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タグ:合格祈願

※赤字標記部分は加筆中、文字数が制限1万5千字を超えたので今後リニューアルし、地域ごとの索引も追加する予定です。

初詣向けに、今年も神奈川県内の凄い歴史が有り、実際に関わった歴史偉人達に御利益が有った神社仏閣をまとめて紹介する記事を更新したいと思います!
もしかしたら、皆さんの御住まいの町の神社や御寺を紹介するかも知れません!

以下の事を踏まえて神社仏閣を紹介します。
●神仏の神威や加護の種類と開基様開山様の歴史事実を踏まえて御利益を説明します。
●神社仏閣ともに開く事を表す用語を「開基」で統一します。
※「創建」は本来の中国由来の文字の意味では「社会や団体に用いる言葉」ですので後に日本で勉強(本来は無理をするという意味)と同じ様に誤用された言葉ですから開基とします。
●神様が直接住んでいた神社は開基を神様とします。
●紹介する順番は開かれた時期順もしくは直接関係する偉人の事績の古い順です。
●神社は平安時代の人から見ても古い歴史を持つ延喜式神名帳に掲載されている式内社と延喜式には掲載されていないけれど古代から聖地とされた式外社を先に紹介し、その後に新しい神社を紹介します。御寺も延喜年間以前の開基の古刹から優先的に掲載します。
●寺院は前身寺院からの歴史も踏まえて紹介します。
初詣の参考にして頂けると幸いです。

【歴史千年以上の聖地や延喜式内社と寺院に共通の特長】
[式内社/式外社/歴史千年以上の古刹の分布と古代の海岸線]
主な歴史千年以上の古社と古刹と古代の海岸線 久良岐のよし
※県域で白い部分が神話の縄文~弥生時代の海岸線です。
※海岸線地図は❝生命の星・地球博物館❞様の制作された物です。
神話時代から存続する神社仏閣は、古墳時代以降に成立した前鳥神社と平塚八幡宮を除き全て縄文時代の海岸線より内陸に所在します。これは湘南地区で古代海底だった場所が縄文時代の終わり頃から海退が進み更に地震による隆起や大河川の土砂堆積により湿地帯に成り、弥生~古墳~奈良時代に耕地化が進み人が住める様に成ったからです。
その為に弥生時代以前成立の神話が伝承する神社は全てが縄文時代の陸地部分の水源と河川合流地点、半島の先端部か付根に所在するか、所在地の旧境内地や近所には必ず聖地だった泉、山、奇岩が存在していています。そして古墳時代以後の成立の神社と寺院化した聖地は縄文時代は海底だった所に存在しています。日本古来の聖地は仏教でも大切にされ寺院化した場所が多く有り延喜式内社と同じ様な地形に所在しています。これ等は古代から受け継がれたパワースポットであり実際近くに縄文~古墳時代の祭祀場や古墳や集落の遺跡が発掘されています。
当然ながら関わったのも凄い人物ばかりで、その活躍の事績から御利益も証明されています。

‐‐以下神社仏閣一覧‐‐

大山阿夫利神社下社と大山山頂奥ノ院(延喜式内社)・・・関東総鎮守
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雨降山大山寺・・・関東三不動
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参道の温泉街と大山国定公園 
御利益:天候/海上交通/縁結び/地鎮/ボケ防止/厄除け

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大山夜間ライトアップ 公式拝借 久良岐のよし
場所
:伊勢原市大山(旧大住郡) 
開基:高龗神(たかおかみ)、大雷神(おおいかずちのかみ)      
中興:征夷大将軍   源    頼朝   公
   征夷大将軍   徳川 家光   公     
歴史:大山山頂奥社に石山権現大山祇神(おおやまずみのかみ)を祀る古い神社で、神社としては社殿が西暦3世紀頃に成立した。出土物は更に歴史を遡(さかのぼ)る事が出来て山頂からは古代人の大山祇神の信仰を証明する様に縄文時代~奈良時代の祭祀場が発掘されており土器等の祭器が出土している。 
富士山の神様の木花咲耶姫のお父さんの神様として武士や庶民の信仰対象に成った。 
源頼朝公をはじめ、名軍師太田道灌公や徳川家康公等、多くの成功者が大山阿夫利神社を度々訪れ信仰した。江戸時代以降は江ノ島参りや富士山登山、御伊勢参りと並び、江戸市民の憧れの観光地として栄えた。
その参道には現代も温泉街を抱え先導師(御師)の経営する宿坊が立ち並ぶ。        
天候の神様でもあり、古来、相模湾からの位置を知るランドマークが大山だったので築地市場関係者等、漁業と商船や商社の関連業界から信仰が厚い。又、日本の歴代統治者が信仰を集めた歴史から、多くの講が組まれ現在も大山詣は企業単位でも盛ん。 
周辺には樹齢千年を超す大山桜があり、秋には紅葉でも有名な観光地。       
参道の温泉宿坊は、どこも大山名物の豆腐料理と猪鍋、神代から続く酒造り文化の清酒を提供していますので日帰り湯や豆腐料理を堪能して見て下さい。
※大山阿夫利神社は下社で、御神体は大山の山頂に存在します。

有鹿神社奥宮(延喜式内社)・・・古代一之宮

御利益:雨乞い/農業豊作/縁結び/夫婦円満
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場所:相模原市南区磯部、勝坂遺跡の有鹿谷(旧高座郡)。
開基:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
   ※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
中興:天智天皇
   孝謙天皇
   清和天皇
   相模国司歴代
   海老名郷領主 海老名家 歴代当主
歴史:縄文時代の遺跡のど真ん中に存在する古社で、古代からの自然湧水の聖地として存在した。主祭神の有鹿比女命(あるかひめのみこと)が湧水の聖地を神格化し御祭した神社で、神奈川県下最古級の歴史を持つ。
神社の上の丘には勝坂遺跡も有って、縄文時代の生活を学べる竪穴式住居等が再現されている。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された歴史記録も残る。
現在では社殿こそ存在しないが、奥宮として石の祠(ほこら)が鎮座しており古代からの強い御神威によって御利益を授かれる。

有鹿神社本宮・中宮(延喜式内社)・・・正一位、飛鳥・奈良時代天皇勅願所
御利益:雨乞い/農業豊作/縁結び/夫婦円満
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場所:海老名市上郷(旧高座郡)。
   ※本宮は弥生時代の遺跡を内包し、奈良時代には国府鎮護として鎮座した。
   ※相模国国府跡や国分寺跡が徒歩30分程の場所に在る。
   ※相模原市の有鹿神社奥宮は有鹿比女命(あるかひめのみこと)が主祭神。
   ※奥宮は縄文時代にには存在。
開基:有鹿比古命(あるかひこのみこと)。
中興:天智天皇
   孝謙天皇
   清和天皇
   相模国司歴代
   海老名郷領主 海老名家 歴代当主
歴史:本来の有鹿神社の草創期の史跡は縄文時代の勝坂遺跡と共に相模原市緑区に現存するが、この本宮の場所も❝有鹿の社(もり=森)❞と言われた聖地であり弥生時代の遺跡が周辺から発掘されている。
ここが本宮と成った所以(ゆえん)は奈良時代に有鹿神社本宮一帯の海老名郷(昔は有鹿郷と言った)が相模国の国府と成った事に因る。有鹿神社は近所に現存する真言宗総持院は明治時代に成るまで有鹿神社と一帯に成り、その規模は塔頭僧房合計12坊や幾つもの摂社を巨大な境内地に抱える大規模な神宮寺だった。
更に、中宮、奥宮を抱え、天智天皇の時代の西暦664年に国家鎮護の祭礼が行われた。以後朝廷の崇敬を受けた。

深見神社・・・延喜式内社
御利益
:立身出世/雨乞い/農業豊作/土地開発/地鎮
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場所:大和市深見(旧高座郡)
開基:闇神(くらおかみ)
中興:雄略天皇
   征夷大将軍     源 頼朝 公
   渋谷庄領主     渋谷重国 公
   相模守護代     太田道灌 公
   相模守      北条氏康 公・・・以下歴代北条家当主
   大膳太夫     武田信玄
   徳川幕府寺社奉行 坂本重安 公
歴史:闇神(くらおかみ)と言う在地の神様がこの地を治めたのが聖地としての始まりと神社の縁起に伝わる。その後雄略天皇が社殿を造営して神社と成った。古くから存在して神社で闇神は雨乞いの神とされ、また境内社に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)も祀る事から古代からの農地開発と農業の豊穣に深い関わりが有って庶民~時代時代の権力者から崇敬を集めた。
神の龗は龍神を指し転じて水神の意味で有り、龍神は古来、雨乞いの神であり農業の神様でもある。
深見神社の縁起に記された社名由来の説明では古代、この地域に海の湾部が近在し❝深い海❞→❝ふかいうみ❞→❝ふかみ❞→深見と転化したのだろうと推測されているが、残念ながら深見神社周辺が海だった事実は無い。
深見神社の社名の由来のヒントに成る場所は玉川上水の取水堤の在る東京都羽村市に存在し、同市の田ノ上地区には古くから淵(ふち=川の深い場所=深水(ふかみ))に木製の龍を沈める雨乞い神事が行われていた事実が有る。もう一つのヒントは大山阿夫利神社の御祭神の一柱である高龗神(たかおかみ)が水神であり龗の字が龍神を指す事、この2つの事例を踏まえると深見神社の御祭神が闇(くら)い龍神である事、神社の社名が深見=ふかみ=深水に通じる事からも淵(ふち=底の見えない深水)にまつわる信仰と関係が有る事が解る。そして神社の背後には境川が存在する事からも社名の由来は龍神が住んだであろう境川の深水=深見と成るだろう。
この深見神社を信仰した武将達は皆、智勇兼備の名将で出世した人物ばかり。特に渋谷家は子孫親類が多く繁栄している。
境内には神奈川の銘木100選の一つ、春楡(はるにれ)の御神木が有る。

師岡熊野神社・・・式外社
御利益
:子孫繁栄/雨乞い/治水/勝負運/サッカー上達(?)
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場所:横浜市港北区師岡(旧橘樹郡)
開基:全寿仙人
中興:光孝天皇
   宇多天皇
   朱雀天皇
   村上天皇
   左京太夫  北条早雲 公
   征夷大将軍 徳川家康 公
   征夷大将軍 徳川家光 公
   征夷大将軍 徳川家綱 公
歴史:光孝天皇より「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を授けれれた朝廷公認の聖地。
縄文時代に海の真ん中に突き出した太尾半島の付け根だった部分に位置する神社で、「い」「の」「ち」3つの池を聖地として抱える天皇家の勅願所だった。海に突き出した半島だった地形なのに飲用に適した清涼な自然湧水が有る事から境内には縄文時代の遺跡も発掘されている。其の為、古代人にとっても霊場として大切な場所だった事が平安時代にも伝わっていて、源氏に繋がる歴代天皇からも信奉された。
朝廷から勅使が下向すると、「い」「の」「ち」の池で神事を行っていたが、神奈川県と横浜市の教育委員会が歴史的重要性を軽視した為に「ちの池」は埋め立てられて現在では大曾根第二公園に成ってしまった。
ここを支援した武将は不利な合戦でも奇跡的な逆転勝利を治め、子孫も大いに繁栄した歴史実績が有る。
近年はJリーグのアイコンが熊野社の御神紋の八咫烏である事から、サッカー選手を志す若者にも多く崇敬されている。

石楯尾神社・・・延喜式内社
御利益:災厄事故避け/敵人懲服/勝負運/学問上達/立身出世
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場所:相模原市緑区名倉(旧高座郡)
開基:日本武尊
中興:応神天皇
   文徳天皇
   出羽介   坂上石楯 公
   征夷大将軍 源 頼朝 公
歴史:石楯尾(いわたておの)大神が主祭神。
日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)を埋蔵し御祀りしたのが石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)の始まり。中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。
そこに応神天皇が東国へ行幸された際に行在所(あんざいしょ=仮御所)が建てられた場所に存在する神社。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。
早くに朝廷から官位を賜り国家鎮護の神社として大切にされた古社だが、武田信玄が三増峠合戦前の小田原城攻撃で進軍した際の略奪で放火され古代からの神器等は消失した。この合戦については武田信玄の重臣高坂昌信が主君の行為を「何も得る物も無く身内もボロボロに成った」と酷評する程に武田軍は苦戦したが、その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡・・・。
日本武尊の災難を度々守った天磐楯を御神体として始まった神社だけ有り、八方除けの一之宮寒川神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。又、社殿を破壊した武田家を滅亡させ一族絶滅させた御神威、武田家による社殿破壊以前に石楯尾神社を保護した北条家が豊臣秀吉に改易されても北条家の一族と家臣団を生存させ多くの北条家家臣団を徳川幕府奉行職や学者として大成させた御利益は群を抜いている。

走水神社・・・式外社
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奥宮・・・須賀神社、神明神社、諏訪神社
  &
御所ヶ崎・・・日本武尊と弟橘姫の行在所址
御利益:縁結び(恋愛)/夫婦円満/勝負運/陸海交通安全/料理上達/漁業守護/立身出世
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2014-11-02-09-11-35
場所
:走水神社:横須賀市走水(旧御浦郡)
   御所ヶ崎:走水神社近く、旗山崎公園内の丘。
開基:日本武尊(やまとたけるのみこと)
   ※軍神(勝負)/縁結び/陸海交通の神様
   弟橘媛(おとたちばなひめ)日本武尊の妻
   ※縁結び/夫婦和合/陸海交通の神様
   大伴黒主(おおとものくろぬし)久応
   ※神話上は料理と釣りの神様、歴史上は水軍の豪族。
中興:明治の元勲以下7名…
   東郷平八郎 公
   乃木希典 公
   伊東祐亨 公
   上村彦之丞 公
   高崎正風 公
   井上良馨 公
   藤井茂太 公
歴史:日本武尊と弟橘媛様の御一行が数日間滞在した場所に建てらた神社で神聖な場所。
日本武尊達が房総半島へ渡る際に、こちらの走水神社の前の海の左側にある御所ヶ崎に数日間滞在していました。その事から同地は御所ヶ崎と呼ばれている。
現代でも、この走水神社の前で神話の通り国道16号も東京湾をつっきって千葉県で国道16号が突然復活する。
大伴黒主(別名:久応)様は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没している。 史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、神話とも整合性が有る。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応しい。
御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊された。御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われた。
日本武尊と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
※社殿を御参りするだけでなく、背後の鎮守の山に在る奥宮を御参りして下さい。そちらが日本武尊の時代の社殿跡と伝わり、日本武尊所縁の三柱の神様の祠(ほこら)が存在しています。
※御所ヶ崎は現在は御所ヶ崎砲台史跡と成っていて一般非公開。見学には横須賀市の公園管理課へ事前予約が必要です。
※近くには走水海岸や観音崎といった海水浴場、観音崎灯台もあり綺麗な風景を楽しめる観光地が多くあります。走水海岸には「やまに」と言う旅館や「かねよ食堂」といった地魚料理の有名な店もあり、観音崎にも料理が評判の京急観音崎ホテルが在ります。初詣に合わせて宿泊し、周辺の猿島や横須賀見物をするのも良いです。
※東郷元帥がバルチック艦隊を撃破した際の旗艦:戦艦三笠も走水神社から車で15分程の汐入地区に公開展示されています。
    
橘樹神社・・・式外社
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子母口富士見台古墳(弟橘姫御陵
)
御利益:縁結び/夫婦円満/陸海交通安全/漁業守護
        
2014-10-25-06-32-00
場所:川崎市高津区子母口(旧橘樹郡)
開基:弟橘媛(おとたちばなひめ)
   ※神社背後の住宅街は弟橘媛の古墳跡
   ※弟橘媛の古墳は最高部が一部現存
中興:徳川幕府浪士組取締役 山岡鉄舟 公
   (浪士組は新選組の前身団体名)
歴史:日本武尊の軍隊が走水神社の在(あ)る場所から東京湾の海を越えて千葉に渡る際に、海が荒れて航行不能な事態に陥り、その危機を治めるべく弟橘媛様は自ら東京湾に入水する事で人柱になり海を鎮(しず)めた。
その際に当時は海面が現代より高く、遺品の髪飾りが流れ着いたのが古代海に面していた高津区子母口で、橘樹神社で背後の円い丘の住宅街は弟橘媛様の大規模な円墳の跡。神奈川県教育委員会が保護も開発事前調査も怠った為に大部分が宅地開発されて破壊されてしまった。
因みに弟橘媛様の衣類が流れ着いたのが千葉県袖ヶ浦市や富津市(元は布津と書いた)で、日本武尊が弟橘媛様を思い出し嘆いた場所が君津市(君はもう帰らないんだねと悲しんだ港)。
背後の宅地に弟橘姫様の古墳の頭頂部の一部だけが公園として保存されて現存する。神社は、その古墳の最高部に向かって築かれている。恐らく、古代は背後の古墳そのものが御神体で、神社は遥拝所だったのだろう。
考古学的には境内地周辺一帯は橘樹郡の郡衙だったと推測されており 、弟橘姫の御陵を周辺に古代から港を抱え栄えた村が広がっていた。

寒田神社・・・延喜式内社
御利益
:海外渡航安全/海上交通安全/勝負運/縁結び/夫婦円満
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場所:神奈川県足柄上郡松田町惣領(旧足柄郡)
開基:日本武尊
中興:大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   征夷大将軍 徳川家光 公
歴史:神社としての最初の社殿造営年代が仁徳天皇の時、西暦315年と伝わる古社。
伝承では神社造営以前に日本武尊が東征の際、この地に在った集落に滞在し、木製の御椀に注いだ酒を寒田神社の前を流れる川に撒いて神事を行ったのが聖地としての由来。その後、日本武尊が戦後に戻るとまだ御椀に酒の香が残っていた事から現在神社の前を流れる川の名前が酒匂川に成ったとされる。この神話を証明する様に、社宝の欅白木で作られている大小一対(いっつい)の御椀が現存し考古学的に弥生時代の形状をしている。
その歴史と日本武尊の武運に肖(あやか)る為に多くの武士が崇敬したが、源頼朝公や徳川家光公から社領を寄進されている。しかし江戸時代初期の酒匂川の氾濫で境内地と社領が広範囲に被害を受けて縮小し現在に至るものの、今でも寒田神社の境内は普通の神社と比較してかなり広大な規模を維持している。
後に日本武尊の御妃、弟橘姫様の御分霊も勧進された事から夫婦神となり縁結びの御利益も授かれる神社でもある。アメリカ最初の宇宙飛行士と成ったジョン・グレン氏も宇宙飛行前に寒田神社を参詣し、日本武尊の海外渡航の御利益に預かって地球圏外の旅から無事に帰還した歴史が有る。

久應山 攝取院 寶秀寺
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塩舐め地蔵(神大寺廃寺参道址)
御利益:料理上達/立身出世/交通安全
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場所:横浜市神奈川区六角橋(旧橘樹郡)
開基:大伴久応(黒主)
   日本武尊
中興:秀蓮社清譽達道上人
歴史:六角橋地名由来に成った聖地が後に寺院化した場所。ここに居館を構えていた大伴久應(走水神社社伝では大伴黒主)が日本武尊を自邸に招き歓待したとされる。その際に日本武尊が使用した箸が六角形で以後、宝とされ伝わっていたので六角橋の地名由来と成ったとする説がある。
実は古代の神奈川区域は“店屋(てんや)”と呼ばれ橘樹郡衙(ぐんが=郡の政庁)と久良岐郡衙を繋ぐ中継拠点だったと推定されている。新編武蔵風土記稿にも江戸時代に現在の神奈川区三枚町(旧:三枚橋村)に天屋(てんや)=店屋の地名が残っており古代の駅伝制の名残と紹介されている。実際、橘樹郡衙だった橘樹神社~久良岐郡衙跡と推測されている横浜市南区の弘明寺の中間地点に当たるのが六角橋を中心とした地域で、六角橋商店街は旧綱島街道に当たり、その先には古代から聖地だった師岡熊野神社が存在する。
宝秀寺の入口には大伴久應の供養碑と土饅頭(小型円墳)が有るが後世の供養塔替わりの物だろう。
宝秀寺の近くに塩嘗地蔵があり、昔は疱瘡(ほうそう)=皮膚病治癒の御利益が有るとされ大切にされて来たが、疱瘡治癒の御利益が有る神様は五十猛や素戔嗚尊を御祭神とする場合が多く宝秀寺と関係が深い日本武尊は走水で海上交通の神である須賀神社を信奉して素戔嗚尊を祀っていた。実はこの塩舐め地蔵前の住宅街の小道が古代の街道であり神大寺と言う大寺院の参道址だった。神大寺は寺名からするに前身寺院が神道的な聖地だった事が推測され、微高地に存在するのでこちらは元々は日本武尊か大伴久應を祀った神宮寺だったろう事が推測出来る。
大伴家は古代に氏族を多く関東に入植させた豪族で水軍を率いた佐伯家の一族であり天皇の前身の大王を守る近衛軍団一族でも有った。その一族は大伴部と呼ばれ神話でも日本武尊に叔母で元伊勢神宮(丹波国)の斎王だった倭姫から与力として大伴軍団と草薙の劔を貸与されている記載が有り走水神社と宝秀寺の神話とも整合している。
何にせよ神話に残る人物が直接関わり、大将軍を神格化した様な日本武尊に料理を提供して接待した接待奉行で料理奉行で水軍の武将の大伴久應が神格化された聖地の歴史を祀る寺院なので料理上達や立身出世の強い御利益が期待できる上に、海上交通交通安全の御利益も期待出来る。皮肉な話だが、近くには免停食らった人間を改心させる為に集める神奈川県警の交通安全センターが在ったりする。

高部屋神社=高部屋八幡・・・延喜式内社
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丸山城址公園(千鳥ヵ城址)
御利益
:漁業豊漁/農業豊作/陸海交通安全/武芸(スポーツ)上達/雨乞い
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場所
:伊勢原市下糟屋(旧大住郡)
※現在地に平安時代に末期に社殿を遷宮した。渋田川上流の大山の麓の聖域渋田山に本宮の祠(ほこら)が現存する。
開基:聖地渋田山周辺の古代人?
中興:糟屋庄領主 糟屋有季 公
   関東管領家 扇谷上杉定正 公
   相模守護代 太田道灌 公
   左京大夫  北条早雲 公 以下歴代当主
   北条家臣  渡辺岩見守
   征夷大将軍 德川家康公
歴史:本来の社殿は関東総鎮護の聖地、大山山系の一つ、渋田山に紀元前より存在したと伝承する。
御祭神は三筒男命(みつつおのみこと=住吉大神)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと=神功皇后=臺与?)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、磐媛之命(いわひめのみこと)と、いずれも海上交通や土地開発や海外渡航と戦争に関係の有る天皇や神様な上に、本宮の在った渋田山が弥生時代前後まで周辺が海だった事からも、水神様と土地開発と先勝祈願の神様としての性格が有る。
古来渋田山は奥津城と呼ばれた霊域だったので、古代人の関与が深い土地でもあった。
明治時代まで「汐汲み神事」が行われており、海岸線が後退し内陸16kmに神社が取り残されても歴代の宮司が徒歩で海まで海水を採取しに行く神事が続いていた。明治時代に伊勢原皇大神宮の管理下に置かれ伝統神事は途絶えたが、現在も社殿の注連縄(しめなわ)に海藻の「神馬藻(ホンダワラ)」を飾る。
平安時代末期に成ると現在の社殿のある丘陵に要塞を築いて糟屋庄を領有した糟屋有季公が、所領の総鎮守として渋田山から現在の高部屋神社の所在地に社殿を移転させた。本来の渋田山の本宮跡には現在は社殿は無いものの御神霊を祭る祠(ほこら)が今も鎮座している。
糟屋有季公は武勇に秀で、源頼朝公による逆臣源義経討伐で活躍し、義経の重臣佐藤忠信を討取り堀景光を逮捕する事に成功している。
戦国時代に渡辺岩見守により社殿が再建し、江戸時代に成ると徳川家康公より社領安堵の御朱印を賜り江戸幕府より保護された。
この高部屋神社は式内社で有る事から古来より有名で、江戸時代に江戸の町人や武士に流行した「大山参り」のコースに組み込まれており、神社の鳥居前の道も旧大山街道だった事や下糟屋の宿場町だった事で、御利益に肖(あやか)りに来る非常に多くの参拝客で賑わった。
又、いずれも天皇も「天皇」の呼称が始まる前の古代の正式な名のまま祀られている事も、由緒有る古社である事を物語っている。江戸時代には高部屋八幡宮の名で親しまれ雨乞いの神様として有名だった。
※高部屋神社の丘一帯は軍事拠点としても重要な場所だったので、鎌倉時代~戦国時代の歴代の領主によって城塞として使用され、各時代ごとに改修された事が解る城址公園として、近年国道建設で分断された丘陵の一方は丸山城址公園が整備されて見学出来ます。
※海に関係する神社だけあり、屋根の唐破風部分には浦島太郎伝説にまつわる彫刻が有ります。
※2017年に国の登録有形文化財に指定。

寒川神社・・・一之宮、延喜式内社
御利益:八方除け(災厄避け/交通事故除け)/縁結び/夫婦円満/芸事上達/TV視聴率向上
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場所:高座郡寒川町(旧高座郡)
開基:寒川比古命・寒川比女命
中興:雄略天皇
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   左京大夫  北条早雲 公・・・以下歴代北条家当主
   大膳太夫  武田信玄 
歴史:相模国十三座の内で早々朝廷から官位を与えられた3座の内の1座で、相模国の一之宮の格式を持つ。
追儺祭と言う神事が毎年1月2日に行われるが、現代の神道では仏教の様式の影響を受けた追儺祭を行う場所が多い中で、この寒川神社や京都の上賀茂神社等の生粋の古社は古代からの様式を継承しており境内に在る湧水池の水を夜中に神職が採取して神前に供える事で清前(きよさき=御神水)にした後に、境内の四方八方に清前を撒いて清める。
古代に一之宮にも定められた格式から朝廷や多くの武将に重視され雄略天皇を初め、源頼朝公や北条家歴代当主、武田信玄等から崇敬を集めた。
現代ではTV関係者の崇敬厚く、崇敬すると高視聴率が得られるとされ芸能人も多く信奉している。
又、長い参道は蛇行しており、古代の相模川河畔にそって参道が設置されていた名残と伝承している。
寒川神社が有る場所の目の前の相模川下流域は古代に海だったので、海岸線だった可能性も残る。
一之宮だった歴史と大和朝廷に重視された八方除けの御利益は、日本武尊を幾度も戦場で守った天石楯を御神体として始まった石楯尾神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。
※現在の社殿は平成に成って建て替えられた物だが、他の一般的な神社とは比較にならない規模を有している。

川勾神社・・・二之宮、延喜式内社
御利益:土地開発/紡績業繁栄/安産/厄除け
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場所:中郡二宮町(旧淘綾(ゆるぎ)郡)
開基:垂仁天皇=活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
   磯長国国宰 阿屋葉造(あやはのみやつこ)
   ※垂仁天皇の勅命で阿屋葉造が御社を造営。
中興:日本武尊
   磯長国造 大鷲臣命(おおわしのおみ/おおとりのおみのみこと)=和珥(丸邇)氏=丸子氏
   相模国造 穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)=鈴木氏
   依通姫
   鎮守府将軍 源 義家 公
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   征夷大将軍 宗尊  親王
   相模守   北条氏政 公
   征夷大将軍 徳川家康 公 以下歴代徳川家当主
歴史:佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国東部)国が分割されて、磯長(伊豆と相模西部)国も伊豆と相模西部に分割され、相模国東西が合併する際に、新設される国の国府=一之宮の座を佐賀牟国側の寒川神社と磯長国側の川勾神社が争った伝承が残る。これが神奈川県で行われる国府祭と言う伝統行事に成っている神事で、一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮までが神揃山に集まり論戦をする内容に成っている。
日本武尊を初め多くの古代からの支援者の名が伝わり、依通姫が安産祈願を川勾神社で行った伝承から、現在では広く安産の御利益で知られる神社と成っている。源頼朝公も妻君北条政子の出産の際に安産祈願を行い成就した事から社殿を造営寄進している。
上杉謙信と武田信玄の小田原侵攻時に放火され焼失、武田信玄との三増峠合戦が起きた1569年の翌年、北条氏政公によって社殿が再建された。徳川家康公も名護屋駐留前に祈祷を受けて、朝鮮出兵せずに済んでいる。
歴史事実から厄除け、安産祈願の神社として特に強い御利益が期待出来る。

比々多神社・・・三之宮、延喜式内社)   
御利益:酒造/防火/子宝/安産/農業/地鎮/縁結び/陸海交通安全

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場所:伊勢原市三ノ宮(旧大住郡) 
開基:神武天皇
中興:崇神天皇
        垂仁天皇
        持統天皇
        孝徳天皇
        聖武天皇
        淳和天皇
        相模国司  布施色布知公
        初代宮司  紀    益麿 公          
        相模国司  橘    峯嗣 公                      
        征夷大将軍 源 頼朝 公
        相模守護  三浦道寸 公
        征夷大将軍 徳川家康 公
歴史:比々多神社の縁起にある歴代天皇から信奉された逸話を証明するかの様に、神社の周辺のみならず旧本殿の在った場所や境内からも縄文〜奈良時代の遺跡や古墳が大量に発掘されている周辺地域を含めて文化的歴史的にも重要な神社。
古代より天皇家や将軍家から信奉され、背後に控える大山と大山阿夫利神社を信仰対象とした古代人の聖地を引き継いでいる神社。
また管轄する神社に関東で子宝安産の神様として有名な子易神社の本家本元を抱えている。
由緒有り歴史的価値に富む神社。
裏山のミカン畑の中の古代社殿跡の元宮でだが、そこに至るまでの広大な範囲が旧境内地。
元宮に至るまでの広大な土地は前政府の宗教政策と太平洋戦争の敗戦時の宗教政策で土地が接収された。
元宮に祀られる祠も自由に御参り出来る。元宮に行く途中の恵泉女子短大園芸生活科伊勢原校舎は古代の比々多神社境内地で埒免(らちめん:埒=防護壁、免=面=削平地・・・壁で囲まれた聖域)の名で呼ばれた聖域だったが、神奈川県教育委員会がその重要性を無視したまま発掘調査を怠ったばかりか恵泉女子短大伊勢原校舎建設時にも事前調査を行わず、結果的に発掘中に古墳が破壊され土木作業者によって多くの出土物が略奪された。しかし一部は義挙した比々多神社宮司家と氏子衆によって作業者から買い戻され、比々多神社内に併設された郷土資料館に保管展示される事となった。
※併設されている郷土資料館では、古墳群から出土した宝剣等を見学出来ます。

前鳥神社(四之宮/延喜式内社)
御利益
:学問上達/合格祈願/芸事上達/土地開発/勝負運
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場所:平塚市四之宮(旧大住郡)
開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)
中興:征夷大将軍 源 頼朝 公
   左京大夫  北条早雲 公
   征夷大将軍 徳川家康 公
歴史:応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷との濃い繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘されている事から、莵道稚郎子命と推測され伝承とも合致している。
莵道稚郎子命は日本で最初に漢学を学んだ人物で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から古くから学問の神様として有名で、現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子の安産祈願を行い成就した歴史があり安産の御利益も期待出来る。北条早雲公が前鳥神社の宮司家の支持を受けて岡崎城を落城させ三浦家に勝った歴史が有る事から勝負運=合格祈願の御利益も期待出来る。

鶴峯山八幡宮=平塚八幡宮・・・一国一社八幡宮、五之宮、式外社
御利益:海外渡航安全/海上交通安全/工業技術上達/勝負運/地鎮
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平塚八幡宮様公式拝借画像七夕祭り 久良岐のよし
場所:平塚市浅間町(旧大住郡)
開基:仁徳天皇
中興:推古天皇
   天武天皇
   文武天皇
   聖武天皇
   征夷大将軍     源 頼朝 公
   征夷大将軍     徳川家康 公
   徳川幕府関東代官頭 伊那忠次 公  
歴史:平塚八幡宮は明治時代まで鶴峯山八幡宮と言う名前だった。古墳時代に大地震が起きた際に仁徳天皇が国土安穏を祈り應神天皇の御神霊をお祀りされたのが始まりで、各国に一社づつ勧進された相模国八幡宮の本来の元締め。鶴岡八幡宮は平安時代末期の造営で、歴史的に一国一社八幡宮は鶴嶺八幡宮だった。
後に推古天皇の時代にも大地震があり、人々を案じられた推古天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営した。天武天皇はこの地租を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納した。
寛治元年(西暦1087年)には平塚八幡宮の御分霊が岐阜県高山市山口に桜ヶ岡八幡神社として分祀された。
鎌倉時代以降も源頼朝公が夫人政子の安産を祈願して神馬(白馬)を献上した。
江戸時代に慶長年間も徳川家康公により社領が寄進と参拝を賜り、関東総奉行の伊奈忠次公社殿を再建を御命じに成られた。徳川幕府治世下では
東海道8番目の宿場として賑わい門前の大門通りは東海道、須賀港、厚木往還、大山道の重なる交通の要衝として発展した。
明和2年平塚宿の僧本誉還真が18年間集めた浄財で青銅製の二の鳥居を奉納。
大政奉還の後、明治政府の宗教政策により社名を「八幡宮」から「八幡神社」と改称させられた。
明治27年には明治天皇の王女常宮昌子内親王、周宮房子内親王の御参詣を賜り、社頭に松樹を御手植えされ、御神池に緋鯉を放生された。
大正12年、関東大震災の震災で社殿が倒壊、再建が昭和三年に完成した。
第二次世界大戦後の昭和53年8月に表記を「八幡宮」へ戻した上で、現在の平塚八幡宮に改称した。
7月7日には日本三大七夕祭りの一つ“平塚七夕祭り”が門前町で開催され大変賑わう。
8月15日の
例大祭、5月5日に斎行される千数百年来の歴史を持つ“国府祭(こうのまち)”の他の5社宮司家との問答神事が行われる。席次の譲り合いの神事は神揃山に移動して行われる。
9月中旬に行われる“
ぼんぼり祭”が行われる
※ロシア帝国が日本を含む東アジアの植民地化を狙いバルチック艦隊を東アジアに遠征させた際に、日本の東郷元帥率いる日本初の連合艦隊が対馬海戦でロシア帝国海軍を撃破した際の旗艦:戦艦三笠は、八幡宮の御祭神、大鞆和気命(誉田別尊)の神仏習合時代の尊称、‟八幡大菩薩の名の御分霊”を艦内に守護神として安置していました。太平洋戦争で戦艦大和や武蔵が撃沈された際は軍部は信仰心薄く戦艦内から各御神霊を撤去していたのは知る人ぞ知る史実だったりします。

柳田大神・・・六所神社、相模国総社/式外社
  &
聖地:神揃山

御利益:縁結び/一之宮~五之宮の神社全ての御利益。
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場所:六所神社:中郡大磯町(旧淘綾郡)
   神揃山:中郡大磯町国府本郷1408−2の丘の削平地 (旧淘綾郡)
開基:出雲神族の一族(関東最古の大社、鷲宮神社の伝承とも整合性有り。)
中興:相模国歴代国司
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   相模守   北条氏綱 公 以下歴代北条家当主
   征夷大将軍 徳川家康 公
歴史:❝国府祭(こうのまち)❞神事に登場する由緒有る神社。
崇神天皇の頃に出雲神族の末裔が当地に移住して来た際に、奇稲田媛の御分霊を主祭神として祀ったのが起源で当初の社名は柳田大神だった。神話では紀元前50年頃となる。
この伝承は初代相模国司が建御名方神(伊勢都彦)=諏訪神系出雲神族の御神孫とする伝承とも整合性が有る。関東最古の大社格の神社である埼玉県久喜市の鷲宮神社の伝承とも整合性が有る。
この神社一帯を開拓したのが出雲神族なのは他の延喜式内社のとも相似性が有り縄文時代の終わり~弥生時代に関東に稲作を広めたのが素戔嗚尊の御神孫で有る事良く解り、素戔嗚尊が建国したとされる須賀国の国名の須賀の二文字を含む地名が三浦~房総半島~北関東~東北南部に多く残る事とも整合性が有り、この六所神社の縁起とリンクしている。言い方を変えれば縄文時代を終わらせ農耕を広めたのは素戔嗚尊の眷属と言う事に成り、米の生産によって財産としての食料の備蓄の習慣が生まれ大規模な集落が形成され小規模国家が生まれた経緯を辿る事も出来る。出雲神族が農耕を広めた故(ゆえ)に出雲大社に神々が参集する神有月の神事が行われる様に成った事も理解が出来るのが、弥生時代以降に造営された六所神社や鷲宮神社の伝承と神事でもある。但し、地形上は紀元前50年代当時の現在の六所神社の境内地は海の底か海波に洗われる磯辺だった筈なので、現在❝国府祭(こうのまち)❞神事が行われる六所神社近所の❝神揃山❞の存在と、六所神社の異名が❝相模国総社❞で有る事、御祭神に奇稲田媛の他に一~五之宮を祀る事実を考慮すると、柳田大神と言われた頃の古代の境内地自体は神揃山だったと推測出来る。尚、神揃山周辺の住所は国府本郷なので相模国府の海老名移転以前の所在地とも考えられている。
総社だけあり、ここに御参りすると一~五之宮の御参りをしたのと同じ事に成るので、とても有り難(がた)い古社である。

宇都母知神社・・・延喜式内社
御利益
:対人関係改善/家内安全/厄除け/農業豊作/子孫繁栄/学力向上
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場所:藤沢市打戻(旧高座郡)
開基:雄略天皇
中興:朱雀天皇
   鎌倉幕府執権 北条貞時 公
   大名丹南藩主 高木正次 公
歴史:雄略天皇より幣帛を賜り神事が行われた記録、朱雀天皇によって大和国の泊瀬から若日下部命(わかくさかべのみこと)の御分霊が勧進され祀られた記録が残る。この若日下部命は雄略天皇の御妃様の名を指し、古代日下部氏は屯田兵を率いた土地開発集団だった。又、朱雀天皇の時代背景から草壁皇子の名の可能性も有る。雄略天皇皇后の若日下部命か草壁皇子を御祭神として祀った朱雀天皇の時代は日本国内で立て続けに内乱が勃発し国内が疲弊し中央集権による地方統治が衰退した時期だった。関東八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)では藤原氏によって坂東平氏の内紛が誘引され平将門の乱が起き、四国や山陰地方では藤原純友の乱が起きて、戦乱状態が相次いだ。朱雀天皇がこれを憂いて民百姓と国家の安寧を由緒有る延喜式内社の一つ宇都母知神社に期待した事が解かる。
朱雀天皇が御祭神として加えた雄略天皇皇后の若日下部命か同じ名を冠した草壁皇子はいずれも古代天皇家と繁栄の和解の象徴だった歴史事実が有る。
古代天皇家が中臣の藤原氏によるクーデター誘発の煽動に乗って大臣の蘇我氏の実権を奪取した天智天皇と、その天智天皇に虐げられた弟皇子の天武天皇のニ系統の天皇家が対立し軍事衝突にまで発展した。天智天皇が崩御されるとそれまで権力争いを避け避難していた天武天皇が東日本の古代豪族の軍団の支援を受けて蜂起し藤原氏派から権力を奪還した。天智天皇と天武天皇の兄弟間抗争の融和の象徴が草壁皇子である。草壁皇子は天智天皇の姫、父君は天武天皇と両系統の近親婚で生まれた和解の象徴たる存在だった。
歴史的に宇都母知神社は強い家内安全や争い事回避の厄除けの御利益が期待出来る神社でもある。
鎌倉時代には鎌倉幕府の第9代執権を務めた北条貞時公に信奉され社殿が改めて造営された。
江戸時代に成ると旗本の高木正次公に信奉され支援を受けた。
現代、15000㎡に及ぶ比較的広い境内地は風致地区指定を受け、神奈川県下の貴重な緑地と成っている。
他の延喜式内社同様に神仏習合時代の文化が残り、立派な鐘楼が現存している。

小野神社=閑香大明神・・・延喜式内社
御利益: 武芸(スポーツ)上達、学問上達、実務力向上、子孫繁栄
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場所:厚木市小野(旧愛甲郡)
開基:行基 大僧正
中興:鎌倉幕府御家人  愛甲季隆 公
   鎌倉幕府政所別当 大江広元 公
歴史: 奈良時代の元正天皇の頃の高僧、行基大僧正によって神仏習合の神宮寺として薬師如来像が奉戴され始まった神社。愛甲郡の総鎮守として崇敬を集めた。
小野神社を信奉した鎌倉時代の武将は何(いず)れも高名な名将。愛甲季隆公は、畠山重忠公と北条家が現在の旭区の二俣川で合戦に成った際に北条家与力として参戦し畠山重忠公を弓矢で射殺した弓術の名手だった。又、最後まで源氏に忠誠を尽くした忠義の武将でも有る。愛甲家の祖先は小野妹子で、聖徳太子の異名を追贈された蘇我家出身の摂政の下、遣隋使を務めた有名な大和朝廷の外交官だった。
二人目は大江広元公で鎌倉幕府の初代の政所別当を務めた人物で学者だった。鎌倉幕府の法治主義機構の成立は大江広元公の功績が大きい。大江広元公は戦国武将毛利元就公の祖先で、小野神社の近くには毛利台の地名が残るが一帯は鎌倉時代初期に大江広元公の所領で毛利家発祥地の毛利郷だった。
江戸時代にも崇敬を集め、閑香大明神の別名で親しまれたが、江戸時代の記録に注釈入りで延喜式内社小野神社と併記されている。

杉山神社・・・武蔵国六之宮、延喜式内社
御利益
: 腫瘍治癒、皮膚病治癒、勝負運、海外渡航安全。
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場所:横浜市緑区西八朔(旧都筑郡)
開基:出雲神族の御神孫(笠原氏か?)
中興:忌部 宿禰 勝麻呂(いんべのすくね かつまろ)公
歴史:主祭神に五十猛命を頂き、嘗ては産土神(うぶすながみ)=土地を開拓した神様として武蔵国一圓から参拝者が多かった神社。五十建命や父神の素戔嗚尊は疱瘡(皮膚疾患)や疫病(感染症)を治して下さる神様として古来信仰されて来た。この神社の神は出雲神系の神様で、関東最古の大社格である埼玉県久喜市の鷲宮神社も出雲神族が土地を開発したと伝承する。神社の在る西八朔の八朔は古代に罰佐久と書かれたとされ、佐久=信州出身の出雲神族が開拓した土地で其処を朝廷に懲罰で召し上げられた事を示唆する地名由来でもある。史実として❝武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱❞では出雲神族の笠原一族が武蔵国を治めていたが同族間抗争に古代大和朝廷が介入して和解させ、武蔵国と相模国の国境沿いである久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡が朝廷直轄地として没収された歴史が有る。都筑郡の成立がこの後で有り、横見郡の稲荷山古墳からは雄略天皇と思われる獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の銘が刻まれた鉄剣が出土している事から雄略天皇が武蔵国造の乱に軍事介入し和解させ懲罰的に相武国境を非武装地帯として召し上げ、そこに都筑郡を設置したと推測すると相模国域の神社に雄略天皇が開いた場所が多い事とも歴史的に整合性が出て来る。つまり杉山神社を開いたのは古代大和朝廷に土地を献上した笠原一族だった可能性が推測出来る。それを裏付ける様に都筑郡の西八朔杉山神社近郷のセンター南の茅ヶ崎城址周辺には大塚歳勝土遺跡等の古代の大環濠集落や方形周溝墓や横穴式墳墓が多数発掘されており早くから開発の進んだ土地だった事が解かる。文章に罰佐久の字が登場して文献考古学的に存在を立証できるのは1200年前までだが、杉山神社の伝承と周辺の延喜式内社や神話をリンクさせると弥生時代末期~古墳時代初期の成立である事が解かる。
いずれにしても横浜市内唯一の延喜式内社であり埼玉県東京都川崎市横浜市を併せた地域で第六番目の地位を得ていた由緒ある神社で有ると言える。

大庭神社舊跡・・・元宮/延喜式内社
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大庭神社・・・延喜式内社
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臺谷戸稲荷神社
御利益
: 敵人懲服/子孫繁栄/雨乞い/治水/武芸(スポーツ)上達
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※大庭神社舊跡(元宮)
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※大庭神社
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※臺谷戸稲荷神社
場所:大庭神社舊跡と臺谷戸稲荷神社:藤沢市大庭(旧高座郡)
   大庭神社:藤沢市稲荷(旧高座郡)
開基:中世の戦火で社殿記録共に焼失、更に社殿遷宮後の記録も消失。
※延喜式神名帳には記載有り、少なくとも平安初期以前からの存在。
中興:桃園天皇
   鎌倉御家人 大庭景義 公?
         大庭景親 公?
   左京大夫  山名時氏 公
   (足利尊氏公の母方の従弟)
   相模守護代 太田道真 公?
   神祇伯   資顯王
   郷士    諏訪部定太郎 公
   郷士    山崎包高 公
歴史: 延喜式神名帳に記載が有るものの、大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地で、堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有り“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社とされていた。現在は一帯は湧水は無いが、大庭城の西側は古来湧水池だった。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している。
鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は最初の戦火に捲き込まれる。 後に源義朝公は平治の乱で敗北した挙句に家臣、長田忠致に裏切られ暗殺された。
新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成った。新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているが後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。
その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ大庭城で自決しているが、上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。この扇谷上杉氏定公の家宰の太田家の太田道真公と太田道灌公親子が深く関与したと推測される宗賢院が近在し、この宗賢院も戦国時代以前の伝承は伝わらないが寺宝に大庭景親公の陣釜が有り、更には太田家の太田桔梗紋を寺紋としている事から、宗賢院は前身寺院が大庭神社舊跡(元宮)に関与し大庭城主大庭家とも関係が有り、かつ太田家の支援を受け、大庭神社も大庭家、山名家、扇谷上杉家、太田家の関与が有った事が推測出来る。そして大庭神社が鎮護した大庭庄で乱暴を働いた人物は悉く滅亡している。
北条家が大庭城を落城させた際は御丁寧に舟地蔵地区の堤を切り沼堀を水抜して防御を無力化した上で落城させ、更に周辺の神社仏閣を保護した事が宗賢院の曹洞宗寺院としての中興開基時期から判る。

江ノ島弁財天(江ノ島神社 /式外社) ・・・三大弁財天の一つ   
御利益:勝負運/財運向上/立身出世 /縁結び/敵陣懲服

場所:藤沢市江の島(旧鎌倉郡) 
開基:欽明天皇 
中興:征夷大将軍   源   頼朝   公
   徳川幕府  歴代将軍 
歴史:欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。
参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)ですが、元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。
頼朝公が御参りした当時は社殿は有りませんでした。当時は江の島神社裏手に現存する洞窟に辯財天様が御祭りされていて、頼朝公も、そちらに籠って戦勝祈願をされました。後に社殿が建設寄進されました。
戦国時代、日本三大奇襲戦の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万の大軍相手に勝利を治めた。
明治時代には、この江の島に逗留され軍事作戦を練られた児玉源太郎陸軍大将がロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
江戸時代に成ると大山参りと並び江戸市民の憧れの観光地として栄え、参拝客で賑わった。
現在は縁結びの神様としても有名で、若い恋人達が、江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されていますが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれた歴史が有るからかもしれませんね。
本来、弁天様はインド神話の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天)の後妻であり夫婦神なので、縁結びの御利益が期待出来るのは当然の事。
※江の島神社を御参りした後に、裏から海岸に降りて源頼朝公が先勝祈願をした洞窟の中でも御参りすると更に御利益が有るかも知れません。
※参道の旅館“岩本楼”は明治時代以前まで岩本坊と称し江ノ島神社の別当寺で北条氏康公も滞在しています。当主の岩本家は本姓佐々木氏で戦国時代には公式の場以外では間宮を称していました。
間宮家については「ココ」を御覧下さい。
※頼朝公が崇拝した辨天様像も見学する事が出来ます。
※江の島に行ったら名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?

八幡橋八幡神社・・・式外社
御利益
:海外渡航安全/勝負運/工業技術上達/土地開発/地鎮/治水/立身出世
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場所:横浜市磯子区原町(旧久良岐郡)
開基:伝承では欽明天皇の時代以前に既に存在。
中興:徳川幕府旗本 小浜志摩守
歴史:欽明天皇の治世551年以前には存在したと伝承する八幡社だが、恐らく古くは霊場若しくは仏教色のより強い八幡社だった為か延喜式神名帳には記載は無い。
江戸時代、明和三年(1766年)に三島明神と氷川明神が勧進されが両方とも海上交通に纏わる大山祇神と素戔嗚尊が御祭神の神社で、更に安永五年(1776年)に東照大権現徳川家康公の御神霊が勧進されて軍事的性格も強い八幡宮が更に武門の神社として機能する事と成った。
古代の神社はどこも半島の付根や先端、又は湧水池や滝や奇岩や山の頂上が聖地として造営されている事は神奈川県下の延喜式内社と式外社を縄文時代の海岸線の地図に反映させると一目瞭然で、そう言った実例と社伝が所在地と整合性が有り北方は江戸時代の蒔田湾の入江の頂点部分に当たる為、八幡橋八幡神社付近が久良岐の丘の先端の岬部分の本牧半島付根に位置している事が解る。御祭神が八幡神なのも蒔田湾や本牧半島沖を行き交う船の海上航行の安全を願って八幡神社が造営されている事が容易に推測出来る。
この本牧半島と蒔田湾は戦国時代においても小田原北条家の水運の拠点だった事、古代の縄文人は既に船で本土と伊豆大島で交易していた歴史事実が有る事からも、この地の鎮守の神様は海を治める八幡神でなければいけなかったのだろう。
近くには三殿台遺跡や根岸の丘からも多数の縄文時代〜弥生時代の遺跡も出土しており、本牧妙香寺も弘法大師空海和尚が前身寺院を開基した事実が有る事、本牧半島が古代大和朝廷の軍馬生産拠点だった歴史事実を踏まえると、古代の久良岐郡において、この延喜式外社の八幡橋八幡神社は平塚八幡宮の様に重要な機能を有していた可能性も否めない。尚、この本牧半島の湧水は長期間放置しても腐らない為に幕末~大正時代に遠洋航海する船舶に飲料水として補給された。現在もワシン坂の霊水、打越の霊水等は一般に汲み取り出来る。
周辺は現代も貨物船の拠点、石油プラント、米軍の軍事拠点が有り、古代~現代に至るまで海上交通の要所、物流拠点、軍事拠点としての機能を有し発展して来た土地で、その繁栄を鎮護して来た八幡橋八幡神社の御神威はとても強い。

瑞應山 蓮華院 弘明寺・・・厄除け大師
御利益
:立身出世/災厄除け/敵人懲服/勝負運
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場所:横浜市南区弘明寺(旧久良岐郡)
開基:善無畏三蔵法師(インド人僧侶)
中興:聖武天皇
   行基大僧正
   弘法大師空海和尚
   光慧上人
   征夷大将軍  源 頼朝 公 以下歴代将軍
   征夷大将軍室 北条政子
   左京大夫   北条早雲 公
   左衛門尉   間宮信元入道宗閑(別名:盛頼) 公
   左衛門尉   間宮信俊入道宗覚(別名:康俊) 公
  ※徳川幕府による間宮家の戒名取り違え解説は別途記事有り
  →【間宮信元公と間宮康俊公の戒名誤り】。
   征夷大将軍 徳川家康 公 以下歴代将軍
歴史:インド人の僧侶、善無畏三蔵法師が養老5年(721年)、元正天皇の頃に聖地として当地に結界石を置いて聖域を定めた事が弘明寺の起源。その後、天平9年(737年)に行基大僧正が聖武天皇の勅命で現在の弘明寺の境内地に草庵を建てて現在の御本尊の十一面観音菩薩像を作製し祀った事で寺院機能が備わった。
更に弘仁五年(814年)に弘法大師空海和尚が滞在し民百姓の除災招福を祈願し護摩行を行った事で真言宗寺院としての機能が備わった。弘法大師空海和尚は日本神話と八百万の神々に崇敬深く日本武尊神話の土地と各地の湧水聖地を廻った記録が有り、神奈川県でも走水に赴いたり愛知県の一之宮真清田神社でも雨乞い神事を執り行ったりしている。偶然か必然か、弘明寺には昔から温泉も有る。弘法大師の逸話から厄除け大師の異名で親しまれる。
又、善無畏三蔵法師が結界を張った理由として、蒔田湾(古大岡湾)の入江が当時は付近まで存在し同地には大和朝廷の久良岐郡郡衙(ぐんが=市庁舎の様な機能)が存在した為と推測され、考古学的にも弘明寺の旧境内域からは国府瓦が出土している。
平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公と北条政子御夫妻に戦勝祈願で深く信奉された為、北条政子木像や軍神の辯才天像が祀られている。
戦国時代に成ると北条早雲公に支援され、北条家重臣で相模十四騎筆頭と言われた間宮家の崇敬を受けた事から、間宮家と関係深い臨済宗建長寺の高僧の玉隠英璵禅師が揮毫し間宮家臣団が奉納した扁額も明治時代の廃仏毀釈の被害を受けるまで存在した。
関わった偉人全員が困難な合戦で相手に大打撃を与え戦勝していたり逆境を覆して出世している。
元々は鎌倉街道に面した市営地下鉄弘明寺駅前の商店街全てが境内地で広大な面積を有していたが、明治政府による廃仏毀釈の宗教政策失敗で実に旧境内地の8割を失った上、宅地化に際して教育委員会による旧境内地の発掘は一部分しか行われていない。同地が古代の郡衙だった可能性は昔から公然と知られている。

本牧山 妙香寺・・・吹奏楽・テニス・君が代の発祥地 
御利益
:芸能上達/スポーツ上達/学問上達/工業技術上達
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場所:横浜市中区本牧(旧久良岐郡)
開基:弘法大師 空海 和尚(開山)
中興:立正大師 日蓮上人
   在地領主 佐藤家
   島津家代31代当主 島津忠秀 公
歴史:元は弘法大師空海和尚により本牧山東海寺として開かれた真言宗の寺院だったが、西暦1264年に日蓮上人が当寺に御立寄りになられた際に、当時の本牧の領主で御寺の大旦那(おおだんな=オーナー)だった佐藤家と当時の住職が日蓮上人に感銘を受け、以後改宗し現在まで日蓮上人の法脈を受け継ぐ寺院。
鎌倉時代~昭和時代の後期まで「檀林(だんりん=仏教僧の学問所)」として栄えた寺院で多くの学僧が、この妙香寺に寄宿しながら学問を習得した。
この地は古代大和朝廷の軍馬の生産地で牧場が存在したので、古来より文明の醸成地だった。
最初に、この地に御堂を開いた空海和尚様は牛頭天王と日本武尊を崇拝していたようで、関東の日本武尊神話の残る聖跡を巡りながら日本武尊が信奉していた素戔嗚尊を祀る牛頭天王社を各地に勧進している。
妙香寺と御縁の深い日蓮上人も又、日本神話を大切にされた方で千葉神社を崇拝し御祭神の妙見大菩薩(妙見神=北斗星=天皇家崇拝)を守り神にされたり、鶴岡八幡宮の御祭神の八幡大菩薩(応神天皇)に請願を言上した事で生命の危機を乗り越えた事は有名。すなわち、この御寺は日本神話と仏教文化醸成地として、神仏習合の日本文化の象徴と言える場所に建つ。
近代、幕末に妙香寺境内を駐屯地とした英国大使と英国軍より薩摩藩に吹奏楽が教授され、教官のフェントン軍楽団長により「君が代」が作曲された後、ドイツ軍人エッケルト教師が現在の曲調の君が代に改めた。これが日本吹奏楽の始まりで国家の発祥と成った。更に、今は山手町公園と成っている旧境内には英国人によりテニスコートが建設され、これも又、日本テニスの発祥地と成った。山手町公園の吹奏楽の発祥地には当時の欧風東屋が再現されており、テニス発祥記念館も在る。
更に、近代この御寺を信奉した渡辺忠右衛門(ちゅうえもん)翁は現在のIHIの元に成った石川島造船所の創業者であり日本近代造船の父とも呼ばれる事績を残された方。このIHIは大和朝廷の軍馬生産以来の国家防衛の旧久良岐郡の役割を継承して磯子区で自衛隊艦船の造船や米軍艦船の整備を担っている。
蘇州夜曲を歌った昭和の著名な歌手の渡辺はま子女史は、第二次世界大戦終結時に在フィリピン日本人捕虜の解放に功績を残されましたが、現在この御寺に眠ってらっしゃいます。
※職員の和尚さん達にお願いすると渡辺忠右衛門サンや渡辺はま子サンの御話しも御教授頂けます。
※すぐ近所に旧境内に当たる山手公園があり、そちらがテニス発祥地でフリーメイソン日本最初のロッジの跡地であると同時に日本最初の吹奏楽コンサートの史跡でもあります。テニス発祥記念館では拝観料無料で幕末からのテニス競技の服装や道具の変化や歴史が解る展示物を見学出来ます。

華厳山金剛寺
御利益
:災厄除け/武芸(スポーツ)上達/勝負運
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場所:厚木市飯山(旧愛甲郡)
開基:弘法大師空海和尚
中興:征夷大将軍 源頼朝公
   鎌倉御家人 足立(安達)藤九朗盛長公
歴史:弘法大師空海和尚が当地に滞在して修業をしたのが金剛寺の始まりで、後に源頼朝公の崇敬を受け頼朝公の側近だった安達盛長公によって大規模な寺院が造営された。安達盛長公は元々、頼朝公が伊豆の修善寺に抑留されて浪人していた時代にも先代源義朝公の御恩を大切にして御曹司の頼朝公の秘書兼ボディーガードを務めた家臣として知られ、静岡県三島市の三嶋大社には頼朝公の三嶋大社参詣の際に盛長公が警護した伝承の場所の松の木も現存している忠義の人物。当初は姓を足立と書いて「あだち」と名乗っていたが後に字を改めた。安達家は宝治合戦の際に武家の古豪三浦家を上回る戦上手ぶりを発揮した一族です。
現在の金剛寺本堂とは別に白山温泉郷の看板の掛かる赤橋の右手直ぐの参道左側には空海和尚による前身寺院が開かれた時代から現存する御堂が在るが、神奈川県教育委員会は文献に記載が無いと言うだけで調査もせず保護も怠っている。近くに在る龍蔵神社は元々金剛寺の塔頭寺院で龍蔵坊と言う寺名だったが、明治時代の廃仏毀釈の折、龍蔵坊の住職が神社に模様替えした場所。
龍蔵坊一帯は旧地名を“大門”と呼び、本来の金剛寺の大門が存在した場所でもある。
戦国時代に北条家の支配地に同地が組み込まれると、北条家の宗旨の曹洞宗に改宗した。
湧水地を大切にする古代の神道の伝統を大切にした弘法大師様所縁の御寺らしく、周辺は温泉地としても有名で、白山温泉郷は現在は温泉宿は減ったが春には桜の名所として賑わっている。
頼朝公の参謀兼任護衛官を務めた名将と弘法大師様の御利益に授かれる御寺。

牛頭山 妙法寺
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境内の牛頭天王社        

御利益
:陸海交通安全/勝負運/健康運/縁結び(恋愛)
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場所
:横浜市磯子区杉田(旧久良岐郡)
開基:弘法大師 空海 和尚(弘法大師が牛頭天王社を勧進した事に始まる)
中興:在地領主 荒井家(日荷上人)
   徳川幕府鷹匠頭 間宮 信繁 公
歴史:走水神社や橘神社と同じく日本武尊の聖蹟でもある。日本武尊がこの地を訪れた伝承に従い、弘法大師空海和尚が日本武尊が信仰したとされる牛頭天王を祀る御社を勧進したのが始まり。
六浦の上行寺も開いた荒井家出身の日荷和尚が、後に本格的な寺院として開基したので、真言宗の空海和尚と日蓮宗の日荷和尚の歴史を有する。 
後に小田原北条家の重臣間宮家の分家杉田間宮家が妙法寺を菩提寺と定めたので、現在も境内に間宮家歴代の御廟所があり史跡でもある。間宮家では間宮康俊公が豊臣秀吉の小田原攻めの際に、秀吉と甥の秀次率いる8万の敵軍を伊豆山中城で迎撃し歴史に名を轟かせました。敗戦を悟り間宮康俊隊は寄親(よりおや=上官)北条氏勝公を撤退させた後わずか兵200弱を率いて、秀吉旗本の中村隊・堀尾隊・一柳隊等を相手に大損害を与え玉砕しましが、その功績から間宮家は徳川家康公の旗本に取り立てられました。
徳川家康公の鷹匠頭として活躍した間宮信繁公の植林した杉田梅林は有名な観光地でした。
※現在、御住職が梅林を境内の裏手丘の上に復活させようと計画中ですが、その丘からの東京湾を望む眺望は見事です。

【平安末期以降開基で歴史と御利益の有る神社仏閣】

永谷天満宮・・・日本三躰天満宮の一つ
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天神山 貞昌院
御利益:学問上達/文化芸事上達/実務力向上/受験合格
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場所
:横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)        
開基:右中弁 菅原淳茂 公
中興:修理亮 宅間上杉  乗国  公
   征夷大将軍 徳川家歴代 
※御祭神の天神様=菅原道真公の五男菅原淳茂公が元々、この場所にお住いだったので、開基は菅原淳茂公とします。永谷天満宮の社殿を最初に造営したのは上杉乗国公。
歴史:日本三躰天満宮の一つ。
御神体は菅原道真公が自ら彫られた彫像。
天皇の御親政を復古しようとする宇多天皇と醍醐天皇に重用され右大臣(総理大臣に相当)まで務めた菅原道真公が、天皇の親政復古に抵抗する藤原一族の謀略で左遷された後、五男菅原淳茂公は醍醐天皇に重用された。 しかし敦茂公など菅原道真公の御一門(いちもん=親族)は悉(ことごと)く藤原氏の謀略で左遷された。
後に藤原一族からの迫害を避ける為か、三男菅原景行公を始め菅原淳茂公も関東移住し平将門公や平良文公の坂東平氏と連携し定住した。その菅原淳茂公が住んだ場所が現在の永谷天満宮と伝承する。
永谷天満宮自体の開基の宅間上杉家は上杉家の筆頭4家の一つで、犬懸・山内・扇谷の各上杉家で関東管領を務めた家で、室町幕府征夷大将軍足利尊氏公の従兄弟の家系で勧修寺家の出身。
足利尊氏公の鎌倉幕府倒幕の切っ掛けに成った後醍醐天皇の綸旨を全国に伝えたのが、宅間上杉家初代の宅間上杉重兼公。
江戸時代には徳川将軍家からも信仰深く、御神体は数回、神輿に乗せられて江戸城の将軍の元に運ばれ将軍から参拝された程に御利益が有名だった。
永谷天満宮から見える永野小学校一帯が居城の近代に永谷城と呼ばれた伊予殿根城塞の跡で川原沿いには、それらしき切岸上の地形、丘にも堀切が存在したが神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が城址としての調査を怠ったまま宅地開発が進み遺構は消滅した。
永谷天満宮の背後の鎮守の山、菅秀塚の周りは初夏に紫陽花(あじさい)が咲き誇る名所です。        

公時神社(きんときじんじゃ)     
御利益:健康向上/勝負運/敵人懲服/厄除け(鬼退治?)/縁結び(人脈)2015-11-18-13-40-17
場所:足柄下郡箱根町仙石原(旧足柄下郡)
開基:坂田公時=坂田金時(さかたのきんとき=金太郎)
歴史:幼少時代を歌った唱歌「金太郎」で有名な、坂田公時公所縁の神社。この金時神社の背後は金太郎の童話の舞台に成った金時山で、神社はその登山口に位置する。境内には童話を彷彿とさせる石で作られた斧のモニュメントも飾られている。
坂田金時公は下毛野金時と言う実名の記録が残っており、下野国の豪族である下毛野氏出身の武将。成人後に坂田金時となり、この箱根峠で成人後に源頼光(みなもとのよりみつ)公と出会い与力と成って活躍したとされる。大江山の鬼退治の伝承は余りにも有名。
この箱根峠で出会った伝承も、当時は富士山が噴火して本来は御殿場を抜ける古代の東海道(矢倉沢往還=大山街道西部)が使用不能に成った時期でもあるので、関東の豪族下毛野氏である金太郎の一族が、源頼光公の御父君の鎮守府将軍源満仲公の命で現在の東海道の基礎に成る箱根ルートの開拓を担当していた可能性は少なからず有り、金太郎と坂田金時の伝承に整合性も有る。よって、余り取り上げられる事は無いが、この金太郎神社の御祭神坂田金時公は武勇や健康のみならず、上司に恵まれる御縁や交通安全の神様としても強力な御利益を期待出来る。
※近くにはガラスの森美術館が在り、冬季は夜間イルミネーションが見られます。当然温泉旅館も沢山近くに在るので宿泊と合わせての参拝も魅力的。

鎌倉御霊神社(権五郎神社) 
御利益:勝負運/縁結び(恋愛)/眼病治癒/治傷/子孫繁栄
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場所
:鎌倉市坂の下(旧鎌倉郡) 
開基:平朝臣  権五郎  鎌倉  景政  公 
歴史:鎮守府将軍平良文公の御子孫の鎌倉景政公が御祭神。 
鎌倉景政公は従兄弟の三浦為継公と供に、前九年後三年の役に源八幡太郎義家公に与力し参戦して大活躍されました。
敵将に片目を射抜かれて尚、敵に弓を射返し討ち取った逸話は有名です。
関東では盟主の源義家公と共に軍神として武士達から信仰を集めています。
また目の治療の際に御自分の眼球の供養をした場所から草木が茂った事から、治傷健康の神様としても信仰されています。 又、この周辺には平安時代から恋愛にまつわる和歌が詠まれた場所が多く、その所縁で縁結びの神様としても有名なので御霊神社オリジナルの縁結びの御守りが販売されています。
参道の鳥居の目の前を江ノ電が通る珍しいロケーションの神社で周辺がドラマのロケ地にも成っていて、スタッフが良く食べた名物和菓子屋「力餅家」が在り、司馬遼太郎先生も御霊神社周辺を散歩されて力餅屋で昔からの鎌倉名物の夫婦饅頭を食べた事を“街道を行く”シリーズの“三浦半島記”で紹介しています。
※由比ガ浜まで歩いて行けるので、参拝後に散歩しても良い小旅行に成る場所。
※鎌倉江の島七福神の一つ。こちらで七福神専用の御朱印色紙も購入できます。

鶴岡八幡宮本宮・・・日本三大八幡宮の一つ(異説有り)
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旗上弁財天・・・鎌倉江の島七福神の一つ
 と
元鶴岡八幡宮=由比若宮

御利益:勝負運/立身出世/工業技術上達/財運向上/海外渡航安全

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場所:鶴岡八幡宮:鎌倉市雪ノ下(旧鎌倉郡)・元鶴岡八幡宮(由比若宮):材木座1‐7
開基:鎮守府将軍   源    頼義   公
中興:征夷大将軍   源    頼朝   公
   相模守          北条 氏綱   公  
   征夷大将軍   徳川 家光   公
歴史:最初の場所は材木座の元鶴岡八幡宮、後から源頼朝公が現在地に遷宮し、元鶴岡八幡宮と上社下社として共に現存。
相模国の鎮守として源頼義公が嫡子源八幡太郎義家公と現在の由比に八幡宮を造営したのが始まり。
源頼義公は鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に補任(ほにん=任命される事)され前九年の役で大活躍し、以後、頼義公の家系の河内源氏は坂東(ばんどう=関東)の武家の盟主として繁栄する。
源頼朝公は源頼義公の5代子孫に当たる。頼朝公の代に鎌倉幕府の象徴として現在の鶴岡八幡宮の境内地に遷宮されて初めて大規模な神宮寺と一体に成った大規模な様式に成った。
以後、鎌倉文化と武士団の象徴でもある。
戦国時代の大永六年(1526)年に房総の小弓公方足利義明と里見義豊の軍勢によって放火されて延焼し八幡宮としても神宮寺としても機能を焼失した。この合戦後、小田原城主北条氏綱公の主導の下、関東の諸大名に再建協力の指示が示され結果的に北条家の下で鎌倉幕府以来の武家の信仰の対象である鶴岡八幡宮は大規模に再建されて、関東における北条家の立場を確固たるものにする事に成った。
神奈川県の武将も再建で活躍しており主だった人物でも神保輝廣公(北条氏綱公舎弟)、北条幻庵公(北条早雲公三男)、笠原信為公、吉良頼康公、間宮康俊公の名が見える。この再建は5万人を動員した大規模な事業だった。
江戸時代にも徳川家光公による社殿の奉納建築が行われていて、徳川将軍家の崇敬も集めた。
明治の廃仏毀釈で神宮寺は廃寺にされ破壊され、現在の境内社若宮八幡宮傍に在った立派な多宝塔も撤去された。平成に成って源頼朝公の時代から存在した御神木の大銀杏が折れてしまった。
現在でも観光地としても有名で、毎年初詣の頃には約30万人の参拝客で賑わい多くの屋台が並ぶ。
※普段からいくつかの出店が常駐しているが、正月は非常に多くの屋台が出るので子供も楽しめる。
※鶴岡八幡宮の御朱印所の神職の方は非常に字が美しいので是非、頂いてみて下さい。
※鎌倉江の島七福神の一つ。こちらで七福神専用の御朱印色紙も購入できます。
※※ロシア帝国が日本を含む東アジアの植民地化を狙いバルチック艦隊を東アジアに遠征させた際に、日本の東郷元帥率いる日本初の連合艦隊が対馬海戦でロシア帝国海軍を撃破した際の旗艦:戦艦三笠は、八幡宮の御祭神、大鞆和気命(誉田別尊)の神仏習合時代の尊称、‟八幡大菩薩の名の御分霊”を艦内に守護神として安置していました。太平洋戦争で戦艦大和や武蔵が撃沈された際は軍部は信仰心薄く戦艦内から各御神霊を撤去していたのは知る人ぞ知る史実だったりします。

●宇賀福神社=銭洗い弁財天・・・
源頼朝公が開いた宇迦之御魂神を祀る洞窟に泉が湧く聖地

●佐助稲荷神社・・・源頼朝公に立身出世をさせた神様の神社


荏柄天神社・・・日本三古天神社
御利益
:立身出世/学問上達/芸術上達
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場所:鎌倉市二階堂(旧鎌倉郡)
開基:天神様の神霊?一帯の村民
中興:征夷大将軍 源 頼朝 公
歴史:日本三古天神社とも呼ばれる、天満宮の中で格式の高い天神社。
伝承に由れば菅原道真公の肖像画が空から降ってきたので、地域の村民が肖像画を御神体として有り難くお祀りしたのが荏柄天神社の始まり。
この旧鎌倉郡には、現在の横浜市港南区に在る永谷天満宮の在所に菅原道真公の五男の菅原敦茂公が御住まいだったと言う伝承や、下総国に大生天満宮(元は別の場所に在ったが後に現在地に移転)を三男の菅原景行公が建てられた歴史が有り、関東が菅原氏との関係が深かった事を今に垣間見える古社。
源頼朝公により鎌倉幕府が開かれると、鎌倉市街地の鬼門の東北の方向に当たる荏柄天満宮が鎮護の神様として頼朝公より崇敬される事になり、頼朝公により新たに社殿が建造された歴史を持つ。
その後も二代将軍の源頼家公から崇敬を集める等、鎌倉武士団からの信仰が厚い天神様だった。
現在でも多くの文化人から愛され、特に漫画家との縁が深く清水昆氏や横山隆一氏から信仰され、その絵筆が奉納された筆塚が境内に在る。
※この荏柄天満宮の付近には桜の名所の鎌倉宮もある。
※太平記の歴史偉人達と所縁の深い土地でもある。
※近くには鎌倉漆器の漆アクセサリーの工房「月ノ聖」もある。        

富岡八幡宮
御利益:勝負運/立身出世/工業技術向上/商売繁盛/地震津波除け/海上交通安全/漁業
場所:横浜市金沢区富岡(旧久良岐郡)
開基:征夷大将軍   源   頼朝   公 
歴史:有名な東京の富岡八幡宮はコチラから分霊された神社で本家本元はコチラ。
征夷大将軍源頼朝公が、今の兵庫県の西宮神社から勧進(かんじん)した後に軍神八幡神を合祀(ごうし)したのが始まり。
室町時代に大津波が発生した際、海を治める神威の有る蛭子神を祀る富岡八幡宮は、その鎮守の森と山で津波を跳ね返し富岡の村々を救ったそうです。
その逸話から江戸市民の信仰を集め東京に分霊されました。
※境内には所蔵の文物や無形文化財と成っている御祭りの説明看板が多数有り、郷土の民俗を知る事が出来ます。
※ 横浜金沢七福神の一つ。専用の御朱印色紙も購入出来ます。

知足山 龍華寺(旧廃寺六浦山浄願寺&光徳寺) 
御利益:立身出世/勝負運/学問上達
場所:横浜市金沢区洲崎(旧久良岐郡)
開基:征夷大将軍     源   頼朝 公
   文覚上人 
   ※浄願寺の開基
   ※光徳寺が先にこの場所に在った。後に合祀されて龍華寺と成る。 
中興:扇谷上杉家宰 太田道灌 公
        左京大夫        北条早雲 公
        征夷大将軍     徳川家康 公
歴史:源 頼朝 公が文覚上人と共に奇岩が有り海に面した霊所の六浦山中に浄願寺として開基した。
浄願寺時代の場所は上行寺東遺跡と呼ばれ今より更に大きい大寺院だった事で有名だったが、多くの学者や郷土史家や地元民からの保護要請を横浜市教育委員会が無視した為に近年その遺跡はマンション建設で破壊されてしまい存在しない。鎌倉時代には兼好法師こと吉田兼好も浄願寺に滞在したと伝わっている。
浄願寺時代に新田義貞による鎌倉攻めの戦火に巻き込まれ一時火災や略奪に遭い衰退する。その後、融弁が中興開山と成り菅原資方公の中興開基により現在地に在った光徳寺と合併の上で移転再興される。
扇谷上杉家宰の太田道灌公の信奉を受け不動明王が奉納されたり、小田原北条家当主より土地を寄進されるなど、有力大名から保護と信仰を受けた名古刹。
徳川家康公も滞在した歴史が有る。
再興開基以来、真言宗の一大学問所としても機能していた檀林としての歴史が有る。
明治時代まで隣の洲崎神社の別当寺だった。この龍華寺一帯の町屋町~洲崎は金沢八景の一つに数えられた風光明媚な観光地でもあった。その関連で多くの名武将が此方に滞在し、御縁が結ばれた。
横浜市内に置いて京都の御寺の様な佇(たたず)まいの山門に続く参道を持つ外観も綺麗な御寺。
※現在の御住職が文化保護に熱心で、多くの花を植林したり句会を開いたりと文化活動地としても機能しています。
※お隣の洲崎神社と明治時代までは龍華寺の管理する神社だったので、そちらも一緒に御参りされると神様も喜んで下さり、より御利益が有るかも知れませんよ。

森浅間神社=亀谷山福禅寺権現堂(廃寺)浅間社・・・修験系門跡寺院直轄霊場
御利益
:災厄除け/縁結び(恋愛)/夫婦円満/海外渡航安全/海上交通安全 
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場所:横浜市磯子区森/屛風ヶ浦(旧久良岐郡)
開基:征夷大将軍 源 頼朝 公
中興:後北条家臣 間宮家
歴史:元々は河内源氏の当主で坂東武者の頭領だった源頼朝公の祖先の源頼義公の代より関東に於(お)ける関東での本拠邸宅の在った鎌倉市扇ヵ谷(おおぎがやつ)地区の一部で亀谷(かめがやつ)に在った修験道の修験亀谷山(きこくさん)福禅寺と言う大寺院直轄の聖地の一つで源頼朝公の祈願所の権現堂の管理下に在った神社。
源頼朝公には江島弁財天、瑞應山蓮華院弘明寺、曲田山帶行寺(現:梅花山南無佛院成就坊)、鎌倉郡山崎紀州山泉蔵院桐谷寺(現:熊野神社:磯子区中原)と合わせ、亀谷山福禅寺と福禅寺権現堂(廃寺:港南区港南)も源頼朝公の祈願所の一つだった。そ源頼朝公の請願により権現堂の僧侶の幸蔵坊が当地を修験道霊場として此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の御分霊を富士山(富士山は此花咲耶姫命の権化として山岳信仰の対象だった)より勧進したのが神社として起源。 
又、鎌倉幕府で征夷大将軍職を皇族が継承する様に成ると嘉暦三年(1328年)に福禅寺権現堂の第六代住職を長円親王が務め森浅間神社を祈願所としている事から、福禅寺が門跡寺院だった事が解る。
鎌倉幕府滅亡時に最後の将軍の守邦親王(もりくにしんのう)が新田義貞による鎌倉攻めの戦火から難を逃れて、この地に無事退避されたと伝承する事から災難除けの強い御利益も期待出来る。
この鎌倉幕府最後の征夷大将軍守邦親王は森浅間神社を統括した長円親王の兄皇子に当たる。
災難除けの御利益の他にも下社の素戔嗚尊は軍神であり水神様でもあるので海上交通安全や海外渡航の安全の御利益、そして上社の御祭神の浅間権現此花咲耶姫命様と夫妻神でも有るので縁結びでも強い御利益が期待出来る。 
この森浅間神社の在る場所付近には、古代からの街道が通っていた。その場所が近くの清水坂~森~上大岡方面に抜ける古道で、更に森浅間神社の眼下には鎌倉の東京湾方面の湊(みなと)の一つとして機能していた屛風ヶ浦が在り、軍事的にも重要な土地だった為に、この神社の付近には鎌倉幕府の陣所が築かれていたと伝承する。
街道を抑える場所に鎮護の神社や仏閣を立て陣所を設けるのが頼朝公の領地運営政策の一環だったので、森浅間神社が頼朝公開基、更に鎌倉幕府陣所が一帯に在ったと言う伝承の整合性とも高い。
※屛風ヶ浦側からの参道は急で長い石段ですが、その途中には下社が在り、そちらに素戔嗚尊が祀られているので是非、階段を上る方の参道から御参りしてみて下さい。

●熊野神社泉蔵院=大霊山泉蔵院桐谷寺(鎌倉山崎紀州山泉蔵院→久良岐郡=横浜市移転→神社化、元は修験道で源頼朝公の祈願所)

瀬戸神社=瀬戸明神社&琵琶島弁天社(三島大社御分霊と竹生島弁才天を源頼朝公と北条政子様御夫妻が勧進し開いた神社)

●吉田神社(源頼朝公が伊豆の三島大社から御分霊を勧進し開いた十三座の神社の一社)

●森戸神社
(源頼朝公が伊豆の三島大社から御分霊を勧進し開いた十三座の神社の一社)

●箋龍辯財天=海南神社&本宮神社(三浦郡総鎮守、三浦家の祈願所で出世の神社)


●西向山乘蓮寺(北条政子様の避難場所で承久の乱戦勝と厄除けの祈願所)


●梅花山南無佛院成就坊=梅花山成就院(源頼朝公の祈願所、後北条家臣間宮家居城の寺院)

瑞雲山 本覚院 三会寺 
御利益:勝負運/学問上達/縁結び(人脈) /合格祈願
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場所:横浜市港北区鳥山(旧橘樹郡)
開基:征夷大将軍 源  頼朝 公
   鎌倉御家人 佐々木 高綱 公 
中興:征夷大将軍 徳川 家康 公
   徳川家宿老 本多 正信 公
歴史:鎌倉の鬼門に当たる街道を抑える地域である鳥山地区に、源頼朝公の命で平安末期~鎌倉時代初期の名将、佐々木高綱公が開いた寺院。その後、真言宗の一大学問所として明治時代を迎えるまで機能した。頼朝公との関係から寺紋に源氏の家紋である笹竜胆紋の使用を許された武家にとって由緒有る寺院。
安土桃山時代には徳川家康公によって保護され、重臣で玉縄城主と成った本多正信公から信仰された関係で所縁の有る文物も残る。
現代ではタイ国王とタイ王室とも関係の深い寺院で、タイ王室から送られた巨大な御釈迦様像が御本堂に祀られている。戦国時代の小机城から近く、現在の御住職が文化と歴史の保護に熱心な方なので毎年春に行われる小机城址祭りでは開会の場にも成っていて、勇壮な戦国時代の武者行列を模したパレードを見る事が出来る寺院。
※こちらで、御近所に在る佐々木高綱公の愛馬生唼を祀る馬頭観音堂の御朱印も頂けます。
※ご近所には佐々木高綱公の居館跡に建つ鳥山八幡神社も在り、一緒に御参りすると更に御利益が有るかも知れません。

鳥山八幡神社&馬頭観音 
御利益:勝負運/工業技術向上/縁結び(人脈)/子孫繁栄
場所:横浜市港北区烏山(旧橘樹郡)
開基:鎌倉幕府御家人  佐々木  高綱  公 
歴史:征夷大将軍源頼朝公の鎌倉幕府の設立に貢献した佐々木高綱公の居館跡に建つ八幡神社で、徒歩5分の近所には高綱公が頼朝公より拝領(はいりょう=貰う)した名馬生接(いけづき)を祀る馬頭観音も在ります。
高綱公は源頼朝公に与力し、源義経公を大将とした木曽義仲討伐における瀬田の合戦で一番乗りの功名を建てるなど優れた武将でした。 
また大名としても分析力や経営力に優れていたようで、平安時代当時の一般的な城址は山城なのに対し、神奈川県内の佐々木家の城址はどこも重要な街道に面した場所が多いようです。 
神社背後の烏山地区の丘は、高綱公の神奈川での居城跡です。
佐々木氏の御一門は後に全国で大名になります。 
戦国時代の六角家・京極家・尼子家・黒田家・間宮家は全て佐々木家の後裔です。 
※徒歩5分程度の付近には、佐々木高綱公の愛馬「生唼(いけづき)」が葬られた場所に建つ馬頭観音堂や、頼朝公の命令で高綱公が鎌倉の鬼門鎮護として開基した真言宗の大道場として機能した「三会寺」も在ります。 一緒に御参りすると尚、御利益が有るかもしれないですね。

義明山 満昌寺
御利益:縁結び(人脈)/子孫繁栄/学問上達/健康運向上/武芸(スポーツ)上達
場所:横須賀市大矢部(旧御浦郡)
開基:征夷大将軍   源   頼朝   公 
歴史:鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝公が最大の盟友三浦義明公の忠孝恩義に報い菩提を祀る為に開基した御寺です。
頼朝公の旗揚げで石橋山合戦に援軍として三浦義明公は孫(長男の子)の和田義盛公に軍を率いて参戦させようとしますが、頼朝公が敗戦します。 
その際に89歳の三浦義明公は居城衣笠城に一人手勢を引き連れ籠城し敵軍を引きつけ、頼朝公と三浦一族の退路を確保しました。
その義明公の判断力と功績により頼朝公は後に鎌倉幕府が成立する事が出来ました。
源家の興隆を支え功績を遺した三浦一族の代表格の武将が、この三浦義明公です。 
※前もって連絡すれば、義明公に関する資料館を見学出来ます。 
※境内には頼朝公御手植えの樹木も在り、頭を突っ込むと(痛いけど)御利益が有ると言われています。

大富山 清雲寺
御利益:縁結び(人脈)/子孫繁栄/海上交通安全/武芸(スポーツ)上達
場所:横須賀市大矢部地区(旧御浦郡)
開基:円通寺  三浦介  平   太夫  為通  公
   清雲寺  平朝臣  佐原三浦  義連  公
歴史:円通寺は三浦家菩提寺だったが明治の廃仏棄釈の影響で廃寺に成り、子孫の佐原三浦氏の菩提寺清雲寺に合祀された。
円通寺を開基した三浦為通公と二代三浦為継公は、前九年後三年の役で鎮守府将軍源頼義公と八幡太郎義家公に与力し大活躍しました。
清雲寺開基の佐原義連公は源頼朝公に従い源平合戦で源義経の参謀として活躍し、今の神戸市に在った平家拠点福原攻めで有名な「鵯越の逆落とし奇襲」等を立案しました。
三浦本家が宝治合戦で勢力を失うと、三浦家の子孫の佐原家が相模国の三浦宗家を継ぎました。
※本殿の圓通閣の名の由来は、近くに在った平安~鎌倉時代初期の三浦総領家の菩提寺の圓通寺に由来しており、御本尊はその圓通寺から遷座された観音様です。 

青龍山 寶金剛院 寶生寺(ほうしょうじ)
御利益
:学問上達/立身出世/実務力向上/合格祈願     
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場所:横浜市南区堀之内(旧久良岐郡)
開基:覚清上人(開山) 
中興:鎌倉幕府執権   北条 貞時 公 
   相模国守護代   太田 道灌(どうかん) 公 
   相模守      北条 氏康 公 
   徳川幕府本牧奉行 間宮 直元 公 
   (但馬奉行、佐渡奉行兼務。大坂城総掘り埋立て作戦立案者)
   征夷大将軍    徳川 家康 公 
歴史:平安時代末期、高倉天皇の頃、関東武士では源義朝公が活躍されていた時代の和尚様、覚清法印によって開かれた。その際に熊野権現社も勧進された。その草々の由来より歴代の御住職は、朝廷から法印号を拝命した格式の高い御寺であると同時に、真言宗の学問所としても非常に栄え、明治時代まで52寺に及ぶ末寺を束ねる本山格の大寺院だった。 
鎌倉時代には関東の鎌倉文化を発展させた金沢北条実時や鎌倉幕府第9代執権の北条貞時公から保護された。戦国時代には戦で無敗の関東一の名軍師、太田道灌公や、後に関東の覇者と成った民政家として有名な小田原城主の北条氏康公から保護された。 
江戸時代に成ると、但馬奉行や佐渡奉行を務めて大幅に業績を改善した事で有名な間宮直元公が本牧奉行として横浜市南部の沿岸部を治めた事も有り、その支援を受けた。更には間宮直元公の叔母が側室として仕えていた徳川家康公からも寺領保護の御朱印状も賜った歴史が有る名古刹。 
その歴史の古さと豊富な所蔵文書から横浜市の地名由来の「横浜」半島の記載の有る文書も寶生寺が有する。 
明治時代に成るまで、本堂の他に、長屋門、総門、客殿、熊野社、弁天堂、鐘楼、経蔵、頂堂を有する巨大寺院を形成していた。 
この御寺に関わった人物は何(いず)れも名将の誉れ高いだけでなく高い教養を備え、更に内政力を発揮した事績を有する人物ばかりで、檀林として学僧達を育てて来た歴史と合わせて御利益の強さが歴史として残る。
※江戸時代初期まで、この付近は海でした。その事を示す古文書も寶生寺には多く現存し、横浜の戦国時代の歴史語る際には必ずこの御寺の名前が出てくる名古刹です。近くには神奈川考古学財団も存在し、様々な展示がされています。 

●巨福山建長興国禅寺=建長寺(鎌倉五山第一位、国家鎮護寺院)&半蔵坊(火除けの守護神)

●瑞鹿山圓覚興聖禅寺=円覚寺(
鎌倉五山第二位、鎌倉幕府執権北条時宗公&室町幕府将軍足利義詮公菩提寺、外敵懲服戦勝祈願学問上達の寺院)

●亀谷山寿福金剛禅寺=寿福寺(
鎌倉五山第三位、北条政子様・陸奥宗光公菩提寺)

●金峰山浄智寺(鎌倉五山第四位、鎌倉江の島七福神の一つ布袋尊、歴代鎌倉公方就任時の滞在所)

稲荷山 浄妙廣利禅寺(鎌倉五山第五位、足利家時公・足利直義公菩提寺)
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境内の喜泉庵
御利益:婦人病治癒/子孫繁栄/縁結び(人脈)/立身出世
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場所
:鎌倉市浄明寺(旧鎌倉郡)
開基:足利 義兼 公
中興:足利 貞氏 公(足利尊氏公の御父君)
歴史:鎌倉幕府時代足利家の菩提寺。最初、源頼朝公の忠臣足利義兼公により真言宗の寺院極楽寺として開かれ荒神・不動を祀っていたのを源頼朝公と足利義兼公の没後、三代将軍の源実朝公の代に境内に別に御堂を造り其方に荒神・不動様を移し御祀りし、御本尊に北条政子の白檀製の弥陀像と御釈迦様を御祀りした。その後、臨済宗建長寺の蘭渓道隆和尚の弟子の月峯了然和尚の代に臨済宗に改宗した。その後も足利家からの信仰厚く、室町幕府初代将軍の足利尊氏公の御父君の足利貞氏公により中興開基されると異母兄足利高義公や同母弟の足利直義公も境内に塔頭寺院を建設し、三代将軍足利義満公の頃には実に23もの塔頭寺院を抱える大寺院と成った。その後、永享の乱で三浦軍による放火で類焼し衰退したが、現在も広大な境内は紅葉の名所として有名。婦人病治癒の神様の淡島明神像も御祀りしている事から婦人病治癒祈願の寺社としても有名。
現代では紅葉の名所、そして境内にある日本庭園を抱える茶房「喜泉庵」では御抹茶と和菓子を頂けるので多くのカップルのデートコースにも成っている。
※境内裏山に在る「石窯ガーデン」は石窯で焼いたパンや湘南の野菜や地魚の料理を頂けます。

粟舟山 常楽寺 
御利益:立身出世/縁結び(人脈)/実務力向上/海外渡航安全
  
場所:鎌倉市大船(旧鎌倉郡)
開基:鎌倉幕府執権  北条 泰時 公 
開山:蘭渓道隆 和尚/退耕勇行 和尚 
歴史:征夷大将軍源頼朝公の外甥で鎌倉幕府執権の北条泰時公が開基しました。 
その際、中国から来た高僧蘭渓道隆和尚が初代住職を務めました。また宗派の便宜上、退耕勇行和尚を初代の住職とカウントしています。
北条泰時公は鎌倉幕府を法治主義化に成功した実務能力と学問に優れたばりでなく、承久の乱の際に軍を率いて武将としても大活躍しました。実務力に優れ、鎌倉幕府の基盤を固められた名宰相。高い内政力を発揮して鎌倉幕府の法治主義体制を固める事に成功した。
蘭渓道隆和尚は今の中国が南宋時代、チンギスハンの侵略から逃れ鎌倉幕府に亡命して来られ、関東で学問の普及に勤められました。
※現代では瓦葺や銅葺きの屋根に吹き替える神社仏閣が多く、少なくなった貴重な茅葺き屋根の御堂と山門が見られます。

●松岡山東慶寺(門跡寺院、女性守護の寺院、悪縁切り良縁結びの寺)

●宝亀山長寿禅寺=長寿寺(足利尊氏公関東菩提寺)


●天照山光明寺(浄土宗関東十八壇林一位、徳川十六神将の内藤家菩提寺)


金沢山 稱名寺・・・東の正倉院
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県立金沢文庫      
御利益:学問上達/縁結び(人脈)/実務力向上/合格祈願
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場所
:横浜市金沢区金沢町(旧久良岐郡)
開基:鎌倉幕府引付頭人 金澤北条 実時 公
中興:関東管領家    宅間上杉家
        関東管領家    山内上杉 憲実 公
歴史:金澤北条家初代当主の実時公が邸宅を構え、阿弥陀堂を建てたのが始まり。 
隣接する金沢文庫博物館は鎌倉時代当時から有る金澤北条家が開いた日本最初の図書館金沢文庫が前身で、地名の由来。鎌倉幕府滅亡により支援者の金澤北条家も滅亡し金沢文庫を含む称名寺は一時期荒廃したが、鎌倉時代〜江戸時代を通じ大伽藍を持つ大寺院だった。
かつては今より膨大な文化財や蔵書を有したが、豊臣家や加賀前田家による強奪で多く散逸した。その為に石川県金沢市を含め全国に「金沢文庫」の朱印が押された文化財が有る。しかし未だ幾つかの重要文化財を保持しており神奈川はおろか関東地方にとっての文化醸成地の一つである寺院。
永享の乱の終戦後に宅間上杉家が身を寄せた歴史が有り戦国時代の幕開けの舞台の一つでもある。
江戸時代を通じて、称名寺、三会寺、寶生寺、龍華寺は関東一円から学僧の集まる檀林として有名だったが特に称名寺は別格本山の格式を持つ寺院で日本有数の壇林だった。
現在は存在しないが明治時代の廃仏毀釈まで神様を祀る御社も存在した真言宗らしい神仏習合の寺院だった名残が新宮址に残る。 
春には大門の赤門から境内域にかけて桜が咲き誇る名所としても知られる。 
※素晴らしい庭園の名残を示す池にかかる二重橋と、その周辺を覆う桜が咲く春は特に綺麗です。
※隣接して金沢文庫が現代では博物館として営業しています。
※参道では小柴漁港名物のアナゴ料理や蕎麦を出す茶房が数軒在ります。
※背後の鎮守の山の稲荷山から見る金沢の海の眺望は絶景です。
        
功臣山 報国寺
 &
境内のミシェラン三つ星評価の竹林庭園と茶屋
 &
旧皇族 華頂宮邸             
御利益:立身出世/文化技能上達/縁結び(恋愛&人脈)
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場所
:鎌倉市浄明寺地区(旧鎌倉郡)
開基:足利家時公&宅間上杉重兼公 
   ※足利家時公は征夷大将軍足利尊氏公の祖父。上杉重兼公は足利尊氏公の母方従弟。
歴史:鎌倉幕府が倒幕された翌年、足利尊氏公の祖父家時公と上杉重兼公が一緒に開基した後に歴代鎌倉公方と関東管領の菩提寺に成りました。 
この一帯には鎌倉時代には北条時政や青砥藤綱公が住み、室町時代には宅間上杉家だけでなく関東管領の犬懸上杉家の居館も在りました。
近代にも多くの報国寺を愛した文化人芸術家や皇族華頂宮家が移住して来て、報国寺周辺は室町時代~近代を通じて一大文化醸成地の体を成していました。 報国寺から徒歩2~3分の華頂宮邸宅は現在、無料で拝観できます。           
明治に成ると多くの芸術家が報国寺周辺に住み文化芸術の醸成拠点と成りましたが、近年では美しい竹林の庭園と参道からミシェランガイドで三ツ星評価を受けています。
竹林の中の東屋で御抹茶と御茶菓子を頂けます。秋は周辺の紅葉も美しい。
※毎週日曜に座禅会を実施しており、早朝7時までに集合すれば参加費500円で誰でも飛び入り参加出来ます。

大雄山最乗寺(道了尊)
御利益
:縁結び(恋愛)・夫婦円満・学問上達・健康向上
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大雄山最乗寺の紅葉 久良岐のよし
場所:南足柄市大雄町(旧足柄上郡)
開基:了庵慧明禅師(開山)
中興:扇谷上杉家臣 大森家歴代当主
   相模守    北条 氏康   公
歴史:相模国大隅郡糟谷庄(現在の伊勢原市上粕屋一帯)の地頭だった了庵慧明禅師が戦乱が続く世間を憂いて出家、鎌倉で修行後に能登の曹洞宗の大本山総持寺で更に修行を積み総持寺の住職を務めた後に故郷の相模国に帰国し、この地に禅と修験の道場となる大寺院の最乗寺を開基開山した。
更に道了尊の寺院の異名の由来に成った相模房道了尊者は京都聖護院の門跡(天皇の一族が住職を務める特別な仏閣の住職の役職名)の覚増坊親王の元で修行をした後、金峰山や熊野三山で修験を積み、この大雄山を開いた了庵禅師の元で寺院建設と修行に励んだ。道了尊者は75歳で「大雄山の山中に入り以後は大雄山を守り人々を救済する」旨を宣言すると再び修験に出られ、現在では天狗の御姿で守護される道了大薩埵に成られたとして室町時代より鎌倉府与力の大名小田原城主大森家歴代当主や、後の小田原城主で関東の覇者と成った北条氏康公より深い崇敬を受け塔堂を寄進(建設)された歴史を持つ。
※紅葉の名所としても非常に有名。
※境内に有る巨大な天狗様の高下駄は、縁結びの御利益が有るとして有名。

龍祥山 勝國寺
御利益
:商売繁盛/立身出世/実務力向上
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場所:横浜市南区蒔田(旧久良岐郡)
開基:左京太夫 吉良政忠 公
中興:蒔田御所 吉良成高 公
   左兵衛佐 吉良頼康 公
歴史:東京の世田谷城と、現在の勝國寺の背後の丘に在った蒔田城を居城とした蒔田吉良家と御縁の深い御寺。元々、霊応寺と言う寺院だったが吉良家の菩提寺として再興開基されてより勝國寺と寺名を改めた。
この蒔田と世田谷を居城とした吉良成高公は関東一の名軍師太田道灌公の盟友として活躍された名将で、当時、道灌の居城だった江戸城が道灌公の留守中に敵勢に攻撃された際に援軍として駆けつけ城兵の指揮を執り敵勢を撃退する事に成功した事が梅花無尽蔵と言う書物に記載されている。梅花無尽蔵の著者の万里集九は文化人禅僧として有名だが彼も又、太田道灌公と吉良成高公の共通の友人だった。
勝國寺を菩提寺とした蒔田吉良家は室町幕府足利将軍家の分家に当たり格式が高かった。その為、戦国時代には小田原城主北条家の関東制覇に際し当時の蒔田吉良家の当主吉良頼康公は鎌倉公方の代行者として一時、‟蒔田御所”の異名で呼ばれその政務を一時期代行した。
又、鶴岡八幡宮が房総の里見家によって戦火に巻き込まれ焼失した際は、河川の水運や海運を担う商人達と関係が密接で現在の東京沿岸部を支配した吉良頼康公とその家臣団が材木の海上輸送を担当した。
この鶴岡八幡宮は総勢5万人の人員を動員した大事業だったので、蒔田吉良家の豊富な経済力と主従の内政的な実務力の高さを示した事績とも言え、吉良家歴代殿様の武勇と実務力と商売の能力の御利益に預かれる御寺でもある。
※近くには縄文時代からの遺跡を公園化し展示している三殿台遺跡があり、この地が古代より重要だった事が解る展示がされています。小学生くらいの御子さんのいる御家族は勝國寺と併せて見学されると、御子さんに良い体験もさせてあげられると思います。

●蟠龍山道洞昌院公所寺(関東管領扇谷上杉家執務所、不敗の名軍師太田道灌公の菩提寺で胴塚を守る寺院)
●長谷山寶泉寺(北条家家臣相模十四騎筆頭の間宮信冬公、間宮康俊公菩提寺)  

戒宝山 宝国院 二傳寺(坂東平氏始祖の平良文公、玉縄城主北条氏時公、) 
御利益:勝負運/縁結び(人脈)/立身出世/子孫繁栄
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場所
:藤沢市渡内(旧鎌倉郡)         
開基:後北条家  玉縄城主  北条  氏時  公 
歴史:開基自体は戦国時代だが、平安末期の名将、鎮守府将軍平良文公の御廟所が二傳寺の境内裏山に有る名刹(めいさつ)。
平良文公は全国の平氏系武将の祖先で、子孫には鎌倉景政公・三浦義明公・和田義盛公・梶原景時公・千葉常胤公・畠山重忠公・相馬盛胤公・正木時茂公・蘆名盛氏公・朝比奈泰朝公・長尾景虎(上杉謙信)等がいる。
藤沢市内の標高最高所に位置し、第二次世界大戦中は近代化された陸軍も砲兵部隊を配置した要害の地。
二傳寺自体は小田原北条家の北条氏時公により寺院建築物が築かれた。戦国時代に玉縄城が築かれると、武田信玄や上杉謙信も攻め落とせ無かった玉縄城の外郭二傳寺砦として機能した武家と関わりの深い御寺。
玉縄城主は地黄八幡と呼ばれ畏怖された関東最強の戦国武将北条綱成公。
※裏山の平良文公以外にも、三浦家に繋がる御子孫の御廟所もあります。
    
陽谷山 龍寶寺(りゅうほうじ)
 &
玉縄歴史民俗資料館
御利益
:勝負運/縁結び(人脈)/夫婦円満/土木技術向上
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場所
:鎌倉市植木(旧鎌倉郡)
開基:上総介 北条 綱成 公(地黄八幡 黄備隊大将 玉縄城主) 
中興:儒学者 新井 白石
歴史:開基様の北条綱成公は後北条家の家臣で、第三代当主北条氏康公の妹を妻にしており義兄弟同士で関東最強の主従として周辺諸国に武名を轟かせた。
特に西暦1547年に河越合戦で河越城代として兵3千を指揮し、関東管領上杉家と古河公方連合軍8万を迎撃し半年間も防衛に成功した上、主君で義兄の氏康公の援軍8千と協力し夜襲で関東管領連合軍を壊滅させ大逆転勝利をおさめた。
更に龍寶寺の寺域を含めた一帯にあった居城玉縄城で上杉謙信と武田信玄を迎撃し撤退させた。
北条家と武田家の同盟成立後は武田信玄vs上杉謙信の川中島合戦でも武田家の上田城に援軍として派遣され上杉謙信を撤退させた。
北条家武田家の同盟破綻後、北条家と上杉家が同盟するや武田家が北条領伊豆深沢城を攻めた。
その際、綱成公が深沢城代を務めていたが、寡兵(かへい=劣勢)でよく守り善戦した。敗戦濃色となり撤退した情報が上杉謙信に伝わると過去綱成公に何回も苦戦させられた彼は「地黄八幡が信玄に城を明け渡した」と大変悔しがった程でした。
勝った武田信玄も深沢城に残された「地黄八幡」の旗を部下の真田信伊(のぶただ=真田幸村の叔父)に与えて「北条綱成にあやかれ」と言わしめる程の名将でした。
江戸時代、龍寶寺は海外の外交使節の応接施設としても使われました。
綱成公の御子孫筋に当たる方に、名奉行大岡越前や江戸時代初期の名将松平信綱がいます。
副将は伊豆山中城合戦で活躍した笹下城主間宮康俊公です。 
境内、山門の直ぐ横には玉縄郷土資料館が在り、戦国時代の玉縄城の様子を伺える資料が展示されています。
※付近一帯は玉縄城址で、近所には一般非公開だが城址の蹴鞠場や花畑や空堀等の史跡も僅かに残る。鎌倉市に問い合わせれば見学も可能。 

●東光山英勝寺(徳川家康公側室お梶方菩提寺、太田道灌公菩提寺の一つ※伊勢原市より道灌公御首を源氏山に改装、水戸徳川家姫が歴住、学問上達戦勝祈願女性の良縁結びの寺)

●出雲大社相模分祠(島根県の出雲大社本社の関東に於ける分社で江戸時代の布教拠点)   


思金神社&白山神社旧跡
御利益
:立身出世/商売繁盛/学問上達/工業技術向上/実務力向上2016-01-01-11-36-10
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場所:思金神社:横浜市栄区上郷町(旧鎌倉郡) 
   白山神社旧跡:栄区長倉町
開基:不明。近代、幾つかの御社が統合された。元は白山神社。 
歴史:白山神社が前身の神社で旧境内地は栄区長倉町に在り、旧境内地に架かる昇龍橋は神奈川の橋100選の一つにも選ばれている。又、旧境内地には矢倉も有る事から鎌倉時代には既に存在した事が解る。一帯は奈良時代の集落でもある。
白山神社旧跡と思金神社の裏の鎮守の森は円海山瀬上市民の森と呼ばれる自然公園で、この神社のすぐ近くからは奈良時代の蹈鞴製鉄場の遺跡が出土している。古代鎌倉郡域の中でも特に早くに開かれた地域である。その為、山の裾野の丘陵には沢山の古墳群がかつて存在し現在も一部が現存する。 
山中の林道は鎌倉武士達が利用した古道の史跡でもあり、円海山全体が文化醸成地の体を成している。 
その山の多くの沢の水を集めた瀬上池から流れる瀬上沢は、古代人達から受け継いだ稲作文化を現在に伝える水田に配水する為の灌漑水田の史跡でもある。 
その灌漑用水として機能していた円海山の瀬上沢流域は「横浜市内では絶滅寸前の貴重な天然のホタルが自生している場所」で、6月にも成ると、夜間、瀬上沢のせせらぎの樹木の枝で光る天然の蛍を見る事が出来る。 
更には、この神社の建つ丘陵一帯は、貴重な淡水生の大型の貝の化石が出土する保護すべき地層でもある。 
太古の生物の化石が出土する保護すべき重要な土地であり、蹈鞴製鉄を行った古代人の文明と自然信仰の文化、鎌倉武士団の踏みしめた幾筋の古道を受け継ぐ文化醸成地の象徴的な存在が、この思金神社に成っている。 
御祭神も今では余り見かけなく成った神様の「思金神」だが、古代神話時代の首相格を務めた神様で、実務的な事や神様の担当業務等を割り振る役割を担った神様だった。菅原道真公を御祀りする天神様の登場まで、知恵や仕事の御加護の有る神様と言えばこの思金神だった。 
思金神を御祀りする神社は今では日本中に余り無いので、ここ栄区上郷町の思金神社と円海山の自然は横浜市内有数のパワースポットでありながら古代人の崇拝した古い神様の御利益に預かれる数少ない貴重な神社とも言える。 
※所在地が古代人が山岳信仰の御社を建てた神社だけあり、境内の展望台からは美しい富士山が見られます。
※思金神社から徒歩5分くらい、近くを流れる瀬上川の少し上流、円海山瀬上池近くでは初夏にホタルが見られます。 

横浜中華街関帝廟
御利益
:商売繁盛・財運向上・勝負運向上・縁結び(人脈)
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※色んな人が写り込んでいるので、顔が見える人だけ画像差し替えてます(ふざけてません(笑))。
場所:横浜市中区山下町(旧久良岐郡)
開基:幕末の華僑の皆さん
歴史:ペリー提督の来航により横浜が開港されると、1859年、蒔田湾(大岡湾)を埋め立てて作られた吉田新田の一角、横浜の地名の由来の半島と山手地区に接する埋め立て部分に中国清朝時代の領事館が設置され、次第に華僑商人達が貿易の為に集まる様に成り今の横浜中華街の礎が形成された。その頃既に、関帝廟も建立されていたが現代の様に立派な建築では無く比較的簡素なものだった。
現在の関帝廟に成ったのは、戦後の事。関帝廟からほど近い公園は、元々は幕末の中国清朝の領事館の所在地だった。
明治時代初期には台湾の国父で明治政府の盟友、孫文先生が横浜中華街に亡命し、その後、中国大陸の民主化と中華民国の建国に成功している。
御祭神の関聖天君は生前の名を関羽雲長と言い三国志に登場する有名な名将。三国志演義では指揮官としてよりも武芸に優れた武将として描かれているが実際の関聖天君は指揮官として優れ「万人之敵(万の軍を打ち破る名指揮官)」として記録上は評価されている。
後に農村の村民から皇帝に出世する劉備と出会い、武将としての才能を開花させていく。
武将としての人生を歩む前は塩の行商を行っていた商人だったので財神(ざいしん=金運と商売の神様)として崇敬を集めた。又、当時の商隊は武装した私設軍隊でもあった。
関聖天君の活躍した三国時代は日本の卑弥呼の時代に相当するが、当時の中国で塩の行商は個人レベルで行う事業では無く商隊を組んで行う大規模な事業だった事や、塩自体が貨幣の代替品としても利用された事から、商売繁盛の神格も有している。その為、世界各国の華僑の崇敬を集めている。
※入口で御線香を購入し御参りすると、日本で言う所の御朱印みたいな柄がプリントされた御守りを頂けます。
※中華街はランチタイムに行くとお得で、500円~1500円位でメインとライス・スープ・デザート付きのランチ定食やランチコースを楽しめる店が沢山有ります!肉まん食べて御腹いっぱにするのは「損」ですよ~。

ここでは、特に開基様が有名で偉大な業績を残さした神社仏閣を紹介しました。
他にも素晴らしい神社仏閣もあります。
もし御興味有る方は、以下カテゴリーから御覧下さい。
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では!
皆さん、本年中は御愛読頂きまして誠にありがとうございました!

ブログで関わった皆さんと日本国民と日本の友好国民の新年が良い年に成ります様に!


深見神社(延喜式内社、名将達が崇敬した神社)
深見神社の春楡(神奈川の名木100選)
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  御祭神・御本尊等:
  闇神(くらおかみ)・武御雷神・建御名方神・宇迦之御魂神
  御利益:立身出世・雨乞い・農業豊作・治水・戦勝祈願
  関係者:
  開基:闇神(くらおかみ)
  中興:雄略天皇
     征夷大将軍    源 頼朝 公
     渋谷庄領主    渋谷重国 公
     相模守護代    太田道灌 公
     相模守      北条氏康 公・・・以下歴代北条家当主
     大膳太夫     武田信玄
     徳川幕府寺社奉行 坂本重安 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:大和市深見の境川沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
源頼朝公を始め、明治時代の帝国海軍東郷平八郎元帥の御先祖様で鎌倉武士の渋谷重国公、戦国時代の関東最強の無敗の軍師で名築城家の太田道灌公、日本三大夜襲の一つ河越合戦で手勢1万1千を率いて敵の大軍上杉勢8万5千を撃破した軍略と戦国最高の内政力を誇った北条氏康公、戦と治水で古今稀な事績を残した名将武田信玄等、戦と内政の天才達から崇拝され戦勝祈願と内政で高い御利益を歴史的に証明している延喜式内社。
境内には神奈川の名木100選の一つ‟深見神社の春楡(はるにれ)”が御神木として存在する。
神(くらおかみ)と言う在地の神様がこの地を治めたのが聖地としての始まりと神社の縁起に伝わる。その後雄略天皇が社殿を造営して神社と成った。古くから存在して神社で闇神は雨乞いの神とされ、また境内社に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)も祀る事から古代からの農地開発と農業の豊穣に深い関わりが有って庶民~時代時代の権力者から崇敬を集めた。
神の龗は龍神を指し転じて水神の意味で有り、龍神は古来、雨乞いの神であり農業の神様でもある。
深見神社の縁起に記された社名由来の説明では古代、この地域に海の湾部が近在し❝深い海❞→❝ふかいうみ❞→❝ふかみ❞→深見と転化したのだろうと推測されているが、残念ながら深見神社周辺が海だった事実は無い。
深見神社の社名の由来のヒントに成る場所は玉川上水の取水堤の在る東京都羽村市に存在し、同市の田ノ上地区には古くから淵(ふち=川の深い場所=深水(ふかみ))に木製の龍を沈める雨乞い神事が行われていた事実が有る。もう一つのヒントは大山阿夫利神社の御祭神の一柱である高龗神(たかおかみ)が水神であり龗の字が龍神を指す事、この2つの事例を踏まえると深見神社の御祭神が闇(くら)い龍神である事、神社の社名が深見=ふかみ=深水に通じる事からも淵(ふち=底の見えない深水)にまつわる信仰と関係が有る事が解る。そして神社の背後には境川が存在する事からも社名の由来は龍神が住んだであろう境川の深水=深見と成るだろう。

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