歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:天皇家

※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

黒崎海岸の黒崎の鼻
1km真っ直ぐの黒崎の農道
【水質】★★★★
【景色】★★★★★
【電車】
 三崎口駅~徒歩20分
【 車 】  ✖
 車での来訪不可。
 私道で路駐スペース無し
【休憩】
 公共トイレ無し。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 風景が超絶奇麗◎
 ドクターX他多数ドラマロケ地◎
☞注意するpoint(•ω•)       
 公共トイレ無し。
 車での訪問不可。
 周辺は私道で路駐スペースも無し。
 キャンプしないで!
 自然を荒らさないで!
 BBQしないで!

 ゴミ持ち帰って!
 芝生にテント張るな!
 芝生でテント張る人に皆怒って!
 浜辺で直火焚火するな!
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
元々、第2次大戦時中日本軍部~敗戦直後の米軍統治時代に飛行場建設予定が有ったので真っ直ぐな農道が現在も残る。
一帯は戦時中防衛拠点化されていた歴史も有るが、天皇家の御用邸建設の計画も有った程の景勝地。
水蒸気の少ない気温の低い季節には農道と電信柱の直線上に富士山が見える絶景に成る。
黒崎の先端は鼻の様に盛り上がる小高い岬に芝生が生える絶景でグルっと海を見渡せコチラも必見。
浜は海水浴場として機能は設置されず自然保護されている地域なので海岸は清掃されていないが水質は良く子供の磯遊びには最適!海岸からの景色も超絶景。
映画ドラマのロケ地に成った実績は数えきれない。
しかし深刻な問題がこの数年有り、自然保護対象の芝生の上でテントを張り寝泊まりし調理をし芝生や野草を弱らせ土が露出する事態を招き、浜にゴミとBBQ機材を打ち捨てる低モラルキャンパーが増加している。
砂浜ではなく岬の芝生でテントを張るキャンパーや浜辺に直火で焚火する人間を見かけたら皆さんテントを砂浜に移すか焚火を止める様に注意勧告して下さい。特に浜辺で直火で焚火している人間が居れば県の条例違反なので警察に通報して下さい。
既に同類の人種のせいで浜が荒れてBBQとキャンプ禁止に成った三戸浜と同じにしない為に地元民と自然環境保全に協力しながら黒崎の絶景を楽しんで下さい
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※黒崎の先端、黒崎の鼻からの眺望
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※真っ直ぐ1km伸びる黒崎の農道
穴場の海岸の紹介一覧へ⤵️

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神奈川県伊勢原市には、名将北条早雲(ほうじょうそううん)こと本名:伊勢盛時公が攻略に11年もかかった岡崎城と言う鉄壁の城が在ったのを皆さん、御存知でしょうか?
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その御城の本丸跡は、現在、無量寺と言う御寺と2軒の民家に成っています。
この岡崎城、実は小田原城や玉縄城や新井城と並ぶ鉄壁の城でした。
…と、言っても戦国時代の先進地域が中部地方と大勘違いをしている戦国マニア初級の人も多いと思うので、少々説明をさせて頂きます。

実は関東地方は京都で応仁の乱のが収束し始めた頃、近畿地方や東海地方よりも先に戦国時代に突入してしましました。
当時は室町時代で、京都では室町幕府将軍が東海地方と信濃国を含む西日本を治めていましたが、東日本は鎌倉府と言う行政機関が現在の鎌倉市に別に置かれ政治が行われていました。
鎌倉府の行政区域は広大で、最大で駿河国より東側の伊豆国・信濃国・越後国以東~関東東北が統治範囲でした。
その長官が関東の将軍格で鎌倉公方と言われた人物でしたが、足利持氏と言う鎌倉公方が、くじ引きで京都の征夷大将軍に成った足利義教公と対立した❝永享の乱❞で敗北し自害したのを最後にして、関東の首府だった鎌倉府は滅亡する事に成ります。
鎌倉府周辺史跡 久良岐のよし
鎌倉府の所在地は現在では詳細に知る術(すべ)は有りませんが、鎌倉公方の居館の在った場所には現在も石碑が建っています。
その場所は鎌倉市の浄明寺(じょうみょうじ)地区と言う場所で、とても文化史跡の豊富な景勝地でもあります。
室町幕府よりはるかに昔の、まだ鎌倉幕府が存続していた時代からの足利家の氏寺であり、紅葉の名所の❝浄妙寺(じょうみょうじ)❞と言う御寺…
後の将軍足利尊氏公の祖父に当たる足利家時公と尊氏公の従兄の宅間上杉重兼公が開基(かいき=建設)した❝報国寺❞と言う竹林で有名なミシェランガイドで☆3つ評価された御寺や…
更には現在は通行止めですが、景勝地として有名だった❝釈迦堂切通し❞と言う御寺が在ります。
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足利持氏公はこの浄明寺地区で蜂起(ほうき)して京都の征夷大将軍足利義教公と相争い、結果敗北し、横浜の景勝地で武家初の図書館として有名な金沢文庫を有する金沢区称名寺に隠居します。
しかし将軍足利義教公の怒りは収まらず、鎌倉公方足利持氏は東京都世田谷区の永安寺に移送されて後に自害に追い込まれました。
この一連の事件を❝永享の乱❞と呼ぶ訳ですが、足利持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)公と、京都の将軍の息のかかった関東管領山内上杉家が利根川水系を境目に関東を東西で割る形で対立すると、足利成氏方は現在の古河市に在った古河城を拠点に、山内上杉家と合戦を繰り返し関東は騒乱の時代に入りました。
この足利成氏公の一連の事件を❝享徳の乱❞と言いますが、すなわちこれが関東が他地域より早く戦国時代に突入する事に成った原因でした。

そんな戦国時代を早く体験する事に成った関東地方では、北条家の小田原城に代表される関東流の築城技術や太田道灌公の主君扇谷上杉家に見られる自然地形を利用した堅城がいくつも築かれ、同時期の西日本とは比較にならない長期間の籠城に耐えられる城がいくつも登場しました。
その一つが、この堅固な岡崎城でした。
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これは田中祥彦さんと言う方が作成された岡崎城址主要部分の復元縄張り図です。
現在では大部分の保護が怠られたので、このまま残っている訳ではありませんが、元の地形が見てとれる部分も多く有ります。
実は現在の皇太子殿下が学生時代に、この岡崎城址を御見学にいらっしゃっていて、殿下のみならず本当の戦国時代の歴史好き城好きには有名な城なんですね。
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これらの看板は無量寺の入り口に掲げられています。
この看板の説明を読んで頂ければ、この城の重要度がそのまま解ります。
小田原城発展以前の相模国の中心的な役割を果たした城は、この岡崎城だったんですね。
そして当時としては規模も最大級の城域を誇っていました。
では、先程紹介した田中氏作成の岡崎城主要部分と、周辺の出城群を現在の衛星写真に張り付けた画像と、そのままの衛星写真で比較してみましょう…
岡崎城縄張り図全体像衛星写真
これは現在の衛星写真です。これを見ても何処が城跡か解りませんが、実はこの広大な範囲の大半が岡崎城城塞群でした。
岡崎城縄張り全体像
この画像中、赤い線で記されているのが岡崎城の空堀や曲輪(くるわ=兵士が守備するスペース)の遺構です。
凄まじい範囲ですね。
そして、この城塞群の周辺は深田や土腐(どぶ)化した湿地帯に囲まれていて、攻城側は不用意に近づこうものなら足をとられ歩行不能に成った所を、瞬く間に守備側の兵士から弓箭で射殺されてしまいました。
それだけではなく、この城址の主要部分は超複雑な構造の空堀群が入り組んでいて、この構造は上杉家をはじめとした関東在地の大名によって発展させられた自然地形を加工し敵を空堀に引き込み、曲輪上から弓矢の雨を降らせ敵を殲滅する構造でした。
何故、この辺りが土腐だったかと言うと、それは縄文時代には周辺は海だったので弥生時代ぐらいから段々と海岸線が遠のいて行きましたが、湿地として名残があったんですね。
ですから前回の記事で紹介した同じ伊勢原市の高部屋神社でも太古の昔から明治時代に成るまで続いた❝汐汲み神事❞と言う宮司が海で海水を汲む行事が続いていたりもしました。
…幕末も伊勢原市は海から10km以上内陸でしたよ勿論、でも神話の時代の地形で行っていた行事を歴代宮司さんが明治の国家神道成立で中止を余儀なくされるまで守っていたんですね。
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ところで、この岡崎城は平朝臣三浦家一門の岡崎義実(おかざきよしざね)公が最初の築城者で城主でした。
この岡崎義実公の御父君も歴史に名を残した武将で、名を❝三浦義継❞とおっしゃる武将でした。
三浦義継公の代から三浦郡知事に当たる三浦介(みうらのすけ)の官職名から苗字を三浦と正式に名乗る様に成り、以後、三浦一族は子孫に多くの戦国武将や大名を輩出する事に成りました。
※三浦一族の記事は下のリンクから御覧下さい。
●三浦家の菩提寺横須賀市の❝清雲寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●平安~鎌倉時代の三浦家の居城❝衣笠城❞の記事は「ココ」←クリック!
●鎌倉御家人達から武士の鑑(かがみ)と崇拝された三浦義明公の菩提寺❝満昌寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●三浦家と多くの坂東平氏系大名祖先の平良文(たいらのよしふみ)公の御廟のある❝二傳寺❞の記事は「ココ」←クリック!
岡崎義実公は、源頼朝公と、その御父君の源義朝公に忠義を尽くした武将で、義朝公が❝平治の乱❞で敗走した先の今の愛知県知多半島で部下の長田忠致(おさだただむね)に裏切られ殺害された際に、現在の鎌倉市に在る寿福禅寺の場所に義朝公の菩提を弔う為の御廟を建てられた逸話が残っています。
旧岡崎城域に当たる、無量寺から北に徒歩8分位の場所に在ります。
岡崎城 岡崎義実公御廟所位置 久良岐のよし
もし、岡崎城址見学に来られた際は是非、御参りして神奈川県や武士文化の発展の基礎を築く一端として活躍された事を後輩として御礼されては如何でしょうか?
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現在では参拝客も少ない義実公の御廟所ですが、皇太子殿下はこちらにもいらっしゃっています。
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…殿下、歴史オタクなんでしょうか(笑)?
もし殿下が歴史オタクなら不敬かも知れませんが…
なんだか嬉しいなぁ~神奈川県の歴史に興味ない人は地元の人も知らない名将と名城の古址を訪れて下さった事は神奈川県民として非常に名誉だ…
実は皇太子殿下は、宅地開発が進み完全に消滅の恐れの有るJR大船駅近くの名城玉縄城の保護活動にも御参加下さった事が有ります。
…同じく県下で有数の規模を誇った扇谷上杉家の糟屋館や笹下城、蒔田城や青木城を破壊しつくした神奈川県教育委員会歴代幹部は恥知らずだと思います。
少しは神奈川県の城址や偉人の史跡に関心を御持ちの皇太子殿下を見習って、神奈川県教育委員会や横浜市教育委員会は己等の所業と不見識を恥じて頂きたい。
これは笹下城の完全破壊を土建屋に実行する認可を与え、更には扇谷上杉家の巨大城郭遺構の糟屋館跡に県道を作り破壊しようとしている黒岩県知事にも言いたい事でもあります。

さて、岡崎城に話を戻します。

戦国時代に、この岡崎城を拡張し戦国の城にしたのは佐原三浦家でした。 三浦家平安~鎌倉時代の城塞群 久良岐のよし
上の衛星写真に表示した城は、いずれも平安~鎌倉時代の三浦一族の城址です。
衣笠城を三浦本家が拠点にし、その麓まで当時は現在の川沿いに入江が入って来ていて、三浦水軍の拠点に成っていました。
その為に、三浦家で最も有力者だった和田義盛公の居城だった怒田城(ぬまたじょう)城址の麓の地名は今でも❝船倉❞と呼ばれています。
佐原三浦家と言うのは、現在の三浦半島の横須賀市佐原に在った佐原城を本拠地にした三浦家の分家の佐原家が、三浦本家滅亡後に三浦姓に復姓して三浦宗家と成った家の事を指します。
佐原家は歴代名将が多く、源義経が今の神戸市に在った平氏の拠点❝福原❞を攻めた❝鵯越の逆落とし❞は佐原家初代の佐原義連(よしつら)公の立案です。
それを実行に移したのは、兵庫県出身の武将の多田源氏の惣領❝多田行綱❞公と伝わっています。
源義経は本当に部下(与力)の手柄を自分の手柄の様に報告したカスだった様ですね…
因みに、多田行綱の関東での居城と伝わるのが、以前紹介した横浜市都筑区の茅ヶ崎城です。
その茅ヶ崎城の裏に在る正覚寺は関東での多田行綱公の菩提寺と伝わっています。
※茅ヶ崎城の記事は「ココ」←クリック!
この佐原三浦家の子孫に当たる武将が房総半島の槍大善こと正木時茂(ときしげ)公であり、佐原三浦家を継いだ養子の三浦道寸(どうすん)公は北条早雲公と相模国の覇権を争って、この岡崎城に籠城しました。
更に道寸公の嫡子三浦荒二郎義意(みうら あらじろう よしおき)公は、三浦半島の現在の油壷マリンパークに在った新井城の最後の戦いで、一人で500人を打ち取った豪将として名を馳せました。

そんな歴史上の多くの名将が関わった岡崎城址、神奈川県教育委員会の怠慢で破壊されていますが、実は部分的には当時の地形も見え、更に完全に残っている曲輪もいくつか有ります。
例えば…
岡崎義実公の御廟所から無量寺に帰る途中に、❝喰い違い虎口❞と、その❝土塁と空堀❞の遺構と思われる畑地と農道を通りました。
❝虎口❞と言うのは、小口とも書きますが城兵が安全に出撃したり敵兵の侵入数を制限し立ち往生させ射殺する施設で、多くの場合は城門が置かれていました。
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青く光っている場所が、小生が観察写真を撮影したポイントです。
上に無量寺が見えますので、位置関係は無量寺を起点にして探してみて下さい。
このポイントで撮影したのが下の写真です。
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右手には曲輪の遺構の小さな丘が保存状態良く現存しています。
その間をS字クランクで抜けるこの農道の左右には明らかに空堀の遺構である畑地が有ります。
そして農道のクランク左手(城外に向く側)には土塁遺構と思われる盛り上がりも有りました。
或いは、このクランク自体が土塁で右手の空堀状の畑地は右手上の曲輪下の❝帯曲輪(おびくるわ)❞だった可能性も有ると思います。
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小生の様な歴史好事家(こうずか=オタク)や御城ファン以外には只(ただ)の畑地でも、我々には完全に空堀か帯曲輪だと断言出来る保存の良さですよ本当。すごい!
この喰い違い虎口跡の可能性が高い場所の右手曲輪跡の藪の中に入って見て下さい… 2016-01-03-16-26-24
上の写真の位置に行くと、下の写真の明確な堀切の遺構が見れます。
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凄いでしょ?
結構残ってますよ!岡崎城の遺構!
この一帯をちゃんと整備し、柵や木盾を押し並べ、堀底に逆茂木を敷設した城址公園化したら有料でも御城ファンが散歩に来て、ドラマの撮影場所にも使え観光と史跡保護の一石二鳥に成ると思います。
さて、先にズンズン進みます。
この農道を先に進むと、岡崎城址本丸の無量寺裏の連郭式の三連曲輪が見られます。
岡崎城三連の曲輪
あくまで、義実公の御廟側の農道から来て下さい。
無量寺サンの直ぐ裏ですが、無量寺側からは侵入できないようにロープが張って有ります。
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三連の曲輪の空堀から見た曲輪遺構。
この反対側は無量寺。
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だから無量寺にある城山稲荷大明神の裏っ側が見える…
小生が上の写真を撮影したのは下の青い点の場所。
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緑の線が農道ですね。
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曲輪にそって堀底道が続きます…
空堀も埋まってしまい大分と浅くなり、普通の人には只の農道にしか見えないでしょうね。
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でも人工的に削岩された形状が素人目にも判(わか)ると思います。
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曲輪の上にはきれいな水仙も咲いていました。
なんだか、城跡と水仙て関東では良く見る組み合わせなんですねよ。
偶然だと思いますけれど。
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可愛い…
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上の場所で水仙が咲いていました。
訪問は1月2日でしたが、その先、三連の曲輪の2つ目の曲輪の端っこには、綺麗な紅葉も見られました。
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その下には真ん中の曲輪と尾根を断ち切り、敵の侵入を防ぐ❝堀切❞が在ります。
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堀切の堀底道には更に別の堀底道に繋がっていたので、嘗(かつ)ては城兵が往来していたんでしょうね…
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真ん中の曲輪は、下の段の、恐らくそこも何某(なにがし)かの曲輪だった柵平地に繋がる深い堀切りが見られました。
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でも藪漕(やぶこ)ぎする時間が無かったので当日はその先には行きませんでした。
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でも、この下の写真…
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小生のいる青い点の右手に在る柵平地の畑地、その左右に伸びる農道は真っすぐ青い点の下のうっすら見える堀切に続いているので、この堀切が間違いなく堀底道としても使われていた証拠だと思います。
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でも3つ目の曲輪には行かずここまで。 2016-01-03-16-41-42
曲輪の畑地を降りて農道をそのまま道なりに歩くと、無量寺の本丸の南端、民家の石垣に出て舗装された道に復帰します。
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この御宅の石垣、昔の本丸跡の石垣とは思いませんが、使われている石材自体は、昔の三浦家の殿様の御屋敷の石垣とかから転用したものだったらロマンが有りますね。
因(ちな)みに、この本丸南側から丘陵の麓(ふもと)に降りる道も❝喰い違い虎口❞遺構らしい道が在りまして…
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道路拡張して舗装したとは言え、車がスレ違うのに四苦八苦していました…
なんで、そこでスレ違おうと思ったんだろう?
軽トラックが手前の空地に待機すればスムーズに行くのに(笑)。
この岡崎城の高台からは、湘南の海に突き出す大磯町の高麗山公園の山が見えます。
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この高麗山も古代の山城の跡と言われていて、奈良時代に日本に亡命してきた百済人や朝鮮半島から帰化した先人の山城の遺構とも言われています。
朝鮮式の山城は別に百済帰化民の城と言う訳では無く、当時の大和政権は唐と対立した時に、香川県に築いた屋島城や福岡県に水城等を多く築城しています。
この大磯一帯は古代、一宮寒川神社と二宮川勾神社の辺りで何方(どちら)を国府にするかで豪族が争った場所でもあり、その伝承は神話と成り❝国府祭(こうのまち)❞と言う神事として神社の神様同士が一宮の座を争う内容が、現在にも受け継がれています。
尚、この神様同士の争いを仲裁したのが、岡崎城址から車で数分の場所に在る比々多神社神様で、現在も神様同士の争いを仲裁するのが比々多神社の神様の役割に成っています。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
湘南~西湘、今の伊勢原市辺りは古代からの聖地であったと同時に、戦国時代まで、旧相模国の大名三浦家の中心を為した拠点だった訳です。

では!
又、次の記事で御会いしましょう!





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ブログネタ
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今、北条五代祭りに向けて随時更新中の「小田原城」に関する記事の中の昨日書いた部分で、御菓子のウイロウはが本家だと言う歴史事実を紹介したのですが…
スイーツのカテゴリに分類したいので少し説明を補足して、今回独立記事として改めて立て直します。

さて、以下は小田原城記事からの抜粋と補足に成りますが…
先ずはウイロウは小田原が本家で京都が元祖だと言う歴史事実を説明します。

戦国時代、小田原城の城下町は応仁の乱で戦災が続き荒廃した京都から、多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていました。
その繁栄は小田原北条家初代の北条早雲(そううん)公の政策に由ると言われています。
三代北条氏康公の頃に成ると小田原城は上杉謙信や武田信玄の大軍による攻撃を複数回経験したので、小田原を市街地ごとソックリ守る「総構え」と呼ばれる土塁と空堀の城壁に囲まれた戦国時代当時、大坂城築城以前の日本最大の城塞へと変貌しており。 

そんな小田原城の城下町に室町時代に移住してきた薬屋が、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんです。
ういろう」が「お菓子の名前だと思ってる人」がいますがね…
ういろう=外郎=人の苗字です!

もう少し詳しく説明しますと、外郎と言うのは中国大陸の王朝、南宋王朝と元王朝の「礼部員外郎」と言う官職名由来の苗字です。
小田原市に現在住んで薬とお菓子のウイロウを販売している外郎家は、元は中国の王朝の官僚だった方で陳延祐と言う名の中国人でした。
陳延祐サンは今の中国浙江省台州市の出身で、元が明帝国に転覆され滅亡した際に日本に亡命し1368年、博多経由で嫡男(ちゃくなん=跡取り)の大年宗奇の代に天皇家に招聘され京都に移住しました。
伝承では、その頃、室町幕府三代将軍の足利義満公に提供したのが今の一般的に「ういろう」と呼ばれる外郎家が相伝で伝えた身分の高い客人の為に作っていた茶菓子だと伝わっています。
裁判でも、この小田原の外郎家の歴史事実は認定されています。
ウイロウは明治時代まで販売してはいけない物でした
あくまで身分の高い人をもてなす為だけに作られる菓子でした。
まぁ、現代ではウイロウが人の名前と知らない方が多く成ってしまいましたが。 
そして外郎家の本業はあくまで薬師でした。
元は高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の「ういろう」として大衆的に誤認されているものなんですね。 
小田原の外郎家では、菓子のウイロウは「お菓子のウイロウ」と言う名前で「薬のウイロウ」「外郎家そのものの苗字」とちゃんと現代でも分けています。

それ等の歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
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八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
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本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

繰り返しになりますが、この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
image 

…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 
「ウイロウ売りの口上」は今ではTVアナウンサーが朗読練習で必ず暗唱出来る様に練習する演目としても有名ですね。
因みに、内容は以下の通りです…

拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、
御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、
欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。

元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、
昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。
帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用うる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。
依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。
即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。
只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、
イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしは親方圓斎ばかり。
もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。
御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、
系図正しき薬で御座る。

イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、
されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。
先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、
薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。
魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。
さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。
ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。

そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。
アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。
開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。
一つへぎへぎに、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒、書写山の社僧正。
小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。
繻子・緋繻子、繻子・繻珍。
親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。
古栗の木の古切り口。
雨合羽か番合羽か。貴様の脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。
尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。
河原撫子・野石竹、野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。
一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。
京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。
御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。
来るわ来るわ何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。
武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。
菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。
麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。
あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。
向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。
がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。
たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干蛸。
落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。
中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。
鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。
小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。
おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く三里ばかりか、
藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。
隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。

アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、
産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまい。まいまいつぶりまいつぶり、
角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばち桑原桑原と、
羽目を外して今日御出での何茂様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、
東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃりませぬか。

…ね?江戸時代の人の認識でも外郎は小田原の外郎家の物だったんですよ。

そして何で小田原の外郎が近年全国に普及しなかったかと言うと、新幹線と家の格式のせいです。
朝廷との逸話から、明治時代になると外郎家のういろうが特許として内閣特許局にすぐに登録されました
しかし天皇家との関わりからウイロウは小田原の外郎家での直接相伝しかしないと言う伝統を守り販売も小田原外郎家の本店での直接販売しかしないと伝統を守って来た事が原因なんです。
新幹線は小田原は「ひかり」しか止まりませんからね…
そんな訳で某地方都市の偽物が新幹線開業を機会に大量生産する企業が多数参入し、歴史を御存知無い方々に事実誤認されてしまった訳です。


そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

如何でしょうか?
ウイロウの歴史、御理解頂けたでしょうか?
念の為に以下に時系列で纏めて置きます。
初代:陳延祐
元朝時官途:礼部外交院外郎 
長慶天皇の治世、正平二十三年(1368)年、元朝滅亡時に日本亡命。
医術、天文学に通じる。
博多に住す。
官職から陳外郎と日本では呼ばれる様に成る。
↓
後円融天皇の従弟、足利義満公により博多より京に招聘。
京に移住はせず博多に戻るが子を京に留める。
↓
子は京に留まり足利一門の断家、宇野の名跡と旧領を与えられ格を上げられた上で朝廷にも仕える。
外交使節の応対を担当。
足利一門の帰依していた禅宗に入門した事で法名は大年宗奇と伝わる。
父の初代延祐も禅宗に帰依し入道。
今は福岡市博多区に移転した、当時は太宰府に在った横岳山嵩福寺で剃髪、台山宗敬と名乗る。
※この入道号"台山宗敬"は恐らく陳家が浙江省台州出身の貴族である事に由来する。
※帰化後、本来は元朝の官職の外郎を苗字とし読みを官途の外郎(げろう)と区別し外郎(ういろう)にした。
※朝廷に上がる為に宇野を併用した。京極、六角に置ける苗字佐々木の併用に類似の事例。
↓
陳外郎宇野台山宗敬、享年73歳。
応永二年(1400年)七月二日没。
↓
後柏原天皇治世
永正元年(1504年)。
五代:陳外郎宇野藤右衛門定治の代に小田原の北条家より招聘され移住。
この際に弟の家を分家させ京に残し接待菓子や薬の製法も弟の家にも残した。
↓
しかし兵火により京の外郎(宇野)家は断絶する災難に遭う。
※当然、京都の財産や文書も消失。
この際に弟子が外郎の故知の博多、官領代として乱を沈静化させ当時の博多を傘下に置いた大内家により雇用され広まったと、外郎家では山口市と博多市の菓子の外郎を系統と社史で事実上公認している。
血脈は小田原のみ存続する。
天皇家の制約を守り菓子を販売せず。
薬の製法は明治まで一子相伝だった。
※明治時代の解説に繋がる。
↓
小田原でも北条家の外交使者接待担当。陳外郎宇野家は石高換算で江戸幕府の7000石超相当の格を継続して遇される。
※有職故実に通じたのでの江戸幕府に置ける高家対偶に類似。
※実際に其だけの所領を北条家でも与えられたとは考え難いので関東では室町幕府の格式の維持に留まったはず。実際、当時の石高換算の1貫=2〜4石の最大値で計算しても北条家臣筆頭の松田家で所領役帳で2798貫=11192石となり、やはり外郎家は格式に特化した保証を受けたと考えた方が自然。
↓
北条家、豊臣秀吉の小田原攻めにより改易、当主氏直公は蟄居。この際、士分の北条旧臣は小田原城下から退去を命ぜられるが朝廷との縁から特例で残留を認められる。
以後は医家として存続、嘗ての朝廷に置ける儀礼を守り透頂香と菓子も外郎の在所以外での販売をせず現代に至る。
この際に天皇家より医家にも関わらず以下の桐紋と建築様式の使用の御赦免を賜る。
八方八つ棟
表側三つ棟玉堂造り
唐破風に桐紋瓦
↓
江戸時代に至っても外郎家は高名で、今の市川海老蔵の祖先である二代目市川團十郎(元禄元年1688年〜寶歴八年1758年)が愛用し、享保年間に外郎の透頂香で喉の持病が根治した事を感動し歌舞伎の演目"外郎賣"を造り上げ以後は市川家十八番の演目の一つとして現代に至る。
↓
明治に成ると特許条例が制定されたが、天皇家との関わりで真っ先に特許承認された。
↓
外郎家系統の製法を受け継ぐ地方では外郎(ういろう)の名を使う事を憚(はばか)り、"ういろ"等と名を変えて敬意を近代まで払っていた。
その名残で今も「ういろう」と平仮名で書いても「ういろ」と発音する人が年配には多い。
但し、外郎家と無関係の名古屋は例に漏れる。

では!又、次の記事で!
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横須賀市田浦にある田浦梅林が見頃で田浦梅林祭りが開催されています。


前回記事で少し触れましたが、田浦梅林は今の天皇陛下の生誕記念に植林された広大な梅林です。
昔は山の名前を按針峰(あんじんみね)とか何とか呼んだらしいです。
隣接する町に安針塚と言うのが有るからでしょうか?
安針塚の安針とは、ウィリアム・アダムスと言う人物のアダムスを和名風にした名前で、彼は江戸時代に徳川家康に仕えたイギリス人外交顧問でした。
因(ちな)みに東京駅八重洲(やえす)口も、ヤン・ヨーステンと言う同じく徳川家康に仕えた彼の同僚の名前を和名にしたものと伝わっています。

下の航空写真真ん中辺りの山が全部田浦梅林です。
京浜急行電鉄 田浦駅から徒歩15分くらい。
行く途中には前回紹介した「梅どら」と言う梅を使った美味しいどら焼きを販売している「ふじみや」さんが有るので、田浦梅林見学のピクニックの御供(おとも)に丁度良いですよ♪


田浦梅林は住宅街を抜けないとたどり着けず、少々入り組んだ場所に入口が在りますが、案内看板代わりの旗を目印に辿(たど)って行けばつきます。

上の写真の山裾が見えれば、もうすぐ!
ここの路地が入口です。
ここを入るとニ叉路に道が分かれますが、小生のお勧めは左回りの第六天神社経由登山です。

少し登ると鳥居が有ります。
此方(こちら)側から登山すると途中、梅の林越しに横須賀市田浦の昔ながらの里山の風景を楽しめます。
更に田浦梅林の発祥地である第六天神社の前では…
撮り鉄の人なら歓喜するであろう、梅林と京浜急行電鉄のコラボした風景が見られるんです。

以下、田浦梅林から京浜急行のトンネル出口を見た風景の連続写真です。

写真みたらフォルダ内ぐちゃぐちゃで進行方向分からなくて、逆再生かも…

逆再生かも知れませんが、珍しい綺麗な風景である事は伝わりますよね?

この風景の見れる神社の第六天神は、織田信長公が武田信玄との文通の口喧嘩の中で、武田信玄が自分を「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)」と書いたのに対して、信長公がトンチを効かせて自称したのが第六天神社の祭神、第六天魔王です。

農民の信仰を集めた神様で、第六天魔王は仏教とヒンドゥー教の神様です。
天台宗等、法華経を重んじる仏教宗派では魔王であり、且つ、真面目に仏教の思想を守る人間には保護者になると解釈されているそうです。
だから信長公は武田信玄が天台座主と称した際に、法華経信者を裁く立場の第六天魔王を持ち出し上から目線で信玄が吹っかけた口喧嘩を買った訳です。
武田信玄は天台座主を名乗る事で、自軍の織田領への侵攻に大義名分を付加しようとした訳です。
ところで、神道では第六天魔王に高御産巣日神(たかむすびのかみ)や天狗を当てはめる事で神主様や氏子さん達が、明治政府の廃仏毀釈政策に由る外来の神様排斥から第六天神社の御社を守り、多くの社殿を破壊の危機から守ってきた様です。
実は…
関西には第六天神社が余り無いのですが一説には豊臣秀吉が織田家を乗っ取った際に、織田信長公の天罰を恐れた秀吉により関西の第六天神社は破壊し尽くされたそうです。
第六天神社を過ぎると、梅林の遊歩道沿いに水仙が植えられたエリアに入ります。
先週の写真ですが、少しだけ水仙も梅も時期が早かった様でした。
が、それでも綺麗な花が見られましたよ。

良い眺望(ちょうぼう=ながめ)です。
この先に広場や子供用アスレチックが有ります。

途中、鶯(うぐいす)の群れに出くわしました。
可愛かったですよ〜♪

で、頂上付近に来ると、梅林越しに横須賀市の海と、更にその向こうに横浜市金沢八景の八景島の絶景が見渡せます。
昔は海も埋め立てられておらず、更に綺麗な風景だったんでしょうねぇ…。
手前が夏島かな?
写真中央が野島…
二つの島は伊藤博文公の別宅があり、大日本帝国憲法の草案が纏められた、日本法治主義の基盤が作られた場所でもあります。

展望台もあり、そこからも東京湾を眺めるれます。

この田浦梅林、元は個人の所有地でしたが、今上天皇陛下生誕記念に横須賀市に寄贈され梅が植林されたので、その寄贈者の方の記念碑もあります。
良い所でしょ?

お弁当持って御花見散歩に行くには良い場所です。
家族連れや恋人同士には尚、良いレクリエーションとなる事必定!

今週末位までが見頃です。
是非、訪れて見てくださいね〜♪

では、又、次の記事で!
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美味しいもの に参加中!
いや〜梅って本当、風味の良い食べ物ですよね〜!
そんな梅を使ったスイーツで、1番美味しいと思うのが横須賀市田浦の「ふじみや」の「梅どら」なんですが…
梅の甘露煮の入ったドラ焼きで、食べると鼻を抜ける香りがとても爽やかなんです!
ふじみや小さい店ですが、とても上品で香りの良い和菓子ばかりなんですよ〜!

この↓「へらへら団子」とか、他の店の草餅よりヨモギの香り高くて、スッゴイ美味しいのに…
「ふじみや」を切り盛りしてるオバちゃんと毎年この時期に話すと、後継者がいないと嘆いています…
息子さんが継いでくれないらしい。
この味が無くなるのは横須賀市の損失だと思う。
地域で表彰もされてるのに…

さて…
何で小生、毎年この時期に成ると「ふじみや」のオバちゃんと話すかと言うと…
その理由は、毎年、梅を見に田浦梅林に来るからです。

ふじみや は、田浦梅林の山の登山口に続く商店街に在(あ)るんです。

写真真ん中の山が田浦梅林の山。
京急田浦駅〜田浦梅林に行く時に、ふじみやを通過します。
もし田浦梅林に行く時は是非!ふじみやのオバちゃん所で「梅どら」か「へらへら団子」を買って上げて下さい!
将来、こんな美味しい物が無くなるのはのは絶ぇ〜っ対にぃイヤだぁ〜‼︎

だから横須賀市や横浜市の人!
週末に梅を観に行くなら絶対に買って食べてみて!
本当に格別に美味しいんだから!
お客さん増えたら息子さんが継いでくれるかも知れないし!

皆んな食べてみて!
食べたら本当に美味しいと思うはずだから!

田浦梅林の記事は別に書きます…
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美味しいもの に参加中!
梅干し好きですか?
小生は甘い蜂蜜漬けより、昔ながらの塩っぱくて酸っぱい本物の梅干しが好きです。
特に小田原の曽我十郎梅の梅干し。

神奈川県は梅の名産地であり、観賞できる梅林がいくつか有るのを皆様ご存知でしょうか?
現代、県内で1番有名なのは小田原市の曽我梅林です。
写真は曽我梅林。
先月28日に撮影しました。
枝垂れ梅の向こうに富士山を眺めれる素敵な場所です。

江戸時代、日本で最も有名だったのは、横浜市磯子区〜港南区の杉田梅林。
しかし…教育委員会が保護しなかった為に杉田梅林は姿を消しました。
写真は磯子区杉田の妙法寺にある杉田梅林の顕彰碑です。
江戸時代に観光地として栄えた杉田梅林を植林したのは、北条家重臣の間宮信繁公でした。
杉田梅は江戸時代に紀州南高梅より有名な梅だったんですよ!
ですから明治天皇も杉田梅林に観梅に御幸(みゆき=天皇陛下が外出なさる事)されています。
※杉田梅林関連記事は「ココ」←クリック!

現代横浜市磯子区岡村に、杉田梅林と同時期に造営された杉田梅林の飛び地、岡村梅林の一部が復興されています。
写真は岡村梅林の南側の入口です。
この岡村梅林は元々は岡村天満宮の敷地でした。
先週水曜日の時点では三分咲きでした。
今週末位からが見頃かな?
この直ぐ近所には玉縄北条氏繁公の開基(かいき=開いた)した龍珠院と言う御寺や、足利家一門(いちもん=親族)の蒔田吉良家の蒔田城も有りました。
※蒔田吉良家の記事は「ココ」←クリック!

田浦梅林は横須賀市田浦に在ります。
横浜横須賀高速道路からも見えますね。
田浦梅林は今上天皇の生誕記念に1934年に造営された、80年経った山全体が梅の木に覆われた広大な梅林です。
往時の杉田梅林を想像させる規模です。
昨年も行ったのですがデジタル写真が手元に無いので今週末撮影して来ます。

神奈川のお隣り、静岡県伊豆半島の梅林も超有名ですよね?
現代の東日本では、伊豆の方が有名かもしれません。
熱海梅園や修善寺梅林等が有ります。
熱海梅園は各種様々な梅花と河津櫻(かわづざくら)が観賞できます。
…もっとも歴史オタな小生からすれば伊豆半島は歴史的にも静岡県じゃなくて神奈川県に編入されるべき地域なんですが(笑)。

実はこれ等(ら)の梅林、なんで南関東の最南端沿岸部に集中しているかと言うと天災に関係が有ります。
そして戦国大名の北条家の政策に起因しています。

北条家の統治した南関東は水田開発に適さない土地が多く、為政者である北条家の各武将は食糧生産向上に苦慮していました。
その原因は多摩丘陵の丘だらけの地形と富士山です。
 
平安時代の富士山の噴火による火山灰堆積地層に由(よ)り、畑しか作れない地域が多いんです。
現代の降灰予想範囲を見て貰えば一目瞭然です。
降灰範囲が、正に畑文化地域なんです。
この範囲で富士山は戦国時代以前の平安時代には…
⚫︎延暦噴火800年〜802年。
⚫︎貞観噴火864年。
…以上の2回の噴火しています。
これにより生成された地層のせいの水田に不向きな土地なんですね。
余談ですが…
「かぐや姫」=「竹取物語」は成立年不明とされていますが、物語の最後に富士山名前の由来説明で火口が噴煙を上げている描写を記しているので、かぐや姫の物語は延暦〜貞観年間か、それ以後の成立と推測出来ます。

貞観噴火は貞観大地震と貞観大津波と関連が有り日本全土に重大被害をもたらした災害でした。
東日本大震災以降、地震や津波の発生メカニズムの研究対象として、地震研究者と考古学者が協力して研究している大地震です。
貞観地震と富士山貞観噴火の関係性から、東日本大震災以後、富士山噴火が警戒されている訳です。

延暦噴火では、古代、富士山北麓を抜け御殿場市を通過していた古東海道が使用不能に陥り、箱根経由の険しい現在の東海道を開拓しなければいけなくなった程の降灰がありました。

戦国時代以後も噴火しています。
江戸時代の宝永大噴火では小田原藩大久保家は藩経営不能な事態に陥り、徳川幕府が用意した代替領地に藩ごと一時期引っ越し、小田原藩約6万石は徳川幕府の元で再建されます。

今の富士山の南山麓の宝永山が宝永の大噴火当時の火口です。
まぁ、当時の江戸幕府は優秀でして…
無能な民主党が東日本大震災で始終狼狽して終わったのと異なり、江戸幕府は発災後、直ちに小田原藩領地を直轄地化し全国の大名から16万両の復興資金を集め復興政策を成功させ小田原藩に領地を返還しています。
当時の江戸市民が東京都内で体験した富士山噴火当日の様子を参考に紹介します。
この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。
…富士山が噴火すると東京都内も真っ暗に成り、大気中の火山灰同士が擦(こす)れ合い静電気で雷雲化してしまい、凄い落雷が続くみたいですね…
落雷要因の火災も頻発しそう。

さて、ここまで読んで頂くと水田耕作に関東平野南部が向いていなかった事情がなんとなく伝わったでしょうか?
そこ等辺りは、以前、平安〜鎌倉時代の武士三浦家の本拠地衣笠城の紹介記事でも書いたので御興味有れば読んで見て下さい。
衣笠城記事は「ココ」←クリック!

そこで北条家臣団による梅林の植樹が関係して来る訳です!
この殿様↑北条氏康公の時代に今の神奈川県と静岡県伊豆半島で梅林の植林が盛んに成ります。
※KOEIさんのゲーム画像だと↓コンナ感じ

関東では水稲が育てれない土地が多いので、富士山の火山灰の堆積地層の関東ローム層は古い層は赤土で酸化鉄が固まり硬く、又、新しい黒い層は畑地にしか向かない性質があります。
まぁ、長所も有り石垣を使わずとも削り込むと築城に向く地質でもある訳ですが…
そこで、北条家では梅林造営を奨励しました。
梅は関東ローム層でも植林可能です。果実が梅干しに食用加工出来るので、梅は戦時食料に成る上に、特産品として出荷も出来る訳です。

又、農業的、商業的な理由だけでの梅林造営ではなかった筈です。
北条家は元々の苗字が「伊勢」氏で、家祖の北条早雲公の家は室町幕府で申次衆(もうしつぎしゅう)と言う役職を務(つと)めたエリート官僚の家系でした。
ですから、北条家の殿様は学問を奨励した文化的素養に優れていた方ばかりで風流さも兼ね備えていた様です。
つまり現代人と同じ様に、梅林を見て観賞する意味でも植林を奨励したのだと思います。
だって綺麗だもんね?
上の写真は曽我梅林です。
北条家の家臣団は、梅林を見ながら和歌を詠(よ)んだりしたり、お酒を飲んだのかな〜?
なんか桜の花見より風流ですよね〜♪

恐らく、梅林には宗教的な意味も有ったと思います。
北条家より先に関東地方に土着し鎌倉文化の基礎を築いた平良文公の御子孫、坂東平氏の武士達は氏神様とは別に天神様=菅原道真公を崇拝していたので天神様と関係の深い梅を愛(め)でる文化が有ったのかも知れません。
※天神様と坂東平氏の関係記事は「ココ」←クリック!
鎌倉武士団は戦時食料にクエン酸と塩分を補給出来る梅干しを携行していましたし、梅林は平安時代後期の昔からいくらか有ったのかも知れませんね。

ここまで読んで頂いて、何で神奈川県や伊豆半島には広大な梅林が嘗(かつ)て沢山有り、今も曽我梅林や岡村梅林や杉田梅が残るか何となく御理解頂けましたか?

全ては北条家の大殿様と武将達の内政力を今に伝える文化遺産でもある訳です。

次回は梅花の写真を沢山載せた記事を書きますね〜!

では又、次のブログ記事でお会いしましょう♪
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