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タグ:大庭神社

大庭神社旧蹟=元宮熊野社(延喜式内社・古代遺跡に囲まれた丘)
&臺谷戸稲荷(古代遺跡の台地に納得する水源と豊穣の神様の稲荷様)
&臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の木(神奈川の名木100選)
舟地蔵(大庭城落城の原因の老婆の伝承の石仏様)
大庭城(扇谷上杉家初期の居城、有数の大城郭も今は半分に・・・)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公
 ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の歴史偉人の御祭神と神皇産靈神
 ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦火で仔細不明  
御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
関係者:
開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
         大庭 景親 公?
   左京大夫  山名 時氏 公(足利尊氏公の母の従兄弟)
   関東管領家 上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
   神祇伯   白川 資顕 王
   郷士    諏訪部定太郎公
   郷士    山崎 包高 公
旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
所在地:大庭神社旧蹟(熊野社)・・・藤沢市大庭1846の微高地
所在地:臺谷戸稲荷と椨の木・・・藤沢市大庭神社旧蹟徒歩1分南側
所在地:舟地蔵・・・大庭城南端直下の外堀、小糸川と引地川の合流地点
所在地:大庭城址・・・藤沢市大庭城址公園
※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
延喜式神名帳に記載が有るものの、大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が祀り始めと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
今宮である現在の大庭神社は引地川の対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。
その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
この扇谷上杉氏定公の家宰の太田家の太田道真公と太田道灌公親子が深く関与したと推測される宗賢院が近在し、この宗賢院も戦国時代以前の伝承は伝わらないが寺宝に大庭景親公の陣釜が有り、更には太田家の太田桔梗紋を寺紋としている上に同じく扇谷上杉家の後の居城だった伊勢原市の大城郭上杉糟屋館城下の政務所を兼ねた太田道灌公の詰所が❝蟠龍山❞洞昌院公所寺であり宗賢院も山号が❝蟠龍山❞である事から、宗賢院は前身寺院が大庭神社舊跡(元宮)に関与し大庭城主大庭家とも関係が有り室町時代には扇谷上杉家の政務所を兼ね、舟地蔵の地名が起こる以前は伊勢原の❝蟠龍山❞と同じく❝公所(ぐそ)❞が地名だった可能性が有る。
これらの事から宗賢院は太田家の支援を受け、大庭神社も大庭家、山名家、扇谷上杉家、太田家の関与が有った事が推測出来る。
そして大庭神社が鎮護した大庭庄で乱暴を働いた人物は悉く直後に滅亡している事から、その神威が強い事も歴史的に立証されている。
余談だが大庭城を攻めた北条家は繁栄したが、北条軍は大庭城を落城させた際は御丁寧に舟地蔵地区の堤を切り沼堀を水抜して防御を無力化した上で落城させ、更に周辺の神社仏閣を保護した事が宗賢院の曹洞宗寺院としての中興開基時期から判る。この沼掘りの弱点を漏洩してしまったのが扇谷上杉家の殿様を慕う地元の老婆で、北条家のスパイにそれとは知らずに大庭城の頑強さを自慢する内に堤防を切ってしまえば水が抜ける事を話してしまい結果的に殺害された供養の石仏が舟地蔵と伝わる。
この大庭城のエピソードや山城の大庭城山上に井戸がある事からも神話時代での創世記に相当する縄文時代の人の集落は台地上に必ず在るが、台地上で水が確保出来る泉が在った高いので可能性が熊野信仰にも結び付き、相模国造の穂積氏が弥生時代~古墳時代に周辺を開拓した事も推測出来る。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

大庭神社(延喜式内社・大庭神社の今宮)
稲荷山 成就院(足利家親族の山名時氏公が開いた大庭神社別当寺) 
日枝社(戦時中の軍飛行場建設で遷宮された神社)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公・山王権現・愛染明王
  ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の御祭神と神皇産靈神
  ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦乱で仔細不明  
  御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
  関係者:
  開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
  中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
           大庭 景親 公?
     左京大夫  山名 時氏 公
     (足利尊氏公の母の従兄弟)
    関東管領家  上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
    神祇伯    白川 資顕 王
    郷士     諏訪部定太郎公
    郷士     山崎 包高 公
  旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
【歴史概要】
大庭神社については延喜式神名帳に記載が有るものの、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
旧蹟側の熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が土地開拓し祀り始めたと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
現在の藤沢市善行側の大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、今宮である現在の大庭神社は旧蹟側と引地川を挟んで対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。その時に旧蹟の場所から現在地に社殿を移転したのだろう事も推測出来る。その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
善行側、現在の稲荷山成就院の丘上に現在は荏原冷却システム株式会社の広大な削平地が広がっているが、実はここ第二次世界大戦中の海軍飛行場だった。この飛行場の建設で当地に在った日枝神社も現在地に遷宮された。第二次世界大戦に日本が敗戦すると神社は国からの支援が無くなり何処も大規模な境内地を接収されてしまい氏子の寄付金に因る収入源だけが頼りに成るが、戦時中の空港建設で集落が移転してしまい過疎化した事で由緒ある延喜式内社の大庭神社は神主不在の惨状と成り、近年、神楽殿も解体され境内の石鳥居も崩壊したままに成っている。しかしながら、この神社の御利益は歴史が証明している。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

【大庭城】
大庭城址周辺図 久良岐のよし
[築城年代]
平安時代末期…良文流坂東平氏鎌倉家の子孫の大庭家。
[改修年代】
不明…改修次期は二期に分かれると推測、一期は扇谷上杉家、二期は北条家による落城後の北条早雲(伊勢盛時)公、又は北条氏綱公による改修。
[現在の様子]
腰曲輪群・土塁・空堀の遺構が一部保存されている。
大半が現代の神奈川県教育委員会が保護を怠った為(ため)に破壊されるも、昭和7年頃の近代には神奈川県に保護された史跡だった為、一部残存する。現代の教育委員会の意識と知識の低さと、近代の県職員の横浜の開港や近代化と県文化財歴史史跡保護を両立させた意識の高さの差異を感じる城址の一つ。
[所在地]
藤沢市大庭5230-1
[アクセス]
藤沢駅か辻堂駅からバスで20~30分。駐車場無料。
[周辺の見所]
大庭神社(延喜式内社)。
平安時代末期の大庭城築城時、もしくは室町期の領主山名時氏によって現在の境内地へ移されたと思われる。
大庭神社旧跡(延喜式内社大庭神社の元宮と伝承)。
江戸時代には熊野社と別名で呼ばれた。延喜式内社は遊水地や半島に創建された場所が多いので、かつての湖沼地帯である船地蔵地区に近在する大庭神社旧跡が旧境内地と伝承するのは、古代の地形との整合性が高い。
稲荷山成就院宝染寺
足利尊氏公と母方の従弟に当たる山名時氏公によって開基された。江戸時代には大庭神社の別当寺だった。現在の境内地は広くは無いが歴史の有る寺院。
蟠龍山宗賢院
城の南側に位置する大寺院、寺紋が桔梗紋で山号が蟠龍山である事から小生は曹洞宗改修以前は太田道灌の太田家の関与が有った大寺院と推測。寺宝として大庭景親(平安時代末期の領主)の陣釜が伝来する事から、平安時代末期には大庭家が大旦那に成り大庭城の鎮護寺院として開基されていた可能性が高い。
尚、鎌倉時代の周辺領主は大庭景親の亡き後、大庭家の名跡を一度は譲った大庭(懐島)景義公が復帰して鶴岡八幡宮造営等に活躍されているので、大庭景義公との関わりも否定出来ないが度重なった戦火と失火により寺伝は大庭庄の北条家統治後の歴史しか伝わっていない。
※独立解説記事は未だ未記載なので、その内にでも書きます。 

※次回から↑こんなフォーマットで公園・城址・レストランの紹介は冒頭に纏めて、解説を下に書く様にしようと思います。

【以下大庭城址の風景写真と解説】
神奈川県藤沢市の市域の大半は、かつて鎌倉郡と呼ばれた場所に属していて現在の感覚で言うと鎌倉市の一部でした。
鎌倉市以外で嘗(かつ)て鎌倉郡だった場所は藤沢だけでは無く、更には横浜市戸塚区・栄区・港南区の鎌倉街道以西の地域も含まれていて、現在、その地域を鎌倉市に返還すると鎌倉市は政令指定都市に成れる位の広大な地域が昔の郡域でした。
室町時代には、この鎌倉を支配したのが鎌倉公方(くぼう=将軍)と家老の上杉家の武将達と、平安時代から関東を開拓して来た武将達でした。
特に上杉家は❝関東管領(かんとうかんれい)❞と呼ばれた役職を代々家柄で担(にな)っていた重要な家系で、現代の感覚で言えば関東自治政府の首相を務めた家でした。
その上杉家は犬懸上杉家・山内上杉家・扇谷上杉家・宅間上杉家が主要な4家で、それぞれに関東管領職を輩出した事のある家柄でした。
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その中でも扇谷上杉家の相模国支配の拠点として機能したのが、この大庭城址や伊勢原市の糟屋館や七沢城でした。
日本の戦国時代突入の発端に成ったのが、実は神奈川県の旧鎌倉郡で有る事は義務教育では教えないので余り知られていません。
鎌倉公方足利持氏(もちうじ)公と、鎌倉公方の政治を代理で行いながら京都の将軍の家来だった関東管領上杉家の対立が戦国時代突入の原因とされています。
そして、その最初の戦いが❝上杉禅秀の乱❞です。この上杉禅秀の乱勃発時、鎌倉公方の忠臣として活躍したのが扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定(うじさだ)公です。
氏定公は鎌倉公方の武将として活躍し、犬懸(いぬかけ)上杉禅秀と対峙しますが緒戦劣勢だった鎌倉公方軍に在って傷を負ってしまった上杉氏定公は足利持氏公の鎌倉撤退に同行出来ず、❝藤沢で自決❞した事が解っています。
つまり、大庭城の城の規模や、この上杉氏定公のエピソードは戦火で失われてしまった神奈川県の戦国初期の歴史を補完してくれる材料にも成る訳ですが…
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大庭城址は、扇谷上杉家の城の中でも扇谷上杉家の初期の居城だった事が神奈川県には伝承していて、昭和7年に大庭城址を城址公園として指定した当時の神奈川県によって石碑が建てられています。
上杉氏定公の自決の逸話とも整合性が有ります。
残念ながら、大庭城址は現代の❝神奈川県教育委員会の不見識と怠慢❞により、城址公園と言う名前なのに大半が破壊され、城の北半分については完全に破壊され消滅してしまいました。
昭和初期の県知事以下職員が保護対象にしていたのにね…。
その大庭城址の規模は、後(のち)の扇谷上杉家の拠点の河越城や江戸城よりも巨大で高い丘に築かれ、伊勢原市の糟屋館や厚木市の七沢城の様に沼と大河川に囲まれて守りが堅固な巨大城郭でした。
恐らく規模では伊勢原市の三浦道寸の居城岡崎城や、北条家の小田原城に匹敵する規模と堅固さだったと推測できます。
では現在、この城は何も残ってないのかと言うと、実は空堀や腰曲輪等、部分的に現存しているので、今回、公園の風景と合わせて紹介していきたいと思います。
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大庭城址公園には無料の駐車場があります。こっち側には城としての遺構は余り残っていませんが…
ここからの登城をオススメします。
何故かと言うと後(のち)に解説しますが、こちら側の地区の近所に船地蔵と言う御地蔵様があり、そこが大庭城落城の秘密と関係が有るので、それを学ぶ為には此方(こちら)側の現代の施設に立ち寄る必要が有ります。
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駐車場の階段を登ると直(す)ぐに大庭城址公園管理事務所と言う場所が在(あ)ります。
ここは管理者が一人勤務してらっしゃるだけなので、昼食や警備の時間帯は開いていない場合が有りますが時間をズラして散策後に訪問すると中に展示されている貴重な縄張り模型等を拝観出来ます。
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こんな、嘗ての縄張りを推測出来る地形の模型の他に、小名として残る城施設名の航空写真に拠(よ)る解説や嘗ての城址全景等を学ぶ事が出来ます…
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ここの展示は御金はかかってはいませんが、藤沢市が戦国時代に突入する切っ掛けに成った舞台の地で有る歴史や、全国に先駆けて戦国時代の城塞化が行われたのが大庭城址や扇谷上杉家関連の太田道灌公達が関連した城だった事が良く学べる展示に成っています。
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この立地は本当に伊勢原市の糟屋館(扇谷上杉定正の初期の居城)や、厚木市の七沢城に、扇谷上杉家出身の三浦道寸公の居城だった伊勢原市の岡崎城の良い面だけを集めたような城ですね。
又、ここの展示は城見学入門者向けの丁寧で簡略化された優良な展示資料も掲示されていますので、是非、見学して欲しいと思います。
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こんな感じで「石垣の城なんて戦国時代初期の城じゃねぇ~よw」みたいな正しい知識を学べます。
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あと、通年で見れる花とかの資料も掲示されていますよ。
自動販売機・トイレも有るので水分補給と城址見学の敵、トイレで困る事も有りません。
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公園管理事務所側から登ると上の写真みたいな感じでハッキリ言って遺構は破壊され尽くしていますが、公園の区画自体は往時の縄張りの区画を損ねずに行われている様な気がしました。
50cm有るか無いかの段差は、戦国時代初期当時の縄張りのままの区画だと思うので衛星写真と縄張り図で見比べてみましょう…
大庭城址縄張り図 大庭城址公園管理事務所様 久良岐のよし
大庭城址公園Google衛星写真 久良岐のよし
樹木の残っている場所が縄張り図上の土塁や空堀と重なるので、やはり児童公園かされた部分も僅(わず)かな段差は当時の縄張りを変えずに作られたようですね。
さて、では城址公園内の現在の様子ですが…
駐車場や管理棟は城の現存部左上、そこから入り南側に移動するにつてれ残存遺構が多く成ります。
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最初に目に付くのが、この大庭城址残存部を南北に分断し敵の侵入を拒む最終関門だったと思われる❝堀切❞の跡ですね。
現在では風化していたり西側半分は埋められていますが、当時空堀だった事を知るには十分な地形です。
そこを進むと建築物の遺構が有ります。矢倉が組まれていたか、屋敷地だったのでしょうか?
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看板には「今後の全面的な発掘調査」なんて書いて有りますが、神奈川県教育委員会は自分達で城址の大半を土建屋がブっ壊す時に調査もさせず責務を果たさなかった癖に、何の寝言をホザいているんでしょうか?
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まぁ、それでも昭和の高度経済成長期の破壊を、現在の教育委員会の中の有志が、こうやって少しでも心意気を見せてくれるのは熱い物が有りますが。
別に宅地開発をするのは悪い事では無いんですよ、ただ、糟屋館・七沢城・大庭城・岡崎城・玉縄城・衣笠城・笹下城・蒔田城・青木城・小机城の様に特に重要だった場所、壊してはいけなかった場所が有るのに、神奈川県の史跡は外郭団体に管理丸投げしてしまい、そこが天下り先に成っていて市長や県知事の票田である土建屋と直結しているので現代では保護に後ろ向きなんですね。
いくら近代の政治家や役人サンが優秀だったから史跡が保護されて現代人に引き渡されても、左翼系や無文化な首長を有権者が選んでしまうと、自然や文化が破壊される負のモデルが大庭城の北半分の消失でも有る訳です。
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さて、掘っ建て小屋の遺構の傍には、ちょっと茂った小山みたいのがあります。
これは、城好きな人は直ぐに解る、土塁と言う戦国時代の城の土の壁です。
土の城の土塁は現在はどこも風化していますが、当時はちゃんと相撲の土俵みたいに押し固められていて高さも最低2~3mくらい通常ありました。
更に、敵が侵入してくる側には土塁の下に空堀が設けられているので、通常は最低でも堀底から5m位の高さ、角度60度くらいの防御壁として機能した訳です。
大庭城址の土塁は風化した現在で3mはあるので、当時は5mくらい有ったと思います。
空堀も最低でも2m以上の深さが有ったでしょう。
上杉家でも別系統、足利尊氏公と従兄だった宅間上杉家の拠点の一つだった横浜市緑区の榎下城址(舊城寺)も、その程度の堀の規模は有りました。
⇐榎下城址の過去の記事はここクリック!
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この大庭城址も、南端の方には豊富な曲輪群、写真の様な空堀が有ります。
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北半分は破壊されていますが、まだまだ、城址入門の良い教材に成ります。
それを理解する為にも、あの最初に紹介した大庭城址公園の管理事務所の掲示物を熟読し、縄張り図を写メしてから廻ると良いと思います。
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土塁が芝生取り払われて芝生に成った部分も、これはこれで子供連れの家族が御弁当を持って散歩に来たり、ボール遊びしたり良い親子の時間を過ごせる場所だと思います。

さて…
大庭城址自体の説明はここまでにして、大庭城落城の秘密と悲話を現代に伝える城址南端、引地川と支流の合流地点近くの話に移ります。
大庭城址の南側にコンビニと公園が有ります。
その公園は船地蔵公園と言うのですが、その前に地区名の由来に成った❝船地蔵❞と言う御地蔵様がいらっしゃる場所が有ります。
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実は、この御地蔵様が難攻不落の大庭城を、いとも簡単に北条家に落とされてしまった理由に成っています。
別に神通力や仏罰で城が落ちた訳では無いんですよ。
現代では詳しい場所までは解らないのですが、大庭城址は西側の守りが弱く、そこを堅固にする為に元々湿地帯だった東側の様に西側も川を堰(せ)き止めて湖沼にしていたそうです。
その堤防の傍に住んでいた老婆は、ある日、北条家の密偵とは知らず、大庭城の事を調べに来た人間に、根掘り葉掘り沼掘りの秘密を全て話てしまったそうです。
そして口止めに殺害されたと伝承しています。
その後、北条家によって城西側の水が抜かれて干上がった時に攻め落とされたと推測できます。
水不足の季節、夏か真冬に攻略されたんでしょうかね~。
落城年代も、この地域の宗賢院や成就院と言った大寺院が度々火災に遭っていて記録が現存しない為に、今では良く解りません。

地域の伝承では北条家の密偵に殺されたと有りますが、北条家は新井城址攻防でも津久井方面の攻略でも似た様な伝承が有り、❝老人は口が滑りやすいのか老人に城の様子を偵察する習慣が有った❞ようです。
年取ると判断力無く成りますからね。
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但(ただ)し、新井城址の時もそうですが、北条家の密偵が聞いた相手を殺すとは考えにくく、寧(むし)ろ領主が秘密をばらした人間を誅殺したと考える方が自然でしょう。
だってね、集落で殺人なんか犯したら、瞬く間に騒ぎに成って敵方の追っ手に追跡されたり捕縛されてしまいますからね。
新井城址の場合は城の話を漏らした老夫婦は自害し、津久井方面の場合は現在では明治の小桜姫ブームに乗っかって話が小桜姫の伝承にすり替わってますが城主側が話を漏らした小桜姫を殺害した事に成っています。
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そんな船地蔵は、城の秘密を話してしまった御婆さんを供養する為に建てられた御地蔵様の御堂ですが、現在では水害と交通事故が発生しない様に地域と通行人を見守って下さる地域鎮守の有り難(がた)い御地蔵様として、藤沢市の市民に愛されています。きっと、御婆さんも多くの人に愛されて喜んでいるでしょう。

きっと、皆さんの御近所の御地蔵様や御寺や神社や今では公園に成っている場所も、昔は御城だったり凄い歴史人物が大切にした場所が普通に有る筈(はず)です…

余談ですが、最近流行しているポケモンGO、小生も初めてみました。
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ゲーム内では写真のようにポケストップと言う、ボーナスを貰える補給所みたいな場所が設定されているのですが、小生はこれが文化保護に役立つと思っていて非常に有用なコンテンツと評価しています。
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こんな感じで、余り知られていない重要文化財や石仏や神社、或いはキリスト教の教会等も紹介がされています。
小生、近所に昇竜橋が有る事を知りませんでした(笑)。
現代の道路の一段下の廃道にこんな場所が有ったとは…
これで、小生、❝神奈川の景勝50選❞❝神奈川の銘木100選❞に続いて❝かながわの橋100選❞も廻らないといけなくなりました(笑)・

だから皆さんもポケモンGOやりながら(笑)でもやらなくても、御近所を御散歩してみませんか?
きっと、そんな場所は古代の神様や鎌倉武士や戦国武将達と皆さんを現代に繋げてくれるタイムマシーンの役割を果たしてくれる筈です。

では、皆さん又次回の解説記事で御会いしましょう!





前回、解説記事で大庭神社には大庭神社と大庭神社舊跡の2箇所が近在している事を歴史踏まえて解説しましたが…
内容は大庭神社の元宮と、大庭神社2ヶ所有る理由でした。つまり最初に大庭神社の社殿が在り、神社が古代に造営された聖地とされた場所だったのが舊跡=元宮で、立派な大庭神社は移転後の場所と推測されている理由でした。
※御興味有る方は「ココ」←クリックして前回の記事を御覧下さい。
さて、今日は大庭神社舊跡(きゅうせき)その物と近くの臺谷戸稲荷の様子を写真で解説したいと思います。
この大庭神社舊跡は、所謂(いわゆる)神社で言う所の元宮(元々神社が移転前に在った場所)な訳ですが…
現在の本宮と比定されている稲荷地区の大庭神社より、だいぶ寂れているものの清々しい聖地の雰囲気を醸(かも)し出しています。
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長い参道は竹林に覆われ、幻想的な雰囲気です。
こちらの御祭神は熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)です…

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成ります。
遅くとも飛鳥時代より前の造営でしょうから、神話が始まる考古学的は縄文時代が終わる西暦紀元前400年頃の神様を祀(まつ)っていたようですね。
余談ですが、実は神道の宮司様にも考古学を御存知無く、神話と実際の日本文化の変遷を理解していない人が多いんですが、日本神話と考古学の歴史って整合性が有るんですよ。
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※写真は横浜市緑区の延喜式内社、御祭神は五十猛(いそたける=素戔嗚尊の子)の杉山神社。
神話が始まったのが西暦紀元前600年頃、縄文時代の終焉が紀元前400年頃、素戔嗚尊が古代日本で活躍するのが丁度その頃。そして弥生時代が始まるのですが、関東各地の古社の御祭神は悉(ことごと)く素戔嗚尊の御神孫なんですよ。つまり関東の古社の神話では出雲神族が関東を開拓した神話が有り、最近の発掘成果では、その頃に稲の水田耕作も伝播してる事が解っています。
そして弥生時代の終焉、古墳時代の到来が西暦100~200年代と言うのも古い古墳の発掘で推定されていますが、実は神奈川県の走水神社の伝承では日本武尊が三浦半島の走水に仮御所を置き、そこから房総半島に船で渡ったのが西暦110年か114年の正月だと伝承しています。つまり青銅器の導入や古墳文化の伝播が日本武尊神話と整合性が有るんですね。
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さて、話を神話と考古学から、大庭神社の元宮に戻します。
畑地と住宅街の在る山に所在し入口が解り難いのですが、上の石碑が目印です。
船地蔵周辺
最寄りのバス停は❝船地蔵バス停❞か❝第六天バス停❞です。
電車の最寄りの駅は無いので、藤沢本町とか辻堂駅等の周辺からバスでの訪問か車を大庭城址公園、もしくは近所のコンビニに停めるしか無い、少々不便な所です。
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さて、ここは嘗(かつ)て大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれた地区で、縄文時代~人が住んだ地域でした。
その大庭御厨を水田耕作に適した土地に開拓したのが、戦国武将上杉謙信の祖先で、平安時代の名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公は坂東武者達から武士の鑑(かがみ)として尊敬され軍神として鎌倉市坂ノ下の御霊神社で崇拝されました。
失明した際に供養した目を埋めた土地から瞬く間に樹木が成長した逸話から❝眼病治癒の神様❞、そして御霊神社周辺で多くの貴族や武士が恋愛の詩歌を詠(よ)んだ舞台だった事から❝縁結びの神様❞として人々に信奉されています。
※権五郎御霊神社については「ココ」←クリックして以前の記事を御覧下さい!
現在ではこの地区、船地蔵地区と呼ばれています。
その由来は大庭城址落城の秘話と密接に関係が有ります。
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上は大庭城址の空堀と土塁。
大庭城は引地川辺りに堤防を作る事で、城の周辺を湖沼化し守りを堅めていたそうです。
しかし・・・
この引地川の堤防と言うのは、引地川に注ぐ川を堰(せ)き止めた堤(つつみ)なのか、それとも引地川の水を引き込んで沼にしたのか現代には伝わっていません。
そこで地形を見てみましょう。するとある程度は推測が出来ます。
もう一度衛星画像で位置関係を確認してみましょう。
船地蔵周辺
大庭城址東側は元々湿地帯です。ですから水を堰き止める必要は有りません。
東側より西側が標高が高いので、西側を湿地にする程の大堤防を築けば南側の街道全て使用不能に成ってしまいます。
西側は湿地では無いのですが、滝ノ沢が流れ、更に江戸時代に❝熊野社❞と呼ばれた大庭神社舊跡が在ります。
恐らく、そこに嘗(かつ)て存在した滝や、湧水地の流れを引地川に入る前に堰き止めて西側一帯を湖沼化させていたんでしょう。
熊野社と言うのは、古来の神聖な湧水地や滝の傍に造営される神社でした。つまり、西側は湿地では無いにしろ当時は湧水池か豊富な水量を誇る滝が有る川だった可能性が有る訳です。川の名前がそもそも滝ノ沢だった訳ですしね。
そして、この地域からは多くの縄文~弥生文化遺構が出土しています。
これは説明するまでも無いのですが熊野那智大社は聖地である那智の滝の傍に在り、紀元前からの貝塚史跡が出土している丘を境内に抱える師岡熊野神社も聖地である池の傍にあります。そして両方とも天皇家の崇拝を受けました。
ここ大庭神社旧跡は、その前を流れる川の滝か、滝の傍の湧水地で聖地として後に熊野社が勧進され名前は大庭神社と呼ばれていたのでしょう。
そして、前回の解説記事でも推論を述べましたが、足利幕府の重鎮であった山名家と別当寺の都合で後から現在の稲荷地区に移転した筈です。
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この元宮と推測される大庭神社は参道が二段階に成っていて奥まで行かないと御社(おやしろ)が見えません。
恐らく、この御社の神様を奉る理由に成った、神社その物より大切な聖地とされた滝や池が昔は存在した筈なのですがね。現在は地殻変動か宅地開発かで往時の面影は解りません。
とは謂(い)えども、ここはヒッソリとしている物の、醍醐天皇の時代、西暦900年代の京都の貴族達にも神聖な場所として認識されて延喜式神名張に記載されている神社だったので、神奈川県下現存14座の延喜式内社+数社の式外社と数少ない悠久の歴史を持つ神社な訳です。
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現在では、本当に御社(おやしろ)と言う他無い規模の神社ですが、昔の人から我々が受け継いだ聖地である事には変わり有りません。そして、神様の御利益や聖地としての大切さに神社その物の規模など微塵も関係が無いんです。
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是非、ここ大庭神社の元宮と、現在の大庭神社両方を合わせて御参りして欲しいです。
そうする事で、ここを大切にしてこられた縄文~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~戦国~江戸~明治大正昭和の人々の生きた歴史を感じ、平成の時代に我々が土地の文化を守る大切さと、神社の伝統を守る大切さの両方を引き継ぐ事が出来るんだと思います。

こ大庭神社の元宮近くには、この地が古来早く開けていた証拠と成る神様も鎮座しています。
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臺谷戸稲荷神社です。
この稲荷社の名前の由来は、大庭神社の所在する台地が古来❝臺(だい)❞と呼ばれ、北側が谷戸(やと=谷を利用した集落)だった事に由来しているそうです。
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古来、稲荷社の御祭神は宇賀神(うがじん/うかのかみ)や宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたまのかみ)と呼ばれた豊穣の象徴の神様でした。後に平安時代末期に成ると中国から輸入した貨幣❝宋銭❞での経済活動が始まり、穀類や海産物の物資その物から貨幣経済へ社会構造が変革した事で富の象徴が❝貨幣❞と成りました。その過程で、印度(インド)から中国経由で渡って来た七福神の弁天様が❝戦の女神❞❝美の女神❞❝財運の神❞❝水の女神❞としての多くの御利益が在った事から、女神でもあり似た御利益宇賀神と習合され一緒に崇拝される様に成った歴史が有ります。
宇賀神は半蛇半女の姿で描かれる事の多かった神様なので、蛇神=水神としても信仰されたので弁天様は水辺に祀(まつ)られている訳です。
そして更に明治時代の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく=仏教弾圧)思想と明治政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい=日本の神様と外国から来た神様を再分離してしまう政策)によって、弁財天や弁天社として日本全国に存在した神社を破壊から守る為に、全国の弁天信仰の神社の氏子サン達が、弁天様と日本古来の海上交通=水の女神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を同一として習合する事で神社を存続させた訳です。
そんな訳で、明治時代に成って宇賀神も宇迦之御魂神も弁財天様も市杵島姫命も別々に成ってしまったので、逆に古代から明治時代まで受け継いだ歴史が寸断されて訳が解らなくなってしまった訳です。
まぁ、市杵島姫命自体は名前や御神威からして福岡市沖に浮かぶ聖なる島の❝壱岐❞に古代いらっしゃた神様(古代天皇家の王族の姫、もしくは壱岐国の女王か王族の姫様がモデルか?)か、島自体を神格化した神様でしょうから、とても大切な神様である事には変わり有りませんが…。
そんな、縄文~明治時代直後までの富の象徴としての宇賀神信仰の歴史を全て残しているのが鎌倉の銭洗い弁天様です。
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ですから先日、休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区でも書いた鎌倉の銭洗い弁天の正式名が宇賀福神社も名前は宇賀神を元々祀っていた事が解りますね。同一視された辨財天が、源頼朝公によって御神体として祀られ、更に後に明治時代に市杵島姫命が祀られた歴史が全部詰まっている、財運の女水神様です。
話を臺谷戸稲荷其の物に戻します。

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この御稲荷様の御社の直ぐ手前に大木が有ります。
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この臺谷戸稲荷神社を覆い隠している大木ですね。
銘板が見当たらなかったのですが、ここは小生の行く先々の城址や神社仏閣で度々登場する❝神奈川の銘木100選❞の一つ❝臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の樹❞です。
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小さい御社ですが、大木が育つ環境と言う事は古代~近代に成っても地元の人々に愛されてきた場所なんでしょうね~♪

きっと、皆さんの家の御近所にも、この大庭神社みたいにヒッソリとした場所に在りながら、とてつもない歴史や偉人達との関わり合いが有る神社や御寺、城址や史跡の山が有ると思います。
ですから…
皆さん、御近所の神社仏閣や里山を散歩して見ませんか?

今回はここまで!
次回は現在の立派な方の大庭神社の社殿を写真で紹介します。
では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪

藤沢市大庭地区が、古代から戦国時代の初期まで神奈川県内でとても大切な場所だった事を知る人は、現代では多くは有りません…
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その大切さがどれほどの物かと言うと、大庭には縄文時代の遺跡が大量に出土しているだけでなく平安時代の醍醐天皇の時代、延喜年間の日本人から見ても「古い」「聖地」として認識され後世の人間に「保護しなさい」と言う意味で❝延喜式神名張❞に記載され我々に託された神社の一つ❝大庭神社❞が有るんですね。
上の写真が大庭神社です。
実は大庭神社は藤沢市内に2箇所あり、江戸時代に横浜の殿様間宮家の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌を編纂した間宮士信(まみやことのぶ)達の新編相模風土記公でも、この件を取り上げています。

その2箇所の場所は…
藤沢市大庭…
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大庭神社舊蹟(きゅうせき=旧蹟)、つまり元々大庭神社が有ったとされ、後に熊野社と呼ばれた神社。
そして藤沢市大庭の大庭神社。
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新編相模風土記稿で、ここを取材した記者は、まだまだ考古学の❝こ❞の字も学問としての考古学が発展していなかった時代の人間なので、古代の大庭の様子も解らなかった結果、「舊蹟は元宮とは疑わしい」と言う事を言ってしまっています。
でも小生、この江戸時代の学者を論破できます「解ってねぇ~なオマエ(笑)」とね。
小生は断言します。
古代関東開拓の歴史と、旧跡が熊野社と呼ばれた事を証拠に大庭神社舊蹟こそ本来の大庭神社の元宮だと。
先ずはコレ↓を見て下さい。
大庭神社周辺
大庭神社と大庭神社舊蹟の位置を、古代の海岸線に重ねた地図です。
白い部分が神話の時代に海だった所」です。
解り易いように現代の鉄道も表示します。
これを見ると解ると思いますが、現代の藤沢市の中心を為(な)す平地は古代の海底です。
この藤沢本町一帯の地域が開拓されるのは大分遅く平安時代末期、鎌倉時代の少し前の話です。
もっと具体的に言うと、藤沢本町を開拓したのは平安時代の名将、鎌倉景正公です。
鎌倉景正公については以前に御霊神社の解説で紹介したので興味の有る人は当該記事を御覧下さい。
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※鎌倉景正公の記事は「ココ」←クリック!
さて、大庭神社に話を戻します。
大庭神社周辺
古代、日本人が住めた地域は現代人から見て丘や山の上の地域だけです。
だから縄文時代~弥生時代~古墳時代の遺跡は、山や丘の上から出てくるんですね。
そこで大庭神社の位置を見ると、やはり古代の海岸線にあります。
左上の同じ延喜式内社である宇津母知神社も、やはり古代の入江の付け根に所在しているのが解ると思います。
この海岸線は縄文時代の海岸線です。つまり古い神社と言うのは日本人本来の縄文文化を継承している場所でもある事が解るかと思います。だから日本人は沖縄やアイヌの人と古代は同族だったんですよ。

さて、では何で小生が大庭神社舊蹟を元宮だと思うか、状況証拠を箇条書きにしてみます…
1,縄文時代の遺跡は新旧大庭神社の在る入江の左岸から多く出ている。
  西岸に在る平安末期~戦国時代の大庭城の丘も縄文時代の遺跡が出土している。
2,東岸が開拓されるのは平安時代以降。
坂東平氏の祖である平良文(たいらのよしふみ)公が村岡城址を拠点に開拓を始めた。その後、東西北に子孫が拡散して行き関東全域に開拓地を広げていき武士文化の基礎を坂東平氏が築いた。
3,大庭神社舊蹟が❝熊野社❞と呼ばれたから。
熊野社とは新鮮で清潔な水の湧く場所や滝を聖地として開かれる神社。現代人も誤解しがちだが古代人は川の水をガブガブ飲んでた訳じゃなくて、自然湧水の有る地域にいついています。そりゃそうです、古代は抗生薬なんて無いですから腹壊す(=感染症や寄生虫)事は死に直結するんですよ、川の水なんかそのまま飲んだら。
だからこそ、井戸の掘削技術を手に入れた平安時代に至っても古代の聖地である自然湧水の有る神社を霊場として崇敬していた事実が有る。
つまり、大庭神社舊蹟が熊野社と呼ばれた以上、付近に古代は遊水地が有ったはず。遊水地が有れば古代人が住み着いた訳で、事実縄文時代の遺跡が周辺に在る。
…まぁ、挙げればキリが無い。

では、何で現在の大庭神社が新宮だと推測するかと言うと、理由は上記の2が絡んできます。そして大庭神社の別当寺だった稲荷山成就院宝染寺が原因だと思います。
成就院は、室町時代初期に山名氏公が造営した真言宗の御寺です。真言宗の開祖弘法大師空海和尚は日本神話や神様も大切にされた人物だったので、明治時代以前まで真言宗自体が神仏習合の要素の強い宗派でした。
よく有る事なのですが、武士が自分の領地の中心に守護神として近所の御利益の有る神社を移転させる事が良く有りました。室町時代にも成ると本来の自然信仰から御神体や偶像崇拝へと日本の宗教観も変化していたので、当時の人は罪悪感も無く聖地と神社を切り離してしまう事が有りました。
同じ延喜式内社の高部屋神社もその典型ですね。
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※高部屋神社の記事は「ココ」←クリック!
平安末期、源頼朝公の随兵も務めた糟屋有季(かすやありすえ)公は、本来、大山山系の渋田山に所在した高部屋神社が御自分が支配した糟屋郷の鎮守に相応しいとの独自判断から自分の居城だった千鳥ヶ城(糟屋城)の丘陵を通る大山街道前に遷座した歴史が有ります。
平安時代にも成ると、御神体が聖地で有る事を認識できなく成っていた人々も多かったと言う事でしょうね。
だからこそ、醍醐天皇が延喜式神名張を編纂させて保護すべき神社を指示したんですがね~。
源頼朝公も醍醐天皇と同じく自然信仰や古代の宗教観を引き継いでらっしゃったので、大山や富士山を登山し頂上で礼拝しています。

又々、解説が大庭からずれていたので話を大庭に戻します。
戦国時代初期まで鎌倉が東日本の首都だとすれば大庭は南関東の首府だった時代が有るんですね。
鎌倉公方足利家に忠誠を誓っていたのは、戦国時代の関東管領山内上杉家ではなくて、鎌倉公方配下の扇谷上杉家と宅間上杉家でした。
その内、宅間上杉家は足利尊氏公と母方従兄弟の血縁関係であり、扇谷上杉家は鎌倉公方の本拠地である相模国を拠点にしていました。
その初期の居城が藤沢市の大庭城と伊勢原市糟屋(上杉)館だったんですね。
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写真は大庭城址に昭和9年、当時の神奈川県知事や職員や教育者が、この城址の重要性を後世に伝える為に建てた石碑です。
残念ながら現代の教育委員会は無知無文化な上に土木事務所は❝土建会社に不利に成る事を妨げない様にする反日本文化的❞な連中なので、大庭城址も北半分が宅地開発され消失してしまいました。
大庭城址の南西は船地蔵地区と呼ばれ、大庭城落城の時の詳細な状況が伝承している船地蔵が地名の由来です。
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東の引地川は名前からして水掘りに水を引き込める程の河川の水量があったようです。
こちら側、船地蔵地区は古代から自然湧水の沢があり、そこを堰き止めて大庭城西側を湿地にしていた事が伝承から解ります。
つまり、寄生虫の危険の有る川の水では無く、古代人が飲料水に用いる湧水池が在った可能性が高い地域なんですね。
だからこそ縄文遺跡も、こちら船地蔵地区側や大庭城址から出土する。
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上の写真は扇谷上杉家の重要拠点だった糟屋館(上杉家の大城郭)の跡地の台地ですが現在の神奈川県の黒岩知事は、この糟屋館の丘を破壊して県道を通そうとしています。
そして、教育委員会は地元住民が伝える城址の地名を無視して、既に開発された産能大学の敷地だけが城址だと日本城郭体系や郷土史と異なる戯言を並べて黒岩知事の破壊行為支援をしているようです。
さて、こんな訳で県央の伊勢原市~大庭は古代から中世、関東で重要な場所だった事は御理解頂けたと思いますが…

糟屋館には大手を守る寺院、蟠龍山洞昌院公所寺が有ります。
実は、大庭神社舊蹟の在る船地蔵側には大庭城の鎮護だったと思われる寺院が有ります…
しかも山号が伊勢原市糟屋の寺院と同じなんです。
その名も❝蟠龍山❞宗賢院。
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この二つの御寺には更に凄い共通点が有ります。
…両方とも御寺の寺紋(じもん=御寺の家紋)が太田桔梗なんですね。
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上は藤沢市大庭の宗賢院。拡大して見ると太田桔梗紋が屋根の上に見える。
下は伊勢原市上粕屋の洞昌院、太田道灌公の菩提寺。同じく拡大して見ると、そこかしこに太田桔梗があしらわれている。
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この2つの御寺は、大庭城、糟屋館の鎮護の役割をしていたと推測できます。
扇谷上杉家は禅宗の臨済宗の信徒だった。同じく太田道灌公も鎌倉の建長寺で修業した臨済宗の信徒だった。しかし、この2つの御寺は北条家の時代に曹洞宗として中興している。
宗賢院に関しては、曹洞宗以前の記録が残っていないので開基を1505年としている。しかしながら、平安時代末期の当地大庭の領主大庭景親公の遺物が寺宝として伝わっており、更に太田道灌公ゆかりの桔梗紋が寺紋である事から、現在では名の伝わらない太田道灌公が支援したであろう前身寺院が間違えなく平安時代末期には存在した事が確実なんだな。
では何故現在、宗賢院も洞昌院も同じ禅宗でも曹洞宗かと言うと、太田道灌公亡き後に、道灌公をリスペクトしていた北条早雲公が曹洞宗の信徒で、北条早雲公が後に関与した寺院の殆どが北条家の庇護下に入る際に曹洞宗に改宗している。だから大庭城や糟屋館の落城後に御寺を復興したのは北条早雲公や北条氏綱公達だったからこそ現在は曹洞宗なんだな。

何でこの宗賢院と洞昌院の歴史に話を掘り下げたかと言うと…
これで、大庭地区の昔は海の入江だった東西どちら側が先に発展して来たか、関与した偉人達の足跡を辿(たど)る事で推測する事が出来るでしょう?完全に西側から発展してますね。
いよいよ本題です。
大庭神社の舊蹟が元宮だとするのは、ここまで話した通り県央から徐々に文化は東に伝播して行ったからです。
舊蹟と現大庭神社の間には湾があり、大庭城址や船地蔵地区の古代の湾の西側から人が住み始めたのは出土した史跡から明白である以上、考古学的にも大庭神社舊蹟=元宮=本来の大庭神社が有った場所=現在の大庭神社は後の支配者によって遷座された…
と周辺状況をまとめると容易に推測出来る訳です。

完全に西側から発展してるんですよ、縄文時代の古代だけでなく中世もね。
東側が開拓されるのは、坂東武者の鑑や軍神として鎌倉武士達に崇拝された鎌倉景正公が本藤沢を開拓して以降の話し。
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※写真は鎌倉市の御霊神社。本藤沢を開拓した鎌倉景正公を御祭神として祀る神社。
そして恐らく、大庭神社が現在の地に移されたのは、明治時代まで別当寺であった成就院との関係によると推測出来るんですね~。
下の写真が大庭の成就院。
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この成就院、足利尊氏公と母方の従兄だった山名時氏公が開基したと伝わっています。正確には山名伊豆守。
開基(かいき=寺社を造営する事)は1352年頃とされています。
…つまりね、平安時代の人から見ても古いと思われていた古代から存続する大庭神社の別当寺の割には歴史が凄く浅いんですよ、この成就院は。
でも、足利尊氏公や山内上杉重房公や宅間上杉重兼公と縁戚の山名時氏公の開基だから、否応無しに格式が高く成る訳です。そうなってくると当然、付近の神社の別当寺に成って管理業務を担う様に成った訳ですよ。
でも、御寺の傍に管理する神社が無いと不便でしょう?そこで二つの仮説が立つ訳です。
1、御寺の傍に大庭神社を移しちゃった。
2、本藤沢側の台地が後に発達したから、元々船地蔵地区に在った御寺が本藤沢側に移転して、その際に一緒に神社が移転されられた。
小生、この仮説を立てた時に気が付いたのですが、藤沢の成就院は御寺の山号が稲荷山です…
しかし御寺の有る地区は地名こそ❝稲荷❞ですが、この地区に稲荷社が在った歴史は無い!
ところがところがぁ~♪
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船地蔵地区の大庭神社舊蹟の直ぐ近くには❝臺谷戸稲荷❞が鎮座しています。
しかも、こちら側の大庭神社舊蹟の大庭神社(熊野社)も別当寺は成就院でした。
…もう、これで状況証拠は集まったでしょう。
恐らく、この地区に成就院の前身だった宝染寺が在った。そして当然、大庭神社舊蹟が元宮であり、古代から船地蔵地区に存在したので、宝染寺が別当寺に成った。
その後、1352年頃に鎌倉に近い現在の稲荷地区に山名時氏公が何らかの関わりが有って、宝染寺と大庭神社を東側の丘の麓に遷座し、宝染寺も成就院と院号に寺名を改める事に成ったが山号は船地蔵地区に在った時のまま稲荷山を引き継いだ。
結果的に成就院が移転して来た丘陵地帯の地名が御寺の山号をとって❝稲荷❞と呼ばれる地区に成った。
だから、現在の大庭神社は若宮で、地元の伝承の通り江戸時代に熊野社と一時期呼ばれた大庭神社舊蹟こそ元宮そのものだと推測が成り立つ。
そして、この大庭神社舊蹟や臺谷戸稲荷や大庭城の在る、古代の湾の西側の陸地からは縄文時代~弥生時代の史跡が出土している…
ダメ押しすると、大庭神社舊蹟の住所は藤沢市❝大庭❞。
つまり、伊勢神宮直轄地だった大庭御厨(おおばのみくりや)は大庭神社舊蹟の側一帯の丘を指す訳ですよ。
どうでしょう?
…以上が周辺の歴史ですが、もう元宮は大庭神社舊蹟で決定ですよね?
江戸時代の間宮士信先生の弟子の三文学者が、江戸時代に東海道が通っていた本藤沢側が栄えていたからって勝手に地元の伝承を否定したのは、現代の発展した考古学と古代からの地勢を見れば誤りだったのが良く解る訳ですね~。

次は大庭神社元宮と近所の稲荷社を写真で紹介します。
では次回の記事で御会いしましょう~♪

水曜日は昼から藤沢市の大庭城址公園に行って来た。
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戦前のカタカナ送り仮名は若い人には読み難いので石碑の碑文を平仮名に書き下すと…

この地は大庭景親(おおばかげちか=平安末期の武将)の居城と云(い)う、
後、(扇谷)上杉定正が修(おさ)めて居城せしが、永正9年、子の(扇谷上杉)朝長(ともなが)の時、北条早雲に攻め落とされ是(これ)より北条氏の持ち城と成った。
廃城の年代は未詳(みしょう=くわしく判らない)、空塹(からぼり)の蹟(あと)等(など)當代(とうだい=その時代)の城郭(じょうかく=御城)の制(おさえ=構え=構造)を見るに足(た)るが有る。

はしょって現代語にすると…
ここは大庭景親って武将の御城の跡なんだけれど~、後に上杉さんの御城に成って更に北条さんの御城に成ったんだけれど~空堀とか良く残ってて戦国時代の御城の良い教材だよ~
…ってせっかく昭和初期の神奈川県知事以下職員や教育者が石碑を建てたのに、現在では城址は半分ぶっ壊されて宅地にされちゃったんだよね。
石碑は昭和9年、今の建設業界と密着した腐れ教育委員会や利権政治家と違って当時の文化度の高かった県の行政によって保護されていた大庭城址に建てられた石碑。
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※空堀と土塁↑歴史興味ない人には只の雑木林にしか見えないだろな。
水曜日の訪問で大庭城址公園は3度目の訪問に成る。
前の携帯(ガラケー)の写真をバックアップしてなかったので、同城址の写真を再度撮影に来た次第だ。

ここは、寂(さび)れた管理事務所に実は戦国時代の城入門者には打ってつけの常設展示資料が有るんだな。
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小生も、御城に本格的に興味を持ちだした8年前位に来たのが最初で、良い勉強に成った。
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桜も綺麗な城址なので、是非近隣の人には先人の記憶を辿(たど)る散歩がてら、花見に来て欲しいなぁ~。

実は、この日のドライブの目的地は、この大庭城址を当初は含めて3カ所だった。
もう一つは地図を見ていて城址の近くに❝宗賢院❞と言う御寺を見つけたので、そこに行くのは既に決めていた。
実は❝宗❞の字が使われる御寺は、概(おおむ)ね曹洞宗の御寺で、戦国大名の北条家は曹洞宗の禅の修行を配下武将達に取り入れさせる目的で多くの曹洞宗の御寺を保護した歴史が有ったので、大庭城址の南側大手に当たる位置の宗賢院サンも北条家と必ず関係が有るだろうと推測しての訪問予定だった。
それともう一つは…
綾瀬市の早川城址公園に散歩に行って写真を撮ってくる予定だった。
でも、大庭城址に行く途中、車の中で…
「ん?そう言えば大庭城址公園の近所には延喜式内社の大庭神社が有ったな…そっちを優先するか!」
…と気が変わり、結局、当日回ったコースはこう成った。
●大庭城址公園
再訪問して管理事務所で大庭城落城のきっかけの船地蔵の伝承を知った。
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●船地蔵の近くのコンビニに移動、車止めて船地蔵を御参り。DSC_0324
船地蔵由来の御婆さんに、安らかに眠って下さいね、これからも地元の人と大庭城を見に来る人を見守って下さいねと御願いして来た。
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●大庭神社に移動する心算(つもり)が、セルフカーナビ(自分の記憶)ではなくて車の❝くそカーナビ❞に任せたらスゲぇ~遠回りされて、思いがけず別の神社経由で遠回りされた。
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実は、この思いがけない山王社参拝で、氏子サンが石碑に残して下さっていた、この神社の歴史を読んでいて藤沢のこの大庭の地に戦時中は海軍飛行場が在った事を知った。
貴重な訪問と成った。サンキューくそカーナビ(笑)。
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●山王社の坂を降りて大庭神社に行く途中で成就院と言う真言宗の御寺を見かけた。大庭神社との位置関係上、江戸時代までは大庭神社の別当時だった可能性が有ると推測出来たので、帰りに寄る事にした。
そして大庭神社へ…
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神社は今も立派な境内を抱えているのだけれど、残念ながら宮司様不在の荒廃ぶり。
ここは由緒正しい延喜式内社なのに、こんな有様なのは悲しすぎる。
本来は神奈川県神社庁が資金を投入しても神主様を常駐させ、もっと参拝客を増やす努力をしないといけない場所なんだと思うけれどなぁ~。
でも逆に明治の廃仏毀釈の影響を受けず境内には貴重な梵鐘も有った。DSC_0340
奈良時代~江戸時代が終わるまで、歴代天皇が大切にされた文化が、この式内社には残っていた。
きっと、この大庭の御厨(みくりや)を開拓された鎌倉の権五郎御霊神社の御祭神である鎌倉景正公や御子孫の大庭景義公、後にこの地を治めた扇谷上杉定正や太田道灌公、北条早雲公や北条氏綱公も、この鐘の音を聞いた事だろう。
そして、古来の日本の宗教としての大庭神社も参詣し、この土地を開発した平安時代の鎌倉景正公や古代~奈良時代の先人に感謝の念を抱いたのかも知れない。
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●大庭神社を御参りし終わって、近所の成就院に移動…
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門前の看板を読むと予想通り、明治時代の廃仏毀釈神仏分離令で仏教弾圧されるまでは、大庭神社を守っていた別当寺だった。
大庭神社は、この成就院さんと切り離されてしまったから荒廃したんだな。
だいたい、鵠沼とか3kmも離れた神社の宮司様に管理させる自体ナンセンスな気がする。
住民と顔つき合わせて普段から話すチャンスなんか無いだろう。そりゃ、地域住民も宮司様への親しみも感じる以前の問題に成るから、当然、宮司様との距離が地域住民との距離に成って行くだろうな。
もし、更に地元の人との郷土文化を保存する気概が有り効率的に古社に対する信仰心を維持する気概が神奈川県神社庁に有るならば、この管理体制は改革させるべきだと民間人としては思う。
どこの業界でもエリアマネージャーや支店長管轄区ってのは地域で担当区分するのが常識的かつ効率的な管理手段なのだから。
別に昔の様に御寺サンに御任せする代わりに、御住職に神事も勉強して貰えば良いのだし、逆に明治以降のまま神仏分離で棲み分けが共存に繋がると意固地に思うのであれば、神社の管理は明治時代の宗教観を忠実に復古して、郷社や村社の制度を再導入させるべきだろう。
地域ごとにそれこそ昔の様に郷社や村社といった神社の管理区分を明確にしたら管轄が地区ごとに集約出来るし神職者への資金分配や管理が行い易くて良いだろう。
そして、管理事務所兼戸建て宿舎を建設し、所管の神社の禰宜さんを支店長みたいに住ませ所得の低い内の家賃手当代わりに神社の保全に務めて貰った効果的なんじゃないのかな?
これから益々外国人が増えるんだから、本来の神仏習合のAll Japan体制で移民による文化破壊を食い止めないと、宮司不在の神社なんか無文化政治家の土建屋マッチポンプで瞬く間に強制移転や破壊対象にされてしまうぞ。
…なぁ~んて考えさせられる良い機会にも成った。
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●当初からの訪問目的である、宗賢寺さんに移動。
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結構な規模だった。
意外な発見も有った。
開基は1505年と伝わるが、平安末期の大庭城主大庭景親公所有の陣釜が有るなど、平安末期には前身の大寺院として同地に存在した匂いがプンプンしたが、やあはり戦国時代に移行する前の室町時代の大庭城所縁の上杉家と家宰太田道灌公の足跡が沢山御寺には残っていた。
自分の推測を御寺の家人に提起した所、目を白黒されて聞かれていたが、色々と御納得頂けた様で、檀家信徒以外読む機会の無い、戦国時代以降の寺史を纏(まと)めた書籍を貸与して頂けた。
最初、是非、これを御貸ししたいと本を手渡された時は「次、いつ参拝出来るかも解らないので無責任に拝借出来ません、購入させて頂きます」と固辞したのだが…
小生の人格を初対面で信頼して頂けた様で、「1年先でも2年先でも返却は良い」と、御好意の御言葉を頂けたので、恐縮しながら宗賢院様の歴史の本を拝借して帰路についた。
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●何か真っすぐ帰るのがシャクだったんで、大庭城と同じくガラケーでしか写真撮影していなかった藤沢市の村岡城址公園に帰り立ち寄って、改めてバシャバシャ写真とってきた。
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やっと満足して帰ろうと思ったら…
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●先週買ったジーンズの裾上げ頼んだまま引き取って無かったので、帰りに取って帰って来た。
又、徹夜だったので、帰宅し記事更新しようとしたら直ぐに寝落ちしてしまった。

今回の活動の主な範囲…
大庭城周辺
こんな感じ。横浜からは20km位離れてるけれど、藤沢市内では極めて狭い大庭地区周辺だけ。
あとは鎌倉との市境の村岡城址。因みに、藤沢市は昔は旧鎌倉郡で鎌倉の一部だったんだな。
今回参拝した山王社で、大庭に戦時中は海軍飛行場が在ったと知ったので、終戦直後の米軍が空撮した写真を見たら本当に荏原製作所の所在地が空港だった…
大庭城周辺(昔)
Google Earthに当時の写真を重ねるとこんな感じ。
右側の白い線が滑走路だね。
この広大な平地に昔は山王社が在って、大庭神社と並んで村民の崇敬を集めて、昔は村の御祭りなんかで賑わっていたんだろうなぁ~。

そう言えば…
大庭神社を含めて神奈川県神社庁は早急に復興するべき神社がいくつか有ると思う。
それは…
●大庭神社 藤沢市稲荷 合わせて古代の旧社地である大庭の現熊野社。
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
鵠沼の皇大神宮の管理。
●高部屋神社 伊勢原市下粕谷 
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
伊勢原大神宮の管理。
●杉山神社 横浜市緑区西八朔
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
川崎市麻生区の琴平神社の管理。
●烏山八幡宮 横浜市港北区鳥山
平安時代~鎌倉時代の名将で醍醐天皇の御実弟で沙沙貴神社の御祭神である敦実親王の御神孫に当たる佐々木高綱公の居館跡に開かれた立派で由緒有る八幡社なのに神主不在。
横浜市東神奈川の熊野神社の管理。
●森浅間神社 横浜市磯子区森
源頼朝公が海岸の断崖にコンコンと湧き出る滝の在る同所に神仏混合崇拝の修験道の山伏の修行場を兼ねて鎌倉幕府の陣所と合わせて開いた由緒ある神社な上に、鎌倉幕府最後の将軍を匿った場所だが、過去の横浜市による社地接収と団地と宅地造成により、周辺から存在を認知され難い不利な立地にされてしまっている。
関東武士団の鎌倉文化の醸成地の一つで有るだけに、もっと資金を投入し支援するべきだと個人的に感想を持つ。

由緒ある延喜式内社や凄まじい歴史偉人の関与と、古代からの遺跡や自然湧水等のパワースポットが境内や近所で確認出来るの神社を神主非常駐にせず、せめて管理神社の禰宜サンを常駐させるべきだと思う。
宿舎も兼ねた管理棟を県の文化財管理棟として建てて、禰宜さんの宿舎兼支店営業所的な運営させるべきだと思う。
そうする事で若い世代の神職サンの生活も安定させられる上に、神職者と住民の距離も近くなり親近感も湧き往時の信仰心と日本の文化を復古に役立つ事も出来るのでないだろうか?
なぁ~んて考えさせられた、今週の水曜日でした。
しょせんは歴史好事家(オタク)の世迷言。

今回、写真撮って来た城址や神社仏閣は、いずれ解説記事にちゃんと書きますよ~♪
さぁ~て、今日こそは綾瀬市の早川城の写真をとらないと…
来週再来週には桜が咲き始めてしまうので、今度は桜の名所巡りしないといけないからね。
そろそろ藪蚊と虻が増えてくるし、今年の古城廻りシーズンは終了かな?


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