横浜と隣の鎌倉には、その内の3人の殿様と1人の名副将がいました。
シリーズ化し個別に記事にします。
関東最強武将だった1人を紹介します…
北条五色備えの“黄備え”!
※KOEIさんのゲーム画像拝借
北条五色備(ごしきそな)えの"黄備え"を務めた。
渾名(あだな)は「地黄八幡(じきはちまん)」。
家紋は丸に三鱗紋。
北条"地黄八幡"綱成公が城主を務めた玉縄城は、今のJR大船近く玉縄地区〜横浜市栄区長尾台〜藤沢市二伝寺の広大な範囲にまたがって在った御城です。
鎌倉市一帯と相模湾を守る為に築城された難攻不落の城です。
城主だった綱成公は今でも有名でKOEIの信長の野望天道でも高評価されてます。
統率92 武勇96 知略79 政治60 義理89
…恐ろしく強いですね。
実績と比較して、まだ不足ですが。
SEGAでは更に高評価。
武力10…最高評価です。
まぁゲームの話はここまでにして・・・
玉縄城主だった北条綱成公と御子息達の墓所は、北条綱成公が開基(かいき:寺院を開く事)した龍寶寺(りゅうほうじ)に有ります。
下は龍寶寺の写真です。
この龍寶寺の裏山も龍寶寺城と言われ山が裾切されており尾根のところどころに平場が削平されていて玉縄城の一部を形成していました。
龍寳寺には玉縄民族資料館があり、玉縄城址の遺物や復元模型も展示されています。
これ↓玉縄城の復元模型。
保管されている↓城門と本丸の礎石
あと鎧と兜
これ↑雪の下胴と言って鎌倉特産の甲冑でした。
伊達政宗もコレ着てましたよ。
玉縄城の本丸は今では女子校が建っていて、男性の歴史ファンにとっては有る意味「攻略不可能」な最強の城に成ってしまいました…。
綱成公は、まさにリアル戦隊5レンジャーでしたwww。
地黄八幡とアダ名で敵武将達から呼ばれた玉縄城主の北条綱成公は、小田原北条家2代北条氏綱公の婿養子でした。
北条家3代目の殿様北条氏康公とは義兄弟に当たり、最前線の防衛や外交を任され非常に信頼されてました。
上杉謙信公や武田信玄を合戦で撤退させる事数回、名実共に南関東最強で、戦国最強クラスの指揮力・統率力・判断力・カリスマ性を備えた名将でした。
無論、上杉謙信公や武田信玄は戦以外にも優れた能力が有り動員兵力も規模が異なるので比較出来ない部分も有ります。
綱成公は戦が始まると「勝ったぞ~(始まったばっかなのに)」と言いながら朽ち葉色の布に「八幡」と書かれた軍旗で統一した軍勢で攻撃をしかけ敵を撃破したそうです。
朽ち葉色と言うのは下の写真の黄花秋桜(キバナコスモス)と同じ色ですね。
綱成公の余りの強さから綱成公の守備していた静岡県の深沢城から撤退した際に、城内に残されていた黄色の旗印を武田信玄が接収して持ち帰り、家臣の真田信伊(のぶただ※幸村こと真田信繁の叔父)に与えたそうで、この旗は今でも真田家の居城長野県松代城に保管されています。
この逸話や、河越夜戦や国府台の戦場で「勝ったぞ!」と叫びながら八幡大菩薩の旗印の黄備え部隊が敵陣を奇襲蹂躙し追撃する様から他家武将に"地黄八幡"の渾名(あだな)で畏敬の念を込め呼ばれていました。
綱成公の強さを示す1番の実績は"河越合戦での活躍です。
戦国時代、優れた民政により民百姓の支持を得た綱成公の主君北条氏康公は関東で勢力を拡大します。
その過程で旧勢力の筆頭格関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った)で激突します。
その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利。
北条家兵力 3,000
上杉家兵力80,000
河越城の主将は北条幻庵公。
幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主で風魔忍者の管理者でした。
それを補佐する玉縄城主綱成公。
両者の動員兵力はわずか。
対して関東管領上杉家&古河公方足利家の連合軍には関東地方の古豪大名達がこぞって参集し10万人に迫る勢いでした。
この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で半年間も敵を跳ね返し続けました。
そんな中、敵に厭戦(えんせん=ダラけ)氣分が蔓延し始めます。
それを待っていた綱成公の義兄で主君北条氏康公が小田原城より8000の兵を率いて来援します。
しかし綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。
だからこそ、氏康公は敵勢がダラけるのを待っていたんですね。
敵勢が油断し酒盛りを始めたある晩、氏康公が夜襲で奇襲をしかけました。
同時に河越城から綱成公が出て敵に突撃します。
敵は多いが油断して規律も乱れボロボロだった状況で北条家の義兄弟コンビに奇襲挟撃(きょうげき=はさみうち)され瞬く間に壊滅しました。
上杉家連合軍側の被害は甚大で…
連合盟主:古河公方足利晴氏→捕虜
主要大名:扇谷上杉家→殿様死亡滅亡
主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小
その他の連合軍参加大名も散り散りに逃走し大幅に勢力縮小する事に成りました。
綱成公の強さは尋常じゃないですね。
こんな殿様が鎌倉にいたなんて、神奈川県民としてとても誇らしい。
さて、では玉縄城の現在の様子を見て見ましょう。
玉縄城は現代では宅地化により大部分が消滅しています。
下は玉縄城の要塞網です。
御覧の様に北は上杉謙信の祖先の長尾定景公の居城だった長尾台城~龍寶寺城~玉縄城主要部(清泉女学院高等学校周辺)~二傳寺一帯が全て玉縄城でした。
まずは龍寶寺からスタートしましょう。
龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されています。
そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いかと思います。
鎌倉市史考古編や日本城郭大系にも玉縄城の推定縄張図(なわばりず=城の設計図)が掲載されており散策の参考に成ると思います。
龍寶寺には平成の27年頃まで裏山の上に有った玉縄北条家の墓石が移設されており、供養塔が「玉縄城址町作り会議」の方々が出資して新造した供養墓が中心に、移設した墓石が右手に祀られています。
玉縄城を見学するなら先ずは玉縄城主の北条家の殿様の供養塔を御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だと思います。
郷土資料館の展示を見てから訪問すれば解りやすいですしね。
順路としては・・・
お墓参りをして。
↓
龍寶寺の裏山も龍寶寺城跡ですから、一般の墓地から登り山上の旧北条家墓所辺りの削平地や裾切りされた尾根を見てから降りて来て。
↓
郷土資料館を見て。
↓
先ず最初に七曲りの虎口を訪問。
こうすると無駄無く見学出来ます。
七曲り虎口の虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事です。
基礎的な事は下のリンクから用語集を見ると図説が有るので初心者も解りやすいです。
余り歴史に関心が無かった人は「城=天守閣」と誤解してる方も多いので上のサイトで復習してから今から掲載する小生の解説と写真を見ると城の構造を理解し易いと思います。
龍寶寺から徒歩5分ちょいと直ぐの場所に玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有ります。
今は本丸は女子高で遺構は地形しか有りませんが男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落の城ですwww
しかし七曲りから主郭の清泉女学院の台地に登って行くと現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来ます。
神奈川県を含む南関東の地層は他地域と異なり関東ローム層と言う富士山の火山灰で出来た堅い赤土の地層と隆起した砂岩の地層で出来ています。
下の写真は横浜市都筑区の茅ヶ崎城の曲輪(くるわ:兵士の待機スペース)と曲輪を分断する堀切と言われる空堀です。
赤土が露出しているのが解るでしょうか?戦国時代の関東の御城は石垣では無くてこの様な土を削り出した城でした。この土壁に戦闘開始時に水を撒いてしまうと敵は登って来れない訳ですね。
更に!この空堀の底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれるさき先端を竹槍状に加工した木の杭や竹の杭の束を設置し、登ろうとする敵を槍等で突き落としたり敵が勝手に足を滑らすと堀底の逆茂木に・・・
「グサグサッ☠!」
・・・と勝手に串刺しに成って死んでくれる石垣城よりも恐ろしい防衛能力を発揮する訳ですね。
登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が45°~60°は確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない訳です。
当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグを通らないと上に登って行けない構造でした。
そしてこれらの道も地盤も樹木を伐採してあり、先程の茅ヶ崎所の写真の様に赤土が露出していた訳ですね。
フェンス内の農道は段々に成っており武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っています。
現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎて写真でも解る通りフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていないんですね。
ここで明治時代の迅速測図と現代の地形を比較してみましょう!
以上が山中城の構造な訳ですが、全然真っ直ぐ進めないし赤土の城の殺傷能力の高さも御理解頂けたでしょうか?
これらを踏まえると「七曲り虎口」は元々「七曲り」なのが明時代の地図では「五曲り」位に簡略化された上に道幅も広い大手道に拡張されてしまっていますね。
・・・とは言っても七曲りは写真の通り空堀の堀底道として機能しており高い防御力を保っています。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ます。
この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られます。
この様な関東流の築城の仕方を「谷戸構(やとがま)え」と呼びます。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有る難攻不落の城でした。
武田家 四つ割菱紋 上杉家 竹に雀紋
無論、城の解説より先に紹介した城将の北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将です。
上は玉縄城址まちづくり会議の皆様が設置してくださっている縄張図です。
解りやすいですね。先程の写真の三角平場と言う場所が丁度、画面の真ん中辺りです。
やはりネットで文章だけの情報を鵜呑みにしたらダメだですね。
説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
下の写真で凄く深い堀切状の空堀が有るのが解るでしょうか?
写真にすると遠近感が無く成り良く解らないんですよ、土の御城の空堀って。
敵は堀底の道を遠回りして攻めるしかなく、下の空堀を敵が通過しようとする時に鉄砲や弓矢を雨の様に射撃して射殺してしまう訳ですね。
これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だったのですが、残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっています。
・・・と偉そうに解説してますが、こんな見つけ難い場所だったので地元の方に教えて貰うまで見つかりませんでした(笑)。
登ると上に小さな仏様と石碑が有ります。
玉縄城址の石碑。
こう言う事が明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物には多く有るので文面をコピペせず御自分で史料を読まれる事が大切に成って来る訳です。
さて皆さん、玉縄城の解説どうでしたか?
JR大船駅に電車で来て時間が有れば、是非龍寶寺の郷土資料館や北条綱成公の御墓参り等してみては如何でしょうか?龍寶寺~七曲り虎口や硝煙櫓辺りの空堀も歩いて10分程度です。
もし機会が有れば玉縄城散策をして北条綱成公と言う明武将が戦国時代の鎌倉市に居た事を思い出してあげて下さい。
では又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪