歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:千葉県

千葉県に夫婦円満と縁結びの御利益とで有名な二つの古社が存在するのを皆さん御存知でしょうか?

その二つの神社の内の一方は延喜式神名帳に記載された式内社で名を玉前神社と言います。
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玉前神社(たまさきじんじゃ)
久しぶりの小生の歴史と地形解説合わせたブログ記事ですが、以前から読んで下さっていた方には繰り返しに成りますが、醍醐天皇の時代に旧律令制度では国家体制の維持が困難に成り、改革を行った制度が“延喜式”と言う物で、当時の改定版律令みたいな物です。
延喜五年(905年)から制定の取り組みが始められたので延喜式と言う名前の制度に成っています。
そして式内社(しきないしゃ)と呼ばれる神社は、その延喜式の中で国にとって重要な祭祀を行う神社として保護や管理の目的で記載された、西暦905年当時の平安時代の人から見ても歴史が“古くて由緒正しくて凄い場所”と認識された神社でした。
平安時代の人から見てとんでもなく古い歴史が有るので、当然ながら考古化学で状況証拠を集めて行くと式内社は大体が縄文~弥生時代の集落や祭祀場の遺跡が極近所に存在したり、或いは境内から遺跡が出土したりします。

今回紹介する玉前神社と縁結びの神社として対(つい)に成る、残りもう一方の神社も玉前神社との神事で関係が深く神話的にも同時期から存在していた事が裏付けられる古い神社です。
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鵜羽神社(うばじんじゃ)
この鵜羽神社の様に延喜式神名帳に記載されていない、神社化していなかった聖地や仏教的要素が取り入れられた修験道の聖地化した神話の舞台等が後に神社と成った場所を“式外社(しきげしゃ)”と呼びます。

この二つの神社の神様、関係性がややこしいのですが夫婦円満や縁結び、そして子供の健康祈願の御利益が望める事間違いなしの神様が御祭神であり、その神様の神話の舞台でもあるんです・・・

玉前神社が玉依姫(たまよりひめ)と言う女神様。
鵜羽神社が鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)の神様。
※先に複線を貼って置きます
小生はこの鵜茅葺不合は当て字であり、尚且つ読み間違えられて神様の名前が伝わっていると推測しています。
小生の推測では鵜茅葺不合(うがやぶきあえず)ではなく、鵜茅葺不合(うがやぶきあわづ)と呼ぶのが正しいだろうと、地勢的な理由から推測しています。その話は後程。

・・・この神様はちょっとややこしいのですが、玉依姫が鵜茅葺不合神の血縁上の伯母さんで、玉依姫が鵜茅葺不合の神様が幼かった頃に面倒を見て、更に鵜茅葺不合の神様が大人に成ったら求婚されて結婚したそうです。
だから子育ての健康祈願も、縁結びも、夫婦円満も全て御利益が有る訳です(笑)。
年齢的には例えば鵜茅葺不合神の実母の豊玉姫と玉依姫が年の離れた姉妹で、豊玉姫25歳位の時に鵜茅葺不合神が5~10歳で、玉依姫が12~18歳位と仮定すると年齢的には叔母と甥でも伴侶に成れる年齢差ではあったりしますよね。封建時代は婚期が15~20歳位でしたから、古代もそんなものでしょう。

でもコレ、現代人の感覚では近親相姦で違和感を覚えるかも知れませんが、現代人の価値観は明治時代にイギリスのプロテスタントを模倣して新たに導入されたもので、神話時代に相当する縄文~弥生時代はおろか貴族と武士の時代に成っても血縁上の伯母が甥と同世代で甥と伯母が結婚するとか、従兄妹同士や姪と叔父等の政治的な背景も有って近親婚は無い事ではありませんでした。
今の感覚では考えられないですよね。
そもそも日本の神様の源である伊邪那岐(いざなぎ)命と伊邪那美(いざなみ)命からして兄妹であり夫婦神です。
天皇家でも天智天皇の皇女の山辺皇女の夫は天武天皇の皇子の大津皇子ですが、御二人は従弟同士でしかも親同士は対立関係だったりします。

例えば歴史人物でも令和二年二月十九日からNHKで放映開始される大河ドラマの主人公、明智光秀と跡継ぎの明智秀満は一般的に従兄弟(いとこ)同士と認識されていますが・・・
明智秀満
※馬と泳いで琵琶湖を渡って逃げる明智秀満
・・・明智秀満の妻女は明智光秀の長女だったりします。
この様に、昔は親族間でも戦争を回避する為だったり、古代では後継者としての地位を確実にする為に近親婚は珍しい事ではありませんでした。
ましてや、神話時代の始まり頃に相当する弥生時代の日本列島総人口は200万人未満と一般的に言われていますので有力者同士のみならず、集落の仲でも出会いは少なかったでしょうね(笑)。
縄文海進千葉県 ネットから拝借
※引用先⤵
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/arc/kantoplain/10m.jpg
そして、当時の房総半島は現在の平野部の大半がまだ海や、隆起した湿地帯や吹き上げられた砂の砂州で人が住める場所は現在の丘陵地帯の上だけでした。ですから弥生時代の終わり~古墳時代に次第に今の平野部が湿地帯だった頃に開墾が始まり稲作が普及し人が丘の上から平地に集落を移すまで、そもそも人間が住める場所が限定的な海に囲まれた丘の上だったので集落も拡大し難(にく)い上に、食糧確保手段となる産業も狩猟採集と保存食の加工くらいしか無いので安定して人間が繁栄する術(すべ)がまだまだ無かったんですね。

では、ここで玉前神社と鵜羽神社の位置関係を見て見ましょう・・・
玉前神社と鵜羽神社の位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して見て下さい。
延喜式内社と式外社に該当する両社は、そのセオリー通り古代の海岸線だった丘陵地帯の先端に存在します。この位置関係が味噌に成って来ます。
延喜式内社や式外社に相当する修験道や仏教の聖地化した神話の舞台は先程ご説明差し上げた通り、古代の遺跡を内包している所ばかりです。
そして共通点は何処も“湧水池が存在する”或いは、港湾の入口となる岬の先端や、湾の最深部に何処も神社が存在しています。
では神奈川県の例を見て見ましょう・・・
主な歴史千年以上の古社と古刹と古代の海岸線 久良岐のよし
・・・御覧の通り、神奈川県域で白い部分は古代の海岸線です。
古墳時代に開かれた伝承のある相模国四之宮の前鳥神社と相模国国府祭(こうのまち)神事の神話の舞台でも有る平塚八幡宮(旧名:鶴峯山八幡宮)を除いては全てが古代の海岸線の間際や河川の合流地点の三角州形状地や湧水地に存在しています。
もう1度、玉前神社と鵜羽神社の位置関係を見て見ましょう・・・
玉前神社と鵜羽神社の位置関係 久良岐のよし
・・・恐らくこの両社は古代の物流で重要だった港湾の入口の岬先端と、湾の最深部だったはずです。
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玉前神社の社名の由来を解説すると、玉前神社は今でこそ内陸ですが近くから茨城にかけて広がる長大な砂浜の九十九里浜は古くは“玉浦(たまのうら)”と呼ばれた事に由来すると地元で伝えられていますが、これは“当たり!”と言えば・・・“まぁ当たり”ですが当時の状況を見ると長い時間をかけて生まれた誤解が少し有る事が解かります。
そして玉前神社の名前の由来の伝承と古代の地形を見ると合致する事が衛星写真に古代の海岸線を重ね合わせて見ると良く解ります。
東京湾岸古社と海岸線の位置関係 久良岐のよし
まだ房総半島方面は面倒臭くて(笑)GoogleEarthに未登録の場所だらけで申し訳ないのですが、ざっと今回紹介している二社と、神奈川県域の古社を見て頂ければ小生の推論が正しい事が御理解頂けると思います。
御覧の通り、やはり玉前神社と鵜羽神社は古代の湾を見守る位置に存在しています。
もう少し近づいて見て見ましょう。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
この通り!古代の玉浦(たまのうら)が本当に玉前神社を入口にして存在し、その玉浦最深部で船舶を接岸させるのに良さそうな港湾に成る場所に鵜羽神社が存在します。
何より玉前神社は社名の文字の意味と由来通りに“”浦の入口の岬の一番“”に有るので玉前神社と呼ばれる様に成った事が容易に推測出来ますね。
そして今回は未取材で詳しい事は解りませんが、上総国三之宮と伝わる現代ではヒッソリと佇(たたず)む三之宮神社も、玉前神社の玉浦対岸側の入口を守る位置に存在しているので、こちらも延喜式神名帳には掲載されていないものの社名の通り上総国三之宮であった事が地形から理解出来ます。
そして延喜式内社と式外社たる証拠と成る水源も現在でも、ちゃんと確認する事が出来ます。
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一之宮である玉前神社は半島の先端であるにも関わらず、日本武尊も関わった湧水が存在し、現在でもその御神水は御汲み取りさせて頂く事が出来ます。・・・飲む人が少ないのか水が暫く出されていなかったらしく、ちょっと金属臭かった(笑)。
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そして鵜羽神社の方にも古代の半島の中腹にも関わらず井戸がこんこんと水を湛えています。
今では頻繁に水の組みだしもされておらず、農業用水の水源として活用されている様で、恐らく鵜茅葺不合の神様が生活用水にされていた御神水であろう井戸水は濁っていましたが、ちゃんと丘の上なのに湧水を湛えています。
恐らく、この鵜羽神社の背後の山頂等は発掘すれば弥生~古墳時代の集落跡でも出土するかもしれませんね・・・
人が生活するのにも、日本武尊が軍勢を率いて来て駐屯するにも、全て水が必要なんです。
そして清涼な湧水の無い場所では集落は形成出来ないんです。
川の水何か飲んだら寄生虫で死にますからね、抗生物質の無い古代には。
一方の一之宮玉前神社も、直ぐ近くの戦国時代の一宮城址辺りに古代の集落が在ったのかも知れません。
そして三之宮神社ですが・・・
現在の上総国神社位置関係 久良岐のよし
こちらもやはり、同一丘陵上に勝見城が存在する事から、未取材でも水源が存在していたか現在も存在する事が容易に推測出来ます。
・・・何故なら、御城ってのはね給水地が存在しないと籠城できないから城は必ず水源の確保出来る堅固な丘陵に室町時代までは作られたんですよ。だから近くに勝見城が存在する事で、三之宮神社も水源が地下に有る事が確認出来るんです。
もう一度、この神社の位置関係を見て見ましょう。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
古代には九十九里浜が存在せず、古代の外房の海岸は東北地方のリアス式海岸みたいな地形だった事が一目瞭然ですね。そして玉浦(たまのうら)の最深部の船舶が停泊し易く陸地も多い鵜羽神社の辺りに鵜茅葺不合の神様が地域を治めた宮殿が有り、後に玉依姫の住んだ玉前神社に通婚をする様に成ったのが、二つの神社を結ぶ十日祭(とおかまち)神事の由来なのかも知れません。
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現代では海面上昇や気温上昇を地球温暖化だ異常気象だ何だと騒いでる子供と二酸化炭素排出利権とリチウムイオン電池利権を貪(むさぼ)りたい奴等が過去の歴史を見ようともせずに騒いでいますが、別に小生から言わせれば・・・
「あ~・・・昔の気候に戻ってってるんだな」
・・・ってだけなんですよ。
勿論、自分を含めて人間にとって大規模台風や大雨は生命を脅かす危険な災害なのですが、でも古代もそうだったんでしょ?それを人間の我侭で異常気象扱いするのは謙虚じゃない気がするんですね。

そんなに気温上昇による異常気象が怖いなら、先ずは全ての都市で白人が持ち込んだ石材とコンクリート建材を用いた建築文化を放棄して破壊し木造建築に戻せばよい。その上でアスファルトを引っぺがし土の道に戻し全ての歩道に樹木を植えて道を緑の傘で覆い隠してみなされ・・・
それだけで都市部の熱帯夜は解消され、木陰の自然の冷房で夏は涼しく、冬は防風林の役割を果たしてくれるでしょうよ。
ついでに言えば・・・
樹木が無くなるから二酸化炭素が吸収されず増えて気温が上昇してる訳じゃないんだと思いますよ。
ただ単に、地表を覆う樹木が無くなりコンクリートとアスファルトと言う蓄熱力の高い建材で都市を拡大し続けるから、都市部がストーブの機能を持ってしまい夏の気温が凄まじい事になるんじゃないの?
そして西洋式に全ての宅地開発した山の沢と言う沢を護岸工事して暗渠化して用水路にしちゃうから、山の沢から砂も生成されず、海岸線がどんどん後退するんでしょ。
100年前と比べて世界中でどれだけコンクリートとアスファルトの町が増えたと思うのさ?
・・・って話し。横浜市だって1950年頃と比べたら森林なんて乱開発で半分以上も消えてしまってるのよ?
それと普通に地下の活動が活発に成ってるから海水温も上昇して台風が増えたり地震が頻発するんじゃないの?
・・・と神話を辿りながら思う今日この頃。

さて・・・

久しぶりの歴史と神社と地形の記事を書いて見ましたが如何だったでしょうか?
本当は香港デモの事を12月初旬に自分で直接見聞きして来た事の続きを書かないと行けないんですが、中国の問題も香港の問題も台湾の問題も全ての国の良い面と、物凄く批判しないといけない事も多くありました。
でも今は中国を中心に香港台湾でも日本でも伝染病の肺炎が蔓延していて、特に中国では多数の方が犠牲に成っている状況で中国政府を誇りに思う中国人の事を批判するのと同じ事は書くべきでは無いと思っています。
今は災害国の日本人として、中国・香港・台湾の人々と協力して湖北省の疫病被災民を応援し僅かでも支援をするべき時だと思っています。
日本には史話ではありませんが民話として上杉謙信が武田信玄に塩を送った逸話等も有りますが、一度災害が起きたら被災して困ってる人を助けてこその日本人だと思うんです。
まぁ・・・武田信玄の場合は裏切り常習犯の自業自得ですが。

そんな訳で、又ブログを書く時は、幸せになりたい人に良い神社や御寺や、凄い歴史の有る城跡や、凄く風景の綺麗な場所なんかを紹介したいなと思います。
でも香港の事は肺炎が収束したら中国と香港の悪い面を批判し、また素晴らしいと思った事を紀行文で書きたいと思います。

因(ちな)みに最近見て来た景色をいくつか・・・
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12月大晦日頃、東京湾アクアライン海ほたるPAの真直ぐ先に登る日の出。
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海ほたるPAから見える富士山の夕景。
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袖ヶ浦市の農道から見た夕焼けの富士山。
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真直ぐな夷隅市の農道。
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木更津市の農道から見た夕陽。
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勝浦の部原海岸。
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富津岬。
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富津岬から見た東京湾第一海堡。
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富津砲台跡。
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かつうら海中公園から冬見える日の出。
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勝浦城址から見た外房の勝浦の海岸線。

では皆さん・・・
久しぶりに読んで下さりありがとうございました。
では!又、次の記事で御会いしましょう~♪

続き⤵️
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朝7時半に自宅を出発し千葉県八千代市高津の高津山観音寺に間宮家顕彰活動の御参りと自分の活動への賛同を頂く事と現地での間宮家の情報収集で大住職様を訊ねて来た。

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ここは江戸時代の学者で昌平坂学問所の頭取だった間宮士信(ことのぶ)の菩提寺。

間宮の姓の通り、笹下城主間宮信元公の御子孫。家系的には、氷取沢間宮家の更に分家の高津間宮家に当たる。

笹下城主の間宮信元公の御子息で滝山城主北条氏照公の家老だった間宮綱信(つなのぶ)公の子孫に当たる。

なので綱信公が初代と成った氷取沢間宮家の子孫な訳だ。

ここに小生の尊敬する間宮士信公が葬られた理由は、士信公御自身が尊敬していた祖先の間宮正秀公(綱信公の孫)が、この御寺の境内の神社に葬られ祀られていたからだった。なので士信公はわざわざ遺言して御自身の遺体を塩漬けにさせて、江戸から遥かに離れた領地の下総国印旛郡高津村(八千代市高津)の観音寺まで運ばせた。

なので、ここには明治の神仏分離令で無理やり管理を分けられて荒廃してはいるが、間宮正秀公を祀った高秀靈神社の旧跡と、墓所も有る。
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正秀公は大坂で真田幸村隊と交戦し討死した。その際に源左衛門と言う武将が遺骸をこの高津の遺族の元に届けたそうだ。

この源左衛門は恐らく間宮本家の家臣、内田家の内田源左衛門だ。近年まで笹下城下である雑色地区に屋号で❝げんざむサン❞と呼ばれた内田さんがいたらしいのだが、その家の祖先だろう。内田家の本家の対馬守家は今も笹下に残ってらっしゃる。間宮家は寄親の玉縄北条家の官途が左衛門大夫だったので、左衛門大夫の部下に当たる官途の左衛門尉配領して以来、屋号に〇左衛門とつく内田家の子孫がいる。

対馬守家は一番古い家なので、玉縄北条家の与力に成る以前に拝領した官途対馬守を名乗り、屋号は古門だった。そんな訳で、間宮家分家の高津間宮の間宮正秀公の御遺骸か首を大坂から戦後届けたのは間宮本家の重臣だった内田ゲンザムさんの家の当時の御当主だと思う。
この神社と観音寺はいずれ解説記事で詳しく書こうと思う。

大住職様から聞く高津間宮家の歴史は既知の事ばかりだったが、士信公の御遺骸を運ぶ様子や正秀公の御遺骸がまだちゃんと地下に保存されている事を聞けたのは現地に訪れないと解らない事だった…

これだから現地訪問&当事者の御子孫や後代への取材は必要なのだ。

…それと東京大学資料編纂室と御縁が出来そうだ。

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あと、観音寺背後の高津比賣神社を御詣りし宮司様から様々な事を御教授頂けた。

古代大和朝廷時代には、八千代市高津一帯が軍馬生産地だったそうだ。

間宮家が江戸時代に本牧奉行を務めて治めた久良岐の丘=本牧半島も古代大和朝廷の軍馬生産地だったのは、間宮家繋がりの偶然だが御縁だろうか。

更に御教授頂けた面白い歴史が有る。

この高津比賣神社の御祭神、多岐津比賣(たきつひめ)は藤原時平の娘だと言うのだ。

この藤原時平と言うのは、醍醐天皇を蔑ろにし朝廷を牛耳ろうとした人物で、その為に醍醐天皇の御父帝君宇多天皇と醍醐天皇の忠臣で参謀だった菅原道真公を謀略でハメて大宰府に左遷した大悪人だ。

菅原道真公を無実の罪で追い落とした後、この時平の一族は災難が20余年も続いたそうだ。恐らく災難と言うのは天皇家の怒りに触れたと言う事だろう。

結果的に、多岐津比賣も中央を追われて、この高津の地へ落ち延びて来てヒッソリ暮らしたそうだ。これが平安時代の話。

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高津間宮家がこの地に来るのは江戸時代初期の話。

しかしながら、よりにもよって間宮家はその宇多天皇の御子孫であり、更に高津間宮家の祖先の間宮綱信公は菅原道真公の御三男の菅原淳茂(あつしげ)公の居所跡に永谷天満宮を造営した宅間上杉家の姫を妻にしている。

そこら辺は以前、永谷天満宮の解説記事を書いているので興味の有る人は読んで貰うと詳しく解ると思う。

宅間上杉家も祖先は勧修寺家と言う藤原氏の傍流だが、少し本流藤原氏と異なり北野天満宮の宮司を務めた家の御子孫に当たる。つまり、菅原道真公を崇拝していた家系な訳だ。

この宅間上杉家の上杉富朝公の姫君と間宮綱信公が御結婚された生まれた御子孫の高津間宮家が藤原時平の娘の終焉の地を領地としたのは何とも因縁めいた歴史だと思う。


こんな有意義なやりとりを宮司様と終えた後、丁度昼食の時間と成ったので、直ぐ近くの八千代市ローカルのステーキハウス カウベルで昼食をとった。

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八千代市周辺にしか無い店なので知らなかったが、この店は食材を地元で生産しているらしく…

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美味いんだコレが!神奈川にも出店して貰いたい。

このハンバーグとカットステーキのランチで1600円位だったかな?

食べ終えると次の目的地の佐倉城址と国立歴史民俗博物館に向かって出発した。

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行く前、てっきり郷土資料館なのかと思っていたら国立なので日本の民俗文化を紹介する場所だった。

展示品は写真撮影可能で、現在は甲冑の特別展示が行われている。

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それと日本の歴史解説の常設展示。

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平安時代末期の武家の配置図とか、これは良かった。

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江戸時代の銀座日本橋辺りの復元模型とか。

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公家の御姫様の奈良時代の平城京の時代の格好とか。

ただ、テーマが広すぎて、佐倉市ローカルな佐倉城の縄張り図や千葉氏関連の展示を期待していたので思惑が外れてしまった。
余り関西地方に行く機会の無い人は、ここは良い平安時代の勉強の場に成ると思う。

小生は京都は友人も居るし、昔住んで居た事も有るので源氏物語ミュージアム等で同様の展示物を数回見る機会も有ったので良い復習に成りました。

この博物館を出ると、すぐ横が大規模な佐倉城の❝角馬出し❞の跡。

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角馬出しと言うのは城門の前に築かれた守備兵を安全に出撃させる為の防塁と空堀であり、敵が攻め寄せた際に城門に大兵力を集結出来なくする為の防御施設なのだが…

これを丸くしたのを❝丸馬出し❞と呼び、真田幸村が大坂城南側の城門前に築いた要塞が、この上の写真の馬出しを何倍も巨大な規模にした丸形状の丸馬出しだった。

角馬出しは北条流築城術で多用され、丸馬出しは武田流築城術で多用される。

この城は千葉氏が初期造成したので、この角馬出しは北条家に従属化していた時代の千葉氏によって造られた施設を、後に佐倉城主と成った徳川家臣土井家が改修した物だろう。

展示方法に問題が有る。

何の心算か知らないが、空堀全周に生垣を植えてしまっているので子供が中の様子を見れない。

大人も見難い。これは公園化されてから整備を担当している部署の責任者が城の知識が皆無な不見識な人間で有る証拠だろう。

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土塁に見立てているのならば、外側に生垣を作るのはおかしい。

まぁ、ここら辺は知識の有る人が責任者に成ればすぐに改善される程度なので問題ない。

この佐倉城を含め、徳川家や織田家や豊臣家の築城術は関東や甲信地方に比べて未熟だったが安土桃山~江戸時代初期に武田家臣や北条家臣を配下に組み込んだ頃から、関東流の武田と北条の築城術を両方とも取り込んだ大坂城や徳川紀河越城に見る築城術が確立されて行く。

もっとも、北条流も武田流も一級品の築城術と言われるが、北条流で豊臣家との攻防を耐え抜いた小田原城をはじめとした城はどれもこれも太田道灌の太田家が確立した扇谷上杉流で初期に築城された城ばかりだった。

扇谷上杉流の築城が近世の豊臣家の攻城戦術に耐えたのは、攻城側が塹壕を掘れない土地を選んで太田道灌公や御父君の道真公が城を築城したからだ。太田家が関与した扇谷上杉家の城は、どれもこれも深い湖沼に浮かんだ丘に築かれた城なので埋め立てる事も容易では無い訳だ。

他の施設も見て回ったが、城址の規模と歴史に反して保存状態はすこぶる悪い!

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空堀は博物館の横以外は手入れが行き届いておらず、中途半端。

竹林にするなら横浜市港北区の小机城址の様に徹底して美しい竹林にすれば良い。

これは只、雑木林に成るのを定期的にルーチンワークで伐採しているだけで見せるコンセプトでは無い。

明治期に陸軍の施設に成って城址の丘陵上の土塁部分は大半が破壊されたとは言え、立派な空堀群は多く残っているのだから、それを角馬出し部分同様に芝生にするだけでも見やすいだろうし、そこに失われた土塁を復興したり柵列を築くだけでもかなりの迫力で城ファンが全国から多くの見物に来る様に成るだろう。

この城は宇都宮城同様に室町期~江戸期を通じて石垣化せず関東の堅い土を活かした築城のまま使い続けられた珍しい土の城なのだから。
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江戸期の縄張り図も残っているので、ヤル気になればいつでも出来るだろう。

佐倉城が残念だったのは国立民俗博物館含めて郷土色が薄く、千葉氏の時代や歴代の殿様の歴史や城址を開設する展示物が非常に少なかった事に尽きる。

しかし、徳川家康公の隠し子と言われる幕府大老の土井利勝公の城だけあり、空堀の幅と深さは小田原城に近い物が有った。将来の再整備次第で関東で10本指に届くか届かないかの城址公園に成るだろう。
佐倉城は改めて解説記事をいつか書こうと思う。

佐倉城を見終わり、本当は四街道市の大隆寺に行くつもりだった。そこは笹下城主間宮康俊公に従って山中城で共に討ち死にした御子息の間宮信好公の菩提寺なのだが、16時近く成り日が傾き始めたので、止むを得ず最終目的地の佐倉市弥富の岩富城址へ向かう事にした。

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小生は神様仏様の様に崇拝する殿様が数人いらっしゃって、その内の御一人の鎌倉郡玉縄城主だった北条綱成公、その嫡孫に当たる北条氏勝公が北条家滅亡後に徳川家臣として赴任したのが、この岩富城だった。

岩富城は元は地名と同じく弥富城と言い、平安時代以来の房総半島の大名、千葉家の重臣の原家の支城だった。この地に北条氏勝公が1万石で転封されて入城された訳だが…

事実上の左遷だろう。

玉縄北条家は動員兵力が3000程度、つまり10万石相当、ただし北条家は他大名家と異なり重臣の配下は全て小田原北条家の宗家の直臣であり、あくまで玉縄北条家の動員できる士卒は全て与力武将でしかなかった。

そう考えると玉縄北条家自体の石高もよくて1~2万石程度だろうか?となれば1万石は妥当な線と言える。

この推測を裏付けるのが間宮家の存在で、間宮家は徳川家康公直臣に取り立てられたので岩富城には同行していない。その間宮家の本家、笹下間宮家の動員兵力は200前後。一族郎等は高津間宮家の様に、それぞれ別に所領を貰っているので一族全てを合計すると1万石の大名程度は一族で持っていたかも知れない。但し、北条家は家臣の官僚化を進めていたので家臣の一族全てが行動を共にする事は無く、それぞれが北条一門を軍団長にした集団の与力として別々に諸役に従事していた。その典型的例が北条綱成に家老として与力した間宮康俊公と北条氏照公に家老として与力した間宮綱信公兄弟と、ハトコの間宮信繁公が北条氏康公の直臣だった事実だろう。

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弥富城址残存部の入口は浅間神社の鳥居が立っていて説明看板も有るが、中は荒れ放題。

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何故か山羊が居てビビった(笑)。

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しかしながら、一部だが幾つかの空堀も残存していて城の遺構は確認出来る。

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残念なのは岩(弥)富城の説明看板の縄張り図が薄くて見難い事と、整備されていない事だろうか。

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城址の様子を見ると、もう何年も殿様を偲んで浅間神社に御参りに来る人もいないんじゃないかと思わせるような雰囲気だった…

氏勝公は、徳川家家臣の保科正直公の子の北条氏重公を跡継ぎにしようとし策動した奸臣(かんしん=悪い家臣)堀内により保科家からの氏重公養子縁組を強いられ、挙句の果てに元々養子縁組していた御実弟の北条繁広公は、北条氏勝公の死亡直後に不可解な急死をしてしまう。

この保科氏重改め北条氏重公の兄弟には保科正光公がおり、その保科正光公が徳川秀忠公の諸子を養子としていた事から、一連の事件は北条氏勝公の養子と成っていた繁広公と仲の悪い家老の堀内家が政治を掌握する為に保科家から養子を迎え将軍家と縁戚に成る事で繁広公の排除と己の立身出世と保身を図ったと思われる。
これは玉縄北条家改易後にいけしゃぁしゃぁと旧地の鎌倉郡藤沢に帰農し、挙句の果てに現代に至り忠臣の子孫面をして自己宣伝している。
恐らく、山中城から北条氏勝公が撤退せざるを得なかったのも黒駒合戦で失態を招いたのも、この奸臣堀内が幅を利かせていたせいだろう。

こんな堀内とたもとを分かって、山中城に籠城し最後まで戦って玉砕した間宮家は真に尊敬に値する。

それ故に、徳川家康公も間宮直元公を直臣として但馬奉行・佐渡奉行・本牧奉行を任せたのだろう。

この堀内家の子孫は、現代、間宮家の功績もさも自家の功績であったかのように史実を知らない人に言いふらしている。
さて、重臣が奸臣であった為に寺町と社家町多く栄える鎌倉から近い玉縄城から農地しかない岩富城に左遷された北条氏勝公は、せめてもの救いが養子にしていた御実弟の繁広公が暗殺されたのを知らずに済んだ事位だろうか?

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岩富城市から見る風景は、少し玉縄の地形に似ている…

でも気のせいだろうか?懐かしい風景と言うより、歴史を知ってしまっていると寂しい風景に見えて仕方がない。

後日談だが、堀内は大河内松平家氏重を主君に変えて、一時は掛川城主の家老にまで成るのだが主家が無嗣断絶、因果応報、没落し藤沢に戻る。正義は勝てなくても滅びないが、悪は栄えても必ず滅びるんだな。


今回の小旅行は玉縄北条家の衰退の歴史を辿る悲しい旅にも成ったが、色んな方々が横浜の土地を開拓して守って下さり、間宮士信公が現代人に平安~戦国時代の神社仏閣や地誌を纏めて伝えて下さった、先人への御恩を噛みしめる機会にも成った…。

肉、美味しかったな。



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