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タグ:執権北条家

昨日は01月13日でした。
陰暦:建久十年一月十三日
陽暦:1199年02月09日
源頼朝公
820年前の昨日、源頼朝公が“落馬”して亡くなったと歴史に興味無い人は学校が教える事実確認してない適当な情報を擦り込まれる。

実は記録上は体調不良から死んでおり即死ではない。
頼朝公妻である北条政子様の妹、稲毛重成の妻が亡くなり供養も兼ねて相模川に橋がかけられ、その橋の開通式で落馬した。
昔の人は善行を行い死者を弔う事が有った。
つまり、開通式直前に稲毛重成の妻の、つまり義理の妹の供養の宴会に参加していた事が判る。そして体調不良に成る。
稲毛重成は後に源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公に無実の罪を着せる讒言(ざんげん=他人を嵌めるデマ)を義理の父の北条時政等に言い、それにより畠山重忠公は殺害される。
更に稲毛重成自身がデマで畠山重忠を殺させたとして稲毛一族は北条家と当時はグルだった三浦家や伊豆の宇佐美に殺害される。
この時に稲毛一族を殺害して回った全員が工藤祐経公と伊東祐親公の遺産相続から発生した派閥抗争からみの人物だった。
曽我兄弟の敵討ち事件が北条時政による頼朝公暗殺未遂だと思われる一因でもある。
まぁ、この曽我兄弟事件の時は頼朝公の警護をした横浜市磯子区、歌手“ゆず”の岡村町一帯の殿様だった平子有長公の活躍で暗殺は阻止された。
そこ等辺は以前、平子有長公が開いた岡村天満宮の紹介記事でも触れている。
記事リンク⤵️
頼朝公の死亡の様子は小生は医療の専門化でも無く専門知識も無いが“落馬”する程の宴会からの急な体調不良は毒殺未遂だろう。
そこから急死してるので落馬に見せかけた脳挫傷や何かなら体調不良後→撲殺だろう。
“落馬”とされた相模川の橋の上の事件当時の随兵(親衛隊)が頼朝公を守れなかったと北条時政等幹部から言いがかりで、その場で全員粛清されてる。
これは随兵は戦闘に巻き込まれ殺害されていると考えた方が自然だろう。
状況的に法要の席で食事に混ぜたヒ素での暗殺が失敗し翌日式典で前後から視界を隠せる橋の上で随兵もろとも撲殺暗殺されたんだろう。 
実は頼朝公の没後に跡を継いだ御子息の源頼家公も同じ様に不可解な体調で危篤(きとく=意識不明)に成った事が有る。
そして頼家公は奇跡的に回復してから己が母方の北条家に暗殺されかけたと断定し「北条家討伐の密命」を和田義盛公等に出しているが、和田義盛公は三浦一族、そもそも、この時点で北条家のグルとまではいかなくても身内の三浦や縁の有る北条家を討つのに躊躇(ちゅうちょ)したのだろう。
和田義盛公の築城した城の造りは平安末期~鎌倉時代初期とは思えぬ、戦国時代の縄張りに酷似しており、所領は少なくとも街道に通行税を取り立てる関所を設けたり室町時代の武将の様に貨幣経済の概念を持っていたり理知的な人だった。だから和田義盛公は頼家公の密命の真相を“公平に確認しようとし”て北条家に密書を見せてしまう。
結果的に頼家公は北条家に薬殺ではなく、今度は入浴中に首を絞められ中々死なないので局部を切り落とされた挙げ句に惨殺される。
この直前、源頼朝公や頼家公が頼りにしていた比企能員公や梶原景時公も畠山重忠公同様に謀殺されている。
完全に計画的な将軍家潰しだろう。
欲にまみれた老害の北条時政とその子等が工藤兄弟や伊東祐親公の遺恨を利用した頼朝公暗殺による幕府横領を三浦一族と共謀したと考えた方が自然だろう。
そして、その陰謀の一つ畠山重忠公謀殺の実行犯が稲毛重成で稲毛重成の亡妻の父が北条時政に当たる。普通に考えて頼朝公は稲毛重成や北条時政に毒を盛られ暗殺未遂が起き、相模川の橋の上で護衛の武士もろとも殺害されたと考えた方が自然な訳だ。
そして全てを知る稲毛重成も謀殺された訳だ。

まぁしかし、北条家が天下を掌握しなければ北条時宗公は生まれなかったので、元寇から日本を守ったのは北条家とも言えるし、その政権の形を作り武士文化を生み出した源頼朝公はやはり偉大な人物だし、源頼朝公を初期に助けた最大の功労者の三浦義明公や三浦義澄公がいたから鎌倉幕府は成立した。
誤解される人も多いが実は源頼朝公は非常に恩情深い。敵対しても必ず事情を聞くし、相手側にやむを得ない事情が有り自分に矢を向けた武将も許し信頼し重用しているし、助命する事も多々有った。
畠山重忠公、伊東祐親公、大庭家なんかはその典型だ。
しかも頼朝公は口説いた女性は皆必ず大切にした。
決して冷淡な人ではなく理知的で人情にも厚い人だった。
逆に善玉と誤解する人の多い源義経は部下の手柄を自分手柄の様に報告するパワハラ、当時の武士は正義と礼儀が重要なのに戦いで打ち負かした敵の平家側の非戦闘員の女性をレイプした事がレイプされた女性の記録に残ってたり、口説いた愛人は何十人もいたり、その何十人の愛人を京都から逃げる時に同行させたのに脱落者を助けず見捨てたり。
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写真は金沢区の太寧寺。
別の弟の源範頼公は秦の翦将軍並みに優秀な大将だった上に、北関東の武士団に強く支持されていたので北条家や三浦家の南関東派閥から警戒され蟄居させられた上に、横浜市金沢区の太寧寺で自害に追い込まれた。
大寧寺の記事でその事は紹介しているので、興味の有る人は記事の下の“タグ「太寧寺」「源範頼」”をクリックすると太寧寺の記事を読めます。

色々、思惑が有り人の評価はねじ曲げられる。

一人一人の不幸なボタンの掛け違いが頼朝公暗殺や頼家公暗殺に繋がってしまったんだ。
ボタンの掛け違いは必ず最初からかけ直さないと大事故大事件に繋がる典型が源頼朝公の回りで起きた事件。

820年前の昨日はそんな日でした。

前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
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普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
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上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
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上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
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写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
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鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
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澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
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すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
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そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
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ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
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そして波多野家の詰め城も近い。
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仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
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今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
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立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
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正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
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まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
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金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

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御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
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鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

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現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
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可愛らしい小僧様。

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本堂も立派。

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本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
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生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
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又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
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金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

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御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

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余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
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半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
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山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
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ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
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調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
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→次回その④へ続く。

皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホの左派市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にあり(現在の東漸寺運営)ー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










皆さんは鎌倉に宝戒寺と言う立派な御寺が在る事を御存知でしょうか?
多分、歴史が好きだったり御朱印受領の神社仏閣巡りをしている人なら知ってる人は多いと思います。
しかし歴史を知らない人は全く知らない御寺でしょう。
鎌倉江の島七福神巡りの一所として有名で、毘沙門天様の御朱印を頂く事が出来ます。
この毘沙門天様を崇拝する事で勝運来福の御利益に預かれる訳ですが、他にも具体的にこの御寺に関わった歴史偉人の実績からも、その偉人達の勝負運と幸運に肖(あやか)れるのかも知れません。
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この御寺、正式な名称は・・・
金龍山(きんりゅうざん)釈満院(しゃくまんいん)圓頓寶戒寺(えんどんほうかいじ)と言って鎌倉幕府第二代執権(しっけん:幕府の首相)の北条義時の邸宅跡で、その邸宅は小町邸と呼ばれていました。その小町邸は彼以後も歴代の北条得宗家(とくそうけ:北条家の本家)の邸宅として使用された土地でした。
しかし鎌倉幕府の歴史にも終焉の時が来ます。
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上の写真の七里ヶ浜から干潮の稲村ヶ崎の干上がった海辺を通り新田義貞の大軍が鎌倉市街地に乱入して鎌倉幕府を滅亡させます。その際の彼の行いは極悪非道で鎌倉に至るまでも多くの神社仏閣で略奪放火をして回ったので幕府軍は劣勢に立たされても降伏する選択肢は無く、全員が執権の小町邸に集結すると、その背後に在った東勝寺の矢倉(やぐら:墳墓を置く横穴式人工洞穴)に移動し集団自決しました。
宝戒寺と東勝寺跡と腹切り矢倉の位置関係 久良岐のよし
位置関係は御覧の通り。
さて、そんな後醍醐天皇と新田義貞によって滅亡させられた北条家ですが元寇の際に朝鮮軍と元朝の中国軍の侵略から日本を守った功労者一族として現代でも評価されており、勿論(もちろん)、後醍醐天皇も北条一族を滅ぼしても功績に対して敬意を払っていました。
そんな訳で滅ぼした北条一族を無碍(むげ)にする事無く、鎌倉幕府の滅亡後、臣下の足利尊氏公に命じて旧北条家小町邸に北条家の菩提を弔う為(ため)の菩提寺として開かせたのが現在の宝戒寺です。
後醍醐天皇は、どちらかと言うと天台宗よりも修験道や真言宗と日本古来の神様の神話を大切にされた方でした。しかし、この宝戒寺の面白い所は後醍醐天皇と天台宗のコラボした御寺である事です。
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宝戒寺では素敵な亀甲型の巨石の石畳と豊かな緑の参道が参拝客を出迎えてくれます。
そんな宝戒寺ですが、後醍醐天皇が天台宗の御寺として宝戒寺を開いたのは恐らく北条家の宗旨が現在の臨済宗の元に成った天台宗の一派の禅宗臨済派だったからでしょう。
後醍醐天皇は政治面では腐れ貴族達に利用され、実際は権力を持てず結局は妃(きさき)を嫁がせた北畠家の利権の為に利用され、後醍醐天皇による建武の新政権樹立、俗に言う建武親政の開始に貢献した武士達には公平な新恩給与つまり新たに倒幕の褒美として給与地と成る所領の分配が行われずに武士達の不平不満が募り、建武政権は事実上破綻します。
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この時に利権を貪った北畠家は村上源氏の出身の為、同族であり後に多くの名将を輩出する事に成る村上源氏の武将達も後醍醐天皇側に与力(よりき:味方する事)して、北畠一族及び貴族と新田義貞達と南朝政権を維持する軍閥化していきます。
北畠家勢力と腐れ利権貴族の排除の兵を挙げた足利尊氏公を旗頭とする勢力は北畠氏排除にまで力及ばずに後の北朝政権を樹立して後醍醐天皇を手放さない南朝勢力と対立して行く事に成ります。
そんな経緯も有って、対立の激化の過程で一時的に関東の統治者として派遣された後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)もやはり外祖父が北畠一族の源朝臣(みなもとのあそん)北畠師親(もろちか)でした。更に護良親王の妃(きさき:妻)も北畠師親の孫の北畠親房の息女(そくじょ:娘)でした。
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この北畠一族に実質乗っ取られていたのが後醍醐天皇の建武政権だった訳ですが北畠一族は更に統治者の不在と成った陸奥国(東北地方)で産出される金の利権を押さえる為か策を巡らして、近親者で皇子の護良親王を介して後醍醐天皇に陸奥将軍府を設置させ上で北畠一族の北畠顕家(あきいえ)を東北地方の事実上の総帥である陸奥守に推薦させます。そして、まんまと北畠顕家に陸奥守補任(ほにん:官職に任命される事)を成功させます。
この北畠顕家、実は護良親王の御妃とは兄妹の関係です。つまり完全に北畠家が鎌倉幕府の武士達から奪取した利権を公益の為に分配せずに私物化してしまった訳です。
事ここに至って、後醍醐天皇に味方した武士達の心は離れて更に多くの者が足利尊氏公と光厳天皇の樹立した北朝派に靡(なび)いて行く事に成り南朝と呼ばれた後醍醐天皇の系統の勢力は減衰して行く事に成ります。
もし北畠家が私腹を肥やさず、後醍醐天皇が平等に武士達の功績を評価して土地を分配していれば間違いなく南北朝の動乱は発生せず室町時代の応仁の乱の動乱を招く事も無く、日本文化も更に発展したかも知れませんね。
そして神仏習合の文化を大切にした後醍醐天皇の偉大さは評価され歴代天皇が大切にした神仏を分離する事無く仏教文化と神道文化は共存したままの伝統が明治時代の西暦1900年代以降も続いたのかも知れません。もっとも建武政権が成功したifが発生する時点で明治政府も存在しないので「if」を語る価値は毛程も無く、北畠家が私腹を肥やし腐れ貴族が楠木正成公の戦略を否定したせいで南北朝の動乱が発生した事実だけが残る訳ですが・・・
そう言った意味では日本レベルに国賊に値するのが北畠家であり、後醍醐天皇から見て逆臣に当たるのが足利尊氏公に成る訳です。そして後醍醐天皇も古来の中国皇帝や日本の天皇家の悪例を踏んでしまい外戚(がいせき:嫁方縁者)の暴走を治めれなかった時点で統治者としては無力だったのかも知れません。
しかし、初期段階で後醍醐天皇は足利尊氏公を非常に評価していたので、宝戒寺の建立を命令したり節目で宗教的に精神的に大切な役割を御命じに成ったのでしょう。

まぁ~ここまで書くと「何だ久良岐のよしってのは南朝を罵倒する不届き者か!」と思う人もいるかも知れませんんが実は小生の祖先は南朝方の大功臣です(笑)。
大切な事は、本来の日本文化と言うのは腐れ儒教に毒された年功序列江戸時代や特に明治以降の価値観とは異なって、家柄の他にも実力や功績によって評価されて引き立てられる文化が存在したと言う事実を示した訳です。
更に勇敢に戦った戦没者や結果的に国と国民の為に成る功績を残した者は敵味方の分け隔てなく経緯を以(もっ)て仏教に基づいて供養したり神道に基づいて御霊を御祀(まつ)りすると言うのが日本人の精神文化だと言う実例が、この宝戒寺の存在であると言う結論に至る訳です。
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この宝戒寺は日本の為に力を発揮した鎌倉幕府執権北条家、そして後醍醐天皇と足利尊氏公と言う現在の日本の形を作り上げた礎の一端を担った英雄偉人達の関わった凄い御寺なのは伝わったでしょうか?
更に戦国時代が終焉を向かえると、天台宗の高僧であり徳川家康公の軍師でもある南光坊 天海 大僧正によって宝戒寺の保護が願い出られて幕府によって存続させられて現在に至ります。
そんな凄い所縁(ゆかり)を持つ御寺なのに、現代では庶民の我々に優しい御寺で御朱印を頂きに上がったり景色を見て参拝に上がると本殿の中に上がらせて頂く事が出来ます。
下の写真は上野の寛永寺の開山堂両大師様。
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この寛容さは天台宗の凄い御寺に良く有る事なのですが、例えば天海大僧正が開いた江戸城鎮護の大寺院、上野の寛永寺の開山堂である両大師様も御参りすると御本堂に上げて頂けます。
天海大僧正は神様も大切にされた方なので、家康公を祀る東照宮の造営にも関与したのか参道に塔頭寺院を建立していたりします。
下の写真が久能山東照宮の参道に在る塔頭の徳恩院です。
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そんな天台宗の文化と英雄達の関わった鎌倉の宝戒寺は花の綺麗な御寺としても知られています。
今の季節、秋だと・・・宝戒寺様も御花の紹介に力を入れてらしゃるので季節ごとに纏めてみましょうか?
【秋】
彼岸花・ホトトギス・つわぶき・酔芙蓉(すいふよう)・萩・紅葉
【初春】
水仙・蝋梅(ろうばい)・梅・福寿草
【晩春】
桜・木瓜(ぼけ:素戔嗚尊の神話の花)・無患子(むくろじ:子供の疫病除けの花)・白木蓮
【夏】
水蓮・百日紅(さるすべり)・花虎の尾
こんな花を見る事が出来るそうです。
小生は2014年の7月21日、夏の真っ盛りに訪れたので余り多くの御花を見る事は出来ませんでした。
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しかし緑豊かな御庭を散策させて頂き、暑い中清々しい気持ちに成りました。
この日は、宝戒寺様への参拝の後、確か本覚寺様を御参りして同じく鎌倉江の島七福神の夷(えびす)尊神様の御朱印を頂いてから鶴岡八幡宮を参拝して大鞆別命(おおともわけのみこと)=応神天皇と源頼義公と源義家公と源頼朝公と頼家公の御霊に御挨拶をして帰りました。

そうだ!
もし鎌倉江の島七福神に御興味有る方、是非、関係先の御寺で販売している専用の色紙を購入して下さい!
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とっても可愛い七福神様の絵が描かれていて額装すれば記念に部屋に飾って毎日拝めば諸々の御利益にも預かれるかも知れませんね!そして・・・
この神社仏閣を我々現代人に残し日本文化と自然と風景の美しさを残して下さった先人に感謝する事も出来ます。
鎌倉江の島七福神会様の公式ホームページより拝借 久良岐のよし


宝戒寺様のアドレスも以下に掲載します。
【金龍山釈満院圓頓寶戒寺(略称:宝戒寺)】さて皆さん、宝戒寺が歴史的にも関与した人物達も御利益も素晴らしく雰囲気の良い御寺さんである事は伝わったでしょうか?鶴岡八幡宮からも近い立地なので、是非、鎌倉観光の際は鎌倉・江の島七福神巡りと専用御朱印色紙、頭の隅に置いておいて参詣して見て下さいね!
そして出来たら仏様と神様に御参りした際に歴史偉人達にも今の私達の生活が先人の御蔭で有る事を感謝してみて下さい。

では!又、次の解説記事で御会い所ましょう!






前の記事・・・
コレ→【前半:能見堂編】世界屈指の景勝地だった能見堂と鎌倉幕府重鎮金澤北条家の居城青ヶ台城址・・・金沢区
・・・の続きの後編。

前の記事では能見堂と言う、金沢八景の八ヵ所の景勝地を見渡せる場所として室町時代~江戸時代まで先人達に大切にされた場所を紹介しました。
その中で少し触れましたが、能見堂は実は日本城郭大系に記載されている青ヶ台城の一部として鎌倉時代末期に機能していたと推測出来る事と、日本城郭大系の青ヶ台城推定地は間違いではないけれど完全でも無いと指摘して余り詳しくは解説せずに能見堂の解説を行い前編として終了しました。
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その際にも掲載した写真なのですが能見堂は城郭マニアから見ると、どっからどうみても重要な曲輪の遺構の土塁が今も現存しており・・・
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更に、その能見堂入口は元々は木戸で塞がれていた城門の一つ土塁残存部か、能見堂の曲輪に入らないと先に進めない枡形虎口の土塁だった構造が現存している事も紹介しました。

さて・・・
この能見堂は日本城郭大系には青ヶ台城の一部としては紹介されておらず「東青ヶ台の地名は現在では残らない」と言う事実を述べた後で、その地区の城址に関する考察はしないまま「西青ヶ台と呼ばれた地域の阿王ヶ台団地にだけ地名が残っている」という事実と西側の城跡部分の紹介だけをして終わってしまっています。
推定の破壊され消滅した城跡は阿王ヶ台団地の“有る側の”菱形台地である旨が紹介されていたりします。下の写真が阿王ヶ台団地。
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この日本城郭大系を丸のみにして書かれていない部分まで触れない人達は「東側の台地も東青ヶ台と書かれているヒント」を読み解いていませんので、東横レジデンシャル辺りが城址だと書いている人も良く見かけます。
さて先生方が当時、何らかの事情で東側の開発を行った業者に配慮する必要が有ったかは謎ですが、東側の解説について話題を積極的に触れないのは少々不自然な印象を小生は受けました。先生方は当然、この能見堂にも足を運んでいる筈なので、“敢えて書きたくない事情”が有ったのかも知れませんね。


さて、ここからが小生の解説ですが、その前に日本城郭大系を編纂した先生方には御存命中の方もいらっしゃるので先に敢えて秘したであろう東側に触れる事を懺悔をしておきます・・・
「日本城郭大系を編纂した先生方、申し訳ございません。部分的に否定的な事を今回は書きますが、先生方の事業は偉大で、横浜市内の城の存在を知らなかった頃~現在に至るまで教本として拝読させて頂いております。当然、この偉大な事業を行った先生方は学者嫌いの小生ですが尊敬しており侮辱の意図は毛頭無く、それを踏まえて今回は恐らく未調査の能見堂の事と、何故先生達が阿王ヶ台団地の台地だけを城跡として紹介したかの原因の推論と小生の推定城域を解説させて頂きます。」
・・・では!解説に!
新編武蔵風土記稿には以下の様に城跡が紹介されています。

※暫(しばら)く文字だらけに成りますが我慢して読んで下さい(笑)!

※以下( )内の字は旧字体を現代の新字体した字と読み方。
舊蹟(旧跡)城山
高札場より北の方なる山を云(言う)、此(この)山相對(あいたい)して二つあり①、都(すべ)て青野臺(台)②と唱(とな)へ、又東青野西青野と分(わけ)てよべり③、古(いにしえ)金澤右馬助(うまのすけ※官位名)④が居城の地なりと云、山上平かにしていかにも城壘(塁)なとかまえし所と見えたり、右馬助がこと其(その)傳(つた)へ定かならざれど-以下省略-

・・・さて、先ず、この文中で登場した金澤右馬助と言う人物の正体ですが実はとても偉い人物です。この人物の省略名は金沢(かねさわ)北条貞顕(さだあき)公の事を指していて、この方は鎌倉幕府滅亡直前の最後から2番目の執権(しっけん)、つまり鎌倉幕府の総理大臣を務めた人物でした。

そして青ヶ台城の解説として着目すべき地形の特徴と当時の地名も文中に書かれています。
御城の在(あ)った場所は高札場の北側の山で青野台と呼ばれていました。
青野台は向かい合って2つの山から構成されていました。
東西で向かい合う様(よう)な形の青野台は、その位置から東青野、西青野と分けて呼ばれていました。

さて、この①~④だけ読むと何だか現在、阿王ヶ台と呼ばれている台地だけがそれらしく感じてしまい、現在の阿王ヶ台地区の中で東西に山並みが向き合っているのかな?と現地を訪問しないと勘違いしてしまいます。
まぁ、そもそもの地名が青野台(あおのだい)なので、恐らく江戸時代には阿王台(あおうのだい)と文字が転訛して書かれていたのを移民だらけの横浜市役所の役人が地名の読み方を誤って他都市の地名風に阿王台(あおうがだい)と呼んでしまい、更に御丁寧に誤った発音のルビを足(た)して「阿王」+「ヶ」+「台」と地名改変してしまったんでしょう。
これは御役人に横浜市域の事情を知る地元民が少ないならではの事情ですね。

さて、これだけを見ても現代では大まかな位置関係しか解らず“高札場の北側の山の上一帯”と言う事しか分かりません。
そこで調べなければいけないのが“高札場の位置”なのですが、現代では役所も教育委員会も旧地名を把握していませんし、そのせいで恐らく日本城郭大系を編纂した先生達は高札場の位置が詳しく解らなかった可能性も有ります。
城址の位置を紐解くには実は先に紹介した新編武蔵風土記稿の“舊蹟城山”の項目だけ見ても解りません。
先ずは周辺の地理を見て見ましょう。
金澤領赤井村小名大橋の位置 久良岐のよし
※拡大して見て下さい。
高札場は村の旧住所で小名:大橋に在ったとされますが、この「大橋は村の中程に在る」と言う主旨が書いて有ります。この場合の中程と言うのは東西の位置関係を示します。
その村の小名の位置関係を以下に紹介します。
【小名】
赤坂     村の中程を云(言う)
赤井     東の端なり
御中井    中程なり、爰(ここ)に御中井と呼る井戸あり、名義詳(つまびらか)ならず、
宮谷(みやがや) 西の方を云
和田      (宮谷と)同じ方にあり
大橋     中程を云、爰に大橋と呼(よぶ)橋ある故(ゆえ)此(この)名あり、
瀧(たき)    艮(うしとら:北東)の方を云、此所(ここ)に不動山と稱(称)する山あり山上に-以下省略-

【川】
西南の方坂本村より村内に入、川幅二間(にけん:約3.6m)許(ばかり)、手子明神の前にては宮川と呼り

・・・さて、旧北条家臣の御子孫で新編武蔵風土記稿を編纂した学者で東大の前身昌平坂学問所の頭取だった間宮士信さんは以上のヒントを後世でも解る様に残して下さっています。これから大凡(おおよそ)の位置を把握できます。それに加えて以下の取材結果の情報も紹介します。
【正法院御住職談】
「大橋と言う地名が何処かは今では解らないけれど、御仲井(風土記では御中井と書く)の辺りには屋号が"お橋"の家が昔居たんだよ」
この「お橋」は恐らく大橋を指します。
実は!小生を含め久良岐郡の浜っ子は地名の“大(おお)”の字の発音を省略して「大(お)」と呼ぶ事が有ります。その例が電車の到着音に「ゆず」の「夏色」がかかる「上大岡(かみおおか)駅」です。駅のアナウンスや他地域から引っ越してきた人は「上大岡(かみおおおか)」と御丁寧に面倒臭い「お」の発音を3つ全部読んでしまいますが、浜っ子はそうは読みません。正しくは上大岡(かみおおか)と呼ぶのですが、それも移民だらけに成って知らない人の方が増えているのかも知れませんね。

この様な地名の呼び方や発音の変化は横浜市周辺の極狭い地域でも有って、例えば鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)の発音も我々神奈川県湘南地域に近い地元民は「由比ヶ浜(ゆ↓いがはま)」と「い」の発音を低くしますが、それを知らない東京や他地域からの観光客は「由比ヶ浜(ゆ↑いがはま)」と「い」の発音を強調して発音してしまいます。これは本来の「由比」と言う地名を知っているかどうか認識の差に起因しています。
他にも読み方自体が変化する例も有ります。
例えば・・・
●鎌倉市の「扇ヶ谷(おおぎがやつ)」
●横浜市の「幸ヶ谷(こうがや)」
・・・この様に隣同士の久良岐郡域と鎌倉郡域で〇ヶ谷の読み方でも訛(なま)りが異なる事実も有ります。
まぁ、そんな訳で久良岐郡域である上大岡同様に、金澤領の赤井村の小名:大橋は大橋(おはし)と発音した事が正法院の御住職の御話から推測出来ます。
そして御仲居と昔呼ばれた地区は現代では宮川左支川と言う宮川支流が暗渠化しており、“大橋”は現代では消滅してしまっている事も解ります。

では、これらの情報を元に暗渠化された宮川支川の位置から大橋(おはし)の位置を推測し、他の地域の小名と一緒に位置関係を表示してみましょう。
旧赤井村小名位置関係 久良岐のよし
※写真は国土地理院の色別標高図をGoogle earthに重ねて登録した各地域の位置を合成したもの。
これを見ると解りますが、「村の中程」と表記された坂本村、御中居、大橋は若干左右にブレており東青野~西青野の両地域のど真ん中ながら両方の台地に跨って新編武蔵風土記稿は「村の中程」と表現している事が解ります。
そして現在の能見堂緑地~阿王ヶ台にかけてを「高札場より北の方なる山を云」と広範囲指して表現している事も解ります。更に、実際の地形は東青野も西青野も赤坂村からしか容易に侵入できない断崖絶壁が続いている事から、赤坂村が青ヶ台城の大手口だったと推測出来て、日本城郭大系で指摘されている“西青野の菱形の台地”も城址の一部である事が解ります。
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上の写真は赤坂公園付近から見た旧東青野台。
下の写真は略(ほぼ)同一から見た旧西青野台。
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とても険阻な地形で、ここからしか大軍で侵入出来ないので防衛に適した東西の台地から敵を鶴翼の配置で挟撃殲滅する事が出来ます。
青ヶ台城地形 久良岐のよし
そして小生は鎌倉時代に海に突き出した能見堂~不動山の半島も金沢湾を守る城の最東端であり城域だったと推測し本丸跡は丁度、西青野台と東青野台の繋ぎ目の能見台南小学校東側の青野台の最高所辺りで、状況的に赤坂~西青野台の東端は城の大手口、東青野台よりに城砦群の多くが存在したと地形的に推測しています。その根拠と成るのが籠城に必須の“水の確保”で、小生が本丸と推測する辺りの東側には大きな湧水と沢を集め池が存在して事、それに加えて能見堂の土塁群と東側の尾根地形は平安~鎌倉時代達に好んで築城された地形であり西青野台(現在の阿王ヶ台)地域より高所に位置するからです。
赤井村 久良岐のよし
※実は2017年11月18日に親切な能見台の住民の方から「不動池は恐らく現代の調整池として整備された人工地形のはず」と御指摘を頂きましたが迅速測図と言う明治初期の地形図を見ると昔から不動池の人口地形が存在している事が判ります。
この不動池の谷戸は竪堀と用水地を兼ねた役割を果たしていた様です。
実は不動池の在る能見堂の北面ではなく、南面の現在は“赤井谷公園”も池だった事が改めて迅速測図を見直して判明したので画像も掲載して置きます。
明治の不動池~赤井谷公園周辺 久良岐のよし
不動池の場所には当時から池だったと小生が誤認した人工地形の谷戸が有ります。城の竪堀を兼ねた平時は灌漑用水池を兼ねた水堀だったのかも知れませんね、水路も描かれているので沢を集めた水路が農業用水には成っていた様です。
では開発前の様子も国土地理院の航空写真で見て見ましょう。
不動池周辺地形写真 久良岐のよし
まだ能見堂緑地が畑地だった頃の空撮を見ると確かに不動池は四角形の人工地形が解ります、南側の谷と合わせて侵入経路を狭める竪堀の役割をする大空堀状の構造体だった事が解りますね。
そして能見堂周辺には人工的に四角く造成された削平地の畑が多く有り、これらが曲輪群だった事も想像に容易いでしょう。
つまり青ヶ台城は従来の日本城郭大系の言う所の西側説より、当時の写真を見ても能見堂周辺のより高所に位置する台地周辺に曲輪群と思しき地形が終戦直後も残っていた事が解ります。
そして、その能見堂一帯には南北の斜面に水源が確保されていたのでしょう。
恐らく現在の不動池と成った当時の大空堀地形に流れ込む水も小さな沢等の水源が有り、城の水確保の一助には成ったのは間違いないでしょう。明治時代の迅速測図の等高線を見ると農地1区画づつを囲む様に畦道にそって等高線が引かれており、不動池と成った大空堀状の地形にも水田が在る事から豊かな水が不動池側にも有った事が解りますね。
そして能見堂の丘を挟んで反対の南側には用水路も池も在る事も解ります。
明治の不動池~赤井谷公園周辺 久良岐のよし
南側の斜面には更に豊かな水源が在った様ですね。ですから推測ですが正法院裏山~能見堂にかけても地形的に城砦として機能していたはずですし、池に流れ込む沢の水源を守る曲輪も有った筈です。だから現在も正法院の裏山と金子鶏卵東側の断崖の先端辺りには人口地形が残っているかも知れませんね。
恐らくこちら側、能見堂方面の東青野台が昭和に着目されなかった付近の地名を"能見台"に改竄されて東青野台の地名を消されたからでしょう。
土着民以外が解らない“政治的工作”が行われたのかな?
開発した人間は“遺跡が出るとマズイ”人で、それを忖度(笑)した連中が市や県にいたのかも知れない。そして上行寺東遺跡の様に日本レベルで重要な武家金沢北条家の居城跡を潰してしまったのかも知れませんね。
秋の終わり頃に成りスズメバチや蛇の心配が無くなった頃に現地を探索して改めて皆さんに報告したいと思います。
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絶対に東側まで城が広がっていた状況証拠と地形と水場が有るからね。
調べない手は無い。

本来ならば神奈川県教育委員会や横浜市教育委員会がやるべき所なのだけれど、上行寺裏の稲荷山も“荒尾城址臭い”所も含めて調べられる“城郭専門家が横浜や県教委”には何故か不可解にいないんですよ~。鎌倉の隣であり北条家の主力が温存されていたのが横浜市なので当然、重要な城跡だらけなのにね。
調べられたら困る“市長”が歴代に多かったんでしょう。
マトモなのは建設族ながら教養と文化度の高かった細郷市長と高秀市長くらいか・・・
逆に御二人は建設族だったからこそ、建設利権に費やすべき予算を使って保護すべきものを保護する術を知っていたのかも知れない・・・
今の市長と前代市長とは大違いだな。まぁ、前の中田さんは横浜の日本最古級だった骨董品水道管を耐久性強い物に交換始め大震災に備えただけ良い市長さんだ。

では皆さん、又次の解説記事で御会いしましょう!






北鎌倉には建長寺と言う大寺院が在ります・・・
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正式名称は巨福山建長興国禪寺と言い、京都南禅寺を別格として除いた鎌倉五山、つまり関東の臨済宗寺院の内で五つの筆頭寺院の内の第一位に位置づけられた寺院です。
・・・この鎌倉五山の凄さと言うのは征夷大将軍しか歴代住職の任命権を有していなかった事からも解ると思います。
さて、この建長寺、鎌倉時代~戦国時代当時は多くの学僧や武士が修行に集まっていた大寺院でした。
ですから現代でも日本有数の規模を誇る大寺院として存在しています。
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とは言え、この北鎌倉周辺には他にも先月紹介した円覚寺と言う鎌倉五山第二位の大寺院も在ったりして、北鎌倉を散歩していると少々感覚がマヒして他の大寺院が小さく見えてしまったりします(笑)。
円覚寺の記事はココ→
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天下禪林・・・つまり天下に名の轟いた学問所寺院と言う事です。
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これでも現代は開基(かいき=神社仏閣を造営する事。日本語で使う創建は漢字の意味の誤用)当時と比べて明治政府の宗教政策や、太平洋戦争敗戦後に規模が縮小しているんです。
信じられない位、昔は広大な境内地を有しており、更に寺領と呼ばれる御寺の収入源となる寺院の領地も昔は境内地と別に存在していました。まぁ、それは明治政府の宗教政策で没収され、そのせいで多くの御寺のみならず神社も荒廃した所が多かったんですが・・・
とりあえず、今回は建長寺と建長寺に関わった歴史偉人の紹介だけして行こうと思います。
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さて、略称建長寺の山号は巨福山(こふくさん)と言いますが、これは鎌倉幕府を開いた源頼朝公が鎌倉市街地防衛の為に築いた市街をスッポリ取り囲む丘陵城塞群の中の7つしかない入口の一つ、巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの近くに在ったからです。
現在の鶴岡八幡宮の西側を通る巨福呂坂は近代に成って開削された新しい道で、トンネル入口に有る石碑は歴史に疎(うと)い現代人が設置すべき場所を間違ってしまっている訳ですが、小生の様な歴史好事家(オタク)や建長寺や鶴岡八幡宮の鶴岡文庫や鎌倉国宝館の様な文化と歴史を守ってらっしゃる組織の職員サンの多くはこの事を知っています。
巨福呂坂切通し位置 久良岐のよし
現代では住宅街に埋もれている谷間の細い道が、本来の鎌倉防衛の要だった巨福呂坂切通しの跡です。
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さてさて、そんな鎌倉防衛拠点の手前に立つ関東最大で最高格の臨済宗寺院、建長寺は昔は鎌倉武士達の学問所としても機能していた訳ですが、この御寺を最初に造営した開基様が鎌倉幕府第五代執権の北条時頼公です。
そして、モンゴルによって滅亡した南宋国から亡命してきた四川省出身の名僧で日本武士に禅の精神と故国の情報を叩き込んだ蘭渓道隆和尚が開山(かいざん=初代住職)と成りました。
つまり、当時はモンゴルやモンゴルに服属している朝鮮人によって何時、侵略戦争を仕掛けられるか解らず日本は周辺国から危険に晒されていた状況でした。
ですから、鎌倉幕府を蘭渓道隆和尚が頼ってきたのも、故国の南宋王朝が如何(いか)にして滅亡したか日本に伝え備えさせる目的が少なからず有ったと推測出来る訳です。
そして、当然、武士達も蘭渓道隆和尚を師と仰ぎ、和尚が伝えた学問を取り入れ日本人としての武士の気概と禅の平静を保つ精神と中国渡来の兵法を融合させ、モンゴルの威を借りる朝鮮人とモンゴル人征服王朝の中国元朝の侵略に対して備えた訳です。
事実、この時期には朝鮮がモンゴルの名を挙げ日本を外交的に脅迫し始めていた時期でした。
・・・まぁ、今も昔も朝鮮半島の政府は古代からずっと隙有らば日本を侵略しようと何度も攻めて来たり日本を裏切って来た歴史が有るので彼らは鎌倉時代も通常営業、今と同じですね。
まぁ、日本は蘭渓道隆和尚の教えによって戦場でも冷静に敵と対峙した鎌倉武士達の準備の甲斐有って、元寇で朝鮮軍と江南水軍を2度に渡って日本の武士団が撃退します。
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この座禅を取り入れた精神修養は後に鎌倉文化や武士文化の形成に大きな影響を与えて行く事に成ります。
鎌倉時代以来~室町時代そして江戸時代に成るまでは、禅と言うのは武士の精神修養の嗜みとして武士文化に取り込まれ現代に残りました。
当時の武士達は例え信心する宗派が臨済宗でない武士も平素、参禅して修行に励んだ様です。
そして、建長寺では蘭渓道隆和尚の影響も有り、禅の他にも中国語も教養として学び武士達に易学や兵法を学ぶ場としても機能していました。
蘭渓道隆和尚については、以前、常楽寺の記事でも紹介したので興味の有る人は読んで見て下さい→
因(ちな)みに建長寺、“けんちん汁”の発祥地だったりします。
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写真の画像は建長寺の物とは違いますが、建長寺近くに在る“鎌倉五山”と言う和食屋さんで提供しているケンチン汁です。
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建長寺では参禅すると、本家本元の“けんちん汁”を食べさせて貰う事が出来ます。
まぁ、なかなか観光でしか普通の人は鎌倉に行く用事も無いので、北鎌倉駅周辺の和食屋サンで提供している店に入るのがデートや家族連れだったら無難でしょう。
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建長寺に話を戻しますと、多くの武士から崇敬を集め、その武士達の子弟が幼い頃に入門し学問と精神修養に励む場所であり、日本中の学僧が集まる場所でもあったので現代でも国宝や重要文化財の建物が多く現存しています。
そんな建長寺なので、鎌倉武士達のみならず戦国時代にも名将を輩出しています。
その名は太田道灌(どうかん)、江戸城や河越(川越)城を築城した名築城家であり戦っては無敗を誇った名軍師で、扇谷上杉家の執権(しっけん)でした。
太田道灌公
今の政権に例えると官房長官や幹事長みたいなもんです。
当時、日本を統治していたのが君主=天皇家。
その統治を代行していたのが征夷大将軍足利家。
足利家の政治を分業実行していたのが管領と関東管領。
その関東管領を務めた家が犬懸(いぬかけ)上杉家、宅間(たくま)上杉家、扇谷(おおぎがやつ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家の上杉家の筆頭4家。
その家、室町時代中盤~戦国時代に関東管領と務めたのが扇谷上杉家と山内上杉家。
その扇谷上杉家の軍事と政治を取り仕切っていたのが、この太田道灌公でした。
この太田道灌公は幼い時から非常に頭が良かったそうで、幼少期には大人も論戦で言い負かす事が度々有ったので、道灌公の父上の道真公が「この子、将来、人を見下す子に育たない様にしないと危ない」と感じて、建長寺に入門させて幼い時は建長寺で僧侶達から人としての道や学問を教わって育ったと言われています。
残念ながら建長寺も数度の戦火や火災に遭っており、建長寺で道灌公が具体的にどんな生活をしていたかは今の職員さん達も解らなく成っています。
戦国時代末期に成ると、扇谷上杉家も滅亡寸前、関東の覇者は小田原城を本拠地にする北条(伊勢)家に変わっていました。
戦国時代に関東で随一の学者文化人としても有名だった建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)和尚は、太田道灌公とも親交が有った人物なのですが、この玉隠英璵和尚と北条家の治世化で交流の有ったのが北条家相模十四騎筆頭の間宮家でした。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
横浜市南区に今も在る真言宗の名古刹で、弘法大師空海和尚所縁の弘明寺の江戸時代までの扁額は、間宮家が寄進した物でしたが、その扁額を揮毫(きごう=字を書く)したのが玉隠英璵和尚で、90歳の時の事と絵図が文献の挿絵で残っています。
まぁ、昔の禅宗は武士の嗜みだったので、他宗派の僧侶からも歓迎されていた様です。
徳川家と間宮家に所縁深い静岡市の華陽院も浄土宗ですが、家康公の祖母の戒名も“禅尼”となっていたりしますからね。
そんな建長寺と関わった間宮家からは有名な北条綱成公の副将として稀有な活躍をした間宮康俊公や、その孫で徳川家康公に重用されて佐渡奉行、但馬奉行として金山や銀山経営で他の代官より抜きん出た実績を残し更には大坂城総掘りと真田丸埋め立ての作戦を立案した間宮直元公を輩出しています。
つまり、建長寺は名軍師を生みだして来た御寺な訳です。
これは蘭渓道隆和尚や北条時頼公が後世に残したソフト面での偉大な功績でしょう。
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さて、そんな建長寺、ソフト面だけでなくハードも立派な事は冒頭で申し上げた通り。
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凄く立派な仏様が参拝客を出迎えて下さいます。DSC_2102
仏様も立派なのですが、天井の装飾も立派ですよね?
実はこの仏殿、元は江姫の御廟所だった建物で、江戸時代の徳川将軍家の菩提寺、芝の増上寺に在ったのを御夫君で二代将軍の徳川秀忠公から建長寺の建替えに際して移譲され移築された建物なんですね。
徳川秀忠公の奥さんの江姫と言うのは別名で御江与様、つまり織田信長公の姪っ子で、浅井長政公と信長公の妹の市姫様の娘さんに当たる人物でした。
元々霊廟だったので、少し普通の仏殿と違った造りに成っているそうです。
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仏殿の横には何故(なぜ)か梟(ふくろう)の置物が・・・。
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仏殿の奥には金ピカの門が在ります。
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これも徳川秀忠公の寄進した唐門で、龍王殿の入口に成っています。立派ですね。
黒と金のデザインが、江戸時代初期、安土桃山時代の文化の雰囲気がまだ残る色使いに成っていますね。
徳川政権の前、豊臣秀吉が北野天満宮や二条城の伏見城遺構や大坂城天守を見る限り黒と金の組み合わせを好んで使っていた様です。
さて、建長寺は他にも立派な建物が現存しますが、小生は特に紹介して置きたい場所が有ります。
それは建長寺の“守護神”の半蔵坊という“神社”です。
日本の文化は本来は神仏習合と言って神様も仏様も同じ様に大切にしたり、水が湧く場所聖地や霊場として大切にされた山も崇拝対象にしていました。
ですから、明治時代の神仏分離令までは御寺にも沢山神社が在って、御寺の中で神官が神事を行ったり、逆に神様に和尚様達が御経を読んで天下万民の安寧を祈願したりしていたんですね。
明治時代の神仏分離令で多くの神社の中の仏様や、御寺の中の神社の神様は撤去されてしまいましたが、臨済宗や曹洞宗や浄土宗や真言宗と言う武家文化と密接な宗派は神様を今でも大切にしている場所が多く有ります。
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半蔵坊へは少し判り難い上の写真の参道が建長寺境内の左側に在ります。
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そこを進んで行くと、御寺なのに立派な鳥居が見えてきます。
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半蔵坊は天狗(てんぐ)様を祀る建長寺の守護神なので、鳥居をくぐり御社を目指すと沢山の天狗様が御出迎えして下さいます。
天狗信仰は関東では古い文化で、延喜式内社の大山阿夫利神社も江戸時代には大天狗と小天狗も崇拝対象に成っていました。
源義経が鞍馬山で天狗に剣術を教わったのは有名な話ですね。
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さて、この半蔵坊、現代に凄い御利益を発揮した事で有名だったりします。
実は阪神淡路大震災の時に、この建長寺を参拝して半蔵坊の災難除けの御守り札を頂いて来た人達の家は、一軒も被害に遭わなかったそうです。
まぁ良い地盤の地域に御住まいの方が多かったのかも知れませんが、普段から古い習慣を大切にして、心に一本、神様仏様への信仰を持っている様な人だからこそ地震被害の多い埋め立て地を居所にしなかったりしたのかも知れませんが、こう言うのは信じて厄除けして頂いて、自分の心を安らかにする事が既に御利益なんだと思います。
そして、神様仏様の御利益が実際に授かれれば、それに謙虚に感謝して、日々生かされていると感じれたら良いのだと思います。
小生も自分の土地神様と仏様の厄除け祈願の御守り以外に、家の玄関には半蔵坊様の御札と氏神様の御札を掲げています。
お蔭様で、何とか無事に生きています。そして遊び友達みたい浅い関係ではない、日本の親友と国境を越えた親友にも恵まれています。
そんな訳で、建長寺守護神の半蔵坊大権現は災害除けの御利益が有るので、建長寺に参拝するならば一緒に是非参拝する事をお勧めしたい場所だったりします。
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ここからの眺望や良く、写真の日は生憎(あいにく)の曇天でしたが、晴れていると相模湾も一望出来る景勝地でもあります。
ただ、ここに御参りするには建長寺オリジナルの御朱印帳が必要です。
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御朱印授与の場所で売っているので、半蔵坊の御札も頂くならば、鎌倉五山や鎌倉の臨済宗寺院巡りの為にも購入すると丁度良いかも知れませんね!
小生は建長寺と半蔵坊の御朱印を頂いてから、鎌倉五山の御寺を順位の順番に再訪しました。
残念ながら、寿福寺の現御住職は昨年くらいから御高齢で御体が不自由になられた様で、御朱印の対応が困難だと奥様から伝えられ、再度御朱印をこの朱印帳に頂くには至っておりません。
寿福寺も由緒正しく、昔は歴代御住職様は猊下(げいか)と武士や僧侶から敬称で呼ばれた御寺なので、早く御住職様の体調が良くなり復帰される事を祈るばかりです。

さて、建長寺、立派で御寺でしょう?
半蔵坊からの眺めも良いので、北鎌倉散歩の際は是非、訪れて見て下さい!
・・・まぁ、円覚寺や東慶寺や浄智寺、明月院や長寿寺って他にも御参りして置きたい御寺が沢山有るのが北鎌倉なので、鎌倉江ノ島七福神の御朱印巡りがてら、数度に分けて鎌倉訪問して建長寺も浄智寺と一緒に訪れたり、明月院の紫陽花観賞と一緒に訪れるのも良いかも知れませんね!

さて今日はここまで!
今週末は台湾の友人夫婦の来訪が有り、水曜日はその事を休日雑記に書くかも知れません。
では、又、次の解説記事か休日雑記で御逢いしましょう!

北鎌倉駅の裏には円覚寺と言う御寺が在ります。
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と言うか、円覚寺の境内にJR横須賀線の北鎌倉駅が開業しちゃったんですね。
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ですから参道には踏切も在ります。
円覚寺は正式には瑞鹿山圓覚興聖禅寺と言う名前で、東日本の臨済宗の寺院に置いて2番目に高い格式を鎌倉時代に皇族将軍家に認知され、執権である歴代北条家からも、その後の室町幕府の京都の歴代将軍家からも支援されて来た由緒有る御寺です。
それもその筈、この御寺は鎌倉幕府第八代執権の北条時宗公が開いた御寺なんだから立派で当たり前なんです。
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時宗公は、モンゴル元朝の威を借りた朝鮮半島の朝鮮人の脅迫に屈せず、中国江南地方の水軍と朝鮮の略奪と侵略目的の軍勢を相手に交戦する事を決め、日本を守った名宰相です。
しかしながら身分的には皇族将軍の陪臣と言う立場だったので、官職は左馬権守(さまのごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)、官位も正五位下に抑えられていました。
五位以上の官位でギリギリ内裏(天皇の御所の朝廷会議が行われる場所)に参内(さんだい=入る事)が出来る程度なので、日本への貢献度を考えると異常に低い官位でしょうね。
実際にやっている事は右大臣や太政大臣こそ相応な業績を残している訳ですから。
そんな訳で、没後に天皇家から征夷大将軍達と同じ従一位の官位を追贈されています。
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さて、そんな時宗公、何でこの御寺を建てたのかと言う理由が又、坂東武者らしい価値観に基づいており素晴らしい。
元寇の乱で亡くなった敵味方の戦士の慰霊の為でした。
本来の天皇家の血を引く「武士」と呼べる人々の考え方は神道的な考え方と仏教的な倫理観が融合していて、この北条時宗公も又、桓武天皇の御子孫に当たる人物なので、敵味方の区別なく勇敢に戦った武将や末端の兵士を分け隔てなく供養なさったのでしょう。
小生が時宗公を尊敬する所以(ゆえん=本来の中国語では「だから」の意味)でもあります。
小生は基本的に源氏の歴代殿様を暗殺して来た執権北条家は大嫌いです。
源頼朝公がいたから、今日の発展は有った訳です。しかも法治主義国家の基礎を築いたのも頼朝公ですからね。
北条時政や北条義時や北条政子と言うのは不義理で低文化な人間だと思っていますが、しかし彼らが合議制による民主主義の基本の様な価値観を武士に根付かせた事で、今日の日本人の思想は有るとも思っています。
小生は北条家の中でも、北条泰時公、北条実時公、北条時宗公は特に尊敬する人物でもあります。
ですから、小生は北条泰時公と北条実時公の名を菩提寺の御住職様に書いて頂いた色紙を大切にしています。
さて、円覚寺を開いた開基様=大旦那=オーナーが北条時宗公である事は説明しましたが、開山様=初代住職の話もしておきたいと思います。
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写真は円覚寺の山門。
この円覚寺の初代の御住職様は日本人ではありません。中国から来た無学祖元和尚が北条時宗公の要請で就任しました。
この無学祖元和尚は、モンゴル軍が日本の友邦であった南宋を攻めた際に、現在の温州にいましたが元の臣民に成るのを好(よし)とせず、日本に亡命してらっしゃいました。
これは鎌倉五山第一位、建長寺の蘭渓道隆和尚とも同じ経緯ですね。
蘭渓道隆和尚については以前、北条泰時公の菩提寺の大船に在る粟船山常楽寺の紹介を書いた時に少し紹介して有るので、興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。
←ここクリック!
さて、上の写真の通り円覚寺の山門は大変に立派な物ですが、伏見上皇の勅願(天皇の要請により祈祷や物事を成す事)で再建された建築遺産です。
実は円覚寺は大火で一度灰燼に帰す憂き目に遭っています。
それでも尚、天明年間に当時の天皇陛下から再建の要請が有ったのは、この御寺を建てた北条時宗公の日本に対する勲功の大きさと御威徳によるものでしょう。
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円覚寺は写真の様に、歴史を余り詳しくない観光客も読めば大切さが判る説明看板が親切に設置されています。
こう言うのをちゃんと読むと、新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿にも載っていない大切な伝承が書いて有ったりして歴史好きにとっても楽しかったりするんですよ~。
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この訪問時、2月8日は鎌倉の梅も陽当りの良い場所は七分咲き位に開いておりとても綺麗でした。
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山門を抜けると佛(仏)殿です。
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ここは大正十三年(1923年)の関東大震災で倒壊し、現在は内側は鉄筋コンクリートで再建されています。
外観は見事に旧状を留めた再建と成っていて、円覚寺の職員の僧侶の方々の文化意識の高さと、再建に尽力され費用を拠出された檀家衆の皆様に時代を経て神奈川県民、日本国民としての後輩として頭が下がる思いです。
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最近、浜松市の禅宗の某寺が左巻き歴史学者と一緒に、天皇家が守り神として神号を追贈した織田信長公をコケにする発言をしましたが、明治以前、本来は禅宗寺院も天皇家や神道的な価値観を非常に大切にする宗派だったので御覧の通り、円覚寺の仏殿の御本尊、寶(宝)冠釈迦如来様の前にも今上天皇聖寿万歳と書いて有ります。
左巻きバカ学者は織田家や天皇家を侮辱する事が大好きなんですね、何故なら某国にはいない民草を大切にした織田家は天皇家を復権させた立役者であり、神道的な古代の儀式を復興したり朝廷内の乱れ廃れていた文化儀礼をも復興した極めて「日本の良い所」を集めた人物だったからでしょう。
さて、再建された佛殿の天井には立派な龍の絵が描かれています。
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御参りした際は是非、天井を見上げて下さい!
仏殿を左手側から出ると選仏場と言う名の茅葺屋根の御堂が在ります。image
座禅を行う場でしたが、その後、座禅を行う場所が正続院に機能移転したので、ここは御堂としてのみ現在は機能しています。
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元々は座禅を行う場であり、経典を保管する蔵としても活用されていたそうです。
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中にはとても美しい観音様と仏様が祀られてらっしゃいます。
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ここも円覚寺で必ず立ち寄って仏様を拝んでおきたい場所でもあります。
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この訪問時、鎌倉の梅は七分咲きと言った所でしたが、どうやら傾向としてどの梅林も紅梅は先に開花する様です。円覚寺の紅梅さんも可愛らしく咲いた姿を見せてくれました。
可愛いなぁ~!
本当、花に例えるなら梅みたいな御嫁さんと一緒にいられたら幸せだろうなぁ~。
実を結ぶ、御互いに成長する人間関係、季節の変わり目を楽しめる人。そんな女性を連想するのは多分、変態の小生だけですね(笑)。
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さて、一頻り(ひとしきり=頻の本来の意味は区切りの意味。現在の中国語では頻道と書いてTVのchannelの意味で使われたりもする)平地の建物を回るといよいよ、奥院に当たる黄梅院と言う建物を目指す為に、谷戸に囲まれた登坂を登って行く事に成ります。
余談ですが、ちょくちょく小生の記事に登場しますが「坂」と言う字は古代では下り坂の意味しか有りませんでした。現在は平地の意味で使われる「ひら」と言う言葉こそが本来の登り坂と言う意味の古代語で、これは琉球語や古い縄文語に通じる言語に残っていたりします。
さて、そんな訳で谷合の平(ひら)を上がっていくと途中、左手に妙香池と言う溜池が有ります。
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現在の姿は昔の絵図から旧状を発掘復元した姿だそうです。
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綺麗な池ですよね。
放生池と言うのは、生き物の命を大切にする日本の放生祭と言う神事仏事を行う池の事で、本来、武士にとって高級な食材だった鯉等を殺さずに放流したりする池の事です。
源頼朝公も三島大社で放生祭を行っていますし、織田信長公の青春時代の御膝元で愛妻の生駒お塁さんの実家の有った愛知県江南市の久昌寺一帯で馬を放つ放生祭を行っています。江南市の放生祭神事は、明治以降の神仏分離で神社も御寺も衰退して行われなく成ってしまいました。
しかし円覚寺には妙香池が有る事で、この説明を見て疑問に感じた人がいれば調べて仏事神事に興味の無い人も歴史偉人達の教科書には載っていない性格の側面を知る事が出来たりします。
もっとも、小生の場合は直接偉人達の関係者を訪問して、昔、どんな事をやっていたか先に教えて頂くのですが。
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妙香池を過ぎると、上の写真の説明石柱が有る丁字路に出ます。
左手に進むと舎利殿が有ります。
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この奥…
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国宝指定を受けている建造物。
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ここは鎌倉幕府第三代将軍で頼朝公の御二男の源頼朝公が南宋より贈られた御釈迦様の歯を祀っている場所です。
舎利とは「捨てる」と言う意味ですが、仏舎利と言うのは御遺体の事を指します。
仏様に成ると言う事は生物的には死んでしまう訳ですね。
成仏と言う言葉の通りでしょう。
それと悟りを開くと言うのは又、別の意味の様で、だからこそ「生き仏」なんて言葉も有るのかも知れません。
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一般人は入れないのですが、とても立派な茅葺屋根の建物と御堂が見えました。
見るに正面の建物の作りは江戸時代の建築様式ですね。
破風が付いてますから。
でも上部の屋根は旧来の構造を模している様に見えます。
さて、門の前から御釈迦様と源実朝公(菩提寺は寿福寺)に御参りしたら、元の丁字路に戻り坂を上ると直ぐに下の写真の場所に辿り着きます。
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ここは佛日庵と言われる塔頭で、中に開基堂が在ります。
開基堂は、その名の通り日本を守った名宰相で円覚寺を造営した北条時宗公の御廟所です。
入口の門は現在では侵入不可ですが、脇に観光客用の通用門が設置されています。
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ここも円覚寺に来たら絶対に立ち寄りたい、小生の御勧めの場所です。
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この写真撮影日はまだまだでしたが、今頃は梅も綺麗な事でしょう。
ここでは美味しい抹茶を頂いきながら、時宗公の偉業を思ったり静かな時間を過ごす事が出来ます。
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御干菓子も付いてますよ!
カップルで参詣にも適しているデートコースだと思います。
ゆっくり休まして頂き、その後、時宗公に日本を元朝の威を借りた朝鮮の蛮兵の略奪侵略から守って下さった御礼を申し上げると、時宗公も「うむ」と思って下さるか「お前もシッカリやれよ」と見守って下さるかも知れません(笑)。
小生はどうだったんでしょう?
「日本の前に御前、もっとシッカリせ~よ」
と言われた気がします(笑)。
頑張ろう・・・先ずはダイエットしてムキムキマンに復活するの。
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中心の御堂に、時宗公達の御姿を写した彫像が祀られています。
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その左手の建物、佛日庵も入らせて頂く事が出来ます。
その手前右手にはコケの庭園が在りますが…
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これ、笑点の林家木久扇師匠の作庭です。
正直・・・幼少期にずっと美大受験生のオネイサン達に混じって絵と造形を学んでいた小生とは個人的にセンスが合いません(笑)。コンセプト不明( ´艸`)。
佛日庵を出ると、直ぐ近くに白鹿洞が在ります。
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現在は崩落して人が入れるスペースも無い様ですね。
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無学祖元和尚が説法をした際に、この白鹿洞から沢山の鹿が出て来て人々と共に説法を聞いたと伝承するそうですが、これが円覚寺の山号「瑞鹿山」の由来だそうです。
この洞穴、埋もれた場所に水流の跡が在る事、手前に埋没しているものの、水を堰き止める構造の跡が在る事から、恐らく鎌倉に良く見られる洞穴式の湧水を集める井戸と溜池の跡だと思います。この水を集めて、下の妙香池等に配水していたのだろうと、城マニアの小生は考えました。
小生の推測通りに湧水が有ったのなら、伝承の様に洞穴が崩落する前に洞穴内の池で鹿達が水を飲んでいて、説法が始まり大きな声に驚いて一斉に洞穴から出て来たとのかも知れませんね。
ここを過ぎると、いよいよ円覚寺の奥院、重要な黄梅院と言う塔頭寺院に着きます。
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ここは東慶寺の初代尼住職で北条時宗公の奥方の覚山尼様が開いた塔頭寺院です。
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それ故、円覚寺の守護神的な位置に当たる場所なのかも知れません。
建長寺の場合は半蔵坊の神社が黄梅院の役割を果たしていますね。
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当初は時宗公の菩提を弔う場所だったのですが、円覚寺第十五代の住職にして枯山水様式の日本庭園作庭の大家(たいか)として有名な夢窓疎石(むそうそせき)和尚が塔頭寺院としての機能を備える御堂を建てたそうです。
この夢窓疎石和尚は近江国の大名、六角佐々木家の御一門でした。
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室町時代に入り、第二代室町幕府征夷大将軍の足利義詮公の御分骨が埋葬され、それ以後は足利将軍家の室町時代の関東における菩提寺的な宗教的な意味を持つ場所に成ったと説明が有ります。
まぁ、足利家の鎌倉時代の鎌倉に於ける菩提寺は浄明寺、そして足利尊氏公の菩提寺は長寿寺なので、二代目以降の話だと思います。
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この日、ここでもちゃんと御参りをして、から黄梅院を立ち去りました。
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黄梅院の山門をくぐり山を下っていく途中、下りの右手には「續燈庵」と言う塔頭寺院が在ります。
燈火(ともしび)と言う字は、仏教では教えを受け継ぐ法脈を形容したりするので、ここも昔の何(いず)れかの円覚寺の御住職様と関係の深い場所だったのかも知れませんね。
残念ながら一般人は門の近くに行く事も出来ない場所なので、写真は遠くから写しました。
さて、山門の近くまで戻ってくると、自販機や売店や御朱印受付所が在り、参道入口方向に向かって右手には閻魔堂桂昌庵と言う塔頭が在ります。
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中には閻魔様が祀られているのですが・・・
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御堂に向かって左手に御住職様が開かれた弓道場が在るので、御堂の内部には弓矢がこれでもかと言う程置かれていました。奉納されたと言うよりは、閻魔様に保管して頂いているのでしょうかねぇ~?
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さて、円覚寺の説明は大凡(おおよそ)こんな所です。
実は先日の訪問で、北鎌倉駅の直ぐ裏に素敵な御茶屋さんを見つけたので前回、別個に紹介記事を書いたんですが、香下庵と言う茶房です。
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冬期~初春の間だけ、北鎌倉名物のけんちん汁が食べられますので、御勧めです。
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春からは別メニューになるそうですが、あんみつや御団子も美味しそうでした。
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梅越しに北鎌倉駅と横須賀線を見られる立地の御茶屋さん、こちらも合わせて訪問されると良いかと思います。

ではでは!又、次の解説記事で御逢いしましょう!
三月中旬は忙しくてブログ書けないかも知れません、ご容赦を!





北鎌倉駅から徒歩で行ける所に明月院と言う紫陽花(あじさい)の綺麗な御寺が在(あ)るのを御存知でしょうか?
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今、その明月院の紫陽花が見頃を迎えています。
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この明月院の歴史は平安時代末にまで遡(さかのぼ)れます。
御寺の起源は鎌倉幕府5代執権の北条時頼公の邸宅に仏様を祀(まつ)り、そこに8代執権の北条時宗公が南宋から亡命して来ていた中国大陸四川省出身の高僧の蘭渓道隆和尚を開山と定めて臨済宗の福源山禅興寺として再興したのが始まりです。
明月院はその禅興寺と言う御寺の塔頭(たっちゅう=会社で言ったら子会社みたいな感じ)として存在していました。
※蘭渓道隆和尚については以前記事、「常楽寺 」←ここクリックで関連記事へリンク。

しかし明月院は本院だった禅興寺よりも古く、そもそも平治の乱で源氏の源義朝公の与力として戦い討死にした首藤俊通(くどうとしみち)公の菩提寺の草庵として、その子の首藤経俊(つねとし)公が建てた明月庵が前身と言われています。
その明月庵を室町時代に明月院として立派な寺院化したのが山内上杉(やまのうちうえすぎ)憲方(のりかた)公でした。

しかし明治時代に廃仏毀釈と言う愚策が行われ、明治の初めに明月院の本院=本体であった禅興寺は廃寺に追い込まれましたが、明月院はその命脈を保つ事が出来ました。

この明月院は参道に素敵な洋館のカフェも在り、今の季節はデートや散策に最適の散歩道でもあります。
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さて明月院の庭園と紫陽花に話を戻します。 2014-06-14-15-34-54
明月院は中に入ると先ず最初に、日本庭園風の喫茶スペースがあり、その手前の植え込みでは色んな種類の紫陽花を観察出来ます。
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小ぶりな紫陽花ばかりでなく大きい花を咲かせているか株も有り、見ていて飽きません。
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入口から続く平地の散策順路を過ぎると、次の斜面を登る順路には野性的に咲く紫陽花達が出迎えてくれます。
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長谷寺の紫陽花とは又、異なった雰囲気をかもしだしており本当に野性味溢れる感じなので、長谷寺と明月院の紫陽花を見比べる為に両寺院とも回っても飽きません。
実際、小生は両方回りましたが、どちらも其々(それぞれ)素晴らしかったです。

明月院の奥には御堂があり、また紫陽花の散策路とは異なった鎌倉時代にタイムスリップした様な空間も広がっています。
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御堂の付近には矢倉(やぐら)が在り、こちらが首藤俊通公の御廟所と伝承しています。
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どうです?明月院、素敵な所でしょう?
この明月院の近くには最近の記事で紹介した女性保護の文化を持つ尼寺の「松ヵ丘御所こと東慶寺」も在ります。
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この東慶寺、記事にも書きましたが今、公開中の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台でもあるので…
駆け込み女と駆け出し男
…明月院に紫陽花見物に行くのなら、是非東慶寺も参詣し、後日映画も見るとこの北鎌倉に思い入れを深め良いデートや散策に成ると思います。
「東慶寺」参詣と「駆け込み女と駆け出し男」の映画鑑賞、明月院に行くなら是非!推薦いたします。
※東慶寺の記事は「ココ 」←クリック!
※映画の公式サイトは「ココ 」←クリック!

東慶寺と明月院の途中には「鎌倉江の島七福神」の一つである「金宝山浄智寺」さんも鎮座しています。
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この鎌倉江の島七福神の御朱印専用台紙は七福神の各神社仏閣の社務所で販売しています。
可愛いデザインですよね~♪
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こちらも大変雰囲気の有る御寺ですし、布袋様の御寺なので開運の御寺でもあり縁起の良い御寺です。
鎌倉に紫陽花見物に行くのを契機に、鎌倉江の島七福神の御朱印集めを始めるのも良いかも知れませんね~♪
明月院ともう一寺、前々回の記事で紹介した別の紫陽花の名所長谷寺も七福神の内、大黒様の御寺に成っています。
※長谷寺の紫陽花の記事は「ココ 」←クリック!
この七福神御朱印、鎌倉に小旅行に行く良い口実になり風流な時間を過ごせる切っ掛けに成るのも心が爽やかに成れる清涼剤の様な役割に成ってくれました。
そして毎回、鎌倉に美味しい物を食べに行く理由にも成りました(笑)♪

さてさて、紫陽花を見に鎌倉に行ってみませんか?
もし鎌倉までは行けないと言う人も、明月院や長谷寺よりは規模は小さくなりますが…
前回の記事で紹介した横浜市営地下鉄上永谷駅から徒歩で行ける「永谷天満宮」の鎮守の森天神山でも紫陽花を見物出来ますよ~♫
※永谷天満宮の紫陽花の記事は「ココ 」←クリック!
皆さんが季節を感じ梅雨を楽しんで過ごせますように祈願いたします~♪

では、又、次の記事でお会いしましょう!




ブログネタ
日本の政治 に参加中!
今の日本の政治、ハニートラップやら政治能力と関係ない重箱の突つき合いやら…
真に以って下らない。
けど、昔はもっとエゲツなく、讒訴謀殺暗殺は当たり前に行われていました。
特に藤原一族は…
大伴氏・蘇我氏・橘氏・紀氏・和気氏・吉備氏・菅原氏・源氏・平氏の皇家忠臣のみならず!皇族や天皇すら姦計で陥れたり暗殺する事数えきれず。
…藤原一族がのさばらない今は平和ですね。

実は、小生、根拠が有って「源頼朝公は北条時政と義時父子に暗殺された説」を支持しています。
その話は又、今度。
今回は岡村天満宮に関係のある部分だけ話します。
実は岡村天満宮は、最初の頼朝公暗殺を阻止した人物が開基(かいき=開いた)したんですよ。

岡村天満宮は大凡(おおよそ)800年前に平子家の殿様に開基されました。
以前書いた「横浜市の自慢と嫌な事」を書いた記事とかぶりますが…
ここはゆずの地元の岡村町に在る天神様=菅原道真公を祀(まつ)る神社です。
神社は神聖な場所ですが、ここは、ゆずファンにとっても神聖な場所なんです。
上の壁画、以前、「横浜市の徽章(きしょう=マーク)がダサイ」と嘆(なげ)きの記事を書いた時に少し紹介しましたが…
ゆずが伊勢佐木町で、まだ路上ライブをしていた頃に歌っていた松坂屋の前に当時の様子を描いた壁画が展示されていたのですが、松坂屋が解体される際に、ゆずの地元の岡村天満宮に移設されたものです。
岡村天満宮の御近所には、ゆずファン御用達の岡中ジャージを売っているオリオンスポーツも有ります。

さて、岡村天満宮を開基した人物の話に戻ります。
鎌倉時代の岡村は、当然まだ横浜市も無く地名を「久良岐郡 屏風ヶ浦 岡」と言いました。
この岡村は鎌倉時代は平子家の領地でした。
平子家の居館跡は磯子小学校辺りで、背後の丘一帯に城が有ったと伝わっています。
昔は城の外郭(がいかく=端っこ)に神様や仏様を祀る神社仏閣を造りました。
ですから恐らく、岡村天満宮は磯子城の一番外側で、背後の守に堅い地形の丘は磯子城の一部だったと推測出来ます。
前回も使った航空写真で位置確認…
今は平子家の館跡地の磯子小学校の辺りは平地ですが…
実はその辺りは江戸時代は写真右手の本牧と久良岐(くらき)の丘が続いており間に川は有りませんでした。
…岡村天満宮と磯子小学校も同じ丘伝いに繋がっていたんです。

だから、正に城の外郭に置かれたのが岡村天満宮だったのだと思います。
そして、付近には源家与力の鎌倉武士の城址近くには必ず有る八幡宮も…
中区根岸の八幡様ですね。
現代の中区の地名八幡橋近くに在ります。
根岸の八幡様も岡村天満宮もほぼ区境に有るので、区を跨いでいますがどちらも磯子城跡の近くです。

中村川沿いですが、昔は平地ではなく中村川も有りませんでしたので、根岸の八幡宮も久良岐の丘の上に在りました。
つまり磯子区と中区の岡村町や滝頭町や中村町は巨大な久良岐の丘の上に在ったんです。

何で今は平地に成っているかと言うと…
江戸時代に岡村や滝頭や中村の丘の土を切り出し、海だった今の中区関内や吉野町や伊勢佐木町辺りを埋め立てたんですね。
だから今は平地に成っちゃったんです。
下の写真を見て下さい…
吉野町を上の頂点として、左右に大岡川と掘割川に挟まれて扇型の平地の中に横浜旧中心街の伊勢佐木町や関内が有るでしょう?
その扇型の川に挟まれた平地が昔の蒔田湾の跡の吉田新田(よしだしんでん)です。
3.11の大地震では、江戸時代の未熟な土木技術で埋め立てた土地の関内は、横浜市震度3時に震度5で揺れたそうですよ。

で、そんな訳で今は平地の岡村町、岡村天満宮は今でも丘の上に在りますが…
話を神社を開いた殿様に戻します。
現在、岡村天満宮は戦火により詳しい資料は無くなり、更に太平洋戦争後に米軍基地建設の為に敷地縮小されたりしました…
が‼︎
…平子有長公が開基したと判る伝承が神社に残ります。
「源頼朝公の部下が天神様を祀りたいと願い出て京都の北野天満宮から天神様を勧進(かんじん=神様の分霊を招く事)」した」
…と伝わっています。

もう、これで十分に誰が岡村天満宮を創建したか判(わか)ります。

平子有長公の事の前に、岡村天満宮そのものを先に紹介します。
※写真は現在の参道

この参道は昔の参道ではありません。
昔の参道は米軍に接収され基地に成り、後に岡村天満宮ではなく、何故か横浜市に返還された為に岡村公園に成っています。
航空写真で説明しましと…
写真には上下に3本の道が有ります。
この内、一番右側の道が旧参道の道です。ですから一番下に大鳥居も写っていますが、この道を真っ直ぐ行っても米軍基地跡の旧岡村天満宮社領に造られた岡村公園と復興岡村梅林しか有りません。
途中左折するか、真ん中か左側の道から岡村天満宮に辿(たど)りつけます。

現在の神社の参道の、この鳥居から階段を登ると…
岡村天満宮なのに杉山天満宮と書いた石碑が有ります…
実は、一時、源頼朝公が開いた杉山神社と合祀され名前も折衷(せっちゅう=両方合わせる)して杉山天満宮にされてました。
明治政府の失策「一村一社」の影響です。

階段を上がると素敵な天満宮天満宮した(笑)、本殿が見えます…
が!
先ずは左手を見ると…
可愛いらしい、お稲荷さんお稲荷さんした(笑)、白笹稲荷大明神様が鎮座しています。
こちらは商売繁盛に御利益有りと信仰を集めたそうですが、お稲荷さんは農業の神様です。
きっと、付近の農民に大切にされてきたんでしょうね…
今では付近に田畑は有りませんが、商売繁盛の御利益で、磯子や岡村、上大岡や蒔田の商人を見守ってくれてると思います。
…感謝。

お稲荷さんに挨拶をして先に進むと、次は天満宮の神様の天神様=菅原道真公が可愛がった牛車の牛さんが祀られています。
説明にも有りますが、菅原道真公は暗殺姦計が得意な藤原一族の藤原時平に暗殺されそうに成った時に、牛さんに助けられたんです。
どうやら、この牛さんは横浜の名工が掘った文化財らしいです。

道真公が腐れ藤原家の暗殺者に襲われた際、白牛が暗殺者を角で突き殺し道真公を守ったそうです。
頭の家紋は何じゃらほい?…不明。
牛さんは実際に知能が高い生き物で、芸を覚えたり道を覚えたり出来るらしいです。
因(ちな)みに、道真公は知恵の神様で、生前は優秀な政治家で文化人でも有りましたが、同じく智謀に長けた有名な戦国時代の名軍師の竹中半兵衛は、道真公と同じく馬ではなく牛さんに乗ってました。
もっとも、竹中半兵衛は直に乗牛(笑)?し、道真公は牛車に乗っていたんですが。

牛さんの頭を撫でたら本殿に着きます。
綺麗な本殿でしょう?

横は杉山神社ですかね〜?
境内はこんな感じ…

実は、この境内も米軍接収後の返還時に、岡村天満宮社領を横浜市が横領した被害から氏子さん達が買い戻し岡村天満宮に寄附したんです。
泣ける文化伝承の心意気。

駐車場側の入口も趣きがあります。
天満宮だし、元は広大な岡村梅林だっただけに、境内にはしっかり梅も咲いていました。
綺麗でしょ?
可愛いらしくも凛とした梅の花、良いなぁ♪

さて、ここからは文字だらけ…
何故、岡村天満宮の開基が平子有長公かと言う話しに戻ります。
1岡村に天満宮を立てる領地を持つ人物
2菅原道真公を祀る習慣が有る家柄
頼朝公の部下=頼朝公の時代の武将
4北野天満宮から分霊を持ち帰れる人物

以上の条件を全て満たす人は一人しかいませんからね〜!

先ず1つ目!
岡村の鎌倉時代の領主は平子さんです。
2つ目!
関東で菅原道真公を祀る習慣が有るのは坂東平氏の子孫達か関東管領宅間上杉家です。
平子家の本家は三浦家、三浦家の祖先は鎮守府将軍平良文公で正に坂東平氏の祖です。
※坂東平家と菅原家の関係は以前書いた永谷天満宮の記事「コレ」←クリック!を読んで下さい。
※写真は源頼朝公
3つ目!
頼朝公部下で1と2の条件を満たす人物。
平子家、もしくは平子家本家筋の三浦家の中で頼朝公の時代の御家人を務めたのは…
平子有長さん、三浦一門で一番出世した和田義盛さん、三浦本家の三浦義澄さんか子の三浦義村さんか孫の三浦泰村さんです。
4つ目!
1〜3の全ての条件を満たす人で…
京都に上洛した事が有り、北野天満宮から天神様の分霊を持ち帰れた人。

全てに当てはまるのが平子有長さんです!

つまり岡村天満宮を開基した頼朝公の部下と言う人物は平子有長公なんです。
では有長公はどんな人物だったかと言うと歌舞伎の演目にも成っている「曽我兄弟の敵討ち」に頼朝公の忠臣として登場する人物です。
フルネームは…
平朝臣(たいらのあそん)
右馬允(うめのじょう) 
平子(ひらこ) 弥平(やへい) 有長(ありなが)
…サンと言います。
長いので以下、平子有長 公と省略します。
平子家は坂東平氏三浦家の分家です。

一応、名前を解説します。
平朝臣の「平」が姓、「朝臣」は天皇の家臣と言う意味です。
右馬允は律令(りつりょう)制の「官職名」です。
寮(めりょう)と呼ばれた皇軍の軍馬の管理をする部署 の中間管理職で、上には左馬頭(さめのかみ)と右馬頭が居ました。
今風に言うと戦車部隊の隊
平子が「名字」で、嘗て磯子区の地名の由来の磯子は五十子(いらこ)とか「平子」と書きましたので、つまり平子郷の領主だから平子を名字にした訳です。
有長公の家系と曽我兄弟の事件を分かりやすく系図みたいにすると↓コンナ感じ。
有長が個人名です。

桓武天皇
    ↓(子)
葛原親王
    ↓(子)
高見王
    ↓(子)
平   高望 王  臣籍降下 正親司 上総介
    ↓(子)                                         ↓(子) 
平   良文 鎮守府将軍(弟⇄兄)平  良門
※ 鎌倉郡村岡城主              ※前鎮守府将軍
    ↓(子)                                  ↓(子)
平   忠光                             平   将門
    ↓(子)                               ※神田明神祭神
平   忠通
    ↓(子)
三浦為通⇄(兄弟)⇄鎌倉章名
    ↓(子)                        ⇅鎌倉氏へ養子?
三浦為長⇄(兄弟)⇄平子民部太夫景通
     ↓(子)                     ↓(子)
三浦次(継)長           鎌倉権五郎景政
 ※ 久良岐三郎         ※ 御霊神社祭神
磯子真照寺を開基     上杉謙信の先祖
     ↓(曾孫)
平子弥平有長 右馬允→(家臣)→源  頼朝
(源  頼朝の御家人)                     ⇅(婚姻)
     ↓                                       北条政子
(曽我兄弟狼藉を逮捕した)        ⇅(親子)
     ↓                                       北条時政
曾我祐成(兄⇄弟)曾我時致        ↓(支援)
(亡父の仇工藤祐経に仇討ちをしたい)
     ⇅                          ↓
(敵対) ※有名な曽我兄弟の敵討ち発生
     ⇅                          ↓
工藤祐経→曽我兄弟の父の土地を強奪
(源  頼朝の重臣)         
     ↓
工藤祐経は「曽我兄弟の敵討ち」で曽我兄弟に殺害された。当初、頼朝も義弟北条義時の血縁者である曽我兄弟を助命しようとするも、重臣である工藤家の要求により兄弟を処刑。
     ↑
曽我兄弟の弟曽我時致の烏帽子親(えぼしおや=後見人)である北条時政と、北条義時による血縁一族曽我兄弟の為の敵討ちが…
相模川の橋で起きたであろう源頼朝公暗殺や家潰しと、幕府乗っ取り開始の原因なのかな?
 
頼朝公暗殺節は又、いずれ詳しく書くとして…                      

上の曽我兄弟を巡る家系図で有長公が頼朝公の代に源氏に与力した平子家の殿様で事は何となく伝わりましたよね〜?

次は北野天満宮を勧進出来た訳ですが…
源頼朝公が伊勢平氏=平清盛の一族を成敗し天下を静謐(せいひつ)に還すと、京都に上洛しました。
その際、随行の警護役に平子有長公も居ました。
つまり、有長公は京都にいたので、北野天満宮に分霊を許されさいすれば、関東に天神様を勧進出来た訳です。
しかし、北野天満宮の格式は高いので、坂東平氏の平子家とは言え、一、地方武士の身分では、北野天満宮に分霊を請うのは無理なので恐らく源頼朝公を介して要請したはずです。
そして、その手段は恐らく、頼朝公が北野天満宮の分霊を勧進し、更にその分霊を岡村に勧進したはずです。
…実はこの小生の岡村天満宮成立の仮説を証明してくれる存在が、正に鎌倉の荏柄天満宮なんです。

荏柄天満宮は1104年の創建ですが、源頼朝公が鎌倉幕府を開いた後に、鎌倉の鬼門の方角の鎮守として社殿を新たに造営しているんです。
鎌倉幕府成立は、頼朝公と平子有長公の上洛の後の話しです。
そして、上洛後の荏柄天満宮の社殿造営は恐らく北野天満宮で何がしか改めて宗教的な御朱印を受けたか分霊を受けた可能性が高いと思います。
でないと、社殿再造営する意味が無いですからね。
そして荏柄天満宮の社殿再造営の件と同時に岡村天満宮の為の分霊も受けたと思います。
そうでもしないと、平子家の官位や立場で北野天満宮の分霊を請うのは難しいですから。

まぁ、そんなこんなで、岡村天満宮は北野天満宮の分霊だし、勧進した平子有長公も歴史に名を連ねた勇敢な武士ですよ〜♪
…と、言うお話しでした!

では、又、次のブログでお会いしましょう!

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