歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:和田義盛


三浦半島の横須賀市長坂には乳牛を飼育してアイスクリーム等の乳製品を直売している関口牧場と言う場所が有ります。
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小さい乳業会社なのですが口コミでアイスクリームが美味しい事が広まって、最近では休日とも成るといつも行列が出来ています。
入口が少し判り難い上に駐車場が少ないのも厄介なのですが、それでも大人気の店なんです。
関口牧場・無量寺・佐島マリーナ・海辺の位置 久良岐のよし
場所は上の地図を参考にして頂けると良いのですが、車で佐島マリーナから10分、衣笠ICから20分程度の距離に位置します。比較的交通は不便な場所ですが、これから夏に向けて佐島や長者ヶ崎や三崎に行く用事が有る人にはおススメのスポットです。
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道の入口はこんな感じ。
店は少人数で切り盛りしててコンナ感じ。
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お姉さんが1~2人で頑張ってるので、ちゃんと整列して煽らず(笑)出来るだけ運営に協力して上げて下さい。
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この日、小生はココア味とバニラ味のダブルを注文しました。
これ、上下にトッピングされてますがツイストにもして貰えて、子供に選ばせれば喜ぶかも知れませんね!
飯田牧場同様、自然の甘みを重視しており、人工的に脂分の添加をしておらず不自然なクリーミーさは当然有りません。甘いのにサッパリしていて量は多いのですが美味しく平らげる事が出来ます♪
小生は最近、可愛がっている甥っ子(4歳)が総合格闘技の道場でレスリングを習い始めて中々、オジサン(小生)と遊んであげる暇が無くなってしまい(笑)まだ連れて来てあげれておりません。
牧場なのですが、前回紹介した藤沢の飯田牧場と同じで広大な放牧地が有る訳では無さそうです。

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でも牛舎が隣接していて、外から様子を見学できます。
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小さい子を連れてくれば、こうやって❝牛臭い(笑)❞場所で牛乳が生産されてる事を理解させる良い機会に成るかも知れません。
牛さんに感謝する心を教育する場としては良いと思います。
エサやり禁止なので厳守して下さいね~!
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もしかしたら牛舎の背後は放牧スペースかも知れませんが、店員のお姉さんが忙しそうだったので確認していません。
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牛の他にもヤギや鶏もいました。
三浦半島の南側の油壷マリンパークや三崎や城ヶ島、西側の葉山や長者ヶ崎や秋谷の海岸に行く機会が有れば、是非立ち寄って見て下さい!
【関口牧場】
業種:乳業、アイスクリーム製造と直売。
あと、車で10分と直ぐの佐島マリーナの入口に在る❝海辺❞と言う和食海鮮レストランも御薦めです!
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魚も美味しいのですがロケーションが綺麗なので、以下に各周辺観光地の過去記事と合わせてリンク紹介して置きます。
【海辺】
業種:和食海鮮レストラン(海に張り出したロケーションの眺望と新鮮な魚料理が特徴)
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さて、小生のブログは少しは郷土史要素も入れて置きたい・・・

話を関口牧場に戻すと、ここを知った理由は戦国時代の横浜を治めた間宮家の一族の分家で間宮造酒丞(みきのじょう)家の菩提寺であり、鎌倉時代の名将の和田義盛公が開いた御寺だからだ。
信高公の御父君は間宮康俊公、有名な関東最強の武将の北条綱成公の付家老で自身も鶴岡八幡宮再建や山中城で活躍した間宮康俊公の家系図上の御子息だ。信高公は武田家に転仕して武田信玄の水軍大将務めた。武田家滅亡後には徳川水軍の大将格で活躍した人物で所領が関口牧場の所在地の横須賀市長坂、昔の三浦郡長坂村だった訳だ。
だから、その信高公の菩提寺と関口牧場は徒歩数分の御近所さん。
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浄土宗の金剛山無量寺と言う御寺が間宮信高公の菩提寺。
元々は鎌倉幕府で初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が開いた御寺だった。
だから和田義盛公の守り仏が御寺に祀られている。
山号と三浦家初期の宗旨から察するに多分、最初は真言宗の御寺だったはず。
浄土宗に成ったのは間宮信高公が徳川幕臣であり、織田信長公と徳川家康公が熱心な浄土宗信徒だったので徳川家臣に成った時点で自分の所領の無量寺を改宗させた上で土地を寄進して復興させたんじゃないかと思う。
間宮信高公は御妻君が房総半島の小大名だった真里谷武田家の姫君だ。実は戦国時代初期、三浦半島がまだ三浦家と北条家の係争地だった際に三浦家の大将だった三浦義意公の御妻君も真里谷武田家の姫様だった。真里谷武田家は内紛を起こして真里谷武田信隆公が房総半島から逃げて北条家に一時的に亡命している。
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その場所が上の写真の横浜市金沢区に在る稱名寺一帯な訳だ。
なので、その御縁で金沢区の隣接地域の杉田や笹下の現在の港南区~磯子区の殿様だった間宮康俊公の御子息と真里谷武田家の姫君が婚姻を結んだんだろう。
最初に御住職様に御会いしたのは、和田義盛公の顕彰活動で訪問した際だった。
その時は未だ無量寺が間宮信高公の菩提寺とは知らなかった偶然の訪問だった。
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まぁ、御住職と少し御話して和田義盛公の事を聞いたり、特別に御本堂に上げて頂いて色々と見学させて頂いた際に、何を思ったのか突然御住職が「実は間宮家~云々」と小生の顔をマジマジと見ながら話し始めた際は正直、大変に「ドキっ!」としたのを覚えている。
御住職様も何で小生が一言も「間宮」とも発していないのに、その話を始めたか解らないが、今と成っては信高公の御導きだったんだと思う。
この偶然が有ってから、間宮信高公の事を寛政重修諸家譜等から読み調べ始め、そして死地が愛知県海部郡蟹江町に在った蟹江城址と知って現地の教育委員会様に様々な情報提供を頂き、昨年、間宮家の顕彰文に信高公の事を掲載すべく蟹江城址へ写真撮影に行って来た。
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今も運河沿いに酒蔵や米問屋が残り城下町の風情の残る良い処だった。
実は蟹江城は天正年間、つまり間宮信高公が討死にした合戦直後に大地震で崩壊し消滅したのだが本丸の井戸だけが現存しているのだ。
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この井戸の写真撮影に蟹江町を訪問して来た。ついでに甘強酒造と言う昔ながらの武士が高級酒として飲んでいた味醂を製造している酒蔵も訪問して味醂を購入して来た。
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これらの御縁は全て関口牧場と同じ長坂に在る無量寺の御住職と和田義盛公と間宮信高公が導いて下さった地縁だった。御蔭で良い旅行が出来た訳だ。
因(ちな)みに、ウチの母にも土産で甘強酒造の本味醂と津島市の鶴見酒造が作る味醂、神鶴を購入して渡したのだが、両方とも普段使ってる味醂とは全く別物の美味さに驚いて母は自分の友人達にも紹介していた。小生はリキュールとして炭酸割り等にして飲んだが焼酎で作られていて風味良く美味しかった。
織田信長公や徳川家康公も飲んだであろう旧海部郡の味醂を現代に飲めて幸せだった。
まぁ、そんな訳で関口牧場の在る三浦半島の横須賀市長坂地区は昔から水軍を率いた武士の根拠地だった訳だ。そして昔は牛では無くて馬を生産していた牧場も有ったかも知れない。
佐島と長坂の間には❝蘆名(あしな)❞と言う地域が有る。ここは和田義盛公の御子息が治めた土地で蘆名城と言う城が有った。その蘆名家の子孫は東北に移住して奥州探題等を務めた大名と成り名将の蘆名盛氏公を輩出した。蘆名盛氏公と言えば伊達政宗公のライバルだった人物だな。

皆さん、関口牧場や佐島を訪れる機会が有ったなら、是非!和田義盛公や間宮信高と言う名将が昔、長坂に居た事を思い出して見て下さい!

野庭神社(のばじんじゃ)/旧名:野庭蔵王権現御嶽社
主祭神:蔵王権現(神仏習合の山岳信仰の神。明治期に日本武尊と習合)
御利益:勝負運?地鎮?交通安全?
開基:1570年、地主の臼居杢右衛門が金峰山寺より蔵王権現の御分霊を勧進。
場所:横浜市港南区野庭町1838
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最近(2016年現在)、旧神奈川県立野庭高校吹奏楽部の実話をモデルにしたドラマの❝仰げば尊し❞でロケ地にも成った野庭高校ですが、その旧野庭高校や近くの野庭団地一帯が戦国時代の野庭関城だと言う話を以前、ロケ地解説記事で書いた事が有ります。
⇐その記事リンク。
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その野庭関城の外郭、馬洗い川を利用した外堀の谷間、切岸の役割をした河岸段丘上に建つ野庭神社と言う神社が在ります。
田舎の鎮守の御社と言った雰囲気を醸し出す素敵な神社ですが、この丘の背後には宅地開発され消滅した野庭城が控えていました。つまり、こんな懐かしい雰囲気を漂わせていますが、背後は団地なんです。
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団地の中心の公園が本丸跡です。
神社前の谷間が沼掘りの役割を果たしていた。
この一帯は緑地として保護されているので横浜市の旧鎌倉郡域の風景を現代に留めています。
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出来ればこれ以上、開発されませんように。延喜式内社が沢山有る伊勢原や厚木の田舎に来た様な鎌倉の原風景が小生は好きです。
神社の鳥居の横には、熱心な町内会の方々が昭和後期に建てた解説看板が有ります。
昭和55年の事だそうで野庭地域が開発され城址が消滅したり宅地に成ったりして行った時期ですね。
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この説明には知識不足から来る誤りが多数あるので後で補足と訂正を小生の方でして置きます。

さて、そんなこんなで、ここは戦国時代から存続する神社な訳ですが江戸時代の寛政年間に現在地に移転された様ですが、何んで移転されたんでしょうね?
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石段を見ると、江戸時代の石材加工技術で作られています。風化具合から見て江戸時代~明治時代の物に見えます。
となると、戦国時代の御社は遷宮時には転用されず、新たに石材から集められて建てられたのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿で記載を探してみますが掲載されているか解らないので、最悪、氏子さんか地元の古老に取材してみます。
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社殿は小さいながら立派ですね。瓦葺なのでもしかしたら建物も江戸時代の物が現存しているのかも知れない。
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扁額は立派です。でも社殿が江戸時代だとすると江戸時代には既に野庭神社と呼ばれていたのだろうか?
解らない。
この地域は都会化から保護された緑地帯で氏子サンも少なく成っているかも知れませんが、この立派な扁額を奉納された氏子サン達に敬意を抱きます。
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社殿が雑木林に囲まれています。
左側の雑木林は造営当初は無かったはずなので、伐採して神社の日当たりを良くするだけでも、通りがかる人々の目を引くと思います。
ともあれ、すっごく雰囲気の良い神社な上に戦国時代に繋がる場所、何かドラマのロケ地とかに成ってもおかしくない場所だなぁ~とか感じました。
銅葺(あかがねぶ)き屋根の緑の屋根の神社も素敵ですけど、江戸時代の大らかな庶民文化の御社も良いですね~。
周囲の風景も農道が残っていて良いし、とても横浜とは思えない元鎌倉郡の神社でした。

きっと、この神社を野庭関城の城将だった戦国時代の名奉行として有名な北条家臣の安藤良整公や、北条氏康公の馬回り衆(直属部隊)の侍大将だった石巻康保(いしのまきやすもり)公や、外交官として有名な板部岡江雪斎公も御参りした事でしょう。

町の中の小さな神社も歴史背景を辿ると、思いがけず歴史偉人との繋がりが有るかも知れない典型的な神社さんですね。
この田舎っぽい雰囲気の良い神社、地域の人には子々孫々まで大切に伝えて欲しいです。

以下は上野庭町内会文化部さんの作った野庭神社の歴史解説の誤り指摘と小生による訂正です。
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●開基された時期の説明訂正
1570年の室町幕府の将軍は足利義秋(改名:義昭)です。足利義明は小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた房総半島の生実城(おゆみじょう)を本拠地にした鎌倉公方の一族で、同音ですが室町幕府将軍とは別人物です。
野庭神社を造営した臼居家は当時、小田原北条家の統治下に在ります。小弓公方は北条家と対立関係に有り尚且(なおか)つ足利義明は北条氏康公によって討ち取られているので、小弓公方を基準にして歴史を語る事は無いでしょうし1570年の話ならば足利義秋を基準にした話でしょう。
※よって、この説明は造営年代は1570年で足利義昭の時代と訂正するべき。足利義明ではない。
●御神体勧進の経緯についての訂正
この神社の神様は、吉野山の❝蔵王権現(ざおうごんげん)社から勧進した❞ものではありません。そもそも、吉野山で蔵王権現と呼ばれるのは、金峰山寺と言う名前の歴代天皇家が崇拝した神仏習合の現在では修験道の御寺に分類される大寺院です。和尚サンでもあり神主様でもある山伏(やまぶし)サン達の宗派ですね。
そこの御本尊が蔵王権現と言う日本独自の神仏習合の神様で、金峰山寺には蔵王堂が現在も在ります。この金峰山寺を特に崇敬したのが後醍醐天皇で、武士では源八幡太郎義家公を筆頭にした河内源氏の殿様方です。この事実を踏まえると、野庭の土地には平安時代~鎌倉時代には野庭関城を源氏の与力の和田義盛公が築城した歴史が有る事、この土地が執権北条家の所領だった事から蔵王権現社自体は源頼朝公の時代には前身の祠か何か存在した可能性も有りますね。
※よって、この説明は吉野山の金峰神社から勧進と言うのは誤りで、後醍醐天皇の守護神だった修験道の本山、吉野の金峰山寺から蔵王権現を勧進したと改めるべき。
●御祭神についての訂正
説明では御祭神は日本武尊とありますが誤りです。蔵王権現は蔵王権現と言う神様です。神仏習合の時代の神格でも蔵王権現は安閑天皇と同格とされ山岳信仰の神様です。つまり日本武尊は少しも関係が有りません。
実は蔵王権現は神仏習合の神様なので明治時代に弾圧対象にされました、歴代の天皇家が崇拝して来たのに明治時代に水戸学なんてカルトに基づいて宗教改革をした弊害ですね。その際に神仏分離令と廃仏毀釈の弾圧から逃れる工夫として全国の蔵王権現社は蔵王権現を日本武尊を祀(まつ)ったり社名を同じ山岳信仰の御嶽社(みたけしゃ/おんたけしゃ)と改める事で弾圧を免(まぬが)れました。
つまり、この野庭神社が野庭の蔵王権現社から野庭神社に名前を改めたのも御祭神を日本武尊に改めたのも、その歴史が端折られ、そのまま誤って記載されています。
※御祭神について金峰山寺から勧進された蔵王権現と改めるべき。
●社名について
古来、蔵王権現社として勧進されたのだから野庭神社から野庭蔵王権現社として説明するべき。

余談ですが臼居家の事も掘り下げてみたいと思います。
この神社を建てた臼居家の家紋は❝蔦(つた)の葉紋❞です。
蔦の葉紋
以前、港南区の間宮家関連の神社を訪れた際に区役所で郷土史研究家の方が発刊された❝先駆者と遺宝❞と言う港南区の歴史人物をまとめた本を購入しており改めて読みましたが、その本では千葉家の子孫で遠祖は平良久と書いてますが誤りです。
千葉家の祖先は平良文(たいらのよしふみ)公です。この野庭辺りの旧武蔵国久良岐郡~旧相模鎌倉郡を含めた神奈川県沿岸部域を開拓したのも平良文公の御子孫達です。
内陸に関しては早くから小野氏や出雲神族の御神孫が開拓しました。
そして神奈川県域の発展に寄与された平良文公の御子孫の内、❝蔦の葉紋❞は千葉家の家紋ではありません。また千葉家の家臣の臼井家は臼❝井❞であって臼居ではありません。
そして千葉家の家紋は❝九曜に半月紋❞です。
九曜に半月紋
これが千葉家の家紋。
千葉家臣臼井家の家紋は九曜紋。
九曜紋
なので、家紋からは野庭の臼居家は千葉家子孫とは考え難いですね。しかし鎌倉の浄土宗大本山光明寺に千葉家からの家系を辿れる資料が有るらしいので、可能性としては房総半島の臼居城を退去し野庭に移住し北条家に臣従した時代に上司や目上の外戚から蔦の葉紋を譲り受けた事が推測出来ます。
蔦の葉紋
では蔦の葉紋は千葉一族の祖先で鎌倉御霊神社の御祭神でもある平良文(たいらのよしふみ)流の坂東平氏の家紋ではないかと言えば、そうでもなく良文公の子孫の中で有名な蔦の葉紋を使う武士はいます。
しかも、その家系も千葉家と同格に由緒正しい血筋で、現在の高座渋谷や綾瀬市辺りを領地にした渋谷重国公の家系です。
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※写真は綾瀬市の早川城址公園。空堀土塁等が現存。
野庭の臼居は苗字が同族の千葉家の臼井に似てる事に肖(あやか)って臼居家が家系を誤って伝えたんでしょうか?何で千葉氏流臼井家が野庭の臼居家の祖先なら、九曜紋じゃないのか説明が出来ません。
小生が思うに、北条家臣時代に成ってから姓を臼井城に残った一族と区別する為(ため)に"臼居"と字を改め、更に家紋も先述の様に野庭関城の有力者で蔦の葉紋を使う武将と懇意に成り家紋を譲り受けたか、外戚の武将から譲り受けた事が推測出来ます。まぁ、あくまで小生の想像です。
戦国時代、臼居家は鎌倉の玉縄城主、北条綱成に従って武田信玄と戦ったと系譜上に記載しています。
これが正しければ深沢城の籠城戦か三増峠合戦でしょう。
北条綱成公に従っていたのなら玉縄衆だったはずで、手勢の武士30騎動員兵力300と書いて有りましたが少し疑問ですね。計算上おかしい。武士30人を配下に抱えていたなら、動員兵力は武士1人につき3人前後の足軽がつくので、実際の手勢300の半数の兵150以下が手勢と言う所でしょうか。それでも立派な侍大将です。北条綱成公の家老の間宮家でさえ笹下間宮家で動員兵力200弱ですからね。
玉縄北条家の石高が1万石~2万石、単体での動員兵力は300~600、そこに与力の間宮家や堀内家やらが加わり玉縄衆全体で兵3000前後、規模10万石な訳です。
だから野庭の臼居家のみで兵300と言うのは少し考えにくい話ですね。恐らくは手勢150に配下の与力武将の兵力を合わせた総数が300だったんじゃないでしょうか?

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※写真は玉縄北条家が徳川家臣と成り1万石で転封された千葉県佐倉市弥富の岩富城址から見た風景。
信憑性が有る部分は中田加賀守の次女を妻にしていたのが野庭神社を開いた臼居杢右衛門と言う事でしょう。
中田加賀守は戸塚区の殿様なので地域的にも縁戚に成るのも自然な話です。そして東慶寺に300石を治めて地頭に成ったと有りますが、これには少し疑問が残ります。
この野庭辺りの旧住所で小名:政所(まんどころ)と言う場所は本当に東慶寺由来の土地なので地域的には整合性は有るのですが、そもそも野庭郷自体の石高が106貫307文と判明しており石高に換算すると1貫=2石なので約212.6石と言う計算に成ります・・・
野庭全体を東慶寺に寄進しても300石には成らない。この東慶寺に300石と言うのは、地頭=名主として治めた領地300石の内、東慶寺へ小名:政所領分の年貢を納めていた地頭と解釈した方が正しいと思います。
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※写真は東慶寺。開いた人物が鎌倉幕府の北条時宗公の御妻女で最初の尼住職。以後、後醍醐天皇の皇女の用堂尼や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼が歴代住職を務めた女性や子供を保護する縁切り寺として機能した。
⇐東慶寺解説したブログ記事。

まぁ、こんな事を考えられるのも、野庭神社を氏子サン達が守って源氏以来の武士達の蔵王権現信仰を伝えて下さったからですね。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

好きな人がいる事
好きな人がいること
フジテレビ系放送局で放送開始されました。
小生が休日によく散歩に行く風景が沢山出ます。
1人のパティシエの女の子が、レストランを経営するイケメン3兄弟と同居し、恋をしながら成長していく話です。
好きな人がいる事2
是非、見てみて下さい。

一番上のドラマタイトルをクリックすると、公式ホームぺージにリンクします。

もう一作品、神奈川県が舞台のドラマが始まります…

廃校と成った旧神奈川県立三崎高校と野庭高校の卒業生に捧げる・・・
仰げば尊し
仰げば尊し
小生が住む横浜市に10年くらい前まで実在した神奈川県立野庭(のば)高校と、全国優勝常連だった吹奏楽部の物語です。
野庭高校は劇中で、とんでもない不良高校に描かれていますが、実際横浜市内で下から1、2番目の学力の普通科高校でした。
その高校を、これまた実在した❝中澤忠雄❞先生をモデルにした、寺尾聡さん演じる樋熊迎一が吹奏楽部を率いて学校を変えていく物語です。
仰げば尊し1
その学力底辺の野庭高校は、中澤忠雄先生の率いる吹奏楽部があれよあれよと言う間に全国で連戦連勝の優勝常連校に育って行き、全国から吹奏楽を志す中学生が受験する音楽の名門高校に生まれ変わった話です。
2016年7月17日放送開始です。詳しくは画像上のドラマタイトルをクリックして公式ホームページを御覧下さい。
仰げば尊し⇐クリック!
きっと面白いので、是非、皆さんに見て欲しいと思います。

この野庭高校は劇中では❝美崎(みさき)高校❞に名前が変わっています。多分、ロケ地が神奈川県三浦市三崎町だからでしょうか?
猿島が見える海辺も出るので横須賀市の馬堀海岸もロケ地の様ですね。他にも日本武尊と弟橘媛神話の舞台の走水海岸、三崎町三崎漁港の風景も登場していました。
学校の校門前や屋上の風景は野庭関城址である野庭団地が見えるので、本当に旧野庭高校で撮影している様です。

さて…
小生のブログは腐っても歴史解説と郷土史とグルメ探訪のブログなので野庭高校に関連する歴史を…

余談ですが、このドラマの舞台となる美崎高校のモデル野庭高校の一帯は鎌倉時代に築城され安土桃山時代まで城塞として活用された❝野庭関城❞の城址なんです
旧野庭高校の西を流れる川と畑地は、鎌倉時代~戦国時代水掘りと水田、沼掘りでした。丁度ドラマの校門のシーンで見える一段下の茂み辺り一帯ですね。屋上のシーンで見える野庭団地の中心地の野庭中央公園が本丸と伝わっています。
位置関係はこんな感じ…
旧神奈川県立野庭高校と野庭関城の位置関係 久良岐のよし
残念ながらアホの神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が保護を怠った為に城址は団地建設で破壊されましたが、一時、中澤忠雄先生と吹奏楽を志す生徒達によって日本に誇る❝音楽の拠点❞として有名に成ったのはせめてもの先人への手向けに成ったでしょうか?
この城を築城したのは、義務教育で誰もが習う鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公です。
戦国時代には名奉行として有名な安藤良整公や北条氏康公の近臣だった石巻康保公等が城将を務めた城でした。
この城は、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公と御子息で二代将軍の頼家公が暗殺された(小生は頼朝公の死因は稲毛氏と北条氏によるヒ素中毒毒殺未遂後の直接暗殺と推測している)後に義挙した泉親衛(いずみちかひら)公と和田義盛公に同調した土肥実平(どいさねひら)公の一族郎党が野庭関城に籠城し、壮絶に討死にした忠義の城としての歴史も有ります。
そんな誠実な名将達の城跡の高校に赴任した中澤忠雄先生が底辺高校の生徒達の才能を引き出して全国優勝するまでに導いたのは、浪人だった源頼朝公に忠義を尽くしてとうとう鎌倉幕府を開闢せしめた和田義盛公や土肥實平公の偉業を再現したかの様な物語ですね。

和田義盛公は鎌倉市の材木座で討ち死にしてしまいました。
しかし、野庭城の周辺には3軒ほど和田姓の御子孫が昭和期まで在住されていました。
和田義盛公と配下の武士達は鎌倉市の和田塚(正式名:無常堂塚)に葬られました。
和田塚(無常堂塚)の場所 久良岐のよし
和田塚には地表に露出した当時の武士達の人骨片がムキ出しに成っています。
近隣の学校の❝校庭でキラキラ光る砂のようで砂とは違う物も、人骨が破砕されて光に反射している❞のだと、小生や鎌倉市の古老と似たような知識を司馬遼太郎先生も❝街道を行く❞シリーズの三浦編で紹介していたと思います。
因(ちな)みに鎌倉市は、何処(どこ)を掘り返しても人骨が出ます。そりゃそうですよね…
和田合戦・宝治合戦・新田義貞による鎌倉攻め・中先代の乱・足利尊氏公の鎌倉奪還戦等々、歴史の節目毎に多くの武士が戦って亡く成ってますから。
でもね、❝心霊現象がどうとか言う偽霊能者❞は根本的に解ってないんですよ。
武士は戦死する事も勝つことも「武運」と言い信念の末の戦死は名誉な事であった訳ですから、仮に彼(あ)の世が有っても人を祟ったりはしません。
寧(むし)ろ神道の考え方では荒神様は強力な守り神に成って下さる訳ですし、現在の日本の繁栄や、鎌倉で仲良くデートするカップルを見たら、和田義盛公も平和な時代の恋人を微笑ましく見守って下さる事でしょう…
それは野庭高校の生徒達に吹奏楽で天下を取らせて下さったようにね。

ささ!
歴史は現代に繋がりますが、歴史を映像化するのもドラマにしか出来ない事です。
現代の江ノ島の美しい風景や、吹奏楽で落ちこぼれ高校から日本一の高校に成った野庭高校の歴史、是非!ドラマで楽しんでみて下さいな♪

では!次は先週末の休日雑記の続きか、大庭城の紹介記事で御会いしましょう!

友人と横浜市所縁の武士、鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公の偉業に思いを馳せ、所縁の御寺を尋ねた…
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三浦半島の佐島港近く長坂と言う土地の金剛山無量寺と言う御寺。
御住職は柔らかく、丸で福の神様の様な暖かい御優しい方でした(笑)。
そして偶然、横浜の間宮家の殿様の御一門と関係の有る御寺でもありました。
全てこれは偶然であり、偶然では計り知れない偶然を越えた御導きに感謝を感じる訪問でした。
その事は、又、後日書きます。
和田義盛公、間宮信高公、そして三浦で里見の海賊を撃退玉砕された室町期の間宮信次公…
本日はありがとうございました。
又、御1人、素晴らしい和尚様との御縁を結ばせて頂けた事も御礼申し上げます。

その後、佐島マリーナの隣り、笠島マリーナで「海辺」と言う海に張り出したウッドデッキに並べられたテーブル席で食事をする"と〜っても!"ロケーションが素敵で凄く美味しい海鮮和食のレストランを見つけましたよ!
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金目鯛の煮付けと、御造り、味とロケーション満足な定食3000円は安いわ〜。
その後、佐島に在るの天神島臨海自然教育園を散歩し海で真冬に水遊び…3○歳の小生血迷う。
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クソ寒い。

寒くなったので佐島地区の丘の上の大亀三社と書かれた石碑の有る神社を御参り…
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石段とは程遠い「崖のソレ」に近い参道…
でも!
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この神様は、きっとココから、この笠島や佐島の漁村の営みを何百年、場合によっては千数百年間も見守って下さっていたんだろうな…。

今日は最後に友人を連れ秋谷海岸に移動し景勝地立石で散歩。
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その後、今日の〆にレストランDONにて御紅茶と「魅惑の昼下がり」と言う名のデザートを頂いて帰路につきました…
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このレストランもロケーションは最高だし料理も最高に美味しいのだが、デザートの名前がどれも客を笑わせようと狙い過ぎ(笑)。
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帰りしな家電量販店に予約していた映画「駆け込み女と駆け出し男」のDVDを受け取った。
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※「映画:駆け込み女と駆け出し男」と「東慶寺」については、以前記事にして紹介したので御興味有る方は以下のリンクから御覧下さい。
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今は自宅にて、その映画を観ながら、この雑記を書く…

ブログネタ
「食欲の秋」のはじめに食べたい物は? に参加中!
食欲の秋…拉麺美味しいよね。

横浜市港南区下永谷に神勝軒と言う「つけ麺」の店が在ります。
「つけ麺」と言うジャンルを拉麺界に創生した偉大な拉麺職人の故:山岸翁の御弟子サンの店です。
ちゃんと大勝軒で修行された事と山岸翁へのリスペクトを店内の看板にも掲示している大勝軒系の血脈の店。
この様に創始者をリスペクトする姿勢は素晴らしい。
御当地横浜の家系には、家系創始者の吉村社長の弟子でも無いのに自称家系名乗る不遜な輩が溢れかえり偽家系だらけ…
この神勝軒の山岸さんへのリスペクトは評価に値する。

正統の大勝軒の暖簾分け1号店も横浜駅西口に在り、其方の店長サンは今は山岸翁の跡を継ぎ横浜だけでなく大勝軒本店の大将に…
なかなか横浜駅西口や大勝軒本店に行けない時に、神勝軒で腹を満たし、つけ麺文化を残して下さった山岸翁に感謝を示すのも風流でよし。
店内は建築古材を活用した内装で、落ち着いて雰囲気が良いです。
カウンターは木製の一枚板で高そうな材木です。…写真撮り忘れました(笑)。
厨房はこんな感じ。
この日は…
特製つけ麺に
中盛り 味玉 焼豚 海苔増し
…を頂きました。
美味しそうでしょ?
麺を完食したら…
「スープ割りお願いします!」
…と、言うと、スープにネギ等を足して飲むスープにしてくれます。
コレはつけ麺店ならではの風習みたいなもんで、大概のつけ麺自慢の店はやってくれますよね。

こちらの店で山岸翁の血脈の味を身近に感じて、大勝軒本店や大勝軒横浜駅西口店近く行く時は其方にも寄りたい。

余談ですが神勝軒のお向かいに在った家系総本山の吉村家の直弟子が店長だった環2家が8月30日で閉店しました。
閉店日から2日後だったのですが、灯りがついていました。
吉村社長、店を売却するとブログに書いていたので、もう売れたんでしょうか?
吉村社長の直弟子の本物の家系だっただけに残念です。
環2家は店員同士が仲悪く接客の際に怒号が飛び最悪な雰囲気だったが美味しい日は美味しかっただけに、吉村社長の下で接客マナー再建し続けて貰いたかった。
吉村社長のブログに書いて有った「光くん」と言う店員が辞めたのが、環2家をたたむきっかけらしいが…

この地域、実は拉麺文化発展させる地域とも言えます。
実は御城の在った地域には、美味しい拉麺店が近くに在るんです!
そして、それは地勢上の必然なんです。
其れは神勝軒の附近の周辺 文化と地理の 情報を先ず見れば一目瞭然なんですが…
先ずは見ましょう。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
永谷の周辺街道
⚫︎古鎌倉街道
江戸時代の鎌倉街道成立より更に以前、平安時代から使われた鎌倉街道の古道がこの地域を貫いている。
⚫︎鎌倉街道
鎌倉時代迄の古鎌倉街道とは違う筋だが、現代、整備された鎌倉街道が永谷地区近くに通る。
⚫︎古東海道/東海道
江戸時代以前の古東海道を江戸幕府が再整備した東海道が、永谷地区の直ぐ近くに通っている。
⚫︎環状2号線
神勝軒は環状2号線に在る。現代整備された横浜の中心部から放射状に続く国道16号線、横浜上麻生道路、川崎街道、中原街道、八王子街道、鎌倉街道の一般道に加え第三京浜高速道路、横浜横須賀高速道路、東名高速道路、首都高速道路湾岸線&横羽線等のアクセス向上を目指して造られた新しい街道。
永谷周辺の有名ラーメン店と城址
※超有名店だけとりあえず記載しますが、地図上の印つけた店は全て雑誌TVに良く掲載される有名店です。
⚫︎新横浜拉麺博物館
日本最初の拉麺博物館。
永谷地区からは車で環状2号線を15〜20分程の距離の新横浜駅附近には拉麺博物館が在る。
新横浜駅は東海道新幹線「のぞみ」の停車する重要駅でもある。
⚫︎支那そばや本店
※港南区永谷地区は隣区の戸塚区との境界に位置する。
永谷地区から東海道を車で15〜20分程の戸塚駅近く。山岸翁と同じく拉麺の大家として名の知れた「拉麺の鬼、佐野実」こと故:佐野氏の「支那そばや」本店。この店の支那そば(醤油ラーメン)は一般的な醤油ラーメンのイメージから想像も付かない発展をさせた拉麺で、拉麺ブームの火付け役に成った名店。
残念ながら、つけ麺の大家:山岸翁が没すると、後を追うように佐野氏も世を去ってしまったが、その味は御弟子さんがシッカリと受け継いでいる。 
⚫︎杉田家(元:吉村家本店)
永谷地区から環状2号線と国道16号線を車で15分の距離。
豚骨醤油:家系拉麺の創始者の吉村社長が最初に店を構えた店舗。今は直弟子が支店として引継ぎ店長を務める。 家系拉麺の発祥地。
吉村社長のいる吉村家は、横浜駅西口近くで営業中でいつも大行列。
⚫︎環2家
永谷の神勝軒の目の前。環状2号線を挟んで対面に在ったが、先月2015年8月30日を以て閉店した。
家系拉麺創始者の吉村社長直弟子が店長を務める吉村家直営店で毎日大行列だったが、従業員の離脱により吉村社長が店を閉めてしまった。吉村社長のブログによれば店舗売却予定らしい。
⚫︎
本牧家
元々、本牧家の屋号は吉村家の吉村社長の店だった事に由(よ)る。
元弟子の神藤隆が本牧家店長を任されていた時代に造反し、従業員引き連れて辞めて神奈川区六角橋に六角家を作ってしまった為、吉村社長が怒り狂って閉店、現在のオーナーに売却してしまった店。
正統な家系吉村家の系統とは別系統で「家系亜種」と呼ばれる家系の派生店。
六角家の方は新横浜ラーメン博物館の開店当初は、御当地横浜のラーメン店として同地には入店していたが現在は出店していない。六角家本店は名前の由来の神奈川区六角橋に営業中。
⚫︎壱六家
正統派吉村家系とは異なる家系亜種に分類される拉麺店。
昔からの人気店で、一時期は支店も多数出店した。現在は元々の国道十六号沿い磯子駅近くの本店は特に大人気営業中。
⚫︎貞昌院と永谷天満宮
永谷天満宮は全国の天神様の御祭神である菅原道真公の御子息5男、菅原淳茂公の居館跡の天神様。
そこに室町幕府足利尊氏公の従兄弟の御子孫で鎌倉府で関東管領も務めた家系の宅間上杉家の殿様が開いた天満宮。
御神体は道真公が鏡を見て遺品として自ら手彫りした道真公御自身の木製像。
この木像は日本に三体だけあり、福岡の太宰府天満宮、大阪の道明寺天満宮、横浜の永谷天満宮に其々安置され、以上三社の天満宮は日本三体天満宮と呼ばれる。
貞昌院は曹洞宗の寺院で永谷天満宮の別当寺。開基の宅間上杉家が曹洞宗に帰依した小田原北条家臣だった事による。
⚫︎永野城址
神勝軒の向い側の緑地は室町幕府創始者の足利尊氏公の従兄弟の血筋に当たる宅間上杉家の殿様の居城の永野城址。
⚫︎野庭関城址
永谷地区から車で5分の場所に曾て在った城。
鎌倉幕府の初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が築城した城で、鎌倉古道と鎌倉街道を押さえる位置に在る。
戦国時代まで活用され、安藤良整公等の名将が城代を務めた。
⚫︎笹下城址
永谷地区から車で5〜10分の笹下地区に曾て在った城で、北条家の水軍を纏めた間宮家の居城。杉田港や六浦道(笹下釜利谷道路)、鎌倉街道を押さえ鎌倉の防衛と東京湾防衛を担った城。
⚫︎今井城址
永谷地区から直ぐ車で10〜15分の環状2号線今井インター近く、保土ヶ谷区の平安時代末期の信州出身の武将の旭将軍こと源朝臣木曽義仲の重臣だった今井兼平の城址と伝わる。戦国時代末期まで城として機能し江戸時代に成り廃城すると陣屋が置かれた。
つまり当時も交通の要所だった。
義仲の妻の巴御前は幕府に投降し和田義盛公に再嫁しているので、今井兼平も投降した可能性は高い。又はその一族が城主か?
⚫︎鳥山城址と三会寺と鳥山八幡宮
全て 港北区鳥山地区、永谷地区から環状2号線を車で 15〜 20分程 離に在る歴史史跡
平安時代末期、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の与力、近江国宇田源氏の名将:佐々木高綱公が築城した居館が鳥山八幡宮の敷地で、その背後の丘は詰めの城。
三会寺(さんねじ)は源頼朝公が佐々木高綱公に命じて鎌倉の鬼門に当たる鳥山地区の旧街道沿いに築いた鎌倉鬼門鎮護の寺院。
⚫︎小机城址
永谷地区から車で20〜25分程の所。
新横浜日産スタジアム近く、室町時代〜戦国時代の城址で北条家白備え隊の居城。白備えは小田原北条家の主力部隊の1つ、北条家には五色の軍装で色分けされた5軍団が有り、その1つ。
城主は北条家の宿老であった北条幻庵公、城代は北条家の家老の笠原信為公。

※上記の城址は既に記事に書いてあるので
画面上、PCでは右側、携帯では下の方に表示される【カテゴリ】から「城址」「北条家五色備え」「神社」のいずれかから検索してみて下さい。
ここまで拉麺と関係ない事を、良く読んで下さいました(笑)。
では何で、この地域が拉麺文化発展の土壌に成ったかですが…
既に勘の良い方は地理と史跡を見て気が付いてますよね?
この地域は交通の要所だから、拉麺文化を客として下支えして来たトラックやタクシーの運転手の往来が多いんです!

この東海道(国道1号線)と環状2号線のクロスする附近は、拉麺文化醸成の地であり、奇しくも永野城、野庭関城、笹下城、小机城、鳥山城、今井城など交通の要所を押さえる位置に築かれた城が神勝軒の在る永谷地区や環状2号線周辺に在るのは当然!
現代の物流の観点と、武士達の街道を押さえる防衛観念はリンクしているからなんですね。
武士は敵軍の自領への侵攻を防ぐ為に、街道や水運の要所に城を築城(ちくじょう:城を造る事)します
そしてラーメン店はトラックの往来が多い街道沿いに運転手の来店が多く見込めるので、沢山の拉麺店が出店する事に成り、結果的に拉麺文化発展の土壌には城跡が近くに在る場合が多く成る訳ですね。

ね?
歴史と郷土の食文化って凄く関連が在るでしょう?
それが小生のブログタイトルの由来でもある訳です。

次は映画とドラマの「HERO」公開中につき、ロケ地の横浜の旧中心街の日本大通り地区の近代西洋建築遺産を紹介します。

では!又次の記事で!

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成人式のエピソード教えて! に参加中!
成人したら選挙権貰えますよね?
それは緑地保護や文化財保護をする政治家を選ぶか、破壊する無文化政治家を選んでしまうか、成人する事で責任が発生すると言う事でも有ります。

悪い例が今の横浜市に有ります。
金沢文庫の文化財の腐食を進行させてしまったり、前代までの歴代市長が保護してきた横浜市内各地の緑地や桜並木を今の横浜市長が緑地売却や街路樹伐採をさせています。
関連記事は「ココ」←クリック!

これらの緑地売却や史跡の破壊例として、それはそれは無残に破壊された城址の例があります。

横浜市保土ヶ谷区今井に今井城と言うお城が有りました…
細郷道一と言う1978〜1990年まで横浜市長を務めた方が在任中に保護を試みた城址です。
しかし郷土愛の無い最近の市長が保護を怠って業者に破壊され、史跡はほぼ消失してしまいました。
現職横浜市長林文子氏は今井城址残存部の保護を完全に怠っています。

鎌倉〜室町の城址保護と地域民鎮護の為に、先人が建てて守って来た稲荷神社の鳥居でさえ、こんな無残な有様(ありさま)です。
実は、今井城址だけで無く今正に現職横浜市長に潰されようとしてる史跡や緑地公園があります。
横浜市港南区〜栄区〜金沢区〜鎌倉市にまたがる瀬上池周辺緑地〜上郷市民の森〜金沢市民の森が現職の林文子横浜市長に宅地開発容認されているんです。
横浜市は中田市長の時代から緑地公園整備の税金を徴収開始しているのに矛盾していますね?
あれ?
何か緑地公園整備の税金徴収と現職横浜市長のやる緑地公園破壊政策は矛盾だらけですね…

さて今井城址と細郷市長に話を戻します。
細郷元市長は横浜市営地下鉄の建設、みなと未来21地区の商業利用、文化史跡と緑地を保護した港北ニュータウン建設を成功させた名執政者でした。
ですから、緑地公園や文化財と史跡の保護にも写真の石碑の通り熱心に取り組まれました。
以前の細郷さんをはじめ歴代市長が、この様に石碑を建ててまで保護した場所を、林文子横浜市長は無視して風化させているんですね…

しかしここ今井城址、実は非常に歴史的に価値のある文化財が出土している場所なんです。
梵字の書かれた石碑ですが、この種の物は鎌倉時代に武士により盛んに造られ、鎌倉市ならば重要性が理解され大切に保管されます
しかし林文子横浜市長はこの史跡の重要性が理解できないんでしょうか?
さすが金沢文庫収蔵の重要文化財をカビさせただけありますね。

で…
今井城址を守ってきた稲荷神社の参道もこの有り様。
最早荒れ放題。

この現職市長が保護せず放置した参道を通り倒れた鳥居の先に有る、もう一つの階段の上の鳥居をくぐると先程の文化史跡や細郷元市長が題字を書いた石碑が有ります。

稲荷神社付近は堀切かな〜?と、思う様な地形は有りますが…
…わかりません!
もうね、破壊されすぎて原形無さ過ぎだろ(怒)!
何やってんの今井城址付近住民。

ただ、一つだけ城の施設跡と思しき地形が…
この土建屋の資材置き場と奥の畑の間には堀切の堀底道と思しき道路があります。
…まぁ伝承も無いしわかりませんっ(怒)!

こんなに荒れ果てた今井城址ですが、恐らく初代城主は源平合戦頃の歴史的には恐ろしく有名な名将が勤めていた様です。
それは源平合戦を書いた物語がわからない部分を創作で粉飾していた事を立証してしまう、とても重要性が有る場所なんです。

城主と伝わる今井四郎兼平公とは、旭将軍と言われた木曽義仲こと源義仲公の参謀であり義兄弟の様な存在でもある人物で、源平合戦の物語でも名将として描かれています。
ただ、作中では木曽義仲公が源義経公の討伐軍に討たれた際、後を追い自害したとされています…
が!
平安時代の武士は自害は一般的にしません。
そして木曽義仲公の側室(そくしつ=本妻以外の妻)の巴御前も鎌倉幕府に降伏し、後に和田義盛公と再婚したりしています。
平安武家文化は責任を最高責任者がとる文化だったので、将棋の様(よう)に有能な人材は戦が終わればちゃんと評価し登用するか、死ぬ迄お互いの正義の為に戦ったんですね。

巴御前の再婚した鎌倉幕府初代侍所別当(さむらいどころべっとう=防衛大臣)の和田義盛公の築いた城は全て交通の要衝に在(あ)りました。
例を挙げると…
●怒田城…かつての軍港で海上交通の要衝。横須賀市吉井〜船倉一帯。
●野庭城…鎌倉幕府の拠点として築いた城で古鎌倉街道と古東海道を抑えている。横浜市港南区野庭一帯。
そして…
今井城址も交通の要衝に在ります。
つまり鎌倉時代の築城が開始された街道の真横にある城そのものなんでくね。
佐々木高綱公の関東での居城跡の横浜市港北区鳥山八幡も正に同じ様に旧街道を城下に押さえています。
※佐々木高綱公の鳥山八幡の記事は「ココ」←クリック!

これは想像でしか無いのですが、恐らくは木曾軍敗退後、そもそも源氏同士の合戦ですから今井兼平公や巴御前は旗頭の木曾義仲公の死亡により朝敵ではなくなり、源頼朝公に降伏したのではないかと思います。
そして重要な事なのですが、平安武家には主従の概念は無くあくまで"盟友"か、親族集団の概念しかありませんので、盟主の為に切腹はしないのが当時の武士の価値観です。
この価値観は関東武士の代表格である鎌倉景政公を祀る御霊神社の方が教えて下さいましたし、頼朝公没後の三浦家や他の武士団の動向を見ても整合性が有るんですね。

そんなこんなで、今井城址は源平合戦の物語で創作され語られていない部分を補填する史跡かも知れない訳です。

こんなに重要な史跡や横浜市栄区の瀬上池が破壊されつつ有るのは、今の林文子横浜市長を当選させた有権者にも責任があるんです。

ですから、今回はたまたま緑地公園や史跡の破壊を問題にしましたが…
成人したのに選挙に行かない人は「人として色んな方面で無責任な人間」と言う事ですよ!
…と、言うお話でした。

あ、以前、記事にした消え行く史跡の一つ横浜市港南区〜磯子区にまたがる笹下城址ですが…
※笹下城の記事は「ココ」と「ココ」←クリック!
宅地造成する部分の開発者が野村不動産様と判(わか)りました。
顕彰活動に貢献して頂けるか、歴代間宮家の関わった寺社仏閣の宮司様、御住職様と注視しています。

では、皆さん、又次のブログで!

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