横浜市金沢区富岡八幡宮と言う神社が在(あ)りますが、東京にも大きな富岡八幡宮が在りますよね?
でも、この金沢区の富岡八幡宮が最初の富岡八幡宮なんです。
征夷大将軍源頼朝公が、今の兵庫県の有名な西宮神社から商売と海の神様の蛭子(えびす)神=恵比寿様=戎神を勧進(かんじん)=分霊して頂き御迎えしたのが始まりなんです。
源頼朝公の御先祖様で鎮守府将軍を務めた源頼義公が現在の鎌倉市中心部(旧:鎌倉郡材木座)に鶴岡八幡宮の前身と成った元鶴岡八幡宮(由比若宮)を開き、源義家公が御父上頼義公と同じく武蔵国荏原郡(現:東京都世田谷区)に世田谷八幡宮を開いた故事に倣(なら)い、源頼朝公が金沢区富岡(旧:久良岐郡富岡)に今の兵庫県の西宮神社から蛭子様を勧進して神社を開いて、後の八幡神を合祀し富岡八幡宮が成立したんですね。
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上の写真が世田谷八幡宮です。東京都江東区の富岡八幡宮と並び江戸三大大相撲発祥地の一つです。

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これ以前に書いた世田谷八幡宮の紹介記事です、興味の有る人は参考に御覧頂ければ幸いです。
そもそも東京の富岡八幡宮は江戸時代に、鎌倉時代の源頼朝公が開いた横浜市金沢区の富岡八幡宮から御分霊を頂き開かれた神社でしたが、後から東京に富岡八幡宮が開かれたのにはちゃんと理由が有ります。
 それは金沢区富岡の富岡八幡宮が自然災害から多くの人命を救った歴史が関係しています。
東京の富岡八幡宮が在る辺りは0海抜地帯なんです。0海抜と言うのは土地の高さが海面と同じか、それ以下の標高に在り河川や運河の堤防が決壊すると瞬く間に水没する水害危険地域なんです。
それもそのはずで、江戸時代初期まで深川界隈は海の中だったんですよ。
それを江戸時代に干拓されて次第に埋立地が広がり人が住む様に成って現在の深川の下町が形成されて行った訳です。今でも海抜より標高が低く、水害の怖い地域だったりします。
富岡八幡宮周辺色別標高図 国土地理院×Googleearth×久良岐のよし
上の画像は標高の低い程土地が青く表示される国土地理院の地図をGoogleearthに重ね小生が登録した地点を表示した画像です。
これを見ると東京の富岡八幡宮を中心とした深川界隈が0海抜で江戸の町人にとって度々多くの人を焼き殺した大火事の他に津波や高波や大雨が恐怖の対象だった事が判りますね。
小生は間宮林蔵公の祖先の間宮家の顕彰活動をしており、偶然、江東区立図書館さんや江東区教育委員会、そして間宮林蔵公の菩提寺本立院、それと安土桃山時代の徳川家康公の参謀の一人で江戸幕府初代鷹匠頭の間宮信繁公の姫様が久能山東照宮の初代宮司榊原照久公に嫁ぎ、江戸屋敷だった越中島に住んでいた歴史を取材した際この地形も写真撮影し散歩して体感してきました。
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そんな深川界隈は津波や高潮の危険にさらされている町な訳ですが、津波から大昔に多くの人命を守ったのが現在は横浜市金沢区に当たる旧久良岐郡の富岡に源頼朝公が開いた富岡八幡宮の恵比寿神様と八幡大菩薩=八幡大神=応神天皇=誉田別命=大鞆別命の神様の水の神様としての御神威と、頼朝公の分析力でした。
その波除けの御神威に授かろうと江戸時代に横浜市金沢区の富岡八幡宮の御分霊を勧進して開かれたのが、昨今、取り上げられる事の多い東京都江東区の深川八幡宮です。
最近、地震津波の話題をマスコミで目にする機会も多いですが、横浜の富岡八幡宮は別名「波除け八幡」と呼ばれ津波や地震に関係が有ります。
今回はその異名「波除け八幡」の由来と鳴った歴史と地形を解説したいと思います。
その由来は金沢区の頼朝公が開いた富岡八幡宮ですが先(ま)ずはこの頼朝公が開いた富岡八幡宮の地形を御覧下さい。・・・
写真左上に池が有りますが、実は昭和の中期まで海でした。
荒波が富岡八幡宮の山を洗っていたんですね。

もう一度、参道の写真を御覧下さい。
いきなり階段ですよね?
昔は、海岸の横のだいぶ急な岩壁を持つ丘の上に造営された神社だったんですよ。
この付近の海は現代では埋め立てられてしまいましたが、昔は鮑や海鼠(なまこ)が豊富に採(と)れた海でした。
江戸時代は近くの屏風ヶ浦と言う海の海鼠が最高級品として中国:清帝国に輸出されたそうです。
また付近の小柴漁港は現代でもTVに度々紹介されますが、江戸時代から「小柴のシャコ」が名物として、江戸から「杉田の梅林」を見学に来る観光客に有名でした。
昔は観光客で賑わい海産物の豊かな海だったそうです。
その海の豊穣を願う意味で海の神様の蛭子様を勧進したのでしょうね。
そして…
海岸の丘の上、この場所が選ばれたのは頼朝公は海の安寧も願ったからでしょう。
つまり高潮や津波で領地が被害を受けない願いを込めて社殿を造営したんでしょうね。

頼朝公は鎌倉幕府開府に差し当たり、地震や津波が鎌倉付近で発生するような悪い予感でも有ったんでしょうか?
多分、神社の神様は信仰しながら仮に津波が来襲はしても被害を受けない場所、且つ、それより高い波は来ないでくれみたいな願いを込めて、この神社を造営したんだと思います。

小生、良く使う画像ですが…
昔の神話の縄文〜弥生時代、日本は今より海面が高い位置にあり陸地は狭かったんです。
頼朝公の時代より海はだいぶ内陸まで来てました。だから、津波が来れば耕作地は今より被害を受ける訳です。

頼朝公は古い家系の武家ですし、早くから関東を開拓した橘氏や紀氏、坂東平氏の武将達から昔の869年に起きた貞観地震の時に津波がどれくらいの高さまで来たか聞いていたのかも知れませんね。

頼朝公が造営した本殿と違いますが、現代の本殿の写真を…
果たして頼朝公に予感が有ったかは分かりませんが、頼朝公が世を去ってから114年後の1311年、応長の大津波が関東南部に来襲しました。

その際、富岡八幡宮の蛭子神様が頼朝公の願いを聞き届けたかの様に大津波は富岡八幡宮の海岸丘陵に阻まれ砕け散り、富岡八幡宮より内側の村々は被害を免れたそうです。
…頼朝公は分析力が優れていたんですね。

その逸話から、江戸時代、深川に富岡八幡宮が勧進され江戸を高潮や津波から守る神様、商売の神様として信仰を集めたんですね。

もしかしたら…
関東で一番、人命を守った御利益を持つ神社が金沢区の富岡八幡宮なのかも知れないですね。

現代では横浜金沢七福神巡りの一箇所としても御朱印を頂ける神社です。
可愛いでしょ?
そして、社務所横の待合所には所蔵されている文化財も見学できますよ!
撮影するのは如何かと思い、今回は境内に有る文化財の説明看板の写真を載せますね!

この頼朝公の開いた八幡様は、頼朝公が古代人から受け継いだかも知れない津波の記憶を今に伝える場所でもあるんですよ…
…これ以下、神社より低い海辺に住むなよ!って鎌倉武士の更に祖先達からの想いの遺産でもある訳です。

では皆さん、又、次のブログでお会いしましょう!