法光山善慶寺
【開基】1291(正応4)年増田三郎右衛門が開基。
【本尊】三宝祖師(日蓮上人)
【場所】大田区山王3-22-16
【アクセス】JR大森駅から徒歩10分

2016年10月26日、午前11時に大田区山王の善慶寺で檀家総代の間宮さんと面会予定が有り、大田区に行って来た。
江戸時代の1675年代に起きた事件の取材の為だ。
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・・・と、その前に少し主題から外れようと思う。
この地域と間宮家の繋がりを先に紐解こう。
実は大田区は江戸時代初期に徳川家康公の御鷹場だったのを知る人は今では少ないと思う。
横浜市磯子区の戦国武将で関ケ原合戦での徳川勢勝利に大貢献した間宮信繁(のぶしげ)公は実は徳川家康公の鷹匠頭だったのだ。鷹匠は戦国時代は山野の行動に特に精通した❝武士❞達だった。
信繁公は鷹匠頭として鷹匠衆を率いていた訳だが、この武士団を運用して関ケ原合戦では南宮山の毛利勢が内応した吉川勢に抑えられて前進しない事を確かめて徳川本体3万の前進行軍が可能な事を報告した。
関ヶ原合戦図
それによって間宮家分家の杉田間宮信繁公は更に家康公の信頼を得て、江戸入府後の家康公が鷹狩をする度に同行し、度々鷹匠衆が加増された。
善慶寺の檀家には多くの間宮家がいる。
善慶寺の在る山王や大森海岸辺りの大田区域に間宮姓が多いのは、おそらく、この事は大田区の土地が家康公の御鷹場だった事とは無関係では無いだろう。
系譜上では御本人達は現代では知る人はいないが、豊前守 間宮康俊(やすとし)公の子孫が善慶寺の間宮一族として笹下の間宮家御子孫の系図に記されている。
※大森の間宮家祖先は諸説有り、御子孫と伝わる家に混乱を与えるので以下康俊公の子孫とだけ記し、鷹匠を特技とした家系の紹介をします。問合せのメールを頂いた御子孫の方に感謝!※
間宮で杉田間宮以外に鷹匠に成った一族には康俊公の姫、間宮於継(おつぎ)様が古河公方重臣の豊前氏盛(ぶぜんうじもり)公と御結婚され生まれた間宮元盛公の御子孫や、康俊公の御子息の間宮元重公の系統の御子孫等が鷹匠を生業とした家系が有る。恐らく間宮康次公や間宮善十郎公にも系図には残らない子孫が居て、鷹匠に成った人物もいた事だろう。鷹匠は江戸時代は武士の職業だった事を知る人も現代では少ない。
豊前氏盛公は、古河公方家の外交官として北条家の応対に記録が見えたりする。変わった武将で、医者としての側面が有るのだが、本業が医者と寝言と言う文字バカ学者もいる。

今回の訪問の目的からはズレるが、杉田間宮家と杉田玄白は何某(なにがし)かの御縁が有るのは間違いないと思っている。
杉田玄白の祖先は有る時期は真野姓を名乗り、ある時期から❝間宮❞姓を名乗り、ある時期から杉田姓を名乗った。この経緯は彼らの出自が間宮本家と同じでは無くても親類である事を物語っている。
間宮家の祖先は真野家の一族から分家し、更に分家を繰り返し、舟木姓の時代に足利尊氏公の二男の足利基氏公が鎌倉公方として鎌倉府に赴任する際に同行し伊豆国田方郡間宮に所領を得た事で、間宮と名乗る様に成った。
真野家の杉田玄白の祖先は、この真野一族出世頭の間宮家を頼って家臣化していたと推測している。

豊前氏盛公の一族の話に戻る。
古河公方家の喜連川転居に同行者として名前が登場しないので、古河公方家縮小の時代に当たる間宮元盛公の代に、母方の親類の縁で間宮家を頼って来たのではないかと思っている。そして、豊前家流の間宮さん、元重公の子孫の間宮さん、三浦郡不入斗を領していた間宮さんの何(いず)れかが、杉田間宮信繁公に大森の御鷹場の代官職の様な役割を貰って土着したのではないかと思う。その頃、江戸時代初期に、杉田玄白の祖先は真野信安の頃に豊前家流間宮家から医術を学んだ後、福井に転居し小浜藩酒井家の医師に成ったんだと推測している。

さて、善慶寺と全く関係ない話をしてしまったので本題に戻ろう。
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上の写真の道は真っすぐに善慶寺の山門に続き、この辺りの地名は小名で大門だった。
小生は電信柱を見て電信柱の名前から気が付いたが、後で間宮さんに地名を聞いて間違いないと確認している。
つまり、この善慶寺の石柱が有る場所が外門だった訳だ。
善慶寺の現在の境内と門は、本堂と庫裏(くり=厨=居住区)の周辺のみだが、昔は相当な大寺院だった事が現代でも解る。
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善慶寺には義人六人衆の御廟所が有る。江戸時代の領主、木原家が酷い領主で、年貢の検地(課税額確定調査)をする際に、田畑のみだけでなく農道までも耕作地として幕府に虚偽申告する事で農民達から不当な税率で年貢(ねんぐ)を徴収する不正を行ったのだが、これを、この地で帰農していた旧北条家臣団の間宮一族や酒井一族が将軍家綱公に直訴しようとした所を村の内通者に通報され木原家に惨殺された。
これを江戸時代表だって大森の人々は口に出来なかったのだが、何と、この時の直訴状が時代を超えて間宮新太郎さんの家に伝わっていた秘密の葛籠(つづら)の中から発見されたのだ!
そして江戸時代の領主の悪事が400年越しに暴(あば)かれる時が来る・・・
昭和の道路拡張で先程の石柱の裏にあった伝承の墓地を移転の為に発掘調査した所、伝承通り大きな甕に6人分の遺骨が入っていたそうだ。
これは御寺が勝手に言ってるのではなく、学芸員が一緒に発掘し、大田区の教育委員会も公認の事実なのだ。
つまり、約400年越しに木原の悪政と、間宮一族と酒井一族等、元北条家臣団の正義が証明された訳だ。
もっとも、現在の間宮さん達は、別に木原一族を当然責める意思はない様だ(当たり前)。
逆に、こう言う事を気にするのは悪人扱いされるのが気に障る加害者側の方だろうな。
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こいう言った怨讐で手本にして貰いたい話を一つしておく。
面白い事に、織田家の関連史跡の保護活動をしている織田木瓜紋会と言う組織が有る。
そこは織田家の子孫も絡んでいるのだが、その運営を手伝っている人物は❝明智さん❞なのだ。
あの仙台に生き延びていた明智光秀の子孫な訳だ。
今ではお互いに織田家の為に協力して、史跡保護に努めてらっしゃる。これこそ大物の子孫らしい、自分達のメンツよりも後世に歴史を伝える努力に努める心の広さだ。
織田さんも明智さんも偉いと思うよ。木原みたいに悪政をする悪人と、仕事は真面目で大物らしい謀反をした明智光秀との器を比べるのもそもそも違うか(笑)。
なんかね~。
たまたま御寺に有った掲示板の法話の「一乗の善に帰せよ」を明智さんは地でいってるよね。今にして思うと。
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善慶寺。本堂の正面に普通在る山門はずれている。
実は、これは理由が有る。
背後の山に熊野神社が有って、元々は、その参道だったと思われる。約800年前に善慶寺が熊野神社の別当寺に成って現代にいたるので、神仏分離令で神社の前が御寺の境内地に成り、背後の山は神社の境内地になったので、今の形に成った様だ。
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法光山善慶寺。
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山門の前に新井宿義民六人衆と当時の事件で木原家に処刑された人々の名前が掲載されている。
この戒名は実は御子孫達の間でも諸説有るそうだ。間宮さんの戒名が入れ替わってる可能性が有るそうなので、戒名は画像での紹介で済ませて置く。
小生は間宮家の武将の名前を見て来た経験から、この義士達の戒名とされる名前は生前の実名と道号で戒名では無いと個人的に感じた。
この義士達の内、間宮姓と鈴木姓はいずれも伊豆国田方郡出身の北条家臣、酒井家は旧里見家臣、第2次国府台合戦以降の北条家臣。平林は武田家臣に名が見えるが出自は辿(たど)れないので解らない。
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本堂は近年の建て替えだそうだが、木造で立派な物だ。将来、大田区の文化財に成るだろう建物。
この本堂の写真を撮影して居たら、御住職と紳士が玄関口で会話をしていて・・・
「奥さんに今日の11時に来客が有るから来いって言われたんだけど」
・・・と言う声が聞えて来た。
「あ、小生の事だ」
と思って御声がけしたら、その紳士が間宮太郎兵衛さんの御子孫の間宮さんだった。
間宮宗家が家譜を再編する際に、旧本牧奉行陣屋の地に住む分家御子孫の資料を参考にしているのだが小生もその写しを写真撮影してありExcelに打ち込んで見やすくした者を持っている。その家譜では確かに太郎兵衛サンの名前が康俊公の子孫として掲載されているのだ。
そんな訳で、間宮家の末孫と又、御一人知り合いに成った。
御住職と間宮さんはとても丁寧に6人の義士の説明をして下さり、小生にとても貴重な物をプレゼントして下さった。
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間宮新太郎さん宅の葛籠から発見された将軍への直訴状のコピーだ。
・・・一生の宝物にしないといけない。
毎日、尊敬する織田信長公を始め太田道灌公や間宮家の武将と姫様方、源頼義公を始めとする河内源氏の殿様と平良文公の御子孫の平氏系の殿様達、菅原道真公と景行公、敦茂公親子、足利尊氏公足利基氏公親子、北条家本家と玉縄北条家の歴代の殿様、蒔田吉良家の殿様と宅間上杉家の殿様、扇谷上杉氏定公と戦国初期の三浦道寸公と義意公の名の入った御朱印、そして神仏を拝し祈願している事が有る。
「神社仏閣と歴史史跡の保護と偉人の顕彰活動で世間に何か役に立つ事をさせて欲しい」
だから、この御住職から頂いた義士達の訴状の複写は宝物以外の何物でもない。

御住職と間宮さんは小生からの質問にも親切に答えて下さって、色々と謎が解けた事も有った。
それが大森が鷹場だった郷土史等だ。
この訴状の複写を頂いた後、本堂を案内して頂けた。
そこでは写真には納めなかたが(常識的に)、この訴状の原本を御住職が自らの手で開封して見せて下さった!
本当に光栄な事だ。
本堂には昔の写真も有った。
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昭和初期の本堂。面白いのは現在と向きが違い、熊野神社の参道だった現在の善慶寺の山門から神社への道に向かって本堂が建っている。江戸時代に熊野神社の別当寺だった歴史が写真に残っている訳だ。
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そして昭和5年に建て替えられた現在の本堂の写真。もう檀家さんが間宮さんだらけ(笑)。
開基した増田さんの一族と、義士の鈴木家の方の名も見える。
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この御怪我展示されていたのだが、この馬に餌をやる飼葉桶。
実はこの飼葉桶の主だった黒ちゃん、赤ちゃんと言う馬が、悲し歴史だが木原に処刑された義士達の遺骸を運んだのだそうだ。
ちゃんと残っているんだね~。
この赤と黒が居るなら、北条家の文化と仏教文化に沿えば黄、青、白もいたかも知れない。
この他に、伝承通り出土した、6人の義士の遺骸が治められていた巨大な甕も本堂で拝見した。
本堂で貴重な体験をさせて頂けた。こうやって生きている文献を見せて貰えるのは、殿様達から現代人の小生への御褒美だと思う。
一しきり寺宝を拝見した後、墓地に在る6義士の御廟所へ案内された。
御住職に写真を撮影して記事に紹介して良いと許可を頂いたので、今回は墓所を紹介したいと思う。
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表は、実は間宮一族の間宮藤八郎が自分の父母の供養塔に見せかけて特殊な構造で義士を弔うこの墓石を立てたそうです。
この藤八郎、名前からして杉田間宮家の人物だと推測出来ます。杉田間宮家の宗家は代々、藤太郎が屋号だったので、その分家で八男か何かの子孫でしょうか?詳細は解りません。系図にも残っていないので。
墓石は江戸時代当時、参拝者に見えない裏側に義士達の名が彫られました。
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裏面にも水入れが彫られているのですが、これは当時は見えませんでした。
この水入れが特殊な仕組みで、表のダミーの墓標の前で水を入れるとずっと此方(こちら)側の裏の水入れまで水の誘導穴が穿(うが)ってあるんですね。
つまり、表で普通に墓参りして、こっそり裏側の義士の墓参り出来る仕組みに成っているんです。
そして、毎年、旧正月頃に義士の子孫で集まって、葱のヌタを食べながら明治に至るまでヒッソリとこの義士の本当の話を語り継いだそうです。
そして、先に話した古文書や義士の遺骸が伝承通り、現代に成って出現した訳です。

ところで墓標の名前、これ、御寺では戒名とされていますが、小生の知識では、戦前の6人の名前以外の何物でも無いと思うのです。
嘯慶(天台宗の入道号)・道春(臨済宗の入道号)…右列

宗圓(曹洞宗の入道号)・是信(間宮家の通名が〇信、恐らく実名)…中列

賢栄・椿?(ソウorねぎorあおい)/椿葱(ソウorスoroねぎorあおい)or椿荵(ジンorニンorしのぶ)…椿葱…左列
これ、タイピングして解ったのですが、恐らく義士の事を話しながら葱を食べたのは、生前の義士の1人の名前?多分、生前の歌人か画家としての雅号が椿葱だった事に由来していると思います。
もっと言うと、ここに書かれていない玄蕃と言う人物の法名は酒井家由来の玄を使った入道号を文字って官途として偽装して後世に伝えていると思います。
そして全く御寺の伝承とは異なるのですが、椿葱は女性の名前だと思うんです。
つまり、椿(つばき)サンと葱(ネギ)とかいて葱(あおい)サン、これ、伝承で家に火を放って自決した間宮太郎兵衛さんの奥さんと娘さんじゃないかと思うんですよ。
そして是信は酒井さんの名とされていますが、これこそ太郎兵衛さんか新五郎さんの生前の本名だと思うんです。間宮家は〇信と言うのが一族で受け継いだ名前ですから。
例えば杉田間宮家だと間宮常信(別名信次)さん、本家間宮家だと間宮康信さん等、有名な活躍をした武将がいます。
逆に酒井家の通し字は❝敏❞❝房❞❝胤❞の字を持つ武将ばかりなので、やはり是信が酒井家の名とは考え難(にく)い訳です。
宗圓と言う名も在りますが、これは間宮家の武将は代々の入道号が宗〇で、例えば間宮家では間宮信盛公が宗三、一番有名な間宮康俊公は宗閑、神奈川宿に住んで居たのは間宮宗甫だったりします。
ですから、そもそも戒名ではなく、この墓石に掘られてる部分に関しては生前の名だと思います。
まぁ、これは学者の意見とも違うので、あくまで小生の推測ですが。
この御寺の墓所と本堂の間の参道が、昔の熊野神社の参道です。
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熊野神社が有るので、ここは小生の経験と知識から御住職にこんな質問をしてみました。
「この辺りは湧水地だったんですか?」
ドンピシャ。
この辺りの土地は1mちょい掘ると直ぐに綺麗な淡水が湧くそうです。
そして、御寺の庫裏の前に湧水の井戸を池にした場所に・・・
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なんと蛍が自生しているそうです!
クレソンも自生していて、御住職に「食べてみな!」と言われて食べてみたら辛くて美味しかったですよ。
綺麗な水辺にしか自生しない。子供の頃、神奈川県伊勢原市の延喜式内社、大山阿夫利神社の御神体の大山の麓の小川にクレソンを摘みにいっていたのを思い出しました。
多分、この善慶寺は西暦1200年代の日蓮宗としての開基でしょうが、それ以前からの前身に成った古寺が在ったのかも知れないですね。そして、熊野神社は更に古い湧水地の聖地だったのかも知れない。
実は日蓮宗の御寺は、日蓮宗に成る前に別の真言宗とかの寺院だった場所が多い歴史事実が有りますから。
そして古仏教に属する真言宗と天台宗と修験道は特に神仏共に崇拝する傾向の強い宗派なので、熊野神社の御寺として存在していたとしても不思議ではないですしね。
日蓮宗も日蓮上人以来、千葉神社の御祭神である妙見大菩薩=妙見神=北斗星=天皇家を守護神として崇めていらっしゃいますね。
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現在の御住職様は、「日本古来の自然を大切にする習慣も大切だ」と小生が何か言う前に小生と同じ考えを話してました。
全くその通りだと思います。
こう言う立派な神社と仏教が融合していた時代の、昔の天皇達の信仰を今に伝える御住職様の御寺だからこそ、都会の中でも蛍も安心して住めるのかも知れないですね。
因みに、蛍の季節には整理券を配って人数規制は有りますが、公開もしているそうです。今年は2千人超も見学に来られたそうです。

義士の御寺で思いがけず都会で大切にされる自然も目に出来て、そして一生の寶に成る古文書の写しも頂けた。
この御寺の歴代御住職や檀家さんが義士の歴史を三百数十年間ひっそりと伝え守って来て、御寺を神社を守り通した様に、小生も偉人の顕彰活動や、今は廃れている神社仏閣や歴史史跡の保護や復興に役に立てる様に動き回らないといけないな・・・
と思った1日でした。

とりあえず、間宮家の顕彰活動と、信長公の愛妻の生駒お類様の久昌寺を廃寺の危機から救える手立てを探して動き回ろう。