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タグ:吉良頼康

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









皆さん、真田丸第2話を御覧に成って「物足りないなぁ~」とか思われたでしょうか?
あんまり歴史人物に御興味(ごきょうみ)が無い人は「合戦のハデなシーンを見たい!」とか思われて、多少つまらない回だったと思われたかも知れませんね…
が、しかし!
実は第2回目の放送は凄く大切な要素がドラマ中に再現されていたんですよ!

まぁ…
そんな要素有ったっけ?
…って思われる方もいらっしゃると思うので、2つの要点を下に書いてみます。

要点1つ目
●武田家滅亡直前、武田勝頼公は「鎧兜」に手を合せて拝んでいた。
武田勝頼
実はこの行為は武田家の文化を忠実に再現している三谷幸喜さんの演出で、極めて歴史考証を重視されている証拠でもあります。

要点2つ目
●小山田信茂だけが処刑された。
小山田信茂
実は、この2つは大きな意味が有りました。
「小山田が処刑されたのだからそりゃ、物語として重要だろう?」と思った方はズレています。
重要なのは、織田家重臣で出世頭の「滝川一益」公が発言した内容です。
「お前は自分から主人を売った裏切者で、織田家と徳川家から内応の調略(ちょうりゃく=勧誘)を受けた穴山や木曽とは違う」と、言う主旨の事を言われて処刑されていました。

今回はこの2つの要点の解説と歴史事実との整合性の検証、最後に鎌倉~横浜に関係した登場人物と俳優さんを紹介しようと思います。

この第2話では大半を武田家滅亡までの武田勝頼公御自身の武田家の文化や価値観を表した行動描写に費やし、残りを小山田信茂の処刑までの行動の演出に費やしていました。

先ずは要点1つ目、勝頼公の行動について解説します。
武田勝頼
皆さんは、武田勝頼公が御屋敷の中で鎧に手を合せて拝んでいたシーンを覚えてらっしゃいますでしょうか?
歴史に興味が無いと意味が解らないシーンだったので一応、御説明差し上げますと、武田家には伝来の家法が有りまして、それが「盾無(たてなし)」と言われる鎧です。
武田勝頼公が拝んでいたのが、その家宝の「盾無」です。
実は現在でも現存していて、盾無は別名「小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)」と呼ばれています。
これは山梨県甲州市の菅田神社にて現在も保管されています。
※山梨県神社庁のホームページ「菅田神社」ここクリック!

菅田神社の在(あ)る場所は現在の住所で甲州市塩山上於曽と言う地名なのですが、この上於曽の「於曽(おそ)」と言うのが地名であり、かつ武田家分家の於曽氏の苗字でもあるんですね。
そして、於曽家は武田信玄よりずっと前の歴代武田家当主から代々、この「盾無」の管理を任されていた一族でした。
江戸時代には盗難に遭って破損した事も有るそうですが、小生はレプリカしか見た事がありません。
では、五月人形作家の鈴甲子(すずきね)雄山と言う方の作られた端午の節句用のレプリカの画像を拝借して盾無とはどんなものか見て見ましょう。
※鈴甲子雄山氏の工房ホームページは「ココ」←クリック!
武田家家法「盾無」レプリカ
緑色ですね。
但(ただ)し実物は「鳩尾板(きゅうびのいた)」と「栴檀板(せんだんのいた)」と言うパーツが欠損しています。
この欠損した二つのパーツは肩紐(かたひも)と胴体を結ぶ部分に有る鎖骨を守る盾状の板の事です。
当然、実物の盾無鎧は国宝です。
武田家歴代当主が大切に守って来た鎧なのですが、実はこの菅田神社の盾無鎧、武田家の家祖で平安時代の名武将として名高い「新羅三郎」こと「源義光(みなもとのよしみつ)」公が着用していた実物だと伝わっています。
そして、この盾無鎧は武田家中では源義光公の化身の様に「御神体」として奉られていたんですね!
もう、ここまで説明すれば歴史に興味の無かった人でも解(わか)ると思いますが、ドラマ中に演出で武田勝頼公が盾無鎧に向かって手を合せ拝んでいたのは、御先祖様に対して御参りしたり誓いを建てているのと同じ正に神社で神様に参拝するのと同じ行為をしていた訳です。
これは武田家代々の伝統で、武田軍団は当主自らの出陣の前に必ず源義光公の遺品である❝盾無の鎧❞と❝日章旗の御旗❞の前で集合し、以下の言葉を述べる習慣がが有りました。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
つまり、❝御旗❞と❝盾無❞を完全に擬人化して神様として敬(うやま)っている事が良く解る逸話です。
これは角川書店が約30年位前に映像化した「天と地と」と言う川中島合戦の映画でも演出に登場します。
興味が有る人は、「天と地と」をレンタルして見て見て下さい。合戦シーンの迫力はたまらない映画です。

さて、この盾無を拝む文化が武田家に有ったから、真田丸での第2話の演出が有ったのは伝わったと思います。
ついでに兜と武田信玄の話しもします。
第2話では頻繁(ひんぱん)に❝虫の知らせ❞的な描写で武田信玄の霊が登場しました。
武田信玄
でも、この武田信玄像は現在では江戸時代に誤って伝えられたものだと判明しています。
先に「盾無の鎧」を説明したので、この武田信玄の容姿の誤解の元に成った「兜」の説明もしたいと思います。
現在、多くの人がイメージするこの一般的な武田信玄。
※武将画で有名な諏訪原寛幸さんの絵を拝借。
武田信玄(諏訪原寛幸氏画)
※諏訪原寛幸さんのホームページは「ココ」←クリック!
この赤赤しい(笑)武田信玄のイメージは誤りだった事が判明しています
「じゃあ、この赤い人は誰なんだよ(笑)?」
…って、成りますよね?実は、この兜は実在します。
「兜が実在するなら、この赤い人が武田信玄だろ!」
…って思うかも知れませんが、それでも違うんですね。
この武田信玄の真っ赤なイメージの元に成っている絵が現存します。
参考書籍が手元に無いのと絵が検索しても出て来ないので御見せ出来ませんが、ほぼ、上の諏訪原サンの書いた一般的な武田信玄のイメージと同じ色、同じ格好です。でも、鎧兜の家紋が武田菱じゃないんですね。
それは実際は能登国の畠山義続(はたけやまよしつぐ)の絵が誤って伝わったと判明しています。
それを、江戸時代に美術マニアの松平定信が❝武田と言えば赤備え部隊じゃね?❞と思ったかは知りませんが、武田信玄像として誤って紹介してしまったんですね。
この松平定信が誤認した事を証拠でもあり、事実誤認を助長した事実の証拠でもある物が有ります…
それが「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」と言う実在する重要文化財です。
武田信玄
武田信玄が被ってる兜、これが諏訪法性兜です。
諏訪法性兜は長野県の下諏訪町立諏訪湖博物館に所蔵
されていて、常設展示では完全なレプリカが置かれているので、どんな物か見学する事が出来ます。
※下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の公式ホームページは「ココ」クリック!
この諏訪法性兜、既に科学的見地からも製作年代は西暦1500年代と特定されており、武田信玄や武田勝頼公の時代と符合します。
つまり、武田信玄か❝武田勝頼公所用の可能性は無きにしも有らず❞な訳ですが…
しかし問題が有ります。
兜の飾りは江戸時代の物と、本体とは別個の鑑定結果が出ているんです。
つまり、江戸時代に成って追加された飾りである可能性が高いそうです。
この諏訪法性兜は、先代の諏訪大社宮司だった守矢サンの家系が代々保管していたのを、修繕や保護の観点から諏訪町で買取り現在に至ります。
更には、一般的に歴史好きの間では❝武田信玄着用では無く、武田勝頼公が着用されていた❞との意見も有りますが、それも事実上なんの伝承も無ければ証明する証拠も無いそうです。これは諏訪湖博物館の学芸員さんにも確認した事実です。
そして、もう一つの事実。
諏訪湖博物館所蔵の諏訪法性兜は、この武田信玄のイメージの元に成っている兜と❝うり二つ❞だそうです!
小生、諏訪にも御縁が有って若い頃に御世話に成っていたので諏訪大社も何回か御参りしてましたが守矢宮司に御会いする機会は有りませんでした…

実は小生、諏訪法性兜が武田家と無関係では無いとすると同時に、武田信玄の実像が「赤(笑)」では無いと言う歴史事実を同時に証明する証拠が有る事も偶然知っていました。
以前、横浜の殿様達が鎌倉の鶴岡八幡宮の再建をした事を間宮家の事績顕彰の中で紹介しましたが、その中に登場する横浜市南区と東京世田谷の殿様❝吉良頼康(きらよりやす)公❞が諏訪法性兜の問題と、武田信玄の実像を結びつける事実と深く関係しているので紹介したいと思います。
※間宮家顕彰記事は「ココ」 クリック!
下は吉良頼康公と伝わる人物画です。
武田信玄(誤伝:吉良頼康)
※ネットの借り物画像です。
しかし、この伝承は高野山の御寺が犯した誤りによって人物を取り違えられて伝えられた事が現代では判明しています
東京都世田谷区は小田原北条家の統治下の関東で、鎌倉公方の代行者も務めた吉良頼康公の所領だったのですが、その頼康公の家臣の大平家の奥沢城の城址に建てられた九品山浄真寺と言う御寺に、返還された可能性が有るそうです。
実はこの絵、現物は武田信廉(のぶかど)が描いた武田信玄の肖像画の写しなんですね!
武田信廉とは武田信玄の実弟です。
あれ?
なんか残念?
頭ハゲ上がってるし(笑)?威厳が感じられない?
しょうがないじゃん!これが武田信玄の実像なんだから!
この絵、武田信廉が描いた実物を近くで見ると、武具のありとあらゆる場所に「武田菱」の家紋が描かれているそうです。
でも、この兜の絵を良く見て下さい…
諏訪法性兜比較
比較してみると良く解りますが、江戸時代に追加されたと言う「前立て(兜の前飾り」や「ヤクの毛」を取っ払って兜本体だけを武田信廉の絵と比較すると全く同じでしょう?
つまり兜を比較すると、伝吉良頼康像の兜が諏訪法性兜であり、武田信玄の実弟が信玄を描いた肖像画だと言う証明な訳です。
武田信玄は赤い人じゃないんです(笑)!
では何で、現在の諏訪法性兜が「ヤクの毛」や「前立て」が追加されたかと言う疑問が残ります。
それは多分、こう言う事だと小生は個人の意見として纏めます。
①諏訪法性兜は毛が無いオーソドックスな姿の兜だった。
  ↓
②江戸時代に小瀬甫庵と言う適当な歴史小説を書く作家の小説が流行して武田信玄と言えば「赤備え」と「騎馬隊」と言うイメージが定着した。別に赤備えったって鎧兜全部真っ赤にする訳じゃないからな(笑)。
  ↓
③肖像画を保管していた寺が「②のイメージで適当に武田信玄だろ?」と畠山義続の絵を武田信玄と誤って比定してしまった。
  ↓
④江戸時代末期に諏訪法性兜を補修する際に、②と③の要因のせいで保有者が「修理」する心算で前立てとヤクの毛を追加してしまった。
  ↓
⑤江戸時代後期に松平定信が美術品の記録を編纂した際に、それまでの②③の誤りに加えて④の補修が入った姿の諏訪法性兜の模写した絵を見て、そういうものだのだろうと疑わずに、そのままの姿で諏訪法性兜の姿として確定をしてしまい、以後誤認された追加装飾品付きのままの姿で現在に伝わる。
しかし、本体は戦国時代から武田家当主所用の兜だった可能性は、吉良頼康と誤認されていた武田信玄像の兜との相似から高いと思われる。
以上で、武田信玄のイメージが誤りで、本来は髷(まげ)を頭に結った一見すると人の良さそうな外見だったと解ると思います。
実際は関東や信州で女子供を捕まえては奴隷として販売したクズですがね。
織田信長公は武田勝頼公の滅亡時にこう言う主旨の発言をしています「親(武田信玄)が悪逆非道な事をしたから子が滅んだ」と。
それは次の要点2に繋がる訳ですが…

では…
要点2つ目の解説に移ります。
小山田信茂
こいつ↑は処刑されたのに…
…コイツ等↓は処刑されずに誉められた理不尽。
穴山梅雪 木曽義昌
別にこれ、理不尽じゃないんですよ。
特に、ドラマ中で処刑を命じていた織田信忠公と、その御父君の織田信長公にとってはね。
織田信長 織田信忠
織田信長公は、若い頃に那古野(なごや)城主でした。
那古野城ってのは今の名古屋城の場所に在った、昔の城名です。
信長公が若い頃に一番苦労したのは、家臣の裏切りだった訳です。
自分の家老として父親から補佐役に付けられていた林秀貞(はやしひでさだ=通称:通勝)に裏切られ、弟と織田家の遺産を巡って殺し合いをする羽目に遭ったり。
信頼していた伯父さんに裏切られたり。
助けてあげたバカ将軍に裏切られたり。
正に、裏切られる人生を送った人物な訳です。
そんな人生を送った信長公ですから、小山田信茂の様に主君を差し出して来る様なクソ家臣は許せない存在だった訳です。
そして、横浜の殿様の間宮家と笠原家とも関係の深い名将:滝川一益公が織田信忠公と一緒に、小山田に処刑を宣告していましたが、滝川一益公が出世出来たのも実力も有るし織田信長公の家臣の裏切りが酷かった時期に、ずっと信長公を支え続けたからなんですね。
滝川一益
そりゃ、織田信忠公や滝川一益からすれば、小山田信茂は許せないでしょうね。
※この信長公の実像や価値観は以前記事にしたので「ココ」←クリックして見て下さい!
穴山と木曽は、織田家から内応しろと条件出されてちゃんと個人的に交渉した結果の織田家への鞍替えで、別に武田勝頼公を売った訳じゃないですからね。
…もっとも、小山田信茂は武田家臣じゃなくて武田家の盟友だったんですけれどね。織田家にとっての徳川家みたいな存在が武田家と小山田家の関係みないな感じだった訳です。
しかも!
小山田信茂は祖母が武田家から来た人物ですが、実は母親は記録上は不詳で伝承上では「笠原清繁(きよしげ)公の元妻」とも言われています。
要点1の〆で信長公の発言「親(武田信玄)の悪行のせいで子(武田勝頼公)が滅ぶ」と言うのは、実は小山田家の事を指しています。
この小山田信茂の生母と伝わる笠原清繁公の元妻ですが…
実は、武田信玄が佐久地方の笠原家を滅ぼした際に、その笠原家の領民や家臣の婦女子を奴隷として販売をしているんですね。信玄マジ鬼畜。
その時に奴隷として販売された笠原清繁公の妻は、小山田信茂の実父の小山田信有が奴隷の叩き売りで落札して買取り自分の側室にされたそうです。
仮に、小山田信茂の生母が笠原清繁公の元妻と言う伝承が実話なら、この信長公の発言は全てを表していると思います。
武田信玄が奴隷売買なんぞしていなければ、小山田信茂は生まれていなかった訳ですからね。
しかし
実際、この武田家滅亡の直接の原因に成った小山田裏切り事件、どんな処理がされたかと言うと織田家では小山田信茂の裏切りは卑劣として死刑を宣告しながらも、武勇名高い武将として小山田信茂を評価していた為か切腹させています。
つまり、武士としてメンツを保った処刑をさせた上に、岩殿城と小山田家領民へは乱暴狼藉していません。
だから、第三話に繋がると思いますが、小山田茂誠公が生き残り…ゲフンゲフン!
ネタばれに成りそうだから、歴史知らない人の為に書かないで置きます。

さて、こんな感じで要点の解説はご理解頂けたでしょうか?

今回は小生、横浜市民として第2回放送の登場人物が横浜に関係が有ったので紹介しておきたいと思います。
第2回では、徳川家康公の愛人の「阿茶局(あちゃのつぼね)」さんが出てきましたね。
阿茶局
この人は本来武田家滅亡の前後に徳川家康公の奥さんに成っているので、あのタイミングで家康公の傍にいたかは小生解りかねます。
しかし、阿茶局なんかどうでも良い(暴言)!演じた斉藤由貴さんは神奈川県立清水ヶ丘高校の出身なんです!
清水ヶ丘高校は現在では統廃合で「神奈川県立横浜清陵総合高校」に名称変更されていますね。
え?
だからどうしたって?ハマっ子の俺からしたら重要なんだよ!…俺とか言ってしましましたが、小生は「おぉっ!」と思ったんです、いろんな意味で。
だってね、斉藤由貴さんは49歳なんです。でも阿茶局はこの時点で27歳なんですよ。
齋藤由貴さんが27歳て(笑)。…お綺麗ですね。

で、もう一人、先に少し話しましたが、今回登場した滝川一益公。
滝川一益
実は我々横浜市民としては横浜の殿様と関係が深かった方で、格上の織田家にも関わらず横浜の殿様を御親切に上方で接待して案内して下さった恩人に当たる人物なんです。
その時に関わったのが横浜南部沿岸部の殿様で笹下城主間宮康俊公の実弟、滝山城主北条氏照公の付家老だった間宮綱信公。それと横浜市北部の殿様で小机城代で大曾根城主の笠原家の殿様です。
この間宮家と笠原家は主家北条家の出来事の節目節目で外交や宗教儀式で総奉行と奉行をペアで務めた、北条家重鎮の家系でした。
もっとも、間宮家に関しては北条家の親族の各武将に腹心として分散して赴任させらていましたので、間宮家が独自に軍事行動をする事はありませんでした。
●間宮康俊公→北条家最強の北条綱成公の付家老。→伊豆山中城で討死に。子孫は徳川家康公に仕える。
●間宮綱信公→北条氏照公の付家老。→徳川家康公の旗本に成る。
●間宮信繁公→北条氏康公・氏政公の直属。→徳川家康公の鷹匠頭に抜擢され関ケ原で諜報活動でも活躍。
●間宮信高公→間宮康俊公の子と伝承。北条家から武田家の水軍大将に転仕。→武田家滅亡後は徳川家で船大将を務める。
※不幸な話で間宮信高公は小牧長久手の合戦時に、徳川家水軍大将として滝川一益公の蟹江城を攻めて討死にしました。協力関係に有れば、きっと素晴らしい連携が出来たかも知れませんね。
そんな訳で、横浜の殿様に良くして下さった恩人が滝川一益公な訳です。
因みにこの間宮家の子孫には他に、風土起稿を編纂した学者の間宮士信、間宮海峡を発見した間宮林蔵がいて、一族の子孫には杉田玄白もいます。
そこら辺りの話は、きっと「真田丸」最終回辺りで徳川家康公が行う大坂城攻めの作戦に関わるので以前書いた記事を参考までに読んで見て下さい。
※間宮家と笠原家の事績は「ココ 」←クリック!

以上、「真田丸」第2回放送の解説と余談でした。



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