歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:古道

ブログネタ
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横浜市港南区~磯子区峰~金沢区氷取沢にかけて円海山と呼ばれる山がありまして・・・

風景がとても横濱と思えない綺麗さなんです。 IMG_5684
今では静寂な森の中の古道沿いにある阿弥陀寺と言う御寺と、昔は阿弥陀寺の奥院だった護念寺と呼ばれる御寺ですが、実は江戸時代~昭和初期まで凄く有名で、日々参拝客が蟻の行列の様に大量に列をなして訪れた名古刹なんです。

実はこの護念寺ですが、お灸治療の大本山とも言うべき御寺でして、古典落語「強情灸」の舞台でもあるんですね。
ですから、この御寺は「峰の灸」の別名でも呼ばれています。
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嘗(かつ)て、磯子区杉田〜港南区笹下にかけて点在した広大な杉田梅林は、江戸からの江戸っ子観光客で賑わっていました。

船で磯子区杉田の聖天川までクルージングし海からの屏風ヶ浦の美しい風景を楽しみながら、杉田梅林を見学に来る訳ですね。残念ながら杉田梅林は教育委員会が開発容認し消滅しました。…明治天皇や皇族もよくいらっしゃった美しい風景と最高級の梅のブランド杉田梅を教育委員会が消失させたんですね。

で、その江戸時代から昭和初期の観光コースに峰の灸も入っていたし、純粋な治療客も沢山いました。

横浜横須賀道路と言う高速道路の開通で阿弥陀寺と鎌倉古道が寸断され、鉄道の駅からも遠い事から、昭和の高度経済成長期に成ると段々、参拝客も減ってきてしまいましたが・・・
今でも慢性的に体の痛みがある人がココに来て治療を受ける、お灸の本場なんです。

もっとも・・・
小生はソンナ歴史も知らなかった20歳の頃、原付バイクでフラっと田舎道の風景を探して立ち寄って、その聖地のような清々しい空気感に呼びこまれて迷い込んだ御寺なんです。
その時は、竹林の風景の美しさと、何だか…
「あ~横浜市が久良岐郡と呼ばれた頃の風景はこんな感じで美しかったんだろうな~」
・・・と思っただけでした。
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この護念寺は清浄園と言う公園墓地に至るまでのアプローチが昔の鎌倉古道なので、とても神秘的な風景が残っているんです。
でも今じゃ落語の“強情灸”を知らない人の方が多いですよね?
せっかくの機会ですし、強情灸を御存(ごぞん)じ無い方(かた)の為にその噺(はなし)を紹介します・・・
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【強情灸】 
通りかかった知り合いが唸っているので、気になった男、家に招き寄せる。 
聞けば何でも体がだるいので、""という店に灸を据えてもらいに行ったらしい。


「このお灸な、凄まじく熱いんで評判なんだよ。気の弱い奴なんかな、一つ据(す)えただけで… 
「ギャー!!」
なんて天井突き破って飛んでっちまうんだと」 

余りにも熱すぎるので、せっかく来た人が怖気づくぐらいだが… 
それでも"効く"という評判のおかげで店の前は長蛇の列。 
仕方がないから、番号札を配って据えてもらっているらしい。


俺がもらったのが"への36番"行列のどん尻だぜ?これじゃ日が暮れちまう… 
「帰ろうかな」 
…って思ったらよぉ! 
先に並んでた綺麗なお嬢さんが先客が熱がってるんで心配(不安)に成っちゃったんだろ? 
…俺に 
「ねえ、アタシと代わってくれませんか」 
なんて… 
「ええ!ようござんす♪」 
…と、喜んで代わりましたとも。 

早速内に入ると、店の者が… 
「うちの灸は熱いですよ。大丈夫ですか?」


頭にきた友人、上半身裸になるや… 
「さあ据えてくれぃ!」 
…と怒鳴る。 

灸を36箇所に据えると言われ、なおも意気がった友人… 
「全部いっぺんに据えろ(怒)!」と一喝。 
啖呵に店の者も釣り込まれ、本当に全部いっぺんに据えてしまった。 

一つで飛び上がるような灸を、36個いっぺんに据えたんだからどうなるか?


身体中から煙が上がる…不動明王みたいになっちまったが…"ここで逃げたらカチカチ山のおタヌキ様"だ。 
我慢して唸ってたら… 
店にいた奴らがみんな寄ってきてヨ! 
「この人、本当に人間かい?」 
「神様の化身でしょう」 
…なんて感心してやがんだよ。 
…その中にね、さっき俺と札を取り替えたお嬢さんがいてさ、俺の顔を見てポーッとなってんだ。 
「あぁ…たくましい人ね、お嫁になるならこんな人が」 
…なんて思ってやしないかと。 

自業自得で熱い目に遭ってきて帰り道で唸っているような間抜けの(笑)、体(てい)もないノロケ話を聞かされ、呼び込んだ方の男は面白くない。 
元来こちらも同類の馬鹿である… 
「たかだか灸ぐらいで威張るな!」 
…と、奥から藻草(もぐさ)を持ってきて、腕に山盛りに積み上げるや早速点火(笑)♪


「活火山だよコリャ(笑)…見てろ!今に火が回ってくるから(笑)」 
火勢が強まり、煙が上がる。 
男、脂汗を流しつつ歯を食いしばる。

「うう(汗)…」 
「…灸ぐらいで威張るな、石川五右衛門なんか、油で茹でられたのに平気で辞世の句を詠んでたぞ!」 
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ…ってな!」 
「八百屋お七なんか、15歳で火炙(ひあぶ)りだぞ?」 

…それに比べりゃこんな物…お七…五右衛門…お七… 

ぎゃぁあぁっつ!」

とうとう辛抱堪(たま)らず藻草を払い落とし、なおも「五右衛門んん…」と唸っている男に、友人が意地悪く声をかける…

「五右衛門がどうしたって(笑)?」 
「…」 
「……」

「………さぞ熱かったろう」 

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円海山 清浄院 護念寺

・・・どうです?強情灸、バカでしょう~(笑)?
いつの時代も男は可愛い女性の前で良い顔したがる見栄っ張りってネタでした(笑)。
ところで、この写真の建物はが仮本堂であり現在も御灸の施術をする建物でもあるそうです。
昭和の頃迄は沢山の御客さんで賑わっていたそうですが、現在は要予約だそうです。
定休日は月曜日。診療は午前中のみ受け付けているそうです。
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境内の雰囲気とても素敵でしょう?
丸で鎌倉の隠れ家に来たような・・・
神様の住んでる御社(おやしろ)でもありそうな雰囲気ですよね?
秋には紅葉もチラホラとあり、この季節はここに来てヒンヤリとした空気を吸い込むと、何だか生きてる感じが凄く静かに感じられるんです。
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少しこの御寺の歴史を見てみましょう・・・
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ハイキングコース地図の右下に阿弥陀寺、その少し真ん中寄りに護念寺、右側中央に“道場丸”と“いっしんどう=一心堂”の地名が残ります。この一帯は阿弥陀寺の奥院だった護念寺の寺領だったのでしょう。恐らく御寺の収入減は大岡川や鼬川の水運を利用した木材の売却だった筈です。二つの河川を使う事で相模湾側の鎌倉や、江戸湾の江戸方面に材木を出荷出来て昔は大いに繁栄したのでしょう。
新編武蔵風土記稿の護念寺の項目に“この一帯の緑は寺の敷地だったから残った”と言う記載に円海山の森林が残されていた理由と整合します。
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今でも樹木に囲まれた御寺です・・・
この、静かに遠慮気味に色づく紅葉達の奥に御念寺の現代の本殿があります。
撮影した日は法事の車が数台とまっていたので御本堂の写真は写しませんでした。 
御本堂を過ぎるとマイナスイオンでヒンヤリとし、静寂な神聖な霊気を感じる様な竹の隧道が出迎えてくれます。 
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さて、この護念寺には幾つかの由緒ある仏像が有り、その一つが薩摩の大名どうやら島津家から拝領した威徳明王の1寸八分(545mm)の伝弘法大師作の彫像らしいです。
元々は護念寺の向かいの山の上に堂が有って、そこに祀られていた物だけど御堂が壊れたから護念寺に移したと言う事が新編武蔵風土記稿に書いて有ります。
昔は坂下バス停辺りに本院だった阿弥陀寺が在りました。
そこから登って来る護念寺の清浄園墓地側の道は現在廃道ですが、恐らく、そちらが江戸時代の参道だった筈です。阿弥陀寺の方は1400年代には旧所在地に存在したと伝承しています。
鎌倉の戦火で矢部野(洋光台~峯)一帯が戦火に巻き込まれて阿弥陀寺が現在の山の上に移転したのが1400年代だと伝わりますので、この鎌倉の戦火は鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義教公が対立した永享の乱か、足利持氏公の御子息で最後の鎌倉公方と成った足利成氏公の頃の話でしょう。
護念寺とその谷を挟んで反対の山上は現在の阿弥陀寺に当たり、既に阿弥陀寺は1600年代の頭には現在地に移転していたので護念寺の威徳天が祀られていた向かいの御堂は阿弥陀寺ではなさそうです。
では、どこでしょう?
一心堂位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して下さい。
この威徳明王が祀られていたのは恐らく円海山の一心堂広場だろうと思います。
丁度現在も参道に使われている谷筋を登る道以外に私道になり廃道化してる道が有ります。
その谷道を挟んで一段高いのが“いっしんどう広場”=一心堂でしょう。
現在の位置関係で見てしまうと阿弥陀寺の場所が向かいの山に見えてしまいますが、時代的にも威徳明王が祀られた江戸時代には既に阿弥陀寺が存在していた為、阿弥陀寺の山ではなさそうです。
となると、向かいの山で更に“堂”の名前が付くので一心堂がその場所だろうと推測出来る訳です。
ちょっと今の阿弥陀寺との位置関係だと護念寺が阿弥陀寺の奥院として機能していた事が理解し難いのですが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
・・・昔の阿弥陀寺は洋光台6丁目坂下バス停辺りに存在したそうで、確かに、その位置からだと真っすぐ直線状の背後の山に護念寺は所在しています。
画像に赤く引いた線は現在は廃道に成っている古い道で、実はそちらは切通状に成っていて重要な道だった事も解かります。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
この道は明治時代初期の迅速測図にも-----の点線表記で護念寺の右手の舌状丘陵の尾根道として記載されています。
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その道がこの解体屋サンが並ぶ丘の道を更に一本裏側に入った場所です。
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今では草が鬱蒼としてしまっています。
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その先は円海山清浄園の墓地の先っちょ、この道に繋がっています。
昔は小道だったようですが、もしかしたら墓地造成で開削され、更に丘の入口が解体屋サンに払い下げられ今は使われなくなったのかも知れません。
一心堂の場所ですが・・・
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氷取沢側から見た円海山、鉄塔の辺りが一心堂広場の近くです。
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現在は遊歩道としては整備されていませんが、氷取沢側の農道から続く江戸時代の道は今でも生きています。
この道を登ると・・・
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ちゃんと昔の道標がわりだった交通安全の仏様の馬頭観音様が多分、昭和時代位に上の部分だけ作り直されて今も有ります。この場所がT字路に成っていて富士塚休憩所を経由して護念寺の墓地に成っている円海山清浄園の古道や鉄の道の尾根道に通じていました。
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又、迅速測図を見ると古代の尾根道の街道が悉(ことごと)く護念寺の辺りに集まっているので、前身の御念寺は逗子の岩殿寺や金沢区の浄願寺の様に山岳信仰的な要素が有り弘明寺や八菅山の様に山全体が聖地化されていて各所に御堂や神社が有った事が推測出来ます。
製鉄有る所に豪族有り、豪族有る所に神社仏閣有り・・・と言った所でしょうか。

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。
コレ⤵️
宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜(べんぎ=便利)とす。


要約すると・・・
「護念寺の在る円海山は城址」
「だから往来が不便で星谷智久公がショートカットの道を御寺の為に作りました」
・・・つまり円海山=長野山は城でした。
合わせて、この文書から調査した末端の記者か編集した人のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨です。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
星谷家が足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)と調査した江戸時代の記者も編集者の間宮士信公も昭和の出版社も何故注意が向かなかったのでしょう?
その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しており単位も両・朱・分でしたし、永楽銭は廃れています。
つまり宝暦二年(1752年)に星谷家が永楽銭を寄付する事自体が変な訳です。
調べた記者か編集者かが他の元号と読み間違えた事は明らかです。
永楽帝の在位期間は1402年~1424年永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。なので宝暦の書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択すれば正体が判明しますね。
康暦二年(1390年)→1411年以前
宝徳二年(1450年)→1411年以後
・・・宝徳を読み間違えたんでしょう。
では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるので宝徳を宝暦と読み間違えて記者が取材し風土記の編集に間違えたまま峰村の説明にも反映されたみたいですね。
そのせいで現代にも混乱を及ぼしているのでしょう。
「そんな学者や編集者が間違える事有るんかい?」
・・・と思う人がいると思いますが、そんな事は現代でもしょっちゅうです。
江戸幕府の役人が書き間違えた杉田間宮家初代の名前を菩提寺や御子孫に調査すらせず間違えたままコピペ出版してる人もいます。
地名でも例えば阿弥陀寺や護念寺は昔は杉田郷と呼ばれた行政区分の地域でした。所が昔は現在とは字が異なります。
杉田=杦田
杉ではなく杦の字で表記したんですがコレが読めない学者サンが・・・
「“松”田とか書き間違えてる」
・・・と杦=杉を読めず杦を松と勘違いし“間違いじゃないのに間違えた指摘をする”事も有ります。
昭和のいい加減な仕事の出版物をコピペして終わってる学者サンいるんですね、それと武将の名前も江戸時代の幕府の誤記を子孫や御寺や神社に確認しないで誤記のまんまコピペしてる人もいます。
誰とは言いませんが横須賀市やNHKの歴史解説員をしていると自己顕示満々のプロフで宣伝してる勲章貰った学者サンとか。本当に歴史偉人をリスペクトしていて御墓参りすれば一発で気が付く事なんですんが。
さて、今回の間違いですが・・・
永錢が永楽銭と言う事は、戦国時代を好きな人は大概知っています。
徳と歴 久良岐のよし
永楽銭なら宝暦ではなく宝徳だと歴史学者でもなんでもない小生でも、この様に気が付きます。
これにより阿弥陀寺と奥院の御念寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。
そして、この阿弥陀寺の奥院御念寺への寄進は応永二十三年(1416年)の戦闘によって阿弥陀寺は焼失後現在地の山の上に新しく御堂を建てて復興されたけれど、奥院の御念寺は一時は城塞化されていた不便な立地なので復興が遅れ、永享十一年(1439年)に永享の乱が終わり、鎌倉公方が一端途絶して平和な時代が来た宝徳二年(1450年)に漸(ようや)く再整備の手が回る様に成った状況が理解出来ますね。
余談ですが、戦国時代に旧間宮領にいて江戸末期に里正(庄屋)に成っていた旧北条家臣団の名字に星谷はいません。
ただし越前朝倉家臣に星谷家がいると沼津市では伝承しているそうですから、そもそも朝倉家の旧主斯波家臣に星谷家がいた可能性はあります。
北条家臣にも朝倉家がいるのは斯波家が南北朝時代に関東執事を務めていた名残りでしょう。
以前にコレ⤴️品濃白旗神社の記事で少し書いていますが、南北朝時代に近くの秋葉郷(戸塚区東戸塚~品濃辺り)に柴田勝家高経公が関わっていたり、足利尊氏公の御実弟足利直義公の頃に星谷家が杉田郷に関わっていてもおかしくはありません。
そして朝倉家は
右馬助(うまのすけ)朝倉政景が戦国時代の北条家臣として横須賀市の浦郷や追浜辺りや、伊豆半島三島市玉川辺りを支配していました。
この朝倉家の朝倉平次郎と言う武将が間宮家と玉縄衆と言う軍団で同僚だった事も解かっていますし、
南区太田にも朝倉又四郎と言う武将がいました。
ただ、峯町の星谷サンは北条家臣朝倉家の家来ではないでしょう。寧(むし)ろ旧間宮領にいる朝倉家は玉縄衆朝倉又四郎が豊臣秀吉による北条家改易後に本牧奉行、佐渡金山奉行、生野銀山奉行に成っていた間宮家を頼って江戸時代に移住して来て家臣化した一族かも知れませんね。

星谷の苗字を名乗る武将は戦国時代~江戸時代初期、そして現代に付近にいませんが、他の北条家臣団の苗字を持つ大地主達は現在も存続します。
この地域の地主は槙田家、塩沢家、大塚家、苅部(軽部)家、小原家です。
近くでは金子家、岡本家、野本家、内田家、市村家、荒井家、斎田家、北見(喜多見)家、朝倉家、笠原家、田野井家、山野井家、高梨家、武田家です。
もっと離れて南区まで行くと、森家、並木家、佐々木家等の蒔田吉良家臣団の名前が蒔田吉良家菩提寺の勝國寺の檀家さんに沢山いたりします。
加えて磯子区港南区地域では間宮一族分家や系図上養子が入っていると伝わる松本家、武内家、間辺家がいます。
沼津市の伝承では朝倉家臣星谷家がいるらしいですが朝倉はこの阿弥陀寺や護念寺近辺の峰地域に地主はいませんし、北条家臣朝倉家の更に家臣が杉田郷の地頭では北条家の公式記録の北条所領役帳に記載された間宮家の所領の歴史と整合性がありません。
どうも北条氏照公が元服前の藤虎丸時代に崇拝し、元服して北条氏照と名乗ってからも“陣屋”=“宿舎”としても利用していた座間市の星谷寺(しょうごくじ)辺りの現代の地名は“入谷”ですが、元々は星谷(ほしのや)が正式な地名なので、その辺りが出自でしょうか?
だとしたら、遠い祖先は横浜市港北区に移住して茅ヶ崎城代と成った座間家と親せきだったかも知れませんね。
この茅ヶ崎城主は平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公の協力者だった摂津源氏多田行綱公の関東における城館でしたが、戦国時代に入ると北条家臣座間家が城代を務めた場所でした。
 
駿河国戸倉城近く沼津市大平に、元今川家臣で後に北条家臣と成ったと言う星谷姓の武将がいて城館跡が有るものの出自は不明、沼津市では資料がなく、間宮や江川家と関わり深い伊豆の国市でも資料は無く、座間市にも全くありませんでした。
しかし現在も鎌倉時代位の星谷家の出身地域と思(おぼ)しき座間市~海老名市~寒川町辺りには星谷姓の家が点在するので、座間市入谷(旧:星谷)が出自“くさい”所ではあります。
偶然ですが、座間家の上官に当たる大曾根城主、小机城代だった笠原信為公の笠原家も伊豆出身で、その一族の笠原綱信公の養子、笠原政晴が戸倉城主を務めています。
何だか座間家と星谷家は笠原家与力として北条家で編成されてた家も存在した可能性があります。
しかし星谷家について現代では何も解りません。

・・・星谷家が座間市出身と仮定してすると・・・

南北朝時代に鎌倉公坊足利義詮公家臣になり・・・
関東執事の斯波高経公の与力として配属され南北朝時代に峰町辺り旧矢部野村を治めた分家の星谷家がいて・・・

足利尊氏公の二男、足利基氏公が鎌倉公方になり伊豆国一帯を自身の与力で固めた際に伊豆に入植した星谷家と、磯子区峯町一帯に地頭として残り室町時代初期まで存在した星谷家がいて、それぞれ別々の運命をたどり・・・
横浜市に残った鎌倉公方与力だったかも知れない星谷智久公は宅間上杉与力となり・・・

更にその後、永享の乱頃には扇谷上杉派の与力となり、北条氏綱公が扇谷上杉家と対立すると湘南に勢力を張っていた北条家臣間宮家により駆逐されたのかも知れません。
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※写真は伊豆半島、田方郡函南町“間宮町”の“間宮南”交差点。
もし、このプロセスならば阿弥陀寺を江戸時代に中興した苅部家の領主、間宮家が足利基氏公の家臣として近江国から伊豆国田方郡間宮、今の函南町間宮に移住し神奈川県東部に勢力伸長したプロセスと酷似しており有り得ると思います。
しかし新編武蔵風土記稿に話を戻すと、星谷家は室町時代末期にも杉田郷には名が見えず、安土桃山時代にも、江戸時代初期にも名が見えず、現代の地主にも名が見えず・・・
新編武蔵風土記稿の記載通りなら地頭なのに江戸時代中期の一時代だけいるのはおかしな話しだと個人的には思います。
・・・星谷家は北条家が武蔵国域を支配し杉田郷が間宮家臣団の支配地に組み込まれた頃には磯子区磯子城主の平子家と同じ様に駆逐されたと考えた方が自然でしょう。
平子家については以前書いた記事があります。
コレ⤵
 
仮に江戸時代に“地頭”と言うか在郷武士だったなら、隣の六浦には今も江戸中期に大名として入って来た米倉さんが横浜市大の近所の六浦藩陣屋跡に普通に現代の家を建てて住んでいますし、江戸時代中期に地主侍なら今も間宮家臣団の他の地主同様に現代の大地主としているでしょう。
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※江戸時代の六浦藩陣屋跡の旧藩主米倉サン家の石段。
米倉サン家のこの石段は陣屋(邸宅)の裏口だったらしいです。。
ちゃんと米倉さん家の奥さんに許可貰って撮影してますよ!
だから間宮家臣団や六浦藩主米倉家の事を踏まえると江戸時代の大地主なら今も大地主として住んでいるはずですから、星谷氏が護念寺の前身、御念寺や阿弥陀寺に関与したのは風土記の“宝暦”の記載は誤りで“宝徳”年間、永享の乱前後の話だと個人的には思います。

又、隣村の栗木村の項目でこうも書いて有ります・・・

古(いにしえ)は御料にて元禄九年に星合摂津守に賜い、今子孫鍋五郎知行す

・・・江戸時代の元禄の頃、徳川綱吉公の頃に磯子区栗木村に移住して来た星合サンと峯村の多分、南北朝時代~室町初期にいた星谷サンの項目は話がゴッチャに成ってるぽい雰囲気を感じます。
この古は御料にて元禄九年に星合摂津守云々~の御料は将軍直轄地と言う意味で“天領”だった、と言う事に成ります。

実は!
間宮家は鷹狩りに秀でた一族で氷取沢間宮家を開いた間宮綱信公は北条家の外交使者として織田信長公に謁見し鷹を献上したり、分家杉田間宮家が代々、徳川幕府鷹匠頭の職位を継承する程だったのですが、戦国時代~江戸初期に港南区~磯子区一帯を治めた間宮本家の笹下間宮家は下総国に転封され栗木を支配していなかったので、星合摂津守が一時期いた可能性は有ります。

まぁ~十中八九、星谷サンの話は間宮家が来る前の護念寺の前身の御念寺を復興した話と、似た元号と、隣村栗木村の星合サンの話を記者が頭の中でゴッチャのまま勘違いを書いちゃったのを昭和の出版社がそのまま丸写ししてそうな気がします。

しかし星谷知久公が足利幕府鎌倉府の家臣で在地領主として阿弥陀寺の奥院だった御念寺を支援したのだとしたら、それはそれで素晴らしい史話だと思います。
因みに、栗木のバッティングセンターは松坂大輔選手が横浜高校時代に練習に来ていたそうです


・・・話は飛びましたが(笑)・・・


護念寺と本院の阿弥陀寺は阿弥陀寺の旧境内地の逸話と元号の問題、そして星谷智久公の奉納したお金が永楽銭だった事実から、永楽銭が使われなくなっていた江戸時代中期の宝暦年間1750年代ではなくて宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

しかし1400年代の開基では、江戸時代の人から見て“古刹”にはならないでしょう。
ですから鎌倉時代より前の平安時代には御念寺と阿弥陀寺は存在していたのでは無いかと、近隣の御寺の文書に残らない寺伝からも予想がつきます。
例えば以前にブログで紹介した間宮家の笹下城跡の本丸直下にある成就院・・・
・・・ここは現在は浄土真宗高田派ですが草創期は法相宗だったと伝わるので、下手したら奈良時代~平安時代初期位の行基大僧正に開かれていて真言宗開祖の弘法大師空海和尚や天台宗開祖の伝教大師最澄和尚達の時代より古い可能性が有ります。
他にも・・・
・・・ここ杉田商店街の東漸寺は鎌倉幕府の重鎮、名越北条家の名越北条宗長公によって正安三年(1301年)に開かれたと記録上される臨済宗の寺院で関東十刹に挙げられる名古刹ですが、実は境内にある法輪塔は更に古い時代の物で御寺の伝承でも名越北条家によって臨済宗として再興開基される以前に天台宗だった事が伝わっています。つまり鎌倉時代以前の平安時代から存在する事が法輪塔から証明されている訳です。
更に・・・
・・・同じく杉田の妙法寺は前進の牛頭天王社が弘法大師空海和尚によって開かれた事が伝承しており、文和元年(1352年)に荒井光吉入道日荷上人によって立派な堂宇が建立され寺院化しています。
他にも幕末の吹奏楽発祥地で国家君が代とテニスの発祥地の本牧の妙香寺・・・
・・・ここも元は真言宗でしたが日蓮上人が自ら滞在した際に御寺の大檀那(オーナー)だった佐藤家が日蓮上人に惚れ込んで門徒になり、日蓮宗に改宗した歴史が有る御寺です。滞在時の浴衣姿の日蓮上人の彫像が祀られている変わった御寺だったりもします。
この様に、横浜市域だけでなく鎌倉幕府~室町幕府の武士が多くいた地域の臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、法華宗等の鎌倉時代に流行したり起こった宗派は元々は更に古い奈良時代に始まる修験道や法相宗、平安時代に始まった真言宗や天台宗の寺院だった場所が多くあります。

更に護念寺と阿弥陀寺の歴史の証明となる星谷智久と言う“地頭”が護念寺の長野山が元々御城で不便だから色々ショートカットの道作ってあげた・・・と書いて有ります。
地頭職は鎌倉幕府以来の武士です。つまり鎌倉時代に既に地頭だった星谷氏が室町時代の宝徳二年(1450年)城跡と言っていると言う事は、既に室町時代には使われなくなっていた鎌倉時代か平安末期の城跡と言う事を言っている事に成る訳です。
鎌倉城防衛網円海山 久良岐のよし

護念寺の在る円海山と尾根伝いの円海山山系の観音山、大丸山、関谷見晴台、荒尾城(御伊勢山、権現山)、青ヵ台城(能見堂~阿王ヵ台~赤井)は完全に人の手が入って城塞化されていると小生はずっと主張している通り、鎌倉防衛網を構築し所々の要所が城塞化されており、護念寺の洋光台側の急峻な崖や各所の尾根道の掘切りも城跡だからと、この文章で証明されます。
本当、護念寺を取り巻く竹林の中には、竹林に成ったが故(ゆえ)に高速道路をブチ抜かれたり墓地を造成した場所以外は旧地形が良く残り、恐らく江戸時代には畑にも成っていたであろう、明らかにお城の帯曲輪郡と竪堀が幾筋も現存しています。
ここ円海山は飛鳥時代から東日本最大のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡猿田遺跡一帯で鉄が生産され、刀槍の材料となる玉鋼(たまはがね)を輸送するのが尾根道でしたから、流通や軍兵の交通を監視する要塞や関所が必要だったのでしょう。
実際、この尾根道だけを伝って昔は鎌倉に行きるだけでなく、更に尾根続きの鎌倉十二所からは元は真言や天台の修験者が御参りしていた岩殿寺や神武寺や鷹取山、更に三浦半島まで山の中の道が繋がっていました。
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ですから現在も鷹取山~神武寺の尾根道は修験者の人達や娯楽としてハイキングを楽しむ人達を見かける事が出来ます。

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醫王山 来迎院 神武寺

神武寺は現在も山の中で神秘的な雰囲気を保っています。
神武寺は神亀元年(724年)の開基(かいき=開かれる事)と伝わっています。
古代の街道は尾根道だったので、その中継拠点や湧水地だったので飲用水補給の聖地として神武寺は開かれたのでしょう。
・・・同じ様な立地の護念寺も、もしかしたら前身の御念寺は相当古いのかも知れませんね。

威徳明王が祀られたであろう一心堂の場所の話から威徳明王の像に話を戻します。
威徳明王の彫像は弘法大師の手彫りと伝承しています。
天長年間(824~834年)に弘法大師空海和尚が守敏僧都と法力争い(密教の問答だろう)をして威徳明王の威力で勝った事、更に威徳明王に関する宗論で守敏僧都を言い負かす事が出来たので掘った像が護念寺の威徳明王で嶋津又三郎の姫の竹姫様から元は鎌倉の浄土宗大本山光明寺の僧侶だった護念寺中興開山の淸蓮社浄譽圓海和尚(明和三年:1766年没)が拝領したと記載があります。

更に清和天皇(850~881年)の守り本尊だったのを嶋津家に伝えられていたと記載が有ります。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている事から亡くなる直前に彫られた仏像と言う事に成りますね。
そして、その後清和天皇に渡り、清和天皇の子孫の島津家にどういった経緯かは判らないものの伝わり、円海山に御縁が有って祀られる事に成った訳です。

次に竹姫は嶋津家=島津家の姫様は誰かと言う話ですが、実はココに誤解を生む罠が有ります。

この場合の竹姫の“姫”は父子関係ではなく尊称の“姫”なんですね。つまり御妻君も姫様と呼ばれるケースが有る訳です。例えば北条家から蒔田吉良家に嫁いだ“さき姫”や、前田家から義叔父の秀吉公の仲介で宇喜多秀家公に嫁いだ豪姫等は有名です。これを考慮すると謎は直ぐに解けます。

1766年に亡くなった浄譽上人が竹姫様から威徳明王像を貰っているから、威徳明王像が伝えられたのは1700年代と言う事が判ります。

この竹姫の“御身内”の嶋津又三郎サンですが、実は島津家歴代当主は“又三郎”を名乗っているので世代的には第五代薩摩藩主の島津継豊公の時代位の話しと解かります。
そして島津継豊公の継室(後妻)が竹姫なんです。しかも竹姫の人脈から更に凄い人達の名前が登場します・・・

御実家は権大納言と非常に地位の高い京都の貴族で、竹姫のフルネームは清閑寺竹姫、戒名が浄岸院です。
尚且(なおか)つ!徳川綱吉公の養女と言う立場に当たる人物です。そして薩摩藩主の妻。
凄いですね~!
当時の阿弥陀寺と奥院の護念寺の寺格の高さが解かるエピソードです。
何で竹姫が威徳明王を護念寺に寄進したか不明です。
もしかしたら・・・
御父上の継豊公が護念寺の圓海和尚に鍼灸治療をして貰ったのかも知れないですね。
圓海和尚の弟子で実際に護念寺の再興開基に寄与した法雲和尚と言う方は鎌倉の光明寺の僧侶だったそうですし、関東の浄土宗は織田信長公や徳川家康公が浄土宗(当時は法華宗として時宗や日蓮宗と一緒の別派閥と認識されていた)の信徒だった事から特に江戸幕府開府以来、他宗派よりも強く徳川幕府の庇護を受けていたので、その様な御縁が有っても不思議では無いんですね。
続きの阿弥陀寺の記事で書きますが、なんせ本院の阿弥陀寺の戦国時代の御住職は浄土宗のトップと京都知恩院で務めた任蓮社然譽了鑑大僧正ですから、この方の繋がりが有れば当然ながら徳川幕府とのコネクションは深いでしょう。
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現代には護念寺の周りは私有地だらけになり横浜市の今の市長の政策では私道を遊歩道として通行出来なく成ってしまい円海山護念寺に通じる古道だらけですが・・・
今の道は今の道で素敵ですね。
この竹の道を過ぎると、清浄園と言う御寺の院号からとった墓地に辿(たど)り着きます。 
そこからは横浜港が一望でき、ランドマークタワーやベイブリッジが見えます。
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この日は生憎の曇天でしたが、紅葉に色づく円海山の眺望に満足できました。
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御住職は御灸の施術を予約すると直接面会出来ますし、色々と昔々の横浜の風景や文化の御話を聞けて楽しそうです。
今はこの奇麗な景色の中に有る古道は間にゴルフ場は横浜横須賀道路が出来たせいで完全に寸断されてしまっています。

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とにかく景色は良いですよ!
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実はこの円海山山系の大丸山含め、この地帯が昔の久良岐郡と現在の横浜市で一番標高の高い場所なんです。
・・・と、言っても海抜300mくらいですが、それでも海から2km程度内陸に入っただけの沿岸部なのでだいぶん高低差があります。
だから景色の素敵な場所でしょう?

護念寺の本院だった「阿弥陀寺」と「白山神社」の話は、また改めて別記事にまとめましたので別に御覧頂ければ幸いです! 


以上、久良岐のよしがお届けしました「強情灸」と「護念寺の凄い歴史」、楽しんでいただけましたでしょうか?
きっと皆さんの御自宅の近所にも凄い歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や御城の址の山が有りますよ!
ちょっと御近所を御散歩して、神社や御寺や城址の公園の看板を読んでみませんか?
思いがけず凄い人達と土地の繋がりを知れば、更に地元に愛着が湧くかも知れませんよ?

ではでは、次回は護念寺の本院だった円海山、峰の阿弥陀寺と白山神社の記事でお会いしましょう!


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横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ近隣の庄戸地区に移転してしまったんです。
昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 
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神社・仏閣・パワースポット巡り に参加中!
滝山城と言う城址があります。
東京都八王子市に、それはそれは広大な規模で良好な保存状態を保たれた関東屈指の名城です。
後北条氏の一族の北条氏照公が築城し城主を務めた城で、築城当時は小田原城に匹敵する関東で1、2を争う規模を誇った大城郭でした。
現地、八王子市と有志の城址保護の取り組みは素晴らしくクオリティも高く、素人が訪れても各防御施設が解りやすいように絵図付きの看板が設置されています。
学術的にも意識が高い公開方法ですね。

入口は何箇所かありますが、下の写真の滝山街道沿いに在るワークマンと言う店を目印にすると良いと思います。
※滝山街道を紹介した前回記事は「ココ」←クリック!
そのすぐ横に入口の看板が有ります。
この目印の横には丁寧な案内看板もあり、更に城址の説明冊子も看板横のポストで無料配布されています。
ここに無くても城址の中の千畳敷や弁天池付近にも配布場所が有るので探してみて下さい。
こんな↓看板
国定公園にも指定されている部分と都立部分が有ったり、八王子市教育委員会と有志で調査したり連携がシッカリしてるみたいですね。
我が神奈川県や横浜市は…
東京都や八王子市と比較すると教育委員会の意識の低さと知識不足具合が恥ずかしいばかり。

では、まず、現地航空写真と比較する現地にある縄張り図をご覧下さい。


滝山城址は入口から関東の城好きが狂喜する保存状態で出迎えてくれます。
…いきなりの良好な保存状態の切通し。
そして、典型的な北条流の「食い違い虎口」、食欲に例えると、もうコレだけで白飯何杯でも食べれるレベルに歓喜しました。
食い違い虎口と言うのは直角S字クランク状に進入路を削り込んだ入口で、入って来た敵兵は常に正面から弓矢や鉄砲で射撃されてしまう防御構造なんです。

しかし…
小生が今迄のブログで紹介した城址と違い、この滝山城址は一々記事で説明しなくても現地に詳細な「施設図解看板」が有るので、その写真を沢山載せた方が解りやすいかもしれませんね。

とりあえず、図解の無い場所は解説します。

入口の食い違いの切通しを抜けると右上の一段高い場所が三の丸跡です。
三の丸には城址に良くあるお稲荷さんが鎮座してました。
 
 
登城できた事を感謝してきました。
親切丁寧ですよね〜?
この様な看板が随所にあります。
どうやら、さっきの食い違いの切通しは天野坂と言うらしいです。
きっと天野サンと言う北条氏照公の部下がいて、あの付近に屋敷が在ったんでしょうね。
天野家と言えば伊豆国出身の鎌倉武士の家系であり今川家の重臣でもあったので、北条早雲公が伊豆を手中に収めた頃に伊豆の在地の天野家子孫か、今川家臣天野家の分家が北条家の家臣に成ったいた可能性は非常に高いと思います。

因(ちな)みに滝山城の事ですが、アホなWikipediaには武田信玄2万に三の丸まで攻め込まれ、3千で守る滝山城は「落城寸前に追い込まれた」とか書いたド阿呆編集者がいますが、逆に現地見ると…
「あ〜武田信玄は大軍で入口しか落とせなかったんだな〜」
…と良く解ります。
Wikipediaに適当な記事を書いたアホは恐らく現地を一度も訪れた事もなければ滝山城址の「縄張(なわば)り図=城の見取り図」すら見ないで適当に書くような人物なんでしょう。
しかも、滝山城は三の丸を過ぎてからが殺傷能力の高い防御構造のオンパレードに成るんです。
「武田信玄、三の丸より内側は落とすどころかお手上げ状態だったんだな」
…と、良く解ります。

入口の天野坂の左手には、北条氏照公の家臣小宮家の屋敷が置かれた小宮曲輪(くるわ)」と言う施設が待ち構えています。
この小宮曲輪、風化した現在でさえ、掘り底〜曲輪の土塁まで高さ10m以上有ります。
当時は空堀は更に1〜2m深く、土塁も1m以上は高かったはずなので比高13m位、つまり3F建てのビルの屋根位の高さが有ります。
※小宮曲輪上から↓下を見た写真
深い空堀と切岸と土塁の小宮曲輪を侵入者は登る事も出来ず、道なりに進むしか無く、曲輪上の守備兵から雨あられと矢弾が放たれハリネズミみたいに串刺しにされる訳です。

その先には第二関門の「枡形虎口(ますがたこぐち)」が待ち構えています。

今は土塁が有りませんが、ここに行く手を阻む枡形虎口の食い違い状の城壁が有りました。
ここまで攻め込むと三の丸を落とせます。
逆に言えば武田軍はこの先に進めなかったと言えます。

さて、ここを抜けると小宮曲輪への進入路と弁天池の跡が在ります。
下の写真の窪地が弁天池の跡です。
実は、この弁天池と大池の2つの池が北条氏照公の内政力の高さを示す証拠なのですが、先ずは弁天池の名前の由来から説明します。

北条家は相模国を本拠地とする武家なので、鶴岡八幡宮や関東武士団の礎を築いた源頼朝公や鎌倉武士の文化を引き継いでいます。
現代でも鎌倉武士の居た地域には必ず「御霊神社」か「八幡宮」か「弁財天」の神社の何れかが有ります。
ですので、源頼朝公や鎌倉武士団がそうであった様に、北条家も江ノ島弁財天や鶴岡八幡宮の旗上弁財天を自領に勧進(かんじん=末社を作る)して信仰していました。
江ノ島弁財天は日本三大弁財天なので、とても御利益有りますしね。
滝山城の弁天池跡、発掘調査の結果、真ん中に島の跡があり名前の通り「弁財天」を祀(まつ)っていた事が判明しています。
次は弁天池が何故、北条氏照公の内政力の高さを示す証拠に成るかですが…
実は、北条氏照公、滝山城を本拠地にしていた頃に新田開発にも力を入れていた様なんですが、水田の水量を必要に応じて安定供給出来る様に弁天池と大池の水を灌漑用水として放水する政策をとっていました。
この効果で、麓(ふもと)の灌漑水田のある村は他の領域内の水田より石高が高かったようです。
戦国時代に新田開発をする武将自体が稀(まれ)で、それだけでも内政力を評価出来るのですが稲作の灌漑技術向上を目指した武将は余り多くは無いんですよ。
北条家の宿敵武田信玄と、北条氏照公は水と油の関係でしたが、どちらも政治力は高かったんですね。
武田信玄の場合は治水と生産力向上を、河川の流路を変える事で実現しました。
これは、甲州も八王子も水害に遭いやすい事や水田に適さない土地が多く苦慮した結果の技術向上だったのかも知れません。

さて滝山城址に話題を戻します…
小宮曲輪入口と反対、弁天池を右回りに進むと三の丸の上から千畳敷と呼ばれる曲輪に繋がる「コの字型の土橋」と食い違い虎口が侵入者の行く手を阻みます。
「土橋(つちはし)」と言うのは、文字通り「空堀に通路として削り残した土の橋」なんですが、滝山城のここの「コの字型の土橋」はかなり特殊で、他の城には余り有りません。
横浜市港北区小机町にある同じ北条家の小机城には「十字状の土橋」が有りましたが、やはり、この複雑な構造は築城名手北条家独特の防御施設であり、高い攻撃力を備えていました。
※小机城記事は「ココ」←クリック!

※ピンクのは小生の携帯外部バッテリー
写り込みすんません。

コの字型土橋の上から進行方向千畳敷を見る。
このコの字土橋、当時は当然今より高く道幅も狭かったはずです。
見て貰えば一目瞭然ですが、侵入者はいくら大軍でも土橋を渡る際には細長く隊列を整列しなければ通れません…
しかも、常に正面の防御施設の土塁に並んだ木盾や竹束(たけたば)の隙間から、防衛側のスナイパーが弓矢や銃で狙撃してくるので侵入者側は大損害を受けます。
北条流の築城術は、この構造を多用します。
そして、伝承によれば武田信玄は2万の大軍でも三の丸までしか落とせなかった…
つまり!この「コの字型土橋」より先に進む事は出来なかった訳です。

この先に千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。

名前と広さからして、ここには殿様や奥方様の居住する御殿や、部下と政務を行う事務所や使者と謁見する応接間が有ったのかも知れません。

この千畳敷と次の二ノ丸を繋ぐのが「馬出し」と言う施設です。
下の写真は典型的な北条家の馬出しの「角馬出し」と呼ばれる、防御 兼 出撃用の城門です。
この復元予想図が下の案内板。

この馬出し、当時は土塁があり、この場所からも侵入者を狙撃出来た訳です。
徳川家康が大坂城を攻めた時に、真田幸村が大坂城総堀に築いた出城と言われるのが巨大な「武田流の丸馬出し」で、やはり絶大な防御力=殺傷力を発揮しました。
因みに小田原城に苦戦した豊臣秀吉は、自分が大坂城を築く時に、北条流の築城術を取り入れ大坂城に総堀を築き、更に北条流の「障子堀」にしていました。


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滝山街道と言う道が東京都八王子市に有るのですが、戦国時代に武田信玄が東京神奈川方面に略奪の為(ため)に攻めのぼって来る道でした。
武田信玄や上杉謙信って実は南関東の農民にとっては、鬼畜以外の何者でも無い存在だったんですよ。
冬に成ると略奪に来るんです。

上杉謙信のお家芸は略奪よりも人身売買でした…
合戦するたびに兵士達に婦女子を拉致させては奴隷公設市場を開いて人身売買していました。
鼻から関東管領の職務を全うする心算が無かったみたいですね。
茨城の小田城なんか悲惨な状況だったみたいですね。
彼が「義の人」と呼ばれたのは、室町幕府13代将軍足利義輝公から「忠義」を褒められたからで、「正義や仁義の義では全くありません」でした。

武田信玄については多摩地方の伝承にはこんな言葉があります…
甲州人の通った後には草も生えねぇ!
…どんだけ酷い略奪だったか伝わりますよね。

で、その武田信玄がよく略奪に来た場所が今の滝山町を含む八王子市や相模原市辺りなんです。
その滝山町には滝山城と言う名城と、城主の北条氏照(うじてる)公が開基(建設する事)した少林寺と言う御寺が有ります。
武田信玄が2万の大軍で滝山城に侵攻したものの、たった3千で守る北条氏照公の前に入口の三の丸迄しか進入を許さず防戦に成功した堅城でした。
しかも八王子市は史跡保護に熱心なので、滝山城址はかなり広大な規模で良好な状態で保護公開されています。
今回は滝山古道の事を話すので、少林寺と滝山城については又、次回にブログ記事にします。

滝山城や少林寺を見学に行くと、必ず通る道なのですが、今日は思いがけず恐らく戦国時代の滝山街道と思(おぼ)しき道を見つけたので、そこを写真付きの記事で紹介したいと思います。
その道を歩きたい方は、ここを目印にすると探しやすいですよ。
少林寺の入口、お地蔵さん達がいる辺り…
「不許葷酒入山門」の石碑。
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
「飲酒の上で寺に入る事は許さない」
…うん、素晴らしい。仏教の本分を守っている寺院ですね。「※訂正報告※小生ずっと「葷」を「当の旧字体」と見間違え恥を晒しておりましたが、神奈川区の人生の先輩より善意の御指摘を賜り訂正した事を書いて置きます。恥を無かった事にしては進歩無いですからね。」

つまりね、初詣なんかで寺の門前町なんかで酒飲んでから参拝する人がいますけど、アレは仏教的には禁忌を犯してるんですよね(笑)。
…まぁ、神社なら飲酒は失礼では無いんですが、そこら辺はちゃんと区別しないと、初詣するくらい神仏信じてるなら飲酒してから寺院参拝はバチ当るかも知れない。

さて、お地蔵さんの前を真っ直ぐ突っ切ると現在の滝山街道が有りますが、その手前に私有地みたいな路地が有ります…
この道。
何か庭みたいに見えるけど、歴史オタクの感が…
「この道幅とクネリ具合は旧街道くさい」
…と言ったので、滝山城址行くまで、この道?を歩いてみようと思いました。

で、その右手滝山城の丘の裾野に延びる道?を歩くと直ぐに、そこが旧街道である証拠が登場しました。
一段高い場所に小さな御社が有ります。
昔の人は街道沿いの少し高い場所に御社や、お地蔵さんを祀ったものなんです。

で、その庭化した様な道みたいな場所を過ぎると完全に旧街道の形状を残す場所に行き当たります。
昔の街道って河川の氾濫で被害を受けにくい様に少し高い位置に置かれたものなんです。
道幅もこれくらいなんですよ!
現代人の感覚だと狭いですよね?

「鎌倉古道」や「鎌倉武士早駆けの道」、箱根の「旧東海道」も道幅はこれくらいです。ただ、平安~鎌倉時代に開かれた道は尾根沿いが多かった。
これは当時の気候に関係が有ります。
弥生時代に近い程、時代を遡(さかのぼ)る程、海の位置が高く内陸まで海面が広がっていたり水の影響が人の生活範囲を限定してたんです。

室町時代~江戸時代くらいは、こんな河原より一段高い場所。
旧街道から私有地の向こうには今の滝山街道が見えます。

明治時代に成ると馬車道に成り、馬車に合わせて急勾配を避けた遠回りの道が多く成りました。
…馬が坂道で耐えらんないからね。

多分、この旧街道、明治時代に成るまで使われていたんだと思います。
並木が有りますしね~。
この並木の樹木は若いです。
昭和に植林されたんだろうけど、昔から杉を街道沿いに植える習慣が有るなら、江戸時代に始まった習慣ですから。
織田信長公は戦国時代に既に並木を街道沿いに設置してましたが…
北条家でその類の逸話は聞いた事がないので関東では江戸時代からの習慣。

そこを過ぎると学校の敷地に行き当たります。
道も左に急カーブし今の滝山街道に戻されます。
アレ?
…何か不自然だなと思い、道をカーブした所まで戻るとなるほど理由がわかりました。

旧道は学校に一部分払い下げられコンクリートに侵食され歩く人がいなくなってるんですね、多分。
※ピンク色の写り込みは小生の携帯外部バッテリー

しかし、この学校敷地横の登り坂、旧街道から続いていたと思われる並木が続いています。
で、この坂は旧街道だと予測して突っ込んでみたんですが…
先で完全に学校の物置場にされていて進入すると怪しい人になるんで、ひとまず断念し今の滝山街道に出ました。

でもね!
土地の登記簿見れば多分、「道」って書いてあると思いますよ!
学校が歴史を知らず不法占拠してるか、さもなくば現在の滝山街道が整備された時に払い下げられたかのどちらかでしょう。

今の滝山街道に出たら出たで楽しいモノを見つけました!
乗馬クラブがありました。
まさか、こんな街道沿いに有るとは…
土曜と言うこともあり、沢山乗馬してる人がいました。
旧道沿いに純真女子大ってのが有ったから大学生も多く通うのかな?

で旧道散策に話を戻します。
この時点で旧道散策まだ諦めきれない小生…
乗馬クラブさんが道を挟んで納谷(なや)代わりにしている建物の横に、道の名残りを見つけて入ってみるとビンゴ!
さっきの学校の敷地の方から伸びてくる路盤(ろばん)がまだ有りました!
この道の状態から察するに、この道が使われなく成ってからまだ日は浅そうです。
多分、あの学校の拡張工事が行われたであろう何十年前のつい最近の話でしょうね。

しかし、この先は完全に道は消失し墓地化したりしていたので室町時代~江戸時代の旧滝山街道散策はひとまずこれまで。

最初の方で「平安時代~鎌倉時代の道は尾根道だらけ」と言う話をしましたが…

実はその平安時代の道も今回見つけてきました。

…と、言っても滝山城址のある滝山の尾根全体その古道の尾根の一部分なんですが。
その事は滝山城の一部分でもある御嶽神社(みたけじんじゃ)に行くと解ります。
今の滝山街道を右手に滝山城址の丘を見ながら歩いて行くと途中、山裾に御嶽神社の入口を見つけれます。
近くに金藏寺ってのが有るはずで…
…したが有りませんでした!
地図上には金藏寺って御寺が有りますが、事実上の廃寺みたいで御堂がないのでランドマークにはなりませんでした。

ですから頑張って御嶽神社の入口石碑を見つけて下さい。
後の時代に作られた急な階段を登ると尾根道の左手側に、御嶽神社は在(あ)りました。
厳粛な雰囲気ですね。
本堂は最近建て直したようです。

この神社の由来を書いた石碑を読むと、滝山城築城以前は付近の丘一帯が古道だった事が解ります。
何故なら源義家公の逸話が記載されてまして…
少し、その話をからめて説明します。

この御社(おやしろ)の本堂は元は蔵王権現堂(ざおうごんげんどう)で、蔵王権現と言う日本独自の神道と仏教が融合した神様を祀っていました。
その蔵王権現って神様は南北朝時代に後醍醐天皇が御所にもした奈良県吉野の金峰山寺の本尊でもあるらしいです。
因みに、滝山町の金藏寺、昔は聖徳太子が作った仏像が御本尊だったらしく元は由緒ある御寺で、御嶽神社の別当寺でもあったらしいです。
ここの元「蔵王権現」の御嶽神社で石碑を読めば解ります。

この御嶽神社=蔵王権現堂は元々、滝山城に在りました。
…滝山城の曲輪(くるわ=防御施設)の名前からして「山の神曲輪」に在ったんだと思います。
もしくは本丸かな?
そこから移築されたんですが…
元の場所に在った時代、鎮守府将軍 源義家 公が立ち寄られ社殿を再建奉納し中興(ちゅうこう=復興)しているんです。
つまり前九年後三年の役の軍事行動の際に、ここ滝山城跡が尾根道の街道で、義家公が通ったと理解出来る訳です。

滝山城散策で御嶽神社をついでにお参りする心算が、思いがけない碑文に出会い大変嬉しかったですね~。
石碑を立てて下さった氏子さんに感謝!

義家公も関わられていたり、蔵王権現信仰の史跡でもあり滝山城址、本当、歴史的な価値が高い場所ですね。

では、次回は滝山城址そのものの記事を書きます。
今回はここまで!

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