歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:太寧寺

昨日は01月13日でした。
陰暦:建久十年一月十三日
陽暦:1199年02月09日
源頼朝公
820年前の昨日、源頼朝公が“落馬”して亡くなったと歴史に興味無い人は学校が教える事実確認してない適当な情報を擦り込まれる。

実は記録上は体調不良から死んでおり即死ではない。
頼朝公妻である北条政子様の妹、稲毛重成の妻が亡くなり供養も兼ねて相模川に橋がかけられ、その橋の開通式で落馬した。
昔の人は善行を行い死者を弔う事が有った。
つまり、開通式直前に稲毛重成の妻の、つまり義理の妹の供養の宴会に参加していた事が判る。そして体調不良に成る。
稲毛重成は後に源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公に無実の罪を着せる讒言(ざんげん=他人を嵌めるデマ)を義理の父の北条時政等に言い、それにより畠山重忠公は殺害される。
更に稲毛重成自身がデマで畠山重忠を殺させたとして稲毛一族は北条家と当時はグルだった三浦家や伊豆の宇佐美に殺害される。
この時に稲毛一族を殺害して回った全員が工藤祐経公と伊東祐親公の遺産相続から発生した派閥抗争からみの人物だった。
曽我兄弟の敵討ち事件が北条時政による頼朝公暗殺未遂だと思われる一因でもある。
まぁ、この曽我兄弟事件の時は頼朝公の警護をした横浜市磯子区、歌手“ゆず”の岡村町一帯の殿様だった平子有長公の活躍で暗殺は阻止された。
そこ等辺は以前、平子有長公が開いた岡村天満宮の紹介記事でも触れている。
記事リンク⤵️
頼朝公の死亡の様子は小生は医療の専門化でも無く専門知識も無いが“落馬”する程の宴会からの急な体調不良は毒殺未遂だろう。
そこから急死してるので落馬に見せかけた脳挫傷や何かなら体調不良後→撲殺だろう。
“落馬”とされた相模川の橋の上の事件当時の随兵(親衛隊)が頼朝公を守れなかったと北条時政等幹部から言いがかりで、その場で全員粛清されてる。
これは随兵は戦闘に巻き込まれ殺害されていると考えた方が自然だろう。
状況的に法要の席で食事に混ぜたヒ素での暗殺が失敗し翌日式典で前後から視界を隠せる橋の上で随兵もろとも撲殺暗殺されたんだろう。 
実は頼朝公の没後に跡を継いだ御子息の源頼家公も同じ様に不可解な体調で危篤(きとく=意識不明)に成った事が有る。
そして頼家公は奇跡的に回復してから己が母方の北条家に暗殺されかけたと断定し「北条家討伐の密命」を和田義盛公等に出しているが、和田義盛公は三浦一族、そもそも、この時点で北条家のグルとまではいかなくても身内の三浦や縁の有る北条家を討つのに躊躇(ちゅうちょ)したのだろう。
和田義盛公の築城した城の造りは平安末期~鎌倉時代初期とは思えぬ、戦国時代の縄張りに酷似しており、所領は少なくとも街道に通行税を取り立てる関所を設けたり室町時代の武将の様に貨幣経済の概念を持っていたり理知的な人だった。だから和田義盛公は頼家公の密命の真相を“公平に確認しようとし”て北条家に密書を見せてしまう。
結果的に頼家公は北条家に薬殺ではなく、今度は入浴中に首を絞められ中々死なないので局部を切り落とされた挙げ句に惨殺される。
この直前、源頼朝公や頼家公が頼りにしていた比企能員公や梶原景時公も畠山重忠公同様に謀殺されている。
完全に計画的な将軍家潰しだろう。
欲にまみれた老害の北条時政とその子等が工藤兄弟や伊東祐親公の遺恨を利用した頼朝公暗殺による幕府横領を三浦一族と共謀したと考えた方が自然だろう。
そして、その陰謀の一つ畠山重忠公謀殺の実行犯が稲毛重成で稲毛重成の亡妻の父が北条時政に当たる。普通に考えて頼朝公は稲毛重成や北条時政に毒を盛られ暗殺未遂が起き、相模川の橋の上で護衛の武士もろとも殺害されたと考えた方が自然な訳だ。
そして全てを知る稲毛重成も謀殺された訳だ。

まぁしかし、北条家が天下を掌握しなければ北条時宗公は生まれなかったので、元寇から日本を守ったのは北条家とも言えるし、その政権の形を作り武士文化を生み出した源頼朝公はやはり偉大な人物だし、源頼朝公を初期に助けた最大の功労者の三浦義明公や三浦義澄公がいたから鎌倉幕府は成立した。
誤解される人も多いが実は源頼朝公は非常に恩情深い。敵対しても必ず事情を聞くし、相手側にやむを得ない事情が有り自分に矢を向けた武将も許し信頼し重用しているし、助命する事も多々有った。
畠山重忠公、伊東祐親公、大庭家なんかはその典型だ。
しかも頼朝公は口説いた女性は皆必ず大切にした。
決して冷淡な人ではなく理知的で人情にも厚い人だった。
逆に善玉と誤解する人の多い源義経は部下の手柄を自分手柄の様に報告するパワハラ、当時の武士は正義と礼儀が重要なのに戦いで打ち負かした敵の平家側の非戦闘員の女性をレイプした事がレイプされた女性の記録に残ってたり、口説いた愛人は何十人もいたり、その何十人の愛人を京都から逃げる時に同行させたのに脱落者を助けず見捨てたり。
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写真は金沢区の太寧寺。
別の弟の源範頼公は秦の翦将軍並みに優秀な大将だった上に、北関東の武士団に強く支持されていたので北条家や三浦家の南関東派閥から警戒され蟄居させられた上に、横浜市金沢区の太寧寺で自害に追い込まれた。
大寧寺の記事でその事は紹介しているので、興味の有る人は記事の下の“タグ「太寧寺」「源範頼」”をクリックすると太寧寺の記事を読めます。

色々、思惑が有り人の評価はねじ曲げられる。

一人一人の不幸なボタンの掛け違いが頼朝公暗殺や頼家公暗殺に繋がってしまったんだ。
ボタンの掛け違いは必ず最初からかけ直さないと大事故大事件に繋がる典型が源頼朝公の回りで起きた事件。

820年前の昨日はそんな日でした。
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さて、歴史が好きな人も嫌いな人もいると思いますが、皆さんは源頼朝公の弟で名将だった源範頼公を御存知でしょうか?
源範頼公
この人は兄である源頼朝公から軍才を信頼され、実際は源義経よりも高い統率力を発揮した名将でした。しかし恐らく源頼朝公をヒ素で暗殺した北条時政やその婿の稲毛重成、北条政子様と北条義時公の北条一族の謀略に巻き込まれ横浜市金沢区で自殺して生涯を終えた悲しくも潔かった私利私欲の無い名将です。この人がいたから鎌倉幕府は樹立され、その後にモンゴルと朝鮮人の元軍による侵略から我々の祖先の命は助けらた訳です。
だけど範頼公は死して尚、現代に至っても昭和期にバカ共のせいで悲しい目に遭っている悲惨な偉人でもあります。
今回はこの名将の菩提寺の紹介と歴史変遷の解説を書きます。
小生は❝中道保守派❞の人間なので平素よく日本文化を軽視し自然破壊する土建屋と結託し在日ヤクザ勢力を批判しない左派思想分子を批判しますが、今回の記事はこの偉人と御寺の歴史を通じて盲目的な右派に釘を刺し批判する事を書く事にも成ります。
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以前、欧米諸国の軍人さん達からその存在を称賛されている世界三大旗艦の一つ戦艦三笠の解説記事で書いた事が有るのですが、宗教を国内統制に悪用した一夕会独裁の昭和初期の軍事政権下の軍幹部は口では神に対して信仰を持っている様な事をのたまいながら大部分の連中は古来の神道に対する信仰心も日本文化を醸成して来た仏教文化に対する敬意も微塵も無く、国家神道と言う新興宗教に造り変えられた日本の神々を崇敬する様な事をしながら倒幕志士世代明治の政治家や軍人には実際は全く信仰心が有りませんでした。
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戊辰戦争世代の明治の帝国海軍軍人達は日本文化や古来の神様に対する崇敬の念が深く、奇跡的にロシア帝国に勝利した対馬海戦時の旗艦だった戦艦三笠は❝八幡大菩薩❞の神名で神仏習合時代の古来の文化で応神天皇に習合された水神様の御分霊や伊勢神宮の天照大御神の御分霊を戦艦内に祀っていました。
だから海軍設立の立役者に等しい坂本龍馬サンの奥さんの❝お龍サン❞が亡くなった際、横須賀市大津の信楽寺で海軍の軍人達が集めた寄付金によって仏教形式でお龍サンの葬儀が行われ墓所が造られました。
又、明治時代初期にプロテスタントに改宗したキリスト教徒日本人政治家達によって宗教改革や軍政が行われ日本神話の神様も弾圧されました。日本神話でとても重要な役割を果たしている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の夫婦神が滞在した三浦半島横須賀市走水の旗山崎、御所ヶ崎には弟橘姫を祀る神社が有りました。
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写真の船溜まりのある半島状の土地が御所ヵ崎です。
しかしこの御所ヵ崎、山県有朋と言う長州人の陸軍人の後に政治家に成る腐敗分子による立案で猿島や観音崎砲台が整備された際に、弟橘姫を祀っていた橘樹(たちばな)神社は破壊され砲台が据えられてしまいました。
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旗山崎こと御所ヵ崎に隣接する展望台からは三浦半島の海岸線の先に富士山と大山を眺める事が出来ます。
この御所ヵ崎の橘樹神社を破壊させる砲台建設をさせた山県有朋はクソ野郎で、明治時代に議会制民主主義導入されるまでの合議制時代、陸軍人だった頃に現代の貨幣価値で軍の予算120億円相当を着服し勝手に民間企業に投資した腐敗した政治家でした。しかも腐敗が発覚した際に命まで奪わなかった上官の西郷隆盛公を結果的に殺した人物だったりもします。
そんな明治時代の日本の神様や仏教の仏様を愚弄した蛤御門の事変や倒幕を経験した世代の利権主義腐敗政治家や腐敗軍人達に異を唱えたのが戊辰戦争世代の明治~大正に活躍した世代の軍人サン達でした。
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幕末~明治初期に活躍した外国かぶれ世代の軍人政治家達によって橘樹神社等の日本武尊と弟橘姫が滞在した行在所(あんざいしょ)だった神話の聖地が破壊されると、それに心を痛めた戊辰戦争世代の東郷平八郎元帥達によって神社を潰されてしまった日本古来の神様達の御神霊は走水神社本殿に合祀されたり奥宮と言う形式で走水神社背後の山に遷宮され祀られました。
その東郷平八郎元帥が司令官として乗艦したのが戦艦三笠だった訳です。ですから戦艦の守護神に神仏習合時代の習慣の御神名で❝八幡大菩薩❞が祀られていたんですね。
しかし昭和に成ると明治の腐敗政治家を批判して始まった一夕会と言う組織が台頭します。その組織を大戦末期に牛耳っていたのが東条英機等で、彼等は元々明治の元勲達の利権政治を批判して大義名分を得ていた筈が結局自分達が権力の座に着くと独裁政治を始め戦況報告ですら事実を伝えなく成りました。彼等の政治組織は軍人の任命権を独占し悪用、軍事政権が打ち立てられるのですが、彼等は共産主義者を弾圧しながら行った政治は計画経済、配給制度と共産主義その物、つまり同族嫌悪に等しい左翼弾圧を行い更には古来の神道も仏教も否定したり軽視した軍人を増産していった訳です。
大戦末期の右翼と左翼は天皇家を利用したいか排除したいかの差は有れど本質的にやってる事は何も変わらんかった訳です。
無論、井上成美先生の様に中道派の真ともな軍人さんもいた事も無視してはいけない事実です。
これは小生達生粋の古来の豪族の血を引き、天皇家と同じ神仏習合の日本宗教観を大切に思う保守派である本物の日本人から見るとチャンチャラおかしい政治で、一夕会のやった事はとても保守派とは言えませんでした。
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さて数年前、神奈川県立歴史博物館でも展示されたり小生が今から話す事と同じ内容の歴史事実の解説も行われましたが、第二次世界大戦で日本がアメリカに唯一勝機を見出す戦いで決選兵器となるべき戦艦大和の不戦撤退があった事は有名な話です。
実は、その当時の戦艦大和は東郷元帥達明治~大正時代の軍人達が見たら昭和の軍人を怒り罵倒しながらドツキ回すであろう状況に成っていた事を知る人は多くは有りません・・・
実はこの時、戦艦大和は海軍幹部達によって撃沈されたら困る内装の❝高級ソファー❞や守り神である❝神様達の御分霊❞が撤去されていたんですね。
・・・つまり対米戦線の火蓋を切った昭和の軍幹部、一夕会の影響下での出世に靡いた連中は❝最初から勝つ気も日本人を御守り下さる神仏に対する信仰心も無く負ける事を考えていた❞事が戦艦ヤマトへの❝仕打ち❞で証明出来る訳です。更に彼等は口先では国民や軍の低階級指揮官には「負ける訳が無い」とデマを流しながら自分達の司令部は海軍なのに海の無い慶応大学日吉キャンパスの地下に造られた地下道塹壕網の中に引き込もらせ空襲を警戒したり、最初から完全に勝つ気なんか無い癖に自分達の身体だけはシッカリ守ろうとしていた訳です。
マジで保守派から見れば勝つ為の信仰も捨て、不利な現実を直視し落し所を見つける努力もせず、下級職の部下を使い捨てにして、本当に統治崩壊していた訳です。
さて、今回紹介する御寺はアホな小説家達のせいで愚鈍なイメージで演出され、それを自分で検証確認もせず妄信する阿呆な半端な歴史好き共に実績を無視された平安時代末期の悲劇の名将❝源範頼❞公の菩提寺の御話ですが、その御寺は一夕会軍事政権の政治のせいで今では凄く解りずらい場所に在ります。
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御寺に行くには京急の隧道をくぐって、横浜市金沢区片吹と言う場所の住宅街の奥の谷地形まで行かなければいけません。横浜市歌を歌える生粋のハマっ子でも国道16号線が通り、一般住宅が立ち並ぶ普通の住宅街のイメージしか湧かない人の方が多い場所で、地元民でも無いとそこに由緒正しい御寺があるなんて気づく事も出来ません。昔は関東学院全ての敷地が広大な御寺の境内地だったのに昭和の一夕会軍事政権のせいで今の狭い敷地に不幸な移転を強要され縮小させられた凄い歴史偉人、源範頼公の菩提寺が在るんです。
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海蔵山 太寧寺その御寺の名は海蔵山太寧寺と言います。名将源範頼公の菩提寺で臨済宗の元大寺院でした。
元は今の関東学院の埋め立て地を除いた全域が境内地だったですが、今では無残な程に縮小されており小生は昭和の軍幹部と、敗戦後に寺境内地を勝手に登記する詐欺的な連中とそれを容認した明治大正生まれ世代で横浜市役所に勤務したクソジジイ共に殺意に等しい怒りを感じます。
そもそも源範頼公は源頼朝公の弟と言うだけでなく御自身が名将だったのに阿呆な江戸時代や昭和の小説家の演出を妄信する馬鹿共のせいで愚将のイメージを持つ奴ばかりで歴史事実と乖離した悲惨な待遇を現代人からも強いられています。
実際は実戦経験の豊富な平清盛や平宗盛旗下の平家軍を相手に堅実に大損害を受けずに勝ち続けた源氏勝利の立役者が源範頼公の実像で、兄君の源頼朝公も生前は範頼公を深く信頼していました。
源義経が名将の様なイメージで評価を混同する馬鹿が多くいますが、一之谷の合戦でも準備万端な平家軍を釘付けにして損害を最小に抑えたのは範頼公の統率力と作戦に由(よ)りますし、そもそも鵯越の逆落としと呼ばれる作戦を立てたり実行したのも源義経ではなく横浜市都筑区の茅ヶ崎城主だった多田行綱公と、名軍師で三浦一族だった三浦半島横須賀市佐原城主だった佐原義連公の功績による物です。
その作戦を採用したのが当然ながら源範頼公だった訳で、源義経公はその実行部隊の隊長を任せられて多田行綱公と佐原義連公の御膳立てに乗っかり、頼朝公の与力の名将、土肥實平公や畠山重忠公や熊谷直実公が軍勢を統率しての挟撃作戦成功に他なりません。
太寧寺周辺 久良岐のよし
そんな名将、源範頼公の菩提寺の太寧寺は現在では❝絶対に太平洋戦争中迄は全てが境内地だった狭い谷間❞の中に在ります。
しかし、この狭い谷間さえ戦後の混乱に乗じて土地が何某の連中に登記され宅地開発されてしまい見る影も無く縮小、御本堂と御住職の比丘尼様の住む庫裡が有るだけに成ってしまいました。境内の庭すらロクに有りません。
この御寺が移転縮小させられた原因は小生が批判する昭和の一夕会政権に責任が有ります。
昭和の一夕会政権下の軍幹部達は各地戦線の不利を正しく天皇陛下に上奏せず隠蔽し、しかも負けるが前提の勝つ作戦や落し所を合理的に見出す精神論では無い作戦とは乖離した、実際は逃げて回り兵站(へいたん=食糧軍需品の輸送路とその中継基地)すら確保せず兵糧も補給できない状況も直視せず末端の兵士を使い捨てにした現実逃避の隠蔽主義で軍政を行っていました。
自分達の司令部は横浜市港北区日吉の慶応大学地下に作ったり、東京都の高尾山の山中地下に作ったり、自分達の身を隠す事に執着しながらも、その圧倒的不利を直視していなかった訳です。
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そして自分達の身を守る為だけに首都東京の制空権を守ろうとして横浜市金沢区野島に零式艦上戦闘機通称❝零戦❞の格納庫がわりの大地下壕を建設開始します。
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その為に現在の日産追浜工場とテストコースとなった横須賀飛行場の拡張工事も始めました。
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金沢区は金沢八景の名で景勝地として知られた場所だったのですが、アホの昭和の軍事政権下の軍幹部と、戦後のアホの市長の政策で京都の天橋立以上に美しかった海や島々や半島が無残に埋め立てられてしまいました。この太寧寺もそんな一夕会軍事政権の❝現実逃避作戦❞と宗教に対する文化と信仰心の欠如で拡張された横須賀空港の犠牲と成りました。
太寧寺旧蹟周辺 久良岐のよし
太寧寺は元々は瀬ケ崎と呼ばれた土地だった関東学院小学校の敷地に在りました。
瀬ケ崎時代の太寧寺
そして今の日産の工場一帯と一緒に空港拡張の為に臨済宗の大寺院として各時代の歴史偉人達に大切に保護されて来た歴史を無視され、現在の片吹の奥の谷間の狭い敷地に追いやられ、その時に範頼公の墓所も止む無く一緒に掘り返されて現在地に墓石と一緒に移転して来ました。
しかも!例によって終戦直後に信仰心の無い左翼建設利権や外国勢力の強い横浜市は多くの神社仏閣の境内地が勝手に地元民によって土地登記されてしまい、縮小し衰退した場所が多く、太寧寺も例に漏れず現在の惨状と成ってしまいました。
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由緒ある御寺なので、源範頼公の菩提寺として鎌倉幕府執権北条家からも支援を受けていた為か御寺の寺紋も〇の囲いの無い三鱗紋の使用を許されています。
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小さくなっても文化を大切にしている御住職の比丘尼様の趣向で掲示板には博物館の広告も掲示されています。
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他にも、その日の法話みたいな良い心構えが掲示されていました。ここの御住職の比丘尼様は若かりし頃インドやタイやスリランカにも仏教寺院に留学したり、偉人の顕彰活動に訪れていた活動的な方でした。
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だからこそ源範頼公の菩提を弔うのに相応しく、座禅会を開いて御近所の子供に精神修養の機会を与える役割を担うのに相応しい人物ですね。
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御寺の規模は本当に往時の様子を窺い知る事は出来ません。
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でも御近所の子供のいる御父さん御母さんにとっては親しみ易い御寺として機能しているみたいです。
小生が訪問した時も御住職様が御菓子を出してくれたり、色々と熱心に説明して下さったり、若い頃の話をして下さったり・・・
「あなた、私の名前を出して良いからタイに留学しなさい。論文のコンペに出なさい」
・・・と言われてしまいましたが、すみません比丘尼様。小生俗物なのでこの間頭丸めるのが嫌で別の御寺で「寺継がない?」と言われたのを御断りしたばかりなんです(笑)。
そう言う貴重な機会は真面目に修行してらっしゃる御寺の跡継ぎとして修行している若様達に差し上げた方が宜しいかと思います。そもそも小生は神社も好きなので御寺だけは無理ぃ~(笑)。
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本堂の左手には今では見かけない井戸が現役で使われていました。
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その更に右手奥に、凄く窮屈そうに源範頼公の瀬ケ崎の丘から御引っ越しして来た御廟所が在りました。本当に現実逃避せず多数派に流されず自分で分析する軍人サンだったら源範頼公の功績を理解できて、こんな酷い扱いをしなかったはず。
終戦直後の横浜市の役人も同じ様に谷間の元境内地の住宅地登記を認めた罪は重い。

源範頼公の能力は中国の将軍に例えれば秦の王翦将軍に等しい素晴らしい物だっと小生は思います。
もっと大切にされて然(しか)るべきだと思う。

さて、この太寧寺みたいに今は小さく成っていても凄い歴史偉人と関係の深い神社や御寺や城跡の公園や山がきっと皆さんの家の御近所にも有る筈です。
だから皆さん、御近所御散歩して神社や御寺や城跡の公園や山の看板を少し読んで見ませんか?
そうすればきっと皆さんと歴史偉人を繋ぐ場所にそこが成って、自分の地元に更に愛情も湧くかも知れません。
そして、多くの苦労や悲しみや少しの成功と喜びを積み上げて今の私達の生活を作ってくれた先人達に感謝の気持ちを伝えてあげて下さい、きっと歴史偉人や神様や仏様も喜んで下さると思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪







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