さて、皆さんは川崎市に井田城と言う名の御城が存在した事を御存知でしょうか?
実は戦国時代の川崎市を含む多摩川と鶴見川の流域一帯には沢山の御城が存在していました。
井田城と言うのは、その中の鶴見川の支流である矢上川上流を抑える御城で、水運を利用する物流の要所だった事が窺(うかが)い知れます。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
今では養護学校や宅地化によって城址としての遺構は乏しくなってしまいましたが、要害性在る高い断崖の上の台地が城域に成っています。
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落ちたら死にますね(笑)。
さて、この御城を目指すには“セブンイレブン川崎市井田2丁目店”さん横の神社を目指すと解り易いんでです。

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まぁ、セブンイレブンを目指せば良いんですが、何故(なぜ)この神社を目標に指定したかと言いますと、その先に在る井田城の“大堀切らしき地形”に行く事が出来るからです。
井田城址地形 久良岐のよし
このGoogle earthの立体地形画像だと大堀切の地形は良く解りますが更に地形が解り易い国土地理院の色別標高図を重ねて見ましょう!
井田城址地形図推定縄張り 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して見て下さい。
この画像で示した人口地形へは神社からだと“井田さくらが丘公園”を目標に進むと、丁度、その人工の大堀切跡と思しき住宅街に辿り着く事が出来ますよ~。
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まぁ今では宅地化されてしまい標高差にしか面影は有りませんね。
こう言った地形を読むには等高線の有る地図を見たり、事前に国土地理院の標高図を見て置くと非常に参考に成ります。
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まぁ、そこら辺は自分で歩いて見て下さい(笑)。
一応、セブンイレブンからの順路のGoogle mapのナビ画像を添付して置きますので参考にして見て下さい。
井田城推定大堀切地形への順路 久良岐のよし
※水色の点線が当該の地形の北端を通るルート。
小生もこの周りを大分グルグルと周りました。2014年当時妹夫婦が小田中に住んでいたので、以前から井田城に興味が有り訪れて見たかったので行ったら宅地化されてるわ、台地上の城址は昭和の農地改良で削平されて大半が無いわでガッカリしましたが、それでも神庭緑地と言う地域に行くと幾(いく)らか城址の名残が有りました。
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同地は古墳などもある古代の遺跡でもあります。
実は、この一帯は古代の早い内から開けており日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と御妃様の弟橘姫(オトタチバナヒメ)様の神話の土地でもありますが、そこら辺は以前に記事に書いているので御興味有る方は以下のリンクから過去の解説記事を御覧下さい。
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川崎の橘樹神社の記事リンクimage
横浜の宝秀寺の記事リンク
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三浦半島の走水神社の記事リンク
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相模原の石楯尾神社の記事リンク

さて、井田城址の神庭緑地に関して話を戻すと・・・
小生達歴史オタクや城址オタクから見ると土塁にしか見えない場所には教育委員会の説明では古墳とは書いて有りました。
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城郭ファンには土塁と見張り台の跡にしか見えない。まぁ円墳を繋げた可能性は高いし実はこの古墳群は先程見て頂いた断崖の縁(へり)に沿って築かれていて、教育委員会が気付いているとは思えないが、この位置には大変重要な意味が有る。
橘樹神社と蟹ヶ谷古墳群の位置関係 久良岐のよし
実は断崖の縁に古墳を築く事で、日本武尊の御妃、弟橘姫様の古墳を背後に抱える橘樹神社を遥拝出来る。
井田城址蟹ヶ谷古墳群と弟橘姫御陵の位置関係 久良岐のよし
そして橘樹神社は三浦半島の走水沖で海を鎮める神事の為(ため)に入水自殺し人柱に成った弟橘姫様の髪飾りの一つが流れ着いた場所と伝承しており、この矢上川流域は弥生時代後期まで大きく東京湾が入り込んでいて現在の川崎区や中原区の平地部分は海だった事が推測されます。
つまり、この神庭緑地に古墳を築いたのは海を治めた古代の弟橘姫と同族の豪族達で、その古墳群が室町時代の井田城築城時に土塁で連結されたのでしょう。
橘樹神社は橘樹郡の郡衙(ぐんが=郡庁舎)の跡と推測されており、小生の推測と神話では井田城址と橘樹神社の間の湾曲した丘陵地帯は文字通り“曲がった海”=“湾”だった筈です。
実は小生と同じ事を考えている人達が居て、その人達は“考古学者ではない”のだ(笑)。地質学者の人達なんだな。
そこ等の海底の陸地化の速度は以前の休日雑記の“諸磯隆起海岸”の訪問時の解説で触れているので、興味の有る人は小生の取材の様子を過去記事で見て下さい。
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●諸磯隆起海岸と海底の露出速度の解説記事リンク→
小生や地質学者は神話と地質を合わせた意見から土地の隆起速度や土砂の堆積からの陸地化の速さに対して弥生時代の海の範囲を考古学者よりも内陸に予想している訳ですが・・・
陸の隆起の速さと海が川の土砂か古代人の埋め立て工事で海の陸地化が早かった事を証明する様な記事が室町時代の文書から垣間見えます。
江戸時代には陸地に成っていた川崎市の砂子、つまり堀之内地区より南側は海だった事が太田道灌公の書いた日記に記されているんですよ。そして標高にも曾(かつ)ての海は見てとれたりします。
下の色別標高図をGoogle earthに張り付けた画像をクリックし拡大して御覧頂ければ一目瞭然。
川崎市川崎区周辺の海抜0m地帯 久良岐のよし
色別標高図で青で表示されている場所は海抜0m地帯です。
海抜0mと言う事は標高が海面より下に有ると言う事に成るので津波が来たり多摩川や鶴見川が増水して堤防が決壊したら水没し壊滅し死傷者が多数発生する可能性の高い地域です。
なんでコンナ地形が出来てしまったかと言うと大河川は昔は自然に氾濫して長い時間をかけて継続して土砂が堆積して行きどんどん陸地が広がって行くのが普通なのですが、江戸時代に成ると治安も良くなり幕府は治水等に力を注ぎ都市や耕地を拡充する余裕が出て来た訳です。そして大河川に堤防を築くと川は氾濫出来ずに横に土砂を広げる事が出来ずにドンドン川底に堆積してしまい川が浅く更に広く成ってしまいます。すると人間は更に高い堤防を築いて更に川が地面よりも高い位置を流れる様に成ってしまいますが、この様な川を“天井川”と呼ぶ事は中学校の授業で皆さんも習った筈(はず)です。
そうすると堤防の内側の人工的な陸地や土砂の堆積で陸地化した場所の内で標高の低い所は、自然に標高が高くなる機会を失ってしまい、この様な危険な0海抜地帯が出来てしまう訳です。
東京都江東区の深川や越中島や門前仲町界隈の隅田川沿いなんかは0海抜地帯だらけなので、ありとあらゆる水路に防潮堤や水門が築かれていたりします。
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こんな感じの水門ですね。
多摩川や鶴見川下流の川崎界隈は、昭和の埋め立て工事以前から川崎市一帯は鶴見川と多摩川の土砂の堆積や江戸時代の埋立地の拡大で恐ろしい速さで海岸線が後退して行った様です。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
※画像は小田原市の神奈川県立生命の星・地球博物館様が作成された縄文時代の海岸線の図をGoogle earthに重ね古代から存在する神社を表示した物です。
この画像で神奈川県域で内陸で白に塗られた地域が縄文時代の海岸線です。これを見ると橘樹神社や井田城址辺りの丘を除いて川崎市の中原区やや幸区や川崎区は古代には見事に海底だった事が判ります。
そして、古代に海底だった大河川の氾濫原に出来た平地は守備に不向きで築城には不適当な地形なので、古代の海岸線のリアス式海岸だった丘陵沿いに当たる井田の断崖の地に城が築かれた訳です。
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崖の上から住宅地の有る平地までは余裕で20m以上有るだろうか?傾斜角度も70°近いので甲冑を来た武者は登れなくて当然、健脚の農民や漁師ですら登る事は困難だろう。
そして目の前には矢上川が流れ、険阻な真に城向き地形をしている。
さて、この井田城址の神庭緑地内には城の遺構と思われる地形が土塁の他にも残っていました。
竹林は大堀切でそこから竪堀状に下に下っている地形に成っています。

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ここの説明から発掘調査には城郭専門家が加わっていなかったと推測出来るのですが、教育委員会の説明には空堀等の説明も無いんです。
まぁ、やっぱり発掘調査に神奈川県が例によって城郭の専門家を入れなかったんでしょう、宅地開発利権の為に。

さて・・・
以下は文字だらけに成りますが戦国時代の文書と江戸時代の文書の記録から、この御城に住んでいたのが一体誰だったかを予想してみましょう!同地は小田原所領役帳と言う文書に地名と武士の姓が登場します。
その小田原所領役帳には・・・
「拾(10)貫文 井田 沼上」
・・・と記録されている。
つまり姓が沼上で名は不記載の人物が治めたらしいですね。しかし新編武蔵風土記稿を読むと「中田加賀守の住した場所だった」可能性も指摘されています。しかし「世田谷の吉良家の与力だった」と否定的な見解も添え書きしてあります。
戦国時代に現在の川崎市域を含めた南関東一帯を統治した大大名の北条家ですが、この新編武蔵風土記稿を書いたのは北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信です。つまり、新編武蔵風土記稿の内容は間宮家の認識と成ります。

この中田加賀守の所領も又、小田原所領役帳の小机衆の一覧に記載が有ります。
その所領は・・・
「拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
・・・と記載されています。つまり小机城を拠点とした小机衆の軍事管制域内だった様です。この地域を守備していたのが北条幻庵公や北条氏尭公と小机衆の拠点の小机城城代家老だった笠原信為公である事が判ります。
しかし、江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
つまり、中田さんは初期段階で太田康資公の直臣だった事が解り、江戸衆であった事も同時に解ります。
これ等の記載が登場する小田原所領役帳と言う史料は永禄二年(1559年)以後に編纂された物で、その資料の前後の期間の知行地に関しては不明。少なくとも1559年以後の数年間は中田加賀守は小机衆で矢上城に本拠地を置き井田には住んでいなかった事が判ります。しかし小田中は上小田中が蒔田吉良家の所領で下小田中が中田加賀守の所領なので御当地は吉良家の所領と接している事実も有ります。井田城と同じ川崎市中原区に存在する福聚山全龍寺と言う御寺は元々は蒔田吉良家の家臣が開いた御寺として有名です。
そうなると時代背景的に1559年頃の当主の吉良頼康公より以前の吉良成高公の頃の吉良家の版図と、吉良家が吉良氏朝公の代に世田谷城に拠点を移して世田谷衆が編成されているらしい史実を考えると、小田原所領役帳より以前か以後に中田加賀守が当地を治めた可能性は有る訳です。
若しくは沼上が中田加賀守の与力に編入され更に中田加賀守自身も吉良氏朝公の与力に再編されている可能性も有ります。
実は、この周辺は元々の戦国時代初期には太田家の統治下だった可能性が高く有ります。中原街道一帯~小机城址へ至る神奈川県東部沿岸部を太田家は自由に行き来していますからね。そして蒔田吉良家の所領だった横浜市南区蒔田と当時は蒔田湾(今の横浜市の吉田新田埋立地)を挟んで対岸の南区太田には太田道灌公の屋敷も存在しました。つまり江戸時代まで橘樹郡、都築郡、久良岐郡と呼ばれた川崎市~横浜市鶴見区~西区~中区~南区には太田家と蒔田吉良家の所領が入り乱れて存在していた様です。
そして蒔田吉良家の吉良成高公と太田道灌公が親友だった事も万里集九と言う禅僧の文化人が書いた“梅花無尽蔵”と言う文書から解っています。
だから太田道灌公の子孫の太田新六郎康資公の与力だった中田加賀守家は、安土桃山時代には勢力縮小していますが代々太田家の有力武将で奉行や代官の様な存在だった可能性が有ります。そして井田城の沼上家は旧中田家臣で太田康資公の謀反後に旧太田家臣団が小田原北条家の直臣や各軍団に再編されて行く中で中田家臣から北条直臣に分離され北条家親族に属す御家中衆に成り小机衆の与力に編入されたた可能性が有ります。

新編武蔵風土記稿には以下の記載が有ります・・・
「此所をいりの上と云。五町四方ばかりの間にかたち残れり。
 (1)されど何人の居城なりしことをしらず。
 (2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
 (3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし」
・・・とどのつまり、江戸時代に中田加賀守と同じ旧北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信が江戸幕府官営の昌平坂学問所頭取として編纂した新編武蔵風土記稿編纂時にも「中田加賀守が住んでいたらしい」と口伝は周辺の村民に伝わっていたけれど遺物が無く何の確証も無かったらしい事が読み取れます。
少なくとも北条家の最期には中田加賀守は本領の矢上(慶應大学日吉キャンパスを含む周辺一帯)に城を築いていた事が判っています。北条家臣団の研究で有名な盛本昌広先生の書いた論文にも中田家の事が詳細に紹介されていますで、興味が有る人は慶応大学に問い合わせて見て下さい。
さて、恐らく井田を領した沼上と言う姓の武将を含めて周辺一帯の武将の寄親(よりおや=上司)として中田隊みたいな部隊が編成されていたので、江戸時代の伝承が残ったのだろうと言うのが小生の推測です。
そもそも所領役帳で中田加賀守は”御家中衆の中の小机衆”つまり北条氏康公直臣として小机衆与力に編入されているので、間宮士信サンの間宮家に伝わっている認識は所領役帳以前か以後の話である証明にも成ります。でも、江戸衆の太田康資公の与力としても記載が有ります。多分、永禄五年(1562年)に太田康資公は北条家に対して謀反を起こしているので、その際に本来は太田家与力だった中田加賀守家も巻き込まれ川崎市~横浜市北部にかけて大勢力を持っていた代官だったかも知れない中田加賀守家は北条家による太田家懲罰に巻き込まれ代官を解任されたり所領を削られたりしたのでしょう。
その混乱が伺えるのが中田加賀守の所領が“御家中衆(北条家直属部隊)”と“江戸衆 太田新六郎知行”の両方の部隊に分かれて登場してしてしまっている矛盾です。江戸衆太田隊が解体され、部分的に小田原北条本家直轄部隊に再編成されている事が予測でき、その短い期間に起きた太田家謀反事件のせいで両方の所属が併記されてしまっているのでしょう。つまり現代に写し本が伝わる小田原所領役帳は1559年~少なくとも1562年以降の年間に渡って検地(けんち=武士の所得調査)が行われて纏められた文書だと言う事が判ります。当然、これ以降に新しい検地帳も編纂されたでしょうが現存していません。
因みに、横浜市港南区野庭に移住し北条家臣化した千葉県の臼井城主の千葉家支族の臼居家と言う比較的高貴な家には中田加賀守の姫が嫁いでいます。
つまり中田加賀守家は少なくとも元小大名クラスと対等の家格を有していた証明にも成るんだな。

尚、新編武蔵風土記稿の解説に振った( )の数字で区切った内容を解説すると・・・
(1)されど何人の居城なりしことをしらず。
→実際の所は誰が住んでたかワカンねぇ~よ(※江戸時代時点)。

(2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
→ここの地下からツボの形したのとか色々な陶器が見つかるんだよね。
※実は井田城址は神庭緑地と言って古墳時代の史跡でもある。間宮士信さんが陶器と言ってるのは江戸時代には井田城址の古墳時代の墳墓群や住居跡が畑地化されていて古墳時代の須恵器の土器の破片や土偶を農民が良く見つていたのを報告として受けて記録したんだろう。

(3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし
ココは北条家臣の中田加賀守の居た所だったかもだけど、伝える処(根拠)も無いから、ちょっとしかワカンね(笑)。
・・・こんな解説をしてらっしゃいます。

野庭城城下の臼居家を紹介した記事も以前に書いているので良かったら以下のリンクから御覧下さい。
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●臼居家の御子孫が営むcafeを紹介した記事リンク→
野庭神社の位置 久良岐のよし
●臼居家の居館の裏に存在する鎌倉時代~戦後時代の野庭関城と、そこに近年まで存在した旧:野庭高校の実話のTVドラマを紹介した記事リンク→

中田家に話を戻すと、小生の推測では中田家は代々の当主が加賀守を名乗った可能性も有るので中田加賀守が一人だとは限りません。
そして中田加賀守は吏僚として活躍している事も判明しているので、最初は江戸衆の江戸城城代太田家の家臣だったのが太田家謀反後に太田家臣団が解体され北条家直属の御家中衆を経て、間宮士信サンの認識の通り再び蒔田吉良家の北条家臣化後の部隊再編に伴って世田谷衆とも言うべき吉良家与力に再編された可能性も高い訳です。そして、その頃の居城が慶応大学日吉キャンパス一帯に在った矢上城だった訳です。
井田城址の前を流れる矢上川の下流に矢上城は存在しており鶴見川の水運を運用するに非常に便利な場所でした。
余談ですが日吉キャンパスは昭和にも重要な軍事拠点化して、海軍の参謀本部として大戦末期に地下基地が築かれており、その空気孔が石原裕次郎さんの映画にも映り込んでいたりします(笑)。

とどのつまり、中田さんが統括した沼上さんの所領だったのが井田城周辺って小生の説が一番自然な訳です。吉良氏朝公の時代の話に繋がっていくか、北条氏綱公の頃の古い話って事でしょう。

さて、歴史は記録に残っている事や発掘済みの場所の史料だけが全てでは無い事が良く解るのが、この川崎の謎の城、井田城址です。

きっと皆さんの御近所にも御城の跡の山や御寺や神社が有る筈(はず)です。その城跡は神様や仏様が祀られて昔の善政を布(し)いた北条家臣団の領主が民を守った様に、殿様達は神様仏様を通じて今も皆さんを守ってくれているかも知れませんね。
そして神社や御寺や城山には今も緑が多く残る場所が有り、散歩するだけでも気持ちが良く成ります。
皆さん、是非、御城の跡や神社仏閣を散歩して先人の武将達に御礼を伝えてみませんか?
きっと殿様達も自分の名前を憶(おぼ)えていてくれる人がいる事を喜んでくれるでしょうし、皆さんも良い気分転換にも成る筈ですよ~♪

では、又、次の解説記事で御会いしましょう♪