歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:坂本龍馬

この⤴️KIRIN午後の紅茶の広告動画の風景は熊本県阿蘇地方。
長閑(のどか)な田舎、阿蘇都彦と阿蘇都姫の縁結びの夫婦神、阿蘇神話の聖地。
熊本大地震の被災地、このCMでロケハンされた南阿蘇鉄道は未(いま)だ全線復旧なされておらず震災の爪痕が残る中の完結編撮影と成った。
KIRINは横浜市中区北方発祥の麒麟麦酒(キリンビール)の事だが、奇(く)しくも南阿蘇ロケでの午後の紅茶CMで主演した上白石萌歌サンは・・・
L♡DK
・・・今公開中の映画LDKは主演女優の上白石萌音サンの実妹だったりする。映画LDKのロケ地は横浜市中区。午後の紅茶の麒麟麦酒(現:キリンビバレッジ株式会社)の創業地も中区。
2015-07-29-11-22-13
キリン公園
※小生のブログは紹介する所の住所をクリックするとGoogleMapで場所を確認出来ます。
2015-07-29-11-23-07

2015-07-29-11-23-01
麒麟麦酒の前身と成ったスプリングバレー・ブルワリーを創業し日本のビール醸造技術確立に貢献し世界的飲料ブランドの礎(いしずえ)を築いたコープランドさんは日本人の奥さんと伴(とも)に、今は元町~中華街~ミナト未来21地区を見下ろす山手の外人墓地から横浜市民を見守って下さっている。
DSC_1848
外国人墓地
このコープランドさんの眠る外人墓地の周りがLDKのロケの中心地に成っている。
L♡DKの物語はヒロインの西森葵と彼氏の久我山柊聖(しゅうせい)と従兄弟の久我山玲苑(れおん)の三角関係で進行する。高校生カップルが清い同棲(笑)?をしている所に
柊聖の従兄弟の玲苑が無理矢理同居を始めて三角関係に成って行くのだが・・・
DSC_1790
えの木てい
映画で柊聖が同棲の家計の為にアルバイトしてる店。童話に出て来そうな可愛い建物だけど、この建物自体が西洋古民家で横浜市の文化財指定を受けている。実際に店内も可愛くてケーキも美味しい♪
そのアルバイト先から背景で見切れている建物が・・・
DSC_1796
山手234番館
ここも前横浜市長の高秀サンが文化財指定して保護し、今は観光客に無料公開されている建物。ここもとても可愛らしい建物で中を無料で見学出来るので聖地巡りついでに行くと良い。
この先の港見える丘公園の中に葵と柊聖達の通学路としてロケハンされた場所が在(あ)る。
DSC_1948
神奈川の橋100選の一つ12番目の名橋で、大仏次郎記念館の横に在(あ)る。
CIMG7219
港の見える丘公園
だから大仏次郎記念館も映画中の通学シーンで見切れている。
DSC_1921
大佛次郎記念館
この大佛次郎記念館や霧笛橋の在る港の見える丘公園は景色も良くてベイブリッジを見渡す事が出来る。
CIMG7220
でもこの風景は映画には登場していない。映画で主人公達がイチャつく場所は・・・
image
大さん橋(国際客船ターミナル)
この大桟橋の入口、通称:象の鼻は近代に建設された西洋式波止場で、その周りがロケ地に成っている。
DSC_2678
その象の鼻の目の前の象の鼻パークと呼ばれる綺麗な公園で、ここを含めた一帯は江戸幕府が幕末に設けた税関“神奈川運上所”の跡地でもある。
ペリー神奈川上陸
ペリー提督上陸図、この風景の海を大正時代に関東大震災で火災発生時に多くの人が亡くなった経験を活かして、関東大震災で倒壊した建物の瓦礫で埋立てて大災害発生時の避難場所として作られたのが絵図右側辺りに建設された“山下公園”で、絵の左半分辺りに神奈川運上所が建設された。
右の神社は鎌倉時代に源頼朝公が勧請(かんじょう:神仏の御分霊を祀る事)した弁天社で、幕末の外国人居留地建設で伊勢佐木長者町と元町に分祀され二つの厳島神社として今も存続している。木は玉楠(たまくす)の樹で、今も同じ場所に存在している。
その場所は現在の開港資料館・・・
2015-08-01-14-04-43
横浜開港資料館(旧:英国領事館)
旧英国公使館の横浜開港資料館庭に在る大樹はペリー提督が見た玉楠の樹の二代目だが同じ場所に立ち横浜の歴史を見守ってくれている。
ペリー提督
ペリーさん、嘉永六年(1854年)つまり165年前に横浜に来た時に、まさか自分が上陸した横浜半島(横浜市の地名由来の関内に在った半島)や滞在した元町一帯が高校生カップルがイチャつく映画のロケ地に成るとは思いもしなかっただろうなぁ~(笑)。
この玉楠の目の前に存在した神奈川運上所跡は今では神奈川県庁舎と象の鼻パークに姿を変えた。
2015-08-01-13-52-51
KING(神奈川県庁)
昨年まで神奈川県庁は公開されていたが黒岩知事が非公開にしてしまった。この神奈川県庁は横浜三塔と呼ばれるキング・クイーン・ジャックの中のキングと呼ばれる文化財指定を受けている建物で、昔は船乗り達から港で船の上から三塔を一度に見えたら幸運が訪れると言われた場所だった。
2015-08-05-14-47-45
以前は公開日に自由に立ち入り出来た神奈川県庁の屋上は横浜市民も余り知らない隠れた横浜港ビュースポットで、イギリス波止場が元に成っている大桟橋と❝像の鼻❞の異名の謂(いわ)れと成ったメリケン波止場と赤レンガ倉庫とベイブリッジが一望出来た。
県庁舎~海までが昔の神奈川運上所跡で、海側は現在の像の鼻パークに成っている。
DSC_2677
昼と夜とでは景色が違って見える。
CIMG4560
象の鼻パーク
LDK映画版の作中、その象の鼻パークの夜景を見渡せる場所に置かれたベンチで主演の二人は寄り添うのだが、そのベンチは上の写真の陸橋遊歩道の橋脚の横に置かれてロケされていた。
実はこのロケ地の陸橋は我が国初代の総理大臣である伊藤博文公の明治新政府の都市計画で整備された貨物列車輸送網の車輛基地へと続く線路跡で、元々はSL=蒸気機関車の貨物用軌道(きどう:線路)として30年位前まで現役で活躍し横浜市の開港記念日にはSLや記念列車が走っていた。
そんな訳で横浜の像の鼻パークは近代の史跡でもある。
伊藤博文公
この一帯は幕末の日本鎖国政策終焉の舞台の一つである横浜の中でもピンポイントで外国人居留地や外国の商会が立ち並んでいた場所なので、映画版LDKでヒロインの西森葵と主人公の久我山柊聖(しゅうせい)と従兄弟の久我山玲苑(れおん)の生活圏や通学路としてロケハンされている辺りも当然ながら幕末~近代に明治の歴史偉人が多く関わっていた所が多く成る。
例えばヒロイン西森葵と、葵の彼氏の柊聖の従兄弟の玲苑が一緒に服を選ぶシーンは元町のRUKAと言う店で撮影されたが・・・
CIMG8933
RUKA
このRUKAの在る元町商店街は幕末当時は外国人居留地だったので新選組の土方歳三サンと佐藤彦五郎サンが近代兵器の買付けに来た場所でも有る。
そして少し離れて幕末に坂本龍馬サンの師匠の勝海舟サンや明治時代に伊藤博文公等の元勲や海軍軍人が関わった神奈川台場跡と神奈川宿場が隣町の神奈川駅近くに在る。
勝海舟
実は神奈川台場は勝海舟さんの設計で建設された海上要塞だった。
関内~元町~山手~根岸が外国人居留地に成る以前、外国大使館が置かれていたのが現在の京急神奈川駅~横浜駅前の東海道神奈川宿の宿場だった丘の周辺だった。しかし神奈川宿を外国人に占拠されると江戸城の防衛にも支障が出る上に外国人の安全確保と密売抑止を十分に出来ないので、防衛上の都合と外国人の出入管理の都合も有って水堀に囲まれ関所の設けられていた関内地区に外国人居留地が移された。その際に外国人居留地の港である横浜港(山下公園)に停泊する外国籍軍艦をいつでも攻撃出来る威嚇の意味と東海道の要所である神奈川宿を守る為(ため)に現在の横浜中央卸売市場辺りに勝海舟さんの設計で神奈川台場が建設された。
その神奈川台場の近所には・・・
坂本龍馬先生
勝海舟さんの関係からか、弟子の坂本龍馬サンが暗殺され未亡人と成っていた“お龍さん”が近所生活していた時期も有った。
坂本龍子(お龍)さん
お龍サンは未亡人に成ってから神奈川台場の近所、現在の神奈川区台町に今も営業している田中家と言う料亭で住み込みで働いていたそうだ。
その、お龍サンも住んでいた横浜の旧中心街の山裾一帯がLDKのロケ地で、午後の紅茶のKIRINの創業地でもあり、KIRINを大企業に育てた三菱財閥初代総帥の岩崎弥太郎サンとフリーメイソンのグラバーさんは坂本龍馬サンの盟友であり支援者だった。
岩崎弥太郎グラバー
坂本龍馬サンは今の日本の民主主義と近代化の立役者で、アジアの歴史から見て孫文先生に等しい偉業を成し遂げた歴史偉人だ。
134722797166213217380_glover2
その坂本龍馬サンをリスペクトして岩崎弥太郎サンとグラバーさんが麒麟麦酒のロゴにしたのが聖獣である“麒麟=龍馬”だった。
そんなKIRINが熊本大地震の復興に一役買おうとCMのロケ地に再び選んだのが、午後の紅茶のCMでロケハンされた南阿蘇鉄道の未復旧区間な訳だ。
何とも武蔵国気質の企業らしい粋(いき)な計(はか)らいじゃないか!
そして横浜所縁(ゆかり)のKIRINの熊本復興CMでテーマソングを歌い主演した上白石萌歌サンの実姉が、LDKで主演の上白石萌音サンで作中に登場するのがKIRINやお龍サンに所縁の深い山手~元町~山下公園~大さん橋一帯の近代横浜中心の旧市街な訳だ。
LDKロケ地辺りは幕末から外国人居留地だったのでキリンビール発祥地以外にも“日本初の場所”も周りには多い。
アイスクリン・石鹸・ガス灯・・・
DSC_2712
港三号橋梁
新橋駅~初代横浜駅の日本鉄道創業地の跡に在る桜木町駅~ランドマークタワー一帯から更に先に延びる貨物列車の線路跡・・・
DSC_2686
赤レンガ倉庫 旧横浜港駅前の鉄道軌道
・・・明治時代の貨物列車終着駅である赤レンガ倉庫と新港埠頭跡の軌道。
CIMG8899
かおり
日本初の西洋式ホテルのヨコハマホテル創業地、French Restaurantかおり。
2015-08-05-19-56-54
❝かおり❞は今はレストランとしては営業していないが喫茶店としては存続していて、昔はレーズンサンドと言えば北海道の某店では無く横浜かおりのレーズンサンドが生粋のハマっ子や東京人には有名だった・・・
2015-08-05-15-59-38
横浜ユーラシア文化館(旧:横浜市外電話局)
電話交換システム創業地に立つ旧横浜市外電話局のビル外観だけ保存された横浜ユーラシア文化館。
CIMG2749
横浜公園
日本初の西洋式公園の横浜公園と公園内に立つ横浜スタジアム。
2015-08-05-16-00-49
消防救急発祥之地(地下貯水槽遺構)日本初の近代西洋式防火施設の遺構も発掘し道端で公開されている。
2015-08-05-16-00-35
かおりの直ぐ近く。
元町~山手のLDKロケ地周辺に移動しても❝キリン公園❞の他にもデートにも歴史散策にも適した❝日本初❞が幾つも有るので、散歩していて飽きない。
DSC_1673
ウチキパン
日本初のパン屋さん、明治21年開業のウチキパン。既に営業130年超!よくカップルがクッキーとかをデートの記念に買って帰ってる。芸能人もよくパンを買いに来るそうだが、小生の知る限り不倫暴露された斉藤由貴サンが隣町の南区南陵高校(旧:清水ヶ丘高校)出身で今でも良く買いに来ているらしい。
DSC_1681
元町公園
元町公園は西洋塗装技術の発祥地。ウチキパンやRUKAを廻(まわ)ってから元町公園右手の階段を登って上まで行くとロケ地の❝えの木てい❞や❝港の見える丘公園❞に行ける。その途中にはエリスマン邸やベーリックホール等の近代建築の洋館が無料で公開されている。と~っても雰囲気の良い道でカップルが良くデートコースに選んでいる落ち着いた気持ちの良い場所。
中には自然湧水のプールもあるけれどプール発祥地は長野県の蓼科温泉郷だったりするので横浜じゃない。この水源の水を幕末~近代には船に販売補給していた。
・・・で丘の上に行くと❝えの木てい❞の直ぐ近くには凄く雰囲気の良い❝日本最古創設のプロテスタント教会❞である横浜山手聖公会も在る。
CIMG7186
横浜山手聖公会
image
運が良ければ週末に中を見学させて貰える。幕末に山手の本牧山妙香寺に駐留した英国軍兵士達の精神安定とモラル維持の為に建設されたのが始まり。
元町と山の反対側に行くとキリン公園が在り、その近くにも❝日本初❞がいくつか在る。
2015-07-29-12-29-33
本牧山 妙香寺
本牧山妙香寺は日本の吹奏楽発祥地。この御寺の旧境内地に当たる山手公園に幕末にイギリス軍が駐屯していて、そこに薩摩藩の武士達が吹奏楽を習いに通っていた。そしてここで英国のフェントン軍楽団長の提案と作曲によって日本国家として❝君が代❞が作られ、詩は薩摩藩士だった大山巌サンが選定した。更に後にドイツ帝国と日本帝国陸軍が親密に成るとドイツのエッケルト先生によって現在の曲調に編曲された。
生粋の横浜市民であるハマっ子は、この歴史を知っているので君が代が日本と友邦の平和を日本人と欧米諸外国の人々によって生み出された事を知っている。
フェントン軍楽団長を始めとした英国人と、エッケルト先生やメッケルさん等のドイツ人や、ヴェルニー技師を始めとしたフランス人等の協力で日本が工業も文化も軍事も近代化を成功出来た歴史史跡が観光地として横浜や神奈川県内には沢山残っている。
特に英国が造船技術を技術移転して下さった事は現在、日本がロシアの植民地に成っていない歴史に一番大きな恩を残してくれた訳だ。
少し横浜から離れるが横須賀にも近代の英国と関係が有る場所が在る。
DSC_3585
三笠公園
横須賀の三笠公園に展示されている世界三大旗艦の一つ戦艦三笠は東郷平八郎元帥がロシア帝国を打ち破り日本と周辺諸国のロシア植民地化阻止に活躍した対馬海戦の旗艦だが、この三笠も英国で建造されて日本に船の整備技術が供与されたし、東郷元帥も英国に留学して近代海軍の戦術を学ばせて貰っているし、英国がロシアの補給を妨害してくれた御陰で日本は有利に成った。つまり日本人だけで勝ったんじゃなくて世界の応援が有って日本は存続出来た訳だ。ついでに言えばアメリカ海軍のペリー提督が横浜にいた時に日本人を高評価して本国に報告して下さった事も欧米が日本の近代化に投資して下さった一因。これはペリーさんの日誌を翻訳した物を横浜の有隣堂が販売しており小生は学生時代に既に知っていた。
話しをLDKと午後の紅茶のキリンビバレッジに関係の深い山手に戻す。
2015-07-29-12-38-34
山手公園
吹奏楽の発祥地の妙香寺の一部だった山手公園は幕末から英国軍が居たり、周辺が外国人居留地に定められたのでテニスの発祥地にも成った。
2015-07-29-12-43-53
テニス発祥記念館では各時代のテニスの様子を無料で見学する事が出来る。
2015-07-29-12-47-44
この英国式の東屋(あずまや)は復元された物だが、ここで日本で最初に吹奏楽が演奏された。
ついでに言えばフリーメイソンの日本初のロッジも、この山手公園に在った。
因(ちな)みに君が代が最初に演奏されたのは東京都江東区の越中島。
DSC_1415
ここに越中守 榊原照清公の屋敷が江戸時代初期にあり、横浜市を治めた本牧奉行間宮家の分家の杉田間宮家の間宮信繁公の御姫様が照清公の母君だった。間宮信繁公は江戸幕府の初代鷹匠頭で、榊原照清公の父上の榊原照久公は久能山東照宮の初代大宮司だった。
その屋敷跡が幕末に江戸幕府がフランス式の軍隊を編成した際に砲撃訓練場に成っていたので、明治に入りそこで明治天皇の御前で軍楽隊が君が代を国家として最初に演奏したらしい。

まぁ~他にも日本初を挙げらたキリが無いしLDKや午後の紅茶CMや❝横浜発~日本最初❞と関係する場所も多く成るが、他にも現代日本人が食べている西洋種の野菜の大半は幕末の神奈川奉行所が外国人から西洋の野菜の種子を分けて貰って日本の気候に適した品種を実験的に栽培してから日本全土に拡散して行ったので本来は❝ヨコハマ野菜❞と言われていた。
そんな場所で外国人も多かったので国際郵便の発祥地も横浜で今の港郵便局がその場所だったりする。
そんな歴史とオシャレな洋館や可愛い西洋菓子屋さんを沢山回れるのがLDKロケ地、そして奇しくも横浜と上白石姉妹の主演と歌と岩崎弥太郎サンとグラバーさんと坂本龍馬サンとフリーメイソンで共通点が重なっているのが❝映画L💛DK❞と❝KIRIN午後の紅茶CM❞で、その御縁で午後の紅茶のCMで熊本復興の願いも込めてロケ地に選ばれた熊本県南阿蘇地方と熊本大地震の復興の話題にも触れて見た。
DCF_0374
熊本城が完全に修復されるのは20年後位だそうだ。その頃はこの記事を読んだ人は皆どんな人生を歩んで年を経(へ)ているんだろう?
今年も熊本大地震復興祈願に東京都羽村市の阿蘇神社に祈祷をして貰いに参拝しようと思う。
羽村市も、もう直ぐチューリップ祭りの季節だしね!
CIMG3454
熊本や東北の人達が、亡くなった人達の分まで震災前より幸せに成れます様に今年も御参りに行こう。

映画LDKも横浜観光も、デートでも楽しめるし歴史散策としても楽しいので是非、映画館にも横浜元町~山下公園界隈にもお出掛け下さい~🎵
最後に南阿蘇でロケされたKIRIN午後の紅茶CM全部張り付けて置きます~♪




今回、多目元忠公の記事をリニューアルするに当たり余りにも膨大な情報量に成ったので、今回はユックリと記事を三部に分けて解説をしたいと思います。
①北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
今回の記事⤴

今後追記予定の記事2部⤵
②多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説。
③多目元忠公は大活躍したのに子孫と思われる一族の禄高が低く抑えられている原因の推理。

そして、未訪問の三ッ沢に在る多目家菩提寺の豊顕寺さんの紹介記事もいずれ書きたいなと思います。

さて、では今回は多目元忠公の基本的な情報と当時の北条家の状況の解説、居城青木城と青木城前身の権現山城の構造と周辺の歴史を解説します・・・

戦国時代に神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部を統治した大名の北条家が100年後に日本を統治した徳川家よりも優れた政治で内政と軍政を行っていました・・・
三つ鱗紋北条家三鱗紋
小田原北条家というのは戦国時代に既に初期の江戸幕府を凌駕する善政の統治機構を持ち、各方面で有事に別々に運用できる軍団制度を織田信長公の登場よりも早くから導入した内政と軍政に優れた大名家でした。
2016-02-17-16-02-55
現在も部分的に現存する❝小田原用水❞は日本初の上水道(飲用水道)として歴史学者には知られている存在です。又、城郭建築に長けた家臣団を多く持ち、更には修験道や神道の宮司も兼ねる有職故実に通じた由緒正しい教養高い家柄の重臣も多くいる民政と教養と城郭建築に特に長けた家柄でした。
この事は余り現代では歴史好き以外には知る人も少ないのですが、その北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
この五色備えとは軍旗の色を、青色・黄色・白色・赤色・黒色の各色に分けて部隊編成された軍団で、この五色は仏教五色と呼ばれ当時神仏混合だった宗教観では仏教的な思想では唐時代の中国の高僧の不空三蔵法師が訳した経典で以下の意味が有り、その軍団には役目が有りました。
黄・・・皇帝
中心を指す、物事の本質を見抜き統率する知恵・・・北条綱成公、家中最高の統率力の名将
青・・・青龍
東方を指す、此の世の出来事を公平に見る知恵・・・富永直勝公、家中初期功臣家系の名将
白・・・白虎
西方を指す、此の世の全てを見極める為の知恵・・・笠原信為公、家中最高の文化人の名将
黒・・・玄武
北方を指す、此の世の物を完成させる為の知恵・・・多目元忠公、家中最高の知恵者の名将
赤・・・朱雀
南方を指す、此の世が平等である事を知る知恵・・・北条綱高公、文武の両面で優れた名将

この色分けと其々の方位を守る聖獣は横浜市民と神戸市民は良く知っていると思います。
横浜中華街仏教五色四方聖獣の門と黄色の善隣門位置 久良岐のよし
横浜中華街には東西南北の四方を守護する青龍・白虎・朱雀・玄武の門が在り、中心には善隣門が据えられており、この善隣門の屋根瓦は正に日本の神道にも影響を与えた中国道教と仏教で皇帝を表す黄色の瓦が用いられています。
DSC_3528
そして海側の大手口と成る朝陽門は鯱鉾(しゃちほこ)の部分の飾瓦が青龍のデザインで屋根瓦全体も仏教五色の青に成っています。
DSC_1983
安土桃山時代~江戸時代初期に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公や徳川家光公によって寄進され神社建築遺産や居城だった安土城や伏見城等、海外との貿易が活発で華やかな色合いが好まれた当時の建築文化や仏像の極彩色装飾では、正にこういった道教と仏教の影響を受けた華やかな仏教五色を彩色された場所が多く有りました。
明治に廃仏毀釈で多くの華やかな社殿が消え官製神社に質素な色の鳥居や社殿が増えたのは実は明治の宗教改革をやった政治家がプロテスタントキリスト教徒で仏教を弾圧した影響なんですね。
日光東照宮の陽明門が正に現存する極彩色に装飾された建築文化財の代表例でしょう。
IMG_0342
織田信長公が社殿再建した京都府八幡市の男山、石清水八幡宮や・・・
CIMG0345
秀吉が社殿寄進した織田家所縁の愛知県津島市の津島大社とか…
CIMG0852
静岡市駿河区の久能山東照宮とか…
CIMG1192
神奈川県鎌倉市扇ヶ谷に在る徳川家康公に勝利の女神として大切に愛された側室の太田お梶の方の御廟所とかですね。
当時は神社仏閣で白黒と赤の基調の差は有れど、華やかな極彩色に彩られた場所が多く有った訳です。
色には宗教哲学や易学的な意味で方位守護を目的とした鎮護の意味が込められていたんですね。
北条家初期の北条五色備え軍団奇(く)しくも各軍団と大将は不空三蔵法師の仏教解釈の通りの色に符号した役割と能力を有しており、その為に軍団長として任命されている事も解ります。
北条氏綱公
そして
北条家二代当主でこの軍団編成をした北条氏綱公時代は、実際に色別に方角的な意味でも、それぞれの軍団は重要な合戦で各方角に出張する事が多く有りました。つまり、この五色備えは方角別に防衛や侵攻を担っていた事が解ります。
例えば青備え隊は初期は江戸城を後に葛西城を本拠地にしており、現在の東京都葛飾区辺りに居り北条氏綱公時代の領地の最東端に位置する地域の防衛を担(にな)っていました。
黄備え隊は武家の本拠地である鎌倉郡玉縄城に在り、主だった合戦では各方面に援軍として出張し主力として戦っていました。
白備え隊は甲斐武田家や後に徳川家に対する備えとして伊豆と相模の国境を守備する事が多い部隊でしたし、徳川家と北条家が激突した黒駒合戦でも黄備え隊と合わせて2万の大軍で相模国の西側の駿河国から甲斐国へ侵攻しました。
赤備え隊は初期の北条綱高公の時代には南方の要として江戸城で里見海賊の来襲に備え且つ、伊豆方面を守備する事が多く有りました。北条綱高公が江戸城で没した頃に小大名から北条傘下の軍団に組み込まれた世田谷城主蒔田吉良氏朝公の与力武将は江戸衆に成っていた様で豊臣秀吉の北条征伐の際には、やはり伊豆国下田の下田城防衛を担当し、城将清水康英公と共闘しています。又、蒔田吉良家には喜多見江戸家や河野家や杉田家や並木家等の水軍も保有しており江戸城周辺と品川港一帯東京湾中央部の防衛の要として機能していました。
そして多目元忠公の黒備え隊は北条家の知恵袋として良く本隊に組み込まれていましたが、北条早雲公や北条氏綱公の時代の初期の北条家北限が青木城周辺でした。北条家は当主自ら本隊を率いて敵軍と激突する事が多く、黒備え隊は遊軍でありながら隊長の多目元忠公が戦全体をコントロールする軍師としての役割を本陣で担う事が多かった軍団でした。秀吉の小田原攻めの際も多目家は小田原城に籠城していますし、小田原に籠城しなかった者は蒔田御所こと室町時代まで鎌倉公方代理だった蒔田吉良家の吉良頼康公の保護の為に近くの南区蒔田の蒔田城にもかけつけています。この時、吉良頼康公は水軍で城下の蒔田湾や磯子から出陣して単独で鎌倉防衛しようと無謀な構えを豊臣軍に対して準備していたので、もし多目一族が吉良頼康公を止めていなけらば、その後の江戸幕府高家の蒔田家→吉良家は存在しなかったでしょう。
2b1744ef
南区蒔田城跡の城下には太田道灌公の親友で戦上手として記録の残る吉良成高公が開いた勝國寺が現存しており、吉良成高公の先代の吉良政忠公から吉良頼康公までの御廟所と家臣団である佐々木家、森家、並木家等の御子孫達檀家サンの御墓が今でも殿様の御廟所を囲む様に存在しています。
以前書いた記事⤵
三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区の笹下川~大岡川流域蒔田湾の流通の拠点。
世田谷八幡宮所縁の殿様、吉良頼康公…東急世田谷線宮の坂駅と横浜市営地下鉄蒔田駅の殿様。
招き猫発祥の寺、世田谷区の豪徳寺…彦根藩井伊家の菩提寺で、蒔田吉良家所縁の大寺院。

今回紹介するのは北条家で最も有名な北条早雲公の時代の話でも無く、民政化として最も有名でありながら軍才に長けて北条家最強時代を築き上げた北条氏康公の時代の五色備えの黒備え大将だった武将の話です。
北条氏康
※KOEIさんのゲームより画像拝借。
・・・北条氏康公が小田原北条家第三代当主と成った頃、五色備え軍団の大将の内の3人の殿様と2人の名副将が現在の横浜市と成った昔の鎌倉郡・久良岐郡・橘樹郡・都築郡に居住していらっしゃいました。
 
1人目は旧鎌倉郡の内横浜市栄区長尾台に在った長尾城を外郭とし鎌倉市植木~玉縄~藤沢市村岡~小雀に跨る巨大城郭だった玉縄城主の北条綱成公。
北条綱成
※KOEIさんのゲーム画像拝借。
玉縄城主、黄備え隊の大将として活躍し各ゲームでも関東最強の武勇の評価をされる武将です。
そしてこの綱成公には名副将が二人いました。
実弟の福島勝広と北条本家家臣で付家老の間宮康俊公です。
弟の福島勝広公は河越夜戦で活躍した美少年として有名ですが、江戸時代の福島家の一族の中には現在の観光地デートスポットとして有名な江ノ島の江島神社の中津宮別当を務めた家もおり、明治以降は旅館を営みましたが廃業しました。
IMG_3526
豊臣秀吉子飼いの名将、福島正則公が少年時代に名古屋の甚目寺で殺人事件を起こして同族福島氏出身の北条綱成公を頼り駿河伊豆に落ち延びた際、当時深沢城代だった兄北条綱成公に代り直接福島正則公の面倒を見たのが小生はこの福島勝広公だと推測しています。
CIMG0416
愛知県あま市の福島正則公生誕地に在る菩提寺の菊泉院もやはり北条家の武将達が関わった御寺に多い曹洞宗で、御住職に面会に行った際に福島正則公の家臣団に伝わった北条家臣福島家との関わりを色々と教えて頂きました。
そして黄備え隊の副将で付家老が横浜市港南区~磯子区に跨る大城塞の笹下城主、間宮康俊公でした。
この間宮家は祖先が近江国の大名である宇多源氏佐々木家で、佐々木家氏神の延喜式内社沙沙貴神社宮司家を務め修験道にも通じた神道と仏教に精通し更には城砦建築と宗教建築の土木と海運と水軍と鷹の飼育、更に武勇に優れた武将を多く輩出した家柄で、学問気質でありながら豪胆な人物の多い家柄でした。子孫には学者の間宮士信や地理学者で探検家の間宮林蔵公や医学者の杉田玄白公がいます。
鶴岡八幡宮再建でも水運を利用して材木奉行を務めた北条綱成公の任務を代行している事が改元僧都記や蒔田吉良家臣団の伝承からも判っています。
CIMG4285
実際、間宮家江戸時代の当主で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を立案した徳川家康公の軍師の間宮直元は間宮康俊公の嫡孫(ちゃくそん=孫で跡継ぎ)に当たりますが彼は横浜市域の多くの神社仏閣を復興したばかりでなく、同族間宮一族の岩本間宮家(佐々木家=明治以降岩本に改姓)は江ノ島の奥津宮(本来の江島神社)と欽明天皇以来の勅願所の江ノ島の洞窟を管理する岩本坊で別当を務め、その家は明治に成るまで存続しましたが、明治政府の政策で仏教と神道的な場所が分離されると寺院機能を停止して宿坊として旅館業を営み始め有名旅館❝岩本楼❞として現代も江島に存続しています。初代江ノ島郵便局長で俳人としても有名だった間宮霞軒さんも御一族でした。
更に間宮家より家紋を下賜された久良岐郡松本村の松本家は笹下間宮家の陣屋を守っていた武内家に伝わる家系図でも間宮家から養子が入っている事が確認できるのですが、この家は源頼朝公が開いた修験道の大道場で門跡寺院だった鎌倉亀谷山福禅寺配下の重要な武蔵国域の大道場権現堂別当職を明治まで受け継ぎ、明治の廃仏毀釈後に権現堂は廃寺に成ったものの森浅間神社として権現堂の修験道場機能は神社化し存続しました。
2015-06-10-09-06-19
以前書いた記事⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
この歴史からか森浅間神社の所在地の横浜市磯子区森には神奈川県神社庁が置かれており、間宮家が室町時代から関東で担っていた宗教的な役割の重要さを窺い知る事が出来ます。
又、磯子区には福禅寺と同じく元々は鎌倉市山崎に所在し源頼朝公から崇敬を集め修験道の大道場だった山崎泉蔵院の重要道場だった中原村(磯子区中原)の熊野神社は後に泉蔵院が鎌倉から機能移転したことで大霊山泉蔵院桐谷寺と改名し室町時代から間宮家が領主となり保護し福禅寺権現堂と同じく明治の廃仏毀釈で泉蔵院が廃寺になり熊野神社に名を改めるまで存続していました。
CIMG1459
以前書いた記事⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
福禅寺の寺院機能は東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家によって機能移転され三田氏が奉行と成り寺院が造営されたと小生は推測しており、同地には間宮一族と伝わる杉田家の初代が三田領に居た事も間宮家の子孫の間宮士信さんが新編武蔵風土記稿に書いています。
そんな青梅市二俣尾の福禅寺は江戸時代のアホの幕府役人が寺領保証の御朱印書きで寺名を誤記したせいで海禅寺と名前が変わってしまいました。
CIMG3383
以前書いた記事⤵
【第2部:海禅寺編】休日雑記 2017年04月19日の訪問先…【青梅市】辛垣城址~海禅寺~へそまんじゅう総本舗~【羽村市】阿蘇神社~チューリップ祭~【あきる野市】中村酒造
そう言えば、この二俣尾の江戸時代の名主さんも福島姓だったので、もしかしたら北条綱成公の御先祖様と二俣尾や近い立川市周辺の室町時代以前に福島郷と呼ばれた柴崎~昭島辺りは関係が有ったかも知れないと小生は推測していますが調べても文献が無く僅かな状況しか無いのですが、この海禅寺の前身の福禅寺からわざわざ間宮家は菩提寺と成る鶴見区下末吉の寶泉寺初代の住職を迎えているので福島家と間宮家の関わりからも亀谷山福禅寺と青梅の海禅寺は無関係では無い可能性が有ります。
さて、黄備え隊の事は又、色々記事が有るので御興味有る方はそちらを読んで見て下さい。

2人目は笠原信為公です。
2014-04-06-11-30-42
※毎年4月初頭に開催される小机城址祭りでは港北区長サンが笠原信為公の役を演じています。
高文化の北条家中で宿老の北条幻庵公と並び屈指の教養を持つ人物で詩歌に通じるばかりではく、寄親で初期の小机城主と思われる北条幻庵公に代り小机城代を務め白備え隊大将として統率力と実務能力も高い人物でした。その実務能力の高さから、蒔田城主で鎌倉公方代理の蒔田吉良頼康公や北条綱成公付家老間宮康俊公等を纏め上げて鶴岡八幡宮再建総奉行を務め見事に成功させた名将でした。
又、笠原家は間宮家と共に北条家中を代表して対外的な外交を担う事の多い家系だったので、高い外交力を有した家柄でもありました。
恐らく初期の北条家に置いて最高の内政力の高さの両方を有した武将は、この笠原信為公だったのでしょう。そして謀略と外交に長けたのが北条幻庵公だった様です。そして御二人とも北条家中最高の文化人だった訳です。まぁ、宗教的な教養では間宮家と関家が北条家中では最高クラスだった様です。

さて、長い前振りでしたが多目元忠公の事を紹介します(笑)・・・

今回のブログ記事では戦国大名小田原城主伊勢氏流北条家の家臣中で最高の軍師、そしてゲームでも関東最高の軍師として能力評価される事の多い人物と、その居城の横浜市神奈川区青木城と権現山城の事を解説しますが、先に多目元忠公の時代の北条家周辺状況と、その状況の発端とを知る必要が有ります。

黒備え大将、青木城主、多目元忠公。

※KOEIさんのゲーム画像拝借
多米元忠公の居城だった青木城は今の京浜急行神奈川駅と横の権現山と本覚寺を繋ぐ昔の半島と背後の台町の丘に在(あ)った比較的大きな御城でした。
鎌倉時代末期~室町時代初期には後の征夷大将軍と成り室町幕府を開いた足利尊氏公が権現山を城塞化し籠城した記録が残ります。
新編武蔵風土記稿には以下の記載が在ります・・・
橘樹郡巻十三 七軒町の項
ー冒頭省略ー
本覺寺
西側にあり海道より少し引いりて石段ありそこを上(あが)りて山の上なり曹洞宗小机村雲松院の末青木山延命院と號す
ー以下中略ー
裏門は東の方にありて門外は陸田とうちひらけし地も今城跡と云(言う)所あり永正七年上田蔵人入道か當(当)所權(権)現山に砦をかまえあたり近き本覺寺の地蔵堂をとりこみて要害とせしなといへること古戦の記にも見ゆるはさもあるへく覺(おぼ) ゆ猶(なお)古跡の條合せ見るへし

権現山砦跡
宗興寺の山につ々(続)きたる所なり永正七年長尾爲景蜂起の時上杉高救(たかもと)入道建芳か被官上田蔵人入道北條早雲と議して當所へ砦をかまえしことあり小田原記等の書を閲(けみす)るに此(この)時蔵人入道は神奈川へ打(うっ)て出熊野権現山を城郭にとりたて、謀反の色をたてけれは管領家謀議し主の建芳を打手(うって)の大将として加勢には成田下総守渋江孫三郎藤田虎壽丸大石源左衛門矢野安藝入道成田中務丞を始(はじめ)として武州南一揆を催し雲霞の如く取(とり)巻けり時に永正七年七月一日なり
ー以下中略ー
寄手は大勢なれはこと々もせす喚(わめ)きさけんて切(きり)て入(いる=切りて入る=突撃する)神奈川の住人間宮の某と名のり黒鎧に四ツ目結びの笠しるし(印)濱風に吹かさし木戸を開(ひらい)て出寄手(よせて=攻撃側)も是(これ)を討とれとて射向いの袖を差かして一面に切むすふ城中のつわもの共間宮をうたすなと聲々(声々)に叫(さけび)て追(おい)つまくりつ戦いけるが遂に討(うち)まけて引(ひき)て入寄手彌(に)勝にのりつ々いて城へ入らんとする所に襄平木戸ををろして大石をなけ出す寄手先陣
ー以下省略ー
まぁ、こんな感じでかなり詳細に北条五代記や新編武蔵風土記稿には合戦の様子が紹介されています。
・・・新編武蔵風土記稿の編集長が何たって東大の前身の昌平坂学問所で頭取だった間宮士信さんで間宮家の子孫だからね。
簡単に説明すると青木城は元は権現山城って御城で、その権現山城で永正七年(1510年)旧暦七月一日に勃発(ぼっぱつ)したのが北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦でした。
※扇谷上杉を知らない人「ココ」←クリックして扇谷上杉の説明文を探して!
この権現山合戦で北条早雲公側の城将として活躍したのが川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。

 
北条家が敗戦したものの、信冬公は単騎突撃で名声を獲得しました。
その間宮信冬公の子孫が後の笹下城主間宮康俊公です。
※笹下城を知りたい人は「ココ」←クリック!
さて、そんな権現山城の戦いは北条側の敗戦に終わります。
ココ↓辺り木々に覆われた場所が全部権現山城址で後の青木城址の外郭出城。
この戦いは現在の本覚寺側、台町の方から敵が丘伝いに侵入して来て籠城側は防戦に失敗したと言われています。その反省から城主が多目元忠公に成った時代には本覚寺側の丘に防衛機能の主要部を移動して村名から青木城と改名した様です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
Google mapで衛星写真を表示すると現在は明治の国道1号線開削と鉄道建設で分断された昔の青木城~権現山城の地形が海に突き出した半島地形で要害性の高い断崖だった名残が見て取れます。
現在の横浜駅や金港町辺りは江戸時代までは海だったんですよ。幕末に勝海舟さんが神奈川台場と言う要塞を築くために権現山城址の山を削り、更に明治時代に成ってから周辺の海は神奈川台場もろとも埋め立てられました。

この青木城主の多目元忠公は北条氏康公の軍師(ぐんし=参謀)で、史実では河越合戦において北条氏康公の手勢8000の内、兵2000もの大部隊の指揮を任されていました。
また元忠公は全軍に作戦命令を出せる立場にあり、河越合戦でも殿様の北条氏康公と全軍に対し彼が独断で攻撃中止命令を出せる程に信頼されていた名軍師でした。
北条氏康公は内政に優れていただけでなく武将として優れた武勇と統率力を有し直接危険な合戦で部隊指揮を担う事も有り河越夜戦では主力の内、本隊御馬廻り衆を率いて敵の扇谷上杉家や山内上杉家の大軍に突貫し壊滅させた程でした。この時に北条氏康公と敵軍を挟撃して大混乱に陥れたのが僅(わず)か3000の兵で河越城籠城を本隊8000到着まで半年間持ち堪(こた)え成功させた黄備え隊北条綱成公でした。
しかし北条家で最強の二入は敵軍と交戦状態に在り、乱戦の中で全軍の指揮をとれなかったので本陣で戦況をコントロールしたのが多目元忠公だった訳ですね。
つまり三国志で言えば劉備の徐庶や諸葛亮の役割を、孫権における周瑜や呂蒙や陸遜や徐盛や丁奉の役割を、曹叡における司馬懿や満寵の役割を担ったのが北条家では多目元忠公だった訳です。
KOEIのゲーム信長の野望天道PKにも以下の超高スペックで登場しています。
統率73 武勇40 知略97 政治46 義理90
…凄いんだよ結構。

SEGAの戦国大戦でも低コストなのに高評価↓コレね。
 
ちなみに…
しかし彼の子供達と思われる人物の所領は総合計しても玉縄衆黄備え隊の付家老だった間宮家に遥かに劣り、軍団長としては不可解な冷遇をされている可能性が有り、それがもしかしたら北条為昌公が起こしたかも知れない北条氏康公廃嫡運動=謀反未遂事件に関与したからかも知れません。
これは解説③の回で小田原所領役帳で多目姓の武将の所得と立場を見ながら解説します・・・

ここからは青木城周辺の地勢と歴史を解説し、それから青木城の❝縄張(なわば)り=構造❞の推測を解説したいと思います。

・・・戦国時代の名将多目元忠公と居城の青木城も江戸時代に成ると廃城に成りますが古くから海運と陸運の交通の要衝だったので青木城の在った場所には東海道「神奈川宿(かながわじゅく)」が置かれ、旅客で賑わいました。
実は古代には恐らく一帯は港として流通拠点と成って開けており、直ぐ近くの六角橋と言う綱島街道の旧道と東横線の駅に沿って伸びる商店街の辺りには日本武尊(やまとたけるのみこと)が西暦100年代に滞在した伝承が御当地の久応山寶秀寺と三浦半島の走水神社の神話に残っています。
image
※以前六角橋商店街や神話の土地を散歩した時の休日雑記⤵
休日雑記 2017年03月18日の訪問先…【神奈川区】昭和の風情漂う六角橋商店街と安くて美味いオデン屋"かずさや"さんと塩嘗め地蔵と寳秀寺参拝で美味しい神話探訪。

冒頭の方で室町時代にも足利尊氏公が青木城の前身と成った権現山を城砦化して籠城し、更に室町期も戦国時代に突入すると北条家臣間宮信冬公が籠城した事も少し触れましたが、この付近が重要な地域だった事が解るのが青木城址の在る神奈川区の隣接区である鶴見区の長谷山寶泉寺と間宮家の歴史です。
CIMG1532
寶泉寺と間宮家の関わりを解説した記事→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
戦国時代の北条家にも江戸時代の徳川幕府にも重視された神奈川宿には幕末にも超メジャーな歴史人物が関わっています。
昔の神奈川宿の東海道旧道沿いに現代も存続する「田中家」と言う料亭で働いていた人物です。

その人は坂本龍馬の奥さんで未亡人の「お龍さん」です、意外でしょ?
京都生まれのお龍さんの終焉の地は神奈川県なんですよ。お墓は横須賀市大津に在ります。
2015-12-16-13-45-11
以前書いたお龍サンの菩提寺、横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)の記事。
これクリックで読めます⤵
坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
こんな歴史偉人達が関わった神奈川宿、その神奈川宿の下に成ったのが青木城の一部が江戸時代には今の本覚寺です。本覚寺は幕末にアメリカ領事館として利用されアメリカ公使のハリスサンやドール領事が住んでいました。歴史で誰でも習う人ばかりでしょ(笑)?
この本覚寺の山門がハリスさん達が住んでた頃にアメリカの一般住宅風に白いペンキで塗ったくられてしまうなんて珍事も発生してるんですよ(笑)。まぁ、仏教寺院は平安時代の昔は五色彩色され華やかだったので白く塗られる位は何て事無いのだけれど・・・
黒備え隊、多目元忠公の本拠地だからどうせなら黒いペンキの方がマシだったのかな(笑)?
実はここが生麦事件の重要な現場の一つにも成っています。
薩摩藩の大名行列と英国民間人の間で生麦事件が発生した際に、薩摩藩士に斬りつけられた英国人が逃げ込んだのが、この本覚寺でした。
生麦事件が起きた事により薩英戦争が勃発し、それまで攘夷派(じょういは=外国人拒絶派)だった薩摩藩はヨーロッパの実力を思い知り政策を180°転換し近代化の道を歩むことに成りました。
この幕末の攘夷運動の生麦事件や鎌倉事件も間宮家と関連有るのでが以前解説記事を書いて有ります。
これ⤵
幕末の生麦事件と鎌倉事件、そして江戸時代の梅花山成就院と安土桃山時代~江戸時代の本牧奉行・但馬奉行の間宮家…横浜市港南区、鶴見区、鎌倉市雪ノ下。
さて、こんな重要な土地だったので古代には直ぐに近所の六角橋に日本武尊が滞在し~室町初期の足利尊氏公の権現山城籠城~戦国時代の間宮信冬公と上田蔵人vs扇谷上杉家山内上杉家連合の権現山合戦~江戸時代の東海道神奈川宿設置~幕末の勝海舟による神奈川台場建設~日本初の新橋~横浜(桜木町)間の鉄道建設と神奈川駅設置~現代の瑞穂埠頭米軍基地と横浜中央市場の開設と全ての時代を通じて重要な交通と海運の要所だった訳です。
ですから戦国時代にも権現山城の落城後に地続きの丘を主要部に城を改修して❝青木城❞が改めて築城された訳です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
画像はGoogle mapに衛星写真を投影した物です。写真の中央には現在の国道1号線=東海道とJR・京浜急行の線路が通っており、線路と国道を挟んで左右に伸びる細長い緑地の右手が本覚寺と台町の丘で青木城址の主要部分、道を挟んで左手の幸ヶ谷(こうがや)公園の丘が昔の熊野権現社の跡であり権現山城跡の主要部分です。
北条家臣の間宮信冬公と上田蔵人が上杉家2万の大軍をここで迎撃した際は権現山城の丘周辺は海で僅(わず)かな砂浜が在る程度の険阻な海に突き出した要害性の高い半島でした。その麓の砂浜が平安時代~江戸時代末期までの旧東海道で、当時は海だった横浜駅周辺は通れないので料亭田中家の前の坂道を登って生野が当時の道順でした。つまり権現山城時代から街道を抑える重要な拠点であり、水神信仰の熊野信仰の場所でも有った事から海に突き出した半島にも関わらず飲み水に成る湧水の泉か滝が存在した事が推測出来ます。
海道を抑える場所な上に、三方を海に囲まれた険阻な場所ながら飲み水が確保出来たからこそ、足利尊氏公、そして後に北条早雲公の命を受けた間宮信冬公が城を築城して籠城する事が出来たのでしょう。
権現山城址遠景(Google map)
権現山城の地形は今でも険阻な丘ですが、幕末の神奈川台場建設で海の埋め立ての為にだいぶ削られたので昔の高さも城の遺構も残っていません。
IMG_1473
でも幸ヶ谷公園に行くと、権現山合戦の現場である説明の看板が有ります。
IMG_1476
幸ヶ谷公園に登ると昔は地続きだった本覚寺や背後のマンションを含めた青木城の主要部分が良く見えて平地からの高さを確認する事が出来ます。
IMG_1474
青木城部分の本覚寺は幕末にアメリカ領事館に成っていましたが、実は権現山部分も外国の大使館に成っていました。
IMG_1471
浄土真宗高田派の堪行寺サンです。フランス公使館として機能していました。
この辺り一帯が戦国時代の青木城址だった名残りは少ないので現代では城跡で、しかも北条家の重要拠点だった事なんて現代の横浜市外から移民して来た横浜市民には余り知る人も少ないでしょう。
IMG_1470
でも明治時代に丘を掘り切って削り込んだ鉄道の広い線路の上に架かる橋は❝青木橋❞と言う名前なんですよ!
IMG_1467
橋の両端の交差点の名前にも成っていて交差点の信号に付いている看板を見ると、ここが青木城だった事を知る事が出来ます。
迅速測図 神奈川宿周辺 久良岐のよし
権現山を削って作られた神奈川台場は明治時代の迅速測図でも形を見る事が出来ます。
画像の右下の海に飛び出した島が人工島の神奈川台場と言う大砲を何基も据えた近代海上要塞でした。この台場の大砲は、外国人居留地と成っていた現在の山手~元町~横浜中華街~日本大通りの関内地区に向かって設置されていて、外国人居留地に駐留する英国軍やフランス軍が争乱を誘発しようとした瞬間に横浜港に停泊する外国軍船や貨物船や居留地を「砲撃で打ち払い駆逐するぞコラっ(; ・`д・´)‼」と言う虚勢と言うか無意味では無い威嚇の役割が有りました。
今では神奈川台場建設の見て取れない幸ヶ谷公園側にも恐らく城の遺構と小生が推測する場所が辛うじて一箇所だけ存在します。
IMG_1478
幸ヶ谷公園と創価学会東神奈川平和会館の間を貫く微妙な深さの道路ね・・・
これ、もしかしたら権現山城の先端部分と当時の主要部分を曲輪として分断する為の堀切を兼ねた堀底道の名残で山の切削で堀が浅く成ったものの生活道路として利用されてるんじゃないのかな?
・・・と城好きの小生には見えました。
IMG_1482
今は削られて真っ平らだけどね。新編武蔵風土記稿の絵を見ると丸いラクダの背中みたいな形の山だったんですよ。
さて、地形の名残の余り無い権現山城時代の主要部分と違い、JRと京急線の線路を挟んで反対側の本覚寺側には恐らく城の曲輪跡と思われる地形が沢山残っています。
IMG_1457
先ず、この本覚寺の登り自体も青木城の大手口の名残だと思います。
御覧の通り登って来て、山門と本堂の在る一段高い削平地を横切る形でS字クランクしています。
これは❝食違い虎口❞の跡だと小生は推測します。
青木城主要部分明治期 迅速測図 久良岐のよし
明治時代の迅速測図でも同じ地形なので、これは近代土木技術の無かった室町~江戸時代に作られた地形だったと言うのが小生の推測の根拠ですね。
そして本覚寺の庫裡と本堂はL字に配置されていますが、左手の墓地や周辺の段地や断崖地形も迅速測図で確認出来ます。
これをGoogle mapの立体衛星画像で見て見ましょう。
青木城主要部(Google map)
小生と同じく城好きな人、これどう思います?
墓地の中で本堂側に突き出した小さな半島状の突起構造は本堂背後に上がる道を塞いでいた城門の枡形虎口の片側遺構だと小生は睨(にら)んでいます。つまり切り残された❝土塁❞ですね完全に。
本覚寺の墓地の段地は完全に帯曲輪と武者走りの遺構ですよね?そして恐らく当時の本丸は背後の住宅街なの略略(ほぼほぼ)間違い無いでしょう?地形的に。
当時の本丸へのアプローチは本覚寺本堂裏手の半島の上の更に半島の様な地形の墓地の段地でしょう。そこの墓地への登り口が武者走りで、本覚寺は三之丸の様な場所、権現山城は青木城時代は出丸として機能し本覚寺本堂裏の墓地から段々に本丸の集合住宅地の台地最後部へ続く❝連郭式(れんかくしき)城砦❞つまり細長く段々に兵を配置する曲輪が設けられ、曲輪を順番に突破しないと本丸に辿(たど)り着けない城の構造だったと推測出来ませんか?
IMG_1456
この本覚寺墓地裏手の白い集合住宅の在る削平地の台地が本丸でしょう。恐らく左手の坂道は裏手の門へと続いた別の道だと思います。
青木城址遠景(Google map)
この坂道の有る本覚寺入口側では無くて青木城址の台地を反対側の衛星写真で北側から見ると良く解りますが、この坂道の先には大きくくびれた人口の竪堀(たてぼり=山裾をえぐり取り丘の侵入経路を細くしたり、山の斜面で敵の横移動を防ぐ構造)の大空堀と思われる地形が有りますよね?
本覚寺高島山公園周辺地形 久良岐のよし
丁度、高島山公園の辺りです。ここが丘側の城門が在った要所であり、高島山公園横の台地がV字に抉れた地形は人口の大空堀だと小生は推測します。
これ程大規模なのは自然地形でしょ?と北条流の築城術を知らない他府県、こと中部地方の人は思うかも知れませんが違いますよ。これは恐らく人工地形です。
戦国時代の北条家が末期に水軍の拠点にしたのは久良岐郡杉田湊(みなと:横浜市の埋め立てで消滅)、三浦半島の三崎城の北条湾、伊豆半島の下田城の下田港が特に有名でした。
その三崎城にも同様の大空堀が存在し、自然地形に見えますがV字の人工地形と三浦氏教育委員会も認識しています。
image
縄張り図の右上のV字の谷が大空堀で人工地形です。
北条流の築城では台地に築城する際は台地側面を深く抉(えぐ)って大手と反対の防御の弱い地形の侵入経路を細くして虎口を作る事が多かった様です。
さて、御城としての名残を辿れるのはここまででしょうか?
では次に本覚寺さんを見て見ましょう。
IMG_1459
山門の横には高度経済成長期に歴史と文化の史跡の名残を少しでも残そうと尽力された細郷市長が揮毫(きごう=言葉とか名前を記念に書く事)された石碑が有ります。
横浜開港の主導者だった肥後守、岩瀬忠震(ただなり)公の記念碑ですね。
幕末にペリー提督達が日本に開港を迫った際に、遠い下田じゃ嫌だと言い出し交通の要所で江戸からも近い神奈川宿を無理に開港させようと圧力をかけて来た時に、江戸防衛上非常に問題に成るので対案として埋立地の吉田新田の中の水堀と海で外部と隔離出来て外国人の安全も保障できる上に港としても適している横浜村の開港を対案として提唱したのが岩瀬忠震公でした。
明治時代の有吉忠一市長や昭和期の細郷道一市長や後の高秀秀信市長は、今の史跡と自然破壊容認が得意技でヤクザを勢い付かせるカジノ建設に躍起の林文子市長とは違い、歴史と文化の見識が深く多くの史跡を保護或いは記念碑の建設と歴史を後世に伝える努力と街作りを両立された方々でしたので、細郷市長はこの様に日本近代化の舞台と成った本覚寺にも関わってらっしゃったんですね。
IMG_1464
この山門がアメリカ合衆国の役人に真っ白に塗ったくられた物だそうです(笑)。
柱に名残が少し残っていますね。
本覚寺は曹洞宗の神大寺の末寺としてスタートした小机城下の雲松院の末寺でした。
雲松院は神大寺の廃寺後に神大寺の機能が移転され、周辺の本寺と成ったので古い御寺と誤解される事も多いですが実際の所は白備え大将で小机衆の副将だった笠原信為公が父上の菩提寺として開いた神大寺の末寺です。
さて、そんな経緯が有って雲松院の末寺として開かれた本覚寺ですが、現代では山も削られ背後も住宅街に成り城だった戦国時代どころか江戸時代の昔とも随分と風景も違うでしょうが、御本堂は立派です。
IMG_1465
記録に無い情報もちゃんと取材しないと気が済まず現地に行く主義の小生、数年前にちゃんと御寺に御参りに数年前の取材の際に行って奥様と話しましたが、多目家との関わりは無いそうです。
まぁ、菩提寺は三ッ沢の豊顕寺と解っているので、やはり戦国時代には寺院機能は無かった様ですね。
でも曹洞宗の御寺なので、北条家の支援した宗派の御縁である事は偶然とは言え運命なのでしょう。
御寺の寺紋も鶴見の曹洞宗大本山総持寺さん由来の桐紋です。
多目家の家紋、小生はまだ存じ上げません。いつの日か、ちゃんと多目家の御子孫に御会いして家紋の事もお伺いし皆さんにも紹介したいと思います。


次回は青木城の解説から離れて城主の多目元忠公の活躍した合戦と、その合戦の事件背景を解説します・・・

北条家の五色備えは独立したカテゴリーにも成ってますので、御興味有る方はカテゴリー検索してみて下さいね!青備え隊の富永直勝公以外は既に紹介記事が幾つか有ります。
カテゴリー「戦国時代:北条家五色備え」
ここ⤴に記事有るので皆さんの興味を引く人物の事が書いて有るかも知れません。

その②に続く→北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。





ブログネタ
名所・名勝・史跡・旧跡 に参加中!

2008-08-03-04-55-06
実は坂本龍馬の奥さんの御龍サンの終焉の地が神奈川県だと言う事を皆さん御存知でしょうか?

横須賀市大津町と言う所に在る信楽寺は、お龍サンの眠る御寺です。
2015-10-28-16-59-09
正式な寺名は宮谷山至心院信楽寺。
信楽寺と書いて「しんぎょうじ」と読みます。
お龍サンは、坂本龍馬サンと死別後、高知の龍馬さんの身内に龍馬サンの名跡乗っ取られたり、龍馬サン没後に支援者だった西郷隆盛サンも西南戦争で亡くなってしまったり、龍馬サンの師匠の勝海舟サンの紹介で横浜の「田中家」と言う料亭で働いた後、再婚した相手が実の妹と不倫をして又、独身に戻ったり…
まだ坂本龍馬サンの偉業を世間が知る前だったので、この横須賀市で政府の支援を受けられないまま、壮絶な人生を送って亡くなりました。
坂本龍馬サン
明治政府内や世間で坂本龍馬サンの偉業が漸く認識され、世間で「お龍サン」の事も話題に成りだした頃には既に、お龍サンは余命僅かでした。
お龍サンが亡くなる直前、坂本龍馬サンの霊が当時の明治天皇の御妃の昭憲皇后(美子皇后)の夢枕に現れ、危篤のお龍サンの身の上を案じられた昭憲から御見舞いの電報が届けられたり、海軍大将だった井上良馨公が発起人となり見舞金の募金が集められ届けられましたが、時既に遅く、お龍サンは亡くなってしまいました。

晩年は幸せでは有りませんでしたが・・・
お龍サンが、この「大津町にいる!」と解って以来、没後も、町の人はその事を忘れていません。
全国的には有名でなくても横須賀の信楽寺のある大津町の地元の人は今でも、お龍サンがこの町で暮らした事を誇りに思っています。

 でも、お龍サン、実は晩年は余り幸せでは無かったんです。 

…と、お龍サンの話をする前に先ずはこの信楽寺サンの歴史と外観から紹介したいと思います。この信楽寺サン、今では一般的な御寺程の大きさの敷地ですが、恐らく昔は可也(かなり)の規模を有していたのだと思います。


その証拠に鎌倉光明寺の末寺だった歴史を有しており、更に周辺地形からも往時の範囲は容易に推測出来ます。
鎌倉の光明寺と聞いても歴史に興味が無い方には良く解らないと思うので御説明差し上げますと、鎌倉〜室町時代の御寺は幕府等の行政機関が御寺の収入源である土地の保護をしたり和尚様の就任を承認したり文章で手続きを管理していました。
鎌倉の光明寺と言う御寺は格が高いので一般的な行政官僚では取り扱いが許されない程で、鎌倉公方や、その権力代行者の関東管領(かんとうかんれい:首相)、又は関東管領の執事(しつじ:官房長官)等の高い身分の執政者が行政文書の発行を行なっていた様です。
光明寺と言う御寺はそれ程の御寺だった訳ですが、現在でも大本山格の御寺として鎌倉材木座に存続しています。
光明寺は信楽寺の本山でしたから、信楽寺は光明寺の直接影響下に置かれていた事に成ります。つまり住職が世襲制に成る前の信楽寺は光明寺の偉い和尚様が赴任して来ていた訳です。
本山⇄末寺の関係と言うのは本社⇄支店の様な関係なので、当然、本山の格が高ければ末寺も栄えていた訳です。
これで信楽寺の権威は御理解頂けたでしょうか?
次ぎに、どれだけ栄えていたかを推測する物証(地形)です。
信楽寺には素敵な鐘楼が有ります…
…御寺の裏の鎮守の山の尾根筋に、水墨画に出て来そうな素敵な佇(たたず)まいで存在しています。
今では背後の山の周辺は削平され宅地化されてしまっていますが…
つまり、この鐘楼の存在が示す通り、昔はこの背後の山も寺領だったはずです。
それでは、この鐘楼が在る山の地形を見てみましょう…
信楽寺がマークされている右手の山に鐘楼が在ります。
そして信楽寺は鐘楼の山に囲まれていますが、これは鎌倉時代〜室町時代の谷戸構(やとかま)えと呼ばれる山を城壁代わりにして谷間に建築物を建設する南関東の丘陵地独特の文化で、信楽寺は周辺の山を谷戸として所有する造りだった推測が成り立ち、大寺院だった事が推測出来ます。
下の写真は鎌倉の浄妙寺です。
綺麗にスッポリ山に囲まれていますね。
谷間に作り、谷の入口に門を設ける事で外部と遮断され防犯や火災の類焼避けに成る訳です。
鎌倉の報国寺や寿福寺も、この様な作りに成っています。

話しを信楽寺に戻します。
信楽寺は多くの檀家さんがいらっしゃる様で大きな観音様?が、お庭にいらっしゃったり土地は全盛期より縮小されても栄えていらっしゃいます。

う~ん、素敵な観音様だ♪
信楽寺には、他に保久利(ぽっくり)地蔵さんと言う六地蔵が祀られています。 2015-12-16-13-40-20
説明の文章によれば、人間が動物的な下等な習性を抑制し成長を助けてくれる御地蔵さんと言う事でしょうか?
昭和52年の建立ですので割と新しい御地蔵さんですが、6体とも、とても御優しい御顔をしてらっしゃいます。
2015-12-16-13-38-13
この保久利地蔵を建立する事に成った切っ掛けは、実在した農家の御婆ちゃんがとても人から尊敬される人格者で長生された方だったそうです。その御婆ちゃんを偲(しの)んで建立されたのがこの御地蔵様だそうで、その言われが下の写真の説明銘板に書いて有りました。
2015-12-16-13-38-22
粗衣粗食…
小生も見習わないといけないなと本気で思います。でも食欲に負けてばっかりです。
…なんかこの食欲をコントロールする方法な無いもんだろうか?
生前の行いを周囲の方々に有り難いと感謝され御地蔵様として祀られるなんて、本当に人格者だったんでしょうね。
本当に見習わないといけない。小生は短気ですからね。

まぁ、こんな感じで現在では広さは普通より少し広い位ですが、昔は立派な規模を誇っていた事を容易に想像出来る御寺な訳です。
しかも関係の有る歴史偉人も凄いんです。
実は、信楽寺の仏様は平安時代末期の鎌倉武士団の名将、熊谷直実公の守り仏だったそうで、それが後に浄土宗の開祖の法然上人お弟子さんの蓮生坊の手に渡り持仏として大切にされたそうです。
そんな歴史偉人達の大切にした仏様ですが、近江国大津の信楽寺に移送しようとした所、使者が誤って鎌倉から近い、この「大津の信楽寺」に安置して現在に至るそうです。
本当なら少し面白いですね(笑)?その間違いの御蔭で、小生達も御参り出来る訳ですから。
でも、この「大津」と言う地名が、この信楽寺に眠る「お龍さん」ととても因縁が有る地名なんですよ!
先ずは、お龍サンの旦那様の龍馬サンの活躍した京都の史跡の位置関係を見てみましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
※画像をクリックして拡大して見て下さい!
写真上部に在る池田屋は有名な新選組の活躍した池田屋事件の舞台ですね。
今年の9月に、友人の結婚式で京都に久しぶりに帰った際に、丁度撮影しておいた写真が有るので…
三条大橋の近くに、池田屋の跡の石碑が在ります。
2015-10-02-20-49-47
その場所に建つ店は、全て長続きしなかったので「呪いじゃないの?」なんて噂も有りましたが…
2015-10-02-20-49-33
当時の池田屋と同じ名前の「池田屋」と言う居酒屋に成ってから潰れずに繁盛しているそうです!
…逆に池田屋リスペクトで存続出来てしまったら、呪いを証明している様な気が…
2015-10-02-20-49-53
ちゃんと説明の看板も有ります。当時の池田屋の見取り図や、事件の経過と攻守双方の犠牲者の名前も掲載されています。
こうやって双方ともに扱う姿勢は素晴らしいですね。立場の違いは有れど、お互い日本の事を本気で案じていた訳ですから。
この時の近藤さん達の活躍で、当時テロリストだった攘夷派の中の過激派による京都市街大放火のテロ行為が未然に防がれました。
2015-10-02-20-55-48
三条大橋の池田屋側から2番目位の欄干(らんかん)には、この池田屋事件の時に付いたと言われる刀傷が現在も残っています。
2015-10-02-20-56-18
そして、池田屋のある通りから延びる三条通りの三条商店街には、沖田総司の佩刀(はいとう)の菊一文字の名を冠した刃物屋さんが今も在ります。
2015-10-02-20-45-32
もう一度、衛星写真に戻りましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
…池田屋から直ぐに衛星写真を南北に貫く緑に覆(おお)われた筋に見える道路が「木屋町通り」です。
木屋町通りの直ぐ横、川沿いが有名な観光地の先斗町(ぽんとちょう)です。
それと反対側、写真左側の「河原町通り」沿いに、龍馬サンが暗殺者に襲撃され落命した事件の舞台「近江屋」の跡が在ります。
2015-10-03-11-12-13
現地には龍馬サンの顕正の一環として、史跡として事件が発生した場所だと解る説明と石碑が建てられていて、商店街の皆さんによってちゃんと守られています。
2015-10-03-11-11-42
2015-10-03-11-12-07
ファンが御墓参りしやすい様に、下の看板も有りました。
2015-10-03-11-11-25
因みに、お龍サンは亡くなってから、舎利が分けられ、この信楽寺の御廟所と更に今は龍馬サンの眠る京都で一緒に成る事が出来ました。…亡くなってからでも離れ離れじゃなくなって良かった(泣)。
さて、ここからが信楽寺の在る横須賀市大津町と、お龍サンの因縁の話に進みます。
衛星写真で見る京都の範囲を、もう少し広くしてみましょう…
龍馬関連地域
写真の下の方が現在の京都市伏見区です。そこに、お龍サンと龍馬サンとが夫婦生活を送った寺田屋が在ります。
ここは、お龍サンが入浴中に幕府の役人達が龍馬サンを逮捕に来ているのに気付いて、素っ裸のまま危険を伝えて龍馬サンを生きながらえさせた有名な寺田屋事件の舞台です。
でも、因縁の話の舞台はここではありません。
写真の右上、滋賀県の琵琶湖の畔(ほとり)に大津市が在りますよね?
お龍サンが眠る信楽寺の所有する元は熊谷直実公が所有した仏様は、本来、この滋賀県大津市に届けられる筈だった話は先にしましたよね?
つまり、御寺の在る大津町と滋賀の大津は仏さまで地名だけでなく仏縁も結ばれているのですが更に、お龍サンの旦那様の坂本龍馬サンの坂本家の御先祖様とも深く関係が有ります。
龍馬サン御本人の話では、坂本家の祖先は戦国時代に滋賀県大津市の坂本を本拠地にした明智光秀の一族だそうです。ですから、同じ大津の地名の、更に滋賀県の県名の由来に成った信楽(しがらき)の名を冠する宮谷山至心院信楽寺の在る大津町で、お龍サンが晩年を過ごされたのは…
龍馬サンの奥さんに成った御龍サンが、晩年この土地に行き着いたのは、龍馬サンの氏神様と信楽寺の仏様の御導きで呼ばれ守られていたと思いたく成るくらいの偶然が重なった諸縁で結ばれているんですね。
或(ある)いは…
もし死後の世界と言うものが本当に有るのなら、龍馬サンが氏神様や仏様の御力を御借りして、お龍サンを見守っていたのかも知れませんね。

さて、お龍サンと滋賀県と神奈川県の「大津」との因縁はここまでにして、ついでに横浜時代の御龍サンの働いた横浜の料亭の田中家(たなかや)もついでに話します。
冒頭で少し書きましたが、お龍サンは勝海舟先生の紹介で田中家で働き始めたそうです。

この田中家の歴史は古く、江戸時代には存在していました。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
※拡大して見てみて下さい。
上は安藤広重の「東海道五十三次 神奈川宿 台之景」の浮世絵の風景画ですが…
この中に「さくらや」と言う旅籠(はたご:旅館)が描かれているのですが、この店が田中家の元に成った御店なんです!
浮世絵にのっちゃう位、昔から栄えた店だったみたいですね。
しかも、この田中家、今でも絶賛営業中なんですよ!
GoogleEarthの3Dモデル衛星画像で場所を見てみましょう。
田中家近景
上の浮世絵と同じ構図で見ると、やはり坂道に面しているのが解ると思いますが…
あれ?坂の左っ側は海なんじゃないの?と思いますよね?
…実は、この周辺は近世~現代にかけて絶賛埋め立て中なんですね!
では、もう少し地表から離れた田中家の衛星写真で位置関係を見てみましょう。
田中家周辺
写真中央が田中家です。御覧の通り、すぐ左上(東側)に横浜駅が在ります。
つまり、横浜駅周辺は埋め立て地な訳です。
ですから、この間の東日本大震災の際には、この横浜駅周辺で昔は海だった地域は、地震速報で示された震度より実際は強く揺れたみたいですね。
平地は全て昔は海だった訳です。だから、歴史の古い田中家は、元から陸地だった丘に沿った坂道の傍らに在るんですね。
埋め立て地に横浜駅が在るならば、当然、現在の東海道も、お龍サンが横浜で働いていた頃とは様子が違います…
神奈川旧東海道
昔の東海道は元々半島だった丘に沿って通っていました。
この丘は古くは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公が築城し籠城した「権現山城」と言う城跡で、戦国時代にも横浜の殿様の間宮信冬(まみやのぶふゆ)公が「権現山合戦」で活躍された舞台にも成った場所で、旧東海道の元に成った街道が古来より存在し、交通の要衝(ようしょう:重要な場所)だったので軍事拠点としても重視された場所だった訳です。
更に戦国時代中期に成ると、権現山城は現在の本覚寺と言う御寺が在る辺りを中心に拡張され「青木城」と言う御城に改修されて小田原北条家の軍師だった多目元忠(ためもとただ)公が城主を務めていました。
ここら辺の歴史は以前書いた間宮家殿様の事績の顕彰文の中で説明しているので、御興味が有れば読んでみて下さい。
間宮家の事績のまとめ記事はココ」←クリック!
現在の東海道は、この青木(権現山)城の在った半島をブッた切る形で切通しが掘られ、そこに国道一号線(現在の東海道)と鉄道の線路が敷設されました。
ですから東海道は、お龍サンが生きていた時代とは違う位置を通っているのですが、昔の東海道は住宅街に埋没したので必然的に田中家も今では住宅街の中で営業する情況に成った訳ですね。

時代が変われば風景も道路も変わってしまう訳です。
では、ついでに、この旧神奈川宿一帯が最近40年間程度でもどれくらい風景が変化したか、1970年代の航空写真をGoogleEarthに張り付けて比較した画像で見比べてみましょう!
神奈川区昔の様子
ごく最近の写真なのに、たった数十年で横浜駅一帯はこうも風景が変わってしまったんですね…。
因みに、上の昔の衛星写真を継ぎ接ぎして作った画像に写ってる貨物列車の線路は、明治時代に伊藤博文公によって建設された新港埠頭に繋がる路線で、その路線は東日本大震災で東北地方の人々が燃料切れで凍死する恐れが有った時期に、日石とJR貨物職員による燃料緊急輸送作戦で横浜市磯子区根岸の石油コンビナートからの貨物輸送で利用され活躍した線路です。
お龍サンと同じ時代の伊藤博文公の偉業で、現代の東北の方々は命を救われた訳です。
※緊急燃料輸送の記事は「ココ」←クリック!
ですからね小生、よくブログで持論として言いますが…
現代の我々の生活は、昔の人の多くの悲しみと失敗と、少しの成功と幸せの結果、先人によって築かれたものだと言う事を忘れてはいけない
…そう思っているから、こうやって先人に感謝とリスペクトの思いを込めてブログの記事に拙い文章を感情のまま殴り書きしています。

今回は、お龍サンと、その人物の歴史を現代に伝えて下さる信楽寺の御話しをしました。
次は何を書きますかね~?
少し歴史偉人から離れて綺麗な風景の記事でも書きましょうか?
…とは言っても、どこに行っても偉人の皆さんの足跡だらけなんですが(笑)。

では、又、次の記事で御会いしましょう♪



前回の記事で横浜市中区の麒麟公園が日本におけるビール事業の発祥地である事を書きましたが…
※前回の記事は「ココ 」←クリック!
header_grouplogo_01キリンさんのロゴは、このローマ字書体の物の他に…


…もう一つ、ネットの借り物の画像ですが、この麒麟のロゴが有りますよね?

麒麟2
この麒麟は、昔の中国人がアフリカのキリンから連想した馬と龍が混じった架空の動物です。
なんでビール会社のロゴが伝説の麒麟なんでしょうね?
実は、この事は麒麟麦酒の広報が認めている事実として、ある歴史偉人との関係が有ります。

昔、別の記事で少し触れた事が有ったかも知れませんが、現在のKIRINの創業者は三菱財閥の創業者でもある岩崎弥太郎サンと、もう1人、幕末のグラバー商会の社長だったトーマス・ブレーク・グラバーさんです。
麒麟
前回の記事で紹介したコープランド先生が創業した、日本初のビール醸造場のジャパンブルワリーの事業を後に買収し引き継いだのが、現在のキリンホールディングスの前身と成った麒麟ブルワリーで、その出資者が岩崎弥太郎サンとグラバーさんだった訳です。
そして、この御二人の創業者と友人だった歴史偉人の偉業を顕彰する意味で、この麒麟のロゴが選定されたと言われているそうです。
では、岩崎弥太郎サンとグラバーさんの友人だった歴史偉人とは誰でしょうか?
その答えは既に、このロゴで表現されているんですが…
先程、麒麟は馬と龍が混ぜられた架空の動物と御説明さしあげました。
その馬と龍の字が名前に成っている坂本龍馬サン、その人こそが、実はこのロゴで顕彰されている人物です。
坂本龍馬
では、御二人は坂本龍馬先生と、どの様な関わりが有って、結果リスペクトしていたのでしょうか?
実は、明治時代初期、坂本龍馬さんの存在は大日本帝国(明治時代の日本)の一般国民には知られていませんでした。その坂本先生の存在と偉業を世間に公表した人物が、当時、既に三菱財閥のトップだった岩崎弥太郎サンだった訳です。
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎サンと坂本先生の繋がりは、出身が同郷である事と共に商業により日本の近代化を推進した事に有ります。
御二人は今の高知県、土佐藩の出身で幕末当時、先に世間に功績を残し頭角を現したのは坂本先生の方でした。坂本先生は商社海運業者兼軍事会社である「海援隊」を設立し、薩摩藩と長州藩の同盟を成功させた外交活動や、軍艦・武器購入の代理店として、軍事物資補給で多大な事績を残されました。
そして、その協力者の海外武器商人こそがトーマス・ブレーク・グラバーさんだった訳です。
グラバー
グラバーさん、長崎に拠点を構えていたのですが、今もその邸宅はグラバー邸として長崎の観光地に成っています…
そして!そのグラバー邸、実は世界中で革命を起こし民主化を進める事を目的とした結社フリーメイソンのロッジとして機能していたと言われています。
事実、グラバーさんはフリーメイソンの構成員だったと言われているので、坂本龍馬先生もフリーメイソンの一員だった可能性は否めません。
つまり、ペリー提督の来航から既に、日本を民主化させる策謀が有ったのかも知れません。
ペリー提督の母国アメリカ合衆国の創始者であり初代大統領であるワシントン大統領もフリーメイソンの一員だったので、龍馬先生がフリーメイソンと何某か連携し活動した可能性は有ります。
ワシントン大統領
坂本龍馬と言う人物がフリーメイソンの一員であったとするならば、大政奉還の草案に議会制民主主義を想定していた事にも整合性が確かに有ります。
そして、それを知る可能性の有る人物は坂本龍馬本人、大久保利通先生や西郷隆盛先生も幕末や明治時代に悉く暗殺されたり、政争に因(よ)る内戦により戦死しています。
…ですので事実の確認は今では出来ません。
まぁ~、よくTVのCMに出演してる美容整形外科の経営者の高須さんはフリーメイソンの一員なので、あの方に真相を聞けば直ぐに解るんでしょうが、小者の小生に当然ながら、その様な人脈が有る筈がありません(笑)。

因(ちなみ)みに、麒麟公園の直ぐ近くの山手公園は日本最初の吹奏楽のコンサートが行われた史跡が有るのですが、その場所に日本最初のフリーメイソンのロッジが在った事は結構、有名な歴史事実でもあります。

さて、坂本先生、以下、親しみを込めて龍馬サンと呼ばせて頂きますが…
上記の方々の他に、龍馬サンと特に関わった歴史偉人が3人と龍馬さんと他人ではなかった人物が1人、神奈川県にも深い関わりが有ります。
1人は勝海舟先生…
勝海舟
坂本龍馬サンの海軍軍事技術と思想的な師匠に当たる人物ですが…
以前、戦後時代の城址、京浜急行神奈川駅近くの「青木城城址」に関する記事を書いた時に触れましたが、神奈川駅近くの金港町周辺、今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に「神奈川台場」と言う要塞を設計しています。
※青木城に関する記事は「ココ 」←クリック!

そして龍馬サンの没後、未亡人と成ってしまった「お龍サン」も、この勝海舟先生の紹介で神奈川台場の近く、江戸時代に東海道の神奈川宿で有名だった料亭の「田中家(たなかや)」で働いていました。
2008-08-03-04-55-06
この田中家は場所がら、東京から海軍の拠点であった横須賀鎮守府(現:横須賀市汐入一帯)に出張する政府の要人が利用する料亭だったので、きっと勝海舟さんのコネが有ったのでしょう。
現在も田中家サンは横浜市神奈川区、当時と同じ場所で営業していますが…
…ランチで1人予算1万円と少し敷居が高いので、まだ行った事が有りません(笑)。
機会が有ったら是非、行ってみたいと思います。

お龍サンのその後ですが…実は余り幸せではありませんでした。
実は、再婚して横須賀市に移住しています。
そこで亡くなったのですが、旦那サンは一般人の商人だったのですが余り大きい事業では無かったので龍馬サンと比べちゃうと可哀そうですね、しかし誠実な人物なら、お龍サンも幸せだったのかも知れませんが…
この再婚相手、とんでも無い事に、よりにもよって、お龍サンの妹と内縁関係に成った挙句、お龍サンを捨てて二人で出て行っちゃったんですね…。
…可哀想過ぎる。
しかし、この頃に成ると、先に説明した岩崎弥太郎サンの証言で坂本龍馬の存在が世間でも認知され、更に当時の美子皇后(昭憲皇后)が龍馬サンの霊夢を見た事で、お龍サンも世間に知られる様に成りました。
しかし、時既に遅く、その2年後に、お龍サンは危篤状態に陥って帰らぬ人と成ってしましました。

しかし救いは有りました。
井上良馨
お龍サンが危篤に成った際、当時、海軍大将だった井上良馨が発起人と成り、お龍サンへの見舞金の義捐金を集め、幕末の海軍の父とも言える龍馬サンの後輩、ある意味弟子に当たる多くの海軍軍人達が此れに賛同し、寄付金が集まったそうです。
残念ながら、お龍サンは生前不幸な余生を過ごしましたが、対馬海戦で大活躍し日本をロシアの侵略から守った多くの海軍軍人は、龍馬サンと御龍サン夫婦が残して下さった子供達みたいな存在とも言えます。
当時の海軍の士官達には、その様な意識が有ったからこそ、多くの見舞金が御龍サンに集まったのかも知れませんね。
現在、御龍サンの御廟所は横須賀市大津町に在る宮谷山信楽寺に有ります。
そこの墓碑には「贈正四位坂本龍馬之室」と刻まれ、龍馬サンの正妻として明治政府にも没後再評価された様です。

そして、御龍サンが働いた田中家や勝先生の設計した神奈川台場の傍に新港埠頭建設を決め、日本鉄道輸送網の基礎を創建したのが井上良馨卿の親友で日本の初代総理大臣と成った伊藤博文公です。
伊藤博文
後の2011年3月11に我々の世代が経験した「東日本大震災」の発災時、津波により東北沿岸部の石油関連施設と鉄道網は壊滅しました。その影響でまだ真冬の寒さの真っただ中の被災地は燃料枯渇により暖房が使用不能に成り、人々は多くが凍死の危機に瀕していました。
その際に、東北への燃料輸送に活用されたのが、福島県から北陸へ抜ける日本海側からの鉄道輸送網でした。
この話も以前の記事で紹介した事が有ります。
※関連記事のリンクは「ココ 」←クリック!

前回の記事でも今有る我々の生活は、昔の人の多くの苦労とちょっとの成功と幸せの経験の上に成り立ってると書きましたが、この様に、麒麟麦酒からも現代人を助けた鉄道輸送網や、その建設に関わった人や、その人と様々な人々の関わりは繋がりが有り、現代人を助けた組織や設備や人々にまでリンクしていたりするんです。

ですから、古代からの神話も、平安時代の伝承も、武士達の築いた歴史も、全てが大切で、その一人一人の先人達の悲哀と成功と喜びの経験が我々の生きるヒントでもあるんですね。

では!又、次の記事で御会いしましょう!

皆さん、日本のビールの発祥地が横浜なのを御存知ですか?
エビスビールの工場が在(あ)った、東京都の恵比寿駅近くが発祥地と思い込んでる人もいますが違いますよ~。
2015-07-29-11-22-27

現在の横浜市中区のキリン公園一帯に在ったスプリング・ブルワリーと言うビール醸造場が、日本のビール事業の創業地とされています。
横浜成立以前の話ですが、幕末、江戸幕府が横浜を米国特使のペリー提督の要求により開港すると、現在の中区、つまり旧久良岐郡の内、本牧半島には多くの外国人が居留する土地が解放され、それによりビール工場も設立されました。
2015-07-29-11-21-19
2015-07-29-11-21-03
北方小学校横に在る小さな公園を中心に、北方小学校の敷地と合わせた一帯に作られたのが、スプリングブルワリーで、その事業をジャパンブルワリーとして受け継いだのが、現在の麒麟麦酒株式会社(KIRIN)なんです。
麒麟公園
ね?
隣の北方小学校の地下には当時の貯蔵庫が防災水槽として残っていると、以前、何かで目にした記憶が有ります。
2015-07-29-11-25-43
麒麟公園は本当に規模も普通の公園ですが…
遊具も普通の公園です。
2015-07-29-11-21-49

しかし、ここの直ぐ近くの日蓮宗の本牧山妙香寺の幕末当時の敷地(接収され現在は縮小)に、イギリス軍の駐屯地が有ったので、周辺には色んな「日本初」の史跡が有ります。
麒麟公園周辺位置関係
「吹奏楽」・「テニス」・国家の「君が代」は、この妙香寺さんと、幕末まで妙香寺さんの敷地だった山手公園がその発祥地です。
更に元町や山下公園や中華街一帯を加えると、パンの発祥地の「内木パン」が有ったり、その隣の中華街近くは、「かをり」を紹介した記事でも書いた「電話事業創業地」「ホテル事業創業地」のかをり、「鉄道事業創業地」等々、他にもアイスクリームや西洋野菜等、キリが無い程の「日本初」の発祥地が集まっている訳です。

つまりビール醸造以外にも、この本牧の丘の周辺だけでも、日本初が多数有る訳です。
その話は、いずれ又、今度紹介します…

話を麒麟公園に戻しますと、普通の公園との違いは公園内には石碑が有ります。
2015-07-29-11-21-39
横浜ペンクラブが、ジャパンブルワリーの創業者、ウィリアム・コープランド先生の偉業を顕彰して建てた石碑です。
横浜市は教育委員会がなかなか史跡を保護しないどころか宅地開発する際に事前調査すら放棄するので、こうやって民間が自主的に動かないと何も残らないんです。
このコープランド先生はノルウェー人で、この地で創業したのがジャパンブルワリー(スプリングブルワリーとも言う)なので、この方無くして現在の麒麟麦酒とKIRINホールディングスは存在しなかった訳です。
そして横浜市民にとっても、渡来の西欧料理文化の発展の一助と成ったビール文化を根付かせて下さった大恩人と言うべき方な訳です。

コープランド先生はビール事業売却後、日本文化の紹介を日本製品販売を通じて海外で行って下さいましたが、晩年は事業が立ち行かなくなり余り幸せでは無かったようです。
それでも日本人の奥さんの梅子さんを大切にして下さったようですが、海外から日本に帰国して直ぐにコープランド先生は没し、今は山手の外人墓地に梅子さんと御夫婦寄り添っている様に御廟所に眠っておられます。
横浜人としても、日本人としても感謝しないといけない親日外国人の先駆者と言う訳ですね。

もちろん、KIRINサンもコープランドサンの偉業を忘れてはおらず、公式ホームページで顕彰文を掲載しています。
コープランド
KIRIN公式ページ「ビール醸造のパイオニアたち 」←ココをクリックすればリンクします。

さて、麒麟公園には当然、KIRINの皆さんが建てたと思われる巨大な石碑や顕彰碑も有ります。
2015-07-29-11-22-13
それが冒頭に掲載した写真ですね。
その横には御覧の通り、金属製の歴史を説明した顕彰碑も在ります。
2015-07-29-11-22-36
以前も小生の歴史観を書いた事が有りますが…
2015-07-29-11-23-01
2015-07-29-11-23-07
今有る我々の生活は、昔の人の多くの苦労とちょっとの成功と幸せの上で成り立ってるんです。
それは正に、幕末の外国人居留地の外国人の為にビール製造を始め、後に日本文化を紹介する事業を展開して下さったコープランド先生の人生が、小生の歴史観念を全て体現している様に思えてなりません。
…晩年、余り経済的に幸せとは言えなかったかも知れませんがコープランド先生!
貴方と貴女の奥方の偉業を小生の様に忘れない日本人が、まだ平成27年に成ってもちゃんと居ますよ!
どうぞ、山手で安らかに眠って下さい。
そしてコープランド先生、御願いです。
また、日本人が幕末や明治のような困難、大正期の大震災の様な苦難に直面する時は、どうぞ、日本人の鎌倉武士の宗教観ではありますが、偉大な先人として神仏として後輩である我々を見守って下さい。
実際にこれから起きる事を解決できるのは、コープランド先生や先人の記録を活用する我々の側ですが、見守って下さっていると思う事で、同じ困難に直面した際の解決方法が思いつくかも知れません。

次回の記事は、この記事の後編としてKIRINグループの創業に関わった歴史偉人の話をしたいと思います。
では!また次の記事で御会いしましょう!

↑このページのトップヘ