歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:太田道灌

こんな武士の動画⤴️がオススメに表示されたので一頻(ひとしき)り見てみたら商業的な事実と異なる演出のせいでツッコミ所しか無かったので、武士の現実を拡散したいと思います。
【武士の戦い】
武士の標準兵装は弓です。
槍は降りて使います。
馬上槍は曲芸披露くらいしか見せ場有りません。
騎乗しても速歩もさせません。
騎馬武者突撃は下級領主が個別に敵陣の眼前までゆっくり進み出てから敵陣の前で漸く駆け出し騎射で敵陣をスナイプして敵将を射撃し即離脱します。
流鏑馬を思い浮かべて下さい。
真っ直ぐ突進するのでは無く射程距離に入る時だけ早駆けしUターンして丁字に成り射撃し即離脱する、敵陣の弓の射程距離に入るリスクを時間的に減らすスキルで高度な乗馬と弓射技術を要します。
通常は現代人で下馬尚且つ静止状態での精密射撃が50~90mで競技化されていますが、鎌倉武士団は普通に80mを射抜き更に弓の使い方で射角を撃ち分け放物線状に射ぬいて後列の武将を射殺したり複雑な事も出来たそうです。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
源頼朝公が石橋山合戦で旗揚げした際に陣地で中心にいるはずの大将なのに今の北鎌倉駅辺りに住んでいた武将の首藤経俊に鎧を射抜かれたり、南北時代の新田義貞が眉間を射抜かれ絶命したのは、この様な現在では失われた武士の高度な弓射技術が有ったから起きた事なのかも知れないですね。
接近戦では山岳戦なら真田義忠公と俣野景久公の様に武将同士が最初から組打ちに突入しますが、野戦なら馬上の武士が太刀で敵を殴りつけ落馬させ複数の従者が一斉に薙刀を突き刺したり、坂東武者は馬上の主人と別に馬自身も敵の馬に蹴りかける等、兵器化していました。
KIMG3158
因みに、真田義忠公や源頼家公の遺児の公暁を打ち取ったのが上杉謙信公の祖先の長尾新六定景公で、戦国時代の玉縄城内に当たる鎌倉市植木の久成寺が定景公の菩提寺です。
上杉謙信
上杉謙信(長尾景虎)公の軍団も武田家と並び立って強かったのですが家臣団はいずれも鎌倉武士団の生き残り、それも鎌倉幕府を開いた武士団の子孫が主力です。
有名な宇佐美定満も室町時代に上杉与力として越後に移住した代表格です。
斯(か)く言う長尾家自体が源義家公の配下の名将の藤沢市村岡城主の鎌倉景正公の子孫で横浜市栄区長尾台の長尾城を本拠地にしていた一族だったりする訳です。この長尾城も戦国時代の玉縄城の一部に組み込まれています。
正に長尾・武田両家が鎌倉武士の家系の家臣団を抱えたから織田軍は当初手も足も出なかったのかも知れませんね。

武田家の弓矢の鏃(やじり)は刺さるだけでなく殺傷力の高い筋肉を切り刻む構造や複雑な反(かえ)しで一度刺さるとヤットコ(ペンチ)でも引き抜いて治療出来ない筋肉を巻き付ける構造や様々なバリエーションが存在しました。
極め付きに鏃自体を矢から抜け易くしておいたそうです。
もう現代の外科医でも後遺症残らず外科手術を成功させるのは困難なレベルかも知れませんね。
1280px-Battle_of_Nagashino~2
だから長篠合戦では織田軍は武田家臣団と比較して武術練度の低さと武田軍の弓の射程距離の優位を解消する必要が有り弓より遥かに射程距離の長く鎧も貫通する鉄砲を導入し対抗した様です。

武田方の指揮官武将の死傷率が異常に高かったのも、騎乗していたから狙い撃ちにされ、流鏑馬で突進する下級士官の武士も悉(ことごと)く射殺され軍団が瓦解する原因に成った事は容易に推測出来ますね。

そんな訳で軍馬は当時とても貴重でした。
人間も平均身長150チョイで小型でしたが馬は驢馬サイズでサラブレッドと比較に成らない小型馬ばかりなので、動画の様に遠駆けはしません。

【現代の1小隊辺りに占める兵装】
現代の1小隊は陸自も30人前後~50人です。
この小隊の隊長は丁度、戦国時代の1000石の高給取り武将の率いた兵力に当たります。
現在の1000石は江戸初期だと貨幣価値で6000万円位の中堅武将に当たります。
現代の軍人が薄給の様に感じますか?
それは少し違います。
何故(なぜ)なら1000石の武士は地区長サンとして行政も行わないといけないので、その6000万円から行政費用を賄う必要が有ったからです。
武田信玄
※武田信玄公⤴️
1000石級のメジャーな武将を例に挙げますと、武田家の名副将小幡虎盛クラスです。
有名な山本勘助は更にそれ以下の兵力の指揮官で皆さんのイメージは江戸時代に子孫が作った創作の虚構でした。

この1000石の小隊に騎上武者が何人いたと思いますか?
徳川葵紋
江戸幕府の役務だと1000石では雇用しなければいけない人数は以下の通り・・・
鉄砲兵2人(鉄砲1丁約1000万円)。

槍兵5人。

弓兵1人。

物資輸送担当2人。

雑兵(農民)10人。

騎馬武者1人(馬1頭8~10両=120万円)
合計21人。

自分自身。総勢22名編成。
騎兵は1~2名、指揮官クラスのみ。
これが現実です。

平和な江戸時代だからこれだけですが、戦国時代なら1000石50~70人も兵士を動員しなければいけませんでした。
そして、この人達を生涯雇用するだけでは無く当然子々孫々まで永久雇用する必要が有る上に、鉄砲のメンテナンス、数年に一度の馬の買い替え、安くても数十万円する鎧兜のメンテナンス或いはフルオーダーメイドで数百万円。
更には開墾する田圃の畦道や用水路の整備、文化の拠点として神社仏閣の整備。
・・・年収が6000万円でも、そこから途轍もない人件費が消えて行く訳です。
現代の価値観で言うと自転車操業の中小零細企業です。
隅立て四ツ目結び紋間宮家家紋
例えば戦国時代のこんな話が古文書に残ります。
小田原北条家の名将北条綱成公の寄子(部下)には付家老の間宮家を始め当主の北条氏康公の直臣達がつけられていました。
現在の横浜市中区本牧は橋本伊賀守と言う武士の領地でしたが度重なる戦費と畑しか作れない痩せた土地の苦しさからか武士を廃業し徴税権を放棄し帰農し網元の庄屋に成った様で、北条綱成公がその土地を知行(ちぎょう:徴税権を承認)されています。
橋本サンは元々水軍の武士だったかも知れません。その橋本サンが登場する葛網(鯛漁用の網)云々(うんぬん)が古文書に書かれていたりします。
KIMG0633
今の本牧と言うと本牧神社の辺りですが昔の本牧の中心は海沿いで、本牧神社も明治以前は本牧塙十二天社と呼ばれ今の中消防署北方消防出張所の裏山に在りました。
地名に鼻や塙と付く場所は海に付き出した岬の更に先端を意味し地形から自然信仰の対象に成るんですね。
まぁ、そんな訳で武士は贅沢なんて出来ず幕末にも黒字の大名の方が少なかったし皆武士は貧しかった訳です。
しかし現代の価値観で見てはいけないのは、当時“食えるだけ”、“飢えず生き残るだけ”で必死でした。
少ない食糧を奪いに来る敵がいた訳ですからね。
今の我々は幸せなんですよ。
我家の幕末~昭和初期の戸籍や系図を見ても昭和初期まで乳幼児の夭逝率が非常に高く如何(いか)に現代の医療と食糧事情が向上しているか解ります。
祖先が武士だった時代なんか更に戦死や一族の権力抗争も有った訳ですしね。
image
徳川家康公なんか初期には配下の重臣達まで鋤(すき)で畑を耕していた話は余りにも有名ですよね?
因みに戦国時代だと1000石では50人前後の兵隊を雇用して、侵略戦争を行う際でも30人程度連れて行き更に食糧費も掛かる訳です。
北条氏康公
北条氏康公⤴️が率いた北条家では防衛戦争では1000石で70人動員する事も有った様です。
農民商人も一緒に籠城しますから、動ける奴は皆で戦った訳ですね。
更に北条家では延喜式内社の大山阿夫利神社や前鳥神社等の神社や修験道場の僧兵が援軍としても派遣される事が有りました。
つまり神社の宮司様も武士扱いだった訳です。
織田信長公
これに関しては織田信長公の所も同じでしたね。
桶狭間の戦いでは平安時代から熱田神宮の宮司家を務めた千秋家の千秋季忠公が今川軍の岡部隊等を釘付けにする為の玉砕陽動部隊として戦い、織田軍の今川義元公本隊への急襲を成功に導いています。
北条家が善政で徴税率が低い代わりに軍役が大きかったのは原因が有ります。
武田菱竹に雀紋
この2つの大名⤴️が生産力の高い北条領国に冬に成ると略奪放火人拐(さら)いに来たので必然的にそう成って行った様です。
武田家が通った後なんて村が壊滅し農民が居なくなって廃村に成ってしまった所に、税金免除を条件に農民たちの帰還や移住を促(うなが)す政策を行った事が古文書に残っていたりします。
三つ鱗紋
北条家では特に四公六民で武士は40%しか課税を許されて無かった善政なので武士団は非常に貧乏で、例えば初代の伊勢宗瑞(北条早雲)公を形容する話として・・・
「自己満足で贅沢な刀を購入するなら無名で実用性の高い丈夫な刀を多く買いなさい」
・・・と言う主旨の教訓を残したと伝わっている位です。
なので戦国時代も江戸時代も大名以外の武士は貧しく、更に軍役で騎馬武者なんて1小隊にせいぜい2人だった訳ですね。
つまり、この動画⤴️の状況では1000~1500石取りの1藩の家老クラスの武士が“非現実的な槍遊びをして無駄に馬を潰してるの図”に成り、明らかな馬鹿殿ぶりを発揮している事に成ります。
この鉄の塊を着込んだフル装備30kgのバカ殿はロバ位の騎馬を無駄に走らせ、更には食糧や陣地に使う材木や軍装を運ぶ荷駄隊と沢山の弓隊槍隊150人が置いてきぼり食らわせてる訳ですね~。
兵士(庄屋サン達が率いる農兵)達は必死にバテバテで走らされてる事に成る訳ですね。

20210216_225815
残念ながら日本ではコンナ⤴️フル装備の騎馬武者ONLYの編成で轡を並べてゾロゾロ、挙げ句の果てに馬上槍ごっこは有り得ません。
鎌倉時代の武士でも1人の騎馬武者には最低でも3人の薙刀や弓を持った雑兵が付き従っていたのですが、鎌倉時代は南北朝時代や室町時代よりも個人戦なので単騎で敵武士へ流鏑馬の様にスナイプを仕掛ける一騎打ちはしても騎馬武者ばっかり集まっての突撃は有りませんでした。
ゲームやヨーロッパの騎士の話しでしか通用しない。
歴史オタクとしては現実だけは知って置いてもらいたい所です。
太田道灌公
因みに関東で最強不敗の名軍師太田道灌公は日本で最初に雑兵の足軽に弓を装備させ現代の集団射撃の様に集団戦術での一斉射撃を導入し、敵を包囲して射殺する戦術を編み出した野戦の専門家でもあります。
太田道灌公は永享四年(1432)年~文明十八年(1486)年を生きた武将ですから、もう騎馬武者の優位性と言うのは室町時代には無くなっていた事も解りますね。

まぁ~そんな所で武士の現実を了解して頂けたでしょうか?
武士は貴族と違って搾取するだけの存在ではなく、そもそも一緒に山を切り開いて開墾し農地を広げていった開拓領主なので貴族の様に領民を雑に扱ったり苦しい徴税を課しては誰もついて来ないし、馬も大切にしてたので訓練以外では無駄に走らせないし、騎乗して槍を使う事も非現実的で何の訓練にも成りませんし、戦国武将達で騎乗していたのは指揮官だけだから鎧兜フル装備の騎馬武者だけで行動する事も無いですよ~!
・・・と言う御話でした。
mixiチェック


大山国定公園の紅葉名所
神奈川の景勝50選の眺望
ミシェラン★★の夜景

大山寺と大山阿夫利神社下社
【関東三不動 雨降山大山寺】
mixiチェック

今回は鎌倉公方足利持氏公が信奉した常福寺と寶樹院言う2つの御寺を2回の記事に分けて書きたいと思います。
今回は歴史解説、次回は寶樹院の様子を写真解説したいと思います。

横浜市金沢区には沢山の歴史が有る御寺が有る事を皆さん御存知でしょうか?
街の中の小さな神社や御寺や良く解らない御墓も実は凄い歴史偉人の関わった場所だったりしますが、そんな史跡の中でも鎌倉時代~室町時代の名将達が特に関わった場所が多いのが横浜市金沢区です。
そんな場所の一つが、金沢区六浦に在る高照寺と言う御寺です。
CIMG0486
高榮山 寶樹院 高照寺この御寺の高榮山 寶樹院 高照寺は現代の漢字にすると高栄山宝樹院高照寺と書きます。
宗派は古義真言宗です。
一般的には寶樹院の院号で呼ばれますが、小生は高照寺の寺号で呼ばせて頂きたいと思います。
高照寺の開基(かいき:御寺や神社を開業く事や開業した人)は恐らく宗派と周辺の状況から平安時代末期~鎌倉時代に遡れるはずです。
金沢区観光協会の方では慶安三年(1650)年と掲載していますが、この慶安三年開基は開基では無く再興された年を示しているので本来は‟再興開基”と書くべきなんですね~。
金沢区観光協会の解説は事実誤認生んでしまい良くない書き方です。教えた教育委員会が良くない。

では御寺の地形や施設より先に、歴史を解説したいと思います。
先ずは横浜市役所に‟再興開基と書くべき”とツッコミを入れたので御寺の旧境内地を見てみましょう~♪
高照寺の旧境内地は三艘(さんそう)と書いて三艘谷戸(さんぞうやと)と呼ばれている場所でした。
寶樹院旧境内地 久良岐のよし
今では住所として三艘の地名は消えてしまいましたが、現地の人は今でも旧字(あざ)の小名(こな)を伝えていて三艘町内会館が京浜急行六浦駅東側の線路沿いに残っています。
三艘谷戸(さんぞうやと)と言う地名から御寺を囲う様(よう)に山に囲まれた谷間に存在していた事が解ります。
正に画像で三艘町内会館の左奥(南西)が谷戸地形に成っていますねぇ~。
前を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)ですが、この付近の川は現代に成って埋め立てられた海の名残りです。
昔、鎌倉時代~室町時代に御寺がここに有った時代は海に面した風景の綺麗な御寺だったようです。
ところで・・・
谷戸(やと)と言うのは馬蹄型のU字谷の谷底に寺院や城館を築いて谷の入口に門と塀を築いて塞ぎ、山を城壁代わりに使っていた事を示す地名です。
三艘谷戸 上 久良岐のよし
三艘谷戸は典型的なU字谷ですねぇ~。
横浜市や鎌倉市の鎌倉文化の影響を受けた地域の平安末期~室町時代に成立した寺院は凡(おおよ)そ、この地形に有ります。
現代人は勘違いしていますが、谷を谷戸と呼ぶわけでは有りません。山に囲まれたU字型の谷間を利用して御屋敷や神社仏閣や尾根に繋がる道を築く時に、U字谷の開口部を封鎖し門を築いていた場所を谷戸と呼びました。今では建物や古道が無く成り谷戸(やと)の地名だけ残った場所を現代人が谷=谷戸と勘違いしているんですねぇ~。
谷だけを示す場合は、例えば鎌倉だと・・・
CIMG5827
写真は犬懸谷(いぬかけがやつ)⤴の入口。
そして宅間谷(たくまがやつ)⤵
2008-12-12-15-08-33
旧相模国では‟谷”と書いて現代の書き方で~ヶ谷(がやつ)と読みます。
これは相模国の方言です。
谷の読み方は寶樹院の在る旧久良岐郡域に入ると方言で又変化します。
IMG_1458
写真は京急神奈川駅を青木城址の本覚寺から見下ろした写真です。青木城は戦国時代の北条氏康公の軍師だった多米元忠公が城主を務めた御城でした。
この写真の神奈川駅の裏に在る山が‟幸ヶ谷(こうがや)公園”です。
旧久良岐郡に入り武蔵国域南部に成ると方言で‟谷(~がや)”と呼び方が又変わるんですね。

青木城に興味が有る人はコレ⤴過去に書いた記事です。
ところで幸ヶ谷公園は青木城の前身と成った権現堂(権現山)城の跡です。
IMG_1480
今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に勝海舟サン達が神奈川台場を建設する際に権現堂城跡の権現山を削ってしまったので今では上の写真の様にちょっと段差が有る位になってしまってます。
この高さだと、丁度小生が夏に三浦半島で落ちて骨折した崖の高さ位(笑)。昔はもっと高い山と深い谷でした。
まぁ、幸ヶ谷の地形の話は置いておいて、そんな訳でU字谷と谷戸とは同じ地形でも別物です。
DSC_0384
上の写真は藤沢市の宗賢院です。曹洞宗でそれ以前の事は何にも古文書が残っていませんが、遺物の状況的には平安時代末期には前身寺院が存在し鎌倉武士の大庭家に保護されていた御寺の様です。
この写真の様にU字谷に御寺を築いて谷の開口部を土塀と門等で塞いだ場所を谷戸と言ったんですね。
U字谷でも只の谷は~谷(がやつ/がや)です。

さて、高照寺の旧境内地の場所と地形が解った所で移転先の現代の境内地の地形を見てみましょう。
寶樹院の地形 久良岐のよし
現在は山の上に御寺が有りますね~。冒頭で書いた通り慶安三年(1650)年に三艘谷戸から現在地に移転してきました。移転の理由は火災による旧境内の堂宇の消失です。
寶樹院の隣に何やら御寺が有ってもおかしくない怪しいU字谷が有るでしょう?
実はそのU字谷は谷戸の跡なんです。つまり御寺の跡です。
「え?こんな御寺の隣に御寺作るの?」
・・・と思いませんか?それには理由が有るんです。
実は今では何も無い住宅街のU字谷の真ん中に参道の様に真っ直ぐ道路が有るでしょう?
これが常福寺と言うとっても格式が高い御寺の跡です。
KIMG1418
写真の道が旧常福寺参道で、少し段差に成っている場所から旧境内。
この道を真っ直ぐ進むと、何やら雰囲気が変わってきます。
CIMG0495
遊歩道みたいに成ってますよね。この奥に常福寺の名残が今も有ります。
CIMG0496
歴代御住職や、恐らくここを支援した武将の御墓が今も残っていて高照寺の御住職によって守られています。
CIMG0499
字が磨滅してしまって読めない物ばかりですが、石塔の形状を見ると戦国時代~江戸時代にはちゃんと檀家さんがいた様です。
この場所が地図に登録されていなかったので小生が登録して置きました。
これ⤵

足利家と小泉家の勝利の源泉はもしかしたら、この鎌倉公方祈願所だった常福寺の御利益かも知れませんね。
先程「常福寺歴代住職の菩提を寶樹院の御住職が守っている」と説明しましたよね?これが移転の理由でしょう。この理由の説明をするには常福寺の歴史を知る必要が有ります。
常福寺は江戸時代までは真言律宗で金沢文庫稱名寺の末寺でした。
KIMG0107
稱名寺は桜の名所として地元の人に親しまれている御寺で、真言律宗の別格本山です。
この称名寺の末寺だった事から、鎌倉時代の常福寺の支援者は六浦の支配者であり鎌倉幕府の重鎮であり稱名寺の大檀那(オーナー)だった金澤北条家だったはずです。それを示すのが江戸時代に編纂された‟新編武蔵風土記稿”の常福寺の項目に登場する室町時代の支援者の家格です。
実は常福寺は鎌倉幕府滅亡後、室町幕府足利家によって支援されていました。
記録に名前が残るのは関東を治めた鎌倉公方の足利持氏公です。
常福寺の項目にはこう書かれています。
境内年貢地、同所に在(あり)、眞言律宗金澤稱名寺末、大道山と號(ごう)す。
足利持氏の祈願所にて古(いにしえ)は寺分の地一圓(いちえん)に当寺領なりしと云(言う)。
金澤稱名寺に藏する應永廿九年の文書に、六浦庄の内常福寺云々とあれば古刹なる事は論なし。
又【北条役帳(小田原北条所領役帳)】に六浦大道分とあるは則(すなわち)當(当)寺の領せし所を云(言う)なるべし。後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~
~以下省略~
これを読むと解りますが、関東を統率する足利持氏公が祈願所に定める程の寺格を持っていた寺院だった事が解りますね。つまり足利家に匹敵する家格の武士が支援した事に結び付くので、鎌倉時代の金沢領主で常福寺の本寺だった稱名寺のオーナーの金澤北条家が支援していたと考えるのが極々自然な訳です。
更に何で現在は寶樹院高照寺が旧常福寺の境内を管理しているかも解る事が書いて有ります。
元々は今の住所で金沢区大道と呼ばれる地域は全部、常福寺の土地でした。
金沢区大道 久良岐のよし
赤い範囲が大道と呼ばれる地域。
地域名の大道の由来に成っている朝比奈峠~鎌倉に抜ける六浦道(むつらみち)をスッポリ持っていたので、道に関所を築いて通行税を徴収して栄えたりしていた様です。しかし‟後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~”と書いて有る通り何時の時代にか常福寺が所有していた大道の土地は全て失ってしまい、少なくとも戦国時代の小田原北条家が関東を統治した頃には別の御寺に土地を取られてしまった様です。
北条所領役帳の寺領の項目に大道分が一行だけ登場するので見てみましょう。
一 卅三貫文 六浦大道分 龍源軒
これしか大道分の地名は出てきません。歴史学者サンはこの‟龍源軒”を鎌倉の建長寺の塔頭、龍源軒だろうと推測しています。
小生は学者さんと違い、町屋の龍華寺の事じゃないかな?と思っています。
KIMG1243
六浦には源頼朝公と真言宗の文覚上人が開いた浄願寺と言う御寺が有りました。実はこの御寺を北条家が金沢一帯を支配する少し前に太田道灌公が龍源寺として同じ金沢区の町屋に復興しているんです。
恐らく龍源軒と言うのは江戸時代には名前が龍華寺に変わってしまっていた龍源寺を辿る事が出来なかったんじゃないでしょうか?
・・・とは言え臨済宗の建長寺にしろ、町屋の龍華寺にしろ、恐らく常福寺の土地を取り上げて勝手に他の御寺にあげてしまったのは関東管領上杉家や太田道灌公達でしょう。
太田道灌公
実は太田道灌公とその父上の太田道真公の家系は足利持氏公やその子の足利成氏公と対立した家柄でした。その対立が大規模合戦に発展したのが‟享徳の乱”と呼ばれる太田家&長尾家が仕えた上杉家連合軍vs鎌倉公方足利成氏公の軍勢の全面戦争でした。
IMG_3526
この抗争の結末は‟江ノ島合戦”で鎌倉公方の足利成氏公が関東東部の諸将に支持され勝利する等、最初は上杉家臣の太田家長尾家は敗北します。しかし上杉家の後援者が室町幕府征夷大将軍足利家本家だったので結局は政治的に足利成氏公は劣勢に成り、今の茨城県の古河市に在った古河城に移住する事に成ってしまいました・・・
すると当然ながら鎌倉公方家に支援されて戦勝祈願を行っていた常福寺は京都の将軍家や、その手先の関東管領上杉家や部下の相模守護代の太田家から目の敵(カタキ)にされる訳です。
・・・そして、そのタイミングで太田道灌公が当時六浦の廃寺になっていた龍源寺を町屋に復興したと成ると、眞言律宗の常福寺から取り上げた土地を真言宗御室派の龍源寺=龍華寺に寄進したと考えれば自然な事でしょう。
CIMG8546
でも学者サンの推測する建長寺塔頭龍源軒説も有りえる話です。なんせ太田道灌公は幼少期から思春期まで建長寺で修行して兵法や学問を身に付けた人物ですからね。
まぁ、正直な所は大道分の土地の持ち主が龍華寺の龍源寺の事か、建長寺の龍源軒の事かは今では解りません。
でも太田道灌公や上杉家によって懲罰的に常福寺の土地が取り上げられ、その数十年後に北条氏綱公がこの一帯を支配した頃には既に常福寺はヤバい状況だったのでしょう。
ちなみに龍華寺サンも北条氏綱公の頃に怒りを買って土地を取り上げられているようです。
この伝心寺⤴の記事で少しソレに触れています。
江戸時代の常福寺は横浜市域で唯一の大名だった六浦藩主米倉家(柳沢吉保の子孫)から支援されて細々と存続する位に衰退していた事も新編武蔵風土記稿の記録から解ります。
更に龍華寺も戦国時代末期には北条家の怒りを買ったらしく、土地を没収されていますので大道分は安土桃山時代位に北条家かその家臣団によって寶樹院高照寺に寄進されたのだろう事が江戸時代1650年には常福寺の真横に三艘谷戸の高照寺が火事で焼けて移転してきている‟土地の所有者”に成っている事から解る訳です。
寶樹院旧境内と現在地位置関係 久良岐のよし
実際、近いですしね。大道分の侍従川を挟んだ片側が高照寺の寺領に成ったみたいですね。
だから移転出来た。
そして幕末~明治時代に廃藩置県が行われ常福寺を支えていた米倉家が大名じゃなくなり常福寺の収入減が無く成り、更に明治政府の廃仏毀釈で維持困難に成り、その際に隣接する寶樹院高照寺サンに全てを託して廃寺手続きを行ったんでしょうね。
CIMG0499
でも今でもちゃんと、ここで寶樹院高照寺の御住職によって歴代住職の墓所が守られている訳です。
CIMG0494
ちゃんと高照寺の御堂の中には常福寺の歴代住職の御位牌が祀られていました。

今では地形と歴代住職の御廟しか常福寺の境内は残りませんが、ちゃんと高照寺の歴代御住職によって常福寺と足利持氏公の歴史は守られています。

その②に続く⤵

mixiチェック

新横浜の日産スタジアムの近く、JR小机駅の側に在(あ)る小机城址で今年も竹灯籠祭りが開かれるよ〜!
記事の中で沢山、以前の竹灯籠祭りの写真を紹介したいと思います。
touroutop

小机城址(続日本100名城の一つ)

延期や時間は運営する“日本の竹ファンクラブ”で確認してください!
これ公式ホームページ⤵️

昼から来るなら新横浜ラーメン博物館にも合わせて行けますし、近くには小机城代笠原家の菩提寺の雲松院や、源頼朝公の命令で佐々木高綱公が開いた三会寺と言う寺院と、佐々木高綱公の居館跡の鳥山八幡宮と言う神社も有ります。 


時間見ながら昼から周辺を散歩して良いレクリエーションに成ると思います。

ただし戦う為の土を削り出した山城の要塞なので「歩きやすい靴」と「汚れても良いズボン」で行くのがオススメです。
屋台も出ますよ!雨天は翌日に順延だそうです~。

ところで・・・
「小机城って横浜市に御城なんて有ったの?」
・・・と思う人がいると思いますが、横浜市内にもざっと城は数十、約3kmおきに築かれており、有名な所だけで榎下城、茅ヶ崎城、寺尾城、山田城、佐江戸城、篠原城、小机城、権現堂城、青木城、蒔田城、笹下城、野庭関城、長尾城とあり、中でも小机城は軍団長の城で、鎌倉公坊代理の吉良家の蒔田城に並び凄い格の高い御城だったんです。
以前、小机城の解説は記事を書いているので興味の有る方は御覧ください♪
先に軍団長の城と少し触れましたが実はこの小机城、戦国時代の北条家の5色に分けた主要軍団の一つ、白備え隊の本拠地だったんです。
2014-03-23-16-35-29
だから鉄道建設や高速道路建設で消失した側も昔は御城で、今の倍の城規模が有りました。
今でも現存部分には空堀や曲輪が状態良く保存されており、最近“続日本の100名城”の一つに選定された程なんです。

そんな古城の竹林の手入れも兼ねて開かれるのが“日本の竹ファンクラブ”が主催する“小机城址竹灯籠祭り”です。

竹灯籠祭りの綺麗さは、文字で説明されるより写真を見て頂いた方が早いでしょう!
下に沢山、以前の写真を貼り付けて置きますね!
⤵️以前のポスター

とっても綺麗だから彼氏彼女や家族と是非見に来てね!もし見たくなったら、公式ホームページから日時確認して訪れてみて下さい。
小机駅からも直ぐ近くなので交通の便も良いですよ♪

以前の⤵️写真♪
CIMG7534

綺麗↑でしょ?
本丸跡には屋台も沢山出ますよ〜♬CIMG7535
CIMG7536image
IMG_5150
imageCIMG7552
image
CIMG7558
CIMG7563CIMG7555
CIMG7545

ところで風魔忍者って知ってます?
今の箱根峠一帯を本拠地(ほんきょち)にしていた忍者集団で、リーダーは代々、風魔小太郎を名乗っていたんです。

歴史やゲーム好きな人は知ってるかな?
その風魔忍者の管理者が、この小机城主だった北条幻庵さんなんです。

そんな歴史も感じられる場所ですが…
竹灯籠祭りでは城址内全箇所が竹のランプで照らされ神秘的に成ります。
是非!楽しんで下さい!
mixiチェック

みなと湯
現代では希少なビジネス旅館みなと旅館の銭湯
KIMG7316
☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 ビジネス旅館みなと旅館の銭湯。
 共済病院前で御見舞い滞在に便利。
 タイルのモザイク画が可愛い
 鷹取山ハイキングコース近く。
 野島公園BBQキャンプ場近く。
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人470円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等浴室に有り
 使い切りシャンプー類販売有り
 レンタルのハンドタオル有り
 飲料販売有り
 ビジネス旅館併設
【電車】
 京浜急行追浜駅~徒歩8分
【  車  】
 駐車場若干有り
 周辺に有料駐車場複数
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
ーー入口~建物の外観ーー
KIMG7317
KIMG7316
KIMG7315
KIMG7251
――番台――
CIMG0644
――更衣室――
CIMG0648
CIMG0647CIMG0655
CIMG0654
CIMG0645CIMG0649
――浴室――
CIMG0650
CIMG0651
CIMG0653
CIMG0652
CIMG0657
CIMG0658
横浜では少なくなった日本建築のビジネス旅館が運営する銭湯。
外観は日本風だが男湯と女湯でピンクと水色のパステルカラーに分かれていてタイルのモザイク画が可愛い~(笑)。しかし天井は高く昔ながらの風格と威厳有る建築に成っている。
老舗銭湯は据付のシャンプーとボディーソープが無い場所が大半だが、ここはビジネス旅館の運営する銭湯なので購入不要。突然行っても貸しタオルをレンタル出来るので、タオルを2本レンタルすれば持参しなくても大丈夫。
バスタオルは要持参。
立地的に野島公園のBBQ場から徒歩20分ちょと、神武寺~神奈川の景勝50選の一つ鷹取山の鎌倉石採石場跡や磨崖仏のハイキング帰りに立ち寄り入浴してサッパリしてから帰るにも丁度良い。鷹取山からは徒歩25分位。
近代には伊藤博文公が野島と夏島に滞在し大日本帝国憲法の草案を起草した。
実は平成世代には余り知られて無いが釜利谷~能見台~瀬戸神社~琵琶島~須崎や野島~六浦や内川周辺は江戸時代の歌川広重等が愛した景勝地で、見所が8ヵ所有った事から“金沢八景”の駅名由来に成っている。瀬戸神社と琵琶島辯財天は源頼朝公と北条政子様の御夫妻によって伊豆国一之宮三嶋大社と近江国竹生島辯財天が勧進され開かれた由緒ある神社で金沢八景駅前に存在する。
戦国時代にも太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公等が町屋町の龍華寺に滞在し周辺を楽しんだ事が現代に伝わり、昔は名将達のリゾート地だった。
その龍華寺の元の境内地が浄願寺跡と伝わった上行寺東側の丘陵の上で鎌倉時代末期には兼好法師の名で有名な吉田兼好も浄願寺に長期滞在した程の景勝地が、みなと旅館周辺の埋め立てられる以前の景色だった。
そんな訳で、現代では埋め立てられて景勝地ではなく成ったが、鷹取山~神武寺ハイク、野島公園BBQ、周辺の歴史散歩で汗をかいた後に立ち寄るにはもってこいの銭湯が、みなと旅館の“みなと湯”だったりする。

みなと旅館の直ぐ目前にはヘルニアの手術やスポーツ選手の機能改善治療で有名な横浜南共済病院が有るので、長期の御見舞いで滞在する場合の宿泊にも便利だったりする。

mixiチェック

久應山 攝取院 寶秀寺(日本武尊の滞在した六角橋地名由来の聖地)
塩舐め地蔵(神大寺廃寺参道址) 

image
image

  御祭神・御本尊等:阿弥陀如来・大伴久應供(黒主)養墳墓・塩嘗地蔵尊
  御利益:料理上達・立身出世・交通安全(陸・海)
  関係者:
  開基:大伴久應(黒主)
     日本武尊
  中興:秀蓮社清譽達道上人
  旧郡名:橘樹郡
  所在地:神奈川区神大寺地区の耕地近く六角橋
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
六角橋地名由来に成った聖地が後に寺院化した場所。ここに居館を構えていた大伴久應(走水神社社伝では大伴黒主)が日本武尊を自邸に招き歓待したとされる。その際に日本武尊が使用した箸が六角形で以後、宝とされ伝わっていたので六角橋の地名由来と成ったとする説がある。日本武尊の伯母の倭姫が日本武尊に与力として協力させた大伴部氏の拠点の一つだったと推測出来て、大伴部、大伴と呼ばれた氏族は神話でも日本武尊に叔母で元伊勢神宮(丹波国)の斎王だった倭姫から与力として大伴軍団と草薙の劔を貸与されている記載が有り走水神社と宝秀寺の神話とも整合している。
史実から推測すると当時の六角橋付近は湾が入り込み軍港だったのだろう。
宝秀寺の入口には大伴久應の供養碑と土饅頭(小型円墳)が有るが後世の供養塔替わりの物だろう。
宝秀寺の近くに塩嘗地蔵があり実はこの塩舐め地蔵前の住宅街の小道が古代の街道であり神大寺と言う大寺院の参道址だった。神大寺は寺名からするに前身寺院が神道的な聖地だった事が推測され、微高地に存在するのでこちらは元々は日本武尊か大伴久應を祀った神宮寺だったろう事が推測出来る。
戦国時代には塩嘗地蔵~寶秀寺~六角橋中学校の丘は神大寺跡と呼ばれ太田道灌公が小机城攻略の際に通った事から道灌森とも呼ばれている。
塩嘗地蔵は昔から疱瘡(ほうそう)=皮膚病治癒の御利益が有るとされ大切にされて来たが、疱瘡治癒の御利益が有る神様は五十猛や素戔嗚尊を御祭神とする場合が多く宝秀寺と関係が深い日本武尊は走水で海上交通の神である須賀神社を信奉して素戔嗚尊を祀っていた。
実は古代の神奈川区域は“店屋(てんや)”と呼ばれ橘樹郡衙(ぐんが=郡の政庁)と久良岐郡衙を繋ぐ中継拠点だったと推定されている。新編武蔵風土記稿にも江戸時代に現在の神奈川区三枚町(旧:三枚橋村)に天屋(てんや)=店屋の地名が残っており古代の駅伝制の名残と紹介されている。実際、橘樹郡衙だった橘樹神社~久良岐郡衙跡と推測されている横浜市南区の弘明寺の中間地点に当たるのが六角橋を中心とした地域で、六角橋商店街は旧綱島街道に当たり、その先には古代から聖地だった師岡熊野神社が存在する。
何にせよ神話に残る人物が直接関わり、大将軍を神格化した様な日本武尊に料理を提供して接待した接待奉行で料理奉行で水軍の武将の大伴久應が神格化された聖地の歴史を祀る寺院なので料理上達や立身出世の強い御利益が期待できる上に、海上交通交通安全の御利益も期待出来る。皮肉な話だが、近くには免停食らった人間を改心させる為に集める神奈川県警の交通安全センターが在ったりする。
mixiチェック

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
洞昌院で御住職に新年の挨拶をし太田道灌公の御位牌を拝ませて頂く許可を頂き、御位牌で太田道灌公に御挨拶。その後に道灌公胴塚御廟にて、太田道灌公を供養した北条早雲公と万里集九禅師にも改めて道灌公と合わせて新年の御挨拶と、歴史オタクとして社会の役に立てる様に心願成就の御加護を御願いしたりした後の続き・・・。
CIMG6135
洞昌院の周辺は神話時代に当たる縄文~弥生時代からの祭祀遺跡やら古墳時代の墳墓が沢山発掘されていて、それ等の聖地を昔は境内地として守っていた神社やら、早くから人が住み着いた耕作地帯であり交通の要所でも有るので室町幕府鎌倉公方家の重鎮で関東管領も務めた扇谷上杉家の本拠地も一時、この直ぐ近くに置かれていた。それが糟屋館だな。
せっかく洞昌院に参拝したので、散歩がてら周辺の神社や史跡を散策する事にした。
CIMG6142
道灌用水と言われる。今、空堀と伝わる地形・・・
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この用水路は空堀の在る洞昌院側の台地に存在するのだが、実は元々、この水源は外堀側に向かって流れていたそうだ。それを上流で空堀側に流し湿地化させて沼堀として機能させていたそうだ。
これは現地を歩かず民話を取材しないメジャー文献テンプレ学者は知らん事なのだが。扇谷上杉家臣の太田流の築城術の特徴は周りが沼地の台地を選んで城を作る、もしくは水を引き込み堰堤を作り水を堰(せ)き止めて強制的に沼地にするんだな。
これは扇谷上杉家の戦国時代以前の本拠地だった大庭城や、扇谷上杉家が乗っ取った佐原三浦家つまり三浦道寸公の本拠地だった伊勢原市~平塚市に跨る巨大城塞の岡崎城なんかがこの全てこの構造だった。太田道灌公の御父君の道真公が縄張りした川越城も、太田道灌公が江戸家から接収して改修した江戸城も同じ立地だな。
ついでに言えば旧扇谷上杉家家臣大森家の本拠地だった小田原城も小田原北条家によって総構えが建造される以前から湿地に囲まれる要害だった。
[小田原城]
960294_778043208945102_6731059923068336592_n
[江戸城]
江戸城
[川越城]
河越城縄張り図
[岡崎城]
岡崎城主要部分縄張り図
それに合わせて喰い違い状に屈曲させた大空堀で丘陵上に堀切と土塁を築くのが大庭城や長尾台城や高月城にも見られる構造で、この3城は地形も糟屋舘大城廓に似ている。
※以下日本城郭大系より拝借。
[大庭城]
DSC_0217~2
[長尾台城]
DSC_0216~2
[高月城]
images
糟屋館跡は昭和の農地改良で見事なまでに台地上の遺構は削平破壊され土塁は削られ堀は埋められサッパリ解らなく成っている、が!この喰い違い構造の名残りと思しき物が上の画像で糟屋館の立原で不自然な直線がクランクしている農道が拡張されて道路だろう。
扇谷上杉家糟屋館地形 久良岐のよし
そして、この糟屋館の規模は神奈川県教育委員会は❝故意にか?❞言及しないが関東での戦国時代における城郭として、小田原城>岡崎城=江戸城=糟屋館=滝山城>河越城と推定城域が同程度の規模が有る名城なのだ。山内上杉家に糟屋館が狙われた際は、この城を守る為に扇谷上杉定正公は出張先から200騎だけの手勢だけで自ら危険を冒(おか)して急行し、1000余の山内上杉軍の先手を迎撃、撃破している・・・これが実蒔原合戦と呼ばれる扇谷上杉定正公が戦上手と呼ばれる所以の勝利なんだな。
まぁ・・・ここを守る間に弟の扇谷上杉朝昌公の守備する厚木丹沢方面の要所の七沢城は救援出来ずに失陥しているんだが。
この糟屋館と“館扱いされている”台地と周辺の寺院や外郭を含めた日本で最先端の❝平山城形式の大城郭❞は扇谷上杉家にとって重要な場所であり、佐原上杉家没落後に相模守護代と扇谷上杉家執事を兼務した太田道灌公が公務を行ったのが洞昌院であり主家は糟屋館にいた訳だ。
本来ならば規模からも歴史的意義からも伊勢原市役所に任せる様な場所では無くて“文化庁が介入すべき案件”であり“黒岩知事御自身が破壊容認する前に陣頭指揮を執って神奈川県庁が発掘と保護と公園化すべき場所”なんだが。
まぁ、そんな訳で洞昌院一帯を散策すると神奈川県と黒岩知事が認めず公表しない城跡と、古代からの神社が有るので散歩には事欠かないし伊勢原は大山の御膝下なので空気が綺麗で清々しい。
洞昌院から糟屋館の馬攻口へ向かって歩いて行くと、途中に七人塚が在る。
CIMG6154
七人塚CIMG6155
この七人塚は太田道灌公の忠臣達が一部のアホの歴史学者の不見識を暴露してくれる場所でもある(笑)。
大田道灌公は湯殿入(地名)側から馬攻口を降る道すがら、宿舎の洞昌院の塔頭寺院に向かう途中で主君の扇谷上杉定正公の手勢に襲撃された。風呂に入ってる最中に殺されたって通説は大間違い(笑)。
因(ちな)みに虎口ってのは小口が転訛した言葉でとどのつまり、敵勢を殺す機能を持った城門や通路の事だな。
一部のアホの歴史学者が「太田道灌公は湯殿入りで襲撃された」と言う記述を「入浴中に襲撃された(笑)」と頓珍漢な解釈をしているが、コイツ等は如何に現地取材をしていないかが良く解る(笑)。
❝湯殿入り❞ってのは郵政法制定以前に残っていた地名の字(あざ)の小名(こな)で台地上、空堀近くの地域の地名なんだな。
糟屋舘大城郭の虎口に当たる辺りの湯殿入り、つまり湯殿入りってのは糟屋舘の湯殿方面の虎口な訳だが、主君との面会を終えて宿舎の洞昌院の塔頭へ帰り際、その城門か食違い虎口の中で太田道灌公は恐らく弓矢で襲撃され一先ず堅固な洞昌院に瀕死の様態で逃げた訳だが、その時に自らも傷を負いながら主君の太田道灌公を逃がす為に追っ手を迎撃妨害した7人の忠臣達が眠るのがこの7人塚な訳だ。
CIMG6156
こうやって正しい事件の全貌を辿らせてくれる場所に眠る忠臣の名も伝わらない武士達に敬礼の意味を込めて参拝した。
七人塚の直ぐ近くには凄く立派な参道が残る上粕屋神社が在る。
CIMG6146
上粕屋神社CIMG6147
冬に来たから立派な木々の参道しか目に付かないが実はあの参道は桜の木々で春にはとても美しい景色に成る…
DSC_0768
・・・ほらね?だから皆さん、洞昌院一帯をお散歩するなら春が御薦めなんだな。
CIMG6151
この地域は“山王”と呼ばれる地区なのだが、現代では上粕屋神社と呼ばれるこの神社は本来は神仏習合の山王権現だった。
大同弘仁年間(大同806~810年、弘仁810~824年)に開かれた神社で、つまり延喜式式外社と成る古社な訳だ。延喜式神名帳に掲載されなかったのは山王❝権現❞として神仏習合のどちらかと言うと天台宗に近い修験道の道場だったのだろう。この小生の推測を補強するのが新編相模風土記稿に掲載されている方の異なる上粕屋神社の縁起で、そちらでは天平年間(729~749年)に良弁大僧都(だいそうず:超エライ和尚さんの役職)が開いたと伝わる。
恐らく上粕屋神社の始まりはこうだ・・・
良弁(ろうべん)和尚は東大寺を開いた歴史偉人だが、この伊勢原市を聖地として密接に関わり訪問している。伊勢原市の大山は現代では国定公園だが、古代からの聖地で大山山頂には神の化身の岩が祀られ縄文時代からの祭祀遺跡が出土する聖地なのだが、そこを守っていたのが大山寺石山権現大山阿夫利神社なんだな。
良弁の滝 Googlemap 久良岐のよし
そして大山には良弁大僧都が滝行を行った場所も今でもあるのだが、良弁大僧都は華厳宗の僧侶なのだが日本神話や聖地霊場を後の空海和尚様や蘭渓道隆和尚様や道元禅師同様に大切にされた人物の様だ。
だから大山にも来たし、上粕屋神社の前身の山王権現の更に前身と成った霊場を開いたのだろう。そして、その霊場と成った所縁の古墳や古代からの祭祀場が一帯には存在したのかも知れない。
もっとも、良弁大僧都がこちらにいらした理由は現実的な理由が大きかった筈だ。行基大僧正も近く八菅神社七所権現を天皇家勅願所に定めている・・・
古来、伊勢原市大山や愛甲郡愛川町八菅山は自然信仰と神話の聖地として古代豪族や天皇家から崇拝され祭祀が執り行われたので“寄進(きしん=浄罪=金銭宝物)”も集め易かった訳だ。良弁大僧都と行基大僧正には金が、こと銅銭がこの時期必要だった。
・・・即ち東大寺の造営と東大寺大仏の建立だな。つまり伊勢原市大山や愛川町八菅山は行基財団の重要な拠点として機能していたのだろう。多分ね~(笑)。
そして上粕屋神社の始まりは恐らくこうだ・・・
伊勢原市周辺聖地史跡MAP 久良岐のよし
・・・現実的には目の前を旧大山街道が通るので、大山参詣の宿泊所として良弁大僧都が草庵として天平年間に開いて神様を祀っていた場所に、後に大同年間に天台宗系僧侶が大山詣りの修験道場や宿坊として運用する様に成り、比叡山の山王権現日枝神社を勧進したと推測すれば風土記と伝承の矛盾が解消され極自然な成り立ちと成るだろうとも思う。
CIMG6149
境内には立派な楠木も在り、参拝客に歴史を感じさせてくれる。
この上粕屋神社が大山詣り参道の脇の宿舎だったと推測する理由はもう一つある・・・
CIMG6160
神社の裏は糟屋館の空堀なのだが、この神社一帯が糟屋館の裏口、馬攻口だからだ。
堀は戦国時代当時は堀底道として機能していただろう。
CIMG6162
今でも食違い状に道がクランクしている。
そして糟屋館の台地~上粕屋神社の山王地区の台地には引橋(ひきはし=戦時に収納できる橋)が架かっていたかもしれない。
恐らくこの道は戦国時代から存在する道なのかも知れない。今も糟屋館の台地から続く比較的太い道が有り、近年開削された道も直ぐ近くを通る。
CIMG6163
上粕屋神社裏から堀底に続く道。これが道より以前の本来の“古代の道”だろう。
アスファルトの道は恐らく引橋で連結されていたであろうと小生が推測する理由は、台地と台地の同じ高さで連結出来る高さに合わせ開削されているので橋を架ける前提の構造なのだ。だから城砦化されて以後の道だと思う。
CIMG6165
降りて来ると空堀に出る。空堀を進んできてから上粕屋神社側一度登り、引橋を渡って湯殿入り虎口に入る構造だったのだと小生は現地を歩いて推測している。
CIMG6167
今では道路が大空堀を断ち切る様に有るが、これは後の人によって盛土されている事が明治時代の地形図を見ると未だ存在していないので良く解る。
迅速測図 上粕屋神社周辺 久良岐のよし
まぁ、そんな訳で小生はここに引橋が在ったと推測する訳だな。
CIMG6170
正月2日目、畑地と成った大空堀には霜が降りていた。
CIMG6172
ここを過ぎると食い違う道、そして右手には削平地が永遠段々に続く。これは城マニアが見るとどっからどうみても食違い虎口を開削して広げた道だろう。そして削平地は帯曲輪群が畑に成った物だろう。
CIMG6174
扇谷上杉家糟屋館大城郭址現在、黒岩知事に由る糟屋館大城郭は県道バイパス建設中で金網で仕切られ入れない場所が多いが、“城跡が現存するのは台地上では無く側面の崖地”なのでグルッと廻れる所まで周って見る事にした。
CIMG6180
小生が子供の頃にも伊勢原の義叔父の家に遊びに来ると、こうして畑の農道を散歩し田圃の用水路でザリガニ釣りをしたもんだ。
金網の範囲外でも結構歩ける場所が有った。
まぁ、大人に成ってカメラ持ちながら歩くと有るわ有るわ城の遺構。
CIMG6187
武者走り。
CIMG6184
破壊真っ最中の外堀側にも土塁が残っている部分も結構ある。
CIMG6189
黒岩知事が破壊承認した外堀を見下ろす農道に成っている武者走り状の地形。
CIMG6190
その下にも帯曲輪群が沢山現存していた。
実は2016年に神奈川県は道路建設による破壊に伴って“名目的に発掘せねばならず”発掘調査を行ったのだが、これが笑い話にも成らない発掘チーム編成で、発掘したチームの中には“1人も城郭専門家が含まれていない”まま行われた。結果的には当然、彼等が地形を見ても城の構造を理解出来る訳も無く、肝心の側面の帯曲輪群と武者走り群、そして彼等が自然地形としか認識できなかった城マニアが笑う(笑)顕かに裾切りされている地形は一切報告されていない。
「あれ?学者じゃない小生が歩いても沢山有るんですけど?巨大な城だった遺構が(笑)?」
これは考古学のチーム編成で発掘調査させた“神奈川県教育委員会が故意に城の専門家を入れなかった”んじゃないかと小生は容疑をかけている。
小生の推測通りならば極めて悪質だと思うし、巨大な城の存在なんて知らなかったんなら教育委員会は不見識で大学生からやり直した方が良いし、道路建設に伴って掘削しコンクリ擁壁で破壊する心算で故意に触れていないなら黒岩知事と教育委員会の担当者と開発担当者と土建屋には扇谷上杉定正公と太田道灌公と実蒔原合戦戦没者の英霊御霊の祟りと山王権現と大山祇神の天罰が落ちるかもな・・・なんてな(笑)。
まぁ、本当に黒岩知事や配下の役人が故意に城郭専門家をいれなかったんなら祟りに遭うだろう。
太田道灌公は北条早雲公と万里集九公によって神格として勧進され、現代では神様に成っている人物だし、扇谷上杉定正公も武勇采配に長けた歴史偉人なのだから御霊は“神道的な考え方ならば”荒神様として御神威が在る訳だ。
まして、ここを開発してる連中は地鎮祭すら行ってないし、太田道灌公にも扇谷上杉定正公にも御参りしてない訳だ。
・・・まぁ、神仏に天誅受ければ良いさ。天誅ってのは自分の心の中から沸いて来てとんでもないミスや事故を引き起こしたり、注意力が散漫に成って隠していた不正が露見したりする事にも繋がるからな。
確か黒岩知事は創価学会だったはずだ。彼は日蓮聖人の聖跡を歩いた事があるのだろうか?
日蓮聖人は非常に日本神話を大切にされ先人を尊敬していた人物として、日蓮宗以外の僧侶や神職の人々にも知られている。千葉神社を信奉し妙見大菩薩=天皇家を守護神と崇め、八幡大菩薩の御神威を崇拝し命を長らえた人物なんだな。そして立正安国論ってのは神仏への理解と愛国心から鎌倉幕府北条政権に提出された物だった訳だ。
神に成った東京横浜に所縁深い歴史偉人太田道灌公が大切にした場所、主の扇谷上杉定正公の御霊が坐す城跡を無かった事にして、そのまま破壊すれば、更に日蓮聖人も御怒りに成るだろうな。
・・・まぁ~、開発の認可を出した政治家と役人と業者が不幸に成ろうが小生には知ったこっちゃないので別に良い。大城郭糟屋館の遺構が存在する事実と破壊時の為政者の悪名と企業担当者氏名を個人的に記事にし公開したり関係先の神社仏閣の檀家サンや氏子サンと共有し子子孫孫まで伝え、末代まで黒岩家や担当者の子孫達に祖先の悪名を晒すだけだな。
CIMG6197
糟屋舘の台地から洞昌院へ向かって戻る途中、江戸時代の関東の人々が伊勢神宮、富士山、江の島と並び死ぬまでに行って見たいと人気の観光地化した聖地だった大山が綺麗に見えた。う~ん、太田道灌公も崇拝していた大山祇神様がいつも神奈川県民守ってくれてるんだな。

蟠龍山洞昌院公所寺に戻ると、小生の姿を見かけた御住職が出て来られて「ちょっと待ってな!」と小生に声を掛けて下さった。
CIMG6198
そして非売品の洞昌院の御守りを授与して下さった。何だか御住職を介して太田道灌公に正月参詣の御褒美に護符を頂いた様でとても嬉しかった。
駐車場で車に乗り込むと、次の目的地で毎年参拝している聖地、比々多神社に向けて出発した。
CIMG6200
ここから又、神社巡りに復帰する。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先④に続く。









mixiチェック

前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
CIMG6087
冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
DSC_0727
華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
CIMG6105
現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
CIMG6103
・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
CIMG6113
御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
CIMG6091
大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
CIMG6098
今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
CIMG6100
右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
CIMG6097
・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
DSC_0720
例えば金剛寺近くの龍藏神社だが・・・
この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたりした。その一つが龍藏神社で昔の金剛寺の山門はこの附近だったそうだ。塔頭だったのに神社化したので御堂として仏様を安置出来なく成り寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
IMG_9942
例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
IMG_9939
境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
IMG_0003
・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
CIMG6102
・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
CIMG6108
弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
CIMG6114
CIMG6115
足利家の家紋だな。
CIMG6112
まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
DSC_3585
英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
CIMG6116
蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
CIMG6119
さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
CIMG6122
太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
2015-11-25-15-13-16
御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
CIMG6124
暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
CIMG6126
つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
CIMG1184
写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の源氏山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
CIMG6132
CIMG6131
弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
CIMG6134
太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
CIMG6138
御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





mixiチェック

金沢文庫と言っても駅の名前でも土地の名前でも無くて博物館の金沢文庫ですが、そちらで現在、弘明寺と並んで横浜市を代表すると言っても過言では無い名古刹の寶生寺の文化財の数々が特別展示されています。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
画像は神奈川県立金沢文庫様の公式ホームページより転載させて頂きました。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター裏面 久良岐のよし
【神奈川県立金沢文庫】 分類:博物館/史料館
DSC_1170
今回、金沢文庫で特別展を行っている寶生寺(ほうしょうじ)の文化財ですが、根本的に横浜には寶生寺と言う御寺が有ると言う事を御存知無い方も多いと思いますので以前書いた解説記事へのリンクを以下に貼って置きます。
リンク→寶生寺・・・横浜市南区に在る鎌倉~江戸時代の名将達が保護した古刹
2015-06-27-16-39-33
上の写真は寶生寺の石段と山門です。
実はこの御寺の文献が横浜の地名の登場する現存最古の古文書なんです。
今回の特別展での展示物は文献と経典がとても多く、通好みの展示と成っています。
特に有名な人物は二人・・・
1人目は太田道灌公。
歴史好事家(オタク)なら誰もが知っている関東最高の合戦無敗の名軍師で築城家。
この太田道灌公が小机城址包囲戦の最中に寶生寺の御住職から陣中見舞いに「山芋」を頂いていた返礼の手紙(笑)とか・・・
2人目は間宮直元公。
江戸時代の横浜市長の前身、初代の本牧奉行。本牧奉行だけでなく但馬奉行と生野(銀山)代官と佐渡(金山)代官を兼任した人物。
徳川家康公の軍師格で本領は1000石ながら多くの奉行職を兼任していたので実際の収入は現代の円に換算すると8億円近く(笑)。更に縁故も実力も凄く、伯母の“於久(おひさ)の方”は徳川家康公の側室に成り姫様を生んでいたので家康公の外戚扱い、経営手腕と実務力も素晴らしく有名な大久保長安が代官だった佐渡金山が経営不振に成ると家康公の命令で生野銀山の部下と工夫を引き連れて瞬く間に業績改善したばかりか、その人生の最後には“大坂城総掘り埋立作戦”を立案し直接家康公に進言した名軍師。
その間宮直元公が寶生寺の御本尊を極彩色に修理した際の修理願文が御本尊の解体修理の際に発見され今回展示されたいます。
CIMG5396
CIMG5397
・・・上は今回の展示物一覧です。
すみません家のスキャナー壊れて使えないのでデジカメ写真で失礼。
つまり、横浜市に御縁の有る名将二人の手紙や起請文を始め恐ろしい数の古文書が展示されている訳ですが・・・
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
一緒に今回特別展示されている寶生寺の御本尊が、その間宮直元公が修理させた仏像であり今回の特別展示のポスターのアイコンに成っている訳です。
太田道灌公の小机城攻囲中、今回の展示の寶生寺の高僧だけでなく、他に日蓮宗の寺格の高い御寺等からも高僧が食べ物持って(笑)陣中見舞いに太田道灌公に会いに来ている歴史事実も有るので、今回の寶生寺に対する太田道灌公の文書は、そんな小机城攻囲戦が太田道灌公の才覚によって相当な余裕を持って行われていた事を窺い知る事が出来ます。

DSC_2996
一応、金沢文庫自体を御存知無い方も多いと思いますので御説明致します・・・
IMG_20160706_163657
金沢文庫と言うのは元は鎌倉幕府で六波羅探題やブービー賞で執権を務めた日本武士最高の教養を誇った金沢北条家の邸宅の書庫から派生した日本最初の武家私設図書館の事で、金沢北条家の邸宅を寺院化した真言宗の別格本山の金沢山稱名寺(しょうみょうじ)と言う御寺に江戸時代まで管理されて西の正倉院に対して“東の正倉院”の異名で渾名(あだな)された多くの文化財を持つ文庫でした。
DSC_0213
ですから今も金沢文庫(博物館)の横には綺麗な稱名寺の庭園が広がっています。
2015-04-01-12-56-18
2015-04-01-12-58-12
春には御覧の通り参道の桜も綺麗な御寺です。
2015-04-01-13-10-08
この稱名寺や金沢文庫の近く、歌川広重が描いた景勝地の“金沢八景の一つ野島”に別宅を構えていたのが明治の元勲伊藤博文公でした。
CIMG4114
2015-08-19-16-40-03
野島の金沢別邸に住んでいた伊藤博文公は古来の天皇の価値観を大切にされ神仏共に大切にされた方だったので、明治に森有礼等によって宗教改革が行われ“廃仏毀釈”“神仏分離令”が発布され稱名寺が寺領を失ったり神社を取り壊されたり荒廃し、御寺に因(よ)る文化財売却が横行した際に非常に文化的に危機感を持たれ、金沢文庫の多くの文化財を守る為に稱名寺境内に“金沢文庫”を再建しました。
これが昭和5年に県立化され、更に本来の鎌倉時代の文庫の所在地だった稱名寺と隣の谷の“文庫谷(ぶんこがやつ)”に新築されたのが現在の神奈川県立金沢文庫(博物館)です。

金沢文庫の今回の特別展示は仏教文化的にも戦国好きにも堪らない展示内容と成っています。・・・興味無い人には可也(かなり)地味だけどね(笑)。
特別展示を見るだけでもとても価値が有りますが、隣の稱名寺も綺麗。
DSC_0212
【金沢山稱名寺】そして近くには元料亭の建築文化財の宿、喜多屋も有るのでランチタイムに喜多屋のcafeで食事する事も推薦します!
CIMG5024
CIMG4998
CIMG5000
もしランチタイムに伺う時に事前に食事を予約して、その際に客室に空室が有るか確認した上で「見学させて頂けませんか?」と御願いすると、客室の状況と従業員の方の状況次第では下の旧料亭部分の宿泊客室も見学させて頂けるかも知れません。
CIMG5020
DSC_0325
【喜多屋】

以前喜多屋を紹介した記事リンクはコチラ→

そして、もう一つ・・・
もし皆さんが金沢文庫博物館に訪問するのが金・土・日曜日ならTV鉄腕ダッシュにも度々登場している金沢柴漁港の江戸時代からの名物の小柴の穴子を“小柴のどんぶりや”で天丼に調理して漁協婦人部が提供しているので朝水揚げされた新鮮な穴子天丼を食べる事も出来ます。
小柴のどんぶり屋 久良岐のよし
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
※朝11時~13時位の間で売り切れますので御注意!
【小柴のどんぶりや】
八景島シーパラダイスも近いので、合わせて訪問すれば子供も楽しめますよ~♪

さて、金沢文庫の特別展示、寶生寺展に歴史好きなら一見の価値が有る事がお判り頂けたでしょうか?
展示解説も時間毎に有るので、訪れる前に事前に金沢文庫へ電話して確認するとより楽しめると思います。
そして周辺には綺麗な稱名寺や美味しい御店が沢山有ります!
是非!週末にでも訪れて見て下さい。

では・・・又、次は解説記事で御会いしましょう~♪















mixiチェック

ブログネタ
歴史好きで綺麗な風景と歴史と郷土料理を一般人に伝えよう。 に参加中!

品川の次の駅の東海道新幹線の乗車駅は新横浜駅ですが…
その新横浜駅に「篠原口」と言う出入り口があります。

実はこの新横浜駅、すぐ裏が「篠原城」と言う御城の跡なんです。
皆さんご存知でしたか?
2014-01-26-11-51-42

2014-01-26-11-51-59

…とは言っても、他の城の例に漏れず、神奈川県教育委員会はちゃんと発掘調査もしない内に宅地開発を容認し存在すらスルーしやがったせいで、この城も他の県内の城同様に消えかけています。
神奈川県は特に"戦史として或いは所有した大名達の家格からして"超重要な城跡が比較的多く有りましたが、それらの城址は今、篠原城と同じ様に神奈川県教育委員会が重要性の認識が足らず保護を怠ったせいで大部分が破壊されたか、或いは完全に消滅、又は最後の残存部が消滅しかかっています。

以下に列挙する城址は神奈川県下でも特に重要だった場所です。

衣笠城址…平安時代~鎌倉時代の鎌倉幕府有力御家人三浦家の本拠城址。
…関連記事リンク→「ココ

小机城址…鎌倉~戦国時代の城址。畠山重忠公子孫豊島家築城風魔忍者管理人北条幻庵公の本拠地。
…関連記事リンク→「ココ

青木(権現山)城址…足利尊氏公が築城し、北条家臣間宮家が籠城し、北条家五色備え隊の黒ぞ備え隊の軍団長で名軍師の多目元忠公が改修し城主と成った城。…関連記事リンク→「ココ 

蒔田城址…足利家の一門の高家、蒔田吉良家の本拠地だった横浜市南区の城。
…関連記事リンク→「ココ

永谷城址…関東管領上杉家筆頭四家の一家、宅間上杉家の本拠地だった横浜市港南区に有った城。
…関連記事リンク→「ココ

笹下城址…北条家武蔵国水軍を統括した間宮家の横浜市港南区~磯子区にまたがる巨大な城。
…関連記事リンク→「ココ

玉縄城址…城主は名将北条綱成公で鎌倉市大船駅近くの武田信玄や上杉謙信を撃退した名城。
…関連記事リンク→「ココ

小田原城址…戦国時代の北条氏の本拠地で、現在の小田原城は江戸時代に戦国時代の城址一部分だけを残し規模縮小された言わば徳川家に破壊された城址。元の城域は現在を遥かに凌駕する規模だった。
…関連記事リンク→「ココ 」 

石垣山一夜城址…豊臣秀吉による小田原北条氏攻めの本拠。木造建築物は消失しているが、石垣の保存状態は極めて良好。
…関連記事リンク→「ココ 」 

七沢城址と糟屋館…関東管領扇谷上杉家の初期の本拠地で相模国の政治の拠点だった伊勢原市に有った重要な城。
…関連記事リンク→「ココ 」 

岡崎城址…鎌倉期岡崎義実公が築城し、戦国時代三浦家の本拠だった平塚市~伊勢原市にまたがる城。…関連記事リンク→「ココ 」 


新井城址…戦国時代、四年間にも及ぶ籠城戦の舞台に成った三浦半島にあった三浦家最後の居城。
…関連記事リンク→「ココ 」 

…これらの城址の内、"保護されたのはわずかに江戸期小田原城・衣笠城址・小机城址のみ"で、それ以外は城址の体を成さない程に破壊されつくされてしまいました。
保護されなかった城址の内、破壊前にちゃんと調査された城は"岡崎城址・七沢城と、小田原古城"だけですが、小田原古城以外は全容が解明されず部分的な調査の後、宅地開発容認され破壊されています。

今回の記事で取り上げる篠原城は、"教育委員会の働き掛けではなく地元の有志の自主的な保護活動の結果残存しました!"ので、真、有志の皆様には頭が下がるばかりです。
この篠原城と同様に、地元の地権者の方々が土建屋の開発を阻止し続けて城址として今日に残った城が先述の「小机城址」と、その内にブログで紹介するつもりの横浜市都筑区のセンター南駅前にある「茅ヶ崎城址」、「大和市の深見城址」です。 


この篠原城址も放っておいたら教育委員会が調査もせずに完全消滅していた訳です。

さて、この篠原城址ですが、やはり既に大半は破壊されてしまっています。
しかし残存部以外にも周辺に城塞の人工的な地形の名残は見て取れました。

例えば城址に至るセブンイレブンの後ろの旧道… 2014-01-26-11-25-48
…とクロスする登城口であっただろう細い坂道の横に駐車場が有るのですが、丘の斜面を人工的に削り込んだと思(おぼ)しき地形が有りました。
2014-01-26-11-28-01
この壁面は笹下城の本丸の切岸や小机城の横堀、榎下城の大堀切に酷似しています。
斜度は60°以上あるかな?
恐らく駐車場に整地する際に、空堀の反対側の土塁壁は土建屋に取り払われてしまったのでしょう。
2014-01-26-11-28-09
   ↑
この上の写真を見た後で…
下の笹下城本丸跡と小机城の横堀と見比べて下さい。
   ↓

(小机城の横堀) 
2014-03-23-16-33-02      

(笹下城本丸直下切岸と空堀址で堀の切岸片側半分が団地建設時に消失している。)
2014-09-10-05-21-36
(笹下城本丸跡、通称"ハゲ山")
2014-09-10-05-21-33
※2017年時点で三井不動産レジデンシャルの宅地開発により切岸一部破壊と本丸空堀は消滅。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
※因みに笹下城は完全な空堀遺構が2014年まで成就院側に有りましたが、教育委員会が不可解に史跡認定せず破壊容認し宅地化されました。
現在残る本丸の切岸も保護されておらず、土建屋の開発に目下さらされております。

篠原城址現存部に至る最初の登り口の写真、この小机城と笹下城の写真と角度や高さもソックリでしょう?
どうやら室町時代に造(つく)られた関東流の城は、似た傾向がある様です。
山を削り込み兵を展開できる中国や西洋の城壁の様な構造にする築城法は、既に平安時代の衣笠城ににもありましたが、この横堀構造は室町時代くらいから始まるみたいですね。

室町時代後半の北条流に成ると、これに更に障子掘りなのどの超個性的な防御施設が加わります。
この篠原城は、恐らく江戸城を築城し、扇谷上杉家の執事(しつじ=当主の代理人)と相模国守護代(しゅごだい=県知事の代理)を務めた大田道灌公が小机城を攻めた頃に築城されたのだと思います。
つまり、戦国時代の初め頃ですね。
だとすると、小机城や笹下城と同時代の築城なので似ていて当然と言う事に成ります。

篠原城址の残存部分=本丸?に至る道すがら本丸直下と思われる場所の駐車場には、他の関東の城址と同じく元々この地域に昔から住んでた住民の方々が城址を鎮護する為に勧進したと思われる"稲荷神社"がありました。
関東人、こと鎌倉武士の時代から地元の殿様をリスペクトする習慣があった移民では無い神奈川県民は、よく自分が仕えた殿様の家と城址を想いこの様に御稲荷さんを祀って、自分達のルーツを忘れない様にしたんですね。
ですから長尾城址にも小机城址にも、同じ様に人の入らなくなった様な斜面にも稲荷神社が在(あ)ったりします。
2014-01-26-11-31-18

2014-01-26-11-35-59
この坂道を上り右手に切れるた住宅地の中の林が、篠原城址の残存部分です。
2014-01-26-11-40-28
   ↑
うっそうとしてますが、これ、土塁と土塁の間の堀底道です。
手前の盛り上がりは曲輪(くるわ=兵を置く防御スペース)と曲輪を繋ぐ空堀にかかる土橋の跡ですね。
これは土橋を下から撮影。
   ↓
2014-01-26-11-40-19
篠原城は有力武将の居城ではないので規模は大きくありませんんが、恐らく隣の大豆戸城と同じ丘陵上で余り離れていないので"二城一体"で八王子滝山城と高月城址の様(よう)な構造だったのだと思います。

この御城の空堀は、恐らく往時の深さは2~3m程度、土塁の高さも2~3m程度合計4~5m程度の深さだったと思います。

篠原城単体ではセンター南の茅ヶ崎城と同程度の規模か、それ以下の規模だったと思います。
2014-01-26-11-41-09

すでに城址の大部分が破壊されて、もうほとんど全容が解らないんですが、有志の方が推定図を書いていますのでネットで探してみると良いと思います。

付近の航空写真はこんな感じです。
2014-12-08-04-35-25
写真左下の新幹線の走る線路の直ぐ上、駐車場の有る建物がセブンイレブンです。
そのセブンイレブンの有る十字路を左右に突っ切っている道が旧道です。
その旧道をつっきり写真上にいくと先に載せた「切岸と思われる斜面」に行きつきます。

新横浜駅のすぐ裏に城跡が有ると言うのは、歴史を全く知らない移民の方には結構衝撃的だと思うのですが…
さて、ここから文字だらけに成ります。

この城を守っていたのは

戦国時代に北条家がこの城を接収して以降、“篠原代官”として金子出雲守が配置され、その子孫は現在に至るまで篠原城址付近に住んでいます。


江戸時代の新編武蔵風土記稿を編纂した昌平坂学問所(東京大学の前身)の頭取、間宮士信(ことのぶ)公の祖先も小田原北条家臣で相模国十四騎筆頭の間宮家だったが、その同じ北条旧臣が編纂した「新編武蔵風土記稿巻之六十六橘樹郡之九神奈川領の中の篠原村」の項目に“小田原所領役帳”に金子出雲守の記載が有る事が紹介されている。

そこには篠原城の遺跡についても言及されており以下の様に紹介されている。


〇篠原村

-以下中略-

小名(こな:昭和の郵政法成立による住所改定まで使われれ番地に相当)

城山 北方の村境にあり、金子十郎の城跡なることは後に出せり

-中略-

古城跡

村の北の方にあり、金子十郎家忠の城跡なりと云、家忠居住の地は多摩郡金子村(現:調布市)の外にも所々にあり、恐らくは金子氏の子孫が砦のあとか、または当所の代官金子出雲が壘址(るいし:砦の跡)などと言わばさもあるべきか、今見るところ僅(わず)かに四五段許(もと)の芝地域は断崖の所ありてから堀の形も残れり(恐らくコレがセブンイレブン近くの駐車場や山頂の堀切等の事)。

-以下省略-


以上の様に、この記載を以(もっ)て篠原城址として当地が比定される確固たる証拠と成る訳です。


実際に小田原所領役帳の"本光院殿衆"の欄には以下の記載が有あります。

“小机 三郎殿。八百八十八貫九百五十六文”

-中略-

百十弐貫四百八十文

猿山。代官遠藤兵部衆

八朔。同小野與兵衛。

本江。同陰山又六。

篠原。同金子出雲。(←篠原城代)

さて、この本光院殿衆と言うのは、北条綱成(つなしげ)公以前の玉縄城主で北条氏康公の実弟、北条為昌(ためまさ)公に付けられていた与力衆の軍団です。北条為昌公は早くに亡くなりますが、暫く軍団は解体されず後に北条幻庵公預りとなり、再編。更に後に北条氏規公が三崎城主と成り三崎衆が編成された様で分離。残った港北区周辺の武将は北条家五色備えの内の“白備え隊”でした。これが後の小机衆の原型に成った軍団の様です。

小机城を初期に統率した軍団長は小机城代の笠原信為公でしたが、状況的に北条為昌公が旗頭だったようですね。しかし北条為昌公は若くして亡くなってしまいましたので、その後は玉縄城主の座を妹婿で義弟の北条綱成が継ぎ、小机周辺の軍団の大半は名軍師で為昌公の叔父に当たる北条幻庵公に引き継がれました。これが小机衆再編成の切っ掛けです。

余談ですが、当時の北条家当主は北条氏康公ですが、先代の第2代北条氏綱公の時代には「家臣団から見て為昌公の兄君の北条氏康公が少し変な人だったのでマトモな玉縄城主北条綱成公を跡継ぎにしようとする動きも有った」なんて伝承が有りますが、これは北条綱成公でなくて北条為昌公の誤りでしょう。
北条為昌公の名前は重臣の笠原信“為”(のぶため)公と大道寺盛“昌”(もりまさ)公が後見人と成っていたので御二人の名前を一文字づつ頂いています。つまり重臣を従え長男差し置いてクーデターを計画出来るのは為昌公しかいない訳です。しかし、為昌公は早死にしています。
・・・小生はこれを兄の北条氏康公か叔父の北条幻庵公による誅殺だと推測しています。事実、2代当主の北条氏綱公の代まで厚遇されていた笠原家は、これ以降は給与も抑えられ出世コースから外れて行く事に成りました。
因みに現代では金子出雲守の大将だった北条為昌公の墓所は解っていませんが、小生は金沢区町屋の伝心寺が墓所だと推測しています。
IMG_7064

ここは為昌公の次の次の代の玉縄城主2代北条氏繁公が大永元年(1521年)に開いたと伝わり、その墓所とされる石塔も現存します。が・・・
これは記録が誤っていて北条氏繁公は天文五年(1536年)の生まれですので伝心寺を開くのは不可能です。実は歌手“ゆず”の地元の磯子区岡村町に“龍珠院”と言う御寺が在るのですが、其方(そちら)は伝心寺の末寺でした。
2015-02-25-16-51-07
元々は北条綱成公が支援し、その綱成公の子である氏繁公が本格的に御寺として開いた事が確認されています。ですので現在の伝心寺の伝承は、末寺の記録を読み違えて伝えてしまっている事が解ります。
では金子出雲守の上司、北条為昌公が伝心寺を開いたのかと言うと、それも違って伝心寺が開基された大永元年(1521年)に対して為昌公の成年が永正十七年(1520年)なので1歳で権力を行使する事は有り得ません。つまり、伝心寺を開いたのは為昌公の御父上の北条氏綱公と解ります。そして恐らく北条氏繁公の墓と伝わるのが行方知れずの北条為昌公の御墓なのでしょう。
つまり、御墓の伝承と末寺の伝承を過去の和尚様がシッカリ伝えていなかったのでゴチャゴチャに成った挙句、度重なる戦火で記録が無かったので混乱したまま現在に伝わっている事も解る訳です。
下の画像は金沢区が作成した金沢歴史地図上に当時から有る神社仏閣を表示した画像です。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
当時の金沢区は白い部分全てが海で、鎌倉の玉縄城の相模湾側の港として機能し、そして平安時代末期には風景の美しさから観光地としても有名でした。
為昌公が“政治的に処罰された”と考えれば、玉縄城下の御寺に御廟所を設けるのも憚(はばか)られるので北条為昌公の旧支配地で玉縄からは離れた景色の美しい金沢に父上氏綱公が建てた御寺に為昌公が葬られるのはごくごく自然な事だと思います。
さて・・・
金子出雲守の上司の解説はここまでにして、篠原城の話に話題を戻します。

・・・篠原城は肝腎の城址としては大部分が宅地化で消滅しましたが、ここ数年前、奇跡的に残存部が破壊を免れ発掘調査されたので、現在も間宮士信公が私達に残して下さった記録の空堀の跡等を見る事が出来ますね。

2014-01-26-11-42-34

個人的な意見ですが、太田道灌公が小机城攻めの際に詰めた"亀甲山城"はこの篠原城の事だと思う。

城郭に専門家は余り知る人もいないが、古代の新横浜一帯は海に突き出した半島と“亀甲峠”と言われた場所で、浦島太郎伝説の有る神奈川区浦島町や日本武尊神話の残る六角橋から続く峠道であり、鶴見区東寺尾中台~神奈川区三枚町には亀甲山の地名が現在も残り、その三枚町は江戸時代まで三枚橋と呼ばれ古代に“店屋”と呼ばれていた事が判明している。この店屋と言うのは古代の駅伝制の中継基地の事である。
下の画像は緑色の部分が古代の陸地で白い部分は神話時代の海だった低標高地域。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
※画像クリックすると拡大します。
画像の中央部が太田道灌公が攻めた小机城、その直ぐ右手東側が篠原城。

確かに、こうしてみると鶴見~神奈川区にかけての半島の形は亀の背中の様に見えなくもない。
つまり、この「鶴見区東寺尾中台~古代の半島一帯の広大な範囲が嘗ての亀甲山」と呼ばれていた事が解り、その峠越えの中継基地の古代の港が三枚町と六角橋に有った事が解る。
その証拠に、この旧亀甲半島の尾根には師岡熊野神社~六角橋の宝秀寺~神大寺~と延喜式外社や古刹寺院と旧跡、そして交通の要所である旧街道の入口を抑える丘の端に多くの城址群が存在しています。

古代の街道を太田道灌公は江戸から攻め上って来て、現代と異なり亀甲山と言われた地域の中でも店屋地区に近い場所にある北条政権下では篠原城と呼ばれた「亀甲山の城」を小机城攻めの付城にしたのでしょう。

尚、日本城郭大系では古代の茅ヶ崎城側の鶴見川対岸を古代に亀甲岬と呼ばれたので亀甲山城と名前の類似性から推定しているが、開発前に遺構が微塵も記録されていないので、これは誤って場所を推測してしまったと思われる。何せ亀甲山は神奈川区側なのだから。

それに対岸側に本陣の陣城を置くのは非常に問題が有る。
2014-04-06-17-30-26
※小机城残存部の推定縄張り復元図
当時の鶴見川は河川工事前の激流な上に流路が小机城の真下を流れていたので、太田道灌隊が小机城を攻めようとすると毎回危険を犯して鶴見川を渡り、退却の度に川を渡る時に追撃されてしまう訳だ。

流通遮断なら大曾根城と篠原城と茅ヶ崎城と佐江戸城と榎下城で十分だし、敵の補給と退路を断ち城を捨てさせて炙り出すには篠原城か大豆戸城に居た方が海へ出る事を阻害し鶴見川下流の港を押さえるのに都合が良い訳だ。
小机城包囲と城址の位置 久良岐のよし
更にこれより西南の西区、中区、南区は当時は完全に太田道灌公と同盟者の蒔田吉良家の勢力圏だったので小机城に籠城した豊島勢の残党は南や西には逃げられない。
道灌隊が行軍した際に在陣した道灌森も神奈川区側に有る。道灌森と言うのは、陣城にしていた現在の神大寺旧跡の場所の事なのだが、道灌公は江戸から進軍して来る際に、鶴見区海側から神奈川区域に入り亀甲山の尾根伝いに神大寺に入り陣地を構築し、篠原城や大豆戸城を攻略して港北区域に侵入した事が解る訳だ。更に御丁寧に佐江戸に陣城を築城させて小机城を完全に取り囲んでしまった訳なんだな・・・


まぁ、そんな事を考えながら文献読んだり現地訪問すると発見もあり楽しい訳だ。


・・・皆さんの御近所にも、必ず!こう言う文献から昔の英雄達の行動に推測を巡らす事の出来る御城の跡は沢山有るはずです。
なんせ神奈川県や東京都や千葉県や埼玉県の方々なら、鎌倉武士の本拠地の鎌倉がすぐ近所で、それぞれの町に鎌倉御家人が住んで居た訳ですしね。
まして!
この関東沿岸部一帯は古代から素戔嗚尊(スサノオウノミコト)が国を開拓したり、神武天皇が城を造りたいと言ったり、日本武尊が遠征に来たり、平安時代に醍醐天皇の命令で平良文公が鎮守府将軍として赴任して来ていた訳ですから。

今まであんまり歴史に興味の無かった皆さんが、もし!この記事を読んで下さったなら…
是非、これを機に、ご近所の御城を散歩してみませんか?

mixiチェック

↑このページのトップヘ