歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:天智天皇



2017年04月22日、朝から有鹿神社の宮司様の講義を聞きに海老名市を訪れて、講義受講後は宮司様から有鹿神社の施設や鳩川と相模川の合流地点の旧境内地、そして鎌倉御家人の海老名氏の城館址の敷石だった現境内本殿前の敷石の一枚の解説や本殿内部の彫刻や天井画を案内して頂き充実した時間を過ごす事が出来た。
宮司様に御礼を申し上げて神社を後にし隣の江戸時代までの有鹿神社別当寺だった総持院に初参拝しから少し移動して有鹿神社中宮を御参りした。
そして海老名市が誇る遺産、相模国の国分寺跡に移動した。

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国分寺も旧境内地は歴史遺跡として保護されているのだが、歴史に興味が無い人からすると基壇が有るのも「何もないですよ~」と言ってしまうような❝野原❞と認識されているらしい。
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まぁ、城跡もそうなのだけれど、文化や史跡に思いを馳せる事の無い現世の物欲と性欲にしか興味なく生きている人達にとっては、❝目に見える金❞と❝ビル(建築物)❞等の❝動産❞と❝不動産❞としての価値しか興味が無いんだろう。そして多分、異性も美人かブスかにしか興味が無いんだろうな。
たまたま数年前に話した海老名の人から「何もない」と言われていたが、来てみたらとても立派な基壇や礎石が発掘保存されていた。
所で、国分寺跡の前には海老名市温故館と言う小規模ながらとても熱心に解説を行う学芸員さんや職員さんのいる郷土歴史博物館が在る。
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こちらで昔の相模国国分寺の様子を再現した立派な模型等も見る事が出来るので、温故館と国分寺跡は両方合わせて見学するのが個人的には御薦めだ。

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海老名市が成立する前の昔の海老名村役場の建物を利用した施設で、国分寺跡の旧境内地に建っていたのだが国分寺跡が史跡認定されたので現在地に移築された。
この日、当初の予定では温故館を見てから国分寺跡を散策しようと思ったのだが、相模原市からの団体客が来訪中だったので先に国分寺跡を見学する事にした。
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国分寺跡にはちゃんと昔の伽藍が有った時代の名残りが発掘されていて、御覧の通り回廊の礎石なんかも発掘保護されている。この礎石の上に柱が組まれ、昔は立派な回廊が堂宇を取り囲んでいたのだろう。
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少し順番はあべこべに成るが、温故館に展示されている国分寺の模型を見ると、やはり回廊に囲まれているのが良く解る。
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この看板を探しても、そこに大まかな事が理解出来る解説と史跡の全容が記されている。
この国分寺跡に限らず歴史史跡を回る時は、この様な看板が有れば必ず精読される事をお勧めする。
読めば自分の居る場所に古代何が有ったか、そしてどんな出来事が有り、どんな偉人達と関わりが有ったか必ず書かれているので地元の人なら郷里の誇りにも成る事だろう。
この手の看板を読むのに1分も時間はかからない、その1分で郷土に誇りを持てたり来訪者なら意義を知れるのは実に素晴らしい事なんじゃないだろうか?
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とは言え、確かに地元に人に只の草原と言われても「う~ん長閑で気持ちの良い風景だ」と同意してしまいたくなるのも事実(笑)。
色んな意味で良い場所だとは思う。
説明書きはそこかしこに設置して有り、非常に親切な写真と文字の両方解説で助かる。

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これだと小生の様な馬鹿でも理解しやすい。
所で、この絵図の仏塔は現代の個人の御墓で墓所に建てる卒塔婆の元に成った施設だ。
本来の仏教寺院は奈良~平安時代では国営や豪族貴族の直営だった場所が殆どで公立だった。
だから規模も大きく、仏塔が建てられる場合が多かった。
そして、この塔の本来の目的は「仏舎利(ぶっしゃり=御釈迦様の亡骸、ないし御寺の被葬者の亡骸)」を保存する場所だったのだが、現代ではその機能を成さなくなり建築様式としてだけ残っている。
昔は御寺その物が個人(豪族貴族)の御廟所=墓所としての機能も果たしていた訳だ。
つまり一人一寺みたいな勢い。
だから中世でも社会的地位の高い仏教徒の戒名にはその名残を見る事が出来て、〇〇院や〇〇寺と戒名に御寺其の物の名前が入る人が多くいた。
織田信長公なら「総見院殿大相国一品泰巌大居士」だったり横浜を開港した井伊直弼公だったら「宗觀院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覺翁大居士」の様に、生前の身分が高位の人物には~院と御寺の院号が付き敬称の「殿」が続く。
無論、現代では一般人には付かない戒名な訳だが、昔は御寺そのものが故人一人々々の供養の為に建てられた文字通り「菩提寺(ぼだいじ)」だった事が良く解る。
しかし、国分寺は国家鎮護の為の寺院なので当然、誰かの為に作られた場所ではなく祈祷所の様な場所だったのだろう。そして国営なので壮麗な装飾も施されていた様だ。

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上の解説によれば塔の頂点部に飾られる塔相輪部は美しい金属製だった様だ。
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基壇が修復されて今も保存されている。
基壇の規模からも当時の立派な塔の規模を窺い知る事が出来る訳だ。
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こういった仏教建築技術が、後の神社仏閣の建築技術発展に繋がり、そして壮麗な城郭建築へと発展して行った訳だ。そう言う意味で仏教の伝来は日本文化の発展の礎の一端を担った事は間違いない。
ここでは常時20名程度の仏僧が当時は常駐していたので、彼らの宿舎だった僧坊も発掘されている。

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この通り、発掘された遺構を元に彼らの生活した建築物の復元予想図も書かれていたりする。
とても丁寧な展示方法で海老名市教育委員会の仕事は素晴らしいと思う。
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このコンクリに発掘された柱の穴の跡がマーキングされていて、当時の様子を知る事が出来る。
まぁ、公務員なのに長屋住まいでプライベートも何も無かった訳だが、当時の和尚さん達は滅私で国民の安寧を祈願して下さっていた訳だ。今の和尚様達の中に、果たしてどれだけの人が国民の安寧を当時の国分寺の和尚様達の様に考えている人がいるかと思うと、色々と考えるものが有る。
まぁ、当時の和尚様達は俗世を捨てているので現世の政治や商業活動には関わらなず、どちらかと言うと神仏共に大切にされていたので個人の修行だけでなく世間の平和を願う事も仕事だった訳で、その代表的な存在が海老名市の国分寺を含めた日本全国1国に一つづつ建てられた国分寺だった。
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だから、他府県にも国分の地名や国分寺跡が残っている訳だ。
一頻り国分寺跡を見学してから、そろそろ頃合いかなと思い海老名市温故館に移動。
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何ともレトロな建物だが、実際に古い村役場の建物であり建築文化財なので、横浜の山手地区の洋館の様な佇(たたず)まいなんだろう。
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とても可愛い建物だ。
ここは学芸員さんや職員さんがとても熱心で、解説を御願いすると来訪者に親切に展示物の説明をしてくれる。
そして何より嬉しい事に市営で入館料が無料なのだ!
歴史オタクにとってはとても居心地の良い場所(笑)。
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展示物も出土品の現物や複製品、それに加えて海老名市周辺の古墳群の位置関係と地形を再現した模型、奈良時代の国分寺や条里制で造営された相模国府推定範囲の写真説明等々、「意味が解って見れる人には有意義な場所」な訳だ。
神奈川県下の各自治体の教師は、中学生の歴史教科書を精読してからここに来て、もう一度勉強しなおしてから有鹿神社本宮と相模原市の有鹿神社奥宮と勝坂遺跡を訪問するべきだと思う。
ついでに寒川神社で八方除けの祈願したり、前鳥神社にも行って仁徳天皇の弟皇子で
日本最初の学問を導入した菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子にも御参りしてきたらいいんじゃないかな。
もっとも地方公務員の学校教師の中には共産主義者が多く唯物論者なので日本の伝統や文化や神仏に対する信仰を破壊対象として認識している極左も多いので、到底、神話と考古学が交わる整合性を認めたくない輩も多い事だろうが。

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小生もこの写真と似たデザインの土器の破片を子供の頃に近所の宅地開発の時に表面採取して保管している。
思えば近所に歴史遺跡が有ったり、鎌倉も近くて中学生の頃に電車や自転車で気軽に遊びに行けたのも歴史好きに成る要因だったかも知れない。
小~中学生の頃は仲間達とチャリンコで由比ヶ浜に行き、イチャイチャしているカップルの横でわざと大声で地味に棒倒しを異様な盛り上がりでやってデートを邪魔したりする意味不明な遊びをしていた。全くもって迷惑なクソガキだった(笑)。
展示物の話に戻ると、昔の女の人もオシャレに余念が無かった事が解ったりする。
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耳輪。
こう言うの見てるとやはり日本人の先住民(縄文文化の人々)は朝鮮半島渡来では無くて、南方系のベトナム~中国大陸の呉や越~台湾や琉球民族と同じ海洋民族文化なんだなと解る。
実際、琉球語には古事記に登場する古語が昔のままの意味で使われていたりするし。
琉球語で「ひら」は「上り坂」の意味、「坂」は「下り坂」の意味で、本来の「黄泉平坂」は「黄泉平坂(よもつひらさか)」ではなくて「黄(き)泉(いみず)平坂(ひらさか)」となり…
黄(き)=紀国(きのくに)=紀伊国
泉(いずみ)=泉国(いずみこく)=和泉国
平坂=峠
…と成る訳だ。
この峠も推定出来る場所が有る。
要するに、天皇家の古墳は河内国と奈良近辺に大量に現存するが、奈良や河内を境にして、南部の和泉国や紀伊国や伊勢国や志摩国は初期の王族にとって反乱勢力の根拠地だった訳だ。
元々、伊勢神宮以前の神宮も丹波国に在ったのは有名な話し。
古代の大和朝廷の国境は❝鈴鹿関❞❝逢坂関❞そして真田幸村が歩いた❝紀見(きみ) 峠❞の事だろう。
紀見峠も元々は「黄泉峠」と書いて発音も❝黄泉(きみ)峠❞だったのかも知れない。
紀見峠を越えると熊野信仰、つまり山岳や自然湧水池を信仰対象にした縄文文化系の先住民族の縄文文化圏だったんだろう。そして、その首府が今の熊野大社や那智大社の辺りだったはずだ。
「熊野」は「熊襲」と無関係ではないだろう。

伊邪那岐(いざなぎ)の神様は、伊邪那美(いざなみ)の神様と夫婦に成って国を作る、これは渡来文化と縄文文化の融合の象徴を起源にした弥生時代つまり稲作や豪族集団の始まりを伝える神話だろう。

そして最初に日本に渡来文化を齎したのは呉太伯、つまり呉王の子孫だろう。呉の滅亡は西暦紀元前500年頃の話しで、日本神話とも近い上に宮崎と並んで高千穂の地名の残る鹿児島県には呉太伯神社も存在している。呉王の家系は更に周王まで遡(さかのぼ)る事も出来る。

伊邪那美の神様が黄泉平坂を超えて行った先は、縄文文化の熊野地方だったんじゃないだろうか。そして、そこは本来の姫神様の一族の治めた土地で、実家に帰って縄文文化に戻って生活していたと言う話しなんじゃないかと思う。本居宣長に死後の世界と訳されたであろう縄文文化に帰った伊邪那美は古来の文化に従って刺青(いれずみ)を施して歯を抜歯した筈だから、渡来文化を導入して刺青の習慣など無かった伊邪那岐の神様からすれば、元奥さんの伊邪那美の神様が縄文人よろしく刺青して歯が何本も無くなってたら化け物に見えても仕方なかったんじゃないかと思う。

やがて熊襲は邪馬台国の元に成った豪族集団に段々と吸収されて行き初期の邪馬台国勢力に融和した筈だ。これを成し遂げたのは天照大神と素戔嗚尊に神格化された古代の斎王と王だったんだろう。

日本は縄文文化と渡来文化を取り入れた弥生文化が合わさって出来た国、そして更に勢力圏の拡大にともなって稲作が普及して行った訳だ。
更に漢帝国との国交によって青銅器やガラス製品の鋳造技術の技術移転を受けて、武具や装飾品が金属製品に成っていき古墳時代が始まり、その頃に再び
倭国大乱と成って邪馬台国に抵抗したのが伊勢都彦=建御名方神だろう。
そして、今の伊勢地方を根拠地にした伊勢都彦の勢力を諏訪に追いやった勢力が巫女の卑弥呼と統治者の弟だったのだろう。その卑弥呼は恐らく倭姫で弟は景行天皇だったりすののかも知れない。

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小生の住む神奈川県の旧郡制における橘樹(たちばな)郡~久良岐(くらき=久良=倉巣
)郡~御浦(みうら=三浦)郡~鎌倉郡~高座(たかくら)郡~愛甲(あいこう)郡~大住(おおすみ)郡~餘綾(ゆるぎ=淘綾)郡~足柄(足上/足下)郡の古社には日本武尊と雄略天皇に関する起源を持つ神社が実に多い。因みに小生は倭建は古代の邪馬台国大将軍の官職名だと思っている。
そして景行天皇御本人が初代の倭建、二代目が皇子の倭建=日本武尊だったら歴史と神話に整合性が出るんじゃないかと思っている。
日本武尊伝承は西暦100年代初頭と走水神社の神話では伝わっているが、古代の文字の無かった時代の話なので誤差が有ると考えれば三国志の時代とほぼ重なる。つまり卑弥呼の時代だな。九州で熊襲建(くまそたける)を討ったのは景行天皇だろう。
関東に東征したのは倭建(ヤマトタケル=景行天皇の皇子)だろう。
更に雄略天皇も最後の倭建で武蔵国造乱に関与したんじゃないかと推測している。
この推測は南関東の延喜式内社と式外社を回り御祭神の種類を見て廻り伝承を繋ぎ合わせた結果の個人的な推測なので、勿論、神学でも歴史学でも「全く価値の無い個人的な意見(笑)」でしかない。
だから日本神話をそのまま大切にする宮司様達は気にしなくて良いし、物質的な証拠しか採用出来ない歴史学者も小生の❝感触❞は小馬鹿にして置けば良い。
ただ小生は多くの神社や聖地が起源の仏閣を巡り伝承を繋ぎ合わせ、現実の歴史史跡を見た上で状況的に「そうなんじゃないかなぁ~」と感じてるだけ。
感じてるだけだから学術的価値なんか有りゃしない訳だ(笑)
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まぁ、そんな事をこの高座郡(たかくらぐん=こうざぐん)と呼ばれた聖地の多い地方の出土品を温故館で見ながら考える機会にも成ったりする。
小さい郷土資料館ながら展示内容は意義深く、石鏃(せきぞく)から青銅製の鏃(やじり)までの武器の変遷も見る事が出来る。
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そして装飾品も石や土器から次第に金属器やガラス製品が増えていった過程も見る事が出来る。
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そして古墳時代の豪族(王)クラスの武装が立派な金属製の太刀へと変化し、その様相も中国の三国時代の物とは既に違う独自の形に発展している事も解る。
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だいたい、神奈川県内で古墳~奈良時代の郡衙が置かれたと思われる場所の近くに有る延喜式内社の由緒ある神社の広大な旧境内地や傍には古墳が有って、副葬品から豪族の長しか装備出来なかった鉄剣や青銅製の鎧等が出土している。
三之宮比々多神社なんかも有鹿神社本宮や奥宮の周辺並に縄文時代~古墳時代の祭祀場や古墳と副葬品が大量に発掘されていたりする。
まぁ、そんな展示が温故館の1Fには多くあり、そして大化の改新の後の天智天皇以降の相模国国分寺や国府に関する展示も有る訳だ。
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温故館の2Fは中世~近世~近代の展示物が置かれている。
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江戸時代~近代の農機具。
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庶民の服装。
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明治の廃仏毀釈と神仏分離令の悪影響で衰退し廃社や廃寺に成った神社仏閣から移し保護されている仏様や神社の扁額等が保管されていた。
本当に海老名市の教育委員会は意識が高いと思う。
横浜市は左翼系の政治家と建築利権に結びついた政治家、そしてそれらの何れかと思想を同じくする教職員が力が強いせいで、宗教を文化と認識せずに「物」として扱ったり不保護のまま消滅させたりしてしまう。神奈川県庁と言う組織も駄目な所だし横浜市もダメ。
それ以外の自治体はとても宗教関連の遺物も文化として大切にし、そしてソレを物として扱わずに人から信仰された大切な物と言う認識を持っている場所が多い。
まぁ、神奈川県や横浜の教育委員会以外に他にも最近は歴史史跡や宗教関連史跡の保護で
ダメな自治体の教育委員会も幾つか有るんだけどな。
取り合えず、綾瀬市、海老名市、小田原市は比較的素晴らしい活動をしている教育委員会関連の職員が多い。文化財保護法の設置を最後まで拒んだ横浜市は一番駄目。

さて、温故館で学芸員さんに丁寧に色々と解説して頂いて古代の海老名郷の国府の条里制の跡と思われる場所の航空写真等も見学し新しく学習した事も有り、有意義な時間を過ごして温故館を後にした。
次に向かったのが今まで中々行きたくて行く機会の無かった日本を代表する拉麵店の一つである「中村屋」だった。

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この店の店主は「天空落とし」と言う拉麺の湯切りのスタイルでも有名なイケメン社長で、ニューウェーブ世代の拉麺店では一番の有名な社長なのだ。
そして拉麺を「料理」に昇華させた偉人の一人でもある。
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和食料理屋の様な店構え。
元々は高座渋谷に本店が在り、ここは高級志向のコンセプトで開いた支店だった。
しかし高座渋谷駅周辺の再開発で海老名店に本店機能を移転した訳だ。
現在は東京で大山阿夫利神社の名を冠した「阿夫利」と言う有名店も経営してらっしゃる。
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とにかく拉麺フリークだけなく「料理家も唸らせる拉麺」として有名だったので、ずっと来たいと思っていたが拉麺を食べるだけに来るには遠すぎた。有鹿神社様と御縁が出来たからこそ、海老名市街の一般道を走り回る機会が出来て、やっと来る理由にも成った。
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海外でも紹介されたらしい。
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店のTwitterアカウントが「天空落とし」に成っていた(笑)。
店員さんの許可を頂いて店内の様子も撮影させて頂けた。
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何となくアメリカの無機質に洒落たスタイルの内装だった。
丸でcafeの様な印象。
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以前の店舗の店先に掛かっていた額が店内に装飾品として展示されていた。
これも良い雰囲気を演出している。
天井のレトロな扇風機も良い。横浜の山下公園や大桟橋界隈のアメリカンスタイルのcafeと同じ様な内装でデートで来てもおかしくない拉麺店に成っていた。
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待ちに待った拉麺登場!
この日は「特中村屋」と言う拉麺の塩味に味玉と海苔増しのトッピングを注文した。
食べてビックリしたのはスープは透き通っていてアッサリしながらコクも有り、旨味を凄く感じられ今まで食べたどの拉麺よりも美味しい!
神奈川県には日本を代表するラーメン屋が実に4軒も有る。
拉麺の神様の佐野実さんの醤油ラーメンの名店、支那そばや
家系ラーメンの総本山の吉村家
九州ラーメンの名店なんつっ亭
そして神奈川端麗系の創始者である中村社長の中村屋だ。
この中村屋、美味いのはスープと麺だけではない。叉焼が凄い!
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肉厚なのだが物凄く肉質が良く柔らかい上に、その味は鎌倉ハムやなんかの贈答用の高級ハムを更に美味しくして拉麺の香りとマッチングする様にした感じの他店では絶対に食べる事の出来ない凄い叉焼だった!
本当、この拉麺を食べれて良かった。
海老名市訪問の後にも、この日の予定は幾つか有ったのだが…
有鹿神社で宮司様に親切にして頂いたり著書を拝領したり、人生で一番美味い拉麺に中村屋で出会えて、今年上半期で三本指に入る素晴らしい日に既に成った。

有鹿神社には又、小生の休日と祭事の曜日さえ合えば絶対に訪問するだろう。
そして、その時は又、絶対に中村屋の拉麺を食べに来ようと思った。
そんな素晴らしい午前中~昼の時間を過ごして海老名市を後した…

次回、綾瀬市~藤沢市編に続く…





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有鹿神社(あるかじんじゃ)本宮・中宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比古命(あるかひこのみこと)。 ※相模原市の有鹿神社奥宮は有鹿比女命(あるかひめのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:奥宮は縄文時代にには存在。本宮は弥生時代の遺跡を内包し、奈良時代には国府鎮護として鎮座した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:海老名市上郷。相模国国府跡や国分寺跡が徒歩30分程の場所に在る。DSC_0138
平安時代に関東総鎮守と朝廷に認定された神社の一つ有鹿神社(あるかじんじゃ)が海老名市に鎮座している事を皆さん御存知でしょうか?
前回の記事で紹介しましたが、この有賀神社は元々相模原市緑区に縄文時代の遺跡と共に存在する聖地❝有鹿谷❞に鎮座する奥宮から海老名郷の鎮守として遷座させられ、更には貞観年間に関東総鎮護、正五位の格式に成り、更に鎌倉時代に成ると正一位の各式に定められました。
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上の写真は相模原市南区勝坂に存在する聖地❝有賀谷❞の有賀神社奥宮。縄文時代の遺跡を旧境内地に内包し、その場所には縄文時代からの湧水地の聖地がある原始神道の文化を良く留める。

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さて、何で現在の場所に本宮が有るかと言うと、本来の有鹿神社の草創期の史跡は縄文時代の勝坂遺跡と共に相模原市緑区に現存するのですが、この本宮の場所も❝有鹿の社(もり=森)❞と言われた聖地であり弥生時代の遺跡が周辺から発掘されていたりします。
…神奈川県教育委員会は土建屋と結託しているので、ここでも旧境内史跡を保護せず神社は衰退していくのですが、昔の人がどれだけ、この神社を大切にしていたかと言うと凄まじい歴史が有りまして…
ここが本宮と成った所以(ゆえん)は奈良時代に海老名郷(昔は有鹿郷と言った)が相模国の国府と成った事が一番大きいと小生は推測しています。
有鹿神社は近所に現存する真言宗総持院は明治時代に成るまで有賀神社と一帯に成り神宮寺として機能していましたが、その規模は塔頭僧房合計12坊や幾つもの摂社を巨大な境内地に抱える大規模なものでした。
更に、中宮、奥宮を抱え、天智天皇の時代の西暦664年に国家鎮護の祭礼が行われた記録も有ります。
現在の本宮周辺の位置関係を見るとこんな感じ…
有賀神社と相模国府の位置 久良岐のよし
丁度、聖地❝有鹿谷❞から流れ出す鳩川(有鹿川)と相模川の合流する流域であり、相模川が蛇行しながら河岸段丘にぶつかり、他の支流とも合流する増水すると氾濫(はんらん)する辺りに本宮が鎮座し、更にその本宮の東側には旧相模国国府や国分寺の跡が在ります。
つまり、国府の政庁を守る治水の神様の役割も期待されていた事が位置的に推測出来ます。
まぁ、そもそも、本宮の御祭神は有賀比古(あるかひこ)様ですが、奥宮の神様は水神様でもある奥さんの有賀比女(ありかひめ)様ですから、これは当然とも言える配置ですね。
因みに有賀比古の神様は太陽神です。ですから、治水と太陽に関連深く農業とも関連の有る神社とも言えます。
余談ですが、この地域が奈良時代の相模国の中心だった事を示す国分寺の史跡は発掘され公開されています。
相模国国分寺跡 久良岐のよし
この国分寺は歴史に疎(うと)い人は知りませんが、古代、全ての国府に置かれた寺院でした。
ですから、ここが相模国の中心として機能していた時代が有った証明に成る訳です。
この辺りまで古代は海だったので、現在ではだいぶ内陸の海老名市が現在の感覚で言う神奈川県の県庁所在地に成っていたんでしょうね。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人にはもう御馴染(おなじみ)の画像ですが、Googleearthの画像に古代から存続する延喜式内社と式外社を表示させ、そこに縄文時代の海岸線の画像を貼ると、大凡(おおよそ)延喜式内社と式外社の位置は縄文時代の海岸線と符号します。
そんな訳で、古代から存続し霊験鮮(あらた)かな有賀神社ですが、現在は近所に遷座した中宮も古代は聖地有賀谷から流れる鳩川沿い座間市入谷の左岸の諏訪明神辺りに在ったそうで、西暦500年代に伊勢鈴鹿から移って来た右岸の鈴鹿神社の神様と争って敗戦し、現在の本宮へ本拠を移したと伝承が有るそうです。
鈴鹿の神様は船で遭難し入江の東岸に流れ着いたとされており、それが現在の場所だとされています。
上の画像で説明すると、当時の海岸線は白く表示した部分と推定されていて恐らく西暦500年代位はまだ、この地域は浅い入江だったと思われます。歴史とも神話は整合性が一部有ります。
有賀神社中宮推定値の諏訪明神と鈴鹿明神の位置関係 久良岐のよし
この画像は有鹿神社中宮の在った場所と推測されている諏訪明神辺りと、鳩川を挟んで右岸が有鹿神社の神様と争った鈴鹿明神です。
縄文時代より弥生時代の方が温暖だった可能性が有り、上の上の画像で示した西暦紀元前6000年頃より弥生~古墳時代の入江は更に内陸に広がっていた可能性が有ります。
その証拠に伊勢原市比々多神社周辺や足柄上郡寒田神社周辺には、縄文時代の海岸線より更に内陸ですが❝島❞と名の付く地名が多数現存しています。
因みに、初代の佐賀牟国司は建御名方(たけみなかた)神の御神孫と伝わっています。
建御名方神は、長野県諏訪大社の御祭神で軍神あり治水神です。
この座間市の鈴鹿明神の伝承では、鈴鹿明神の神様の財産を有賀神社の相模原市勝坂の有賀神社の神様が横領しようとして争った際に諏訪明神や弁天様が鈴鹿の神に与力し有賀神社の神様は敗戦し、現在の本宮に来たとされています。
もう一度位置関係を見てみましょう。
有賀神社の奥宮中宮本宮の位置関係 久良岐のよし
実は西暦500年代に大地震が有って神奈川県内陸まで広がっていた海の入江の海底が隆起し土地が出来たはずなので、中央から開拓目的の人間が鈴鹿の移民し入植して来てもおかしくない訳です。
この土地隆起による耕作地の出現が佐賀牟国の武蔵国・相模国分裂の切っ掛けに成り、更に旧相模国の国府祭(こうのまち)と言う神事の元に成った神様同士の争いや、武蔵国造の乱の切っ掛けに成ったと小生は推測しています。
しかも建御名方神の別名は❝伊勢都彦❞だった事が解っていて、現在の伊勢の鈴鹿辺りもこの諏訪神の一族がいた筈(はず)なので、諏訪神=建御名方神=建御名方神の御神孫=佐賀牟国司が鈴鹿からの入植者をかばい在来の有鹿神社の豪族と争った可能性は非常に高いと思います。
もっとも、有鹿神社や先住民からすれば、国司の一族と推測出来る鈴鹿明神の入植者達は侵入者な訳ですがね…。
更に言えば建御名方神は本来、建南方神と書いたそうなので、卑弥呼に敵対した南方の狗奴国と言うのは弥生時代末期~古墳時代の諏訪神族を指し当時の諏訪神族は伊勢辺りまで勢力を誇っていた、もしくは伊勢辺りが根拠地で後に諏訪にまで押し込まれたと神話と歴史を融合させると推測出来ます。
この辺りが、後に天智天皇等、皇統系に有賀神社が国府鎮護や関東鎮護とされ朝廷の後援を受けた理由でもありそうです。建御名方神は朝廷方の祖先神達と争った神様ですからね。
昔の神社は政庁であり豪族の宮殿でしたからね、神(かみ)=上(かみ)=守(かみ)=支配者を示す訳です。
そんな感じで、恐らく有鹿神社の聖なる川の鳩川沿いに隆起した土地に入植してきた建御名方神の御神孫の国司一族と、在地豪族だった有鹿神社の神様の御神孫の争いが、この有鹿神社中宮と鈴鹿明神の争いだったと推測出来ます。

さて、有鹿神社本宮の解説に戻ります。
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有鹿神社は、奈良時代~室町時代中期が最盛期でした。
当時は先述の通り凄まじい広さの境内地を抱えていましたが、平安時代から当地の在郷領主だった海老名家が室町時代中期に滅亡すると、後援者を失い社領を乱入者に横領され衰退して行きました。
しかし天正3年(1575年)、北条氏の治世下で神事❝水引祭り❞の復興が成され相模国五の宮、海老名郷総鎮守にまで復権し、天正19年(西暦1591年)には徳川家康公によって10石の社領を保証する朱印が発行され、江戸時代初期の元和8年(西暦1622年)には領主高木家の奥方によって社殿が寄進されました。
古代程の規模は継続していないものの、この神社の各式の高さと歴史の深さと古代日本文化を守って来た神社である意義は大切で、神社を守って来た氏子サン達の業績は偉大です。
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有鹿神社は境内に立派な御神木が有ります。
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樹齢は書いてないので解りませんでした。
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社務所は宮司様御不在の日がほとんどなので、事前に電話番号を調べて連絡の上、御出勤される日を確かめれば御朱印を頂けると思います。
小生は連絡の上、ここと別の事務所へ訪問し朱印帳に判を頂きました。
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とても凛々しい狛犬さん。石材の状態を見るに江戸時代の作でしょうか?
石の腐食具合がそれくらいに見えるかな。
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社殿外観は覆殿(おおいでん)で、文化財指定されている本殿はこの中に保護され鎮座しています。
本殿は春日造り、屋根は檜皮葺だそうで、格式の高い有鹿神社に相応しい造りです。
残念ながら、訪問した日は時間も遅く既に覆殿の扉が閉じられていて本殿を拝観する事は出来ませんでした。
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扁額は地震かなんかの落下で欠損部分が有りますが、とても立派ですね。
往時の社殿は、この扁額や広大な社領に見合った立派な建築物が何棟も有ったんでしょうね~。
境内の摂社には有鹿天神社と言う菅原道真公を御祀りする神社が在ります。
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元々、海老名源八季貞(すえさだ)公の館跡に鎮座していたのが、この有賀天神社の御神霊で、近年、その御神霊を境内に遷宮する際に御社の形をした祠を新築し直したそうです。
歴史的には海老名氏の崇敬を集めた天神社の今宮に成るので、こちらも霊験鮮かな神様と言えますね。
さて、有鹿神社の前編と合わせて有鹿神社を含めた延喜式内社の大切さが少し御理解頂けたでしょうか?
そして、縄文時代~古墳時代の海岸線沿いや湧水地に延喜式内社が集中して存在している事も御理解頂けたと思います。

ところで、この日の帰りは高速道路の海老名SA上りで豚の串焼きを食べたのですが…
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神奈川県の名物の一つである高座豚(こうざぶた)ですが、この高座豚の高座は古代律令制度の行政区分の高座郡に由来しています。
この高座郡、現代人は高座(こうざ)と読みますが、古代は高座(たかくら)と読んだそうです。
つまり、海底が隆起して現れた平地が有鹿川(鳩川)・相模川・中津川の氾濫や降雨を繰り返して平地の塩分が抜けて工作に適した場所に成り、水田開発が進み、多くの米を保管する❝高床式の倉❞が立ち並ぶ村々が増えって行って古代の開拓先進地域に成って行った事が地名からも伺えますよね。

では!
又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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有鹿神社(あるかじんじゃ)奥宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:相模原市南区磯部勝坂、勝坂遺跡の有賀谷。
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平安時代の人々から見ても古いと思っていた歴史有る神社を醍醐天皇の時代に後世に伝え保護させる為に記録させた❝延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)❞と言う古文書に掲載されている神社を、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)と呼ぶのを皆さんは御存知でしょうか?
平安時代、西暦900年代は既に古来の律令制度での国家運営が難しくなっており、それを改善する為に発布された延喜式政令の一端として行われた宗教政策みたいなものです。
つまり、この延喜式神名帳に掲載されている神社は現在の規模が如何に小さかろうが、現代の建物ばかりデッカイ神社よりよっぽど神様の歴史の重みと重要さが別格に高い訳です。
別に建物だけデカイ神社なんて、金儲けのセンスの問題ですからね…
さて、そんな延喜式内社が神奈川県旧相模国域に13座、武蔵国域に1座有ります。
その内の一つが縄文時代からの聖地❝有鹿谷❞に存続する有鹿神社の奥宮(元々の神社の発祥地)です。
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現在、有鹿神社奥宮は石の鳥居と祠(ほこら)が有るのみですが、その前を流れる小川を数mたどると現在も縄文時代から湧き続ける聖なる水源が有ります。
本来は、有鹿神社はこの辺りに立派な社殿が存在したはずなのですが、相模国の国府が海老名郡に置かれ、平安時代末期に坂東平氏良文流の名族の海老名氏が海老名郡を支配する様(よう)に成ると、海老名郡の総鎮守として、有賀神社も奥宮から現在の海老名市上郷に在る現在の本宮に重要度が移管させられました。
なので、近くの中宮には、本宮の聖地であったであろう池が在りました。恐らく縄文時代~弥生時代には安全な飲水として古代人に重宝されたであろう聖なる湧水地の池も土砂の堆積(たいせき)で消えました。しかし現在も本宮はや中宮の祠の近くには、聖地奥宮の有鹿谷から流れる鳩川が流れています。

延喜年間に聖地とされた場所は延喜式内社の他にも有ります。
そこは平安時代当時に御寺とくっつい修験者(山伏:やまぶし)の道場や天皇家の勅願所、又は国府や郡府として機能していた関連で延喜式神名帳には神社として掲載されていなかった場所で、小生の知る限りでも神話の舞台の日本武尊と弟橘姫の走水神社(はしりみずじんじゃ)・橘樹神社(たちばなじんじゃ)・師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)・八幡橋八幡神社(やはたばしはちまんじんじゃ)等が有ります。
これらは延喜式に掲載されていない事から、❝延喜式外社❞としてカテゴライズされています。
●走水神社の記事

●橘樹神社の記事

●師岡熊野神社の記事

延喜式外社は朝廷を乗っ取り天皇家を傀儡(かいらい)としていた❝藤原家にとって歴史的に都合の悪い場所もあり❞素戔嗚尊を祀(まつ)る祇園社、八坂神社、八剣神社、剣神社、出雲社、津島社も多くが延喜式内社から除外されてしまっています。

さて、延喜式内社と延喜式外社の説明はここまでにして、有鹿神社奥宮の説明に戻ります…
冒頭少し説明しましたが、有鹿神社の奥宮は平安時代末期に海老名市に本宮機能を移転した有鹿神社本宮の元宮です。
そして縄文時代からの文化を受け継ぐ聖地の湧水地に鎮座する神社な訳です。
ですので、この神社を語るには、縄文時代の住居が多く出土した旧境内地の勝坂遺跡の存在と、何故(なにゆえ)御祭神が伊勢神道系の皇祖神ではなく日本神話と関係無い土地神様なのかを解説する必要が有ります。
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※上の写真は有鹿神社奥宮の旧社地に在る勝坂遺跡。
そもそも現代の神社は社殿に祀られた御神体の銅鏡(かがみ)を拝む文化で、神社の建物自体が聖地とされてしまっていますが、縄文時代や弥生時代の神話時代の信仰を受け継ぐ古社の文化は全く現代の神道の鑑を拝む文化とは異なり、聖なる池や聖なる山、又は神様と成った神話時代の歴史偉人の御使用された祭器や武器その物等の遺品が信仰対象に成っていました。
ですから日本最古と呼ばれる奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪山が御神体ですし、熱田神宮は本来は日本武尊を祀った神社だったのでその遺品で三種の神器の一つ草彅剣(くさなぎのつるぎ)=天業雲剣(あまのむらくものつるぎ)が御神体とされています。
もっとも、日本の神剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と二つの名で呼ばれ同一視されていますが、実は熱田神宮にも東京の皇居にもそれぞれ一振りずつ神剣が存在している事から、小生は初めから2振りの剣が日本国には古代から存在していて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は別の神剣だと推測しています。
更に言えば伊勢神道に神剣が2振り有る事や銅鏡を御神体にする文化は弥生時代の卑弥呼が魏の皇帝曹叡から贈られた宝剣2振りと銅鏡200枚に由来していると個人的に推測しています。
神剣が天叢雲剣と草薙剣の2振り有るのに神剣が1振りしか無いように世間に誤解されているのは、恐らく藤原家が自家に都合良く古事記の文書化や日本書紀の編纂で歴史を改竄した結果、発生した矛盾によってこの様な事態が発生してしまったのだと推測しています。
皇居には壇之浦の合戦で安徳天皇が平家と無理心中した時に海中に紛失した天叢雲剣のレプリカが有りますが、熱田神宮にも日本武尊が東征に携行した草薙剣が保管されており熱田神宮の公式見解で神器として祀られてより新羅人に盗まれた時以外に境内から外に持ち出された歴史は無いとしている事からも、元来、日本に神剣が2振り有った事が明白です。
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勝坂遺跡入口
江戸時代にキチガイ領主だった徳川光圀(水戸黄門)によって創始された歴史の浅い水戸学を元にして、明治時代に文化や宗教の欧米化を指導した森有糺等の介入により成立した国家神道により、神社の社殿を聖地とする伊勢神道の価値観が基準とされ、更に皇祖神とは異なる神様は軽視されてしまいました。
結果的に縄文~弥生~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸時代の価値観はつい最近の150年前に否定され、以来、土地神様や伊勢神道の神様と異なる主祭神を祀る延喜式内社の多くは明治~大正~昭和に急速に廃(すた)れてしましました。
これは、他の延喜式内社の解説記事でも書いているので、カテゴリー「延喜式内社と歴史千年以上の古社」から選んで読んでみて下さい。
少々脱線しますが因(ちな)みに、小生が水戸黄門をキチガイ扱いするのは彼が領民に重税を課し農民達を苦しめた悪人であり、更に犬の皮を剥(は)いで生皮を将軍の住む江戸城に投げ込む変態行為を行った文字通りの精神異常者だったからです。
彼に関しては、ヤンキーで少年時代に不良グループと群れていた事実以外は全くTVの水戸黄門と異なる作られたイメージなんですね。
彼の評価が高く成ったのは犬を虐待して当時の将軍の徳川綱吉の生類憐みの令に反抗してみせたパフォーマンスと、その反幕府的な姿勢が幕末に後の明治政府の重鎮達に手本にされたからでした。
そんな訳で、彼は江戸時代にも多くの八幡宮等、伊勢系統の神様と無関係な神社仏閣を多く破壊した悪事を行っています。
そんな彼の創始した水戸学の誤った知識により、縄文時代~江戸時代末期まで自然崇拝や土地の神様を大切にした古来の神社文化は衰退させられてしまいました。
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しかし、この有鹿神社や日本全国の延喜式内社には、日本書紀の神話にも登場しない土地神様や日本武尊や弟橘姫が主祭神として存続し、更には縄文~弥生~古墳時代の遺跡を旧境内地に埋蔵した聖地に建っていた場所が多く有ります。
以前に紹介した❝大山阿夫利神社❞や❝比々多神社❞は正に、そんな場所ですね。
●大山阿夫利神社の記事

●比々多神社の記事

この有鹿神社奥宮の有る有鹿谷の上の丘の勝坂遺跡は、有鹿神社の湧水地を聖地としていたであろう縄文の人々の住居跡が発掘調査され、復元され無料見学出来る史跡として整備されており、御参りする時に子供を連れてくるだけでも良い課外学習に成るでしょう。
小生が良く使用する画像ですが、延喜式内社は縄文文化を受け継いでいる証明にも成るのが、縄文時代の海岸線と所在地をGoogle earthで重ね合わせた画像です。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
約6000年前の海岸線は今より遥かに内陸に在り、前鳥神社(さきとりじんじゃ)と平塚八幡宮の奈良時代の地殻変動で隆起した地形以外に所在する式内社・式外社は全て、縄文時代の海岸線と一致する位置や湧水地に現在も存在しています。
そんな訳で勝坂遺跡も有鹿神社の聖地である有賀谷の横に在る訳で、縄文時代の村落の史跡の横の有鹿谷が有賀神社の奥宮な訳です。
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勝坂遺跡に復元された住居には、展示時間内なら自由に入る事も出来ます。
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当時の人々の暮らしも想像できますね。
ただ、この住居内部の復元は、横浜市南区の三殿台遺跡程緻密には行われていませんし展示館も無いので、もし日本の神代に当たる縄文時代の人の暮らしに興味が有る人は、横浜市都筑区の❝横浜市歴史博物館❞と横の❝大塚最歳土(おおつかさいかちど)遺跡❞、復元住宅と生活を見たいなら横浜市南区の三殿台遺跡を見学すると良いと思います。
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勝坂遺跡も、住居跡の凹みにちゃんと解説文が説明板に書いて有るので、基礎知識を学ぶには良い場所だと思います。
ここは、日本文化を守って下さる神社の宮司様や御寺の和尚様達にも訪れて、日本文化と伝統の起源を改めて見つめ直して欲しい場所でもあります。
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この勝坂遺跡の入口と、勝坂遺跡の途中に有賀谷に降りる遊歩道の入口が在ります。
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その遊歩道を歩くと相模原市教育委員会の原生林を復興した照葉樹林があります。
明治~昭和期に日本の多くの山は建築材料の調達目的で原生林が伐採され杉の木が植林され生態系が破壊されてしまった場所が多く有ります。
それを踏まえると、この相模原市の取り組みは素晴らしいですね。
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この森をずんずん進みます。
すると…
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有鹿谷の底、小川と湿地の畔に出ます。
ここで生息する希少な生物の説明も有りました。
その傍らに在るのが、有鹿神社奥宮です。
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しかし、この奥宮は聖地の入口に境界の様に建てられています。
平安時代末期までは、上の勝坂遺跡とこの辺りに立派な社殿も存在したのでしょうね。
そして、この祠の前の小川を少し遡(さかのぼ)ると、この地が古来の神道文化を保持している所以(ゆえん)たる聖地が現在も日本文化を大切にする方達に守られていて…
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有鹿谷の壁面から、コンコンと湧き出る有賀神社奥宮の聖水とも言える湧水地ですね。
実は縄文時代~古墳時代の人々の生活で重要な事は飲み水の確保でした。
昔の人は大きな川の水を飲んでいた訳では有りません、そんな事をすれば、いくら昔の綺麗な川でも感染症を起こして死にますからね。
かと言って井戸を掘削する技術も実は平安時代位まで普及しておらず、江戸時代に成ってもまだまだ現代の様に地盤によっては垂直に井戸を掘れる技術は有りませんでした。
だからこそ、この有鹿谷の有鹿神社奥宮を含め、延喜年間には存在した神社…
伊勢原市の大山阿夫利神社や横浜市港北区の師岡熊野神社、東京都あきる野市の二宮神社(二宮小川大明神)、関東最古の大社で日本武尊が造営した埼玉県久喜市の鷲宮神社の様に縄文時代~古墳の史跡や自然湧水地を抱える場所が多い訳です。
●鷲宮神社の記事

どうでしょう?
有鹿谷と有鹿神社の大切さ、縄文人代の先輩達から~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸と、現代人の我々へ受け継がれている事を辿(たどる)る事で御理解頂けたでしょうか?
この縄文の人を潤し、弥生~昭和まで農耕の灌漑用水としても利用されたであろう母なる水を湧かす聖地有鹿谷の神様が、有鹿比女(あるかひめ)と言う女神様である事も忘れないで下さい。
現在の神道も、縄文~弥生~古墳の習慣が残っていますが、更に神話にも登場しない古い時代の神様を平安時代の醍醐天皇達の次代には現代よりも大切にして、現代人の私達に対して❝延喜式神名帳❞を通じて「ちゃんと保護し大切にしなさい!」と伝えてくれた事も忘れないで下さい。

…余談ですが、現在は御寺に成っている横浜市中区にある❝国家君が代と吹奏楽の発祥地❞である妙香寺は日蓮宗の御寺ですが、昔は真言宗の弘法大師空海和尚が開山の御寺だった歴史が有りますが同地の丘には打越の霊水やワシン坂の霊水と言った自然湧水地を多く抱える場所であるのですが、実は空海和尚は自然湧水地と日本神話の日本武尊信仰を大切にされていたので日本武尊神話の伝承地に日本武尊が崇拝していた牛頭天皇=素戔嗚尊を祀る牛頭社や須賀社を開いたり、聖徳太子を祀る太子堂を開いたりしています。
恐らく、横浜市の妙香寺や弘明寺は御寺に成る以前には神社としての機能が有った聖地なのだと思います。
その推測を強化するのが、弘明寺の旧境内地からは❝国府瓦❞が出土しているからです。
国府瓦と言うのは郡衙(ぐんが=群の政庁=現代の市庁舎のような存在)を建設する際に、国府の陶磁器や須恵器を焼く釜で製造され、郡の政庁の建設の際に使用された特別な瓦の事です。
武蔵国橘樹郡の郡役所だったと推定されており、背後の宅地の丘が巨大な弟橘姫の円墳である橘樹神社や、東京都府中市に在り武蔵国の国府として機能していたと推測されている大国魂神社が有る事からも、妙香寺や弘明寺は神社の旧跡に日本神話を大切にする空海和尚が御寺を建てたと考え復興したと自然に推測出来たりします。
これ等の場所が古代の海岸線の港や湧水地である事も、有賀神社や延喜式内社の歴史を辿る事で輪郭が見えてくる明治時代以前の人達の信仰の形だったりする訳ですね。
妙香寺はカテゴリ「御寺」に解説が在りますので興味が有れば読んで見て下さい。
●妙香寺の記事

●湧水地の記事


この有鹿神社の御利益と関わった人物ですが、天智天皇の治世、天平勝宝年間=孝謙天皇の治世、貞観年間=清和天皇の治世にそれぞれ中央との関わりの有る祭事や神社の格上げが確認出来ており、師岡熊野神社や比々多神社同様に朝廷からの支援が有りました。
御利益は、有鹿比女(あるかひめ)様が水の女神さまであり縄文~弥生の開拓地である事から灌漑水田農業振興の神様として農耕の豊穣の御利益、そして本宮の有鹿比古(あるかひこ)様と夫婦神様なので日本武尊と弟橘姫様みたいな縁結びと家内安全が期待できますね!

さて、有鹿神社奥宮の聖地と遺跡の解説はここまで!
次回は、鎌倉時代に移転した海老名市側の本宮の解説をします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!
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