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タグ:地震


今天在日本国内发生了第二个日本人感染者。
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他根本没有去中国的经历,不过他开过武汉市民旅游团体的巴士。这次证明了人跟人会感染新型肺炎病毒。
我有个中国朋友告诉过我在中国有敌国阴谋论。
我是个日本人知道一个中国政府的坏习惯。发生问题的时候常常发动爱国运动或者“抗日活动”。让国民的关心与注意传给别的国家。
还有他们常常藏起来失败的事情或者腐败的事情。
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在日中国人批评武汉人旅客批评得厉害。可是批评武汉旅客的在日中国人他们买掉了在日本药房卖的所有口罩。
我觉得那些中国人的行为比逃到日本来了的武汉人思维差异不大。只考虑自己的事情。而且他们之内大部分不是为了对湖北捐赠而买的,而是看网络大家都会知道他们是为了转卖而占有了因该跟大家分享的口罩。以前奶粉的时候也是一样。
这是素质的问题。
我有个在中国生活的中国朋友们不会做那种事,可是一部分的人在日本还做这种事情。

已经不是中国一个国家的问题了。
可能以后中国的经济情况会变得不好,那个事情还会引起世界经济的混乱。

中国人先不要批评武汉市民好吗?
他们也是被害者。我认为中国人想批评他们是不对的,中国人因该考虑改变南方人的民俗。南方人吃野生,而且中国的医院比别的先进国家容易使用抗生素,这些习惯常常会生成新型病毒。
那么因该批评的不是人而是习惯。

已经入境日本国内的中国旅客不是非法行为而且他们也是我们的客人。在日中国人批评中国旅客的也只是考虑自己的事情而已。
我们日本人也会感染这次的肺炎病毒,
责任就在日本政府与中国政府。
新型肺炎在湖北开始扩大感染的时候中国政府对外国不共有了事实发生的情况。
日本政府也是不做了因该做的防疫准备,安倍首相的判断很慢。
责任就在日本政府与中国政府。不过在世界上没有完全的人,现在批评两个政府的失败也一点都没有好效果。
在我们两个国家发生的问题不仅是祖国的问题已经是扩大了全世界的问题的了。
还是跟两个政府与两个国民合作防疫才会控制感染病毒的速度。
我们日华互相帮助,共有情报,成功防疫吧!
那么我们目前因该一起考虑的是防疫上的问题与以后肯定中国国内的食粮与医疗物品的准备不够的问题吧。

如果这么很难解决的情况我们一起解决了,一定可以做更好的朋友了。
许多日本人已经觉悟了会有取消或者延期开今年七月的东京奥林匹克。
中国朋友们也要准备长期坚持防疫之战了。
后面还有日本的支援。一起对抗病毒。

这个问题解决后我想去南京常州常熟苏州台湾香港的朋友家吃饭。
那么一起加油吧!
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还有一个我个人的新闻。我的左脚感染细菌出来脓肿了。好痛。

晚安,中国朋友们。
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この間、小田原城の記事を書きましたが…
小田原城には江戸時代、大地震で天守閣が傾いた歴史が有ったりします。
大正時代にも神奈川は皆さん御存知の「関東大震災」が起きました。
関東地方全体では105,000人弱が死亡したこの大地震、神奈川県では約3万人超の方が亡くなりました。
大地震発生した時に水の確保?する準備出来てますか?
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横浜市には富士山系の水脈の湧水が沢山有り、昔は飲み水にされていました…
その水源を2ヵ所、この記事の最後に紹介しますね!
何故この話をするかは、以下に書いてみますので、ゆっくり読んで見て下さい。

最近、地震や噴火、本当に多いですね?
と、言うかここ数百年が偶々(たまたま)地震や噴火が少なく気温が低めだっただけでしょうかね~?

さて…
地震が起きると一番怖いのは建築物の崩壊よりも建築物密集地の火災です。
横浜市の様な市街地で火災が起きるとどうなるか、実は江戸時代の文献を読むと良く解ります。
都市型大火災の説明を江戸時代の火災記録で行う前に…

大地震起きて都市壊滅したら一番困る事って何かって「通信」とか直接命の関わらない事じゃなくて「水」の確保なんですよね。
これは関東大震災を経験した祖母からも聞いた事です。
そして、井戸がほぼ使われなくなり大正時代より水道の普及した現代は、もし大震災で都市が壊滅したら前回の関東大震災より更に困る事に成るでしょうね?
水道管は破裂し、水道からは水が出なくなります

火災を消火出来ない。
飲み水も無い。
水洗トイレしか無いからトイレが使用不能に成り「野糞」するしかないのにアスファルトで固められた地面には簡易トイレも掘る事が出来ない、だから感染性腸炎なんかの病気が流行する。
その中でも飲み水が無いのが一番深刻な問題に成りますね。

横浜市は明治~大正時代に全国でも先駆けて水道網が整備されていた都市の一つです。
その弊害で、老朽化した煉瓦製や陶器製の水道管が使われている地域も少なくなく

前の横浜市長の中田サンは優秀な政治家だったので、この歴史事実を把握しており、中田市長の時代から横浜市は水道管を耐震の物に取り換える事業を開始しています。
しかし、それ以前は市内で水道管が破裂し数十mの高さに水道水が噴出する事もたまに有りました。
これには横浜市の給水施設と地形が関連しています。
円海山の配水施設
横浜市南部は水道水の供給を、円海山と言う山の配水施設から行(おこな)っています。
小生のブログで何回か紹介している円海山は蛍が見れる水源が有るだけでなく、山頂は標高が300m超あり関東平野南部に位置する横浜市内で一番高い場所でもあります。
そこから高低差を利用し、サイフォンの原理で市内に水道水を供給する施設が有ります。
その水は山梨県を経由し丹沢山系から注ぐ相模川から給水し、鎌倉市と横浜市の市境近く戸塚区の小雀浄水場で処理されています。

この円海山からの水圧に、横浜市内、特に山から一気に水が駆け下ってきて最初に標高が一番低い場所の水道管にブチ当たる磯子区では古い水道管が水圧に耐えれず、過去に磯子駅前の水道管が破裂し隣りの商業ビルよりも高く水道水が巨大噴水の如(ごと)く吹き上がってしまった事も有りました(笑)。
ですから、直下型大地震が横浜市を直撃すれば至る所で水道管が大噴水化する懸念が有り、中田市長の政策は市長が代替わりした現在でも受け継がれている訳です。

さて、いくら水道管を交換しても、きっと何処(どこ)かで破裂するでしょうね。
絶対に水道水が来ない地域も出てくる訳です。
先述の通り火災を消火出来ず、崩落した建築物の粉塵を抑える散水も出来ない訳です。
関東大震災の時、横浜市の旧中心部の関内地区では壊滅した市街地の瓦礫を海に集めて沿岸部を埋め立て、次の大地震に備えて火災からの非難施設を建造しました…
山下町周辺
それが上の衛星写真右上の山下公園です。
繰り返しますが、ここは関東大震災の瓦礫で作られた先人が我々子孫に残して下さった震災発生時の避難所なんです。
写真の中に横浜スタジアムも写っていますが…
横浜スタジアム周辺の公園は「横浜公園」と言う公園です。
ここは近代日本初の西洋式公営公園でして、元々は幕末に外国人向けの港崎遊郭と言う遊郭(ゆうかく=売春する料亭)の密集地帯でした。
豚屋火事と呼ばれる大火災が発生し多くの遊女が犠牲に成った場所でもありました。
そこに明治政府が公園兼災害時の避難場を設けるべく、リチャード・ブラントンさんと言うスコットランド人の土木設計技師に依頼し建設されました。
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この写真に見える一帯が全て港崎遊郭でした。
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因みに、すぐ横に在る首都高速横羽線の山下公園入口が有りますが、この首都高横羽線が走っているトンネルが昔は掘割(ほりわり=水掘り)でした。
その掘割の海岸側を関内と呼び、幕末ここに関所があり内側が外国人居留地に成っていました。
つまり、港崎遊郭は関内=外国人居留地に在った訳です。ここには日本初の西洋式ホテル「横浜ホテル」も在りました。
横浜中華街は関内で最初に埋め立てられた場所でもあります。
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丁度(ちょうど)、豚屋火事の話題に触れたので、都市型の建築物密集地で大火災が発生するとどうなるか…
次は、そちらを説明したいと思います。
江戸時代、実は江戸の町は数回の大火災に遭(あ)い、大量の死傷者を出しました。
この横浜の豚屋火事でも沢山の人が亡くなったそうです。
当時の文献を読むと…
例えば「明暦の大火」と現代人は教わる「振袖火事」と言う大火災が有ります。
この火事は元々は、その振袖を着た町娘が次々と急逝するので、最後の振袖のオーナーの親が娘の供養の為に呪われた振袖を御寺で「御炊き上げ(おたきあげ=宗教的に焼却)」して貰おうとした所、その火の付いた呪いの振袖が強風で飛散してしまい江戸中を焼き尽くしてしまいました。
この火の勢いは凄まじく、江戸城の天守閣もその時に消失しました。
この時、川向こうへ逃げようとしても逃げる場所も無く炎に焼き殺される人が続出しましたが…
更に怖いのは、空き地に逃げた人も焼け死んだんです。

都市で大火災が起きると、熱風で吹き上げれた火柱が集まり炎の竜巻が起きるそうです。
その炎の竜巻が空き地の隣接する類焼地帯から上空を跨(また)いで襲って来て、空き地に逃げ込んで密集している人々を生きたまま火炙りにしてしまうそうです。
だからこそ、現代の都市計画は幹線道路の道幅を広くとり、類焼するスピードを遅らせようとしている訳です。

さてさて…
大震災が発生すると大火災も発生する訳ですが、大正時代と異なりオフィス街に木造建築物は少なく前回の関東大震災程には火災で死傷する人はいないでしょう。
…とは言っても被害は大きいし、水道管が使い物に成らないと飲み水も無く災害用の備蓄(びちく)飲料水も数日間しかもたないでしょう。
実は大正の関東大震災で水道水の供給が止まった際に、横浜の人々を救ったのが冒頭で写真を掲載した場所の湧水なんです。

「打越の霊泉」と言います。
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この打越の霊泉に行くには近くにある「打越橋」と言う鉄橋を目標にして下さい。
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この鉄橋の少し手前に打越の霊泉が在ります。
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現代の志(こころざ)し高い地元町内会長さんが石碑にも残し、後世に伝えて下さっていますが横浜市民にも知っている人は少ないでしょう。
ここにはJR元町駅から徒歩で行けますし、みなとみらい線の中華街元町駅からでも行けない事はありません。
水を汲みに行きたいなら運搬するでしょうから車をすすめます(笑)。
関東大震災で水道管が使い物に成らなくなって給水出来なくなった時、関内や元町周辺の人々はこの湧水の御蔭でインフラ復旧まで持ち堪(こた)えれたそうです。
関内は埋め立て地「吉田新田」の一部ですからね…井戸掘ると海水しか出なかったんですよ。

ここと、近所の中区本牧側、下の写真ワシン坂にも「ワシン坂の霊水」が在ります。
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ワシン坂一帯の丘は、ジブリ映画「コクリコ坂」のモデルに成った場所でもあります。
観光地「港の見える丘公園」も徒歩圏内です。

実はこの2ヶ所の霊水、両方とも富士山系水脈のバナジウム天然水で腐り憎く良質な軟水で、その長期保存が効く性質から幕末に横浜が開港されると、外国船に飲料水として補給されていました。
現代では付近が開発され、ビル建設の基礎工事などで水質が安定せず、飲用を推奨出来ない水源と管理上便宜的に看板が有りますが…
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小生はこの水を以前、汲んでよく家で御茶を淹(い)れていました。
この水は美味しく、煎茶を淹れるのに適しています!御茶に甘みが増すんですよ!
特に民主党政権時代の2011年03月11日に当時の無能な菅直人内閣と枝野官房長官が福島原発の放射能飛散に対応しきれず対応が遅れた時期、小生は水道水の安全性が確認されるまでワシン坂の霊水をタンクに汲んで持ち帰り、煮沸してから飲用としていました。
関係ないですけれど、この本牧半島地域を江戸時代に本牧奉行として治めたのが、笹下城主間宮家の子孫の笹下間宮直元公とその御子孫でした。
※打越の霊泉とワシン坂の霊水を飲んでみたい人は、自己責任でどうぞ(笑)。

この水脈を利用して日本初の麦酒(ビール)醸造所として開かれたのが今の中区の横浜市立北方小学校の敷地一帯に建設された「スプリングバレーブルワリー」でした。
このスプリングバレーブルワリーの創業者はウィリアム・コープランドさんで、ノルウェー系アメリカ人でした。
コープランドさんは晩年余り幸せでは無く、その後、彼の事業を引き継いだのが、三菱財閥とその創始者の岩崎弥太郎でした。
余談ですが…
キリンビールのロゴの「麒麟」は「龍」と「馬」を足した様(よう)な架空の動物ですよね?
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何でこのデザインにしたかってのは有名な話で、麒麟麦酒の出資者の岩崎弥太郎とグラバーさんが共通の友人だった「坂本龍馬」サンをリスペクトして後世に偉業を伝える為に麒麟をデザイン化したと伝わっていますが…
実は神奈川県、坂本龍馬先生と所縁が有ります。
奥さんの「お龍サン」の「終の棲家(ついのすみか)」は、横須賀市でした。
お龍さんが龍馬さんに先立たれ未亡人に成ってから働いていたのが、京浜急行神奈川駅の近くに現在も営業している料亭「田中家」でした。
その京急神奈川駅の目の前に「神奈川台場」と言う砲台を設計したのが、龍馬サンの師匠の勝海舟先生でした。
今回の記事で紹介した麒麟麦酒の創業地と、2ヶ所の湧水や山下公園の位置関係はこんな感じ…
水源と周辺位置関係

話が脱線しましたが…
買える水は直ぐに備蓄が尽きますよ?
皆さん、先人の教訓を活用する為にも少し歴史を調べて、御近所で飲用出来る湧水を知っておくのも何かの助けに成るかもしれませんよ?
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横浜市金沢区富岡八幡宮と言う神社が在(あ)りますが、東京にも大きな富岡八幡宮が在りますよね?
でも、この金沢区の富岡八幡宮が最初の富岡八幡宮なんです。
征夷大将軍源頼朝公が、今の兵庫県の有名な西宮神社から商売と海の神様の蛭子(えびす)神=恵比寿様=戎神を勧進(かんじん)=分霊して頂き御迎えしたのが始まりなんです。
源頼朝公の御先祖様で鎮守府将軍を務めた源頼義公が現在の鎌倉市中心部(旧:鎌倉郡材木座)に鶴岡八幡宮の前身と成った元鶴岡八幡宮(由比若宮)を開き、源義家公が御父上頼義公と同じく武蔵国荏原郡(現:東京都世田谷区)に世田谷八幡宮を開いた故事に倣(なら)い、源頼朝公が金沢区富岡(旧:久良岐郡富岡)に今の兵庫県の西宮神社から蛭子様を勧進して神社を開いて、後の八幡神を合祀し富岡八幡宮が成立したんですね。
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上の写真が世田谷八幡宮です。東京都江東区の富岡八幡宮と並び江戸三大大相撲発祥地の一つです。

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これ以前に書いた世田谷八幡宮の紹介記事です、興味の有る人は参考に御覧頂ければ幸いです。
そもそも東京の富岡八幡宮は江戸時代に、鎌倉時代の源頼朝公が開いた横浜市金沢区の富岡八幡宮から御分霊を頂き開かれた神社でしたが、後から東京に富岡八幡宮が開かれたのにはちゃんと理由が有ります。
 それは金沢区富岡の富岡八幡宮が自然災害から多くの人命を救った歴史が関係しています。
東京の富岡八幡宮が在る辺りは0海抜地帯なんです。0海抜と言うのは土地の高さが海面と同じか、それ以下の標高に在り河川や運河の堤防が決壊すると瞬く間に水没する水害危険地域なんです。
それもそのはずで、江戸時代初期まで深川界隈は海の中だったんですよ。
それを江戸時代に干拓されて次第に埋立地が広がり人が住む様に成って現在の深川の下町が形成されて行った訳です。今でも海抜より標高が低く、水害の怖い地域だったりします。
富岡八幡宮周辺色別標高図 国土地理院×Googleearth×久良岐のよし
上の画像は標高の低い程土地が青く表示される国土地理院の地図をGoogleearthに重ね小生が登録した地点を表示した画像です。
これを見ると東京の富岡八幡宮を中心とした深川界隈が0海抜で江戸の町人にとって度々多くの人を焼き殺した大火事の他に津波や高波や大雨が恐怖の対象だった事が判りますね。
小生は間宮林蔵公の祖先の間宮家の顕彰活動をしており、偶然、江東区立図書館さんや江東区教育委員会、そして間宮林蔵公の菩提寺本立院、それと安土桃山時代の徳川家康公の参謀の一人で江戸幕府初代鷹匠頭の間宮信繁公の姫様が久能山東照宮の初代宮司榊原照久公に嫁ぎ、江戸屋敷だった越中島に住んでいた歴史を取材した際この地形も写真撮影し散歩して体感してきました。
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そんな深川界隈は津波や高潮の危険にさらされている町な訳ですが、津波から大昔に多くの人命を守ったのが現在は横浜市金沢区に当たる旧久良岐郡の富岡に源頼朝公が開いた富岡八幡宮の恵比寿神様と八幡大菩薩=八幡大神=応神天皇=誉田別命=大鞆別命の神様の水の神様としての御神威と、頼朝公の分析力でした。
その波除けの御神威に授かろうと江戸時代に横浜市金沢区の富岡八幡宮の御分霊を勧進して開かれたのが、昨今、取り上げられる事の多い東京都江東区の深川八幡宮です。
最近、地震津波の話題をマスコミで目にする機会も多いですが、横浜の富岡八幡宮は別名「波除け八幡」と呼ばれ津波や地震に関係が有ります。
今回はその異名「波除け八幡」の由来と鳴った歴史と地形を解説したいと思います。
その由来は金沢区の頼朝公が開いた富岡八幡宮ですが先(ま)ずはこの頼朝公が開いた富岡八幡宮の地形を御覧下さい。・・・
写真左上に池が有りますが、実は昭和の中期まで海でした。
荒波が富岡八幡宮の山を洗っていたんですね。

もう一度、参道の写真を御覧下さい。
いきなり階段ですよね?
昔は、海岸の横のだいぶ急な岩壁を持つ丘の上に造営された神社だったんですよ。
この付近の海は現代では埋め立てられてしまいましたが、昔は鮑や海鼠(なまこ)が豊富に採(と)れた海でした。
江戸時代は近くの屏風ヶ浦と言う海の海鼠が最高級品として中国:清帝国に輸出されたそうです。
また付近の小柴漁港は現代でもTVに度々紹介されますが、江戸時代から「小柴のシャコ」が名物として、江戸から「杉田の梅林」を見学に来る観光客に有名でした。
昔は観光客で賑わい海産物の豊かな海だったそうです。
その海の豊穣を願う意味で海の神様の蛭子様を勧進したのでしょうね。
そして…
海岸の丘の上、この場所が選ばれたのは頼朝公は海の安寧も願ったからでしょう。
つまり高潮や津波で領地が被害を受けない願いを込めて社殿を造営したんでしょうね。

頼朝公は鎌倉幕府開府に差し当たり、地震や津波が鎌倉付近で発生するような悪い予感でも有ったんでしょうか?
多分、神社の神様は信仰しながら仮に津波が来襲はしても被害を受けない場所、且つ、それより高い波は来ないでくれみたいな願いを込めて、この神社を造営したんだと思います。

小生、良く使う画像ですが…
昔の神話の縄文〜弥生時代、日本は今より海面が高い位置にあり陸地は狭かったんです。
頼朝公の時代より海はだいぶ内陸まで来てました。だから、津波が来れば耕作地は今より被害を受ける訳です。

頼朝公は古い家系の武家ですし、早くから関東を開拓した橘氏や紀氏、坂東平氏の武将達から昔の869年に起きた貞観地震の時に津波がどれくらいの高さまで来たか聞いていたのかも知れませんね。

頼朝公が造営した本殿と違いますが、現代の本殿の写真を…
果たして頼朝公に予感が有ったかは分かりませんが、頼朝公が世を去ってから114年後の1311年、応長の大津波が関東南部に来襲しました。

その際、富岡八幡宮の蛭子神様が頼朝公の願いを聞き届けたかの様に大津波は富岡八幡宮の海岸丘陵に阻まれ砕け散り、富岡八幡宮より内側の村々は被害を免れたそうです。
…頼朝公は分析力が優れていたんですね。

その逸話から、江戸時代、深川に富岡八幡宮が勧進され江戸を高潮や津波から守る神様、商売の神様として信仰を集めたんですね。

もしかしたら…
関東で一番、人命を守った御利益を持つ神社が金沢区の富岡八幡宮なのかも知れないですね。

現代では横浜金沢七福神巡りの一箇所としても御朱印を頂ける神社です。
可愛いでしょ?
そして、社務所横の待合所には所蔵されている文化財も見学できますよ!
撮影するのは如何かと思い、今回は境内に有る文化財の説明看板の写真を載せますね!

この頼朝公の開いた八幡様は、頼朝公が古代人から受け継いだかも知れない津波の記憶を今に伝える場所でもあるんですよ…
…これ以下、神社より低い海辺に住むなよ!って鎌倉武士の更に祖先達からの想いの遺産でもある訳です。

では皆さん、又、次のブログでお会いしましょう!

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