明日2016年01月10日はNHKの大河ドラマで「真田丸」が放送開始されます!
真田丸
※NHKの「真田丸」公式ホームページは「ココ」←クリック!
小生、実は凄く楽しみにしています。
まず、真田信繁(幸村)の肖像画と、堺雅人さんが実はソックリなんだよね(笑)。
image
堺さんを老けさしたら、たぶん↑こんな感じでしょう(笑)?
この真田幸村、幸村ってのは江戸時代に実名で伝記を書く事を規制されていたので、架空の名前で書いた小説が有名に成ってしまって現実には存在しない「幸村」って名前が独り歩きしてしまったんですが、当然、モデルの人物は実在して名前を「真田信繁」と言います。
実像は上の肖像画の感じらしい。
大坂城攻防戦での頃の真田信繁は、更に上の肖像画より酷くなってたらしく「堺雅人さんの前歯を叩き折って、おでこにX字の刀傷をつけて腰曲げた感じ」なんだよね(笑)。
だから堺さんには役作りで前歯を抜いて欲しい…無理か(笑)。...

普段、大河ドラマは脚色が大嫌いで見ないけれども、三谷幸喜シナリオの新選組!が楽しかったから本当に楽しみ。

しかし気にくわない事は、内野聖陽さんが徳川家康公を演じる事だ…
内野さんの実家は横浜市小机にある雲松院と言う御寺で、その御寺は北条家の家老、笠原信為公の菩提寺なのだ。
2015-02-07-16-12-26
この↑御寺ね。御先代は内野さんの御父君でしたが今は内野サンの叔父さんが御住職やってます。
だからね~北条家重臣の御寺の息子さんの内野さんが北条氏政公を演じて、徳川家康公は吉田鋼太郎さん、織田信長公は榎木孝明さんがやった方が個人的にはシックリ来るんですけどね~個人的には…

さて…
ドラマのタイトルが「真田丸」ってのは歴史に興味が有る人はすぐ解るんですが、歴史に興味が無い人には「船の名前?」とか変な事に成っちゃうかも知れないですね。
良い機会なので、今回、真田幸村(信繁)が活躍した真田丸を説明します。
※以下、真田幸村ではなく「真田信繁」の名前で統一します。

真田丸と言うのはですね、人の名前でもなければ船の名前でもありません!
大坂城に在った構造物の名前です。
正確に言うと、豊臣秀吉が建築させた大坂城は現在より遥かに広く、当時の大坂(大阪)は町全体を守る為の「総掘り(そうぼり)」と言う水堀で囲まれていたんですね。この様な城下町全体を城に取り込む造りを「総構え」と言います。
当時の総構えを現在の衛星写真上に再現すると↓こんな感じになります。
大坂城縄張り
滅茶苦茶広いでしょう!
現在、三光神社の在(あ)る辺りが真田丸と言う、真田信繁が大坂城の一番弱い場所を補強する目的で建設した「丸馬出し」です。
つまり「真田信繁」が作った「丸馬出し」だから「真田丸」で、今回の三谷幸喜さんが書いた大河ドラマの舞台が、この真田丸で、この大坂城の戦いに繋がるまでの真田信繁の生涯を描いたドラマと言う事がタイトルからも解りますね。
ここで又、出て来た御城好きには常識の「丸馬出し」と言う施設の名前ですが、これは「丸い形状をした城門の前に作られた防御施設兼出撃用の施設」の事です。
「馬出し」には主に「丸」と「角」が有ります。
真田家は戦国時代には甲斐国(山梨県)の武田家に仕えた武家です。
武田家最後の居城「新府城」の縄張り図を見て見ましょう。
新府城
武田家の馬出し構造は三日月型の「丸馬出し」が主流でした。
新府城 - コピー
これは、迫りくる敵を引き付けて弓矢や鉄砲で狙撃するのに適した近代要塞のトーチかみたいな役割を果たす構造物でした。攻撃側に回る事が多かった武田家ならではの戦術ですね。 新府城は武田家末期の城なので、様々な防御施設が設けられていますね。

対して、小田原北条家は周辺国から攻め込まれる事の多い地域だったので守る戦術が発展し、 馬出しの内側に更に「枡形虎口(ますがたこぐち)」やS字の「喰い違い虎口」と言われる敵を包囲殲滅する施設が設けられていました。因みに虎口は「小口(こぐち)」とも書きます。

北条家の城の造り方を見るのに一番良い教材に成る御城が東京都八王子市に在る「滝山城」城址です。この城は武田軍2万3千をたった北条家が3000の城兵で撃退に成功した名城です。では滝山城の縄張り図を見て見ましょう。 

滝山城
北条家の馬出しは「角馬出し」と呼ばれる四角い形状が主流です。
これは、外観が丸馬出しとはだいぶん異なります。
滝山城縄張り図「角馬出し」 北条家の角馬出しは、内側城門の更に中に例えれば"人間版ゴキブリホイホイ"の様な役割を果たす施設が有ります。 この角馬出しの中の城門の更に内側にも喰い違い虎口が在りました。角馬出しの中の通路が屈折してますよね?喰い違い虎口や枡形虎口は敵の進入可能な人数を制限し防御に使うだけではなく、敵勢を身動き出来ない四方を囲まれた箱の中に閉じ込めて、箱の外側から一斉射撃で射殺するみたいな残虐な防御施設として発展しました。 

こんな↓感じ。
2015-02-28-16-31-03
これは北条家の本拠地小田原城の枡形虎口です。敵を城門の前で身動き出来なくさせて、防御側は安全な城壁の覗(のぞ)き窓から城門前で渋滞している敵勢を順番に射殺していくんですね。
そして、防御側が出撃する時は安全に出撃出来る防御施設にも成るんですね。

さて、これで真田丸ってのが城の施設の名前って事が解って頂けたと思います。
大坂城の攻防で、真田信繁隊は計略で徳川方の名だたる武将達を真田丸に誘(おびき)寄せて大成果を上げた事で徳川家康公に恐れられた訳です。

因みに堅牢で徳川方が当初落とせなかった大坂城ですが、その秘密は総掘りにありました。
小田原北条家を攻めた際に苦戦した豊臣秀吉は、小田原北条家独特の築城術を多く模倣し導入しました。
その最たるものが大坂城総掘りの構造体「障子(しょうじ)掘り」でした。
2014-10-17-02-03-36
これですね。
写真は箱根山中に築かれた北条家の山中城の障子掘りです。
戦時には水をぶちまけると、攻めてくる敵兵は蟻地獄にハマる蟻みたいに穴に落ちて身動き出来なく成ります。
その穴に落ちた敵を、防御側の城兵は順番に射殺していくんですね。
これも強烈に残酷で効果的な防御施設でした。
この障子掘りの有る山中城は1日で落城しましたが、城兵200を率いた今の横浜の殿様の間宮康俊公は、山中城の出丸(城の少し離れた場所に在る砦)に籠り、秀吉軍本体8万を迎撃し秀吉方の旗本一柳尚末を打ち取る等の大損害を与える事に成功しています。
大坂城の総掘りを恐れた徳川軍で、大坂城総掘りの埋め立てを作戦立案したのも実は間宮隊だったそうです。
間宮家は北条家臣時代から合戦だけでなく築城や土木でも活躍した家だったので、徳川家中では但馬銀山や佐渡金山の奉行も担当しており、その様な作戦を立案出来たのでしょう。
※間宮家の事績について書いた記事は「ココ」←クリック!

結果的に徳川家は大坂城に籠城する豊臣方を「一時的な講和」を餌に説得し、大坂城を水堀を埋めてしまう事に成功しました。
これには真田丸で活躍した真田信繁公も主君の豊臣家の幹部の対応に相当嫌気がさしたらしく、真田丸を徳川家に潰される前に、外交戦争で敗北した身内への皮肉たっぷりに自分で真田丸を解体してしまったそうです。
まぁ~、見方によっては徳川家に資材を接収される前に自主解体して再利用出来るように保存したとも言えますね。
こうして見ると真田丸と総構えを巡る攻防には、旧武田家重臣真田隊vs旧北条家最強部隊玉縄衆黄備え隊の因縁の武田家vs北条家の代理戦争だったとも言える訳です。

世間一般で真田幸村として名を誤認されている真田信繁公ですが、人生の最後で祖父や父譲りの武略を発揮して活躍されたのは、武田流の優れた戦術を引き継いでいた事も関係が有った事が「真田丸」を調べると解るんですね~。

では、又、次の記事で御会いしましょう!