歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:古民家

ブログネタ
「夏の終わり」感じるのはどんなとき? に参加中!
横浜市金沢区の野島公園は、キャンプ場が有り夏はBBQで一家団欒を楽しむ家族連れや、近隣の大学生グループで賑わいます…
眼前には金沢八景島シーパラダイスがあり「海の公園」側やこの野島公園で潮干狩りをする人達も多くいます。
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実はこの野島公園が、江戸時代に徳川家康公の十男で、紀伊徳川家の初代藩主徳川頼宣公の別荘が在った場所だったり…
初代総理大臣の伊藤博文公の別宅があったり…
大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所であった事を知る人は今では少なく成ってしまいました。
また、太平洋戦争時の末期には隣接する横須賀市に横須賀鎮守府があった関連で現在の日産自動車工場追浜工場には横須賀海軍飛行場があり、野島には零式艦上戦闘機の防空格納基地が建設されました。

※その辺りの情報は以前の記事で紹介したので以下にリンクを貼ります。
●野島の零戦格納庫の記事は「ココ 」←クリック!

大きくは無い島で、現在はレジャーの島に成っていますが、こんな狭い面積に沢山の重要な歴史が詰まった場所なんです。
今回は夏も終わりに近づき、御抹茶を頂きながら海辺の夕涼みが出来る場所として、又、日本が法治主義国家を歩みだした、その場所としての伊藤博文公別邸を紹介したいと思います。

小中学生の残り少なく成った夏休みの自由研究宿題のテーマとしても役に立てるかな~と思います。
この施設や野島内の周辺史跡を見学して写真を撮影し、野島の歴史自由研究として時代と説明文を原稿用紙に書き、そこにプリントアウトした写真を貼れば十分、提出に十分足(た)る内容になるんじゃないかと思います。

では…
キャンプ場と反対側に閑静な松林が在ります。
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小生が子供の頃は、まだ眼前の八景島は無く、この豊穣な海では海苔の養殖が盛んに行われ、特産品の海鼠(なまこ)や小柴のシャコが沢山獲れました。
その横、駐車場の目の前の牡丹園と古民家が伊藤博文公の金沢別邸です。
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この伊藤公別邸は無料で拝観できます。
入口の係員の方に、抹茶を飲みたい事を伝えると客間で抹茶を頂けます。
御茶の料金は乾菓子のセットは300円、茶菓子のセットは500円で頂けます。
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小生は、この日は御乾菓子を頂きました。

さて、建物を解説します。
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建物自体は昭和まで良く見かけた、明治~大正期の日本建築で、入口からは解りませんが結構な奥行が有ります。
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この玄関、昭和生まれ世代は結構多くの人が御婆ちゃんの家を思い出すんじゃないでしょうか(笑)。
まぁ、実際、ここには明治~大正時代に伊藤家の御一家や、その後も管理人さんがいらっしゃったから生活感有って当たり前ですよね。
とは言いつつも、ここは一回老朽化で解体修理され復元再建された建築遺産でもあります。

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中には、各部屋や歴史の詳細な説明も個々に展示されています。
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玄関を入ると、純和風の廊下の両脇に、客室用の雪隠(せっちん=トイレ)や炊事場(すいじば=キッチン)が在ります。
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その廊下からは中庭が覗けます。
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素敵な小庭ですね。
昔の少し立派な日本家屋は京都の京町屋と呼ばれる様式でもそうですが、この様な中庭を作る事で風の吹き抜ける通り道を作り、エアコンの無かった時代に自然の力で十分に涼む仕組みが設けられていたんですね。
中庭の右手に見える配管は、浴室から延びる煙突です…
実はこの煙突も明治時代には画期的な仕組みの一部なのですが、その説明は又後で。
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これが炊事場の写真です。
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明治時代の炊事場ですが、江戸時代の炊事場と余り機能的に変わりは無いですね…
まだまだ井戸水を汲み上げて飲料水にし、薪と炭で煮炊きし料理を作っていたようです。
…当時の使用人さん達は大変だったでしょうね~。
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それでも台所の外側の土間(どま=土足で行動出来る部屋)に、この家専用の井戸が有るだけ、別の庶民の家より重宝した事でしょう。

で、反対側の客間用の雪隠(せっちん=トイレ)へ…
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これも又、江戸時代の御城に有るトイレと余り変わらない木製の和式で、この状態からトイレの文化は近代に急速に発展した事が良く解ります。
大(笑)
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小(笑)
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小生、ここに来るまで知らなかったのですが…
トイレは和名では2種類に分類されるそうで、時代劇や老人が雪隠や厠(かわや)と呼ぶのは、実はトイレのタイプによって区別が有るそうです。
こんな感じ…
雪隠(せっちん)…ボットン便所、汲み取り式で人糞を肥料に再利用出来る様にトイレ下に穴が掘られている。
厠(かわや)   …水洗トイレ、川の水流を利用したトイレ。
…川の小屋のトイレだから、略して川の小屋=かわや=厠なんですね。

さて、客間です。
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この写真では余り解りませんが、眼前には海が広がり当時は金沢八景と称され、江戸時代に歌川広重が浮世絵に描いた程の景勝地でした。
水戸徳川家の黄門様こと水戸光圀公が明の禅僧の東皐心越(とうこうしんえつ)和尚を御連れして、この一帯の風景を遊覧された程でした。

この客間の入口からも中庭が見えます。
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反対側から見る中庭はさっきと様子が少し違います。
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さっきの煙突、実は浴室から延びています。
客間からも居間からもすぐに浴室に行ける便利な構造に成っていますね。
そして風呂場が中庭に面していると言う事は、入浴中、涼しい爽やかな風が吹き込んできたんでしょうね~。
流れで浴室を紹介しましょう。
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この浴室の壁は人口の御影石で出来ています。
昭和期まで、日本家屋に多く見かけられた人工石ですね。コンクリートより高級感が有ります。
さて、さっきの煙突の正体ですが…
右側から延びる配管が、浴槽の中に入って行ってますよね?
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実はコレ!明治時代には画期的だった湯沸かし器の構造物なんです!
当時は庶民の家では五右衛門風呂が主流で、直接、竈(かまど)の上にでっかい鍋みたいな風呂を置いて直に火力で御湯を温めましたが、この機能はボイラーの熱を配管で送り浴槽内の御湯を温める仕組みなので、火傷する心配が有りません。
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そして温泉の様に檜風呂で入浴出来る画期的な構造な訳です。
現代のガス式風呂釜湯沸かし器に通じる構造ですね。
この配管を伝う熱源の排煙をするのが、先程の中庭の煙突と言う訳です。

さて、客間に戻ります。
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御茶はこの客間で頂けるのですが、ここからの眺望は凄く素敵で、小生はたまにここにノンビリと頭をリセットしに来させて頂いています。
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繰り返しに成りますが、目の前が海。
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ここで御茶を飲んでゆっくり…いいでしょう?

昔の家らしく、縁側も有ります。
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平成世代は余り見た事が無いかも知れませんね。
昔の人は、こういう縁側でゆっくりと贅沢な時間を日常的に過ごしたもんなんですよ。

この金沢別邸には伊藤公の私室も当然有ります。
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意外かも知れませんが、居間は広くはなく、普通の家と余り変わらない大きさです。
伊藤公は賭け事が大嫌いな性格だったそうで、個人でいる時は余り華美な生活を好まれなかった様ですね。
公人として西洋式の華やかな生活を送らなければいけないので、普段は落ち着きたかったのかも知れませんね~。
この居間側にも裏口があり、そこからも庭に出られます。
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御庭から見た客間越しの金沢の海。
御庭は牡丹園の名前で同じく無料公開されています。
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牡丹園側から見た、居間の様子。
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庭には綺麗な花が咲いていました。
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こちらの牡丹園側の入口、つまり勝手口が下の写真です。
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意外かも知れませんが実は伊藤博文公、外戚閔妃派と日本政府の関わりで伊藤博文公のイメージを悪く混同されていますが…
韓国初代大統領の李承曉のロビー活動による結果で、悪いイメージを持つ韓国人も多くなっています。
しかし実は朝鮮王室との関係は極めて良好でした
ですので、、朝鮮の最後の皇太子李垠殿下も御滞在された場所でもあります。
李垠殿下も伊藤公の私邸へ度々(たびたび)御宿泊され金沢八景の風景を楽しみ遊覧される程に信頼関係が深かった訳です。
余談ですが、戦時中も日本の太平洋戦争終結後の無条件降伏時も李垠殿下は日本でちゃんと王族として保護されていました。終戦後に奥方と韓国に帰国しようとした所、李垠殿下御夫妻の韓国復帰を阻止したのが、朝鮮王室復興による失脚を恐れた李承晩だった事を多くの韓国人は知りません。
親日派だった朴正煕大統領に成って、漸(ようや)く李垠殿下御夫妻は韓国に帰国出来ました。
つまり、李承晩自身が知日派の李垠殿下に帰国されると非常に困る事情が有った訳ですね。
李承晩がいなければ、併合後に朝鮮王室を李垠殿下が復興し、現在の日本の天皇家と復興した朝鮮王朝で友好的な王室外交が成されていたはずなんです。
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野島の眼前には、野島と同じく伊藤公が大日本帝国憲法草案をまとめた場所の一つである夏島が見えます。
その夏島の前にあるのが、旧海軍飛行場、現在の日産自動車追浜工場です。

ここ野島は日本の近代化や法治主義化の礎と成った舞台でも有り、良くも悪くも、両方の歴史を伝える歴史遺産群が密集した場所でもあるんですね。
先人の苦労と同時に、明治政府樹立による法治主義の開始や鎖国からの脱却の重要性や、防衛戦争の必要性と、戦争の負の側面も考えさせてくれる場所であり、そして又、前政権徳川家の紀州藩別邸跡の有った場所であり徳川家が御参りした野島稲荷神社が現存し…
金沢八景の一つであり文化醸成地だった、横浜市民のみならず日本国民にとっても大切な場所と言えます。

夏も終わりですね…
皆さん、体調を崩されませんように。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

ブログネタ
あなたのオススメの「春の味覚」は? に参加中!
三渓園に夜桜見物に今年も行ってきました〜♪
三渓園では「観桜の夕べ」と言う夜桜ライトUPイベント開催中です!

まだ6〜7分咲きと言うところでした。
来週末まで楽しめそうですよ♪
また行くつもり…

春に三渓園の茶屋で「三渓碗」と言う美味しい3種類の味を楽しめる汁蕎麦を食べながら池に映り込む夜桜を見るのが楽しみです。

とりあえず、行きたい人の為に2015年03月28日時点での開花状況の写真を掲載します。
似たような位置の写真も載せますけど少しの違いでだいぶ印象が変わるので、連写しまくってます。


原三渓さんの旧母屋横の枝垂れ桜の大木は、まだ蕾(つぼみ)でした。
見頃は来週末くらいかな?

咲くと、とても綺麗ですよ♪


まだ6〜7分咲きなので、個々の樹木によっては、まだ葉桜なので照明が緑色に反射していますが…
これはこれで美しく感じます。
小生は、この京都から移築保護した旧灯明寺三重塔の山の麓(ふもと)、池の畔(ほとり)に在(あ)る茶屋の三渓碗と言う汁蕎麦とオデンとお団子が好きで、季節の変わり目ごとに三渓園に来る楽しみの一つでもあります。

以下、まだ桜が満開ではなく上手く照明に反射してなかったので薄暗い似たような写真続きます。
又、来週、夜桜撮影に三渓園行きます。

では、又、次回のブログ記事でお会いしましょ♪

ブログネタ
春休みの思い出教えて! に参加中!
春休みの季節、良く地元の桜並木の下で行われる祭りや、三渓園に花見に行きました。

今、三渓園で桜と重要文化財建築群の夜間ライトUP「観桜の夕べ」を開催中なので御参考までに昨年、小生が撮影した写真を掲載します。

※三渓園の公式ホームページは「ココ」←クリック!

今回の記事は、あくまで訪問したい方の為(ため)に参考の写真掲示なので、改めて記事にします。
過去の記事は以下リンクから御覧下さい!
⚫︎三渓園の説明記事は「ココ」←クリック!
⚫︎三渓園の紅葉写真は「ココ」←クリック!

では、以下、昨年の夜桜と重要文化財ライトUPの写真です。

入口を入ったすぐの池のほとり

下の仏塔は京都の灯明寺から移築保護した三重塔。
明治政府の数少ない失政「廃仏棄釈」の仏教施設弾圧から、明治時代に富岡製糸場などを開いた原財閥の原三溪さんが、当時自宅だった今の三溪園に買取り保護し今に至ります。


三重塔の山の麓の茶屋の手打ち蕎麦「三溪碗」は小生お勧めの一品で、お碗に盛られた3種類の味の汁蕎麦を頂けます。

入口近くの、昔、原三溪さんが隠居部屋に使ってた母屋(おもや)。
今では茶会や披露宴の会場として有料で一般利用可能です。


暗く判り難(にく)い写真ですが、下は京都大徳寺から移築した、豊臣秀吉が母親大政所の為に建てた建築物です。


因みに中区の三渓園から近く、久良岐の丘伝いの港南区には、昨年まで下の「桜道」と呼ばれた全長1km近い桜の大木の並木が有りました。
林文子横浜市長は文化財や自然を破壊していくスタイルの行政指示を出しているらしく、昨年、この桜並木は主要部分が伐採され規模縮小されました。
事実上の消滅で、この祭りも開催する意味が無くなりました。

実は、いくつかの文化財や史跡について、小生、監督地区の区役所担当者を介して教育委員会に「保護要請や顕彰碑設置を要請しましたが、市教育委員会の方針として新たに保護や顕彰碑設置を行う事はしない」と明確な「教育委員会からの未保護史跡や文化財や自然の不保護宣言」の回答を頂いたので、今回、この記事でその回答を市民への伝言として晒しておきます。

三溪園も左派社会主義の林文子市長市政が続けば、いずれ土建屋の開発対象にされるのでしょうか…
危険なので、この風景を守る為にも市民で注視監視する必要が有ると思います。

ブログネタ
風景写真 に参加中!
横浜市は余所(よそ)の地域の人から見ると「みなと未来21地区」や「中華街」や「山下公園」や「外人居留地」のイメージくらいしか無いそうですが…

とんでもない!
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里山に囲まれた素敵な古民家の御庭でしょ?
これ、昔は鎌倉郡だった横浜市栄区の鍛冶ヶ谷と言う地域にある「旧小岩井家住宅」です。
小岩井家は元々は、この地域の庄屋(しょうや=村長)さんだった御宅なので、その邸宅は茅葺屋根の立派な造りの古民家です。

何だか田舎の御婆ちゃん家に来たみたいでしょ?
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…もっとも、貴方(あなたの)の祖父母の住む家がこんなに立派な茅葺屋根の家だったら、そりゃもう大金持ちですね(笑)。
何故なら家の作りの立派さもさることながら…
茅葺(かやぶき)屋根の家は、藁葺(わらぶき)屋根の家と異なり大変に高価なんですよ。
屋根を葺(ふ)き替(か)えるだけで4000万円以上かかると言われています。
更に庄屋様の御宅ともなると平屋の入り母屋(おもや)作りなので、かなり大きな母屋と若夫婦の住む別棟の離れが有ったりします。

この素敵な古民家…
実は無料公開されているばかりか、「本郷ふじやま公園」と言う緑地公園の一部なんです。

ですから…

「あれ?昭和初期に来たのかな?」とタイムスリップをした錯覚さえしそうな風景が庭先には広がっています。
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ヨコハマの子供たちが丸で「カッペ(笑)」の様にのびのび元気に遊んでいます。
横浜市は「里山思想」に基づいた都市計画がなされており、どんなに市街の中心地にいっても必ず、この様な里山が保存されているんですね。
ただし、その里山が必ず文化的に大切な場所とは限りませんが。

ここでは少し昔まで日本中にあった風景を垣間見れます。
昔の家の土間(床が靴履いて歩く屋内)の炊事場(キッチン)とか…
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一般人用の玄関入ってから靴脱ぐ土間とか…
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今じゃ少なくなった縁側とか…。
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本当、懐かしいな~。

離れもあるので、何だか昔の農村を訪ねて来たような雰囲気です。
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立派ですよね~?
お正月はここで餅つき大会も行われますし、春には凄く立派な桜の木に花が咲き誇ります。
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この下の写真は長屋門と言います。
長屋門は江戸時代、ある程度の格式の有る家にしか造る事が認められなかった建物です。

もうこれ、古民家好きにはヨダレだらだら出るくらい堪らないんじゃないかな(笑)?
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御屋敷と呼ぶのが相応(ふさわ)しい外観ですね。
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さて、ここからが歴史的な話題の本題部分です。

以下、文章だらけですが、歴史好きと特に横浜市栄区民にとっては読む意味が有ると思うので、どうぞお付き合いください!

この旧小岩井家が治めた地域は鍛冶ヶ谷村でした。
今のJR京浜東北線本郷台駅から少し離れた鍛冶ヶ谷地区一帯ですね。
その鍛冶ヶ谷を中心としていくつかの村が明治時代に合併され「本郷村」が設置されました。
それが本郷台の地名の由来ですね。

鍛冶ヶ谷はその名の通り、武具製造の鍛冶職人が昔から住む地域でした。
どれくらい昔かと言うと…
恐らくは平安時代中期です。

この鍛冶ヶ谷の付近には古代から武具製造や蹈鞴(タタラ)製鉄に関わる地域が多数有りました
その名残は今も地名に残っています。
…港南区の"日野"→日野=火野…この地域は実際、鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が建設した野庭城と言う御城もありましたが、お隣の上郷には平安時代より更に古い奈良時代からのタタラ製鉄の遺跡が発見されています。
そして隣の金沢区にはそのまま金沢の地名と釜利谷と言う地域もあり、いずれも製鉄に関わる地名です。
西暦110年頃には日本武尊が鎌倉の先ある三浦半島に遠征して来ているので、この一帯は早くから開けていたようです。

さて…
鍛冶ヶ谷一帯に話題を戻します。
実はこの鍛冶ヶ谷一帯、小生は関東人が軍神と崇(あが)める平安時代の名将、陸奥守(むつのかみ)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を歴任した関東の武士団の棟梁、源朝臣(みなもとのあそん)八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公の兵站(へいたん=補給基地)だったと推測しています

因みに源義家公は鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公の4代前の祖先です。

何故(なぜ)、鍛冶ヶ谷一帯が義家公の兵站だったと推測するかと言うと、旧鎌倉郡村岡郷=現藤沢市村岡の村岡城を拠点にした、鎮守府将軍の平良文公は源苑(みなもとのあつる)と一騎打ちの後に盟友となり共に源氏と平氏は関東の発展に協力し尽力する事を約束しあいました。
※平良文公に関する過去の記事は「ココ 」←クリック!

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(軍神と言われた源義家公)

その平氏と源氏の盟約を体現する様に、後に源義家公が前九年後三年の役に出征すると、坂東平氏はこぞってその幕下(ばくか=組織に入る)に入り協力します。
その時に鎌倉御家人の祖となる二人の名将が参陣しています。
一人目は鎌倉景政公…関東では御霊神社の祭神として信仰されています。
二人目は三浦為継公…御子孫には鎌倉御家人の三浦氏や和田氏、戦国大名芦名氏や正木氏や三浦氏がいます。
※三浦為継公に関する過去記事は「ココ 」←クリック! 

実はこの二人は従弟同士で、更に平良文公の子孫です。
つまり良文公以来の源家との盟約が履行されていた訳です。
この時、平家側は義家公に対し、居住地等を提供しています。
その場所が今の鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)地区にある「亀ヶ谷(かめがやつ)にある寿福寺」のある場所
とその一帯なんですね。
亀ヶ谷は狭い地域です。
源頼朝公が鎌倉幕府を開く以前、実はこの父祖の故地(こち=ゆかりの土地)である亀ヶ谷に幕府を開こうとしたのですが、狭すぎて御家人達から反対され、やむを得ず鶴岡八幡宮の東側の大蔵地区に大蔵幕府を開いたなんてエピソードがある位なんです。
ですから鍛冶ヶ谷では軍隊の物資補給や武具補修の職人集団や商人を住ませる町形成はままならないんですね。
その亀ヶ谷から徒歩でも行ける距離には、現在でも源義家公と関連の有る地名や施設名が溢(あふ)れかえっているんですね。

亀ヶ谷の有る場所から現在の北鎌倉は歩いて15分程の距離ですが、その北鎌倉から20分位歩くと鍛冶ヶ谷の最寄駅の本郷台地区に至ります。
この鍛冶ヶ谷を含めた本郷台地区には、「河内」と「公田」と言う地名の場所が有ります。
河内とは大阪市の東部にあった国の名前です。
何故、唐突にこの地名が旧鎌倉郡、現横浜市栄区に出て来るんでしょうか?

実は源義家公以来、関東武家の盟主(めいしゅ=主従ではない協力関係のリーダー)としての立場を築きますが、この義家公の家の「源家」は源家の中でも河内源氏と呼ばれた今の大阪府羽曳野(はびきの)市を本拠地とした一族なんです。
そして、その羽曳野市の有る場所は、昔は「河内国」と国名を呼ばれた地域なんですね。
恐らく、亀ヶ谷に住んで居た義家公の荘園だったから河内の地名が横浜市栄区に残っているんでしょうね。

更に「公田」の意味ですが…
公方(くぼう=将軍)様+田畑…公方様の田畑…公方の田…公田となる
訳です。
この栄区本郷台の「公田地区」と「河内地区」は隣合わせの位置です。
そして更にその隣にあるのが鍛冶ヶ谷です。
つまり、町形成の不可能な亀ヶ谷に住む義家公は、公田一帯に生活用の食糧補給の荘園を坂東平家の武士から提供されており、武器を鍛冶ヶ谷で補給していたのだと考えるのが自然なんです。
港南区の日野や栄区上郷地区のタタラ製鉄所で製造された鉄で、隣村の鍛冶ヶ谷の鍛冶職人が義家公率いる源氏軍の武具補給補修を担っていたんでしょう。

ここから源氏と与力の平氏や菅原氏や橘氏や丸子氏が出撃して清原氏や藤原氏との死闘を演じたんですね…
その前九年後三年の役や関東の武士団の繋がりの話は過去に「永谷天満宮」の記事でも触れていますので、ご興味ああれば御覧下さい。
※永谷天満宮と菅原氏と平氏の関係に関する記事は「ココ 」←クリック!

余談ですが、鎌倉市は現在でも伝わる有名な刀鍛冶のブランドが有ります。
以前の記事で紹介した名刀「正宗」の工房ですね。
※過去の関連記事「ココ 」←クリック!

今回は八幡太郎義家公の話に話題を広げる事で、たまたま大阪府と神奈川県の関連に話が及びましたが、実は神奈川県は古代から大阪府と京都府と御縁があり、御互いの土地は本来は兄弟の様な協力関係にあったんです…
ま、その噺(はなし)は又、気が向いたらします(笑)。

今回も長くなってしまいましたね。
でも今は新興住宅地の本郷台も、鎮守府将軍様の根拠地だったかもしれないと言う、失われた歴史と誇りを皆さんに再認識して頂ければ幸(さいわい)です。

ではでは…又、次の記事でお会いしょましょう!

ブログネタ
風景写真 に参加中!
今年は三渓園の紅葉の色づきが遅れ気味かな…?
先月末に訪れた時は早すぎたので紅葉を再撮影に行ってきました!

今週末なら、まだギリギリ見れますよ多分。

三渓園と何ぞや?
…と言う方は「ココ」←をクリックして三渓園と創始者の原三渓を紹介した記事を御覧下さい!
ある程度詳しく書いてあります。

他にも秋の風景の綺麗な場所のブログ記事リンクを載せますので御興味有る方はどうぞ!

●浜離宮恩賜公園「ココ」←クリック!
  東京都、新橋か汐留が最寄り駅。
●称名寺と金沢文庫「ココ」←クリック!
  横浜市金沢区、金沢文庫駅が最寄り。
●護念寺と円海山の鎌倉古道「ココ」←クリック!
●鎌倉市の竹林寺:報国寺と周辺の秋模様の記事は「ココ」←クリック!
  横浜市港南区港南台〜磯子区峰〜金沢区氷取沢、港南台駅か洋光台駅が最寄り。

写真は2014年12月月初め時点のものです。
その時点で散り始めた紅葉もありましたが、まだ葉が緑色の樹木も沢山ありました。
多分、今週末12月5日、6日、7日は最後の紅葉にまだ間に合うかも知れませんよ?

もう、ブログ読者の皆様には多くは語らず写真だけ見て頂いた方が良いかな(笑)?
では御覧下さい〜!
今年の三渓園の完全に近い紅葉模様ぅ♪

如何でしたか?
この他にも冒頭で紹介した場所も綺麗な秋の風景が見られますよ。
是非、訪れて見ては如何でしょうか?

昨日、友人夫婦と今年の紅葉を見に三渓園に行って参りました。
まだ少しだけ時期が早かったみたいです。
多分…
来週半ば〜末位に成ると見頃が到来と言った所でしょうか?

しかし、ちゃんと満喫してきました!
お団子さん♪


風景は相変わらず綺麗でしたよ!
建築文化財群と自然の融合は見ているだけで安らぎます。
飛騨から移築された合掌造り家屋の囲炉裏(いろり)の煙が良い香りでした。
※注:実際に燃えています!
茅葺屋根の家屋なので囲炉裏の煙で家屋全体を燻(いぶ)さなければいけないんです。
そうする事で、薬品に頼らない自然な防腐防虫効果が期待でき…
更に囲炉裏の火からでるヤニが着(つ)いた木材を布で磨くと黒く綺麗に光沢が出るんですね。
素敵♡美しい…
活けてある紅葉も綺麗。

昨日は菊花の品評会もやっていました。

来週末に又、紅葉の写真撮影に三渓園行く心算です〜。

ではでは、また別の記事で!

ブログネタ
「秋を感じるひとこま」教えてください に参加中!
横濱市中区に三渓園と言う広大な日本庭園があります。
元々は原財閥の当主の原三渓さんの自宅でした。

原三渓さんは東京ドームより広い自宅の敷地に、日本全国の御城や御寺の重要建築物を明治時代の文化軽視の波から移築し保護ました。
緑地全体が元々は原三渓さんの家。
山の中にも重要文化財建築が沢山有ります。


原三渓さんの御蔭(おかげ)で明治政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=インド由来の外来宗教排斥。※何故か儒教は肯定した。)政策の被害に遭い、檀家を失い廃寺に追い込まれた名古刹(こさつ=歴史の古い寺)や、一村一社令(町や村に神社を一つしか認めず社殿を破壊する)と言う愚策で破壊される寸前の神社を多く移築し保護しました。

※写真は3年前くらいの夜間ライトアップ

この1回しか秋のライトアップは有りませんでした。
希望の方は三渓園事務所に要望の電話をかけましょう!
三渓園TEL0456210635
要望が多ければあるいは…

その活動だけでも素晴らしい事なのですが、明治時代に既に「公共福祉」「文化保護」と言う観念をお持ちで、日本文化に興味の薄れ始めた日本人に日本文化の素晴らしさを再認識してもらう為に、自宅敷地…即(すなわ)ち今の三渓園を住んでいた当時から市民の憩いの場に成る様に公園として提供してらっしゃったんですね。

原三渓さんは現代の企業経営者とは異なり、普段お金を稼がせて貰う市民に対して「報恩」と言う鎌倉武士の一所懸命の様な気概をお持ちでした。
関東大震災で横濱市が壊滅した際、私財を湯水の様(よう)に惜しげも無く投じ、日本政府よりも横濱市の復興に貢献して下さいました。
現代の企業経営者にはそんな立派な方はいないでしょうね。
現代の経営者にはアイスバケツチャレンジで1万円の寄付を惜しんで、氷水かぶって遊ぶような虚栄心丸出しの無文化な偽善成金は沢山いますが…

原三渓さんは横濱市の復興にお金を使い果たし、財閥は衰退しましたが生粋のハマっ子には原三渓さんの意思が今も受け継がれています。

三渓園には冒頭で説明した通り、寺社仏閣以外にも伏見城の遺構や大名家の邸宅も移築されています。
写真は紀州徳川家が紀ノ川沿いに持っていた別宅です。
三渓園に移築されて現在も保護されています。
因(ちな)み山下公園前にある"ニューグランドホテル"は"ナポリタンスパゲッティの発祥地"ですが、オーナーは原三渓さんの御子孫の方です。
横濱市観光の際は、是非、ニューグランドホテルのレストランで御食事をされ、三渓園にも足を伸ばしてみては如何でしょうか?

横浜市金沢区に野島公園と言う市立公園があります。
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場所は金沢八景駅の近く、八景島シーパラダイスの海を挟んだ対岸です。

近くにはシーサイドラインも走り、その風景はよくドラマに登場します。
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この島は江戸時代に周囲が干拓(かんたく=埋め立てられる事)され入江新田や平潟新田や泥亀新田と陸続きになりました。 

今ではキャンプ場とバーベキュー施設のある市民の憩いの場に成っています…
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島内には昔から周辺の漁民や「暴れん坊将軍の吉宗公の祖父の徳川頼宜」から愛された野島稲荷神社があります…
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暴れん坊将軍って、本当にあの暴れん坊将軍ですよ!
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実はこの「島の南端に紀州徳川家の別荘が在(あ)った」んです。
ですからこの神社にも度々、将軍吉宗公の御爺ちゃんが御参りに来ていたんですね。
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その神社の隣が先ほどの写真のキャンプ場スペースなんですが・・・
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その更に先には遊歩道があり、遊歩道越しに掘割り状の海を挟んだ先に日産の追浜工場とテストコースがあります。

何故(なぜ)、こんな場所に日産の工場や走行テストコースが有るのかと言うと・・・
実はここは横浜市内ですが、横須賀市とのすぐ隣の境界地域なので、昭和初期に今の日産の敷地は「海軍の飛行場」だったんです。 
写真では日産の敷地の対岸に八景島も見えていますね…
その更に海の先には石川播磨重工の敷地があり、そこは今でも米軍と自衛隊の「軽空母や護衛艦のドッグ」として整備施設の役割を担っています。

そんな「昭和の横須賀鎮守府」の隣の島だった野島ですから、太平洋戦争中の遺構も当然あります。
実はここ、「零式艦上戦闘機の日本最大の格納庫」の防空壕跡が今でも残っているんです。 IMG_5263


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格納庫には今では入れません。
中を覗(のぞ)くと真っ暗で少々不気味ですが、ここは作られただけで実際に戦火に巻き込まれる事無く終戦を迎えました。

野島はこれよりもっと日本国民にとって大切な史跡としての建築物が残っています。
初代総理大臣の伊藤博文の別宅です。
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今でもちゃんと管理され、誰でも無料で拝観でき、500円で海を眺めながら御抹茶と落雁(らくがん=和菓子)を頂き、ゆっくりのんびりと時間を過ごせます。

野島の先には夏島があります。
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何で野島公園が文化的に大切かと言うと、この伊藤博文の別宅は「大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所」だからなんです。
対岸の夏島にも伊藤博文の別荘があり、そちらでも草案を構想していたそうです。

つまり、野島公園は日本人が法治主義による近代民主国家の道を歩み始めた第一歩目の土地なんです。
福沢諭吉先生が唱えた国家体制と役人の腐敗を招く儒教との別離、脱亜入欧を模索し始めた時期ですね。
中国に先立つ事100年前の法治主義国家化です。

その後、明治大正と法治主義と民主主義のまともな時代を迎え、日本帝国の陸海軍人は「あらゆる国際条約」である「万国法」を理解した文武両道の道を進み、欧米諸国から秋山真之さんや柴五郎さんは激賞され勲章を授与されました。
しかし…
昭和に入り社会主義集団の"一夕会"による国会乗っ取りと陸軍の人事権掌握が為されてから、日英同盟日華同盟に有った「万里の長城を越えて中華民国の領土に侵攻せず」と言う条項を陸軍が破ってしまった事で、日英日華同盟は破綻してしまい、アメリカの経済制裁に正当性を与えてしまい日本の苦境が始まる事になります…
この事は昭和天皇も憤慨し陸軍の指揮官を戒告しています。

もし!
中華民国が袁世凱に乗っ取られる事無く、知日派で民主主義者の孫文先生により中国大陸を民主国家化近代化が成功して日本の心強い味方に成っていたら…
社会主義独裁を目指した一夕会の暴走が無かったら…
日本帝国陸軍を暴走させず、共にアジアの発展に平和的民主主義的にアジアを近代化させていたんだろうか?

歴史に「i f」は有りませんから・・・

今、現在を生きる我々が日本の国益と国民生活の向上と親日国との共存共栄と発展を考えていかないといけないですね…




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