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タグ:大庭景義

前回の記事では大庭神社の論社(推定地)の一つで伝承上の元宮(もとみや=元々の所在地)だと伝承する❝大庭神社舊跡❞と近くの❝神奈川の銘木100選の一つ臺谷戸稲荷の椨の樹❞の風景を紹介しました。
※前回の記事は「ココ」←クリック!
さて…
今回はいよいよ、現在にも江戸時代の建築遺構が多く残る現在の大庭神社と周辺の風景を写真と解説で紹介したいと思います。
現在の大庭神社は、人口の少なく成った大庭の引地川沿いにヒッソリと佇んでいでいます。
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一見すると余り目立たない普通の神社に見えてしまいますが、ここは前回、前々回の記事でも解説した通り、平安時代の醍醐天皇達から見ても古い歴史を持ち保護すべき神社として延喜式神名張に記載された神社の現在の所在地で、凄まじい由緒と権威の有る神社です。
この神社の現在の所在地は、嘗ては目の前に海の入江が広がっていました。
大庭神社周辺
※拡大して見て下さいね。
画面左に大庭神社の所在地がマークされています。
白い部分が古代の海です。
元宮の大庭神社舊跡とは、湾を挟んで反対側に在ります。現在の大庭神社の在る丘は、平安時代末期に成って鎌倉景正(かまくらかげまさ)公によって開拓された地域です。古代の史跡は全て古代の湾の左岸、つまり大庭神社の舊跡側から出土しています。
さて、何故、現在地に大庭神社が移ったかは【前編】で解説した通りです。
※【前編】解説記事は「ココ」←クリック!
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鎌倉時代末期~室町時代初期の武将で、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の母方の従弟だった山名時氏公が1352年頃に恐らく元は大庭地区に所在した成就院と言う御寺を現在の稲荷地区に移転させ再興開基した際に、同寺が別当寺として管理を任せていた大庭神社も一緒に舊跡=元宮から現在地に移転させたと考えられるからです。
余談ですが、山名時氏公は横浜市港南区上永谷の永谷城主宅間上杉家の御先祖の宅間上杉重兼公の従兄でもあります。つまり、足利家・山名家・宅間上杉家は親戚なんですね。
稲荷の成就院と大庭神社の歴史を裏付ける様に、成就院の元の寺名は院号では無くて❝宝染寺❞であった事が伝わっていますが現在はその寺名が使われていません。つまり前身寺院が移転して来て名を変えた可能性が成り立つ訳です。
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この様な例は他にも良く有る事で、例えば戦国時代の北条家の重臣の笠原信為公の造営した雲松院と言う御寺が横浜市港北区に在りますが、元々は神奈川区の神大寺の別院的な御寺だったのが神大寺が後に焼失したので神大寺の機能ごと雲松院に移転した歴史が有ったりします。
※笠原家菩提寺の雲松院の記事は「ココ」←クリック!
他にも大庭神社と同じ延喜式内社の比々多神社や高部屋神社等も古代の位置から遷座している歴史が有ります。
その辺にも御興味が有る方は【カテゴリー:延喜式内社と歴史千年以上の古社】←このの中から記事を探して見てみて下さい。
さて、藤沢市稲荷の成就院解説は又、別記事にするとしましす。
と山名時氏公の解説も後回しにして、先に大庭神社の風景と施設を紹介します。
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大庭神社の石の大鳥居の前には、自然公園が広がっています。
引地川親水公園周辺 久良岐のよし
引地川親水公園と言う、引地川の湿地を利用した広大な自然公園で、稲荷の大庭神社の前には湿生園もあり子供達に湿地帯の植物を観察せるのに適した場所であり、都会の藤沢市街地の直ぐ近所で子供が自然に触れられるとても大切で貴重な場所でもあります。
…藤沢市土木事務所、公園課の方々Good Job!
さて、その引地川親水公園の前の鳥居をくぐり、階段を登ると…DSC_0346
写真撮影に行った時は3月下旬で、綺麗な木蓮(もくれん)の花が咲いていました。
参道は鳥居の在る階段を上ると左に折れて社殿へ続きます。
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参道の入口には、格式の高さを感じさせる立派な灯篭が在りました。
氏子サン達、頑張って醍醐天皇の御意思を継いで大庭神社を守って下さっています。
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推測するに、延喜式内社の格式と、足利家の縁戚で室町幕府重鎮と成った山名家の関与が有った神社なので、この周辺、神社境内と平行する削平地と裏の傾斜地は往時は全て大庭神社の境内地だったのだと思います。
丘の上は現在は大企業の工場に成っていますが、この神社の境内と平行した削平地と傾斜地だけは緑が保存されています。
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さて、延喜式内社の解説で良く話すのですが、明治時代に明治政府によって神仏分離令・一村一社令・神仏分離令と言う愚かな政策と、伊勢系統の神様を優遇する政策が行われたせいで歴史の古い多くの延喜式内社を含めた神社と御寺が破壊されたり、❝合祀(ごうし=別の神社に神様を移す)❞と言う名目で聖地を御神体とした神社が消滅させられました。
明治政府には森有礼等の日本文化の破壊を目論んだ勢力が多く入り込んでいて、天皇系統の祖先神を優遇するとの宗教改革の名目で多くの神社仏閣が破壊され聖地霊場も埋め立てられたり掘削されて姿を消してしまいました。
何とか古(いにしえの)社(やしろ)に伝わる文化を保護しようとした方々がいらっしゃって、それが平氏や源氏の武家の御子孫であられた東郷元帥や乃木大将達でした。
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三浦半島の横須賀市走水に在る日本武尊と弟橘姫の神話の舞台の走水神社と言う神社には、現在もその歴史と明治の元勲達の逸話が残っています。
因みに首相も務めた伊藤博文公も横浜市金沢区の野島の別宅から、隣接する横浜市磯子区氷取沢の寶勝寺と言う名の御寺に良く通われていた歴史と遺物が残っていて、どうやら❝明治の元勲達と違う勢力❞が暗躍して、国家神道と言う新しい宗教観が神道に導入され、仏教徒の分離も為(な)されたたようです。
そして多くの延喜式内社は縄文文化を受け継いだ神様が多く、伊勢系統の神様を御祭神としていない場所が多かったので、歴史の浅い伊勢神道系の神社の管理下に置かれ衰退してしまった訳です。

しかし、古代からの神事を守りながらも実は多くの延喜式内社には奈良時代~明治時代に成るまでの日本の千数百年来の伝統が守られている場所が多く有ります。
仏教の文化も異文化でも良い物として、日本の神様達の神社の中に受け入れて融合した神仏習合の日本文化です。
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だから、この大庭神社には成就院が別当寺の役割を解任された現在も、鐘楼が保護されています。
つまり延喜式神名張を編纂させた醍醐天皇達天皇家の方々本来の寛容性の高い価値観を守る神社が、偶然にも宮司様不在に成っている大庭神社や他の延喜式内社には多く残っている訳です。現代の比較的新しい神社では縄文~弥生~古墳時代からの聖地も神事も無い上に、神仏混交時代の遺物や行事も残らない場所が多く古代から大庭神社をはじめとした延喜式内社とは大分、様子が異なります。
さてこの鐘楼の前を通り過ぎると、いよいよ社殿です。
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神社なのに瓦葺(かわらぶき)なので、建物は江戸時代中期以降か最近の建て替えが有った様ですね。
歴史があり格式の高い古社は、金銭的に余裕が有る歴史偉人との関わりから板葺(いたぶき)、それも檜皮葺(ひわだぶき)か、茅葺(かやぶき)の屋根が奉納されています。
ここ大庭一帯は、神奈川県下でも過疎に成りかけていた場所なので、寧(むし)ろ瓦葺でも新しい立派な屋根を奉納で来た氏子サン達は本当に身を削って神話時代(縄文末期)からの神社文化に残った伝統を守ってらっしゃると思います。敬服するばかり。
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拝殿の注連縄(しめなわ)も立派です。本当に氏子サン達の努力の賜物。
神様も喜んで下さるでしょうね。
縄文文化の伝統が現存する神社では、この注連縄に莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)と呼ばれる海藻が更に装飾されます。
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この海藻が後に海の遠い大和国に朝廷が転居した頃に、代用品として紙垂(しで)が作られる様に成った事は想像に容易(たやす)い事ですね。
でも、そんな古代の歴史を一度断ち切ってしまった神道では、この伝統が伝わっていない場所が大多数で、代用品の紙垂が「稲妻に似てるから邪気払いとか稲光の梅雨の季節の豊穣祈願」とかバラバラな説明がされているようです。
古代の大王(おおきみ)/大君、その先人達の古墳が海に近い九州や河内や摂津の各地に在る歴史事実を考えれば、莫告藻が紙垂に変化したのは直ぐに理解出来る話です。
聖地霊場や神様に成られた先人の古墳の大切さよりも、神社の建物を作る事と神器の鏡を奉るを重視した明治の国家神道だけ学んでも解らない事です。
考古学や地理、神話の神様の御陵の現在地と古代の海岸線を知らないと繋がら無いですからね。
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順番があべこべには成りますが、大庭神社の御祭神は…
●神皇産靈(かみむすび)の神
女神様で、出雲大社の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=素戔嗚尊の子孫を助けた神様です。つまり、長寿や治病に御利益が有りそうな神様ですね。

●熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)…元宮の主祭神

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成る。遅くとも飛鳥時代より前の造営。

●大庭三郎景親(おおばさぶろうかげちか)公
元宮や稲荷地区の大庭神社一帯を平安時代末期に治めた在地領主の大庭景親公が御当地の人々によって死後、御祭神として祀られたと考えられる。
大庭氏から領土の守護神として崇拝されたのだろう。それ故に元宮は大庭城の近くに在る。

●菅原道眞(すがわらみちざね)公
江戸時代の天明3年(1783年)秋に地頭(じとう=土地の所有者)の諏訪部定太郎と、名主(なぬし=町長)の山崎六郎兵衛(ろくろうひょうえ/ろくろべえ)包高(かねたか)によって、勧請された。
実は、この西暦1783年は旧暦7月8日(太陽暦の6月くらい?)に浅間山が大噴火している。大噴火の際は雷雲が火口に発生するので、平安時代に雷神として神格化れた菅原道真公を奉(たてまつ)る事で天災から逃れたかった当時の江戸時代の人々の思いが伝わる御祭神だと推測出来る。
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一見して、宮司様も御不在、しかも少し寂しい所にある神社ですが凄い歴史が有るでしょう?
きっとね、皆さんの御近所にも、同じ様に神社や御寺の大きさに関わらず凄い歴史が有って思いもよらない神様のモデルの偉人や武将達との所縁(ゆかり)のある神社や仏閣が有ると思いますよ~。
そして、近所の公園や山は、実は武士達が命を懸けて領民と農地を守る拠点だった旧街道沿いの古城の城址かも知れませんよ?
だからね、少し、御近所の神社や御寺や山を散歩して見ませんか~?
きっと、小さな御社や御地蔵様も、神様や先人と皆さんを結び付けるタイムカプセルに成ってくれるかも知れまんよ~♪

では、又、次の記事で御会いしましょう!
次は大庭城か、藤沢市稲荷地区の成就院と山王社かな?


前回、解説記事で大庭神社には大庭神社と大庭神社舊跡の2箇所が近在している事を歴史踏まえて解説しましたが…
内容は大庭神社の元宮と、大庭神社2ヶ所有る理由でした。つまり最初に大庭神社の社殿が在り、神社が古代に造営された聖地とされた場所だったのが舊跡=元宮で、立派な大庭神社は移転後の場所と推測されている理由でした。
※御興味有る方は「ココ」←クリックして前回の記事を御覧下さい。
さて、今日は大庭神社舊跡(きゅうせき)その物と近くの臺谷戸稲荷の様子を写真で解説したいと思います。
この大庭神社舊跡は、所謂(いわゆる)神社で言う所の元宮(元々神社が移転前に在った場所)な訳ですが…
現在の本宮と比定されている稲荷地区の大庭神社より、だいぶ寂れているものの清々しい聖地の雰囲気を醸(かも)し出しています。
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長い参道は竹林に覆われ、幻想的な雰囲気です。
こちらの御祭神は熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)です…

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成ります。
遅くとも飛鳥時代より前の造営でしょうから、神話が始まる考古学的は縄文時代が終わる西暦紀元前400年頃の神様を祀(まつ)っていたようですね。
余談ですが、実は神道の宮司様にも考古学を御存知無く、神話と実際の日本文化の変遷を理解していない人が多いんですが、日本神話と考古学の歴史って整合性が有るんですよ。
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※写真は横浜市緑区の延喜式内社、御祭神は五十猛(いそたける=素戔嗚尊の子)の杉山神社。
神話が始まったのが西暦紀元前600年頃、縄文時代の終焉が紀元前400年頃、素戔嗚尊が古代日本で活躍するのが丁度その頃。そして弥生時代が始まるのですが、関東各地の古社の御祭神は悉(ことごと)く素戔嗚尊の御神孫なんですよ。つまり関東の古社の神話では出雲神族が関東を開拓した神話が有り、最近の発掘成果では、その頃に稲の水田耕作も伝播してる事が解っています。
そして弥生時代の終焉、古墳時代の到来が西暦100~200年代と言うのも古い古墳の発掘で推定されていますが、実は神奈川県の走水神社の伝承では日本武尊が三浦半島の走水に仮御所を置き、そこから房総半島に船で渡ったのが西暦110年か114年の正月だと伝承しています。つまり青銅器の導入や古墳文化の伝播が日本武尊神話と整合性が有るんですね。
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さて、話を神話と考古学から、大庭神社の元宮に戻します。
畑地と住宅街の在る山に所在し入口が解り難いのですが、上の石碑が目印です。
船地蔵周辺
最寄りのバス停は❝船地蔵バス停❞か❝第六天バス停❞です。
電車の最寄りの駅は無いので、藤沢本町とか辻堂駅等の周辺からバスでの訪問か車を大庭城址公園、もしくは近所のコンビニに停めるしか無い、少々不便な所です。
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さて、ここは嘗(かつ)て大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれた地区で、縄文時代~人が住んだ地域でした。
その大庭御厨を水田耕作に適した土地に開拓したのが、戦国武将上杉謙信の祖先で、平安時代の名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公は坂東武者達から武士の鑑(かがみ)として尊敬され軍神として鎌倉市坂ノ下の御霊神社で崇拝されました。
失明した際に供養した目を埋めた土地から瞬く間に樹木が成長した逸話から❝眼病治癒の神様❞、そして御霊神社周辺で多くの貴族や武士が恋愛の詩歌を詠(よ)んだ舞台だった事から❝縁結びの神様❞として人々に信奉されています。
※権五郎御霊神社については「ココ」←クリックして以前の記事を御覧下さい!
現在ではこの地区、船地蔵地区と呼ばれています。
その由来は大庭城址落城の秘話と密接に関係が有ります。
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上は大庭城址の空堀と土塁。
大庭城は引地川辺りに堤防を作る事で、城の周辺を湖沼化し守りを堅めていたそうです。
しかし・・・
この引地川の堤防と言うのは、引地川に注ぐ川を堰(せ)き止めた堤(つつみ)なのか、それとも引地川の水を引き込んで沼にしたのか現代には伝わっていません。
そこで地形を見てみましょう。するとある程度は推測が出来ます。
もう一度衛星画像で位置関係を確認してみましょう。
船地蔵周辺
大庭城址東側は元々湿地帯です。ですから水を堰き止める必要は有りません。
東側より西側が標高が高いので、西側を湿地にする程の大堤防を築けば南側の街道全て使用不能に成ってしまいます。
西側は湿地では無いのですが、滝ノ沢が流れ、更に江戸時代に❝熊野社❞と呼ばれた大庭神社舊跡が在ります。
恐らく、そこに嘗(かつ)て存在した滝や、湧水地の流れを引地川に入る前に堰き止めて西側一帯を湖沼化させていたんでしょう。
熊野社と言うのは、古来の神聖な湧水地や滝の傍に造営される神社でした。つまり、西側は湿地では無いにしろ当時は湧水池か豊富な水量を誇る滝が有る川だった可能性が有る訳です。川の名前がそもそも滝ノ沢だった訳ですしね。
そして、この地域からは多くの縄文~弥生文化遺構が出土しています。
これは説明するまでも無いのですが熊野那智大社は聖地である那智の滝の傍に在り、紀元前からの貝塚史跡が出土している丘を境内に抱える師岡熊野神社も聖地である池の傍にあります。そして両方とも天皇家の崇拝を受けました。
ここ大庭神社旧跡は、その前を流れる川の滝か、滝の傍の湧水地で聖地として後に熊野社が勧進され名前は大庭神社と呼ばれていたのでしょう。
そして、前回の解説記事でも推論を述べましたが、足利幕府の重鎮であった山名家と別当寺の都合で後から現在の稲荷地区に移転した筈です。
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この元宮と推測される大庭神社は参道が二段階に成っていて奥まで行かないと御社(おやしろ)が見えません。
恐らく、この御社の神様を奉る理由に成った、神社その物より大切な聖地とされた滝や池が昔は存在した筈なのですがね。現在は地殻変動か宅地開発かで往時の面影は解りません。
とは謂(い)えども、ここはヒッソリとしている物の、醍醐天皇の時代、西暦900年代の京都の貴族達にも神聖な場所として認識されて延喜式神名張に記載されている神社だったので、神奈川県下現存14座の延喜式内社+数社の式外社と数少ない悠久の歴史を持つ神社な訳です。
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現在では、本当に御社(おやしろ)と言う他無い規模の神社ですが、昔の人から我々が受け継いだ聖地である事には変わり有りません。そして、神様の御利益や聖地としての大切さに神社その物の規模など微塵も関係が無いんです。
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是非、ここ大庭神社の元宮と、現在の大庭神社両方を合わせて御参りして欲しいです。
そうする事で、ここを大切にしてこられた縄文~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~戦国~江戸~明治大正昭和の人々の生きた歴史を感じ、平成の時代に我々が土地の文化を守る大切さと、神社の伝統を守る大切さの両方を引き継ぐ事が出来るんだと思います。

こ大庭神社の元宮近くには、この地が古来早く開けていた証拠と成る神様も鎮座しています。
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臺谷戸稲荷神社です。
この稲荷社の名前の由来は、大庭神社の所在する台地が古来❝臺(だい)❞と呼ばれ、北側が谷戸(やと=谷を利用した集落)だった事に由来しているそうです。
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古来、稲荷社の御祭神は宇賀神(うがじん/うかのかみ)や宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたまのかみ)と呼ばれた豊穣の象徴の神様でした。後に平安時代末期に成ると中国から輸入した貨幣❝宋銭❞での経済活動が始まり、穀類や海産物の物資その物から貨幣経済へ社会構造が変革した事で富の象徴が❝貨幣❞と成りました。その過程で、印度(インド)から中国経由で渡って来た七福神の弁天様が❝戦の女神❞❝美の女神❞❝財運の神❞❝水の女神❞としての多くの御利益が在った事から、女神でもあり似た御利益宇賀神と習合され一緒に崇拝される様に成った歴史が有ります。
宇賀神は半蛇半女の姿で描かれる事の多かった神様なので、蛇神=水神としても信仰されたので弁天様は水辺に祀(まつ)られている訳です。
そして更に明治時代の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく=仏教弾圧)思想と明治政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい=日本の神様と外国から来た神様を再分離してしまう政策)によって、弁財天や弁天社として日本全国に存在した神社を破壊から守る為に、全国の弁天信仰の神社の氏子サン達が、弁天様と日本古来の海上交通=水の女神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を同一として習合する事で神社を存続させた訳です。
そんな訳で、明治時代に成って宇賀神も宇迦之御魂神も弁財天様も市杵島姫命も別々に成ってしまったので、逆に古代から明治時代まで受け継いだ歴史が寸断されて訳が解らなくなってしまった訳です。
まぁ、市杵島姫命自体は名前や御神威からして福岡市沖に浮かぶ聖なる島の❝壱岐❞に古代いらっしゃた神様(古代天皇家の王族の姫、もしくは壱岐国の女王か王族の姫様がモデルか?)か、島自体を神格化した神様でしょうから、とても大切な神様である事には変わり有りませんが…。
そんな、縄文~明治時代直後までの富の象徴としての宇賀神信仰の歴史を全て残しているのが鎌倉の銭洗い弁天様です。
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ですから先日、休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区でも書いた鎌倉の銭洗い弁天の正式名が宇賀福神社も名前は宇賀神を元々祀っていた事が解りますね。同一視された辨財天が、源頼朝公によって御神体として祀られ、更に後に明治時代に市杵島姫命が祀られた歴史が全部詰まっている、財運の女水神様です。
話を臺谷戸稲荷其の物に戻します。

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この御稲荷様の御社の直ぐ手前に大木が有ります。
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この臺谷戸稲荷神社を覆い隠している大木ですね。
銘板が見当たらなかったのですが、ここは小生の行く先々の城址や神社仏閣で度々登場する❝神奈川の銘木100選❞の一つ❝臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の樹❞です。
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小さい御社ですが、大木が育つ環境と言う事は古代~近代に成っても地元の人々に愛されてきた場所なんでしょうね~♪

きっと、皆さんの家の御近所にも、この大庭神社みたいにヒッソリとした場所に在りながら、とてつもない歴史や偉人達との関わり合いが有る神社や御寺、城址や史跡の山が有ると思います。
ですから…
皆さん、御近所の神社仏閣や里山を散歩して見ませんか?

今回はここまで!
次回は現在の立派な方の大庭神社の社殿を写真で紹介します。
では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪

藤沢市大庭地区が、古代から戦国時代の初期まで神奈川県内でとても大切な場所だった事を知る人は、現代では多くは有りません…
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その大切さがどれほどの物かと言うと、大庭には縄文時代の遺跡が大量に出土しているだけでなく平安時代の醍醐天皇の時代、延喜年間の日本人から見ても「古い」「聖地」として認識され後世の人間に「保護しなさい」と言う意味で❝延喜式神名張❞に記載され我々に託された神社の一つ❝大庭神社❞が有るんですね。
上の写真が大庭神社です。
実は大庭神社は藤沢市内に2箇所あり、江戸時代に横浜の殿様間宮家の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌を編纂した間宮士信(まみやことのぶ)達の新編相模風土記公でも、この件を取り上げています。

その2箇所の場所は…
藤沢市大庭…
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大庭神社舊蹟(きゅうせき=旧蹟)、つまり元々大庭神社が有ったとされ、後に熊野社と呼ばれた神社。
そして藤沢市大庭の大庭神社。
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新編相模風土記稿で、ここを取材した記者は、まだまだ考古学の❝こ❞の字も学問としての考古学が発展していなかった時代の人間なので、古代の大庭の様子も解らなかった結果、「舊蹟は元宮とは疑わしい」と言う事を言ってしまっています。
でも小生、この江戸時代の学者を論破できます「解ってねぇ~なオマエ(笑)」とね。
小生は断言します。
古代関東開拓の歴史と、旧跡が熊野社と呼ばれた事を証拠に大庭神社舊蹟こそ本来の大庭神社の元宮だと。
先ずはコレ↓を見て下さい。
大庭神社周辺
大庭神社と大庭神社舊蹟の位置を、古代の海岸線に重ねた地図です。
白い部分が神話の時代に海だった所」です。
解り易いように現代の鉄道も表示します。
これを見ると解ると思いますが、現代の藤沢市の中心を為(な)す平地は古代の海底です。
この藤沢本町一帯の地域が開拓されるのは大分遅く平安時代末期、鎌倉時代の少し前の話です。
もっと具体的に言うと、藤沢本町を開拓したのは平安時代の名将、鎌倉景正公です。
鎌倉景正公については以前に御霊神社の解説で紹介したので興味の有る人は当該記事を御覧下さい。
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※鎌倉景正公の記事は「ココ」←クリック!
さて、大庭神社に話を戻します。
大庭神社周辺
古代、日本人が住めた地域は現代人から見て丘や山の上の地域だけです。
だから縄文時代~弥生時代~古墳時代の遺跡は、山や丘の上から出てくるんですね。
そこで大庭神社の位置を見ると、やはり古代の海岸線にあります。
左上の同じ延喜式内社である宇津母知神社も、やはり古代の入江の付け根に所在しているのが解ると思います。
この海岸線は縄文時代の海岸線です。つまり古い神社と言うのは日本人本来の縄文文化を継承している場所でもある事が解るかと思います。だから日本人は沖縄やアイヌの人と古代は同族だったんですよ。

さて、では何で小生が大庭神社舊蹟を元宮だと思うか、状況証拠を箇条書きにしてみます…
1,縄文時代の遺跡は新旧大庭神社の在る入江の左岸から多く出ている。
  西岸に在る平安末期~戦国時代の大庭城の丘も縄文時代の遺跡が出土している。
2,東岸が開拓されるのは平安時代以降。
坂東平氏の祖である平良文(たいらのよしふみ)公が村岡城址を拠点に開拓を始めた。その後、東西北に子孫が拡散して行き関東全域に開拓地を広げていき武士文化の基礎を坂東平氏が築いた。
3,大庭神社舊蹟が❝熊野社❞と呼ばれたから。
熊野社とは新鮮で清潔な水の湧く場所や滝を聖地として開かれる神社。現代人も誤解しがちだが古代人は川の水をガブガブ飲んでた訳じゃなくて、自然湧水の有る地域にいついています。そりゃそうです、古代は抗生薬なんて無いですから腹壊す(=感染症や寄生虫)事は死に直結するんですよ、川の水なんかそのまま飲んだら。
だからこそ、井戸の掘削技術を手に入れた平安時代に至っても古代の聖地である自然湧水の有る神社を霊場として崇敬していた事実が有る。
つまり、大庭神社舊蹟が熊野社と呼ばれた以上、付近に古代は遊水地が有ったはず。遊水地が有れば古代人が住み着いた訳で、事実縄文時代の遺跡が周辺に在る。
…まぁ、挙げればキリが無い。

では、何で現在の大庭神社が新宮だと推測するかと言うと、理由は上記の2が絡んできます。そして大庭神社の別当寺だった稲荷山成就院宝染寺が原因だと思います。
成就院は、室町時代初期に山名氏公が造営した真言宗の御寺です。真言宗の開祖弘法大師空海和尚は日本神話や神様も大切にされた人物だったので、明治時代以前まで真言宗自体が神仏習合の要素の強い宗派でした。
よく有る事なのですが、武士が自分の領地の中心に守護神として近所の御利益の有る神社を移転させる事が良く有りました。室町時代にも成ると本来の自然信仰から御神体や偶像崇拝へと日本の宗教観も変化していたので、当時の人は罪悪感も無く聖地と神社を切り離してしまう事が有りました。
同じ延喜式内社の高部屋神社もその典型ですね。
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※高部屋神社の記事は「ココ」←クリック!
平安末期、源頼朝公の随兵も務めた糟屋有季(かすやありすえ)公は、本来、大山山系の渋田山に所在した高部屋神社が御自分が支配した糟屋郷の鎮守に相応しいとの独自判断から自分の居城だった千鳥ヶ城(糟屋城)の丘陵を通る大山街道前に遷座した歴史が有ります。
平安時代にも成ると、御神体が聖地で有る事を認識できなく成っていた人々も多かったと言う事でしょうね。
だからこそ、醍醐天皇が延喜式神名張を編纂させて保護すべき神社を指示したんですがね~。
源頼朝公も醍醐天皇と同じく自然信仰や古代の宗教観を引き継いでらっしゃったので、大山や富士山を登山し頂上で礼拝しています。

又々、解説が大庭からずれていたので話を大庭に戻します。
戦国時代初期まで鎌倉が東日本の首都だとすれば大庭は南関東の首府だった時代が有るんですね。
鎌倉公方足利家に忠誠を誓っていたのは、戦国時代の関東管領山内上杉家ではなくて、鎌倉公方配下の扇谷上杉家と宅間上杉家でした。
その内、宅間上杉家は足利尊氏公と母方従兄弟の血縁関係であり、扇谷上杉家は鎌倉公方の本拠地である相模国を拠点にしていました。
その初期の居城が藤沢市の大庭城と伊勢原市糟屋(上杉)館だったんですね。
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写真は大庭城址に昭和9年、当時の神奈川県知事や職員や教育者が、この城址の重要性を後世に伝える為に建てた石碑です。
残念ながら現代の教育委員会は無知無文化な上に土木事務所は❝土建会社に不利に成る事を妨げない様にする反日本文化的❞な連中なので、大庭城址も北半分が宅地開発され消失してしまいました。
大庭城址の南西は船地蔵地区と呼ばれ、大庭城落城の時の詳細な状況が伝承している船地蔵が地名の由来です。
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東の引地川は名前からして水掘りに水を引き込める程の河川の水量があったようです。
こちら側、船地蔵地区は古代から自然湧水の沢があり、そこを堰き止めて大庭城西側を湿地にしていた事が伝承から解ります。
つまり、寄生虫の危険の有る川の水では無く、古代人が飲料水に用いる湧水池が在った可能性が高い地域なんですね。
だからこそ縄文遺跡も、こちら船地蔵地区側や大庭城址から出土する。
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上の写真は扇谷上杉家の重要拠点だった糟屋館(上杉家の大城郭)の跡地の台地ですが現在の神奈川県の黒岩知事は、この糟屋館の丘を破壊して県道を通そうとしています。
そして、教育委員会は地元住民が伝える城址の地名を無視して、既に開発された産能大学の敷地だけが城址だと日本城郭体系や郷土史と異なる戯言を並べて黒岩知事の破壊行為支援をしているようです。
さて、こんな訳で県央の伊勢原市~大庭は古代から中世、関東で重要な場所だった事は御理解頂けたと思いますが…

糟屋館には大手を守る寺院、蟠龍山洞昌院公所寺が有ります。
実は、大庭神社舊蹟の在る船地蔵側には大庭城の鎮護だったと思われる寺院が有ります…
しかも山号が伊勢原市糟屋の寺院と同じなんです。
その名も❝蟠龍山❞宗賢院。
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この二つの御寺には更に凄い共通点が有ります。
…両方とも御寺の寺紋(じもん=御寺の家紋)が太田桔梗なんですね。
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上は藤沢市大庭の宗賢院。拡大して見ると太田桔梗紋が屋根の上に見える。
下は伊勢原市上粕屋の洞昌院、太田道灌公の菩提寺。同じく拡大して見ると、そこかしこに太田桔梗があしらわれている。
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この2つの御寺は、大庭城、糟屋館の鎮護の役割をしていたと推測できます。
扇谷上杉家は禅宗の臨済宗の信徒だった。同じく太田道灌公も鎌倉の建長寺で修業した臨済宗の信徒だった。しかし、この2つの御寺は北条家の時代に曹洞宗として中興している。
宗賢院に関しては、曹洞宗以前の記録が残っていないので開基を1505年としている。しかしながら、平安時代末期の当地大庭の領主大庭景親公の遺物が寺宝として伝わっており、更に太田道灌公ゆかりの桔梗紋が寺紋である事から、現在では名の伝わらない太田道灌公が支援したであろう前身寺院が間違えなく平安時代末期には存在した事が確実なんだな。
では何故現在、宗賢院も洞昌院も同じ禅宗でも曹洞宗かと言うと、太田道灌公亡き後に、道灌公をリスペクトしていた北条早雲公が曹洞宗の信徒で、北条早雲公が後に関与した寺院の殆どが北条家の庇護下に入る際に曹洞宗に改宗している。だから大庭城や糟屋館の落城後に御寺を復興したのは北条早雲公や北条氏綱公達だったからこそ現在は曹洞宗なんだな。

何でこの宗賢院と洞昌院の歴史に話を掘り下げたかと言うと…
これで、大庭地区の昔は海の入江だった東西どちら側が先に発展して来たか、関与した偉人達の足跡を辿(たど)る事で推測する事が出来るでしょう?完全に西側から発展してますね。
いよいよ本題です。
大庭神社の舊蹟が元宮だとするのは、ここまで話した通り県央から徐々に文化は東に伝播して行ったからです。
舊蹟と現大庭神社の間には湾があり、大庭城址や船地蔵地区の古代の湾の西側から人が住み始めたのは出土した史跡から明白である以上、考古学的にも大庭神社舊蹟=元宮=本来の大庭神社が有った場所=現在の大庭神社は後の支配者によって遷座された…
と周辺状況をまとめると容易に推測出来る訳です。

完全に西側から発展してるんですよ、縄文時代の古代だけでなく中世もね。
東側が開拓されるのは、坂東武者の鑑や軍神として鎌倉武士達に崇拝された鎌倉景正公が本藤沢を開拓して以降の話し。
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※写真は鎌倉市の御霊神社。本藤沢を開拓した鎌倉景正公を御祭神として祀る神社。
そして恐らく、大庭神社が現在の地に移されたのは、明治時代まで別当寺であった成就院との関係によると推測出来るんですね~。
下の写真が大庭の成就院。
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この成就院、足利尊氏公と母方の従兄だった山名時氏公が開基したと伝わっています。正確には山名伊豆守。
開基(かいき=寺社を造営する事)は1352年頃とされています。
…つまりね、平安時代の人から見ても古いと思われていた古代から存続する大庭神社の別当寺の割には歴史が凄く浅いんですよ、この成就院は。
でも、足利尊氏公や山内上杉重房公や宅間上杉重兼公と縁戚の山名時氏公の開基だから、否応無しに格式が高く成る訳です。そうなってくると当然、付近の神社の別当寺に成って管理業務を担う様に成った訳ですよ。
でも、御寺の傍に管理する神社が無いと不便でしょう?そこで二つの仮説が立つ訳です。
1、御寺の傍に大庭神社を移しちゃった。
2、本藤沢側の台地が後に発達したから、元々船地蔵地区に在った御寺が本藤沢側に移転して、その際に一緒に神社が移転されられた。
小生、この仮説を立てた時に気が付いたのですが、藤沢の成就院は御寺の山号が稲荷山です…
しかし御寺の有る地区は地名こそ❝稲荷❞ですが、この地区に稲荷社が在った歴史は無い!
ところがところがぁ~♪
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船地蔵地区の大庭神社舊蹟の直ぐ近くには❝臺谷戸稲荷❞が鎮座しています。
しかも、こちら側の大庭神社舊蹟の大庭神社(熊野社)も別当寺は成就院でした。
…もう、これで状況証拠は集まったでしょう。
恐らく、この地区に成就院の前身だった宝染寺が在った。そして当然、大庭神社舊蹟が元宮であり、古代から船地蔵地区に存在したので、宝染寺が別当寺に成った。
その後、1352年頃に鎌倉に近い現在の稲荷地区に山名時氏公が何らかの関わりが有って、宝染寺と大庭神社を東側の丘の麓に遷座し、宝染寺も成就院と院号に寺名を改める事に成ったが山号は船地蔵地区に在った時のまま稲荷山を引き継いだ。
結果的に成就院が移転して来た丘陵地帯の地名が御寺の山号をとって❝稲荷❞と呼ばれる地区に成った。
だから、現在の大庭神社は若宮で、地元の伝承の通り江戸時代に熊野社と一時期呼ばれた大庭神社舊蹟こそ元宮そのものだと推測が成り立つ。
そして、この大庭神社舊蹟や臺谷戸稲荷や大庭城の在る、古代の湾の西側の陸地からは縄文時代~弥生時代の史跡が出土している…
ダメ押しすると、大庭神社舊蹟の住所は藤沢市❝大庭❞。
つまり、伊勢神宮直轄地だった大庭御厨(おおばのみくりや)は大庭神社舊蹟の側一帯の丘を指す訳ですよ。
どうでしょう?
…以上が周辺の歴史ですが、もう元宮は大庭神社舊蹟で決定ですよね?
江戸時代の間宮士信先生の弟子の三文学者が、江戸時代に東海道が通っていた本藤沢側が栄えていたからって勝手に地元の伝承を否定したのは、現代の発展した考古学と古代からの地勢を見れば誤りだったのが良く解る訳ですね~。

次は大庭神社元宮と近所の稲荷社を写真で紹介します。
では次回の記事で御会いしましょう~♪

水曜日は昼から藤沢市の大庭城址公園に行って来た。
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戦前のカタカナ送り仮名は若い人には読み難いので石碑の碑文を平仮名に書き下すと…

この地は大庭景親(おおばかげちか=平安末期の武将)の居城と云(い)う、
後、(扇谷)上杉定正が修(おさ)めて居城せしが、永正9年、子の(扇谷上杉)朝長(ともなが)の時、北条早雲に攻め落とされ是(これ)より北条氏の持ち城と成った。
廃城の年代は未詳(みしょう=くわしく判らない)、空塹(からぼり)の蹟(あと)等(など)當代(とうだい=その時代)の城郭(じょうかく=御城)の制(おさえ=構え=構造)を見るに足(た)るが有る。

はしょって現代語にすると…
ここは大庭景親って武将の御城の跡なんだけれど~、後に上杉さんの御城に成って更に北条さんの御城に成ったんだけれど~空堀とか良く残ってて戦国時代の御城の良い教材だよ~
…ってせっかく昭和初期の神奈川県知事以下職員や教育者が石碑を建てたのに、現在では城址は半分ぶっ壊されて宅地にされちゃったんだよね。
石碑は昭和9年、今の建設業界と密着した腐れ教育委員会や利権政治家と違って当時の文化度の高かった県の行政によって保護されていた大庭城址に建てられた石碑。
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※空堀と土塁↑歴史興味ない人には只の雑木林にしか見えないだろな。
水曜日の訪問で大庭城址公園は3度目の訪問に成る。
前の携帯(ガラケー)の写真をバックアップしてなかったので、同城址の写真を再度撮影に来た次第だ。

ここは、寂(さび)れた管理事務所に実は戦国時代の城入門者には打ってつけの常設展示資料が有るんだな。
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小生も、御城に本格的に興味を持ちだした8年前位に来たのが最初で、良い勉強に成った。
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桜も綺麗な城址なので、是非近隣の人には先人の記憶を辿(たど)る散歩がてら、花見に来て欲しいなぁ~。

実は、この日のドライブの目的地は、この大庭城址を当初は含めて3カ所だった。
もう一つは地図を見ていて城址の近くに❝宗賢院❞と言う御寺を見つけたので、そこに行くのは既に決めていた。
実は❝宗❞の字が使われる御寺は、概(おおむ)ね曹洞宗の御寺で、戦国大名の北条家は曹洞宗の禅の修行を配下武将達に取り入れさせる目的で多くの曹洞宗の御寺を保護した歴史が有ったので、大庭城址の南側大手に当たる位置の宗賢院サンも北条家と必ず関係が有るだろうと推測しての訪問予定だった。
それともう一つは…
綾瀬市の早川城址公園に散歩に行って写真を撮ってくる予定だった。
でも、大庭城址に行く途中、車の中で…
「ん?そう言えば大庭城址公園の近所には延喜式内社の大庭神社が有ったな…そっちを優先するか!」
…と気が変わり、結局、当日回ったコースはこう成った。
●大庭城址公園
再訪問して管理事務所で大庭城落城のきっかけの船地蔵の伝承を知った。
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●船地蔵の近くのコンビニに移動、車止めて船地蔵を御参り。DSC_0324
船地蔵由来の御婆さんに、安らかに眠って下さいね、これからも地元の人と大庭城を見に来る人を見守って下さいねと御願いして来た。
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●大庭神社に移動する心算(つもり)が、セルフカーナビ(自分の記憶)ではなくて車の❝くそカーナビ❞に任せたらスゲぇ~遠回りされて、思いがけず別の神社経由で遠回りされた。
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実は、この思いがけない山王社参拝で、氏子サンが石碑に残して下さっていた、この神社の歴史を読んでいて藤沢のこの大庭の地に戦時中は海軍飛行場が在った事を知った。
貴重な訪問と成った。サンキューくそカーナビ(笑)。
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●山王社の坂を降りて大庭神社に行く途中で成就院と言う真言宗の御寺を見かけた。大庭神社との位置関係上、江戸時代までは大庭神社の別当時だった可能性が有ると推測出来たので、帰りに寄る事にした。
そして大庭神社へ…
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神社は今も立派な境内を抱えているのだけれど、残念ながら宮司様不在の荒廃ぶり。
ここは由緒正しい延喜式内社なのに、こんな有様なのは悲しすぎる。
本来は神奈川県神社庁が資金を投入しても神主様を常駐させ、もっと参拝客を増やす努力をしないといけない場所なんだと思うけれどなぁ~。
でも逆に明治の廃仏毀釈の影響を受けず境内には貴重な梵鐘も有った。DSC_0340
奈良時代~江戸時代が終わるまで、歴代天皇が大切にされた文化が、この式内社には残っていた。
きっと、この大庭の御厨(みくりや)を開拓された鎌倉の権五郎御霊神社の御祭神である鎌倉景正公や御子孫の大庭景義公、後にこの地を治めた扇谷上杉定正や太田道灌公、北条早雲公や北条氏綱公も、この鐘の音を聞いた事だろう。
そして、古来の日本の宗教としての大庭神社も参詣し、この土地を開発した平安時代の鎌倉景正公や古代~奈良時代の先人に感謝の念を抱いたのかも知れない。
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●大庭神社を御参りし終わって、近所の成就院に移動…
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門前の看板を読むと予想通り、明治時代の廃仏毀釈神仏分離令で仏教弾圧されるまでは、大庭神社を守っていた別当寺だった。
大庭神社は、この成就院さんと切り離されてしまったから荒廃したんだな。
だいたい、鵠沼とか3kmも離れた神社の宮司様に管理させる自体ナンセンスな気がする。
住民と顔つき合わせて普段から話すチャンスなんか無いだろう。そりゃ、地域住民も宮司様への親しみも感じる以前の問題に成るから、当然、宮司様との距離が地域住民との距離に成って行くだろうな。
もし、更に地元の人との郷土文化を保存する気概が有り効率的に古社に対する信仰心を維持する気概が神奈川県神社庁に有るならば、この管理体制は改革させるべきだと民間人としては思う。
どこの業界でもエリアマネージャーや支店長管轄区ってのは地域で担当区分するのが常識的かつ効率的な管理手段なのだから。
別に昔の様に御寺サンに御任せする代わりに、御住職に神事も勉強して貰えば良いのだし、逆に明治以降のまま神仏分離で棲み分けが共存に繋がると意固地に思うのであれば、神社の管理は明治時代の宗教観を忠実に復古して、郷社や村社の制度を再導入させるべきだろう。
地域ごとにそれこそ昔の様に郷社や村社といった神社の管理区分を明確にしたら管轄が地区ごとに集約出来るし神職者への資金分配や管理が行い易くて良いだろう。
そして、管理事務所兼戸建て宿舎を建設し、所管の神社の禰宜さんを支店長みたいに住ませ所得の低い内の家賃手当代わりに神社の保全に務めて貰った効果的なんじゃないのかな?
これから益々外国人が増えるんだから、本来の神仏習合のAll Japan体制で移民による文化破壊を食い止めないと、宮司不在の神社なんか無文化政治家の土建屋マッチポンプで瞬く間に強制移転や破壊対象にされてしまうぞ。
…なぁ~んて考えさせられる良い機会にも成った。
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●当初からの訪問目的である、宗賢寺さんに移動。
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結構な規模だった。
意外な発見も有った。
開基は1505年と伝わるが、平安末期の大庭城主大庭景親公所有の陣釜が有るなど、平安末期には前身の大寺院として同地に存在した匂いがプンプンしたが、やあはり戦国時代に移行する前の室町時代の大庭城所縁の上杉家と家宰太田道灌公の足跡が沢山御寺には残っていた。
自分の推測を御寺の家人に提起した所、目を白黒されて聞かれていたが、色々と御納得頂けた様で、檀家信徒以外読む機会の無い、戦国時代以降の寺史を纏(まと)めた書籍を貸与して頂けた。
最初、是非、これを御貸ししたいと本を手渡された時は「次、いつ参拝出来るかも解らないので無責任に拝借出来ません、購入させて頂きます」と固辞したのだが…
小生の人格を初対面で信頼して頂けた様で、「1年先でも2年先でも返却は良い」と、御好意の御言葉を頂けたので、恐縮しながら宗賢院様の歴史の本を拝借して帰路についた。
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●何か真っすぐ帰るのがシャクだったんで、大庭城と同じくガラケーでしか写真撮影していなかった藤沢市の村岡城址公園に帰り立ち寄って、改めてバシャバシャ写真とってきた。
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やっと満足して帰ろうと思ったら…
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●先週買ったジーンズの裾上げ頼んだまま引き取って無かったので、帰りに取って帰って来た。
又、徹夜だったので、帰宅し記事更新しようとしたら直ぐに寝落ちしてしまった。

今回の活動の主な範囲…
大庭城周辺
こんな感じ。横浜からは20km位離れてるけれど、藤沢市内では極めて狭い大庭地区周辺だけ。
あとは鎌倉との市境の村岡城址。因みに、藤沢市は昔は旧鎌倉郡で鎌倉の一部だったんだな。
今回参拝した山王社で、大庭に戦時中は海軍飛行場が在ったと知ったので、終戦直後の米軍が空撮した写真を見たら本当に荏原製作所の所在地が空港だった…
大庭城周辺(昔)
Google Earthに当時の写真を重ねるとこんな感じ。
右側の白い線が滑走路だね。
この広大な平地に昔は山王社が在って、大庭神社と並んで村民の崇敬を集めて、昔は村の御祭りなんかで賑わっていたんだろうなぁ~。

そう言えば…
大庭神社を含めて神奈川県神社庁は早急に復興するべき神社がいくつか有ると思う。
それは…
●大庭神社 藤沢市稲荷 合わせて古代の旧社地である大庭の現熊野社。
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
鵠沼の皇大神宮の管理。
●高部屋神社 伊勢原市下粕谷 
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
伊勢原大神宮の管理。
●杉山神社 横浜市緑区西八朔
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
川崎市麻生区の琴平神社の管理。
●烏山八幡宮 横浜市港北区鳥山
平安時代~鎌倉時代の名将で醍醐天皇の御実弟で沙沙貴神社の御祭神である敦実親王の御神孫に当たる佐々木高綱公の居館跡に開かれた立派で由緒有る八幡社なのに神主不在。
横浜市東神奈川の熊野神社の管理。
●森浅間神社 横浜市磯子区森
源頼朝公が海岸の断崖にコンコンと湧き出る滝の在る同所に神仏混合崇拝の修験道の山伏の修行場を兼ねて鎌倉幕府の陣所と合わせて開いた由緒ある神社な上に、鎌倉幕府最後の将軍を匿った場所だが、過去の横浜市による社地接収と団地と宅地造成により、周辺から存在を認知され難い不利な立地にされてしまっている。
関東武士団の鎌倉文化の醸成地の一つで有るだけに、もっと資金を投入し支援するべきだと個人的に感想を持つ。

由緒ある延喜式内社や凄まじい歴史偉人の関与と、古代からの遺跡や自然湧水等のパワースポットが境内や近所で確認出来るの神社を神主非常駐にせず、せめて管理神社の禰宜サンを常駐させるべきだと思う。
宿舎も兼ねた管理棟を県の文化財管理棟として建てて、禰宜さんの宿舎兼支店営業所的な運営させるべきだと思う。
そうする事で若い世代の神職サンの生活も安定させられる上に、神職者と住民の距離も近くなり親近感も湧き往時の信仰心と日本の文化を復古に役立つ事も出来るのでないだろうか?
なぁ~んて考えさせられた、今週の水曜日でした。
しょせんは歴史好事家(オタク)の世迷言。

今回、写真撮って来た城址や神社仏閣は、いずれ解説記事にちゃんと書きますよ~♪
さぁ~て、今日こそは綾瀬市の早川城の写真をとらないと…
来週再来週には桜が咲き始めてしまうので、今度は桜の名所巡りしないといけないからね。
そろそろ藪蚊と虻が増えてくるし、今年の古城廻りシーズンは終了かな?


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