歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:南区

横浜市南区中村町に、それはそれは立派な建物の銭湯が今も営業しています。

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仲乃湯と言う銭湯です。
建物は宮大工さんが作った事で全国の銭湯ファンから知られているそうです。
小生は近くの中村天満宮の歴史を調べていて周辺の昭和チックな路地裏歩いてたら見つけてビックリしました。
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上の写真撮影した土曜日は休館日だったので、この日は帰宅し改めて入浴に行きました。
御店主にお伺いした所、多数ドラマやCMのロケにも使われているそうです。
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仲乃湯
 入浴料:470円(シャンプー等別売り。購入しても入浴料と合計600円未満)と安い!
※シャンプーやボディソープ、タオルは持参するか購入が必要。
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入口はこんな感じで下駄箱が並ぶ昭和な感じですね。
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先日亡くなった桂歌丸師匠の地元、真金町から歩いて直ぐなので寄席の宣伝なんかも貼ってありました。
ここは昭和24年つまり横浜大空襲で辺り一面焼け野原に成って、そこから復興が始まった時期に開業したそうです。今年で営業70年目ですね~凄い!
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今の建物は昭和32年の完成で宮大工さんが作った銭湯でスンゴイ立派なのですが、やはり❝これだけの建物を作れた時代❞、つまり宮大工さんがまだまだ沢山いた時代だから出来たんでしょうね~。
今では出来ない。
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そして真金町が色町で昭和33年の風営法施行以前まで多くの料亭や茶屋が有ったので、芸者サンや遊びに来る旦那衆も沢山この仲乃湯に疲れを取りに入浴に来たんでしょうね~。
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御店主に撮影許可を事前に頂いておいたので何枚か館内の写真も今回は御覧頂く事が出来ます。
これ見て、御朱印や御寺のファンは解ると思いますけど、もう西本願寺とかみたいに立派な社寺建築技術の天井の造りでしょう?
もうとにかく凄い!しかも、流石に風呂まで写真は撮れませんでしたが、内風呂の他に昭和の銭湯なのに露天風呂まで有るんですよ!
ここ、横浜市は文化財指定するべきだと思うんですよね~。
教育委員会の人にも一度入りに来て欲しい。
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やはりこれだけの建物な上に庶民的な雰囲気の場所なので沢山のドラマやCMの撮影に使用されているそうです。
一応、御店主がわざわざ紙に書き出して教えて下さった情報を有名どころだけ纏めてみます。
【CM】
JA貯金・・・ジャイアント馬場さん

【ドラマ】
世界一難しい恋      
・・・嵐の大野君、モデルの波留ちゃん
笑点ドラマスペシャル桂歌丸
・・・泉ピン子、尾上松也さん、水上あさみさん

【TV】
YOUは何しに日本へ
NHK夕時ネットワーク
・・・何か他にも有るそうですが、超有名な人や最近の番組だとそんな感じらしいです。
世界一難しい恋とかたまに見てたのに全然知らなかった。

まぁ、そんな場所なので全国的にファンがいて、何だか神社や御寺じゃないのに屋内の壁に沢山の“扁額”が掲げられていました(笑)。
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・・・てかYOUは何しに日本へとか、外国人にまで知られてるとか凄いですよね~?
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この下をくぐると男の世界がブラブラぶら下がってます(笑)。
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こんな感じ。一応、ドライヤーも据え付けのが1台男性の方にも有った。
そこの写真も撮影して置いたのですが、後ろにいた御爺ちゃんのブラブラした“モノ”がモロに鏡越しに映り込んでしたので掲載できません(笑)。
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小学生200円とか・・・小さい子供連れて来たら喜びそう。
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風呂上がりのジュースも有るしね~!
子供向けに御店主がクイズも出して下さるそうです。
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この問題の中から選んで解答に正解するとジュースが貰えるそうです。
小生はオッサンなのに特別にチャレンジさせて頂きましたが、外れました。
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残念賞に不二家のペロペロキャンディーを頂きました。これならクイズに正解できなかった子供もガックシは来ないで楽しく帰れますね~♪
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そうそう、番台の手すりのこの彫刻も、人間国宝に成った方の作品だそうです。
・・・そんだけ凄いんだよ、銭湯の建物なのに(笑)!

実は近所に横浜橋商店街と言う今でも寂れていない横浜市で最大級のアーケード商店街が有るのですが、調べているうちに解ったのですが、近くの中村八幡宮は新橋の芸子衆も御参りに来るほど昭和の横浜大空襲まで大規模な社殿を持って栄えていたそうで、その参道の商店街が今の横浜橋商店街の原型の様です。
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ちょっとパンフレットの画像も見にくいのですが、たしかに凄く立派な社殿を取り囲む、随神門と壁に本殿の台地が囲まれているんですよね。
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中村八幡宮の宮司サンにも色々聞いたので又、解説記事を別に書こうと思います。
中村八幡宮の宮司様は戸塚の品濃白幡神社の宮司職も兼務されているのですが、品濃白幡神社も以前、解説記事を書いていたので御興味有る方は以下の記事タイトルをクリックして御覧下さい。
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→商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。
そして昭和初期まで真金町や中村町には劇場や料亭が沢山有り、周辺には真言宗の52ヵ寺の本山だった寶生寺や、他にも沢山の神社仏閣がある風流な京都の祇園とか清水坂みたいな場所が戦前の昭和初期~大正時代の中村町~真金町だったみたいです。
寶生寺に関しては以前に紹介記事を書いているので、御興味有る方は以下のブログ記事のタイトルをクリックして御覧下さい~。
寳生寺…横浜市南区にある鎌倉〜江戸時代の名将達が保護した古刹。
そりゃ~風流な京都の祇園と清水坂くっつけたみたいな場所だったんだから、宮大工も銭湯建築に手が回るだけいた筈だよ。
知の冒険
横浜市に限らず色町の文化と史跡研究に関しては“知の冒険”と言うブログを運営してる丹治君の方が詳しいので、彼のブログを見ると真金町界隈の事を沢山書いて有ると思いますよ~。
知の冒険→https://chinobouken.com/
彼はラジオにも呼ばれる人物なので、その道の文化研究ではプロです。

まぁ~、そんな昭和初期のいなせな男女の風流な雰囲気と、戦後の人懐っこい庶民の文化が混じった素敵な銭湯が、この仲乃湯さんです。
皆さんも、横浜橋商店街とかに買出しに行く事が有ったら是非!お風呂入りに行って見て下さい~!
きっと建物の凄さに感動しますよ!

・・・次いつか解りませんが、ネタの写真と調べた事は溜まりに溜まってるので、何かまた記事を不定期に書きます(笑)。

皆さん、次の記事で御会いするまで健康に実り有る日々を御過ごしくだされや~♪
では又!

神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 

午前中、Twitterでフォローしてる縄文時代の遺跡のど真ん中に奥宮と聖地が有る相模原市の有鹿神社さんの古代から続く“水引神事”に参加する予定だったのに…
深夜に職場から帰宅し更に家でも作業をしていたら既に早朝5時、神事は9時半から。
出発予定時刻は8時前を目途にして少し仮眠をとった。
…つもりが、起きたら9時、当然横浜から50km以上も離れた神社に間に合う訳が無い。
この水引神事と言うのは一度断絶したのを北条家の殿様が1575年に復興した神事で、玉縄北条家や与力の間宮家の顕彰活動を行っている小生は当然参加し宮司様に取材をしないといけない行事だったのだ。
落ち込んだ。
 
諦めて不貞寝した。天気も雨で神事に参加出来ず陰鬱とした気分だった。
 
昼過ぎ、少し気力復活。
もそもそ動き出す。午前中に雨風強かったので恐らく満開に成ったであろう桜が心配。
気分を切り替え桜の写真撮影に行く事にした。
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最初の訪問先は御寺の歴史が1300年以上有る横浜市南区の弘明寺。その旧境内参道に広がる弘明寺商店街と大岡川沿いの桜並木。
この桜並木は弘明寺~日ノ出町まで直線距離で約5kmも続く。桜並木は川に沿っている為、実際は7km程度は有るだろう。
更に上流の笹下川近くまで桜並木は続くので、全長にすると10km位は有るかも知れない。
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見慣れないピンクの緋桜が目を引いた。
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説明板が有り“横浜緋桜🌸”と言う品種だそうだ。横浜市民なのに知らなかった。
先日、横須賀市安針塚近くの住宅街で見たのも、横浜緋桜だったのかも知れない。 
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弘明寺近辺だけ散策し、屋台でタコ焼きとお好み焼きを朝食兼昼食に食べた。
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味は普通だった(笑)。食べ終わってから川下へ1km位歩いてから又戻り、今度は遊歩道へ降りてみた。
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川の遊歩道から写真撮影をしたりと楽しんでから、親子連れやカップルの幸せそうな笑顔を見てこちらまで幸せにして貰った。
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川面(かわも)に浮かぶ花弁(はなびら)がとても綺麗だった。
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 う~ん、仲良し親子!
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元気に遊ぶ子供達!うむ!浜っ子とは斯(か)くある可(べし)だ!
この子達の様に冒険心を持って遊んでこその浜っ子だ!
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車を泊めた商店街の駐車場に戻る途中にカフェが桜ソフトクリーム成る物を販売していた。
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それを買って見た。
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食べると、桜フレーバーが香って美味しかった。
他にも酒屋の川松屋サンが弘明寺オリジナルの日本酒とビールを販売していた。CIMG3043
これ、興味有る人は酒飲みには少なくないだろう。
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良い地域振興の試みだと思う。まぁ、小生は普段酒は一滴も飲まないし、飲んでも神奈川県名産の梅を使った田浦梅林の梅酒や横浜大倉山梅林の梅酒なんだな。だから購入しなかったが目を引く素晴らしい商売だと思う。
駐車場に戻る前に弘明寺さんを山門前から御参りしてから次の目的地に移動したのが15時位だったろうか?
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その後、中区の根岸森林公園に移動。CIMG3047
根岸森林公園は日本最初の競馬場として幕末に建設が始まり明治時代に完成し太平洋戦争直前まで使用された横浜競馬場の跡地を利用した市民の森林公園だ。
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 広大な芝生に桜林と梅林、遊水池が有る。恋人同士や子供連れの良いピクニックの場所に成っている。
他にも競馬発祥地だけあり馬やポニーに乗れる馬場と、“馬の博物館”等も有る。
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チューリップの花がもう直ぐ開き見頃に成りそうだ。
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 そう言えば、東京都羽村市のチューリップ祭りも開催されたそうだ。観光協会に問い合わせたら横浜と同じく見頃は15日位だろうとの事だった。
羽村市のチューリップ祭りは本当に素晴らしいので興味の有る人は 以前の記事↓を読んで欲しい。

さて、話を根岸森林公園の横浜競馬場跡に戻す。CIMG3068

幕末以来の競馬場史跡なので戦後、米軍に接収された区域には未だに当時の競馬場史跡“一等馬見席”の西洋の城の様な立派な建物が現存している。
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これはいつ見てもカッコ良い。

現在は米軍管理下で手入れが行き届かず、部分的には荒れているが…
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それでも凄くカッコ良い!
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 これ、何でTVドラマや映画の撮影で使用されないか横浜市民として不思議でならない。
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 やはり、米軍の敷地内なので許可が下りないのだろうか?
そろそろ横浜市か国の文化庁に返還されて重要文化財指定の上で再整備して赤煉瓦倉庫みたいにショッピングモールやカフェのテナントを入店させても良いんじゃないかと思うが需要が有るかは微妙な所ではある。
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 まぁ、場所柄ホテル等に転用出来れば、米軍の将校の方々の家族の来日の際は宿泊等も見込めたりして?

森林公園部分に話を戻すと公園内には多くの立派な桜の林が有る訳だが、桜の根元には菜の花も咲いておりとても綺麗だ。
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午前中は雨天、午後も霧雨が降ったが、それでも付近の山手地区や本牧や米軍基地用地に住む異人サンや日本人が一緒に花見の宴会を開いていた。
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 リア充も多数出没。
緑豊かな場所なので雨が上がってからは子連れの親子も遊びに何組か来ていた。
幸せそうで羨ましい( ´艸`)!
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そう、思わず顔文字で(笑)を( ´艸`)と表現したく成る位に温かいホッコリを分けて頂いた。
その幸せは普通の様でとても大事なものだから大切にしてね♪
あの子達がずっと幸せに育ちます様に!
パパさん、子供の為にも伴侶の為にもシッカリな。
ママさん、あんまりパパさんにガミガミ強く言わないでね(笑)。
根岸森林公園の近くには松任谷由実が荒井姓時代に歌った「海を見ていた午後」の歌詞の舞台“ドルフィン”と言うレストランも在る。今日は行かなかった。
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※昨年の写真。車に乗り込み次の目的地の国指定名勝 三渓園に向かったのが18時少し前だった。

三渓園はこの桜の時期と紅葉の時期は駐車場が混雑して中々入れない。
まぁ、小生は時間に余裕も有るのでそれを見越して車中でTVを見たりiPodで曲を聴きながら順番を待ち19時頃に駐車に入る事が出来た。
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今年の桜は近年中一番発色が良く、1本の樹木に対する花弁の密度も多い気がする。
とにかく、見頃だった。
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 枝垂れ桜だけはま未だ少し早い様で、12日位が見頃に成りそうだ。
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相変わらず、この時期に行われる桜のLight up行事「観桜の夕べ」の演出は素晴らしく三渓園の庭園と見頃を迎えた桜の調和した美しさが他所の夜桜の演出よりも際立っている。
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恐らく日本屈指の夜桜の美しい風景だろう。
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まぁ、美しい庭園に在る分、少し反則なんだが(笑)。
これに対抗出来るのは高遠城や弘前城程度の名所じゃないと無理じゃないかと個人的に思う。
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午前中は、いつもの自分なら出発してから仮眠するのに、先に仮眠をして寝坊し貴重な体験をする筈が台無しにしてしまいクサクサしたが、午後は桜🌸達と幸せそうなカップルと家族達の御蔭で幸せな時間と成った。

桜を一頻り見て、帰りにスポーツジムに行き1時間ばかり汗を流してから、銭湯の大浴場の湯船に入り肉体的にも癒されて帰宅した。

ふむ。桜と皆の幸せそうな笑顔の御陰で午前中のブルーも吹き飛び良い一日と成った。
参加出来なかった神事、ちゃんと後日、宮司様に取材に行かないと北条家の顕彰文の記事にかけないな。
…幸せと同時に新たに行うべき事が出来た。

では、皆さんおやすみなさい♪

あ!そうそう、三渓園のライトアップは明日までですが、桜自体は12日頃まで楽しめそうですよ!
三渓園のアクセス方法は前回の記事に掲載して有ります。

コレ↑ね。
では皆さんにとっても良い春の日と今週が成ります様に♪
今日寝坊して御会い出来なかった有鹿媛様と有鹿彦様の夫婦神様に祈願しておきます( ´艸`)ブハっ(笑)。

横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
北条政子様木像画像
今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

下の写真は港南区笹下に所在する梅花山成就院です。
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この御寺の存在を横浜市でも知らない方が多いとは思いますが、杉田玄白や間宮林蔵の一族、間宮家の安土桃山時代~江戸時代初期の本家と歴代住職が深い関係が有ります。そして戦国時代の笹下城の一角に建っている御寺です。

この成就院の山門は江戸時代に本牧奉行を務めていた間宮家の本家、笹下間宮家が本牧奉行を辞任し、幕府により下総国に転封される際に笹下陣屋から移築されたものです。つまり江戸時代初期から存在する間宮家の屋敷の邸門です。
笹下間宮家と言うのは江戸時代に旗本として成立した家で、そもそもは室町時代に鎌倉将軍府の初代公方、足利基氏公に従って近江国より伊豆国に移住して来た佐々木一族の舟木信行が、現在の伊豆の国市、旧函南郡馬宮(まみや)に移住して来た際に、所領となた馬宮の地名をとって馬宮に改姓、後に間宮を漢字を改めた事に始まる一族です。
祖先は宇多天皇、近江国篠箇(ささげ)庄の出身の近江源氏佐々木家の一族です。
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六角家、京極家、黒田家、乃木家、間宮家は全て佐々木一門で、佐々木家の祖先で宇多天皇の御子息の敦実親王を御祭神とする滋賀県近江八幡市安土町に所在する延喜式内社(西暦800年代以前造営と朝廷公認の神社)の沙沙貴神社にも、間宮家の家譜が佐々木一族として記録されています。
その間宮一族は関東において武将として陸戦のみならず水軍も率いており、更に築城家、鷹匠、外交官、内政官としても活躍した記録の残る稀有な一族です。
戦国時代には北条家臣と成ると、“相模国人衆の14家の筆頭”に数えられました。
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上は神奈川権現山合戦で活躍する間宮彦四朗=間宮信冬公です。
戦国時代に最初に活躍したのが、鶴見区末吉、川崎市川崎区一帯を領有した間宮信冬公です。
間宮信冬公は扇谷上杉家と山内上杉家の連合軍を、北条家の先鋒として現在の京急神奈川駅一帯に在った権現山城に上田政盛公と共に籠城し迎撃すると、敗戦濃厚と成った際に敵陣への突撃を敢行し武名を関東中に轟かせました。
時代は下り、信冬公の系譜上の跡継の間宮彦二郎信盛(別名:信親)公が信冬公の権現山合戦の頃に川崎を一時失陥したと思われ、本拠地が川崎や末吉から磯子区杉田に移ります。
更にその後、信冬公の孫の間宮信元(別名:盛頼)公と曾孫の間宮康俊(別名:信俊)公と間宮綱信公時代には現在の港南区笹下地区~磯子区洋光台地区の広大な範囲に築城された笹下城に移されました
間宮康俊公は安土桃山時代の間宮家当主で、関東最強だった猛将の北条綱成公の付家老(つけがろう:家臣ではなくて役職上の補佐官)として大活躍します。北条綱成公は武田信玄や上杉謙信の侵略から幾度も防衛に成功した名将で“地黄八幡”の異名で周辺大名から恐怖の対象と成った人物です。
その綱成公の強さは、武田信玄は配下の真田家に対して「地黄八幡の武功に肖(あやか)れ」と、戦場に落ちていた北条綱成公と間宮家の率いた”黄備え隊”の軍旗を真田家に与え薫陶を授けた程でした。この”朽葉色の八幡旗”は以後真田家の家宝と成り、現在も松代市の博物館に保管されています。
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※写真は日本百名城の一つ、箱根の山中城。出丸と、それを取り囲む障子掘り状の三日月掘り。
間宮康俊公は北条綱成公の没後、豊臣秀吉の小田原攻めの際に箱根山中の山中城に城将松田康長と共に手勢200弱で籠城、秀吉軍本隊8万の先鋒豊臣秀次率いる中村一氏と渡辺了、一柳直末、堀尾吉晴、山内一豊、長谷川秀一等有名武将の大軍勢26,000を迎撃、圧倒的不利で玉砕するも奮闘し豊臣勢に寡兵で大打撃を与え、秀吉配下の小大名一柳直末を討取る大功を建てました。
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※上の写真は横浜市鶴見区下末吉に在る長谷山寶泉寺です。
鶴見区に在る長谷山寶泉寺は江戸時代に成っても毎年、間宮康俊公を慕う旧家臣団が集まり追善供養を行った場所で、康俊公の御位牌も最近まで安置されていた場所です。
現代では普元院殿武月宗閑が一般に康俊公の戒名と誤って認識されてしまっています。
これは康俊公の御息女で徳川家康公の側室に成った“間宮於久(おひさ)の方”様と御子孫の戒名取り違えによって康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名である普元院殿武月宗閑が誤認されてしまった様です。
この普“”院殿武月宗閑には間宮信元公の俗名の"元”の漢字が入っている事からも、戒名に俗名を一字取り入れる事の多い風習を考えれば、やはり信元公の戒名が現代、康俊公の戒名として取り違えられてしまっている様です。
この康俊公の入道号( にゅうどうごう=出家した僧名)は江戸時代に家臣団が度々追善供養を行った寶泉寺では正しくは「一宿宗覚庵主」として伝わり、戒名は「普光院殿壱宿宗覚庵主」とされています。。この戒名は康俊公が参禅した際に伝燈録の永嘉(ようか)大師の法話を紹介した間和の記録にも残っていたそうですが、近年の寶泉寺の本堂の火災で文書や康俊公の御位牌は焼失してしまいました。
しかし新編武蔵風土記稿に御位牌が祀られていた菩提寺である事が記録に残ります。寶
泉寺寺伝の戒名が正しいと断定出来る記録が更に別の御寺にも残ります。
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※上の写真は横浜市南区の瑞往山蓮華院弘明寺(ずいおうさんれんげいんぐみょうじ)です。
この弘明寺は元は求明寺と書いて「ぐみょうじ」と読みました。鎌倉時代に寺名を一字改名していますが、横浜市では最古級の御寺です。この御寺には間宮家の家臣団と武将が多く関与しています。
一つは、間宮信俊公と言う人物の記録が有ります。天正十八年(1590)年、間宮康俊公が山中城で討死する前年に官途が監物の間宮信俊公が弘明寺の寺宝の花瓶を私財で修理し奉納した記録が残ります。
信俊公と康俊公の名前が酷似していますね。これは同一人物で、信俊は康俊公の初名、もしくは北条家の武将としてでは無く個人として真言宗寺院に関与する際には祖先の佐々木家以来の“通し名”の一字である"信”の字の入った名前、初名の信俊を名乗ったのではないかと推測出来ます。
更に、有力な証拠が記録に存在しています。
江戸時代、間宮信元公の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌編纂で功績を上げて頭取を務めた間宮士信(ことのぶ)公が編集した記録にスケッチされた絵図と一緒に紹介されている、弘明寺の扁額に関する記載です。
この記載によれば、現代では紛失した“弘明寺”と書かれた扁額は入道号が宗閑と言う人物の同伴衆(家臣団)によって大永元年(1521年)に奉納したと扁額に裏書されているそうです。
その中には川崎大島村の伊左衛門と言う、寶泉寺で追善供養に参加していた人物の祖先と思われる人物の名も有り往島(おうしま)と記載されています。扁額の裏書には“板旦那神奈川住人”と書かれ製作出資者の一同が間宮家の所領、神奈川と呼ばれた川崎~末吉~権現山一帯の人間である事が解ります。続いて“端山内匠助国重”と書かれています。“端山(はやま)内匠助(たくみのすけ)国重”は製作者名でしょう。続いて書かれた“本願宗閑 同伴衆”奉納者達が宗閑の家臣団と解ります。つまり、この扁額の奉納時に、既に彼等を配下にしていた宗閑は生前から禅宗に帰依して入道(僧籍に入り)“宗閑”の入道号を名乗っていた証拠に成ります。
宗閑の戒名は一般的に間宮康俊公の戒名と言われていますが、間宮康俊公は永正十五年(1518年)生まれです。
この弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で間宮康俊公は僅(わず)か3歳ですので、当然、僧籍に入り入道号を得る程の年齢でも無ければ、家臣団を従えて神社仏閣に祈願の奉納もする訳も無いし、まだまだ間宮信元公が存命中なのに3歳の康俊公が家財を投入出来る訳も無い訳です。
こと、ここに至れば当然、戒名と名前の“元”の漢字の一致、年齢からやはり康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名が普元院殿武月宗閑であると判断出来ます。
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※上の写真は伊豆山中城址に建つ宗閑寺。間宮康俊公の菩提寺。
間宮康俊公は天正十八年(1590年)旧暦三月二十九日(5月3日)に当時としては高齢の72歳で戦死しています。
恐らく、康俊公の御息女の於久様は旦那様の徳川家康公に御願いをして、山中城址に康俊公の菩提寺を建てる際に御寺の名前を決める為に康俊公の一番最近関与した御寺を訪ねて法名を決めて貰ったはずです。
つまり、信俊と康俊が同一人物であるなら、間宮家の関与していた弘明寺です。
そこに間宮康俊公が生きた時代に記録である入道号が“宗閑”と扁額に有ったので、そのまま御爺様の間宮信元公の事績を年齢的に知る筈(はず)も無い、於久様や徳川家によって派遣された人物が当時の弘明寺の調査をして、この“宗閑”を康俊公の入道号と誤認したのでしょう。そして、間宮康俊公の戒名にしてしまった。ところが、家臣団達は康俊公の没後直ぐに康俊公が信冬公が開基した寶泉寺を中興した事を当然知っていて、寶泉寺の住職にちゃんと戒名を付けてもらったので法謚(ほうし=入道号)は一宿宗覚庵主で普光院殿壱宿宗覚庵主と戒名が伝わったのでしょう。そして曹洞宗の僧侶達はそれを知っていたので、江戸時代の法話でも伝えたのだと推測が成り立ちます。
この一宿宗覚庵主が鶴見区の家臣団や川崎の家臣団の伝承通り康俊公の入道号ならば、更に信俊と康俊の事も差異が埋まります。
 では、間宮信俊と間宮康俊の謎に移りましょう。
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※御廟所の写真撮影は失礼に当たるので掲載しません。
この御本堂の左手に、間宮家や豊臣方の一柳家や長谷川家の戦死者の御廟所が在ります。
間宮康俊公の五代子孫、間宮正次公が箱根の山中城址で追善供養を行った際に、この信俊公と康俊公を別人で兄弟として間宮家の墓碑を建立しています。
この墓碑には間宮信俊公の異名が"一本将監(いっぽんしょうげん)”として、間宮康俊公の法名が“普元院殿武月宗閑”と彫られています。しかし、康俊公の生年から普元院殿武月宗閑が戒名で有る事は無い訳です。

間宮信俊公の異名が"一本将監”で有る事、寶泉寺と川崎の家臣の伝承の間宮康俊公の戒名が“一宿宗覚庵主”である事、弘明寺の寺宝の壺を直した間宮信俊公の官途が“監物(けんもつ)”で有る事、これらの名前は少しづつ似ていて、他には例のない相似です。
時系列でまとめてみましょう。
間宮康俊公の名前の“康”の漢字は主君の北条氏康公からの一字拝領。
両者の年齢、康俊公の生年の永正十五年(1518年)と北条氏康公の元服の享禄二年(1529年)から1529年以降しか北条氏康と名乗った事実は無いので、弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で主君の北条氏康公から“康”の一字を拝領する事は不可能よって年齢から初名が間宮信俊と推測
②公私と宗派による名の使い分け。
北条家は曹洞宗で家臣もこれに従う習慣が有ったので、祖先の佐々木家以来の宗旨が真言宗で有る事から、公の北条家臣と私では名前を使い分けていたのでしょう。
北条家臣として御寺に関わる時は康俊。
佐々木家以来の伝統で真言宗の御寺に関わる時は祖先以来の信の字が入る初名の信俊。
③徳川家の使者の調査ミスによる間宮信元公の戒名を誤報告。
①や②の事情をを知らない於久か徳川家康公に派遣された徳川家の調査員が誤って間宮信元公の戒名を報告した。ところが笹下と杉田と氷取沢の間宮一門衆や旧間宮家臣団は間宮康俊公の入道号が“宗覚”と当然知っていて、康俊公と一番関係の深かった寶泉寺の当時の御住職に戒名を一宿宗覚庵主と決めて貰い既に寶泉寺で供養をしてしまっていた
④徳川幕府のミスを間宮家臣団が指摘できる筈も無く…間宮信俊の俗名と康俊普元院殿武月宗閑戒名の併用
戒名における徳川家のミスを間宮家や家臣団が指摘しよう物なら徳川家康公のメンツも潰す事に成る、於久様の立場も悪くする、更に家康公に外戚として重職を与えられ可愛がられた康俊公嫡孫の間宮直元公の地位も危うくなる。
そんな指摘を出来る訳が無い!そこで…
間宮一門衆はやむなく
公の立場で間宮康俊公の供養をする際は間宮康俊普元院殿武月宗閑と俗名の間宮信俊を兄弟として両方一緒に供養する事以外に手段が無かった。
⑤…ところが子孫には④のそんな事情も知らない物も100年も経てば当然出て来た。
間宮本家の五代目、間宮正次公は四代目の養子。しかも四代目の間宮正信公は実兄だった。つまり、間宮正次公は嫡子としての教育を受けないまま兄の養子に成って跡を継いでいる。一般的に兄弟間で養子に入る際は大体が兄の急死による末期養子か、無嗣子のまま体調が悪くなり途中から養子に入るパターンが多い
そして間宮正次公は兄の病死を祖先の戦死した山中城で供養をしなかった祟(たた)りとでも思ってか、山中城で追善供養を行う事にしたのだが…
間宮正次公は山中城で祖先達の追善供養を行う際に、家系図を調べたが、幕府提出用に編纂された家系図には④の事情から同一人物の間宮信俊と間宮康俊の名が有り、更に公式な戒名として記録されてしまっている普元院殿武月宗閑が間宮信元公の戒名と何ぞ知る訳も無く、墓碑に間宮信俊公と康俊公を別人格として彫らせてしまった。
そして、これが間宮家内で間宮信元公の戒名が忘れ去られる原因に成ってしまった。
以後、現代に至るまで多くの学者がこの事実を知らず、寛政重修諸家譜の誤りをそのまま引用するしか無く成り、間宮家の最古参の家臣団の集まる川崎や下末吉地域に伝わる正しい間宮康俊公の戒名の一宿宗覚庵主が現代では余り知られなくなってしまった…

そんな訳で、有名な文書しか読まない学者先生には申し訳有りませんが、時系列による寶泉寺や古参家臣団の伝承と弘明寺の記録上、寶泉寺の寺伝が正しい事に無いります(笑)。

又、間宮家では康俊公の御舎弟、間宮綱信公も大変に活躍されました。
滝山城主で北条家当主北条氏政公の御舎弟北条氏照公の付家老として活躍した人物です。間宮綱信公は築城家、内政官、外交官として活躍し、北条家の外交官として徳川家康公と謁見し、更には安土城に赴き織田信長公にも謁見した人物です。
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※写真は日本百名城の一つ、八王子城の御主殿(本丸)の石垣。八王子城は間宮綱信公の縄張りと伝わる。
また、間宮信冬公の孫の代に分家した杉田間宮家も初代の間宮信次(本名:常信)公が記録に残ります。
間宮家が三浦半島の走水で房総半島の里見家の水軍を撃破し敵軍船14艘を鹵獲する等の大活躍をした際に、杉田間宮信次公は手勢50人余りと玉砕した記録が現代に伝わります。この手勢50人は歴史に興味の無い人からすれば小勢ですが、実際は一万石の大名の動員可能兵士数が300人なので、石高換算すると江戸時代の1500石相当の大身旗本クラスに相当します。小大名の家来なら家老に成れる程でしょう。
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※上の写真は戦国時代からの杉田間宮家の菩提寺、牛頭山妙法寺。
杉田間宮家は水軍を持つだけでなく、笹下間宮家の間宮康俊公の子の間宮元重公、康俊公の娘の継姫(つぐひめ)様の子の間宮(旧姓:豊前)元盛公と並び“鷹匠”としての高い教養を備えた家柄でした。
当時の鷹匠は武士で、鷹狩は高貴な血筋の武士の嗜みでした。
江戸時代に成ると杉田間宮信次公の嫡孫、間宮信繁公が大規模な梅林を造営し杉田梅林として有名に成りました。
この杉田梅林で植林されたのが幻の高級梅干し“杉田梅”の原種で、この梅林は江戸時代を通じて江戸市民の観光旅行先として有名で、明治~大正にも皇族の方々が度々訪れる程でしたが、横浜市教育委員会が保護を怠った為に杉田梅林は宅地開発され消滅してしまいました。
現在の御住職様が妙法寺の裏山、“妙法寺山”と昔呼ばれた境内地の丘の上に梅林復興を目指し目下奮闘中です。
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※写真は小田原市の曽我梅林。神奈川県下最大の梅林で現在は曽我十郎梅の産地。
実は曽我梅林の起源は、昭和初期に杉田梅林が消える直前、杉田から移植された杉田梅の梅林を発端としています。そして、この梅林の杉田梅を更に品種改良したのが曽我十郎梅と言う訳です。つまり、間宮信繁公の植えた梅の遺伝子を継ぐハイブリッド品種が曽我十郎梅で、東の梅の横綱と言う訳です。
そんなこんなで間宮家は色んな殿様が色々あって家系図も混乱していますが、素晴らしい功績を残している訳です。
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※上の写真は駿府城。
間宮綱信公が徳川家康公と直接面識が有った事、間宮家が間宮信冬公~間宮信盛(信親)公~間宮信元(盛頼)公~間宮康俊(信俊は同一人物の可能性有り)と歴代水軍、陸軍の戦闘で北条綱成公の武名を支えた事、そして最後の山中城の戦いの活躍が徳川家康公の目に止まり、於久様が側室と成り御姫様を産み、駿府城で生涯を終えました。
※下の写真は家康公の祖母の源応尼様の菩提寺で、華陽院と名付けられた。
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華陽院の寺名は、家康公の祖母の源応尼の戒名をとって名付けられました。家康公に大切にされた於久様は、この華陽院に御廟所が設けられ、家康公の御婆ちゃんの近くで眠ってらっしゃいます。
さて、ここからやっと笹下城址に建つ梅花山成就院に話が戻ります。
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この成就院の山門は間宮家の笹下陣屋の邸門です。
つまり、徳川家康公の側室、間宮於久(おひさ)の方の甥っ子の間宮直元公が初代として数えられる笹下外戚で、間宮直元公~御子孫の正次公が本牧奉行を辞職して下総国へ転封されるまでの四代の間の邸宅の門だった訳です。

そして成就院の背後の丘一帯が冒頭で紹介した笹下城本丸跡です。

この成就院一帯には昭和のIHI団地開発で破壊されるまで境内と周辺一帯が江戸時代に植林された梅林に囲まれていました。先に紹介した磯子区杉田の牛頭山妙法寺周辺の杉田梅林と合わせて観梅の名所でした。

現在では杉田と笹下は近代の横浜市成立後の区域分割で分けられていますが、間宮家が川崎市堀之内に在った城館から久良岐郡に移った頃には、杉田と笹下は一つの久良岐郡“上/下杉田郷”と言う区分でした。1510年に権現山合戦が発生し間宮家が杉田郷に移住し、1526年に鶴岡八幡宮合戦が起きて鎌倉防衛と沿岸部の防衛を兼ねた城が必要に成り、間宮家が信元公の代に至って鎌倉街道と金沢(六浦)道を押さえるのに適した笹下村の丘陵に笹下城を築城し本拠地とすると、笹下の地名が記録に登場する様に成ります。これは笹下城の名が間宮家の故地、近江国篠箇(ささげ)から名付けたとする説にも整合性が有り、杉田を治めた間宮信次(常信)公と兄弟での統治区分から笹下城の笹下郷と杉田郷と区分された様です。しかし以降も江戸時代まで杉田郷を笹下郷の地名が両方混在して記録される事も有った様です。

そんな杉田梅の杉田梅林と笹下城址の梅林を江戸時代初期に非常に身分の高い方々が京都から見学にいらっしゃった事が成就院に関する記録に残ります。前関白の九条幸家公と京都の本願寺の第十三世良如上人が金沢八景を遊覧しに参られた時に、笹下城址の梅林も見学にいらっしゃいました。九条幸家公の御姫様は良如上人の御妻女でした。この間宮家の梅林見学の際、御二人は成就院に滞在され梅林の美しさを絶賛された事で成就院の山号は梅花山に改められた歴史が有ります。

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※上の写真は築地本願寺です。

現在の本堂は関東大震災後、昭和九年(1934)年に完成したインド様式近代建築で国の重要文化財に指定されています。
浄土真宗関東根本道場として徳川家康公、本田正信公、間宮直元公の没後直ぐの元和三年(1617年)に最初の堂宇伽藍が完成しました。築地本願寺の造営には、徳川家康公の要請で大坂から移住して来た佃島の漁師達の協力が有り当時は海だった境内地と周辺の築地の埋立工事が成功しました。

築地本願寺の建設中は丁度、大坂冬の陣の直前に当たり、徳川家康公が駿府城に御隠居し、徳川秀忠公は征夷大将軍として江戸城に在城していました。間宮家が付家老として与力した玉縄城主の北条氏勝公は下総国岩富城に転封され、家康公参謀の本多正信公が玉縄城主に成っていました。

梅花山成就院に良如上人がいらっしゃったのは、完成して数十年後の築地本願寺へ御越しに成る際に鎌倉~金沢~笹下と金沢道(笹下釜利谷道路)沿いに旅をし遊覧されて回った事が推測出来ます。そして笹下杉田の梅林の事を御存知だったのは、築地本願寺建設中に准如上人の時代に、本多正信公が熱心な一向宗(※当時、江戸幕府統治下での浄土真宗の名称)門徒だったので、居城の玉縄城から近い間宮家の笹下と杉田の梅林を観光地として准如上人へ紹介されていたのでしょう。

加えて、氷取沢間宮家の間宮綱信公の菩提寺である宝勝寺や、笹下間宮家臣団の関与の有った成就院が一向宗の寺院だった事から、間宮家の笹下城本丸跡の下に建つ成就院が良如上人御一行の滞在場所に成ったのかも知れません。

杉田梅林や岡村梅林に匹敵する規模を有した笹下の梅林も、横浜市教育委員会と観光協会による保護が無かった為に残念ながらIHI団地の建設で消失しました。
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※写真は鎌倉の若宮大路から見た鶴岡八幡宮。

この成就院には幕末に僧籍から還俗し、元治元年(1864年)11月21日に鎌倉の若宮大路で鎌倉事件を起こした間宮一の廟所も存在します。

鎌倉事件は攘夷派の間宮一と清水清次が起こした事件ですが、二人の姓は伊豆以来の旧北条家重臣の姓です。鎌倉事件は間宮林蔵公にも見られる旧北条家臣団の結びつきを伺わせる事件でもあります。

この鎌倉事件の発端に成った事件が2年前に横浜市の笹下間宮家の旧領、末吉から近い生麦で起きています。

生麦事件は英国政府による日本での租界地獲得の政治的意図が見え隠れする事件で、間宮一はこれに義憤を感じ事件を起こした様です。

間宮一が同じ旧北条家臣と思わしき清水清次と鎌倉事件を起こした元治元年の2年前、戦国時代に間宮康俊公の所領だった鶴見区末吉の直ぐ隣の鶴見区生麦で、文久二年(1862)年8月に日本人なら誰もが義務教育で“生麦事件”が起きました。
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上の写真は鶴見区生麦の旧東海道、生麦事件発生現場と、下の写真はそこに民間によって設置された碑文。
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文久二年(1862年)8月、公家と武家が過激派の攘夷分子と、現実路線で分裂し日本に内戦の気配が漂い始めた頃、内戦を阻止し日本の速やかな近代化を図(はか)る薩摩藩の前半主島津久光公は公武合体を将軍に具申すべく薩摩兵700を率いて江戸へ登り、その帰り道に現在の横浜市鶴見区生麦で事件は発生しました。
横浜の英国人商人マーシャル、マーシャルの従妹で香港在住のマーガレット、横浜の米国人商人のクラーク、上海在住の英国人商人リチャードソンが事も有ろうに薩摩藩の軍列に対し正面から騎乗したまま突っ込んで来ました。この様な行為は英国でもテロ行為と見做(みな)されて即時射殺か斬殺されて当然の行為なので、彼等の中に何某かの意図が有ったのは明白でしょう。

しかし薩摩藩士達は外国人で有る事から日本の作法を知らないものと解釈し、当初は前衛の藩士達が騎乗のまま突っ込んでくる欧米人に対して身体を使って道を明ける様にジェスチャーをしたそうです。しかし英国人達は騎乗のまま隊列に突っ込んで来ました。これは明らかな政治的な意図の介在する挑発行為、もしくは本当に愚かな白人上位思想からくる黄色人種蔑視から来る嫌がらせでしょう。英国でも当然、庶民が貴族の馬列に正面から突っ込み体当たりをすれば反社会的行為と見做されます。挙句の果てに、彼らは久光公の籠の傍まで来て薩摩兵の隊列を

き乱す動きをし縦横に動き回ったそうです。その暴挙に至り、薩摩藩士はやむなく前藩主久光公護衛の為に不良外国人4人に斬りかかりました。
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※上の写真はリチャードソン落命の場所に日本人によって建てられた供養碑です。

4人はアメリカ領事館であった本覚寺に逃げ込もうとしますが、結果的にリチャードソンに致命傷、現在の国道1号線(東海道)と旧東海道の合流地点近くまで来て落馬した所で止めを刺されました。マーシャルとクラークは重傷、マーガレットは騎馬で薩摩藩の隊士蹴散らし離脱しました。

リチャードソン落命の場に日本人が建てた供養碑が有ります。一連の事件は明らかに英国人集団に非が有ります。しかし英国は事件の発生直後に幕府に対して莫大な賠償金を請求します。日本への賠償金請求に発展した挙句、幕府が道理に乗っ取り拒否すると理不尽にも英国外務大臣のラッセルが対日宣戦布告の準備を横浜で始めさせます。極めて計画的です。

これは巧妙に仕組まれた英国による租界、或るいは植民地獲得の為の政治的意図が見え隠れします。

この英国の強硬な態度に対して、国際法を熟知していない老中並の小笠原長行は英国と日本国の間で調停裁判を起こす事も無く、臆して独断で賠償金支払いを決めてしまいました。幕府の賠償金支払い後も当然ながら英国は脅迫を止めず英国艦隊を鹿児島湾に強硬入港させ、薩摩に対しても賠償金を請求し挑発をします。英艦隊は薩摩藩軍艦を拿捕し更なる挑発をすると薩摩藩は生麦事件の時と同様に喧嘩を買ってしまい英国艦隊を砲撃し薩英戦争が勃発します。

しかし、ここからが面白い事に恐らく英国人にとっては予想外だった展開に発展して行きます。

薩摩藩は意外にも劣った武装と防衛施設で善戦し、英国艦隊に大打撃を与えてしまうのです。これは日本人にとって幸運な事で、英国人の日本人に対する明治期の好意的な評価につながって行ったと思われ、薩摩藩も英国の植民地化されずに済み、更には日本近代化の窓口を大きく開いた瞬間でもありました。後に英国は近代において最大の親日国、支援者に成りました。

※下の写真は横浜市中区の本牧山妙香寺です。
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妙香寺は弘仁五年(814年)に弘法大師空海和尚の開いた寺院で、本牧山東海寺と言う寺名でしたが、鎌倉時代に領主で御寺の大旦那だった佐藤家が、日蓮上人が同寺に滞在された際に感銘を受け宗旨を改宗したそうです。

山号の本牧山の通り、久良岐の丘、本牧半島の先端に在る寺院です。

古代の日本武尊の頃~奈良時代に本牧半島は軍馬の生産地でした。これによって本牧の地名が当地に残ります。妙香寺は江戸時代、多くの学僧を抱えた壇林として栄えた御寺で、間宮直元公が本牧奉行として治めた地域に在る御寺でもあります。幕末に成ると、江戸幕府に寺域が英国軍の駐留地として指定された事で日本の吹奏楽発祥地・国家君が代発祥地・テニス発祥地に成りました。
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※写真は山手町公園内に在るテニス発祥記念館。

薩英戦争の際の薩摩藩の善戦によって英国はアプロ―チを変えて行きました。薩摩と英国は蜜月な中に成って行き、現在の横浜市中区の本牧山妙香寺に英国軍駐屯地が置かれると、薩摩藩士が妙香寺に入りびたり英国軍のジョン・ウィリアム・フェントン軍楽団長に師事して吹奏楽を学ぶ様に成ります。

このフェントン軍楽団長が「世界に通用する国として国歌を持つべき」との提言が有り、日本国歌が作曲される事に成りました。“君が代”はフェントン軍楽団長作曲、歌詩は後の大山巌(おおやまいわお)元帥により行われ、古今和歌集第七巻賀歌の部から選定されました。
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※写真は江戸時代に榊原照清公の邸宅が在った当時は海に浮かぶ島だった越中島跡に架かる錬兵衛橋。
杉田間宮家の間宮信繁公の御息女は、久能山東照宮初代宮司の榊原照久公に嫁いで、榊原照清公を産みました。その居所が在ったのが東京都江東区に在る越中島と言う当時は島だった場所です。現在は埋立られて地域名に成っています。
明治三年(1872年)9月8日に国歌君が代は初めて日本で演奏されました。その場所が越中島でした。
この越中島は紹介した通り間宮家と所縁の深い土地でありますが、大山巌元帥も間宮家と同じ近江源氏佐々木家支族で家紋も間宮家の家紋と酷似した“丸に隅立て四ツ目紋”です。         
丸に隅立て四ツ目紋丸に隅立て四ツ目紋、大山家の家紋。
隅立て四ツ目結び紋隅立て四ツ目結び紋、近江源氏佐々木家と間宮家の家紋。

この様に、間宮家が嘗て治めた土地で、同じ佐々木家の御子孫の大山巌元帥とフェントン軍楽団長によって最初の君が代が作られた事も、有る意味御縁なのかも知れません。今の君が代はドイツ人音楽教師エッケルト先生の編曲です。
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※上の写真は横浜市中区に有る横浜開港資料館です。

昭和六年(1931年)年に英国領事館として建築されました。
ペリー神奈川上陸
※ペリーが上陸した際の絵図。横浜開港資料館の屋外展示でも見れます。
この庭に在る玉楠(たまくすのき)はペリー提督が上陸した際の絵にも描かれていて、英国領事館は横浜の地名の由来に成った半島の上に建っている事が解ります。
開港資料館には生麦事件で起きた薩英戦争の白人犠牲者だけを追悼するプレートが壁に有ります。
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玉楠の樹の横には絵図の通り昔、弁財天様の御社が在りました。この弁天様は源頼朝公が勧進し造営した弁天様でしたが、関内地区が外国人居留地に成った頃、元町と羽衣町にそれぞれ分祀遷座されました。
明治の神仏分離令で渡来神で神仏習合の弁天様は、そのまま神社に御奉り出来なくない名前を厳島神社に改められて主祭神の名も日本神話の市杵島姫様に変えられてしまった事で、現在では源頼朝公が勧進した神社と言う縁起を知る人は宮司様と禰宜様達を除いては横浜市民にも御存知の方もほとんど居ません。
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元町の弁天様の御神紋は鎌倉の銭洗い弁財天こと宇賀福神社と同じ北条三鱗に浪切紋なので、恐らくは源頼朝公が開いた宇賀福神社から勧進され、後に鎌倉幕府執権の北条時頼公の支援が有ったと推測出来ます。
昔の横浜の地名の由来の半島の内側が、戦国時代の蒔田湾で、戦国時代の鶴岡八幡宮再建で、蒔田吉良家の殿様の吉良頼康公と、間宮家の間宮康俊公が再建の際に笹下川~大岡川~蒔田城下の蒔田湾へ材木を集積し、間宮家の杉田湊に水運で運び、更に鎌倉まで輸送しました。そんな港、蒔田湾が在ったのが横浜開港資料館を挟んで現在の山下公園や大桟橋と反対側の横浜球場~吉野町一帯でした。
蒔田湾は江戸時代に埋め立てられて吉田新田と成り消えましたが、安土桃山時代~江戸初期まで間宮直元公~間宮正次公の五代の間、本牧奉行として間宮家が管理した港でもあった訳です。

この様に間宮家の歴史は横浜と深い関わりが有り、所縁の神社仏閣史跡を廻るだけでも横浜や東京を散歩して回る口実も出来ます。
そして、その神社仏閣は思いがけず皆さんと昔の偉人達を繋ぐタイムカプセルに成ってくれる訳です。

皆さん、近所の神社仏閣や史跡を御散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

2016年11月26日は関東南部の平野部は絶好の紅葉狩りの1日と成った。

本来なら小生は早朝4時に友人のO型君と横浜市中区を出発し、伊勢原市の大山阿夫利神社の御神体である大山に山登りに行って紅葉のライトアップを見るか、あきる野市の秋留野渓谷に紅葉を見に行くはずだった。
前日の25日、小生にO型からメッセージが届いた・・・
「明日どうする?」
・・・と。
だから❝予定は早朝から出発、雨天なら世田谷豪徳寺か三渓園って1週間前に決めてあったろ~が!❞と思ったが、何かO型君が遠出を面倒くさがってそうなので「築地にセリを見に行かないか」と改めて新しい提案もしてみた。
O型:「英会話の予約9時に入れたから早朝は無理。」
何で予定入れるか!と思ったが・・・
小生:「あ~朝から動くの嫌なんだな」
・・・と思い、英会話優先して貰う代わりに貴重な休日を半日何もしないのは勿体ないので本日はO型君と別行動にして貰い、小生は1日個人行動をする事にした。
O型がちゃんと準備して紅葉を見に行く気が無いのなら、単独行動で別に人の多い日曜日じゃなくて小生は定休の水曜日に一人で行けば良いからね。
個人行動にしたので、今日は行かない心算だったが母の所に顔を出す事にした。
でも母の病院に行って築地で食事して終わりでは味気無い。
そこで思い付いたのが下の訪問先・・・
2016年11月26日訪問先位置関係
旧泉蔵院~弘明寺~寶泉寺~築地の拉麺屋❝若葉❞。
「そうだ!まだガラケー以来、デジカメで写真を撮影していなかった間宮家関連の神社仏閣を高速道路を使わずに巡りながら、築地まで下道で行こう!」
・・・と言う思い付き、これなら早朝出発し、午前中丸々と有意義に時間も使えるし築地の食事以外無駄遣いもしないで済む上、午後は病院に行ける。
で、出発の前に早朝に一仕事。
母も入院しているので自分の洗濯物3日分を、自宅洗濯機では洗わずコインランドリーでさっさと洗って、その足で出発する事にしたのが午前5時半くらいだろうか?
家じゃ夜中に洗濯機回せないし、コインランドリーだと大型洗濯機で洗濯して乾燥機で直ぐに乾くから便利だ。
まぁ、1回の洗濯に拉麺1杯と同じ700円かかるのは微妙だけど、時間を700円で買ったと思うと有意義だ。
コインランドリーでは洗濯を待つ間は缶コーヒーを飲みながら間宮家関連の古文書のコピーを読んでいた。
そうこうしていると、直ぐに洗濯➡乾燥が終了。フカフカで気持ち良い!
便利だなデカい乾燥機。

最初の訪問先は小生の住まう久良岐郡内に在った物凄く由緒正しい大寺院の❝跡❞、つまり廃寺に成った御寺の旧跡。
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その場所は現在では住宅地に成っている。
鎌倉時代は山崎泉蔵院と呼ばれ、源頼朝公が鎌倉のどの寺院よりも深く崇敬した修験道の寺院だった。
在る時期に戦火に捲き込まれて(恐らくは和田合戦か新田義貞の鎌倉乱入のどちらか)、鎌倉の山崎から道場の在った久良岐郡森村(磯子区中原)に移転して来た。
何故(なぜ)ここに移転したかと言うと、泉蔵院の山崎泉蔵坊は源頼朝公の命を受けて、この場所に熊野那智大社から熊野権現の御分霊を勧進したのだ。だから、この泉蔵院跡の熊野権現や屏風浦の森浅間神社は泉蔵院の支配地で、転居するのに便が良かった。
頼朝公の亡き後も、九条将軍や親王将軍の歴代から崇敬を集めた。
そして戦国時代には北條家臣の相模十四騎筆頭、間宮家から保護をされた。旦那が間宮家の頃に房総半島の里見家の海賊に略奪された歴史も有ったりする。新編武蔵風土記稿によれば、間宮家の奉納した太刀も寺宝に有ったようだ。
しかし明治政府の宗教政策神仏分離令と1村1社政策の失敗によって多くの神社仏閣が日本から消え失せたのと同じく、この磯子区中原に移転した泉蔵院も当時の僧侶が僧籍を捨て宮司に成った際に、社地確保の為に止むを得ず泉蔵院を廃寺にした上で更地にして頼朝公が勧進した熊野権現の名を熊野神社に改めて、神社としてだけ存続するしか無かった。
つまり、明治政府は水戸学と言うカルト宗派の影響を強く受けていたので、歴代天皇達が信仰した権現様の存在も山伏達の修験道も存在を弾圧した訳だ。
明治政府は概ね、外交と商業工業では日本の発展を成功させたが、日本文化を急速に弱体化させた罪は重い。
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ところで、この旧泉蔵院の宅地には修験道の道場だった頃の自然が一部保存されていて、緑地帯に成っている。
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余り歩く人も多くなさそうだが・・・
熊野神社の参道は、宅地化によって泉蔵院の頃とは恐らく違う、若干斜めに付けれている。
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ここは規模が大きい訳では無いが雰囲気が良い。
宅地化されたとは言え、背後に中原緑地が残り、鎌倉文化らしい谷戸地形に在る神社(元は修験道の道場)なので、早朝の凛とした空気と合わさって清浄な空気が漂う。
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ちゃんと、明治時代に泉蔵院を廃寺にして熊野神社だけを残して宮司に成った初代の宮司様は、歴史を残す為に境内社に泉蔵社として名前を一部残している。
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ここは(修験道の)寺院だった時は湧水地で修業の場として栄えた場所だった。
鎌倉幕府が滅亡して戦国時代には、横浜市南部の殿様で間宮林蔵達の祖先だった間宮家の殿様一族が深く信仰し、泉蔵院の山崎泉蔵坊泉勝は熊野那智大社に大旦那(スポンサー)として間宮与七郎と同平那隼人佑達を報告している。
小生はこの間宮与七郎こそが間宮林蔵の祖先に当たると推測している。間宮林蔵の祖先は間宮康俊公の子とされ実名は伝わらず間宮隼人とだけ官途名が伝わる。間宮与七郎も元服後の名と官途が伝わらず、字(あざな)だけが伝わっている。しかし部下と思われる同 平那隼人佑と記載される人物の官途が隼人佑なので、この部下に隼人佑の官職を授けれれると言う事は律令制度の隼人正(はやとのじょう)の官職を代々世襲した家系だろうか?
間宮一族は北条家中でも一番、鷹匠としての教養も備えた集団だった。間宮林蔵公の家系は鷹狩りに造詣が深かったと伝わる。
この間宮与七郎の名が登場する文書の年代は天文八年(1530年)なので、間宮康俊公は当時12歳で有る事から康俊公とは完全に別人だろう。恐らく、父の間宮信元公の字は伝わっていないので、この信元公本人かも知れない。若しくは信元公の兄弟か、名が登場する年代から康俊公の従兄くらいの関係だろう。
つまり、間宮林蔵の祖先が間宮康俊公とするのは誤りの可能性が高いが、少し惜しい外れで、正解はその父の間宮信元公の世代か康俊公の年長親族が間宮与七郎公が一番有力な祖先の候補に成ると小生は思っている。そして、間宮元重公の実父なのでは?とも思う。

泉蔵院の熊野権現への参詣を7時半頃に終えて、次は弘明寺に移動した。
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弘明寺と言うと京浜急行や横浜市営地下鉄の駅名や地名と認識されがちだが、元々は無畏三蔵法師と言うインド人の高僧が聖地と定め結界石を配置した場所に天平九年(737年)聖武天皇の時代に行基大僧正が開山と成って造営され後に天皇家の悪病平癒の勅願所だった。更に後の弘仁五年(814年)には弘法大師空海和尚が当地にて護摩を焚かれた記録が有る。
ここには新編武蔵風土記稿に❝弘明寺❞の字を建長寺の高僧玉隠が揮毫した扁額の裏面には奉納者達の名前が載っていて中心に❝本願宗閑同伴衆❞と刻まれ以下に同伴衆往嶋道徳面々の名も刻まれている。
同伴衆と言うのはつまり与力武将や家臣の事だ。道徳と言うのは臨済宗の入道号だな。
間宮家の家臣団の多くは、生前から入道号(禅宗修行僧としての名前)や、屋号を名乗る者が非常に多い。
そして屋号に川崎市由来の名を持つ者も多く、例えば間宮信親(信冬公と同一人物と推測)から感状を与えられている屋号が古門の内田対馬守の同族に、紺屋の屋号を持つ内田家がいる。紺屋と言うのは間宮家の旧本拠地の川崎の地名だ。
そして、その川崎の紺屋の地名の由来は三浦半島浦賀港西岸一帯の嘗ての地名の紺屋町の筈だ。
西浦賀(旧紺屋地区)は間宮家の所領だった。その紺屋を屋号に持つ紺屋内田家は現在も笹下城跡近くに住んで居て、近年までアパートを経営し、そのアパート名すら紺屋荘だったので小生は間宮家臣内田家のこの文書を読み古門内田家を探しに笹下を散策した際は、ものの3時間程度と直ぐに紺屋内田家を探し出し、そこから古門内田家と、高津間宮の間宮正秀公の遺骸を印旛郡高津村(八千代市高津)まで届けた源左衛門の祖先とおぼしき内田源左衛門家の足跡も探し出せた。
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❝本願宗閑同伴衆❞と扁額に書かれているそうだが、この宗閑と言うのは実は、間宮康俊公の戒名として現代に伝わる名だ。しかし扁額の奉納は大永元年(1522)年であり整合性が無い。3~4歳の間宮康俊公に同伴衆の大人が10人以上も連名で扁額を奉納するとは考え辛い。
実は間宮家は、近親ですら系図上で親や祖父、従兄弟の名や戒名を間違えて伝えた結果、寛政期の家系譜作成で同一人物と思しき人物の初名や改名後の名と思われる物が数人分有ったりする。
小生は、この弘明寺の扁額の記載事実から実は間宮康俊公の戒名が宗閑と伝わるのはそもそも間宮一族による事実誤認だと思っている。年代的に宗閑の戒名は康俊公の父の信元公の物であるべきだ。
恐らく康俊公には戒名が無かったのを、娘の於久の方が父の菩提を旦那様の徳川家康公に弔って貰う際に、誤って弘明寺に記録の在った祖父の入道号を父の入道号と事実誤認して以降、間宮信元公の入道号だった宗閑が、間宮康俊の戒名として後世に伝わってしまったと可能性が高いと推測している。
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何でこんな可能性を指摘するのかと言うと、弘明寺の寺宝だった花瓶にこんな文が書かれているそうだ。
「間宮監物コレを修理 天正十八年(1590年)二月吉日」と。この間宮監物と言うのは間宮家の寛政期の系譜上では間宮信俊と言う人物とされているが、小生の推測では間宮康俊公と同一人物だろう
❝信❞の字は間宮家の出自である近江源氏佐々木家の通し名であり、弘明寺の宗派真言宗は佐々木氏の本来の信仰する宗派である事から、北条家臣として主君北条氏康公から賜った❝康❞の字を使う間宮康俊の名と佐々木一族として神社仏閣と関わる際の間宮信俊としての名を使い分けていたのだろうと思う。
北条家では曹洞宗に帰依する事を家法とされていたので当然の事だと思っている。
つまり、康俊公が戦死した際に娘の於久様が父の近々の事績の残る寺院で父の戒名と成る入道号を知らなかった娘の於久さんが間違て調べて来てしまったか、後に追善供養を間宮正次公が行う際に誤って弘明寺の扁額に有る宗閑をもう一世代前の間宮信元公の戒名の可能性を考えずに間宮康俊公の戒名としてしまった可能性が高いと考えられる。
娘の誤解のせいで根本的に間宮康俊公には入道号も戒名もまだ現代に至っても実は無いままなんじゃないだろうか?
こう言う事が間宮一族には多過ぎる。
常に前線で戦う事を求められた一族だったので戦死者が多すぎて、一族内でも祖先達の氏名を間違えて追善供養を行ってしまったりしている。
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しかもよりにもよって、弘明寺の僧侶たちは歴史的な知識が欠如しているのか、この扁額をどっかにやって新調してしまったようで改めて訪問したが「弘明寺」と書かれた扁額が見当たらなかった。
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歴史を知らない神主や和尚が、宮司や住職に成ると起きる悲劇がここでも起きたのかも知れない。
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何はともあれ、弘明寺は巨大寺院だったのだが、こちらも明治政府の弾圧によって境内地が大規模に接収されてしまい、現在の弘明寺商店街と京浜急行電鉄の線路と駅が建設されてしまった。だから、現在でも普通よりは大きい規模の御寺では有るが、一時は無住職に成り廃寺の危機に陥った。
真言宗と修験道を崇拝した源氏の源頼朝公は度々、この弘明寺を参詣した。妻の北条政子も港南区の野庭関城の下の鎌倉街道下道を通って弘明寺を訪れている。或いは夫婦で参詣したのかも知れない。
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だから北条政子木像が有ったり・・・
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頼朝公を始め鎌倉武士が軍神として信奉した弁財天様が祀られれいる。
弘明寺で僧籍職員を質問攻めにしたが、全く歴史知識が欠如していて寺院を保護して下さった歴代の壇那様に対する感謝も無い。
むしろ、清掃していた事務員の方が詳しい始末。
僧侶がそんな事では御寺を維持するのは難しいだろう。その破滅の一歩が扁額の紛失かも知れない。
ちゃんと自分の御寺の歴史くらいは小生の様な素人一般人に突っ込まれない程度には学習するべきだと思う。
ところで、弘法大師様が護摩焚きした伝承が残る寺院や霊場(神道の聖地も含め昔は区別して無かった)では、不思議な事に自然湧水地と延喜式内社や式外社と日本武尊伝説の残る聖地が多い。
走水神社の辺りにも弘法大師は来ているが、走水は古代から飲用に適した湧水があり聖地とされていた。
尾張一宮真清田神社や横浜市港北区の師岡熊野神社や相模原市の有賀神社奥宮等の延喜年間以前からの天皇家の勅願所や祈願所も全て湧水地な訳だが、これは神社文化の成立を考古学的に考えると当然の事なん訳だ。
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古代人にとっては飲んでも御腹を壊さず清涼な生活水が確保出来る土地そのものが聖地であり、その湧水地を中心に集落が形成され、リーダーが生まれ豪族の住む場所が高床式の屋敷と成り、そこがやがて神殿となって行った訳だ。
空海和尚は、日本神話を大切にしておられたので自分で日本武尊伝承地を廻っている内に、恐らくそう言った歴史事実に考古学が存在しなかった時代にお気付きに成られていたのだろう。
そして弘明寺も、そう言った意味で凄まじい聖地である・・・
ここは昔からの温泉地だった。今ではそれを知る人も少ないけどね。

弘明寺で扁額の喪失の事実を確認してしまって大分、テンションが下がったまま、次の目的地の横浜市鶴見区下末吉の寶泉寺へ移動した。
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この御寺は間宮家で最初の武勇が記録に残る間宮信冬公の開基と御寺では伝えている。
つまり権現山合戦で活躍したあの間宮彦四郎だ。
所が、川崎大島村(現在の川崎駅前から徒歩20分超の大島町)の伊左衛門の官途名を屋号に持つ間宮家臣子孫達が毎年旧暦八月二十六日に箱根の山中城で討死した間宮康俊公の追善供養を行っていたそうだ。この大島村の伊左衛門は、弘明寺の扁額に間宮宗閑同伴衆として名を連ねた往嶋道徳(おうしまどうとく)の子孫だろう。
この大島家を始めとした家臣団の康俊公の追善供養と、開基の間宮信冬公の話がいつの間にか、寶泉寺の外で語られる寺の歴史が間宮康俊公開基と話が混同されてしまって、事も有ろうに昌平坂学問所の頭取で間宮家の子孫である間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿でも同様に間宮康俊開基と紹介してしまっている。
しかしこれは誤りで、寶泉寺が正しく、恐らくは間宮康俊公は寶泉寺を❝中興❞されていたのだと小生は推測する。
間宮家が末吉や川崎辺りを本拠地にしたのは間宮信冬公や間宮信盛公の時代の話なので、やはり当事者である寶泉寺の寺伝が正しいだろう。
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ところで、この御寺は都会の中に在りながら、御庭は中々広く綺麗な御寺だ。
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手入れが行き届いている。素晴らしい。
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建築も素晴らしい。
そして寺紋は間宮家所縁の四ツ目結び紋に丸を配した物。
丸に四ツ目結びは紋は、間宮家の分家や家臣団が間宮本家から与えられる家紋だ。
分家の嫡流は間宮本家と同じ四ツ目結び紋。それ以外の末端の一族や有力家臣や神社仏閣が〇で囲ってある丸に四ツ目結び紋な訳だ。
だから間宮家の戦国時代の本拠地の磯子区や港南区の地主達は、この寶泉寺と同じ家紋が多い。
寶泉寺の現住職の若様と一しきり寶泉寺の事を話し込んで、御寺の寺伝を纏めた冊子を頂きました。
若様に感謝。
御参りと写真撮影を終えて、思い付きで川崎駅前の瑞龍山宗三寺もついでに寄る事にした。
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宗三寺は旧東海道の目の前に在り、直ぐ裏には京浜急行川崎駅も在る。
一帯は堀之内の地名が町名だが、これは間宮信盛公の城館が在った事に由来する。
そもそもは源頼朝公に与力した平安時代末期の名将、佐々木高綱公の城館が在った場所が現在の宗三寺の境内地だ。佐々木高綱公の引退後、この地を引き継いだのは甥っ子の佐々木信綱公だった。佐々木高綱公と間宮家の祖先とは祖先同士が親戚に当たる。
高綱公の祖父の佐々木秀定公と間宮家の祖先の佐々木行定公が御兄弟に当たる訳だ。
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宗三寺の場所に在った佐々木家は、信綱公の子、佐々木泰綱公の代に横浜市港北区の小机の開発願いを鎌倉幕府に届け出て承認されている。この川崎多摩川を利用した水運には適するものの、当時は砂州で耕作に適さなかったからだろう。その頃に関東に残った佐々木一族は小机を本拠に移したと思われる。
小机も佐々木高綱公の居城跡の鳥山八幡宮や高綱公が開基した三会寺が現存する。
川崎の宗三寺は、元々は勝福寺と言う真言宗の寺院だった。
佐々木高綱公の甥の信綱公の子、佐々木泰綱公が弘長三年(1263年)に同志5000人の寄付で梵鐘を鋳造させて勝福寺に奉納している。そんな川崎に間宮家が戦国時代に入ったのは北条家の事情に由ると思われる。
北条家が関東で勢力を伸張するに当たり、獲得した領地支配の正当性を主張する為に、古来の領主の子孫を故地に配属していたので、佐々木一族の間宮家を川崎に配置したのだろう。
ここを本拠地にしていたのは間宮信盛公だ。
そして間宮信盛公が元々真言宗の勝福寺を中興するのだが、その縁で信盛公の入道号、宗三をとって是(これ)を寺名と改め、宗旨も北条家の帰依した曹洞宗に改宗された。
さらに時代が下って子孫の氷取沢間宮家の一族、間宮孫兵衛盛重公が宗三寺を中興した。
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しかし、この間宮盛重公、とんでも無いミスをやらかしていて、間宮信盛公の墓碑に誤って間宮本家の名将、間宮康信公の名を彫り込んでしまっている。
しかも子の間宮盛正が元禄四年(1702年)に刃傷沙汰を起した挙句に預かり先の旧武田家臣、依田家で不可解な火災を起こして改易されている。
この一連の事件の責任をとってか、間宮家の本家や杉田間宮家は奉行職を同時期に辞任している。
更に同時期に高津間宮家の間宮信要も延宝四年(1677)年に刃傷沙汰を起し切腹されられている。
更に少し前の延宝元年(1673年)には大田区の善慶寺が菩提寺の間宮太郎兵衛達が起こした義民六人衆の事件が起きている。
小生は、これ等一連の事件を義民六人衆事件を契機に間宮家を敵視し、更に旧北条家臣団を敵視して金権政治を行っていた側用人達の陰謀と後に旧武田家臣の柳沢吉保の関与が有ったのではないかと推測している。
同じ時期の元禄二年(1700)年には間宮と同じ旧北条家臣で蒔田吉良家の与力だった世田谷の喜多見家が喜多見重政の代に2万石の大名から改易されている。これも柳沢吉保の陰謀と言われている。
写真を撮影し終わって、間宮信盛公の御廟所と本堂にも御参りして、築地に向かった。
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日曜日の築地場外市場は大盛況で、中々歩くのも大変な程だった。
小生の目的はもう少し歩き易い門跡通りの歩道に面した拉麺屋の❝若葉❞。
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ここは築地に始めて来た10年位前に気になって、母の入院以来ずっと食べるチャンスをう窺(うかが)っていたのだが毎回、お店が早すぎてもやってないし午後だとやってなくて食べれなかった。
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今回はやっと席に着く事が出来た。
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シンプルな醤油ラーメン。でもこれが凄く美味い!
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極細縮(ちぢ)れ麺が旨味の深い醤油スープを良く持ち上げてくれるんだな。
700円と築地に在りながら割と良心的な値段で味も凄く良く大満足。
しかし食べたりない小生は、この後、鶏肉の総菜で有名な鳥藤に移動・・・CIMG1571
チキンペッパーステーキを食べ歩きして・・・
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更に!
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イチゴ大福も食べました(笑)
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餡までイチゴが入っていて美味しかったよ。
御腹もいっぱいに成った所で国立がんセンター研究病院に移動。
母は火曜日に手術して4日目だが、何と、見舞いに行った日から食事が復活していた!
まだ柔らかいオカズが多かった様だが、回復の速さにビックリした。
帰りに病院のロビーで面白い展示物が有るのに気が付いた。CIMG1577
医療器具やら病院の歴史の展示。
こうやって時間系列での器具の発展や、病院解説なんかの展示してあると興味が注がれる。
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ここは今上天皇陛下御夫妻も見学に来られたそうだ。
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ふむ、予定通りの紅葉見学とは行かなかったが、尊敬する間宮家の殿様達の足跡を改めて辿り写真撮影を行えて、美味しい拉麺も食べて、母も回復しつつ有り、大変良い休日を過ごせた!
水曜日はあきる野に紅葉を見に行こう。

では!又、次の記事であいましょう!
そろそろ、何か解説記事書きたいな・・・


世田谷区、東急世田谷線宮の坂駅から徒歩で5分位の場所に、勝光院と言う落ち着いた雰囲気の御寺が在ります…
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この勝光院、横浜市南区の蒔田城と、世田谷区豪徳寺に在った世田谷城を主要拠点にして武蔵国南部の交通の要衝を支配した「蒔田吉良家」の歴代殿様の菩提寺です。

足利一門の中でも非常に格式の高い存在だった蒔田吉良家だけあり、江戸時代に大名から旗本に規模縮小したにも関わらず、菩提寺勝光院の規模は小大名の菩提寺クラスの規模の境内を現代も維持しています。
この御寺を維持する為に、歴代の檀家さん達は非常に苦労されたと思います。

さて、この勝光院には当然、吉良家の殿様の御廟所が在る訳ですが、鎌倉の報国寺の様な「竹林寺」として昔は有名だったそうです。
ですから裏門側に行くと当時の名残で竹林が一部今も残っています。
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恐らく、太平洋戦争敗戦時にGHQにより、他の神社仏閣同様に宗教施設と言う事で建物周辺以外の所有地を没収されてしまったんでしょうね…
昔は周辺の宅地が素敵な竹林だったのかも知れませんが、生憎(あいにく)訪問時に古い檀家さんや年配の職員の方と話す機会が無かったので詳しい事は判りません。

しかし、参道からは何となく昔の雰囲気が伝わってきます。
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さて、勝光院さんは山門の手前、竹垣で囲まれたところが墓地に成っていて、そちらに歴代殿様達の御廟所が在ります。
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不敬に成るので今回も御廟所内の写真は撮りません。
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この勝光院は、今川家から蒔田御所吉良頼康公の養子に入り跡を継いだ蒔田吉良氏朝(うじとも)公が1573年に中興しました。
しかし吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家が豊臣秀吉により滅ぼされる際、氏朝公は下総国(しもうさ=今の千葉県の北部と茨城県南部)に逃げたので、世田谷における吉良家の大名としての活動は終了し、以後は徳川家の旗本として下総国で存続する事に成りました。
しかし、吉良の殿様の御子孫は、下総国転封後も世田谷の事を大切に思い、その故地に建つ勝光院に御廟所を置き、氏朝公の御孫さんの代から歴代の殿様の御廟所が置かれる事に成りました。
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由緒正しい御殿様の菩提寺だけあり、各施設謂(いわ)れがあり、説明看板がちゃんと有ります。
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御本堂も幕府の歴代重鎮達の御寺と遜色無い規模を誇っています。
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素敵な御寺でしょう?
印刷した物ですが御朱印も頂ける御寺です。

世田谷住の方、この勝光院や近所の吉良頼康公が中興した世田谷八幡宮や豪徳寺を御散歩してみませんか?
豪徳寺は招き猫の発祥の御寺ですし、世田谷八幡宮は家康公に保護され江戸時代相撲興行で有名だった八幡社ですから、いずれも立派な歴史と規模が有り御散歩すれば良い休日を過ごせると思いますよ~!

では、又、対の記事で御会いしましょう!


ブログネタ
今年後半に向けての抱負は? に参加中!
横浜市南区堀之内、地下鉄吉野町駅から徒歩15分くらいの所…
江戸時代には近くに蒔田湾(古大岡湾)と呼ばれた入江が眼前まで広がっていた丘、今では埋め立てられ平地に突き出した丘の裾に青龍山寳生寺と言う古義真言宗の名古刹(こさつ=古い御寺)が在(あ)るのを御存知でしょうか?

雰囲気有る石段でしょ?
今は宅地に成ってしまった旧参道から山門に続く石段の立派さが、この寺院の往時の権威を今に伝えています。
季節柄、紫陽花も綺麗ですね〜♪
1171年(承安元年)の開基ですから…
鎌倉幕府を開いた源頼朝公の御父君、左馬頭(さまのかみ)源義朝公の頃の時代の話ですね。
山門も良い感じに風情ありますよね?
鎌倉時代には執権の北条貞時公や、横浜市金沢区金沢文庫の地名の由来に成った日本初の私設図書館金沢文庫を創設し称名寺の基に成った金沢北条家の邸宅を建設した文化人で鎌倉幕府の重鎮、北条実時公からも保護されました。
※称名寺の記事は「ココ」←クリック!

近くには戦国時代の武蔵蒔田吉良家の殿様の城、蒔田城も在りました。
戦国時代には蒔田吉良家は横浜市南区や川崎市高津区中原区、東京都世田谷区一帯を支配していました。
吉良家と友好関係にあり江戸城主だった戦国時代初期の名将太田道灌公からも崇拝されていました。
※吉良家の記事は「ココ」←クリック!

余談ですが南区には京浜急行の南太田駅が在りますが、この南太田の地名の由来は戦国時代に今の南区太田に太田道灌公の御城が有った事に由来します。
吉良家の殿様は吉良頼康公の頃から小田原北条家に協力していた関係からか、この寳生寺も戦国時代の名将北条氏康公からも保護されていました。
その鎌倉幕府金沢北条家〜戦国時代の北条氏康公に保護されて来た証拠が山門の上と手水舎に刻印された寺紋です…
北条家の家紋、三鱗紋の使用を許され今も御寺の寺紋として使われています。

さて、この寳生寺、昔は沢山の大建築を擁する大寺院で本山格の権威を誇っていたのですが…
最大時には本殿と鐘楼以外に惣門、長屋門、弁天堂で七福神の弁財天様も御祀(まつ)りしており、それ以外に客殿や熊野社、経蔵が有ったそうですが、明治政府の数少ない愚政の一つ「廃仏棄釈」により衰退してしまいました。
その影響で本殿と山門と鐘楼を除いて失われてしまいました…。
残念ですね。
歴史の古い本殿は、今も健在です。
 
本殿は立派な彫刻を施されています。
あと鐘楼も有ります。
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鐘楼の向こうに本堂を見ると、背後に山林が広がっているのが見えますよね。
 
寶生寺の山林は県の市の保護林にも指定されていて貴重な場所でもあり、保護林である時点でその広大さも窺(うかが)い知れると思いますが、衛星写真で見てみると解り易いですね。
寶生寺
寶生寺を中心に取り囲む山林が寺域です。
むやみに伐採出来ないので、御寺の参道も管理が大変そうですね。
少し雑草が生い茂っていたり落ち葉が多かったので次回訪問する際に、御住職に参道の掃除をさせて下さいと申し出て見ようかなと思いました…
広い御寺を老齢になられてから維持管理するのは大変ですからね…
動ける人間が横浜市の歴史を守って来た御寺や神社に恩返し出来る事をするのは当然だと思いますので。

さて、この寶生寺、戦国時代の終焉の頃には徳川家康公により、保護する旨の朱印状を与えられています。
恐らく、その橋渡しをしたのが寶生寺に深く関わっていた横浜の殿様、「間宮直元公」だと推測出来ます。
間宮直元公は、横浜市磯子区と港南区にまたがる広大な城、笹下城の最後の城主で北条家の滅亡後は徳川家康公に仕えて、笹下城址の麓(ふもと)に笹下陣屋を築いて、そこを拠点に「本牧奉行(ほんもくぶぎょう)」と言う役職を担(にな)っていました。

※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
その本牧奉行の行政担当範囲を衛星写真でみると、大凡こんな感じです。
寶生寺周辺図
写真の中央に寶生寺の所在する横浜市南区、その上部、東京湾に突き出た半島を本牧半島と言います。
そして、本牧奉行の支配域は大凡、写真で見えている範囲で嘗(かつ)て日本神話の時代に神武天皇が城を造りたいと仰ったと伝承する「久良岐(くらき)の丘」と呼ばれる丘陵地帯です。
その丘陵地帯が正に、略(ほぼ)この写真の範囲で、この地域は神話の時代から明治時代に横浜市が成立するまで「久良岐郡」と呼ばれていました。
余談ですが久良岐郡の久良岐が小生のハンドルネームでもあります。
日本武尊と乙橘姫の二柱の神様が、旅されたのが久良岐郡と、隣の橘樹郡、三浦郡の地域で一帯には日本武尊神話がそこかしこに残り、それとリンクする様に浦島太郎伝説も残っている神話と伝承の地域でもあります。
そして平安時代~現代に至るまで坂東武者や戦国武将達の重要な水軍基地だった地域でもあり、現代の日本国の海上自衛隊と米国海軍にとって重要な基地やドッグの点在する地域でもあります。
それと同時に海外貿易を担う「国際港」横浜港の中枢でもあります。

さて、何で大大名でもない間宮直元公が直接、寶生寺と徳川家康公の橋渡しを出来る立場にいたかですが…
直元公の祖父は間宮康俊公と言い、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に箱根の山中城の出城、袋崎出丸に籠城し大活躍の後に玉砕した功績から、その子弟の多くが徳川家康公の直臣として取り立てられていました。
そして直元公からして叔母に当たる「間宮お久」さんは家康公の側室に入っており、後に「於久(おひさ)の方」と呼ばれた人物で縁故も有った訳です。
そして直元公御自身も「本牧奉行」以外にも更に重要な役職に就(つ)いていました…
その役職と言うのが江戸幕府の「但馬奉行」と「佐渡奉行」と呼ばれる役職です。
但馬奉行は但馬銀山の鉱山開発、佐渡奉行は佐渡金山の鉱山開発を担う重要な役職で、直元公の前任者は学校の日本史でも習う「大久保長安」と言う江戸幕府の超有名な内政官僚でした。
その大久保長安が政治失脚した後に、最後の笹下城主だった間宮直元公が、その役職を継いだ訳です。

間宮家は室町時代~明治維新まで、横浜の多くの神社仏閣や文化財を守る気風を受け継いだ殿様が多く、この寶生寺にも現代に重要文化財が残りました。
寶生寺の説明看板の写真を、その文化財の説明として掲載します。
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看板の他にも江戸期の石塔が保護されていました。
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さて、何で寶生寺に関わっていた間宮家の直元公が、但馬奉行や佐渡奉行を担っていたかですが、それは今も横浜市港南区笹下に住む、間宮家臣の竹内家や市村家、内田家の其々(それぞれ)の御本家と分家の御子孫の御話しや、文献から容易に推測が出来ます…
間宮家は戦国時代、小田原北条家の家臣でした。
所属した部隊は、関東地方で最強の武将だった玉縄城主北条綱成公率いる「黄備え隊」でした。
黄備え隊は、北条家の国境前線で起きる重要な合戦に常に参戦する部隊でした。
その戦闘範囲は広く…
西は間宮家は家臣古角内田家が受領した感状に記載された年号から、北条早雲公が今川家臣だった時代には遠く三河国(愛知県安城市)に今川軍として遠征し松平家と交戦しています。
北は北条綱成公率いる黄備え隊が信濃国上田城(長野県上田市)の武田軍の救援に赴いています。
東は下総国逆井城(茨城県坂東市)にて頻繁に佐竹家や小田家と交戦していました。

そして間宮家臣の御子孫の皆さんの御話しでは、間宮家は合戦だけでなく築城技術集団だったそうです。
つまり、鉱山の開発を任されたのは土木建築技術集団としての評価も高かったからでしょうか?
因みに間宮家は合戦と土木建築技術の他にも織田家や神社仏閣との外交等でも活躍していました。
その家臣筋の皆さんの証言を証明するのが、1526年に戦災で焼失した鶴岡八幡宮の再建事業に1536年から間宮家の当時の惣領だった間宮康俊公が奉行として参加している事です。
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この鶴岡八幡宮再建には寶生寺近くの蒔田城主吉良頼康公も材木の調達で寄与されています。
間宮家は祖先を有名な鎌倉御家人「佐々木高綱」公と自認していた(実際は佐々木高綱公の叔父の家系)事から、敦実親王の王孫に当たり家格も高く、その上、間宮家の系統の祖先が近江沙沙貴神社の宮司家だった為、神事にも精通し、加えて土木技術集団であったので「鶴岡八幡宮再建事業」にはうってつけの集団だった訳です。
羽柴秀吉における蜂須賀小六に有職故実の知識を足した様な人物に当たるのが、北条綱成公における間宮康俊公だと言えば解り易いでしょうか?
※北条綱成公と玉縄城の記事は「ココ 」←クリック!

この推測を更に強化するのが、徳川家康公の大坂城攻め「大坂冬の陣」の史話です。
間宮直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力武将として参戦していました。
その際、徳川家康公に直々に呼び出され密命を命じられます。その内容が…
「坑道を掘り、大坂城の櫓を崩せ」
…と言うものでした。
残念ながら、この作戦の成功を見ずに直元公は在陣中、病没してしまわれました。
しかし、この逸話からも、直元公が家康公と直接話せる立場に在ったと言う事が立証出来る訳です。
なので、寶生寺と関わりの深い間宮直元公が徳川家康公に口添えし、御朱印発給を要請した事が推測出来る訳です。

この寶生寺は間宮直元公や北条家、徳川家康公とこの様に関わりを持って来た訳ですが…
南区に御住いの皆さん、寶生寺がそんな凄い御寺だって御存知でしたか?
小生は寶生寺を訪れて、ますます先人の残して下さった文化と神社の宮司さん氏子さん、御寺の和尚さんと檀家さんが守り伝えてきた歴史を大切にしなきゃいけないなと改めて思う休日に成りました。
どうやったら郷土史の伝承に貢献できるか、寄与できる方法や規模を充実させて行きたいなと思いました。

もし、これを読んで御興味を持たれたら是非!寶生寺や御近所の吉良家の蒔田城址に在る吉良政忠公の菩提寺である龍祥山勝國寺を御散歩して郷土の歴史を感じてみませんか?

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!

横浜市港南区磯子区に有った笹下城

間宮林蔵と杉田玄白の先祖の城


笹下城と言う御城が横浜市港南区と磯子区に在(あ)ったのを御存知でしょうか?小田原北条家の家臣で相模十四騎の筆頭とされた間宮氏の居城でした。
間宮家は近江源氏佐々木氏の出身で、伊豆の間宮に移住した一族が地名を姓にし、北条早雲公が伊豆の大名に成ると早くから配下として活躍し戦国時代の頃には小田原北条家の中で相模十四騎筆頭と言う旗本中で深く信頼を得る立場となりました。

写真は笹下城本丸部分です。

港南区笹下4丁目の旧I H I団地のあった場所の裏山、梅花山成就院と言う御寺と地続きの丘が本丸の跡です。その名残で、この付近には「御下公園」と言う地名が残ります。

近々この本丸の風景も野村不動産の宅地開発と介護施設建設で今の様には見る事が出来なくなります。

この笹下城、北条家の本拠地の小田原城、重要拠点の大船駅近くの玉縄城や八王子市の滝山城に近い規模を誇っていましたが、高度経済成長期の乱開発で史跡としての調査はされませんでした。
平成二十四年迄、成就院横に有った明確な遺構の大空堀も宅地化され消滅してしまいました。

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笹下城城域は、上の写真の現在の笹下中央公園に在った出城の北見掃部(かもん)屋敷跡の大切岸(きりぎし)と…

…下の写真の天照大神宮一帯に在った松本城の二つの砦を取り込む構えでした。  
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その規模は南北に1.5km前後、東西に1km程の範囲に笹下城要塞群が有りました。

笹下城の南端の正門は笹下川に架かる下の写真、現在の「元笹下橋」付近だと伝承しています。

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下の写真は元笹下橋から見た外堀の役割を果たしていた笹下川です。

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昔から横浜に住む人は笹下川と何百年も川の名前を伝えて来ましたが、近年、神奈川県が大岡川の本流と言う理由で大岡川にいつの間にか名称を改称してしまいました。


この笹下城は2つの仮想敵を想定して築城されました。
1つ目は扇谷(おうぎがやつ)上杉家、江戸方面から陸路で鎌倉街道を攻め上って来る敵勢力です。

2つ目は里見家と正木家、房総半島から水軍で来襲し、鎌倉の外港の六浦港(横浜市金沢区六浦に在った港)や三浦半島の走水海岸付近への上陸を狙う敵勢力です。
その2勢力を抑え今の横浜市域と鎌倉市域を東京湾側で防衛する目的で築かれたのが笹下城でした。

下の 写真は杉田側から侵入して来た敵を迎撃する関門だった若宮郭(わかみやくるわ)の跡にある若宮御霊神社です。
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元々間宮家の殿様が鶴岡八幡宮の若宮八幡宮と御霊神社をそれぞれ別に勧進し祀っていましたが、近代に合祀されて若宮御霊神社になりました。 

戦国時代に間宮家が仕えた北条家は、小田原城を本拠地に関東地方の大半を治めていました。その親族で関東地方最強の武将だった玉縄城主の北条綱成(つなしげ)公や、2代目の北条氏繁公の付家老を務めたのが間宮家でした。
北条綱成公は上杉謙信や武田信玄の大軍相手に度々勝利を収めた武将で、敵方からも「地黄八幡」の異名で畏敬の念を持って呼ばれる名将でした。

北条家には軍旗を青・赤・黄・黒・白の5色に色分けされた5つの主力部隊が有りました。

その内、黄備え隊の大将が玉縄城主北条綱成公と御子孫の玉縄北条家歴代当主だったので、付家老の間宮家も黄備え隊の与力として活躍しました。

鎌倉市大船一帯に在った玉縄城と、鎌倉を東西で対を成し鎌倉や横浜への陸海路の侵入口を防衛する重要な土地の久良岐郡笹下郷や杉田郷一帯の拠点として築かれた笹下城ですが、間宮信元公の代に築城されると、房総半島からの里見水軍・正木水軍の乱入による略奪は無くなりました。

今の横浜市や鎌倉市に当たる昔の久良岐郡や鎌倉郡の領民にとっては間宮家と笹下城は心強い存在でした。

そんな笹下城を拠点に活躍した間宮家には戦国時代に特に素晴らしい功績を残した武将が5人います。


1人目は今の京急神奈川駅の付近一帯に有った権現山城で勃発(ぼっぱつ)した北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦で活躍した川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。
下の写真が、昔、海に突き出た半島だった権現山城址の青木山本覚寺側~幸ヶ谷公園の風景です。

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上の絵は権現山合戦で活躍する間宮信冬公の絵です。北条家が敗戦したものの、信冬公は敵陣への単騎突撃で名声を獲得しました。
この権現山城は古くは足利尊氏公が合戦の際に籠城したのが城塞としての始まりで、付近には江戸時代に東海道として整備された古東海道が通っていた為、戦略上の要所でした。
江戸時代には東海道五十三の宿場町の一つ神奈川宿が置かれ、幕末には勝海舟の設計で海上要塞の神奈川台場が建設された場所の直ぐ近くでもあります。
この権現山城は間宮家と所縁の有る土地でした。
古来、この一帯は県名の由来に成った神奈川と呼ばれた土地で、そこに間宮一族の間宮宗甫と言う武将が領地を有していた為、北条家家臣の間宮家の武将が参戦するのは当然でした。
系図上で信冬公の後継者として確認出来る人物が間宮信盛公です。
この合戦の後、先述の通り間宮家は間宮信盛公と、その次代を担った間宮信元公が川崎から陸路の要の横浜市港南区笹下や海運の要の磯子区杉田港に拠点を移し、間宮信元公により笹下城が築城されました。
下の絵図は権現山合戦の様子です。

権現山合戦

現在では権現山城址は往時の原型は無く、大半は幕末の神奈川台場建設の海埋め立ての為に城山を削られ、防御施設の遺構は消失しました。

更に国道と鉄道の建設で上の写真の本覚寺一帯~幸ヶ谷公園に続く半島は大きく掘り切られて分断されてしまい、周囲が宅地化され地形も当時の城域が解らなくなる程に破壊しつくされてしまいました。

周囲には幕末の横浜開港時、フランス公使館として利用された真色山甚行寺もあります。
権現山城を拡張した青木城主要部分と伝わる場所に建つ青木山本覚寺は、幕末にはアメリカ領事館として利用されました。
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権現山城の在った、この地域は昔の武士にとって重要な場所だった上に近代横浜開港の重要な舞台の一つであり、現代の横浜市民にとっても大切な歴史を伝える場所です。

間宮家で功績を残された2人目の殿様は
豊臣秀吉の小田原攻めの際に伊豆山中城の合戦で活躍した間宮康俊公です。

間宮康俊公が付家老を務めた北条綱成公の「黄備え隊」は何回も神がかり的な戦功を立て全国に勇名を轟かせました。

中でも有名なのが日本三大奇襲戦の一つに数えられている河越夜戦とも河越合戦とも呼ばれる決戦での活躍です。戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の御主君の北条氏康公は優れた民政により、民百姓の支持を得て関東で勢力を拡大しました。
その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市)で激突します…
河越合戦布陣図

戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の主君北条氏康(うじやす)公は優れた民政により民百姓の支持を得て、関東で勢力を拡大します。その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った城)で激突します。 

1545 年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
三つ鱗紋  

・北条家兵力  3,000 (河越城籠城部隊) 

 籠城部隊…白備隊大将:北条幻庵公 黄備隊大将:北条綱成公     

・本隊総兵力  8,000(4月17日小田原出陣、19日川越着陣、20日参戦)
 総大将…北条家当主 北条氏康

 援軍武将…黒備隊大将:多目元忠公 等 

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・上杉家兵力 80,000
 総大将:古河公方足利晴氏・
・参戦大名:山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・小田政治等
 与力武将:梁田晴助・長野業正・倉賀野行定・太田資正・難波田憲重・菅谷貞次等


北条方の河越城守将は小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。

北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。

河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
…対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。
この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
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出陣当日、氏康公は現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊で戦勝祈願をしています。

実はこの岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。岩本坊は現代、上の写真の鳥居のすぐ傍、江の島神社の参道に岩本楼と言う旅館として存続しています。

氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけました…
同時に河越城から綱成公と副将の間宮家の黄備え隊が出撃し、氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。

この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公でした。

敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、北条氏康公・綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅しました。

この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で…

・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。

・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。

…いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 


このように間宮家の主君:北条氏康公と北条綱成公の御二方は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていました。
そして綱成公の与力だった間宮康俊公も武勇で稀有な功績を残された方でした。

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上の写真は港北区のJR小机駅や小机城の近くの鳥山地区に在る端雲山三会寺(さんねじ)です。

開基したのは平安時代~鎌倉時代の鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝公に御家人として与力した佐々木高綱公です。
間宮家は高綱公の家系である近江源氏佐々木家の分家に当たり、祖先は宇多天皇、家祖は敦実(あつざね)親王、その敦実親王を御祭神として祀る滋賀県安土町沙沙貴(ささき)神社の宮司を務めた家系の子孫です。祖先の中には鎮守府将軍を務めた源扶義(すけのり)公もいます。佐々木高綱公の祖父に当たる嫡流の佐々木秀定公と、間宮家の祖先に当たる佐々木行定公が御兄弟でした。
高綱公は宇治川合戦等の活躍で有名な武勇に優れた名将で、頼朝公より深い信頼を得ていました。
その経緯で鎌倉の東北の鬼門に当たる交通の要所だった鳥山に鎌倉鎮護の寺院を築く事を命じられ三会寺を開基しました。
頼朝公と高綱公との御縁で三会寺の寺紋は、源家の家紋である笹竜胆紋の使用を許されています。
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河内源氏の家紋:笹竜胆紋
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佐々木家/間宮家家紋:隅立四つ目結紋
この三会寺の近くには高綱公
の居館址に建てられた鳥山八幡宮や、高綱公が頼朝公より拝領した名馬の生唼(いけづき)を祀る馬頭観音堂も在ります。 高綱公と所縁の深い鳥山地区の近くには、戦国時代末期まで北条家の小机衆の軍事拠点として機能した小机城址も在り、古来この地域の交通網が軍事上とても重要だった事が解ります。
間宮家の祖先には真野姓を名乗った時代があり、その真野家時代に分かれた別流の子孫に江戸時代の解体新書の翻訳で有名な医学者、杉田玄白がいます。
杉田と名乗っている事から、戦国時代には間宮家一門衆として杉田郷に住していた事が推測出来ます。

佐々木家一族である間宮家の戦国時代の武将、間宮康俊公は武勇に秀でただけでなく内政手腕にも長けました。

鶴岡八幡宮合戦で焼失した鶴岡八幡宮の社殿再建にも参加し、現代人にとっても偉大な文化遺産と伝統を守る事績を残しました。
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上の写真は若宮大路から見た鶴岡八幡宮です。

再建事業では間宮康俊公を含めた横浜市では3人の殿様が活躍しました。

1人が笹下城主の間宮康俊公
間宮家は近江源氏佐々木家の分家に当たり家系が宇多天皇、更に敦実(あつざね)親王を祀る沙沙貴神社(ささきじんじゃ)の宮司を務めた家系でしたので、鶴岡八幡宮再建の任を務めるに相応しい血脈でした。
八幡宮再建奉行職は建築工事を行う上で宗教儀式的な知識も理解している必要が有り、間宮家一族が適任だった事が推測出来ます。
寄親の北条綱成公が材木奉行に任命されている事も有り、職務を代行し、材木の杉田港への集積管理で活躍した事績が伝承しています。
又、旧笹下城域に現在も存続する間宮家臣御子孫の御話しによると間宮家は築城技術集団でもあったそうで、鶴岡八幡宮再建の任務に当たっては土木技術面でも、北条幻庵公や北条為昌公、北条綱成公と並び、その名を連ねています。

2人目は総奉行を務めた笠原信為公

今の横浜市港北区の三会寺やJR横浜線小机駅のすぐ近くの御城、小机城の城代で大曾根城主と白備え隊の副将も務めた方で、和歌にも精通した文化人であり江戸城攻略に参加した名将でした。

当時の白備え大将、小机城主は北条早雲公の3男で北条家の長老だった北条幻庵(げんあん)公で、晩年幻庵公が老齢に成ると笠原信為公が政務と軍務を代行していました。
笠原家は小田原北条家に最も早くから仕えた家系で、北条氏康公が御当主(とうしゅ=君主)だった時代には外交面等でも筆頭を務めた家老の家柄でした。

下の写真は笠原信為公が城代を務めた横浜市港北区JR小机駅近くの小机城の縄張り図です。

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上写真が現在の小机城址公園です。
この小机城址は横浜市内最良の保存状態を誇り、市民が自由に散策出来る遊歩道が整備されています。
この白備え隊の笠原信為公が城代を務めた小机城と、黒備え隊の多目元忠公が城主を務めた青木城の中間地点に当たる神奈川区神大寺(かんだいじ)地区には笠原信為公の菩提寺だった神大寺と言う御寺が在りました。城址として昔の人にも誤認される程の規模を誇った大寺院だった様ですが、残念ながら戦国時代に既に焼失してしまい、更に現在では畑地の開墾と宅地化で跡形も無くなってしまいましたが、その地名に信為公の菩提寺が在った歴史を留めています。
神大寺の表参道だったと伝わるのが、下の写真の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)一帯です。この直ぐ傍が神大寺の山門だったと伝承が残っています。
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この塩嘗地蔵の在所一帯は旧街道沿いでもあります。
現在も塩嘗地蔵は「イボ取り地蔵」として近隣住民に親しみをもって信仰されていますが、御塩を御供(そな)えする変わった習慣の有る御地蔵様でもあります。
この一帯は北条家の統治以前は、今の東京都練馬区や北区、豊島区等を治めた大名豊島家の影響下にありました。豊島家の居城は今の練馬区石神井公園に在った石神井城や練馬区の遊園地としまえん所在地に在った練馬城でした。
豊島家と、当時の江戸城主で関東屈指の名軍師だった太田道灌公が交戦状態に陥ると、豊島家は敗走して小机城まで落ち延びて来て、最終的に小机城も道灌公により落とされて滅亡しました。
太田道灌公が小机城へ攻め上る際に陣地を構築し休息をとったと言われる場所が、塩嘗地蔵の御近所に在る「道灌森」と言う場所でした。
この地域を通る旧街道は八王子街道や中原海道に連結しています。
その街道の先には間宮家や笠原家の御仕えした小田原北条家の宿敵である、太田道灌公の主君の扇谷上杉家の重臣達の居城である深大寺城や松山城、鉢形等が在った事からも、笠原信為公が主家北条家の勢力拡大の初期段階で既に深く信頼され、とても重要な土地を抑える役割を任されていた事が窺(うかが)い知れます。


3人目の殿様は吉良頼康公です。

室町幕府将軍の親族の吉良家の殿様で、北条家では「蒔田御所」と呼ばれ関東の将軍である鎌倉公方と同等の立場として重視された方でした。頼康公は水運商業の拠点として今の横浜市南区蒔田の旧成美学園の英和女学院と龍祥山勝國寺と言う御寺の丘一帯に在った蒔田城を拠点に東京湾北部沿岸部の要所を支配していました。
下の写真は横浜市南区蒔田に在る吉良家の祖先吉良政忠公菩提寺の龍祥山勝國寺と…

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…上の写真が蒔田城址に在る英和女学院裏の断崖です。

勝國寺を開基したのは吉良頼康公の御父君である吉良成高公でした。
太田道灌公の盟友で、江戸城を巡る攻防戦では道灌公の援軍として江戸城に入り留守の道灌公に代わりに指揮を執り、敵勢を撃退した記録も残る名将でした。
一方、吉良頼康公は全く合戦をしないで経済を重視した大名でした。
蒔田城崖下は、江戸時代には今の吉野町辺りまで海でした。江戸時代に埋めたれられ吉田新田が作られた事で海ではなくなりましたが、昔は考古学的には大岡湾、戦国時代の歴史では蒔田湾と呼ばれた入江が広がっていました。

鶴岡八幡宮再建時は水運に長けた喜多見家をはじめ森家、佐々木家、並木家等の家臣団を統率した吉良頼康公が、この蒔田城址の眼下に広がっていた蒔田湾から海運での材木輸送を取り仕切りました。
頼康公は鶴岡八幡宮だけでなく東京の世田谷八幡宮も中興されました。吉良家の殿様は内陸の中世の中原街道沿いを押える要衝を領地にしており、東京都世田谷区一帯、川崎市高津区や中原区周辺も治めていたので、世田谷城も吉良家の内陸部の重要拠点でした。
世田谷八幡宮は吉良家の下総移転後、徳川家康公の庇護を受けました。

下の写真が頼康公が中興された世田谷八幡宮と、吉良家世田谷城址でもある大谿山(だいけいざん)豪徳寺です。
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この豪徳寺は江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺に成り、招き猫の発祥地でもあります。
幕末の江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)公は横浜を開港した方ですので、井伊家も又、横浜市に関係の有る殿様であると同時に間宮家の祖先の治めた滋賀県安土町一帯を江戸時代に治めた大名家でもあり、間宮家と地縁で結ばれた御殿様と言えます。

他に大道寺家も鎌倉で総奉行に名を連ねていますが、北条家を滅亡させた裏切者を輩出した家なので顕彰しません。

間宮康俊公は、その最期にも更に武名を全国に轟かせました。
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上の画像は静岡県三島市にある山中城址公園です。 

豊臣秀吉の小田原攻めの際に豊臣秀吉・秀次の率いる本隊8万を、黄備え隊玉縄北条家三代当主氏勝公と間宮隊は小田原城の手前の箱根の山中城に3千で籠城迎撃します。
しかし歴戦の間宮康俊公は圧倒的不利かつ救援の無い状況から敗戦を悟り大将の北条氏勝公を撤退させた後、事前に築城していた山中城出城の袋崎出丸に笹下間宮家手勢200人弱で籠城し敵勢を迎撃しました。この状況の中で有名な中村一氏隊・山内一豊隊・堀尾吉晴隊・一柳直末隊など、秀吉直属の小大名格の部将達を大苦戦させ、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取り玉砕する大功を立てました。
結果この出来事が評価され、間宮家は徳川家康公の旗本として、康俊公の姫は家康公の側室として登用されました。

江戸時代の樺太、択捉を探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵は、この間宮家の子孫です。

間宮家と直接の関係は有りませんが、太平洋戦争中に活躍した給糧艦の「間宮」は、この間宮家由来の間宮海峡の名を頂いた艦船でした。平和的な運用をされた補給艦なのに歴史に名を残す名艦船に成ったのも、何か間宮家との因縁を感じますね。

話を戦国時代に戻しますが、間宮家が付家老として御仕えした北条綱成公の開いた玉縄北条家菩提寺が下写真のJR大船駅近く鎌倉市植木に所在する龍寶寺です。

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境内には綱成公、氏繁公の御廟所と玉縄民俗資料館が在り、玉縄城の遺物や城縄張りの復元模型等が展示されています。江戸時代の学者新井白石とも縁の深い御寺でもあります。
玉縄城は間宮家が与力した黄備え隊大将:玉縄北条家歴代当主の居城でした。その為、北条綱成公の御廟所も龍寶寺内に在り、以前の山上から移設された新しい廟所には昔の石塔も安置されています。
この近くの鎌倉市玉縄地区の清泉女学院が玉縄城の本丸古址です。
龍宝寺の在る植木地区や玉縄地区一帯には蹴鞠場、諏訪壇、御花畠等の遺構が部分的に現存しています。

この玉縄城、範囲も広く西の端は二傳寺、東の端は長尾城と広大な範囲の丘陵と谷戸に切岸や空堀や曲輪群を配置した堅固な典型的な北条流築城術で築かれた城で、先述の通り上杉謙信軍11万、武田信玄軍2万に攻められても落城しなかった名城でした。
 この玉縄城の城主に与力した間宮家の笹下城も同様の築城術で築かれた城塞群でした。

…玉縄城の西の端は、下の写真の戒宝山宝国院二傳寺(にでんじ)の丘一帯を城塞化していた二傳寺砦でした。

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この二傳寺には関東の平氏系大名の祖先、平良文(よしふみ)公の御廟所があります。 

そして、その子孫には間宮家の信仰した御霊神社の祭神鎌倉景正(かげまさ)公がいます。

戦国時代の三浦・豊島・長尾・千葉・葛西・相馬・芦名などの関東東北の大名も平良文公の御子孫です。 上杉謙信も長尾家の出身で、この良文公の子孫に当たります。

二傳寺砦の城址は太平洋戦争中に陸軍の砲兵部隊が展開していた場所で、近代戦争でも重視される戦略上の要所でした。
近所は平良文公の居城跡の村岡城址公園も在ります。
残念ながら城址としての旧状は地形的に崖に面している以外ほとんど残っていません。

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実は明治時代の対馬海戦で当時の先任参謀だった秋山真之中佐の丁字型戦法を採用しロシア帝国バルチック艦隊を迎撃し完勝した東郷平八郎元帥も平良文公の御子孫だった御縁で、この村岡城址公園には東郷元帥の甥である東郷吉太郎少将が揮毫した顕彰石碑も有ります。
この玉縄城や二傳寺一帯が戦国時代のみならず、平安時代~近代にかけて戦略上の要所だった事が良く解る場所でもあります。

…玉縄城の東の端は、下の写真の長尾臺御霊神社(ながおだいごりょうじんじゃ)一帯に在った出城の長尾城でした。

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関東では一般的に御霊神社の御祭神は元は平良文公を含めた良文流坂東平氏の祖先を広く崇拝する神社でしたが、平良文公の御子孫の鎌倉景正公が前九年後三年の役で活躍し有名になると、後に景正公が坂東武者の鑑として武士達の崇拝対象と成り御祭神として信仰される様に成りました。
景正公を祀る御霊神社の本宮は現在も鎌倉市坂ノ下町に現存しており、鎌倉江の島七福神巡りの一所として現代では眼病治癒や恋愛成就の神様として一般庶民の信仰も集めています。
ちなみに長尾城を築いたのは、上杉謙信の祖先の長尾家で、長尾家も鎌倉景正公の子孫です。
言い換えれば上杉謙信が玉縄城を攻めたのは、祖先の御霊に弓引くような行為そのものだった訳です。
この長尾臺御霊神社の在る長尾城を支配した北条家も、実は鎌倉景正公の祖先の平良文公と同族の子孫です。
小田原北条家の祖先は元の姓は伊勢と言い、伊勢平氏で、良文公とは同族です。更に小田原北条家の家祖である北条早雲公が婿養子として継いだ伊豆の北条家の祖先は元皇族の平高望(たかもち)王です。高望王の子孫には平良文公がおり上杉謙信とは遠縁であり、祖先の代から因縁も有りました。

3人目の間宮家の有名な殿様は、杉田間宮家の間宮信繁公です。
下の写真は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
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杉田間宮家歴代殿様の御廟所が有る間宮家の菩提寺で、日本武尊の伝承と空海和尚が牛頭天王社を建てた由緒の有る御寺です。

戦国時代、間宮家は北条家の武蔵国と伊豆国の水軍を率いる立場にあり、その間宮家の海の拠点が杉田湊(みなと)でした。
杉田間宮家の初代に当たる間宮信次公は笹下城を築城した間宮信元公の実弟で、水軍の将として活躍し三浦の走水海岸で玉砕しながらも里見家の海賊を撃退し敵軍船を多数鹵獲(ろかく)した記録が残っています。
信次公の孫に当たる間宮信繁公は杉田を中心に北条家の奨励した梅の植林と内政に力を発揮された武将でした。

信繁公により造営された梅林は江戸時代になると「杉田梅林」として有名になり、風光明媚な屏風ヶ浦の沿岸を海路、船でクルージングを楽しみ、杉田聖天川にあった桟橋で上陸し梅林を見学に来る江戸からの観光客で大変賑わったそうです。 そして杉田梅の実も、最高級のブランド梅として江戸時代 昭和初期にもてはやされたそうです。
明治時代になると、明治天皇をはじめ皇族の方々も杉田梅林を見学に行幸されました。その当時は国道16号線は開通していなかったので、六浦道(笹下釜利谷道路)を下って来られ、まだ横浜市が成立する以前の当時の久良岐郡の中心だった今の港南区笹下の関に有った「石川亭」と言う料亭に宿泊され、そこから杉田梅林を見学に出向かれたそうです。しかし昭和になると杉田梅林は保護されず宅地開発され、消滅してしまいました。
杉田梅林は消えましたが昭和初期まで続く文化醸成地を築かれた信繁公の功績は非常に大きいですね。


下の写真は小田原北条家の梅林文化を今に伝える、横浜市磯子区の岡村天満宮の一部だった岡村梅林と小田原市の曽我梅林です…
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上の
写真の岡村梅林を旧社地として抱えていた岡村天満宮ですが、その梅林の植林時期は杉田梅林と同時期と伝えられています。

しかし現在の岡村梅林は戦国時代末期や江戸時代初期から存続した物ではありません。

元々岡村梅林は広大な敷地を持っていた岡村天満宮の鎮守の森として、間宮家が江戸時代初期この一帯の奉行を務めた時期から存在していましたが…

太平洋戦争の敗戦後にアメリカ合衆国に接収され、米軍基地造営の際に破壊されました。

その後、岡村天満宮の社地は岡村天満宮に返還される事なく、米軍から横浜市に返還されてしまいました。

…その土地の一部を買い戻したのが岡村天満宮の氏子さん達です。土地を買戻し岡村天満宮に寄贈し更に市の公園部分にも梅を植林し北条家の梅林文化を再度復興し、小田原北条家~徳川家統治下の往時、間宮家がその発展に寄与した神奈川と伊豆の梅林文化を現在に残して下さいました。
下の写真が曽我梅林。
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小田原曽我梅林の梅花越しには坂東の民百姓から木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)の権化として信仰された富士山が見えます。

綺麗ですよね。

岡村天満宮は源頼朝公の忠臣で、曽我兄弟による頼朝公の暗殺を阻止した武将で、三浦家の一族の平子有長公の開いた天満宮です。

戦国時代に平子家は北条家により磯子一帯の支配権を奪取され越後に移住した様です。

岡村梅林の近くには泉谷山龍球院と言う御寺が在ります。
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御寺の寺紋が北条家の三鱗紋に丸で囲いを付けた物です。実は龍珠院は間宮家の寄親で玉縄城主の北条綱成公が小規模な御堂だった龍珠院の支援を始め、次代の北条氏繁公が本格的に開基した由緒を持つ御寺です。

何故、ここに玉縄北条家の御寺が在るかと言うと、このすぐ近くには間宮家と共に鶴岡八幡宮を再建した蒔田吉良家の殿様の居城蒔田城が在るのですが…
吉良頼康公は一時期、小田原北条家では古河公方の代行者を務めていた時期が有ります。
…その頼康公の蒔田城に訪問が必要だった北条氏繁公と、蒔田城近くの同地に御縁が有るのは歴史の必然でもあります。戦国時代、御寺は有力武将の寝所としても機能する場でした。


間宮信繁公の御話に戻ります…
北条家の滅亡後、間宮家としての康俊公の山中城での活躍や、間宮家が特に鷹狩りと鷹の飼育、鷹の献上の有職故実に精通していた事から、信繁公は徳川家康公に鷹匠の頭として家康公の直臣に取り立てられました。

この時代、鷹匠は庶民ではなく武士が担っており、山野を駆け巡る機動力に優れる上に殿様の鷹狩りに際し事前に地域住民に担当割り当てを交渉する等の実務に精通した集団でした。

信繁公は内政だけでなく、武将としても稀有な功績を残されています。
その鷹匠集団の特殊能力を活用し、信繁公は有名な「関ヶ原の決戦」で大功を立てました。
下の図は関ヶ原合戦時の東西両軍の布陣図です。
関ヶ原合戦図

家康公の率いる東軍は開戦当初、背後に陣取る敵の毛利家の大軍がいる事で釘付けにされ味方の細川、黒田勢が石田三成本隊からの大砲の砲撃に苦戦しているにも関わらず、 徳川本隊が前線の援護に参加できませんでした…

…この状況を打開する切っ掛けを作ったのが間宮信繁公です。

毛利家の陣地南宮山から狼煙(のろし)が上がるのを見ると、信繁公は鷹匠部隊の特殊能力を活用し敵陣をつぶさに偵察し、その陣容と状況を家康公に報告しました。
この事で事前に徳川家に内通していた吉川広家が毛利家の前進を約束通り阻んでいる事や長宗我部勢等も動きが無い事を把握し、徳川本隊の前進から松尾山の小早川勢1万 5 千の大軍への寝返り工作が成功し、関ヶ原決戦での徳川勢の大勝利に繋がっていきました。
事実、この後、徳川家康公は鷹狩りを行う度に随行する間宮信繁公の関ヶ原での戦功を称賛し、その度に信繁公と与力の鷹匠衆の領地を加増して下さった事が記録に残っています。
 
4人目の功績を残された間宮家の殿様は滝山城主の北条氏照(うじてる)公の付家老として活躍された方で、名前を間宮綱信(つなのぶ)公とおっしゃいます。
綱信公が与力として仕えた北条氏照公は北条家第4代当主氏政(うじまさ)公の実弟で、滝山城に兵3000で籠城し、武田信玄2万の大軍から八王子を守り抜いた実績の有る勇将で内政にも優れた手腕を発揮されました。
八王子市丹木町に現存する滝山城址は日本有数の規模と保存状態を誇っています。

下の写真は滝山城址の小宮曲輪の切岸と空堀と土塁です。

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上の図面は滝山城の縄張り図です。
滝山城址は現在、城址の至る所に当時の防御設備の説明看板が設置され無料で散策出来る東京都立滝山公園として整備されています。

綱信公は滝山城主北条氏照公の付家老として政務を担いながら北条家の外交官としても活躍しました。

下の写真は磯子区氷取沢の飯盛山宝勝寺です。
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宝勝寺は間宮綱信公が中興した御寺で綱信公の菩提寺です。
織田信長公に謁見する等、「内政」と「外交」で功績を残されました。信長公との面会に及び北条家からの献上品を差し上げた際に、信長公から北条家への返礼として大判金貨100枚や虎の皮等を拝領した記録が残っています。

更に信長公は名将滝川一益公に対し、綱信公一行への接待を御命じになり、綱信公一行は一益公の案内で安土の城下町を案内されたそうです。

実はこの際、北条家側から信長公への献上品に鷹が含まれており、間宮家が外交の際の献上用に飼育していた鷹だった可能性が有ります。

元は間宮家の旧主に当たる古河公方足利成氏公の子息が開基した由緒のある御寺です。

宝勝寺の近くには綱信公が徳川家康公に仕えるように成った際に隠居地として与えられた氷取沢陣屋が在りました。

この寶勝寺の西側、現在、団地が在る辺りが氷取沢間宮家の陣屋跡と伝わりますが、既にマンション開発によって陣屋跡は発掘調査されないまま消滅してしまいました。

寶勝寺は明治時代にも偉人の信仰を受けた寺でした。

実は近隣の金沢区金沢文庫一帯は、古来より景勝地として知られたのですが、その景勝地が8ヵ所在った事から、同地は金沢八景と呼ばれる様に成ったのですが、明治の元勲、伊藤博文公がその金沢八景の一つ野島に別宅を構え、そちらで日本帝国憲法の草案を纏め上げたそうです。博文公は、よく、この寶勝寺を訪れたそうで、博文公の武士時代の遺物が寄贈され現在も寺宝に成っています。
新編武蔵風土記稿や古今感状集を著書にもつ江戸時代の学者、間宮士信(ことのぶ)公は間宮綱信公の御子孫に当たります。


間宮家の5番目に功績を残された殿様は北条家が滅亡し、安土桃山時代も終焉を迎える頃の殿様です。
最後の笹下城主、間宮直元(なおもと)公と言う殿様です。間宮直元公は、北条家滅亡後、祖父間宮康俊公の跡を継ぎ徳川家康公に御仕えし、本牧奉行に任命されました。その頃、徳川家の支配下で既に関東地方での戦闘も無くなり、城としての役割を終えた笹下城の麓に拠点を移し笹下陣屋を設けました。
寶生寺周辺図
上の衛星写真の範囲が大凡( おおよそ)間宮直元公が統治した本牧奉行の管轄地域です。
この本牧奉行の役職の由来は、写真左上の本牧半島の地名に由来しますが、その支配地域は略( ほぼ)、旧久良岐郡の大半を占めていました。
現在の金沢区方面は金沢奉行と言う役職が置かれ、長谷川家が統治を任されていました。

本牧奉行を務めた直元公も、他の間宮家の殿様の例に漏れず神社仏閣の保護に力を入れていました。
その直元公の事績を今に伝える古文書に登場する御寺が下の写真の横浜市南区堀之内に鎮座する青龍山寶生寺です。

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寶生寺は平安時代末期、源頼朝公の御父君の源義朝公の時代に開基された御寺で、戦国時代初期の名軍師太田道灌公を初め、戦国時代は北条氏康公、江戸時代は徳川家康公の庇護を受けました。

ですから、御寺の寺紋も北条家の三つ鱗紋の使用を北条家より許され今も山門の上部には北条家の家紋と同じ寺紋が使用されています。
この寶生寺を間宮直元公が支援していた事や、直元公の叔母に当たる於久(おひさ)の方が徳川家康公の側室に成っていた事、加えて直元公御自身が本牧奉行以外に更に徳川幕府内の重要な役職である但馬奉行・佐渡奉行に就いており金山銀山の開発を担っており、その役職上、家康公と直接お話を出来る立場に在ったので、寶生寺が家康公より朱印状を賜り寺領を庇護された事に、少なからず本牧奉行としての間宮直元公との関わりが役に立ったのは間違い有りません。
武将としての事績としては、直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力として参戦しました。その際、徳川家康公より直々に呼び出され「坑道を掘り大坂城の櫓を崩せ」との命令を受けています。残念ながら、この作戦の成功を見る前に直元公は陣中で病没されました。もし、成功していたら間宮家の活躍により、旧主北条家の大大名復帰なんて事も有ったのかも知れませんね。作戦自体は成功を見る事は有りませんでしたが、この史話は家康公の直元公への信頼と関係性を示す逸話でもあります。


もし、機会があれば間宮家との所縁のある下の写真の港南区笹下の梅花山成就院一帯も散歩されてみては如何でしょうか?

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この成就院の山門は江戸時代の間宮家が本牧奉行を務めていた時代の笹下陣屋から移築された物を使える部材を生かし修繕を繰り返し昔の形を保っています。 近所には冒頭で紹介した旧IHI団地跡地に在る笹下城本丸跡が在り宅地化されてしまう前に見る事が出来ます。

成就院は幕末の笹下間宮家と所縁の深い御寺でもあり、昭和のIHI団地開発で破壊されるまで間宮家が植林を奨励した梅林に囲まれていました。

その梅林を江戸時代初期に京都から見学に来た西本願寺十三世良如上人と九条関白様が滞在された際に、北条家の梅林文化を伝える笹下城跡の梅林の美しさを絶賛した事から、山号を梅花山に改めた歴史が有ります。

間宮家の居城笹下城の本丸跡に、すぐ隣接する御寺で、間宮家とは地縁も深い御寺でもあります。


下の写真は港南区下永谷に在る永谷天満宮と、その横に在る別当時として永谷地区の歴史を守って来た天神山貞昌院です。
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関東管領も務めた宅間上杉家の殿様が創建した天満宮で、太宰府天満宮、道明寺天満宮と日本三躰(にほんさんたい)として数えられる天満宮です。
永谷天満宮を開基した宅間上杉家の殿様の居城は今の港南区永野小学校の一帯に在った永野城でした。

宅間上杉家の初代当主重兼公は足利尊氏公の従弟に当たる武将で、元は勧修寺家出身の家系に連なる殿様で、後に母方の実家の上杉家に養子に入られました。
宅間上杉重兼公は足利尊氏公の祖父の家時公とも関係が深い方でした。

重兼公の母君と足利尊氏公の母君が御姉妹で、上杉頼重公の御息女でした。

宅間上杉家は宅間富朝(とみとも)公の代に、先述の磯子区の宝勝寺を中興した間宮綱信公に御姫様が御嫁入りして、間宮家とも縁戚の関係になり更に軍事面でも間宮家と共に鎌倉を守る位置にありました。
この永谷天満宮の所在地に平安時代、元々居住していたのが天満宮の御祭神である菅原道真公の五男の菅原敦茂(あつしげ)公との伝承が有ります。
その菅原敦茂公の御主君が醍醐天皇でした。
醍醐天皇は貴族から権力を奪還し御親政(しんせい=天皇による政治執行)を行おうとした方で、その醍醐天皇の御実弟が間宮家の祖先の敦実親王でした。
ですから菅原敦茂公の居所一帯に建つ永谷天満宮は間宮家との御縁が深く、その敦茂公の古址に永谷天満宮を創建した宅間上杉家と間宮家が婚姻関係で結ばれ協力関係だったのは、醍醐天皇と間宮家の祖先の敦実親王御兄弟に結びつく数奇で宿命的な御縁なのかも知れません。

永谷天満宮と貞昌院の在る永谷地区から徒歩15分程度の近くの野庭地区には鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が築城した野庭(のば)関城も在りました。

下の写真は野庭( のば)団地の遠景です。

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この野庭関城は、鎌倉幕府の軍事教練所でもあり、鎌倉時代~戦国時代の貴重な史跡でしたが
昭和期に教育委員会が調査も保護もしないまま野庭城は宅地開発され消滅してしまいました。
その場所は市営野庭団地一帯、本丸は野庭中央公園付近だったと伝承しています。

数十年前まで城の土塁も現存したそうですが現在は破壊され存在しません。

戦国時代この野庭城は北条家の名官僚の安藤良整(りょうせい)公が城代を務めていました。

良整公は北条家領内の百姓の為に公平な徴税を行える安藤枡を考案された民政家で、村同士の水利権争いを裁いた名奉行として、その内政面での功績が有名な方です。

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上の写真は野庭地区から程近い、港南台の円海山の瀬上池です。

瀬上池の周辺は横浜市内で数少ない蛍を鑑賞できる沢のある自然公園であると同時に、その林道は平安 鎌倉 室町時代の武士が利用した史跡の道でもあります。
蛍は6月中旬から見られます。

この円海山は、鎌倉御家人達が利用した古道より更に古い史跡が出土しています。

瀬上池近くから古代の蹈鞴(たたら)製鉄の遺跡が出土しており、古くからこの地域が軍事拠点として重要な場所だった歴史を伝える史跡群を抱える場所でもあります。
港南区と磯子区と言う工業地商業地として発展していながら、その豊かな自然を誇りながら関東の鎌倉節文化の草創期からの歴史を伝える貴重な場所でもあります。

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この円海山の山頂からは北条家の梅林文化を守る小田原曽我梅林と同じ様に、関東の武士団が拝み見ていた富士山が綺麗に見えます。空気の澄んだ冬から暖かい春への変り目に当たる春分の頃には相模湾の遠望越しに、夕日が富士山山頂に沈むダイヤモンド富士を見る事が出来ます。

下の写真は磯子区円海山の峰地区側に在る、安養山峰の阿弥陀寺です。
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  この円海山の古刹、阿弥陀寺からは浄土宗総本山の知恩院第四十六世住職了鑑大僧正を排出しています。

そして円海山の名前の由来に成った下の写真、素敵な竹林と森林の参道を持つ円海山護念寺です。
元々この阿弥陀寺の奥院だった御寺で、古典落語「峰の灸」の舞台でもあります。
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この護念寺の道は鎌倉武士の古道で少し昔まで、その道を抜けると間宮家の氷取沢陣屋へと通じていました。

しかし現在、この林道は護念寺の私道に成ってしまった事と、その道の先の氷取沢側が宅地開発されてしまった事もあり車の抜道として利用出来ない様に封鎖されてしまい、現在は通り抜ける事は出来ません。

円海山の他の林道も部分的に倒木や路盤の劣化により封鎖されており、横浜市による再整備を要する状態にありますが、自然の中で散歩を楽しみ新鮮な空気に触れる事は出来ます。

この護念寺の道や円海山の尾根道を抜けると、下の写真の大谷戸広場に出ます。

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この氷取沢の大谷戸広場一帯は農地が広がり、付近には護岸工事されていない自然なままの渓流も残っていて鎌倉郡・久良岐郡の原風景を今に見る事が出来ます。
学校では郷土史を教えて貰える機会は有りませんが…

この様に横浜市には歴史史跡が沢山あります。
皆さんが普段何気なく生活されている、この横浜市には交通の要所だった事から由緒有る御城がいくつか在りました。その御城が現在無くなっても殿様達が保護してきた神社や御寺が今も残っています。
戦国時代~江戸時代の人が現代に伝えて下さった古代からの文化や歴史も神社や御寺の宮司様や和尚様が伝承として守って下さっています。
…もし横浜に愛着を感じたら、ちょこっと近所の御寺や神社、御城の跡を御散歩して、横浜市や鎌倉市の基礎を築いて下さった歴史偉人達に思いを馳せてみるのも風流かも知れませんよ。

                  

       筆失礼 久良岐のよし


 

































































今回は室町時代・・・戦国時代のお話です。

前回の記事「コレ(←クリック!) で、縄文時代~弥生時代の遺跡、三殿台遺跡を紹介した記事の冒頭で少し触れた、三人の三殿台周辺に住んで居た殿様達の事を紹介したいと思います。

一人目の殿様はマイナーで知る人ぞ知る殿様です。
●平子(ひらこ/たいらこ)氏の殿様
鎮守府将軍平良文公の御子孫で坂東平氏三浦氏の一族です。平安時代に三浦家二代当主三浦為継公の三男の久良岐(くらき)三郎公が此(こ)の地を領し、子孫が平子に改姓しました。
平子は五十子(いらこ)とも当字されますが、五十子の音読みが転化して今の「磯子(いそご)」の地名に変化したと推測出来ます。
室町時代には今の埼玉県本庄市五十子にも分家一族が住んでおり、関東管領上杉家の与力(よりき=組織での部下だが家臣ではない)として存在していました。五十子城は長尾景春の乱の際に舞台の一つに成った重要な軍事拠点でした。
磯子の平子氏本家の拠点は磯子城です。
磯子城跡は今の磯子小学校~腰越公園~"ゆず"の出身校の岡村中学校の裏の丘一帯辺りと推測されていますが、遺構は教育委員会に放置された挙句、保護はおろか調査すらされず小学校建設と宅地開発を容認され全貌不明のまま破壊されました。


二人目の殿様は結構有名な歴史好きには堪(たま)らない殿様です。
●太田道灌公
関東を代表する戦国初期の名将であり、扇谷上杉家の家宰(かさい=執事)として相模守護代を任された人物で、合戦においては不敗を誇った名軍師です。
今の皇居である江戸城や、埼玉県の河越城、岩槻城等の名城に加えて横浜市の佐江戸城等を築いた人物でした。
余りの能力の高さに主君である上杉定正が恐れと猜疑心を抱き、扇谷上杉家の本拠地であった神奈川県伊勢原市の七沢城(現在のリハビリテーション病院)の近くの糟屋館(現在の産能大学)で暗殺されてしまいました。
胴塚は高部屋の洞昌院公所寺にあります。首塚は伊勢原市に在りましたが改葬され鎌倉市扇ヵ谷地区の英勝寺裏手の鎌倉山山中に在ります。英勝寺は鎌倉での太田道灌公の本宅、伊勢原の洞昌院は塔中寺院が宿舎でした。
この道灌公の別宅が横浜市南区太田町の三春台、今の太田小学校の所在地に有りましたが、教育委員会による小学校建設時に無調査で全貌不明のまま破壊されました。

三人目の殿様は超有名な一族の殿様です。

●足利家の一門、吉良家の武蔵国吉良家の一門、蒔田吉良氏。 

忠臣蔵で悪名名高い吉良氏ですが、あのクソ性格悪い三河の吉良家とは違い、武蔵の吉良頼康公の御一門は周辺の武将から好かれていた様です。
本来室町時代に有名だった吉良氏は室町時代に足利家の支族で鎌倉府付きの重鎮として武蔵国に移住してきており、「足利家が倒れれば吉良家が立つ」と言われた程の名家でした。
関東では東京の世田谷~川崎市中部~横浜市東部が領土で、武蔵国の多摩川沿い、中原街道、鎌倉街道、武蔵国東部の沿岸部の交通の要衝を悉(ことごと)く抑えていました。
しかし扇谷上杉家と領土が入り乱れ係争地だった為か戦国時代には勢力が縮小していた様です。
戦国時代に成ると小田原北条家に従属しましたが、家臣扱いはされず特別視され「蒔田殿」と呼ばれていました。
小田原「北条氏の黒備え」の指揮官を務め神奈川区に有った青木城の城主、多目元忠公が蒔田城の保護を担当していた様です。
青木城と多目元忠公の記事は「ココ 」←クリック!
蒔田吉良家の居城、蒔田城は今の横浜市南区蒔田の横浜英和女学院小学校(旧成美学園遺跡)の所在地に有りました。

しかし、教育委員会に城址の調査がされないまま小学校建設許可容認され、破壊されました。 ですので、此方(こちら)も城址の詳細は不明です。

この三人の殿様が居た御城のちょうど真ん中に在るのが三殿台です。3つの御城が見えたから、三殿台なんでしょうね。 

だって其(そ)れ以外に「三」「殿」がからむ「台地」の要素無いですから(笑)。

さて、その中でも蒔田吉良家の殿様の蒔田城は申し上げた通り既に破壊されていますが、堅固な要害の地に在(あ)った事だけは今でも解ります・・・
写真です。
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・・・落ちたら死ぬよね。
実はここは成美学園遺跡と言う考古学的にも重要な遺跡だったのですが・・・
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城としての調査は神奈川県教育委員会が行わないまま開発容認してしまった為、どんな御城だったのか現代では不明に成ってしまいました。

ただ、周囲には帯曲輪(おびくるわ=長細い防御施設)と思(おぼ)しき地形は残っていました。
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本当にそうかは全く解らないし土塁も無いけれどね。
伝承では北側に曲輪が残存とされています。

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この地形なんかを見ると、恐らくこちら側から登城したんだろうなとか・・・
もはや、原型なんか無いので完全な想像でしか無いんですが、間違えなく堅固な地形ではあります。

実際、この蒔田城を含め、磯子城の在った岡村の丘や上大岡、中区の滝頭や根岸の丘~本牧の丘は江戸時代に掘削され分断されるまで長い一つの「久良岐の丘」でした。
その久良岐の丘は古代神武天皇が東征された際に「ここに城を造りたい」と言う主旨の事を申された程の堅固な丘陵地帯だったんです。
そして、その「久良岐の丘」が古代~昭和初期まで存続した行政区域「久良岐郡」の郡名の由来に成ったんですね。

この丘の下には、吉良家の菩提寺である「勝国寺」が現存しており、吉良家歴代の御廟所もあります。 IMG_2162
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立派な御堂がありまして・・・


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その裏手に在る墓所の中に吉良家の殿様の御廟所がありますが、いつも通り御廟所の写真は不敬なのでのせません。
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御寺の寺紋は桐(きり)の家紋でした。 

本山の総持寺由来で曹洞宗の寺紋は五七桐紋だそうです。
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勝国寺は五三桐紋…

吉良家の家紋は足利家の一族なので二引き両のはずです。
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東京の世田谷城主吉良家の菩提寺も世田谷の勝国寺ですが・・・

蒔田勝国寺と世田谷の勝国寺、世田谷城跡の豪徳寺でも桐紋が使用されているそうで、奥州流武蔵吉良家の殿様は併用されていたのかも知れませんね。

源氏一門である足利家分家の吉良家が何故桐紋を用いるかは謎です。源氏にとって桐紋の持ち主の藤原氏は本来平家以上に憎むべき存在であるから進んで用いるには何か理由が有るのでしょうか?

勧修寺流藤原家出身の関東管領扇谷上杉家に臣下の礼をとり桐紋の使用を許されたのかも知れないし…?

或(ある)いは室町幕府の足利尊氏公、義詮公に反逆し南朝に付いた時期に後醍醐天皇に直接下賜されたのかも知れませんし…由来は謎です。 

しかし、桐紋の由来は判らずとも、この蒔田の土地に殿様が居らっしゃった事と、その菩提寺がある事は地域の方々の誇れる歴史だと思います。
同様に周辺の平子の殿様が住んで居た磯子や、太田道灌公が別宅として住んで居た太田小学校や南太田周辺の地域の方々も、その歴史を知れば郷土に誇りを感じるんじゃないでしょうか?







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