朝公の請願で泉蔵坊が中原の熊野神社を開き現在に至ります。
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泉蔵院についても解説記事を書いて有るので御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵
●横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
戦国時代の北条家は各家の舎弟を別の家臣の与力として付ける事で相互に謀反を抑止させたり、各家が得意とする分野の技術や知識を共有するパッケージみたいな感じで家臣団編成をどうもしていた事が、間宮家や宅間上杉家や蒔田吉良家の与力衆の苗字をみていると判ります。
つまり中原に近代まで網元として水軍の名残りを残しながら存続し今は市会議員をやっておられる関家や岡村天満宮の宮司様の御話しで中田家も中原に分家が移住し間宮家与力として水軍に編成され、房総半島の里見家の海賊の乱入に備える武士団を組織し、北条家の解体後も杉田に分家が残っていた事が解かる訳ですね。
そして岡村天満宮の杉原宮司様の御本家は泉蔵院熊野神社の社家でして、御爺様の代に熊野神社の方の神職を継ぐ方が居なく成ってしまったので岡村天満宮と宮司職を兼任したそうです。
つまり、その御縁で杉田中原の中田家が地元の泉蔵院と合わせて商業の神様でもある岡村天満宮の境内社稲荷社を崇敬していたので、隣町の岡村天満宮に石の大鳥居を寄贈したそうです。

恐らく中田家御一族は横浜市各所に御分家がもっと沢山存続している事と思いますが、今解るのはここまでです。

でも補陀山 正觀寺の歴史を辿るだけで横浜市の色んな歴史も判って周辺の町との繋がりも出て来て歴史好きには楽しくて堪らないでしょう?
きっと皆さんの御近所にも同じ様に今は住宅街の御寺だけど、実は凄い歴史偉人と関わりの有る場所が沢山あるはずです。

ですから皆さん・・・
御近所の御寺や神社や城跡の山や公園を散歩して見ませんか?凄い殿様との意外な結び付きを知ると地元に対する愛着も深まるはずです。
・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
  ↑
コレのの続きの第二部。
現代の感覚で言うと地理的には京浜急行電鉄神奈川駅と横浜駅と市営地下鉄三ツ沢上/下町駅の殿様の多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説が前回の記事です。

多目元忠公を語る上で外せないのが現在の川越市で起こった俗(ぞく)に日本三大奇襲戦の一つに数えられる❝河越夜戦❞です。
河越城縄張り図 
※この縄張り図は江戸期河越城の絵図を元に河越市立博物館に勤務する教育委員会の当時の学芸員サンが企画展用に地図上に起こした物です。戦国時代には新曲輪・中曲輪・追手曲輪と田曲輪は存在しなかったと推測されていますが、北条流の築城術と太田道灌流の築城術の城を見て来た小生の意見では田曲輪は部分的に外郭として存在していたと考えています。
二つ両引き足利家❝二両引き紋❞
竹に雀紋上杉家❝竹に二羽飛び雀紋❞
実は関東地方は近畿や東海地方よりも先に戦国時代に突入した地域でした。それは最後の鎌倉公方の足利持氏公と古河公方と成る足利成氏公の親子と上杉家の対立によって起きた❝上杉禅秀の乱❞、❝永享の乱❞、❝享徳の乱❞の3つの政治混乱と大軍勢同士の軍事衝突が配下の与力大名達の対立と私闘に繋がり領地の奪取戦へと混乱が拡大した事による結果でした。
この3つの大乱で鎌倉公方の配下でありながら関東の政治を乗っ取って反逆したのが犬懸(いぬかけ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家、扇谷上杉家でした。
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※KOEIさんのゲームより拝借画像
山内上杉家は長尾景虎こと後の上杉謙信が養子に成った家として有名ですが根拠地は埼玉県北部~群馬県でした。更に上杉謙信の父上で越後守護代を務めた長尾為景公は北条家と協力関係に在りましたが、その上杉謙信の実家の長尾家の根拠地の新潟県も上杉家の領地でした。
山内上杉家と扇谷上杉家のアホの上杉内部抗争に嫌気がさした山内上杉家執事の長尾景春公や越後守護代だった長尾為景は「実際仕切ってるの長尾家だし、俺達の方が平和な世の中作れるんじゃね?」と思ったかは知りませんが、実際に戦上手の名将として知られた長尾景春公は伊豆~相模東部を支配していた伊勢盛時(北条早雲)公と連合して両上杉家に対し叛旗を翻しています。
これが青木城の前身と成った神奈川駅前の権現山城の合戦を含む❝長尾景春の乱❞でした。
この長尾景春の乱については扇谷上杉家の家宰で名軍師の太田道灌公に鎮圧されています。
※長尾家については以前に祖先の居城横浜市栄区の長尾城を紹介した記事が有るので御覧下さい。
 これクリックで記事読めます⤵
 横浜市栄区と鎌倉市大船にまたがる長尾城址…上杉謙信のルーツの城跡。

そして山内上杉家の対立勢力だった扇谷上杉家は上杉定正公が本拠地を伊勢原市糟屋館や藤沢市大庭城に置き、相模国~武蔵国南部の河越まで影響下に置いていました。
太田道灌公
太田道灌公
扇谷上杉家の家宰(かさい=社長)が太田道灌公や父上道真公の太田家で、オーナーCEOが扇谷上杉定正公でした。この扇谷上杉家、実は後に小田原北条氏に駆逐されるものの扇谷上杉定正公と太田道灌公の主従が没するまで戦上手の家柄で知られた家でした。
上杉禅秀の乱の頃までは扇谷上杉家は鎌倉公方(関東を統治する将軍)の足利持氏公を助けて山内上杉家と戦った家なのですが、当時は大庭城を本拠地にしていた扇谷上杉氏定公(定正公の祖父)は山内上杉家との合戦中に重傷を追い行動不能に成り所領の藤沢で切腹、鎌倉公方の足利持氏公も佐原三浦家の裏切りで背後を突かれ本拠地鎌倉を占拠されてしまった事で降伏を余儀(よぎ)無くされ、称名寺で出家しましたが結局は山内上杉家に襲撃され亡くなりました。
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鎌倉市扇谷の海蔵寺は鎌倉公方の忠臣の扇谷上杉氏定公が造営した御寺で、現代ではとても風景の綺麗な若いカップルの鎌倉デートの散策コースとして人気に成っていたりします。
以前、海蔵寺や太田道灌公の屋敷跡の英勝寺を散歩した時の記事⤵
休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区
この上杉禅秀の乱で扇谷上杉家は山内上杉家の影響下に下るのですが、後に足利持氏公の遺児の足利成氏公が室町幕府征夷大将軍によって鎌倉公方就任を認められ父の跡を継ぐと、足利成氏公は重臣の梁田等と謀議して父の仇の山内上杉憲忠や扇谷上杉家と対立色を強めて行きます。
そして勃発したのが❝江ノ島合戦❞でした。
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※写真は江ノ島奥津宮、源頼朝公が奉納した鳥居。
この江ノ島合戦では宇都宮家・小山家・結城家・千葉家・小田家等の平安時代から存続する関東古豪が挙(こぞ)って足利成氏公に与力し間宮家が別当を務める江ノ島に籠城、上杉家を撃退して忠節を尽くし、更には当時の室町幕府管領の畠山持国公が鎌倉公方支援派だったので足利成氏公の派閥が幕府からも支援されたのですが、ここで関西を衰弱させた応仁の乱の戦犯である細川勝元に管領職に就任し大混乱に発展して行きます。
細川勝元は❝応仁の乱❞で近畿地方を荒廃させただけではなく、実はそれまでの幕府の方針を捻じ曲げ足利成氏公を冷遇し始め奸臣の山内上杉家を自分の影響下に置く事で鎌倉府の支配権までも己が手に入れようとしてしまします。これが❝応仁の乱❞だけではなく関西より少し早く戦国時代に突入した関東の混乱に拍車をかける事に成ります。
只でさえ足利成氏公と関東武士団からすれば山内上杉家は先代公方の足利持氏公を殺害した仇(かたき)な訳です。その殺したくて仕方が無い奴が権力欲の塊で室町幕府を混乱に陥れる細川勝元と結託して再び鎌倉公方を蔑(ないがし)ろにし実権を奪ってしまった訳です。
・・・そして事件が起こります。
大晦日も間近に迫った享徳三年(1454年)の12月末、足利成氏公は自邸に山内上杉憲忠を呼び出して暗殺して亡父足利持氏公の敵討ちをしてしまいます。
鎌倉市西御門周辺 久良岐のよし
現在の西御門辺りに足利成氏公の邸宅が在ったと伝わります。
この事件が発端と成り山内上杉家と鎌倉公方足利成氏公の合戦は長期化し戦乱は享徳の乱と呼ばれる様に成りました。足利成氏公は非常に合で強かったので、この時は上杉連合軍を完膚なきまでに叩きのめしていますが、細川勝元の介入のせいで戦乱が長期化してしまった訳です。
さて、この享徳の乱では山内上杉家の味方に付いていた当時の扇谷上杉家の当主だった扇谷上杉顕房が敗死して、実弟の上杉定正公が跡を継ぎます。この扇谷上杉定正公は兄や父とは思考が異なり祖父で鎌倉公方家の忠臣だった扇谷上杉氏定公の思考に近い人物だった様で扇谷上杉家は方針転換し山内上杉家と再度対立する事に成って行きました。
この頃に扇谷上杉家が本拠地にしていたのが大庭城や糟屋館でした。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
糟屋舘を紹介した時の記事⤵
【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
扇谷上杉定正公には名軍師の太田道灌公がいましたが、この太田道灌公は上杉定正公とは違う外交方針の人物で定正公の兄上の先代当主顕房公の路線を踏襲して勝手に山内上杉家と扇谷上杉家を和睦を勧めてしましました。そして主君の定正公に居城の糟屋舘に呼び出され暗殺されてしまいます。
関東の戦国時代を通じて多目元忠公を上回る❝最高最強の無敗の軍師が太田道灌公❞で、その太田道灌公と御父上の太田道真公が改修したのが沼に浮かぶ堅城❝河越城❞でした。この河越城が起点として現在の川越市の発展の礎(いしずえ)に成っているのですが、付近は豊かな穀倉地帯と水運と陸運の拠点だった事から扇谷(おおぎがやつ)上杉家と山内(やまのうち)上杉家の対立の場が武蔵現在の立川市周辺だったり河越辺りだった訳です。
その頃、鎌倉公方の足利成氏公は結果的に幕府の後押しを受けた山内上杉家に鎌倉を占拠され、現在の古河市に移住して古河城を拠点に古河公方と成り、更に古河公方家は成氏公の孫同士が争い小弓公方足利義明派と北条家や今川家の支援する古河公方足利高基公派に分断し関東の混乱は治まる事は有りませんでした。
この混乱の中で古河公方足利高基公を支援し扇谷上杉家や山内上杉家の所領を浸食していったのが北条早雲こと伊勢盛時入道宗瑞公と北条氏綱公の親子、日本初の下克上戦国大名伊勢氏でした。
伊勢(北条)家は小田城を大森家から奪取すると続いて扇谷上杉家と佐原三浦家の糟屋舘や七沢城や岡崎城を陥落させます。この伊勢原市の岡崎城は扇谷上杉家から佐原三浦家に養子入りしていた三浦道寸公の居城で北条早雲公親子をもってしても攻略に10年を要した沼に囲まれた堅固な平山城でした。しかし岡崎城が陥落すると三浦家も扇谷上杉家の両家とも北条家によって瞬く間に相模国域から駆逐され大庭城、住吉城が失陥、新井城で日本最長の4年間に渡る籠城戦の末に佐原三浦家は滅亡。
扇谷上杉家も家臣の太田家かから奪っていた江戸城に本拠地を移すも、そこも北条家二代当主の北条氏綱公によって陥落させられ、更に河越城へ移るも北条家によって奪い取られ、山内上杉家を頼って武蔵国北部に逃げて行きました。
そして勃発したのが・・・
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
扇谷上杉家と和解した古河公方家と山内上杉家の大連合軍vs北条家の❝河越合戦❞でした。
1545年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。
その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
三つ鱗紋
【北条家兵力】
・籠城部隊・・・3000  
 河越城主:大道寺盛昌公  
 白備隊大将:北条幻庵公  
 黄備隊大将:北条綱成公
・本隊援軍・・・8,000
    04月17日小田原出陣
    04月19日川越着陣、20日参戦
 本隊総大将:北条氏康公
    御馬廻り衆:福島勝広公等
    黒備隊大将:多目元忠公

二つ両引き竹に雀紋州浜紋
【鎌倉公方・上杉家連合兵力】
・関東諸大名・・・80,000超
 古河公方:足利晴氏公(北条氏綱公の娘婿)
 関東管領:山内上杉憲政
 松山城主:扇谷上杉朝定公
 小田城主:小田政治公・・・他
・参戦武将:梁田晴助公・長野業正公・倉賀野行定公・太田資正公・難波田憲重公・菅谷貞次公等
・・・河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。 敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
この戦、兵力差だけでなく実は上杉陣営も足利晴氏公の家臣も可也(かなり)の名将揃いでして、参戦武将に列挙した武将達はどれもが武略と統率に優れていました。中でも群馬県の箕輪城主だった長野業正(なりまさ)公は単独で武田信玄の大軍を何回も撃退している軍事に秀でた武将でしたし、太田道灌公の子孫に当たる太田資正(すけまさ)公も謀略で城を奪い取ったり合戦にも高い能力を持つ武将でした。ですから、彼等が能力を発揮出来ない様にするには足利晴氏公、上杉憲政や上杉朝定公等を油断させ敵軍の統制と連携を断つ必要が有った訳です。
北条方の河越城守将は城主の大道寺盛昌公と小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。
この北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。
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小机城址では毎年10月に竹林と成っている城址の竹を伐採して数千本の竹キャンドルで城を幻想的に照らし出す❝竹灯籠まつり❞が行われます。
以前竹灯籠まるりを紹介した記事⤵
2015年10月24日は小机城址 竹灯籠まつり 今年も開催されます!
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北条氏康公は小田原城から出陣した当日、最初の宿泊を現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊に逗留し、その際に戦勝祈願をしています。
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既に解説済みですが、この岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。小田原所領役帳に登場する鵠沼領主の❝岩本❞と言う武将は、この佐々木間宮一族の岩本間宮家でしょう。岩本坊は現代、上の写真の鳥居参道に在る老舗旅館の岩本楼として存続しています。
岩本楼サンのホームページ→http://www.iwamotoro.co.jp/
氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、河越城内の籠城兵と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。
そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけたと伝わります。この作戦立案者がもしかしたら多目元忠公だったかも知れませんね。
実際には戦闘は上杉憲政の軍勢が単独で北条氏康公の本隊に先に仕掛けて開始されている事が解っています。ですから、この氏康公の手勢の突出は恐らく上杉家本隊を突き崩す為の陽動作戦だったのでしょう。山内上杉憲政の軍勢の配置は南側ですが、当時は河越城の外郭が八幡曲輪までだっただろうと川越市教育委員会の某先生への取材でもおっしゃっていたので、その八幡曲輪の城門の前に陣取っていたのが上杉憲政治の部隊だった事が解ります。この山内上杉軍を城門前から北条氏康公が囮(おとり)と成り引きはがし・・・
それと同時に河越城から北条綱成公と副将の間宮康俊公の黄備え隊が出撃し、山内上杉家の手勢を背後から大混乱に陥れたのでしょう。そして氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。
この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公だった訳です。
敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、他の大名や与力武将との連携もままならず北条氏康公、綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅したと伝わります。この作戦を可能にしたのは北条氏康公と北条綱成公の高い武勇と統率だけなく、挟撃作戦を成功させる為には城内籠城部隊と本隊の連絡を保持する必要が有ります。これは北条幻庵公の管理下にいた風魔小太郎等の風魔忍者達が民間人や修験者に扮したり敵軍をかいくぐって城内に潜入を出来たからかも知れませんね。
そして北条幻庵公と多目元忠公の謀略と軍略も有ったから成功を見たのだと思います。
この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で・・・
・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。
・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。
・・・いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 北条氏康公は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていましたが、初期に氏康公の直面した難局を打開する軍事作戦を立案し合戦の指揮を代行していたのが多目元忠公と現代に伝承する訳です。 菩提寺は横浜市神奈川区三ツ沢公園近くの豊顕寺(ぶげんじ)です。多目家は地元では多米家と異なった漢字で苗字が伝わりますが、多米姓は三河国出身で遠江の大名遠州今川家との関わりが推測出来る一族です。
この続きは多目元忠公の御子孫らしき人物達の所領が低く抑えられている謎と一緒に紹介したいと思います。それまでに三ッ沢の豊顕寺サンも訪問して写真を撮影し、合わせて紹介出来たら良いなと考えています。

だから中1週間程ブログ更新の間隔が空く可能性も有りますが、御了承下さいね!
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※昨年の写真、東京都羽村市根搦前水田のチューリップ祭り。
明日、東京都羽村市のチューリップ祭りを見に行くのでもしかしたら今年もその様子を報告する休日雑記を間に書くかも知れません。
・・・では!また皆さん、次の記事で御会いしましょう。

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









2017年07月15日、この週の火曜日07月11日が新井城落城した日で尊敬する武将の一人である三浦義意公と御父君の三浦道寸公の供養の為に菩提寺である網代山海蔵寺に参拝し、御住職様から海蔵寺専用の納経用の奉書を頂いていたので三崎漁港の海南神社の例大祭に合わせ、土曜日に写経した妙法蓮華経観世音菩薩普門品世尊偈を携えて海蔵寺に納経に再訪した。

海蔵寺さん参拝の後、最初に訪れたのは天然記念物諸磯隆起海岸だった。
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…と、その前に少し小生の神社と御寺に対する思い入れの根源の話し。

小生の祖先は某延喜式内社の宮司家なので御寺や仏教と言うと子供の頃は除夜の鐘程度の認識しかなく、なんと言うか御祭りの様な楽しい場所と言う感じだった。
大人に成って仕事でリーマン破綻直後に3ヶ月間、毎日睡眠が3時間以下と言う労働が続いて過労に成って頭ハゲそうなハチャメチャな状況に成って心身共に参っていた。
同僚が中国語話せないのに突然中国へ転勤に成ったり、小生は中国語話せるのに国内に残りソイツの分も含め複数人から仕事を引き継いだり、ハッキリ言ってキャパを超えていた。
朝の定時出勤時間前から出勤して客先の就業開始直後に御用聞きで訪問できる様に直行。
夕方の18時に帰社、そこから自分のオフィスワークと2人から引き継いだ分のオフィスワークを始める。当然朝までかかる。だから休日も潰れる。20時以降はタイムカードを切らされてサービス残業を強要され、当然休日出勤は申請不可。そんな会社だが実は中堅企業の中の大手の部類の企業だった。
アジア圏や国内遠方に出張する際は、上司に指名されたいい加減な同僚に仕事を任せるのが嫌で嫌で仕方なかったが、馬鹿でも出来る様に完璧にスケジューリングして協力会社にも念入りに事前に打ち合わせで部材の製作をお願いして置き、資料も準備して小生の仕事を代理で行う人間はスケジュールの時間通りに指定の場所を訪問して人に会い物を受け取り、物と資料を渡すだけで何にも考えず何にも余計な事を話さず済む様にしてあった。
だけどね、世の中、いい加減だけど何だか知れないけど上司に信頼される奸臣と言うのが居て、その上司に仕事を御願いする様に指定された同僚は「案の定ちゃんと俺のスケジュールを踏んで行動しない」で当日に訪問しなかったり、結果的に納期に遅れたりやらかしてくれた。
だけど狡猾な奴で上司には小生のミスの様に粉飾し、小生が出張から帰って来ると何だか知れないけど叱られたり。それを残業時間に成って同僚を呼び止め問い詰めると開き直りクソ同僚はこんな捨て台詞を言った…
「そんなに完璧にやれんて!」
…おい、俺は馬鹿でも出来る様に御膳立てしてやった上に協力会社の皆さんも文字通り万全の協力をして下さっていたんだがな?
まぁ、そんな事が何回か有ったりハードな仕事が三ヶ月休み無しで続いて自分で洗濯物洗う暇すら無くてクリーニングにシャツやスーツを丸投げしても、今度はクリーニング屋に服を引き取りに行く暇も無く、前日着たシャツにファブリーズだけして又着て仕事したりしていた。
小生がそんな事に成っていた時期に社員の1人が交通事故を起こして人を轢き殺した。
更に社員が1人自殺、でも家庭の問題とされていた…本当かよ?
子会社でも1人が過労要因と思われる交通事故死。
自分も高速道路で運転中に意識が飛んだり2回経験した。赤信号も認識できずに信号無視をしたり、自分で「やばいのかな~?」と思い、そのクソ会社を辞めた。
因(ちな)みに、その会社は今でも存続していて何だか知らないけど某大手企業のベストパートナーにも選ばれたりしている。御客さんは、そんな状況知らないだろう。まぁ、知ってる会社も有ったけど。
これ、当時、退社後に労働基準監督署にも職安にも相談していたけれど、「管轄外」と言われたり「ウチでは出来る事に限りが有って対処できない」と言う主旨の事ばかり言われたんだな。
まぁ、泣き寝入りするしかなかった。
アレから数年が経ったが、日本の労働基準法って今でも守られてないよね。実際。
有休消化なんて超大手企業しか出来ないでしょう?
週休二日制も守られてない会社多いでしょう?
サービス残業の会社多いよね?
安倍さんが賃金上げろと急(せ)かしても無視するクソ企業多いよね。
その癖に横浜市長みたいに日本を敵視する北朝鮮の学校に補助金出したり意味わからない政治家もいるよね。
新しい制度考える前に、既に施行した法制度を順守させる方が大切だと思うんだよな。
まぁ、そんな事が有ってリアルに昔は無責任不倫上司のせいで死ぬ寸前に追い込まれた。
だから、昔の善政を行ったり農民や商人に好かれた殿様達に余計に尊敬の念を抱くんだろうな。

そのクソ会社にいた頃に不思議な夢を見て…
横浜の歴史偉人とその上司の玉縄北条家や源頼朝公とその与力衆の鎌倉武士団の偉人達に"命を救われて"以来、歴史の資料を趣味で読み漁り墓所や御関わりに成られた神社仏閣と史跡を訪問し、殿様達に感謝して回るのが休日の趣味に成った。
…もっと言うと三浦の海に命と精神を救われた感が有るんだな、小生の人生は。
当時はボロボロで、ハチャメチャな仕事を命を繋ぐ為に辞めた。
不思議と普通なら「自殺したい」とか思う状態に成るであろう状況に、小生は「海見たいな~」としか思わなかった。死にたいとは思わなかった。
でも仕事の通勤帰りに電車に乗ってる時は危なかったね。夜の町の中を走る車窓から外を見てると引き込まれるんだよ。
あれ、一種の催眠状態なんだろうね、気持ちが暗い時や挫折を感じてるとハマりやすいのかも。
そんで、休みに良く観光客の余り行かない三浦半島の南端の江奈湾に行って磯で少し泳いだり、散歩したりして過ごした。
・・・そうこうしてる内に気力も回復して来た。
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この江奈湾の磯が大好きで良く散歩しにドライブしに行ってた。
台風の翌日、ここの岩場が高波にバッシャ~ン!バッシャ~ン!と洗われている時にアホな小生はクロックス履いて出掛けてて岩場の海苔で足を滑らせ仰向けに素っ転んで強く背中を打って息も出来ず、何回も打ち寄せる波にさらわれそうに成った。
その時に強く思った「こんな恥ずかしい死に方出来ね~し!」と(笑)。
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江奈湾の近くの松輪からは富士山も綺麗に見えたりする。
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富士山、此花咲耶姫命様も小生の命を繋いで下さった神様なんだな。
家の近所の円海山に登っては、そこから見える赤富士を見て円海山の自然にも癒された。
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神社や御寺と自然と彼女の存在ってのはね~、どんな向精神薬や安定剤や睡眠薬よりも効果が有るんですよ~。家族は当てに成りませんがね~。
大切なのは自分で選んだ家族に成って欲しい人なんだと思う。つまり血縁よりも理解者だね~。
それと脳味噌を休ませてくれる環境。
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御蔭で小生は薬漬けに成らずに働けた。
あと、当時はまだミシェランガイドに紹介されておらず観光客も少なかった鎌倉の報国寺の竹林に行って座禅を組む様に何も考えずに時間を過ごしたり。
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そこの草庵で少し休んで、抹茶を飲む事で大分気力が回復したと思う。
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今では観光客が多くなり、余り気の休まる静けさは無い。でも癒されるのは変わらない。
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今では現:鎌倉アホ市長によって通行止めにされた釈迦堂の切通しの辺り衣笠山~今泉台~報国寺の宅間谷(たくまがやつ)をグルっと一周散歩して回ったり、殿様達の残して下さった鎌倉の文化と景勝地と三浦の海は医者の処方する薬より疲労が蓄積して赤信号も無意識に無視した脳味噌を少しづつ回復してくれた。
後で知ったのだけれど、この報国寺を開いたのも横浜市の殿様の宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の御爺ちゃんの足利家時公だったんだな。
そして、更に後に知るのだが横浜市港南区の永谷天満宮も宅間上杉家の殿様が開いた神社だった。
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それ以来、紫陽花の季節には永谷天満宮に絶対に行く様に成った。
この少し前位、小生を身近に支えてくれた当時の彼女さんもいた。
この彼女とは結婚して幸せにしてあげたかったのだけれど、残念ながら小生がボロボロだったので縁が無くなったが、御蔭で小生はクソ会社退職後暫くして又、働ける様に成った。
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その頃に七里ヶ浜も行くように成った。
この変な棒は流木を砂浜に突き立てた写真。こんな風景七里ヶ浜に有りません(笑)。
その時に傍で支えてくれた昔の彼女さんを幸せにして恩返し出来なかった事を悔やんでいたりする。
丁度その頃だ。
ボロボロだった状態で夢の中に「龍寶寺」と書かれた石柱が出て来て起きてから「何だろうな?」と思って調べて見たら、戦国時代関東最強の武将だった北条綱成公の菩提寺の名前のだった。
場所も大船駅の近くで近かった。
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学生の頃に友達と遊んだ信長の野望シリーズに登場する名将の御寺だった。
2014-09-15-06-09-37上杉謙信と武田信玄に称賛された名将。
三つ鱗紋学生当時、北条家は少し地味で友人達には人気が無かった(笑)。
まぁ、どちらかと言えば三国志の方が学生時代は好きだったし。
夢の事でビックリして直ぐに参詣して、当時は今と違って旧境内地近くの山の上に存在していた御廟所に御線香を上げに行った。今では綱成公の御廟所は境内本堂横に移設された。
そうこう調べていると何と北条綱成の家老が横浜市の殿様の間宮家だった。しかも更に詳しく調べて見ると子供の時に同じサッカークラブに通っていた幼馴染の近所の子等の家の周りが綱成公の家老の間宮家の居城の笹下城址だった。
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何と小学校の頃、サッカークラブの幼馴染やその近所の子と遊んだ山が笹下城の本丸だった。
元々中学生の頃から家から鎌倉が近くて自転車で由比ヶ浜に行ったり、源頼朝公の御墓参りをしたり、江の島に行ったり、金沢区の野島公園に行ったりして遊んでいたので、歴史は好きだった。
子供の頃は大好きとまでは行かなかったが、大人に成り事情を知り直ぐに北条綱成公や間宮家の殿様達に尊敬だけで無く親しみも深く感じる様に成った。そして歴史が本格的に好きに成った。
最初は何となく資料を読んで、殿様達の開いた神社仏閣を訪問していた。そこから暫くして御朱印も貰う様に成り、更に地域の人にも偉人の存在を伝えたいと思う様に成ったのが3年ちょっと前。
もう一度、北条家の事を調べると足利家の鎌倉公方家の殿様と忠臣だった宅間上杉家や扇谷上杉家の事も知り、足利家に滅ぼされた鎌倉幕府の執権北条家の殿様達が元寇から日本を守って下さった事を再学習し北条泰時公と北条時宗公を尊敬する様に成り、更に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公とその与力武将達を物凄く尊敬する様に成り、三浦家や千葉家や佐々木家の殿様の事も鎌倉だけでなく横浜市と関係が有った事も知った。
その平安末期の武将中でも特に尊敬するのは、やはり平良文公、源義家公、源頼朝公、鎌倉景正公、三浦義明公、和田義盛公、三浦義澄公、佐原義連公、多田行綱公、渋谷重国公、佐々木高綱公だった。
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その人々の足跡を辿って油壷に行き、戦国時代に扇谷上杉家から三浦家を継いだ三浦義意公の民話を聞いて回る内に深く尊敬する様に成った。

まぁ、小生の命は自分で勝手に生きて来れた訳じゃなくて…
殿様達の御蔭、神奈川の自然の御蔭、そして当時の彼女さんの御蔭の3つで繋がったんだな。
…だから社会の役に立つ事をして生きた証を残して皆さんに恩返しせんといかんのよ。

そして2017年07月15日の休日雑記の三浦海蔵寺への三浦義意公と道寸公の供養の納経へと繋がっていく…

前回の記事
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休日雑記 2017年06月24日の訪問先その②・・・江ノ島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮・龍宮)
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コレの続き。
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江島神社奥宮の辺津宮と龍(わだつみ)宮を御参りして八方睨みの亀を見学してからの続き・・・
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辺津宮は江島神社の奥宮で、源頼朝公が奉納した石鳥居等が現存している。古き良き江島神社の姿を残す場所だ。
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“神社”としては奥宮、ここ迄だが実は江ノ島はここから先が最重要な聖地なのだが知らない観光客も多く、ここで引き返すカップルも少なくないのだが、江ノ島に来て“岩屋”=洞穴に行かないと本当に御神体としての“江ノ島”に来たとは言えないのだ。
コレ→(休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼)でも少し触れたが、江ノ島は欽明天皇以来の天皇家の勅願所(ちょくがんじょ=天皇家の祈願事を代理で行う聖地)として機能しているのだが、その場所は江島神社では無く江ノ島の稚児ヵ淵(ちごがふち)に存在する数ヵ所の洞窟な訳だ。
その場所は辺津宮から、そう遠くないが少々階段の上り下りが有るので知らない人は面倒くさがり行かない事も有る。
辺津宮から稚児ヵ淵に向かう途中、周辺には猫が沢山いて民家の玄関先等でくつろいでいる姿を見せてくれたりする。
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その②で紹介した猫ちゃん、人馴れしてる子ばかりで触っても逃げない子も多い。かわえぇ~。
日本の猫の大多数は仏教の経典や仏像を鼠の害から守る為に遣隋使~遣唐使と一緒に船に乗って日本に来た子達の子孫なのだが、つまり現在の唐代の中国建築の影響を受けている神社仏閣の建築技術を伝える図面やなんかを守ってきてくれた猫チャンの子孫達であり現代では多くの人を癒してくれる"聖獣(笑)"な訳だな。
こんな猫チャン達を数匹見かけつつ階段を降りて行くと、こんな場所に行き当たる。
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松尾芭蕉や服部南郭を始め、文人達の句を紹介した石碑が沢山有る場所。
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松尾芭蕉の句は直接江ノ島と関係無いが、服部南郭は此処(ここ)で漢詩を詠んだらしい。
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明治の元勲達も皆そうだが、江戸時代~大正時代の偉人達は教養の高い人が多く、余裕で現代中国人の詠めない漢詩を創作したりする知識と風流さを兼ね備えていたんだな。
因みに偉そうに解説する小生は、華語が話せて武士の言葉も読めるので漢文の意味は解るが詠み創作する事は出来ない低文化人だ(笑)。
何故この一角に句碑が沢山有るかと言うと・・・
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もう海が見えるから、この風景に関係のある詩句が紹介されている訳だ。
この下の岩場が稚児ヵ淵と呼ばれる。
歌舞伎の演目の“白浪五人男”の弁天小僧は岩本院(現在の岩本楼)の稚児がモデルに成っていると伝わるが、不勉強な小生はコレを笹下城下に取材に行った際に偶然、岩本楼の先代の奥様の御身内から御教授頂いてから調べて知る事と成った。
江戸時代の娯楽も見ておくべきだね。
因みに弁天小僧には、こんなセリフが劇中有る・・・
「岩本院の稚児上がり、普段気馴れし振袖から、髷(まげ)も島田に由比ヶ浜!」
・・・意味わかります?
コレは江戸時代の民間人特有の洒落(しゃれ)っ気が効いたセリフに成っています。
セリフを区切って解説して見ましょう。

[岩本院の稚児上がり]
江島弁才天を管理する岩本院で幼少時代修行していた人物である事を説明している。弁天様を祀っている岩屋(洞穴)の前の稚児ヵ淵の磯の地名とも掛けてラップの様に音(いん)を踏んでいる。

[普段気馴れし振袖から]
弁天小僧達、白浪五人衆は実は盗賊なのだが善玉の義賊として描かれている。その中でも弁天小僧は女装の変装が得意な美少年だったので「普段気馴れし振袖」そのまま、女装して呉服屋に乗り込んだりする役柄。

[髷も島田に由比ヶ浜]
髷は丁髷(ちょんまげ)の事、島田は江戸時代の女性の髪型の結い方の一つ、つまり男性が女装している様子を形容している。
由比ヶ浜の部分は江ノ島は現在は藤沢市だが明治までは鎌倉郡だったので、鎌倉の有名な由比ヶ浜の地名の“由比(ゆい)”と髪を結う“結い”を掛けて洒落たラップの様にしてある。

そんな感じで江戸市民ってのは他地域と違ってユーモアを好み、かつ現代の芸人みたいに人をイジメたり笑い者に成る教養の無い嘲笑を煽る笑いの取り方では無くて、文芸や歴史知識と世相や時事ネタを入れ込んで謎かけみたいな事をするのが大好きな人達だったんですね。
まぁ、江戸を築いたのは大坂の佃村から移住して来た人々と品川と江戸城周辺の農民だったので、本来の大坂の笑いも江戸時代までは江戸の古典落語や歌舞伎や狂言の笑いみたいに教養に溢れたものだったのかも知れない。
東京にしろ大阪にしろ、落語家達には当時の笑いの流儀が受け継がれている様に素人目に感じる。
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さて、稚児ヵ淵は多くの観光客で賑わうが、鎌倉の護岸工事される以前の磯が残っている。
風景が良いだけでなく、子供には良い自然観察の場にも成る。
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だから立派な藤壺やら・・・
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・・・亀の手が沢山生息している。オッサンの小生にはどれも採取して家で湯がいて食べたい蟹の御仲間の水生生物、酒の肴にしか見えないんだが(笑)。
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三浦半島と伊豆半島も見えてとても景色の良い場所だ。
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ここを過ぎると欽明天皇が天皇家の勅願所に定めた洞穴が有って、豊かさの象徴の神様であり古代は水の神様だった宇迦之御魂神が祀られている。
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立派に観光地化されており、入口は屋根が付いているが洞窟の深部はそのままに成っている。
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入口横には古代の海洋生物の化石も沢山露出していたりする。
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入場料は大人500円と安い。だからカップルだけでなく親子連れや団体観光客でも賑わっている。数年ぶりに来たら外国人観光客も増えていた。
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中に入ると池が有る。
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実はこの水辺が聖地と成った大切な意味を成しているのだが、これは後で説明しようと思う。
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池の中の句碑は与謝野晶子さんの物で、知らなかったのだが彼女は江ノ島が大好きだったそうだ。
そう言えば先日、御子孫の与謝野馨前特命大臣が他界されたばかりだな。
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洞窟の壁には深部に行くまで色々な解説の掲示物が有るので、是非、ちゃんと読んで欲しい。これを読んで置けば、将来、自分の子供にも、又は皆さんが現在の恋人と別れて新しい彼女と(笑)再訪しても説明して上げれるだろう(;^ω^)。
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ここは昔から、途中で係員から蝋燭(ろうそく)を貰って自分で足元を照らしながら探索する、ちょっとしたイベント的な要素が有ってカップルに大人気だったりするんだな。
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途中、天井部分に透明のビニールシートが貼られている場所が多くあるのだが、これは石清水が多く湧き出していて雨の様に降ってきているから。これが古代の人々や頼朝公には神秘的に感じられた訳だ。
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そして多くの石仏や石の御神像が昔のまま並んでいる。
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場所によっては結構な暗さだったりもする。夏なので今自分は観光客が多く若干渋滞する場所も有るのだが、天井が低い部分も有るので気を付けないと頭をぶつけて文字通り頭が割れて血だらけに成る事に成る(笑)。本当に気を付けないといけない。
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どちらかの和尚様の座像・・・
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そして最深部、この場所が欽明天皇以来の勅願所の始まりと成った場所。
恐らく当時は祠(ほこら)も無かっただろう。祠の下の石の台座の上で神職者が神事を行ったり修験者や真言宗の僧侶が護摩炊きしたりして旱魃(かんばつ)の回避や降雨を祈願したり、稲の豊穣や疫病鎮定の祈願をしたんだろう。
さてそこで、先ほどの与謝野晶子さんの句碑の有った池が大切に成る。
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ここは曲がりなりにも海辺の洞穴である。
しかし洞窟内は雨が降る様に清水が天井や壁面から湧き出し、一年中、例え旱魃の年も枯れる事が無い訳だ。その洞窟の池が本当に海水では無い事の証明が下の写真だ。
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なんと淡水魚の金魚が悠然と泳いでいる訳だが、これだけ豊かな水量を誇る清水が海に突き出した江ノ島でずっと湧き出している事が既に古代人にとって奇跡な訳だ。
西暦900年代の醍醐天皇達から見ても古い神社を記録した一覧の延喜式神名帳に掲載された古社の中には神奈川県内でも有鹿神社、大山阿夫利神社、比々多神社や未掲載だが天皇家の勅願所だった仏教施設になっていた師岡熊野神社等は縄文時代からの遺跡を旧境内地に抱えている、そしてどこも水や酒に関係する神様が祀られている訳だ。これが何を意味するかと言うと、小生のブログの読者様は飽きる程繰り返し読まされているが、古代人は井戸を掘る術も無いし、川の水を直接飲むと病気に成るので湧き水が聖地であり命を繋ぐ飲料水を確保する大切な場所だった訳だ。この習慣は古墳時代や飛鳥時代に成っても続いたので、当然奈良時代にも平安時代にもその文化は形骸化しても残っていた訳だ。
そして戦国時代に江の島険阻な地形を利用して逆臣上杉家と戦った鎌倉公方の足利成氏公は、長期間江ノ島に籠城出来たのも、数千の兵士に行き渡る水源が江ノ島島内に確保出来ていたからだった訳だ。
米の補給は房総半島から船で出来たとしても、水が無ければ忽(たちま)ち兵士は活力を失い士気が下がり降伏せざるをへ無くなるから。
そして、この奇跡の土地の宇迦之御魂神様や弁天様の御利益で、源頼朝公は伊勢平氏の平清盛の軍勢を打ち破り藤原秀衡の子達を屈服させて鎌倉幕府を開き、足利成氏公は逆賊上杉家相手に奇跡の大勝利を収め、戦国時代には北条氏康公が岩本院の前身の岩本坊に宿泊しここで源頼朝公の様に戦勝祈願をして河越夜戦で奇跡の北条家兵8000人で上杉家兵80,000を破る大逆転勝利を収めた訳だ。
つまり戦勝祈願としては古今無双と言って良い御利益が有る訳だな。
そして神道成立以前の古代からの原始宗教~古代の神道の原型~仏教との融合~明治時代の神仏再分離による誤った神様の名前の誤植の歴史の変遷も知る事が出来る場所な訳だ。
現代の女性にとっては縁結びの心強い神様でもあるのが江ノ島の弁才天様なんだな。
・・・でも女性の味方の神様だから、駄目な彼氏と一緒に行ったら縁切りの御利益も有るかもね(笑)。
さて、第1洞穴を出て第2洞穴へ行く途中に下の写真の場所が有る。
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第二洞窟の入口との連絡通路から見える亀に見える石だな。
江ノ島弁才天は、鎌倉時代以前からの社紋は確か亀甲紋だったと思う。現在、表立って使われているのは鎌倉幕府の北条時頼公由来の三鱗紋と波切り紋を合わせた社紋に成っている。
古代に海を収めた息長一族(素戔嗚尊の御神孫)や出雲族達は亀甲紋を社紋にしていたのだが、江ノ島の弁天様は海の神様でもあるので何とも因縁めいた亀の形をした岩の見える風景が有る訳だな。
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その亀の石の見える海の上の岸壁に洞窟がもう一つ口を開いているが、恐らくこれは近代に成って築かれた要塞の跡だろう。形状が完全に人口の洞穴だな。
この相模湾周辺は、米軍の上陸が予想されており七里ヶ浜の稲村ヶ崎や玉縄城址出城の二伝寺に高射砲が設置されたり要塞が築かれていた。つまり昭和の戦争史跡でもある。これは戦争が他国の侵略から国民の生命と財産と自由と信仰を守る意味が有る事や、一歩間違えると侵略側に成ってしまう歴史の両面を教え伝える意味でも本来公開するべきだと個人的には思う。
まぁ、公開すれば左翼が発狂するし、右翼は自己都合の歴史観を現実逃避して主張し混乱するので事なかれ主義の現代の教育委員会は公開しないのだろう。
寧(むし)ろ、左派も右派も中道も保守も改革も、議論するのは悪い事では無いと小生は思うのだが。
左派の中にも中道左派で良い政策を提言する方もいれば、中道保守にも真面目に国防を考え経済振興政策も提言する方も少なくない。
用を成さない連中は自己肯定の為にステレオタイプに他人の主義主張をコピーしてる連中と何でもかんでも相手の批判しかしない民進党と共産党の連中だけだからな。
まぁ、そんな訳で、江ノ島には日本の各時代を網羅した遺跡が在る訳だ。
第2岩屋に入って見よう。
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コチラは要塞化されていた様で、明らかに人工的な部分も多い。
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とは言え、こちらも民話の伝承する場所でもある。
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中に進んでいくと、民話を元に設置された龍の張りぼてがある。
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解説では江ノ島生まれの民話とされるが、その説明は間違いだ。
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旧鎌倉郡全体の民話と捉えた方が良い。
現在の鎌倉市深沢辺りと江ノ島が舞台の民話で、古来より深沢の山中の池に住んでいた暴れん坊の龍が、江ノ島の弁天様がモデルの天女に惚れて、その天女にプロポーズしたところ説教されて改心し尻に敷かれて幸せに成ると言う話だ。
小生は、この民話の龍のモデルも察しがついている。
山崎地区
鎌倉市の山崎地区には鎌倉中央公園が有り、そこには大きな池が有る。
この山崎地区には源頼朝公も崇拝した山崎泉蔵院と言う修験道の大寺院が有ったが、現代の鎌倉市や神奈川県の教育委員会も場所を把握していない。泉蔵院は熊野権現と不動明王を大切にする寺院だったので、湧水地を聖地として寺院や山伏(やまぶし)の修行道場を造営する宗派なのだが、恐らく鎌倉中央公園の場所が泉蔵院の室町時代の横浜市移転前の旧所在地だろう。
そして修験道は日本古来の信仰の聖地を寺院や神社化する宗派なので、この龍の神話の池が鎌倉中央公園の池なのだろうと小生は推測している。
山崎地区の隣接平野部は寺分とされ、古代より後の時代に寺領に成り地名が変わっている事も解るし、山崎は昔は只の“山崎”と言う地形を表す言葉だけで深沢も同様だっただろう。だからこの周辺は一色単に山崎や深沢と言われていたのだと推測出来る。
例えば山崎に在った泉蔵院は水辺で神様を祀る熊野信仰と関係が深いが龍神信仰が有ったかは現代では伝わらない。しかし関東では古代から根強く雨乞いの神様として龍神様が信仰されていて、伊勢原市大山阿夫利神社の二重滝のOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)や大和市の深見神社の御祭神の闇Okami 10.5pt.png神(くらおかみ)は何れも雨乞いの神様で有り龍神様だ。そして多摩地方の雨乞いも龍神信仰だった。
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大山阿夫利神社下社、徒歩10分の場所にOkami 10.5pt.png神の権化とされる二重滝(ふたえのたき)が在る。
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大山に入山する修験者や僧侶や一般参拝者は、昔はここと下の方の良弁の滝で禊(みそぎ)=行水=沐浴(もくよく)をして身を清めてから山頂奥宮の石山権現へ参拝したそうだ。
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大和市の深見神社、闇Okami 10.5pt.png神が御祭神。こちらは神社と地域の名前から推察して境川沿いの深水が龍神信仰の聖地だったと推測出来るが、地域の伝承に古代は付近まで湾が入って来ていたも伝わるので境川沿いに細長い入江が入って来て可能性も有るが龍神信仰は八幡信仰に通じる八大竜王信仰やインドや中国の水生生物の鰐の神格化された神様の影響なので淡水に関する信仰の場合が多い。
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旧武蔵国多摩郡の東京都羽村市にも近代まで龍神信仰が残っていて、羽村市内を流れる多摩川上流の深い淵が龍神信仰の聖地だった。そして日野市の高尾山、この高尾山(たかおさん)の高尾(タカオ)は大山阿夫利神社と同じOkami 10.5pt.png神のOkami 10.5pt.png(タカオ)が転訛した当て字だろう。その証拠に大山も高尾山も天狗伝説の土地だ。天狗はウィグル族やインド系の西方の人で、龍神信仰は彼らが日本に帰化して広まったのかも知れない。飛鳥時代の大和朝廷にはウィグル人の官僚がいた事が知られている。
大山も高尾山も大和市深見の何れの龍神信仰も、八幡信仰や弁天信仰の仏教成立後の中国伝来の信仰よりも古いのは間違い無い。
つまり、この江ノ島と深沢の民話は、古来の龍神信仰していた豪族が中央大和政権の影響で弁天様へ信仰対象を宗旨替えした事の比喩だと小生は推測している。
そして、その弁天信仰の極め付けの火付け役と成ったのが鎌倉幕府を成立させた源頼朝公と北条政子様ご夫妻だった訳だ。
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上は横浜市南区の瑞応山蓮華院弘明寺が所有する北条政子様の彫像。
弘明寺は古くは善無畏三蔵法師がインドから渡来し聖地を開き、弘法大師空海様が民百姓の為に災難除けの仏事を行い、平安時代末期に源頼朝公から崇敬を集めた御寺なので厄除け大師として有名だが、源頼朝公が信仰した弁天様を祀る御寺としても有名だ。
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弘明寺には今も立派な八臂弁財天様が祀られている。
まぁ、江ノ島と鎌倉市深沢周辺の龍神と天女の伝承の様に、歴史や民話は解らない部分が有るから謎解きが面白い。
しかし職業歴史学者は小生と違って、こういう自由な推測を文字に起こすとバッシングされる可能性が有るので書けないが、小生は歴史好事家(オタク)の一個人(笑)なので昔の人の気持ちに成って書いても誰からも何も言われない(笑)。仮に親切な学者さんに間違いを指摘され正しい知識を教えて頂けるなら、それこそ学ぶ機会と小生は狂喜する訳だ。
まぁ、立身出世が目的でなく宗教的な意味も大切にするので毎回、行く先々で御会いする色んな神社の宮司様や御寺の和尚様から宗派を超えて民話伝承を御教示頂けたり非公開の文書や保有する遺物を見せて頂いたり、宗教的な側から歴史を学ぶ機会が増えて嬉しかったりする訳だな。
社会人に成ったら色んな事は自分で学ばなきゃいけない。人は教えてくれないし、教えてるフリしてる客先や上司は自己利益を追及する為にマウントポジション取る為に意見してるだけの場合が多い訳だ。
社会人に成っても文化と人々の精神的な支柱である宮司様や和尚様達に師事出来るのは本当に幸せな事だ。色々有ったが、これは本当に小生の人生が他の人と違って幸せだと言い切れる部分だ。
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岩屋を出て稚児ヵ淵を通り江ノ島から江ノ電の駅を目指す。
・・・フジツボと亀の手、気持ち悪っ(笑)!でも蟹の仲間で食べると美味しいんだよね。
戻る途中、撮影し忘れた句碑を改めて訪れた。
・・・福島漁村の句碑。
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江ノ島奥津宮と聖地の岩屋の別当の岩本院を治めたのが間宮。この福島漁村さんの兄弟子に当たる人物である間宮霞軒さんは、岩本院の間宮家出身だそうだ・・・
日本俳画会を起こした人物で更に江の島の初代郵便局長、中津宮の境内に在る句碑は昭和33年81歳の時、親交の有った文化人の飯田九一サンや有志等が建てたそうだ。
・・・そして福島漁村。昭和31年1868年~1956年を生きた人物で辺津宮の近くに有った旅館の江の島館の主、地方自治に活動した政治活動家でもあったそうだ。この福島姓は間宮家の戦国時代の上司、玉縄城主北条綱成公の生家の姓だ。
主従の義理と交友関係は近世に入り近代に至っても地縁と人の縁で繋がっているのを知る学者は少ない。何故なら悪の権化、堀内一族のせいだ。堀内一族は玉縄北条家の有力武将だった。戦国時代を通じて家老は間宮家だったのだが、堀内は近世に殿様の実弟の北条繁広公を殺害し保科家から北条家の名跡を繋げる為に殿様の養子を迎えて事実上、玉縄北条家を乗っ取った。結果的に福島家に関する古文書はありとあやゆる所から確認出来なく成った。完全に堀内一族の粉飾による歴史改竄と抹消だ。
この堀内一族は現代でもとんでもないデマを流布していて、徳川家康公の軍師に成り鉱山経営で活躍し真田丸や大坂城総掘り埋め立てを進言したのが間宮家の手柄で有る事が兵庫県や間宮関連の寺院でも有名な事実なのに堀内家の古文書は偽書が多く現在も間宮家の手柄や福島家の手柄を自分の家の手柄と喧伝している。とんでもない一族だが、実際に風土記でも関連の神社仏閣でも朝来市教育委員会でも実物の古文書や資料が編纂されていてそこに大坂城関連の事に堀内は一言も出て来ないので情報共有し易い現代では堀内のデマだと赤っ恥を晒している。
そもそも玉縄北条家を私物化して乗っ取っていたが、たかが小藩の家老の堀内家が、徳川家康公の外戚で鉱山奉行や地方代官を務めた間宮家の様に直接徳川家康公に謁見出来る訳が無い(笑)。
そんな事も辿れたりするんだな。
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残念ながら福島家が辺津宮近く、丁度小生が"その②"で紹介した海花亭の横の江ノ島大師、最福寺別院が建てられている場所に存在した福島家の江の島館は、昭和三十一年(1956年)に火災で焼失し営業終了してしまったそうだ。
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間宮一族岩本家の岩本楼の成立の例を考えると、この江の島館の福島家も中津宮や辺津宮の別当だった上ノ坊や下ノ坊の何れかの寺院が前身だったのかも知れない。江ノ島大師様にも聞いてみたのだが、やはり江ノ島館の福島家は前進が寺院だったと言う事は解っているが、現在の江ノ島大師様とは直接繋がりは無く、江ノ島館の寺院時代の事も伝わっていないそうだ。
これは風土記を読めば上ノ院に関する事は掲載されていると思うので、今後調べてみたいと思う。

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サムエルコッキング園まで戻って来て、タコ煎餅作ってる所を見学。CIMG4416
う~ん、どっかの工場にしか見えない(笑)。

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中津宮の参道を降りる時の風景が綺麗だった。
登って来る時は気が付かなかったが小動~腰越の辺りが良く見渡せて美しい。
江ノ島を後にして、江ノ電江の島駅へ向かう途中、江の島大橋でけたたましい騒音を故意に鳴らす迷惑なバイクを見かけた。
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日本の恥部。見てイラっとしたが、そう言えば行きに気に成っていた甘い物の店を思い出し直ぐに嫌な事を忘れ、その店に向かった。
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玉屋のようかん。
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ここでは江戸時代以来の名物、海苔羊羹を始め様々な伝統的な羊羹が製造販売されている。CIMG4424
店構えも立派で、もし電車で江の島に行く機会が有る人には是非御薦めしたい昔ながらの江の島土産の店だな。
小生は自分でも何故だか知らないが羊羹を買わずに、ここでキャラメルを買った(笑)。
ここから江ノ島駅は直ぐ近く・・・
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暫く待つと直ぐに電車が来た。

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今回はここまで!
続きは江ノ電観光と鎌倉市内の史跡辺となる“その③”で紹介します!
では又!続きでお会いしましょう~!

前回の辛垣城址編↓これの続き…

辛垣(からかい)城址の頂上で海禅寺の御住職に「10時位の到着に成ります」と連絡をして、城山を降りて御寺に向かった。
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海禅寺は現代では参道がJR青梅線に分断されている。
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こう言った事は良く有る事で、鎌倉でも臨済宗鎌倉五山第二位の格式を持つ円覚寺や、坂東平氏の祖先を祀る御霊神社の総本社である鎌倉坂の下の御霊神社も同じ様に江ノ電が参道を横断している。
まぁ御寺や神社の境内地は昔は広大だったので、明治~昭和初期にかけて鉄道開発をする際に線路を敷設しやすかったので政府に土地を接収されてしまう事が多かった様だ。
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だから昔の山門は場所を移して、現在は中央線の踏切に成ってしまった参道の左手に移設して現存している。
「不許葷酒入山門(酒を帯びて境内に入っちゃダメ)」
ふむ、禅宗寺院の昔の厳格さを忍ばせる石碑だ。
まぁ、今は禅宗寺院でも御酒を飲む和尚さんばっかだけどね。
小生は現代人の庶民だが「(酒を)飲む」「(博打を)打つ」「(女を)買う」を一切しないので、ある意味では仏様に好かれるのかも知れない。神様にもいつも礼拝しているし、神様にも好かれると思う。
じゃないと小生の様に仕事徹夜空けで遠征ドライブし山登りまくって、性格も喧嘩っ早いのに無事でいられたり過去8回ひき逃げや交通事故に遭って掠り傷だけで済んだりしないだろう。
でも幼少期にハチャメチャ過ぎて手を2回骨折してるし、医療技術の発達してなかった時代なら障害者に成ってたね。
まぁ~神様や仏様や尊敬する偉人と、幼少期に可愛がってくださった恩人や御先祖、友人達と御医者様に感謝しないといけない。
そもそも、今生きているのも北条綱成公の御蔭だし。
そんな訳で北条綱成公の顕彰活動を始め、家老の間宮家の顕彰活動も始め、その間宮家と関係が深い海禅寺サンに横浜から御参り&御住職様に取材に来た訳だ。
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海禅寺は三田氏の菩提寺とだけ伝わるが、それは曹洞宗の寺院として再興されて以降の歴史しか現代に伝わっていないからだろう。曹洞宗は荒廃したり戦火で消えた御寺を北条家の支援で多く曹洞宗寺院として復興(再開基)しているのだが、何せ一度消えた御寺を復興してる場所だらけで、それ以前の歴史が伝わらない場所は多い。
海禅寺も実際は天正三年(1575年)に天皇家の勅願所に定められている格式の“状況”から言って、昔、荒廃してしまった格式の高い前身寺院が必ず存在していたはずだ。
実はこのヒントが神奈川県横浜市と新編武蔵風土記稿に残されていて、その話も御住職に確認したかった。
例えば、この謎を解く例を挙げると…
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上の写真は神奈川県藤沢市大庭に存在する曹洞宗の宗賢院。
この御寺は詳しい歴史は戦国時代の復興以後の事しか解らない。しかしながら源頼朝公の御父君、源義朝(よしとも)公の重臣だった大庭景義公と弟の大庭景親公の居城だった大庭城址に近在し、更には大庭景親公が陣中で使用していた釜が寺宝として現存する。つまり平安時代末期には前身寺院が存在していたはずだ。
加えて延喜式内社の神社である大庭神社舊(きゅう=旧)跡の熊野神社が近くに存在する事から鎌倉時代は大庭神社別当寺(べっとうじ=神社を守る為の御寺)だった可能性が非常に高い。
この熊野神社が大庭神社の旧址だと言う事は江戸時代の人々にも認識されており、それは相模国五之宮であり古代の一之宮だった有鹿神社と、今の一之宮の寒川神社に証拠が残っている。
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江戸時代の相模国延喜式内社を網羅した掛軸、これは寒川神社の当時の宮司が書いた物だが大庭社熊埜天神と書かれている。熊野神社に成っているのは大庭神社旧跡、菅原道真公を江戸時代に習合しているのが現在の大庭神社本宮、つまり両方の名を合わせた大庭社熊埜天神と記載されている訳だ。
格の高い神社の傍には別当寺が必ず存在しているものなのだが、熊野社に成っている大庭神社旧跡の別当は室町以後~現代でこそ本宮の方と同じ別当寺だが位置的に不自然きわまりない。昔は宗賢院の前身寺院が旧跡の別当だったはずだ。
極め付きは宗賢院の寺紋(じもん=御寺の家紋みたいな物)が太田桔梗、そして山号が蟠龍山である事だ。
昭和初期までの神奈川県民と県役人達の認識でも、伝承や状況証拠でも大庭城は室町時代のある時代、永享の乱の頃まで扇谷上杉家の本拠地だった様だ。
戦国時代の扇谷上杉家は武蔵国に勢力を誇ったが、元々は武蔵国南部は宅間上杉家の支配地だった。
そして扇谷上杉家の家老だったのが太田家だ。
太田家の一番有名な太田道灌公の菩提寺は神奈川県伊勢原市の“蟠龍山”洞昌院公所寺なのだが、山号が同じで、やはり太田家から使用を許された太田家の家紋の太田桔梗を寺紋にしている。
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だから公所寺の本堂にも宗賢院と同じ太田桔梗紋が彫刻されている。
これ等の事は宗賢院が大庭城主扇谷上杉家の家宰(かさい=社長代理みたいなもの)だった太田家と関わりが深かった事を知る十分な状況証拠に成っている。
そもそも曹洞宗が明治政府の神仏分離令まで日本神話や聖地を大切にしていた歴史その物がある訳で宗賢院も曹洞宗な訳だから大庭神社の事も関係が有って当たり前なのだが、残念ながら昔は和尚様達は世襲制では無く宗派の有力寺院から派遣されて来ていたので歴史が全て正確に伝わる訳も無いし、そもそも曹洞宗が復興した場所は全部廃寺に成っていた場所ばかり。
だから以前の事は解らず、曹洞宗に成ってからの記録しか御寺自体には伝わっていない事が多い。
そして海禅寺も開基されて100年足らずで唐突に❝天皇家の勅願寺❞や❝10万石の格式❞に成れる訳が無いので必ず格式高い全身寺院か神道や修験道の聖地が有った筈(はず)なのだ。
まぁ、そんな訳で「グチャグチャ文献だけ読んでても良く解んねぇ~し仕方ねぇ~な(笑)」と言うのが小生のスタンスなので、自分で実際に毎回取材に行く訳だ。
すると神社も御寺も歴史史跡も、文献には載っていない事が多く口伝や証拠が伝わっていたりするんだなコレが。

話を海禅寺に戻す。
海禅寺はそもそも福禅寺と言う名前だった。
江戸幕府の役人がド阿呆で、幕府の寺に対する領地保証書を発行する際に❝海禅寺❞と書き間違えてしまったので、土地の権利を守る為に仕方なく当時の御住職は海禅寺の名に寺名を改めるしか無かった。
役人が別寺院宛ての文書を誤って発給したか、教養が無くて寺名を書いた資料の草書体を読めず間違えて福を海にしたかは今では良く解らない。
実は幕府を開いた直後に三河、遠州から来た徳川家官僚には、この手のミスが多い。
…と言うか、恐らくいつの時代も官僚の中に適当な奴がいる。小生の様に趣味でやってるブログでは無くて仕事なのに校閲もせず適当に仕事をして、色んな文書の元号や武将の名前や法名を書き間違えている事が多い。
しかし被害者が幕府に抗議すれば、それがたちどころに官僚は己のミスを隠して被害者側を❝謀反人❞扱いして武士なら所領、寺なら寺領、神社なら社領を没収されてしまう訳だ。
海禅寺と関わり深かった横浜の間宮家の間宮康俊公も恐らく幕府によって戒名を誤って認識されて、間宮家側が❝忖度(そんたく)❞して家系図を補修しなくてはいけなくなっていたりする。
まぁ、しかし海禅寺自体は格式高いだけでなく、昔から風流な寺として有名だったようだ。
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室町時代から花の寺として有名だった海禅寺、新編武蔵風土記稿の多摩郡三田領二股尾村に掲載されているが、風土記は「歴史の目次」みたいな物なので詳しくは掲載されていない。
こう言った郷土史調査は「他都市からの移住者で“横浜=近代”の先入観しか無い精神的カッぺが職員ばかりの横浜市教育委員会と横浜市歴代市長の中で左派思想の人物は文化財保護法の設置を最後まで拒んでいた建設利権に癒着した無文化で使えない連中」なのだが、他の自治体は郷土の人が職員に成るので青梅市の様に盛んに調査、保護が行われている。
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訪問時は4月下旬で既に桜は散っていたが、辛垣山城址登山前に踏切で小学生の交通整理をしてらっしゃった駐在所の御巡りさんと雑談した所、境内は桜が多く現代でも「花の寺」として有名だそうだ。
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山門も素晴らしい。もしかしたら構造的に仁王門にする心算だったのか?
本当に立派な楼門だ。
丁度、幼稚園の先生と園児達が鬼ごっこをしていて遊んでいた。
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可愛らしい光景に思わず顔がデレてしまった(笑)。
こんな良い環境で育った子供達は、きっと素直で優しい大人に成るんだろうなぁ~。
間違っても小生の様に「史跡不保護無文化市長」とか「無能な横浜市教育委員会」とか事実とは言え悪態を吐く自分の価値を貶める心の狭い発言をする人間には育たないだろう(笑)。
皆すくすく、優しい子に育ってねぇ~♪
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山門の脇には鐘楼が有った。こちらも立派だった。
屋根の構造を見るに昔は茅葺屋根だったんだろうと思う。
茅葺屋根は高級で保持には費用が嵩(かさ)むので、現代では御覧の様に銅葺きや瓦葺きに吹き替えている場所も多い。
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この説明文では三田家の中興と有るが、この規模の寺院は必ず元々は主家であった扇谷上杉家の支援の下で三田家が復興を果たしているはずだ。
そして戦国時代には北条家が必ず復興している筈だ。元:三田家臣何某だけで再興できる規模でも無ければ格の高い住職を招ける訳も無い。
歴史の解説の前に施設の紹介を進めよう。
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境内からの景色は良い。楼門と花々越しに青梅の山脈(やまなみ)が見えた。
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本堂も大きい。
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玉縄北条家の菩提寺龍寶寺や初期の北条家において神奈川領をまとめた間宮家の菩提寺の寶泉寺や宗三寺と同規模を誇っている。
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つまり軍団長レベルの部将でないと建てれない規模の御堂だ。
この規模の堂宇を一、三田家臣が復興出来る訳が無い。絶対に北条家の支援が入っている。
そして、先述の通り、戦国時代に天皇家の勅願所に成る時点で前身寺院が途轍もなく格式が高かった筈だ。これは後で前身寺院の推測を紹介する。
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境内には凄く立派な枝垂れ桜も有った。きっと桜の季節には見事な景色に成るだろう。
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境内の谷戸そこかしこ、本当に花が多かった。
素敵な御寺だ。

御住職に面会すると本堂に通され、色々と御寺の歴史にういて御教授頂いたり小生の推論を述べたり、地図を見て周辺を歩き、御近所の旧家についてや地形的な事等々、気に成った事を質問させて頂いたりした。
その御住職様とのやりとりを踏まえて小生の推論と合せて三田家と海禅寺の歴史を紹介しようと思う。

海禅寺はそもそも「福禅寺」と言う名前の寺院だった。
まぁ…既に御寺の旧名自体が前フリでネタバレなんだが。
それは後に説明するとして、御寺の主な檀家は三田家だった。
三田家の治める当時の青梅を含めた多摩地方は扇谷上杉家の与力衆の武将達の土地だった。
しかし天文十五年(1546年)の河越夜戦で三田家の旧主の扇谷上杉家が北条家によって滅亡させられると、その後は暫く八王子の高月城主大石家同様に北条家に臣従していた。
永禄四年(1561年)に杉謙信(当時の名は長尾景虎)の連合軍勢10万が北条攻めを敢行した際に、元々扇谷上杉家臣でもあった事も有り北条家を離脱して上杉謙信に寝返った様だ。なので上杉家与力衆の名を記した“関東幕注文”にも記載されている。
そして上杉謙信が小田原攻めに失敗して北条家の逆襲が始まる。
多くの多摩地方の武将は善政を布(し)く北条家に臣従していたし、一度、上杉謙信の大軍に恐れを成して北条家を裏切った成田家や千葉家の武将達も再び北条家に与力していた。
しかし、三田家の当時の当主の三田綱秀公は義理堅い人物だった様で、一度自分で謙信に付いてからはずっと謙信の援軍到来を信じて北条勢に頑強に抵抗した。
永禄六年(1563年)、とうとう北条家当主の北条氏康公の子で滝山城主の北条氏照公の軍勢が北条家から見て裏切り者の三田綱秀公の居城、勝沼城を攻めた。
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※写真は勝沼城址から見た青梅市の風景。2016年撮影。
すると勝沼城は小規模で鉄砲攻撃を受けた際の防衛にも耐えれないと判断し、辛垣山城へ兵を引いて籠城したそうだ。
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辛垣城は中世的な山城に北条家の築城術が加わっているので、三田家北条家臣時代に北条家による改修が入っていると考えられる。
後で和尚様に小生の推論を述べた時に「その通り」と太鼓判を頂いたのだが、今の登山道の入口辺りで激戦が展開されたそうだ。
しかし敗戦を悟ったのか三田綱秀公は子供の事を家臣団に託して、青梅の伝承では「北条家と一戦する為に埼玉県の岩槻城の太田家を頼って落ち延びて、そこで切腹した」そうだ。
だが、この話は少しおかしい。
1563年当時、太田家は上杉派の太田資正(すけまさ)公は北条派の嫡男の太田氏資公が対立しており頼れる状況ではない。
三田綱秀公は1563年に岩槻城で切腹したとされている。つまり、方針も決まっていない太田家が切腹させた事に成ってしまう。ましてや綱秀公が太田家を頼る筈が無い訳だ。仮に頼ったとしたら死亡年は実際は1564年だった筈だ。そして、家臣団と三田綱秀公の御子息達は開城後も全員生きている。
状況を整理する。
三田綱秀公は上杉謙信の大軍を見て上杉に付いた。しかし上杉謙信は小田原に攻め上がるまで多摩地方を含め東京や神奈川で略奪放火を行い多くの神社仏閣を焼き払い、婦女子を捕まえては上杉の軍兵が犯しまわり奴隷として売買した。常陸国の小田城下で上杉謙信は奴隷公設市場を開いたりしている鬼畜、不義の人だ。北条家でこういった事は無い。
北条家の統治と比べ、そんな上杉軍の無軌道な状況を快(こころよ)く思わない三田家臣団も多かっただろう。
そして己の判断ミスで三田家家臣団や農民達が今度は北条家から逆襲される羽目に遭った。
三田綱秀公は誠実な人柄だった様なので、旧主扇谷上杉の更に主家の上杉家を継いだ上杉謙信に味方した後はずっと上杉家に付いていた。しかし統治能力も無く関東で乱暴狼藉を繰り返した上杉勢にも疑問も感じただろう。結果的に上杉家は関東を支配する事に完全に失敗し瞬く間に北条家の逆襲が始まった訳だ。
三田綱秀公は家臣や兵士として徴用した農民が北条家から殲滅される事を回避しようとしたのだろう。
だから家臣に子を預け、北条家と交渉し、家臣団と兵として徴用した農民達の生命の安全保証の条件として“引き換えに自らの城の退去そして切腹”が北条家と確約されたのではないだろうか。
そして太田家を頼ったのではなく、1563年当時は北条家にも上杉家にも両属していた中途半端な太田家預かりと成り、1564年に第二次国府台合戦で再び太田資正公が北条家に背いて結果的に御子息で親北条派の太田氏資公に追放された時点で正式に切腹をしたのではないだろうかと思う。
同年、三田綱秀公の御子息も全員亡くなっている。恐らく、三田家旧臣領民の生命安堵の条件だった北条家と不戦の約定を太田資正公が破って国府台合戦に参戦したからだろう。
でなければ三田家臣団が悉(ことごと)く生き残り、更には徳川幕府にも仕えた状況は成立しない。
辛垣城開城後、三田家臣団は三田綱秀公の誠実な領主としての対応と引き換えに北条家に属していた筈だ。
そして、御巡りさんや御住職に聞いて回った所、やはり北条家に三田領が属した名残を二俣尾で発見した。
二俣尾には「福島家住宅」と言う江戸時代を通じて名主を務めた家がある。
東京都の有形文化財指定を受けている住宅だ。
福島家住宅 公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式ホームページより拝借。
この福島と言うのは、武蔵国出身で黄備え隊玉縄衆の軍団長を務めた北条綱成公の旧姓だ。
北条綱成公の弟君は福島弁千代として有名な後の北条綱房公だ。
この北条綱房公の足跡が1549年以後確認できる資料が無いそうだが、北条家では統治が行き届き戦火に巻き込まれなくなった地方の事が文献に登場しない事は良く有る。
例えば神奈川県の伊勢原市周辺もそうで岡崎城や北条一族の神保輝廣公の事、藤沢市の大庭城の事も良く判らなくなる。登場しないだけで、無かった訳では無いのだが学者は記録に残らない事を事実としても書けないので推論も書かない。しかし小生は学者で無くて、たまに学者に論戦で勝つ事も有る只の歴史マニアなので自由に書かせてもらえる。飯のタネじゃないからね、逆に学者さんが言いたくても言えない事も言っちゃう訳だ。
恐らく、北条綱房公は三田領の二俣尾、辛垣城周辺の統治に入っている。
そして北条家滅亡後は福島姓に復帰している。
玉縄北条家は奸臣堀内家により事実上の権力乗っ取りが行われ、江戸い時代には保科家から養子が入り北条綱成公の親族は駆逐されている。その際に福島家は奸臣堀内家の陰謀を逃れて旧知の人の多い二俣尾に逃れて来たのではないだろうか。
実は立川市柴崎町周辺は元々は福島と言う地名だった。つまり、福島姓のルーツのはずだ。
そして福島家は遠州堀内今川家の家来で後に扇谷上杉家を頼っていた一族のはずだ。
実は、那古野城、今の名古屋城は織田家以前は遠州今川家の城だった。織田に城を盗られて今川領に逃げて行ったのだが、その時に福島家も逃げたのだろう。更に堀内今川家は本家の今川義元と対立する。
その際に負けるのだが、福島家は恐らく旧主“遠州”堀内今川家と関係の有る扇谷上杉や北条を頼ったはずだ。だから、今も扇谷上杉家の最後の居城だった川越市には今も福島姓が多い。
実は戦国時代の覇者と成った豊臣秀吉の甥の福島正則公は青年期まで駿河や伊豆の国境の深沢城の城代を務め伊豆と駿河東部の守備を担っていた北条(福島)綱成公を頼って一時的に駿河国に行っていた事が菩提寺の愛知県の菊泉院に伝わっている。
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これも菊泉院の御住職様を訪問し、直接御教授頂いた歴史秘話だ。
秀吉は織田信長公に軍団長に抜擢され信長公の子を養子にとる「家格」が有ったはずだ。
そのヒントが福島正則公の話だろう。
恐らく、木下秀吉の実父は尾張国愛知郡中村の名主と伝わるが旧那古野城主の堀内今川家の旧臣だったんじゃないだろうか。そして福島正則公も。そして北条綱成公の実家の福島家も。
福島を櫛間と書くとか一部の学者は当字の表記に拘るが、実際、武将の名前も音だけ同じで違う文字を当てる事は文書中に良く有るので、そこは幅を持たせておけばいい。
とにかく、秀吉が織田家に仕える以前に今川家重臣松下家に仕える事が出来たり、後に信長公の実子を養子に迎える事が出来たり軍団長に成れるのは実力が有っても絶対に家格がそれなりに無ければ無理。
状況を見れば那古野城主今川家の旧臣、那古野の今川家の没落後に秀吉の実家は帰農、そして秀吉本人は今川家のつてを頼って松下家に仕え、福島正則公は同族で駿河東部の経略を担当していた北条綱成公を頼って駿河に赴き、❝福島伊豆守❞に保護されていた歴史等すべての話は小生の推測通りなら自然に繋がる。
因みに、福島伊豆守は恐らく「伊豆方面に居た北条綱成公の実弟、福島伊賀守勝広」こと北条綱房公の事だろう。

もっとも…この青梅市の福島家の家系図では祖先は鎌倉時代まで遡(さかのぼ)れる生粋の武士で家系は源氏系に成っている。
しかし一般的に学者達の間では三田家と同じ坂東平氏の子孫、若しくは古代に神奈川県中央北部~北東部~東京都多摩地方に戦力を持っていた小野家(小野妹子の子孫)である武蔵七党じゃないかとする説が一般的だ。
青梅市教育委員会様の郷土博物館様にも御教授頂いたのだが、正直、江戸幕府に成ってからも家名を残した三田家ですら祖先の事は時代時代で色々と説が有るし、家紋も時代ごとに使い分けているので良く解らないそうだ。
まぁ、ここら辺りは小生の様な考え方も有るんじゃない?と言う可能性を残す事しか出来ないし学者さんも同じレベルで話してる程度の人が多い。
黒田基樹先生なんかは色々と資料を探し漁っている様だが、やはり完全な証拠は残ってないようだ。

歴史は紙で残っている事だけが全てではない。しかし、学者は仕事なのでそうも行かない。出典を明記しないと他の学者から❝イジメ❞に遭うからだ。
小生はガクシャセンセイでは無いので学者の利権を犯す立場にない。
だから自由に発言を出来るし、本当は学者さんが心の中で思ってる事を聞き出して代わりに言ってあげる事も出来るし、自分で文書に残らない各地の伝承を見たり教えてもらって廻りパズルの様に繋げ合わせて一つにして状況証拠で、こうやってブログに書く事も自由に出来る。
だからこそ利権と関係の無い小生は、金銭と関係なく思いだけで行動しているので色々な御住職様や宮司様達に気に入って頂けて学者も見た事ない文献や宝物を見せて頂いたり話を教えて頂いたける。
これはありがたい事だ。
さて、そんな訳で、恐らく尾張の福島はも北条綱成公の御一族と無関係では無いと思うのだが…
何でこの話をしたかと言えば、武将の話の様に御寺にも他の御寺や神社との❝血縁❞みたいな物が有って、それは必ずしも文章に残っているものだけでなく伝承も拾わないといけないと言う実例を挙げる為だ。
海禅寺は昔は福禅寺と言う名だったが…
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恐らく前身寺院が横浜市森浅間神社と同じだ。
森浅間神社の前身は鎌倉の扇谷に在った修験道の大道場だった❝福禅寺❞権現堂だ。
そして鎌倉時代の歴代の住職は歴代天皇の皇子つまり❝親王殿下❞が務めた訳だ。
恐らく、鎌倉で新田義貞の乱暴狼藉が有って福禅寺が焼けた際に寺の機能は青梅市に移転したのだろう。そして聖地道場としての機能は福禅寺の飛び地境内として存在した権現堂家の管理する浅間権現や天照大神宮で存続した。久良岐郡つまり今の横浜の磯子区森浅間神社や港南区港南に在る天照大神宮の遷座前の場所だ。これらを管理する権現堂松本家は間宮家から下賜された家紋を現在も使用している。
一方、恐らく青梅の福禅寺も前身は修験道福禅寺で永享の乱の頃に廃寺状態に成り後に三田家によって曹洞宗寺院として再興されたはずだ。
そして横浜の間宮家菩提寺と成った鶴見区下末吉の寶泉寺を開く際に、間宮家によって青梅の福禅寺の住職が招かれた記録が残る。だから遠く離れた横浜市の寶泉寺は青梅市の海禅寺の末寺だったりする。
戦国時代、再び三田家と北条家の合戦で再び燃え落ち、恐らく北条家の発願と支援を受けた旧三田家臣団により境内に立派な伽藍堂宇が復興され1575年には天皇勅願所に成る程に勢いを取り戻した。
しかし北条家が豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡すると、徳川家のアホ役人が寺の領地の保証書の名前を書き間違えたせいで現在の寺名を使わなければいけなくなってしまったが、10万石格の格式だけは受け継がれた。
森浅間神社地形
この様に状況を纏めると前身寺院は推測だが格式から言って鎌倉の源頼朝公が開いた、その名も「福禅寺」と言う歴代住職を天皇の皇子である親王が勤めた関東の修験道の大本山とも言うべき大道場だ。
しかし、新田義貞の兵火に遭い鎌倉福禅寺は消滅している。
更に室町時代には完全に森浅間神社に機能移転して管理する権現堂松本家だけが横浜市に残った。
恐らく、福禅寺は焼けた際に兵火を逃れて青梅市で扇谷上杉家によって永享の乱以後に復興されたのかもしれない。
そして青梅の海禅寺の隣には…
同じく鎌倉の修験道の大本山だった山崎泉蔵院と同じ寺名の現在は真言宗の泉蔵院も在る。
…この 両方の寺は格の高さに反比例して中興開基より昔の事が戦火と火災や諸般の事情で伝わっていない。
山崎地区
…その鎌倉時代には鎌倉市山崎に有った泉蔵院も、室町時代には久良岐郡森村、今の横浜市磯子区中原に保有していた熊野社の道場に機能移転した。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
そして大霊山泉蔵院桐谷寺と名を一部改めたが、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の仏教弾圧で修験道の大道場だったのを寺院機能を廃止して泉蔵院の名を捨てさせられ、ただの熊野神社に成ってしまった。
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しかし当時の宮司の気転で、神殿の一つとして❝泉蔵社❞として残され、源頼朝公に繋がる歴史が残された。
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まぁ、そんなこんなで青梅の海禅寺や泉蔵院は由緒有る御寺のはずだが、格が高い事は江戸時代の記録でも間違いない。
ただ、その格の高さは小生の説を用いないと説明が出来ない。
参考までに以前、森浅間神社と泉蔵院の解説をした記事リンクを貼っておく。

 また、何か解れば追加報告を書きたい。

取り合えず、御住職と面会を果たし色々話を聞けて御礼を申し上げて海禅寺を後にし、次の目的地の阿蘇神社を目指す今年した。

では、次回はこの休日雑記の続きを書きます~! 

小田原北条五代祭り 公式様より拝借 久良岐のよし

神奈川県で日本最大級の武者行列の御祭が毎年行われているのを御存知でしょうか?
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戦国時代の関東の覇者、小田原城主北条家を顕彰する御祭りが毎年05月03日に開催されています。
この御祭の凄い所は、武者行列の数がとにかく多い事、そして実際の城跡で行われる事、極めつけは戦国時代当時の軍団編成と同じく各地方から各軍団の顕彰会が文字通り“手勢” を率いて行われる所だんです。
つまり小田原市単独では無く、鉢形衆、八王子衆、玉縄衆、津久井衆等の北条家の主戦力部隊が勢ぞろいする御祭りなんです。
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良く判らん普通のオッサンも歩いていたりします(笑)。

昨年までは席が無かったのですが、今年からは当日席のみで500円で大迫力の武者隊の出陣式を見学する為に観覧席が設けられているそうです!
ですから、今回掲載している小生の写真よりも、更に北条家の大軍勢をいっぺんに見渡せるそうです。

この小田原城址は明治期に徹底的に破壊され、昭和にも歴史知識の無かった政治家主導の観光用のハチャメチャな公園化が行われましたが、平成になり立派な城が復興されています。
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 写真の様に平成に入ってから発掘調査に基づいた江戸時代の建築復興が現在進行形で行われています。
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天守閣は鉄筋コンクリートですが、その背後の山には戦国時代の本丸や八幡曲輪の遺跡も発掘展示されていたりします。
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その辺りは以前書いた小田原城址の解説記事を御覧下さい。 
 2年前の記事→
ゴールデンウィーク、せっかくなので小田原に城に行ってみては如何でしょうか?
それともう一つ!
外郎(ういろう)は名古屋の名物と思っている人、多くないですか?
違います!
京都発祥、そして小田原の外郎(ういろう)家が本家で、元々天皇や朝廷貴族と室町幕府三代将軍足利義満公に薬師として仕えた外郎サンが、殿様達を接待する際に提供した御菓子が外郎なんですよ!
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ですから、本家本元の小田原の外郎サンは、北条早雲公に招聘されて戦国時代に京都から小田原に移住して以来ずっと今でも薬と御菓子の外郎を製造販売しています。
そして写真の建物は安土桃山時代に士分を捨てて薬一本を家業にした際に、天皇家から餞別として普通では庶民が許されない格の高い家柄しか作れない唐破風を多用した建築許可を頂いて以来、今でも伝統として天皇家の御好意を受け継いで唐破風を多用した建物を再建し続け店舗にしています。
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 包装用紙の五七桐紋も天皇家から下賜された物です。
解説記事→
あと、名物の曽我梅干しと蒲鉾、曽我梅林の梅酒も御勧めです!
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そして梅の季節には曽我梅林の梅が大変綺麗な街でもあります。
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皆さん、小田原は戦国武将の史跡と美味しい和菓子と魚と梅の有る素敵な街です。
箱根温泉も直ぐ近く!
5月3日、小田原北条五代祭り、是非!見学されては如何でしょうか?

【北条五代祭り】
開催地:小田原城とその周辺の城下町を武者行列パレード
日時 :2017年05月03日12:30~
住所 :〒250-0014 神奈川県小田原市城内地内城内5−3−22 
アクセス
小田原駅から徒歩10分
周辺に臨時駐車場多数。一般の有料駐車場の方が比較的空いていますのでナビを活用してみて下さい。
ホームページ
http://www.odawara-kankou.com/houjyou/ 

神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
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・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
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昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
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玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
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黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
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今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
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この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
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ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
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そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
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小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
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多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
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このエリアにも玉縄桜が有ります。
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綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
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台湾原産の紅葉ばふう。
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そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
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熱帯植物の温室です。
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いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
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完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
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可愛らしい花も有れば・・・
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毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
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蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
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わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
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小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
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あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
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小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
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盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
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小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
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こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


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