歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:南区

2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の6回目の記事。


この⤴前回の続き・・・
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
07味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココから⤵——
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日は前回の続きで横須賀観光の一部分を書きたいと思います。
先ず今回のシリーズ一覧から・・・  
・・・まぁ上記の5回に分けて書いた通り、車懸来浜2日目は金沢区の史跡~横須賀の走水周辺と歴史散策して廻り、その後で浦賀港に回り今回書く千代ケ崎砲台を訪れた。
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千代ヶ崎砲台
上の写真はメインストリートの様な場所なので、色々と順を追って説明していきたいと思う。
先ず、車懸と小生は神社仏閣城塞が好きな歴史オタクなので、普通だったら車懸が千代ヶ崎砲台の様な場所に来ない訳が無いのだが、彼奴(キャツ)の転勤前には海自の施設として機能してたのが横須賀市の所有に移管されたばかりで未だ一般公開されていなかった。
そこから運よく今現在が上地市長と言う歴史文化財の保護に熱心な市長だったので、前回の記事で紹介された走水低砲台とココ千代ヶ崎砲台が史跡として一般公開する為の再整備が上地市長と横須賀市議の皆さんの御尽力と横須賀市教育委員会の努力によって週末限定だが公開に漕ぎつけた。
ただ、ここはアクセスが悪かった!
千代ヶ崎砲台位置関係
※クリックして拡大して下さい。
現在、元は私営の駐車場だった千代ヶ崎砲台駐車場が直ぐ近くに存在するが、千代ヶ崎砲台の公開開始当初はその駐車場は存在せず、御覧の通り最寄りは徒歩13分かかる燈明堂海岸の駐車場だった。

浦賀駅からバスだと最寄りバス停からも20分以上歩かなければならず、中々、本当の歴史好きでも無いと行く気に成らない立地に所在する。
でも私営の駐車場が開いた後で横須賀市がソコを借り上げてくれたので今では無料で車を直ぐ近くに止める事が出来る様になり自動車での訪問ならアクセスが格段に向上した。
更に開業当初から来客が少ないので(笑)、無料のボランティアガイドさんがマンツーマン状態で詳しい解説や見所を抑えて案内してくれるので非常に有難い。
例え男女2人のデートで行っても、絶対にガイドを付けた方が有意義な時間を過ごせるし思い出に成るので下心は一端押させて(笑)ガイドさんに案内してもらった方が絶対に良い!
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駐車場から坂を上って来ると、この様に土塁(どるい)を切通(きりとおし)した正門が有る。
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其処を入ると城郭で言う所の‟食い違い虎口”の構造に成っており敵兵が直進出来ない構造に成っている。
砲台とは言え、縄張り(なわばり:城の設計)的にも一応陸戦を想定した防衛機能を十分に持たせて作られている。
以前、小生はハツ訪問時にガイドさんに対して、これ等の構造体を見て小生は「戦国時代からの城塞を転用してませんか?」と質問していたのだが、わざわざ防衛省に問い合わせて調べて下さっていたそうで、当時は帝国陸軍に「築城部」と言う部署が有り、明治時代の陸軍は戦国時代の城塞跡を熱心に測量して廻っていた。なので一見すると千代ヶ崎砲台は西欧かぶれの西洋式近代要塞の様でも戦国時代の城の構造がふんだんに流用されており敵軍による砲台占拠に備え籠城戦も想定して戦国時代の城の殺人防衛機構が活用されているらしい。
但し、小生はここも浦賀城と対を為す要塞が平安末期~鎌倉時代~戦国時代を通じて存在していない訳が無いと地形的にも考えているので前身の無名要塞がだったと言う自説を曲げるつもりは毛頭も無いwww。
その証拠にここは幕末にペリー提督が横浜港に来た際に、幕府によって当地防衛担当の藩によって千代ヶ崎台場が築かれている。
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ちなみに正門の正面の虎口の土塁の下に見える井戸は雨水の貯水槽で、ここの建設時に最初に作られた飲用水確保の為の物だったとか。
この幕末の台場建設地はだいたいが平安時代や南北朝時代の戦乱期に要害化されていた場所が多い。
なので、千代ヶ崎台場建設以前に、鎌倉~室町時代にも三浦一族で浦賀城主だった横須賀氏や北条氏康公奏者で西浦賀の領主だった間宮宗甫公辺りによって前身の要塞は築かれていただろうな~と推測している。
その先にボランティアさん待機してる展示室が有って、色々と展示物も無料で見学出来る。
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ここからボランティアのガイドスタッフさんの案内が開始される。
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いや~構造的にも緑に覆われてる部分は本当に戦国時代の城にしか見えないんだわwww。
でも、この直ぐ先から景色が一変する。
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石積みが始まった途端に、もうこれはフランス積みで日本の築城技術ではない。
これは確かに俯瞰した時の縄張りは日本の城に似ているけれど、中に入ると立派な西洋式の要塞でしかも近代の軍事遺跡として保存状態が関東圏で随一の良い状態を保持している事が一目瞭然だ。
車懸もボランティアさんの解説を熱心に聞き入っていたので、京都からわざわざ来てくれて満足して貰えている様で一安心した。
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以前、猿島要塞を休日雑記のカテゴリーでブログに書いて紹介した事が有るのだが、猿島はジブリの天空の城ラピュタでロケハンされた場所とされているのだが、猿島より正直言って千代ケ崎砲台の方がラピュタ感が半端ない!
以前の記事⤵


それも海上自衛隊が近代の要塞を平成期に成っても丁寧に維持しながら利用していてくれていたからに他ならない。
海上自衛隊の皆さんに感謝!
で、どれくらいラピュタ感が有るかと言うと写真見て貰った方が早い(笑)。
下のは雨水を煉瓦の積み方によって集める貯水槽。
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ちなみにこの煉瓦の積み方はイギリス積み。
フランス積みは煉瓦の長辺と短編を一つづつ入れ替えて積み上げる。
対してイギリス積みは一つの段を全て長辺、次の段を短編と言った具合に並べて積み上げる。
どちらが強度的に強いかの議論も有るが、単純に元は徳川幕府に協力していたのがフランス人技師達だった事と、薩長土肥の倒幕派新政府の元勲達が幹部である明治政府は英国と親密だったので、この要塞を作る際に動員された日本人技師達が当時、英仏どちらの技術を学んだ人だったかで「場所により担当した人が異(こと)なるので建築方法も異なっただけ」と言うのが通説だそうだwww。
ところで貯水槽には今でもちゃんと雨水が集まり、澄んだ水を湛(たた)えている。
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結構深いので落ちたら溺れると思う。
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このトンネル状の両脇に兵舎や弾薬庫の機能を持つ部屋が設置されていた。
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こんな⤴感じ。
壁が白いのは湿気対策の漆喰が塗られていたから、ペンキじゃないよ。
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ちょっと特別感もあるでしょ?西洋の御城の中見たい。
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この正面の明かりの灯(とも)った凹みは昔は分厚いガラスがはめ込まれており、手前の広い空間は弾薬庫だった。
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明かり窓は弾薬に引火してはいけないので、わざわざ反対側に通路が作られガラスで遮断された上で裏側から照らす構造に成っていたそうだ。
よく考えられており、横浜に傾くマンション建てるような平成や令和の杜撰な土建屋の仕事より想像力をフル稼働した丁寧さだと思う。
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天井の穴には走水低砲台でも見た様なホイストの滑車が付いていて、ここから弾薬を上部砲台に荷上げしていた。
通路を進み歓談を登ると砲台部分に出る。
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う~ん、良い廃墟感。
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砲台部分の基礎の石がレリーフの様に模様に成っていて綺麗でしょ?
この様な立派な砲台遺構が千代ケ崎砲台には複数個所、良好な状態で現存されている。
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そしてこのラピュタ感。
巨神兵は頭ぶつかって歩けない高さだと思うけどwww。
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普通に近代西洋建築の遺構としても美しく見応えも有る。
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これも滑車のついていた跡かな?
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この煉瓦の色の違いは、強化煉瓦と普通の煉瓦の差で、積み上げた境目が色の違いでクッキリ見えているそうだ。
こんな情報も当時の築城部が経費削減も考えて外に面した部分だけを予算の高い強化煉瓦にしたんだろうとボランティアガイドさんの説明が有り、車懸や小生達には関心を引かれるところでもあった。
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同一丘陵に3門の砲台が有ったので似た様な構造が連続する。
只(ただ)、上部から見ると又少し雰囲気が異なる。
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何か古代神殿の跡みたいで不思議な空間。
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でも私有地化している旧入口の方を見ると明らかに戦国時代の堀底道を兼ねた三日月堀と丸馬出し構造に成っている。
馬出しとか堀切とか土塁とか言われても東日本の戦国時代の御城を知らない人には何の事だかチンプンカンプンだと思うので、御興味有る方は下の解説図付きの用語集を見て見て下さい。


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上の写真の煙突構造物は通気口の跡。
流石に東京湾防衛の拠点だったので眺望も良く房総半島まで見渡せる。
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更に私有地側に通じていた隧道の入口がさ、もう完全に千と千尋の神隠しとかに出てきそうな入ったら変な世界に連れてかれそうな雰囲気で・・・

思わず音楽付けてインスタにUPしてしまった(笑)
一頻(ひとしき)り見終わりボランティアガイドさん達に御礼を述べて車に戻り、日没前に今度は塚山公園に移動した。
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三浦按針お雪夫妻の御廟所
三浦按針公は戦国時代末期、安土桃山時代~江戸時代初期のイギリス人で本名はウィリアム・アダムスと言い、オランダの商船の航海士だったのが乗船していた船が遭難して日本に漂着した際に徳川家康公に信頼されて外交顧問として登用されて日本に帰化した人物だった。
因みに当時の台湾はオランダ植民地だった。
現在の横須賀市逸見に当たる当時の三浦郡逸見村を領地として与えられたので帰化した際に苗字を三浦にし、アダムスを漢字の当て字で按針にした。
按針は御本人の職業である航海士や貿易船に必需品の方位磁石(コンパス)の意味も込められている。
妻女の日本人のお雪さんを非常に愛してくれて、二人の間には子供も生まれたが徳川家康公程には能力の無かった徳川秀忠公の代に成ると外交的に外国人との交流に対する制限が強い政策が打ち出されて、三浦家(アダムス家)も家系が絶えてしまった。
もし明治時代まで混血のアダムス家が存続していたらきっと新政府の官僚として活躍したでしょうね。
この三浦按針公は英国人で乗艦もオランダ商船なのでキリスト教の英国国教かプロテスタントの信徒でしょうが、日本での宗派は浄土真宗でした。
だから彼は横須賀市逸見に在(あ)る浄土真宗の浄土寺を支援していました。
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涛江山 浄土寺
因(ちな)みに、浄土寺は元々は平安末期~鎌倉時代初期の名将で源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公により当初は天台宗の寺院として開かれた歴史が有る寺院です。
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後の室町時代に蓮如上人により浄土真宗に改宗していますが、畠山重忠公の時代からの歴史も大切にしている名古刹なので御朱印も拝受させて頂けます。
未だ浄土寺は詳しく個別解説記事にしてない場所なので、ここもその内に独立記事にしたいと思っていますが、今までの神社仏閣城跡や建築文化財の訪問箇所総計が千単位+写真数万枚+古文書のコピーやら集めたものが大量に有るからいつの事になるやら(汗)。
さて、もし皆さんが浄土寺を訪れるならば、当然ながら塚山公園とセットでの訪問をオススメしますし、春の梅の季節に田浦梅林と合わせて訪問すると尚、良いと思います。
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田浦梅林も景色が良いですしね。

田浦梅林に関しては本当に簡易的な紹介⤴を以前も書いているので御興味有る方は上のリンクから御覧下さい。
話を塚山公園に戻します。
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三浦按針お雪さん御夫妻の御廟所である安針塚の在る塚山公園からは眺望が良く、横須賀の汐入の軍港が良く見えてます。
実はここから見た景色が三浦按針サンの英国の故郷に非常に似ている事を以前小生は気が付いて記事に書いているので興味が有る方は読んでみて下さい。
これ⤵

この三浦按針公は、九州の日本人がキリスト教のカトリック教徒達に奴隷として売買している事を知ると我が事の様に憤慨して日本人を守って下った人物でもあり、更に自身が乗船していた商船から下したキャノン砲を関ヶ原の戦いで小早川秀秋の陣営に向けてブッ放す事を徳川家康公に進言して関ヶ原の勝利を導いた可能性も考えられている人物でもあります。
三浦按針公に関してより史学的にちゃんと知りたい人は以下のリンクから日文研の先生の考察を読んでみると面白いと思います。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)は何を成し遂げたのか
日欧交渉史における役割の再検討

 国際日本文化研究センター教授
フレデリック・クレインス
https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/wp-content/uploads/50597e70ac9f48e3342eca4516dcd274.pdf
そんな人物なので日本人の歴史家のみならず愛国者からも尊敬されており、三浦按針公の御廟所の入口には立派な顕彰碑も建てられている。
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小生も尊敬しており、浄土寺で色紙に拝受した御朱印を他の歴史偉人が御祭神の神社や菩提寺の御朱印と一緒に壁に仏壇や神棚代わりに張り付けており毎日拝んでいたりする。
金八先生が坂本龍馬を拝んでいた様な感覚ですかね(笑)。
で、安針塚のある塚山公園は軍港が見えるので軍艦マニアの方々が海自の護衛艦や米海軍の空母を見に良く来る場所でもあったりします。

以前、米海軍のカールビンソンが寄港した時も、ここから写真撮影してる先輩方が沢山いました。
小生はカメラの性能が良くないのでアッサリ断念して普通に観音崎に移動して撮影しましたが(笑)。
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春の桜の名所としても神奈川の景勝50選の1つにも選ばれています。
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オススメの場所なので、是非皆さんも春に浄土寺~安針塚~塚山公園の展望所~田浦梅林とハイキングを楽しんでみては如何でしょうか?
実はここも車懸は初訪問だったので、来られて良かったと言っていた。
なかなか神奈川に遊びに簡単に来れる距離ではなくなってしまったし、小生も来年の秋まで資格の履修科目と国家試験の受験で忙しいので色々と時間も作れず、車懸だけでなく色んな友達に会う事も出来ず、今年は昔、天然理心流の稽古に参加させて頂いた際に同行したO型の経営していたカフェに今月学校が終わってから漸く日曜日に行けたのと、車懸がゴールデンウイークに来たのと、その後1回だけ出張で横浜に来た際に港南台のレストランで2時間だけ一緒に食べた以外、昼間仕事+夜オンライン学校+週末対面授業&毎回のテストで誰とも一切遊ぶ時間が無かった。
だから今月の中頃に発狂しそうになって(笑)、今月のテスト3件あった内1日分のテスト日程を来年に先延ばしして貰い、称名寺に突然散歩しにいったりしてた訳だ。

正直睡眠時間も今月今年の学校の授業が終わるまでは毎日4時間寝れるかどうかの生活をしてたので本当にキツかった。
で、ブログの更新も今年は皆さんに御容赦頂いて1ヶ月1回ペースに減らしていた訳です。
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塚山公園での歴史散策も終えて車懸も満足してくれたので、自宅への帰路の途上、吉村屋で修業した弟子の家系ラーメンの店の中でも指折りの名店の1つである王道之印で夕食をとる事にした。
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王道之印(王道横浜)
ここは家系創始者で家系総本山吉村家の吉村社長の下で長年重要な店舗を任せられていた鶴巻さんの御店で、吉村家発祥地杉田の地盤を引き継いだ津村さんの杉田家と吉村家は別格として横浜市内では双璧を為す家系の名店だったりする。
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小生は海苔増し+味玉+まぶし飯を注文、車懸は何か良く分からんがセットを注文してた(笑)。
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本当に杉田家と王道は美味しいので、もし八景島や金沢自然動物公園や横浜ベイサイドマリーナに用事が有って市外や市内でも遠方からくる方は召し上がって欲しい。
車懸は京都人のクセに(笑)豚骨醤油の濃い味も好きなので、ここは以前も一緒に来た事が有る。
食事が終わると、この日はせっかく横浜に来たんだから家風呂じゃツマランだろ!
・・・と言う事で、一度入浴用品を取りに家に戻ってから小生イチオシの名銭湯、南区の仲乃湯に向かった。
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仲乃湯
ここは以前、ちゃんと取材許可を貰って詳しい記事に書いているので、詳細はソチラを読んで貰った方が良いと思う。


この記事⤴は組合公式より写真と解説でより詳しく紹介出来てると思います。
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まぁ、とにかく凄い日本建築なので車懸も連れて行ってみた。
そんな感じで歴史観光2日目は終了し、帰宅して翌日は早朝から山北町河村城~御殿場市深沢城~三島市山中城~箱根神社~大涌谷と箱根の関所~大観山と・・・
・・・山城と神奈川のベタ観光スポット箱根をしたのだが、それは又次の記事で!
次回、車懸攻城用の後ろ姿だけ登場(笑)!
次回記事で紹介する訪問地⤵の写真一部
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では皆さん、次の記事でお会いしましょう~♪

――追記――
2023年中は余り記事を更新する時間も無く、古参の読者の方には申し訳なく思うばかりです。
来年2024年も夏過ぎ迄このペースでの更新を続けさせて頂く事に成るかと思いますが、2023年程仕事と学業の兼業のスケジュールがタイトには成らない可能性も有るので、出来るだけ色んな場所を紹介したいな~と思っています。

しかも今回でゴールデンウイークの記事は書き上げてしまうつもりだったのですが、ちょっと実家の用事で色々と忙しく結局1部しか記事を更新できませんでした。
御正月休み中に、最後の3日目山城巡りの記事を書きあげられたら良いなと思っていますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

では皆さん、現在令和五年(2023年)太陽暦の12月31日22時、太陰暦(農暦)令和五年 癸卯 霜月 十九日(2023年11月19日)、旧暦の農暦では正月は台湾や韓国と同じ春の節句=春節ですのでまだまだ先ですが、西欧化した日本では明日から真冬なのに正月です。
風邪を引かず、インフルとコロナに負けず、良い正月を迎えて皆さんにとって良い1年間に成りますよう、祈願致します。

では、本年もありがとうございました~!
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小生、資格取得の為に習い事を始めてしまいまして以前の様に丸々週末連休はおろか1日フルに使って歴史散策をするのが難しく成ってしまい、ブログを書く暇も以前の様に確保が出来ず更新も滞っています。
でも写真だけ有ればInstagramにサクッとリール動画にして投稿出来て、それをダウンロードしてYouTubeにショート動画として再UPしてここに再投稿すると言う形なら更新滞らないかも?と思い始めた今日この頃・・・
今日は週末。
週末は習い事の試験で横浜方面に行かねばならぬので自転車で出掛ける用事が有る事が多く、本日は自転車でサクッと片道45分の行き帰りにちょっとだけ寄り道して自由時間を合計1時間半確保してブログを書き始めた頃に紹介した「横浜」の地名由来の寺院の南区堀之内の寶生寺と、三渓園の梅を見に慌ただしく行ってまいりました。
そのリール動画がコレ⤵



[寳生寺]
寳生寺は横浜の地名初出典の御寺。徳川幕府の二代佐渡金山奉行、初代生野銀山代官、本牧代官を務めた間宮直元公の願文が御本尊の十一面観世音菩薩から発見された際に、その古文書に横浜の地名が登場する。
以前紹介した記事リンク⤵  


今日、撮影してきた写真はこんな感じ。
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[三渓園]
三渓園は元々は横浜銀行(第二銀行)やニューグランドホテル、富岡製糸場を経営していた原財閥総帥の原三溪の私邸で明治時代から私邸敷地内の庭園を公園として開放していた。太平洋戦争敗戦によりアメリカに降伏すると日本国の全ての財閥と貴族は解体され彼等の私財はGHQの接収対象にされる事が解り日本文化消滅の危機に際して、三渓園は原家から横浜市へ寄贈する形で貴重な建築文化財群の消滅を免(まぬが)れた。
以前の記事リンク⤵ 

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さて・・・
三渓園を含め、多くの文化財は第二次世界大戦の敗戦時にGHQによる貴族階級解体や神社仏閣の境内地接収により消滅の危機に瀕していました。しかし横浜の三渓園や東京都の旧前田侯爵邸の様に旧富豪階級の人々から国や地方自治体へ寄付と言う形でGHQによる文化財破壊や接収を免れた場所も数か所在りました。

戦争での戦闘や戦後処理だけでなくトルコとシリアでは大地震で多くの人命とともに重要な建築文化財も旧市街区で町ごと破滅されてしまいました。


ロシア、ウクライナは交戦中ですね・・・

既にウクライナ国内では多くの文化財が失われています。
ウクライナ国民もロシア国民も元々は友好的な関係でしたが、双方の指導者の思想的な不協和音と外交的な対立から軍事衝突が頻発し、とうとう昨年からの大規模な戦争に発展してしまいました。
小生は歴史オタクとして日本が第一次世界大戦で戦勝国側にいた時と第二次世界大戦での敗戦時にも、日本と交戦国との間で発生した全ての事件の経験から強く願う事が有ります。

・・・ロシアだろうがウクライナだろうが、ウクライナだろうがロシアだろうが・・・
敢えて平等に国名入れ替えて繰り返し言いましたが、どちらが勝とうが負けようが敗戦する側が日本人が経験した第一次〜第二次大戦中の尼港事件〜日中戦争〜三光作戦〜無能な指揮官の無謀な命令による日本の若者が多く無駄死にしたインパール作戦~アメリカによる在米日本人強制収容〜国家総動員法施行〜無差別空爆〜核兵器使用〜ソ連の同盟破棄~ソ連によるシベリア強制収容~戦後の朝鮮進駐軍・・・
それ等に関する加害者側被害者側両方の経験と同様の経験をしないで済む様に心から願います。




それらの事件では日本も交戦国も経験した無抵抗な婦女子に対する強姦事件や男性に対する虐殺や交戦国民への略奪や私財没収の様な酷い目に、これ以後ウクライナ人もロシア人も双方が遭わない様に心から願います。
小生が信仰する日本の神々と仏教の諸仏、彼等の信仰する東ローマ正教の系譜の宗派のキリスト教のマリア様とイエス様とイエス様の信仰した神にロシア・ウクライナ戦争の終結と両国の双方に分かれて暮らす家族や親戚が分断されないで済む様に願います。

また戦争はいずれ決着がつくかも知れませんが、勝者と勝者の支持国が国際法を堅持し理性的に対応する事を心より願って止みません。
それと既に起きてしまった事に関して死者の供養と被害者被災者の生存者に対するケアをして欲しいと、それはロシアにもウクライナにも、暗躍する中国にもイランにもアメリカにもフランスにもドイツにも主義主張を超えて責任取って適切に行う様に願います。

また、リトアニア、エストニア、ラトヴィアとモルドバ、ポーランド、フィンランドの方々の恐怖にも共感します。

言うまでもなく多大な被害を受けているウクライナの方々にも早く平安と復興の時が刻まれ始める様に心から願います。また家族と財産を失い多くの隣人の死を目の当たりにしてしまった心の傷が少しでも癒される様に願います。
絶望的な廃墟になってしまった多くの都市に、新たな復興都市が築かれ元居た方々の中の生存者が少しでも多く戻る事が出来て、皆さんの御孫サンの世代には開戦前よりも幸福な生活が築けます様に願います。

そして訳も分からないまま西欧諸国から隔絶され先進国から自国が悪役のレッテルを貼られクレジットカードが使えなくなり好きだった日本に来られなくなったロシア国民の皆さん。
本来は親日家が多く穏やかで静かな人の多いロシア国民の皆さん、優しい兄や弟や息子さんを無謀な作戦で亡くされてしまったご家族の皆さんの悲しみも皆さんの神様に癒されますように。
皆さんが多くの国と国交と民間レベルでの友好関係が戻る日が早く来る事を心から願います。

日本で生きる為に友人として友情を育んだ在日ロシア人とウクライナ人の方々が日本で仲良く友人でい続けている様に、両国が開戦前より御互いを理解し尊重する努力を行い和解する努力を怠らない未来が訪れる事を願います。


戦争は嫌だね。
でも日本が戦争に成らないのは自衛隊で日頃安住の生活を制限されて数週間~数ヶ月単位で家に帰らないまま海上で仕事に励んだり、地上で災害救助に励んでくれる自衛官が小生の親族にも友人にもいたりして、その方々の努力が有って日本が侵略されないでいられる事も感謝しています。
なんで戦争したがる国がいるのかね・・・
まぁ、今の戦争を長引かせているのは双方の陣営に加担してる老害と武器商人でしょ。
日本もだけど、65歳で政治家も定年制にして頂戴。
・・・早くロシアとウクライナの戦争が終わりますように。

小生は将来、ロシアか台湾で働きたいと思っています。
台湾は実は親日国として知られている一方で中国での商売で既得権益を得ている人は今の国民党の媚中で知られる様に、自分の利益を守る為に反日的な発想の人も多くいます。
逆に台湾は台湾と思っている人には親日家が多くいます。
それ以外にも小生の台湾人の友人の様に自分は祖父母が大陸から来た中国人と認識していても超親日家の人もいて複雑だったりします。
ロシアは実は台湾並みに親日家が多いのですが、政治的な理由で当然ながら日本を嫌いな人もいます。

まぁ、どうせ働くなら少しでも日本と日本文化と日本人を好きに成って貰う為に働けたら良いなと思っています。
ロシアはこの先、過酷な状況に陥る様に感じています。
それを喜ぶのはアメリカよりも中国だとも思っています。資源の豊かなロシアは商工業では弱い国ですから当然ながら今のウクライナ戦争で必要と言われる1000兆円とも言われる戦費は、中国から借りまくってる事でしょう。
ロシアは戦争に勝たないと中国人の過酷な借金取立てに遭い従属国にされるのが分かっているから絶対に戦争を止めれないと小生は思っています。
そしてウクライナの国土はウクライナ軍、ロシア軍と言う人命を使った武器商人達による兵器見本市化されており、またウクライナとロシアの資源を狙う国々が戦争継続の黒幕だとも思っています。
ロシアも戦争を止めれませんが、アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・トルコ・イラン・中国が武器供与したり自国の立場の優位性を確保する道具にしたりと両陣営とも決定的な優位に成る様な武器供与を誠心誠意行わないのは、ウクライナもロシアも双方とも仲間のフリをしている連中が実は本当の敵だからだと思います。

ウクライナも本当に信用して良いのはイギリスとフィンランドとバルト三国位じゃないでしょうか?
日露戦争の時も本当に日本にかけてくれたのは英国と英国のユダヤ系の人々だった訳ですしね。
フィンランド、バルト三国にとっては他人事じゃないでしょう、そして日本人にとってもね。
逆にロシアが信頼するべきは嘗ての陣営の枠を超えて、民間人レベルでは相性の良い日本人だったんじゃないかな~?と観察していて思います。
中国は、香港や台湾と日本との関係を見ても分かる通り、協力を仰いだり重視してる大切にしてると言っても頭が変われば背中から刺してくるし平気で友人を地獄に落として財産を奪おうとする国なのは、胡錦涛さん以前と習近平政権以後でハッキリ日本に対する外交軍事政策が友好共栄→敵対に代わっている事からも明白ですよね。
今ロシアが疲弊して急速に戦費を増大させ尚且つ若いロシア人男性が多く戦死しているのを一番喜んでいるのはアメリカじんではなく、ロシアを資源の出所くらいにしかみていない中国人とドイツ人とフランス人でしょ。

ロシア人ともウクライナ人とも誠実に向き合えるのは一見してウクライナに武器供与せず非協力的に見えたり、国としてのロシアとは外交的に対立している日本人だと思うのです。
日本だけが戦勝国と敗戦国の両方を経験してるし、人間同士が殺しあってる場合じゃないってのは災害国だから良く解ってますしね。
日本は中国と違って政治では裏表有りませんし、フランスのマクロンの様に他国を利用したり他国の産業を盗み取ろうとしたりもしませんし、ドイツの様に二枚舌なんて出来ませんしね日本の国会議員は外交音痴ですしwww。

戦争はね~、負けると文化が無くなるし戦場に成っても文化財が無くなるし、だから始めると止めらんないんですよね、原爆が落ちるか主戦論者の指導者が死ぬ迄。
豊臣秀吉が死んで徳川家康公が登場したり、相手が男女問わず性交依存って私欲にしか興味が無い様なバカ殿がたまたま国外戦争反対のお爺ちゃんの真似っこ乞食で依怙贔屓されて権力闘争に勝って、実際は後継者第一候補だった徳川忠長公が自害させられて、明への援軍派兵論者の徳川忠長公が自害させられた事で戦争起きずに済んだみたいな超展開でも起きないと、ウクライナとロシアの戦争は止まらないし、以後の紛争継続の火種も消せないでしょ。

さて、明日中(本日2023年02月12日)に先週書きかけていた記事をUPします。
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松美湯 
下町情緒残る蒔田城下、堀之内の名銭湯♪
御店主は信楽焼の陶芸家!

☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 石油を使わない希少な薪の沸し湯◎
 御主人は陶芸家で可愛いロビー◎
 近くに横浜市名由来の寶生寺有り
 毘迦羅神社の異名の子之神社有り◎
 鎌倉~戦国の名将に愛された土地◎
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人490円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等は備え付け無し。
 使い切りシャンプー類販売有り。
 タオル販売有り。
 飲料販売有り。
【電車】
 JR磯子駅~バス12分~天神橋降車~
 ~徒歩09分    ・・・合計21分
 市営地下鉄蒔田駅~徒歩09分
 京急南太田駅  ~徒歩16分
【  車  】
 専用駐車場無し。
 コインパーキングに隣接。
 100m以内に有料駐車場多数。
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
——外観~玄関
——
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——自宅の様に暖かい受付——
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——脱衣場——
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——中央配置の浴槽と薬湯の浴室——
—男湯—
伝統の日本銭湯建築の高天井
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—女湯—
女湯の薬湯は赤、男湯は緑と異なる。
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——タイルの可愛いモザイク壁画♪——
—男湯—
男湯はオランダの景色。
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—女湯—
アルプス山脈の湖畔っぽい。
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——松美湯と周辺の解説——
専用駐車場は無いが周辺にコインパーキングが多数有るので便利。
御店の外観が喫茶店みたいで可愛いのは、コロナ前まで実際に喫茶店と陶芸教室を併設して営業していたから。2022年05月時点ではソチラは休業中。
陶芸教室や喫茶店も入浴客の客足がコロナ以前の水準に戻って来て来客からの要望が多ければ復活の可能性も?
御店主が信楽焼の陶芸家で仏教美術に造詣が深く銭湯と言う日本文化と陶芸と言う日本文化発信基地に成っているのが松美湯。
ロビーには御主人の作品が展示して有り、売ってくれと言えば売って貰えるかも?
更にこの松美湯、お湯を沸かす燃料はガスではなく薪で沸かす今では希少な銭湯です。
銭湯ファンには薪で沸かした御湯と言うは有る種のブランドの様に成っているんですね~。
小生には違いは判りませんが(笑)、ガスで沸かした御湯より良いと言う人は実際にいます。
普通に考えてガスや油で御湯を沸かすよりも建材の廃材を再利用出来る昔ながらの銭湯と言うのは有る意味現代にこそ合っているのかも知れませんね。
実は松美湯、立地的に今では住宅街の真ん中に在りますが歴史を知っている人だと結構凄い立地に在ります・・・
では皆さんと松美湯周辺の歴史史跡を見て見ましょう~♪
松美湯周辺地勢 久良岐のよし
※上の画像をクリックして拡大して見て下さい。
上のGoogleEarth衛星画像と比較で用いてる古地図は明治初期に帝国陸軍が製図した迅速測図と言う物で、農研機構サンが誰でも見られる様に公開している物です。

上の迅速測図を自分でも見てみたい方は以下のリンクから御覧下さい。
松美湯は画面の真ん中より少し左側に有り、その直ぐ右に寶生寺(ほうしょうじ)と言う御寺が表示されていますね?この御寺が実は横浜市の市名由来の御寺です。
寶生寺は新編武蔵風土記稿久良岐郡堀之内村の項目に登場します。堀之内村が現在の松美湯の存在する地域の旧地名ですね。
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青龍山 寳金剛院 寶生寺
鎌倉〜江戸時代の名将達が保護した古刹。
寶生寺の寺宝の仏像が有りまして現在横浜市に寄託されているのですが、この仏像の解体修理をした際に中から古文書が発見されました。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
その文書は江戸時代初期に横浜市南部を治めた本牧奉行の間宮直元(まみやなおもと)公が立身出世成就の御礼に仏様を極彩色に塗り直して奉納された内容が書かれており、その中に❝横浜❞の地名が登場します。これが横浜市の市名由来に成った横浜村の地名の現在確認出来る初出典だったりします。
寶生寺についてはブログを書き始めたばかりの頃に解説を書いてるので当時の記事は中身が薄い物ですが御興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。

この寶生寺を江戸初期に支援した間宮直元公、実は徳川幕府による豊臣家の大坂城攻めで大活躍した人物で第二代目の佐渡代官、初代生野代官として金山と銀山の経営を行い、特に大久保長安が金の採掘量の業績を悪化させていた佐渡金山の経営を❝灰吹き法❞等最先端の世界の鉱山技術を導入した上で鉱山経営の汚職体質を改善する事に由って金の採掘用を大幅に改善したと、ユネスコ世界遺産生野銀山の有る兵庫県朝来市に伝わっています。
生野銀山灰吹き銀
上の写真は朝来市教育委員会様から提供して頂いた写真です。
この間宮直元公、間宮林蔵や杉田玄白の本家の祖先に当たる人物です。大坂城攻めの際に豊臣側が防衛の為に淀川の堤防を故意に決壊させ大坂城東側の平野を沼沢化させてしまっていたのを生野銀山衆を率いて大坂に在陣中の徳川家康公の元を直接訪れ大坂城防衛網を無力化する❝水抜き❞と❝総堀の埋立❞を直接献策しました。

結果的に大坂城外郭の更に外側の平野部の沼沢化は豊臣家が決壊させた堤防を生野銀山衆によって復旧されると瞬く間に大坂城周辺の水抜きが成功し、更に一時講和の際に徳川家によって大坂城総堀が埋め立てられて大坂城外郭をも無力化する事に成功した名軍師として❝横浜市以外❞関西地方、特に世界遺産の生野銀山の有る朝来市では良く知られています。
横浜市教育委員会が松美湯の近く寶生寺を支援した間宮直元公の話を市民に紹介出来ないのは、市内に文献が残らない為に自分の地域の事しか研究しない彼等は根本的に知らないのと、その間宮家の本拠地だった磯子区洋光台~港南区港南中央に跨る巨大城塞網を持っていた笹下城が全く発掘調査もされず昭和三十年代に宅地開発利権で消滅してしまった為に却(かえ)って横浜市では何も史料が残っていない事態が起きてしまったからでした。
間宮家の本家の笹下間宮家は江戸中期には奉行職を返上し下総国に所領も移ってたので完全に久良岐郡との御縁が切れてしまっていましたから仕方が無い面も多いですね。
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常林山 妙蓮寺
昭和まで間宮直元公の御神像を祀っていた寺院。
磯子区の妙蓮寺は笹下間宮家の直元公の今の御寺の御家族は余り御寺の歴史を知らないのですが、新編武蔵風土記稿を読むと久良岐郡の中の現在の妙蓮寺の項目に紹介されている間宮直元公の彫像が登場します。
直元公は家康公に叔母の於久の方が側室として嫁いでいた事から外戚として扱われており徳川秀忠公と一緒に相撲大会を開催して観戦する等、二代目将軍の秀忠公とも良好な関係を築いており更に分家の杉田間宮家は初代の鷹匠頭に任命され二千石を超える大身旗本に成っていました。
そんな訳で大名でもないのに生野代官や佐渡代官、本牧代官を兼務し直接将軍家とも面会出来る立場に有った訳ですが、直元公は直接大坂冬の陣の合戦の終わる前に在陣中に亡くなってしまい、その本拠地の笹下や領地の下総国印旛郡に埋葬する事が出来なかったので本牧代官所の直ぐ近くに奥方の菩提寺として御子息の間宮忠次公によって妙蓮寺が開かれると、その妙蓮寺の御本堂に間宮直元公の御神像が祀られていました。
間宮直元公の奥方である智性院様の菩提寺として開かれたので立派な墓石が現存します
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御寺の人は自分の御寺の事を余り理解しておらず間宮直元公や智性院様の事すら知りませんが、実際はちゃんと立派な墓石と御二人の御姫様か更に上の世代の近親と思しき常正院様と言う女性の立派な宝篋印塔も現存しています。
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現在の御寺の奥様は妙蓮寺の歴史を御存知ないので智性院様の御墓が存在しないと勘違いしていますが、この通り立派に間宮直元公と言う大出世した旦那様と結ばれた奥方の智性院様の御墓は現存しています。
智性院様は御主人の間宮家の旧主小田原北条家が豊臣秀吉に降伏して改易されて北条家臣団である間宮家が失業していた時期に直元公と出会ってる可能性が高いのですが、そんな状況で直元公と結婚し夫が佐渡金山や生野銀山や横浜市南部の経営を委ねられ徳川家の経済を下支えする存在にまで大出世する過程をずっと一緒に歩まれた訳ですね。
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その直元公と智性院様が共に歩まれた人生で徳川家康公に取り立てられ軍師として内政と攻城で活躍し出世出来た事の御礼が書かれていたのが松美湯の在る堀之内の名古刹、寶生寺の仏様の胎内に封印されていた古文書だった訳です。
間宮直元公の奥方の智性院様の菩提寺、妙蓮寺を開いた間宮忠次公は東京の駿河台を開拓した方で駿河台の地名は土地を造成した忠次公が蒲原代官として駿河国の要衝を治めて駿河の御代官と呼ばれていた事に由来しています。
松美湯と同じ南区内の井土ヶ谷には、井土ヶ谷の地名由来に成った乗蓮寺が有ります。

この乗蓮寺は北条政子様の別邸だった場所が寺院化された場所としても歴史好きには知られています。
ここを江戸時代に支援していた❝大檀那❞として間宮忠次公の名前が新編武蔵風土記稿に記載されています。
そんな本牧奉行と蒲原代官を兼任した間宮信忠公が開いた磯子区の妙蓮寺は大坂城攻略作戦を立案した名軍師の間宮直元公の亡骸の代わりに作られ御神像として祀られていた彫像の模写が新編武蔵風土記稿に紹介されており、昭和までその彫像が現存していました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
ところが昭和時代に妙蓮寺が失火を起こし前本堂ともども直元公の彫像も焼失、今では二宮町に住んでした間宮家御子孫の御一人が火災前に撮影した写真が現在間宮家研究者の間に伝わるのみに成ってしまいました。
この智性院様や間宮忠次公所縁(ゆかり)の妙蓮寺も住宅街の山を越えると最寄駅の杉田駅が有り、2019年まで杉田湯と言う良い銭湯が有りました。
横浜市内の古い町には令和の今でも銭湯が生き残っている場所が数ヶ所有り、松美湯の近所に蒔田城や寶生寺が有る様に他の銭湯のまわりにも必ずと言って良い程に歴史史跡や宿場町だった場所が存在します。
そして古い港町や住宅街は横浜らしい味が有る文化財が多く残っていたりします。

文化財を活用した都市計画の話は最近も❝あぶない刑事❞のロケ地でファンに観光地化している瑞穂鉄橋の話でも取上げて見た事も有ります。
寶生寺は更に時代を遡ると間宮家の上司である小田原北条家の殿様達からも庇護を受け、鎌倉時代にも鎌倉幕府内第一の教養人だった金澤北条実時から支援されていた事が伝わっています。
この金澤北条家の開いた私設図書館が現在の神奈川県立金沢文庫の前身に成っており、邸宅跡は真言律宗別格本山の金澤山彌勒院稱名寺=称名寺と言う名前で鎌倉時代に寺院化されて現存しています。

今では桜の名所として横浜市民に親しまれる稱名寺ですが、この稱名寺の金沢文庫が京急金沢文庫駅の駅名由来にも成っている訳ですね。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
そんな御縁で2017年に神奈川県立金沢文庫で寶生寺展が開催されれ、この仏様の胎内から出て来た古文書も公開された訳です。
恐らく金沢文庫の行けば図録を見る事が今も出来るかと思います。
鎌倉殿の13人公式様より拝借
鎌倉殿の13人公式⇨https://www.nhk.jp/p/kamakura13/ts/32V2Z7X2M9/
寶生寺を支援した北条実時公は鎌倉時代の人物ではあるのですが鎌倉殿の13人より後の時代の人物で横浜市よりも京都や関西の方で歴史を専攻する学生に文化人として広く知られています。
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿北条時政
権謀術数で政敵達を滅ぼしていく北条義時公と北条時政公の親子は優秀な人物で特に義時公は将軍を補佐する宰相として優れた執政官でも有りましたが必ずしも善人では有りませんでした。
源頼朝公亡き後の暫く幕府内の内戦状態を起こした原因を生んだ人物では有りますが、御子孫達は日本の武士文化を繁栄進歩させ更に元寇を撃退して現代日本を存続させる功績を残して下さった訳ですね。
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松美湯の有る旧堀之内村の名古刹、寶生寺を支援した北条実時公は北条義時公の御孫さんに当たる人物です。
ですから北条家の家紋と同じ三鱗紋を寶生寺は与えられて現代も寺紋として使用しています。
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寶生寺の寺紋は丸に三鱗紋で、これは北条家に一門衆(親族格)を与えられた武将や公式に支援を受けた格の高い寺院などが北条家の三鱗紋お家紋使用を許された際に、直接的に三鱗紋を使わず北条家に敬意を払って〇で囲って北条家と区別し用いる武家や寺院や神社が多く有りました。
北条家三鱗紋  丸に三鱗紋
三つ鱗紋丸に三ツ鱗紋
この丸に丸に三鱗紋は神奈川区の法華宗豊顕寺や磯子区の曹洞宗龍珠院、金沢区伝心寺も用いていますが、それぞれがやはり北条家重臣の直接かかわった場所でした。
神奈川区の豊顕寺は北条氏綱公の代の重臣、多米元忠公の隠居寺が前身なので多米家が北条家より三鱗紋を与えられ更に豊顕寺の前身の元忠公の隠居寺だった草庵にも使用を許している事が解ります。
磯子区の龍珠院はJR大船駅近くの玉縄城主北条綱成の別邸の草庵が有り、蒔田御所吉良家へ用事が有る際の滞在場所だった様で後に寺院化された際に三鱗紋使用を許された様です。
金沢区の伝心寺は玉縄城主北条氏繁公や小田原城主北条氏直公開基と誤伝していますが、新編武蔵風土記稿の編集者の考察では北条氏綱公、小生の推測では玉縄城主北条為昌公の開基だろうと推測している寺院でいずれにしても北条家から三鱗紋の使用を許されている様です。
寶生寺はそれよりも古い鎌倉時代の金沢北条家によって支援されており、鎌倉時代に既に“本物の北条家”から三鱗紋を下賜されている事が状況的に判断できます。
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では何故(なぜ)、松美湯が存在する堀之内の地域が武士達のみならず仏教や神道等の日本古来の宗教にも重要視されていたかと言うと蒔田湾とか古大岡湾と考古学では呼ばれいるのですが江戸時代には目の前まで入江広がっており、木材流通や幅広い物流と製塩業で賑わった豊かな港町だった歴史が有るからなんですね。
下の画像は❝雑ですが(笑)❞凡(おおよ)その蒔田湾の様子です。
蒔田湾 久良岐のよし
比較すると東日本大震災で他地域より揺れの大きかった中区の山下町~伊勢佐木長者町~吉野町今の平地部分が海だった事や江戸時代中期の未熟な土木技術で埋立てられた範囲に当て嵌まる事が良く理解出来るかと思います。
上の画像で洲乾弁財天と書かれているのが源頼朝公が土肥実平公の領地の湯河原に有った竹生島弁財天の御分霊を更に分祀して開いた弁天社で、この場所は現在の横浜市役所新市庁舎が立っている場所で明治政府に御社を撤去される迄は画像でも半島の先端に在るのが解ると思いますが、洲乾浜と呼ばれる砂洲の半島の先端にこんこんと淡水の水が湧く大きな池の有る弁天信仰の聖地として武州人に大切にされていました。
横浜村之圖
この洲乾浜が海や蒔田の入江から見ると横長だったので、これが洲乾浜転じて❝横浜❞と呼ばれる様に成りやがて洲乾浜半島上の人口300名の漁村は横浜村と呼ばれる様になり、寶生寺の間宮直元公お古文書にその名が登場する事に成りました。
ペリー艦隊の上陸
幕末に成ると、この半島にアメリカから来たペリー提督が上陸し、更に幕府によって外国人居留地に定められました。
上のペリーさん上陸の有名な絵の右側の樹が今も開港資料館の中に現存する玉楠の樹の3代前の樹だそうで同じ位置に存在し、そお樹の麓の神社は横浜の水神社として知られた御社です。
外国人居留地は旧半島と埋立地の間に残された海の名残りの運河がそのまま境界線に成りました。
関内周辺 久良岐のよし
吉田橋の上に関所が設けられて外国人居留地は関内と呼ばれた事が今のJR関内駅始め関内と広く呼ばれる地域の地名由来に成っています。
最初に見て貰った松美湯周辺の画像に戻ります。
松美湯周辺地勢 久良岐のよし
松美湯の直ぐ南西側、画像の左手には蒔田城と言う御寺が有りますね?
室町時代には関東を治めた将軍役割を果たす鎌倉公方と言う役職を京都の征夷大将軍とは別に足利家が代々務めて鎌倉に役所を置いていたのですが、永享の乱と享徳の乱と呼ばれる鎌倉公方vs京都の室町幕府の戦いが起きて鎌倉公方家が茨城県の古河城に退転して役割を果たせなくなっていた時期に足利一族で蒔田城主だった吉良家の吉良成高公や吉良頼康公が鎌倉公方代理を務めた事から蒔田御所と呼ばれていた歴史が有ります。

更にこの蒔田吉良家は元々は世田谷城も拠点にしており、時代によって本拠地を移していたので世田谷城跡の世田谷豪徳寺は現代では紅葉の名所として外国からの観光客にも人気の場所ですが歴史好きには吉良家の開いた寺院として、そして横浜を開港した彦根城主井伊家の江戸時代の菩提寺としても有名です。

以前紹介した中区JR山手駅近くの❝いなり湯❞や、南区中村町の❝仲乃湯❞もそうですが、横浜の中でも比較的早く宅地化されて人が多く住んだ地域は、やはりそれなりに歴史史跡に囲まれており銭湯巡りと合わせて歴史散歩を楽しむには最適だったりするんですね。

さて!

今では松美湯の近くの寶生寺が横浜市の市名の由来と成った古文書を書いた間宮直元公と関係が有ったり、その間宮直元公の奥方の智性様の御墓が磯子区の妙蓮寺の世代の御寺の御家族には雑に扱われているものの現存している訳ですが・・・
もし歴史散策で南区堀之内の寶生寺や磯子区の妙蓮寺で智性院様を御参りして両方の御寺で立身出世の御利益や良い男性との縁結び(笑)を祈願したら、きっと間宮直元公と智性院様御夫妻も御参りに来てくれた事を喜んで、良い男性との縁結びや立身出世の御利益を智性院様が参拝する女性に与えて下さりそうです♪ 
小生は立身出世の御利益を賜りたいwww。
松美湯周辺2 久良岐のよし
・・・そして寶生寺や南区歴史散策の帰りに松美湯でひとっ風呂浴びて冷たいジュース飲んで帰るとか最高でしょ?
そんな訳で今回はコロナ前は陶芸教室や喫茶店も併設営業していた素敵な横浜市南区堀之内の陶芸家の御主人が営む素敵な昔ながらの町銭湯、松美湯を紹介して見ました。

他の銭湯にも御興味有る方は是非コレ⤴から御自宅の最寄りの素敵な昭和の銭湯を探してみては如何でしょうか?
浴室の写真を撮影させて頂けた所から順番に記事にしているので未だ掲載数は少ないですが、どこも素晴らしい壁画や周辺に観光地や史跡の有る所が多いですから、歴史散歩ついでに帰路につく前、ひとっ風呂浴びて帰れば、きっと充実した休日に成ると思いますよ~。

では皆さん、次こそは(笑)逗子市の郷土史か富士山の景勝地紹介の記事で御会いしましょう~♪

——追記——
最近、サル疱が世界で流行しつつありますね・・・
この病気は歴史オタ的には高度経済成長期に消滅したはずの天然痘に非常に似ていると思います。
天然痘は貴族~武士の時代、多くの日本人を死に至らしめた感染症で呼吸器からも感染者の吐息を吸う事で感染しました。
非常に致死率が高いだけでなく完治したとしても肌がボコボコに疱瘡が出来た跡の傷が顔から足先まで残り女性は結婚を躊躇(ためら)う様な人生を歩む事に成る病気でした。
猿疱がそこまで致死率が高い訳では無さそうですが一つ重大な問題が判明しているそうです。
コロナは高齢者が致死率が高い病気でしたが、今度のサル疱は子供の致死率が高いそうです。

サル疱は空気感染しないと言う一部専門家の意見が有る一方で、発生源のアフリカに渡航履歴の無い人達が既に感染しているので初期のコロナと同じで呼吸器から感染すると考えた方が現実的な気がします。
楽観主義は又コロナ対応初期のミスの繰り返しを生むと思います。
正直、今のタイミングで外国人旅行客を受け入れるのは如何かと個人的には危惧しております。
政治家は頑張っても日本の場合制度上の欠陥で起きた事件にしか対処する機能を持っていません。
小生は家族を不幸に合わせない為にもサル疱対策にアルコール消毒とマスク着用はもう暫くシッカリ行って、又、直接的な他人との接触は注意して観光を楽しみたいと個人的に思います。

皆さんも自己判断で御体御自愛下さい。
そして良い夏を迎え今年こそ海の家グルメと海水浴を楽しみましょう。
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仲乃湯
凄い宮大工が建てた銭湯でドラマやCMのロケ地
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横浜市南区には横浜橋商店街と言うTVも撮影に度々(たびたび)来る横浜市で最大級のアーケード商店街が有ります。
調べているうちに解ったのですが、その商店街は江戸時代に舞田湾を埋め立てて造成された“吉田新田”の中に有るのですが、横浜橋商店街は元々どうも立地的に近くに在る中村八幡宮の参道門前町として吉田新田側の橋の延長線上に発展して来た様です。
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中村八幡宮
新橋の芸子衆も御参りに来るほど昭和の横浜大空襲まで大規模な社殿を持って栄えていたそうで、その参道の商店街が今の横浜橋商店街の原型の様です。
ちょっとパンフレットの画像も見にくいのですが、たしかに台地に在る凄く立派な社殿が、随神門と壁に囲まれているんですよね。
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現在の中村八幡宮の宮司サンにも色々伺ったのですが、元々は舞岡八幡宮を本拠地に旧鎌倉郡と旧三浦郡を含め60余社の神社の宮司を務めた関家が元々の宮司様だった様です。
中村八幡宮の宮司だった関家は戸塚区の品濃白幡神社や港南区の永谷天満宮や永谷神明社、横須賀汐入の諏訪大神社等の宮司職も兼務されていたのですが、品濃白幡神社や関家についても以前、解説記事を書いていたので御興味有る方は以下の記事タイトルをクリックして御覧下さい。
旧宮司家の関家は社家としての格が高かった訳で、そんな関家でなければ宮司を任せられない程の規模を誇っていたのが、この中村八幡宮な訳です。
何でこの神社が第二次世界大戦の横浜大空襲とGHQによる戦後政策で境内地が縮小するまで大変繁栄していたかと言いますと昭和初期まで真金町や中村町には劇場や料亭が沢山有り、多くの御金持や芸妓(げいこ)衆で賑わっていたからなんですね。
今でも日本語だけでなく中国語も韓国語もタイ語も飛び交い異国情緒溢れ賑わう商店街は有りますが、それも比に成らない程の遊興地として栄え人と御金が集まっていたんですね。
ちょっと行けば幕末~明治~大正~昭和まで外国人居留地として始まり多くの外国の商社が集まった山手地区や日本大通りも有りましたからね~。
それは以前、映画“L💛DK”のロケ地解説で色んな洋館を紹介しています。
御興味有る方は是非、読んで横浜山手地区デートを彼氏彼女さんと楽しんでみて下さい♪
中村八幡宮からそんなに遠くない場所には凄い御寺も有ります。
真言宗の52ヵ寺の本山だった寶生寺さんですね。
他にも沢山の神社仏閣がある風流な京都の祇園とか清水坂みたいな場所が戦前の明治~昭和初期の中村町~真金町だったみたいです。京都の祇園も八坂神社の参道として栄え清水坂も清水寺の参道として栄えた門前町ですからね。
横浜橋は江戸に出来た新しい埋め立て地だから門前町の歴史が京都と違い浅いのですが、横浜の中村八幡宮は元々延喜年間から存在した事が地域にも宮司家にも伝承しており、恐らくそれは本当でしょう。
この地域を開拓したのは坂東平氏ですが、当時既に鎌倉の御霊神社に祀られる平良文公と、その甥で神田明神の御祭神の平将門公等によってこの地域は支配されていました。中村町辺りは平安時代末期には平良文公の御子孫に当たる三浦一族の久良木三郎通継公が支配していました。この武士団が信仰したのが海神で疫病治癒の神でもある素戔嗚尊と習合された牛頭天王を祀る牛頭信仰=八坂神社や祇園社や八王子社と、同じく治水の水神であり破魔の神様である大鞆別命=応神天皇に習合された八幡大菩薩信仰つまり八幡信仰でした。
中村八幡宮と本牧半島の反対側に当たる八幡橋八幡神社も更に古い欽明天皇の頃に開かれている事が伝承しています。なので平安時代から中村に八幡信仰が有るのは極々自然な訳です。
実は各時代の度重なる戦乱で史料が残らないこの地域ですが、古くから朝廷の軍馬生産地として久良岐屯倉(みやけ)が置かれ天皇家直轄地の郡だった歴史が有るんです。
ですから門前町は新しく、外国人文化の色濃い横浜元町に近い地域ですが文化歴史は京都にも負けない古代からの歴史の醸成地でもあるんですね。
つまり中村八幡宮のある中村町や真金町辺りは今でこそ庶民的で異国情緒溢れる町ですが、イメージ的には和風な街並みと大正ロマン溢れる服装の人が行き交う風景が戦前まで広がっていたみたいですね~。
現在の地図と明治初期の迅速測図と言う地図で町の様子を見比べてみましょう。
中村八幡宮周辺 迅速測図 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
これを見ると解かりますが、明治の最初頃はまだまだ八幡宮周辺の参道だった横浜橋商店街辺りは出来て歴史浅い埋め立て地なので未だ何も有りません。日本初の石鹸工場何かが有ったらしいです。
この迅速測図の書かれた明治時代の終わりから次第に人が増え大正時代には色町として発展した横浜らしい新しい街だと言う事が解ります。
そして遊郭が立ち並ぶ過程で中村八幡宮も繁栄し戦前の巨大な社殿が造営されていった訳ですが、遊郭の建築ラッシュや元々、真言宗の大寺院だった寶生寺や蔵徳院と言う大寺院が御近所に有ったからこそ宮大工が集まる文化素地が形成されていたのでしょうね~。
横浜市に限らず色町の文化と史跡研究に関しては小生よりも“知の冒険”と言うブログを運営してる丹治君の方が詳しいので、彼のブログを見ると真金町界隈の事を沢山書いて有ると思いますよ~。

彼はラジオにも呼ばれる人物なので、色町の文化研究のセミプロです。行動範囲も広く小田原の色町跡を探索に行ったり、関西や中部地方も良く取材に行ってます。
花街の文化に興味が有る方は彼の記事を読んで見て下さい。
まぁ~、そんな明治大正昭和初期のいなせな男女の風流さと悲哀と失敗と成り上がりが複雑に混じった素敵な雰囲気が漂う風流な和風の街並みが広がっていた中村町と真金町ですが、戦後昭和三十三年の風営法施行により遊郭が経営不能に成り閉鎖し、そこに根付いていた宮大工の方々の技術が幾つかの銭湯建設を通じて今も残っています。
それが中村八幡宮の近くの仲乃湯さんです。
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記事⤵️
仲乃湯 凄い宮大工が建てた銭湯でドラマやCMのロケ地
今では中村八幡宮の社殿は縮小はしていますが、仲乃湯に御風呂に入りに行くと立派な建物から往時の中村町の雰囲気を垣間見る事が出来ます。
神社好きの皆さんも、御朱印を拝受に参拝したり横浜橋商店街とかに買出しに行く事が有ったら是非!お風呂入りに行って見て下さい~!
きっと建物の凄さに感動しますよ!

さて皆さん、今日はここまです!

夏に入りますが新型肺炎も未だ終息していませんし、気温も上がり熱中症にも注意しないといけませんね~。
次の記事で御会いするまで健康に実り有る日々を御過ごしくだされや~♪
では又!
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神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 
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午前中、Twitterでフォローしてる縄文時代の遺跡のど真ん中に奥宮と聖地が有る相模原市の有鹿神社さんの古代から続く“水引神事”に参加する予定だったのに…
深夜に職場から帰宅し更に家でも作業をしていたら既に早朝5時、神事は9時半から。
出発予定時刻は8時前を目途にして少し仮眠をとった。
…つもりが、起きたら9時、当然横浜から50km以上も離れた神社に間に合う訳が無い。
この水引神事と言うのは一度断絶したのを北条家の殿様が1575年に復興した神事で、玉縄北条家や与力の間宮家の顕彰活動を行っている小生は当然参加し宮司様に取材をしないといけない行事だったのだ。
落ち込んだ。
 
諦めて不貞寝した。天気も雨で神事に参加出来ず陰鬱とした気分だった。
 
昼過ぎ、少し気力復活。
もそもそ動き出す。午前中に雨風強かったので恐らく満開に成ったであろう桜が心配。
気分を切り替え桜の写真撮影に行く事にした。
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最初の訪問先は御寺の歴史が1300年以上有る横浜市南区の弘明寺。その旧境内参道に広がる弘明寺商店街と大岡川沿いの桜並木。
この桜並木は弘明寺~日ノ出町まで直線距離で約5kmも続く。桜並木は川に沿っている為、実際は7km程度は有るだろう。
更に上流の笹下川近くまで桜並木は続くので、全長にすると10km位は有るかも知れない。
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見慣れないピンクの緋桜が目を引いた。
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説明板が有り“横浜緋桜🌸”と言う品種だそうだ。横浜市民なのに知らなかった。
先日、横須賀市安針塚近くの住宅街で見たのも、横浜緋桜だったのかも知れない。 
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弘明寺近辺だけ散策し、屋台でタコ焼きとお好み焼きを朝食兼昼食に食べた。
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味は普通だった(笑)。食べ終わってから川下へ1km位歩いてから又戻り、今度は遊歩道へ降りてみた。
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川の遊歩道から写真撮影をしたりと楽しんでから、親子連れやカップルの幸せそうな笑顔を見てこちらまで幸せにして貰った。
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川面(かわも)に浮かぶ花弁(はなびら)がとても綺麗だった。
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 う~ん、仲良し親子!
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元気に遊ぶ子供達!うむ!浜っ子とは斯(か)くある可(べし)だ!
この子達の様に冒険心を持って遊んでこその浜っ子だ!
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車を泊めた商店街の駐車場に戻る途中にカフェが桜ソフトクリーム成る物を販売していた。
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それを買って見た。
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食べると、桜フレーバーが香って美味しかった。
他にも酒屋の川松屋サンが弘明寺オリジナルの日本酒とビールを販売していた。CIMG3043
これ、興味有る人は酒飲みには少なくないだろう。
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良い地域振興の試みだと思う。まぁ、小生は普段酒は一滴も飲まないし、飲んでも神奈川県名産の梅を使った田浦梅林の梅酒や横浜大倉山梅林の梅酒なんだな。だから購入しなかったが目を引く素晴らしい商売だと思う。
駐車場に戻る前に弘明寺さんを山門前から御参りしてから次の目的地に移動したのが15時位だったろうか?
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その後、中区の根岸森林公園に移動。CIMG3047
根岸森林公園は日本最初の競馬場として幕末に建設が始まり明治時代に完成し太平洋戦争直前まで使用された横浜競馬場の跡地を利用した市民の森林公園だ。
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 広大な芝生に桜林と梅林、遊水池が有る。恋人同士や子供連れの良いピクニックの場所に成っている。
他にも競馬発祥地だけあり馬やポニーに乗れる馬場と、“馬の博物館”等も有る。
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チューリップの花がもう直ぐ開き見頃に成りそうだ。
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 そう言えば、東京都羽村市のチューリップ祭りも開催されたそうだ。観光協会に問い合わせたら横浜と同じく見頃は15日位だろうとの事だった。
羽村市のチューリップ祭りは本当に素晴らしいので興味の有る人は 以前の記事↓を読んで欲しい。

さて、話を根岸森林公園の横浜競馬場跡に戻す。CIMG3068

幕末以来の競馬場史跡なので戦後、米軍に接収された区域には未だに当時の競馬場史跡“一等馬見席”の西洋の城の様な立派な建物が現存している。
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これはいつ見てもカッコ良い。

現在は米軍管理下で手入れが行き届かず、部分的には荒れているが…
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それでも凄くカッコ良い!
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 これ、何でTVドラマや映画の撮影で使用されないか横浜市民として不思議でならない。
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 やはり、米軍の敷地内なので許可が下りないのだろうか?
そろそろ横浜市か国の文化庁に返還されて重要文化財指定の上で再整備して赤煉瓦倉庫みたいにショッピングモールやカフェのテナントを入店させても良いんじゃないかと思うが需要が有るかは微妙な所ではある。
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 まぁ、場所柄ホテル等に転用出来れば、米軍の将校の方々の家族の来日の際は宿泊等も見込めたりして?

森林公園部分に話を戻すと公園内には多くの立派な桜の林が有る訳だが、桜の根元には菜の花も咲いておりとても綺麗だ。
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午前中は雨天、午後も霧雨が降ったが、それでも付近の山手地区や本牧や米軍基地用地に住む異人サンや日本人が一緒に花見の宴会を開いていた。
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 リア充も多数出没。
緑豊かな場所なので雨が上がってからは子連れの親子も遊びに何組か来ていた。
幸せそうで羨ましい( ´艸`)!
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そう、思わず顔文字で(笑)を( ´艸`)と表現したく成る位に温かいホッコリを分けて頂いた。
その幸せは普通の様でとても大事なものだから大切にしてね♪
あの子達がずっと幸せに育ちます様に!
パパさん、子供の為にも伴侶の為にもシッカリな。
ママさん、あんまりパパさんにガミガミ強く言わないでね(笑)。
根岸森林公園の近くには松任谷由実が荒井姓時代に歌った「海を見ていた午後」の歌詞の舞台“ドルフィン”と言うレストランも在る。今日は行かなかった。
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※昨年の写真。車に乗り込み次の目的地の国指定名勝 三渓園に向かったのが18時少し前だった。

三渓園はこの桜の時期と紅葉の時期は駐車場が混雑して中々入れない。
まぁ、小生は時間に余裕も有るのでそれを見越して車中でTVを見たりiPodで曲を聴きながら順番を待ち19時頃に駐車に入る事が出来た。
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今年の桜は近年中一番発色が良く、1本の樹木に対する花弁の密度も多い気がする。
とにかく、見頃だった。
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 枝垂れ桜だけはま未だ少し早い様で、12日位が見頃に成りそうだ。
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相変わらず、この時期に行われる桜のLight up行事「観桜の夕べ」の演出は素晴らしく三渓園の庭園と見頃を迎えた桜の調和した美しさが他所の夜桜の演出よりも際立っている。
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恐らく日本屈指の夜桜の美しい風景だろう。
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まぁ、美しい庭園に在る分、少し反則なんだが(笑)。
これに対抗出来るのは高遠城や弘前城程度の名所じゃないと無理じゃないかと個人的に思う。
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午前中は、いつもの自分なら出発してから仮眠するのに、先に仮眠をして寝坊し貴重な体験をする筈が台無しにしてしまいクサクサしたが、午後は桜🌸達と幸せそうなカップルと家族達の御蔭で幸せな時間と成った。

桜を一頻り見て、帰りにスポーツジムに行き1時間ばかり汗を流してから、銭湯の大浴場の湯船に入り肉体的にも癒されて帰宅した。

ふむ。桜と皆の幸せそうな笑顔の御陰で午前中のブルーも吹き飛び良い一日と成った。
参加出来なかった神事、ちゃんと後日、宮司様に取材に行かないと北条家の顕彰文の記事にかけないな。
…幸せと同時に新たに行うべき事が出来た。

では、皆さんおやすみなさい♪

あ!そうそう、三渓園のライトアップは明日までですが、桜自体は12日頃まで楽しめそうですよ!
三渓園のアクセス方法は前回の記事に掲載して有ります。

コレ↑ね。
では皆さんにとっても良い春の日と今週が成ります様に♪
今日寝坊して御会い出来なかった有鹿媛様と有鹿彦様の夫婦神様に祈願しておきます( ´艸`)ブハっ(笑)。
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横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
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今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

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2016年11月26日は関東南部の平野部は絶好の紅葉狩りの1日と成った。

本来なら小生は早朝4時に友人のO型君と横浜市中区を出発し、伊勢原市の大山阿夫利神社の御神体である大山に山登りに行って紅葉のライトアップを見るか、あきる野市の秋留野渓谷に紅葉を見に行くはずだった。
前日の25日、小生にO型からメッセージが届いた・・・
「明日どうする?」
・・・と。
だから❝予定は早朝から出発、雨天なら世田谷豪徳寺か三渓園って1週間前に決めてあったろ~が!❞と思ったが、何かO型君が遠出を面倒くさがってそうなので「築地にセリを見に行かないか」と改めて新しい提案もしてみた。
O型:「英会話の予約9時に入れたから早朝は無理。」
何で予定入れるか!と思ったが・・・
小生:「あ~朝から動くの嫌なんだな」
・・・と思い、英会話優先して貰う代わりに貴重な休日を半日何もしないのは勿体ないので本日はO型君と別行動にして貰い、小生は1日個人行動をする事にした。
O型がちゃんと準備して紅葉を見に行く気が無いのなら、単独行動で別に人の多い日曜日じゃなくて小生は定休の水曜日に一人で行けば良いからね。
個人行動にしたので、今日は行かない心算だったが母の所に顔を出す事にした。
でも母の病院に行って築地で食事して終わりでは味気無い。
そこで思い付いたのが下の訪問先・・・
2016年11月26日訪問先位置関係
旧泉蔵院~弘明寺~寶泉寺~築地の拉麺屋❝若葉❞。
「そうだ!まだガラケー以来、デジカメで写真を撮影していなかった間宮家関連の神社仏閣を高速道路を使わずに巡りながら、築地まで下道で行こう!」
・・・と言う思い付き、これなら早朝出発し、午前中丸々と有意義に時間も使えるし築地の食事以外無駄遣いもしないで済む上、午後は病院に行ける。
で、出発の前に早朝に一仕事。
母も入院しているので自分の洗濯物3日分を、自宅洗濯機では洗わずコインランドリーでさっさと洗って、その足で出発する事にしたのが午前5時半くらいだろうか?
家じゃ夜中に洗濯機回せないし、コインランドリーだと大型洗濯機で洗濯して乾燥機で直ぐに乾くから便利だ。
まぁ、1回の洗濯に拉麺1杯と同じ700円かかるのは微妙だけど、時間を700円で買ったと思うと有意義だ。
コインランドリーでは洗濯を待つ間は缶コーヒーを飲みながら間宮家関連の古文書のコピーを読んでいた。
そうこうしていると、直ぐに洗濯➡乾燥が終了。フカフカで気持ち良い!
便利だなデカい乾燥機。

最初の訪問先は小生の住まう久良岐郡内に在った物凄く由緒正しい大寺院の❝跡❞、つまり廃寺に成った御寺の旧跡。
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その場所は現在では住宅地に成っている。
鎌倉時代は山崎泉蔵院と呼ばれ、源頼朝公が鎌倉のどの寺院よりも深く崇敬した修験道の寺院だった。
在る時期に戦火に捲き込まれて(恐らくは和田合戦か新田義貞の鎌倉乱入のどちらか)、鎌倉の山崎から道場の在った久良岐郡森村(磯子区中原)に移転して来た。
何故(なぜ)ここに移転したかと言うと、泉蔵院の山崎泉蔵坊は源頼朝公の命を受けて、この場所に熊野那智大社から熊野権現の御分霊を勧進したのだ。だから、この泉蔵院跡の熊野権現や屏風浦の森浅間神社は泉蔵院の支配地で、転居するのに便が良かった。
頼朝公の亡き後も、九条将軍や親王将軍の歴代から崇敬を集めた。
そして戦国時代には北條家臣の相模十四騎筆頭、間宮家から保護をされた。旦那が間宮家の頃に房総半島の里見家の海賊に略奪された歴史も有ったりする。新編武蔵風土記稿によれば、間宮家の奉納した太刀も寺宝に有ったようだ。
しかし明治政府の宗教政策神仏分離令と1村1社政策の失敗によって多くの神社仏閣が日本から消え失せたのと同じく、この磯子区中原に移転した泉蔵院も当時の僧侶が僧籍を捨て宮司に成った際に、社地確保の為に止むを得ず泉蔵院を廃寺にした上で更地にして頼朝公が勧進した熊野権現の名を熊野神社に改めて、神社としてだけ存続するしか無かった。
つまり、明治政府は水戸学と言うカルト宗派の影響を強く受けていたので、歴代天皇達が信仰した権現様の存在も山伏達の修験道も存在を弾圧した訳だ。
明治政府は概ね、外交と商業工業では日本の発展を成功させたが、日本文化を急速に弱体化させた罪は重い。
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ところで、この旧泉蔵院の宅地には修験道の道場だった頃の自然が一部保存されていて、緑地帯に成っている。
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余り歩く人も多くなさそうだが・・・
熊野神社の参道は、宅地化によって泉蔵院の頃とは恐らく違う、若干斜めに付けれている。
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ここは規模が大きい訳では無いが雰囲気が良い。
宅地化されたとは言え、背後に中原緑地が残り、鎌倉文化らしい谷戸地形に在る神社(元は修験道の道場)なので、早朝の凛とした空気と合わさって清浄な空気が漂う。
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ちゃんと、明治時代に泉蔵院を廃寺にして熊野神社だけを残して宮司に成った初代の宮司様は、歴史を残す為に境内社に泉蔵社として名前を一部残している。
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ここは(修験道の)寺院だった時は湧水地で修業の場として栄えた場所だった。
鎌倉幕府が滅亡して戦国時代には、横浜市南部の殿様で間宮林蔵達の祖先だった間宮家の殿様一族が深く信仰し、泉蔵院の山崎泉蔵坊泉勝は熊野那智大社に大旦那(スポンサー)として間宮与七郎と同平那隼人佑達を報告している。
小生はこの間宮与七郎こそが間宮林蔵の祖先に当たると推測している。間宮林蔵の祖先は間宮康俊公の子とされ実名は伝わらず間宮隼人とだけ官途名が伝わる。間宮与七郎も元服後の名と官途が伝わらず、字(あざな)だけが伝わっている。しかし部下と思われる同 平那隼人佑と記載される人物の官途が隼人佑なので、この部下に隼人佑の官職を授けれれると言う事は律令制度の隼人正(はやとのじょう)の官職を代々世襲した家系だろうか?
間宮一族は北条家中でも一番、鷹匠としての教養も備えた集団だった。間宮林蔵公の家系は鷹狩りに造詣が深かったと伝わる。
この間宮与七郎の名が登場する文書の年代は天文八年(1530年)なので、間宮康俊公は当時12歳で有る事から康俊公とは完全に別人だろう。恐らく、父の間宮信元公の字は伝わっていないので、この信元公本人かも知れない。若しくは信元公の兄弟か、名が登場する年代から康俊公の従兄くらいの関係だろう。
つまり、間宮林蔵の祖先が間宮康俊公とするのは誤りの可能性が高いが、少し惜しい外れで、正解はその父の間宮信元公の世代か康俊公の年長親族が間宮与七郎公が一番有力な祖先の候補に成ると小生は思っている。そして、間宮元重公の実父なのでは?とも思う。

泉蔵院の熊野権現への参詣を7時半頃に終えて、次は弘明寺に移動した。
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弘明寺と言うと京浜急行や横浜市営地下鉄の駅名や地名と認識されがちだが、元々は無畏三蔵法師と言うインド人の高僧が聖地と定め結界石を配置した場所に天平九年(737年)聖武天皇の時代に行基大僧正が開山と成って造営され後に天皇家の悪病平癒の勅願所だった。更に後の弘仁五年(814年)には弘法大師空海和尚が当地にて護摩を焚かれた記録が有る。
ここには新編武蔵風土記稿に❝弘明寺❞の字を建長寺の高僧玉隠が揮毫した扁額の裏面には奉納者達の名前が載っていて中心に❝本願宗閑同伴衆❞と刻まれ以下に同伴衆往嶋道徳面々の名も刻まれている。
同伴衆と言うのはつまり与力武将や家臣の事だ。道徳と言うのは臨済宗の入道号だな。
間宮家の家臣団の多くは、生前から入道号(禅宗修行僧としての名前)や、屋号を名乗る者が非常に多い。
そして屋号に川崎市由来の名を持つ者も多く、例えば間宮信親(信冬公と同一人物と推測)から感状を与えられている屋号が古門の内田対馬守の同族に、紺屋の屋号を持つ内田家がいる。紺屋と言うのは間宮家の旧本拠地の川崎の地名だ。
そして、その川崎の紺屋の地名の由来は三浦半島浦賀港西岸一帯の嘗ての地名の紺屋町の筈だ。
西浦賀(旧紺屋地区)は間宮家の所領だった。その紺屋を屋号に持つ紺屋内田家は現在も笹下城跡近くに住んで居て、近年までアパートを経営し、そのアパート名すら紺屋荘だったので小生は間宮家臣内田家のこの文書を読み古門内田家を探しに笹下を散策した際は、ものの3時間程度と直ぐに紺屋内田家を探し出し、そこから古門内田家と、高津間宮の間宮正秀公の遺骸を印旛郡高津村(八千代市高津)まで届けた源左衛門の祖先とおぼしき内田源左衛門家の足跡も探し出せた。
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❝本願宗閑同伴衆❞と扁額に書かれているそうだが、この宗閑と言うのは実は、間宮康俊公の戒名として現代に伝わる名だ。しかし扁額の奉納は大永元年(1522)年であり整合性が無い。3~4歳の間宮康俊公に同伴衆の大人が10人以上も連名で扁額を奉納するとは考え辛い。
実は間宮家は、近親ですら系図上で親や祖父、従兄弟の名や戒名を間違えて伝えた結果、寛政期の家系譜作成で同一人物と思しき人物の初名や改名後の名と思われる物が数人分有ったりする。
小生は、この弘明寺の扁額の記載事実から実は間宮康俊公の戒名が宗閑と伝わるのはそもそも間宮一族による事実誤認だと思っている。年代的に宗閑の戒名は康俊公の父の信元公の物であるべきだ。
恐らく康俊公には戒名が無かったのを、娘の於久の方が父の菩提を旦那様の徳川家康公に弔って貰う際に、誤って弘明寺に記録の在った祖父の入道号を父の入道号と事実誤認して以降、間宮信元公の入道号だった宗閑が、間宮康俊の戒名として後世に伝わってしまったと可能性が高いと推測している。
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何でこんな可能性を指摘するのかと言うと、弘明寺の寺宝だった花瓶にこんな文が書かれているそうだ。
「間宮監物コレを修理 天正十八年(1590年)二月吉日」と。この間宮監物と言うのは間宮家の寛政期の系譜上では間宮信俊と言う人物とされているが、小生の推測では間宮康俊公と同一人物だろう
❝信❞の字は間宮家の出自である近江源氏佐々木家の通し名であり、弘明寺の宗派真言宗は佐々木氏の本来の信仰する宗派である事から、北条家臣として主君北条氏康公から賜った❝康❞の字を使う間宮康俊の名と佐々木一族として神社仏閣と関わる際の間宮信俊としての名を使い分けていたのだろうと思う。
北条家では曹洞宗に帰依する事を家法とされていたので当然の事だと思っている。
つまり、康俊公が戦死した際に娘の於久様が父の近々の事績の残る寺院で父の戒名と成る入道号を知らなかった娘の於久さんが間違て調べて来てしまったか、後に追善供養を間宮正次公が行う際に誤って弘明寺の扁額に有る宗閑をもう一世代前の間宮信元公の戒名の可能性を考えずに間宮康俊公の戒名としてしまった可能性が高いと考えられる。
娘の誤解のせいで根本的に間宮康俊公には入道号も戒名もまだ現代に至っても実は無いままなんじゃないだろうか?
こう言う事が間宮一族には多過ぎる。
常に前線で戦う事を求められた一族だったので戦死者が多すぎて、一族内でも祖先達の氏名を間違えて追善供養を行ってしまったりしている。
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しかもよりにもよって、弘明寺の僧侶たちは歴史的な知識が欠如しているのか、この扁額をどっかにやって新調してしまったようで改めて訪問したが「弘明寺」と書かれた扁額が見当たらなかった。
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歴史を知らない神主や和尚が、宮司や住職に成ると起きる悲劇がここでも起きたのかも知れない。
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何はともあれ、弘明寺は巨大寺院だったのだが、こちらも明治政府の弾圧によって境内地が大規模に接収されてしまい、現在の弘明寺商店街と京浜急行電鉄の線路と駅が建設されてしまった。だから、現在でも普通よりは大きい規模の御寺では有るが、一時は無住職に成り廃寺の危機に陥った。
真言宗と修験道を崇拝した源氏の源頼朝公は度々、この弘明寺を参詣した。妻の北条政子も港南区の野庭関城の下の鎌倉街道下道を通って弘明寺を訪れている。或いは夫婦で参詣したのかも知れない。
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だから北条政子木像が有ったり・・・
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頼朝公を始め鎌倉武士が軍神として信奉した弁財天様が祀られれいる。
弘明寺で僧籍職員を質問攻めにしたが、全く歴史知識が欠如していて寺院を保護して下さった歴代の壇那様に対する感謝も無い。
むしろ、清掃していた事務員の方が詳しい始末。
僧侶がそんな事では御寺を維持するのは難しいだろう。その破滅の一歩が扁額の紛失かも知れない。
ちゃんと自分の御寺の歴史くらいは小生の様な素人一般人に突っ込まれない程度には学習するべきだと思う。
ところで、弘法大師様が護摩焚きした伝承が残る寺院や霊場(神道の聖地も含め昔は区別して無かった)では、不思議な事に自然湧水地と延喜式内社や式外社と日本武尊伝説の残る聖地が多い。
走水神社の辺りにも弘法大師は来ているが、走水は古代から飲用に適した湧水があり聖地とされていた。
尾張一宮真清田神社や横浜市港北区の師岡熊野神社や相模原市の有賀神社奥宮等の延喜年間以前からの天皇家の勅願所や祈願所も全て湧水地な訳だが、これは神社文化の成立を考古学的に考えると当然の事なん訳だ。
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古代人にとっては飲んでも御腹を壊さず清涼な生活水が確保出来る土地そのものが聖地であり、その湧水地を中心に集落が形成され、リーダーが生まれ豪族の住む場所が高床式の屋敷と成り、そこがやがて神殿となって行った訳だ。
空海和尚は、日本神話を大切にしておられたので自分で日本武尊伝承地を廻っている内に、恐らくそう言った歴史事実に考古学が存在しなかった時代にお気付きに成られていたのだろう。
そして弘明寺も、そう言った意味で凄まじい聖地である・・・
ここは昔からの温泉地だった。今ではそれを知る人も少ないけどね。

弘明寺で扁額の喪失の事実を確認してしまって大分、テンションが下がったまま、次の目的地の横浜市鶴見区下末吉の寶泉寺へ移動した。
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この御寺は間宮家で最初の武勇が記録に残る間宮信冬公の開基と御寺では伝えている。
つまり権現山合戦で活躍したあの間宮彦四郎だ。
所が、川崎大島村(現在の川崎駅前から徒歩20分超の大島町)の伊左衛門の官途名を屋号に持つ間宮家臣子孫達が毎年旧暦八月二十六日に箱根の山中城で討死した間宮康俊公の追善供養を行っていたそうだ。この大島村の伊左衛門は、弘明寺の扁額に間宮宗閑同伴衆として名を連ねた往嶋道徳(おうしまどうとく)の子孫だろう。
この大島家を始めとした家臣団の康俊公の追善供養と、開基の間宮信冬公の話がいつの間にか、寶泉寺の外で語られる寺の歴史が間宮康俊公開基と話が混同されてしまって、事も有ろうに昌平坂学問所の頭取で間宮家の子孫である間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿でも同様に間宮康俊開基と紹介してしまっている。
しかしこれは誤りで、寶泉寺が正しく、恐らくは間宮康俊公は寶泉寺を❝中興❞されていたのだと小生は推測する。
間宮家が末吉や川崎辺りを本拠地にしたのは間宮信冬公や間宮信盛公の時代の話なので、やはり当事者である寶泉寺の寺伝が正しいだろう。
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ところで、この御寺は都会の中に在りながら、御庭は中々広く綺麗な御寺だ。
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手入れが行き届いている。素晴らしい。
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建築も素晴らしい。
そして寺紋は間宮家所縁の四ツ目結び紋に丸を配した物。
丸に四ツ目結びは紋は、間宮家の分家や家臣団が間宮本家から与えられる家紋だ。
分家の嫡流は間宮本家と同じ四ツ目結び紋。それ以外の末端の一族や有力家臣や神社仏閣が〇で囲ってある丸に四ツ目結び紋な訳だ。
だから間宮家の戦国時代の本拠地の磯子区や港南区の地主達は、この寶泉寺と同じ家紋が多い。
寶泉寺の現住職の若様と一しきり寶泉寺の事を話し込んで、御寺の寺伝を纏めた冊子を頂きました。
若様に感謝。
御参りと写真撮影を終えて、思い付きで川崎駅前の瑞龍山宗三寺もついでに寄る事にした。
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宗三寺は旧東海道の目の前に在り、直ぐ裏には京浜急行川崎駅も在る。
一帯は堀之内の地名が町名だが、これは間宮信盛公の城館が在った事に由来する。
そもそもは源頼朝公に与力した平安時代末期の名将、佐々木高綱公の城館が在った場所が現在の宗三寺の境内地だ。佐々木高綱公の引退後、この地を引き継いだのは甥っ子の佐々木信綱公だった。佐々木高綱公と間宮家の祖先とは祖先同士が親戚に当たる。
高綱公の祖父の佐々木秀定公と間宮家の祖先の佐々木行定公が御兄弟に当たる訳だ。
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宗三寺の場所に在った佐々木家は、信綱公の子、佐々木泰綱公の代に横浜市港北区の小机の開発願いを鎌倉幕府に届け出て承認されている。この川崎多摩川を利用した水運には適するものの、当時は砂州で耕作に適さなかったからだろう。その頃に関東に残った佐々木一族は小机を本拠に移したと思われる。
小机も佐々木高綱公の居城跡の鳥山八幡宮や高綱公が開基した三会寺が現存する。
川崎の宗三寺は、元々は勝福寺と言う真言宗の寺院だった。
佐々木高綱公の甥の信綱公の子、佐々木泰綱公が弘長三年(1263年)に同志5000人の寄付で梵鐘を鋳造させて勝福寺に奉納している。そんな川崎に間宮家が戦国時代に入ったのは北条家の事情に由ると思われる。
北条家が関東で勢力を伸張するに当たり、獲得した領地支配の正当性を主張する為に、古来の領主の子孫を故地に配属していたので、佐々木一族の間宮家を川崎に配置したのだろう。
ここを本拠地にしていたのは間宮信盛公だ。
そして間宮信盛公が元々真言宗の勝福寺を中興するのだが、その縁で信盛公の入道号、宗三をとって是(これ)を寺名と改め、宗旨も北条家の帰依した曹洞宗に改宗された。
さらに時代が下って子孫の氷取沢間宮家の一族、間宮孫兵衛盛重公が宗三寺を中興した。
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しかし、この間宮盛重公、とんでも無いミスをやらかしていて、間宮信盛公の墓碑に誤って間宮本家の名将、間宮康信公の名を彫り込んでしまっている。
しかも子の間宮盛正が元禄四年(1702年)に刃傷沙汰を起した挙句に預かり先の旧武田家臣、依田家で不可解な火災を起こして改易されている。
この一連の事件の責任をとってか、間宮家の本家や杉田間宮家は奉行職を同時期に辞任している。
更に同時期に高津間宮家の間宮信要も延宝四年(1677)年に刃傷沙汰を起し切腹されられている。
更に少し前の延宝元年(1673年)には大田区の善慶寺が菩提寺の間宮太郎兵衛達が起こした義民六人衆の事件が起きている。
小生は、これ等一連の事件を義民六人衆事件を契機に間宮家を敵視し、更に旧北条家臣団を敵視して金権政治を行っていた側用人達の陰謀と後に旧武田家臣の柳沢吉保の関与が有ったのではないかと推測している。
同じ時期の元禄二年(1700)年には間宮と同じ旧北条家臣で蒔田吉良家の与力だった世田谷の喜多見家が喜多見重政の代に2万石の大名から改易されている。これも柳沢吉保の陰謀と言われている。
写真を撮影し終わって、間宮信盛公の御廟所と本堂にも御参りして、築地に向かった。
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日曜日の築地場外市場は大盛況で、中々歩くのも大変な程だった。
小生の目的はもう少し歩き易い門跡通りの歩道に面した拉麺屋の❝若葉❞。
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ここは築地に始めて来た10年位前に気になって、母の入院以来ずっと食べるチャンスをう窺(うかが)っていたのだが毎回、お店が早すぎてもやってないし午後だとやってなくて食べれなかった。
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今回はやっと席に着く事が出来た。
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シンプルな醤油ラーメン。でもこれが凄く美味い!
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極細縮(ちぢ)れ麺が旨味の深い醤油スープを良く持ち上げてくれるんだな。
700円と築地に在りながら割と良心的な値段で味も凄く良く大満足。
しかし食べたりない小生は、この後、鶏肉の総菜で有名な鳥藤に移動・・・CIMG1571
チキンペッパーステーキを食べ歩きして・・・
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更に!
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イチゴ大福も食べました(笑)
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餡までイチゴが入っていて美味しかったよ。
御腹もいっぱいに成った所で国立がんセンター研究病院に移動。
母は火曜日に手術して4日目だが、何と、見舞いに行った日から食事が復活していた!
まだ柔らかいオカズが多かった様だが、回復の速さにビックリした。
帰りに病院のロビーで面白い展示物が有るのに気が付いた。CIMG1577
医療器具やら病院の歴史の展示。
こうやって時間系列での器具の発展や、病院解説なんかの展示してあると興味が注がれる。
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ここは今上天皇陛下御夫妻も見学に来られたそうだ。
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ふむ、予定通りの紅葉見学とは行かなかったが、尊敬する間宮家の殿様達の足跡を改めて辿り写真撮影を行えて、美味しい拉麺も食べて、母も回復しつつ有り、大変良い休日を過ごせた!
水曜日はあきる野に紅葉を見に行こう。

では!又、次の記事であいましょう!
そろそろ、何か解説記事書きたいな・・・


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世田谷区、東急世田谷線宮の坂駅から徒歩で5分位の場所に、勝光院と言う落ち着いた雰囲気の御寺が在ります…
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この勝光院、横浜市南区の蒔田城と、世田谷区豪徳寺に在った世田谷城を主要拠点にして武蔵国南部の交通の要衝を支配した「蒔田吉良家」の歴代殿様の菩提寺です。

足利一門の中でも非常に格式の高い存在だった蒔田吉良家だけあり、江戸時代に大名から旗本に規模縮小したにも関わらず、菩提寺勝光院の規模は小大名の菩提寺クラスの規模の境内を現代も維持しています。
この御寺を維持する為に、歴代の檀家さん達は非常に苦労されたと思います。

さて、この勝光院には当然、吉良家の殿様の御廟所が在る訳ですが、鎌倉の報国寺の様な「竹林寺」として昔は有名だったそうです。
ですから裏門側に行くと当時の名残で竹林が一部今も残っています。
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恐らく、太平洋戦争敗戦時にGHQにより、他の神社仏閣同様に宗教施設と言う事で建物周辺以外の所有地を没収されてしまったんでしょうね…
昔は周辺の宅地が素敵な竹林だったのかも知れませんが、生憎(あいにく)訪問時に古い檀家さんや年配の職員の方と話す機会が無かったので詳しい事は判りません。

しかし、参道からは何となく昔の雰囲気が伝わってきます。
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さて、勝光院さんは山門の手前、竹垣で囲まれたところが墓地に成っていて、そちらに歴代殿様達の御廟所が在ります。
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不敬に成るので今回も御廟所内の写真は撮りません。
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この勝光院は、今川家から蒔田御所吉良頼康公の養子に入り跡を継いだ蒔田吉良氏朝(うじとも)公が1573年に中興しました。
しかし吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家が豊臣秀吉により滅ぼされる際、氏朝公は下総国(しもうさ=今の千葉県の北部と茨城県南部)に逃げたので、世田谷における吉良家の大名としての活動は終了し、以後は徳川家の旗本として下総国で存続する事に成りました。
しかし、吉良の殿様の御子孫は、下総国転封後も世田谷の事を大切に思い、その故地に建つ勝光院に御廟所を置き、氏朝公の御孫さんの代から歴代の殿様の御廟所が置かれる事に成りました。
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由緒正しい御殿様の菩提寺だけあり、各施設謂(いわ)れがあり、説明看板がちゃんと有ります。
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御本堂も幕府の歴代重鎮達の御寺と遜色無い規模を誇っています。
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素敵な御寺でしょう?
印刷した物ですが御朱印も頂ける御寺です。

世田谷住の方、この勝光院や近所の吉良頼康公が中興した世田谷八幡宮や豪徳寺を御散歩してみませんか?
豪徳寺は招き猫の発祥の御寺ですし、世田谷八幡宮は家康公に保護され江戸時代相撲興行で有名だった八幡社ですから、いずれも立派な歴史と規模が有り御散歩すれば良い休日を過ごせると思いますよ~!

では、又、対の記事で御会いしましょう!


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