前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
CIMG5611
普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
CIMG5830
上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
2015-12-08-16-16-26
上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
CIMG2984
写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
CIMG5868
鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
CIMG5867
澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
image
すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
CIMG5620
そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
CIMG5613
ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
CIMG5614
そして波多野家の詰め城も近い。
CIMG5615
仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
CIMG5617
今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
CIMG5621
立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
CIMG5623
正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
CIMG5624
まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
CIMG5626
金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

CIMG5625
御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
2014-09-28-14-38-16
鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

CIMG5627
現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
CIMG5631
可愛らしい小僧様。

CIMG5634
本堂も立派。

CIMG5635
本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
CIMG5639
生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
DSC_0034
又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
CIMG5643
金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

CIMG5644
御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

CIMG5642
余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
CIMG5641
半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
image
山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
CIMG5646
ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
CIMG5645
調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
DSC_3715-PANO
→次回その④へ続く。