歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

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2017年05月、鎌倉市に新しい歴史博物館がオープンした。
その名も鎌倉市歴史文化交流館。
どちらかと言うと地元民向けなのだが、歴史が好きなら観光客にもお勧めしたい場所が増えた。
実は、その歴史文化交流館の招待入場券を頂いていたので、昨日土曜日に訪問して来た次第だ。

来月に妹の方の甥っ子姪っ子を連れてキャンプ場に行く予定が有り、午前中は予約をしてから少しウダウダしていた。余り寝てないから二度寝した。
昼の12時頃、お腹も減ったので鎌倉の小町通りに以前から気に成っている葉山牛を出すステーキハウスが有り、ついでに、そこにも行こうかと思い出発の準備を始めた。
結局出発したのが1時過ぎだったので栄区方面から朝比奈峠へ入り鎌倉へ車を走らせた所、シッカリ週末の鎌倉の渋滞に嵌(はま)ってしまい結局近所なのに、駐車場の有る❝御成り町❞着いたのは2時近くだった。
ゴジラ御成町周辺 公式借り物 久良岐のよし
今日車を停めた駐車場が最近、丁度ゴジラに踏み潰された辺りだな(笑)。
御成り町の辺りは鎌倉時代は大名達の屋敷が立ち並び、問注所と呼ばれる裁判所が最初に設置された辺りだったりもした。
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近代に成ると多くの文豪が住み、これらの人を昔の❝鎌倉武士❞今の❝鎌倉文士❞と土地の人は言ったものだ。
まぁ、そんな訳で文化的な町で関西に例えるなら京都の哲学の道の様な雰囲気の有る地域だろうか?
銀閣寺周辺に似ている雰囲気かも知れないが、近現代の文化人が多く住んだので大正や昭和初期の近代西洋建築の私邸が多く残り、簡単に言ってしまうと❝上品な文化人と御金持ちの町❞と言った所だろうか?
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町を歩けば立派な邸宅が文化財指定されている看板をちょくちょく目にする。
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まぁ、一般の方の御宅も多いので公開されていない場合が多いが・・・
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古我邸の様に立派なフレンチレストランとして転用されている様に、飲食店として活用されている場所も少なくない。ここら辺は横浜の山手地区にも似た雰囲気なのだが、横浜の場合はガチの外国人居留地で鎌倉は元大名や財閥や文化人の大邸宅なので横浜の方とは違って何だかドイツの貴族の屋敷の様な雰囲気の規模と場所が多い。
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敷居が高い様に見えてランチは3800円と庶民の小生でも少し高いランチとして気張れば入れる。
本当はここで昼食でも良かったのだが・・・
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・・・生憎(あいにく)門前に「ウェディングパーティーで本日貸し切り」と看板が出ている。
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鎌倉で仙❝道❞だったら七里ヶ浜の鎌倉高校が湘北高校のモデルなのでスラムダンクっぽいが、この日の新郎は仙❝頭❞さんで一文字違い(笑)。
仙頭さん、宇山さん、オメデトウ♪
古我邸でランチするのは又の楽しみにして、当初の予定通り博物館見学後に小町通で葉山牛を食べる事にした。
古我邸を過ぎると緑も多くなって来た。
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直ぐに鎌倉市歴史文化交流館に着(つ)いた。素敵な石畳が続く。
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この素晴らしい自然に囲まれたデッカイ建物、実は最近まで某出版社社長の個人宅だったと言うから驚きだ。
この場所は古くは無量寿院もしくは無量寺と呼ばれた鎌倉時代の大寺院の跡だった。詳しい事は解っていないが、近くには鎌倉幕府の重鎮だった安達家の邸宅も在ったので安達家と関係の深い御寺だったのかも知れない。
その後、廃寺と成り、近代に三菱財閥の岩崎家が別邸を建てた。その為に敷地内の寺院としての遺構も良く残っていたので後で紹介しようと思う。
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中世の昔、御寺だった地形らしく谷戸(やと)に成っている。
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この博物館、案内状を頂いた際にパンフレットを読んでとても期待をする一言が書かれていた・・・
❝館内の展示物は全てフラッシュをたかなければ写真撮影自由❞
・・・この文言は普通の博物館では中々目にしない。
東京上野の国立博物館でも撮影は部分許可、ケチ臭い無文化な神奈川県と横浜市教育委員会の関わる横浜市歴史博物館や神奈川県立歴史博物館は撮影不許可。
流石、鎌倉の方々は子供を歴史を好きにさせる❝仕掛け❞を心得てらっしゃると思う。
中に入ると受付の女性は皆さんとても❝言葉遣い❞❝立ち振る舞い❞❝基礎知識❞等の接客を叩き込まれておりとても立派だった。そして愛嬌も有る美人さんで英語対応も可能だった。
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エントランスには鎌倉を代表する工芸品の鎌倉彫が展示されていた。
鎌倉彫りの彫刻って習える教室が沢山有るので彫ってみたいのだけど時間が無くて通えない。
こんな立派な入物、購入したらいくらするんだろう?きっと万単位の金額なんだろうな。
展示品だから数十万~数百万円はするのかも知れない。

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ホールの雰囲気はとても武士文化の鎌倉らしいレイアウト。
京都の下級貴族の侍(さむらい)の格好とは違う、関東武士の装いの流鏑馬の写真。
余り知る人は多くは無いが鎌倉市の扇谷地区には流鏑馬の武田流弓馬道場が有ったりする。
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ま、今回の訪問地は源氏山を挟んで反対側なので、そちらの説明はしないでおく。
歴史文化交流館は展示スペースの入口にも、非常に興味深い物が有った。
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日本を代表する名刀、正宗。その現代の工房、正宗工芸の社長が鍛えた刀と説明が有った。
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そしてもう一つ・・・
こちらはレプリカなのだが日本の歴史に登場する鎌倉にも関係の有る名将が着用した甲冑の完全なコピー。
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畠山重忠公着用の鎧の完全なレプリカ。
重忠公は源頼朝公から信任厚く、2代目の将軍と成った源頼家公の事を託された名将だ。
頼朝公の挙兵時に京都に居た為(ため)に止む無く平清盛の軍の指揮官として討伐軍に参加させられ、身内の三浦家と対立、三浦家の本拠地で有った現在の横須賀市衣笠の衣笠城を攻めて身内の三浦義明公を攻め殺す悲哀に見舞われた武将だ。この悲劇が頼朝公へ帰参後も後を引いて北条⇔三浦連合の陰謀により頼朝公亡き後に逆賊扱いされ横浜市の二俣川で数十人の手勢で数万の敵軍に囲まれ討死した。
その後は源頼家公は北条家に暗殺され、北条家と血縁の深い源実朝公が三代将軍に擁立された。
様は、野心は無かったのに権力争いに巻き込まれた悲運の武将と言う訳だな。
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この鎧の本物は現在も武蔵御岳神社に保管されており、現代に伝わる。
よく源義経が着ている鎧のイメージは、この重忠公の鎧のイメージだろう。
ついでに言えば源義経は猫背で明石家さんまみたいな顔だったと推測されているブ男だ。まぁ、義経は内面も私利私欲の塊だったんだがな。
他人の手柄を自分の手柄の様に報告する最低な今で言ったらモンスターパワハラ上司だったのは歴史が本当に好きな人には有名な話。
実際に俗説に❝鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし❞と呼ばれた迂回奇襲戦を立案したのは名軍師で三浦半島の佐原出身の三浦一族の佐原義連(よしつら)公だったし、その作戦を実行実現したのは摂津源氏で関東では横浜市都筑区センター南の茅ヶ崎城に住んでいた多田行綱だった。ましてや木曽義仲討伐戦で活躍したのも近江源氏の佐々木高綱公と我が郷里鎌倉郡の梶原景季(かげすえ)公だった訳だ。
まぁ、そんな事を畠山重忠公の鎧の色を見て思い出した。
最初の展示室に入ると鎌倉の歴史が解る年表が有る。
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小生が体得した歴史観と同じく、やはり鎌倉も弥生時代に海面下だった現在の平地部分が隆起している事が書かれている。
だから言う。日本武尊の東征は地殻変動に由って隆起した海底が湿地と成り、耕作地に向いたために現在の神奈川県中央部の新たな開拓利権で係争が起きて、そして佐賀牟国と磯長国の再統合と分離によって相模国と武蔵国の再編が行う為の大和朝廷に由る軍事介入だったと言う事を。
そして、それが証拠に現在恐らく❝武蔵国造の乱❞との名だけで伝わるこの係争を纏めたのが日本武尊で、実際は学者が言うよりも数百年前の話だろう。実際、武蔵国造の乱で朝廷に接収された久良岐郡や橘樹郡や多摩郡は非武装地帯の様に配置され、更には軍馬の生産地としても有名だった場所と港の有る土地だ。
まぁ、考古学を危険視する宮司もいれば、神道をコケにする左派歴史学者もいるが、小生に言わせれば考古学と日本神話は必ずリンクしているんだな。
つまり日本の神様ってのは、自然の聖地が神格化されて大切にされたパターンの他に、弥生時代~古墳時代の天皇家や豪族王後の貴族の弥生時代の祖先の事ってのが良く解る訳だ。
宮司さんの中には弥生時代を原始人の時代位の認識のトンデモ人間もいるが、日本の弥生時代末期は結構農耕も栄えた上に金属鋳造技術も獲得していたし、例えればギリシャのポリスみたいな連合体がいくつも有って原子国家が既に成立していたんだな。
まぁ、そんな事も年表見ながら考えていた。
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壁面には、こういった解説パネルに合わせて下に実物も展示されていた。
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こんな感じ。
中でも小生の興味を引いたのは、下の文書(もんじょ)。
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小生が毎日御参りする足利持氏公の文書。
戦国時代の幕開けとなる永享の乱を戦った鎌倉の将軍、くじ引きで室町幕府の征夷大将軍に成った比叡山の僧侶出身の残忍王とも言える足利義教と対立して滅ぼされた関東の将軍様だな。
この御子孫が、横浜の殿様の間宮家や吉良家が御仕えしていた足利成氏公な訳だ。
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まぁ、日本の歴史の中で国家の宰相に成ってまで同氏族同士で殺し合ったのは、後にも先にも、この足利家と藤原一族くらいだ。まぁ、足利尊氏公以後の足利家はハッキリ言って血縁的には半分以上の遺伝子が藤原遺伝子なんだけどね。
藤原が治めると日本は治まらないんです。
桓武天皇の御子孫の平氏か、宇多天皇や清和天皇の御子孫の源氏が統治しないと日本駄目なんだな史実として。
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まぁ、戦国時代に伊勢平氏の子孫の北条家が統治した土地はやはり善政が敷かれていたし。
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小生が顕彰活動をする玉縄北条家の北条綱成公の居城、鎌倉市大船駅近くの玉縄上司の縄張り図も玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達が作成した物が展示されていた。
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あと建築利権と結びついた横浜市長と市の役人とは違い、鎌倉市は歴史風致を乱した過去の開発業者も曝し上げている(笑)。
本来、文化保護の為に教育委員会は斯(か)く在るべきだ。この施設の館長は良く解っている。
ここに来ると林文子横浜市長や横浜市役所の役人による城址破壊の許可と不保護、神社仏閣の関連する風致地区の破壊と商業開発が如何に文化的にレベルが低いかが良く解る。
だから横浜市は全国でもワーストの文化財保護法の設置の遅さだったんだろうな。
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ここは合戦で武士が着用していたと思われる武具の展示も有る。
恐らくコレを着用していた人物は死んだんだろうな。
これが和田合戦か宝治合戦か鎌倉幕府滅亡の時かは解らない。或いは安達家の滅亡の時かも知れないし。
まぁ、こう言った発掘されたまま修復せずクリーニングを施した展示物は生々しく血の匂いが伝わって来そうで現在の平和の有難みも解って良いと思う。本当に見せ方が上手い。
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この鎧は着用していない脱がれた状態で埋蔵された様だ。
形式から見て鎌倉時代の物だろう。
他にも色々あったので写真を張り付けて見る。
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まぁ、他にも沢山有り、適度な量を解り易い説明で展示されていて、とても頭に入り易い。
よく考えられた構成に成っていると思う。
中でも特に面白かったのがコレ・・・
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立体地形図にプロジェクションマッピングを利用して、各時代の様々な情報を地形図上に再現する。
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これは基礎知識も無い人でも本当に解り易いと思う。
ただ、言葉は大人向けなので対象年齢は中学生以上と言った所、馬鹿は大学生なら何言ってるか解らないだろう(笑)。
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他にも、多分、武士か商人のヘソクリみたいな4万枚の宋銭なんてのも有った(笑)。
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まぁ、本当に良い展示の仕方だよ。感心するばかり。レイアウトも綺麗。
これは若い女性の学芸員さんだったり、職員さん達が鎌倉の洗練された感覚を持ってるだからだろうね。センスが良い。
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近代まで全時代を網羅した博物館なので近代文学の事も紹介されている。
小生は横浜の有島武郎と、妹が大学時代を過ごした松山市を舞台にした坊ちゃんの夏目漱石の小説は高校生の頃にいくつか購入して読んだ。担任の先生に「オマエ、そんな趣味あるのか?」と驚かれたが嵌ったのは一時だけだった(笑)。
その後は孫氏の兵法や史記や心理学の本を何故か読み漁り、後は現代で言う所のラノベと言うジャンルの小説を読んでいたかな。
部活では格闘技をやっていたが、何をやっていたかは敢えて言わない(笑)。
さて、ここは博物館の建物自体も現代建築として価値の有る場所な訳だが・・・
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建物の中から御寺時代の名残も見える。気持ちいの良い谷戸と草原の風景。
そして面白いのが神社風の建物も有った。
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茶室か何かに使ったのかな?パっと見は神社建築の幣殿部分みたいな感じ。
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別館が有り、エントランスから庭に出て移動する必要が有る。
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少し散歩してみた。池が有る。
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鎌倉の寺院に良く見られるのだが、鎌倉市街は平地で井戸を掘ると昔海だった影響で塩分濃度が高く引用に適さなかったそうだ。そこで埋葬用の矢倉とは別に岩窟を掘る、すると鎌倉石は水を良く通すので岩窟に水が溜まる。その水を一か所に集めて生活用水にしたり、池を満たして庭園を整備した様だ。
まぁ、下の写真みたいに低所に有るのは石塔が建てられ石塔内に納骨された埋葬地だったのだろう。
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鎌倉時代の骨壺は、戦国時代や江戸時代に茶器として転用する目的で多く盗掘されてしまった。
横須賀市衣笠の三浦義澄公の御廟も石塔の納骨部が叩きわ割れてしまって中身が無くなっていた。
罰当たりな盗掘者はきっと不幸な死に方をした事だろう。
それと同じだよ、横浜市と神奈川県の役人と政治家で古代からの聖地や先人の歴史史跡を調査も保護もせずに開発利権の為に破壊する奴は。
まぁ、その話は置いておいて・・・
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別館も展示物が並んでいる。
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こちらは流通や経済や人々の暮らしが解る展示解説が多かった。
そして、綺麗で国際派美人の受付の御嬢さんに色々と親切に対応して頂き、とっても物腰柔らかく美人で皇族の眞子様の様な学芸員さんと色々と話し情報を交換したり、周辺の郷土史をレクチャーして頂いたり出来た。
本当に丁寧な接客をする施設だな。感心する。
そして個人的に女性は才色兼備で内面も出来た人が多いと思う。
そして人意外にも素晴らしいものがココには有った。
博物館の敷地には、昔の御寺時代の奥院だったんだろうか?稲荷神社の跡地が展望台に成っていた。
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ここに在った御稲荷様は、博物館の建設の際に宗教的な見地から同じ源氏山の山麓に在る葛原岡神社に遷宮したそうだ。
まぁ、そのまま稲荷様として鎮座して頂いて良かったとも思うけれど、神社として多くの人に拝まれる方が神様的には幸せかもしれない。
ただ、御稲荷様ってのは御祭神が宇迦之御魂(うかのみたま)神で、本来は水の湧く洞穴何かに祀られた湧水地の神様なんだな。そしてこの歴史文化館の稲荷社の跡の崖地からは水が湧いているので、宗教的な本来の意味から言えば、ここにいらっしゃらないと意味が無いんだとも個人的に思うのだが・・・
古代人とって飲用水の確保ってのは命を繋ぐ財産の確保だった訳だ。だから神様を奉って大切にした。それが宇迦之御魂神だった、それが弥生時代に稲作が普及すると、水の役割が農業用水としての重要性に代わって来た。
そして漢字の導入が始まると宇迦之御魂神の字に倉稲魂命が当てはめられる訳だ。財産が水から米に変わったからだな。
更に平安時代末期に成ると、貨幣経済の普及によって財産の象徴が米から貨幣に代わり、財神としての性格を持つ弁財天様が宇迦之御魂神様と同一視されて祀られる様に成った。
この経緯が良く解るのが❝銭洗い弁天❞こと宇賀福神社や・・・
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江ノ島の弁財天様だな。
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もっとも、弁財天様には軍神としての性格も強いので昔は弁才天と書いた訳だ。
頼朝公が弁財天様を信仰したのは、その為だな。まぁ、頼朝公は熊野信仰や富士山信仰、大山信仰等の山岳信仰マニアで横浜市金沢区六浦にも浄願寺って大寺院を山の上に建てたりしたんだが、そこもやはり横浜市教育委員会が多くの学者と地元民の反対を無視してマンション建設許可を出してしまったんだな。戦後に横浜市から消された歴史史跡と宗教史跡は数が多すぎる。
本当、横浜市の横浜市歌すら歌えないカッペ職員は罰当たりな奴が多かったんだよ、昔は。
今は市長がクソだけどな。
そこを行くと、左翼横浜市と違って昔から文化人の多い鎌倉市の教育委員会は鶴岡八幡宮や御寺さんと関係が密接な有り、文化保護や調査に対する意識が高い。
だから、この歴史文化交流館みたいな素晴らしい施設を創生する事が出来るんだろう。
さて、歴史交流館の稲荷社跡地には宝物が有る。
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それは鎌倉市街~材木座~由比ヶ浜~小坪~住吉城址を見渡す眺望だ。
この写真は小生の撮影技術の未熟さで余り良くないが、本当に素晴らしい景色だった。
ここは鎌倉の中央図書館からも近いので、又、文献読みに来る時に是非、立ち寄りたい。
さて、鎌倉市歴史文化交流館を後にして、腹もすいたので小町通に葉山牛を食べに向かった。
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途中、踏切を渡る直前に正宗工芸の前を通ったので刀の製造過程の展示の写真を改めて撮影して来た。
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ショーウィンドーに常設されているので誰でも見る事が出来る。夏季は刀を打たないので、冬季に成り予約をすれば製造している所を少し見せて貰えるかも知れない。
小生は幸運な事に高校生の頃に自分で電話番号を調べて刀が好きな事を伝えて見学させて頂きたいと伝えた所、粋な計らいで学生と言う事も有り機械のハンマーで鍛える行程と使用する道具、昔の道具を見せて貰う事が出来た。
本当は高校卒業したら刀鍛冶か宮大工に成りたかったのだが親の反対で断念した経緯が有る。
もし高校生の頃に戻れるなら親の言う事を無視して、正宗工芸に弟子入りしたいなぁ・・・。
この日は外国人のお客さんが牛刀を買って、社長と中で写真撮影をしていた。
ふむ・・・無文化日本人より親日家西欧人の方が日本文化に理解が有り、今では余り知る人もいなくなった名刀正宗の工房を訪ねて来る訳だ。
正宗工芸を過ぎて踏切に差し掛かると小町通が見えて来る。
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相変わらず週末は賑わっている。歩くのも少し気を付けないと人にぶつかりそう。
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目的のステーキ屋に着いた。そして絶望・・・
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・・・以前見た時はランチで3800円位のコースが有ったと記憶しているのだが、朝5時~7時とかとんでも時間に御試しコースが設定されていた。
そして通常のランチは一番安くても5000円前後だった。小遣い予算オーバーに成るので断念。
小生の味方、小町で小腹を満たす場所と成ったここ・・・

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この路地を入った場所に有るシラスたこ焼きの店。
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たこ焼きの中にシラスが入っているのだが、正直シラスの風味は余り感じない(笑)。
でも京都に住んでいた事の有る小生からしても、ここのシラスたこ焼きは普通にタコ焼きとしてとても美味しい!
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先ずはこれを食べて、そして帰りにコロッケを別の店で食べると安く上がる(笑)。
食事を終えて、小町通にある芸林堂と言う行きつけの古書店に立ち寄ったのだが、生憎写真を撮影し忘れた。
しかも欲しい本が高くて手持ちの小遣いで買えず(笑)、何故かトンボ玉を買ってしまった。
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芸林堂を出ると、次は社塔と言う和紙専門店に移動。
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ここには1年間に2回位来る。
色んな要望に応えて下さるので助かる。
以前、御朱印の収納するアルバムを作成した時に千代紙をシールに加工して下さったり、特殊な御朱印を頂く為専用の色紙等を用意して下さったり、本当にお世話に成っている。この店は小生の土地神様の神社の宮司様から教えて頂いた場所だ。
今回は延喜式内社用の御朱印帳がいっぱいに成ってしまったので、分解してページを継ぎ足し外装も新調しようと思い改造用に和紙を購入した。
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綺麗でしょ?
和紙もちゃんと持ち運びに耐えれるように梱包して下さる。
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本当に親切なお店だし、品揃えが豊富で鎌倉で好きな御店の一つだな。
帰りにマメヤによって、青梅味の豆菓子を買い、帰宅前に寄る弟の所の姪っ子達の御土産にした。
無論、自分の家用も買って。
そして鎌倉を離れ横浜市域に戻り、弟の娘達に先日製作して上げたストラップと豆菓子を渡して来た。
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ふむ・・・
良い博物館が出来て嬉しい。
そして綺麗な風景も見れたし、綺麗な御嬢さんと沢山話せたし(笑)。
行動範囲は狭かったが良い休日に成った。
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これは土曜日の2016/05/28の休日雑記を兼ねた山手の丘の紹介。

小生は真夏には余り城址に行かない…
城好きな人は同じ経験してると思うのですが、夏は❝藪蚊❞とか❝ブヨ❞に刺されまくり一回の登城で10ヵ所以上は刺されるし❝蛇❞も出る。
箱根方面とかの田舎の山城だと猪が出るかも知れない。
地方の山城なんか熊も出るかも知れないしね。
それと、一番痛いのが❝野薔薇❞ね。
既に5月にも成ると分厚いGパン履いてても普通にグサグサ足に刺さって来るから❝藪漕ぎ❞出来なくなる。
…野薔薇痛いんだよ本当に。

その代わり、この季節の楽しみは西洋式庭園の有る公園が薔薇の花に彩られて一番綺麗な季節に成る。
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横浜は神戸と同じく幕末の開港以来西欧式の文化が早くから根付いたので、こう言った環境には恵まれていて城に行けなくても素敵な洋館や庭園が多数有り、目の保養に事欠かない。
無論、日本文化、こと武士文化に関する庭園公園もいくつか有り、日本の季節の風物詩も楽しむ事が出来ます。
山手の丘の洋館史跡 久良岐のよし
まぁ、横浜市なんて❝市❞は160年位前まで存在せず、この地域は武家の本拠地である旧鎌倉郡と旧久良岐郡と旧橘樹郡と旧都筑郡で構成されている。だから日本的な古代の神話や武家文化は神社仏閣に行くと十分感じられる。
久良岐郡と橘樹郡、それと隣接市の横須賀市(旧三浦郡)は日本武尊の通った道で横浜市の中心部の旧久良岐郡には古代から多くの港湾が在り大和朝廷の直轄地として軍馬生産の牧場も有る。
隣の旧三浦郡(横須賀市)には日本武尊と后の弟橘姫様が仮御所を築き滞在された走水の御所ヶ崎も有ったりなんかして、日本文化的な楽しみも事欠かない。
ま古代から日本武尊含め軍閥の文化なので、京都のソレとは大分雰囲気が異なるけれども…
日本武尊の仮御所だった横須賀なんか明治時代から日本の帝国海軍や自衛隊、アメリカ第七艦隊の総本山みたいな状態だしね。

さてさて、今回の訪問の主目的は、あくまで薔薇だった。
先日、横浜イングリッシュガーデンの訪問で、今月末は西洋式庭園巡りと洋館巡りもする心算と腹を決めていたので、この山手の丘は打ってつけの場所だった。
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ブログネタ確保の洋館の写真撮影も兼ねて、何度目か解らない再訪。
今回は中華街付近のいつもの駐車場に車を止めてスタート…
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…したら何か関内地区全体で祭が開催されていて、至る所が歩行者天国。
たまに、こう言う事が有る。横浜開港記念日とかね。
因みに、この歩道のカフェは晴天時常設。左端に見切れてる人達が車道に出ているの判るかな?
この辺り、右から左に少し傾斜して地面が盛り上がってる。
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実はココが横浜の地名に成った、細長い砂州の半島、その名も❝横浜❞が在った場所。
横浜の地名由来説明
以前も使った衛星写真。この赤い範囲がつまり、この地面の膨らみが昔の半島の上って事だ。
ここを抜けて中華街でランチしようと思っていたら、安倍政権に成ってから景気が回復してきている御蔭で中華街は土曜日とも成るとバブル時代と同じ位の観光客でゴッタ返している。
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なので、一先ず昼食は後回しにして散歩を続ける事にした。
関帝廟の前の細道を突き抜けて元町へ。
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元町商店街の入口、元町5丁目東の交差点、その先に在るトンネルは実は明治時代~昭和初期の鉄道史跡だったりする。このトンネルを蒸気機関車が昔は走っていた。
今のJRの軌道とは大分違う方向に線路が伸びて根岸方面へ直結していたんだな。
横浜は移民だらけで歴史に興味ない人は余り知らない事。
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元町のこの道は幕末の外国人居留地だった時代から存在するが、海側の突き当り、ウチキパンが在る辺りには江戸時代末までは御寺サンが在った。DSC_1674
外国人の要求で寺を移転させ、ここに一般外国人向けの居留地を開いたそうだ。
これは、同じく当時英国に領事館として土地を提供した妙香寺様の学僧サンに教えて頂いた郷土史だ。
丁度、この丘を左手に登っていくと旧フランス軍駐屯地兼領事館の土地に行き当たる。
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因(ちな)みに、このウチキパンさんは130年近くの歴史を有る日本史上初のベーカリー(パン屋)さんだ。
確かチョコレート製造工場は神戸が日本初だったかな?
神戸一帯も横浜周辺も嘗(かつ)ては武家の首府だった時代があり、くしくも貿易港として似たような歴史を歩んでいる事からも源平の大将は共に土地を見る目に優れていた事が良く解る。

小生は元町の表通りより、一本裏の道が好きで其方(そちら)を好んで歩くのだけれど、そもそも裏通りに多くの老舗や個性的な店、歴史が残っている。
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元町厳島神社、最初に紹介した昔の❝横浜❞の名で呼ばれた半島の上に在った弁財天様が発祥。
砂州の横浜半島が外国人居留地として開発されたり江戸幕府によって神奈川運上所と言う税関が設置された際に、今の元町厳島神社と伊勢佐木長者町の厳島神社に分祀された。
この厳島神社、実は結構歴史が有り源頼朝公が伊豆時代に崇敬していた土肥郷の弁天社の御分霊を頂いて勧進されたそうだ。
昔は弁財天様は弁才天と書き、軍才の神様であり水神様の性格も持っていたので、源頼朝公が石橋山の戦いで平清盛勢力に敗れた際に海路を船で無事、房総半島に逃げれた事で弁天様を信仰したのだろう。
実際、観光名所になっている江ノ島に弁財天を勧進したのも源頼朝公で、この江ノ島弁財天は有名な滋賀県琵琶湖の竹生島弁財天様の御分霊だそうだ。
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この神社の御神紋は北条三鱗に浪切紋…
禰宜様と話したのだが、この元町は嘗(かつ)ては蒔田湾と呼ばれた港湾だった事や、頼朝公以来の鎌倉幕府との関係性から、執権北条家の家紋❝三鱗紋❞の使用を許可されたのではないかと推測している。
もう一つの可能性としては、関内・元町地区が蒔田湾と呼ばれた戦国時代、北条氏綱公による鶴岡八幡宮再建の際には、蒔田城を治めた蒔田吉良頼康公が蒔田湾から鶴岡八幡宮の材木を海路輸送し、北条家相模十四騎筆頭の笹下城主間宮康俊公の一族が治める杉田湊(みなと)に材木を輸送し、間宮家や吉良家が鶴岡八幡宮再建で活躍した歴史が有る。
この戦国時代の事を考慮すると、戦国時代に現在の御神紋に成った可能性も高い。
小生は、江戸時代までの殿様達の習慣に従って神仏を平等に崇敬しているので、ここで三鱗紋の御神紋の弁天様に御参りする機会が有る事は非常に嬉しい事だ。

元町は個性的な町。
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ベルトの輸入バックル専門店とか…
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幕末の開港以来150年余の歴史を持つ会社、フランス料理の名店霧笛楼。
夜はデートで気張って来る位の店だけれど、ランチタイムなら庶民も来れる(笑)。
この先に進むと先程紹介したウチキパンの坂道や右手には山手の丘に登る数本の坂道が有る。
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ウチキパンの坂道は、この地域の庄屋だった石川家の居所だった。
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だから代官坂の地名が残る。
小生が山手の洋館巡りでオススメするのは額坂から丘に登っていく道。
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この小柴サンと言う御宅が入口の目印。ここを左手分岐する方に進むと…
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元町公園の入口に辿り着く。
元町公園も幕末の史跡で、ここの湧水を汲み上げ国際線船舶の飲み水として販売していた西洋人商人が住んでいた邸宅跡があり、その為、水屋敷と呼ばれていた。
この一帯の水は富士山系の湧水でバナジウム天然水の為に腐り難く、遠洋航海の飲み水に適した物だった。
その為に、ウィリアムコープランド先生が山手地区、今の麒麟公園や北方小学校の場所にスプリングブルワリーを開いたのが日本初のビール醸造工場と成り、後に坂本龍馬さんの友人だった岩崎弥太郎とグラバーがコープランドさんのビール工場の土地を買い取り開業したのが❝麒麟麦酒❞だったりする。
この辺は以前にも記事で紹介したのでカテゴリー「明治時代の偉人」から見て貰うとより、横浜の近代の歴史が解ると思う。
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この額坂付近も多くの歴史史跡が有る。
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このパプテスト神学校跡地は関東学院や多くのミッション系大学高校の源流と成った場所だ。
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緑深く歩いていて気持ちが良い。
そして…
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関東大震災の史跡もある。
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地震で倒壊した山手80番館。
今回の記事は、山手の丘のザックリした紹介なので、洋館は又、内装の写真を複数掲載し詳しく別記事で紹介したいと思いう。
この額坂、名前の由来は定かではないけれど…
恐らく傾斜がキツイ階段が続くので「額に汗する様な坂道」って事なんだろう。
因みに、日本の古代語では❝坂は下り坂❞で❝登り坂は平(ひら)❞と言った。
そんな訳で、このヒラを登り切ると左手に素敵な洋館が見えてくる。
※各洋館は、いずれ個別に紹介するので写真と説明端折ります。
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エリスマン邸だ。
入館料無料、でも美しい幕末~昭和初期の西洋建築を楽しめる場所。
高校生の時に初めて来て以来、ちょくちょく気分転換に散歩に来る。DSC_1708
一昔前まで、こんな洋館が沢山あって優雅な暮らしをしていた人達がいたんだなぁ~とか思うと、自分も内面的にそうありたいなぁ~とか思う場所。
このエリスマン邸を背にして前の道路に向かって右側に、更に立派な洋館が有る。
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ベーリック邸、通称ベーリックホール。
無論、入館料無料。
英国人で名誉フィンランド日本領事を務めたベリック氏の私邸。べリックさんは香水なんかを輸入していた商人。
このベーリックホール、入口が地味で見落としがちだけれど一番来た方が良い洋館。
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中は丸で小貴族の宮殿みたいな感じ。
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ここで彼女をモデルにして撮影開始してるバカップルとか…
どう見ても怪しい女子高生か女子大生みたいな女の子と頭ハゲ散らかしてカメラ3台くらい首にかけた変な組み合わせのカップルが写真撮影してたりします(笑)。
でも、ここで彼女の写真を撮影したくなる気分は解るわ。
御姫様みたいに大切に思う人が西洋の御城みたいな場所いたら恋人フィルターかかってメチャメチャ可愛く見えるよな…
ハゲは金払ってる援助交際かなんかのクズだろうか(笑)?
主に、女性同士や女性単独で来てる西洋文化好きそうな御嬢様風の人達が一番多いね実際は。
ベーリック邸を抜けて港の見える丘公園方面に進むと、エリスマン邸の斜め左前に❝えのき亭❞と言う可愛いケーキ屋さんが在る。ここも一人でもたまに来る。
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ここも歴史的な洋式建築遺産。そこでケーキ屋さん兼喫茶店を営業している。
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夏は余りオススメ出来ませんが、春先や秋なんか庭でもケーキセットとか注文して食べれる。
因(ちな)みに冬も庭にはストーブを焚(た)いてブランケットを配ってくれるので、秋が過ぎても暫くは外でのお茶も楽しめる。
勿論、中の内装は洋館なので素敵ですよ。
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小生、土曜日に行ったときはケーキセットを注文しました。
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クリームチーズケーキアプリコットソース添えとストレートティー…
男一人で(笑)。
一番後に入ったのに、他の客より早く完食して一番最初に店を出た(笑)。
えのき亭を、もう少し港の見える丘側に歩くと、また入館無料の西洋建築遺産が在る。
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山手234番館。
ここは、つい数十年前まで人が実際に住んでいた場所。
だから、シンクなんかは実用性の有るガスオーブンレンジが据え付けられている。DSC_1814
心なしか、人が住んでいたぬくもりが有る部屋。
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その先が山手236番館。ここは塔みたいな建物で少し可愛い外見だ。未だ中に入った事は無い。
その先には横浜山手聖公会教会が在る。
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この協会はプロテスタンの教会で日本国内では歴史が古い部類に入る。
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と、言うのも幕末に英国軍が山手の丘に駐留するに当たって、英国が自国兵士が横浜で乱暴を働かない様に綱紀粛正する為に作った教会だからだ。
実はこの教会が日本人に解放されたのは太平洋戦争終結以降の極最近の話し。
幕末にはフランスやイタリアやイギリスやアメリカは領事館護衛の兵士を駐留させていたが極めて治安が良かったそうだ。
太平洋戦争直後は朝鮮進駐軍や韓国GHQによる日本人女性暴行が多発したのと大違いだ。
現在は日本人による性犯罪発生率を大きく下回るものの、米兵による凄惨な婦女暴行殺人事件がたまに起きてしまう。
日本人がモラルが高いのは恐らく仏教文化と神道や武士の精神文化が根幹に有るからだが…
山手の教会の内装展示資料 久良岐のよし
当時の欧米人も信仰心や軍人として騎士道精神を強く持っている方々は礼儀正しく皆紳士だった様だ。
その精神を保つ場所がこの教会だったんだな。
ここは一般公開されている日とそうでない日が有るので、運が良ければ教会内で西洋人の神様に純粋に日本が好きで横浜の近代化に貢献した異人サン達への感謝の伝言も御願いする事も出来る。

さて、教会が有れば当然、墓地も有る。
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昔は一般公開されていて有名な観光地でもあった外人墓地だ。
バブル世代のバカ共が、夜な夜な恋人同士でここに来てア〇カンしたりするもんだから、墓地の主の御遺族や教会の決定で墓地は通常非公開に成ってしまった。…バブル世代の初老の人達、反省して。
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でも御堂みたいな場所は公開されていて…
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綺麗なステンドグラスや、この地域の歴史を簡単に説明した掲示物が展示されているので、横浜の郷土史に興味が有る人は是非来た方が良い。
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土曜日はたまたま特別公開されていて墓地に入る事が出来た。
ここには小生が尊敬する人物の一人であるウィリアム・コープランドさんが眠ってらっしゃる。
この人は大変な親日家だった商人で、世界中に日本の特産品を輸出して販売したりした方なのだが晩年は事業が上手くいかず余り経済的には幸せではなかった。
それでも母国に帰らず、日本を大好きでいてくださった人物だ。
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このコープランドさんは横浜の大恩人で、日本にビール醸造所を最初に造りビールを販売した偉人でもある。
そのビール会社を後に買い取って大きくしたのが坂本龍馬サンの友人だったグラバーと岩崎弥太郎だ。
その岩崎弥太郎とグラバーのビール会社が「麒麟麦酒」な訳だが…
キリンホールディングスの広報も認めているが、キリンビールのロゴが竜馬=麒麟なのは出資者の二人が坂本龍馬さんをリスペクトしていたから世の中に竜馬さんの事を残そうとしたと伝承している。
この辺の話は以前にも記事に纏めたので、❝カテゴリー❞の中から「明治の偉人」を選択し、コープランドさんや坂本龍馬サンの奥さん御龍さんを紹介した記事を探して読むと書いて有る。
土曜日はたまたま中に入れたので、入って良い場所で出来るだけコープランドさんの御墓の近くから感謝の御参りをして来た。
コープランドさん、ありがとうございます。

外人墓地を出ると…
港の見える丘公園の前には岩崎ミュージアムが在る。
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ここは博物館としては小さい上に入館料300円取られるが、女性陣には良い記念に成る事が出来る場所でもある。
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中にはたくさんの各時代毎のドレスが展示されているのだが…DSC_1866
この様な衣装を着て記念写真を撮るサービスが有るのだ。
無論有料(笑)。
まぁ~綺麗な内に若い子は記念に写真撮るのも良いと思うし、小さい女の子の居る御家庭ならば、子供向けの服も有るので良い記念に成るのは間違いない。
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岩崎ミュージアムを抜けるといよいよ港の見える丘公園。
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ここからはミナト未来地区や…
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…横浜ベイブリッジが綺麗に見える。
デートスポットや観光名所として有名だが、小生の土曜日の訪問のメインは、ここのローズガーデンに薔薇を見に来る事だった。
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西洋式庭園に薔薇と初夏の植物が咲き誇る。
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綺麗だ~!
小生は花に例えるなら梅か桜の花か山吹の様な女性が好きなんだけれども・・・
薔薇も捨てがたい(笑)。
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ここは小生の荒んだ心を少し明るくしてくれる(笑)。
ところで、この港の見える丘公園も歴史史跡で西洋建築遺産が2軒、それと博物館が1軒在ったりする。
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横浜市イギリス舘。
イギリスなんだか横浜なんだかハッキリしろよ!と言いたくなる名前だが、ここは駐日イギリス総領事の公邸として1930年代に建造された。その後、終戦後も暫く公邸として利用されたそうだ。
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ホテルよりゴージャスなベッド。
そして寝室に付属する休憩スペース。
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よく旅館やリゾートホテルなんかにあるアレね。
これが自宅に在るとか考えらんないね。
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もう一つの建物が大仏次郎記念館。
昭和の大作家大仏次郎の遺品を収蔵した博物館で、日本の経済が良かった頃に作られた。
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中はとても綺麗。
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現在アニメとコラボしたスタンプラリーをしているらしく、彼氏を無理やり突き合わせてる彼女さんと思しき男女がここでスタンプ押してた。
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大仏次郎さんの愛用品とか。
大仏次郎記念館を出ると、右手に下の写真の橋が有る。
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たまに刑事ドラマなんかで撮影に使われて、この橋の上で犯人が追いかけまわされたりしている。
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橋の反対側は、旧フランス領事館の史跡があるフランス山に向かう道。
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途中にはKKRと言うホテルがある。
ここのレストランからは横浜港が一望出来て、正面に横浜ベイブリッジが綺麗に見える。
ここも高校の時に先生に連れてきて貰った思い出の場所だ。
えのき亭と並んでデートで御茶するには持って来いの場所だよ。
KKRの下を通り過ぎると…
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フランス山地区の入口。
昔、このウッドデッキで人がいっぱいいるのにディープキスしてるバカっプルを冷やかそうとしたら、当時の彼女に怒られた事が有る。

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ここも、もう紫陽花が咲き始めてるね。今週末が見頃だろう。
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この井戸は煉瓦で出来ていて、当然幕末にフランス領事館の為に掘られた物。現在では水は枯れているが深さは30m有る。
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そして、フランス領事館跡。
関東大震災で破壊された後→再建→更に太平洋戦争の横浜大空襲で焼失、二度と再建されなかった。
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昔の写真を見ると、かなり立派な建物だったようだ。
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少し、日本建築的な要素が有る様に感じるデザイン。
ここを下りきると、元町地区に戻る。
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みなと未来線の中華街元町駅は直ぐ近く。
小生は、この日、中華街の行きつけの店に食事に行くつもりだったので、この歩道を渡り、中華街に向かった。
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ちなみに高速道路の下に流れる❝掘割川❞は自然の川では無く、幕末に掘られた川。
ここに20年位前か?アザラシのタマちゃんが顔を出して大騒ぎに成った。
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元町から中華街は徒歩5分。
山手地区散歩がてら、中華街でランチや夕食を取ると胃袋も充実した日に成る。
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この日は行きつけの東新飯店でセットメニュー頼んだ。
このボリュームで850円。
さて、次は鎌倉に紫陽花見に行って葉山の海で散歩だ!


以上、5月28日の休日雑記。































 



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ブログネタ
花火大会情報 に参加中!
横浜市中区と磯子区の境目、滝頭と言う所が有名な昭和の歌手の美空ひばりサンの出身地なのですが…
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そこは昭和47年まで横浜市内を走っていた市電(路面電車)の車両基地が有ったのですが、その市電の車両基地跡地にそのまんま当時の市電が数車両保存展示されていて、子供が自由に市電の中に入り運転席で遊んだり出来る様に成っています。

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路面電車の行先が「八幡橋」になっていますね?
この八幡橋の由来は、この滝頭から徒歩圏内に在る神社、八幡神社の横を流れる旧八幡川にかかる中区の八幡橋に路面電車の停留所が有ったから、次駅表示のプレートに成っているんです。
当時の路面電車は今では想像もつかない細やかなルートを走行していて、非常に便利だったようです。

しかし、路面電車が自動車渋滞の原因に成り、昭和47年にトローリーバス(有線電気動力バス)とともに廃止されました。
その後、その役割を引き継いだのが伊勢佐木町~上大岡間で先ず開業された横浜市営地下鉄でした。
市営地下鉄は、その後、横浜~上永谷間に延伸され、さらに拡張され現在の横浜市営地下鉄ブルーラインとして成立しました。

少し、電車から話を脱線させ、八幡橋の地名の由来から、この磯子区と中区の古代の歴史解説をしたいと思います…
因(ちな)みに根岸の八幡橋に在る八幡神社は古代大和朝廷の時代(西暦600年以前)には既に素戔嗚尊を祀る神社として存在し、後に八幡神と三島神社から勧進した神様を習合し、現在の根岸の八幡神社として成立しました。
神話では素戔嗚尊は今の神奈川県の三浦半島走水海岸から房総半島に渡り、千葉県や茨城県に「須賀国」を開いたので、この辺りに素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神社は明治時代に成るまで沢山在ったんですよ!
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※写真は三浦半島走水海岸の御所崎(ごしょがさき)。
東征の際に、その素戔嗚尊と同じルートを通られた日本武尊(やまとたけるのみこと)も、走水神社近くの御所崎に滞在されていた時に素戔嗚尊を祀り須賀神社を奉っていたので、今も走水神社の奥宮には須賀神社の祠(ほこら)が現存しています。
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※写真は走水神社の奥宮。
明治政府の方針で神明社系(伊勢系統の神様)の神社に習合と言う名目で統廃合されて、多くの素戔嗚尊を奉(たてまつ)る神社が関東地方から姿を消しましたが、根岸の八幡神社の縁起の様に、その聖跡は伝承の中に今でも残っています。
中区の八幡橋の八幡神社は徳川家康公から御朱印を頂き保護された八幡社でもあります。

話を市電博物館に戻しますと…
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※他人様の子供なので顔の画像を差し替えました(笑)。

ここには当時の車両が運用されていた時の状態のまま多数、綺麗に展示されているので、御爺ちゃん御婆ちゃんの世代にも懐かしいし、子供は電車を自由に触れるので喜ぶ事間違いなしです。
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保存状態良好でしょう?

しかも3歳児まで入館無料、65歳以上も身分証明書を持参すれば入館無料、大人も100円くらい。
小生、子供の頃、友達とよく自転車でここに遊びに来ていました。
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綺麗な館内でしょう?
余り有名ではないので拝観客も少なく、昨日甥っ子を連れて行った時は親子連れが10組くらいだったでしょうか。

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素晴らし良い施設なんですが、こんなユックリ出来る良い鉄道博物館もなかなか無いと思います。
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※甥っ子のプライバシー保護の為に顔画像差し替え。

実際の市電の展示の他にも、多くの鉄道模型NゲージやHOゲージのジオラマで電車模型を運転出来る遊技場が備え付けられていて、100円入れると5分間くらい自由に鉄道模型を操縦出来るので、そちらも子供達には人気です。
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これはHOゲージかな?
HOゲージと言うのはプラレール位の大きさの精密な鉄道模型のサイズ規格の事です。
それより小さな物にNゲージと言う規格が有ります。
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下はNゲージのジオラマ。
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ここらで子供達が100円で自由に鉄道模型を操縦出来る訳です。
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HOゲージは車両に車載カメラが有り、実際にジオラマも見ながら運転できるし操縦桿の上にモニターが有って運転席視点の画面見ながら、こんな感じで操縦出来ます。
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で、時間定時で、HOゲージの色んな車両を動かしながら横浜市の鉄道の歴史を解説してくれるイベント展示も毎日行われています。

ここで横浜市の鉄道年表みたいのを子供にメモとらせて、それに携帯で撮影した車両と市営地下鉄の写真を別途とってメモ用紙に添付すれば、立派な子どもの夏休みの自由研究も完成しますね!

Nゲージ、小生は小学生の頃、お年玉何年間か溜めて2万円くらいだして線路と車両を買って友達と遊んでいましたが、何せ小学生時代は鉄道なのにジャンプ台作って高価な鉄道模型を自動車模型のミニ四駆みたいな感覚で遊んだりするので、直ぐにぶっ壊してしまいました。
ここなら、高価な鉄道模型を子供に買い与えなくても遊ばせてあげれますし、プラレールよりリアルな本物の車両と精度の高い鉄道模型を操縦させてあげれるので、本当に良い夏休みの思い出に成ると思います。
入場料金100円ですしね(笑)。

余談ですが、本物の新幹線を製造している横浜市金沢区の東急車両さんでは、会社単位や学校単位で予約すれば工場見学も行えます。ただし、個人グループの見学受付は現在していないそうです。
PTAや町内会や地元商店街単位で地元の小学生の為に企画して東急車両さんに工場見学予約入れれば受けて頂ける可能性は有りますね。
もしくは、だれか自営業の方が会社の研修名目で子供のいる家庭に子供の同行の形式で見学申し入れしたら受けて貰えるかもしれません。

ですので横浜市伝保存館と合わせて東急車両さんも見学出来るようにすると、子供に本当に良い思い出に成ると思います。
夏祭りの規格等のイベントを開催して、近所の子供達を面倒見てる商店街の店主の方々やPTAの皆さん、はたまた神社の氏子さんや御寺の檀家さんの皆さん、御孫サン達を連れて行ったら喜んでくれると思いますよ!


埼玉の鉄道博物館は横浜から行くにはは少し離れていますが、「美空ひばり」サンや「ゆず」の地元、上大岡や岡村町や根岸から直ぐの場所にも素晴らしい鉄道の博物館が有るんです。
この近所には、縄文時代~古墳時代の史跡博物館である三殿台考古館や、岡村天満宮と源頼朝公の忠臣の平子有長と言う殿様が開いた由緒正しい天神様の神社が有ったり、戦国武将の蒔田吉良家の殿様の居城蒔田城址の在った丘の麓に吉良政忠公の菩提寺の勝國寺も在ったりします…
鉄道博物館見学や、歴史散策を子供をして商店街で買い食いをしたりすると子供にも大人にも良い休日に成ると思いますよ~!
…と、言う、夏休みの時期に提案を含めた記事を自分が甥っ子と遊んだ写真を掲載し書いてみました!
※今挙げた神社サンと御寺サンは、記事のタグ「蒔田吉良家」「梅林」を選択するか、カテゴリーから「城址」「神社」「仏閣」から選択して頂ければ読めると思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!


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