歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、三之宮比々多神社~伊勢原大神宮~高部屋神社)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
延喜式内社で2016年に社殿が国の指定文化財に登録された高部屋神社を御参りして氏子サン達と情報交換してから後の話しの続き・・・
元々、高部屋神社の次の訪問したいと思っていたのが厚木市小野の閑香大明神こと小野神社なのだが、途中に龍散寺も在るので必ず参拝する事にした。この御寺を再興し開基したのは小生が織田信長公、徳川家康公に次ぎ太田道灌公と並び尊敬する北条早雲公の実子の神保輝廣公だから、北条家の殿様に命を繋いで頂いた小生としては御寺の眼前を素通りする訳には行かないのだ。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音北条早雲こと伊勢盛時入道宗瑞公の実子で二代当主北条氏綱公の御舎弟に当たる宮内卿 神保輝廣公は現代では余り知る人もいない戦国武将で、快元僧都記と言う北条関連の貴重な文書の現代語読み下し版や後北条所領役帳を編纂した先生達の注釈でさへ「玉縄北条家の与力」程度の解説しかされていない。
しかし・・・神道や仏教の文化に対してリスペクトを感じる神奈川県人の中には神保輝廣公が高い実務管理能力を発揮した内政家だった事を知る人はいる。知る人ぞ知る高い教養を持っていた人物なのだ。
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龍散寺の山門は境内の竹林と木々と相まって文化人の草庵の様な雰囲気を醸し出す・・・
正に神保輝廣公に相応しい禅寺だ。
この日、2018年正月02日はちゃんと御寺に御挨拶もする心算(つもり)で訪拝した。
本堂が再建中だったので、先(ま)ずは隣の圓通殿に御参りした。
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その後、庫裡を訪れた所、若い副住職様が応対して下さり、色々と御話しを久しぶりに御教授して頂く事が出来た。
所で・・・
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この御寺を再興した神保輝廣公が余り詳しく龍散寺と“鶴岡八幡宮”の関係者以外に名を含め伝わらなかった理由は恐らく、北条家三代当主と成る北条氏康公が未だ当主に成る前に、氏康公の実弟で当時の玉縄城主だった北条為昌公を跡継ぎとして担ぐ動きに加担し北条氏康公の廃嫡を画策したから北条氏康公が当主と成ると権力と領地を減封され❝社会的に干された❞と小生は状況から推測している。
神保宮内卿の名は鶴岡八幡宮再建の記録に登場する・・・
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それが快元僧都記と言う文章なのだが、こんな風に登場する・・・

天文三年(1534年)二月
十七日、為檜皮奉行❝神保宮内入道❞社頭江越被了。
十八日、然間毎月諸大工下向工料等彼人躰ニ被仰付。今月神保宮内入道被加了。

現代語に訳すとこんな感じ・・・

1534年02月
17日に檜皮奉行(社殿の檜皮葺きの屋根に使う檜の皮の調達施工の管理責任者)と成った神保宮内入道(輝廣公)が社頭(当時は神宮寺だった鶴岡八幡宮)に御越しに成られました。
18日に工期の間の毎月の大工(関東や奈良から呼び寄せている宮大工)の滞在費や建築費等(の財務管理)を、その方(兵庫助 太田正勝公)に(北条氏綱公が)仰せつけられた。今月、神保宮内入道を加えられた。

・・・まぁ、もっと沢山名前は登場するが、キリが無いのでここまで。
実名が解らないので宗教をリスペクトして神社や御寺を廻ったり自分で取材しない学者はそれ以上辿(たど)れずに神保宮内入道が誰なのか解らないらしい。
後北条所領役帳にも以下の記載が有る・・・

玉縄衆知行役
一 神保孫三郎
廿二貫文 波多野 落合
六十弐貫三拾弐文 中郡 秋山内粟久保分
以上八拾四貫卅ニ文
玉縄御城御用従前々諸篇走廻候付知行役御免

・・・これは神保孫三郎と言う名前しか掲載の無い武将の所得証明書で、ザックリ言うと合計84四貫32文の所得が有って最後の部分で「昔の働きによって所得に応じた課役を免除する」と書いて有る。
この所領の❝秋山❞と言うのが丁度、現在の龍散寺の在る伊勢原市上粕屋地区の事だ。
ちょこっと龍散寺を参拝すれば、神保宮内入道の❝実名が輝廣❞公と判明し、更に北条早雲公の実子だったと解るのだが、文献しか読まない人には一生かかっても解らない。
因みに84貫32文と言う領地の所得は北条一門としては高くない。寧(むし)ろ低い。
例えば北条為昌公の没後(小生は誅殺と推測)に玉縄城主と成った北条綱成公の所得は1370貫612文有り、北条綱成公付家老の間宮康俊公でも698貫559文の所得が1559年編纂の役帳から判る。これと比較すると神保孫三郎=宮内卿輝廣入道の家が1559年までには北条氏康公から冷遇されている事が読み解ける訳だ。
神保宮内入道が活躍した鶴岡八幡宮再建は1530年代後半、北条為昌公は1539年から公文書に登場しなくなり1542年23才で没する。
この1539~1542年の間、学者は病床に伏していたと推測するが小生の推測は違う。
この間、蟄居幽閉もしくは横浜市金沢区の伝心寺で僧籍に入らされる懲罰を父の北条氏綱公から受けたのだろうと推測する。
理由は恐らく兄氏康公の廃嫡を神保宮内入道等と画策し、私利私欲で北条家中を混乱させ様としたからだ。
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大永峯嗣法山 傳心寺伝心寺は現在の山号は嗣法山と簡略化され寺名も伝心寺と簡体字化されている。そして北条氏繁公の開基と“金沢区観光協会の誤伝拡散で誤って”伝承している。これは簡単に説明が着くし新編武蔵風土記稿では江戸時代にも更に誤った寺伝で江戸期には“北条氏直公の開基”と伝わる旨記載が有るがコレにも誤りだろうと指摘が注釈されている。
至極簡単な話で、曹洞宗は世襲制では無かったので当然、和尚様が代替わりすると話がごちゃ混ぜに成る。
正しくは大永峯嗣法山傳心寺と言う名前で、開基は大永元年。
大永元年(1521年)には天文五年(1536年)生まれの北条氏繁公も、永禄五年(1562年)生まれの北条氏直公も当然この世に存在していない(笑)。現在、金沢区観光協会が北条氏繁公の開基と紹介してしまっているが、これは神奈川県教育委員会が悪い(笑)。神奈川県と横浜市の教育委員会は全く仕事をしないでありとあやゆる全国的に見ても貴重な城址や宗教聖地や古墳を‟開発利権を害さない様に配慮”してきて破壊黙認してきた組織なのだが「文献にさえ記載が有ればOK」「責任取りたくない」と言う姿勢が見え見えなのだ。
では龍散寺から少し脱線して北条為昌公の為に曹洞宗の和尚様達を尊敬する小生が教育委員会に代わり伝心寺と北条家の関わりを解説する。
先ず、北条氏繁公が開基した御寺として金沢区の伝心寺絡みの御寺が実は横浜市内に存在する。
デュオ歌手“ゆず”の地元、磯子区岡村町龍珠院だな。
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泉谷山 龍珠院この龍珠院こそが北条氏繁公が堂宇を建立し本格的に“傳心寺の末寺”として再興開基された寺院だ。
もっと突っ込んで言うと氏繁公の父君の北条綱成公が支援した仏教の草庵が前身で、そこを本格的に寺院化している事が新編武蔵風土記稿にも解説されている。
つまり、金沢区観光協会の解説は傳心寺の物では無く末寺の龍珠院の開基の伝承がいつの時代か混濁されたままコピペ紹介されている事が江戸時代の記録からも戦国時代の文書からも判る。
この金沢区観光協会の事実誤認の原因は、彼等が教えを請うた“教育委員会の杜撰(ずさん)な仕事のせい”な訳だ。
さて、もう北条氏直公説なんぞ解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻す。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成るだろう。当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろうと思う。
恐らく北条氏❝綱❞と北条氏❝繁❞の字を、草書体を読めなかった近現代の学者が誤読して取り違えたんだろう。そして、この御寺に「玉縄城主の御墓が在る」と伝承していたので先入観から北条氏繁公の御墓と決めつけてしまったのだろう。
因みに江戸時代の北条氏直公の説は簡単に何故誤認されたが説明がつく。
傳心寺の直ぐ近くには龍華寺と言う真言宗寺院が存在する。
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知足山 彌勒院 龍華寺(元:六浦山浄願寺&知足山光徳寺)源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が戦火で略奪され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、太田道灌公と菅原資方公によって再興開基された寺院なのだが、昭和初期まで付近一帯は“金沢八景”と呼ばれる景勝地として有名で海に面した眺望は戦国武将達も愛されたので太田道灌公、北条左京太夫(さきょうだいふ)、徳川家康公等が、この龍華寺を支援して宿舎として滞在した歴史が有る。当時は龍源寺と言う名前だった。
北条家の当主は代々、“左京太夫”の官職を継承するので、この寺に滞在した北条左京太夫の正体は、北条早雲公から始まる北条家歴代当主の誰かと解る。しかし名前が無いと誰かは年代からしか推測出来ないのだが、北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している記録が有る。
北条早雲公の生前の名は北条姓では無い。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代なので龍華寺に寺領保証の朱印を発給したのは北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だろう。
北条氏綱公
そして北条家が元の“伊勢”姓から“北条”姓に改称したのは北条氏綱公の代の事なので、龍華寺に関与し滞在した北条左京太夫は北条氏綱公だった事が解る。つまり金沢区一帯に深く北条家が関与した時代の当主は北条氏綱公なので時代的にも必然的に傳心寺を大永元年に開基した可能性が高い人物は北条氏綱公と成り、小生と間宮士信公の推測を証明してくれる材料と成る。
しかし、これも龍華寺を直接参拝せず新編武蔵風土記稿だけ読んでいても解らない事だ。
この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測通り❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、当然、北条氏綱公が懲罰を与える際は所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈だ。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判る。そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不自然に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしている。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれる訳だ。
それならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかない。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然だろう。しかもソレは父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳だ。恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺だろう。そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?と小生は推測する。
その様に推測する理由もちゃんと有る・・・
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅している。そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有る。この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解る。つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳だ。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけだ。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳だが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全だろう。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能すると、為昌公は自害させられたか誅殺されたのだろう。
神保輝廣公は氏康公廃嫡を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介している。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
小生はたまたま北条家の殿様達をリスペクトしているので、龍散寺との御縁が出来た結果、この推論に辿り着く事が出来た訳だ。
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龍散寺は曹洞宗としての再興開基当初は了珊寺(りょうさんじ)と別の字が当てられていた。
鶴岡八幡宮と御縁の深い神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりする。
基は了珊寺だったが、いつの時代か、それが転訛して龍散寺と成った。この龍の字が付く寺院は曹洞宗と真言宗に多いのだが、この名は曹洞宗の高僧に由来して改名されたのではなかろうかと副住職様が推論を御教授下さった。
この日は副住職様から曹洞宗について面白い御講義を立ち話しのまま1時間程聞かせて頂き、円通殿の名前の由来や仏教寺院に“圓通寺”と言う名の多い理由や、曹洞宗的な価値観や臨済宗との違いや相互の素晴らしい点、そして御寺の歴史等を改めてザックリと拝聴する機会を得た。
とても嬉しかったし御若い和尚様が一般人に親切に親身に色々と伝えて下さろうとする心に御正月2日目に感じる事が出来てとても嬉しかった。
この日は同じ曹洞宗の洞昌院でも御住職に良くして頂けたし、八菅神社でも九楊の朝日の写真も撮影で来たし、比々多神社でも今年も護符を授与して頂いた。何だか曹洞宗寺院と修験道と神社への恩返しが今年のテーマに成りそうだ。
龍散寺で神保輝廣公の御霊と副住職様への新年の御挨拶を終えて、次の目的地の小野神社へ移動した。
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小野神社の周辺は新興の宅地だが少し山側に行くと自然豊かで史跡も多い。
小野神社は江戸時代まで閑香大明神の異名で呼ばれ、古くは延喜式神名帳にも掲載される式内社の古社だ。日本武尊が騙し討ちされた焼津の神話に登場する小野の古い地名の土地でも有り、聖徳太子の腹心だった小野妹子の所領とも伝わる。
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閑香大明神小野神社そして小野妹子の御子孫と伝わる鎌倉武士、愛甲季隆からも崇拝され、更に鎌倉幕府初代政所別当を務めた大江広元公からも崇拝された由緒正しい神社だ。愛甲季隆公は弓射と乗馬の達人で鎌倉武士として最大の攻撃である騎射に秀でた豪将だった。源頼朝公や源頼家公の随兵(近衛武将)を務めたり、毎年の正月の幕府の御的始(弓射の神事)を務めた有職故実にも通じた教養も高い人物だった。
弓の技術は凄まじく、畠山重忠公が謀反の罪を着せられて北条義時公が討伐軍を編成した際に畠山重忠公追討軍に動員され、横浜市の二俣川で起きた二俣川合戦で川を挟んだ状況で畠山重忠公を射殺したスナイパーが愛甲季隆公だった。その後は源頼家公を守ろうとしたが守れず、打倒北条家の兵を和田義盛公が蜂起して和田合戦が勃発すると和田勢に加勢し敗戦した。
愛甲家の愛甲郡(厚木市~愛川町~相模原市津久井一帯)の支配が終わると大江広元公が小野の毛利台に所領を与えられて小野神社を支援した。
つまり、この神社は文武両道、学生の味方に成ってくれたり社会人の実務力やスポーツ向上等、言うなれば知恵と健康の神様な訳だな。
ここは春の景色が素晴らしい。
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桜が咲き乱れるが花見客も少ない。
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この正月02日は先に御夫婦の参拝客がいた。他にも娘さんと3人の若い親子連れ。
・・・う~ん羨ましい。まぁ、小生はこういった御縁は無い人生なので社会の役に立つ事に注力している。それはそれで幸せなのだろうが、素直に夫婦で寄り添う姿は羨ましい。
まぁ、人には役割と言う物が有るので今は神社や御寺や史跡や自然を守る活動に与力するのが小生の役割なんだろう。結婚する様な御縁が有れば、縁は結ばれるモノなんだろう。
だから思うんだよな、何で浮気するのか浮気する男の思考が理解出来ない。小生は過去にも各時代の彼女(笑)との交際中に浮気したいと思った事が無い・・・
だから余計に、こうやって老夫婦が手を組み支え合って参拝されている姿を見ると羨ましく感じる。
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小野神社は現在では宮司様はここに住んでおられない。だから社務所も無人だ。
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御参りしてから事前に連絡してアポをとって置いた小野神社から離れた場所に住む宮司様の御自宅を訪問する予定が有ったのだが、折角、久しぶりに戦国大名毛利家の発祥地である大江家所領毛利台が近いので、毛利台1丁目に記念に行って見る事にした。
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大江家の所領だった毛利の地名が残る毛利台は現在では住宅街だ。
まぁ古来毛利庄は相当広い範囲だった様で、厚木市(愛甲郡)小野~愛甲郡愛川町半原辺りの中津川南岸まで広がっていた様だが現在では毛利台にのみ地名が残る。
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毛利台1-1と表記された電信柱。
ここでの撮影を終えて小野神社宮司の“毛利”宮司の御自宅へ訪問して、3年越しで小野神社の御朱印を頂いた。
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毛利宮司の御自宅の住所や写真を掲載する訳にもいかないので、御朱印を頂きたい人は御自分でちゃんと小野神社を参拝して連絡先を調べてアポをとって下さいね。掲載しない事で朱印だけ目的の輩が小野神社に行かずに朱印受領する不敬な行動を防ぐ事にも成りますから。
小野神社の御朱印を頂いてから次の目的地である前鳥神社と、その御祭神の莵道稚郎子命が埋葬されていた真土大塚古墳の“跡地”へ向けて出発した。
この時点で15時30位・・・
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・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥完結編に続く。





休日なので寝ずに桜の写真撮影に・・・
多分、今週末までが撮影のチャンスだけど今日が一番の見頃と予想し、かねての計画通り強行軍で色々回ってきた。
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朝七時に家を発ち、九時過ぎに伊勢原市の渋田川河畔に到着。
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芝桜と染井吉野の咲く遊歩道を散歩。
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地域の人が守る池田神社を御参り。

厚木市七沢地区小野の延喜式内社、小野神社目指し移動。

途中、高部屋神社により、今年2月16日に社殿が国指定重要文化財に成ったので御挨拶の御参りをした。
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隣接する丸山城址公園の桜も満開だった。
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再出発。
通り道の七沢地区も山々に桜が咲き綺麗だった。
途中、立派な御寺らしき建物が北条家の三つ鱗紋の幟(のぼり)を掲げているのが目に留まり寄り道。
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龍散寺と言う御寺だった。
何と、自分が趣味で調べている戦国時代の鶴岡八幡宮再建時に、神器を一時的に移し保護した寺院だった。
そして同寺は北条氏綱公の御実弟、神保輝廣公の開基である事も知った。
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偶然だけども、光栄な参拝が出来た。
三つ鱗紋を見て飛び込んで良かった。
小野神社に到着。
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御参りした。
宮司様は御不在だったが御家人とは連絡が取れた。
面白い事に気がついた。
宮司様は恐らく戦国大名の毛利元就公と同族だ。
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又、改めて御朱印は頂きに上がろうと思う。
厚木市飯山観音(飯山温泉)地区に向け移動。
飯山地区に着いて、真っ先に橋のたものとの龍蔵神社が目に入ったので御参りした。
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その後、桜並木の綺麗な曹洞宗金剛寺の参道を散歩した。
どうやら先に御参りした龍蔵神社は元は龍蔵院と言い、金剛寺の塔頭寺院だったのが明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で神社として独立したらしい。
檀家の御婆さんに曹洞宗なのに真言宗の体を成している事を質問した所、昔、弘法大師空海和尚が開かれた太子堂が始まりで後に源頼朝公と御家人足立(安達)藤九朗盛長公が支援していた寺院らしい。
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次代は下り小田原北条家の影響下で真言宗から曹洞宗に改宗したようだ。
御婆さんの話がクソ長くて、話を断ち切るのに1時間かかってタイムロスした。
長谷観音まで登りたかったが、やむなく断念。
次の目的地の伊勢原市上粕屋の太田道灌公菩提寺幡龍山洞昌院公所寺に向け出発。

公所寺に向かうに当たり、七沢リハビリテーションセンター脳神経外科経由で向かう。 この所在地が扇谷上杉家の重要な支城で、戦国時代初期当時、扇谷上杉家当主定正の実弟の七沢朝昌が城主を務めていた堅城だった。DSC_0741
敵対する山内上杉家に攻められた際は城兵200で防衛に成功した実績を有する。
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地勢的に津久井~甲斐や武蔵北部に通じる重要な街道を抑えている。
公所寺に到着。
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扇谷上杉定正の居城とされる大庭城の麓に、寺院の歴史は戦火で途絶えている公所寺と同じ曹洞宗の寺院の宗賢院と言う寺院が有り、公所寺と同じ寺紋”太田桔梗紋”な上に山号まで全く同じ”幡龍山”である事から、御住職に宗賢院さんとの関連性を質問する為に再訪した。
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枝垂れ桜が見事だった。
道灌公の御位牌と御廟所を御参りしてから、まだ訪れていなかった太田神社まで散歩した。
行く間、戦国時代に作られた疎水(そすい=用水道)を大山街道沿いに見る事が出来た。
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あと上粕屋神社も。
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太田神社についてがっかり。
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北条早雲公がリスペクトする太田道灌公の御霊を御祭神として造営した太田神社の社殿が、管理人の子孫かなんかに私物化され一般宅かしてしまったいた。
明らかに形状が拝殿と本殿の造りで鳥居と太田神社の石碑まで有るのに、個人の自宅にされている…
神奈川県神社庁、何とかしろよ。鎌倉に鶴岡八幡宮の観光用の鳥居なんて再整備してないで、偉人達が残した物をちゃんと保護する仕事にも力を入れて欲しい。
その後、当初の予定通り延喜式内社比々多神社へ御朱印を頂く為に移動。
比々多神社で御参りを済ませて御朱印を頂いた後、大山桜を見に大山阿夫利神社の社務所へ移動。
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大山阿夫利神社の御神体でもある大山=丹沢大山国定公園では山々に咲く桜が綺麗に見れた。
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社務所の裏山には樹齢400年前後の桜が数本ある。
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一昨年の夏に水不足で枯れていた愛宕の滝が復活していた。
うん、良い一年に成りそうだ!
残念な事も…
桜の季節で稼ぎ時なのにも関わらず、商店や旅館、懐石料理やが悉(ことごと)く開いていなかった。
かろうじて造り酒屋の遠州屋さんが開いていたので義叔父に御土産の日本酒を買い、昼食とってない自分の間食用に酒粕飴を買い移動。
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車の中で飴を舐めながら、本日の計画上、桜の撮影の最終目的地だった秦野市弘法山へ向け出発。
途中、空腹に耐えられなく成り刀削麺の店に入った。
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主菜に牛肉刀削麺、副菜に豆腐干と砂肝の前菜を頼んだ。
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店員全員中国人で、山西省大同市で食べた時と同じレベルで美味しかった。
近くの鶴巻温泉に入りたかったが、写真撮影優先しスルー。
改めて弘法山に向け移動開始。
弘法山からの眺望は素晴らしかった。
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桜の後ろに大きい富士山が見える。
ただ、頂上展望台への山道の傾斜は結構な角度でキツイ。
しかし登る価値は有ると思う。
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権現山展望台へ登山中、どうも山一帯の地形が腰曲輪らしき形状に見えてしかたなかったのだが…
頂上に行って案内板全て読んで廻ったら自分の推測は当たっていたらしく、権現山は南北朝期の詳細不明の城塞だったらしい。
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麓に古東海道に接続する矢倉沢往還が通っているので、その守りの為に山城化された時代もあったのだろう。
ひとしきり写真を撮影して伊勢原市の義叔父の家に向け出発。
義叔父の家に向かう途中、鶴巻温泉~秦野の東海大学の辺りを通り過ぎ、平塚市内を走行中、たまたま赤信号で止まった交差点の右側に気に成る地形が見えた。
カーナビを見た所”塚越古墳”と表示されていたので近くのスーパーに車を止めて、見学に立ち寄った。
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前方後円墳。
弥生時代までの関東の古墳は方形周溝墓。
古代大和政権の影響下に入った時代の古墳が前方後円墳な訳だから、この古墳の主は邪馬台国もしくは大和に関係が有ったのだろう。
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この古墳を見学していて、すぐ近くに真田城址である天徳寺が有るのを思い出し、又も寄り道の為に移動。
天徳寺を参拝。
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天徳寺の在る段丘が嘗(かつ)ての真田城の本丸に当たる曽我曲輪だったそうで、歴代住職の廟所と思しき場所は土塁と思われる地形の上に在った。
城としての遺構は不鮮明だが、近くのファミリーマート側から天徳寺の台地を見ると笹薮に囲われていた。
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城址は地形の保全の為に笹を植えるのは良く有る事なので、これが昔からの地形だとすると真田城址の遺構の可能性が高い。
もっとも、墓地の宅地開発されていない側には、昔の曲輪の境目が解る地形も一部残存していた。
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近くに真田神社もあったので、合わせて御参りして来た。
特に説明書きは無く御祭神も素戔嗚尊のようだったので三浦一族と関連が有るか不明だが、或いは佐奈田義忠公在城時からの鎮守の御社だったのかもしれない。
ようやく義叔父の家に到着。
御土産を渡してさっさと退散するつもりが、夕食に及ばれして出発したのが19時過ぎに成ってしまった。
夜は下道で1時間程度で着く距離だったが、さすがに24時間以上寝てなかったので睡魔に襲われ自宅まで残り1kmまで帰って来たところでコンビニの駐車場に車を止め仮眠。
僅かな距離でも眠く成ったら寝ないと自己の元。
なかなか眠くならないから耐えれるが、一回眠く成ったらもう駄目だね。
なんだかんだ…
色々回れたけれど、今日、特に感動したのは最初の渋田川の芝桜と、弘法山の桜と富士山の共演の景色だった。
まぁ~中の上の休日に成った。
写真も沢山撮れたし良かった。

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