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タグ:吉良頼康

九品山 唯在念佛院 淨眞寺
奥沢城址の紅葉名所
(吉良家重臣大平家居城)

【景観】★★★★★
 寺院建築&紅葉の美しさ堪らん!
【電車】 
 九品仏駅 ・・・徒歩03分
 自由が丘駅・・・徒歩10分
【  車  】★★
 駐車場40台前後。
 ※オンシーズン入庫待ち必至。
【休憩】★★
 境内には自動販売機程度。
 駅周辺にレストラン多数。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 戦国期の奥沢城を寺院化した庭園◎ 
 寺院建築+紅葉のコラボが素敵💛◎
 住宅街なのに境内広く紅葉が多い◎
 九品仏再建の特別御朱印有り◎
 自由が丘駅近くレストランが多い◎
注意するpoint(•ω•)       
 紅葉シーズン駐車場メチャ待つ。
 三脚立てて止まるなよ。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
淨眞寺(浄真寺)の広い境内庭園と寺院建築に紅葉する樹木の景色がとにかく美しい。
現在、九品仏再建に際して特別な金の台紙の御朱印を拝受する事も出来る。
駅から徒歩直ぐで交通面でも優れており、紅葉の名所として東京都民には昔から有名。
御寺としての歴史は江戸時代に始まった。延宝六年(1678年)、徳川家綱公の統治下で江戸幕府より奥沢の庄屋七左衛門が寺地として江戸時代以後廃城に成っていた戦国時代の城郭、奥沢城廃城を拝領し淨眞寺が開かれた。
淨眞寺として寺院化された奥沢城は戦国時代に江戸城を最初に近世城郭化した築城と野戦の名人で戦国時代の関東最強の無敗の軍師、太田道灌公の親友として記録に残る蒔田吉良成高(まいたきらしげたか)公の家老、大平家の居城だった。
紅葉を見ながら淨眞寺の歴史を辿(たど)ると江戸時代には帰農し庄屋に成っていた世田谷の室町時代の武士団が、そもそも鎌倉時代足利義兼公の時代からの武士団で徳川家臣団より格式の高い家柄だった事にも触れる事が出来る。
【偉人】
世田谷城主吉良成高公、吉良氏朝公、奥沢城主大平家歴代当主、徳川家綱公。
世田谷区の寺社や横浜市南区蒔田城下の勝國寺の檀家氏子と周辺には今でも喜多見(北見)、大場、佐々木、上保、並木、森、杉田の姓の旧吉良家臣団の御子孫が多く残る。
蒔田吉良家は室町幕府将軍の足利一族で、今川家とも同族。
大平家の主君、吉良成高公の頃は淨眞寺と同じ紅葉の名所の豪徳寺=世田谷城を居城としていた。
太田道灌公が江戸城を空にした際に敵軍が来襲した際に吉良成高公が援軍に駆け付け道灌公に代わり防衛戦の指揮を執(と)り、撃退した事を万里集句と言う二人の共通の親友だった臨済宗の文化人高僧が日記に書いていたりする。
蒔田吉良家は戦国時代に吉良頼康公が横浜市南区蒔田城を本拠地にし、室町幕府足利家の鎌倉公方が空位の期間に公方代理を務めた事から当時の居城の名前をとり蒔田吉良家と呼ばれ、忠臣蔵で有名な同族の吉良上野介の三河吉良家とは呼び方を分けられている。
豊臣秀吉の小田原攻めの際に最後の蒔田吉良家当主に代わり軍勢を率いて伊豆下田城を守備する名将、清水康英公の援軍に駆け付ける等の記録が有り大平家の歴代当主は武勇に優れた家柄だった事が解る。
淨眞寺の前身となった奥沢城主大平家が下田城の援軍に駆け付けた当時、蒔田吉良家は同族の今川家から婿養子に入った吉良氏朝公の統治下で吉良家の本拠地を再度、家老の大平家はじめ家臣団の本拠に近い世田谷城に戻していた。
東京都無形文化財に指定されている‟ボロ市”は吉良家の庇護者である小田原城主北条氏政公から御隠居の吉良頼康公が許可を得て始めた‟楽市楽座”が始まりだったりする。
氏朝公の時代には天皇を軽視する将軍足利義昭が織田信長公の諫言を無視し戦を度々起こして京都から追放され足利幕府は滅び、吉良家の足利血族ブランドの優位性も無効に成り北条家の従属大名から北条直属の家臣化が進み、豊臣秀吉の小田原攻めの後、江戸時代に蒔田吉良家臣団は解体され大平家は等々力で庄屋に成り、蒔田吉良家は房総半島で小規模の旗本として辛うじて存続するのみに成った。
同じ家臣団の喜多見家は大名家に成功するが幕府内の権力構想で婚姻外交の失敗から報復事件を起こして解易され、北海道の大名松前家家臣として存続し明治に北海道北見を開拓した。
【見所】
とにかく何処を切り取っても綺麗な寺院建築と豊富な紅葉の景色。
現在に注意して観察すると戦国時代の防御壁の土塁に取り囲まれていたり、淨眞寺北側が奥沢城の外郭の形のまま道路化していたりする。
【名物】
すんごく綺麗な九品仏再建の納経で拝受出来る金色の御朱印。
【交通】
自由が丘駅からも九品仏駅からも徒歩10分以内と非常に便が良い。
駐車場は40台前後しか停めれないのでオンシーズンは入庫待ち必至、公共交通機関の方が圧倒的に便が良い。
【周辺
自由が丘駅が近いので周辺に小洒落(こじゃれ)たレストランが多く、電車での来訪なら飲食店に寄る楽しみも有る。世田谷区のもう一つの紅葉の名所、豪徳寺も車なら20分と近いので合わせて見物しても良いかも知れない。
【関連記事】
  
 
——東門~閻魔堂~開山堂——
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——紫雲楼(山門)周辺——
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——奥沢城遺構土塁——
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—下品堂~上品堂~中品堂—
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——本堂周辺——
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——御朱印——
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紅葉の名所一覧へ⤵
 
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豪徳寺と世田谷八幡宮
徳川四天王井伊家の豪徳寺
(世田谷城址)

世田谷八幡宮
(鎌倉将軍代理吉良家の守り神)
【世田谷八幡宮】
【景観】★★★★
 紅葉と寺院仏塔の景観凄い。
【電車】★★★ 
 東急世田谷線宮の坂駅~
 ~徒歩5分
 小田急小田原線豪徳寺駅~
 ~徒歩8分
【  車  】
 豪徳寺境内に10台程度。
 世田谷八幡宮に10台程度。
【休憩】
 周辺に数件レストラン有り。
 豪徳寺境内に自販機有り。
 世田谷八幡宮近くにタコ焼き屋。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 紅葉と仏塔や御堂のコラボが綺麗◎
 ❝招き猫❞発祥の御寺だよ

 大名井伊家の菩提寺で建物凄い◎
 豪徳寺は戦国時代の世田谷城址◎
 八幡宮は江戸三大相撲の内の1つ◎
注意するpoint(•ω•)       
 駐車場少ないし解り難いよ!
 住宅街だから運転注意!
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
豪徳寺の三重の塔がコラボした風景がとても美しい御寺。
この御寺は招き猫発祥地でもあり紅葉を楽しめるだけでなく招福祈願の寺院としても有名。
近年ではNHK大河ドラマ“女城主直虎”の人気で観光客も増えている。都心から近いのに京都や鎌倉の様に美しい紅葉の景色が撮影出来るので外国人観光客にも人気。
世田谷城鎮守の世田谷八幡宮は源義家公が開き、戦国時代に足利幕府鎌倉将軍の代理を勤めた吉良頼康公によって復興されたと伝わる由緒ある八幡宮な上に、江戸時代に徳川家康公に支援されると現在の大相撲興行の元に成った江戸三大大相撲の内の一つの開催地に成った。
【偉人】
源義家公、蒔田吉良成高公、吉良頼康公、吉良氏朝公、井伊直孝公、井伊直弼公等。
歴史も由緒正しく、戦国時代には鎌倉公方の代理も務めた蒔田吉良家最期の本拠地として機能した世田谷城址の持仏堂から大寺院化した御寺で、更に江戸時代初期に成ると徳川四天王の井伊直政公の跡継ぎ、彦根藩第二代藩主の井伊直孝公によって井伊家菩提寺に定められた。
井伊直弼公は横浜(東海道神奈川宿)の開港を決めた人物で近代日本発展の門を開いた人物だが、桜田門の変で攘夷派志士達に江戸城桜田門外で邸宅への帰路に暗殺された人物。
豪徳寺境内には井伊直孝公以来、歴代当主と奥方様達の立派な御廟所が現存し、参拝客に一般公開されている。大出世した井伊家の殿様達を御参りし御線香上げたら立身出世の御利益有るかも♪
【名物】
招き猫
井伊直孝公と当時の御住職の逸話の中で、井伊直孝公を御寺に招き入れた猫チャンが招き猫の由来に成った。
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彦根城の‟ゆるキャラ”の‟ひこにゃん”は招き猫が井伊家の殿様の兜を被(かぶ)ったデザインに成っている。豪徳寺の寺務所では現在も招き猫の置物や御守りを販売しており、参拝者は購入する事が出来ます。御朱印も拝受出来ます。
【交通】
駐車場は台数少なく直ぐに満車に成る上に周辺に駐車場が無い住宅街なので電車での訪問が良い。
電車での交通の便は非常に良い。
【周辺】
戦国時代は世田谷城と言う御城だったので、近くには世田谷城址公園として一部空堀と土塁が保存されている。
世田谷城址公園と豪徳寺と世田谷八幡宮は徒歩直ぐの距離なので歴史好きなら全部廻(まわ)りたい所。
隣町はサザエさん一家の住む桜新町だったりする。
——豪徳寺境内の紅葉——
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——招き猫の招福殿——
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——世田谷八幡宮——
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中国現政権は自ら香港市民に対して確約していた一国二制度の“約束を違え”た、そして成功していた融和統治を自ら失敗に引きずり込む墓穴を掘った。
現政権は失敗した政策を、面子の為に更に強硬に進め更衣兵を送り込み武力弾圧に発展させた。
最近は習主席が自ら威嚇と統制の為に更なる大虐殺に発展させる可能性を述べた。
外国人である小生から見て、その様子は文化大革命を引き起こし中国の高文化階層と有能な人材を大虐殺した毛主席末期の姿に酷似する。
必ず唐山大地震の時の毛主席と同じ失政をするだろう。
唐山大地震の発生時、毛主席は文化大革命を引き起こし劉政権を転覆させた直後であり己の統治力の沽券を重視する余り、世界諸国からの緊急救援要員及び物資の供給支援を断固固辞した。
結果、中国では公称で被災者25万人が“死亡”し、アメリカ合衆国調査では60万人超が死亡している。
赤十字等はアメリカから派遣されているはずなので、アメリカ側の情報がより正確だろう。
今の習主席のロジックと酷似する。
当時、毛主席は優秀な相国の劉少奇主席と周恩来首相と趙紫陽総書記等を遠ざけ政敵とした。
自政権を維持する為にヒトラーのナチスSSと同じロジックで紅衛兵を組織させた。
毛主席は戦略家としてはアジアの歴史を見ても優秀で、先導者としてカリスマも備えている優秀な“大将軍”だと個人的に評価している。
が、彼はあくまでも軍事政権を纏める棟梁であり知力と統率力に長けたが、内政力には欠けた。
それを補っていた人材が劉少奇主席と周恩来首相と趙紫陽総書記等だった。
彼等の名前を上げると不愉快に成る中国人もいると思うが、彼等がいた。
加えて英国と米国を対日戦線に引き込む外交を成功させたのは中華民国の蒋介石総統であり、中国共産党の功績ではない。
彼等がいたから、我が国日本はアメリカの中国支援の事態を招いて中国侵略に失敗した。まぁ、昭和天皇は孫文先生の作った中華民国支持者で対中開戦に反対し命令撤回の要求まで軍部にしたんだけど、それを知らない中国人だらけ。
昭和天皇は漢末期の皇帝みたいに成ってしまっていたのよね。
漢末期の皇帝と違い今の習主席には正面と背中を守る信頼出来る親友の様な人材は居ても、文革直後の毛主席同様に彼に直言し補佐を為し得る人材が左右にいないのかも知れない。

日本の右派は毛沢東主席達を侮るが、中道派の小生から見れば事実として彼等は撤退しつつ太原と重慶に籠城し見事に戦線を膠着させて米国の参戦まで耐えた名将達に見える。
戦の上手さは局地戦で勝てば良いと言う物ではない。周辺の状勢も利用する又は誘導するのが名将だと思う。
恐らく習主席の周囲には“軍閥”がおり彼を支える“参軍”系武官の優秀人材はいるのだろう。公安と軍人だな。
彼等は“軍師”として謀略や政略を用いて“煽動”と“制圧”と“逮捕”と“統制”する事は得意でも、説得したり相手の立場を組み仲間に成る事は不得意。
但し敵を制圧する事には長けているので新型肺炎の対応も事実が習主席に伝われば忽(たちま)ち国全体を動員し戦闘態勢が整い新型肺炎にすら完勝する。又、日本政府みたいに何でも反対するだけの無能な野党もおらず幹部の判断で物事が決まるので、幹部が頭柔らかく優秀だと新しい技術もスルスルと滑かに導入される。
これが今の頭が老人化した日本政府の色々決めようとして決められず国家公務員から御飾りにされる大臣達と、血生臭い生死に関わる権力闘争をやって来た中国政府との違いなんだろう。
中国は軍人側から出た思想の政治家。
日本は貴族的な輩と文民統治、当然ながら貴族より武士の方が何でも判断は優れていて当たり前。

まぁ自衛官は国民には銃は向けないが、彼等人民解放軍と武警は中国国民と香港市民には攻撃を加えた事がある。
ソコを見てると、トランプさん州兵動員してデモ隊攻撃する寸前の発言する低俗さと変わらず中国の香港対応は良くない。
平和ボケした日本人はずっと平和が続くと思い込んでるから結局、中国やアメリカよりも「判断遅くてもマシ」と洗脳されてしまう。
この30年、日本人以外の時間軸は凄い早さで動いている。
日本は置いてきぼり。

でも中国政府は人民解放軍寄りの武官気質だから当然、香港市民との交渉なんか出来ない。
縛る事と鎮圧し“降伏”させる事しか選択肢が無い。
今の習主席は起きてる事態の本質つまり香港市民は元々は外国人である事実と世界世論を理解出来ていないのではないか?
まぁトランプ大統領も経済に強いけどやってる事は武力弾圧の一歩手前まで行ってしまい、魅力薄れたね。

中国と香港は同じ文化圏ではあっても香港人のマインドは民族主義ではない。
と、言うか民族的には中華民族ですらなく南越国の後裔で南越人だから物事の見方も違う。
どちらかと言うとベトナム人みたいに独立心が強いんじゃないだろうか?
中国大陸人の民族主義者にとって香港は“土地=領地”にしか見えていない様だが、香港で重要なのはソフト面だ。
例えるならば咸陽宮に有る“ソフトウェア”の重要性を認識出来ず、士兵の郷愁に駆られ江東の徐州彭城に首府を遷移した頃の項羽に酷似する。
彼の前後に范増や項荘や鐘離眛の様な優秀な将軍と公安の“武略型人材”はいるんだろう、しかし、その左右には己の足りぬソフトに対応する部分を得意とし代理を行いつつ大局的に判断を下す“大将軍”や“丞相”型の人材や外交を用いれる劉邦にとっての蕭何も陳平も韓信も、そんな自分より優れた面を代理で行う様な人材は少ないのだろう。
李国強首相は習主席とは異なるタイプに見えるし、今回も武漢に自ら乗り込み新型肺炎封じ込めを指揮した手腕は習主席とは違った面で素晴らしい。
しかし独裁の限界と言うのが項羽の前例で正に唐山大地震の毛主席だな。
物事を一人で全て万全にこなせるスーパーマン等はこの世に存在しない。
安倍晋三首相も同じ。
政権初期の回りに気を使っていた頃は素晴らしかったのに、最近は傲慢さから来るのか判断遅くミスも多かった。
結果として1月初旬の感染開始から本気の対策を始めるまでタイムラグが3ヶ月も間が空いて、最初の補償無しの自粛期間に小生の様に失業する者もいれば店を潰して借金だけ残った飲食店や観光産業の経営者もいるだろう。

諫言や助言を聞き取る棟梁が真に国を豊かに出来る。
又は優秀な人も老人に成れば情報過疎に成り一度に判断出来る処理能力も下がり“老化”する。そのまま前線に立ちたがり権力を若い人材に移さない事を世の中は“老害”と呼ぶ。

老害化防止の情報過疎を補正するのがパブリックコメントであり、老害化して判断力低下した人物をリーダーに居座らせない為の定年制であり、老害化どころか腐敗させない為の制約が任期な訳だ。
ところが既に老害化した政治家の場合、パブリックコメントを活かすよりもパブリックコメントを無視する事に終始する。
東日本最大のタタラ遺跡の上郷深田遺跡と瀬上沢西側を削り消し去ろうとしてる横浜市が悪例だな。栄区民12万人、反対署名11万人を無視した。
新型肺炎で感染者が出た保育園の保育士達に「他言しないでくれ」と口封じしようとして反感買い暴露されたりもした。

戦国時代、関東を統治し現代に残る日本最初の飲用水道の小田原用水や、荒川大堤防建設の大治水工事や、楽市楽座による市場活性化、近代日本の主産業になる横浜シルクの養蚕を北関東一円に振興させた小田原北条家は“目安箱”を日本の諸大名に先立ち採用した。
つまりパブリックコメントだ。
それにより領主の不正徴税等や町村間の争いが起きると調停する裁判官になる内政に長けた武将を奉行として派遣した。
最も有名な事積を残したのが現横浜市港南区野庭に有った野庭関城代の安藤良整公だ。
安藤枡と言う年貢米の測量器を北条家の度量衡フォーマット化し不正徴税を行えない体制を確立したり、水争いでも名奉行として活躍した。
又、他にも外交官や執政官としても家柄高く古典礼儀と高い能力を有した横浜市港北区小机城代大曽根城主の笠原信為公や、滝山衆付家老の間宮綱信公等がいた。
更には張良の様に君主には出来ない作戦立案を代行し監督する役割を果たし河越夜戦で活躍した横浜市神奈川区青木城主の多米元忠公。
戦国時代未曾有の鶴岡八幡宮と鎌倉市街復興で鎌倉復興を総奉行として計画立案指揮した埼玉県川越市の河越城代だった大導寺盛昌公や、敵対大名からも金銭や資材を提供させる事に成功した東京世田谷城主横浜市南区蒔田城主の吉良頼康公、材木奉行鎌倉玉縄城主北条綱成公の業務を代行した磯子区と港南区の笹下城主間宮康俊公がいる。
優秀な君主には、君主の不得意や手の届かない業務を補佐又は代行する優秀な代表代行が各分野にいる。
そして現場にいる民衆や兵卒の抱える問題を吸い上げ政策に反映させる。

今回の公明党の山口県代表が正に目安箱を活用し総理に食ってかかって翻意促した名奉行と言う事なんだろう。
さしずめ南町奉行大岡忠相みたいな存在だった訳だ。

無論、名君は国を富ませ臣民と愛情を共有する。その様な環境では弾圧統制では無し得ない良策が湧く様に実現してくる。
弾圧を用いた上杉謙信と武田信玄は配下の離反が相次いだ。特に武田信玄は末期に金山からの金産出量が低下すると国の維持が困難に成り同盟国にすら略奪侵略に出かけ、次代の勝頼公に負の財産を沢山残した。
北条家では豊臣軍20万の大軍勢に小田原城が攻められた“必ず死ぬ”必死の状況で、それまでの北条の善政に報いる為に・・・
「“於途様(おとのさま)を守ってやんべ!」
「やってやろうじゃん!」
・・・と言葉は現代の相州武州訛りと同じかは知らないが(笑)農民が自発的に武装蜂起し三万人も小田原城に籠城する北条の援軍に駆け付けた。
小田原城の威勢を見て豊臣軍は包囲長期戦を決めたが、方針に反して攻めた一部豊臣軍は“北条の武装農民”に返り討ちにされ実に三千人超が死亡し北条側はほぼ無傷だった。
国を守る真の愛国心は百姓(本来の意味は全国民)の生活と安全と自由を保証する統治者に対して自然に生まれるモノであり、軍国主義的な共産主義的な“統制”や“国威発揚”の為の“軍事パフォーマンス”は実に虚しく旗を振る愛国表示行動しか産み出さず士気も上がらない。
徳川政権ですら統制のみの政治が行われた最初の100年間、武士を除いたあらゆる階層の百姓による反抗が起きた。
生活保障と民の声を無視した初期徳川幕府では、徳川直参旗本つまり家臣団による不正徴税腐敗と農民弾圧や商人町人への蔑視政策行われた結果、江戸城下は都市開発中に旧北条統治を懐かしむ旧北条臣民により家康公の存命中にも計画的に放火され灰塵に帰している。挙げ句、天領(徳川領)全土で一揆(反乱)が長期に単発的に続発した。
前統治者が治世のフォーマットを徳川に託したのに、徳川では面子に拘り実に100年に渡り内政では失政を行い続け赤字経営も続いた。周辺大名が反逆しないように公共事業を負担させ、諸大名の経済も破綻させる事でしか統治が出来なかった。
徳川家は綱吉公の失政から生まれた経済破綻から立ち直る為に紀州徳川家から徳川吉宗公が宗家後継指名を受け征夷大将軍となり幕府を運営する際、北条家の関東支配から遅れる事200年余、漸(ようや)く北条家が託した“パブリックコメント(目安箱)”が採用された。
そして吉宗公は配下の大岡忠相公等の内政官僚を登用し、治世を成功させた。
名君主には必ず名臣名補佐役がおり、独裁統治ではなくLive(実況)で現場の意見を吸い上げ政策に反映出来る補佐や任務を代行する優秀な人材が沢山いて、彼等も君主も同様に万能ではなく各々に優れた得意分野を以て活躍した
君主は優秀な家臣を見抜き、議論が膠着した際に意見を聞いて決裁するのと人を惹き付ける魅力が有る事が仕事。
軍人と警官だけでは文化と思想の違う国民は懐かない。懐かなければ郷土愛も愛国心としては発揮されない。
民草を屈服させても心から従わない。

今の習主席のロジックは項羽と初期徳川家に酷似している。
外国の中国史好きから見ていると、香港市民を弾圧し続けエスカレートするなら、必ず同じ“楚”の出身でも項羽とは異なり己の不得手な面を理解し多才な人材を登用する劉邦の様な“共産党の身内”に政権転覆させられて終わる様に思う。
そうならない為には劉邦の様に優秀な自派閥や同タイプに拘らない人材登用の制度を設置するか・・・
北条家の様にパブリックコメントを吸い上げる政策に反映し、実務力に長けた人材を多岐に渡り登用し諸民の現況を統制し不満を弾圧するより、民百姓から解決策を採用し富ませ安全を保証し愛情を以て国を発展させるか・・・
古来中国語で後者を“王道”と言う。
日本人は王道の意味を“セオリー”とか“定番”と勘違いし誤用しているが、本来の意味は“名君の行い”と言う意味であり習主席は世界のリーダーを目指すのであれば有る程度には民主主義を導入した方が良いんじゃないかと思う。
無論、今回の武漢市長更迭から直々の指揮発動後の対応は素晴らしかったとは思う。
日本に関して言えば・・・
安倍首相も3ヶ月遅れた後、本気を出してからは良かったのだと思う。
でも安倍首相より国家公務員の腐敗も見えてきたりした新型肺炎対策。
電通の下請け孫請騒動を介して見えたのは、日本国の情報処理がオンライン化簡略化されず紙での処理で動かされ続いけているのは“中抜き”で恩恵を受けたい人達が国家公務員にいるからだと何となく見えてきた。
国家公務員はネットワーク化に非積極的どころか否定的非協力的なのかもしれない。安倍総理がIT担当大臣に適正の無い無能な老人を任命するのは、どうせ国家公務員に骨抜きにされる無力感を感じているからかも知れない。
もしそうなら国家公務員は国賊だらけと言う事に成る。
野党は安倍首相を攻めるより国家公務員を攻撃し、人命や莫大な血税に関わる汚職や失政には降格や懲戒解雇どころか死刑を含めた懲罰を法制化するべきなんじゃないだろうか?

習政権は安倍政権より優秀だった。
でも香港人を国民として愛し時間と愛情を以て融和させる道を選択しないと自身が項羽の道を進む事に成るかもしれない。
項羽が鉅鹿の戦いで降伏した秦軍20万人の将兵を生き埋めにした様に香港市民を武力討伐するのだろうか?
そんな事をすれば、トランプさんはおろか完全に中国は我々の様に中国文化を好きな人間からも恐怖の対象に成り友邦とは思えなくなるし、中国国民が全世界で差別対象に成ってしまうのではないだろうか?
日本人は比較的冷静に中国人の友人を大切にし続けるだろうが、白人の国は白人至上主義と言うよりキリスト教の唯一神教文化で善悪しか無いために、大戦中にドイツはホロコーストを行い、アメリカも日本人の私財を放棄させて強制収容所に入れた。
黒人が今、反差別といいながら商店を襲い略奪をしているが白人文化圏の黒人も日本人をJapやYellowと長らく差別して来た。
その屈辱感は日本人にもある。

中国が香港で武力弾圧をもしやれば、アメリカを筆頭に旧西側諸国は大戦中日本人にやったのと同じ事を中国系移民にもやると思う。
それを恐れて、もしかしたら中国はアメリカで有色人種差別反対のデモをエスカレートさせる“グループ”を煽動しているかも知れない。
そんな事は有って欲しくない。

中国は項羽や白人の唯一神教文化と同じ事を香港民主派にしてはいけないのでは無いだろうか?
鉅鹿の戦いの後の様な悲惨な未来しか想像がつかない。

中国は素晴らしい文化が有り、個々の人間は親切で友好的で優しく、日本人と国境を超えて兄弟付き合いが個人レベルでは出来る。
中国人より親日的な台湾の人も同じ。

習主席は素晴らしいリーダーだと思うけど強引で中華民族に対するのと同じ様に南越人の香港や、新疆のウイグル人にも対峙してしまう。
それでは異文化圏や異民族に被差別感情や対立感情を生んでしまうと思う。
唐を目指すなら日本人の阿倍仲麻呂を大臣に登用した様な民族主義ではない民族主義を利用しない運営をし、“親族外”からも意見を登用しないと、“安氏の乱”は収束させれないんじゃないだろうか?

この際、香港で“中国共産党員”に成る事を前提でも良いから、派閥としての政党政治を認めて公正公明公平な選挙を実施させてやり、その中から代表者を軍事閥と違った視点から近臣として採用した方が、中国は更に選択肢を増やし発展するのではないだろうか?
多くの異人種や外国人を大臣として登用した唐朝はそうして反映した。
中国人は中国の先人からも、諸外国からも学ぶべきであると思う。

アメリカはブロック経済による包囲を準備している。
ある国の外国人との問題に向き合うには、その国の異なる価値観を知り尚且つ優秀な相手国出身の人材を登用しないと解決や対応は無理だろう。
徳川幕府も白人至上主義の脅威から日本を救ったのは、英国人の三浦按針公だったように、相手側を味方にしないと相手の後ろの組織と話し合うのは難しいんじゃないだろうか。

香港の問題は香港市民により公正な選挙で代表に選ばれた者の意見を採用しないと解決出来ないだろう。
中国12億人
アメリカ人は3億人
日本人1.3億人
アメリカ人と日本人を合計しても中国の25%
でも、経済力1位と3位はアメリカと日本。
中国人は12億人で2位、そして、それ以外は資本主義、民主主義西洋諸国。
中国が弾圧するウイグル族と同宗派のイスラム諸国。
香港での武力統制やウイグル族へのイスラム教武力弾圧等諸々の対応は必ず世界からの孤立化を招くし、習主席自身がそれを望んでいる様に見える。
中国は本気で独りでやる自信が有るのだろうか?
それを踏まえてのシルクロード構想で中東と直接繋がるつもりなんだろうが、それは必ずやイスラム教過激派の中国侵入とイスラム教徒の反抗による中国本土内でのテロを招くだろう。
もしそうなれば、その様子は隋の煬帝の様な存在として後世評価される物かも知れない。

今の習主席は大災害が起きれば必ず文化大革命当時の毛主席と同じく面子に拘り海外の救助隊を拒み、唐山大地震の震災被害と同じ様な結果を導いてしまう気がする・・・
日本人の中にも神社の神様に成ってる呉王の後裔の呉太伯(ごたいはく)や漢帝室の後裔の阿智使主(あちのおみ)みたいな中国人から日本に帰化した神様がいて、その同じ遺伝子を受け継ぐ子孫も沢山いる。
そればかりか、ユダヤ系の太秦氏や百済王の家系の大内氏なんかもいる。
日本はかつての唐と同じ多民族文化を更に発展させ混血し民族主義を捨て日本文化に昇華させて文化を重んじ今に至る。
民族主義は良くない。

小生は中国が好きだから中国の友人とずっと往来し食事をともにしたい。
まぁ、中国の女子は簡単に自分で言った事を反故にしたり、それを指摘すると逆ギレしたり、正論でメンツ潰されると友人達に簡単に信頼関係破壊する罵詈雑言拡散したり困る事も有るけど。
男は優しいし、まぁ女の子怖いけど性格は可愛いし情も深い。
仲良く信頼関係を維持できて家族同然に成ってしまえば問題はない。
銃や威圧では家族には成れない。

少なくとも、一人の中国史好きな歴史オタクの目にはそう写るかな?
中国文化と歴史好きな日本人の寝言。

中国ともアメリカともずっと仲良しでいたいなぁ~。
mixiチェック

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









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皆さん、真田丸第2話を御覧に成って「物足りないなぁ~」とか思われたでしょうか?
あんまり歴史人物に御興味(ごきょうみ)が無い人は「合戦のハデなシーンを見たい!」とか思われて、多少つまらない回だったと思われたかも知れませんね…
が、しかし!
実は第2回目の放送は凄く大切な要素がドラマ中に再現されていたんですよ!

まぁ…
そんな要素有ったっけ?
…って思われる方もいらっしゃると思うので、2つの要点を下に書いてみます。

要点1つ目
●武田家滅亡直前、武田勝頼公は「鎧兜」に手を合せて拝んでいた。
武田勝頼
実はこの行為は武田家の文化を忠実に再現している三谷幸喜さんの演出で、極めて歴史考証を重視されている証拠でもあります。

要点2つ目
●小山田信茂だけが処刑された。
小山田信茂
実は、この2つは大きな意味が有りました。
「小山田が処刑されたのだからそりゃ、物語として重要だろう?」と思った方はズレています。
重要なのは、織田家重臣で出世頭の「滝川一益」公が発言した内容です。
「お前は自分から主人を売った裏切者で、織田家と徳川家から内応の調略(ちょうりゃく=勧誘)を受けた穴山や木曽とは違う」と、言う主旨の事を言われて処刑されていました。

今回はこの2つの要点の解説と歴史事実との整合性の検証、最後に鎌倉~横浜に関係した登場人物と俳優さんを紹介しようと思います。

この第2話では大半を武田家滅亡までの武田勝頼公御自身の武田家の文化や価値観を表した行動描写に費やし、残りを小山田信茂の処刑までの行動の演出に費やしていました。

先ずは要点1つ目、勝頼公の行動について解説します。
武田勝頼
皆さんは、武田勝頼公が御屋敷の中で鎧に手を合せて拝んでいたシーンを覚えてらっしゃいますでしょうか?
歴史に興味が無いと意味が解らないシーンだったので一応、御説明差し上げますと、武田家には伝来の家法が有りまして、それが「盾無(たてなし)」と言われる鎧です。
武田勝頼公が拝んでいたのが、その家宝の「盾無」です。
実は現在でも現存していて、盾無は別名「小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)」と呼ばれています。
これは山梨県甲州市の菅田神社にて現在も保管されています。
※山梨県神社庁のホームページ「菅田神社」ここクリック!

菅田神社の在(あ)る場所は現在の住所で甲州市塩山上於曽と言う地名なのですが、この上於曽の「於曽(おそ)」と言うのが地名であり、かつ武田家分家の於曽氏の苗字でもあるんですね。
そして、於曽家は武田信玄よりずっと前の歴代武田家当主から代々、この「盾無」の管理を任されていた一族でした。
江戸時代には盗難に遭って破損した事も有るそうですが、小生はレプリカしか見た事がありません。
では、五月人形作家の鈴甲子(すずきね)雄山と言う方の作られた端午の節句用のレプリカの画像を拝借して盾無とはどんなものか見て見ましょう。
※鈴甲子雄山氏の工房ホームページは「ココ」←クリック!
武田家家法「盾無」レプリカ
緑色ですね。
但(ただ)し実物は「鳩尾板(きゅうびのいた)」と「栴檀板(せんだんのいた)」と言うパーツが欠損しています。
この欠損した二つのパーツは肩紐(かたひも)と胴体を結ぶ部分に有る鎖骨を守る盾状の板の事です。
当然、実物の盾無鎧は国宝です。
武田家歴代当主が大切に守って来た鎧なのですが、実はこの菅田神社の盾無鎧、武田家の家祖で平安時代の名武将として名高い「新羅三郎」こと「源義光(みなもとのよしみつ)」公が着用していた実物だと伝わっています。
そして、この盾無鎧は武田家中では源義光公の化身の様に「御神体」として奉られていたんですね!
もう、ここまで説明すれば歴史に興味の無かった人でも解(わか)ると思いますが、ドラマ中に演出で武田勝頼公が盾無鎧に向かって手を合せ拝んでいたのは、御先祖様に対して御参りしたり誓いを建てているのと同じ正に神社で神様に参拝するのと同じ行為をしていた訳です。
これは武田家代々の伝統で、武田軍団は当主自らの出陣の前に必ず源義光公の遺品である❝盾無の鎧❞と❝日章旗の御旗❞の前で集合し、以下の言葉を述べる習慣がが有りました。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
つまり、❝御旗❞と❝盾無❞を完全に擬人化して神様として敬(うやま)っている事が良く解る逸話です。
これは角川書店が約30年位前に映像化した「天と地と」と言う川中島合戦の映画でも演出に登場します。
興味が有る人は、「天と地と」をレンタルして見て見て下さい。合戦シーンの迫力はたまらない映画です。

さて、この盾無を拝む文化が武田家に有ったから、真田丸での第2話の演出が有ったのは伝わったと思います。
ついでに兜と武田信玄の話しもします。
第2話では頻繁(ひんぱん)に❝虫の知らせ❞的な描写で武田信玄の霊が登場しました。
武田信玄
でも、この武田信玄像は現在では江戸時代に誤って伝えられたものだと判明しています。
先に「盾無の鎧」を説明したので、この武田信玄の容姿の誤解の元に成った「兜」の説明もしたいと思います。
現在、多くの人がイメージするこの一般的な武田信玄。
※武将画で有名な諏訪原寛幸さんの絵を拝借。
武田信玄(諏訪原寛幸氏画)
※諏訪原寛幸さんのホームページは「ココ」←クリック!
この赤赤しい(笑)武田信玄のイメージは誤りだった事が判明しています
「じゃあ、この赤い人は誰なんだよ(笑)?」
…って、成りますよね?実は、この兜は実在します。
「兜が実在するなら、この赤い人が武田信玄だろ!」
…って思うかも知れませんが、それでも違うんですね。
この武田信玄の真っ赤なイメージの元に成っている絵が現存します。
参考書籍が手元に無いのと絵が検索しても出て来ないので御見せ出来ませんが、ほぼ、上の諏訪原サンの書いた一般的な武田信玄のイメージと同じ色、同じ格好です。でも、鎧兜の家紋が武田菱じゃないんですね。
それは実際は能登国の畠山義続(はたけやまよしつぐ)の絵が誤って伝わったと判明しています。
それを、江戸時代に美術マニアの松平定信が❝武田と言えば赤備え部隊じゃね?❞と思ったかは知りませんが、武田信玄像として誤って紹介してしまったんですね。
この松平定信が誤認した事を証拠でもあり、事実誤認を助長した事実の証拠でもある物が有ります…
それが「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」と言う実在する重要文化財です。
武田信玄
武田信玄が被ってる兜、これが諏訪法性兜です。
諏訪法性兜は長野県の下諏訪町立諏訪湖博物館に所蔵
されていて、常設展示では完全なレプリカが置かれているので、どんな物か見学する事が出来ます。
※下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の公式ホームページは「ココ」クリック!
この諏訪法性兜、既に科学的見地からも製作年代は西暦1500年代と特定されており、武田信玄や武田勝頼公の時代と符合します。
つまり、武田信玄か❝武田勝頼公所用の可能性は無きにしも有らず❞な訳ですが…
しかし問題が有ります。
兜の飾りは江戸時代の物と、本体とは別個の鑑定結果が出ているんです。
つまり、江戸時代に成って追加された飾りである可能性が高いそうです。
この諏訪法性兜は、先代の諏訪大社宮司だった守矢サンの家系が代々保管していたのを、修繕や保護の観点から諏訪町で買取り現在に至ります。
更には、一般的に歴史好きの間では❝武田信玄着用では無く、武田勝頼公が着用されていた❞との意見も有りますが、それも事実上なんの伝承も無ければ証明する証拠も無いそうです。これは諏訪湖博物館の学芸員さんにも確認した事実です。
そして、もう一つの事実。
諏訪湖博物館所蔵の諏訪法性兜は、この武田信玄のイメージの元に成っている兜と❝うり二つ❞だそうです!
小生、諏訪にも御縁が有って若い頃に御世話に成っていたので諏訪大社も何回か御参りしてましたが守矢宮司に御会いする機会は有りませんでした…

実は小生、諏訪法性兜が武田家と無関係では無いとすると同時に、武田信玄の実像が「赤(笑)」では無いと言う歴史事実を同時に証明する証拠が有る事も偶然知っていました。
以前、横浜の殿様達が鎌倉の鶴岡八幡宮の再建をした事を間宮家の事績顕彰の中で紹介しましたが、その中に登場する横浜市南区と東京世田谷の殿様❝吉良頼康(きらよりやす)公❞が諏訪法性兜の問題と、武田信玄の実像を結びつける事実と深く関係しているので紹介したいと思います。
※間宮家顕彰記事は「ココ」 クリック!
下は吉良頼康公と伝わる人物画です。
武田信玄(誤伝:吉良頼康)
※ネットの借り物画像です。
しかし、この伝承は高野山の御寺が犯した誤りによって人物を取り違えられて伝えられた事が現代では判明しています
東京都世田谷区は小田原北条家の統治下の関東で、鎌倉公方の代行者も務めた吉良頼康公の所領だったのですが、その頼康公の家臣の大平家の奥沢城の城址に建てられた九品山浄真寺と言う御寺に、返還された可能性が有るそうです。
実はこの絵、現物は武田信廉(のぶかど)が描いた武田信玄の肖像画の写しなんですね!
武田信廉とは武田信玄の実弟です。
あれ?
なんか残念?
頭ハゲ上がってるし(笑)?威厳が感じられない?
しょうがないじゃん!これが武田信玄の実像なんだから!
この絵、武田信廉が描いた実物を近くで見ると、武具のありとあらゆる場所に「武田菱」の家紋が描かれているそうです。
でも、この兜の絵を良く見て下さい…
諏訪法性兜比較
比較してみると良く解りますが、江戸時代に追加されたと言う「前立て(兜の前飾り」や「ヤクの毛」を取っ払って兜本体だけを武田信廉の絵と比較すると全く同じでしょう?
つまり兜を比較すると、伝吉良頼康像の兜が諏訪法性兜であり、武田信玄の実弟が信玄を描いた肖像画だと言う証明な訳です。
武田信玄は赤い人じゃないんです(笑)!
では何で、現在の諏訪法性兜が「ヤクの毛」や「前立て」が追加されたかと言う疑問が残ります。
それは多分、こう言う事だと小生は個人の意見として纏めます。
①諏訪法性兜は毛が無いオーソドックスな姿の兜だった。
  ↓
②江戸時代に小瀬甫庵と言う適当な歴史小説を書く作家の小説が流行して武田信玄と言えば「赤備え」と「騎馬隊」と言うイメージが定着した。別に赤備えったって鎧兜全部真っ赤にする訳じゃないからな(笑)。
  ↓
③肖像画を保管していた寺が「②のイメージで適当に武田信玄だろ?」と畠山義続の絵を武田信玄と誤って比定してしまった。
  ↓
④江戸時代末期に諏訪法性兜を補修する際に、②と③の要因のせいで保有者が「修理」する心算で前立てとヤクの毛を追加してしまった。
  ↓
⑤江戸時代後期に松平定信が美術品の記録を編纂した際に、それまでの②③の誤りに加えて④の補修が入った姿の諏訪法性兜の模写した絵を見て、そういうものだのだろうと疑わずに、そのままの姿で諏訪法性兜の姿として確定をしてしまい、以後誤認された追加装飾品付きのままの姿で現在に伝わる。
しかし、本体は戦国時代から武田家当主所用の兜だった可能性は、吉良頼康と誤認されていた武田信玄像の兜との相似から高いと思われる。
以上で、武田信玄のイメージが誤りで、本来は髷(まげ)を頭に結った一見すると人の良さそうな外見だったと解ると思います。
実際は関東や信州で女子供を捕まえては奴隷として販売したクズですがね。
織田信長公は武田勝頼公の滅亡時にこう言う主旨の発言をしています「親(武田信玄)が悪逆非道な事をしたから子が滅んだ」と。
それは次の要点2に繋がる訳ですが…

では…
要点2つ目の解説に移ります。
小山田信茂
こいつ↑は処刑されたのに…
…コイツ等↓は処刑されずに誉められた理不尽。
穴山梅雪 木曽義昌
別にこれ、理不尽じゃないんですよ。
特に、ドラマ中で処刑を命じていた織田信忠公と、その御父君の織田信長公にとってはね。
織田信長 織田信忠
織田信長公は、若い頃に那古野(なごや)城主でした。
那古野城ってのは今の名古屋城の場所に在った、昔の城名です。
信長公が若い頃に一番苦労したのは、家臣の裏切りだった訳です。
自分の家老として父親から補佐役に付けられていた林秀貞(はやしひでさだ=通称:通勝)に裏切られ、弟と織田家の遺産を巡って殺し合いをする羽目に遭ったり。
信頼していた伯父さんに裏切られたり。
助けてあげたバカ将軍に裏切られたり。
正に、裏切られる人生を送った人物な訳です。
そんな人生を送った信長公ですから、小山田信茂の様に主君を差し出して来る様なクソ家臣は許せない存在だった訳です。
そして、横浜の殿様の間宮家と笠原家とも関係の深い名将:滝川一益公が織田信忠公と一緒に、小山田に処刑を宣告していましたが、滝川一益公が出世出来たのも実力も有るし織田信長公の家臣の裏切りが酷かった時期に、ずっと信長公を支え続けたからなんですね。
滝川一益
そりゃ、織田信忠公や滝川一益からすれば、小山田信茂は許せないでしょうね。
※この信長公の実像や価値観は以前記事にしたので「ココ」←クリックして見て下さい!
穴山と木曽は、織田家から内応しろと条件出されてちゃんと個人的に交渉した結果の織田家への鞍替えで、別に武田勝頼公を売った訳じゃないですからね。
…もっとも、小山田信茂は武田家臣じゃなくて武田家の盟友だったんですけれどね。織田家にとっての徳川家みたいな存在が武田家と小山田家の関係みないな感じだった訳です。
しかも!
小山田信茂は祖母が武田家から来た人物ですが、実は母親は記録上は不詳で伝承上では「笠原清繁(きよしげ)公の元妻」とも言われています。
要点1の〆で信長公の発言「親(武田信玄)の悪行のせいで子(武田勝頼公)が滅ぶ」と言うのは、実は小山田家の事を指しています。
この小山田信茂の生母と伝わる笠原清繁公の元妻ですが…
実は、武田信玄が佐久地方の笠原家を滅ぼした際に、その笠原家の領民や家臣の婦女子を奴隷として販売をしているんですね。信玄マジ鬼畜。
その時に奴隷として販売された笠原清繁公の妻は、小山田信茂の実父の小山田信有が奴隷の叩き売りで落札して買取り自分の側室にされたそうです。
仮に、小山田信茂の生母が笠原清繁公の元妻と言う伝承が実話なら、この信長公の発言は全てを表していると思います。
武田信玄が奴隷売買なんぞしていなければ、小山田信茂は生まれていなかった訳ですからね。
しかし
実際、この武田家滅亡の直接の原因に成った小山田裏切り事件、どんな処理がされたかと言うと織田家では小山田信茂の裏切りは卑劣として死刑を宣告しながらも、武勇名高い武将として小山田信茂を評価していた為か切腹させています。
つまり、武士としてメンツを保った処刑をさせた上に、岩殿城と小山田家領民へは乱暴狼藉していません。
だから、第三話に繋がると思いますが、小山田茂誠公が生き残り…ゲフンゲフン!
ネタばれに成りそうだから、歴史知らない人の為に書かないで置きます。

さて、こんな感じで要点の解説はご理解頂けたでしょうか?

今回は小生、横浜市民として第2回放送の登場人物が横浜に関係が有ったので紹介しておきたいと思います。
第2回では、徳川家康公の愛人の「阿茶局(あちゃのつぼね)」さんが出てきましたね。
阿茶局
この人は本来武田家滅亡の前後に徳川家康公の奥さんに成っているので、あのタイミングで家康公の傍にいたかは小生解りかねます。
しかし、阿茶局なんかどうでも良い(暴言)!演じた斉藤由貴さんは神奈川県立清水ヶ丘高校の出身なんです!
清水ヶ丘高校は現在では統廃合で「神奈川県立横浜清陵総合高校」に名称変更されていますね。
え?
だからどうしたって?ハマっ子の俺からしたら重要なんだよ!…俺とか言ってしましましたが、小生は「おぉっ!」と思ったんです、いろんな意味で。
だってね、斉藤由貴さんは49歳なんです。でも阿茶局はこの時点で27歳なんですよ。
齋藤由貴さんが27歳て(笑)。…お綺麗ですね。

で、もう一人、先に少し話しましたが、今回登場した滝川一益公。
滝川一益
実は我々横浜市民としては横浜の殿様と関係が深かった方で、格上の織田家にも関わらず横浜の殿様を御親切に上方で接待して案内して下さった恩人に当たる人物なんです。
その時に関わったのが横浜南部沿岸部の殿様で笹下城主間宮康俊公の実弟、滝山城主北条氏照公の付家老だった間宮綱信公。それと横浜市北部の殿様で小机城代で大曾根城主の笠原家の殿様です。
この間宮家と笠原家は主家北条家の出来事の節目節目で外交や宗教儀式で総奉行と奉行をペアで務めた、北条家重鎮の家系でした。
もっとも、間宮家に関しては北条家の親族の各武将に腹心として分散して赴任させらていましたので、間宮家が独自に軍事行動をする事はありませんでした。
●間宮康俊公→北条家最強の北条綱成公の付家老。→伊豆山中城で討死に。子孫は徳川家康公に仕える。
●間宮綱信公→北条氏照公の付家老。→徳川家康公の旗本に成る。
●間宮信繁公→北条氏康公・氏政公の直属。→徳川家康公の鷹匠頭に抜擢され関ケ原で諜報活動でも活躍。
●間宮信高公→間宮康俊公の子と伝承。北条家から武田家の水軍大将に転仕。→武田家滅亡後は徳川家で船大将を務める。
※不幸な話で間宮信高公は小牧長久手の合戦時に、徳川家水軍大将として滝川一益公の蟹江城を攻めて討死にしました。協力関係に有れば、きっと素晴らしい連携が出来たかも知れませんね。
そんな訳で、横浜の殿様に良くして下さった恩人が滝川一益公な訳です。
因みにこの間宮家の子孫には他に、風土起稿を編纂した学者の間宮士信、間宮海峡を発見した間宮林蔵がいて、一族の子孫には杉田玄白もいます。
そこら辺りの話は、きっと「真田丸」最終回辺りで徳川家康公が行う大坂城攻めの作戦に関わるので以前書いた記事を参考までに読んで見て下さい。
※間宮家と笠原家の事績は「ココ 」←クリック!

以上、「真田丸」第2回放送の解説と余談でした。



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