歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:北条綱成

戦国時代の北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
横浜と隣の鎌倉には、その内の3人の殿様と1人の名副将がいました。             



シリーズ化し個別に記事にします。 


関東最強武将だった1人を紹介します…
北条五色備えの“黄備え”!
 

※KOEIさんのゲーム画像拝借


玉縄城主:北条綱成(つなしげ)公
北条五色備(ごしきそな)えの"黄備え"を務めた。
渾名(あだな)は「地黄八幡(じきはちまん)」。

丸に三ツ鱗紋家紋は丸に三鱗紋。

北条"地黄八幡"綱成公が城主を務めた玉縄城は、今のJR大船近く玉縄地区〜横浜市栄区長尾台〜藤沢市二伝寺の広大な範囲にまたがって在った御城です。

鎌倉市一帯と相模湾を守る為に築城された難攻不落の城です。

城主だった綱成公は今でも有名でKOEIの信長の野望天道でも高評価されてます。

統率92 武勇96 知略79 政治60 義理89

…恐ろしく強いですね。

実績と比較して、まだ不足ですが。

SEGAでは更に高評価。

 

武力10…最高評価です。

まぁゲームの話はここまでにして・・・
玉縄城主だった北条綱成公と御子息達の墓所は、北条綱成公が開基(かいき:寺院を開く事)した龍寶寺(りゅうほうじ)に有ります。
下は龍寶寺の写真です。

 

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陽谷山 瑞光院 龍寶寺

この龍寶寺の裏山も龍寶寺城と言われ山が裾切されており尾根のところどころに平場が削平されていて玉縄城の一部を形成していました。

龍寳寺には玉縄民族資料館があり、玉縄城址の遺物や復元模型も展示されています。

これ↓玉縄城の復元模型。

 

保管されている↓城門と本丸の礎石 

 

 

あと鎧と兜 

 

 

これ↑雪の下胴と言って鎌倉特産の甲冑でした。 

伊達政宗もコレ着てましたよ。

玉縄城の本丸は今では女子校が建っていて、男性の歴史ファンにとっては有る意味「攻略不可能」な最強の城に成ってしまいました…。

綱成公は、まさにリアル戦隊5レンジャーでしたwww。

地黄八幡とアダ名で敵武将達から呼ばれた玉縄城主の北条綱成公は、小田原北条家2代北条氏綱公の婿養子でした。

北条家3代目の殿様北条氏康公とは義兄弟に当たり、最前線の防衛や外交を任され非常に信頼されてました。

上杉謙信公や武田信玄を合戦で撤退させる事数回、名実共に南関東最強で、戦国最強クラスの指揮力・統率力・判断力・カリスマ性を備えた名将でした。

無論、上杉謙信公や武田信玄は戦以外にも優れた能力が有り動員兵力も規模が異なるので比較出来ない部分も有ります。

綱成公は戦が始まると「勝ったぞ~(始まったばっかなのに)」と言いながら朽ち葉色の布に「八幡」と書かれた軍旗で統一した軍勢で攻撃をしかけ敵を撃破したそうです。
朽ち葉色と言うのは下の写真の黄花秋桜(キバナコスモス)と同じ色ですね。
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綱成公の余りの強さから綱成公の守備していた静岡県の深沢城から撤退した際に、城内に残されていた黄色の旗印を武田信玄が接収して持ち帰り、家臣の真田信伊(のぶただ※幸村こと真田信繁の叔父)に与えたそうで、この旗は今でも真田家の居城長野県松代城に保管されています。

この逸話や、河越夜戦や国府台の戦場で「勝ったぞ!」と叫びながら八幡大菩薩の旗印の黄備え部隊が敵陣を奇襲蹂躙し追撃する様から他家武将に"地黄八幡"の渾名(あだな)で畏敬の念を込め呼ばれていました。


綱成公の強さを示す1番の実績は"河越合戦での活躍です。

戦国時代、優れた民政により民百姓の支持を得た綱成公の主君北条氏康公は関東で勢力を拡大します。 

その過程で旧勢力の筆頭格関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った)で激突します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利。

北条家兵力  3,000

上杉家兵力80,000

河越城の主将は北条幻庵公。

幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主で風魔忍者の管理者でした。

それを補佐する玉縄城主綱成公。

両者の動員兵力はわずか。

対して関東管領上杉家&古河公方足利家の連合軍には関東地方の古豪大名達がこぞって参集し10万人に迫る勢いでした。


この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で半年間も敵を跳ね返し続けました。

そんな中、敵に厭戦(えんせん=ダラけ)氣分が蔓延し始めます。

それを待っていた綱成公の義兄で主君北条氏康公が小田原城より8000の兵を率いて来援します。

しかし綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

だからこそ、氏康公は敵勢がダラけるのを待っていたんですね。


敵勢が油断し酒盛りを始めたある晩、氏康公が夜襲で奇襲をしかけました。

同時に河越城から綱成公が出て敵に突撃します。

敵は多いが油断して規律も乱れボロボロだった状況で北条家の義兄弟コンビに奇襲挟撃(きょうげき=はさみうち)され瞬く間に壊滅しました。

上杉家連合軍側の被害は甚大で…


連合盟主:古河公方足利晴氏→捕虜

主要大名:扇谷上杉家→殿様死亡滅亡

主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小

その他の連合軍参加大名も散り散りに逃走し大幅に勢力縮小する事に成りました。


綱成公の強さは尋常じゃないですね。

こんな殿様が鎌倉にいたなんて、神奈川県民としてとても誇らしい。

さて、では玉縄城の現在の様子を見て見ましょう。
玉縄城は現代では宅地化により大部分が消滅しています。
下は玉縄城の要塞網です。
大船駅周辺
御覧の様に北は上杉謙信の祖先の長尾定景公の居城だった長尾台城~龍寶寺城~玉縄城主要部(清泉女学院高等学校周辺)~二傳寺一帯が全て玉縄城でした。
まずは龍寶寺からスタートしましょう。
龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されています。
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そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いかと思います。
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鎌倉市史考古編や日本城郭大系にも玉縄城の推定縄張図(なわばりず=城の設計図)が掲載されており散策の参考に成ると思います。
龍寶寺には平成の27年頃まで裏山の上に有った玉縄北条家の墓石が移設されており、供養塔が「玉縄城址町作り会議」の方々が出資して新造した供養墓が中心に、移設した墓石が右手に祀られています。
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玉縄城を見学するなら先ずは玉縄城主の北条家の殿様の供養塔を御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だと思います。

郷土資料館の展示を見てから訪問すれば解りやすいですしね。

順路としては・・・
お墓参りをして。

龍寶寺の裏山も龍寶寺城跡ですから、一般の墓地から登り山上の旧北条家墓所辺りの削平地や裾切りされた尾根を見てから降りて来て。

郷土資料館を見て。

先ず最初に七曲りの虎口を訪問。

こうすると無駄無く見学出来ます。

七曲り虎口の虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事です。
基礎的な事は下のリンクから用語集を見ると図説が有るので初心者も解りやすいです。
 

余り歴史に関心が無かった人は「城=天守閣」と誤解してる方も多いので上のサイトで復習してから今から掲載する小生の解説と写真を見ると城の構造を理解し易いと思います。

龍寶寺から徒歩5分ちょいと直ぐの場所に玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有ります。

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今は本丸は女子高で遺構は地形しか有りませんが男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落の城ですwww
しかし七曲りから主郭の清泉女学院の台地に登って行くと現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来ます。
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玉縄城七曲虎口
七曲りは深い谷から一気に本丸の大手門に登って行く道なのだが、谷の両岸は裾切(すそきり)と言われる山裾を直角に切り落とす土木工事がされているのが見て取れますね?
神奈川県を含む南関東の地層は他地域と異なり関東ローム層と言う富士山の火山灰で出来た堅い赤土の地層と隆起した砂岩の地層で出来ています。
下の写真は横浜市都筑区の茅ヶ崎城の曲輪(くるわ:兵士の待機スペース)と曲輪を分断する堀切と言われる空堀です。
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赤土が露出しているのが解るでしょうか?戦国時代の関東の御城は石垣では無くてこの様な土を削り出した城でした。この土壁に戦闘開始時に水を撒いてしまうと敵は登って来れない訳ですね。
更に!この空堀の底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれるさき先端を竹槍状に加工した木の杭や竹の杭の束を設置し、登ろうとする敵を槍等で突き落としたり敵が勝手に足を滑らすと堀底の逆茂木に・・・
「グサグサッ☠!」
・・・と勝手に串刺しに成って死んでくれる石垣城よりも恐ろしい防衛能力を発揮する訳ですね。
登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が45°~60°は確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない訳です。
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当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグを通らないと上に登って行けない構造でした。
そしてこれらの道も地盤も樹木を伐採してあり、先程の茅ヶ崎所の写真の様に赤土が露出していた訳ですね。
フェンス内の農道は段々に成っており武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っています。
この“武者溜”は日本城郭大系にも詳しい図は無く小生も予備知識無かったが見て段地の方が旧道と直ぐに理解出来たし、皆さんも現地看板に説明が有るので確認も出来ます。
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現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎて写真でも解る通りフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていないんですね。
恐らく北条家の支配が終わり徳川家臣団が後世に改変させたハッキリ言って城のデチューンが有ったのだと思います。
ここで明治時代の迅速測図と現代の地形を比較してみましょう!
玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
現代の道も明治時代の測量図と近い長い直進とL字の連続する喰い違い構造に成っているので、恐らく江戸時代に成って本多正信公か大河内正綱公が城主によって守備力より御役所としての機能を重視する近世城郭に近い形に改編された道だと思います。
こんな単純構造には北条家は城を作りません。
下は北条家の山中城です。
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国指定文化財史跡
山中城跡
山中城を見ると良く解ると思いますが・・・
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「絶対に直進なんかさせねぇ~よ!」と言う構造体が北条家の御城には多数仕掛けれています。
何故L字にするかと言うと、こうする事で侵入する敵数を制限出来る上に、守備側は正面と側面から弓矢鉄砲で殺傷力の高い十字砲火で攻撃が可能に成るからなんですね。
以上が山中城の構造な訳ですが、全然真っ直ぐ進めないし赤土の城の殺傷能力の高さも御理解頂けたでしょうか?

玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
これらを踏まえると「七曲り虎口」は元々「七曲り」なのが明時代の地図では「五曲り」位に簡略化された上に道幅も広い大手道に拡張されてしまっていますね。
・・・とは言っても七曲りは写真の通り空堀の堀底道として機能しており高い防御力を保っています。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ます。
この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られます。
自然の谷を利用して山裾を裾切(すそきり)と言って削り取り崖にしてしまい、谷の入口に敵の侵入を防ぐ柵や塀と木戸を作って塞いでしまうので更に防御力が高く成ります。
この様な関東流の築城の仕方を「谷戸構(やとがま)え」と呼びます。
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七曲りを登りきると右手の変な崖の上に無理やり建てた(笑)民家が有りますが、これが三角平場と呼称された曲輪で、七曲りを登ってくる敵を攻撃すると同時に本丸に侵入した際に敵に側面から奇襲を仕掛ける兵士を待機させる構造体だった様です。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有る難攻不落の城でした。

武田菱竹に雀紋

武田家 四つ割菱紋 上杉家 竹に雀紋
無論、城の解説より先に紹介した城将の北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将です。
玉縄城縄張図
上は玉縄城址まちづくり会議の皆様が設置してくださっている縄張図です。
解りやすいですね。先程の写真の三角平場と言う場所が丁度、画面の真ん中辺りです。
実は以前、小生はブログ書き始めた頃で歴史も入門編くらいだった初訪問の際に・・・
「女子高だからどうせ中に入れないし~」
・・・とネットの不正確な情報を鵜呑みにして近づきませんでした。
この日は京都の友達と撮影に行ったのですが、再訪したら住宅街に成った場所にも意外に多く明確な遺構や地形が残っていたんだなぁ~と今更ながらに再認識させられた(笑)。
やはりネットで文章だけの情報を鵜呑みにしたらダメだですね。
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玉縄城は遺構こそ少ないものの玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達の御尽力で解説が有り、残り少ない遺構も場所場所の看板を見ながら楽しく散策する事が出来るます。
七曲りの武者溜(段郭)を通過し三角平場の下を突破すると大手門に行く前に左手に太鼓矢倉の平場と堀切と硝煙蔵の平場が現存しています。
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説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
下の写真で凄く深い堀切状の空堀が有るのが解るでしょうか?
写真にすると遠近感が無く成り良く解らないんですよ、土の御城の空堀って。
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太鼓矢倉の尾根が断ち切られた“堀切”には平時は“引き橋”と言われる仮設の橋が架かっていて、敵が攻めてくると橋を引っ込めてしまって敵が侵入出来ない鉄壁の防御構造に成っていました。
敵は堀底の道を遠回りして攻めるしかなく、下の空堀を敵が通過しようとする時に鉄砲や弓矢を雨の様に射撃して射殺してしまう訳ですね。
空堀の深さは堀底~太鼓櫓の曲輪(くるわ)まで比高8m程度と言った所。普通にこの高さを突き落されたら良くて骨折、悪ければ死にますwww。
この構造によって敵は山裾から尾根道伝(づた)いに真っ直ぐ本丸を目指す事は出来ず迂回して七曲りから登って来るか城主の館の道から遠回りして登って来るしかない訳ですね。
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これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だったのですが、残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっています。

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でも玉縄城址まちづくり会議の方が説明を掲示してくれているので予備知識が無い人も当時の様子を想像する事が出来ますよ!
この大手門から城主の館が存在したマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに降りる“陣屋坂”に向かう場所に玉縄城の石碑が有ります・・・
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・・・と偉そうに解説してますが、こんな見つけ難い場所だったので地元の方に教えて貰うまで見つかりませんでした(笑)。
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登ると上に小さな仏様と石碑が有ります。
玉縄城址の石碑。
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昭和三十一年 鎌倉友青会と書いて有るので昭和初期の青年会でしょう。
当時はここ等辺はド田舎でしたからね~。
でも大船駅前に松竹の映画撮影所が有って、そちらには映画スターが来るので商店街は賑やかに繁栄していました。
徳川氏の治世に成って直ぐに廃城に成ったと書いているが実際は徳川家康公の親友で謀将として活躍した本多正信公が城主に成り、更に松平の苗字の名乗りを許された大河内正綱公が城主に成っても城として機能は維持され廃城に成ったのは元禄十六年(1703年)つまり江戸時代も中期に差し掛かる話なので、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣家に降伏して大阪で狭山藩1万1千石の小大名として移封されても実に113年間も存続していた事に成ります。
熱心なんだけど昭和初期の郷土史家に有りがちな間違い。
こう言う事が明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物には多く有るので文面をコピペせず御自分で史料を読まれる事が大切に成って来る訳です。
因みに先に少し触れましたが、この石碑の傍らの坂道が“陣屋坂”で下り切った先に有るマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに城主の居館や庭園が有ったそうです。
玉縄城御主殿址周辺 久良岐のよし
玉縄城縄張図
本丸の清泉女子の北側の尾根には御花畑の地名も残り、勇将の北条綱成公が花を栽培して蝶と戯れている風景を想像すると少し笑える位にホッコリとした安らぎも地名から感じてしまう(笑)。
綱成公の御子息の北条康成公は奥方様が主君で義理の叔父の北条氏康公の御姫様の七曲殿だった。
七曲殿の名前からも解ると思うが、七曲り虎口の入口に有る館に住んでいたので地名由来の渾名で呼ばれた様だ。当時の女性はなかなか存命中の名前が記録される事が少ないので隠居後の法名や没後の戒名しか伝わらず、七曲殿もやはり法名の新光院としか伝わっていない。
墓所は鎌倉市内の大長寺で、この大長寺は康成公が実母で北条綱成公の正妻だった大頂院殿の供養の為に建てた菩提寺だったが徳川家康公によって現在の寺名の漢字に改名させらて現在に至る。


さて皆さん、玉縄城の解説どうでしたか?
JR大船駅に電車で来て時間が有れば、是非龍寶寺の郷土資料館や北条綱成公の御墓参り等してみては如何でしょうか?
龍寶寺~七曲り虎口や硝煙櫓辺りの空堀も歩いて10分程度です。

もし機会が有れば玉縄城散策をして北条綱成公と言う明武将が戦国時代の鎌倉市に居た事を思い出してあげて下さい。


では又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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久里浜花の国と言う横須賀市立の公園を皆さん御存知ですか?
神奈川県東部の人間以外は余り御存知無いかも知れませんが、横須賀市は非常に自然公園や近代史跡公園やレジャー公園が多く、幼い子供のいる家庭や恋人同士で遊びに行くのに適した場所が多く有るのですが、その中の一つに“久里浜花の国”と言う公園が有ります。
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くりはま花の国
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日比谷花壇大船フラワーセンター
かながわの花の名所100選の1箇所にして・・・
鎌倉と三浦半島の古木・名木50選の玉縄桜の発祥地。

【景色】✿✿
 種類は多く40種類の梅花の並木。
 いつの季節も花が咲く植物園。

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京都の友人のKGが横浜出張を終えて帰る日程が決まり、一緒に未だ行ってなかった神奈川県中央部相模川西岸を中心に歴史散策をして来た。
後で訪問地の数を数えたら驚愕の訪問件数に成っていた。
当日の訪問先は以下の通り・・・
訪問先一覧
①JR大船駅・・・AM:08:00集合。
②龍寶寺・・・戦国時代の北条綱成公の玉縄北条家菩提寺。
③玉縄城七曲り虎口・・・関東屈指大城郭の数少ない残存遺構。
④玉縄城大手門跡・・・学校建設で残らないけど看板が有る。
⑤玉縄城の石碑・・・解り難い場所、説明文の内容も雑で事実誤認してる。
⑥寒川神社・・・言わずと知れた相模国一之宮。
⑦前鳥神社・・・言わずと知れた相模国四之宮。
⑧平塚八幡宮・・・言わずと知れた相模国最古の八幡宮。
⑨オリーブの丘・・・横浜市の沿岸部で見た事が無いファミレス。
⑩無量寺・・・岡崎城の本丸にある御寺。
⑪岡崎城三連郭・・・大城郭の数少ない明確な遺構残存部。
⑫岡崎義実公の墓所・・・外郭に残る今上天皇陛下も大学時代にいらっしゃった場所。
⑬高部屋神社・・・延喜式内社で鎌倉時代の名将糟屋有季公の居城、千鳥ヶ城の鎮守の神様。
⑭丸山城址公園・・・千鳥ヶ城の一部分が児童公園化された場所。
⑮洞昌院・・・太田道灌公の死没地で北条早雲公が道灌公菩提寺に定めた場所。
⑯道灌公御廟所・・・道灌公の親友の万里集句和尚と北条早雲公が整備した太田道灌公の胴塚。
⑰七人塚・・・太田道灌公の与力武将が上杉定正公放った追討兵を食い止め討死にした供養塔。
⑱上粕屋神社・・・行基大僧正が比叡山の山王権現の御分霊を勧進し建立させた神社。
⑲扇谷上杉家糟屋館大空堀・・・神奈川県下指折りの大城郭の自然地形を拡張した大空堀。
⑳上杉家糟屋館湯殿入虎口・・・大城郭糟屋城(館)の侵入経路の名残りの喰い違い、近年消滅の危機。
(21)糟屋館・・・産能大学の丘に存在した大城郭。丘上から南北の大空堀が良く見える。
(22)糟屋館武者走り・・・丘の側壁崖地に迅速測図にも残る武者走り地形と土塁が残存。
(23)比々多神社・・・言わずと知れた相模国三之宮。
(24)埒面古墳・・・比々多神社の旧境内地の聖地とされた場所、土建屋に破壊された古墳。
(25)比々多神社元宮・・・北条家に攻められて焼け落ちた比々多神社の旧境内地。
(26)AOI七沢リハビリテーションセンター病院・・・実は戦国時代の七沢城の主要部分。
(27)七沢城の碑・・・病院から少し離れた場所にある石碑、昭和の郷土史家の説明が間違いだらけwww
(28)徳雲寺・・・扇谷上杉定正公の菩提寺で、七沢城の外堀と七沢城址の地形が良く見える。
(29)ZUNDBAR・・・凄いオシャレなラーメン屋、神奈川淡麗系の名店。
(30)新磯子埠頭・・・横浜の夜景スポット。海釣りの名所だけど余り知られてない。
(31)上大岡駅・・・21時位に解散。
・・・我ながら1日で良くも巡ったものである。KGと小生は御互い歴史オタクで城郭オタクでもあるので1日に山城複数個所登ったりもする。
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これの地図の青い線は2月だったか二人で鎌倉城を一周した際の順路をKGのスマホGPSで可視化したタイムライン。市街地を取り囲む鎌倉城の稜線にそって丸々一周した。
この鎌倉城は鎌倉幕府設立後、石材の切出しを行った結果、次第に市街地の整備に伴って城塞化されて行った場所で、小生と横浜市の学芸員サンの共通意見として明確に城塞化されたのは南北朝時代以後だと思う。小生の意見としては空堀や虎口が尾根上に本格的に整備され始めたのは足利尊氏公と北畠顕家公の鎌倉争奪戦の頃に始まり、足利持氏公と上杉禅秀公の内乱が勃発した頃に名越切通しや瑞泉寺裏の一覧亭付近が中世城郭化したのだと思う。
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瑞泉寺の裏山には豊富に堀切等が残っている。
名越切通しは戦国時代の構造体に見える。
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完全に枡形虎口に成っている。
「堀切って何ぞ?」「虎口ってタイガーマウス?痛そう!」と言う次元の初心者にも解りやすい城の構造体と名称の図説解説サイトのリンクを貼っておくのでソレを見て欲しい。
これ⤴ね。
この鎌倉城散策時は完全に体力勝負で朝の9時に集合して稲村ケ崎からスタートし山を一周、材木座の住吉城に到達した時には17時40分くらいで小生はヘロヘロだった。
なんせ稲村ケ崎から時計回りに鎌倉城を登るとズゥ~ット山道の登り坂!体重がストレートに脹脛(ふくらはぎ)と太腿に乳酸を溜めて行く上に、脱水でミネラルが抜けて痙攣しやすく成ってしまう。
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ちなみに、今回の休日雑記と鎌倉城散策は違う日なので又改めて鎌倉城一周トレイルの記事も書こうと思うが、この鎌倉城トレイルは初っ鼻から稲村ヶ崎で波を被ってビショ濡れに成ってた(笑)。
KGは撥水性のジャケットを着ていて無事だったが小生は近所のスーパーに行く様な短パン、パーカーのナメ腐った格好だったので海水を完全に吸収してメチャくそ寒かった(笑)。
この鎌倉市街1周する鎌倉城トレイルの行程を半分進んだ時点で小生は大平山の山頂手前で足攣ったり滅茶苦茶だったが格闘家体系を維持しているKGはピンピンしていた。
けれど、今回は体力ではなくて時間との闘いなので訪問順路の効率の問題でもある。
実は当初の訪問予定候補地は更に多かったが、それはこの日の訪問先を順を追って紹介しながら見て頂きたいと思う。
「1日に29箇所訪問とか嘘だろ?」とか思うかな?
これ⤵を見て貰うと効率的に散策したのが解ると思う。
GoogleMap登録地
小生はGoogleMapに行きたい場所や行った場所をやたらめったら表示を分けて登録して有る。こうしておくと効率的に訪問順路を決められるので皆さんも試して頂きたい。
因みに緑が気に成ってる場所、黄色は訪問済み、ハートは絶対に行きたい場所。
訪問地一覧 久良岐のよし
小生はAndroidを使い始めてから5年で観光で訪問した町が赤い点の場所、訪問箇所は全部で942箇所らしい。
実際にはこれに加えて台湾の台北市と中国の香港市と深圳市にも訪問してる。その3都市で多分、更に50箇所位増えると思う。
小生は一人で行動する時は1日で5箇所以上は訪問する、多い日で10箇所以上、最多記録は14箇所だった・・・
でもこれ、歴史マニアの訪問箇所数としては一般的だと思う。城マニアや神社仏閣ファンは1日に10箇所訪問とかザラだと思うので小生を超える猛者は腐る程いると思う。
小生はどちらかと言うと神奈川県東部限定のローカルな古代の街道オタクなので、普段は山の中を歩いてる事の方が多く、たまに山の廃道を進んで林道と獣道が区別つかなくて横浜市や横須賀市の山の中で遭難しかけたり三浦市の海沿いの崖から落ちて骨折したりしてる(笑)。
・・・ただ今回のKGとの29箇所は今後も超える事が出来ない訪問件数だと思う。訪問地~次の訪問地まで近い場所をずっと辿って鎌倉市~寒川町~平塚市~伊勢原市~厚木市を巡った結果、多い訪問件数でも城に関しては散策に十分な滞在時間も確保する事が出来た。

では!きまぐれクック金子風に本題に戻りぃ~・・・
・・・この日の29箇所訪問旅の話を進めて行くっ⤴!

大船駅でKGをピックアップして先ずは龍寶寺に移動。
大船駅周辺
画像に表示してある場所の内、KGとは平安時代の城の村岡城、玉縄城外郭の二伝寺砦、二傳寺、久成寺、長尾城+定泉寺の瑜伽洞は訪問済み。
神奈川県に出張に来た城オタが必ず見ないといけない城が小田原城、石垣山一夜城、岡崎城、津久井城、大庭城、玉縄城、小机城で、しかし肝心の玉縄城主要部は遺構も少ない事からKGは岡崎城と玉縄城と津久井城だけが未訪問だったので今回は近い玉縄城と岡崎城を訪問コースに入れて見て回る事にした。
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陽谷山 瑞光院 龍寶寺
何故最初の訪問地が龍寶寺かと言うと、この龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されている。
2014-09-04-12-28-26
そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いからだ。
他にも鎌倉の特産品だった雪ノ下胴と呼ばれる甲冑や江戸時代の農機具等の貴重な展示物が有る。
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それにここは玉縄城主の北条家の供養塔も有るので、先ずは御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だとも思う。
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因みに玉縄郷土歴史館の立体模型だけでなく余り役には立たないけども日本城郭大系の当該地解説もコピーしてKGと二人で予習してから散策に臨んだ。
先ず目指した場所は七曲りの虎口。虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事。
城=天守閣と誤解してる歴史入門者LVの人は、もう1度上のリンク⤴のサイトで復習してから写真を見ると図と照らし合わせて非常に解りやすく城の構造を理解出来ると思う。
龍寶寺から徒歩5分、直ぐに玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有る。
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今は本丸は女子高で男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落(笑)の城に成っているのだが、現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来る。
七曲りは深い谷から一気に本丸の大手門に登って行く道なのだが、谷の両岸は裾切(すそきり)と言われる山裾を直角に切り落とす土木工事がされている。神奈川県の地層は他地域と異なり関東ローム層と隆起した砂岩の地層は登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が60°以上確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない。
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玉縄城七曲虎口
この様に道の斜度もキツイが当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグに有る。武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っている。
こんな構造体を段郭と言ったり一段しか無い単体なら腰曲輪と言ったりする。この“武者溜”は日本城郭大系にも詳しい図は無く小生もKGも予備知識無かったが見て段地の方が旧道と直ぐに理解出来たし看板にも説明が有ったので確認も出来た。
しかし現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎる。
写真でも解るフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていない、恐らく北条家の支配が終わり徳川家臣団が後世に改変させたハッキリ言って城のデチューンと言って良い道だと推測した。
玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
現代の道も明治時代の測量図と近い長い直進とL字の連続する喰い違い構造に成っているので、恐らく江戸時代に成って本多正信公か大河内正綱公が城主によって近世城郭に近い形に改編された道だと思う。
こんな単純構造には北条家は城を作らない。元々七曲りなのが五曲り位の道幅も広い大手道にデチューンされてる。
・・・とは言ってもこの七曲り、御覧の通り空堀の堀底道としても機能していて防御力は高い。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ける事に成る。この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られる。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有ったりする。無論、守備した北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将だったりする。
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七曲りを登りきると右手の変な崖の上に無理やり建てた(笑)民家が有るが、これが三角平場と呼称された曲輪で、七曲りを登ってくる敵を攻撃すると同時に本丸に侵入した際に敵に側面から奇襲を仕掛ける兵士を待機させる構造体だった様だ。
玉縄城縄張図
実はKGだけでなく小生も主郭周辺を見に来た事は無かった・・・
「女子高だからどうせ中に入れないし~」
・・・と自分で文献を読んで無かった初心者の頃の小生はネットの不正確な情報を鵜呑みにして近づいていなかった。
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でも実は住宅街に成った場所にも意外に多く明確な遺構が残っていたんだなぁ~と今更ながらに再認識させられた(笑)。やはり人の情報を鵜呑みにしたらダメだな。
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玉縄城は遺構こそ少ないものの玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達の御尽力で解説が有り、残り少ない遺構も楽しく散策する事が出来る。
七曲りの武者溜(段郭)を通過し三角平場の下を突破すると大手門に行く前に左手に太鼓矢倉の平場と堀切と硝煙蔵の平場が現存している。
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説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
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この写真を見ると太鼓矢倉の尾根が断ち切られた“堀切”が解るだろうか?
平時はここに“引き橋”と言われる仮設の橋が架かっていて、敵が攻めてくると橋を引っ込めてしまって敵が侵入出来ない鉄壁の防御構造に成る。
空堀の深さは堀底~太鼓櫓の曲輪(くるわ)まで比高8m程度と言った所だろうか?普通にこの高さを突き落されたら良くて骨折、悪ければ死ぬだろう。
この構造によって敵は山裾から尾根道伝(づた)いに真っ直ぐ本丸を目指す事は出来ず迂回して七曲りから登って来るか城主の館の道から遠回りして登って来るしかない・・・
「城入門勢の読者の皆さん、ついてこれてますか~(笑)?」
・・・と言う所だが、ここまで読んだ方は既について来れていると思うので書き進める。
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これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だった。残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっている。
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でも玉縄城址まちづくり会議の方が説明を掲示してくれているので予備知識が無い人も当時の様子を想像する事が出来る。
この大手門から城主の館が存在したマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに降りる“陣屋坂”に向かう場所に玉縄城の石碑が有る・・・
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・・・と偉そうに解説してるが、こんな見つけ難い場所だったので通行人の人に教えて貰うまで見つけられなかった(笑)。
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登るとこんな小さな仏様と石碑が有る。
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熱心なんだけど昭和初期の郷土史家に有りがちな間違い。徳川氏の治世に成って直ぐに廃城に成ったと書いているが実際は徳川家康公の親友で謀将として活躍した本多正信公が城主に成り、更に松平の苗字の名乗りを許された大河内正綱公が城主に成っても城として機能は維持され廃城に成ったのは元禄十六年つまり江戸時代も中期に差し掛かる西暦1703年の話なので、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣家に降伏して大阪で狭山藩1万1千石の小大名として移封されても実に113年間も存続していた事に成る。
これだから明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物を鵜呑みにしてはいけない。
因みに先に少し触れたが、この石碑の傍らの坂道が“陣屋坂”で下り切った先に有るマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに城主の居館や庭園が有った。
玉縄城御主殿址周辺 久良岐のよし
玉縄城縄張図
本丸の清泉女子の北側の尾根には御花畑の地名も残り、勇将の北条綱成公が花を栽培して蝶と戯れている風景を想像すると少し笑える位にホッコリとした安らぎも地名から感じてしまう(笑)。
綱成公の御子息の北条康成公は奥方様が主君で義理の叔父の北条氏康公の御姫様の七曲殿だった。
七曲殿の名前からも解ると思うが、七曲り虎口の入口に有る館に住んでいたので地名由来の渾名で呼ばれた様だ。当時の女性はなかなか存命中の名前が記録される事が少ないので隠居後の法名や没後の戒名しか伝わらず、七曲殿もやはり法名の新光院としか伝わっていない。
墓所は鎌倉市内の大長寺で、この大長寺は康成公が実母で北条綱成公の正妻だった大頂院殿の供養の為に建てた菩提寺だったが徳川家康公によって現在の寺名の漢字に改名させらて現在に至る。

まぁ、KGとの鬼の訪問件数の1日、初回の記事は玉縄城の解説と言う事でここまでにして、この続きは又次回のブログで書きたいと思う・・・
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玉縄桜と言う平成に成ってから種苗登録された新しい早咲きの桜を皆さん御存知ですか?
写真が玉縄桜です。
2021年02月28日に訪問した際に9部咲き~満開を迎えていましたので今週末までが最盛期だと思います。
この桜が今、日比谷花壇が支援している元:神奈川県立大船フラワーセンターで見頃を迎えています。
ここの良い所は同時期に沢山の品種の梅が50m程度の梅の並木道として整備されていて、玉縄桜と各種の梅が同時に満開に成る様子を楽しめる事です。
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大船駅から徒歩で15分くらい、車も駐車場が完備されていて首都圏から行きやすい場所です。
大船フラワーセンターだけでは物足りない人は、直ぐ近所に良い御寺も有りますので推薦したいと思います。
日比谷花壇 大船フラワーガーデン
上記公式ホームページて季節ごとの展示や催事を確認できます。
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入口のゲートをくぐると上の写真の一株だけ玉縄桜が有りますが当然これだけではなく、時計回りで園内を見学すると外周沿いにずっと玉縄桜が見れて最後に温室で熱帯植物を見学し、ゲートの売店の前に辿り着き鉢植えの花を購入する事が出来ます。
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他にも花桃の花等も見頃でした。
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おかめ桜もとても綺麗で近所の鎌倉女子大の生徒やデートに来たカップルの若者が非常に喜びながら写真を撮影していました。
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綺麗でしょう?
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梅は梅林と言うほどには植樹されていませんが、様々な種類を一度に観賞出来るように並木道が整備されています。
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温室の展示もとても綺麗ですよ!
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とにかく一見の価値が有るので、大船駅で昭和のスター達に愛された大船軒の鯵の押寿司を購入してお弁当持参して来たりしても良いピクニックに成るかと思います。
でも・・・
「お花だけじゃ物足りないよ~!」
・・・と言う人や小生のブログの読者には歴史ファンも多いかと思います。
御安心下さい。
「あるよ、近くに歴史史跡」
みたいな?
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曹洞宗 陽谷山 龍寶寺
龍寶寺(りゅうほうじ)と言う戦国時代の関東最強の武将だった北条綱成公や江戸時代の徳川家宣公~家継公を支えた側用人の新井白石が支援した御寺があり、玉縄北条家の墓所もあり、旧御廟のあった尾根道も散策する事が出来ます。
更に境内の民俗資料館には上杉謙信公も攻略を断念し包囲を解かざるを得なかった玉縄城の縄張図(なわばりず:設計図)や地形の復元模型、そして鎌倉市の特産品で北条家の武将が愛用した雪ノ下胴と兜の具足一式や出土品も展示されています。
他にも近所に見所が有りますよ~。
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日蓮宗 光圓山 久成寺
この御寺は永正十七(1520年)に足利義澄公の家臣、梅田家によって開基されており鎌倉市内では比較的歴史は新しいとは言うものの既に500年余り地域に根付いた御寺です。
この足利義澄公は小田原城主北条氏綱公の父上で関東の英雄となる北条早雲(伊勢宗瑞)公に大名化の機会を与えた将軍です。義澄公は伊豆の堀越公方足利茶々丸の異母兄弟で、足利茶々丸に実弟の潤童子と御母堂の円満院を殺害されてしまいました
名前が茶々丸とか可愛いくせに全然可愛くないクソです。
これが元々永享の乱が発端となり関東から始まった戦国時代が東海や近畿より一足早く本格的に独立大名同士の領地争いに発展する契機になる事件でした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公

この時に足利義澄公に堀越公方討伐を命令されたのが今川家で家老に成っていた伊勢宗瑞公です。
つまり状況的には久成寺を開いた梅田サンの祖先は伊勢宗瑞公に与力し一緒に関東に来た元は足利義澄公家臣の同僚で後の北条家臣だった事が解りますね。北条氏綱公
伊勢宗瑞公が伊豆韮山城主として隠居し二代目北条氏綱公の時代にかけて鎌倉の防衛拠点築城改修した御城が2城有り、それが住吉城と玉縄城です。
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上の写真に見える断崖絶壁の鉄壁の地形が住吉城です。
鎌倉防衛網の最東端を担っていた要害で昭和までは下のマンションは海で波が岸壁を洗っていた堅城です。
城記号これは城を示す記号。
明治時代の迅速測図でも源氏谷(げんじがやつ)と呼ばれる崖上の谷にこの本丸マークが有るのですが、三菱財閥や大物政治家が別宅を建ててしまったせいで城として発掘されない時代が長く続いて巨大な城郭なのに開発の波にさらされてしまいました。
鎌倉防衛網 住吉城址 久良岐のよし
この通りです。
住吉城址の西に延びる岩の海岸は源実朝公が築いた人工的に造成された築港である“和賀江島(わかえじま)=わかえのしま(若江ノ島)”です。
現在は“ワカエジマ”で呼称が統一されている鎌倉時代に作られた日本初の人工埠頭の跡です。
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城址の前の小坪飯島公園は富士山の眺望が良く、稲村ケ崎と江ノ島と夕陽が一度に見える景勝地としても知られています。
まぁ埋立地なので関東大震災が起きたら津波に飲まれるのでしょうが。
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この写真は光明寺裏の天照山展望台から撮影したもので、神奈川の景勝50選にも選ばれています。
住吉城址の山は浄土宗大本山光明寺の山号に成っている天照山を含みます。
そもそも山の中腹に光明寺の守護神として天照大神を祀った事に山号が由来している訳で、山の名前ではなかったんですね。
鎌倉市街は実は鎌倉時代~室町時代の最後の鎌倉公方足利成氏公の長い時代をかけて所々が要害化されていて、小田原城を遥かに凌駕する広範囲が防衛網に組み込まれていました。
鎌倉防衛網 久良岐のよし
上は鎌倉防衛網をGoogleEarthで再現した画像です。
範囲は凄まじく鎌倉市街を超えて横浜市金沢区~栄区~港南区にかけて尾根道沿いに切通しや要害が築かれていました。
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先日、同じ南朝系の大名の子孫で歴史仲間の人間と、朝の9時に鎌倉駅に集合して鎌倉要害の主要部分を稲村ケ崎からスタートして登りルートでハイキングした際には歩行距離が21kmに及び、住吉城址に到着した時には日没直後の17時半くらい・・・
総合格闘家ばりの肉体を維持している友人はピンピンしていたのに対して柔道体型にリバウンドした小生は脱水症状と自分の体重で足攣(つ)ったりヘトヘトでした。
住吉城は鎌倉市の光明寺~逗子市の住吉神社にかけて広がる台地で伊勢宗瑞公によって改修される以前も古くは平安時代末期に三浦義澄公によて要害として取り立てられて、当時、平清盛の配下だった畠山重忠公率いる2万余りの代軍勢を三浦義澄公と和田義盛公が3千で迎撃した舞台として吾妻鑑に登場します。
・・・この光明寺や住吉神社は住吉城址ですが、もう一つの北条早雲(伊勢宗瑞)公が築城したのが長尾台の城塞と村岡城を取り込んで作った巨大城郭の玉縄城です。
長尾城~玉縄城跡~二伝寺砦~村岡城 久良岐のよし
長尾台と村岡の要害は平安時代の城ですが、それを取り込んで築いたのが玉縄城でした。
久成寺や龍寶寺、村岡の二傳寺や長尾台の古城の丘を取り込み築かれた城ですが、長尾台は由緒正しい場所で実は上杉謙信の御先祖に当たる長尾家本家の歴代の本拠地でした。
そんな地縁も有って、長尾台に日蓮宗徒の檀家さんの多かった久成寺が長尾台に荒れ果てていた長尾家歴代の墓所を引き取り、供養塔を祀ったそうです。
戦と流通経済の天才、上杉謙信こと長尾景虎公の御先祖の長尾定景公の菩提を現代に弔う御寺が、この久成寺な訳です。
更に源頼朝公の御先祖の源義家公に仕えた長尾家の御先祖の鎌倉景正公や更にその御先祖の鎮守府将軍を務めた平良文(たいらのよしふみ)公の本拠地だったのが村岡城で、その城域の一部と考えられており戦国時代の玉縄城の村岡砦としても機能したのが藤沢市域に入りますが、やはり日比谷花壇大船フラワーセンターからそう遠くない浄土宗の法戒山二傳寺(二伝寺)です。

おの御寺の直ぐ近くに村岡城址公園が有り、東郷平八郎元帥の祖先でもある平良文公や鎌倉景正公の居城でした。
ニ傳寺には平良文公達の上杉謙信公の御先祖の供養塔が有り、全部ひっくるめてゆっくり玉縄城巡りなんてしても大船フラワーセンターの満開の玉縄桜と梅と合わせて散策すると歴史好きにはたまらない一時に成るかと思います。

天気が良い日も多い春真っ盛り、皆さん車でも電車でも行ける日比谷花壇大船フラワーセンターにちょこっと桜と梅をいっぺんに見る贅沢な時間を過ごしに訪れて見ては如何でしょうか?

では、また次のブログ記事で御会い所ましょう~♪
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鶴岡八幡宮境内社の白旗神社
社殿前の池と紅葉の風流な景色

【景観】★★★
 紅葉は白旗神社周辺に限られるが、
 八幡様境内の壮麗な景色とマッチ。 
【電車】★★★★
 鎌倉駅     ~徒歩05分
 北鎌倉駅    ~徒歩20分
 金沢八景駅~バス乗車28分~
 ~鎌倉駅~徒歩5分 
        所要時間33分
【  車  】★★★★★
 周辺に有料駐車場多数。
 ※上限料金無しの場所有り注意!
【休憩】★★★★★
 境内は屋台が数軒。
 若宮大路、小町通に飲食店多数。
 離れた大町にオシャレな店有り。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 清浄な雰囲気と紅葉のコラボ◎
 境内林に可愛いリスが沢山◎で✖
 ※外来種で害獣。
 言うまでも無く荘厳な八幡様◎
 鎌倉国宝館の文化財必見◎
 当然、小町通り等の町ブラ楽しい◎
 鎌倉観光の起点なので周辺観光に◎
注意するpoint(•ω•)       
 駐車場の上限料金有無に要注意!
 他は注意必要ない(・ω・)人(・ω・)!
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
——鶴岡八幡宮正面——
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——境内社:白旗神社側——
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——鎌倉国宝館——
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【見所】
鶴岡八幡宮の境内地で本殿に繋がる参道そのものには紅葉は一切無い。大鳥居から入り八幡宮の社殿に正対して舞殿から右手奥にある白旗神社の池周辺の紅葉が素晴らしく綺麗。その辺りは紅葉シーズンに結婚式後の新婦が白無垢で写真撮影している事も多く、何とも日本らしい風情を感じる事が出来る。
又、境内の鎌倉国宝館には鎌倉市の文化財が多く展示されていて仏像女子は必見!
【偉人】
源頼義公(頼朝公五代前の祖先)、源頼朝公、源頼家公、北条義時公、北条氏綱公、神保輝廣公、蒔田吉良頼康公、大道寺盛昌公、笠原信為公、北条綱成公、間宮康俊公、上杉謙信公等
【交通】
鎌倉駅からユックリ歩いても徒歩10分。
有料駐車場周辺に多数有り。
 ※鶴岡八幡宮駐車場始め料金上限の無い場所が有るので要注意!
※事前にGoogleMapで駐車場調べ不明な場所は電話確認すべし!
【周辺】
メインストリートの若宮大路や小町通りでランチも出来る店多数。
他の神社仏閣や博物館、由比ヶ浜散歩等と合わせると良い。
鎌倉歴史文化交流館は展示が綺麗でオススメ!
紅葉の名所の浄明寺地区や二階堂地区まで徒歩20分。浄妙寺や報国寺や瑞泉寺も紅葉◎
北鎌倉の建長寺、円覚寺、浄智寺尼寺の東慶寺等と合わせても良い紅葉散策が出来る◎
【名物】
●正宗の日本刀/包丁
鎌倉時代に名を馳せ今も有名な日本刀の名工、正宗の御子孫が小町通りの脇道で現在も‟正宗工芸”と言う打ち刃物屋を経営しており、豊臣秀吉が‟天下一の刀”と絶賛した日本刀:正宗の技術で製造した包丁を一般人向けに販売している。
●鎌倉彫り
鎌倉時代からの特産品と言えば鎌倉彫の漆器。現代ではブローチ等にも加工された装飾品が外国人観光客に人気。
●和紙
小町通りに社頭と言う和紙の専門店が有り、観光客向けには裏地をシール加工した千代紙、御朱印帳や絵葉書等、様々な和紙を販売する。僧侶や神官達も半紙も仕入れる御店で正に観光客~プロまで対応している専門店。
●女夫饅頭(めおとまんじゅう)。
現代人は知る人が少なく成ったが、実は江戸時代からの名物と言えば女夫饅頭で、今も老舗の饅頭屋が鎌倉市内には数軒残っている。
●鳩サブレ―
言わずと知れた豊島屋の銘菓で、鎌倉駅と北鎌倉駅前に御店が在るので御土産としても重宝する。
●鎌倉カスター
鎌倉ニュージャーマンと言う御店の御菓子で、最近はデパートでも取り扱いがある新しい部類の銘菓。フワフワの生地の中に色んな季節の果実のクリームを閉じ込めた洋菓子。最近、御店が鎌倉駅前に移転したので御土産としても重宝する。
●シラス
逗子と江ノ島の湘南シラスを提供する飲食店が小町通りに多数。
※【歴史】【関連記事】はボリューム多いので写真の末尾に移動します。

【歴史】
本来の正式名称は‟鶴岡八幡宮寺”で神仏習合の‟寺社”で明治時代までは仏教建築の多宝塔や多数の僧房や寺院の御堂も存在した。これについては鶴岡文庫内に室町時代の様子の復元模型が有る。
鶴岡八幡宮は実は元々現在地ではなく、現在の材木座地域に源頼朝公の五代祖先の源頼義公によって開かれた。住所は材木座1-7、近年まで元鶴岡八幡宮と呼ばれ現在は由比若宮の名で存続している。
源頼朝公の統治が行き届き本格的に鎌倉の都市開発が始まると、京都を模した都市設計が計画され平安京時代の旧京都町割りで千本通りに有った天皇の内裏(御所)の位置に精神的支柱として鶴岡八幡宮を遷宮し壮大な社殿と寺院が建造された。
室町時代に成ると鎌倉一帯を領有した小田原城主北条氏綱公に敵対する房総半島の大名、里見家と正木家が海賊水軍を率いて海を越え三浦半島東岸や南方から攻め込み鎌倉市大船駅前の玉縄城を攻撃し❝鶴岡八幡宮合戦❞が勃発した。合戦の最中、里見義豊の軍勢による兵火で鶴岡八幡宮と鎌倉市街地は焼け落ち鎌倉は灰燼に帰した。しかし、この鶴岡八幡宮を焼いた事で里見家は関東諸大名から敵視されるに至り、里見家内で内紛が置き義豊は甥の里見義堯(よしたか)公により誅殺された。
その後、北条氏綱公による鶴岡八幡宮と鎌倉市街復興事業が始まり、氏綱公の実弟で今の伊勢原市に所領の有った神保輝廣公が経理や屋根に使う檜皮等の奉行を担当し鶴岡八幡宮の社宝を龍散寺で保護。
鶴岡八幡宮再建と鎌倉復興事業の総奉行を当初は大道寺盛昌公が担当した。しかし城代を務める埼玉県の河越城周辺で上杉家との戦闘が激化すると、再建総奉行は横浜市港北区の大曾根城主で小机城代の笠原信為公に引き継がれた。
材木の調達は後に玉縄城主と成る北条綱成(つなしげ)公が材木奉行を担当し、強い経済力と多摩川や呑川や目黒川の水軍を保有する横浜市南区蒔田御所(まいたごしょ)と世田谷区世田谷城主の蒔田吉良頼康公が大活躍しました。万単位の水夫を集め材木を筏に組み南関東から集積された材木を大河川の貯木場に集積すると、東京湾経由で当時は海だった中区関内辺りの旧:蒔田湾に海上移送、更に本牧半島を沖の海を越え材木奉行北条綱成公の付家老の間宮康俊公の軍港である磯子区杉田湊(みなと)に集積し鎌倉の復興の資材調達に成功する大活躍を成し遂げた。
いわゆる織田信長公の時代の本格的な戦国時代に成ると、未だ名前が長尾景虎(かげとら)だった時代の上杉謙信公が上杉家の養子入り上杉謙信と名を改め小田原城攻めの際に関東管領を継いだ参詣に訪れている。
江戸時代にも徳川家光公等によって境内の造営が行われ壮麗な社殿や大伽藍(がらん=宗教建築)を誇ったが明治時代の神仏分離令と仏教弾圧で寺院機能を持った僧房は解体され八幡宮の神社機能だけが存続し現在に至る。
【関連記事】
  
——紅葉名所一覧へ⤵
——
 
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一昨日の夜にブログ更新するはずだったのにすみませぇ~ん!
最近、色んな町の学芸員サンが資料準備して色々と城址について解説して下さる機会を頂いたり、自分も違う事で急用で資料作って郵送したり他にも色々(昔の初代プレステ引っ張り出してファイヤープロレスリングGやったりwww)していて記事更新遅れました!

今回、本当はこの記事⤵
これ⤴の続きの後編で深沢城を紹介するつもりだったのですが、現地学芸員の方が資料を下さったり発掘の状況を口頭でも解説して下さったのと、地主の御爺ちゃん2人からも農地として重機を入れて地形を変えてしまう以前の話や御爺ちゃんが子供の頃の城址の話をしてくれたので、休日雑記とは別に‟深沢城”として独立記事にする事にしました。
休日雑記の後編は改めて書きます。

さて・・・
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深沢城跡
皆さんは御殿場市に深沢城と言う名城が存在した事を御存知ですか?
城郭ファンや戦国時代ファンには有名な城でマニアック度を5段階で評価するなら交通の不便さや知名度から言ってLV4位の比較的上級者向けの城跡と言っても良いかと思います。

実はこの御城、堅城と知られ物凄い武将の間で攻防戦が行われた場所だったりします。
先ず一人目、御城を作ったのは今川氏親公。この方は日本史で誰もが習う分国法の‟今川仮名目録”を制定した内政に秀でた名将でした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
北条早雲公~北条氏綱公の時代、川崎駅辺り~横浜市沿岸部の寄親(軍団長)だった間宮信親=間宮信冬公に恐らく名の一字を下賜(かし:目下に報償を与える事)したと思われる殿様が今川氏親公でもあります。
間宮家は佐々木氏で間宮の苗字は伊豆の国市間宮(馬宮)を領有した時に名乗り始めたので、今川家臣化し北条早雲公の与力に成って以後の時代、北条家二代目の北条氏綱公の時代の武将が間宮信親公と言う事も解ったりします。つまり小田原城主北条家が誕生し、相模国最大の国人だった間宮一族が武蔵国南部制圧時代に活躍し、後に沿岸部の間宮軍団や内陸部の太田軍団が解体されて小机衆や玉縄衆が編成されていってる変遷も何となぁ~く見えてきたりします。
小生は個人的な推測では、間宮信親=間宮信冬=間宮彦四郎=海老名市・磯子区東部~港南区北部~南部・神奈川区富屋~斎藤分町・鶴見区末吉~川崎市川崎区の領主と同一人物だろうと考えています。
この間宮家の旧主の氏親公の母方の‟舅(おじ)”が、後に間宮家の主君と成る北条早雲の通称で有名な伊勢盛時‟宗瑞”公でした。
新九郎奔(はし)る!
漫画の‟新九郎奔(はし)る!”で主人公に成っているのが北条早雲公です。
新九郎奔(はし)るは平成初期に大ヒットした漫画‟機動警察パトレイバー”の作者、ゆうきまさみ先生により現在ビックコミックスピリッツで連載中です

パトレイバーは数年前に真野恵里菜サン主演で実写化されたりもしていますので、20~30代くらいなら結構知っている人もいるかも知れませんが現役大学生位に成ってくると知らない方も多いかも知れませんね。
新九郎奔(はし)るの主人公、北条早雲こと伊勢盛時公の肖像画は実際はコンナ感じです・・・
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
・・・この北条早雲公が今川氏親公の‟舅(おじ)”な訳ですが、先程から小生が舅(しゅうと)の字を小生が舅(おじ)と読み仮名を振っている事にツッコミ入れようとしたアナタの為に、ちょっと深沢城から話を逸(そ)らして舅の漢字の意味を解説させて貰います。
実は舅の字は現代日本語の‟夫の父”と言うのは大間違いで、本来の漢字の意味では‟母方のオジサン”を意味する字です。
儒教由来の中国文化の漢字なので華語文化圏の表記が正しいのですが、何で日本の現代国語学者が字を誤植し夫の父を舅を‟しゅうと”と読ませてしまっているか誰も間違いに疑問を感じず既成事実化してしまっているだけなんです。
中国語の家族の呼び方
画像掲載元→http://chugokugo-script.net/kiso/kazoku.html
現代中国語の漢字を旧血縁の漢字に変換してみましょう。

現代中国口語     →漢語        →日本語

妈妈(マーマ)   →母親(ムーチン)  →母/母親

爸爸(バーバ)   →父親(フゥチン)  →父/父親

舅舅(ジィウジィウ)→舅父(ジィウフゥ) →叔父※誤植
※母の兄弟

舅母(ジィウムゥ) →舅母(ジィウムゥ) →叔母※誤植
※母の兄弟の妻

老爷(ラオイエ)  →外祖父(ワイズーフ)→祖父(母方)
※母方祖父

姥姥(ラオラオ)  →外祖母(ワイズーム)→祖母(母方)
※母方祖母

姑姑(グーグー)  →姑母(グームー)  →叔母※誤植
※父方叔母

姑丈(グージャン) →姑丈(グージャン) →叔父※誤植
※父方叔母の夫

・・・まぁこんな感じで全然現代の日本語に誤植されている漢字の意味は本来の漢字の意味は異なっていて、更に父方の叔父も父より年長か年下かで漢字が異なってきます。
漢字の血縁の話に脱線しましたが漢字の意味的には北条早雲公は深沢城を築城した今川氏親公の舅(おじ)だったって話だけです(笑)。
さて、そんな訳で名将今川氏親公と、その家臣だった伊勢宗瑞(北条早雲)公の甥とオジチャンがコンビだった時代に築かれたのが御殿場の深沢城だった訳です。
この深沢城、何で今川→北条→武田→徳川→廃城と強豪大名達によって争奪戦が繰ひげられたのでしょうか?
深沢城は現代では御殿場市に存在しますが、これは縄文~平安時代以前から存続する神社と遺跡と道を重ね合わせると一目瞭然に理解できます。
先ずは深沢城と古社と縄文時代~弥生時代の海岸線をGoogleEarthで重ね合わせて見ましょう。
古代の街道と深沢城
※画面をクリックして拡大して見て下さい。
この通り海岸線が現在の位置に近づいた古墳時代に創建された伝承のある平塚八幡宮と前鳥神社を除いて古代の海岸線の湾の最深部や半島の付け根と先端に存在し、内陸部が古代の矢倉沢往還や中原街道の通過点に存在している事が解ります。
実は現在の東海道は江戸時代に再整備された道の近くに作り直された道なのですが、平安時代以前の主要街道は海沿いの古代東海道と内陸の矢倉沢往還の2本でした。
矢倉沢往還は・・・
御殿場市の山側北部を通過する矢倉沢関所を通過し足柄郡から国道246に合流する道で足柄峠~足柄関~寒田神社~比々多神社~五社神社~杉山神社~橘樹神社と続き悉(ことごと)く国府や郡衙(市役所みたいなの)と延喜式内社の近所を経由する街道です。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
古東海道は・・・
綾瀬市五社神社辺りで矢倉沢往還と分岐~神崎遺跡~藤沢市宇都母知神社~大庭神社~村岡城~鎌倉市御成町(推定郡衙)~逗子市岩殿寺~桜山古墳(蘆花記念公園)~葉山町下山口~神武寺~上山口~横須賀市走水神社~房総半島富津市の文字通り東の海沿いの尾根道と海を船で越える海路で、悉く平安時代以前から存在する倭建命(やまとたけるのみこと)神話や弥生時代~古墳の重要な遺跡の残る地域の神社を通過します。中世に成ると古代の尾根道から山麓の平地に人の流れが変わり道が開かれ、山上の古道は修験者の山岳聖地巡礼の順路に成った様です。
その古道の‟矢倉沢往還”の起点と古東海道からの敵軍の小田原城防衛ラインの前線が深沢城と山中城だったんです。
近くの小山町は古代駅伝制の横走関=店屋(てんや=兵站)と考えらている上横山遺跡も有り深沢城は重要な街道を防衛する城でした。
小田原城防衛網
そしてこの足柄峠の古東海道と箱根の中世東海道を守る城が深沢城の後ろにも幾つか存在し、戦国時代の大名北条家の本拠地‟小田原城防衛網”を形成していました。
深沢城の北西の甲斐国には北条家と敵対する武田家がいました。
武田菱
  武田VS北条
   三つ鱗紋
深沢城を攻略されると一番ショートカットで小田原城を襲撃されてしまう訳です。
武田信玄
この肖像画は風林火山で有名な武田信玄ですが、特に武田信玄は・・・
「疾き事風の如く」
「侵略する事火の如く」
・・・のキャッチフレーズの通り侵略戦争をする際は用意周到に街道整備をする等、毎回必ず最短ルートで速攻するのが得意な名将である反面、他の地域の農民から見て武田信玄は攻め込んだ先では当時の価値観でも激しい凄惨な略奪や放火をしてまわる苛烈な悪の武将でもありました。
北条や今川から見ると武田軍が甲斐国都留郡経由で小田原城や今川館(駿府城)に攻めてくる可能性が高く、深沢城は特に重視された訳です。
KIMG0519
この写真は戦国時代、城として機能していた時代に根小屋(ねこや)と呼ばれた兵士や武将達の詰所(兵舎)が置かれていたと考えられている場所から城跡の主郭を見上げた写真です。
KIMG0526
今回は城址の構造は触れず、この城に関する資料の文書等を紹介しますが、ここまでで地理的に深沢城が重視されていた歴史は御理解頂けたでしょうか?
では本当にここは、戦争が起きるような場所だったの?と思う人が小生の海の景色の紹介記事等から読者に成って下さった歴史に余り関心が無かった人に証拠の文書を紹介したいと思います。

禁制
右當手之軍勢甲乙人等濫妨(乱暴)狼藉堅令停止早若違犯之輩有之者速可処罪科猶寺中門前共ニ
自今以後於竹木等も不可剪者也仍如件
奉之
江雪
壬(永禄十二年:1569年)五月十六日 宝持院
内容を簡単に今の会話に翻訳するとコンナ感じです・・・
右(禁制=禁止命令)は、ウチ(北条)の軍勢甲乙(みんな)に「乱暴な事しちゃイケねぇ~よ!」ってキツク命令する。
もし(禁止命令を)守らね~奴がいたら、ソッコーでシバクかんな。
それと寺の中も門の外も、今から(寺の土地で)竹も木も伐採するんじゃねぇ~ぞ!
まぁ、そんな感じだからよ。
江雪より~
1569年05月16日 宝持院(へ💛)
・・・この文書に登場する‟江雪”は板部岡江雪斎と言う北条家重臣で、以前大河ドラマ‟真田丸”にも登場した人物ですね。
そして文末に登場する宝持院と言うのは深沢城の近くに今も存続している寺院です。
更に宝持院の近く大雲院には安土桃山時代に徳川家が城を復興した頃の城門を移築され今も当時の門が御寺の山門として現存しています。
この文章は御寺の人が深沢城に駐留する北条軍に乱暴されない様に、北条家の殿様が御寺に配慮して、和尚さんが北条軍の司令官宛てに「ウチは北条家の殿様に守って貰える確約ありますよ!」って見せれる財産安全の保障の証拠として重臣の板部岡江雪斎サンに書かせた物です。
この時に駐留した軍勢は横浜市と鎌倉市の兵隊で、率いていたのは玉縄衆大将、北条綱成(ほうじょうつなしげ)公です。
北条綱成
この人⤴※KOEI信長の野望画像
この綱成公の率いる玉縄衆は異名が黄備え隊で、軍旗が朽葉色で統一された軍隊でした。
朽葉色ってのは9月中旬が見頃の黄花秋桜(キバナコスモス)の色ですね。
KIMG0286
この花⤴が黄花秋桜。因(ちな)みに、この写真は北条綱成公が建てた鎌倉市の龍寶寺の綱成公の御墓の前に咲いている黄花秋桜の写真です。
 これ⤴以前書いた北条綱成公の紹介記事ですが、ブログ書き始めたばかりの頃に書いたので内容が薄っぺらく何の参考にも成らないかと思います。
黄備えの副将は横浜市磯子区~港南区にまたがる笹下城主の間宮康俊公と間宮康信公の親子でした。
これ⤴以前に間宮家を紹介した記事。
実はこの書状で北条の殿様の代理で板部岡江雪斎サンが1569年5月に宝持院に対して近い将来大軍勢が来て駐留する事を見越して御寺に安全保証する文書を書いているのは翌月6月に武田家が深沢城に攻めて来たので事前に危機を察知して防衛強化を始めた時期だった事が解ったりします。
そして、ちょっと長いですけど、もう1通こんな文書が残っています・・・
急度(きっと)令啓候、仍(=なお)信甲之人衆、今十六、駿州之内號(号)深澤新地寄來(来)候、左衛門大夫(北条綱成)、松田(松田憲秀)以下楯籠(=立てこもり)候間、不可有別條候、伹(※誤字→但)只今之時分出張爲(為)如何(いかが)子細(しさい)候哉、何篇二も、今明行之様子見届、重而可及註進(注進)候、然而、始小幡動衆之由申候間、新太郎(北条氏邦)申付、向西上州及行候、哀其父子一人有出陣、万端(ばんたん=何でも)新太郎被相談ニ付而者、動可爲思儘(まま)候、若(もし)横合(よこあい=邪魔する)有之者、可然人衆數(数)多可有加勢候、必々(必ず×2)有遲(遅)々者、不可有曲候、如何様ニも、廿(二十)日廿一日之間ニ御動専一候、委細新太郎可申候、恐々謹言<br />追而越國(越後国)へも及飛脚候間、相心得被申入、任入候、以上
  六月十六日 氏政(北条氏政)
    由良信濃守(由良成繁)殿
・・・これ、1569年当時の北条家の当主の北条氏政公が傘下の小大名の由良成繁(なりしげ)公に送った手紙なんですが、この時攻めて来た武田信玄によって深沢城は落城します。
この差出人が北条氏政公の手紙を要約すると・・・
武田信玄KOEI
武田信玄⤴️※KOEI信長の野望画像
「長野県と山梨県の武田軍が攻めて来ちゃった!」
「ヘルプ!」
「ダメ、援軍遅刻、絶対!」
「同盟者の上杉謙信(この人)⤵にも緊急拡散して!」
上杉謙信KOEI
上杉謙信公⤴️※KOEI信長の野望画像
・・・と由良サンに対して書いているのですが、氏政公自身が2万の大軍の本隊を率いて大遅刻したせいで武田軍の2万に深沢城は取り囲まれたまま籠城不可能な状態に追い込まれ敗戦しました。
良くいるでしょ・・・
「遅刻するなよ!」
「30分前出社!」
・・・とか言いながら自分がルーズな経営者(笑)。
小生はこの北条氏政公は思考パターンと行動が適応障害者だったと推測してるんです。
変な拘りに完璧主義過ぎて毎回、十分に軍勢が揃って自分が安全に戦える状況に成らないと援軍行かないせいで肝心な合戦で何回も敗戦し北条家が勢力伸長に失敗する事に成るんですよ。
コレ⤴とかね。
玉縄衆は善戦し北条綱成公と間宮家はかなり粘ったのですが、武田信玄配下の鉱山衆によって破壊工作が行われ俗説には水の手(給水施設)を破壊されて籠城不能に成ったと言われています。
小生は個人的に玉縄衆だけでなく、裏切るマン松田憲秀親子が一緒に籠城していたので松田が撤退を主張したんじゃないかなぁ~?とか思っていたりします。
実際に当時、北条家の同盟者だった上杉謙信公は上州方面から武田家にプレッシャーかけるか直接援軍を送るつもりだったらしくコンナ事を言っています・・・
上杉謙信KOEI
KOEIのゲームの上杉謙信公⤴
肖像画の上杉謙信公⤵
上杉謙信
上杉謙信「(自分にも勝った)地黄八幡(北条綱成)が負けたちゃったYo~!」
実は上杉謙信公、北条綱成公の息子さんの北条康成公が3千で守る鎌倉市JR大船駅近くの玉縄城を15万の大軍で攻めたのに攻め落とせず撤退したり、まだ北条家と武田家が同盟者だった時代に長野の上田城に援軍に来た北条綱成公や千葉県方面の戦争で玉縄衆に結構苦戦させられてる歴史が有るんですね。
・・・なので上杉謙信公ですら北条綱成公が負けると思ってなかったらしいですね。
なんせ上杉謙信公が上杉家を継ぐ前の話ですが、河越城の攻防では北条綱成公達は3千だけで8万の上杉軍相手に半年間も籠城に成功した挙句・・・
北条氏康
綱成公の義理のお兄ちゃん⤵⤴北条氏康公
北条氏康公
・・・綱成公は小田原から当時の主君で義兄弟の北条氏康公の本隊8千を迎えて合計1万1千で上杉軍8万夜襲して挟み撃ちにしてギッタンギッタンにして壊滅させてる名将なんですね。
なので小生は深沢城の敗戦原因をずっと・・・
「(裏切気質の)松田憲秀が撤退主張したやろ(怒)!」
・・・と思ってました(笑)。
実は今回、定説の水の手云々(うんぬん)の話しと異なる可能性を知る事が出来ました。
御殿場市の学芸員サンと地元の地主さんへの取材で小生が本丸跡と推定している二の丸の空堀で焼けて炭化した米が発掘調査で見つかっているんですね。
KIMG0779~2
※クリックして拡大して見て下さい。
この縄張り図で真ん中の‟二ノ丸”と書いてある場所と上の‟本丸”と書いてある場所の間、左側にクビレてる空堀ですが、そこから炭化した米が調査でも発掘されているし、仲良くなった地主の御爺ちゃんも子供の頃にそこを「掘ると焼けた米が出て来たんだよ」って教えてくれたんですね。
KIMG0782~2
この2号堀て辺りだそうです。
2号堀の上側が小生は三の丸だと思ってるけど、地元では本丸と呼ばれている場所。
KIMG0552
その城櫓(しろやぐら)辺りは‟二ノ丸”と呼ばれている場所で、下の縄張り図のⅠ郭(本丸)とⅡ郭(二ノ丸:小生はⅡ郭が本丸だと思う)の間の②の空堀の本丸側。
仲良くなった地元のオッチャンの話では田んぼにする前の地形では棚田3段分くらい約3mくらい今より高い地形で城の地形の中で最高所だったそう。
KIMG0783~2
‟Ⅱ郭”が縄張り的にも小生はこの辺りが本丸だったろうと思ってます。
ここからは写真で見る限り八王子城の御主殿(城主屋敷)と酷似した構造物も見つかってます。
KIMG0784~2
完全にここ二ノ丸が政庁であり城代の屋敷だったと個人的には考えています。
下に見えてるのが根小屋と呼ばれていた地形なので兵舎の並ぶ区域だったんだろうと思う。
で、焼けた米が出土する訳ですが、小生は実際は武田家の鉱山衆は水の手を切って落城させたんじゃなくて、二ノ丸の下の根小屋側・・・
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ここの‟水の手の根小屋側”から武田家の鉱山部隊が弓矢の届く範囲まで仕寄り(塹壕)を作りながら攻城陣地を築いて来て、火矢や火薬で二ノ丸食料庫を放火し北条軍の戦闘を継続不能にしたんじゃないかと新しい説を考えました。
この焼けた米の話を学芸員サンに聞くより早く、地主のオッチャンに教えて貰った際に・・・
小生「こんにちわ~」
・・・って声掛けたら未だ何にも言ってないのに・・・
オッチャン「横浜から来たの?」・
・・って聞いてきてビックリ!何で分かったんだろう?と思いながら・・・
小生「そうだよ横浜から来たよ~」
・・・って言ったら珍しい奴だなって喜んでくれて、オッチャンが子供の頃の土塁とか地形を削って農地にする前の話を沢山聞かせてくれて「又遊びにおいでね~、ここにいるから!」って言ってくれて嬉しかったんだ。
凄い偶然だけどオッチャンのムスメさんが小生の家の近所の港南台高島屋で働いてたそうだ。
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で、この写真の左側辺りが焼けた米の出た空堀だったかな?
後から学芸員サンにも凄く丁寧に教えて頂く事が出来ました。
実はこの深沢城ちゃんと(笑)火災に遭っている記録が有るのですが、それは北条家と武田家の合戦の時ではなく、織田信長公と徳川家康公の連合軍が武田領に一斉に攻め込んだ際に深沢城代だった武田家臣の駒井昌直が自ら放火して城を放棄した記録だけが残っています。しかし小生が思うに未だ徳川軍に攻め込まれてない時間的に余裕の有る状況で撤退する際に兵糧と金銭を焼き捨てるとは考え難いので、炭化した米は北条家と武田家の戦闘で焼け、更に武田家臣駒井が城を放棄した際に建物が焼かれ、徳川家が安土桃山時代に改修し再利用後、再度放棄され廃城に成った一連の土木事業の中で細かい時代考証が出来ない状況に成ったんじゃないかな?と個人的には感じました。

さて、城の構造の説明が入口からではなく、状況説明のついでに成ってしまったので見学コース沿いに紹介して見ます。
CIMG0064
入口がここ。
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現在地の場所ですね。
この看板の裏にも三ノ丸の三日月堀と表記されている空堀が有ります。
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少し解り難いでしょうか?
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御城行くのが好きな人は良く解ると思うのですが、城址公園化されてない空堀って写真じゃ伝わり難(にく)いんですよ。
その看板の横側から農道兼散策路に成っていて、入って直ぐに空堀が見えます。
CIMG0066
これは比較的状態が良い。
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ここは‟丸馬出し”と呼ばれる半月状の出撃口の遺構です。
本来、我々城郭ファンはこの丸馬出しの空堀の事を三日月掘りと言います。
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その馬出しの削平地には石碑が立っています。
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昔は東名高速道路が無かったから深沢城の前の足柄峠を通過する際に観光で立ち寄る人もいたのかも知れませんね。
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その下の空堀。
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二ノ丸の手前、‟下馬溜め”と言われている構造体の空堀が雑木林化してるが現存。
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ここは小机城の構造に似た構造が有るけど、変形の食い違い虎口(敵の侵入を制限し迎撃する構造体)だと思う。
下は小机城の現存部分の縄張り図。
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これの②の構造に深沢城現存部の‟下馬溜め”は似てる。
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下馬溜めの空堀だけど写真じゃやっぱり訳が解らないね。
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下馬溜めから二ノ丸に繋がる武者走り&空堀&土塁
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そして二ノ丸入口。
更に奥に本丸。
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本丸に続く土橋。両脇は空堀。
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本丸側の城櫓とされる削る前は場内最高所だった郭。
下に根小屋地形が見える。確かに小机城の根小屋とも酷似する。
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本丸は今では風に靡く稲波美しい。
地主のオッチャン、色々と親切に教えてくれてありがとうね!
色々と発掘調査資料を提供して下さった御殿場市教育委員会様、ありがとうございました。
御殿場の皆さんはとても温かったです♪

さて、深沢城この様に結構空堀は立派に残っています。もし御殿場方面に行く機会が有って本当に御城が好きな人は立ち寄る価値が有ると思います。

きっと皆さんの御近所の神社や御寺や公園の山も、元々は御城だった場所が有ると思います。
気分転換したい時にちょっと御近所の神社や御寺や城山を歩いて看板を読んでみませんか?
きっと皆さんと歴史偉人を繋ぐタイムマシーンみたいに感じ自分の町を更に好きに成るかも知れませよ~?

・・・では、次は前回の休日雑記の続きか銭湯の記事で御会いしましょう~♪
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常楽湯
100年超の歴史を有する老舗銭湯
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☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 100年以上の歴史が有るよ◎
 貴重な昔ながらの薪の沸かし湯◎
 今では貴重なボットン便所(笑)◎
 壁画は沼津市久連辺りの駿河湾?
 タイルのモザイク壁画も可愛い◎
 大船駅前の商店街が有り面白い◎
 大船フラワーセンター徒歩圏内◎
 大船観音寺の徒歩圏内◎
 北条綱成公開基龍寶寺徒歩圏内◎
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人490円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等は備え付け無し
 使い切りシャンプー類販売有り
 レンタルのハンドタオル有り
 飲料販売有り
【電車】
 JR大船駅~徒歩10分
 富士見町駅~徒歩05分
【  車  】
 駐車場無し。
 近所に有料駐車場有り。
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
——店構え——
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——番台と建物——
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——浴室と壁画——
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KIMG7674
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大船駅から徒歩10分、湘南モノレール富士見町駅から徒歩05分と交通の便が良い。
周辺が田園で湘南モノレールが開業するより遥か以前の100年前には既に開業していた。
常楽湯の建物も昭和初期の建築で現代では見る事が少ない貴重な“ボットン便所”も有る意味見所かも知れない(笑)。
昔ながらの番台が有り、昭和の古き良き銭湯の姿を今に残す。
ここの売りは現在では少なくなった薪を燃やした火力による沸かし湯で、ガスや燃料で沸かす湯と異なるので銭湯ファンに人気。主な入浴客は地元民だが、遠方からも入浴客が来る。
鎌倉の小町通り等は観光地なので閉店時間も夜早く19時頃だが、乗り換え拠点の大船駅周辺は住宅街&昔は松竹撮影所が有った地域密着ながら大きな商店街なので居酒屋も多数、鎌倉観光の帰りに途中下車して大船で飲んで帰ったり、御惣菜を御土産に買って帰るのに丁度よい。
昔は鎌倉駅前にも銭湯が有ったが今では材木座の清水湯のみ、大船駅近くに在る本当に昭和のまま100年の歴史を有する“常楽湯”で鎌倉観光の汗をサッパリ流して帰るのは心地良い。
大船駅構内には昭和の映画スター達が愛した老舗の鎌倉大船名物“鯵の押し寿司”を売る大船軒が今も営業している。
鎌倉観光に遠方より電車で来られている方には旅の御供の駅弁にイチオシ。
大船駅前の商店街には横浜~鎌倉に展開する鶏専門店の“ハマケイ”があり名物の鶏1羽丸揚にした“カブト”等も売っているので良い御惣菜土産にも成る。
又、近くに日比谷花壇大船フラワーセンターや戦国時代南関東最強の武将、北条綱成公の菩提寺た龍寶寺と玉縄城の資料館である玉縄ふるさと館、大船観音で有名な大船観音寺も有る。
大船フラワーセンターで季節の御花を見たりピクニック帰りに立ち寄るにも良い銭湯。

さて・・・
常楽湯の魅力伝わったでしょうか?

今後は銭湯の情報が有る程度集まったら、コレ⤵
この穴場海岸一覧の記事みたいな感じで横浜市と鎌倉市を中心に昔ながらの銭湯一覧に編集したいと思います。
少しづつ書き足しますが、皆さんの旅の助けに成れば幸いです。
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実は今、検査キットを日本に個人輸入しようとしてる人達がいますが、民間で検査キットを販売するのは好ましくないのが日本の現状です。
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中国で新型肺炎の感染者が爆増していた時期・・・
日本の国内法と安倍総理⇔習主席の信頼関係等の諸々の大人の事情で日本は当初は中国からの旅客を拒絶出来なかったでしょ?
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・・・本当は国民も政府も無自覚感染者と自然治癒出来る年齢の感染者で溢れてるの皆知ってるんですよ。特に横浜市民は最近落ち着いてるけど1月末~2月頭は検査受けられない新型肺炎と似た症状の人が沢山いたしね。
だから検査しても大量の軽症患者を判別されて病院に来られても専用治療薬が未開発な現状、重傷者に優先的に使用すべきAIDSや喘息の転用出来る医薬品にも限りが有り医療破綻を起こすだけなんです。
でも今は故意に重傷者優先に病院の病床を確保して、イタリアや韓国みたいな医療崩壊を起こさないてのが政府の戦略なんです。
だから勝手に軽微な感染者が自分で検査して入院させろと騒ぐ事態が発生するのは好ましくない無いんですよ。
幸い日本人の衛生観念は諸外国より少しだけマシなので、今は小規模集団感染(クラスター感染)の発生を潰す事に集中する政策なんです。
感染者が激増し始めた時に大規模コンサート強行する連中はいた。
新型肺炎抑え込みに重要な時期だったからXーJAPANのYOSHIKIとIPS細胞研究所の京都大学山中教授が緊急の対談で警告までしたよね。
新型肺炎に話を戻すとさ、余り新型肺炎自体がどんな病気か理解してないまんま大騒ぎしてる人もいるし、ナメてかかってる奴も未だに多いよね?
そこで山中教授が動きました・・・
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コロナウィルスの正しい情報を我々一般人に解説するサイトを開設して下さいました。
コレ⤴️です、是非御覧下さい。

日本にはアメリカや中国みたいに経済的な体力も無ければ、都市単位で籠城し食料を自給自足する農業生産力もありません。
ですから日本国は新型肺炎ウィルス封じ込める為に都市封鎖も出来ません。
国民がクラスター感染起こさない為に自粛要請し軽症者は自宅隔離し、重傷者治療に重点を置き病院のキャパを維持し、その間に治療薬の開発と代替薬を試しまくってる訳です・・・
つまり、持久戦。
・・・薬の特許は幸い日本の製薬メーカーが持ってる喘息の薬等が効果的な事も判明してますし、治療は出来るが院内感染起こさない専門病院が足りない。
だから、その検査キットは日本に輸入させて欲しくないな~。
他都市から大人に成ってから移住して来た“俄(ニワカ)横浜人”ではなくて生まれも育ちも横浜でずっと“横浜市歌”を歌って宗教の様に(笑)横浜人としての気概をすり込まれて大人に成った生粋の“ハマっ子”は日本経済は日本人だけでは回せない世界中で協力して生産活動も商業も回ってるって良く解ってるのよ・・・
ペリー神奈川上陸
・・・最早、中国もアメリカも経済的に切り離せない“身内”みたいなものだって幕末~明治時代の開港~横浜・川崎の発展の起爆剤と成った横浜シルクや鉄工業や軍需産業~造船や自動車産業の重工業~プラント建設等の経済活動の歴史を通じて自覚してるんだね。
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だから中国や台湾や香港やシンガポールの中華圏と商売してる人も商工業等の業種問わず多いから中国に知り合い沢山いて、本気で武漢で新型肺炎感染者が爆増した時に中国の人達を身内同然に心配した人は多かったんたよね。
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ハマっ子と川崎市民と横須賀市民と恐らく神戸や函館の人はさ、日本の他都市の市民と違い、日本は世界の一部で同盟国アメリカも老友漢人も台湾人も香港人も、日本人と一緒に世界の一部で国を跨いで協力しないと今の苦境を共に乗り切る事は出来ない”と直ぐに悟ったのよね。
赤レンガ倉庫には明治時代から海外船便で到着した貨物を輸送していた蒸気機関車の線路が今も残されているの。
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世界の港に繋がる線路。
これを知ってるハマっ子は中国で起きた事は日本にも来るし、彼等と一緒に解決するしか経済や工業の為にも生きる道が無い事を皆悟ったのよ。
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だから今回の新型肺炎を日本に持ち込んだ武漢からの観光客がいても、会社の中国人を虐めるバカなハマっ子の話なんて聞かないのよね。
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経済と商業の守神であり三国志の英雄でもある関羽サンも横浜市民を守ってくれてるし・・・
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・・・台湾人の神様の媽祖様も横浜港を見守ってくれてるし。台湾が日本に併合されていた時代には媽祖様は日本神話の倭建(ヤマトタケル)命の御妃様だった弟橘媛(おとたちばなひめ)に習合されて台湾人に崇拝されていた歴史も有るのよ。 
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日本最初の聖公会系のキリスト教会の山手聖公会も中華街元町の隣の山手地区には存在するしね。聖公会系教会は香港にも多い。
世界は日本人だけで回してる訳でも、漢人だけで回してる訳でもアメリカ人だけで回してる訳でもないの。
日本を信頼して観光客来てくれて嬉しかったし。
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中国では関羽サンの他に岳飛サンて農民から将軍に成り、滅び行く南宋を守り、同僚に出世妬まれ殺された後に中国人から尊敬され神様に成った名将がいるの。
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横浜市の中心部、中区の武将達を与力に従え活躍した関東最強の武将、地黄八幡(じきはちまん)の異名で呼ばれた北条綱成公も神奈川県にはいたのよね。
もし歴史シミュレーションゲームで岳飛と北条綱成両方配下武将に出来たら強いよね(笑)?
だから単独の国単位で新型肺炎と戦うのはダメなの。

今回の敵は人類共通の敵の新型肺炎なの。だから日本人と中国人もアメリカ人も一緒に協力して一緒に戦わないと人間は完全に新型肺炎にも勝てないのよね。
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日本のビール産業の父であり麒麟麦酒の前身と成ったスプリング・ヴァレー・ブルワリーの創業者ウァリアム・コープランド先生と日本人の奥さん(旧姓:勝俣)ウメさん御夫妻も山手の丘の外人墓地から横浜市民を見守ってくれてるの。
国籍を問わず、あらゆる横浜市民を見守ってくれている。
コープランドさんはノルウェー🇳🇴で生まれたアメリカ人なの。
KIRINサンも今でもコープランドさん御夫妻を顕彰してる・・・⤵️
工業も建築も商業も“疫病封じ”も世界で協力して行わなければ成功出来ないし、お互いに批判してる余裕は無いの。
だから習主席とトランプ大統領も上手くやって欲しいなぁ~。
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こんな風にどっちかが怒って、どっちかが笑ってみたいに新型肺炎も流行にタイムラグ有ったけどさ・・・
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こっちのが日本人としても心強いよ。
習主席とトランプ大統領の喧嘩は、それぞれの国の事情の違いから生まれたモノでしょ?
それぞれの国が同じ様にすれば今回の新型肺炎に人類が勝てると言う訳でも無い。
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こ~で⤴️
こ~で⤵️
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こう⤵️
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・・・の方が世界は強く平和でいれる。
習主席とトランプ大統領、良く裏で相談して新型肺炎の出所問題は上手く落とし所を作って下さい。
何なら調整上手い安倍首相も入れて3人で話を合わせたら良い。

冒頭で言った通りね、全部WHOの例のアフリカ人のオッサンが非常事態宣言しなかったから悪いんだけどさ・・・
images (2)・・・コイツ⤴️が世界中で多くの人が新型肺炎ウィルスの犠牲に成った全ての元凶ね。
実際日本では中国からの旅客の検査や隔離等の非常時対応が法律上の問題で出来ず遅れたから“既に相当数無自覚感染者がいる”のは日本人は何となく周り見て解ってるの。
だから今大切なのは、新型肺炎重傷者を死なせない事なんだよね。
だから今は全数検査し軽微な感染者を特定する事は病院のベッドを埋め尽くす医療崩壊の素でしかないの。

だから中国から検査キットの大量輸入は止めて欲しいな~。
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だからコレ⤴️要らない!
いくら日本人の衛生観念が比較的優れていても、栄養状態良くても、健康な無自覚感染者みたいな人は多いからさ、イタリアみたいに軽微な感染者が入院して医療崩壊する事態は回避しないとね!

あと個人的に意見。
オリンピックは来年か再来年開催で宜しく~♪
そしたらチケットもそのまんた使えて払い戻し不要でしょ?
今回延期されても選手も次回参加辞退しなければ選手そのまんま出す方式で良いじゃん。

ではでは~
🇯🇵🇺🇸🇨🇳🇲🇴🇸🇬🇭🇰🇹🇼🇮🇳🇬🇧🇦🇺🇳🇿🇨🇦🇹🇷
我々日本人、アメリカ人、漢人、客家、台湾人、香港人、シンガポール人、英国人、インド人、オーストラリア人、ニュージーランド人、カナダ人、トルコ人、関わり強い国々皆で頑張って、又幸せに成りましょう~♪

検査キット個人輸入は要らないから。
政府か自治体に寄付して。
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Twitterで朝日寺サンと言う志田峠に在る御寺の方に武田家vs北条家の大合戦、三増峠合戦の経過を時系列で話す機会が有ったので、そのツイートを画像に切り取って転載しときます。
    武田軍       北条軍
武田菱vs 三つ鱗紋
兵力  20,000                  20,000

死傷    1,000                    3,000
武田信玄が北条家の息子達を翻弄し、北条家も局地戦で黄備え玉縄衆大将の地黄八幡北条綱成公が活躍した合戦なのに結構、歴史ファン入門くらいだと知らない人も多い名合戦なんだけど。
因みに話題に登場する主要人物紹介。
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ゲームの武田信玄⤴
肖像画の武田信玄⤵
武田信玄

北条氏康
ゲームの北条氏康公⤴
肖像画の北条氏康公⤵
北条氏康公
北条氏政
高嶋政伸サンの北条氏政公(笑)
丸に三ツ鱗紋玉縄北条家

隅立て四ツ目結び紋間宮家
蔦の葉紋臼居家


では以下Twitterからの転載です。
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