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【中村酒造】
[住所]
 〒197‐0826 東京都あきる野市牛沼63
[電話]
 042‐558‐0516
[ホームページ]
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東京都あきる野市に200年超の歴史を有する清酒“千代鶴”の蔵元、中村酒造と言う酒蔵が在ります。
車で行くならば東京サマーランドから直ぐ近くの場所に在ります。
 中村酒造場所Google map 久良岐のよし
ここは資料館も併設しており、そこで小売りもしています。
そして、この酒蔵は江戸時代の建物が残り、とても雰囲気が良く桜がとても綺麗な場所なんです。
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 入口には酒林(さかはやし)と呼ばれる杉の葉の“くす玉”が飾って有り、とても良い目印に成ります。
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先ずはせっかく酒林が登場したので、日本の酒作りと稲作の歴史から解説したいと思います。
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日本の神様を祀る神社の中でも弥生時代~古墳時代成立の古い延喜式内社や式外社には、現在も御祭神が酒作りと関係の有る場所が多くあります。
例えば上の写真の説明の通り日本最初の神社と言われる三輪神社、そして神奈川県では伊勢原市の比々多神社の御祭神に大酒解神と小酒解神の名を持つ神様が祀られています。
昔の考古学者の中でも論文ばかり書いて発掘しない学者は先入観で実地見分も行わず、「古代は河川の氾濫原に人は住んで居なかった」とか「縄文時代に農耕は始まっていなかった」とか「神社の伝承とはかけ離れた理論」をさも事実の様に展開していましたが、見事に現代の発掘調査で彼等論文バカ学者の石頭理論が「思い込みの嘘だった(笑)」事が続々と証明されています(笑)。
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例えば、この海老名市の有鹿神社、奥宮は相模原市磯部に在り縄文時代の遺跡を内包する聖地なのですが、海老名市の本宮の方は鳩川と相模川の「河川敷の旧境内地から弥生時代以後の遺跡が大量に発掘されています」が、その相模川の河岸段丘の下の河川傍の平地からは他にも弥生時代の遺跡が多数発掘されています。
つまり、文章しか読まなないコミュ障学者の言う事なんて、そいつのコミュ障ぶりと同じく価値が無いわけです。
だからちゃんと、色んな神社仏閣の伝承を調べて周辺の地形と、伝承を比較しながら昔の論文や書物に囚われず状況証拠から推測して発掘調査をしないといけない訳です。
実際に出世欲よりも探求心の強い学者さんは、固定観念に捕らわれず客観的に状況証拠を集めて遺跡の場所を特定して発掘調査に積極的に関わりますからね~。
登呂遺跡も日本神話をヒントにして発掘され発見された史跡です。
そんな事を踏まえると、関東で稲作が始まったのは古墳時代以降とか言ってる学者がまだ多くいるのはスンゴイ誤りで(笑)、比々多神社の御祭神の名前、寒田神社の日本武尊の弥生時代の木製酒杯、三輪神社の歴史、それらの状況を見れば関東でも水田では無く川沿いの氾濫原湿地帯で耕作が行われていた可能性だって十分に有る訳です。
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実は、神奈川県綾瀬市には台地上に神崎遺跡と言う弥生時代の遺跡、丁度、日本武尊神話の頃の遺跡が 存在しているのですが、これが弥生時代の遺跡なのに人が定住を直ぐに止めてしまった遺跡であり西日本からの移住者達の遺跡なのが判明しています。
ここは古代(古墳時代以降)に開かれた中原街道に面していて、神崎遺跡の先には寒川神社、前鳥神社、鶴峯山八幡宮(現:平塚八幡宮)等、古代の大規模集落を抱えていた地域の延喜式内社が在ります。
神崎遺跡と中原街道 久良岐のよし
上の画像の黄色い線が現代の中原街道旧道です。
白い部分は縄文時代まで海だった場所で弥生時代~古墳時代までにプレートが隆起し海岸線が後退して湿地に成り開発された地域です。
恐らく、古代の中原街道は神崎遺跡を通り古代湾だった寒川神社へ通じる谷間を抜けて前鳥神社へと通じていたと思います。
そして相模国府の在った有鹿神社の有鹿郷(後の海老名郷)~神崎遺跡~宇津母知神社~大庭神社を通過して鎌倉郡村岡へ通じ古代の東海道へ接続し、逗子市小坪の住吉神社の在る住吉城址前の切り通しを通過して、葉山から下山口~上山口を通過し横須賀市大津へ、そして先に在る走水神社へ続いていたと考えられます。
小生は神崎遺跡を最初から定住すのが目的の環濠集落ではなく、東へ開拓地を広める為の橋頭堡、もしくは既に開拓した寒川郷や有鹿郷を守る為の弥生時代後期の戦略拠点だったのではないかと思います。
これを証明するかのように、集落には有って然(しか)る可(べ)き方形周溝墓や竪穴式住宅に家ごと埋葬される事の多かった疫病で亡くなった人々の人骨も出土していません。
つまり稲作が始まり米と言う財産が出来た事によって開発利権の争いが起きていたと思っているから、この神崎遺跡は地勢的にも古代の物々交換の交易や豪族が軍事行動をする時に通過する街道を抑えて、県央の隆起して陸地に成った開発地域だった場所を守り、東側の勢力と戦う為の環濠要塞だったと考えています。
地形も舌状丘陵の先端に位置し、正に城を置くのに適した場所に在ります。
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地形や周辺の歴史の詳細は神崎遺跡資料館で見学出来ます。
では何で、この台地上の定住が直ぐに終焉を迎えたかと言えば、先程紹介した通り、有鹿神社周辺や相模川下流域の相模国一之宮寒川神社辺りに、この時期から続々と弥生時代の村が増えて行っているんですが、戦争の心配が無くなったからでしょう。
食料生産活動が狩猟採集から農耕に推移して、当然、戦争が無ければ集落を維持する必要も無く、水の確保出来ない丘は放棄され、稲作なり畑地の開墾なりに適した河岸段丘下の平地に人が下りて行ったと状況証拠は物語っている訳です。
そして、その平地には後に海老名郷と呼ばれた有鹿郷や寒川郷が開かれて行き、大きな豪族単位の国が出来上がって行った訳です。
米の生産と清涼な水が在る所に酒の生産地が発生します。だから古い神社の在る水の豊富な地域と酒造りは密接に関係が有ります。
中村酒造の在る「あきる野市」は古来より小河神社と呼ばれた今の二宮神社があり市内には湧水池が多く存在していたので酒造りが江戸時代にも盛んだったんでしょう。
同じ様に比々多神社や大山阿夫利神社の在る神奈川県伊勢原市は大山山系の清涼な水が昔から名水地として有名だったので、当然こちらも江戸時代から続く造り酒屋が現代にも存続しています。
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 さて、 酒作りの歴史講釈はこの程度にして、中村酒造の紹介に話を戻します。
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入口はこんな感じです。
既に風情が有ります。
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中に入ると此(こ)の通り、敷地内には販売所兼資料館に成っている蔵の前に綺麗な桜が咲いていて絵に成ります。この付近に来客用の駐車スペースも有ります。
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 資料館の入口は一度、外に出て道路側から入る事に成ります。CIMG3465
多分、御酒好きな東京人は聞いた事の有るかも知れない地酒“千代鶴”の名前。
立派な看板です。
中には酒造りに使用していた昔の道具が展示されています。CIMG3466

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販売員の方がいるので、質問にも応じて貰えますよ!
小生は今回の訪問時にちゃんと予約しなかったのですが、予約すると酒を造っている酒蔵の方も見学させて貰えます。まぁ、時期が有るので期間限定でしょうが。
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資料館の裏側の風景が桜と昔の酒造りに使用していた大樽の風景、これもタイムスリップした様で風情が有ります。
資料館の中では先述の通り物販も行っています。
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 店員さんは気さくに質問に答えて下さる方で、とても親切です。
 まぁ、こんな感じの場所なので、もし東京サマーランドなんかに遊びに行ったり歴史が好きで滝山城址を登りに行ったりするならば、車移動の人には小生御勧めの場所が、この中村酒造さんです。
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小生は御酒は好きでは無い(笑)のですが、この中村酒造んさんの雰囲気が好きなのと梅酒だけは飲むので今回も訪問し梅酒を購入しました。
これが焼酎では無く清酒で造った梅酒で、しかも“甘くない”んです。
甘くないので梅の香りが良く伝わり、甘い梅酒とは又、異(こと)なった美味しさが有ります。
色は琥珀色でとても綺麗です。
無論、清酒の千代鶴も父に御土産で購入して飲ませたところ「美味しい!」と喜んでいたので間違いないですよ~!
神奈川県も海老名市や愛甲郡愛川町や伊勢原市、秦野市や足柄上郡に日本酒の酒蔵が有ります。
東京も奥多摩地方は水が美味しくて、昔から酒蔵が有ります。
今迄、いくつか歴史探訪で訪れた町で見つけた蔵元が有るので、たまに解説記事で紹介したいと思います。

次回と、次次回は19日と22日に訪問した青梅市と羽村市と海老名市と綾瀬市と藤沢市の休日雑記を書きたいと思います。
では!又、次の記事で御会いしましょう!